第9章 ヒカリ、奥へ向かう
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、トウキョウ・レフュージの元幹部職員
李勝文:(リー・ションウェン)タクシー運転手、ヒカリが大陸で最初に出会った人物
劉俊豪:(リウ・ジュンハオ)人材紹介業者、コンピュータ系に強い
朱菊秀:(チュ・ジューシウ)タクシー運転手李勝文の妻
ミヤマ・ダイチ:中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、奥地の武漢の自治組織の最高幹部の一人
周光立:(チョウ・グゥアンリー)ダイチの同級生で盟友、上海の自治組織の最高幹部の一人
張子涵:(チャン・ズーハン)本作のサブ・ヒロインの一人、武漢で物流業者を営む
12日の夕刻、街路を流していた運転手の李勝文のPITに、人材紹介業者の劉俊豪から電話が入った。ヒカリの落ち着き先候補が見つかったとのことで、自宅に向かった。
すぐにでも就職先に向かえるよう、ヒカリに準備をさせる。荷造りを終えたヒカリを見て運転手の妻、朱菊秀は夫に、例によってきつい口調で言った。
[これで厄介払いだといいがね]
そして例によってその直後、ヒカリに向かって言う。
[あんたのことが厄介、ってわけじゃないからね]
「いろいろとお世話になりました。舞い戻らないようにしたいです」とヒカリが挨拶する。
[いいところだといいね。せいぜい頑張んなさい]と朱菊秀。
「はい。ありがとうございます」
李勝文のタクシーに、ヒカリはバッグを抱えて乗り込んだ。ドアが閉まり、タクシーはまだ蒸し暑い夕方の街を、人材紹介業者のもとへ向かった。
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周光立の自宅に12日の17時頃、ダイチは着いた。
戸口で迎える周光立。
[楊大地!]とよく通るテノールの周光立。
[周光立!]と澄んだバリトンのダイチ。
二人は固く握手すると、軽くハグした。背の高い周光立が少し上半身を曲げる形になる。
招じられるままダイチは食卓へと向かい、席に着く。
[ビール飲めよ]と周光立。
[じゃあ少しだけ。今晩中に武昌に向けて発つから]
[なんだ、泊まってきゃあいいのに]
[いや、なかなかそうもいかなくて]
[相変わらず真面目なことだ]
二人はビールで乾杯する。
[一年振りになるかな。葬儀で、武昌で会ったとき以来だ。どうだい、落ち着いたかい?]と周光立が言う。
[お気遣いありがとう。どうにかやってるよ]とダイチ。
[さあ、冷めないうちに食べてくれ、といっても代用肉に代用魚の料理しかないが]
[ありがとう。頂くよ]
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[黄建文は結構しつこい性格らしいから、容易に見つからないところ、ということで探した]
人材紹介業者の劉俊豪が言う。
ヒカリと李勝文は再び彼の店に来ていた。
[上海をいったん離れたほうが良さそうだね。長江を上った武漢というところに一つ、条件に合いそうな口があるんだ。会ったことはないが、悪い奴ではなさそうだ]
ヒカリはPITをタップして地図を開き、武漢の緯度・経度を調べる。
「北緯30.593、東経114.3053。」
(「30、115」のすぐ近く。これかもしれない)
ヒカリの声のトーンが上がる。
「武漢で大丈夫です。ぜひお願いします!」
劉俊豪が、PITで雇い主候補に電話をかける。
[…OK。じゃあ契約成立でいいな。書類を持たせるから、こっちの手数料はそれを確認して3日以内に送金してくれ…お宝は、今晩のうちにもそちらへ向かう便を探して送るよ…それじゃ、また]と言って電話を切った。
[雇い主はジョン・スミスと名乗る欧州人で、英語ができるからあんたも困らんだろう。場所は武漢の武昌地区。条件については、あんたの腕前次第、と言っていた]
「わかりました。ありがとうございます。」
ヒカリが定型書式に住所以外の残りを記入している間、劉俊豪はどこかに電話をかけていた。どうやら武漢へヒカリを送る手配をしているようだ。
[今晩上海を発つ便が見つかった。1時間後にピックアップに来るらしい]と劉俊豪。
[じゃあ、おれはこれで大丈夫だな]と運転手の李勝文。
「ありがとうございました。4日お世話になった分のお礼をさせて下さい」
[いや、もうたくさん貰ってるから、これ以上は…]
「そんなこと言わないで、『吹っ掛けて』下さいな」
思案ののち、男がいった。
[…じゃあ2000塊いただこう。それ以上は受け取らないぜ]
ヒカリは1000元札を2枚渡した。
「本当にありがとうございました。奥さんによろしくお伝え下さい」
[こちらこそ、ありがとな。武漢のボスがいい奴だといいな]
運転手の李勝文は笑みを浮かべながらタクシーに乗り込み、またクラクションを一つ鳴らして去っていった。
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[こんなしみったれた食事しかお前にご馳走できなくなったのも、ネオ・シャンハイが「店仕舞い」したからってわけだ、楊大地]
[以前はキャラバンと物々交換して、いろんな食材が手にはいったんだよなあ]
[ネオ・シャンハイとこちらじゃあ、食品製造プラントの「出来」が違う。あっちじゃあ、ほとんどどんな食材でもできたけれど、こっちじゃあ米や麦や豆や野菜や茶はともかく、動物性タンパク質は、肉と魚が一種類ずつに卵とミルクがどうにかってところだからな]
周光立はかなりでき上がっている。ダイチは夜通しの運転に備えて茶に切り替えている。
[ああ、プリプリの海老が食いてえ…]
[それで周光立、すべては「星が地球に衝突する」ことに関係している、ということで間違いないのか]と問いかけるダイチ。
[キャラバンに紛れてネオ・シャンハイから逃げ出してきた奴らが、口を揃えて言うのが「マオのインパクトが迫っている」ということだ]
[ぶつかる星の名前がマオっていうことか?]
