『七ツ森』25
25
古代の呪詛によって組み上げられた、赤い魔方陣が大地に広がる。ガルタンダールが最初に開けたゲートを中心に、魔方陣は巨大な門と化していた。
「我が主よ。準備は万端整いました」
エイボン卿は小さく呟く。
「さあ。お前にも見えているだろう。森の魔術師よ、来るがいい」
枯れ木のような腕を天に掲げると、錆びついた金属の物体が空中に召喚される。三本の鍵が枝によって繋がったような形状のそれは、突起がまるで棘のように鋭く、それ自体が凶器のような恐ろしい雰囲気をたたえている。錆びついた原因は、無数に浴びた血のせいだ。
「呪牢開錠」
呪文を唱える。エイボン卿の鍵が、軋んだ音を立てる。翼のように二本の鍵が広がり、汚れた十字架の様相を呈したエイボン卿の鍵が暗黒の牢の錠を開き、その中に囚われた巨大な怪物を解き放つ――……
「何だ。あれは……」
空に出現した黒い影を見て、ニールス・ユーダリルは思わず声を上げた。全長およそ六〇メートル。空よりのたくりながら降りてくる巨大な怪物は大蛇のようにも、蚯蚓にも芋虫にも見える。
おそらくは、エイボン。《夜明けの箱舟》グループきっての呪術師。術の様子を見るに、おそらくあれは先日の道路での戦闘で使用された呪牢の術。捕らえた怪物を使役する術だ。
「これ以上、怪物の持ち込みはご遠慮願いたいんだけどね」
残る矢の数は十五本。面倒そうな奴が出てきたものだ。ニールスは素早く踵を返す。飛ぶように来た道を戻りつつ、地面に散らばっているまだ使えそうなC・Pライフルを茨のルーン・ストーンから伸ばした茨を触手のように駆使し、次々と掴み取る。計五挺。総重量は三〇キロ程度だが、ニールスはこれらを肩に担いで道を急いだ。
眼前には、氷のルーンによって半身が凍結され、息も絶え絶えになった怪殖子のプラントの巨体がある。
「目論見通りいけばいいが……」
跳ぶ。足場から足場へ。上へ、上へ。瞬く間にニールスは足場の最上階へ到達する。
プラントは、その頂点部分に怪殖子を吐き出すための口がある。プラントは弱々しい脈動を繰り返し、口から覗くその体内はぞっとするような肉壁と器官が蠢いている。その全てに呪力が流れ、満ち満ちているのが見える。
――使えそうだ。
ニールスはローブの深い袖の中に手を入れると、炭のように黒い九角形の角柱を取り出した。柱となる九面にはそれぞれに別々のルーンが刻まれている。上部に当たる九角形の面には、中心に穴が開いていて、奥に粘土のような灰色の物質が詰め込まれていた。
武器職人ニールス・ユーダリルが考案した特殊なルーン・ストーンの一つ、《ルーン・ボム》である。文字通り、爆破を起こすためのルーンを九つ刻み付けた爆弾である。その威力は、使用者の魔力次第では最新鋭戦闘機を木っ端みじんに粉砕し、大国の主力空母に風穴を開けるほどだ。狩りの神、ウル神を信仰するニールスにとっては必要以上の破壊をもたらす兵器だが、爆弾には、ほかにも使い道がある。
矢筒から矢を取り出し、ボムの上部に開いた穴に差し込む。鏃が内部の粘土物質を貫き、奥まで到達すると固定される。爆弾を装着した矢を足場に置き、ルーン・ストーンから発生させた茨で掴み取った五挺のC・Pライフルを、さらに茨でぐるぐると巻いてひとまとめにする。
「誰も見ていなくてよかったよ。いくら急ぎとはいえね」
ぶつぶつと独り言を呟き、ニールスは爆弾を装着した矢を弓につがえ、プラントの奇怪な口の中を狙う。森の魔術師は静かに呪文を口にした。
「火よ、熾れ。我は猛るルーネを刻まん。即ち――
勝利し、照らし、始まり、
増えて、調和し、伝わり、
達成し、合致し、完成す。
これにて九つのルーネは刻まれる。アルヴィースの歌に焔が揺らめく。この一矢は太陽が如く――……」
射る。同時に、指を鳴らした。詠唱によって刻印された九つのルーンが輝き、深淵の如き怪物の体内へと落ちていく。
「さて――」
