9.くらさきねねこ
風は暖かく、やわらかな陽射しは木々の隙間を縫い、穏やかに足下を照らしていた。
ベンチに腰掛け、暖かい陽射しの中考え事をするのが僕は好きだった。ただ、最近の考え事は決まってあの事ばかり。
下を見ると、そこにはキプスでガチガチに固められた自分の足があった。
交通事故。
それがこんな足になってしまった原因。それは自分の不注意が招いたことだし、仕方ない。ただ、こうして足の怪我程度で済んだのは偏にあの人のお陰だ。
あの服装は高校生かな。
あの人があのとき僕を庇ってくれなかったら、僕はこの程度ではすまなかっただろう。
名前も知らない、僕の命の恩人。
「僕もあんな人になりたい」
それは僕の憧れであり、目標になっていた。あんな風に行動できる人に僕はなりたい。
さて、そろそろ戻ろう。気分転換もできたし。
立て掛けていた松葉杖を取り、立ち上がる。松葉杖はやっぱりまだ慣れない。ぎこちない足取りは、油の切れたロボットみたいだった。
何度見てもおかしな気持ちになる。正直言って、これは好きになれそうにない。
病院というこの場所も苦手だ。相部屋の人もお医者さんも優しい。けれど、どこか澱んだ空気を孕んだこの場所は息が詰まりそうになる。だから僕はよく散歩に出掛けるんだ。病院の敷地内だけだけど、建物の中に居るより幾らか気分が楽になる。
このぎこちない動きを見てお医者さんや看護婦さんは肝を冷やしているみたいだけど。
階段を上って行く。ここが一番危なっかしい場所だ。ここを抜ければ病室はすぐそこだ。階段を上りきり、病室の前の廊下を歩いているときだった。
小さな衝撃と奇妙な浮遊感が僕を襲った。
倒れる。
そう思ったときには、もうどうにもならないほど体勢は傾いていた。足を庇っていてはまともに受け身はとれない。だけれど今から受け身が間に合うとも思えない。
などと考えているうちに、僕は顔面から床に倒れた。
「す、すみません!」
体を起こし、その声の主を見た。
自分と同じくらいの女の子が困惑した表情で立っていた。手には開きっぱなしの本がぶら下がっている。服装からして自分と同じく入院患者のようだった。
「た、立てる?」
女の子が手を差し出す。
病的に白い、華奢な腕だった。正直、掴まっていいのか悩むほど。
「大丈夫?」
「…うん」
その手を握り、女の子の助力を得て僕は立ち上がった。冷たい手だった。
「本を読みながら歩いてたから前が見えてなくて…。本当にごめんなさい」
「ううん、大丈夫。でも、歩きながら本を読むのはやめた方がいいと思うよ」
「そう、だよね。わかってるんだけど、つい…」
肩の辺りで綺麗に揃えられた黒髪が、その病的な白さの肌と相俟ってよく映える。
「あ、そうだ! お詫びと言ってはなんだけど、この本あげるよ」
「え、いいよ。僕あんまり本読まないし。それに君も読んでる途中でしょ?」
「私はもう何回も読んじゃったし、読み始めたらそうでもないって」
女の子は無理矢理僕に本を手渡した。
「それから、私は【君】っていう名前じゃないよ。【倉崎ネネコ】っていうちゃんとした名前があるんだから」
ネネコなんて変わった名前だ。響き的には可愛いけど、おばあちゃんになったら微妙そう。
「あなたは?」
「え?」
「あなたの名前」
「あ、僕は【大羽ハルキ】」
「わかった。よろしくね、ハルキ君」
とても明るい笑顔だった。見とれるほどに。
「う、うん…」
それが倉崎ネネコという女の子との出会いだった。
「じゃあ、本読んだら感想聞かせてね」
そうして倉崎ネネコは走っていった。病院で走るのはまずいんじゃないだろうか。
しばらく見ていると看護婦さんに怒られてる姿を見ることができた。
ペコペコ頭を下げている。あの元気さは病人とは思えないけど。
「それにしても…」
