第13章 瓜二つ
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、トウキョウ・レフュージの元幹部職員
ミヤマ・ダイチ:中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、武漢自治組織の最高幹部の一人
ジョン・スミス:武漢の電気電子修理工房の店主、大陸でのヒカリの二人目の雇い主
張子涵:(チャン・ズーハン)本作のサブ・ヒロインの一人、武漢で物流業者を営む
ミヤマ・サユリ:中国名は楊小百合 (ヤン・シァオバイフゥア)、ダイチの妹、1年前に病死
最高幹部用といっても他のミーティングルームととりたてて変わりなく、テーブルと椅子、奥にモニターが置かれただけの、簡素な部屋だ。ジョンと張子涵が先に入り、8人分の席があるテーブルの入口に近い側の列に並んで腰掛けた。ダイチは部屋に入ると扉を閉め、入口から離れた側のジョンと向き合う席に座った。
ダイチが最初に口を開いた。
[どういうお話ですか?]
ジョンは1回張子涵のほうに顔を向けてから、正面に向き直して話を切り出した。
[うちの店に、おととい新しいコンピュータエンジニアが入ったんです。上海の人材業者の紹介で、こちらに張子涵が運んできました]
「途中であたしの聞いた話だと、ニッポン人の女で年齢は28だと]と張子涵。
[それで、そのニッポン人の女性がどうかしたんですか?]
[ニッポン語の他に英語は堪能なんだけれど、中国語がまったくダメなんです。おまけに過去のことについては聞いてくれるな、と言うんです]
[「わけあり」ってことですか?]と怪訝そうにダイチ。
[それが、名前はヒカリというんですが、姓のほうが…]
ジョンはひと呼吸を置いて続けた。
[姓は「美山」、ニッポン語読みで「ミヤマ」だというんです]
[楊大地、あんたの本名と一緒だよね?]と、張子涵が念を押す。
[…ああ、そうだ]
平静を装いつつダイチが言う。
[ヒカリという名前に心当たりは?]とジョン。
[いえ、ありません]
さらにひと呼吸おいて、ジョンが続ける。
[畳み掛けるみたいで申し訳ないが、まだあるんです。なあ、張子涵]
「そう。その女のルックスが、見事なまでにそっくりなのさ]と張子涵。
[誰にそっくりだというんだ? 張子涵]と身を乗り出し気味にしてダイチが言う。
[小百合に…顔といいスリムな体つきといい、瓜二つなのさ]
ダイチは見開いた目をジョンのほうに向けた。
[ジョン、間違いないんですか? 張子涵の言ってることは]
[ええ。私の記憶でも、ヒカリはサユリさんとそっくりです]
ミーティングルームがいっとき静寂につつまれる。ダイチの一つ年下の妹、楊小百合ことミヤマ・サユリは、ちょうど1年前に27歳で病死していた。
静寂を破って張子涵が話す。
[年齢もおなじだぜ…]
[たしかに…そういうことになるな]
動揺を見せまいとしながらダイチが言う。
ジョンが少し低めのトーンでダイチに訊く。
[ヒカリに会ってみてはいかがですか、楊書記。うちの店に住み込みでいます]
[そうですね…「上海に突然現れた、中国語の話せないニッポン人」というだけでも、別の意味で会ってみる価値があるかもしれない。明日の夜はいかがでしょう]
[それでは、私のところで19時から食事をご一緒しながら、ということで]
[あたしも行っていいかい? 楊大地]と張子涵
[ぜひ同席してほしい、張子涵]とダイチ。
時刻は18時を回っていた。「あと少しだけ仕事を片づけてから」というダイチを残して、ジョンと張子涵はオフィスを後にした。
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ジョンが店に戻ると、ヒカリはまだ作業をしていた。
【どうだい、進み具合は?】とジョン。
【はい、5件あったうち4件は完了しました。すべて修理できました】
【OK。じゃあ今日はこれで終わりにして、飯を食おう】
【わかりました。じゃあ片づけます】
野菜のコンソメ風スープにパンの簡単な夕食。ジョンはビールを1本開けてヒカリに勧める。ヒカリは、じゃあ一口だけ、と言ってコップに半分くらい注いでもらい、乾杯をする。
パンはドイツ風ライ麦パン。
【このパン、好きでよく食べてたんです】
【粉を上海から特別に仕入れて、知り合いのパン屋に焼いてもらってるんだ】
ハエが一匹、食事を狙いたかってくる。ジョンが追い払い、また寄ってきて、また追い払い…をなんどか繰り返すと、諦めたハエは、キッチンのほうに獲物を探しに飛んで行った。
【ここもハエが多いんですか?】とヒカリ。
【いるにはいるが、武昌は衛生状態が悪くないからまだましだ。漢陽や漢口はもっと多い。武昌はどちらかというと蚊だな。街区の近くに大きな湖があって、そこで大量に発生する】と、ジョンが説明する。
【ところで張子涵さんはお元気でしたか?】とヒカリ。
【ああ、相変わらず元気だ。そういえば明日夜、客人を招いている。張子涵も同席して19時から夕食を一緒にすることになっている】
