『七ツ森』14
14
――家に着いた。
「……あれ?」
気が付くと、自分の家の玄関にいる。マキはしばし玄関ドアの曇りガラスを見つめた。差し込んだ夕日の光がドアを真っ赤に染めている。家の影は黒く底なし穴のようで本来ならそこにあるはずのアスファルトや庭の土が消えてしまったかのようだ。
ドアが開いた。
下駄箱のすぐ近くにスーツケースが置かれたままになっている。
帰ってきたのだ。けれど、よく思い出せない。
「マキー? 上がっておいでー」
お母さんの声が聞こえる。そうだ。早く入ろう。お腹も空いたし、お風呂にも入りたい。
「今行くねー」
靴を脱いで、家の中に入る。玄関のドアがバタンと閉まった。
「お母さん?」
ダイニングには誰もいない。普段ご飯を食べるテーブルには人影がなく、明かりもついていない。窓からは外の景色が見えなくなるほどの眩しい夕日が差し込み、家の中には人の気配がなかった。
「お母さん? お父さん?」
返事はない。
無音のダイニングは、自分の家ではないかのような静けさで、座り慣れたソファや、何度となく食事をしたテーブルが、マキをじっと取り囲んでいる。
「神様が」
マキは息を呑んだ。
食卓に、お母さんの姿があった。
「神様が言うの。あなたのために死になさいって」
「お母さん……」
いつも優しかった母の顔は、今は人形のように温かみを感じず、作り物めいた瞳がマキを見つめ続けている。
「あなたは神様に選ばれたの。だから私が死ぬの」
お母さんにかかる影が、深く濃くなっていく。
お母さんがじっと、マキを見つめている。
「お母さん、いやだ……」
怖い。
母が、母でないようで怖い。
知っているものが、どんどん消えていくようで怖い。
「神様が言うの」
だから私が死ぬの。
「あなたが選ばれたの」
こんな口調じゃない。お母さんはこんな事言わない。お母さんは消えたりしない。お母さんは――
「死んだりなんか……」
声にならない。喉の奥に、冷たい何かが差し込まれていくようで、声が出ない。
黒い影は、今やお母さんの身体の大部分を呑み込みつつある。
「私が死ぬの」
機械的に、その口が動く。
「私が」
――あなたのせいで。
「お母さん!」
「死ぬの」
ふっと、黒い影がお母さんの上を通り過ぎたかと思うと、そこにはもう誰もいなかった。
「あ、あ……」
がたん、という音がした。
弾かれたように、マキは音がしたほうを見る。お父さんの背中が見えた。
「お父さん! お母さんが消えちゃった!」
お父さんは返事をしない。マキは急いで廊下に出る。
お父さんは階段を下りるところだった。廊下が暗いせいで、お父さんの顔が見えない。
「お父さん、待って! お母さんが消えちゃったの!」
お父さんは返事をしない。
ただ、階段を下りていく足音だけが響いている。
その音も、唐突に消え去った。お父さんが下りていった階段は影も形もなかった。そもそもマキの家は二階建てで地下室などはない。気が付けば、二階へ行く階段も消えている。階段だけではない。スーツケースも、下駄箱も、靴も、玄関の鉢植えも、何もかもが幻のように次々と消えていく。
行かなければ。
助けを呼ばなければ。
マキは慌てて、まだ消えていない自分の靴に足を突っ込み、履き切れないまま玄関のドアを開ける。
学校だ。学校に行けば、先生や友達がいる。お母さんとお父さんが消えてしまった事を伝えて、助けてもらわなければ。
急げ。急げ。急げ。マキは夕暮れの、赤すぎる夕日の照る世界に飛び出す。
クレマチス・エルフはベッドの上で、ふと目を覚ます。
身体はまだ本調子ではない。どこか大事な部分、根幹を支えていた歯車のようなものが壊れてしまったような感覚がある。食欲はなく、またすぐに眠りたいという思いがあった。だが、一度目覚めてしまうと忘れていたはずの痛みもまた甦り、鈍く身体を苛み始める。
「薬が切れたようだね」
