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その日は、思ったよりも暖かかった。
夕方にアパートを出て、近所のスーパーでパンとカップスープを買った。
スマホの口座アプリには、たしかに500円が振り込まれていた。
食費にしては少ないけど、あの“画面”を10秒見つめるだけでお金が入るってことを思えば、ありえないほど楽な金だった。
……それにしても。
なにか忘れている感覚は確かにあるのに、それが何かはやっぱり分からなかった。
ただ、ちょっとだけ、体のどこかが軽くなったような気がした。
部屋に戻って、パソコンを開いてみたけど、なにをするでもない。
YouTubeをぼーっと流しながら、パンをかじった。
さっき見た「記憶買取屋」のページを、もう一度開く。
・好きだった食べ物:1,000円
・初恋の記憶:10,000円
・学生時代の友人関係:20,000円
どれも、無くしたところで困らなそうなものばかりだ。
むしろ、もうとっくに忘れかけてる。
「好きだった食べ物」って言われても、すぐに思いつくものなんてなかった。
なんでもそこそこ食えるし、特に偏食ってわけでもない。
あえて挙げるなら、子どもの頃に好きだったカレー……とか?
でもそれって、わざわざ覚えておくほどのことか?
画面をスクロールする指が止まる。
《初恋の記憶》
……初恋。
誰だったっけな。
顔はおぼろげに浮かぶ気がするけど、名前も、付き合ってたのかどうかも、もうよくわからない。
記憶ってこんなに曖昧だったか?
俺は軽い気持ちで、それを選んだ。
名前と口座はもう登録済みだった。
「実行しますか?」という確認ボタンを、何も考えずに押した。
《記憶消去を開始します。10秒間、画面を見つめてください。》
再び、虹色の渦が現れる。
慣れてきたのか、最初よりも心が静かだった。
むしろ、心地よさすらあった。
処理完了。
通知が届いた。10,000円、入金。
思わず小さく笑ってしまった。
「これ……やばいな」
そう口にしたとき、スマホが震えた。
久しぶりのLINE通知だった。
大学時代の友人、大山からだった。
大山は今年の春から営業職に就いている。
ノルマや成績に不満を漏らしながらも、周りの上司は、優しい人が多いみたいで続けられている。
また、つい先日新車を購入したらしい。
休日は愛車と呼んでいる黒のレクサスで県外までドライブしている様子をSNSで投稿している。
《久しぶり。来週飲み行かね?》
《この前話してた、居酒屋予約しといたよ》
《てかさ、みさきのこと、今も好きだったんじゃなかったっけ?笑》
俺は、スマホの画面を見つめたまま固まった。
みさき?
誰の名前だ。
どんな顔だった? 俺、そんな話してたか?
じんわりと背中が冷たくなる。
名前も、思い出も、感情すら浮かんでこないのに、
ただ、何かをなくしたという確信だけが、心に張りついていた。
《うん! 久しぶりに飲みに行こう!》
____
その夜、俺はノートを取り出して、自分の情報を書きはじめた。
名前、年齢、親の名前、出身校、元いた会社、連絡先、友人の名前。
思いつく限り全部。念のために。
このノートがあれば、俺は記憶を消したとしても完全に無の人間になるわけではない。
これさえあれば、きっとどうにかなるはずだ。
書き終える頃には、スマホの画面は暗くなっていた。
……なのに、いつの間にか、またあのサイトの画面が表示されていた。
《学生時代の記憶セット》:30,000円
《家族との思い出》:50,000円
《自分の名前》:1,000,000円
俺は、少しだけ考えてから、ゆっくりと頬を掻いた。
視界には、ノートとスマホ画面がある。
「……意外と、いらねえのかもな」