【張子涵さんに再会できるのは嬉しいです。で、そのお客人というのはどなたですか?】
【まあ、明日のお楽しみ、ということで…】
ビールが入ったせいか、陽気な口調でジョンが言った。
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ダイチが帰宅したのは20時頃。簡単な食事をすませ、シャワーを浴びてバスルームから出てくると、ふと思い立って、少年時代からの「宝箱」を出してきた。1枚の写真を取り出す。ひょっとすると、と思い、明日夜、ジョンの店に行くときに持って行こうと考えた。
翌朝も、ダイチはいつも通り8時少し前に自宅を出て、エアカーで支団オフィスに向かった。夜の手土産にとビールを1ダース、クーラーボックスに入れて積み込んだ。街区の中央辺りで、右側、ふだんは見ずに通り過ぎるジョンの店にちらりと視線を向けた。上着のポケットに入れた写真を取り出して見た。間もなく支団オフィスのパーキングに着き、指定のスペースに車を停めると、ビールを車内に残してオフィスへと下りて行った。
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今日は完全に休日、とはいえ同業者の集まりが午後にあるが、店は休みで午前中は用事のないジョンは、ふだんより遅く、8時頃起きてきた。ヒカリはもう起きていて、デスクの椅子に腰を下ろして、手持ち無沙汰そうにしていた。
【おはよう、ヒカリ】
【おはようございます。ジョン】
【こういうこともあるから、コーヒーの淹れ方を教えといたほうがいいな】
ヒカリに手順を教えながらコーヒーを淹れるジョン。それぞれのカップにコーヒーを注ぎ、デスクのそれぞれの椅子に腰掛ける。
コーヒーを一口啜ると、ジョンが話す。
【今日おれは、午後にちょっと用事があるほかは、19時からの夜の会食まで何もない。午前中は部屋で音楽聞いたり映画観たりして過ごすつもりだ。お前さんはどうする?】
【そうですね、受けた仕事の残り1件を、午前中かけて片づけるつもりです】
【じゃあ、午後は会食まで暇だな。ここらを見て回るのはどうだい。店の合鍵渡すから】
【どの辺がお勧めですか?】
【そうだな。右側、西のほうへ向かって武漢長江大橋から長江を眺める、というのはどうだい。武漢長江大橋は、歴史上長江に最初に架けられた橋らしい。歩いて1時間はかからない】
そう言ってジョンは立ち上がり、背伸びをすると、
【さあて、朝飯、朝飯】と言いながら朝食の準備にかかった。
午後、出掛けるジョンを見送ると、ヒカリは午前中で終わるはずだった作業の仕上げを行った。思った以上に手間のかかる仕事で、目論んでいたより2時間ほど余計にかかってしまったことになる。15時少し前に作業を追え、コーヒーを口にすると、ヒカリはジョンの勧めに従い、武漢長江大橋に行ってみることにした。
曇り空で暑さは幾分凌ぎやすい。学校帰りらしい子どもたちの他は行き交う人も少ない道を、20分くらい歩いただろうか。それまで平屋の建物が続いていた先に、駐車場が現れた。片隅には、地下に下りるためのエレベーターと階段。メインストーリーのすぐ脇の駐車スペースにエアカーが停めてある。上海から武漢に向かう途中、張子涵のトラックを追い抜いたエアカーのように思える。「お偉いさん」がいるオフィスの駐車場なのだろう。
上海といい、ここ武昌といい、町並みにほとんど変化がない。ネオ・トウキョウも無機質ではあったが、建物に高低差があり、造りにもそれぞれ、何がしかの個性があった。
さらに10分ほど歩くと、道路がスロープになって橋が始まる地点に着いた。車道を歩くのは気が引けたが、行き交う車もほとんど無く、スロープの右端を上っていくことにした。
首筋に汗が滲むのを感じながらスロープを上ると、道の先に長江が見えてくる。上海から武昌に来る途中2度渡っているから、そのスケール感は掴んでいたはずだが、改めて眼前に雄大な姿を現す長江に、ヒカリは思わず息を飲む。スロープを上り切ると右側に川に向かって突き出した埠頭が見える。船が3隻、係留されている。左前方にはおそらく漢江だろう、支流が合流するのが見える。
さらに進んで橋の真ん中までくる。下を向いて直下のゆったりと流れていく水面を見ると、目がくらくらとする。視線を上げると、空一面に広く覆いかぶさるような雲。その下、川の下流側を遠くに向けて見ると、流れのその先が右に曲がるのが見える。
こんな景色を眺めていると、あと1年を切った「その日」が来るということが、あたかも幻想であるかのように思えてしまう。
PITをとり出して長江の地図を表示する。今自分がいる辺りで川幅は1Kmを超える。大きなスケールでくねくね蛇行したりゆるやかに曲がったりしながら、上海まで流れて海へと注ぐ。さらにその先には、自分が生まれ育ったネオ・トウキョウ。
橋の対岸側に着くと、道路の反対側に渡り、今度は上流側を眺めながら戻ることとする。地図で見ると、この先右に急カーブで曲がるようになっているけれど、そこまでは見えない。
マモルおじいちゃんもこの川を遡ったという。どのへんまで上ったんだろう?
