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『七ツ森』 12

     12


 転送の最中に感じたのは、異様な感覚だった。まるで自分という存在や認識が全て紐のように(ほど)けて、周囲の情報の中に混ざりあっていくかのような。未知のトンネルを強力な力によって押されながら進み、一分、あるいは数十秒にも満たない時間がドロドロの感覚の中で引き伸ばされていく。見てはいけないものを見ている感覚。世界の裏側、どうやって全ての事象が存在しているのかを無理矢理見させられている。


 魔力でできた通路を抜けて、霧の路上に投げ出された奈央子は、初め、自分が何者なのかさえ忘れそうだった。渡瀬奈央子という人間の記憶、細胞の一つ一つが、あっという間に組み立てなおされていく。ものの五秒もしないうちに、奈央子は吐き気を感じて思わす立ち上がり、道の端に胃の中身をぶちまける。


「げほっ……はあ、はあ……」


 呼吸を整える。思わず、袖口で口を拭う。嫌だ、という感情が強く心のうちにある。もう嫌だ。こんな目に遭うのは、もう嫌だ……。


「……マキ」


 顔を上げる。頭の中はぐちゃぐちゃで思考も感情もあらん限り叫び声を上げているような状態だったが、それでもたった一つだけ正気を保ったものが、奈央子を現実に引き戻した。


「……マキ、どこ」


 娘がいない。

 すぐそばにいたはずの、マキの姿がない。


「嘘……」


 立ち上がる。力は、まだ入る。

 今や霧の世界はおどろおどろしい瘴気の渦へと姿を変えていた。霧は深く、さらにその中から漆黒の闇が迫ってきて、視界は刻一刻と失われていく。そして、この世に存在する一切の悪しきものが、闇と霧の奥から奈央子を見つめているかのようだった。


 探さなければ。奈央子は震える足で一歩を踏み出す。しかし、どこへ。前方も後方も判然としない。目を凝らす。何か、何かないだろうか。


「マキ……マキ! どこ!」


 声を張り上げる。無闇矢鱈に、歩く。マキの名を呼ぶ。

 どこ。どこにいるの。


「マキ!」


 何か、見えた。

 闇と霧の中で、何かが光った。

 ピンク色の光。それが、少し離れた地面の上で、チラチラと光っている。

 あの石だ。奈央子は直感した。

 歩く。微かな光に向かって。奈央子を取り囲む闇と霧はその濃さを増し、彼女を押し潰そうとするかのように、ゆっくりと迫っている。



 敦は、ただひたすらに足を動かしていた。巨狼が走った道を、全力で逆走する。

 シクラメン色の燐光は、まだ敦の身体を包んでいる。夜の雪原よりも冷たいこの霧の中で、燐光は敦の体温を保ってくれている。


 視界は非常に悪くなっている。急に太陽が覆い隠されたかのように、白い霧だけでなく闇が迫ってきている。辛うじて、ライターの火を灯しているが行く先など見通せるはずもない。右手に持った拳銃は重く、引き金に指をかけてしまわないよう気を遣う。


 何故だろう。

 何故、暗闇が周囲を覆っているというのに霧が目の前にあるとわかるのだろう。

 気を抜くと、肉体の感覚がなくなりそうになる。魂が抜ける、とでも言うべきか。今、自分は走っているのか、それとも肉体から魂が抜けた状態で物を見ているだけなのか、ふとそんな事を考えてしまう。

 ああ、駄目だ。今はそんな事を考えている場合じゃない。奈央子。マキ。二人の元へ行かなくてはならない。


 拳銃にはまだ弾が入っているのだろうが、敦は拳銃を撃った事などない。ここで怪物に襲われたら、撃った事もない拳銃で、銃弾を当てるほかない。

 ――誰かが、喉に触れている。


「っ!?」


 咄嗟に、敦は拳銃を構えた。あらぬ方向に向かって撃たなかったのは冷静さではなく緊張ゆえに身体が動かなかっただけだ。

 いる。霧のなかに。絹のように軽く、氷のように冷たい何かが。今、確実に敦の首を絞めようとしていた。


「はあっ……はあっ……」


 息が苦しい。喉が詰まって、呼吸ができなくなりそうだ。いや……むしろ、そうなってしまいたい。次の瞬間に命が奪われるかもしれないという恐怖に晒され続けるくらいなら、一瞬で終わらせてほしい。


「……違う!」


 敦は虚空に向かって怒鳴っていた。今度は頭の中に何かがいる。いや、手にも、足にも、邪悪な何者かが敦の身体を取り込もうとしている。


「駄目だ!」


 奈央子とマキの顔を思い出す。走る。まだ走れる。奈央子とマキの顔はすぐさま脳裡に思い描ける。だが、同時に胸の中に巣食った黒いものが敦を侵食している。死。終わる事への恐怖。誰の死? 敦自身の? 


