第10章 お先にどうぞ
主な登場人物
ミヤマ・ヒカリ:本作のメイン・ヒロイン、トウキョウ・レフュージの元幹部職員
張子涵:(チャン・ズーハン)本作のサブ・ヒロインの一人、武漢で物流業者を営む
ミヤマ・ダイチ:中国名は楊大地 (ヤン・ダーディ)、武漢自治組織の最高幹部の一人
ヤマモト・カオル:中国名は李薫 (リー・シュン)武漢自治組織の最高幹部の一人、ダイチを補佐する
楊清立:(ヤン・チンリー)ダイチの従伯父、武漢自治組織の元トップ、現在はダイチたちの顧問役
ジョン・スミス:武漢の電気電子修理工房の店主、大陸でのヒカリの二人目の雇い主
女ドライバーの張子涵は、人通りの多い市街地を手動運転で徐行しながら進んだ。エアコンがほどよく利いて快適になった。
30分ほどして市街地を抜け、ハイウェイに乗ると自動運転に切り替え、イヤフォンを通訳モードにして装着。「ふう」と一息ついてヒカリに話しかけてきた。
[改めて、あたしは張子涵。あんたのことはどう呼んだらいい?]
「名前を中国語で発音すると『グゥアン』らしいんですけど、ニッポン語の発音で『ヒカリ』って呼んでいただけると嬉しいです」と答えるヒカリ。
[最初の音は難しいな。「シ・カ・リ」、になってしまうけど、いいかい?]と低めの、落ち着いた声の張子涵。
上海の街の明かりが後方に遠ざかり、闇の中をトラックはライトを頼りに進む。
空は満天の星空。新月なのか月は見えず、天の川まではっきりと見える。もちろん、火星も、そしてたぶん「あの星」も。
プラネタリウムでしか見たことのなかった星空。海上で夜を過ごしたときはあまり意識しなかったけれど、上陸して目の当たりにして改めて圧倒されるヒカリ。
[今朝方まで雨が降ってたけど、すっかり晴れた。そろそろ梅雨も終わりだな]と張子涵。
「武漢まではどれくらいかかるんですか?」とヒカリが聞く。
[荷物のこと考えずにぶっ飛ばせば10時間かからないけど、割れ物も積んでるからそんなに飛ばせない。ざっと15時間くらいはかかる]と答える張子涵。
「結構かかるんですね」
[ハイウェイの舗装も悪くなる一方でね。でもまあ、長江を船でいくこと考えりゃ全然速い。上りだと最短でも3日はかかるからね。]
「へえ」と感心するヒカリ。
[こう見えてもあたしは船も持ってて、さっき上海で、武漢への荷を積んで出航するのを見届けてきたところさ]
「手広くやってられるのですね」さらに感心してヒカリが言う。
[親父の商売を継いだんだ。1000トンクラスの船を持ってるのは、あたしを含めて武漢で3人かな]
前方を見ていた視線をヒカリのほうに向けて、張子涵が聞く。
[で、シカリ。あんた、いったいどこから来たんだい?]
「…うまく説明できないんです。ご勘弁いただけませんか?」
[ふうん。まあ上海にはいろんな連中がいるからな。聞かないでおくよ]
そう言いながら張子涵は、改めてヒカリの横顔を眺める。
(こいつ、顔といいスリムな体型といい、見れば見るほど似ている…)
後方からライトが照らされてきているのに、ヒカリは気づいた。はじめは仄かに。そして左後ろの少し高い位置から、だんだんと明るく照らされるようになった。
[ここいらでエアカーに乗ってるヤツは、そんなにいない。飛んでるんだから道なんか無視して真っ直ぐ行きゃあいいのに、ハイウェイに沿って進む律儀なところ。これはきっと、われらが武昌支団書記、楊大地に違いない]と張子涵。
左後方すぐのところでエアカーがライトを2度点滅させた。そして少し進んでトラックの横に並ぶ。
[やはり楊大地だ]
「お知り合いですの?」
[あたしの一つ上で、まあ、幼馴染っちゃあそうだけど、武漢ではお偉いさんなのさ]
ヒカリがネオ・トウキョウで運転していた車より一回り大きな、セダンタイプのエアカーは、しばらく並走したのち加速して前方に走り去った。テールランプが見る見る遠ざかった。
[ところでシカリ、あんた年齢はいくつだい?]と張子涵が聞く。
「ちょっと前に28歳になりました」と答えるヒカリ。
[そうかい、あたしも28だよ]
「奇遇ですね」
(あのエアカーの「お偉いさん」は29歳ってことね。カゲヒコと同い年か)と思うヒカリ。
(なんてこったい。似てるどころか年齢まで一緒じゃないかい)と驚く張子涵。