武昌側に戻り、今度は橋のたもとの階段で下りることにした。武漢長江大橋は2階建てで、1階部分は鉄道橋になっている。長い間使われることがなく、すっかり錆付いた線路が見える。橋を歩いて渡るのも、鉄道線路を見るのも、ヒカリにとっては初めての経験になる。
(そういえば張子涵さんの船は、もう武漢に着いたんだろうか?)
今夜聞いてみよう、と思ったところで、PITで時計を見るともう17時近く。会食は19時からだから、お手伝いするのにそろそろ帰らなくちゃならない。橋をくぐる形で道路の反対側に行き、右に曲がってジョンの店を目指して歩みを速めた。
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ダイチはいつも通り、集中して仕事をしようとした。ただ、なにかの拍子に緊張が解けると、サユリの姿が心に浮かんできた。病魔に冒され、27の誕生日を過ぎてすぐに力尽きたのが1年と少し前。やっと最近、彼女の面影を追うことのない日々を過ごせるようになってきたその矢先に、「瓜二つ」だという人と会うことになるとは…
昼食を軽めにすまし、午後いくつかのミーティングをこなすと、18時になっていた。ジョンの店に向かうにはまだ時間があるが、今日はこれ以上仕事が手につかない。持ってきた写真を眺め、思いに耽っているうちに、そろそろ出かけなければならない時間がきた。
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ヒカリが店に戻ると、先に戻っていたジョンがキッチンで食材を取り出していた。肉とソーセージとジャガイモで、ドイツ風の料理を作るつもりのようだ。
【おう。戻ったか。武漢長江大橋に行ったのかい?】
【はい。すごい眺めでした。ええと、何かお手伝いすることは?】
【そうだな、「電気エリア」のテーブルを食卓にするから、テーブルクロスを掛けるのに、その上を片づけて布巾で拭いてくれ】
ヒカリは工具類を箱に納めて棚にしまい、キッチンから布巾をもってきてテーブルをさっと拭いた。ジョンが奥から出してきたテーブルクロスを広げ、二人で両端を持って皺を伸ばし、真っ直ぐにセットした。作業用の椅子2つとデスクの椅子2つ、合わせて4つをテーブルのあちらとこちらに2つずつ並べる。
ヒカリは自分の部屋にいったん戻ると、クローゼットに吊るした服のうち、一番見栄えのいい、ライトピンクの半袖のブラウスとベージュのスカートを選んで、着替えをした。姿見でチェック。靴はウォーキングシューズだけど、一足しかないので仕方ない。
ジョンは、ジャガイモでマッシュドポテトを作るつもりらしい。茹でて皮をむいたジャガイモを独特な形の調理器具でつぶしていく。ミルクとバターを加えて練り上げる。でき上がると、今度はキッチンの端に置いてあった小さな樽のような容器に載せた重しをとって、蓋を開けて中の、野菜を千切りにしたようなものの味見をしている。
【それ、なんですか?】とヒカリが聞く。
【ザウアークラウトという、ドイツ風のキャベツの漬物だ】
次は肉の下拵え。カツレツのようなものを作るようだ。あとは焼くだけ、というところまで段取っておいて、ジャガイモを茹でた鍋を軽く洗って、水を張って湯を沸かし始めた。
(料理ってこういうふうにするんだ)と、甲斐甲斐しく調理するジョンを眺めるヒカリ。




