4巻後半『佐羅谷西哉は得体が知れない』(1/2)
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田戸真静 (たど・ましず)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)
豆市咲蔵 (まめいち・さくら)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
二章 佐羅谷西哉は得体が知れない
誰が誰とつきあっているか、このパズルを解くキモは、自分の自覚的な好みが、そのまま付き合う対象になっていないと気づくかどうかだ。
恋愛研究会で、何人かの恋愛相談に乗ったり、あるいはただ佐羅谷と宇代木が話をするのを聞いていたり、また俺も含む三人で話し合って、わかったことだ。
好きも嫌いも、一筋縄ではいかない、複雑なものだ。
付き合うに際して、二人の「好き」が等量であることはない。好きの重みも深みも、それぞれだ。仮に「好き」が同じ重みだとしても、好きな相手に何をしたいか、何を求めるかは「同じではない」。
好きだから付き合うとも限らないし、付き合ってからも変動する。そして、好きは嫌いにも無関心にも変異しうる。
かつて谷垣内が言ったように、好きの反対は嫌いではない。好きの反対は無関心、もっと言うと、対象外だ。嫌いという強い感情は、簡単に裏返りうる。
過激な主義主張は、時に逆の思想に転じることがある。極右や極左が穏健な右翼や穏健な左翼になることは稀だ。極論好きな山田仁和丸おじさんが言っていた。
俺は好きという気持ちも、つきあうということもわからない。よくわからない。
多分この独り占めしたい気持ち。
多分この知り尽くしたい感覚。
多分このすべて受け容れてほしい欲望。
今は人に晒せない本能の塊こそが、俺にとっての「好き」なのだろう。
犬養先生は、俺たち高校生の好き嫌いを、潔癖だと言った。
少しの違いも、少しの齟齬も、少し気に入らないところがあると、好きになれない、ということか。確かに、相手に理想を抱いていると、わずかの非で嫌いな気持ちが勝つかもしれない。
例えば、今まで真面目だと思っていた人が、他人に宿題を写させてもらっていると知った時。例えば、今まで誰にでも優しく気がつくと思っていた人が、内申点欲しさに打算的に行動していたと知った時。
例えば、そう、いろいろだ。
しかし、俺に関しては、犬養先生の評した潔癖は当てはまらない。つきあってみて、一緒にやっていけそうなら続く、それが犬養先生の恋愛だとすると、俺も大して変わらない。
なんなら俺は、あいつの一番でなくても、あいつの遊び相手でも、あいつの心に傷の一つでもつけられるならば、そばに居させてくれるならば、どうでも良いとさえ思っている。
思っていた。
だが、罪深くも欲深いのが人間だ。
「だいたい、自分で自分の生活もままならないのに、人を好きになったり、好きになってもらったりする資格があるのか?」
「よくよく考えると、俺の周りには個性的で魅力的な男女が揃っている」
深窓の令嬢・佐羅谷あまねは言うに及ばず、コミュ力モンスター・宇代木天も何でもできる。
神山功は大人しそうな少年なのに、部活を作って部員をまとめ上げる行動派だし、田ノ瀬一倫は見た目だけにあぐらをかかず、芸能の入り口でもがいている。谷垣内悠人は恵まれた体躯と運動神経と決断力に、本能をくすぐるカリスマ性を宿している。高森颯太は一目惚れで始めたコスプレで、じょじょに交友関係を広げ、深みにハマりつつある。
山崎は、あれはあれで膨大な知識量と馬鹿げた発想もネタになる。
「比べて、俺はどうだ。俺には何がある?」
「文化祭で恋愛研究会のブースを出したい」
佐羅谷の決意に、俺は平然を装って肯定はしたが、内心では情けない嫉妬心でいっぱいだった。
佐羅谷や宇代木という有名人の近くにいて、自分までもが偉くなったように錯覚してしまいそうになるが、俺は所詮二人のおまけに過ぎない。二人が気にかけてくれているのは、たまたま同じ部活にいるからで、この特権的地位を快く思っている自分がいる。
卑しく浅ましくも。
「成功するはずがない、新しい部員なんて増えない」
宇代木にはそう言って諭したが、これは俺の願望でしかない。本当はむしろ、失敗しろ、メチャクチャになって終わってしまえ、閑古鳥が泣いて誰も来なければいいとさえ思っている。
あわよくば、傷心の佐羅谷に付け込めないかと、よこしまな気持ちも芽生えている。
人間は単純に会う回数の多い相手を好きになるというなら、今の俺のポジションは実においしい。今のうちに、何者でもない俺が佐羅谷の心に割り込むことができたら。
イリヤさんとの関係性も不透明だが、きっとあれは兄妹愛なのだと信じておこう。今は、過度に目をつけられなければそれでいい。
宇代木が文化祭の出し物に反対派で、恋愛研究会へ手伝いには行かないという。本当なら俺が代わりに入り、親密度を増す絶好の機会だ。だが、俺は直接手伝うことができない。
手伝って成功したら、佐羅谷はますます雲の上の人になり、俺など近くにいたところで相手にもされなくなるだろう。失敗したら、手伝った俺にも責任があることになり、佐羅谷に悪い印象を残してしまうだろう。
どう転んでも、俺の好感度を上げることはできないのだ。
だから、俺はクラスの出し物にもう少し本気で注力することにした。本来なんの才能もない平凡な人間だが、沖ノ口が無理やり台本係に指名してくれたことを逆手に取るのだ。クラス代表が指名したのだ、多少不出来な内容でも、採用される。
幸い、沖ノ口は一つのことに夢中になるタチで、俺の台本でもうまく面白く演出してくれるだろう。そして、クラスの出し物が成功を収めたら、台本係として俺の株も上がる。普通の演者役や裏方よりも、名も売れるはずだ。
俺は小さな男だ。
あるがままでは誰にも好かれない、誰も気にかけてくれない、だから、打算と計算で少しでもモテるように画策する。
これが今の俺にできる精一杯なんだ。
どうか、笑ってくれるな。
「たすく、寸劇の練習も見てよ」
昼休み、窓際で弁当をつついていると、山崎との会話を遮り、笑顔を向ける沖ノ口。
長かった黒髪ストレートは少し短くなり、動くたびに跳ねる。日曜日に切り揃えたのだろうか。
「お、沖ノ口嬢、我も見学してよいかのう?」
「たすくの邪魔をしないのなら、いいんじゃない。どう?」
「細部を詰めたいからな。残るよ」
「おお、九頭川が素直だ」
「俺はいつでも素直だよ」
素直というたびに、沖ノ口の体が反応するのが面白い。そういえば、すなおという名前だったか。
「じゃあ、放課後に残って。役者部隊は今日から練習に入るから」
一筋垂れた髪を耳に上げ、甘い声で言った。
これで、放課後の居場所ができた。佐羅谷にはクラスの出し物が落ち着くまで行けないとラインを送る。わかった、と短い返事。まあ、そんなものだろうな。
別に何かを期待していたわけではない。期待していたわけではないが、寂しい気持ちになる。
「さあ! 放課後になったぞ! 九頭川よ!」
「テンションがうぜえ。俺は飲み物買ってくるから、おまえは教室の隅でコミュ障らしくガタガタ震えて、ア、ハイ、って答えてろ」
「ア、ハイ」
「本気で落ち込むなよ」
