第4章 海と山と
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、トウキョウ・レフュージの元幹部職員
「TYOMV0003」:トウキョウ籍のマリンビークル、ヒカリが「アルト」と名付ける
細長いコの字型の埠頭の内側の水面に、左右4隻ずつ8隻のマリンビークルが係留されている。一瞬ドアが開いて空気が動いたからだろう。気づかないくらいわずかに揺れている。
流線型の尖った前面から横に広がる船体中央の、客室部分の上をキャノピーが覆っている。後部の推進装置はほとんど水中に隠れている。水素燃料で駆動するようだ。どれも似たような形をしているけれど、大きさが違う。
ヒカリは左手の先頭に係留されている一番小さいライトグレーのマリンビークルのところへ向かった。側面前方のキャノピーの付け根の辺りにセンサーらしきものがあるのを見つけ、PITを取り出すとイマージェンシー・キーを送信した。
前面が固定されているキャノピーの後部が持ち上がり、船内が顕わになった。前後左右に間隔を置いた座席が、前面から3席、3席、2席と並び、合計8席。後部にはお手洗いらしき一角とストックスペース。
ヒカリはバッグを最前列の右側の席に置き、中央の席に座る。すると目の前の細長いモニターが自動で起動し、計器類などが映し出される。
「乗船が完了したら、お知らせ下さい」
印象的なアルトの音域の声。
「完了です」とヒカリ。
キャノピーが下がり、外界と遮断される。水密を完全にするよう外縁部に圧力がかかる音。
「シートベルトをして下さい」とアルトの声。
言われた通りにする。
「お手持ちのデバイスと情報連携しますか?」と聞いてくる。
「連携した情報はマザーAIに送られるの?」
「いえ、ローカルベースでの接続です」
ヒカリはバッグからPITを取り出し、認識コードをモニターに向けて送信した。
「連携完了。ミヤマ・ヒカリさんですね。よろしくお願いします」
「あなたの名前は?」
「登録番号は『TYOMV0003』ですが」
「呼びにくいわね。『アルト』って呼んでもいいかしら?」
一瞬沈黙があって、答えが返ってくる。
「了解しました。では、あなたのことを『ヒカリさん』と呼びますね」
アルトが続ける。
「それではヒカリさん、目的地を教えて下さい」
「目的地」と言われても、「大陸」というだけで皆目見当がつかない。
「地名でも、目標物でも結構ですよ」
「それが、わからないのよ、アルト」とヒカリ。
「緯度、経度はどうでしょう」
さっきヤストモが言った「30、115」を思い出した。ニッポンの標準子午線が東経135度だから…
「北緯30度、東経115度ではどう?」とヒカリ。
「解析します…解析中…解析中…解析結果、到達不能」
やはり無理か…
「最寄りのレフュージならネオ・シャンハイですが、そちらへ向かいましょうか」
アルトが提案する。
(ここを離れて大陸に向かうのが先決。後のことは、そのときに考えることにしよう)
「OK、アルト。ネオ・シャンハイへ向かってちょうだい」
「了解しました」
推進装置が作動し船体後部で音が鳴り始めた。マグネット式の係船索が外れ、船体が埠頭から離れて水面の中心線近くまで動く。基地側の気密扉へ向かうと扉がゆっくりと開く。扉を通りエアロックに進むと、背後で基地側の扉が閉まる。ポンプで注水と排気が始まった。
マリンビークルは、水位の上昇に伴って「沈む」形となる。水位がヒカリの視線の高さを越えたかと思うと、船体が水没し潜行モードになった。ほどなくエアロックは天井まで水で満たされた。外側の防水扉がゆっくりと開く。推進装置の音が大きくなり、マリンビークルは海中に向けて発進した。
わずかに日光が届くくらいの深さのところを、船首のライトを点けたマリンビークルは比較的ゆっくりと進む。
「障害物があるので、トウキョウ・ベイの間は潜航して慎重に行きます」とアルト。
「太平洋に出たら水面に上昇しますので、しばらくお待ち下さい」
ときどき魚が、一匹、数匹、または群れとなってヒカリの視線を前方から斜め後ろに通り過ぎる。生きている海の魚を見るのは、カゲヒコとマモルと一緒にネオ・トウキョウのアクアリウムに行ったとき以来だ。
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月の連邦本部のモニターセンターの夜勤スタッフは、夜勤シフトが終わる月時間(UTC)8時頃に、上長であるセンター長に「ミヤマ・ヒカリ」に関してまとめた資料を送信し、帰宅した。センター長は本来なら9時出だが、その日は用事があり11時に出勤となっていた。
資料の送信ステータスが「通常」だったため、センター長が携帯しているPITには送信されなかった。そのため「ミヤマ・ヒカリ」に関する情報が広く共有されるのは、モニターセンターのセンター長が出勤する、11時より後となってしまった。
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6時間ほどして、マリンビークルはトウキョウ・ベイの出口を抜けた。海面に向かって上昇を始める、ほどなく浮かび上がった。
「止まって。少しだけキャノピーを開けてもらえるかな? 外の空気に触れてみたいの」
「了解しました」とアルトが言うと停船した。
ヒカリの望み通り、キャノピーが30センチほど開いた。一定のリズムの波に、船体は上下動を繰り返す。7月にしては少しひんやりとした、湿り気を含んだ潮風を頬に感じる。
ネオ・トウキョウから一歩も出ずに生きてきたヒカリにとって、初めて触れる外界の空気だ。レフュージの空気は、できる限り外気に近付けているとされているが、実際に外気に触れてみると全然感じが違う。「潮の香り」というのだろうか、アクアリウムで、海生生物の水槽を上から眺めたときに、感じたのと似た香りが漂っている。
太陽が沈んだばかりの夕空を背景に聳え立つ、円錐状の大きな山の紺色のシルエット。
「アルト、あの高い山が富士山?」
「そうです。富士山ですよ、ヒカリさん」
いままでビデオや写真でしか見たことのない富士山を、遠くからのシルエットとはいえ、初めて実際に目にしたヒカリ。しばし思いに耽ったのち、言う。
「OK、アルト。もういいわ」
キャノピーが閉じ推進装置の音が再び鳴り始め、マリンビークルは水面モードで発進する。
「ところでヒカリさん。私のことをなぜ『アルト』と呼ぶことにしたのですか?」
「それはね、あなたの声がアルトの音域の、とても素敵な声だったからよ」
「それは…とっても嬉しいです。ありがとうございます」
バッグから非常食とコーヒーを取り出して、長かった1日を思い起こしながら夕食。