月影遺火
海を抜け、夜の空へ戻った時、最初に感じたのは――静けさだった。
昼の光とは違う、すべてを均一に包み込むような闇。
ドラゴンの翼が、月光を受けて鈍く光る。
空気は冷たく、どこか乾いていて、さっきまでいた海底の重さが嘘みたいだった。
俺は、何も言わなかった。
言葉にすると、何かが壊れてしまいそうだった。
フェルも、珍しく黙っていた。
ティリルも。
スイも。
スクレも。
誰も、振り返りはしなかった。それが、正しい気もした。
やがて、ドラゴンは高度を落とし始めた。
下に見えてきたのは、森だった。
黒い海みたいに広がる樹海。
その中に、ぽつりと――石の影。
城だった。
崩れてはいない。
だが、使われている気配もない。
時間だけが、置き去りにされた場所。
ドラゴンは、その古城の中庭へ静かに降り立った。
石畳が、乾いた音を立てる。夜露が、わずかに光る。
俺は、ゆっくりと降りる。
風が、城壁の隙間を抜けていく。
草が揺れる。
遠くで、夜鳥が鳴いた。
それだけだった。
人工の光は、一つもない。
俺たちを照らすものは、月光だけだった。 月は、やけに大きく見えた。
雲はなく、夜空は深く澄んでいる。星が、ありえないほど多かった。
俺たちは、自然と中央に集まった。
誰かが「集まろう」と言ったわけじゃない。
ただ、そうするのが当たり前みたいに。
中庭は、想像していたより広かった。
中央には、枯れた噴水。その縁に、蔦が絡みついている。石像が、何体か立っていた。
剣を持つ騎士。本を抱えた女性。翼を持つ、何か。
月光が、それらを半分だけ照らす。
残り半分は、闇の中。
まるで、昔々、西洋の昔話の一場面みたいだった。
フェルが、噴水の縁に腰を下ろす。
「静かだな」
軽い声。でも、どこか遠かった。
ティリルは、石像の影に手を触れた。
まるで、昔から知っているものに触れるみたいに。
スイは、城壁の上を見ていた。
何かを警戒しているというより――
ただ、空を見ているだけだった。
スクレは、少し離れた場所に立っていた。白布が、夜風に揺れていた。
俺は、空を見上げる。
都会では、絶対に見えない星の数だった。
胸の奥で、何かが、ほどけた。
俺は、思った。
世界中を旅している。
現実じゃありえない場所を見た。
滅んだ文明を見た。
人の記憶を見た。
世界の“心臓”を、見た。
だけど、今、こうして夜空を見上げているこの瞬間が、一番、現実みたいだった。
俺は、小さく息を吐く。
月光が、石畳に白く落ちている。
影が、長く伸びている。
俺は、ふと思った。俺は今、魔法使いになった気がする。
理由なんてない。
でも、世界の裏側を知ってしまった人間は、
きっと、普通には戻れない。
今なら、世界中の幸せを、叶えられそうだ。
そんな、根拠のない自信が、胸の奥に生まれていた。
たぶん――
それは、傲慢じゃない。
“守れなかったもの”を見た人間が、次こそ守りたいと思うだけだ。
フェルが、俺を見た。
「……顔、変わったな」
「そう?」
「うん。かっこいいよその顔」
それだけ言って、彼は空を見る。
ティリルが、静かに言う。
「人ってね」
月を見たまま。
「何かを失ったあとでしか、本当に“守りたいもの”が分からないのかもしれない」
俺は、何も言えなかった。
スイが、小さく言った。
「……それでいい」
それだけだった。
スクレが、ほんの少しだけ近づいた。白布の奥から、小さな声。
「……続くから」
何が、とは言わない。
風が、少し強く吹く。
蔦が揺れる。噴水の影が、ゆっくり動く。
時間が、ゆっくり流れている。
ちゃんと。ちゃんと、流れている。
俺は、空を見上げたまま思う。
世界は、何度でも壊れる。そして、何度でも、やり直す。
その中で、人は少しずつ、何かを覚えていく。
月は、何も言わない。
ただ、俺たちを照らしていた。
そして俺は、思った。この旅は、まだ終わらない。
むしろ、今、始まったんだ。
夜空の下。
古城の中庭で。
俺たちは、ただ、月を見ていた。
言葉もなく。理由もなく。
――それでも、世界は動く。
沈黙の中で、まず最初に起きたのは、ほんの些細な音だった。
カチ、と。
誰かが舌打ちしたようにも聞こえる。石が鳴ったようにも聞こえる。
俺は反射的に足元を見る。
中庭の石畳の、ひび割れの隙間。そこに、何かが挟まっていた。
小さな、金属の欠片。
海底の都市で見たものと似ている。
けれど、違う。こっちは錆びていない。月光を吸って、薄く青く光っている。
俺がしゃがむと、スイがすぐ背後に立った。
「触るな」