山崎は虚ろな瞳で虚空を眺めながら、教室の机を移動させるのを手伝っていた。寸劇用の舞台を作るのだ。
役者役の十人ほど、あとはやる気のある面々何人かが残る教室を尻目に、俺は一階の自販機まで飲み物を買いに行く。綾鷹だ。今日はお茶でいい。
だが、自販機の前に、あまり会いたくない人がいた。
そういう時に限って、相手から気づくものだ。
「おや、九頭川くんじゃないの。部活かい?」
「佐羅谷先生」
「なんだ水臭い。イリヤでいいよ、君はトクベツだからね」
「特別って、先生がひいきしていいんですか」
「だって、君はあまねと親しいだろ。佐羅谷が二人いるとややこしいじゃん。あまねをあまねと呼んでないんだろ? 呼んでやったらいいのに」
「ただの部活メイトの女子を名前でなんて呼べませんよ、俺にそんな度胸ないです。だいたい、あいつは男に名前で呼ばれたくないでしょ」
「そんなの、君の思い込みだろ」
思い込みじゃない。
夏休みの海の家で、チーターが名前で呼んだとき、怖がりのくせに食ってかかるくらい、名前で呼ばれるのを嫌がった。許されるのは、イリヤさんくらいだ。
俺は口ごもるイリヤさんを無視して、綾鷹を買う。
「じゃ、これで」
「待て」
ドン、と顔の横に手が伸びた。俺の行く手を阻む。
背丈は若干、イリヤさんの方が高い。
顔の横に伸びた腕を曲げて、顔が近づいてくる。
九月半ばのまだまだ残暑厳しい夕方なのに、さらっとマットな質感の顔だった。改めて間近で見ると、端正に整った面立ちは男性アイドルで通用しそうだった。やはり、佐羅谷の兄だ。美男子が、わずかに眉を顰めつつ、俺を睨む。
ほのかに香水の香りがする。
佐羅谷と同じ香水だ。
そんな微細な事実に気づく自分が恨めしい。
「こっちを見なよ」
甘い声。
今までしっかりと見たことのないイリヤさんの優しい笑顔が、目の前に。
綺麗だった。
だが、妹とはあまり似ていない気がした。
「どいてくださいよ。このままじゃ、新しい世界の扉が開きますよ、俺の」
「まだ余裕があるね、君は」
イリヤさんの鼻先が、さらに近づいてくる。
本当に、まずい。何か別の薄い本の世界の扉が開きそうだ。ボルダリング部の神山もかわいらしい感じだが、こちらは別格だ。唇くらいいいか、と雰囲気に酔ってしまう。この顔は、魔性。
もう一方の手で、俺の顎をすくう。
「ねえ、教えてくれよ。君はあまねを」
あまね、ということばに、思わず身がこわばる。
パシャっとカメラの電子シャッター音が真剣な双眸にノイズを混ぜる。
イリヤさんの表情が苦く緩む。
俺の囲いを解く。
「イリヤ先輩、お久しぶりです」
「ええと、沼田原さんだったっけ?」
一難去らずにまた一難。
スマホ片手に、生徒会長の沼田原先輩がゴシップカメラマンのように立っていた。ああ、ちょうど良い写真を提供してしまった。
「沼田原先輩、消してくださいよ」
「消さないよ。リアル壁ドンなんて初めて見たんだ。しかもイケメン二人の演技でない壁ドンだよ? しかも顎クイつき! もしかしたら、一生で二度と見られないかもしれないじゃないか」
「壁ドンは希少でしょうけど、俺はイケメンじゃないです」
「卑下するもんじゃないよ、君はいい男だよ、九頭川」
イケメンといい男は違うと思う。いくらなんでも、面と向かって人の顔を貶すことはしないか。
沼田原先輩は撮った写真をイリヤさんに見せている。苦笑しつつも、イリヤさんは消させようとはしない。
二人の距離感は近い。教育実習生と生徒会長として、知り合ったばかりという感じではない。
「あれ、二人はもともと知り合いなんですか」
「直接、先輩後輩だったことはないけどね。あまね繋がりで、何度か会った程度さ」
「なるほど」
なんとなく、上流階級の交友というか、近づき難い関係だ。
美人で背筋のピンと張った生徒会長に、佐羅谷あまねの兄。俺は二人の談笑に場違いすぎて、じょじょに身を引く。だいたい、ここにはお茶を買いに来ただけなんだ。
「あ、九頭川、ちょっとだけ時間、いいかい? イリヤさんも、借りて行っていいですか、彼」
「構わないよ。九頭川くん、またね。ちゃんと勉強もするんだよ。今のうちに偏差値を上げておきなよ」
「偏差値?」
イリヤさんのことばに、沼田原先輩は首を傾げる。生徒会長をするぐらいだし、きっと頭は良いのだろう。
「なんだ、もう心に決めた大学があるんだ? 君は大学なんて行けたらどこでもいいと思っているタイプだと思ってたよ」
「大学なんて、行かなくていいなら行きたくないっすよ。俺は自主自立、なるべく早く働くのが理想ですからね」
「働きながらでも、大学は行けるよ?」
「親父が親父らしいことをしたいみたいっすよ」
「いいお父さんじゃないか。今どき学費も払ってくれるなんて、珍しいね」
このままでは、俺の個人情報が丸裸にされる。沼田原先輩はさりげないようで案外鋭くいろいろなことを覚えていて、分析をかけてくる人だ。
さりげなく話題を逸らす。
「で、なんすか。何か用があったんじゃないですか」
「ああ、そうだ。前も少し言いかけたんだけど、君、生徒会に」
「遠慮します」
「反射神経に全振りしたような反応の良さだね」
「勘弁してください。ずっと先輩のおもちゃだなんて」
「おもちゃなんて失敬な。私は君をおもちゃだなんて思ったことはないよ。むしろ、君のほうだろ。私もめちゃくちゃにして、もてあそんだのは」
「ちょ、やめてください、こんなところで!」
なんてことを言うんだ。誰もいないからよかったものの、誤解されかねない表現だ。
「まあ、真面目な話だ。今の副会長が一年生でね、来年生徒会長をしたいって言うんだ。だから、君を副会長にどうかと思ってね」
「一年で副会長ですか。意識高いっすね」
生徒会選挙は十一月ではなかったか。一年がどうやって副会長になったのだろう。疑問が顔に出ていたのか、沼田原先輩は説明する。
「欠員があると、生徒会長が任命できるんだ。もちろん、本人の承諾は要るけどね。自分からアピールしてきたやる気のある一年だよ。ただ、どうも空回りするところや独断専行なところがあってね、来年、生徒会長をするなら、ぜひ九頭川に副会長で押さえてほしいと思ってね」
「沼田原先輩なら顔が広いでしょ、なんで俺なんですか。それこそ、佐羅谷や宇代木のほうが適任だと思います」
「あの二人は、陰ながら支えるなんて芸当はできないよ、裏方に回る能力があっても否応なく目立ってしまう。性格的にもね、大人しく見えて、我の強い二人だから」
沼田原先輩が二人を評するのを初めて聞いた気がする。そして、きちんと欠点を見抜いていることを知る。
そう、あの二人は陽の人間だ。だから、生徒会で言うなら会長以外になれない。あの二人同士なら、どちらかが陰になることもできようが、あの二人を陰にするカリスマがそうそういるとは思えない。
「なるほど、それで俺ですか」
俺ほど陰の似合う人間もいない。何なら、存在が陰である。言ってて悲しくなってくるよね。
「まだ、猶予はある。君にもそう悪くない話だと思うんだ。望まれて副会長なんて、かっこいいじゃないか」
「士は己を知る者の為に死す、みたいな」
「今度、今の副会長を連れて行くよ。三回目に会ってやってくれ」
「来るなら一回で会いますよ。そこまでもったいぶってどうするんですか」
「はは。話はそれだけだよ。まあ、私もちょっと欲が出たんだ。別にあの二人に……」
