銀葉幽界
白い光の糸は、夜空へ伸びながら、完全にまっすぐではなかった。
どこかで揺れ、どこかで滲み、まるで“水の中にある光”みたいに揺らめいている。
俺たちは、自然とそれを見上げていた。
誰も、「行こう」とは言わなかった。
けれど、止まる理由もなかった。
スイが、ゆっくりと噴水の縁に手を置く。
石は冷たい。だが、その奥に、微かな温度があった。
「……開いてる」
小さな声だった。
フェルが、眉を少しだけ上げる。
「珍しいな。素直じゃん」
スイは答えない。
ただ、噴水の底を見ていた。
光の糸は、空へ伸びているだけではなかった。
よく見ると、糸の根元――噴水の底の石盤に、淡い円形の模様が浮かび上がっている。
円。そして、その周囲に、絡み合うような線。
蔦にも見える。波にも見える。
ティリルが、息を止めた。
「……古い」
「どれくらい?」
俺が聞くと、ティリルは、少しだけ迷った。
「……“時間”で測れないくらい」
その言い方が、妙に現実味を持っていた。
スクレが、噴水の縁へ近づく。白布の奥から、かすかな声。
「……森の……下」
風が、城壁を抜ける。
その瞬間、光の糸が、強く脈打った。
そして、噴水の底が、静かに割れた。
音は、ほとんどしなかった。
ただ、水面が裂けるみたいに、石盤が二つに分かれ、ゆっくりと沈んでいく。
下にあったのは、階段だった。石の階段。
だが、古城の石とは違う。
もっと、滑らかで。もっと、柔らかい形。
自然の中で削られたみたいな、丸みを帯びた石段。
そこから、冷たい空気が流れ出てくる。
土と、苔と、雨の匂い。草の匂い。
夜なのに、どこか“朝”を思わせる匂いだった。
フェルが、小さく笑う。
「……ああ。これ、好きなタイプだ」
「タイプ?」
「古すぎて、誰も覚えてないやつ」
俺たちは、顔を見合わせることなく、階段へ向かった。
一歩、降りる。
空気が変わる。
二歩、降りる。
音が、吸い込まれる。
三歩、降りる。
月光が、背後で遠くなる。
やがて、完全な闇――には、ならなかった。
階段の先、壁に、淡い緑色の光が滲んでいた。
苔だった。だが、ただの苔じゃない。
呼吸しているみたいに、ゆっくり明滅している。
森そのものが、ここまで伸びてきているみたいだった。
通路は、長くはなかった。
だが、奥へ進むほど、感覚が曖昧になっていく。
距離が、分からない。時間も、分からない。
やがて、通路が終わった。
地下空間だった。
だが、「地下」という感じではなかった。
天井は高い。空洞は、円形。
中央には、木が、生えていた。
一本の、大きな木。
幹は太く、枝は天井いっぱいに広がっている。
葉は、銀色だった。
風もないのに、静かに揺れている。
根は、石を割って、空間の床いっぱいに広がっていた。
そして、その根の隙間に――
石が、立っていた。
無数の、石。人の背丈ほどの石柱。
表面には、刻み跡があった。
文字にも見える。模様にも見える。
ティリルが、呟いた。
「……立石……」
フェルが、小さく息を吐く。
「ケルト系、か」
立石の一本に、手を伸ばす。
触れた瞬間、景色が、揺れた。
風。
草。
空。
笑い声。
火の匂い。
人が、いた。
この場所に。
円を囲んで、歌っていた。踊っていた。子どもが、走っていた。老人が、空を見ていた。
祈りではない。
もっと、自然でありふれた感覚。
世界と、人と、森と、空が、同じものだった時代。
俺は、息を呑む。次の瞬間、視界が戻る。
立石の前。
銀の葉の木。静かな地下空間。
ティリルが、俺を見ていた。
「……見た?」
俺は、頷く。
言葉にできなかった。
スイが、木を見上げる。
「……ここは、“境界”だ」
「境界?」
「世界と、もう一つの世界の」
スクレが、小さく言った。
「……だから……残る」
俺は、木を見上げる。
葉が、月みたいに光っている。
ここには、戦争の匂いがない。破壊の匂いがない。
時間だけが、積み重なっている。
フェルが、幹に触れる。
その瞬間、葉が、わずかに光を強めた。
フェルは、苦笑する。
「……覚えてるな。やっぱり」
ティリルは、何も言わなかった。
ただ、目を閉じた。
帰ってきた人みたいに。
海底の文明は、世界を動かそうとした。だが、ここは違う。
ここは、世界と一緒に、ただ“あろう”とした文明の残響。
銀の葉が、揺れる。
どこからか、風が吹いた気がした。
でも、この空間に、風の入口はない。
立石のひとつが、淡く光った。
そして、消えた。
「まだ、続いている」と、言うみたいに。
俺は、ゆっくり息を吐いた。
胸の奥に、静かな熱が残っていた。
