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9/17

4巻後半『佐羅谷西哉は得体が知れない』(2/2)

 ぼんぼんぼん、と軽い空砲のような花火が申し訳程度に空に響く。

 土曜日、かつらぎ高校の文化祭が始まった。今日は外部の者も入れる日だ。

 元気の良い生徒は早くからやってきて、校内を駆け回っている。先生たちもどこか忙しない。

 そして、俺も忙しい。

「佐羅谷、恋愛相談ブースは、誰もいないときは絶対に鍵をかけておけよ」

「心配性ね。でも、高価なものもあるし、そうね、気をつけるわ」

 昨日は三人で打ち合わせを済ませて、施錠を確認した。

 そして、朝。

「では、全員体育館に集まってください」

 教室に放送が流れ、三々五々席を立つ。全学年の全員が、ぞろぞろと体育館に集まる。

 まずは、開催の挨拶をしてから、文化祭が始まる。

 いつもの校長の短い挨拶、生徒会長である沼田原先輩のきりっと整った開催の宣言。


「ここに、第六六回かつらぎ高校文化祭の開催を宣言いたします。

 さあ、みんな、楽しんでいこう!」


 真面目な生徒会長とは思えない弾んだ大声で、体育館は沸いた。

 歓声を満足げに受け止めて、沼田原先輩は舞台脇に控えていた女子にマイクを渡す。

 ここからは、すでに文化祭だ。

 体育館を離れる生徒もいる。というか、クラスや部活での出し物があるから、離れる者が多い。否応なく準備に駆り出される。

 だが、俺は離れられない。


「くーやん、明日開会式のすぐあとだかんね。絶!対! 見ててよー? いなかったら、わかるんだからね!」


 昨晩、宇代木に釘を刺された。

 今から、ダンス部の時間だ。

 前方の空いた席を求めて、移動する。二年五組のあたりでは、姿勢良く凛と澄まして、佐羅谷がステージを見つめていた。動く気配はない。

 同じあたりで、長身の巨漢が前へ移動し始める。谷垣内だ。彼女の晴れ舞台を特等席で見たいのだろう。一番前まで移動している。

 俺は、二人の視線から外れる位置で、ステージを見上げる。

 天井の明かりが消え、スポットライトがマイクを持つ生徒一人を際立たせた。


「ちゃーおー、みんなー! まだ戻っちゃダメだよー! 十分ちょうだいー! ほらー、十分くらい遅れたってだいじょぶだよ!」

 よく通る明るい声が、体育館から出ようとしていた生徒を一気に引き留める。

 ある程度の視線が集まったのを見て、腰に手を当て扇情的なポーズを決め、ニカーっといい笑顔を向ける。

 いつもと違う、宇代木天がいた。

 ダンスの動きだろう。

 体育館に響く音楽に合わせて、宇代木は静かに動く。

 腰を横に振ると、スカートがふわりと舞う。

 宇代木は制服を着ているが、着こなしが普段と違う。スカートの短さはいつも通りだが、ウエストではなく腰骨で巻いている。だから、スカートというよりもパレオのようになっている。上半身は半袖のブラウスだけだが、これもまた露出が高い。襟元はボタンを二つ外し、下半分はくくり上げて、お腹からへそまで丸出しだ。

 首元とかウエストとか、明らかに下着も見えているが、どうやら、水着を着ているようだ。服の下に来た水着など、下着も同然なのだが。

 抜群のスタイルに、メリハリの取れた挙動。ひらひらと動くなんちゃって制服。いやおうなく視線を惹きつける。教室や部室へ戻りかけた生徒が、踵を返す。やはり男子が多い。

 校門待機予定の生徒指導・三浦もごほんと咳払いしてその場を動かない。最低だな、おまえは見なくていいよ。

「すっげーかわいいじゃん、あの人、誰?」

「二年の宇代木先輩だよ」

「かー、あんな先輩がいたら俺もダンス部入っときゃよかった」

「相手にされるかよ。彼氏がいない可能性がないだろ」

「だよなー」

 周りの雑音が、低音を奏でるバックミュージックに飲まれていく。

 宇代木は音楽に合わせて、体を揺らす。観客が手拍子を始める。

 宇代木は同じくリズムを取りながら、マイクに叫ぶ。

「ヘイ、ユー・ガイズ! ドント・ミス・アワ・ダンス、スターティング・ナウ!」

 パンっと光が弾け、目が慣れた時にはダンス部員五人がステージにいた。宇代木は脇に移動し、音楽に体を揺らしながらマイクを握っている。どうやら、司会役らしい。

 昨年は那知合を見るために残ったダンス部の出し物に、今年は宇代木を見るために俺は一人佇む。


 十分だけ、と言いながら、十五分くらい続く。最初敷居を低く言いながら、ちょっとずつ上げていくのは常套手段だ。バイトでも、週一しか入れません、と言って採用されたのに、店長に拝み倒されたら、週に二回入ってしまうし、なんとかなるのと似ている。

 ダンス部のメンバー全員が、二~六人くらいの組になって、色々な曲に合わせて踊る。定番のダンスミュージック、ヒップホップなどの俺がうとい曲から、流行の曲、アイドルの曲、Kポップ、ボカロの曲、アニソン、どんな客層でも飽きさせないように目まぐるしく変わる。曲のつなぎめも自然だ。

 いつのまにか体育館は満員に近かった。生徒はある程度減ったが、代わりに外部の一般客が入っている。私服が増えているのでわかる。

(那知合はまだ出てないな)

 ダンス部の出し物ももうすぐ終わりそうだ。だが、今のところ那知合花奏は出演していない。

 次期部長、もしかしたらもう代替わりして部長になったのかもしれないが、出るとしたらトリだろうか。

「うおおお――っ!」

 突然、舞台の前方が沸く。

 谷垣内が両手を振っていた。

 珍しい。

 つられて前を見ると、立っていた。

 暗転した舞台に、たった一つの光を浴びて、微動だにせず、立っていた。

 那知合だ。

 凹凸のはっきりした魅惑的な肢体に、光の当たる肌は水を流したかのようにきらりと光を返す。

 白い光を浴びた髪の毛は、灰色に青のメッシュ。きつくはっきりした意志の強い顔立ちが、濃いめのメイクでなおもくっきりする。熱い唇が、出来立ての葛餅のように柔らかく動く。

 唇が、にまーっと笑う。

「ラスト――!! 盛り上がっていこう!」

 宇代木が脇で吠えた。

 音楽が爆音を奏でる。

 那知合が、躍動する。

 よく見ると、那知合の服は宇代木が着ている服と同じだった。胸元だけを隠すブラウスに、腰骨で引っ掛けただけの短いスカート。

 ダンスは、良かった。

 俺はダンスの上手い下手はよくわからないが、「そういうダンスだからそう動いている」ではなく、「ダンスが音楽を作り出している」と感じた。うまく言えない。

(やっぱり、いいな)

 今となっては、恋愛感情はないが、一度は一年間好きだった相手だ。ただ単に、見た目ではない。このダンスを見て、那知合が才能にあぐらをかいて、適当にこなしている女だと言う者はいないだろう。

 今までのメンバーと違い、一人でじゅうぶんに目を惹くのも、視線を釘付けにできるのも、トリを務めるのも、ダンスに真摯に打ち込む練習や執念の賜物だ。

 何かに向かっている人間は、魅力的だ。適当に生きる人間に、惹かれる人間はいない。

 俺が那知合に惹かれたのは、間違っていなかった。

 音楽が、やんだ。

 ピシッと動きを止めたステージの那知合が、大きく両手を振る。

「みんなー、ありがとう! 次で、ほんとに最後だよ!」

 那知合の声を聞いたのは、「フラれて」ぶりだった。

 舞台上の那知合は額の汗を拭うと、脇に歩み寄る。

「ほら、いーちゃん、行くぞ!」

「へ? あたし?」

 マイクを手に呆けていた宇代木の手を掴み、無理やり舞台の真ん中に引っ張っていく。

 サプライズっぽいが、服装から言って、多分仕込み、だよな? 宇代木もずっとダンス部で練習していたというし、宇代木の才能から言うと、ダンスも卒なくこなすはず。

「はい! 最後! 手拍子! 行くぞ!」

「ヘイ、ヘイ、ヘイ、ヘイ!!」

 那知合が手を打ってリズムを取ると、客席も前の方からさざなみのように手拍子が体育館を包む。俺もつられて手拍子に混ざる。

 音楽が流れ始める。

 舞台に、二人、背中合わせで立つ。

 改めて見ると、背格好もスタイルも、二人はよく似ていた。大きな違いは、髪型と髪の色くらいだ。

 二人のダンスは、最大の盛り上がりを見せて終わった。わずか一分ほどだったと思う。

 那知合が最初、ピンで踊ったのは、たぶん、他のダンサーを呑んでしまうからだ。YouTubeの動画でも、たまにある。複数人で踊っているのに、なぜかこの人しか目に入らない、という動画が。自分が目立つためなら、自分を高く見せたいなら、そのほうが都合が良いし、好んで「そういうこと」をする奴だっているだろう。

 しかし、那知合はしない。

 最後の相方に宇代木を選んだのも、自分が目立つためではない。

 宇代木は、那知合に遜色ないダンスを見せた。余裕はなさそうだった。いつもわりと平然と笑顔を振り撒いたり、遊びを混ぜるイメージのある宇代木だが、ダンス中の顔は本気だった。ときおり笑顔も見せるが、笑顔を見せなければならないから見せた笑顔、という感じだった。あの宇代木が本気になっているなんて、ちょっと面白かった。

「みんなー、ありがとう~!」

「かつらぎ高校ダンス部だよ! 中学生のみんな、待ってるからな!」

 ダンス部は盛大な拍手とともに幕を閉じた。

 幕が降りると、生徒会長がいつのまにか脇に立っていた。

「ダンス部の皆さん、ありがとうございました。それでは次は……」


 恋愛研究会の午前の相談は、十一時から。クラスの寸劇は、午後一時から一時間。今は午前九時なので、二時間ほど空きがある。

 体育館の外で、宇代木と落ち合う。

「じゃ、くーやん、行こっかー」

 いつもの制服に着替えた宇代木は、にまーっと笑顔で、俺のシャツの袖を引く。

「なんだ、何も聞かないんだな」

「んー? 聞くって、何を?」

「ダンスはどうだったー? とか、ちゃんと見ててくれたのー? とか、かわいかったでしょー? とか」

「んー、じゃあ、それ全部答えちゃってー」

「すまん、無理」

 そもそも、俺はダンスの良し悪しを判断できない。なんとなく好き嫌いや上手い下手はわかるにしても、判断するための訓練さえ受けていない。

 ちゃんと見ていたとか、かわいかったとか、そちらは答えるまでもない。

「ほーら、くーやんが答えるわけないじゃん。だから、あたしは特に聞かないよ」

 宇代木は俺の前を、逆さ向きに歩きながら笑う。

 黄色の瞳が大きく開いて潤んで見える。

「きっと、くーやんはあたしの欲しい答えをくれるし、聞く意味なんてないんだよ」

「まあ、ダンスは那知合に遜色ないし、ちゃんと見るのは当然だし、かわいいのは言うまでもないしな」

 何しろ、初見の一年生たちがあの薄暗い体育館のステージで、一目見てかわいいと言ったのだ。宇代木のかわいさに、いちいち異議を申し立てる意味がない。

「な、な、なん、なん」

 宇代木がどもっている。

 俺の方を向いて後ろ歩きのまま、つまずきそうになる。

「なんでいきなりそういうこと言うのさー!? もしかして、中身がくーぱぱと入れ替わってるとか?」

「別に、ダンスはともかく、かわいいのは自分が一番よく知ってるだろ。今まで何十人からかわいいって言われたよ? 数え切れないだろ。彼氏を切らせたこともないんだから」

「そ、そりゃあ、そーよ。かわいいなんて、言われ慣れてるよー」

「俺も普通の高校二年生男子だからな、宇代木をかわいいって言う他の男子と、そんなに感性が違うわけでもないさ」

「じゃ、じゃあさ、くーやんはあたしのことかわいいって思ってんの?」

「もちろん」

「それ、告白? 付き合ったげよっかー? いま、あたし、彼氏いないじゃん?」

「どうしてそう短絡する」

 上目遣いに、にししーとにじり寄ってくる宇代木を遠ざける。

「アイドルや芸能人をかわいいって言って、即座に付き合うとか好きとか、そんな発想にならねえだろ。そういうことだ」

 俺にとって、学園のアイドル的な存在は、雲の上の存在だ。たまたま関わってもらっている。この感覚を忘れて、己も同格だと勘違いするのは、痛いヤツだ。

「あたし、アイドルじゃないんだけど」

「俺にとっては似たようなもんだ」

「……じゃあ、あたしはどうやって好きになってもらったらいいのさ」

「あ、何だって?」

「知ーらない。ほら、くーやん、行こ行こ。りんご飴食べなきゃ!」

「文化祭でりんご飴は無理だろ」

 宇代木は俺の手首を握った。

 体温が、伝わる。

 思わず振り解こうとするが、宇代木の握力は強い。

 斜め後ろから見える宇代木の表情は、ことのほか楽しそうだった。無理に解くのも、興が覚めるな。仕方がないな、宇代木が放すまで、このままだ。

 小走りに生徒や学外の来場者の間を駆け抜ける宇代木と俺に、時に奇異な視線が不躾に届く。不釣り合いだって? いいや、そもそも、誰も俺なんて見ていないさ。


 一通り学内を回り、その間に吐きそうなくらい食べ物を詰め込み、エコなビニール袋で半分くらい持ち帰り、改めて宇代木の交友の広さを思い知った。とりあえず、どこへ行っても誰に会っても、「あ、誰々ちゃーん」「あ、天ちゃーん」のやりとりが始まる。