手に握らされた本を見る。
感想聞かせてか…。変な宿題を言い渡されてしまった。あまり分厚くはないみたいだけど、ザッと見た感じ活字ばかり。挿し絵も入ってなさそうだ。漫画なら得意なのに。
僕は自分の病室に戻った。今度は周囲を注意しながら。
***
あれからというもの、倉崎ネネコは僕の病室に顔を出すようになった。場所は看護婦さんに聞いたらしい。来る度来る度、本の内容について質問してくるのだ。おかげでこっちは必死に本を読むはめになった。
質問ばかりされるのも癪なのでこちらも質問し返すことにした。
それで分かったことは、倉崎ネネコは僕より1つ年上の12歳。趣味は読書。ファンタジーものが好きらしい。好きな食べ物はハンバーグ。嫌いな食べ物はニンジン。病室の番号は302号室。入院生活はそこそこ長い模様。
「歳の近い子って周りに居なくてさ。ハルキ君は一つ下だしまだ話も合うかなって」
ベッドの横に椅子を出して、倉崎ネネコはそんなことを言った。
確かに周りにはおじいちゃんおばあちゃん、せいぜい自分の両親ぐらいの人しか居ない。だから話しにくいし、話も合わない。優しく接してはくれるんだけどね。
そうなると倉崎ネネコはずいぶんと話しやすい相手だった。
「ネネコさんとは僕も話しやすいな」
「ははっ、やだ、【ネネコさん】だなんて。私はもう3年くらい学校には行ってないから、ハルキ君より年上だけど学年ではハルキ君のが上だよ」
「そうなの?」
「うん。だから私のことなんて呼び捨てでいいよ」
「んー…」
流石に呼び捨ては気が引けるなぁ。
「ネネコ…、ちゃん」
苦し紛れにちゃんを付け足してしまった。
「うっ、流石にそれは年上としてのプライドが傷付く…」
「…ネネコ、さん。やっぱりこれで許してほしいなぁ」
「ふん、仕方ないなぁ」
ネネコさんはそこでなんとか妥協してくれたようだ。
「それじゃあ今日のお勉強いってみようか。予習はちゃんとしてきたかな」
お勉強というのは、本に関するクイズのことだ。どこまで読むか決められていて、その範囲で問題が出る。
「第一問。主人公のエリオットが宿敵のウォルスに敗れてしまった時、ウォルスがエリオットに言った言葉は何でしょう」
「えっと、確か『お前のその剣は、俺を貫くためのものではなかったのか?』」
「せーかーい! まぁ、この辺は序の口だよね。第二問。ヒロインであるレインのペット、猫のフローラ。さて、フローラの好きな食べ物は?」
「『レイン特製ねこまんま』」
「正解。即答だったね」
「うん、あの無駄に細かい描写のおかげで…」
「余談だけど、猫っていいよね」
「そう?」
「うん。あの気ままに生きてる姿がなんだかいいなぁ。それにかわいいし」
「うーん。僕はペットにするなら鳥の方がいいな。やっぱり空を飛ぶのってかっこいいし。小鳥ならかわいいし」
「猫のがいいって」
「鳥がいいよ」
「猫がいい!」
「鳥がいい!」
「猫っ!!」
「鳥っ!!」
しばしいがみ合う。
「意見の相違だね」
「そうだね」
「じゃあ第三問」
「ええっ!?」
「だって押し付けあっても意味ないでしょ」
「それはそうだけど」
「それに、せっかくできた友達とケンカしたくないし」
ああそうか。僕は退院できたら学校に友達が居る。でもネネコさんはこの病院では一人ぼっちなんだ。同じ年頃の友達なんて簡単にできないんだ。
「前にも、友達ができたことがあったんだけど。結構仲良くしてたんだ。…その子、退院したらそれっきりでさ」
僕も退院したら病院には来なくなるんだろう。だって、病気でもないのに病院に来るなんて嫌だ。それに僕はこの場所の空気が嫌いだ。薬臭くて澱んでいるこの空気。好きにはなれない。
「また来てねって約束したのに。やっぱり、ちょっとの付き合いじゃ友達になんてなれないのかな」
