蒼海の遺書
石の門を抜け、俺たちは湿った熱気の中へ飛び出した。
肺に空気が流れ込む。重い。生きている空気だった。
背後で、遺跡が低く軋む音がした。地面の奥で、巨大な何かが寝返りを打つような振動が伝わる。
フェルが振り返らずに言った。
「ギリギリだったな」
その声は軽かったが、足は止まらなかった。
ジャングルを抜けるまで、誰も喋らなかった。
枝を掻き分け、根を踏み越え、泥を蹴り上げる。
やがて、木々の密度が少しずつ薄くなり、光が増え始める。
湿度が、ほんの少しだけ軽くなった。
俺たちは、小さな崖の上に出た。
その先に、海が広がっていた。
どこまでも続く、青。太陽の光を受けて、白い波が砕けている。
久しぶりに、広い空を見た気がした。
誰も、すぐには喋らなかった。
フェルが、ようやく息を吐く。
「……よし。一区切り」
ティリルは、静かに海を見つめている。
スイは、崖の縁に立ち、水平線を睨んでいた。
スクレは、少しだけ後ろで立ち止まっていた。 白布が、海風に揺れている。
俺は、息を整えながら、振り返った。
遺跡は、もう見えない。 だが、そこにあった“何か”は、確実に消えた。
「……なあ」
俺は、フェルに聞いた。
「さっきのあれ、本当に“不具合”だったのか?」
フェルは、少しだけ首を傾けた。
「どう思う?」
質問で返された。俺は、言葉を探す。
「……壊してはいけないものを、壊した気がする」
沈黙。
風の音。波の音。
海は、何も知らない顔をして広がっていた。青く、穏やかで、どこまでも普通だった。
フェルが、ポケットから小さな金属片を取り出した。
遺跡で回収したものの一部だった。
黒ずんだ表面。だが、内部だけが、微かに光を残している。
「昔さ、」
フェルは、珍しく静かな声で言った。
「世界って、今よりずっと進んでたんだよ」
俺は、何も言わなかった。
ティリルが、続ける。
「都市は、自然と完全に調和していた。エネルギーは、枯れなかった。飢えも、戦争も、ほとんど存在しなかった」
スイが、海を睨んだまま言う。
「……でも、人間は、人間だった」
風が、少しだけ強くなる。
「彼らは、“世界そのものを動かす力”に触れた」
フェルが、金属片を指で弾いた。 乾いた音が鳴る。
「最初は、管理するためだった。自然災害を止めるため。大陸を安定させるため。気候を整えるため」
ティリルが、静かに息を吐く。
「でも、その力は――」
少しだけ、言葉を止める。
「武器にも、なった」
「武器……?」
スイが、短く言った。
「文明ごと消し去ることが出来る武器だ」
波が、崖に叩きつけられる。
重い音だった。
「それは、爆弾とか、そういうものじゃない」
フェルが続ける。
「もっと、根本的なものだ。大地の核。星の循環。命の流れ」
「……使ったのか?」
風だけが吹く。
やがて、ティリルが、ゆっくり頷いた。
「ええ」
短い言葉だった。
「一度だけじゃない」
その言葉に、胸が強く締め付けられる。
「大陸同士で、撃ち合ったの」
世界が、少しだけ遠くなる感覚がした。
俺は、海を見る。そこに、都市があった。人がいて、暮らして、笑っていた。
フェルが、ぽつりと言う。
「海面が、数日で上がった」
スイが続ける。
「空は、何年も赤かった」
ティリルが、最後に言う。
「文明は、そこで一度、“終わった”」
俺は、何も言えなかった。
今、自分が立っているこの世界。
ビルも、大学も、スマホも、全部。
――やり直した世界。
フェルが、俺を見る。
「だから、今の文明は、“二回目”なんだよ」
心臓が、少しだけ強く鳴る。
「……さっきの遺跡は」
俺は、ゆっくり聞く。
「その前の文明の……?」
ティリルが頷く。
「残骸」
風が、止まる。 海が、静まる。
水平線の下。
ほんの一瞬だけ。青とは違う、白い光が、脈打った。
巨大な心臓が、まだ動いているみたいに。
俺は、息を止める。
「……まだ、生きてるのか?」
誰に向けた言葉か、分からなかった。
フェルは、少しだけ笑った。
