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カーテンの隙間から差し込む朝日が、薄暗いワンルームの床にを照らしている。
目覚ましのアラームは鳴らない。鳴らす必要もない。
中学生の時に祭りの景品で貰った、恐竜の姿が描かれている時計。
今まで散々セットして、その大きな鈴の音に何度も起こされたのに、この歳にしてもう鈴の音を聞くこともなくなってしまった。
俺、 小川学人は、ベッドの上で仰向けになったまましばらく動かなかった。
天井にはヒビも染みもないのに、なぜかずっと見ていられる。
真っ白な天井。去年の冬に一斉リフォームされたこの部屋は、築55年の外装に似合わないほど新築の木の匂いが広がっている。
思考が散っていく。昨日何を食べたか、寝る前に何を考えていたか、思い出せない。
そのことに、焦りも悲しみもなかった。
気づけば、もうすぐ昼だった。
時計を見て起き上がる。床に転がっているペットボトルの水をひと口。
冷蔵庫を開けても、腐れかかっているもやしと使いかけのマヨネーズしかなかった。
テーブルの上に置いている財布を開くと、千円札が一枚。
昨日スーパーで何を買ったんだっけ……と考えても、うまく思い出せない。
そもそも昨日スーパーに行ったっけ? 普段レシートは受け取らない派だったことが、今となり凶と出ている。
「……そろそろ、働かないとやばいか」
口にした言葉は、ここ数週間、何度も頭の中でリフレインしていた。
けれど、現実はいつも変わらなかった。
大学を出て就職した会社は、3ヶ月で辞めた。
将来への希望を抱きながらも、家を出たあの日。
忙しい日々の中でも、同僚や上司と楽しくお酒を飲みながらも充実した毎日を過ごすんだろうな、とい夢はもう消えてしまった。
明確な理由はない。ただ、合わなかった。息が詰まるような毎日だった。
毎日朝から夜まで働き、俺のことを給料泥棒と陰で呼ぶ上司と、俺抜きで勝手に遊んでいる同僚たち。
俺だって、一生懸命頑張ってるのに、なんでここまでされないといけないんだ。
俺だって、向上心高いのに。分からないことは上司に聞いているし、報連相もちゃんとしているのに。
俺が会社に馴染めてないんじゃない。会社が俺に馴染めてないんだ。
親にはまだ辞めたことを言っていない。
たまに来るLINEに、「忙しいけど大丈夫だよ」とニートが返信している。
友達にも「転職活動中」と嘘をついている。
スマホのLINEには、誰からの連絡もない。
求人アプリを開いてみる。
日払い、未経験歓迎、在宅可、登録だけでもOK。
スクロールしているうちに、どれも似たような文句にしか見えなくなってくる。
正直、こんな自分でも雇ってもらえる会社は沢山あると思っていた。
スーツもあるし、犯罪歴ないし、大卒だし、基本的なパソコンスキルもあるし。
転職サービスに登録した瞬間から、沢山の企業が俺にオファーをしてくれた。
でも、どこも給料が低い。興味のある仕事じゃない。口コミでも、評価の低い会社ばかり。
俺の目指す企業は、俺から気になるという意思を表示しても、オファーは来ない。
結局、大卒資格しかない3か月で仕事を辞めた俺は、その会社に必要とされていない人物ということだ。
画面をスクロールしていると、不意に画面の広告枠に目が止まった。
《記憶、買い取ります。》
黒地に白抜きの文字。その横で、淡い虹色の渦がゆっくりと回転している。
「なにこれ」と笑いながら、タップしてしまった。
数秒後、画面が切り替わる。
サイトは意外にもちゃんと作られていた。
「記憶買取屋」と、毛筆風のフォントで書かれたタイトル。
背景はやわらかなグレーで、スクロールするとカテゴリーごとの買取メニューが並んでいる。
▼ 記憶買取メニュー
【食べ物】
・直近3日間で食べたもの:500円
・好きな食べ物・嫌いな食べ物:1,000円
・初めて外食した記憶:3,000円
【生活】
・初めて自転車に乗れた記憶:3,000円
・親に叱られた記憶(1件):2,000円
・友人と笑った日(1件):5,000円
【人生】
・初恋の記憶:10,000円
・学生時代の記憶(学年ごと):30,000円〜
・自分の名前・親の顔:1,000,000円〜
・人生総合セット:10,000,000円
《あなたの記憶を現金にしませんか? あなただけの人生、お金に換えるチャンスです!》
「……冗談サイトか?」
でも、ページ下部には口座情報を入力する欄と、丁寧な注意事項が並んでいた。
《ご希望の記憶を選択後、画面に表示される処理映像を10秒間ご覧ください》
《終了と同時に対象の記憶は消去され、指定口座へ入金されます》
《記憶の復元、キャンセルは一切できません》
俺はしばらく画面を見つめたまま、唾を飲んだ。
そのとき、頭の中でふとよぎったのは、「3日間、何を食べたっけ?」という、さっきの疑問だった。
どうせ思い出せない。
だったら、売っても何も変わらないんじゃないか?
500円。今日の昼飯くらいにはなる。
俺は、試すような気持ちで名前と口座番号を入力し、「3日間の食事の記憶」を選んだ。
画面が切り替わる。
《記憶消去を開始します。10秒間、画面を見つめてください。》
表示されたのは、虹色の渦だった。ゆっくりと回転し、徐々に明るさを増していく。
まるで催眠術のように、俺は吸い込まれるように画面を見続けた。
10秒後、画面がふっと暗転する。
「処理が完了しました」という文字とともに、スマホの口座アプリから通知が届いた。
500円の入金確認。
「……マジかよ」
冷蔵庫の前に立ち、扉を開ける。中には腐れかかっているもやしと使いかけのマヨネーズ。
でも、自分がこれをいつ買ったのかが、まるで思い出せない。
コンビニに行った覚えもない。
けれど、不思議と不便さはない。ただ、ぽっかりと穴が空いているような感覚だけが残る。
俺は、もう一度スマホの画面に戻った。
さっき見たリストの中に、次のメニューが表示されている。
・好きだった食べ物:1,000円
・初恋の記憶:10,000円
・学生時代の友人関係:20,000円
俺は静かに画面を閉じた。