怖くない。寂しくもない。
懐かしい。理由もなく。根拠もなく。
俺たちは、しばらく、その木を見ていた。
月の届かない地下で。
それでも、月より古い光の中で。
時間は、ゆっくりと、流れていた。
壊れた世界の、その先で。
まだ、残っているものがあると、確かめるみたいに。
そのときだった。銀の葉の一枚が、ゆっくりと幹から離れた。
風は、ない。
“導かれる”みたいに、宙を滑った。
俺たちの前を通り、立石の円の中心へ。
そして、地面に触れる寸前――
光に、ほどけた。
胸の奥に、柔らかい振動が広がる。
水に指を沈めたときみたいに、静かに、円を描いて。
ティリルが、息を呑んだ。
「……来る」
何が、とは言わない。
けれど、その言葉の意味を、俺の体は理解していた。
立石の一本が、淡く光る。
次に、もう一本。
また、もう一本。
やがて、円を描くように、すべての立石が、ゆっくりと光を帯び始めた。
緑とも、金とも、月光とも違う色。
森の奥で、夜露が光るときの色。
スイが、低く言う。
「……開く」
地下空間の“奥行き”が、変わった。
距離が、歪む。
木は同じ場所にあるのに――
その向こうに、もう一つの景色が、重なった。
草原。
霧。
低い丘。
石の円。
焚き火。
人影。
いや、人ではない。
だが、恐ろしくもなかった。
懐かしい、という感情が、先に来た。
歌が、聞こえる。
言葉じゃない。
意味も分からない。
それでも、なぜか、理解できる。
大地を称える歌。
季節を迎える歌。
死を、送り出す歌。
生を、迎える歌。
フェルが、ぽつりと言った。
「……シー」
ティリルが、小さく頷く。
「ええ。“丘の民”」
霧の向こう。
石の円の内側で、光が揺れた。
そこに、立っている存在があった。
背丈は、人と同じくらい。
けれど、輪郭が、完全には定まらない。
光と影の間で、ゆっくり揺れている。
顔は、見えない。
それでも。見られていると、分かった。
恐怖ではない。
審査でもない。
ただ、確かめられている。
俺は、なぜか、一歩前に出た。
スイが止めなかった。
ティリルも。
フェルも。
スクレも。
ただ、見ていた。
霧の向こうの存在が、ゆっくりと手を上げた。
その動きは、人間より、少し遅い。
時間の流れが違うみたいに。
そして、声が、直接頭の奥に響いた。
やはり言葉じゃない。しかし、意味は分かる。
――覚えている者か。
胸が、強く鳴る。
俺は、答えようとして、言葉を失った。
代わりに、心の奥で、何かが動いた。
霧が、揺れる。
存在が、少しだけ近づいた。
俺の胸の奥を、覗き込むみたいに、静止した。
長い沈黙。
――まだ、完全には忘れていない。
その感覚が、伝わってきた。
ティリルが、ほんの少しだけ、肩を落とす。
安堵にも見えたし、悲しみにも見えた。
フェルが、小さく息を吐く。
「……よかった」
存在が、俺から視線を外す。
次に、ティリルを見る。
その瞬間、霧が、大きく揺れた。
歌が、変わる。
歓迎の歌。
帰還の歌。
ティリルは、目を閉じた。
何も言わない。
だが、その頬を、涙が一筋だけ伝った。
俺は、初めて見た。
彼女のそんな顔を。
存在が、今度は、フェルを見る。
長く、静かに。
――まだ、役目を背負っているのか。
フェルは、笑った。
いつもの、軽い笑いじゃない。
諦めと、覚悟が、半分ずつ混ざった笑いだった。
「まあね」
声に出したわけじゃないのに、そう聞こえた。
存在が、スイを見る。
少しだけ、短く。
――守る者。
スイは、何も答えない。
だが、その背筋は、少しだけ伸びた。
最後に、存在は、スクレを見る。
長く。とても、長く。
そして、霧が、静かに震えた。
――まだ、残っているのか。
スクレは、小さく、頷いた。
存在が、ゆっくりと両手を下ろす。
歌が、静まる。
霧が、薄くなる。
景色が、遠ざかる。
最後に、もう一度だけ、感覚が流れ込んできた。
――円環は、まだ続く。
――根は、まだ生きている。
――やがて、世界樹へ。
その瞬間、すべてが消えた。
地下空間。
銀の葉の木。
立石。
静かな空気。
俺は、息を吐く。
気づけば、手が震えていた。
フェルが、肩を軽く叩く。
「……おめでとう」
「何が」
「歓迎された」
ティリルが、静かに言う。
「……もう、引き返せないわね」
銀の葉が、また一枚、落ちる。
今度は、光にならず。
静かに、床へと触れた。
俺たちは、しばらく、その木を見ていた。
時間の外側のような空間で。
消えた文明の、そのさらに奥で。
世界がまだ、どこかで歌っていることを、確かめるように。