だが、その笑顔は、どこか影を帯びていた。
「完全には、死なないよ」
彼は、海を見つめる。
「世界の核に触れた文明は、必ずどこかに“痕跡”を残す」
スイが、静かに言う。
「……だから、消す」
短い言葉。
俺は、気づき始めていた。
俺たちがやっていることは、“修正”なのか。
それとも、過去を、完全に葬るための作業なのか。
海の下には、失われた大陸の、心臓が眠っている。
そして、俺たちは向かう。
世界が、一度滅びた理由を。もう一度、なぞるために。
フェルは、しばらく海を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「行くか」
軽い調子だった。その一言で、空気が変わった。
ドラゴンが、崖の上で静かに翼を広げる。黒い翼が、太陽の光を呑み込む。
「海の下に、降りる」
ティリルが、さらっと言った。
まるで、散歩にでも行くみたいに。
海の下。
普通なら、ありえない言葉。
でも俺は、何も言わなかった。
ドラゴンの背に跨る。
潮の匂い。風。太陽の熱。
全部が、妙に現実だった。
しかし、これから行く場所だけが、現実の外側にある気がした。
翼が、空を裂く。崖が一瞬で遠ざかる。
海面が、迫ってくる。
青が、広がる。光が、弾ける。
ドラゴンは、減速せず、そのまま海へ突っ込んだ。
水が、爆ぜる。
俺は、反射で目を閉じた。だが、俺が濡れることは無かった。呼吸も、普通に出来る。
目を開ける。
俺たちは、透明な膜に包まれていた。
水が、俺たちを避けて流れている。
上は、揺れる光。下は、底の見えない蒼。
音は、ほとんどなく、静かだった。
低い振動が、体の奥に響く。
ドン……
ドン……
ドン……
まるで、巨大な心臓の鼓動だった。
ドラゴンが、加速する。
海の中を、滑る。
光が、消えていく。一方、青が、濃くなる。
未知に近づいている感覚。
危険と、興奮が、同時に走る。
そして、それが、見えた。
都市だった。
巨大な塔。滑らかな曲線の建造物。
石でもない。金属でもない。
都市全体が、淡く光っていた。
青白く、静かに。
まるで、海の底で眠る星みたいに。
道路がある。
光が、流れている。川みたいに。
そこを、かつて何かが移動していたのが、分かる。
建物は、崩れていない。
だが、死んでいる。直観が、そう告げていた。
中身だけが、完全に止まっている。
塔の表面には、巨大な亀裂。
そこから、砂みたいな粒子が、ゆっくり漏れ出している。
時間が、止まったまま、崩れている。
像が、あった。人の形。
その像は、膝をつき、空を見上げていた。
祈りか、あるいは、絶望か。
都市の中心。巨大な空洞。
球体状に抉り取られている。
そこだけ、都市が存在しない。何もない。
鼓動が、鳴っていた。
「……あれが」
ティリルの声が、小さく震える。
「文明を終わらせた場所」
俺は、言葉を失う。
都市は、死んでいる。しかし、完全には、終わっていない。
光が、時々、脈打つ。建物の縁が、微かに明滅する。
まだ、生きようとしているみたいに。
スイが、低く言う。
「……残り火だ」
フェルは、笑わない。
「文明ってさ」
静かな声。
「完全には、死なない」
ドラゴンが、ゆっくり旋回する。
俺は、見た。
都市の奥。崩れた塔の影。
そこに、巨大な円環装置。
直径、数百メートル程はあるだろうか。
リング状。
半分が、溶けている。半分が、まだ形を保っている。
その中心に、光。弱いが、確実に。生きている光。
ドン……
ドン……
ドン……
俺の心臓と、同じリズムだった。
「……まだ、動いてる」
気づけば、呟いていた。
誰も、否定しない。
ティリルが言う。
「これが、“世界の核に触れた文明”の最後の証」
「……だから、終わらせる」
スクレは、何も言わない。
俺は、都市を見る。
ここには、人がいた。
笑っていた。生きていた。未来を、信じていた。
そして――
世界を、壊した。
ドラゴンが、降下を始める。
都市の中心へ。
未だに鼓動する――
文明の亡霊の心臓へ。




