証
暗く、光さえも通さない闇と、その中を追って来る黒い影。
ボクらは走った。胸には鉄屑を抱きしめ、鉛の様に重い足を必死で引き釣りながら。泥の様に纏わりつく夜闇に支配された森を抜け、眼前に開けた荒野が広がった。その時……。
「…!」
驚き飛び起きると、辺りは静寂に包まれていた。
-夢。その言葉を見つけられたのは、少し時間が経ってからだった。ほっと胸を撫で下ろす反面、周囲の静寂から悪夢の続きが始まってしまう様な不安が頭をよぎる。
「……」
落ち着いて周りを見渡せば、ボクの隣には彼女が、ボクと同じ様にカサルカによく似た木にその身を預け、安らかな寝息を立てていた。
歩き続けるうちに夜を迎えてしまったボクらは、近くに生えていた木々の下で夜を明かす事にした。カサルカそっくりの木々には、カサルカと同じ様に実が生っていた。
藍黒く澄む空に散りばめられた星屑が、“ママ”の明かりと共に静寂の世界を見守っている。その景色は、ボクの心から不安や恐れを解かしてくれる。
「…綺麗だな」
優しい夜風が闇に眠る草木を揺らし、そのたゆかう大気に身体を預けながら再び瞼を閉じる。
心配する事なんて何も無い。世界の息吹を感じながら、ボクの心には安堵の気持ちに包まれた。…その時、瞼を閉じていてもわかる、一筋の小さく強い煌きが射しこんだ。
もう一度瞼を開くと、幾筋もの眩しい光が丘の向こう、地平線の先から降り注ぐ。夜の黒と星空の藍に覆われていた世界に、白い光が混ざり、新しい朝を創っていった。
「おはよう、新しい朝」
ボクは彼女を真似て、そう小さく呟いていた。
「ありがとう。こうして私達が朝を迎えられたのも、貴方のお陰」
彼女が、ボクらが夜を明かしたその木の表面を優しく撫でた。
「それじゃあ、行こうか」
空に高くに昇る“パパ”。 蒼穹の空を見上げながら、ボクは彼女の方を向く。
「…うん」
2人の目が合うと彼女は優しく微笑んだ。ボクらの旅が、また始まる。
「…こんな景色があったんだね」
鮮やかな大輪の花がボクらの旅路を見守る様に咲き誇り、大空の蒼と草原の緑の狭間をボク達は歩み続けた。その先には、なだらかな丘が続き、見渡す世界は“パパ”の輝きに包まれていた。
さっき見た夢のせいだろうか、ボクは誰かと一緒に居られる事がとても心強かった。彼女と一緒に、いつまでも歩き続けたい。綺麗な景色を一緒に眺める度に、そう願ってしまった。
「チルル達は、今頃どの空を飛んでいるんだろ…」
蒼く、どこまでも澄み渡る空を見上げながら、彼女が呟く。
「そうだね…。でもきっと何処かで、ボク達と同じ様にこの大空を見ているんじゃないかな…」
見上げた空は高く、吸い込まれてしまいそうなほど何処までも続いていた。
風にそよぐ、色とりどりの花の香りと彼女の声と、“パパ”の恵みをいっぱいに受けた豊かな大地の匂いが、世界の“今”をボクに伝え届けてくれる。
「貴方は…、メー。真っ白な綿毛の子、メー」
「メェ~~!」
彼女のつけた名前が気に入ってくれたのか、メーはゆっくりと声を伸ばす。旅するボク達が最初に出会ったのは、雄大な草原を群でのんびり暮らす、綿毛の生き物だった。
「…よかった。気に入ってくれたんだね」
安堵した表情を浮かべる彼女と、その隣で能天気にのんびりとした喉を鳴らすメー。そんな正反対の姿を見比べ、ボクは思わず笑ってしまった。
「…今、笑っていたの?」
彼女がボクに非難めいた目を向ける。
「ごめんごめん。君があんまりに真剣そうだったから」
一生懸命名づける彼女。その姿はどこか愛らしい。そういえば、彼女はいつも鳴き声を名前にしているけれど、本人は気づいているんだろうか?
「…名前は、その子が世界に生きた証だもの。真剣になるよ」
優しくメーの頭を撫でながら、彼女はそう言った。
「『生きた証』、か…」
ボクは、自分の名前も彼女の名前も知らない。そんなボクに、『生きた証』はあるのだろうか? 何故かその一瞬、あの悪夢が脳裏に浮かんだ。あの夢は、本当にただの夢なんだろうか?
のんびりと草を食べながら過ごすメー達を見つめながら、ボクは独り、そんな事を考えていた。
少し湿り気を含んだ夜の大気と、その大気に冷やされた大地の匂いがボクらを包む。いつの間にか空に昇った“ママ”の光が、そんな沈んだ世界と二つの影を朧に照らす。
「…メー達と別れちゃってよかったの?」
「うん」
そう答える彼女。その横顔は、どこか晴れ晴れとした物だった。
「…よかったよ。思ったより元気で」
「うん…」
また、そう彼女が短く答えると、しばしの沈黙。
「チルル達と別れたあの日から、出会った後の別れが嫌だったの。…でもなんだか、今は違うから」
そろそろ天高く昇り始めた“ママ”。それを見つめル彼女の瞳にも、“ママ”と同じく朧で、それでも何処か暖かな灯りがあった。
「…うん。元気になってくれて、よかったよ」
ボクの隣で小さく頷いた彼女の影。ただそれだけで、この旅に出てよかったと思えた。