 心臓の音が耳元で鳴っている。ライターが手から滑り落ちる。火が、僅かに太ももを焦がした。火傷の痛みに思わず呻くが、問題はそんな事じゃない。足はまたも止まり、敦の膝からは力が抜けていた。闇の中だというのに、漂う白い霧が見える。その霧の向こうから、夥しい数の目が、敦を見ている。


「あ――あ――」


 拳銃を持つ右手が震える。落ちそうになる拳銃を支えるために左手でがっしりと銃把を掴む。

 銃口を闇に向ける。霧に、敦を見つめる無数の目に向ける。

 震える。


 身体を包んでいたはずの燐光が、いつの間にかなくなっている。

 目玉が近付いてくる。

 目玉が囁いている。奇怪な言葉。敦には理解できぬ言葉を。だがその声が、言葉が聞こえるたび、敦自身が壊されていくのがわかる。

 そう。すでに。この霧の道を引き返した時から。


「死が……」


 手が、動く。敦の意思ではない。誰かの意思によって。

 腕が震える。抗えない。銃口が、目玉ではなく敦の顔へ。顎の下へ。ぴったりと押し付けられる。

 ――ああ。ああ。ああ。駄目だ。駄目だ。駄目だ――


「――うわぁあああっ!」


 ぎりぎりで顎から銃口を外す。身体の軸がぶれた。上方を向いた銃口。弾みで引き金を引く。轟音が闇と霧の世界に響く。


「助けてくれ。助けてくれ。助けてくれ……」


 無数の目玉は、まだ敦を見ている。ただじっと敦を見つめて、壊れるのを待っている。

 どうして。

 どうして、自分たちがこんな目に遭わなければならないのだろう。

 ただの家族だ。ただの、父と母と娘の三人家族だ。

 何故それが、こんな遠い異国の地で化け物どもに襲われなければならない? 自分たちが一体何をしたというのだ。


『――それはその人が歩むべき運命なのです』


 クレマチスの言葉が蘇る。

 運命。

 そんなもの、一体何だって言うんだ。僕らが望んだ事か。奈央子が望んだか。マキが、娘が望んだか。


「助けてくれ……」


 誰か。誰でもいい。だが、誰が? クレマチスはおらず、スコルはおらず、クエンティンもマーティンも死んだ。今、ここには自分ひとりだけ。

 闇の中で孤独になれば、待っているのは。


「見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた」


 目玉たちの囁きが聞こえる。


「おまえおまえおまえおまえおまえおまえおまえ――」


 瞼に爪のようなものが触れる。何者かの指が、敦の手を握って拳銃の向きを変えようとする。


『神よ、何故私を見捨てたのか』


 あの老人は繰り返しそう言っていた。敦には、祈るべき神などいない。銃の持ち主であったクエンティンのように、傍にいてくれる天使もいない。あるのは脳も心も支配する闇。身体を蝕む霧。死への予感――

 ――奈央子。マキ。

 引き金に、指がかかる。


「僕……だけでは」


 ――妻と娘だけは。

 目玉どもがせせら笑っているのが見えた。


「いかない」


 闇の中に光が走った。銃口が自身に向けられるよりも速く、敦は引き金を引いた。再び轟音とともに放たれた銃弾が、今度は目玉どもの潜む闇と霧を貫いていた。


「ぎぃいいいいあぁあああああ」


 闇が、晴れる。敦を包み込んでいた暗黒の重力が解ける。

 片目が、見えない。喉が動かない。身体のあちこちが黒く変色して焼かれたような痛みが苛む。

 敦の身体は呪詛によって蝕まれていた。身体を守っていた燐光は呪いの全てを撥ね退ける事叶わず、心は邪悪な囁きによって破壊されている。


 手は銃把を握ったまま固まっていた。路上に投げ出されたまま、死が近い事だけを静かに悟る。

 怪物の蠢く気配がする。

 あの目玉どもだ。あれらが何であれ、もうすぐ敦を殺すだろう。無残に。永遠に苦しむようなやり方で。


 闇の中に光が見えた。奈央子とマキ。だから引き金を引けた。だが、それだけだ。これ以上は進めない。

ぞる、ぞる。近付いてくる。化け物。邪気が迫ってくるのがわかる。殺すがいい。もうどうせ、動けやしない――……


 遠吠えが聞こえる。

 幻だろうか。助けを求めるあまり、脳が最期に幻聴を聞かせているのか。

 荒々しい足音。今度は遠くからではない、強烈な咆哮が敦の耳に響く。

 影が、跳ぶ。美しき巨狼の影が。

 一瞬。ささくれだった邪気が断末魔の悲鳴を上げ、霧散する。

 ひたひたと、足音がする。

 息の上がった巨大な狼が、敦の顔を見下ろしている。


「スコ……ル……」


 声が、出ない。かろうじて、それらしい音を出しているだけだ。


「連れて……いって……くれ」


 左腕が、僅かに動く。敦は、震える手を狼へと差し出した。



 夢か、現か。どうやらまだこの肉体は存在している。

 呪牢が開かれた。そう、クレマチスは直感した。

 あの鍵。デズモンドが持っていた鍵によって制御されていた呪牢が開かれたのだ。一体何匹集めたのか知らないが、怪物どもは今、己こそが真っ先に自由を得るために、己の牢から出ようとしている真っ最中だ。