「……じゃあ、どうすればいい」
「見るだけでいい」
俺は指を止めた。ただ見つめる。
欠片は、石畳の割れ目で、鼓動みたいに微かに明滅している。
海底で聞いていた鼓動とは違う。もっと弱く、もっと短い。
まるで、消えかけの灯が、最後に息をするみたいに。
ティリルが近づいてきた。しゃがみ込むと、俺と同じ高さでその光を見る。
「これ、城のものじゃない」
「じゃあ、何?」
ティリルは答える代わりに、視線を上げた。
中庭の片隅。
蔦が絡まる石像の足元にも、同じような青い欠片が落ちている。
噴水の縁にも。
石壁のくぼみにも。
月光に照らされて、点々と、星屑みたいに散っていた。
フェルが噴水の縁から立ち上がり、欠片を一つ拾いかけて、途中で止める。
「……来てるな」
その言い方は軽いのに、目だけが笑っていなかった。
「何が?」
俺が聞くと、フェルは肩をすくめる。
「“余韻”」
その単語が、やけに胸に残った。
海底の都市で終わらせたはずのもの。
消えたはずの鼓動。
それが、ここまで追いかけてきたみたいに。
スイが城の壁を見上げる。
「上」
言われて俺も顔を上げた。
古城の壁の上――
月光の当たる縁に、何かが立っている。
人ではない。鳥でもない。
影の輪郭が、薄く揺らいでいる。
まるで、煙が人の形を真似ているみたいに。
息をするのを忘れた。
けれど、その影はすぐに消えた。
風のせいかもしれない。月光の錯覚かもしれない。
ティリルが立ち上がり、俺の肩にそっと触れる。
「怖い?」
俺は、首を振った。
「……怖いっていうより、懐かしい感じがした」
言った瞬間、自分でも驚いた。
懐かしい。
この場所は初めてなのに。この城を見たことなんてないのに。
ティリルは目を細める。
「……そう」
それだけで、何かを飲み込んだみたいに黙った。
スクレが、噴水の方へ歩いた。白布が、月光を吸って灰色に見える。
彼女は噴水の縁に手を置いて、じっと見つめた。
すると、噴水の底の水のない石盤が、微かに震えた。
カタ、
石が鳴った。
次の瞬間、噴水の中心にあったはずの“枯れた穴”から、薄い光が立ち上った。
月光より淡い、白い光。
細い糸みたいな光が、空へ向かって伸びていく。
「……何これ」
ティリルが噴水の縁に触れ、耳を澄ませる。
「声に似てる」
「声?」
俺が聞き返すと、ティリルは頷いた。
「言葉じゃない。音でもない。……でも、“呼びかけ”に近い」
その瞬間、光の糸が、ふっと揺れた。
スイが噴水の縁へ近づき、俺と光の間に立つ。
「近づくな」
さっきより強い声だった。
フェルが軽く手を上げる。
「まあまあ。見てるだけなら――」
「ダメだ」
スイが遮る。
その一言が、空気を切った。
ティリルがスイを見る。
「……スイ。あなた、知ってるの?」
スイは答えない。
代わりに、噴水の光を睨んだまま、低く言う。
「これは“残り火”じゃない」
そして、続けた。
「――“道”だ」
道。
その言葉を聞いた瞬間、俺は理由もなく思い出した。
夢の中で、線路に座っていたあの日のことを。
白い空。友香の声。
「ずっと、いられる場所じゃないよね」
胸が、きゅっと縮んだ。
俺が何かを言う前に、スクレが小さく息を吸った。白布の奥から、かすかな声。
「……行き先が、ある」
光が、また揺れる。
月下の古城の中庭で、五人は夜空を見上げる。
俺たちを照らす光源は、月光しか存在しなかった――はずなのに。
今、噴水の中心から伸びる白い糸が、もう一つの“光源”になっていた。
月の光と混ざり合って、城の影をゆっくり変えていく。
フェルが、ぽつりと言った。
「……いいね。こういうの、物語っぽい」
ティリルは、噴水の光を見ながら、小さく笑う。
「昔々、って始まりそうね」
世界中を冒険している俺は、魔法使いになった気がした。
今なら、世界中の幸せを叶えられそうだ。
――そんな錯覚すら、許される夜だった。
噴水から伸びる光の糸は、優しいだけじゃない気がした。
あれは、呼んでいる。
“次”へ。
俺は、息を吸って、口を開いた。
「……行くのか?」
スイが答えるより先に、フェルが笑った。
「行くに決まってるだろ。俺たち旅人なんだから」
ティリルが頷く。
「うん。ここで止まったら、きっと後悔する」
スクレは何も言わない。でも、白布が風に揺れて、ほんの少しだけ、頷いた気がした。
俺はもう一度、噴水の光を見る。
その先は、見えない。見えないのに、行き先だけは分かる気がした。
――俺たちは、次の場所へ呼ばれている。
月下の古城が、静かに、合図を送っていた。