沼田原先輩は、いつの間に買ったかペプシのペットボトルを片手に、逆の手を振りながら校舎に消えた。最後のことばはかすれて聞こえなかった。
生徒会というのも、悪くないのかもしれない。自分の居場所をたくさん持っておくのが、精神の安定には効果的だというのは、実感している。家に、バイト先に、部活に。
さらに、生徒会なら、自分の箔もつくのではないか。他力本願ながらも。
「考えておくか」
すっかり遅くなった。また沖ノ口に怒られるなと思いながら、俺はゆっくりと教室に戻った。何、慌てたところで、遅くなったのは変わらないのだ。山崎が教室の隅で震える時間が延びるだけだ。
つつがなく、二、三日が過ぎた。
男五人と女五人の組み合わせゲームも、寸劇前半は板についてきた。さすがにA太、B壱、1子、2奈、という名前は嫌がられ、カタカナのエイタ、ビーイチ、イチコ、ニナという風に改められた。
わかりやすいと思ったのになぁ。
「なあ、九頭川。そろそろ、俺たち役者組にも、正しい組み合わせを教えてくれてもいいと思うんだ」
エイタが言った。
今日は寸劇は一旦お休みして、問題点を洗い出そうということになった。もちろん、すべて沖ノ口の指示だ。
他の舞台係、小道具係、広告係なども、別途動いている。的確な指示に、人の振り分け。沖ノ口はあまり目立って声を張り上げるタイプではないのに、なぜかみなうまく回っているようだった。
ギャルのときは怖がってあまり近づかなかったクラスの人間も、壁もなく親しくできている。
こんなところにも、また隠れた才媛が潜んでいる。
「そうだよ、九頭川くん、全然続き教えてくれない。組み合わせがわからないと、本当は演じ方が定まらないのに」
「たすくを責めないであげて。わたしの判断で止めてもらってるの。結末は、わたしとたすくしか知らない」
役者十人と占い師役の視線が、沖ノ口に集まる。
「たすく、謎解きの後の話、そもそもどうする予定だったのか、一緒に土日に考えたじゃない、あの話をしてくれる?」
「土日?」
「土日って九頭川倒れた後の土日?」
「沖ノ口さん九頭川の家に行ってたの?」
「おまえら、反応するところが違うし、反応が早過ぎんだよ」
何かぶつぶつとこそこそとささやき合う女子を無視して、俺は台本の続きの話をした。
「俺の書いた台本では、組み合わせが正しい版と、組み合わせが間違った版の二つがある。来客に恋人当てをしてもらうとして、一つでも正しい組み合わせを指摘した人がいたら、正しい版を演じ、間違っていたら間違い版を演じる」
「なるほど、妥当だよ。間違った全パターンを作り分けたり、演じ分けたりする余裕はさすがにないと思う」
組み合わせは百二十通り。そのうち一つは正解だとして、百十九通りの不正解劇は作れない。
「じゃあ、その二つを教えてくれよ。それになんの問題がある?」
「ある。そもそも、みんな、自分で演じていて、誰が正解の相手だと思った? 自信のある奴から、言ってみてくれよ」
問いかけると、一様に顔を伏せ、思い思い考える。
そうだろう。
わかるまい。
なぜなら、各人、自分の主張する好みの相手は、ここにはいないからだ。
一番に手を挙げたのはビーイチ。
「はい。多分だけど、ビーイチは、イチコが相手じゃね?」
「は? なに言ってんの? あんたなわけないじゃん。これさ、九頭川、ある程度、役どころを当て書きしてるんだろ? あたしがあんたを好きなわけねーよ」
「喧嘩すんなって、これは役の話だ」
シーヤがたしなめる。
「で、どうよ、九頭川?」
「正解だ、一応」
「一応?」
「あのー、ちょっといい? わたしのこれ、あの、その、役では一切明言してないけど、同性愛者、だよね?」
ヨツバ役がおずおずと言った。俺は頷く。
「はー? どういうことだよ、九頭川。女子に同性愛者がいるなら、男と組み合わさずに女子同士かよ? さすがにゲームとしては卑怯すぎるべ」
「役の話だよ、落ち着きなよ、自分でさっき言った通りじゃない」
ディーオに呆れられるシーヤ。
「つまり、この子は、ヨツバは本当は女子が好きだけど、女子と付き合っていない……」
「するとー?」
「そうか、本当に好きな女子の一番の親友でいるために、カモフラージュで男子と付き合ってるんだ」
「ご名答」
「じゃあ、相手はシーヤだ」
「は? なんで? 俺に何か得があるわけ? ヨツバは別におもろいやつでもないっしょ?」
「でも、頼ってくる女子を断れないし、本当にどうしようもないことは笑いにしない、そんな性格だよね」
「……台本ではそうだな」
「正解だ、一応」
役者をやると、ここまで読み込めるものなのか。正直、台本を仕上げた自分も驚く。もちろん、ヒントがなければわからないし、それは面白くないので、わかるようには作ってある(これは沖ノ口とだいぶん考えた)。
「さっきから気になるね、一応、一応って、なにが一応なの。やっぱり、ほんとは台本できてないんじゃないの」
「違うわ。たすくは、きちんと台本は作った。でも、どうするかを役者全員で決めてほしがったのよ」
「九頭川、どういうことだ?」
全員の視線が集まる。
言いにくいな。いやいや、発言すること自体に難はない。内容が、ある意味でゲームの土台を全否定するからだ。
隣の沖ノ口が、俺の手を握ろうとする。するっとかわして、俺は面を上げた。
「俺は、すべての組み合わせが正しいんじゃないかと思ってる。だから、一番多かった回答でアドリブにして、あとは正しいルートの台本通りに行ったらいいんじゃないかと、書いているうちに思った」
全員が、不穏な空気を吐いた。
「いやそれは――」
「流石にバカにしすぎじゃん?」
「最大四回演じるんだろ? 二回以上見に来た奴がいたら、ややこしくなるぜ」
「ゲームだから、正解がないのはちょっと……」
「そんなふしだらなの、役でも嫌だなあ」
ざわざわと勢いづく反論。
わかっていたことだ。
別にみんな、アドリブが嫌なわけではない。どうせ道は決まっているのだから、キャラクターに合ったことばを選ぶだけだ。幸せな恋人同士は、皆似たり寄ったりだが、不幸な恋人同士は、様々に不幸だ。
だから、一斉に拒絶するのは、生理的嫌悪だ。
恋人選びゲームで、誰と誰が結びついても実は正しいという結論は、生理的に受け入れられない。それは、今現在恋愛中の恋人同士の必然を偶然に格下げするし、運命の相手が実は「誰でもよかった」ことの暴露であるからだ。
「ちょっと穿った見方をするけどサ、もしや、九頭川の今の考え方がそうであるということじゃないノカ?」
収拾がつかなくなりそうなところに、占い師役が助け舟を出す。役柄のピエロのような笑顔で。
「どういうことだよ」
「九頭川が、恋愛なんてどこの誰と結びついても、すべては偶然で、そこに意味なんてないと思っているってことだヨ」
占い師役は口調も役柄に合わせている。
「恋愛なんて、そんなもんだろ? 単純接触効果の具現だ」
「ホラ、そうやって難しいことばで誤魔化そうとするヨ」
自分で台本を書いて、この口調で喋られると実に腹が立つと実感する。いいキャラじゃないか。
「つまり、九頭川は今、そういう相手に恋してる、と」
「んなッ、なにも、んなもん、ねえよ」
「ヨ、恥ずかしがらなくてよいヨ。みんな知ってるし」
ないよ、何も。
そもそも、深窓の令嬢に告白したように見えたのは、ただの演出だ。
そうだ、演出だ。