 呪力同士の干渉。それによって比較的低位の怪物どもを呼ぶ召喚陣であった霧が乱されている。霧に紛れた闇の広がりは、呪力の広がりだ。このままでは、ほどなく全てを呑み込むだろう。

 師よ。森に住む師よ。早く、早く。


 クレマチスはもう動けない。術の起動に使ったルーンを刻んだ奥歯は砕けていて、話すのも難しい。

 ――遠くから、足音が聞こえる。

 知っている音だ。クレマチスとともに育ち、クレマチスとともに生きてきた相棒の足音。


 トトン、と。クレマチスは路面を指で叩く。

 行け。わたしの事はいい。誰かを連れているのだろう。行け。わたしには構わず。一刻も早く、その人を目的の場所へ届けるといい。


 闇が迫ってきた。呪牢の一つが破られる。周囲はやがて完全に闇に落ち、クレマチスは怪物の餌食となるだろう。もういい。やるべき務めは、もう果たした。あとは師が、不出来な弟子の仕事を仕上げてくれる。

 だから、友よ。わたしには構わず。


「……行きなさい」


 スコル。行け。あの娘に持たせた、太陽(シゲル)の輝きを追って。

 ああ。暗闇の中に光が見える。

 果ての空に尾を引く、彗星のような光が見える。



 懐に光り輝くルーン・ストーンを抱え、奈央子は闇と霧の道を進む。

 赤い光が闇に混じる。怨嗟の声が合唱している。さようなら。この世界に向かって。さようなら。

 あなたを探している。奈央子は歩みを進める。


 きっとこの暗闇の中で、呪怨の世界で、惑乱の霧の中で、心細く、たった一人でいるであろう、あなたを探している。

 思えば、遠くまで来てしまった。


 これが何故普通の家族に許された、普通の旅でなかったのか。

 奈央子の人生では、ここで起きた事は計り知れない。とても自分の問いに対して答えが見つかるとは思えない。


 足を引き摺る。どこかで怪我をしたらしい。

 身体が重い。知らぬ間に絡んだ運命を引き摺っているかのように。


「マキ――」


 叫ぶ。叫んだつもりなのに、奈央子の声は闇に呑まれていく。


「マキ――」


 見える。

 闇の中で、仄かに輝くターコイズブルー。空と海を併せ持つような青の色。


「見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた」

「見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた」


 ああ、駄目だ。邪悪なものが迫っている。

 あの子の輝きを食い物にしようと、邪悪なものが娘に迫っている。


「離れろ!」


 奈央子は手に持ったルーン・ストーンを振るう。

 動かない足を動かし、急ぐ。邪悪なものが近付かないように。呪わせなどしないように。

 奈央子と敦の娘を不幸になどさせないように。

 遠くで、大砲のような音が聞こえる。まるで邪気を祓う鳴弦だ。誰かが、今この瞬間、呪いを祓おうとしているのだ。


「離れろ! 私の娘から! 私たちの娘から!」


 石を振り回す。ターコイズブルーの光が近い。


「マキ!」


 迷わず、奈央子は娘を抱き締める。身体が冷たい。凍えてしまったのか。


「マキ! マキ! 大丈夫!?」


 顔を見る。白い。だが、まだ息はある。


「……おか……あ」

「大丈夫。話さなくていい」


 奈央子は光るルーンの石をマキに握らせる。魔力でも何でもいい。少しでも体温を戻さないと。

 背後はガードレール。その向こうに広がっているのは闇。

 いや、違う。本当は。もうこの辺りは。


「見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた」

「見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた」


 迫っている。無数の黒い手が。あれら全てが、マキと奈央子を狙っている。闇に引き摺り込み、何度絶叫を上げようとも、この身も魂も引き裂く事を止めないだろう。


「だい……じょう……ぶ」


 マキの小さな手が伸びる。白く、細い腕が伸びる。

 ターコイズブルーの青き輝きを纏って。


「わたし……おかあ……さ……まも……る」


 胸に抱かせた、ルーンの石がいっそう強く光る。

 ――ああ、そうか。

 今が、そうだというのか。


「マキ」


 大砲のような音が聞こえる。誰かが撃っている。戦っている。

 白い光の一条が、闇を裂いてガードレールの向こうへと流れる。


「あなたが大きくなるのを見たかった。あなたが世界を見て回るのを見たかった」


 娘の手を握る。

 その身体を抱える。温かなぬくもりは娘自身の命の温度だ。


「空と海は何処にでもあるの。世界を巡って、確かめて」


 マキの瞳。普段は黄昏色の暖かな瞳。今はターコイズブルーの美しい瞳。

 奈央子は、後ろを振り返る。あの白い光はまだ尾を引いて、闇の中にも道がある事を示している。


「マキ」


 奈央子は、もう一度娘を抱き締めた。


「愛してる」


 次の瞬間、奈央子はガードレールの向こうの闇に向かって、マキの身体を解き放った。



 幼いマキが認識できたのは二つ。

 空中に放り出された浮遊感。

 そして、無数の黒い手が、母親を闇へと引き摺り込んだ、その瞬間。


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