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第7章 我是日本人

主な登場人物


ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、トウキョウ・レフュージの元幹部職員

アルト:トウキョウ籍のマリンビークル「TYOMV0003」

李勝文:(リー・ションウェン)タクシー運転手、ヒカリが大陸で最初に出会った人物

王黒娃:(ワン・ヘイワー)リサイクルショップ店主

 第6層でエレベーターを降りると、コントロールセンターを再びスリープ状態にし、マリンビークル基地のドアをあけてアルトのところへ向かった。3時間ほど時間が経っていた。

「おかえりなさい、ヒカリさん」

 乗船して席に着く。

「これからどうしますか?」

「ノー・アイディア。どうすればいいんだろう。ここに留まっているくらいなら、ネオ・トウキョウを離れることはなかったし…」

「長江を渡って、対岸のほうに行ってみられてはどうですか?」とアルトが提案する。

「実は、待っている間、となりのビークルと交信したのです。そいつが言うには、対岸の旧上海市街にはAORの大きなコミュニティーがあるそうです」

 レフュージの外には、連邦市民の地位を持たない「AOR(Aliens Outside the Refuge)」と呼ばれる人々が住んでいるということは、ヒカリも耳にしたことがある。ただし連邦の公式な記録としては一切上がってこない。あくまで噂である。

「ネオ・シャンハイのキャラバンは、上海のAORたちとトレードを行っていたそうです。となりのビークルは、そういうキャラバンを運んだことがあるそうです」とアルトが続ける。

「上海のAORのコミュニティーは、どれくらいの規模なんだろう、アルト」

「正確にはわかりませんが、数十万人はいるようです」

「そんなにたくさんいるんだ」と驚くヒカリ。

「ヒカリさんが最初に指示された『北緯30度、東経115度』について、わかる人がいるかもしれませんね」

「そうかもしれない。少し休んだら、あなたが言ったように対岸へ行ってみることにするわ」

「わかりました」

 しばしまどろんだ後、ヒカリは目を覚まし時計を見た。

「18時。あら、もうこんな時間。いや、ここの時間だと17時ね」

「どうします。今夜はここで過ごして、対岸へ行くのは明日にしますか?」と尋ねるアルト。

「いえ、今日のうちに対岸へ渡ることにするわ、アルト」とヒカリ。

「了解です」

「困ったらあなたを呼んでもいいかしら」

「いつでも馳せ参じますよ、ヒカリさん」

 ヒカリを乗せたマリンビークルは再び長江の水面に顔を出した。朝方曇っていた空は晴れている。一年で最も昼が長い時期なので、まだ明るい。

「どこへ行くの?」とヒカリ。

「さっき交信したビークルから、キャラバンを乗せたときに接岸した埠頭の場所を聞いておきました。ひとまずそちらへ向かいます」

 対岸側に進むと、長江に合流する支流に入って遡っていく。PITをタップして地図を表示すると、黄浦江ファンプージァンという川であることがわかった。S字型の流路を南下し、右に折れて西に向けて遡上する。さらにしばらく進んで支流が合流する地点のすぐ先、向かって右側に目的地の埠頭があった。川は大きく左にカーブしてさらに南へ続いている。

「着きました。ここです」とアルト。

 キャノピーが開く。むっとする湿り気と熱気を帯びた、レフュージ暮らしでは一度も感じたことのない空気に包まれる。

 ところどころに雲の浮かぶ青空を見上げる。天頂の青が最も深く、地平線に向かうに従って白みを帯びる。その中で西から少し北に寄った方角はオレンジ色を帯びる。その色が徐々に強くなってその先に沈みつつある眩しい太陽が見える。

(空って、こんなふうなんだ)と、ヒカリは改めて思う。

 バッグを持って埠頭に立つヒカリ。

「私はひとまずネオ・シャンハイの基地に戻って待機します。それではヒカリさん、どうかお気をつけて。幸運を祈ります」

アルトはそう言うと、キャノピーを閉じて基地へと向かう。

「ありがとう、アルト」


 アルトを見送ると、ヒカリは埠頭から川を挟んで対岸を眺める。そこは浦東プードンといって、かつて超高層建築物が並び上海の経済的繁栄を象徴する一角だった。大戦の際に破壊された建築物の残骸が、不気味な雰囲気を醸し出す巨大な瓦礫の形で放置されている。

 振り返って埠頭を歩き、黄浦江左岸に沿って走る道へ出る。かつて外灘ワイタンと呼ばれた地域。道路の反対側には、同じような形をした平屋の家屋が並んでいる。何かの合金に樹脂をコーティングして作られた素材だろう。壁と屋根が一体化した無機質な建物だ。

 レフュージ開設にまつわるあれこれについて、ハイスクールで習ったことをヒカリは思い出した。レフュージ完成前に、シェルターから出て来ざるを得なかった人々を収容するため、連邦は仮設居住区を設置したという。ここらの建物は、かつての仮設住居なのだろう。

 時刻は18時。夕暮れ時の雰囲気が漂ってきた。行き交う人もいない。

 そのとき、頬になにか付着したのを感じた。一瞬ビクっとして手で払うと無くなった。しばらくするとこんどは右腕だ。付着物が小刻みに動いている。プライマリースクールで習った昆虫、そう、「ハエ」だ。そこここに飛び交っている。