ニールスはC・Pライフルをひとまとめにした茨を無造作に掴むと、すかさず爆弾の矢を追って怪物の体内へ飛び込んだ。
感情が暴れる川のように流れ込んでくる。涙が止まらない。
異様な数の色彩が無制限に増えていく情報の奔流に打たれながら、マキは自己と他者の境が曖昧になっていくのを感じていた。父と母の事は知らない。パパとママの事は知らない。裏切った? 生贄? 知らない。知らない。知らない。
身体が変化していくような感覚。心が歪められていくような感覚。骨が変形する音が聞こえる。肉体が呪われた力によって変わっていく。自分ではない何者かが、マキという領域を侵犯する。あなたとわたしは一つだ。最初から一つだった。あなたも、わたしになってほしい――……。
「ち――が――」
こんなふうにはなりたくない。怪物になりたかったわけじゃない。誰かが、誰かが勝手に変えてしまうのだ。誰かが、勝手に不幸な方向へわたしを導いていくのだ。思考も感覚も、自分ではない何者かが、マキの分まで奪おうとしている。
「させ――ない――!」
真っ白い部屋にいる大勢のマキ。魔力を様々な図形に変化させる訓練。記憶がフラッシュバックしていく。ノルウェーに向かうために乗った飛行機。両親とともに眠った夜。通っていた学校。家の近くの風景。
自他の境界を曖昧にする魂への侵食に抗うには、自分が何者であったかを思い出す必要があった。戻っていく。自分が。魔力を形にするのと同じ感覚で、魂を自分が知っている形に戻していく――
「――ぅ、うわあああああっ!」
ターコイズブルーの光が、激しく弾ける。次の瞬間、マキは怪物の拘束から逃れていた。喉が苦しい。怪物の、血に塗れたような赤い腕で、首を絞められていたのだ。
「はあ、はあ――」
涙を拭う。まだ胸の中に悲しいという感情が残っている。この悲しみはマキのものではない。魔力を通じて怪物を見てしまったせいで、怪物の感情が流れ込んできたのだ。
「……痛い……痛いいぃいい」
巨大な犬のように見えた多腕の怪物の姿が、今のマキにははっきりとよく見えた。異様なまでに長く伸びた髪の中には、三人分の人間の肉体が同化している。炎に焼かれた彼女の母。仲間を裏切ったという彼女の父。そして、二人の娘である彼女自身。
「痛いぃい……痛いぃの……パパぁ……ママぁ……」
怪物の正体を何と呼べばいいのだろう。ひたすらに怪物へ変形させられる事で、彼女は痛みの限界を超えて、肉体も心も壊されてしまった。腕を伸ばして探しているのは両親の姿だ。見るも無残な姿のまま、隣にいる事も知らずに――
「痛……痛……何で、こんな事するの? 遊んでくれたらパパとママが帰ってくるのにぃぃいい!」
口調が変わった。戸惑いから、強い敵意へと変化するのがわかった。赤い腕が飛んでくる。マキを殴り殺そうとしている。身体がイメージ以上に自在に動く。拳はマントの端にさえ触れない。拳の衝撃でキッチンが歪曲する。
不思議な事に、今のマキには恐怖心があまりなかった。どんなに恐ろしい姿をしていても、マキには目の前の怪物が、自ら望んでそうなったのではなく、運命を捻じ曲げられた末の結果だという事が理解できていた。目に、身体に、身に纏うマントや修行着に、ターコイズブルーの光が通っている。万能感にも似たあの感覚が、マキの中にある。全てを思うがままにできそうなあの感覚。
「遊んでよ……ねえ……遊べったら!」
身体が軽い。暴れる怪物の無軌道な動きも手に取るようにわかる。怪物が伸ばす手を躱し、食器棚を操ってぶつける。よろめいた怪物が少女の顔で憎々しげな目を向けてくる。
今、なすべき事は理解している。魔力を自由自在に操れる今ならば。
「遊んではあげられない。あなたが苦しいのがわかったから」
マキは右手を天に掲げた。
「あなたの苦しみはわたしが終わらせる。来て、大鴉の槍!」
――繋がりを感じる。強い繋がりを。来る。光の速さで――