 そして、「その人は……」「あ、この人はねー」という「君の名は」ルートまでが鉄板だ。というか、俺の紹介はもういいよ。

「やー、満喫したねー」

「買いすぎだ、回りすぎだ。おまえほとんど食ってないじゃん」

「いやー、だってさ、みんな買いに来てー、顔出してよーって言うんだもん。行っとかなきゃ、まずいじゃん、やっぱりさあ」

「その八方美人っぷりもどうにかしろよ。みんなの宇代木を演じるために、俺は今日一日で三日分のカロリーを摂取することになりそうだぜ」

「あはは、ごめーん」

 チョコバナナを一口で半分かじると、口をもふもふする。

「なあ、宇代木。そろそろ時間が」

「あ、そーだ、くーやん、写真部見に行こ?」

「……ちょっとだけだぞ」

 恋愛研究会のブースの時刻は、迫っている。俺たちが直前に駆け込んでいいわけがない。

 宇代木だって、わかっているはずだ。

 最後まで恋愛研究会で文化祭に出ることを渋っていたが、納得したはず。けっして、裏切らないと思う。

 鼻歌まじりで楽しそうに写真部の展示室へ向かう宇代木は、まるで差し迫った様子は見られなかった。


「おぅふ、九頭川、来てくれたか! さ、見てくれ。やはり、今回の写真の中では一番見入ってくれる人が多いぞ!」

 写真部の入田は四角いメガネを押し上げながら、来場者ノートを差し出してくる。俺と宇代木は名前を記入して、展示室に入る。

 教室一つを使った、広くもない写真部の展示。しかし、さまざまな大きさに印刷した写真が、スタンドライトや切り絵、折り紙の装飾などに囲まれている。

 今どき写真など印刷することはないし、写真を印刷することを現像ということさえ知らない。現像といえば、フイルム世代とデジカメ世代で意味が変わる単語だ。俺も山田仁和丸おじさんがいなければ、知ることはなかった。

 いつもはスマホやタブレットでしか見ない写真も、印刷するとガラリと印象が変わる。

(印刷も、いいな)

 俺と宇代木の、鴨都波神社での写真。

 一番いいと思ったのは、A3まで大きく印刷した二人が手をつないでいる写真だ。写っているのは、手をつないで並んで歩いているのを、後ろから撮影した場面だ。握った手が中心で、背後の光源はみな水玉のようにボケている。手の質感で、それが若い男女だとわかる。二人の微妙な距離が、恋人ではないことを暗示している。

 一番大きく印刷しているのだ。写真部でも、これがいいと判断したのだろう。

 他にも、宇代木のくるくる変わる表情が七変化のようにコラージュした写真、俺と一緒に写った恋人同士のような写真もある。

「うーん、これもいーねー。あ、こっちもかわいー」

 他の写真も含めて全部見て回っていた宇代木が、俺に追いついてくる。後ろにはボソボソと解説にならない解説をする入田がいるが、皆目役に立っていない。女子としゃべろうという努力は買おう。

「あ」

 宇代木が、俺がずっと見ている写真で足を止める。

「そっか、あの時の写真、こうなるんだー」

 写真のつないだ手と、自分の手と、俺の手を、交互に何度も見る。

 うつむいて何も言わない。

「な、何か問題があったのだろうか? 九頭川、この写真、まずかったか?」

「いや、たぶん、今回の展示で一番だと思う。自分が素材だという点を差し置いても」

「そうであろう。彼氏彼女ではない九頭川たちに無理させたが、実に良い写真になった。本当に感謝している」

「そうだな」

 しばらく、静寂が続く。

 そのあいだも、ぽつりぽつり来場者は来る。内部よりも、部外者が多い印象だ。

 一様にさらっと一周して出ていくが、祭りの写真では長く留まる。やはり、被写体が人間というのは、ましてや宇代木天という美少女であるのが、効果的なのだろう。

「そうなんだよねー」

 長い沈黙の後で、写真の握った手の部分を軽く撫でながら、つぶやいた。

「不満か?」

「少しね。くーやん、今度また写真撮ってもらおーよ」

「機会があったらな」

「あたしの手を握れて嬉しいでしょー」

「女子の手をそうそう意味もなく握れるかよ」

 ふっと教室の時計を見ると、もう時間がギリギリだ。

「まずい、宇代木、そろそろ行かねえと。間に合わない」

「はい」

「なんでしょうか、その手は」

「女子の手を合法的に握っていい理由をあげるよ。あたし、今でも恋愛研究会のブースには懐疑的なんだ。きちんと連れて行ってくれなきゃ、逃げ出すかもよー?」

「……だったら、仕方ねえな」

 俺は入田に目でカメラを用意するように訴える。写真部一同、素早い動作でマイカメラを持ち出す。

「じゃあ、行くぞ、走るぜ」

「うん」

 俺は宇代木の手を握る。

 すでにシャッター音が霰のように降り注ぐ。

 振り返らない。

 宇代木を引っ張って、俺は校内を駆けた。途中、先生に見つからないことを祈りながら。何人か知り合いがいた気もしたが、声をかける余裕もなかった。

 恋愛研究会のブース教室に入った時、観客は半分ほど埋まっていた。集中する奇異なものを見る目を無視する。これから、もっとこっぱずかしい話を聞かせるんだ。

 息の上がった俺と、呼吸に乱れのない宇代木が、白いカーテンをまくって中に入る。

 ここは、たった三人だけに許された聖域。

 狭い区画内、窓から校庭を眺めていた少女が、黒い髪を翻す。こちらを見て、柔らかくほほえむ。時間ギリギリだということを咎めもしない。

「来たわね。さあ、ここからは、恋愛研究会の時間よ」

 佐羅谷あまねは、出来上がっていた。


 宇代木が隣の部屋に待機していた相談者を、移動式更衣室でガラガラと連れてくる。

 三つに区分した恋愛相談ブース、準備は整った。

 白いカーテン越しに、来場者のざわめきと私語がさざなみのように聞こえる。さすが、恋愛相談を見に来るだけあって、あまり大声というわけではない。先ほど見た限り、並べた椅子すべてが埋まるくらいで、三十人というところか。属性はきれいに三分割していて、外部の保護者や大人、学内の生徒、見学の中学生となっている。中学生はみな友達らしく、きっと相談者の知り合いだろう。ついては、田ノ瀬一倫に近づきたい積極的な女子だ。

 そして、宇代木を連れてきたときに、チラッと見えた。イリヤさんが、隅に静かに腕を組んで座っていた。いつもの人懐っこい笑顔ではなく、人を寄せ付けない冷たい無表情だった。

 白いカーテンの此岸、黒い緞帳の向こうには相談者の中学生。もちろん、女子。

 そして、俺の周りにはいつもの女子二人。起動中のパソコンが低く唸っている。

「時間ね」

 佐羅谷は教室の前の時計を見る。

 アナログだが、電波時計だ。狂いはない。

 白いカーテンの前に立つ。来場者からは、シルエットだけが見えているはず。

「みなさま、恋愛研究会へようこそ。わたしは部長の佐羅谷あまねと申します。

 われわれは普段、部内では恋愛とは何ぞやと古今東西の思索哲学を参考に議論し、外部には恋愛相談という形で活動を行っています。

 このたび、機会を得て、初めて恋愛相談のブースを出すことにいたしました。短い時間ではありますが、我々の活動を知っていただけたら、幸いに存じます」

 私語がじょじょに消えてゆく。

「先に申し上げておきますと、恋愛相談中の様子は、YouTubeで配信しています。くれぐれも、個人情報が特定できる私語や、罵詈雑言はお控えください。また、配信で皆さまの姿が映ることはありませんが、立ち上がって振り返った場合はその限りではありません。ご注意ください」

 少し、騒めく。

 配信状況を管理している宇代木のパソコン画面は、白いカーテン越しの佐羅谷の影と、相談者が椅子に座っている様子、カーテンの隅にあるディスプレイが映っている。個人のスマホでテザリングしているので、あまり通信状況は良くなく、画質は荒い。むしろ荒いほうがいいか。

 作ったばかりで、動画もあげたことのないアカウントの突然の配信だ。視聴者は今のところ1人と0人が行き来している。

(こういうのはやることに意義があるんだ)

 見られないなら、そのほうが気楽だ。

「では、恋愛相談を始めます」

 佐羅谷は外野に一礼して、元の席に戻る。

 表情は凛として涼しげだが、わずかに机に乗せた手が震えている。緊張したのだろう。

 深呼吸を一回、俺と宇代木を交互に見やる。三人、無言で頷く。

「始めましょう。わたしたちの部活動を」


 相談者は、ヒスイさん(仮名)と言った。本名を配信に載せるのはまずいということで、適当な名前を選んでもらった。

 黒の緞帳を挟んでいるので、俺は姿形も想像がつかない。

「中学二年生、ヒスイさんね。どんなことで悩んでいるのかしら?」

「あの、怒りませんか?」

「怒られる覚えでもあるのかしら」

「あの、とってもひどいこと、かもしれない、んです」

「犯罪、そうね、人を傷つけるようなことでもない限り、わたしたちは怒ったりはしないわ」

「じゃあ、やっぱり、わたし、怒られるじゃないですか! う、うー」

 やけっぱちに叫び、声に涙が混じる。

「ヒスイちゃん、落ち着いてー。あたしたちはねー、犯罪だったら怒るけど、そーじゃないなら怒んないよ。恋愛ってさ、好きでも嫌いでも、自分も他人も傷つくもんだからさ。もしヒスイちゃんが人を傷つけたとしても、それは仕方ないから」

 高校生相手とは一味違う対応に、宇代木の助け舟。

 宇代木は来場者にわかりやすいように情報をディスプレイにまとめながら、配信状況も確認しながら、相談にも余念がない。

 配信の視聴者は、少し増えてきた。土曜日の昼前だし、恋愛相談というキャッチコピーが目を惹くのかもしれない。

 チャットはほぼない。様子見と言ったところだ。

「わたし、付き合ってる人がいるんです。だけど、本当の恋人じゃないんです」

 マイクでかろうじて拾える小さな声だった。

「話せる範囲で、説明してもらえる?」

 中学二年生で付き合うだの恋人だの、俺には縁遠い話だ。ところが、漂う空気は不穏だ。

「ば、罰ゲームで! 好きでもない人に、告白したんです!」

 おいおい、マンガかよ。

 カーテンの向こうの来場者が水を打ったように静まる。

 この話、続けて問題ないのか。部活自体、終わらないか。俺たちには聞き飽きた話でも、世間的には道徳が許さないのでは。

 だが、佐羅谷も宇代木も眉一つ動かさない。

「話は、それで終わりかしら?」

 佐羅谷が少し目を細める。宇代木はキーボードでカチカチと文字を打つ。二人とも余裕だ。なぜ平然としていられるのか。

 来場者の一番前の集団、中学生の女子の一団が、ざわつき始める。

「ひっどーい。相手をバカにしすぎー」

「さすがに叱られるっしょ」

 まるで、謝れコールでも始まりそうな気配だ。さすがにかつらぎ高校の生徒や大人は騒いでいないが、好意的な空気とは言えない。

 なんだろう、違和感を覚える。

 俺はメモ帳(三人の密談用にメモは用意している)に「いじめられてる?」と書いて二人に見せる。

 宇代木はうなずき、佐羅谷は「おそらく」と書き足す。

 なるほど、わかった。

 ヒスイさんは、いじめで罰ゲームを受けて、好きでもない人に告白した。衆人環視下の恋愛相談でその懺悔をさせて、吊し上げて、いっそう笑い物にするつもりだったのだ。

 ひどい話だ。

 俺が話そうとすると、宇代木は口の前に指でバツ印を作る。

 佐羅谷が、走り書きとは思えない美しい文字で、メモを見せる。「任せなさい。恋愛研究会をコケにした報い、受けてもらうわ」。踊る文章。佐羅谷が俄然やる気だ。

「恋愛研究会の人ー、マジふざけてると思いませんかー」

 とうとう、外野の中学生が俺たちに話しかける。配信画面ではチャットが入り始めた。荒れるぞ、これは。

「外野はお静かに。ここは、恋愛相談の場です。懺悔室ではないし、断罪する場でもありません」

 佐羅谷の毅然としたことばに、中学生は黙り込んだ。他の来場者も特に否やはない。

「では、続けます。

 ヒスイさん、罰ゲームで告白、わかったわ。何の問題もないと思う。そして、きっと今の悩みはこうでしょう? もうすぐ罰ゲームだったことを打ち明けないといけない――」

「え、ど、どうしてわかるの!?」

「じゃあ、あなたの心の変化を、隠さずに説明してもらえるかしら」

 ありきたりと言えば、ありきたりな話なのかもしれない。

 ヒスイさんは属するグループの中では、弱い立場にいる。ボスが先導する遊びに拒否権はなく、はめられて罰ゲームを喰らう。

 罰ゲームは、クラスの地味で孤独でブサイクな男子に告白し、付き合うこと。そして、一ヶ月後に罰ゲームで告白したとバラすこと。

 期限は、九月末。あと一週間。

「ヒスイちゃんは、その男子のこと、好きになっちゃったんだねー」

 宇代木はブラインドタッチで素早くディスプレイに文章をまとめ、簡潔に核心を突く。

「ケイスケ(仮名)、ほんとかっこいいっていうか、見た目全然もっさりしてて、頼りになんなそうなのに、すごく優しくて、身を呈して守ってくれる感じっていうか……物知りで、先生よりも詳しく勉強も教えてくれるし」

