第8章 就職はしたものの
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、トウキョウ・レフュージの元幹部職員
李勝文:(リー・ションウェン)タクシー運転手、ヒカリが大陸で最初に出会った人物
劉俊豪:(リウ・ジュンハオ)人材紹介業者、コンピュータ系に強い
黄建文:(ファン・ジエンウェン)コンピュータ工房の店主、ヒカリの大陸での最初の雇い主
朱菊秀:(チュ・ジューシウ)タクシー運転手李勝文の妻
ミヤマ・ダイチ:中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、奥地の武漢の自治組織の最高幹部の一人
周光立:(チョウ・グゥアンリー)ダイチの同級生で盟友、上海の自治組織の最高幹部の一人
[さあ、代金払って貰おうか]と運転手が言う。
「待って、あともう一つ用事に付き合って下さい わたしは仕事と住むところを探しているの。どこか紹介してくれるところはないかしら?」
[今度は職と住まいかい。しょうがないなあ。とことん付き合ってやるから料金はずめよ]
運転手とヒカリは再びタクシーに乗り込む。
[で、お前さん何ができるんだい?]
「コンピュータのエンジニア」
[コンピュータ? そうすると…劉俊豪のところだな]
行き来する人がさらに増えた、日暮れ間近の通りを5分ほどタクシーは走り、また1件の家屋の前で止まった。
「人才介紹」と書かれた看板。
[劉俊豪、いるか?]扉をノックしながら運転手が声をかける。
扉を開けながら、人材紹介業者の劉俊豪が出てくる。年は30代後半というところか。
[こちらの女がコンピュータ関係の仕事を探している。できれば住み込みの。ただしこいつはニッポン人で中国語が喋れないときている。どうだい。何かあるかい]
[まあ、中にお入りなさい]
運転手と一緒に店内に入る。造りはさっきのリサイクルショップとほぼ同じ。カウンターにタブレット型のコンピュータがあり、左右にはショーケースのかわりに書類棚がある。エアコンの効きはいま一つ。
[中国語がダメとして、ニッポン語の他に喋れるのは?]と業者の男が、イヤフォンを通訳モードにして装着しながら聞く。
「英語ができます」
[コンピュータの腕前はどうなんだい]
「ええと、アカデミーで修士号とって…」
[アカデミ? なんだそれは。そんな名前の工房あったかい?]と怪訝そうに男。
「それは、その…」(そうか、こちらにはアカデミーは無いんだ)
[そもそもあんた、高中出てるのかい? それとも訓練校か?]
(ハイスクールのことね)「卒業して、そのあと13年間コンピュータの関連の…」
[経験は長いんだね。う~ん、中国語が駄目で英語ができて、住み込みのコンピュータの…]
そう言いながら、男はコンピュータのモニターをいじっている。
しばらくして男が言う。
[1件工房のアシスタントの口があるにはあるんだが、雇い主の評判がよろしくないので、あまりお勧めできるところではない]
しばし考えてからヒカリがと聞く。
「他に雇ってくれそうなところは無いんですね?」
[いまある限りではここ1件だ。住み込みもOKだ]
(まずは飛び込んでみて、それから考えよう)と考えたヒカリが、はっきりと言う。
「そちらでお願いします」
[条件を聞かなくていいのかい]
「はい。この際ですから」
[じゃあ、先方に電話してみるから、ちょっと待ってなさい]
男は、PITで相手先の工房に電話をかけた。幾つかやり取りをすると、ヒカリに向かって[すぐに行けるかい?]と聞く。
「はい、すぐに行きます」とヒカリ。
男は手数料のことなどを話し、電話を終えた。
[雇い主の名前は、黄建文。独立して工房を始めてそろそろ10年になる。腕は確かだが、人物としては評判がよくない。忠告しておくからね]
劉俊豪は、複写式の定型書式を取り出し、ヒカリに記入するようにとペンを渡した。書式は英文併記だったが、「Address(住所)」のところを見て困っていると、[そこは書かなくていいよ]と言ってくれた。
ヒカリから受け取った書類にさらに記入し、コピーのほうを三つ折りにして封筒に入れると、男はヒカリに、
[先方に着いたらこれを雇い主に渡しなさい]と言って封筒を渡した。
「ありがとうございます」と紹介業の劉俊豪に言うと、ヒカリは運転手の李勝文に、
「就職先まで届けていただけますか」と言った。
運転手の男は紹介業の男から住所を聞いた。
ヒカリは運転手と連れ立って紹介業者の店を後にした。
再び乗り込むと、運転手はタクシーを工房へと向けた。
[ざっと10分ってところかな]と運転手。
右に一度曲がり、数ブロック行ってから左へと曲がった。
「いま、どちらの方角向いてますか」
