世界の真実
カサルカに身を委ね、星空を見上げる。そして僕は、僕が生きた世界の話を彼女に聞いてもらった。何だか、ひどく久しぶりに言葉を発した様な気がした。全て話し終えた僕に彼女は、「そう…」とだけ言った。彼女の声を聞くのも、久しぶりだった。
夜風が虫達の歌声を運び、満天の星空の天辺には月が輝く。…いや、欠ける事のないその月は“ママ”と呼ぶほうがしっくりとくる。
水晶谷を後にした僕らは、カサルカの丘へと戻ってきていた。記憶を辿る様に旅した道のりを戻り、お互い言葉を発しないままひたすら歩いた。丘に戻り、カサルカに「ただいま」とだけ言った。カサルカは初めて彼女と出会った時と同じ様に、またボクを迎えてくれた。
「…君の嫌った人の欲。結局僕も、その1つだった」
隣に腰を下ろす彼女に話しかけても、どこか遠くの虚空へと語りかけている様な。そんな空しい距離感だけを感じてしまう。
「…」
「騙す心算も、嘘をつく心算も無かったんだ。でも、結局君に黙っていた事には変わらないね」
彼女の悲しみを生み出してしまった事に謝った。今の僕にはそれしか出来ない。僕は、彼女の憂いである“バン”なのだから。
「…貴方の事は怒ったりしていないから」
未だに遠くの夜空を見つめながら、彼女が小さな声で続けた。
「それでも、私はバンを認める事なんて出来ない。Adamとその子達とは違う、“バン”」
そう言って僕の方へと顔を向ける彼女。その瞳には深い哀しみと、拒絶の色に揺れている。
「たとえ罪を背負っていても、Adam達はそれを乗り越えた。
でも、“バン”を持ち、“バン”になってから、もう自身で戻る事は出来なくなってしまった。…だから正したの、約束通りに」
悲しい思い出を語る様に、涙を堪える様に。彼女の嗚咽交じりの声を、夜空は優しく包み込み消していった。
「君はやっぱり…」
そこまで口にして、それから僕は何も言わなかった。今目の前に力無く佇み、涙を流す少女。その正体なんて関係ない。ただ僕は、彼女の哀しみを癒したい。ただそれだけを想った。
人は悲しい時、苦い時、天に祈り縋る。なら彼女は一体何を祈り、誰に縋れるのだろうか…。
僕らを見下ろすカサルカの葉は、夜風に揺れながら優しい音色を奏でていた。
朝。
蒼穹の空に昇る“パパ”が、眠りから醒めたばかりの世界を照らす。オレンジ色に燃える彼方からの閃光が、夜の蒼色を残す野山を真っ赤に染め上げていく。
「…おはよう」
彼女がそう僕に言った。
「おはよう」
僕も彼女にそう言った。また前みたいに…とはいかないけれど、少しは元気になった様で僕は胸を撫で下ろした。こうして自分から喋ってくれたのは、本当に久しぶりだった。
「おはよう、カサルカ」
大樹を見上げ、愛おしげに彼女は言う。
「貴女の“恵み”で、世界の憂いを救ってあげて」
何だかいたたまれなくなった僕は彼女達に背を向け、丘の上から世界を望む。
眩い陽光、蒼穹の青空、波打つ草原。静寂に包まれた幻想的な世界。…でもどこか、寂しくて切ない。はじまりの日を繰り返す世界。
「…“哀しみ”は、どこに流れていくのかな?」
後ろを振り返り、彼女に問いかける。
カサルカが掬い上げ、大地に還すと言う“哀しみ”、彼女を哀しませるそれは、何処へと往くんだろう。
「悲しい記憶達も、哀しい生命達も、みんなみんな大地に還るの。そしてカサルカの根からその身に受け止めてくれるから」
大樹に寄り添う彼女。その表情は、やっと母親に出会えた迷子の様な、不安と安堵の入り混じった顔だった。
「…そうして、大地に還った“世界の憂い”は1つの実を結んだんだね」
そう続けた僕の声に、彼女は静かに頷いた。僕はかつて聞いた、カサルカの本当の“恵み”の事を思い出していた。
「この世界から、人間を…」
そこまで言ってから僕は慎重に言葉を選ぶ。
「いや、“バン”を消したのは君だね?」
風が吹き、空が流れ、雲が“パパ”の恵みを遮り影が生まれる。
彼女がまた小さく頷く。けれども、その眼には先ほどまでとは違う、確かな決意があった。
「…うん」
彼女が小さく頷き、尚も続ける。
「“バン”は失敗だった。もうAdamの頃には戻れない。だから私が、その存在を大地に還したの。それが…、創ってしまった責任だから」
世界から切り離した様に丘を覆う影。吹きすさぶ風は冷たく。
「…そうか。どうりで色の無い世界だと思ったら、この世界には人間が消えた後だったんだね。人間の生み出した…『言葉』を失った世界」
努めて冷静に、そして普段通りに喋れているだろうか?
「貴方の仲間を消した、私が憎い?」
陰の中に沈む彼女の声。もうあの笑顔は戻らない。
「…正直に言えば、君がそうした事も、その憂いも当然だと思う。僕達は、世界を穢し過ぎたんだと思う」
押し黙ったままの彼女。僕は尚も続けた。
「こんなに世界が美しかったなんて、君と出会うまで気づけなかった。いや、僕ら“バン”が居る限り、こんな世界は望めないのかもしれないね」
その言葉に嘘はない。僕は彼女に謝る事はあっても、責める事なんて1つもない。
「…“バン”は欲する心。“バン”は争う魂。
Adamの子がそうだった様に、争いの系譜は“バン”の血の中に生きている」
哀しい瞳が揺れ、雫が零れ落ちる。胸が張り裂けそうになり、僕は叫んだ。
「それは違うよ…!