恋愛研究会に入るための、学校中に周知させるための、すべて、すべて、つまらない小細工だったんだ。
だが、どうやらここにいる誰もが、演出を真実だと思ってくれている。
「だけど、九頭川、いつまでも終わった恋にしがみつくのは良くないヨ」
「うるせー。関係ねーよ」
「別に、次の恋に進むことに、罪悪感はいらないんじゃないカ。正解がないって台本は、そんな決意表明に感じたヨ? 半年以上経ってるんだ。誰も、咎めないサ」
教室が静かになった。
静謐に包まれると、他のクラスも文化祭の準備をしているのだろう、喧騒が伝わってくる。
二十四の瞳に晒され、俺は喉まで出かかった反論を飲み込む。どうせ、言ったところで女々しくてつらい言い訳にしかならない。
「あー、帰る。とりあえず、みんなで決めてくれ。台本はあるんだ、あとは監督と役者で好きにしてくれ」
「ちょっと、たすく」
「そうやって逃げんのは卑怯なんじゃね?」
「沖ノ口さんの気持ちも考えてやれよ」
「そういうの、よくないよ。ちゃんと向き合おうよ」
口々に勝手なことを言う。
だが、実力行使でとどめる者はいない。沖ノ口は俯いて、表情まで見えない。
悪いな、俺は、人の気持ちを考えられるほど心に余裕はない。少なくとも、俺の心に、佐羅谷以上の存在はないんだ。占い師役の言う罪悪感なんて、一年間好きだったはずの那知合花奏が一月も待たずに意識から消えたのだ、その時に雲散霧消した。
俺が教室を出るのを、誰も咎めなかった。こんなに早く帰るのは、久しぶりだった。
「……もしもし、田ノ瀬か?」
「やあ、九頭川くん、元気?」
「ああ、おかげさまで。この前はありがとうな。運んでくれたんだって?」
「なあに、お安い御用さ」
「それで、何か用事があるんだろ? 前に教室に来てくれた時から」
「そうなんだ。ただ、九頭川くんが珍しくいっぱいいっぱいだから、申し訳ない気がしてさ」
「気にすんなよ。無理なら無理って言うさ」
「実はね、後輩の中学生の女子なんだけど、恋愛相談をしたいって言っててね。どうだろう?」
「いや、無理だろ」
「そうだよねえ」
「だいたい、その女子の恋愛相談したいってのは、単に田ノ瀬としゃべるきっかけ作りじゃないのか」
「まあそれはそれとしてね、ぼくも多いんだよ、そういう相談がね」
「あ、いや、待てよ。その相談、文化祭まで待てるか?」
「ん? 別に急がないと思うけど、どういうこと?」
「実はな……」
何事もなかったかのように、また二、三日過ぎる。
金曜日。
文化祭前の最後の土日を前に、じょじょに学校全体が浮き足立って、地に足がつかない。先生の授業も注意も、どこか上滑りだ。
教育実習生もノリの良い者は勝手に文化祭の準備に参加していたりする。文化祭前に実習は終わるが、土曜日は学外の人間も参加できるので、きっとああいうパリピはやってくるのだろうな。
イリヤさんは、ちょうど中庸だ。
クラスの後ろで、ニコニコと準備を眺めている。喜んでいるクラスの女子も一定数いて、用もないのに話しかけに行っては、甘いマスクのオサレな回答に目をキラキラさせている。
「佐羅谷先生も、来てくれるんですよね、文化祭。ぜひうちらの劇も見てくださいよー」
「そうだね、とてもファンタスティックだと思ってるよ」
俺はというと、なんとなく定位置になった沖ノ口の監督席の隣で、やることもなく座っている。
劇の話は、もう俺なしでも問題なく進んだ。恋人当てゲームの結果が、正解時と間違い時にどう変わるのか、俺は聞いていない。作者の手を離れた作品は、もはや作者のものではない。読者や役者がどのように解釈しようと、どのように演じようと、咎め立てする権利はないのだ。
作者の意見も、ただの解釈の一つに過ぎない。
「もう、俺は必要ないよなあ」
独りごちると、占い師役が耳聡く眉を顰めた。
「ダメだ、九頭川。おまえはカスガイなんだよ。いるだけで、場が締まるんだ。前におまえが先に帰った時の状況で、よくわかった」
「人を釘みたいに言うなよ」
「釘を刺さないと、九頭川はすぐにいなくなるからな!」
「釘よりラーメン一杯のほうが効果的だぜ」
アンケート用紙回収の段取りを考えているはずの山崎が、後ろから会話に割りこむ。
「まったく、隙あらば俺に近づいてくるな、おまえ。そんなに俺のこと好きなの?」
「バカを言え、まともに話せる友達がお主しかいないだけだ」
「だったら、おまえクラスに友達いないことになるじゃん」
「ギャフン」
休憩がてら馬鹿話に興じていると、教室の扉付近が騒がしい。
いや、もともと他クラスも模擬店(お化け屋敷とかクレープ屋とかベタなのが人気だ)や発表(わりと真面目に奈良県の地形の変遷を実地で調べたりしている)やダンス、バンドなどで騒がしい。
しかし、この騒ぎはどよめきに近い。
山崎がしょんぼりと地面にうずくまって「の」の字を描いているのを無視して、ふっと扉に目をやる。
クラスの女子何人かの頭の奥に、小さな顔が見えた。
ほんの少し、部分が見えただけでも間違いない。
「佐羅谷?」
何か、言い争っている。
「だっからあ、どうしてわかんないかなー」
クラスの女子の声に、怒声が混じる。ひとたび怒声が響くと、にわかに他の面々の会話が止まり、しんと静まる。
俺が教室の半ばまで近づいた時、ヨツバ役とイツミ役に道を阻まれた。視線が合うが、これ以上行くなと表情が雄弁に語っていた。
「ほんと、ちょっとかわいいとすぐ男子はデレデレしてさあ、何考えてんの、なんで通すのよ」
「そんなこと言ったって、なあ、ちょっと話がしたいって言ってるだけじゃん」
「これだから、ほんと男子は」
佐羅谷と対峙しているのは、イチコとニナとミツルだった。他数人の仲の良い女子。
「今、あたしらが九頭川取られたら、まとまるものもまとまらなくなるじゃんか。そんなこともわかんねーのかよ」
「そうだよ、佐羅谷さんはかわいいから今まで周りはみんないうことを聞いてくれたかもしれないけど、私たちはそうはいかないから」
「文化祭の役職者に言いたいことがあるなら、代表を通してもらわなくちゃな」
佐羅谷がやり込められている。
三人に阻まれ、困惑の表情。
途中まで連れてきた男子は、居場所がなく頭を掻きながら突っ立っている。さぞ居心地が悪かろう。
「わたしは別に、そんなつもりもないのだけど。ただ、九頭川くんにお礼を言いたいから」
「そういうあやふやな態度で九頭川を縛りつけんなって言ってんだよ、こっちは」
「深窓の令嬢なんて言われて、いい気になってんじゃないの」
佐羅谷の魔力が、効かない。
いや、違う、佐羅谷の「深窓の令嬢」という魔力は、もともと女子にはあまり強く作用しない。やはり学校一の美貌と、たおやかな挙措と、整ったことば遣いが揃ったカリスマは、男子のほうに影響が強い。
ましてや、佐羅谷が自ら俺などを呼びに訪れるのは愚策だ。佐羅谷の魔力を、魅力を減じる最低の悪手だ。宇代木も言っていた。キャラ付けがあるから、佐羅谷はよそのクラスに男子を呼びになど行けない、と。
愚かだ。
実に愚かだ。
自ら、自らの魅力を減じるなんて。
「それとも何さ、彼氏でもない九頭川を好きに使うなんて、なにか弱みでも握ってんの?」
「弱みなんて、知らないわ」
佐羅谷が教室の俺に気づいて、視線を寄越す。すぐに誰かが間に割り込み、姿は見えなくなる。
声は小さく、震えていた。
しかし、ここで折れるな。ここで折れるような女ではないだろう、おまえは?