 なにやらヒカリの頭の上で、揺れたり回ったりする黒い点の集まりが浮かんでいる。これも昆虫だろうか。数歩歩いてもついてくるのを、さらに数歩歩くと離れた。ちなみにこれが「蚊柱」というものであることを、ヒカリは知らない。

 こんどは細くて見過ごしそうになる昆虫が左の肩にとまる。これは「カ」だろうか。だとすると血を吸われるかもしれない。右手でさっと払う。

 昆虫たちの鬱陶しさもさることながら、肌に纏わりつくような蒸し暑い空気が堪らない。

(ずいぶん遠くへと来てしまった)という気持ちが更に強くなる。

 さてどうしよう、と思っていたところへ「TAXI」という表示灯をのせた地上走行型の乗用車が通りかかった。手を上げて止める。後部座席のドアが開き、バッグを抱え乗り込む。

(中国語)

[どちらまで?]

 ワイヤレスイヤフォンを通して聞こえるPITの通訳で、言われていることはわかるけれど、咄嗟に言葉が出て来ない。40代くらいだろうか、細長い顔で口髭を蓄えた、温厚な表情の運転手の男が重ねて聞いてくる。

[どちらまで行くんだね?]

「ニイ・ハオ。ウォ…ウォー・シー・リーベンレン(我是日本人)」

[ふん? ニッポン人? それで]

「スピーク・ノー・チャイニーズ」

[なに? 中国語が喋れないってことかい?]

怪訝な顔で言うと運転手は、自分のイヤフォンを通訳モードにして装着した。

[で、どこへ行けばいいんだい]

「わたし、お金持ってないんです」

[なんだと? 中国語喋れないうえに一文無しか?]

 声を荒げる運転手。

「でもね、あの…お金の代わりになるものがあるの」

 ヒカリはバッグを探って、リングのケースを取り出し、蓋を開いて中身を見せた。

「これを売ればお金になるはず。これを買ってくれそうな人のところへ行って下さい」

[てことは…リサイクルショップだな。じゃあ、知り合いがやってる店に行くとするか]

「お願いします」

 舗装が相当傷んだ道を揺られながら、10分ほどタクシーは走った。エアコンはあまり効いてなくて蒸し暑い。両側に、相変わらず同じような形をした無機質な平屋の家屋がずっと並んでいる通りに、人が行き交うようになった。市街地に入ったのだろうか。

「旧貨商店 RECYCLE SHOP」と書かれた看板が架かった家屋の前で、タクシーは止まった。

 運転手が店の扉をノックする。50代くらいの店主らしき男が顔を出す。店仕舞いしたとの店主に、運転手は頼み込んでいる。仏頂面の店主、王黒娃ワン・ヘイワーが扉を開ける。運転手、李勝文リー・ションウェンに続いてヒカリが店内に入る。タクシーよりはエアコンが効いている。

 一般家屋のリビングを改造したような店舗スペースに、カウンターがあって奥に大きな金庫がある。左右のショーケースには、宝飾品や雑貨類が並んでいる。値札は無い。

[そうそう、こいつニッポン人で、中国語が喋れないんだ]と運転手が言うと、店主もイヤフォンを通訳モードにして装着する。

[で、モノはどこにあるんだ?]と店主。

 ヒカリはリングのケースを取り出し、蓋を開けた。

 店主はリングを手にすると、青緑や紫が混じった複雑な色に輝く宝石を、まずは室内のランプにかざしてみた。それからカウンターの下から取り出したルーペで熟視した。

 しばらくして店主が顔を上げて、ヒカリをじろりと見た。

[あんた、これをどこで手に入れた?]

「え、その、母から誕生日プレゼントで…」

[よし。10万塊(元)でどうだ?]

 高いのか安いのか判断できないヒカリ。

「あなたたちの1ヶ月の食費ってどれくらい?」

[変なこと聞く女だな…ひとり3、4万塊ってところか?]と店主。

「ここまでのタクシー代は?」と運転手に聞くヒカリ。

[560塊]

「買い叩かれている」という感じは否めないけれど、とりあえず資金は必要だ。心の中で母に「ゴメン」と手を合わせてから言う。

「わかった。それで売るわ」

[よし。それじゃあ、書類を作るからちょっと待て]

 店主は、カウンターの下から伝票の綴りを取り出すと、何やら書き込み始めた。一通り書き終えると[ここに署名しな]と言って、書類の右下にある横線の上の空白を指差した。店主からペンを受け取り、ヒカリは慣れない漢字で署名した。手書きは本当に久し振りだ。

[メイシャン・グゥアンだな]と店主。

(そうか、わたしはここでは「メイシャン・グゥアン」なんだ)

 そう思っている間に店主が代金を用意する。

「10000」と書かれた紙幣が9枚と「1000」と書かれた紙幣が10枚。しめて10万元を相変わらず仏頂面の店主から受け取る。これまでずっとPITで決済していたヒカリには、初めて手にする現金。そんな感慨もそこそこに、運転手に伴われて店を出る。

[ありがとよ、王黒娃]と運転手。

 二人を見送ると、(…いい商売させて貰ったぜ)と、仏頂面がほぐれてほくそ笑む店主。


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