 もはや仮名ですらなさそうな「ケイスケくん」ののろけ話がしばらく続く。

 ようは、罰ゲームで告白しただけなのに、付き合ってみて男子の良いところがわかり、本当に恋に落ちたわけだ。

「ところが、ヒスイさんはまもなく、告白がウソだったと明かさなければならないわけね」

 終わらない話をバッサリと切る。

 ヒスイさんはそうなんです、と力なくつぶやく。

「じゃ、ヒスイちゃんの相談は、ケイスケくんと末長くおつきあいを続けたいっていうことでいーい?」

 返事を待たずに、ディスプレイ上には「罰ゲームで告白した男子を好きになったので、別れない方法が知りたい」と相談内容欄に記入する。

 まるでラノベのタイトルだな、と思ったら、配信画面で俺と同じ感想のチャットが流れた。

「いいでしょう。では、恋愛研究会からの回答を示します」

 佐羅谷の唇が、美しい弧を描いた。

 生き生きと輝く瞳に、少し紅潮した頬、この佐羅谷を俺と宇代木の他は誰も知らない。

 ここにいて、よかった。


「何もせず、そのままでいなさい。罰ゲームだったと言う必要はないわ」


「えぇ?」

 黒の緞帳越しに驚く声。

 来場者も同じような反応だ。

「で、でも、わたしケイスケを騙して」

「それで誰か不幸になったのかしら? あなたは気づくことがなかったクラスの男子の良いところを見出し、その男子も自分のことを好きになってくれる女子と知り合えた。どこかの誰かに迷惑をかけたのかしら?」

「迷惑は、かけていないと思うけど」

 きっと、予想外の回答だったのだろう。だが、恋愛研究会は、現実重視だ。俺も、入部してすぐなら戸惑っただろうが、今なら当然と受け入れる。

「嘘をついたこと、罰ゲームだったこと、すべて、あなたの自分の罪でしょう? あなたは自分が楽になりたいから、相手に打ち明けて、受け入れてもらって、今の関係を維持したい。そのほうがよほど都合がいい自分勝手な意見だと思わない? ついた嘘は、墓場まで持っていきなさい。つき続けた嘘は、真実よ」

 息を飲む音が聞こえる。

 図星をつかれたところだろう。

 一見真実を告白することは誠実な態度のようで、実は自分が楽をするために、相手に判断を任せているに過ぎない。負担は相手が負う。

 そして、おそらくだが、男は罰ゲームだったことに気づいている。中学生など、モテモテの男子でもない限り、しゃべったこともない女子が告白してきたら、何か裏があると思う。

 男は気づいているだろ、とメモを見せると、佐羅谷も宇代木も頷く。

「だけど、彼氏に隠し事ってよくないと思うんですけどー」

 外野の中学生が忌々しそうだ。

 中学生には、こんな回答が来ることは予測できなかっただろうな。

「若い子にはわからないでしょうけど」

 自分もどう考えても若い佐羅谷が、髪をかき上げながら、優雅に語りかける。

「自分のあるがままの姿を、飾り立てずすべて晒して、お互いに何一つ隠さずに百パーセントの好きという気持ちで結びつく関係なんて、ありえないわ。

 好かれるには、演技も必要。関係を続けるには、我慢も必要。受け入れられたければ、受け入れなさい。

 きっかけだって、同じことよ。自然な出会いも、人工的な出会いも、違いはないわ。わざとスマホを落としたり、わざとよろめいてぶつかったり」

「たぶんねー、ヒスイちゃんが怖がってるのは、罰ゲームだったってことが他の人からバラされちゃうってことだと思うんだよねー」

 宇代木はカーテン越しに中学生の団体がいるあたりをじっと見つめる。

 ヒスイさんから返答はない。いじめている監視者がいる前で、何も言えないだろう。

「ねえ、ヒスイちゃん、友達って、そんなに大切かなー? あたしさー、小学校の時の友達も、中学校の時の友達も、一人も連絡とってないよ? 友達なんて、そんなもんじゃないの? 

 何の助けにもならないたくさんの友達なんかより、たった一人最後の最後まで自分の味方でいてくれる人がいたら、他はどうでもいいと思うんだけどー。

 あれもこれも欲しいってのは無理だよ。たった一つ絶対に欲しいものを守らなきゃ、全部失っちゃうよ」

 中学生は、人間関係が家と学校くらいしかない。どちらかで居場所を失うのはつらかろう。というか、宇代木が言う「友達がいない」も信用できないが。

「でも、もしケイスケがわたしを信じてくれなかったら」

「肯定したらいいじゃんか。そんで、罰ゲームで告白しました。本当に好きになりました。で問題ないと思うけどー?

 ヒスイちゃんのことばが信じてもらえないとしたら、二人の育んできた時間が薄っぺらかったってことじゃないの」

「そんなことないです!」

 力強く、ヒスイさんは声を上げた。

「じゃあ、これで決まりね。特に何もせず、このまま関係を維持すること。空虚な他人のことばよりも、あなたの付き合ってきた期間の態度がすべてね。打ち明けたところで、結果は同じだと思うけれど」

 

「納得いかなーい」

「無責任じゃね? 恋愛相談ってこんなのでいいの?」

 ヒスイさんを移動式更衣室でその場から離し、宇代木が戻って来る。一瞬姿を見せた宇代木に、来場者よりもネット配信でのチャット欄が賑わう。かわいいとか美人とか、ありきたりなコメントだ。

「高校生の恋愛相談って、嘘つきも許すんですかー」

 先ほどから、中学生の一団がうるさい。俺は怒鳴りたい気持ちを押さえつけて、我慢する。佐羅谷が涼しい顔をしながら、内心、はらわたを煮えくり返らせていそうだからだ。

 宇代木が再び席に着く。

 指で丸を作る。

「では、今回の恋愛相談をまとめます。詳細はそちらの画面にまとめた通りですので、説明はしません。

 我々としては、現状維持で何の問題もないという判断です」

 佐羅谷は来場者との境目のカーテンまで近づく。配信画面でも、凛と佇むシルエットが浮かび上がる。

「先ほどから、罰ゲームで告白したこと、好きでもないのに付き合ったこと等、納得できない方々がいらっしゃるようですが、大切なのは、心ではなく行動です。何もしない聖人より、人助けをする盗人の方が、百万倍素晴らしいと考えます」

 言葉遣いにいい感じの毒が混じる。

「ヒスイさんは、告白し、付き合い、愛情を育んだ。周囲から見える事実は、それだけよ。告白が罰ゲームだったとか、最初は好きでなかったとか、まったくどうでもいいことだと、どうしてわからないのかしら? 

 罰ゲームで嘘の告白をしたことを伝えて、吊し上げたかったようだけれど、当てが外れて面白くないのね。 

 人を下に見て、小さな世界で権力を振るっている暇があったら、想い人に好かれる戦略を立てなさい。世界を騙し抜く嘘を作り上げなさい。

 あなたたちのおかげで、ヒスイさんには一足先に素敵な恋人ができたわけね。取り残されたのは、どちらかしら?」

 ちくちくと中学生には突き刺さるぞ。煽ってやがる。佐羅谷はじつに楽しそうだ。

 しかし、彼氏がいるという事実は、ちょっと進んだ中学生女子の間では重大なのだろう。いじめの対象だったヒスイさんが先じたことに、ようやく気づいたらしい。

「あー、いいよ、もう、行こ行こ。つまんない」

 口々に愚痴を吐きながら、うるさかった中学生の一団が消える。さあ、あとは彼女らの中の問題だ。どうせいじめはなくならないだろうし、あるいはケイスケくんとの関係もどう揺らぐかわからないが、少しは大人になるのではなかろうか。

「みなさん、長らくお疲れ様でした。恋愛研究会の恋愛相談、これにて終了です。午後の部があと三回残っておりますので、興味ありましたら、ぜひ足をお運びください。在校生限定ですが、明日の相談も空きがありますので、ご検討ください。ありがとうございました」

 佐羅谷のカーテン越しの一礼に、小さな拍手が起こる。

「思ったより面白かったね」

「中学生がどうなるかと思ったよ」

「ケイスケくんの回答が聞きたかったな」

 感想を述べながら、来場者が出ていく。宇代木はもうすでに配信を切っていた。

 来場者が出払ったところを見届け、出入り口に「準備中」の札をかける。

 初めての恋愛研究会のブースは、まずまずの出来だった。俺は、ほとんど何もしていないが。


 宇代木が、ふうっと机に突っ伏して、パソコンのキーボードを触っている。

 佐羅谷が、ぱらりとブースの段取りノートのページをめくる。

「お疲れさん」

 一見穏やかにページを繰っているが、わずかに震えているし、文字を追っていない。緊張していたのだろう。

「他人事みたいに言わないの」

「俺はほとんど発言してないし」

「次は午後二時からだから、九頭川くんにも活動してもらうわよ」

「あー、くーやん、発言前にはちゃんとメモ書いてよねー」

 やはり俺はまだ頼りないらしい。田ノ瀬の相談をこなしたのは、まぐれだと思われているのだろうな。間違いなく、まぐれだが。

「って、午後の部、二時からだったか? 一時じゃなかったっけ?」

 俺がカバンからスマホを取り出し、予定を確認する。

 女子二人は顔を見合わせ、無言で通じ合う。何となく疎外感、俺は目と目で会話なんてできない。

「なに言ってんのさー、くーやんが一時からクラスの出し物だから、って連絡くれたんじゃんか」

「そうよ。だから、融通の効く恋愛相談の時間をずらしたのよ」

「そうだったか? どうもダメだな、文化祭前はいろいろ頭を使いすぎて、自分で何やってるのかも覚えてないぜ」

 スマホのメモを見ると、恋愛相談午後の部は一時から、と書いてある。疲れてるんだな、訂正しておこう。

「あ、そうだ。佐羅谷、何も食べてないだろ? 午前中、宇代木と出店回ってたんだ。何でも好きなもん食べてくれ。むしろ食べろ。俺はもう食えない」

 スマホを机に置いて、俺はビニール袋から食べ物を出す。たこ焼きやフランクフルトの芳しい香りが食欲をそそるはずだ。

「くーやんさあ」

 佐羅谷が迷わずたこ焼きを手に取るのを意外に思って眺めていると、宇代木が俺のスマホで遊んでいた。

「よくスマホを手放せるよね。あたし、お風呂にも持って入らないと不安になっちゃうよ」

「ええい、勝手に触るな。俺はスマホ依存症じゃねえんだよ。だいたい、ポケットに入れてたら、授業中だって気になっちまうだろ。学校じゃ、授業中はカバンに入れてるよ」

「ふーん」

「九頭川くんは友達がいないから、突発的に連絡が来ないのよね。天はそうはいかないでしょ」

「そういう佐羅谷さんだって、最後にライン通知が来たのはいつですか」

「あら、わたしは毎晩、天からおやすみの連絡が来るわ」

「そこで胸を張られましても」

「あははー」

 久しぶりにのんびりした時間を過ごしていると、表で扉が開いた。乱雑な足音。

「たすく、いる? クラスの劇、ちゃんと参加してよね」

 この声、沖ノ口か。俺はカーテンを半分開けて、観客席と部員の区画を開放する。

 少し垂れたまなじりを険しく、口を一文字に結んで俺たちを一人一人見ていく。

「まだ三十分もあるじゃねえか」

「なに言ってるの、主役がギリギリに来ていいわけないでしょ」

 沖ノ口は俺の腕に抱きついて無理矢理立ち上がらせようとする。白い長袖のブラウス越しに、体温がわかるくらい密着する。

「おい、離せ、逃げやしないから」

「九頭川くん、人気者ね」

 たこ焼きを食べている佐羅谷という絵柄は、少しアンバランスで軽妙だった。

「たすくは、もらっていくわ。部活には出られないかもね、ごめんなさいね」

「あら、ご心配なく。九頭川くん、二時までには戻ってきなさい。部長命令よ」

「まあ、劇は一時間もかからないから」

「え、どうして?」

 沖ノ口は戸惑った表情で俺を見る。

「いやいや、クラスの劇は全部合わせても長くて三十分だろ?」

「そうじゃなく! え?」

 沖ノ口は慌てたように佐羅谷と宇代木を見る。そのあいだも、俺の腕を離さない。

「どうしたの? 早くクラスのほうへ戻ったほうがいいんじゃないの?」

「そーそー。体育館でしょ? 一番遠いじゃん」

 やがて、何か納得したのか、沖ノ口は二人をきつく睨みつける。

「ほら、たすく、行こ」

「行くから、しがみつくな。歩きにくいって」

 背中に、宇代木の能天気な「いってらー」という間の抜けたあいさつが聞こえた。沖ノ口の腕は、体育館の舞台裏へ着くまで、離れることはなかった。


 午後一時。

 緊張に包まれたまま、寸劇関係者は舞台裏で静かに出番を待つ。大道具、音響は各々指定の場所で待機している。役者連中は舞台に椅子を並べ、すでに準備万端だ。

 俺と沖ノ口は、舞台がよく見える袖に立っていた。

 二年一組の謎解きゲームは、どうやら前評判が良かったらしい。視聴者参加型謎解きゲームという点で、インドア派アウトドア派問わず、老若男女に興味を惹き、事前から口コミで広まっていた。広めていたのだろう。