静まる教室に、ため息の嘆きが聞こえる。
「まったく、くだらない。そうやって、群れないと何もできないから、いいように操られるのよ」
空気が、はぜた。
「はー?」
「ちょっと、何様のつもり?」
「バカらしいわ。お礼を言うのに、ラインやメッセージだなんて、失礼でしょう? 大切なことは、直接伝えなくてはならないもの」
佐羅谷がミディアムショートの髪を左手で耳にかき上げるのが見えた気がした。
「それに、わたしは九頭川くんに叱られているのよ。大切なことは直接伝えろ、それが部長の役目だろってね」
語弊があるが、確かに言った。
佐羅谷の堂々たる態度に、囲っている女子も気圧される。包囲が弱まる。
「休憩時間でしょ? 挨拶くらいさせてもらう時間はあるでしょう。だいたい、九頭川くんは台本担当のはずよ。いつまで台本担当者に依存しているのかしら。こちらのクラス代表は、本当に機能しているの」
佐羅谷は一歩前へ出た。
女子の囲みが解ける。
小さな体で、教室に入る。
止める者も、口を出す者もいなかった。
いつのまにか、俺の前にいたヨツバとイツミもわきに退いている。
俺は、教室の真ん中にいた。隣には、沖ノ口が立っていた。
佐羅谷は、深窓の令嬢の顔だった。こうして演技に没入しているときの佐羅谷は、強い。
沖ノ口の表情は、俺からは見えない。
「クラス代表さん、少し九頭川くんの時間をもらっていいかしら」
「好きにしたら?」
だが、沖ノ口はその場を動かず、佐羅谷が近づくことも許さない。
佐羅谷は俺に顔を向けた。
きちんと対面するのは一週間ぶりだ。連絡をしあったこともない。何かしら毎日雑談ラインをする宇代木とは違う。
佐羅谷の表情が弛緩した。
深窓の令嬢に恋愛相談を受け、夕日に照らされた理科実験室で、最後の最後に「またね」と言うときのあの顔だ。
ぞくっと、心を掴まれたように、意識をすべて持っていかれる。
たぶん、いま俺の後ろ側にいる何人か、この佐羅谷の表情に、俺と同じ思いをしているはずだ。深窓の令嬢が、こんな顔をするのか、と。
「九頭川くん、手伝ってくれて、ほんとうにありがとう。どうしてお礼をしたら良いかわからないけど」
「別に、いつもの通りでいいだろ。佐羅谷は部長で、俺は部員だ」
「あら、そう」
くすっと、いたずらめいた含み笑い。
「あなたの席は、あなたの居場所は、いつでも空けているから。本番、忘れちゃダメよ」
「ああ」
佐羅谷は満足げに頷くと、堂々と教室を後にした。最初に突っかかった女子たちも遠巻きに何も言わず見送るのみ。
隣から、強い負の感情が流れ出ているが、努めて気にしないフリをする。これは完全に沖ノ口の負けだ。
佐羅谷あまねは、深窓の令嬢は、いつも基本的に一人で、すべて自分で解決してきた。沼田原先輩や宇代木天という仲間はいるが、自分のことを自分で片付けるしかなかった女子は、群れることでしか意見できない女子など、相手ではない。仲間内の同調や政治に割く労力を、己を磨くために使えるのだから、もとより勝負にならない。
沖ノ口も、深窓の令嬢に成り代わりたかったのなら、見た目や行動だけではなく、孤高の精神も真似るべきだった。人をうまく使ったところで、あの境地には至らない。
やっぱり俺は、佐羅谷の足元にも及ばないな。
「さあ、邪魔者も消えたし、続きをやろう! みんな、気分を入れ替えてね!」
ぱんぱんと手を打ち、沖ノ口は声を上げた。この日、沖ノ口は一切俺に話しかけようとしなかった。文化祭の練習も、いつもより早く、午後五時に終わった。
(確か今週は六時まで学校に残れたはず)
「九頭川くん、グッバイ」
入り口に座っていたイリヤさんは、いい笑顔だ。
俺の足は自然と恋愛研究会に向かっていた。
「のう、九頭川さんや」
「何ですかのう、山崎さん」
「わしが教室の隅で鬱になっていたとき、深窓の令嬢がやってきたという噂を聞いたんじゃが」
「深窓の令嬢が尖塔から出ることなんて、ありませんよ」
「そうじゃのう、そうに違いなかろう。だが、男子を呼びに来たとも聞いたんじゃよ」
「のう、山崎さんや。深窓の令嬢が男子を呼ぶなんて、天地がひっくり返ってもありませんことよ」
「そうじゃのう、そうに違いなかろう。深窓の令嬢が、おんみずから、男子を呼びに来るなんて、あるはずがないのう」
「おまえ、罰ゲームで騙されてない?」
「あ、やっぱり?」
いちばん人のいない校舎の、理科実験室は静まりかえっている。
二つある扉の前に、「恋愛相談受付中」の札も、「部員専用」の札もかかっていない。
(ここじゃないのか)
もしかしたら、もう帰ったのか。
力任せに扉を引くと、すんなり開く。
埃っぽい空気が舞う。
誰も、いない。
気配はない。
かすかに、花の香りが残る。
鍵がかかっていないということは、また戻ってくるはずだ。
中に入って、席に着く。扉を開けたままにし、外が見えるように。無意識に座った席は、いつも自分が座っていた席だ。こんな時くらい、佐羅谷が座っている席に堂々と座ってもよかったのにな。
手持ち無沙汰な時間が過ぎる。
もうここに着いて、十分は経った。
この部屋には来ないのだろうか。
通知のないスマホを撫でるのも、カバンに入っている文庫本を開くのも、無聊の慰みにならない。
何度目かのわずかな物音に、面を上げる。
何も、ない。
「何をしてるの」
「ひい!」
俺は椅子ごと前に倒れて、激しい音を立てる。
後ろに、耳の後ろに、佐羅谷の声が聞こえた。
「ご、ごめんなさい。そんなに驚くとは思っていなくて」
「申し訳なさそうに笑いをこらえるのはやめてもらえますか、佐羅谷さん」
「だって、外を見たまま全然こちらに気づかないんだもの」
佐羅谷は、カーテンと移動式カーテンレールを持って、理科実験室の物置代わりである準備室から出てきた。埃まみれの部屋で、実験室からしか出入りできない。ほとんど使わない部屋だった。
まだくすくすと笑っている。
「どうしたの? クラスの役職者が、部活に来ていいの?」
「引っかき回して使い物にならなくした張本人が何を言ってるんだよ。今日はもうお開きだ」
「ふうん、それで、なにか用?」
用と言われると、困る。
部員だから、いてもいいからここにいるだけだ。
「どうしたの、何もないの?」
「別に。ほんとうは一週間前から手伝う予定だったしな」
「あら、そう。じゃあ、これをお願い」
抱きかかえていたカーテンを受け取る。若干の埃に混じり、交錯する先ほどの香水の香り。俺はどうやら鼻が効くらしい。
「荷物の移動はこれでおしまいよ」
「恋愛相談ブースは、この部屋じゃないんだな」
「こんな奥の奥に、誰も来やしないわ。文化祭実行委員会から、いい場所を借りたの。空き教室だから、事前に荷物を入れておけたのよ」
「なるほど」
「一人で準備しないと行けないから、考えていたし」
「なるほど」
俺にカーテンを持たせると、佐羅谷はいつもの黒い緞帳を抱える。
どんな準備が必要なのか知らないが、カーテンなんて普段使わないものが必要なのか。
じゃあ、行きましょう。もうこの部屋に用はないわ。鍵をかけるけれど、忘れ物はない?」
「ああ」
鍵をかける佐羅谷を見ると、いつもと雰囲気が違う。
(ああ、制服を脱いでいるのか)
上の白いブラウスではなく、Tシャツだった。薄いシャツに、濃い色の下着が透けて見え、少し目のやり場に困る。下を見れば、いつもの黒タイツではなく短い靴下だった。佐羅谷が足を晒してるのは珍しい。思わず細く白い脚部に目が釘付けになる。
「さっきから、九頭川くん、何を見ているの」
