命あるもの…。
母が熱帯魚を買ってきたのは、夏の盛りだった。
透明な袋の中で泳ぐ数匹の魚は、蛍光灯に反射してきらめき、まるで小さな宝石のように見えた。
「綺麗でしょ? 癒やされるわよ」
母はそう言って笑った。
私は反対はしなかった。ただ、ほんの少し嫌な予感がした。
生き物を飼うのは、そんなに簡単なことではないからだ。
数週間もすると、母の予感も私の予感も的中する。
水槽はすぐに狭くなり、魚は数を増やした。
「困ったわね」
母は眉をひそめ、やがて信じられないことを言った。
「用水路に流してこようかしら」
「駄目だよ! 魚だって生きてるんだ!」
私は必死に止めた。
しかし母は聞く耳を持たなかった。
――その夜。
用水路に流されていく魚たちを、私は見てしまった。
月明かりに照らされ、水面で跳ねる小さな影。
やがて水の闇に呑み込まれ、姿は消えた。
それからだ。
台所の流しから、水音がするようになった。
空の水槽に、濡れた跡が残るようになった。
眠ると、視界の奥で無数の目がこちらを見ていた。
「お母さん……聞こえる?」
ある夜、私は母の部屋を訪ねた。
返事はなかった。
布団をめくると、母の顔が――いや、“顔だったもの”が、びっしりと魚の鱗に覆われていた。
白く濁った目が、いくつも、いくつも私を見つめていた。
私は叫び声をあげ、逃げ出した。
だが、逃げても逃げても、水音がついてくる。
――ポチャン。
――ポチャン。
足元に広がるのは、どこまでも続く水面。
私は立っているのか、沈んでいるのかさえ分からなくなる。
暗闇の底から、無数の魚が一斉に口を開いた。
その口の中は空洞で、黒い闇が吸い込もうと渦を巻いていた。
「返して……」
誰の声か分からない声が、水の奥底から響いた瞬間、
私は息を吸うこともできず、真っ逆さまに水底へ引きずり込まれていった――。