1.くうかいぶつ
小さい頃から私は台風が怖くて仕方なかった。ガタガタ鳴る窓、吹き荒ぶ風、叩きつけるような雨。
台風が来ると外にとんでもない怪物がいるのではないかと考えてしまうのだ。その怪物は家を揺さぶって出てきた人を食べてしまうのだと。
そんなことあるはず無いのだけれど、子供の私はそう信じて疑わなかった。
台風の度に泣き出してしまうのだ。「泣き虫ちゃん」とか、「えんえんちゃん」とか呼ばれるほどに。
今でも台風は怖い。
もちろん子供の頃みたいにえんえん泣いたりしないけれど、窓が揺れる度、風が鳴る度、雨が屋根を叩く度、私はピクリと身を強張らせてしまうのだ。
けれども絶対に泣かない。大きくなったというのもあるけど、もうひとつ別の理由がある。
【おとまりほいく】って知ってる? 文字通りお泊まりすること。幼稚園のときにあったの。ホールにみんなが集まっておふとんを敷いて寝るの。
その【おとまりほいく】のときに経験したこと。それがもうひとつの理由なんだ。
***
「はーいみんな。もう寝る時間ですよー」
ユウコ先生が言うと、みんなから「はーいっ!」という元気な返事が返ってきた。
「みんなちゃんとおふとん敷けるかな?」
「はーいっ!」
もちろんだ。わたしはこの日のためにおふとんを敷く練習をしたんだ。
びしっと敷いていいとこ見せなくちゃ。
「ねーねー、ミナちゃん」
ミナちゃんっていうのは私のあだ名で、ほんとの名前は【ミナコ】。
「なぁに? チーちゃん」
ふとんを敷き終わった私に話しかけてきたのは、チーちゃんだった。チーちゃんのほんとの名前は【チサ】。ちっちゃくて名前もチサだから【チーちゃん】とか【チーチ】とか呼ばれてる。
「いっしょに寝よ?」
チーちゃんは私より怖がりだ。夜に一人でトイレに行けないし、寝るときも電気がついてないとダメ。近所のタロウっていう犬も怖いんだって。
怖がりのチーちゃんだけど、泣き虫じゃないんだ。涙目にはなるけどいつもぐっと我慢してる。
台風で泣いちゃう私とは違ってえらいなって思う。
そんなチーちゃんが私は大好き。
「うんっ! いいよ!」
私はがそう答えると、チーちゃんはにっこり笑った。
ふとんを二つ並べる。これでもかってぐらいぴったりくっつけた。
「さぁみんな。先生がお話を読んであげますからねー」
ユウコ先生の声はとても気持ち良くてすぐ寝ちゃっうの。お母さんも優しいけどユウコ先生も大好き。
気がついたらいつの間にか寝ちゃった。
でもその日はちょっと夜中に目が覚めちゃったの。
――ガタガタガタ…
どうして起きちゃったかな…。おしっこに行きたいけど…。
台風が来たみたいに風が強い。雨も降ってる。
「どうしたのミナコちゃん」
起き上がった私を見てユウコ先生がやって来た。
「おしっこ…」
「一人で行ける? 先生も一緒に行こうか?」
私は首を振った。
「そう、じゃあ暗いから気を付けてね?」
私は頷いて廊下に出る。
トイレはホールを出てすぐそこ。
だいじょうぶ。怖くない。
窓はガタガタ震えている。風もビュービュー言っている。雨は屋根を走っていく。
「………うぅ…」
思わず泣きそうになって私は上を向いて口を結んだ。泣いちゃダメだ。泣いちゃダメだ。
―ガタン!