「たぶんそう思う」
「…そう、だよね」
たまたま公園で遊んだ子と次の日遊んだりするかな。名前も知らない子。たぶん次の日に公園に行ってもその子は居ない。いつ来るか分からないし、それなら僕は他の場所に行くと思う。一時だけの遊び相手。
それは今の僕とネネコさんみたいなものなんじゃないかな。
「ハルキ君も私のコト忘れちゃう?」
「…そうかも」
ネネコさんは俯いた。
ネネコさんがどんな理由で入院してるかは知らない。だけど、たぶん僕の方が先に退院するんだと思う。僕の家は隣町にある。この病院までは車で片道三十分もある。そうなったら僕はネネコさんに会わなくなる。そうしたらたぶん忘れてしまうと思う。思い出したとしても病院まで行ったりしないと思う。
「…でも」
それはなんだか寂しい気がする。
「僕はネネコさんのコト、忘れないようにするよ」
「…うん。ありがと」
ネネコさんは少しだけ笑った。
「それで、三問目は?」
「うん、あ、えっと…」
何となく重い空気を感じたので話題を逸らすことにした。ネネコさんの言葉を借りるなら、せっかくできた友達と暗い話なんてしたくない。ということだ。短い時間しか居られないなら、その短い時間全部楽しいものにしていたい。そう思った。
僕は外を散歩する時間より、ネネコさんと自分の部屋を往復する時間の方が長くなった。
***
「あれ、誰だろう」
いつものようにネネコさんの所にやって来ると、見慣れない人達がネネコさんと話していた。
「あ、ハルキ君」
ネネコさんがそう言うと、その人達も僕の方を見た。女の人と、男の人。ネネコさんの両親かと思ったけど、それにしたら男の人は若い。…あれ、この人どこかで見た気がする。
「紹介するね。お母さんとお兄ちゃん」
「倉崎サクラコです。ネネコと仲良くしてもらっているようで」
女の人は頭を下げた。
「倉崎ソウイチ。よろしくな」
お兄さんの方は明るくて元気そうで体が強そうで…。
「ああっ!!」
突然僕が大声を出したので辺りが一瞬静かになる。でもそんなの構ってられない。
「僕を助けてくれたお兄さん!」
霞んでいた記憶がはっきりする。そうだ。この人だ。この人があのとき僕を助けてくれた人だ。
「ああ、そうか。君があのときの」
お兄さんも思い出してくれたようだ。
どうしたのという表情の二人におお兄さんは説明していた。
「へぇ、ハルキ君がお兄ちゃんが助けた子だったんだ」
「これも何かの巡り合わせかしら」
「そうだよ。お兄ちゃんがハルキ君を助けてくれたから友達ができたんだもん」
「おおっ、俺すげぇ!」
すげぇ!っていうか本当にすごいんです。あそこで身を呈して飛び出る勇気と覚悟。そのおかげで今の僕がこうして生きていられるんだから。本当にかっこよかったんだ。
「そうだハルキ君、リンゴ食べようよ。お母さんが剥いてくれたんだ。ほら、ウサギ型のやつ」
ネネコさんが差し出したお皿には、あの耳がピョコンと立ったリンゴが並べてあった。赤い耳のウサギだ。それと一緒に耳が短いやつもいる。
「こっちは猫さん」
…には見えないけど。耳が短いだけで形一緒だし。
ネネコさんのお母さんとお兄さんは苦笑いをしていた。
「よっぽど猫が好きなんだね」
「もちろん。世界中みんなそうだって。絶対」
その自信はいったいどこからやって来るんだろう。世界中みんながそんな意思が共有できるなら戦争とか争いとか無くなってるはずだ。
「それにしても、ネネコが元気そうで安心したわ」
「もちろん。元気が取り…柄…、だ……か…」
ネネコさんのお母さんの顔から血の気が引いていくのがわかった。
「ネネコ!!」
僕は何が起こったのかわからなかった。ただ、ネネコさんが突然その場に突っ伏してしまったこと以外は。
もう少しで最終回だったりします。