ドアが開き、ニールスが入ってきた。まだ比較的新しめのローブに着替え、手には薬瓶の載った盆を持っている。
ここは七ツ森第三の森にある彼の家だ。クレマチスの師、ニールス・ユーダリルの。
「心配するな。ゆっくりとだが身体は回復している。この薬を飲めば、またすぐに眠れるさ」
ニールスは盆を置くと、薬瓶の中身をコップに注いだ。
「魔力を……感じませんわ」
「弱っている。とても。奥義を使ったからね。復帰するには少し時間がかかるだろうが、焦る必要はない。……身体を起こすよ」
師匠の手を借りながら、クレマチスは何とか上半身を起こすと、ニールスから薬の入ったコップを受け取り、少しずつ飲む。
「スコルも森の中で休んでいる。ほかの狼たちも」
「……師よ。あの子は、どうしています?」
クレマチスはニールスの顔を見た。
長い付き合いだが、未だにその思考の全てを顔から読み取れた事はない。
「……渡瀬マキも無事だ。治療は施してある。だが、彼女は身体の傷よりも心の傷のほうが深刻だ」
「マキさんの……ご両親は」
「探している。マーティンにクエンティン、ほかの犠牲者も。……今はよそう。薬を飲み干して休め、クレマチス。君はまだまだ眠る必要がある」
確かに、会話を続けるには体力が足りなかった。クレマチスは残った薬を飲み干すと、ベッドの脇にコップを置いた。
「師よ。どうかあの子を……マキさんを頼みます」
「わかっている」
身体が休息を求めている。とてつもない眠気がやってくる。目を閉じる。意識が、眠りに落ちる。
「おやすみ。クレマチス」
ニールス・ユーダリルは、盆の上にコップを載せ、部屋を出る。
家にはいくつかの部屋があり、廊下を曲がって突き当りがマキの眠る部屋だ。ドアには青い魔法陣が描かれ、部屋全体を魔術が覆っている。
魔力を制御できない者が夢の中にいる時、無意識のうちに現実に影響を及ぼしてしまう事はままある。何より、大神の加護を受けているという少女の秘めた魔力は未知数で、ニールスとしても無闇に家を壊されないためには部屋自体を一度封印する必要があった。
部屋の内側から音が聞こえる。魔力の弾ける音が。
「様子はどうだい? アウストリ」
ニールスが声をかけると、壁の中からぬらりと丸みを帯びた影が現れた。
継ぎ接ぎの布切れのようなものをその身に纏ってはいるが、それは人ではなかった。頭部に当たる部分には二本角が生えたような頭巾を被り、上半身には二本の腕もあるが、下半身は日本の幽霊か、漫画の吹き出しのようにすぼんでいた。全身の色は黒で、口も鼻も耳もないが、両目に当たる箇所には二等辺三角形の記号めいたものがついており、それらが翡翠色に光っている。
『中は魔力高揚によって暴発した魔力が檻を作っています。娘が目覚める様子はありません。ニールス様』
使い魔が答えた。
ニールスがアウストリと名付けたこの使い魔は、元は妖精の一種であったが、ニールスによって新たな身体を与えられ、この魔術溢れる家のあらゆる場所に出入りできる権能を持つ。たとえ封印した部屋であっても、同じ事だ。
「夢の中で大神に捕まったか。仕方ない。僕は泉の間に行く。何とか夢に介入してみよう。アウストリ、君は引き続き彼女を見ていてやってくれ」
『承知しました。我が主』
使い魔が一礼する。
ニールスは泉の間に向かう前に、扉に描かれた魔法陣に触れた。僅かに、がたついている。もし、マキの力がたとえ一瞬でも増す事があれば、あるいはこの部屋の封印さえ破るかもしれない。
だが、その時、彼女の力が彼女自身の制御下にあるとは限らない。
「渡瀬マキ。悪夢を抜けて、戻ってくるんだ。この世界へ」
世界は夕日の橙色と、漆黒の影の色に分かたれている。マキは学校を目指して走り続ける。どこを見ても人の姿はない。
もうすぐ日が暮れるだろう。夜になれば、何も見えなくなるだろう。そうなれば影はざわめき、暗い闇の中には、怪物どもが蠢くだろう。