「ひっ…!」
風が窓を強く叩いた。
きっと怪物が餌をおびき出そうとしてるんだ。
先生についてきてもらえばよかった。先生とお話ししていれば、ちょっとだけ勇気を持てたかもしれない。
でも先生に「ついてきて」とは言えなかった。
横で寝てたはずのチーちゃんがいつの間にか起きてて、私を見てたんだ。じっと。
だから私はいいとこ見せるために首を横に振った。
でも、こんなに怖いならいいとこなんて見せなくてよかった。
「…今夜辺り通過するみたいね」
ふと、廊下の奥からそんな声が聞こえた。
あそこは確か【せんせいのへや】だ。勝手に入ると叱られる場所。
明かりのこぼれるその部屋で先生達がおしゃべりしているんだろう。
「親御さんから連絡は?」
「まだ数件ですが電話がありました。迎えに来るそうです」
「やっぱり心配ですものね。台風は逸れるって言ってたんですけどね。急に進路を変えるなんて」
「それぞれのご家庭に連絡を入れて迎えに来ていただきましょう」
「そうですね」
「だ、ダメッ!」
私は思わずそう叫んだ。
「あら、あなたはユウコ先生の組のミナコちゃん。せんせいのへやには入っちゃダメよ?」
「外には怪物がいるの! 出たら食べられちゃうよ!」
私が言うと、先生は顔を見合わせて苦笑した。
「大丈夫よミナコちゃん。これは台風って言ってね、お天気のひとつなの。晴れとか雨とか曇りとか。だから外に怪物なんていないのよ?」
「ダメなの! 怪物がわたしたちを家から追い出して、出たところを食べちゃうの!」
「落ち着いてミナコちゃん。もうすぐおうちの方が迎えに来てくれるから、ね?」
先生は諭すように、優しく私に話しかけてくれる。
でも、ダメなんだ。
台風が怖くて仕方ない。
あの怪物が怖くて仕方ない。
なんでもひと飲みにしてしまうあの怪物が。
「さあ、ミナコちゃん。おふとんに入って寝てようね。大丈夫だから」
私はこくんと頷いた。
先生に言っても分かってもらえない。
外の怪物はあんなに暴れてるのに、あんなに唸ってるのに、どうしてみんな気がつかないの。
『面白いことを言う』
「え?」
突然聞こえた聞いたことの無い声に私は周囲を見渡した。
いつの間にか知らない場所に居た。
ううん。いつの間にかじゃない。
その声を聞いたときにあっという間に景色が変わったんだ。
『ほぉ、この声が聞こえるようじゃな?』
「だれ?」
おかしな景色だ。
私は今まで幼稚園に居たはず。それなのに今は淡い色の水玉がそこら中に散らばった不思議な部屋の中に居る。
声を探しながら少し歩いてみる。
真ん丸な部屋みたいだ。
丸い窓に丸い机と椅子、丸い本棚に丸い布団に丸い座布団、そして丸いドア。
そのドアから外へ出てみる。
するとすぐ前はブロック塀だった。その塀も丸くて、さっき出てきた丸い部屋をぐるりと一周囲っている。出口は無いみたい。
上を見たら空はよく晴れていた。ぽかぽかした陽気できもちいい。
また部屋に戻る。
もう一度部屋を見てまわる。
部屋を一周したあたりで私はその声を見つけた。
丸い本棚の上にぺたりと寝そべっていた。
『儂まで見つけるか。若いのに変わり者じゃな』
「ねこさん…?」
ふわふわした毛をまとったどら猫。
でもちょっと変。
背中には羽が生えている。
『猫ではない。確かに儂は羽から猫が生えとるが猫ではない』
「はねから? ねこからじゃなくて?」
『そうじゃ』
「はねさん?」
『ちがうわい! 確かに羽から猫が生えておるが羽でもない!』
「じゃあなんて呼んだらいいの?」
『儂に名など無い。儂は儂じゃからの』
「わしさん?」
『鷲でもない! 確かに鳥の羽みたいなのから猫が生えておるが断じて鳥ではない!』