 ほぼ満員の観客が思い思いに座る体育館。

 ライトを浴びた生徒会長が、脇からプログラムを進める。

「次は二年一組の出し物、『彼と彼女は運命のひと』です。視聴者参加型演劇という謎解きと演劇のハイブリッド、私もリハーサルの時に軽く見ただけですが、たいへん面白いストーリーになっています。みなさま、ぜひ一字一句逃すことなく、お楽しみください! すべてが緻密に計算された、一筋の真実の物語です!」

 暗転し、幕が上がる。

 淡い光が舞台を照らす。

 舞台には男女合わせて十人、椅子に座って意識を失っている。

 強い光が、真ん中に座るエイタを照らす。エイタは呻きながら、意識を取り戻す。

「ここはどこだ? 白い壁の部屋? 僕は、エイタだ。だが、名前以外は思い出せないぞ? なんでこんなところにいるんだ! 待て、周りに人がいるぞ、誰だかわからないが……」

 拍手に包まれながら、俺たちの出し物は順調に滑り出す。


 舞台は前半の締めにかかる。

ビーイチ「これで全員が自分の好みを言ったわけだ」

イツミ「誰一人好みじゃないけどね」

ディオ「エイタ、何を唸ってるんだ」

 舞台正面で顎に手を当てて考え込んでいたエイタが観客に向き直る。この大舞台、緊張するだろうな。

エイタ「わかったぞ! 僕たちの組み合わせは!」


 そこで、幕が降りる。

 体育館の全照明が灯る。

 占い師役がトコトコと舞台中央へ歩く。司会やナレーションを占い師役が買って出てくれて、ずいぶん楽になった。俺か沖ノ口がやらさせる寸前だった。

「さてさて、ただいま物語を観覧の皆様、しばしの休憩でござい。た・だ・し、この物語、作り物ではございませんヨ? 来場前に手元にアンケート用紙を一枚受け取りになったかと思います。さァ、よくご覧くださいナ。

 そうですね、さっきの恋人がわからなくなった十人の名前が書いてあります。

 皆様は、彼らを正しく恋人同士に戻してあげてください。

 今から五分後、回収いたしマス。

 回答内容次第では、とてもとても悲しい結果になるかもしれませんネ。皆様の選択が、彼らの未来を奪わないように。

 細心の注意を払って、選んでくださいネ~ェ~」

 劇中のキャラのまま、実に煽り、実にうっとうしいねちっこい喋りで、高笑いを響かせながら脇にはける。

 ほんとうに、いいキャラだが実に腹立たしい。

 しかし、来場者は占い師のことばが響いたようで、真剣にカリカリとアンケート用紙に書き込んでいく。人物名十個を、思い思い線でつなぐだけだ。

 だが、この結果次第で物語が変わると言われて、動揺しているのが伝わってくる。

「たすく、見て、みんな真剣になってる」

「そうだな。今のところ、大成功だ」

「すごいよ、すごいよ。どうかな、一回目で正解するかしら」

 沖ノ口が珍しく目を輝かせて、楽しげだ。やはり、自分が監督した作品がうまくいくと嬉しいのだろう。俺もたくさんの観客に楽しんでもらえると、がんばって台本を書いてよかったと思う。

 ポケットのスマホが通知に震える。

『今、アンケートを書いているよ。この台本、九頭川くんが考えたんだろ? 面白いね。晴香さんから聞いてた以上にいいよ!』

 ああ、どこかでヒグマ先輩も見てくれているらしい。俺は感謝のことばを返しておく。今回で正答しなかったら、あとで犬養先生に聞いてもらおうか。

「おう、九頭川よ、アンケートの回収は終わったぞ! 集計だ、急げ!」

 山崎ほか、クラスの役者役以外と監督周辺以外がアンケートを回収し、全員で必死に集計を始める。

 結果――。


占い師「そうか、君たちの選択は、運命の相手だったのかな?」

 占い師のことばに、場面は切り替わる。水責めの密室から、学校帰りの並木道、占い師はおらず、古びた地蔵が路傍にある。

 十人の男女は、それぞれ恋人だと思った相手と手をつないだままだ。

 ここから、エイタの独白になる。

「ああ、すべて思い出した。ここで、変な占い師に絡まれたんだ」

 エイタは手をつないでいるヨツバと見つめ合い、やがて手を放す。他の四組も、同じように手を放す。

「記憶を失っても、今の恋人と結ばれるなんて、そんなことはなかったんだ。

 ああ、僕たちは、違った相手を恋人に選んでしまった。

 ああ、僕たちは、どうやって元の鞘に収まったらいいんだ。

 ああ、僕たちは、どの愛を信じたらいいんだ!」

 暗転。

 暗くなった舞台、十人が微妙に距離をとったまま互いに視線を合わさない。

 正面にスポットライトを浴びた占い師が現れる。

「ふうむ、残念無念、彼らは自分で言うほど、運命の相手と結ばれていなかったヨウネ。

 やれやれ、ほんとうの愛は、どこにあるのやら。

 次こそは、皆様にも、真実の愛を見つけてほしいね。ぼくを、楽しませておくレ」

 高笑いとともに、舞台側から客席に強い光。

 目が慣れた頃には、役者一同一列に並び、深く礼をしている。

 脇に立つ生徒会長が、マイクを口に当てる。

「ありがとうございました。二年一組、『彼と彼女の運命の人』でした! 残念ながら、運命の人は見つけられなかったようです。

 えーと、劇の様子は期間限定でYouTubeでアップロードするので、在校生の皆さんは明日の劇では正答できるよう、しっかりと見直してください。外部の方も、明日のアップロードで正答が出るよう、祈ってお待ちください! とのことです。

 それでは、もう一度、盛大な拍手でお見送りください!」


 スマホにヒグマ先輩からのメッセージ。

『今回は当てられなかったのかな? 明日の二度目が見られないのが残念だ!』

『正答者が多数派で三割を超えないと、正解の劇にはならないんですよ。もしかしたら、リーダーの回答は合っていたかもしれませんよ?』

『そうなのかな? まあ、明日の劇がYouTubeに上がるのを楽しみに待っているよ。次は、恋愛相談ブースだっけ?』

『うわー、来るんですか……』


 沖ノ口がクラスのみんなに囲まれている隙をついて、恋愛研究会のブースに戻る。午後の部の始まりまでまだ時間はあるが、観客席の最前列は既に埋まっている。午前でも見た顔があるので、どうやらファンになってくれたようだ。

 俺は目立たないようにカーテンをくぐって、中に入る。

「あ、くーやんおかえりー」

「戻ってきたわね。ひきとめられなかった?」

「誰が引き止めるんだよ。俺はただの台本係、劇が始まったら、ただの空気だ」

 席に着くと、女子二人はメモを広げ、意味ありげに目配せしあっている。

「あのー、二人とも。隠し事されるのは慣れてるけど、こう、面と向かって「あいつキモいよね、」みたいな態度を取られるとさすがに傷つくんですが」

「違うよー。ねーねー、くーやん。さっきの劇さー、正解者ゼロってことはないよね?」

「わたしは絶対正解したと思うのだけど」

 なんだよ、見に来てたのか。

 俺は三割ルールを説明すると、二人は腑に落ちたとばかりに安堵する。

「なんだよ、別に気にする必要ないだろ」

「そうはいかないわ。恋愛研究会を名乗る以上、あの謎解きを間違うわけにはいかない」

「そだよ。ブランドだよ、ブランド」

「ふうむ、そうか。所詮は作り事だと思うがな。事実は小説より奇なり、だ」

 二人が見せるメモを確かめると、劇の男女の組み合わせは微妙に間違っていた。

「ま、明日は正解するといいな。俺としても、正解の劇が演じられないのはもったいないと思う」

 明日も正解劇が演じられない場合は、正解劇を別途演じて、YouTubeに上げるらしい。それはそれで良いが、やはり来客がいないのはもったいない。

「あー、くーやんの反応がびみょーだー」

「おかしいわね。確実に選んだつもりなのに」

「劇は今はいいから。ほら、そろそろ始まるぞ。宇代木、相談者を連れてくる準備だ」

「ほいほーい」

「仕方ないわね。九頭川くん、次は負けないから」

「何と戦ってるんだよ、いったい」

 文化祭一日目、後半。

 恋愛相談ブースは順調に進みそうだった。


 外部者混じりの文化祭一日目、恋愛研究会のブースはほどほどに盛況だった。と思う。

 教室の半分の来場者席はほぼ埋まり、窓を開けて立ち見も出る。

 俺も、午後の部からは相談に参加した。ほんとだよ? 補欠でやる気のなかった野球部のベンチ要員がなぜかキャプテンに指名され、みるみる才覚を発揮して自分もチームも成長させていく、その様子を見てすっかり恋に落ちてしまったものの、キャプテンの隣にはマネージャーをしている幼馴染の女性がいて、つけ入る隙がなさそうに見える。どうしたらよいだろうか? というどこかのマンガで聞いた内容の質問に答えたり、通学中の電車で一緒になる相手と知り合う方法を伝授したり。

 俺が話すたびに、YouTubeの配信のチャットでは「男!?」「イケメンかキモメンか、それが問題だ」「はいハーレム決定」「結局ヤリサー、いやヤリ同好会か」「嫉妬乙www」など汚い罵倒とごくわずかな擁護が流れる。

 心配するな、俺はおまえたちと同じだ。

 大それたもんじゃねえや。


「これにて、恋愛研究会の恋愛相談を終了します。本日は、お越しいただき、ありがとうございました。またどこかで、お会いできる日を楽しみにしています」

 佐羅谷が白いカーテン越しに大きく礼をする。

 パラパラと大きくなる拍手に、宇代木が配信を切る。

「さて、わたしたちは明日もここで恋愛相談のブースを開いています。外部の方は入れませんので、配信でお楽しみください。在校生の方、今はまだ相談を受け付けているので、よろしければ飛び込みでもどうぞ」

 佐羅谷はカーテンを開ける。

 拍手をしたまま、来場者の盛り上がりは頂点に達する。

 表に出た佐羅谷と宇代木。

 学内の人間には有名人なので、美少女なことは既知のこと。だが、外部者には驚きだったようだ。特に午後からは俺が相談者の送迎をしていたから、なおさら、女子二人の姿は推し量ることもできなかった。