「あ、いや、別に。上着脱いでるんだなって思って」
「汚れるから、それだけよ」
確かに、まだまだ暑い九月の半ば。ただでさえ少し動けば汗をかく。さらに、埃っぽいものを抱えると、汚れもつく。俺には有無を言わせず押し付けてきましたけどね、佐羅谷さん。
「九頭川くん、改めて、ありがとう。いろいろな人が、手伝いに来てくれたわ。おかげで、何とか配信もできそうよ。思っていた通りの形で」
「それはそれは。身に覚えはないが、よかったな」
「もう、またそんな言い方をするのね。わたし、わかってるのに」
実際に、俺は何もしていないからな。
半歩前をゆく佐羅谷が、一瞬だけ顧みる。
「ところで、」
そう言って言い淀む。
ざっざっざっと二人分の足音がしじまに響く。
「途中で話しをやめるなよ。気になるだろ」
「いえ、別に、大したことじゃないわ。天とは、連絡し合ってるのかしら?」
「宇代木か? いつもたわいないラインは来てるぞ。晩ご飯の写真とか、ダンス練習中の動画とか。俺のアカウントはストーリーじゃないんだが」
「直接の電話はしないの?」
「電話なんて、用事がないとしないだろ」
「そう」
ため息をつき、肩を落とす。
どうしてガッカリされるのだ。いくら俺でも、ダンス部の練習に邁進している宇代木を翻意させるのは難しい。当日は来てくれるだろう。
「さ、この教室よ」
「こんなところに空き教室があるんだな。やっぱり、生徒が減っているのかね」
奈良県の県立高校も、合併が進み、いつの間にかかなり数を減らした。我らがかつらぎ高校はまだ健在だが、この高校もいつまで単独で維持できるか。
佐羅谷が荷物を小脇に抱えたまま危なっかしく扉を開ける。中にはすでに相当の荷物が運び込まれていて、机や椅子も隅に寄っていた。
張り紙の看板にでもするのか、テープで繋いで大きくした紙が置いてあったり、色とりどりのマジックが床に転がっている。佐羅谷らしくない、床にあんなものを置くなんて。
と思っていたら、
「そのカーテンは、適当に置いておい……きゃあ!」
「言わんこっちゃない!」
足元の見えないまま緞帳を抱えた佐羅谷が、見事にマジックを踏んで後ろ向きにころびそうになる。
慌てて飛び込んで、背中から抱きこんで転倒する。
(前もこんなことがあった気がするぞ)
幸い、持ってきたカーテンが緩衝材になって、痛くはない。力任せに抱きしめた佐羅谷が、俺の胸の中でもぞもぞしている。
「ご、ごめんなさい。足下がよく見えなくて」
「あー、いいからいいから。あんまり動くな」
変に起きようと動くたびに、佐羅谷の足が俺の足に絡まり擦れる。まくれ上がったスカートがいっそう際どい。薄い服越しのブラの感触もわかってしまう。
猫を後ろから掴み上げるように、肩甲骨あたりを押して立たせようとした時、廊下に足音が聞こえる。
無意識だった。
無意識に、佐羅谷が脇に落とした黒の緞帳を引っ張り出して、頭から布団をかぶるように、隠れる。
「ちょっと、別に隠れる必要ないじゃないの」
「いや何となく、」
「もう、隠れたらかえって出られないじゃない」
黙っていなさいよ、と呟いて、佐羅谷は俺に抱かれたままじっと息を潜める。俺も同じく、息を殺す。頼む、スマホの通知は来ないでくれ。
「おーい、佐羅谷、いるかー?」
犬養先生の声だ。
教室の入り口で足音が止まる。
「んー、いないか、しかし、荷物はある。カバンも上着もあるな。まだ荷物の移動中か? ということは理科実験室に行ってるのかな?」
やましいことがあるわけではないが、なるほど隠れてしまったのがかえってまずい。見つかりやしないか、心臓がバクバクと鳴る。
「ふうむ。仕方ない、実験室へ行ってみるか」
犬養先生の足音が遠ざかる。
足音がしっかり離れるのを待って、佐羅谷は体を回して俺に顔を向けた。暗くて、表情は見えないが、笑っている気がした。
「行ったようね」
二人、ほっと安堵の息を吐く。
黒い緞帳の中が、少し暖かくなった気がした。
「おお、二人とも探したぞ」
俺と佐羅谷が緞帳から這い出て服装の乱れを正していると、再び犬養先生が姿を見せた。声がいつもより少し明るく跳ねている。
「悪いが、今日のところは早めに帰らせてもらいたくてな、理科実験室の鍵はあるか?」
「はい、どうぞ。わたしたちも、もう帰ろうと思っていたところです」
「おう、そうかそうか」
妙ににこにこと上機嫌。
「なんだか、犬養先生、楽しそうですね」
「ん? 別に何でもないよ? さあ、じゃあ、帰ろう帰ろう」
犬養先生がやけに早く俺たちを帰らそうとしているのに、違和感を覚える。
その時、ポーンと俺のスマホに通知が届く。画面を見て、得心した。
(ああ、なるほどね)
「犬養先生、機嫌がいいのはこれですね」
『九頭川くん、元気かい? 今度、君たちの文化祭に遊びに行くよ! 面白そうな出し物をするらしいじゃないか。楽しみにしているよ』
スマホ画面を掲げて見せる。
通称ヒグマ先輩、夏休みのリゾートバイトでお世話になったリーダーにして、現在犬養先生とつきあっているらしい豆市先輩が連絡してきた。
『あ、別に案内はいらないよ。犬養先生に頼むから』
果たして、文化祭当日犬養先生に時間があるのかはともかく、画面を見た犬養先生はバツが悪そうに固まり、佐羅谷は呆れてかぶりを振る。
「先生、ほんとう、ハメを外しすぎないでくださいよ。顧問の不手際で同好会消滅なんて、洒落になりませんから」
「ふん、なんだ、私だって、そのくらい分別はあるよ。しばらくご無沙汰だったんだ、ちょっとくらい、浮ついたっていいじゃないか」
大人の女の人が恋をする様子なんて、もっと穏やかなものかと思っていたが、どうも俺たち高校生の在り方と、大きく違わないようだ。幸せのおすそ分けというのか、別に見ていて嫌な気持ちにはならない。ちょとうらやましいだけだ。
不満げに拗ねたまま、犬養先生は俺たちに早く帰るように言い、さっさと駐車場に向かっていった。誰かに電話していたが、十中八九、ヒグマ先輩だろう。
こちらまで気恥ずかしい気分になって、佐羅谷とも目を合わせられない。佐羅谷も同じらしく、俯いて所在なく髪の毛を梳いている。
「俺たちも、帰るか」
「そうね」
「この教室に鍵は?」
「ここは開けっ放しよ」
「大丈夫か、せっかく運んだ道具を盗られたりしたら」
「善意は海を越えても届くけれど、悪意はすぐに挫けるものよ。わざわざここを見つけてまで、いたずらする人はいないわ」
「三島由紀夫か。それならいいが。とにかく、駅まで送る。自転車取ってくるから」
「じゃあ、校門で待っているわ」
自転車を取りに行くと、間が悪いことが起きる。
実に悪い。大殺界だ。意味は知らないが、きっと悪いことを意味する単語だ
沖ノ口が自転車を出そうとしていた。何だよ、あいつ。さっさと帰ったんじゃないのか。
幸い今はこちらに気づいていないが、このままでは自転車を取りに行けない。しばらく様子を見ている。
「あっれー、輔、いま帰りー?」
まんまるボブを跳ねさせながら、三根まどかが後ろからやってきた。もう知らないふりはできない。
振り返ると、三根の後ろに素で怖い上地しおりが一緒にいた。トレードマークの片方に寄せた長いポニーテールを揺らしながら、しきりにスマホを覗いている。
「よう、いろいろありがとな、三根」
「ううん、気にしないで。願いは、あと一つ叶えてあげるからね」
「それは要らないって」
「あー、それだ、九頭川、おまえ騙しやがって。三根もだ。ややこしいこと言ってんじゃねーよ。無茶なお願いしてきたら、あたしに言えよ?」