人は生み出す力。人は愛する想い。間違いを正し生きる事も。分かち合い、共に助け合う事だって出来る。どうか絶望に囚われないで、君の哀しみを僕に教えて欲しい」
通り過ぎた雲の切れ間から、また“パパ”の日差しが覗く。暖かな世界、柔らかな微笑み。その本当の姿を。
空の頂で輝いていた“パパ”も今は傾き、また夜へと向かって過ぎて往く。丘には午後の日差しが降り注ぎ、穏やかな時を過ごしていた。僕らはカサルカに背を預け、世界を眺める。
「…“バン”が貴方みたいな“バン”ばかりならよかったのに」
隣に座る彼女が悲しそうに言った。
「え…。ありがとう…でいいのかな?」
僕はその唐突な切り出しに戸惑い、思わずそう返事を返す。
「そう思っただけだから」
素っ気無い彼女の言葉。
「突然で少し驚いたけど…。君がそう思ってくれただけでも、僕は嬉しいよ」
それでも、生前の僕の行いを知っても尚、僕を認めてくれた事は、本当に嬉しかった。
「突然じゃない。
一緒に旅をして、貴方の生きた記憶を聞いて、貴方の事が少し理解れた気がするの。…だから」
彼女はそこで一旦深く息をつく。
「…だから、貴方の様な“バン”がいてくれた事が嬉しくて…、悔しいの」
そう話す彼女の横顔を見て、僕ははっとなった。
彼女とは対照的に晴れ渡る空の下、未だ影を残す彼女の瞳。その“哀しみ”の理由が、僕は少しわかった様な気がした。
「……」
それでも、それを僕が口にする事は躊躇ってしまう。彼女の心に僕は何処まで触れる事を許してもらえるんだろうか? 結局僕は黙ったままで、彼女は話を続けた。
「“バン”は去るべき者達が多かった。…今でもその想いは変わってない。でも、そうでない“バン”も、こうして居たのね」
僕の方へと微笑みを浮かべ振り向いた彼女。その微笑みは何処か痛々しく、僕の胸を締め付ける。居ても立ってもいられなくなり、僕は思わず口を開いていた。
「君の心は…、人間を消してしまった事を悔やんでいるんじゃないのかな?」
彼女の瞳が一瞬驚いた様に見開かれる、しかしそれも一瞬で、また憂いと哀しみを湛え、悲しい決意を固めた表情へと戻ってしまった。
「…そんな事はない。私は間違って進んでしまった種を摘み取るの。それが、私の責任だから」
「一緒にこの世界を、世界の生命を見たでしょう?
“バン”が去った世界には静寂と自然と、確かな平和がそこに在った筈」
矢継ぎ早に彼女は続ける。まるで、自身に言い聞かせる様に。
「平穏を得る為に、私は幾千幾万もの生命を消した。その行いは“バン”と変わらないかもしれない。それでも私は…、世界を護る為ならば、かまわない」
最後にはそう締めくくった彼女。そしてどっと疲れた様に俯き、華奢なその背をカサルカに預けるとまた黙ってしまった。
「…そっか」
このまま隣に居続けていいものなのか、少し悩む。それでも、今ここから去ってしまうなんて考えはなかった。
「僕はね…。僕は、君が悔やんでさえいなければ、それでもいいんだ」
僕の言葉が予想外だったのか、彼女が少し意外そうな顔を向ける。
「たしかに、君の決断は間違っていないと思う。…僕ならきっと、怖くて尻込みしてしまうだろうけどね」
「…本当に、本当にそう思うの?」
やはり驚いているのか、彼女が僕に問い返す。
「うん、僕はね。…でも君は、本当にそう思っているの?」
僕はもう一度だけ、そう彼女に聞いてみた。…僕の口出しが許される範囲は、ここまでだ。
「それもう仕方が無い事だから。幾ら悔やんでも、それはこの手で消してしまったのだもの。…消えた生命を蘇らせるなんて、そんなの…御伽話の中だけ」
小さな手のひらを硬く握り、搾り出す様に語る彼女。その瞳からは大粒の涙が溢れている。
「…君がそう願ってくれれば。君がそれを望んでくれれば、きっと。この世界は君に応えてくれる筈だよ。
一緒にこの世界を、世界の生命を見たよね。世界はずっと、君の言葉に答えてくれた。
昨日歩いた道を振り返ったって、同じ景色が広がるだけだよ。だから、前を向いて歩いていこうよ。“僕達”の道は、世界の終わりに繋がってしまったけれど…、でも君がまた別の世界を描いてくれるなら、君が望む明日があるなら、いつか必ず辿り着けるから」
僕は思わず、彼女の小さく頑なな手のひらを握っていた。世界を包む、温かなその手を。
「君がもし、もう一度“人間”を望んでくれるなら。君がその“生命”を愛してくれるなら。僕が必ず方法を見つけてみせる。その後悔の海から、僕は君を救いたい」
暮れ往く空。斜陽の影に、彼女の小さくても力強い声が風にそよぐ。
「私は…、私の愛した世界に還したい」