 俺も隣に並んでいるが、場違い感がひどい。もっとも、男の視線に俺は映っていないだろうし、女の視線もほとんど感じない。

 ただ、いくつか。

 見るからに元相撲でもやっていそうな巨漢が、隅で手を振っている。俺も目立たないように手を振りかえす。ヒグマ先輩は人懐こい笑顔を見せると、部屋を出ていった。

 あとは、イリヤさんと沖ノ口。努めて視線を合わさず、前髪を下ろして、目を隠す。

 やれやれ。

 明日も文化祭なのに、今日は早く帰れるのだろうか。


「「九頭川!」」

 ところが、早く帰るきっかけは思いもつかぬところから現れた。

 外部の来場者がはけ、佐羅谷と宇代木を中心に何人か生徒が談笑を続けていたときだった。

 俺はそそくさと荷物をまとめ、逃げるように消えようとしていた。

 突然飛び込んできた男女二人。姿形は記憶にない。呼び捨てかよ。

「おお、いたいた、見つけたぞ。俺は文芸部推理小説課の大杉だ」

「私が先に見つけたんよ。私は文芸部ミステリ研究課の杉原ってんだ」

「お、おう」

 剣幕に押されて、返事しかできない。

「ていうか、推理もミステリもおんなじじゃね?」

 小声で疑問をつぶやくと、耳聡く文芸部の二人の目が血走る。

「なんでも英語で、カタカナにすればいいと思ってる能無しと一緒にするな」

「探偵って漢字で書けないから理もない屁理屈で満足する謎解き屋と一緒にしないで」

「お、おう。仲良いね、君たち。で、俺になにか用かな」

「聞いたぞ、体育館の謎解きゲーム」

「九頭川が台本書いたんだって?」

 二人が交互に問い詰めてくる。

「推理小説課の名にかけて! 正解しないわけにはいかない」

「ミステリ研究課のボスたるもの、正解して当然っしょ!」

 どうやら、謎解きゲームという煽り文句に惹かれて観劇し、正答劇にならなかったことに憤りを感じているらしい。回答を聞いた限り、二人とも間違った組み合わせだった。

 そもそも、あれは推理や謎解きというより、恋愛の感覚の云々、と語るが、二人には伝わらない。

「今日は! 納得するまで!」

「付き合ってもらうよ!」

「え、えー」

 俺は救いを求めて周囲を見回すが、誰も唖然とするか目を逸らすかで、役に立たない。最後の最後に見た我が部員は、ひらひらと手を振っている。

 そして、文化祭一日目は、まったく面識のなかった文芸部員に拉致される形で終了したのだった。終わった。

 ようやく家に帰った時には、八時を回っていた。スマホに溜まったたくさんの通知に、俺はため息をついた。

(風呂入って、早く寝よう)


 朝一番に自転車を駆り、恋愛相談ブースに飛び込む。幸い早朝は九月といえど涼しくなっていて、まだ汗はかかない。

 教室に、鍵はかかっていない。

「あら、九頭川くん、おはよう。早いわね」

「くーやん、ちゃーおー。今日はダンスと寸劇、連続だねー」

「早いな、二人とも。昨日は放置して帰って、すまない」

「まあ、文芸部に捕まったのだから、仕方ないんじゃない?」

「あの二人は強引だからね」

 そうか、佐羅谷や宇代木は知っていたのか。文芸部の中のあの二人が、ミステリー系で派閥を作って、推理作品には一家言あるということを。

 とにかく思い出すのも嫌になるほど、問い詰められた。素人の考えたなんちゃって謎解きに、セミプロみたいな奴らが拳で殴り込むなよ……。

 幸い、スマホの通知に返信する余裕もなく寝落ちして、睡眠を確保できたのだけはよかった。

「さ、今日はうちの生徒の相談だけだけど、がんばっていきましょう」

 佐羅谷の通る声ははずみ、俺も宇代木も大きく頷く。

 どうなるかと思った文化祭も、乗り越えられそうだった。


 午前の相談も解決し、昼休憩に入る。もう模擬店は昨日で満喫したので俺は目当ての焼きそばだけを目指す予定だ。宇代木と佐羅谷は自前の弁当を広げている。

「俺、弁当作ってきてないから、適当に食べてくる。佐羅谷は、いいのか?」

「あなたはわたしが弁当箱一つじゃ足りないと思うの?」

「ここにこもって、全然文化祭を楽しんでないだろ? 少しくらい出たらどうだ?」

「あたしとくーやんはあんなことやこんなことや、いっぱい楽しんだもんねー」

「あら、わたしだって、天といっぱい楽しんだわ。九頭川くんの劇も見に行ったし」

 そういえば、劇は見に来てくれたんだったな。

「それに、ただ他の人の文化祭を見て回るよりも、今回の文化祭はとても楽しいわ。ほんとうに、ブースを出して、よかった。二人のおかげよ」

「しみじみ言うなって。まだ文化祭は残ってるんだ。何なら、来年もな」

 だが、佐羅谷の気持ちに、共感している俺がいる。

 誰かが作った楽しみの場へ行くより、自分が作った楽しみの場のほうが、喜びも満足度も高いのだ。

 俺は知らなかった。

 楽しみや喜びは、与えられるものでしかないと思っていた。

 そこにあるものを享受するより、享受するものを作る方が、はるかに楽しいということを。

 友達と回って馬鹿騒ぎした去年の文化祭も、面白くはあった。そのあと一人家に帰って孤独と虚脱に寂しい思いをするのも、ルーティーンだ。

 友達と作る楽しめる場所の偉大さ、何かを一緒に作り上げる喜び。

(こんな気持ちを知ったら、もう戻れないじゃねえか)

 ちくしょう、だ。

 俺は、失うことが怖い。

 こんな気持ちは、未だかつてなかった。


 ダンス部の出し物は、昨日とは打って変わって、品行方正というか、まるでダンスの大会あるとすればで見せるような団体向けのダンスだった。

 これはこれで悪くなかったが、個人個人が目立たず、良く言えば統制が取れている。悪く言えば、本能に訴えない。もしかしたら、一日目のダンスが激しすぎて、ダメ出しを喰らったのかもしれない。

 次は、俺たち一組の寸劇だ。

 生徒ばかりなのに、客席は前日並みに埋まっている。パッと見ただけで、文芸部の推理なんたらとミステリなんたらが前方に陣取り、見えにくい隅に佐羅谷が座り、真ん中には谷垣内が頭ひとつ飛び出ている。奥の方に、女子に囲まれた田ノ瀬もいた。

「たすく、緊張する~」

「全然緊張感のない声で言うなよ、沖ノ口」

 劇はつつがなく始まり、前半が終わる。二回目だから、初回よりも演技が良くなったように思う。

 早速アンケートを回収し、集計に入る。これは、クラス全員参加で手早く済ませる。

「む、九頭川よ!」

 最終的な集計をしていた山崎が顔を上げ、眼鏡を光らせる。

「正答率37%、第一位だ」

「ということは」

「正しい組み合わせの劇を披露できるということだ!」

 山崎の喜び様は、クラス全体に波及する。特に、役者組に歓喜が広がる。やはり、正しい組み合わせの劇を演じたいよな。わかる。

「よっしゃ、やる気出てきたぜ!」

「やったね!」

 そして、光が落ち、幕が開く。

 俺たちの劇は、後半に入る。



エイタ「よし、わかった。僕たちの相手は……」

イースケ「まて、エイタ。一番に選ぶのは、ニナだ」

ニナ「どーして? あたしは、残り物でいいよ。自分から好きって言ってくれる人が好みだって、最初に言ったじゃん」

イースケ「だからだ。誰でもいいなんて気持ちで付き合った相手を、運命の相手だと信じて、占い師と張り合って、こんな目に遭うわけがねえ」

ニナ「意味わかんないんだけど」

イースケ「おまえは美人で気さくで、話をしたら男は誰だって意識する。告白する男子はたくさんいただろう。だから、自分から好きという気持ちになることはなかったはずだ」

ニナ「……だったら、どーなのさ」

イースケ「おまえの恋人は、きっとおまえが選んだ相手だ。誰からも好かれる魅力的なおまえが、覚悟して選んだ相手、それが、運命の人だ」

ニナ「はー、なにさ、偉そうに。一つ言っておくわ。あたし、あんたみたいなのが大っ嫌い。でも、あんたがこの中じゃ一番マシ。あたしの心に、波風立たせたからさ。勘違いしないでよ、全然、好きなんかじゃないんだから」


 そして、恋人の組み合わせは埋まっていく。


シーヤ「最後やな。ヨツバ、わてら、恋人同士みたいやで」

ヨツバ「いや、嘘、絶対無理」

シーヤ「わかっとるわ。なあ、なあんも聞かんから、わてに任しとけ。自分、好きになったらあかん人のこと、好いとるんやろ?」

ヨツバ「どうしてわかるの!?」

シーヤ「あきらめえ。なあ、わてのこと好きにカモフラージュに使うたらええで。ほしたら、あんたは周りもごまかせるし、わては彼女ができる。ウイン=ウインの関係やろ」

ヨツバ「わたし、君を好きになることはないのに」

シーヤ「かめへん。単なる利害関係やけど、利害関係かて立派な人間関係や。君の内情を理解して彼氏役をやったるのんも、運命の人いうことや。ま、多少は役得もある思うけどな? あるやろ?」

ヨツバ「何それ。わたしは、何もできないのに!」

シーヤ「今は、隣におらしてくれ。それで我慢するわ」


 全員の組み合わせが、こうして確定した。

 各々が手をつなぐと、画面が明転。

 背景が変わり、お地蔵さんのある道端に、十人が同じ状態のまま現れる。十人の記憶に、抜けていた記憶が戻る。

 空から、占い師の声が聞こえる。

「ああ、素晴らしい物を見せてもらったよ。どうやら君たちは、記憶を失っていても運命の相手を見つけ出せたようだね。君たちの愛が、永遠であることを祈っているよ」

 そして、暗転。

 次に舞台に光が注ぐとき、役者全員が一列で頭を下げていた。

 盛大な拍手。

 体育館いっぱいの観客が、弾けんばかりに手を叩いていた。一部ガッツポーズやバンザイが見える。腑に落ちず首を傾げているものは少数派。

 結論自体に、おかしな点はなかったと見てよかろう。こうして、沖ノ口企画の二年一組、謎解きゲームは盛況のうちに幕を閉じた。


 感極まって啜り泣く声も漏れ聞こえる舞台裏、次の団体と入れ替わるように追い出され、俺たちは散り散りになる。

「たすく、待って!」

 沖ノ口の声に振り返る。

 だが、まっすぐな黒髪の頭は、取り囲む役者連中や、クラスの者に取り囲まれ、質問攻めにあっている。

「また、あとでな!」

 俺は叫ぶと、手を振って教室へ向かう。

 二年一組の教室ではない。

 俺がいることを許された、恋愛研究会ブースの教室だ。


「あら、遅かったわね、九頭川くん」

「ほらほら、くーやん、はい、洗顔料。まずは顔を洗ってきてね」

 すでに来場者が埋まり始める教室の中、カーテンをくぐると佐羅谷と宇代木に即座にダメ出しを喰らう。こいつらほんとうに、いつも空間転移してるのかと思うほど移動が早いよな。

「ていうか、俺、そんなに顔汚い?」

「そういうわけじゃないけれど」

 化粧直しをしている佐羅谷が、急に顔を近づける。近い。

「うん、きちんと髭は剃っているのね。いい心がけよ」

「くーやんは基本的なお手入れはしてるもんね。いーい? 顔を洗うのは、ゴシゴシこするんじゃなくて、泡で撫でるように、優しくだよー」

 宇代木もしかまろくんポーチから化粧品を広げつつ、頬を手で撫でるような仕草を見せる。

「よくわからないが、行ってくる」

 そして、十分後。

 メイクを直した二人は、いつも以上にきれいだった。化粧なんてしなくてもかわいいのはもちろんだが、やはり微細な肌の透明感や、くっきりした目鼻立ちとさりげないアイシャドウやアイライナー心を捕らわれ、頬のチークと潤んだ唇にゾクッと来る。

 そんな二人に前と後ろを押さえられ、メイクされていた。

「男が化粧なんて」

「下地と、アイラインとアイブロウだけよ。眉は少し触るわよ」

「髪の毛はあたしが好きにするよー」

 あちらもこちらも、違う女の匂いに挟まれ、むず痒い。

「だいたい何だよ、昨日は何もしなかったのに」

「今日は、最後にわたしたちも配信に顔を出すのよ」

「本気か? どういうことかわかってるのか?」

「昨日の配信を確認したのだけど、あの画質なら、遠目に顔を出したところで、問題ないわ。何となくわかる程度よ」

 だったら、化粧なんて必要なかろう。とは思うが、やる気を出した佐羅谷には何を言っても無駄だ。

「はーい、かっこよくできました~」

 しばらくして、宇代木が満足げに手鏡を前に掲げる。

「量産型雰囲気イケメンってところか」

「くーぱぱをイメージしました!」

「普段から髪型だけでも整えたら、もっとモテるんじゃない?」

「見た目なんて」

「見た目が重要なのは、あなたならわかるでしょう?」

「部員なんだかんね。今日は、来場者全員に見られるしー」

 そういうことか。

 確かに、ここは文化祭の恋愛研究会の特別な場所。昨日、俺たちは姿を見せなかったが、今日は最後に表で挨拶する。

 そのときに、野暮ったい男が一人突っ立っているのは、恋愛研究会のイメージに悪影響だ。

 どうやら俺はまだまだ、認識が甘かった。佐羅谷が広告塔で、宇代木がクチコミ要員で、存在自体で恋愛研究会をプロデュースしている以上、俺も男性代表として、何かしら存在価値を表現しないといけない。