「輔は無茶を言わないんじゃないかなー? だけど、しおちゃんにもこの権利は渡さないよーだ。人に何かをしてもらうよりも、人から何かを頼まれるほうが、よほど難しいんだから」
「三根の言うことはよくわからねーわ。まあ、このヘタレが、大それたお願いなんかするわけないか」
口を歪めながらぽちぽちとスマホをいじる上地の顔に、ぱっと花が咲いた。
きつい面立ちの女が、不意に見せる乙女の顔だ。わかりやすい女だな。
「何だよ、人の顔見て笑ってんじゃねえ」
「笑ってない。楽しい顔してるなと思っただけだ」
「ふん、おまえなんてコミュ障だから知らないだろうけど、今度の文化祭、豆市さんも来てくれるって」
「え、そうなの? その人、名古屋の大学生なんでしょ?」
「大学院生だってば」
なぜか上地は自分のことのように誇らしげだ。大学院がなにかもわかってないのだろう、俺と同じだ。
「どうしてわざわざ文化祭に来るんだろうね? 高校生のだよ?」
「さあ、知らね。でも、やった、また会えるかも」
「チャンスじゃない。ちゃんと、算段つけなさいよ」
「うん、うん、時間合わせとく」
三根のほうが見た目は小柄で幼いのに、まるでお姉さんのようだ。当たり前にその状態を受け入れている上地は大きな妹そのもの。
ほんとうに、楽しそうなことだ。
三根も上地も、わだかまりもなく、元気になったようでよかった。ただの知り合いとはいえ、悲しんでいる姿は気分が良いものではない。
しかし、今の上地はヒグマ先輩狙いか。なぜあの人がこちらへやってくるのか知っている身としては、気の毒にも思える。恋愛は椅子取りゲームだ。必ずあぶれる者が出るんだ。ただし、空いている椅子を探すか、奪い取るか、空くまで待つか、選択はできる。
「まあ、幸運を祈るよ。じゃあな、俺は帰る」
自転車を出して近づいてきた沖ノ口を横目に、逃げ出そうとするが。
「たすく、待って。どう、久しぶりにみんなで遊ばない?」
遅かった。
みんなって、なんだ。
一年の時だって、俺が一人で女子と一緒にどこかへ行くなんて、なかったじゃないか。勘弁してくれ。
「俺がいても、つまらないだろ。谷垣内の取り巻き連中がいただろ。和田と殿井と古野だったか。あいつらを呼んでやれよ。ちょうど三人三人で、バランスもいい」
「冗談はやめてよ」
沖ノ口は心底嫌そうに眉根を寄せる。
「そっか、輔は谷垣内くんと遊ばないから、知らないんだ。いま、谷垣内くんは別の男子たちと仲がいいんだよ」
「じゃあ、そっちといっしょに遊んだらいいだろ。那知合もいるし」
そうか、一年の時の谷垣内の取り巻きは、全員離れてしまったのか。いや、表現が逆だな。谷垣内は選ぶ立場だ。谷垣内が他の面々に見切りをつけたのだ。そういえば、ラインのグループも最近は動いていなかった気がする。
俺は表向き自分から連絡を絶ったが、谷垣内から切られるのは時間の問題だった。
「ぜんぶ、たすくのせいじゃない」
「おまえらの仲違いまで俺のせいかよ」
「やめなよ、おっきー。輔はほんとにわかってないみたいだし」
「おこちゃまなんだよ、こいつは」
「上地、あんまりバカにするとヒグマ先輩に告げ口するぞ」
「ほんと、一人じゃ何にもできないんだな」
俺が告げ口なんてしないことを見越しているのだろう。上地は半眼で睨んでくるだけだ。
俺が一人では何もできないというのは正しい。上地を救えたのも、後ろにヒグマ先輩がいてくれたからだ。
口で女子高生に打ち勝つのはまず無理だ。口論で勝てる気がしない。何なら、空手をやっている上地には武力でも勝てないだろうが、とにかく、逃げるに限る。
「あー、人待たしてるから、帰る」
「たすく!」
「なんだよ」
「文化祭、時間とってよ。すこしでいいわ」
「多少なら」
「約束よ」
俺は返事をせず、頷くだけで答える。
もう止められないように、黙って素早く自転車を出す。
女子三人の視線が、痛かった。
「遅かったわね。電動アシスト自転車にしたほうがいいんじゃない?」
「面目ない。電動アシスト自転車でも充電を忘れるのが俺だぜ」
「スマホの充電は忘れないのにね」
「いや、よく忘れるよ?」
「あなた、それでも現役高校生なの? よくやっていけるわね」
「モバイルバッテリーを常備してるからな。ついでに、ソーラーパネル充電器。授業中も、窓際のやつに頼んで、見えないように充電してたりする」
「その備えを事前にできないあたりが九頭川くんね。人にスマホを渡して、怖くないの」
「指紋認証だからな。どうせ動かせない」
「あら、指紋認証なんて、指を切ってしまえば、簡単に使えるわよ? 指を使うことを悟らせないように、死体を全焼させたミステリー小説を読んだわ」
「指のために燃やされるのはちょっと……」
遅れても待っていてくれた佐羅谷と、横に並んで歩いて駅に向かう。雑談に花が咲く。
わりと機嫌が良いようだ。
「指だけは残して犯人はスマホを操作する。全焼した遺体は誰かは分からず、本当は死んでいる被害者からメールがまだ届く……そんなトリックか」
「さすが、九頭川くんね。悪事はすぐに思いつく」
くすくす笑う佐羅谷は、楽しそうだ。もっと、小説や文学について話せる友達を作ればいいのに。
「実際、どうなんだろうな。指を冷凍保存しておくんだろうか? きちんと指紋認証は動くんだろうか」
「動くんじゃない? 水に濡れたり、アルコールで指紋が薄くなっていると難しいみたいだけど、指紋に本人の意思なんてないんだから。たとえ、眠っていても反応するはずよ」
「怖いな。相手の前で寝ているってことは、信頼している場合だからな」
「そういえば、九頭川くん、ちょっとこの前のメッセージで、」
佐羅谷がなにか言いかけると、ちょうど頭上が光った。
「ひゃっ」
間髪入れずに強烈な轟音。
ドガドガドガドガッと、雷が落ちる。
空は一瞬で黒い雲が覆い、目に見えそうな大粒の雨が手を、頭を、顔を、制服を打ちつける。
「ウソ、にわか雨?」
「まずいな、学校に戻るにもJR高田駅に行くにもちょうど中間地点じゃねえか」
秋のゲリラ豪雨、どうせものの数分で弱まるのは確実だが、このあたりに雨宿りできる場所はない。一番近いのは高田市駅の商店街だが、そこへ行くなら俺の家のほうが近い。
俺は自転車に跨がり、後ろの台座を叩く。
「佐羅谷、後ろに乗れ。家まで飛ばす!」
「え、でも、わたし駅までで」
「駅より家のほうが早い!」
「それに二人乗りは」
「いいから! 奈良県の警察は、雨の日は仕事しねえから!」
バケツをひっくり返した、という定型句にふさわしい雨が、あたりを襲う。車が道路に溜まった水を跳ねる。
もう有無を言わせない。
俺は佐羅谷の腕を引っ張り、無理矢理後ろに乗せる。つんのめりながら、横乗りに座る佐羅谷。
「しっかり捕まってろよ」
声も聞こえない。返事の代わりに、俺の腰に腕が回った。華奢な腕が俺に巻きつく。
「よし、行くぞ」
最短距離で、信号のない道を、走り抜ける。何のことはない、普段の通学と同じ道だ。半分目を瞑っていても無意識で辿れる。
だが、家について玄関の屋根の下に入った時には、二人どこまでもびしょびしょに雨水にやられた。服は制服から下着まで、全部濡れてしまった。カバンはなんとか外側だけで済んでいそうだ。
後ろに座っていた佐羅谷は、幾分マシだったが、やはり衣服はほとんど濡れていた。
黙って体に張り付いたスカートやブラウスを剥がして空間を作っている。濡れた髪が、顔や首の形に従う。
「もう、高田市駅でよかったのに。わたしはイリヤを呼んだらいいだけなのよ?」
小降りになってきた空をうとましげに見上げる。
