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駅前の居酒屋に着いたのは、待ち合わせ時間の3分前だった。
大山はすでに店の前にいて、黒のレクサスのキーをポケットに突っ込むところだった。
「まなと、おーひさ!」
相変わらず声がでかい。大学時代、誰よりも騒がしくて、でも誰よりも面倒見がよかったやつだ。
「久しぶり」
そう言って笑うと、大山がにやりと笑い返してきた。
「いやー、ほんといつぶり? 半年? 一年? でも連絡くれて嬉しかったわ。お前元気か?」
「……まあまあ。なんとか」
元気、ってなんだろう。
言われてみれば、俺は今、元気と言えるのか?
毎日ニート生活で、ロクに職を探すことすらしていない。
ただ酸素を吸ってるだけの生命。
それに比べ、大山はちゃんと働き、お金を稼いでいる。
俺は、どこで道を外してしまったんだろう。
店に入って席に着く。掘りごたつ式の小上がり。
周りは会社帰りのサラリーマンばかりで、どこもかしこも賑やかだった。
ビールで乾杯し、大山は喉をゴクリを揺らして大きくジョッキの半分ほど飲む。
「そういえばさ、まなとは今転職活動中だっけ? どんな感じ? いいところ見つかりそう?」
「んー、まぁまぁってところかな。大山は? 仕事はどう?」
本当は転職サイトに登録しただけなんて言えない。
大山の中での俺は、“転職活動中のまなと”なのだから。
大山がうまく仕事をしていることを俺は知っている。
でも、今は俺の近況から話を遠ざけたい一心で思ってもないことを聞いている。
俺の期待する人間関係や職場環境の愚痴など大山の口から出ることなく、ただ「仕事は大変だけど、人がいいからどうにかやっていけそう」と、俺の理想とする職場環境に身を置く者の答えが返って来ただけだった。
「まぁ、まなとも頑張れよ。まなと真面目だし、きっと俺よりもいい職場に転職できるよ」
大学在学中、地元のボランティア活動に積極的に参加し、資格も普通自動車免許やTOEIC、その他お金に関する資格やパソコンに関する資格などを保有し、社交的で明るい性格の大山。
対して、特になにもしていない俺。
どちらがいい人生を歩めるかなんて、この時点で大きな差がついている。
「うん、ありがとう。頑張るよ」
俺はビールを飲む。
久しぶりに飲んだビールの味は、どこか苦みを感じた。
大山の3杯目のビールを飲み始めた時、昔話に花が咲く。
「そういや覚えてる? 大学一年のとき、屋上で朝まで話してたじゃん。お前がみさきのことでぐちぐち言ってたとき」
「……みさき?」
「は? お前マジか。嘘だろ、あの子に惚れてたくせに!」
「ああ、あー……みさきか」
なんとか笑ってごまかした。
正直、顔も思い出せない。何を話してたかも。
でもここで変な反応をしたら、余計におかしく思われる気がした。
「やべーな、お前ほんとに忘れてんの? 記憶喪失かよ。マジで、最近大丈夫か?」
「いや、最近ちょっと寝不足でさ。生活リズムぐちゃぐちゃだし」
「それにしたって忘れすぎだろ。お前、なんかあった? もしかして……さ、病院行ってる?」
「行ってねえよ。つか、大げさだって。そんなに深刻じゃない」
「でもさ、今日も思ったけど、お前ちょっと雰囲気変わったよ。なんつーか……ぼんやりしてる。前のまなとって、もっとハキハキしてたろ?」
「……そう?」
言われてみれば、昔の俺ってどうだったんだっけ。
ハキハキ……だったような、そうでもなかったような。
記憶を消したというより、過去そのものがどこか霧の中にある感じだった。
「心配なんだって。もしなんかあったら言えよ。俺、相談くらいなら乗るし」
「……ありがと」
その言葉は素直に嬉しかった。
でも、“言えること”なんて、もうあんまり残ってなかった。
その夜、アパートに戻った俺は、無意識のうちにスマホを手に取っていた。
そして、もう当然のように、あのサイトの画面が開かれていた。
《学生時代の記憶セット》:30,000円
《家族との思い出》:50,000円
《自分の名前》:1,000,000円
ノートはすぐ手の届く場所にある。
名前も住所も、親の名前も、ちゃんと書いてある。
忘れても、見れば思い出せる。
そう思えば、全部いらない気がしてくる。
俺は、ゆっくりと画面をスクロールして、
「学生時代の記憶セット」に指を伸ばしかけたところで、ふと手を止めた。
あれ?
さっき飲んだのって、大山だったよな?
……本当に?
急に、頭の中に靄がかかったような違和感が押し寄せた。
大山と何を話したか。どんな顔をしていたか。何を飲んだか。
ぼやけてる。もう、ぼやけ始めてる。
久しぶりに飲んだせいで酔ったのか。
「……やっぱ、消す前に書いとくか」
俺は、ノートのページを開いて、ゆっくりとペンを走らせた。