 女子二人は学校有数の美人なので、比肩するのは不可能だが、せいぜい雰囲気イケメンとして、凡人代表くらいにはなれるかもしれない。

 すべては、希望的観測。

 俺は宇代木が整えてくれた前髪の毛束をしごきながら、気持ちを入れ替える。

 俺は、二年一組の冴えない男子ではない。

 俺は、恋愛研究会の唯一の男子部員だ。

「九頭川くん、いい顔ね。さ、ここからよ」


 非常に仲が良い相手がいて、自分は恋愛感情を持っているが、相手からは友達認定されているようで、まったく関係が進展しそうにない。

 面と向かって告白して、今の関係を失いたくない。告白するなら、確実に恋人になりたい。

 女子からの相談だ。

 話を聞く限り、相手の男子は本気で疎いようで、特に奥手ではなさそうだ。

「じゃあ、揺さぶりをかけよう」

 簡単な話だ。

 相手に、自分を意識させればいい。

 想いを伝えるのが一番手っ取り早いが、それが無理なら、疎遠になることだ。

「その男子と仲の良い友達を誘って、デートやショッピングに行くんだ。名目は、目的の男子とデートするときの練習だとか、誕生日プレゼントを選ぶだとか、なんでもいい」

「でも、そんなことをしちゃ、彼にも他の男子とデートするって伝わるし、場合によっては好きだってことも伝わるんじゃ」

「伝わっていい。他の男子とデートするっていうことも、実は彼のことが好きだということも。直接伝えない告白は、まだ告白じゃない」

 目的は、揺さぶり。

 関係が安定していると、人は変化を拒む。ロミオとジュリエットは、各々の家の抵抗があるから深く燃え上がったのだ。周りが祝福したら、あそこまで情熱的な恋愛にはならない。

 この女子はこの女子で自分からは想いを伝えたくないようだが、相手の男子もきっと同じようにぬるい心地よさに安住している可能性が高い。

「例えば、ニホンザルでは普段毛繕いしあうような仲の良いオスとメスは、発情期になっても交尾をしない。交尾をするために、発情期前にあえて喧嘩をすることもあるそうだ。

 安定した二人の関係を動かすには、多少の荒療治が必要だと思うね」

 外堀を埋めるのも、事実のない既成事実を作るのも、大切なことだ。

「なんだか、変だね。親とか先生とかのいう、他人に迷惑をかけるなとか大人しくいい子にしてなさいとか自分を磨けとかとは、全然違うことを言うんだ。騙すみたいに、策略まで立てて」

「自分の好きな人が、横からぽっと出てきた誰かのものになることを許せる程度の想いなら、親とか先生の言うことを諾々と聞いてりゃいいんじゃね?」

 俺の荒いことばに、来場者も配信のチャット欄もざわめく。だが、気にしない。

 横目で見る佐羅谷も宇代木も平然としたものだ。

「俺は、嫌だね」

 自分に言い聞かせる。

「どんな手段を使ってでも、自分のものにする」


 いよいよ、最後の相談者だ。

 宇代木が移動式更衣室で、隣の部屋に迎えに行っている。

 ちらっとカーテンの隙間から見る限り、来場者は減らない。大人気だ。

 佐羅谷はパソコンで、今までの配信を無音で見直している。チャットやコメントを確認しているようだ。

「こんな部活があるなら、かつらぎ高校を受験すればよかった、だって」

「俺はかつらぎ高校でよかったよ」

「そうね、わたしもよ。人に恵まれたわ」

 俺も同じ思いだ。

 なんやかやと、人に助けられて今に至る。一年の時も、二年になっても、周囲の顔ぶれは違うが、大切なのは、人だ。

「さあ、次で最後の相談よ」

「知ってるが」

「誰なのかは知らないでしょう?」

 含みある言い方で、佐羅谷は複雑な顔をする。

「九頭川くん、たぶん、今までで一番難しい恋愛相談になると思うわ。あなたも、当事者意識を持つときが来たのよ」

「まだ俺は見習い扱いかよ。これでも当事者意識は」

「そちらの当事者ではなく、こちらの当事者よ」

 佐羅谷は自分の胸を両手で軽く抑える素振り。

 意味がわからない。

 問いただす間もなく、宇代木が帰ってきた。黒の緞帳の向こうに、誰かが席につく音がする。

 俺たち三人は目くばせで準備完了を確認する。配信開始。何度目かの注意喚起をして、

「では、最後の恋愛相談を始めます。まずは、自己紹介をお願いできるかしら?」

 佐羅谷のよく通る声で、いつもの時間が始まる。


「沖ノ口すなお、二年生です」

 第一声から、すべてを察した。

 隠さずに本名を明かす。

 宇代木を顧みるが、知らぬ顔で外部ディスプレイとつながったパソコンをいじっている。

「では、沖ノ口さん、あなたの悩みをどうぞ」

「そう、始まりは一年の時だった――」

 沖ノ口は、淡々と語り始める。

 それは、俺の知らない俺たちの物語だった。


 一年のときのクラスには、女子も男子も明確に一人ずつ、リーダーになる人がいた。勉強ができるとか、お金持ちだとか、見た目がいいとか、運動ができるとかじゃない、もっと奥深いカリスマみたいなもので。

 女子はたいてい、何人かでグループに分かれるものだけど、わたしはなんの因果か、リーダーの女子のグループに入った。グループは全部で四人。

 リーダー以外はもともとは普通の目立たない女子高生だったけど、影響を受けて、一人を除いてちょっと派手な雰囲気になった。


「ややこしいから、女子のリーダーをクイーン、男子のリーダーをキングと呼びましょうか」

 佐羅谷の提案に、沖ノ口は無言で肯定する。

 ディスプレイの人間関係が埋まっていく。


 クイーンは、当然キングに近づいた。

 二人ははたで見てもお似合いで、他人が入り込む余地なんてないように見えた。

 でも、不思議なんだけど、付き合うとか関係を深めるようなことにはならなかった。

 二人の気持ちは間違いないみたいで、つるむグループはいつも一緒だった。

 キングのグループは五人だけど、一人を除いてはときどき入れ替わっていた。


「わたしが好きになったのは、その変わらない一人だった」

「その人をなんと名づけましょうか」

「本名を言おうか?」

「それはダメ」

「じゃあ、クズオとかクズスケで」

「あら、好きになった相手にけっこうな名前ね」

「わたし以外に、好かれないようにね」

 ヒドイハナシダナー。

 そういえば、谷垣内のグループにいたとき、最初からずっといたのは俺一人だった。古野も殿井も和田も、一年の終業式前にいたから印象に残っているだけで。


「まず、沖ノ口さんがどうしてクズスケを好きになったのか聞かせてもらえる?」

「一途だから」

 黒い緞帳越しに、沖ノ口のうるんだ唇が見えるようだった。

「彼は、クイーンしか見ていなかった。徹頭徹尾、クイーンだけ。他の女子なんて、一緒にいてもきっと、顔も名前さえも覚えていない」

「ふつう、その状態ならあなただってキングを好きになりそうなものだけど? あなたはクイーンに遠慮して、たまたまナンバー2だったクズスケを狙っただけじゃないのかしら?」

「気まぐれ暴君の下で、ずっと調和を保つのに必死な人を好きになって、何か悪い? だいたい、彼、どう見てもキングとは性格が合わないタイプなのに、努力で合わせようとしているのよ。どうしてそんな高校デビューしたのかは知らないけど、そんな人が気になるのはあたりまえじゃない?」

「なるほど、わかったわ」

 佐羅谷が俺に筆談用メモを見せる。

『緞帳を開ける?』

 さすがに、鈍感な俺でもわかる。

 衆目に晒される中で、わざわざこの場で相談に来たのだ。沖ノ口も覚悟しているのだろう。

 俺としては、実質告白されているようなものだ。恋愛研究会としても、個人としても、隠れて対応するのは気が引ける。せめてもの、誠意。

『開けてくれ』

 佐羅谷は静かに黒の緞帳を開けた。

 既定路線だったのだろう。

 沖ノ口は、驚かなかった。

 真っ直ぐな黒髪を重力に任せ、少し下がったまなじりに赤い唇。膝をピシッとつけて、足は少し斜めに流す。両手は太もものスカートの上に重ねていた。

 深窓の令嬢だった。

 まったく、ここにいる女子はみんな配信に出しても惜しくない美少女ばかりだ。

 沖ノ口は俺を見て少し驚く。そうか、見た目が一年のときとはまた違うオシャレ風で、野暮ったくないからか。

 こんな対面をすることになるなんて、せいぜい着飾っておいてよかった。佐羅谷も宇代木も、こうなることを知っていたのだ。


「それで、あなたは一年のときに、なにかクズスケにアプローチしたのかしら?」

「クイーンが好きみたいだから、見た目はクイーンに寄せた。遊びに行くときでも、横に座ったり、体を寄せたり、腕を取ったり、いろいろしたわ」

「ふうん」

 佐羅谷はさらっと流すが、宇代木はうろんな目で俺を見る。

 悪いが、ほとんど記憶にない。本当に那知合以外の女は意識していなかった。

「それで、反応はどうだったのかしら」

「めんどくさそうな、まるで男友達に対するのと変わらない態度だったね」

「不思議な話ね。男だったら、自分のボスが好きな相手なんて、明らかに付き合えない格上の女に操を立てるなんてないでしょうに」

 操なんて、また佐羅谷らしいことばだ。今どき聞かないな。

「彼は、それだけ一途だったんだよ」

 沖ノ口は佐羅谷と話していても、俺の目だけを見ている。俺も、目を逸らさない。瞬き一つしない黒い瞳に束縛される。

「そう。それで、関係は進展したのかしら?」


 一年のうちは、結局女子グループでも動きはなかった。男子グループのメンバーは変わりつつも、キングを中心にして、付き合いは続いた。というかほぼキングの個性だけで集まったグループなので、女子グループとキングの取り巻き、という集まり。

(傍目には、そうだな)

 キングとクイーンが客観的に相思相愛でも、二人が行動を起こさない以上、周りは動けなかった。動いた男は、自然にグループから外れた。

(そして、俺は限界に来ていた)

 谷垣内の意を汲むこと、調子を合わせること、「みんなで騒ぐ」という確かに楽しいこともあるが、虚しいことに。そして、那知合に手が届かないことに。

 だから俺は、すべてを終わらせようとした。

 自分のことだけを考えた、今から逃れて、未来をやり直すための、後先も迷惑も考えない、最低で愚昧な人生リセットボタンを押したのだ。


「二年になって、一年のとき仲のよかったみんな、バラバラになった。ただ、彼だけが同じクラスになった」

 沖ノ口は語る。

 チャンスだと思った。

 幸い、新しいクラスで派手な身なりをしているのは、男女ともに沖ノ口と彼だけだった。自然とクラスでも一緒になれると思った。

 ところが、彼は始業式から学校に来なかった。調べたら、保健室登校しているという。

 調べるのも大変だった。

 SNSの類は一切反応がなくなったのだ。既読はつくが、それ以外の反応がない。

 そして、教室に戻ってきたかと思うと、見た目は真面目というか普通というか野暮ったいというか、特徴のない男子の姿になっていた。

 見た目で恋心が変わるわけではなかったが、事もあろうに、彼は二年になってすぐ、深窓の令嬢に告白しに行った。

「ちょっとごめん、沖ノ口さん。深窓の令嬢について説明するね、ライブ見てる人にねー」

 宇代木が注釈を加える。学内の人間には周知のことでも、ライブを見ている人にはわからない。ライブも最終回ということで、最初のゼロ人からずいぶん増えて、百人くらいの視聴者がついている。

 チャットでは、深窓の令嬢の説明を受け、「まさかの当事者!?」「なるほど絶対に美人だ」「顔出し希望」などのコメントが流れる。まあ、焦るな。佐羅谷は最後に顔出しする気だ。今は言えないが。

「それで、わたしは確信した。彼は、クイーンに告白して、フラれた。そのときのショックでしばらく保健室登校していたけど、なんらかの形でこの恋愛研究会にやってきて、失恋した彼の心に入りこんで、あんたよ。あんたのことを、好きになってしまったんだ」

 ああ、当事者か。

 そういうことか。

 得心した。

 ああ、他人事なら、ライブのチャット欄も笑いながら読めたのにな。

 沖ノ口はやっと俺から視線を外した。

 どす黒く燃える瞳で佐羅谷を凝視する。

「一途なクズスケくんが、たった一ヶ月かそのくらいで、わたしを好きになるかしら?」

「あんたらは、人の心を操るのがうまいからね。傷心の彼を導くのなんて、赤子の手をひねるようなものでしょ。だから、彼はクイーン好みの派手な姿から、あんた好みの大人しい格好に変えて、こんなつまんない同好会に入って、いいように使われてるんじゃないの!」

「沖ノ口、それは言いす……」

「たすくは黙ってて」

 もう本名まで言ってるし。

 いいけどさ。

 カーテンの向こうからは、「修羅場?」「やらせじゃないの?」「仕込みだよな、捨て身すぎるぜ」とか聞こえてくる。ああ、俺も同じ気分だ。

 いちばん気を遣っているのは、宇代木だろう。眉間にしわを寄せて、いつ配信を切るべきか迷っている表情だ。

「しかも、あんた、たすくと付き合ってもいないっていうじゃない。自分に好意を寄せていて、自由に使える男がいて、深窓の令嬢なんてちやほやされて、いい気になってんじゃないの」