走る。鬱蒼とした森に入る。知らない道だ。しかし道は続いている。
道端に、切り株があった。その上に、長い柄のついたランプが載っている。角のあるガラス瓶に、小さな屋根のついたランプ。
ランプなど、使った事がない。でもわかる。火を着ければいい。ライターもマッチも、触った事がない。でもできる。自分の中にある魔法の光を知っている。
手をかざすと、ランプの明かりが灯った。丸みを帯びた多角形のガラス瓶の中に、冷たく仄かな光が宿る。
道を急ぐ。
走るたびに靴音が響く。不思議な感覚だ。学校までの道のりが記憶と違う気がするが、進む先に学校がある事だけはわかる。そこに行けばクラスメイトがいる。先生がいる。助けてもらえるはずだ。お父さんもお母さんも消えてしまった。一人ではどうする事もできない。誰かに、助けてもらわなければ。
ようやく、校舎が見えた。小さな裏門から入り、裏庭の抜け、校庭へ。
「誰か。誰かいませんか。アカリちゃん、ヒロミちゃん、ルミちゃん、いませんか」
気が付けば、校庭には人影があった。大勢いる。まるで校舎の影から生まれ出てくるかのように。真っ黒い人影。皆、マキには気付いた様子もなく、遊び続けている。
「先生いませんか。泉先生、いませんか」
返事はない。先生らしい影も、クラスメイトらしい影も、マキに気付いた様子はない。
代わりに、はっきりと見えたものがあった。校庭に、四本脚の大きな獣が入り込んでいる。
「駄目!」
獣が先生に、クラスメイトに近付いていく。マキは長い柄を振り回し、ランプの光で獣を追い払おうとする。ずっとこうしてきた。怪物なんて怖くなかった。マキの手には魔法の光がある。
獣が嗤っている。その口が、人間のように動く。その身体が揺れる。吊るされたように。大きな樹木が見える。獣は、もはや獣ではない。人の形をしている。血が滴る。風が吹いている。樹木に吊るされた者の胴体には、長い物が突き刺さっていて、その身が血を滴らせながら風に揺れる。
どう彫るか、知っているか。
どう解くか、知っているか。
どう描くか、知っているか。
どう試すか、知っているか。
どう祈るか、知っているか。
どう殺すか、知っているか。
どう供えるか、知っているか。
どう生贄を捧げるか、知っているか。
それは風の音なのか。吊るされた者が囁くのか。見知らぬ人物の声がマキの耳に響き続ける。
「知らない! 知らない! わたしはお父さんとお母さんを助けなきゃいけないの。誰か助けてくれないの? できないなら、わたし帰らなきゃ。家に帰って、お父さんとお母さんを探さなきゃ」
誰もいない。何もない。お前を待つ者も、お前が探す者も、何処にもいはしない。
見知らぬ声が、囁く。
獣は人の形となり、大きな樹木の根元に腰を下ろしていた。老人だった。髪は長く、白い髭を蓄え、裾の長いマントを身に着け、鍔の広い帽子を被った老人が。
お前を助ける者は、お前の世界にはいない。
何故なら、お前が助ける者だったからだ。お前自身が皆を助けなければならなかったからだ。
「知らない。そんなの無理。わたしには無理。大人ができない事が、どうして子どものわたしにできるの?」
人影が消えていく。遊具が消えていく。校舎が消え、太陽が沈む。
「帰らなきゃ。家に帰らなきゃ――」
踵を返す。老人に背を向け、来た道へと振り返る。帰らなきゃ。青い灯を頼りに、人気のない街を抜けて、家に。
夕日の向こうから、何かがやってくる。
大きな、大きなもの。
鳥だ。
両翼を広げた、黄昏時の鳥。傷の白鳥。
「鴉……」
巨大な鴉が、口を開ける。夕日が落ちる。街並みが消える。マキの知る全ての世界が去っていく。
「嫌だ……」
帰る?
老人が言った。
お前の家がどこにある?
呑まれる。マキの身体が。鴉の口に。見えたのは闇だけだ。果てしなく広がる深い深い闇だけだ。青い光はもう見えない。マキがこれまで生きた十年間が、鴉の内の闇の中で溶けていく。




