4.さつじんはんすう
ちょっとしつこいお話になっちゃいました。
アクセルを踏む右足は、奇妙なまでに浮わついていた。ハンドルを握る手も汗ばみ、度々手を滑らせる。こんな調子で運転を続ければ、いずれガードレールの向こう側に突っ込んでしまうかもしれない。それでも僕は車を止めることはできなかった。まだ止めるには早すぎる。もっと、もっと遠くへ。
車は暗い山道をひたすら走る。
どこでもいい。誰も来ない場所。誰も居ない場所。
とにかくこの荷物を隠すんだ。
これを隠してしまえばそれで終わる。
…だけど、どこまで走ればいいんだ。
もう道らしき道はない。
アスファルトの道はとうの昔に途切れ、道とも思えない轍が続く。
しかし、轍があるということはこの辺はまだ人が通るのだろう。ここに隠すのはよくない。少しでも可能性があるのならばそれは避けた方がいい。
日付はとっくに変わってしまった。午前二時。こんな時間ならば人が来ることはまず無いんじゃないだろうか。
僕としては一刻も早くこの荷物から離れたい。ただ、焦ってしまっては元も子もない。
ああ、だめだ。もう耐えられない。
車を止める。
ヘッドライトを消すと無限とも思えるような黒が辺りに広がった。
助手席に置いておいた懐中電灯を手に取り、車を降りる。懐中電灯の明かりでは心許ない。だが、暗闇のなか手探りで作業することを考えればその明かりだけでも十分助かる。
さあ、荷物を出来るだけ人の目の届かない場所へ運ぼう。
車のトランクから黒いビニール袋に包んだ荷物を運び出す。僕の丈ほどあるかなり重い荷物だ。
担いで運ぶが、山道というのも相俟ってなかなか進まない。
こんなに重たいなら海にすればよかったかな。
けれど今更そんなことを思っても仕方ない。もうこんな山奥まで来てしまった。引き返せない。絶対に引き返してはいけない。これを最後までやり遂げなければいけない。僕はまだ暗闇に落ちてしまいたくはない。それは嫌だ。
車がギリギリ見える位置まで行き、荷物を山の斜面に置いた。転がってしまわないように慎重に荷物を置く。ここから一旦車へ引き返して道具を持ってこなければならない。
下りは登りと違ってずいぶん楽だった。
車まで戻ると僕は一息ついた。一気に体の力が抜けるようだった。重圧から逃れられた解放感。
もう帰ってしまおうか。
ふとそんなことが頭をよぎる。
かなりの山奥だ。あの荷物がそう簡単に見つかるとは思えない。そうだ。一刻も早くあの荷物から離れた方がいい。あれは傍に置いてはいけないもの。傍にあってはならないもの。離れよう。今すぐに。
………。
…いや。
だめだ。
あれを埋めなければならない。野犬も掘り返せないほど深く、深く、深く。
車の後部座席からスコップを持ち出す。
重い。
さっきの荷物に比べると羽根のように軽いはずなのに、鉛の塊を引きずっているかのような感覚を覚える。
ずり、ずり、ずり、ずり…。
僕が足を踏み出す度にスコップが地面に引きずられる音が暗闇に響いた。
生命の息吹き感じる森に響くその無機質な音は、僕の心を削り落としていく音なのだろうか。
僕は今確実に人じゃないものに近づいている。きっとこの音が聞こえなくなる頃には、僕はもう消えてしまっているだろう。
心無い人形に成り果て、虚無をひたすら貪り続け、生とも死ともとれない曖昧な境界にずぶりずぶりと沈んでゆく。
考えもしなかった。自分がこんなに重いものを引きずってしまうなんて。
スコップを地面に突き立てる。
サクッと乾いた音がした。
再びスコップを地面に突き立てる。
今度はベチャッと湿った音がした。
その作業は単調で、愚かで、つまらなくて、罪深い。
知っている。
これはいけないことだ。子供でも知っている悪いことだ。
知らなかった。
その悪いことは簡単にできてしまう。ただ一瞬我を忘れるだけで。
乾いた音、湿った音、乾いた音、湿った音、湿った音…。
―――どれくらい経ったろう。
そこには地獄へ通じる穴があった。
深い深い黒い穴。
ここにあれを落とす。
ここにあれを埋める。
ここにあいつを埋める。
黒いビニールに包んだあいつを引きずり、穴の中へ突き落とした。
闇はすっぽりとあいつを呑み込んだ。咀嚼せず、味わうことなく、ひとのみにした。
聞こえない。
深淵から聞こえる深怨の声など聞こえるはずがない。
僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。
掘り出した土を穴に捨てていく。
一回…、二回…、三回…。
いくら捨てても穴は口を開けたまま天を仰いでいる。
五十五…、五十六…、五十七…。
あと幾つ捨てればいい。全部か。全てこの穴に捨ててしまえばいいのか。
百七十八…、百七十九…、百八十…。
もう数も数えられなくなった頃、ようやく穴はその口を塞いだ。
僕の横にはまだ掘り返した土が少し残っている。
当然だ。掘り出した分より埋めた分の方が多いのだから。
でも、これで全部終わりだ。終いだ。終わったんだ。二度と始まることはない。終わりだ。ここから先はない。道を経たれてしまった。道を経ってしまった。
気分が悪い。
あれから何も食べてないのに胃の中のものが全部逆流してきそうだ。
だめだ。
吐くな。
証拠は少しでも残したくない。
僕はここに居なかったんだ。居てはいけないんだ。居るはずないんだ。
さあ、全部終わったのだろう?