 たぶん、深窓の令嬢に公に喧嘩を売ったのは、沖ノ口が初めてだ。

 すべて勘違いに基づいているとはいえ、大したものだ。

 ああ、そうか。

 沖ノ口が二学期から急に深窓の令嬢っぽい姿になったのは、俺の好みに合わせるためだったのか。俺が佐羅谷を好きだと思って。

 佐羅谷に宣戦布告しに行ったのも、俺が原因か。

 ああ。

 俺は本当に、周囲をまったく見ていないんだな。

「ちょっと、沖ノ口さんが冷静さを失っているようだけど、少しここで整理しましょうか。天、もう本名で行きましょう」

 佐羅谷は久々に漫画のような咳払いをする。

「では改めて。わたし、佐羅谷あまねが先ほどから出ている深窓の令嬢と呼ばれているのは事実ですが、沖ノ口さんの推測には間違いがあります。

 第一に、わたしは九頭川くん、今までのクズスケくんですね、彼に告白されてもいませんし、今のところ、誰ともつきあうつもりはありません。何度も告白されましたが、全員に同じように答えています」

「その発言が嘘でない保証は? たすくの告白は、他の男子の告白よりずいぶん時間が長かったという事実は?」

 山崎研究員がそんなことを言ってましたねぇ。沖ノ口の情報、恐るべし。

「九頭川くんの告白時間が長かったのは、彼が恋愛研究会に入る、と申し出てきたからです」

「たすく、本当?」

 沖ノ口の視線が痛い。

 佐羅谷の理解も発言も、若干のウソがあるが、

「告白していないのは事実だ。部活に入るというのも申し出た」

 その時点で、犬養先生には許可をもらっていたのだが。

「ウソ……じゃあ、わたしは、今まで……じゃあ、たすくは、誰が好きなのよ!? その女じゃないの? いま告白してよ!」

「無茶を言うな。だいたい、いま告白したところで」

 俺は佐羅谷を顧みるが、佐羅谷はにっこりと良い笑顔を向ける。とてもかわいい。深窓の令嬢の顔だ。

 宇代木は状況を説明している。チャット欄は盛り上がる。カーテンの向こうも。無責任だ。

「えーっと、佐羅谷、付き合ってほしい?」

「なぜ疑問系なのかしら。いつも言ってるでしょう。わたしは誰も好きになる気はないの」

「ほらもー、これで俺の玉砕トラウマが一個増えただけじゃねーか」

 なんなんだ、この茶番は。この恋愛相談は。こんなの、恋愛相談じゃない。

「何、その女みたいに、清楚系に寄せたのに、たすくは、やっぱりギャル系のほうが良かったの?」

「いや、見た目の問題じゃないから」

 佐羅谷が清楚系と言うのも笑える話だ。佐羅谷は演技派だ。この姿なら恋愛研究会の部長として適切な存在感を示せる、という姿を演じているに過ぎない。

 確かに、佐羅谷の行儀良く凛とした佇まいは好印象だが、別に宇代木や那知合の奔放なスタイルが嫌いなわけでもない。

「さて、この恋愛相談、実質、沖ノ口さんは九頭川くんに告白したわけだけど、どうしましょうか。

 この場で想いを告げたあなたに敬意を表して、九頭川くんに返事を強制することもできるけど?」

「おいおい」

「部長権限でね」

 佐羅谷は楽しそうだし、宇代木はじっと様子を窺っている。外野であるコメントも来場者も冷やかすように騒つく。

 沖ノ口は居住まいを正し、俺にしか聞こえないくらい小声で、「ホント、やな女」と舌打ちする。


「たすく」


 沖ノ口の静かな呼びかけで、私語が消える。

 粘りある絡めるような、少し魔女っぽさを感じる余裕ある沖ノ口が、初めて見るくらいに震えている。自分で腕を押さえながら、俺から目を逸らさないように、必死にことばを紡ぐ。

「一年の時から、ずっと好き。今も好き。わたしが、ぜんぶ、受け入れてあげる。だから、つきあって」

 すげえな、と思った。

 まったくその気のない俺でも、心が揺らぎそうなまっすぐな告白だった。

 王道の告白は、場の雰囲気をも支配して、流されそうになる。

 場とは、例えば運命的な展開を求める来場者だったりする。きゃーとか、すごーいとか、まるで、告白を受けなければならないかのような空気だ。

 確かに、沖ノ口の告白は、本人の勇気として称賛されるべきことだ。だが、だからこそ、真摯に応じなければならない。

「すまん、つきあえない」

 目を見る。

 沖ノ口は緩く震えながら、瞳に涙を浮かべ、しかしながら、俺の答えがわかっていたのだろう、嗚咽をかろうじて飲み込んでいる。

「どうして?」

 外野は当然のごとく俺に批判的だ。

 沖ノ口ファンが今日だけで急増しているだろう。

「たすくが好きな人は、誰も応えてくれないよ? わたしだけだよ、たすくが、他の誰を好きでもいい。別に、わたしを好きになってなんて言わない」

 違う。

 沖ノ口、おまえは勘違いしている。

 俺は、承認欲求を満たすために恋人が欲しいわけではないんだ。応えてくれないことなんて、わかりきっている。だから。

「俺は思ったより頑固らしい。好きでない相手と、代償でつきあうなんてできない」

 何か言い募ろうとする沖ノ口を制止し、俺はスマホを前に掲げる。

「俺のスマホ、指紋認証なんだ」

「? うん、そうだね。知ってる」

 突然始めるスマホの話に、きっと周りは混乱するだろう。だが、これは俺たちと沖ノ口ならばわかる話だ。

 周りへの説明は、宇代木に丸投げする。頭がいいんだ、なんとか説明でごまかしてくれるだろう。

「このスマホは指紋を三つ登録できるんだが、俺は両方の人差し指を登録している。一つ空きがある」

「ふうん」

 沖ノ口の表情は変わらない。

 いや、感情に支配されていた告白時から見ると、まるでロボットのように無表情に変わる。

「沖ノ口、おまえの指一本、俺のスマホに登録できるか?」

「……」

 静かだった。

 前に突き出したスマホに、沖ノ口は微動だにしない。

「知ってるか? 自分の成績を上げるには、自分が勉強するのと、周りに勉強させないのと、二通りの方法がある。相対評価なら、それで自分のランクは上がるからな。

 だけど、恋愛は違うんだ。自分に振り向いてもらうために、周りを落としても意味がないんだ」

 ウソだ。

 恋愛研究会的には、周りを落とすと自分が選ばれる可能性は相対的に上がる。だが、ここではその落とし方が問題だ。

 沖ノ口はやりすぎた。

 俺に好かれるために、過剰に接触するくらいなら良かった。空気を支配して周りを遠ざけるのも、方法としてはまだ許された。

 しかし、なりすましや風説の流布はやりすぎた。

「これでいいか? 俺が、沖ノ口とはつきあわない理由だ。今は、それ以上は言わない」

 ただし、もし佐羅谷や宇代木に危害を加える気なら、これ以上の容赦はしない。

 俺の強い視線の意味を理解したのだろう。


「わたし、いつから間違ってたんだろ」


 来場者もしんと静まり返る中、沖ノ口の震える嘆きは、深く響いた。

 沖ノ口は、泣かない。

 下がり気味のまなじりを精いっぱい上げて、扇情的な唇を固く結んで、肩を上げ下げしながら呼吸を整える。

 女子のそんな姿にほだされるほど、俺は純情ではない。

 あえて言うなら、初手からすべて間違っていた。俺を落としたかったのなら、正攻法で行くべきだったのだ。


「ねえ、どうやってたすくに振り向かせるの。わたし、どうすればいいの。あんたたちなら、どうするの」


 かすれることばは、質問ではなかったのかもしれない。しかし、恋愛でどうすれば良いかと尋ねられたら、応えてしまうのが佐羅谷と宇代木の性格だ。

「攻略対象が目の前にいるのに、手練手管を説明するのは気がひけるのだけれど」

 佐羅谷は律儀だ。

「沖ノ口さん、あなたは周りを気にして、搦め手に逃げすぎよ。九頭川くんは鈍感だけど、正面からぶつかってくる好意を無碍にはしない。まずは想いを伝えて、意識させるだけでよかったのよ」

 さすが佐羅谷、よくわかっている。

「男子はねえ、女子の間の序列とか力関係とかぜんぜん気にしないんだー」

 宇代木はさらりと怖い話をする。

「特にくー……九頭川くんみたいな、ぼっ……孤独が好きな男子に、周りの女子を下げたり遠ざけたりする手法は、かえって陰湿に見えて嫌がられるかなー。他の女子よりもわたしがいいよって言われても、九頭川くんはそもそも興味がないわけだし」

 さすが宇代木、こちらもよくわかっている。

 果たして、二人のことばは沖ノ口に響いたのだろうか。

 沖ノ口は俯いて、黙り込んだ。

「まあ、女子は想いを伝えて、あとは待つだけという方法もあるから、せいぜい、正攻法で落とすのもいいんじゃないかしら」

 そうだな。

 沖ノ口は、やりすぎた。

「どう、沖ノ口さん。まだ、続ける?」

 佐羅谷の問いに、沖ノ口は首を横に振る。帰る? という宇代木の問いにも、抗った。

「ここにいる。見届ける」

 どうやら、恋愛相談が終わるまでここに留まるつもりらしい。

「それでは、文化祭最後の恋愛相談、一風変わった内容になってしまいましたが、これで終了いたします。今後の展開は、クズスケくんしだい、ということで」

 最後までその名前で通すんですね。

 今までの恋愛相談とは違う状態に、特にリピーターほど戸惑っている。ライブのチャット欄も荒れ気味だ。

「仕込みだろ、これ」「ちゃんと恋愛成就させてあげるべき」「恋愛研究会の女子がキープ作ってんじゃね?」「俺の佐羅谷さんはそんな子じゃない!」

 宇代木のパソコンを覗き込むと、批判的なことばが流れる。

 しかし、佐羅谷は意に介さず、立ち上がる。

「さあ、天、九頭川くん、行くわよ。最後の挨拶。気を引き締めなさい」

 鋼のメンタルか。

 案外、ライバー向けの性格だ。

 同じことを宇代木も思ったようで、「ホント、いい性格してるよー」

 と俺にだけ聞こえる音量でつぶやく。

 俺たちは、半透明のカーテンの前に立つ。

 人影だけが来場者から見えているはず。何が始まるのかと、ざわざわするが、帰るために席を立つものはいない。

 佐羅谷が、カーテンを開けた。

 三人が前に出る。

 喧騒が止んだ。


「改めて、このたびはかつらぎ高校恋愛研究会の恋愛相談ブースへお越しくださり、ありがとうございました。部長の佐羅谷あまねです」

 いつのまにかマイクを持って、涼やかな歯切れ良い声で挨拶をする。

 小柄で華奢な体に不釣り合いな落ち着いた態度、抜群に整った顔立ちは、さらに丁寧なメイクで、吸い込まれそうな肌、瞳、唇。見慣れているはずの生徒も思わず息を呑む。

 そうか、この近距離で佐羅谷を見ることなんて、滅多にないのか。

「今まで特に文化祭で催しをしなかったのですが……」

 佐羅谷は外野の反応など気にしないで、物腰穏やかにことばを紡ぐ。ブースを出すに至った心境を、外野は理解しているや否や。

 配信のチャット欄がどうなっているか、見てみたいが見られない。

「……というわけで、こうして……」

 佐羅谷の様子がおかしい。

 声に湿り気が混じる。

(おいおい、泣いてる? あの佐羅谷が?)

 チラリと横目で見ると、瞳が潤んでいる。鼻声だ。

「えっと、こうして恋愛研究会で、ブースを出せるなんて思っていなくて、ほんとうに、ほんとうに……」

 深窓の令嬢は、いつも冷静で凛然として、どちらかというと感情よりも合理性を代弁するような立場だ。

 グラウンド向こうの尖塔でも、見せる姿はきれいなお人形さん。

 その佐羅谷あまねが、感極まる涙声で恋愛研究会でブースを出せたことの喜びを報告している。

「がんばれー」

 来場の生徒から、ばらばらに応援のことばが飛ぶ。釣られて涙を浮かべる生徒もいる。

 やめてくれよ、俺もこういうのは苦手なんだって。泣かないように必死に斜め上を見る。

「え!? ここであたしにマイク渡すの?」

 佐羅谷はハンカチで顔を覆ってうつむくと、マイクを宇代木に突き出した。

「え、えーっと、部長がこうなっちゃったので、続けますねー」

 ところどころから、天ちゃーん、と黄色い声が上がる。この二日間のダンス部の舞台で、宇代木ファンも増えただろう。

「あたし、ほんとは恋愛相談のブースなんて出すの、反対だったんだよー。ほら、こんなプライベートな話ってさ、大っぴらにするもんじゃないじゃん? 