すれ違う車もなく、楊大地以外に追い越す車両もなく、8時間ほどぶっ通しで進み、夜明け間近頃にハイウェイを下りると、上海と武漢の間の無線通信の無人中継局の前に停車した。大きなパラボラアンテナが二つ、ひとつは東に、もうひとつは西に、互いに背を向ける格好で屋上に立っている建物だ。
ドアを開けて外に出る。早朝の外気は、昨夕よりは幾分ましだがやはり蒸し暑い。濃紺の空が東に向かって徐々に淡い色になり、地平線はオレンジ色の帯となっている。
あくびをしながら背伸びをしている張子涵。振り向いてヒカリを見る。
164センチのヒカリより背は少し高いくらいだろうか。化粧っ気もないし、ショートカットの髪も無造作に後ろに束ねているだけだが、よく見ると整った顔立ちで美人。ゆったりした着こなしにすぐには気づかないけれど、スタイルもかなりよさそうだ。
[大丈夫かい、シカリ。あんたもほとんど寝てないだろう]
「ええ、大丈夫です。仕事柄、徹夜には慣れてますから。張子涵さんこそ大丈夫ですか?」
[こちらも慣れっこ。あんたと他の荷物を届け終わったら、十分休まさせていただくよ]
ヒカリは非常食を開封し、張子涵に勧める。
[…なんといったらいいか、美味いのか不味いのか、わからない味だな、シカリ]
「そうでしょう。わたしもビミョーな味だと思います」
PITをチェックする張子涵。ヒカリのよりひと回り小さく、厚さは3分の1くらいだ。
[「お先に」だってよ]と、楊大地からのMATESをヒカリに見せる張子涵。
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ダイチは朝6時前に武昌地区街区のほぼ東端、東湖からほど遠くない自宅に着いた。2時間ほど仮眠をとると、身支度を整えて武漢自経団武昌支団のオフィスへとエアカーで向かう。昨夜の周光立のもてなしのおかげで空腹感は感じない。
上海も同様だが、武漢で一定以上の広さを必要とする事務所やホールは、大戦の前に作られた地下シェルターの跡地の空間を使って作られている。武昌支団のオフィスも、そういったシェルターのひとつを利用している。長江に架かる、奇跡的に大戦を無傷で生き延びた、武漢長江大橋からほど遠くない場所に位置している。
エレベーターで地下におりる。シェルター時代の名残の頑丈な重たいスライドドアを開いて、オフィスの中に入る。光ファイバーを通した外光で照らされているオフィスの、公安局と民生局のスタッフのデスクが並ぶ間を抜けて、自分のデスクに向かう。
[おはようございます。楊書記]と、出勤していたスタッフから次々と声がかかる。
[おはよう][おはようございます]と返しながらデスクに着く。
自経団は、長江流域の上海、武漢、重慶、および支流の流域の成都の4つの地域に集まって暮らしている「AOR」、つまりレフュージ外の住民によって、地域ごとに結成された自治組織。概ね住民800人ごとに区が置かれ、6~15の区が集まった支団が置かれる。自経団は3~5の支団で構成されている。ただし住民人口が約5000の成都には支団はなく自経団が直接、区を束ねる。逆に、人口が約40万とずば抜けて多い上海には自経団が10あり、それらを更に束ねる自経総団が上海全体を統括する。
自経団および支団の責任者は「書記」という役職名で呼ばれ、それを補佐するのが「副書記」。武漢は人口3万2000人ほどで、漢口、漢陽、武昌の3地区ごとに支団がおかれる。ダイチは武漢自経団の副書記で、武昌支団の責任者である武昌支団書記を兼務している。
自治組織であり、区による自治が基本とされているが、各支団に、全体的な事項や専門的な事項を担う直属組織として公安局、民生局を初めとする各局が置かれ、常勤と非常勤の職員が勤務している。また、支団が統括する地域ごとに、裁判所である法院が設置されている。
まる二日空けただけなのに、目を通さなければならないドキュメントが相当残っている。10時からのミーティングまでに、どれだけこなせるだろうか。
武昌支団副書記で民生局局長を兼務する一歳年下の李薫ことヤマモト・カオルがダイチのデスクにやってくる。二人ともニッポン人だが、職場では中国語を使うようにしている。
[上海はどうでした? なにか耳寄りな情報は?]