[南だね]
上海の街区は道路がほぼ東西南北になっているようだ。運転手の言葉通り、10分ほどして「電腦維修」の看板が架かった家屋の前で車は止まった。
[ここが聞いてきたところだ]とタクシーの運転手。
[じゃあ、おれはもう、これでいいな]
「おいくらになりますか?」とヒカリが聞く。
[待ち時間の分も含めて、3000塊でどうだ]
「じゃあ」と言ってヒカリは1000元札を5枚、運転手に渡す。
[おいおい、吹っ掛けたつもりだったんだけど、いいのかい?]と驚いた体の運転手。
「はい、本当に助かりましたから」
[ありがたく頂いとくぜ。そうだ、おれの名刺渡しとくから、タクシーが入用になったら連絡くれ]とニコニコしながら言う。
「ありがとうございました」
ヒカリがバッグを抱えてタクシーを降りドアが閉まると、運転手の李勝文はクラクションを一つ鳴らして去っていった。
こうして黄建文なる男が経営するコンピュータ修理工房に、ヒカリが就職したのが7月5日……その三日後の7月8日の深夜、大きなバッグ一つを足元に置いて、ヒカリは上海の街角で途方に暮れていた。
黄建文は40代半ばくらいの背が低い、小太りの男で、てかてかと脂ぎった丸顔。頭頂部が禿げ上がっていた。黒縁の眼鏡はいかにも度が強そうだ。
5日の夜、ヒカリを店内へ入れ紹介業者からの書面を受け取ると、男はまず、頭のてっぺんからから足の先までヒカリの体を舐めるように見た。
[肉付きの悪い女だね]と、ひとしきり見終わると吐き捨てるように言った。
[明日の朝から料理を作ってもらう]と言う。
「わたし、料理はまったく駄目なんです。料理なんて聞いてません」とヒカリは応じた。
[料理もできないのか。中国語は駄目。料理も駄目。愛想もない。しょうがないねえ。朝は私が何とかするから、昼と夜はケータリングだ。料理できない分、給料は下げる。ケータリングの代金は私の分も含めて、あんたの給料から差っ引くからね]と雇い主は言い放った。
翌朝、男の用意した粥を食べ終わると、さっそく仕事の指示がヒカリに与えられた。簡単なプログラムエラーの修正だ。いちいち手順を説明する男に、ヒカリが別のもっと短時間で終わる方法を提案しようとすると、
[うるさい。ここは私の店だ。私の言う通りにやってもらう]と一蹴された。
不満気な表情をしたヒカリに向かって、
[ほんと、愛想のない女だね]
昼食、夕食のケータリングも、結局二人分「自腹」と思うと食が進まない。そのうえ、食事を重ねるにつれ、黄建文がヒカリに向ける視線に徐々に色目使いが混じるようになってきた。そのたびに背筋に寒気が走った。
さらに翌日、仕事の指示を出しながら、男はヒカリの手に自分の手を添えるようになった。じっとりと汗の滲んだ手の感触に、ヒカリは例えようの無い嫌悪感を覚えた。夜、あてがわれた部屋で寝ていると、ロックしたドアのノブが外から触られているような音が聞こえた。
そしてついに、就職して三日後の7月8日。夕方に急な仕事が入って、夕食をとるときにはもう22時を回っていた。男がビールを飲んだ。あまり酒は強くないのだろう、禿げ上がった頭頂部まで、すぐに真っ赤になった。
食事を終え部屋へ向かおうとするヒカリの背中に、
[美女は三日で飽きる、醜女は三日で慣れる]という男の呟きが刺さった。
思わず足をとめたヒカリの体に、男は近寄って後ろから腕を回した。
「やめて下さい」
そう言いながら両腕を開くようにして振りほどこうとするヒカリ。しばし揉み合ったあげく、男はバランスを崩して床に倒れた。起き上がると、衝撃と恐怖心に体がこわばり、立ち尽くしているヒカリの正面に回り、
[細身の女はまた格別っていうからね]と言いながら近付いてきた。
男が両手で彼女の腕を掴んだ。顔のすぐ近くまで相手の下卑た笑みが迫ってくるのに気づき、はっと我に返ると、肘を横に突き出すようにして男の腕から逃れようとした。後ずさりする彼女に、男はお構い無しに迫ってくる。とうとうヒカリは壁際に追い詰められた。
そのとき、ヒカリはミドルスクールで習った護身術の一つを思い出し、とっさに相手の股間に膝で思いっ切り蹴りをいれた。[おおう]とくぐもったような叫び声を男が上げた。ヒカリの腕を掴んでいた両手を自分の急所にあてて[あう]と呻き声をあげながら、男は床に転がって身悶えた。見事に「決まった」ようだ。
男が起き上がれないうちに、部屋に戻り大急ぎで荷物をバッグに詰めると、ひと言、
「お世話になりました」と言って、ヒカリはバッグ一つで黄建文の店を後にした。
その背中に、横たわったままの男は、
[待ちやがれ、このニッポン人の売女が!]と罵声を浴びせた。