「あなたは何?」
『ふむ。確かに固有名詞がないのはちとしんどいかの。羽から猫が生えておるから【はねねこ】かの?』
「こゆうめ…、は…ねねこ?」
『はねねこじゃ』
「んー、…はねこっ!」
『はねねこ! は・ね・ね・こ・じゃ!』
「【はねこ】の方が言いやすいよ?」
『むぅ…。はねこか…。【羽】と【猫】で【はねこ】と読めるし…。じゃが、それでは【羽】の方の字数が【猫】に負けてしまう。羽から猫が生えておる儂としては不本意な…』
「はねこさん。私、幼稚園に帰りたいの。どこに行ったらいいの?」
『心配せんでよい。ここは幼稚園じゃよ』
私は首を振った。
「幼稚園はここじゃないよ」
『主のような幼子に説明しても解らぬかもしれんが、ここは主の中じゃよ。じゃから主自体はちゃんと幼稚園におる』
「ん…、んんー??」
『解らぬならそれでよい。まぁ、そこに座れ』
私は丸い座布団の上に座った。
そして丸い本棚の上に座っているはねこを見る。
『しかし、綺麗な部屋じゃな。まだ形の定まっていない、丸くて円くて素直な部屋じゃ』
「だれのお部屋?」
『主のじゃよ』
「わたしまだ自分のお部屋はないよ? お姉ちゃんはあるけど」
『抽象的な話じゃ。主は解らぬじゃろな』
「んー?」
『そんなことはどうでもよい。しかし、主がここに来たのには意味がある。わかるか?』
私は首を横に振った。
『本来、主ら程度の年齢ならここに来ることはほとんど無い。それが儂の声を聞き、こんなところまでやって来てしまった』
「来ちゃダメなの?」
『そんなことはない。いつでも好きなときに来ればよい。じゃが、主には早すぎる。どうして来たんじゃ?』
「…わかんない」
少し考えたが思い付くことがない。
『主は【台風】が怖かろう?』
「たいふう…」
途端に部屋の外が暗くなった。
窓がガタガタ揺れて、風がビュービュー吹いて、雨が屋根と壁を叩く。
「ひっ…」
でもそれだけじゃない。
三角につり上がった大きな真っ赤な目がギョロリと丸い窓から中を覗いていた。
『ほぉ…。これはこれは』
はねこは感心したように窓の外の目を睨み付けた。
「か、怪物だ…。食べられちゃうよ…」
『確かに、こんな怪物なら主などひと飲みじゃろうな』
「う、うわあぁ」
『泣くな!』
「でも…、ぇぐっ…」
『泣いても彼奴は帰らん。待っても通りすぎん。外の台風とは違うのじゃ。彼奴は主の中におる。ずっとな』
「や、やだよ! 怖いよ! 嫌だよ! 来ないで! 見ないで! 吹かないで! 呼ばないで! 叩かないで! 飛ばさないで! 怖い怖い怖い! あっちいって!!」
『ええい、落ち着かんか! なぜか彼奴は建物中までは入ってこん。じゃから落ち着くんじゃ』
「うぅ…」
上を向いて口を結ぶ。
そうしたら涙は目に戻せるし、声も我慢できる。
『はぁ、本当に素直ないいこじゃ…』
「どうしたら…、いなくなるの?」
『彼奴を倒せばよい』
「倒す…」
『しかし、あれほど巨大な相手をどうするかじゃが…』
はねこさんは難しそうな顔をした。
しばらくしてはねこさんは話し出した。
『外に出てみてはどうじゃ?』
「!!??」
『驚いておるの?』
「だ、ダメだよ。出たら食べられちゃう」
『なぜ食べられてしまうのじゃ?』
「だって、怪物が…」
『どうして怪物に食べられてしまうのじゃ?』
「怪物は人を食べちゃうの!」
『言っても聞かぬか』
はねこさんはため息をついた。
『よかろう。儂が出る』
「ダメだよはねこさん!」
『主に住まう程度の怪物にやられはせん』
「だめ! 外に出ちゃだめ! そういう約束なの!」
はねこさんは足を止めた。
『約束か…』
「あ…」