[そのようだ」
皿にのった代用魚の天ぷらの煮付を一つ取り、ハエを追い払いながら、ダイチは言った。
[で、ぶつかるとどうなるんだ、周光立?]と、さらに問いかけるダイチ。
[そこがどうもよくわからない。直撃されたらみんなお陀仏だろうな]
[星の衝突が嫌で、全員ぶつかる前に死んでしまおうって、そこまで考えるなら、直撃じゃなくてもただじゃすまないってことなんだろうか]
少し視線を逸らすようにして周光立が言う。
[逃げ出してきた連中の中で頭の切れそうな奴らに聞いてみたんだが、「世界中大変になるんだ」ってことしか言わない]
[それでその「インパクト」とやらは、いつ起こるんだい]
[だいたい1年後だそうだ、楊大地]と声を落として周光立。
[じゃあ俺たちにも、残された時間は少ないってことだな、周光立]とダイチも声を落とす。
[そう、それと…情報が決定的に少ない]
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陽は落ちて夜の帳が下りていた。ヒカリは非常食と水を取り出すと夕食をとる。
[ここらじゃ見かけないもの食べてるんだな]と紹介業の劉俊豪が言った。
匂いに惹かれてハエが飛んで来る。手で追い払う。
食事が終わると、PITで武漢について調べた。
長江中流域の中心都市で、中国全土の東西と南北を結ぶラインがちょうど交差するあたりに位置することから、古くからの交通の要衝として栄えた。長江の支流の中で最大の漢江が合流する地点に位置する。長江の西側、左岸の上流側に漢陽、漢江を挟んで下流側に漢口、そして長江の東側、右岸に武昌という、かつて「武漢三鎮」と称された都市が統合されて一つの都市となった。4000年の歴史があるとされている。また、市内は湖が多く「百湖の市」とも呼ばれていた…
待つこと1時間と少し、武漢行きの便が店前に着いた。地上走行型の箱型トラックだ。下りてきたドライバーはヒカリと同年代の女。ライトグリーンのゆったりとした半袖シャツにキャメルのパンツ、履き慣らしたスニーカーという出で立ち。
ヒカリの顔をしばらくしげしげと眺めると、男に向かってドライバーの女が言った。
[こいつが、武昌行きの中国語NGのお宝かい、劉俊豪?]
[ああ、張子涵。運賃は着払いだ]と紹介業の男。
[了解]と言うとドライバーの張子涵は、ヒカリに言った。
[先は長い。トイレに行っときな]
トイレを借りて用を足し、劉俊豪にヒカリは礼を言う。
「いろいろと、ありがとうございました」
出て来たヒカリに女ドライバーが言う。
[助手席に乗りな。すぐに出発だ]
言われるままに、ヒカリは大きなバッグを持ってトラックの助手席に乗り込む。ヒカリがシートベルトをしたのを確認すると、張子涵はトラックを発進した。
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出発の時間が来ると、ダイチは言った。
[周光立、久し振りに会えて嬉しかった]
[楊大地…おれだけこんなに酔っ払って…お前は素面かよ…]と少し呂律が怪しい周光立。
[ほんとに帰らなきゃならない用事があるんだ。次はもっと時間を取れるようにするよ]
[楊大地…とにかく連絡だけは…取り合おう]
小ぶりのバッグ一つを持ったダイチは、玄関のほうへと向かう。
後からついて見送りに行く周光立。足元はしっかりとしている。
玄関で固く握手すると、ダイチは扉を開け、蒸し暑い空気の中をエアカーに乗り込んだ。
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張子涵はトラックの運転席から隣の「お宝」を何度かチラリと見て思った。
(こいつ、似てる。そっくりだ…)