旅立ち
風が低くたくましく音を奏でながら草原の上を通り抜けていく。闇の中に独り輝く“ママ”の灯火だけが世界を照らし、真っ暗な天からボクらを見つめていた。…昨日と同じ夜なのに、何故だろう? その夜にはどこか寂しさを感じてしまう。
ボクと彼女はまたカサルカに身を預け、黙ったままその世界を望む。彼女はまだ空の向こうを見つめていた。その先には、眠る空と色を失った草木の海が広がっている。
「あの空の彼方には、あの丘の向こうには…、どんな世界が広がっているんだろうね」
彼女にそう語りかける。
「…きっと、同じ空と同じ大地が続いているだけ」
彼女はその空を見つめたまま、自分に言い聞かせるかの様に、そう呟いた。
「…そんな事わからないよ。チルル達のいる空も、ボクらがこうしている丘も…、ここにしかないたった1つの景色だよ」
同じものなんて何処にもない。だから・・・
「だから、今度はボクと君が行ってみようよ」
「…私も?」
ボクの言葉に、やっと彼女が振り向いてくれた。
「うん、一緒に。一緒にチルル達の飛んで行った空の向こうを見に行こう」
彼女は何か考え込む様に俯いた。
「…その先に、何があるのかな」
「そうだね…。きっと、またチルル達に会えるかもしれない。他の生き物に出会えるかもしれないよ?」
…そして、もしかしたら、ボクらの他に人に会えるかもしれない。ボクの中で、小さな期待が少しずつ膨らんでいくのがわかる。
「…ダメ。私はカサルカから離れたらダメだから」
瞼を閉じ、ゆっくりと首を振る彼女。それが、彼女の出した答えだった。
「もちろん、カサルカのもとに戻ってくる。それは約束するよ」
また首を横に振られる事は覚悟していた。それでもボクは彼女にもう一度だけ聞いてみる。
「…戻ってくるなら、いいよ」
静かに微笑む彼女と、意外な返答。寂しかった夜の空はいつしか小さな光達の、満天の輝きに包まれていた。
…光の無い暗闇に押しつぶされそうになる。僕は、暗い洞窟の様な闇夜を駆け抜ける。心臓の鼓動が胸を締め付けても、脚が痛んでも、止まるわけにはいかない。後ろからは追って来る人影の気配が絶えずついて来る。空気の爆ぜる音が聞こえたかと思うと、後ろで人のうめき声と、地面に何かを投げつけた様な鈍い音が聞こえた。
…ボクは、どうしてこんな所にいるんだろう? 早く、早く彼女のもとに戻らないと…。
眩しい光。カサルカの葉の隙間を抜けて、“パパ”の光がボクの顔へと降り注ぐ。一瞬、そのあまりの眩きに瞼を閉じる。それでも尚、朝の輝きは風の気まぐれに揺られながらボクを照らしていた。氷の身体が解けていく様な、そんな暖かな目覚めだった。
…いつの間に眠ってしまったんだろう? ボクはゆっくりと身体を起こした。
「おはよう。…どうしたの?」
先に起きていた彼女が、ボクの顔を不思議そうに覗き込む。
「おはよう…。どうって、何が?」
「…悲しそうな眼をしているから。何か、悲しい夢を見たの?」
彼女の言葉に、記憶の奥から何かが出てくる。悲しみと寂しさと…、何か。けれども、それ以上はもう思い出せなかった。
「大丈夫。ただの夢だよ」
それは、彼女にと言うより自分に言い聞かせる様に。ボクはそう答えた。
「そう…、ならいいの」
そう言って、やっと彼女の顔に微笑みが戻る。悲しい顔は、きっと彼女には似合わないから。だからボクはずっとその微笑みを護りたい。ふと、そう思った。
「悲しい記憶も、辛い想い出も、いつかは大地に還るから。私も貴方も、もう悲しむ必要なんてないんだよ…」
そう言いながら、優しい瞳で澄み渡る空を見上げる彼女。その横顔から、ボクは眼が離せなかった…。
「いってきます」
旅立ちの挨拶。でもそれは、また戻ってくる約束。
ボクらはカサルカに背を向け、二人並んで歩を進めた。丘を降る途中、名残惜しそうに何度も彼女は振り返る。ボクらの家であり、ボクらの友達でもある、大樹・カサルカ。遠くからでもその姿は凛々しく、帰る場所がしっかりとある事が、どこか心に余裕を持たせてくれる。
「君は、あの丘から離れた事は無いの?」
ボクは隣を歩く彼女に問いかけた。
「うん…。カサルカと、ずっと一緒にいたから…」
そう言いながら、また後ろを振り返る。
「貴方は…、どっちの方から歩いてきたの?」
再び前を向き、歩を進めながら彼女が話しかける。
「そうだね…。あっち…の方かな?」
そう言いながら、指で指し示す。
「それじゃ、チルル達が飛んでいった方向と同じだね…」
彼女は、考え込む様に唇に指を当てる。
「まぁ、曖昧な記憶なんだけどね」
ボクは笑って誤魔化した。
幸い、突然生えた木々達が道標となって、チルル達の飛んでいった方向も、カサルカへの帰り道も迷わずに済みそうだった。
澄み渡る空はどこまでも続き、吹き抜ける風の匂いがボクらを包み込む。なだらかな丘を越えれば、美しくも言葉を失くした大地が二人を迎えてくれた。
「大分歩いたね」
ボクが後ろを振り返ると、もうカサルカの丘はとても小さくなっていた。
「疲れたの?」
ボクの言葉に、彼女が問いかける。
「ありがとう、大丈夫だよ。…君は?」
そのボクの言葉に、彼女は微笑みを絶やさずに首を横に振った。
ボクは体力には自信がある方だったから、彼女の事を心配していたけれど、その様子なら大丈夫そうだ。
辺りには所々背の高い草が生え、風のさざめきにその身を揺らす。ボクらは二人、一緒に歩を進めながら、その音に耳を傾けていた。
「風の音、木々の音。そして、チルル達の歌声…。こんなに世界に音があるなんて、なんだか不思議」
彼女は、ゆっくりと言葉を選びながら紡ぎだしていく。
「不思議な事はないよ。ただ、ボク達が知らなかっただけで。きっと世界には、いろんな物に溢れているんだよ」
「…“はじまりの時”からずっと私は、世界の色は失くしてしまったと思っていたの。でもそれは、違ったみたい」
小さく呟いた彼女。高い空を仰ぐその瞳には憂いと、それだけではない安堵の色が見えた様な気がした。
そしてボクらは、また前に向けて歩み続ける…。