男性にしてはやや高めの声のカオルが聞く。その顔はどこか少年の面影を残している。
[いろいろあたり周光立にも会ったが、「ネオ・シャンハイは空っぽになった」というのと「残された時間が1年を切った」という以上の情報は、こちらで流れている噂と変わらない]
周囲を気遣い、声を落としてダイチが答える。
二人の姿を目にして、50過ぎの男性がやってきた。武昌支団の前の書記で、今は顧問の楊清立だ。楊清立はダイチの従伯父(祖母の兄の息子)である。
楊清立も小さめの声で会話に加わる。
[楊大地、李薫。例の話かい。なかなか情報が入って来ないようだね]
[残された時間はあまりないことは、確かなようです]
[まあ、焦らないことだ。君たちならきっと何かできる。そう信じているよ]
穏やかな声で楊清立が言う。
[はい、そうありたいと思います]と答えるダイチ。
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中継局の建物でトイレを借りて、ヒカリを乗せたトラックは再びハイウェイに戻る。
東側やや南の地平線に燦然と輝く太陽が昇るのを、ヒカリが息を吞んで見つめる。
夜が明けると長江を2回渡る。いくつかのかつて街だった跡を通り過ぎる。破壊されて瓦礫の固まりが連なる大きな街。昔の姿を残しつつ人の気配が皆無の小さな街。
そうこうするうちに、張子涵のトラックは太陽光発電機が並んで一面に広がるエリアに差し掛かる。その中を抜けて、武漢の武昌地区の街区に北側から入った。
武昌の街区は、武漢長江大橋のたもと付近から、かつて黄鶴楼、辛亥革命武昌起義記念館があった辺りを経て、東湖方面に伸びる東西約4Kmのメインストリートに沿って広がっている。街区の南北の幅はざっと300m。国際連邦がかつて設置した仮設居住区のエリアは幅約1kmだが、現在街区として使われているエリアの外は、浄水下水処理場、水素燃料製造プラント、太陽光発電の電力プラント、上海、重慶、成都との無線通信基地局、食品製造プラント、繊維製造プラント、リサイクルプラントなどの設備を除いて、使われていない。
上海と同じ平屋の無機質な合金製の家屋が、左右にずっと並んでいる。その一つ、街区の中央部、商店や飲食店、ヘアサロンなどが立ち並ぶメインストリートに面した「電工工作・電氣維修 JOHN SMITH」と看板が架かっている家屋の前でトラックが止まった。
[シカリ、着いたよ。ここがあんたの就職先さ]
正午少し前頃、張子涵とヒカリはジョン・スミスの店の前に降り立った。
張子涵が扉をノックする。
[ジョン・スミス、お届け物だよ」
扉が開くと、揉み上げから顎まで髭で覆われた西洋人の男が出てきた。身長は180センチをはるかに上回っているだろう。肥満体ではないががっちりとした体つき。
[おう、待ってたぜ、張子涵]とよく響くバスの声。
[これが送り状と受け取りだ。受け取りにサインして渡してくれ。それから運賃もな]
[ちょっと待ってろ]
そう言うとジョン・スミスは店内に入っていった。
[見た感じはおっかないけど、いい奴だから安心しな]
「そうですね。優しそうな目をしてますね」
[ほう、いいところに気がつくね]
ほどなくジョン・スミスは、サインした受け取りと運賃を持って出てきた。
[ぴったりだ。ありがとよ]
張子涵はジョン・スミスに向かって言うと、ヒカリに言う。
[じゃあ、元気で。あたしに会いたくなったら、ジョンに場所聞いて訪ねてくるといい]
「はい、いずれ落ち着いたら。ありがとうございます」と答えるヒカリ。
[さあ、早いところ残りの荷物の配達すませて一眠りしなきゃ…そうそう、あんた。その髪型、よく似合ってるぜ]
そう言うと、女ドライバーの張子涵はトラックに乗り、ジョン・スミスの店を後にした。
ネオ・トウキョウで褒める人のいなかったヘアースタイルを、武漢で初めて褒められた。自然に笑みがこぼれるヒカリ。