動け。ここを離れろ。
歩け。ここを忘れろ。
走れ。ここから逃げろ。
そうだ。このまま日常に逃げ込めばお前は助かる。その後は今まで通り生きていけばいい。
あいつの居ない日常だ。
どんなに気楽だろう。どんなに素敵だろう。どんなに素晴らしいだろう。もう煩わしい思いをしなくていい。
あいつは居なくなった。あいつは居なかった。最初から存在しなかったんだ。居ない人間の事なんて考えても仕方ないだろう?
でも、あいつはそこに…。
何を言っている。どこにあいつが居るんだ?
僕が埋めたんだ。全部その穴に。
あいつを埋めた穴なんてどこにも無いじゃないか。仮にそんな穴があったとして、あいつは勝手にその穴に入っただけの話だろう?
そうだ。
あいつが勝手に。
僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は悪くない。僕は…。
深呼吸をする。
気分は落ち着かない。
奇妙な高揚と果てしない後悔。二つの感覚が入り交じり、不協和音を奏でる。躁鬱とはこんな感じなのだろうか。わからない。でもこの異常な状況下ではどうでもいいことだ。
車まで引き返す。足取りは重い。
車に乗ると、どっと疲れが押し寄せてきたようだ。眠い。でもだめだ。まだ眠れない。アレも捨ててこなくてはならない。今はもう乾いてしまったが、調べられたら一発でわかってしまう。赤黒い液体のついたアレ。あいつを埋めるのに使ったスコップも一緒に捨てる。土を調べられてもばれる。靴も、服も、全部だ。
証拠は残すな。
『頃合いか』
その声にはっとする。
後部座席に誰か居る。
「だ、誰だ…」
『そう身構えるな。儂には何もできぬ』
バックミラーには何も映っていない。だが声はする。一体何が居るんだ。
「要求は何だ」
『要求? …そうじゃな。強いて言うなら、主がなぜこんなことをしておるのか聞きたい』
「こんなこと?」
『そうじゃ。この愚かで不利益な行為のことじゃよ』
「さあな。とっさの行動だったから覚えてないよ」
『違う。儂が聞きたいのはそんなことではない』
「じゃあなんだよ」
少し間が空く。何を考えてるんだ。
『まさか主、区別がついておらんのか?』
「区別? なんのことだ」
『愚かな。主は現実にこんな生き物が居ると思うのか?』
運転席と助手席の間を何かが通る。人、にしてはずいぶんと小さい。
それは助手席に座った。
「な、何だお前は?!」
どら猫。だが、羽が生えている。
『【はねこ】。そう名乗っておる。可愛らしい名じゃろう?』
「夢だ。こんなふざけた生き物いるはずがない!」
『そうじゃな。夢に近しい。それに、このような状況。主としても夢であった方がよかろう?』
「これが夢…、とでも言うのか?」
『正確には夢ではない。現実の主は虚ろな状態じゃろうがな』
何を言ってる。
『じゃから儂は問うたのじゃ。なぜ自ら心を削るような愚かな行為をしておるのかと』
何を言っているのか理解できない。
『四回じゃ。儂はここに来てから主のこの愚かな行為を四度見た。全く同じ行為をな』
「四回?!」
馬鹿な。僕は確かにあいつをコロシた。コロシてしまった。だからあいつを埋めに来たんだ。自らの罪を隠すために。僕がコロシたのは後にも先にもあいつだけ。なのに四回?