屋根を突き破って、閃光が屋敷に飛び込んできた。漆黒に染まったトネリコの柄を掴み取る。触った瞬間に、これが自分の一部なのだと直感する。掌の中で槍を回転させる。柄と穂を繋ぐ合金の接ぎに魔力の光が照り返し、生え変わり銀を用いた槍の穂が冷たく輝いた。大鴉の槍が、マキの手の中にあった。
槍は大きく、マキの背丈をゆうに越していた。相手が、もはやただの怪物ではない事はわかっている。一切を超越したような感覚が、怪物となってなお苦しみ続ける少女を救えと、そのために槍を振るえと命ずる。槍を上段に構える。怪物の胸を、その穂先で貫くべく。溢れ出るターコイズブルーの魔力がマントを翼のようにはためかせ、明かりの消えたキッチンに、眩い光を齎していた。影が、伸びる。槍を構えたマキの影が。壁に。槍の影が。揺れるマントの影が。
「大きな――」
怪物が、少女の声で、言った。
「――鴉」
討つ。槍が、その胸を貫く。肉を破り、骨を砕き、少女を怪物へと変じさせた呪力を滅しながら、青い光を放つ槍が進んでいく。
怪物が震える手を伸ばす。迸る魔力の眩さに、辛うじてその表情が見える。
「痛い……」
その声に、胸を突かれたような思いになる。自分は一線を越えたのだと知る。たった十歳で、マキは――怪物に堕ちてしまった者をその手に掛けたのだ。
「わたしは……消える」
赤い指先が、マキの頬を探して彷徨う。
「運命を……曲げられ……地の底に、消える。さようなら。鴉の子……わたしが両親に会う事は……二度とない……」
青い瞳が、魔力の色に染まるマキの目を見て、言った。
「――あなたも」
怪物の肉体が、灰と変わる。マキに迫っていた大きな怪物は、一息に、その場に崩れ落ちた。残る物は何もない。灰と化したその身体さえ、瞬く間に消えていく。
マントの色が、少しグレーがかっていた。修行着も同じだ。プラスのエネルギーたる魔力に晒されたせいだろうか。槍も全身にも、まだ魔力が通ったままだ。
行かなければ。スズリとアウストリが心配だ。今のマキならば、より高い精度で魔力を操れる気がする。重たく感じていたこの神秘の力も、今はまるで羽毛のようだ。
床を見つめる。怪物となってしまった少女が灰になって消えていった。この槍で、マキがこの手で、彼女を殺したのだ。そうしなければ彼女が呪いから解放されないとわかった。だからやったのだ。光り輝く力に包まれているというのに、マキの心には一抹の影が差す。もしかして、自分がやった事は、何かとんでもない間違いなのではないか。そんな不安が胸中を離れない。
「……スズリ、聞こえる?」
マキは、自らが抱える疑念から目を逸らした。スズリの返事は聞こえない。アウストリは今も屋敷の中だろうか。合流したほうがいいかもしれない。アウストリの権能の一部はマキにも使える。ならば。
「アウストリがいるところに行く。道を作って」
マキは屋敷に向かって言った。
すぐさま動きがあった。散らかったキッチンが音を立てて、たちどころに内装を変えていく。
新たなドアがマキの前に出現する。この先にアウストリがいるはずだ。
魔力に翳りはない。マキはドアノブに触れた。アウストリと合流し、スズリの様子を確かに行く。今はそれだけだ。ほかの事は考えなくていい。
ドアノブを回し、ドアを開く。
すぐに外気とわかる気温と、陽光を感じた。ドアの向こうは屋敷の外だった。
恐怖はなかった。だが、マキはどうしようもなく足を止めた。屋敷の外は異様な重圧に満ちていた。
空に、大きな目玉が浮いている。地に伏しているのはアウストリだ。身体に傷が入っている。
そして、この異様な重圧の源は、アウストリのすぐそばに立つ、銀髪の男だ。長身で、古めかしい恰好をした、人形のような気配さえする男。
「アウストリ……」
生きているのか、死んでいるのかさえわからない。マキの目は自然と銀髪の男に向けられた。
「あなた……誰」
銀髪の男は気だるげにマキに視線を返し、
「闇霧の一族」
暗闇そのものの声で、光のない瞳で、男は言った。
「出てくるのが君だけとは。少々当てが外れたね」