そう、約束だった。
だから私は怪物を怖れた。台風を怖れた。
約束を守るために設けたルール。
私はその約束を忘れてしまった。そしてルールだけ残った。
そしてそのルールこそが怪物の正体。
私を外に出さないための怪物。
「そうだったよね。お父さん」
台風の夜。
お父さんは出ていった。
近くで土砂崩れがあったらしい。正義感の強い父だった。放っておけなかったのだろう。父は救助を手伝いに言ったのだ。
絶対に出るんじゃないぞ。外には怖い怪物が居るからな。
そう私と母に言い残して。
もちろん怪物なんて居るわけがない。
私を外に出さないための言葉だったのだろう。台風になったら建物に居た方が安全だと言いたかったのだろう。
けれども、相手は子供だ。
今さら自分で言うのも恥ずかしいのだが、私は素直な子だった。はねこさんの言った通りだ。
大好きだった父の発言を私が信じないはずはなかった。
外には怪物が居る。
窓を揺らし、風の鳴き声をあげ、雨で屋根を叩く。そんな怪物。
怪物は確かに居た。居たからお父さんは帰ってこなかった。
ずっと帰ってこなかった。
ずっと、ずっと、帰ってこなかった。
これからも帰ってくることはない。
お父さんは怪物に食べられてしまったのだ。
怪物はお父さんを食べてしまったのだ。
台風の時、外に出ると怪物に食べられてしまうのだ。だから建物の中に居れば大丈夫。
それがルール。
『なるほどな。そんなことが…』
「だから私は外に出られないの。出ちゃだめなの…。お父さんみたいに食べられちゃうから」
はねこさんはやれやれといった顔つきで私に近づいてきた。
『すまぬな。主が幼子ということを忘れておった。主がこの怪物と向き合うには、まだ知恵も勇気も足りぬ。もう少しここで我慢するんじゃ。主の父が言った通り建物中なら安全じゃろうから』
「………」
『儂の声が聞こえればまた会えるじゃろう』
はねこさんはゆっくりと丸いドアへ歩き始めた。
「…どこ、いくの?」
『次の【はこにわ】じゃよ』
「おいてかないで!」
『安心せい。そこは主の父親が守ってくれる。何に代えても絶対にな』
「はねこさん!」
『それからその名、気に入ったので使わせてもらうよ』
「でも外は!」
はねこさんが丸いドアを開ける。
外は呆れ返るほど晴れ渡っていた。
約束を思いだし、天候に成り下がった怪物は、通りすぎてしまったようだ。
―――
――
―
「ミナコちゃん! ミナコちゃん!」
ゆらゆらきもちいい揺さぶりに私は目を覚ました。
「大丈夫? 怖い夢でも見た?」
ユウコ先生だ。
「ずっと泣いてたのよ?」
「わたし、怖い。台風が怖いの」
「台風? 大丈夫。台風は逸れたからこっちには来ないよ?」
耳をすまして辺りを見渡す。窓は揺れてない。風も鳴いていない。雨も降っていない。
「でもおトイレで…」
「ミナコちゃんおトイレに行きたいの?」
「え? あれ? 私…、おふとんに…?」
「大丈夫。ちゃんときれいなおふとんよ」
ユウコ先生はウフフと笑うと私にふとんをかけてくれた。
「さあ、もう一度おやすみ。今度はきっと素敵な夢が見られますよ」
***
私は台風が怖い。
だからこうして今も布団の中で怯えてる。
でも泣かない。
はねこさんが思い出させてくれたから。
大好きなお父さんが私を守ってくれてる。
だから泣かないの。
はねこさん。
あなたの声はまだ聞こえないけど。
またきっと会えるんだよね。
そうしたら今度は、今度こそ私の中の怪物と戦える。
絶対そいつを倒してやるんだ。
だから、あなたの声が聞こえるまで、私はもう少しここで我慢してるの。
お父さんが守ってくれるこの部屋の中で。