かくして7月8日の23時過ぎ、人通りも少なくなった上海の街路を、足早に、けれどあてどなくヒカリは歩いた。PITに入っている地図は大戦前のものだから役に立たない。湿気に満ちた空気の中を、ただひたすら、黄建文の店から少しでも離れたところへ行こうとしていた。重いバッグを持って1時間も早歩きすると、さすがに疲れた。やっと見つけたコンビニらしき店も23時で閉店したらしく、電気の消えた店の前で、カバンを地面に置いてしゃがみ込んでしまった。PITの方位計で、北へ向かって来たことだけは確認できたが、自分が一体どこにいるのかわからない。途方に暮れて、思わず「どうしよう」と呟いた。
空から水滴が落ちてきた。雨だ。そんなに強くないが、レフュージ暮らしでは雨に降られることはないから、傘なるものをヒカリは持ち合わせていない。見回しても雨を凌げそうなところは見当たらない。冬物のジャケットをカバンから取り出し、頭から被った。
(ああ、せめてタクシーでも通りかかってくれたら…。)
ヒカリは、タクシー運転手の李勝文から名刺を貰っていたことを思い出した。PITをカバンから取り出し、挟んであった名刺を引き抜く。電話番号のバーコードをPITで読み取る。発信音が5回ほどたった後、「ウェイ」という記憶にある声が聞こえてきた。
「リーさんですか?」
[あんたひょっとして?]という声がヒカリには、やけに懐かしく感じられた。
「はい、あの『中国語を喋れないニッポン人の女』です」
[どうした、こんな時間に]
「雇い主に襲われそうになって、工房を飛び出してきました。雨も降ってきてタクシーが必要なんです」と泣き出しそうな声のヒカリ。
[いまどこにいるんだい?]
「工房から北に向かって来たんですけど、どこにいるのか全然わかりません」
[そうか。じゃあ、おれのPITに位置情報を送れるかい?]
PITのアプリを起動させると、ヒカリは位置情報を李勝文のPITに送信した。
[OK。5分くらいで行けるところだ。これから向かうから待ってな]
雨は徐々に本降りになってきた。被っているジャケットの表面がしっとりと水を含むようになった頃、見覚えのある車がヒカリの前に止まった。
[お待たせ。乗りな]と運転手の李勝文。
「でも、ジャケットとバッグの水を払わないと、座席が濡れ…」
[そんなことは構わないから、早く]
ヒカリは脱いだジャケットを裏向けにして丸め、タクシーの後部座席の床に放り込むと、カバンを持って乗り込んだ。
日付はすでに9日に変わっていた。ちょうど営業を終えて自宅に帰るところだった李勝文は、ヒカリをそのまま連れて行った。男の後ろに従って家に入ったヒカリを見ると、男の妻、朱菊秀が、きつい口調で言った。
[また拾ってきたのかい、どっかの馬の骨を]
呆れたような表情で言うと、ヒカリのほうを向いて急に、にこやかな表情で言った。
[「馬の骨」って、あんたのことを言ってるんじゃないからね]
[しょうがねえだろう。行く場所なくて困ってたんだから]と運転手の男。
[こうやっていつもあんたは、厄介者を連れてくる]
そう言うと、急ににこやかになってヒカリに向いて言う。
[あんたが「厄介者」ってわけじゃないからね]
[2、3日預かってやってくれないかい]
[結局、あたしが面倒見ることになるんだから]
厳しい表情で言うと、また急に表情を変えて、にこやかにヒカリに向かって言う。
[ゆっくり寛いでくれたらいいからね]
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9日の朝、ミヤマ・ダイチは武漢から上海へ向けて出発した、エアカーを運転しながらダイチは考えた。「ネオ・シャンハイが空っぽになる」とは、にわかには信じがたいが、ここ数年耳に入ってきたことから判断すると、あり得ないことではない。いずれにせよ今回の出張の最終日の夜、高級中学の同級生で上海の盟友、周光立と久し振りに会って食事をする。上海自経総団の副総書記である彼と一緒に情報を整理しよう。
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夫に対してはいちいち毒づく妻だったが、ヒカリに対してはやさしく接してくれた。運転手の男が、人材紹介業者の劉俊豪のところに9日の午後に赴いて話をしようとすると、すでに朝一番で、工房の黄建文が怒鳴り込んできた、とのことだった。契約は破棄で給料は払わないということで落ち着いたが、もう一度、ヒカリの顔を見て罵声を浴びせかけないと気がすまない、という風で、ヒカリの行き先を知らないか、としつこく聞いてきたとのこと。
[しばらく外に出さないほうが良さそうだね。私がどこか落ち着き先を探そう]と劉俊豪。
[できるだけ早くにな。カミさんがうるさいんだ]と李勝文。
結局7月12日までの4日間、ヒカリは李勝文とその妻の朱菊秀の世話になった。