僕は本当にあいつを埋めたのか?
僕は本当にあいつをコロシてしまったのか?
事の整理が追い付かない。頭の中をスプーンでかき混ぜられるみたいだ。混ざらないものを無理矢理混ぜようとする。気分が悪い。
僕は四度も【なに】をコロシた。考えれば考えるほど頭はぐちゃぐちゃになる。
『助けてやろうか?』
「助ける、だと?」
『頭の整理をつけられないのじゃろう?』
お見通しか。小さな生き物が上から見下ろしやがって。
「断る」
『ふむ。主を捨て置くのは簡単じゃが、それでは儂の寝覚めが悪いのでな。ヒントだけやろう』
「………」
『もう一回最初からやり直してみるか』
猫が言った言葉には何か引っ掛かるものがあった。
『一回目の時の最後。主が言った言葉じゃ』
最初からやり直す。
なにを?
話の流れから察するならば、この殺人をやり直す。そういった意味になる。
なぜやり直しが効く?
ゲームじゃないんだぞこれは。リセットできるのか? そんなことあるはずがない。僕が漫画のような能力を身に付けていないのなら、答えはただひとつ。
「妄想…」
『思い出したようじゃな』
そうだ。僕はあいつに殺意を持った。そしてもし殺すならとシミュレーションしたんだ。
一度、二度と。
たぶん三度目にはこれが自分の頭で行っているということを忘れかけていた。
そして四度目に…。
「こ、殺すつもりなんてないんだ。あいつにちょっとイラついただけなんだ。でも本当に殺したりなんて!」
『分かっておる。主はそんなことできぬよ』
「そ、そんなことない。僕は…、想像とはいえこんなことを…」
『儂が現れたとき、主は要求は?と訪ねた。この人気の無い山奥じゃ。殺そうと思えば殺せたはず。じゃが主はそうしなかった。主は殺しが愚かな事だと分かっておる。それは大切なことじゃよ』
「許してくれるのか?」
『許すもなにも、主は何もしておらぬ。それをどうして責められようか』
「すまない…」
『その言葉は想像の中で四度も殺してしまった者に言うんじゃな』
***
テレビがつけっぱなしになっていた。つまらないワイドショーが淡々と放送されている。
ぼんやりとした頭で立ち上がる。台所まで行き、コップに水を汲むと一気に飲み干した。生き返るとはこの事だ。あれは生きた心地がしない。最悪だ。
妄想でよかったと心底思った。
―ピンポン…
インターホンが鳴る。誰か来たようだ。
時計を見る。午後七時。
除き穴から外を見る。
外には男が一人立っていた。 その男は見知った顔だったのでドアの鍵を開けた。
「何の用だ」
「ちょっと話ある」
「……まぁ、上がれよ」
この男は東条。
妹の夫、だった。
東条を居間へ通す。
彼はソファに座ると、ポケットからタバコを出し、それに火を点けた。
「それで。用ってのは?」
「ヒロコとよりを戻したい」
「………」
「やっぱりあいつじゃないと合わないんだわ」
何を言ってるんだこいつ。
「他の女と付き合っても全然ツマンねぇんだよ」
何を言い腐ってんだこの畜生は。
「俺を分かってくれてたのはあいつだけだ」
ヒロコはお前のために…。
「あんときの俺はどうかしてたんだよ。あいつが逆らったから少し頭に来ただけなんだ」
こんな男のために。
ヒロコは毎日働いて、その金をお前の酒代とギャンブル費にあてていたんだぞ。お前がいつの日かまっとうに生きてくれると信じて。毎日毎日。来る日も来る日も。夜遅くまで。
「ほら、俺ら相性よかったじゃん? あっちもさ」
東条は汚ならしく笑う。
相性がよかっただと。お前は外に別の女を作った挙げ句、ヒロコを捨てたじゃないか。
「なぁ、口利いてくんないかな、お兄さん」
「……だよ」
「は?」
「ヒロコは、死んだよ!」
「なに?」
お前と別れてすぐだった。あいつは限界だったんだ。もともと体も強かったわけじゃない。だがヒロコはそんな身体に鞭打ってお前のために働き、お前のために身を捧げた。
「死ぬときまでお前の心配をしてたよ。あいつは本当にお前を愛していたんだ」
お前だけを愛していたんだ。兄として悔しいほどに。
「死んだ、のか…」
「そうだ」
だから…。
「馬鹿な女」
なんだと?
