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短歌「人間を花に喩えるのは正しいか」


人間を

花に(たと)える

(うた)()

実らぬまま死ぬ

私を許せよ


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公式企画「俳人・歌人になろう!2023」参加作品です。


▼小説家になろう 公式企画サイト

https://syosetu.com/event/haikutanka2023/

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【解説】


 これは批判の詩である。

 人間を花に喩えて表現する、すべての文章に対する批判である。


 ――笑顔が”咲く”。

 ――努力が”実る”。

 ――命が”枯れる”。


 という表現が一般的であるように、人間は自分達の感情や生命活動の表現について、さも自分達が植物の花であるかのように表現するのが当たり前である。


 またこういう慣用句もある。


 ――立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。


 周知の通り、この慣用句は美しい女性を表現するための言葉である。


 我々人間は、感情や生命活動、そしてその美しささえも、花に喩えて表現するのが当たり前なのである。


 私はこの当たり前を否定したい。

 私は人間のあらゆる性質に関して、それを花に喩えるべきではないと主張する。


 理由は明確だ。

 生きる目的が曖昧な人間に対し、花は生まれた時から最終的な目的が設定されているからである。


 考えてみて欲しい。

 我々は花に関する種々の疑問に関して簡単に答えることが出来る。

 こんな風に。


 なぜ花は芽吹くのか。葉っぱを広げて光合成をするため。

 なぜ花は光合成をするのか。栄養を蓄えて蕾をつけるため。

 なぜ花は蕾をつけるのか。美しく咲き誇るため。

 なぜ花は咲くのか。花弁を広げて受粉し、果実を宿すため。

 なぜ花は実るのか。次の子孫を残すため。


 花に対する「なぜ」の全ては、生物的な繁栄という最終目的地点に収束する。

 そして我々は花の最終目的が子孫を残すためであるということに、さほど疑問を抱かない。


 一方、人間はどうか。


 なぜ貴方は生まれてくるのか。

 なぜ貴方は育つのか。

 なぜ貴方は恋愛をするのか。

 なぜ貴方はセックスをするのか。

 なぜ貴方は子供を産むのか


 どの疑問に対しても、さきほどの”花”の例のように、簡単に答えることは出来ない。


 まさか「貴方が生まれてきたのはセックスをして子供を産むためだ」と言われ、納得する人がいるだろうか。


 納得する人がいるとすればそれは、最近の読書で奇抜な生物学者の書いた『僕の人生哲学ご教示本』を読んで影響された人だけである。

 そういう本というのは大体、人間の感情やセックスをなんでもかんでも生物学と統計データに紐づけ、こんなの生物ならフツーフツーと自らを暗示しあっけらかんと生きようとする、言うなれば『生物学的あっけらかん教』を布教する本であって、概して『生物学的あっけらかん教』の人々は、生物的ではない固有の信念を持つ自分自身の気持ちと正面から向かい合うということをしない。


 皆、自分の気持ちと向かい合おう。

 果たして、なぜ貴方は生まれてきたのか。


 人間は花のように、はじめから生命の最終目的地点が定まっているわけではない。

 故に、人間は「なぜ貴方は生まれてきたのか」という問いに簡単に答えることは出来ない。


 むしろ我々は、この問いに答えるために生きると言ってもいい。


 何故ならば、我々人間はこの問いに答えた後にはじめて”実る”ことが出来るからである。

 換言すれば人間にとっての”実り”とは、難解な疑問に対し、答えを出すことそのものなのである。


 現に我々が成長したと感じる時は、自分が直面する問題に対して、信念を持って臨み、自分の答えを出すことが出来た瞬間ではないだろうか。 

 人間にとっての成長とは、自分の課題に答え続けることではないだろうか。


 これは生まれた時から答えが決まっている”花”とは違う、人間に固有の成長観であると思う。 


 さて、改めて問おう。

 我々人間は花に喩えられるべきか。


 私の答えは否である。

 

 我々人間は、自分の直面する課題に答えることでしか、”実る”ことが出来ない。

 はじめから答えが決まっていてその通りに生きていれば”実る”ことが出来る花とは、存在の次元が違うからである。


 私の主張がご理解いただけただろうか。


 ……。


 ……。


 ……とは言ってみたものの。


 私のこの理屈はあまり世間から共感を得られるものではない。

 何故ならば、人間を花に喩えるのは、あまりに直感的であり、自然の中を生きる人間が一つの生命としての花を身近に感じるのは普通の感覚だからである。


 一方、私の理屈は回りくどく、非直感的であり、一時の納得は得られても、それを信念にして生きていく人間はそうそういない。


 ううむ。自称令和のソクラテスこと文士Mは今日も敗戦濃厚か。


 人間を花に喩える全ての表現者たちよ。

 批判してすまなかった、もう怒らないでくれ。

 君達はこれからも人間を花に喩えていいし、それは人間の直感的に正しいことだと思う。

 『生物学的あっけらかん教』の人々も、急にあげつらって申し訳ない。

 その生き方を貫くことは素晴らしいことだと思うし、私も時々はその宗教に入信したくなるものだよ。


 さて、議論の敗者は黙って去るのみ。

 

 ただ最後に、人間を花に喩える君達に対して、一言だけ言わせてくれ。


 実らぬまま死ぬ私を許してくれよと。


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