 だけど、やってみて、ちょっとだけわかったんだー。こうやって、部員みんなで何か一つのことをするのって、悪くないなって」

 宇代木はにかーっと目を細めて笑う。

 本心を見せない宇代木にしては素直なことばだ。

(そうか、宇代木も今は納得してくれているのか)

 事前には反対で、佐羅谷とも対立していたが、悪くないという感想は、賛意と受け取ってよかろう。

「この文化祭を三人で乗り越えたことで、あたしたちも成長できたし、絆も深まったかなって思います」

 柄にもないことばに、頬を染める。

「えっと、最後、何か言う?」

 宇代木は唐突にマイクを俺に突きつける。全員の視線が俺に集まる。

 おいバカ、やめろ。俺はこういう場面で話すと涙が出てくるんだ。弱いんだよ、感動的な場面に。しかも、締めを俺に回すなよ。

 だが、宇代木はマイクを、俺が掴むまで突き出すのをやめない。

「えー、恋愛研究会は、この三人しかいない小さな同好会です」

 マイクを受け取り、俺は努めてゆっくりと語りかける。虚空に。潤む瞳から、涙がこぼれないように。

「今は、入部するにも審査のある特殊な同好会だけど、いずれ、部活に昇格したいと思います。俺たちは、仲間を求めています。我こそは、という人。何年生でも、二学期からの参加でもいい。顧問の犬養先生までどうぞ」

 宇代木が、目を白黒させた。

 実際に募集をかけるとは思っていなかったのだろう。確かに、宇代木はうまく勧誘のセリフを言うのを避けた。

 でも、俺は、恋愛研究会を残したいと思った。佐羅谷を見ていて、強く思った。この部活は、残さなきゃダメだ。俺たち三人がここにいたことを記憶するためにも。俺たちに共通する経験は、この部活この場所しかないのだから。

 俺は、ここで、生まれ変わった。

「二人とも!」

 佐羅谷が叫んだ。

 深窓の令嬢が、叫んだ。

 宇代木が何か小言を言おうとしたのも、俺が反駁しようとしたのも、全部全部吹き飛ばす。

 佐羅谷が、俺と宇代木の首に抱きついてきた。

「わ、わ」

「おい、佐羅谷!」

 ぎゅーっと首を刈るように抱き締めてくる。

「ありがとう、二人とも、ほんとうにありがとう!」

 あとは、何が起きたか何をしたか、記憶はあやふやだ。

 盛大な拍手が耳を打った。

 それだけは、覚えている。



 ●


「や、よく来たね。九頭川くん」


 見たことのない番号から電話がある。

 文化祭の片付けが一段落するところだった。

 しつこい呼び出し音。

 机に放置していたスマホに映る番号を見て、佐羅谷は咎めなかった。諦めた表情。

 そして、ここに呼ばれた。

 漫画やアニメの定番は、校舎の屋上だが、俺は現実の世界で、屋上へ行ける学校があるなんて、聞いたことがない。行けるにしても、先生の管理する鍵が必要だ。

 だが、呼ばれた。

 そして、呼び出した相手は、鍵を管理できていた。

 夕日を背に、立っていた。

 長い影の頭部が、俺が開けた扉の足下に届いていた。

 秋の、低くて赤い太陽だ。

「なんでまだ先生なんですか。イリヤさん」

「お、初めて名前で呼んでくれたね」

 風で流れる髪を抑え、イリヤさんはにっこり微笑んだ。逆光で、表情はほとんど見えなかった。

「いやー、ちょっとミスリーディングでね、文化祭が終わるまでは実習生扱いってことだよ」

 なるほど、適当だ。

 まあ、もう先生呼びはしなくていいだろう。

「君の台本、あのクラスの寸劇、よかったよ。面白かった。謎解きのある視聴者参加型の演劇で、あんなネタを振ってくるなんて、なかなかできない。普通は、どこかのミステリー作品を換骨奪胎したものになるよ。あのインスピレーションだけで、賞賛に値する」

「褒めていただき恐悦至極に」

「だけど、間違いがあるね」

「間違い?」

「作中の女子、ヨツバだったかな? 好きになってはいけない相手を好きになっている、のは」

「そうですね」

「僕は、あまねの兄だよ」

「……そうですね」

「血のつながりは、全くない」

「俺にどうせよと」

「他の人物はわからないけど、ヨツバのモデルはあまねだよね」

「俺が作ったキャラなんだから、身近な誰かしらの性格をなぞってることもあるでしょうね」

「君は思っている。あまねは、好きになってはいけない相手を好きになっている。だから、あんな都合の良い物語を書いた」

 喧嘩売ってんのか、と言いたい気持ちを日本人らしい年上を敬う気持ちで抑える。

「実際のあまねは、好きになって良い相手を好きになっているのに、好きになるまいと必死だ」

 この人は何を言っているのだろう。

 混乱する。

 佐羅谷あまねは、好きにならない。

 誰も、好きにならないのだ。

 そういうキャラクターを演じなければいけないのだ。

「もう一度言う。僕とあまねとは血のつながりのない兄妹だよ」

 俺は顔をしかめる。

 だからなんだと言うんだ。

「今のあまねを演じさせたのは、僕たちだ。あまねを守るために、こうすることに決めたんだ。あまねも合意してね。必要なことだったんだ」

 何を身勝手なことを。

 ふつふつと怒りが湧いてくる。

 守る? 何をだ。性格を歪め、別のキャラクターを演じてまで、守らなければならないものがあるのか。

 佐羅谷の合意?

 兄や周囲の年長者に囲まれて、合意もクソもない。合意という名の強要だ。

「いったいなんなんだ。佐羅谷を尖塔に閉じ込めて、自分の性格まで改変させて、いったい何がしたいんだ。あいつの意思はどうなるんだよ」

「ひゅう、怖い怖い」

 凄んでしまう。

 慌てて、表情を緩める。

 そう言えば今日は髪型も宇代木にいじられていたし、目もメイクで強くなっていたのだった。これではにわかヤンキーにガンをつけられる新任先生だ。

「いくつになろうが、あまねは僕の妹で、妹はどんなであっても守らないといけないんだよ。たとえ、君が相手でもね」

 イリヤさんは、俺など怖がっていない。

「なんなんだよ、なんなんだよ、俺にどうしてそんな話をするんだよ、何をさせたいんだよ、わかんねえよ」

 せっかくの達成感でいっぱいになり、いい気分で締められそうだった文化祭が、イリヤさんの思わせぶりのせいで、頭の中までめちゃくちゃだ。

「悩め、若者」

 自分もじゅうぶん若者のくせに、イリヤさんは茶色みがかった髪を柔らかく払いながら、うずくまる俺と視線を合わせる。

 女のように細く白い指で、俺のあごを掬う。

「君に、僕の何がわかる」

 飄々とした捉えどころのないいつもの双眸、その奥に隠れた冷たく感情のない黒目。

 じっと俺を見る瞳。

 まばたきで、熱が戻る。

「さ、僕に言えるのはここまでだ。戻りなさい、君の居場所に」



終章


 片付けを終えて、イリヤさんの審査も済み、いつもの理科実験室に来る。

 暮れなずむ秋の太陽は、部屋の半ばほどまで手を伸ばしていた。

 部屋の女子二人が、穏やかな中にも弾む会話を中断し、俺に顔を向ける。優しい笑顔だった。

「遅かったわね、九頭川くん」

「ちゃーおー、くーやん」

 感情を表に出さない佐羅谷が、笑顔だ。

 本心を表に出さない宇代木が、笑顔だ。

 俺も釣られて破顔した。

 苦味もケレン味もない愛想でもない、笑顔だったと思う。

 三人、何をするでもなく、今日のこと、昨日のこと、文化祭のこと、ただ、時間の許す限り、話し続けた。

 暗くなり始めて、犬養先生に呆れ顔で追い払われても、俺たちはいつもの週末と同じように、駅まで一緒に歩く。話は尽きなかった。

 今日を、終わらせたくなかった。

 会話を止めたくなかった。

 文化祭を終わらせたくなかった。

 今日という日が終わると、明日の代休を挟んで、また日常が戻ってくる。

 この二日間で、俺たちはまた一つ成長した。絆も深まった。佐羅谷の決意から始まった「恋愛研究会のブース」は成功裡に終わった。

 達成感が日常に埋没するのが許せなかった。

「今日以上に幸せな日は、なかなかないだろうな」

 ぽつりと呟いたつもりが、きちんと二人の耳に届いた。

「あたしだって。今日が永遠に続いたらいいのにーって」

「わたしも、今日は帰りたくないわ」

「えー、あまねったら、だいたんー」

「日が変わったら帰るってことだろ」

 よくあるネタだ。

「ま、俺の家で良かったら泊めてやるよ。二人とも来るのが条件だが」

 さすがに、どちらか一人だけを泊めるのは無理だ。どのみち、こんなバカ話に乗る二人では……

「いいのかしら? じゃあ、お邪魔しようかしら」

「は?」

「あ、ママ? うん、今日は友達んち泊まって帰るよー。くーやん、オッケーだってさ」

「は?」

 そして、近所のセブンイレブンでお泊まりセットを入手した女子二人を泊めることになったのだった。空き部屋なんてものはないから、俺の部屋に女子が二人。俺は居間のソファーで寝ることになるだろう。

 親父は苦虫を噛み潰した顔で、最終的には俺の頭をガサガサと撫でるというかかき回したのだった。空気を読んで、邪魔はしなかった。

 

 文化祭の夜は、意識が落ちるまで、三人一緒だった。

 終わらなければ良いと願った日も、こうして終わってしまうのだ。宴の終わりは、一抹の寂寥が通り抜ける。



 翌日――。


 女子二人を駅まで送り、俺の心は99%の日常と1%の高揚感の残り香に満たされている。本日は月曜日だが、振替休日。パソコンと向き合っていたずらな時を贅沢に過ごしていた。

 自分たちの配信動画を見ていた。エンコードの終わったライブ配信動画を。

 注視するのは、リアルタイムで流れたチャットと、後から書き込まれたコメント。

 特に、俺が対応した恋愛相談部分や、見ることができなかった最後の部分。

 俺たちがカメラに身を晒した場面。

 カチカチとクリックして、文字列を追う。

 佐羅谷が表に姿を見せたときのチャット欄の流れる速度が、有名配信者並みで、追うのも大変だった。そのあと、宇代木、そして、俺。

 画質はフルハイビジョンに劣り、しかもカメラは引きなので、顔がはっきりと分からないが、背格好や整い具合くらいはわかる。むしろ、荒めの画質を脳内補正して、架空の美人を生み出す。

 まずは佐羅谷から。

「やばいかわいい」「きれいすぎる」「これが噂の深窓の令嬢か」「かつらぎ高校の生徒なら、合法的にこの人としゃべれるのか」「思ったより小柄だ」「残念だな、深窓の令嬢は俺がもらう」「←おまえ誰だ」「もうすぐ会いにゆくよ」

 そして、宇代木。

「天ちゃんもかわいい」「こっちのゆるふわ金髪ちゃんのほうが楽しそう」「笑顔かわいい」「太ももが眩しい!」「この声、聞き覚えあるんだよなー」「レンタル彼女してくれー」「あれ、全然違う。同姓同名の別人か?」

 最後に、俺。

 覚悟をして、深呼吸する。

「これが唯一の男か」「なんだ、普通じゃん」「いやけっこういい感じじゃない?」「女子二人が別格すぎるからな」「この部活にいるだけで万死に値する」「彼女いるのかなー」「彼氏はいるかもな笑笑」

 彼氏なんかいるかよ、俺はヘテロだ。

 だが、思ったほど変なコメントや否定的なコメントがあるわけでもなく、安心した。

 別に有名でもない高校の一同好会の突発的な配信など、これほどコメントが来ているだけで上々だろう。実際、文化祭の出し物ランキングでも、部活の中では上位に名前が出ていた。

 新たに部員が増えるかどうかは別にして、恋愛研究会は間違いなく一つ高みに達した。これも、佐羅谷の実績だ。

「なるほど、これが恋愛研究会」「美女二人が上から目線でいやらしい」「男も男で、パシられてるんじゃね?」「涙流して感動劇、演技がお上手!」「こいつらの本当の姿、確かめたくなるね」

 よくある、批判かやっかみかわからない書き込みは、適当に流す。

(なあに、ありがちなことだ)

 必要なのは鋼のメンタル。

 俺はブラウザを閉じ、パソコンをシャットダウンし、スマホを手に取る。今日は珍しく田ノ瀬に誘われていた。田ノ瀬は俺の知らない世界、初めての遊び、いろいろ教えてくれるので、誘われるとつい乗ってしまう。

 田ノ瀬のほうも、特別扱いしない俺のことを気に入ってくれているみたいだ。

「さて、行くか」



 何も変わらないし、俺たちは俺たちの日常を生きる。


「ずっと三人、このままでいようね」


 宇代木の希望を達成するのが、想像以上に困難なものだとは、このときはまだ気づいていなかった。



(了)

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