「しゃーねえ。他をあたるか」
東条はタバコを灰皿に押し付けた。
「まぁ、死んじまったもんは仕方ねえしな。一時とはいえ俺の女になれて幸せだったんじゃねえの」
幸せだっただと?
どの口がそんなことを言っている。どの口がそんな音を出している。
「はぁ、ここに来た時間が無駄になっちまった」
無駄…、だと…?
「ふ……るな…」
「ああ?」
お前の口から一言でも謝罪の言葉が聞けたらと。お前の言葉から少しでも後悔の念が感じられたらと。
「ふざけるな!!」
「あんだと?」
「僕はヒロコが信じたお前を信じようと思った。どんなに憎らしくとも恨むまいと思った。ヒロコがそんなこと望むはずがないからだ。だが、お前はあの時だけならず、今もこうしてヒロコの思いを踏みにじった!」
「何説教たれてんだ、てめぇ!」
東条は僕の胸ぐらを掴み、そして思いっきり殴った。
僕の体は壁に打ち付けられ、床に崩れた。
「妹が妹なら兄貴も兄貴だな! 弱いくせに俺に指図しやがって!」
「ヒロコは、お前なんかよりずっと強い…」
「黙れクソ野郎! もっと痛い目みてえのか?! ああ!?」
東条は僕を蹴り飛ばし、馬乗りになって僕を殴り続けた。
意識は半分くらい飛んでしまっている。だが、気絶するわけにはいかない。気絶すればヒロコが強いということを証明できなくなる。
時間にすればほんの短時間だったろう。だけど、僕には本当に長い時間だった。
その間に色々考えた。自分のこと、東条のこと、ヒロコのこと。何のために僕は殴られているのだろう。
時折分からなくなることがある。なぜヒロコが死ななければならなかったのか。なぜこの男が生きているのか。
「ハァ…ハァ…、もう懲りたか…?」
「………」
今の僕には口を開く力さえなかった。
「じゃあな。ヒロコのやつにもよろしく言っといてくれ。てめぇは最高にウザったいブス女だったってな。はっはっは!」
なぜヒロコは死に、なぜこの男は生きているのか。
なぜ僕は生きているのか。
東条が玄関へ向かっていくのが見えた。
「………」
そうか。そうだったんだ。僕はなんてつまらない過ちを冒していたんだろう。
ヒロコが死に、あの男が生き、そして僕が生きている意味。
簡単だ。
簡単すぎて笑いが込み上げてくる。
「ん? ドアが開かねえ。鍵は開いてんのに」
そりゃそうだ。お前が来たとき僕が鍵を壊したんだから。ボロアパートだ。鍵も半分くらいは壊れていた。僕だって閉じ込められたことがある。壊すのは簡単だった。開くはずがない。もしお前の真意を聞いて許すことができたなら、ドアが壊れたことを笑い話にできたんだ。
ドン、ドンと大きな音がする。あいつが体当たりしているのだろう。無駄だ。あいつの頭ではそこまで回らないのか。
僕はゆっくり立ち上がる。
身体を考慮してのことだったが、不思議と痛みはなかった。
さぁて、獲物は逃げない。こんな簡単な狩りがあっていいのだろうか。張り合いがない。
大丈夫。
ここから先は知っている。何度も繰り返したコロシ。四度繰り返したあのコロシ。次は五度目。失敗なんてあり得ない。失敗するわけがない。これは絶対成功する。これは100%成功する。とても簡単なコロシ。今までで一番簡単なコロシ。
何故かって?
そんな単純なことを聞くのかい?
簡単なんだよ。
単純なんだよ。
だって次は…
死体ヲ隠サナクテイインダカラ。
僕ハ台所ニ置イテアッタ包丁ヲ掴ミ、玄関デ試行錯誤シテイルものノ後ロニ立ッタ。
気付イテイナイ。必死ニどあヲ開ケヨウトスル姿ガ滑稽ダ。
「開かナイだろ?」
ソコデ初メテソイツハ僕ナ存在ニ気カ付イタ。ソノ恐怖ニ歪ンダ顔、僕ハ絶対ニ忘レナイヨ。
僕ハ強ク握リ締メタ包丁ヲ振リ上ゲタ…