「すまん、そういえばそうだな。すっかり忘れてた」
「ほんと、そそっかしいんだから」
佐羅谷は濡れた手でスマホを取り出し、イリヤさんに電話する。佐羅谷のスマホは、顔認証だった。
『あー、ごめん、今日はちょっと迎えに行けない。悪いけど、自分で帰ってくれ』
「ちょっと、イリヤ、ずぶ濡れなのよ、助けてよ」
『でも、九頭川くんと一緒なんだろ?』
「……どうしてわかるのよ」
『ほーら、図星だ。なに、遅くなったら、五位堂までは迎えに行ってやるよ』
「ちょっと切らないでよ、ねえ、イリヤ」
だが佐羅谷のことばは虚しく、通話の切れる音が流れる。
佐羅谷がこんなに簡単に、助けてだの切らないでだの、要求するなんてな。ほんとうに恋人のようじゃないか。
沈んだ顔で、佐羅谷は前に垂れた髪の毛の間から俺を見上げる。絶望的な顔をするなよ。
「あー、佐羅谷が嫌じゃなかったら、だけど、シャワーも洗濯機も乾燥機も使っていい。二時間くらいで乾くだろ。もちろん、駅まで送って行く。どうする?」
それ以外の気持ちなど一ミリもない。ほんとだよ? それに、佐羅谷をこの姿で電車に乗せることはできない。
「じゃあ、申し訳ないけど、お邪魔するわ」
「よし、待ってろ。まずはバスタオルを取ってくる」
佐羅谷が、ダブついたTシャツを着て、ハーフパンツの腰回りを押さえながら、居間に入ってきた。髪の毛も乾かしたようで、濡れた感じがしない。顔がさっぱりしている。
「ありがとう。九頭川くんも、シャワー浴びたら?」
「また後でな。それより、何か飲むか?」
「温かいお茶が欲しいわ」
「わかった」
ティファールで沸かしたお湯に、パックの緑茶を二つ作って、テーブルに置く。湯呑みに軽く口をつけて、佐羅谷は大きく息をついた。
奥で、洗濯機が回るうおぉぉぉーんという音が静かに響く。
佐羅谷が俺のお古の服を着ている。当たり前だが、男物の服を着ても、佐羅谷は女子だった。女性ものの下着はないので、当然、服の下は何も着ていない……それ以上は何も考えないようにする。
新鮮な姿だった。
ラフな格好も、くつろいだ表情も。
「あまり、見ないでよ。メイクしていないの、恥ずかしいわ」
「大して、違わないだろ」
「だから九頭川くんはダメなのよ」
湯呑みで顔を隠しながら、佐羅谷は笑う。本気で蔑んだ感じではなく、慈しむ温かさがあった。
「前に来た時も思ったのだけど、九頭川くん、読書に節操がないのね」
「俺は活字中毒だから、あったらなんでも読むぞ。本棚の半分は親父の本だ」
いつのまにか二人で俺の部屋に移動して、くつろいでいた。
「佐羅谷は、ミステリーと文学ばかりか。今度、本棚を見てみたいな」
「別に、面白いものなどないわ。普通の女子高生の本棚だと思うけど」
「普通の女子高生の本棚なんて、見たことねえよ。だいたい、今どきの女子高生が本棚なんて持ってないだろ」
「天のは、すごいわよ」
なんとなく想像はつく。見て楽しいとは思うが、違う、そういう意図ではない。
「俺ばっかり部屋も本棚も見られて、不公平じゃねえか」
「また、機会があったらね」
曖昧な笑顔ではぐらかす。
イリヤさんと二人で暮らしている部屋に、他人を上げる気などないのだろうな。これ以上無理強いするのはやめておこう。
だいたい、イリヤさんとは、兄妹だというのは佐羅谷が明言しているから間違いないとして、疑問は残る。
『ぼくは十津川出身じゃありません』
嘘だとは思えないイリヤさんのことば。
佐羅谷は十津川出身だから、二人は普通の兄妹ではない。親のどちらかが違うか、もしかしたら両方が違う。
さらに、兄をイリヤと名前呼びする違和感。イリヤさんの過保護なまでの干渉。
この兄弟は、どこかおかしい。
今なら、きちんと聞けるだろうか。
「なあ」
「ねえ」
尋ねることばが重なる。
顔を見合わせ、気まずく押し黙る。
気まずい沈黙に、スマホがポーンと鳴る。
「親父からだ。もうすぐ帰るって。あ、まずい、佐羅谷、乾かしてる服、早く着替えたほうが」
「九頭川くんは、人差し指で指紋認証するのね」
「まだそこを引きずってんのかよ。ほれほれ、さっさと着替える。親父が帰ってきたら、送っていくよ。それとも、一緒にご飯食べていくか?」
冗談のつもりだったが、佐羅谷はしばし真面目な顔で考える。
「ダメね。さすがに、あまりに遅くなると、イリヤが怒るから」
「俺と会うのは怒らないんだな」
「不良でもない友達と会うのに、どうしてイリヤが怒るのよ」
もし俺に彼女がいたなら、ただの友達であっても、異性の部屋に二人きりで一緒にいるなんて、絶対に許せない。遊びではなく家でご飯を食べるなんてのも同様に、だ。
イリヤさんは、やはりただの兄なのか。
たった一言、尋ねれば解決する質問ができないでいる。
「さ、着替えたわ。じゃあ、送っていってもらいましょうか。服は洗って返さなくていいの?」
さっきまで佐羅谷が着ていた服は、わずかな熱を帯びている。俺は無心を装い、洗濯カゴに投げておく。
その後、帰ってきた親父のジョークはつまらなくて、ジョックな上から目線に一悶着あったものの、佐羅谷を無事に駅改札の向こうへ送り届ける。
雨はウソのように止んでいたが、暗がりの窪みには水溜りが残っていた。高い湿度。何事か起きたのならば、「痕跡は残る」ものだと実感する。
「送ってくれて、ありがとう」
「ああ、気をつけてな。駅からはイリヤさんを呼べよ」
「ほんと、心配性ね」
「夜は魑魅魍魎の跋扈する危険な世界だからな。ましてや平和も秩序もない奈良県カシバ・シティだ」
「ひどい言われよう」
今の時期は、蝉の鳴き声よりも珍走団の騒音がうるさい奈良県だ。
「そういえば、九頭川くん、今度、教えて。一度送ったメッセージを消去する方法があるらしいのだけど」
「またスマホの話かよ。落ち着いたときにでもな」
聞き流して、手を振る。
だが、名残惜しそうになかなか駅ホームへ行かない。佐羅谷にしては、胡乱だ。明日も会えるだろ、と言うともごもごと口ごもる。
「帰ったら、連絡よこせよ。電話でもメールでも、話はできるから」
ようやく納得したようで、佐羅谷は階段に消える。
文化祭まであと六日。
どうやら、クラスの出し物も、恋愛研究会のブースも、形にはなりそうだ。何も起きなければいいが。つつがなく文化祭が終わってほしい。
実に、昨年と違い、文化祭を自分のこととして楽しんでいる自分に驚いている。
主体的に関わること……きっかけはあくまで他薦だが、自ら意識して関わり、何かを作り上げるというのは、楽しさの素になるのだと知る。
周りからただ与えられる楽しさは、一時的な快楽に過ぎない。どんどん刺激を強くしていかないと、楽しさを感じられなくなる。麻薬のようなものだ。
与えられる楽しさに慣れると、やがてどんなものも楽しくなくなる。
楽しさは、己の心のあり方だ。
自分が動かなければ、楽しくない。
自分が楽しもうとしなければ、楽しくない。
そういうことだ。
クラスの劇の締めかたは、最後まで紛糾した。
劇の結末に正解版と間違い版の二つがあるのは、確定している。内容にも役者陣は納得した。
問題は、何をもって正解とするかだ。
なんと、体育館を使って、土曜日と日曜日の二回、大々的に謎解きゲームを披露することが決定した。劇と謎解きというインタラクション・イベントが文化祭実行委員から期待されたようだ。
これは、観客が多くなる。
だから、いくら正解の組み合わせが120通りといえども、正答率が上がる(もとより、正解がわかるようなヒントはあるのだから)。誰か一人でも正解ならば正しいルートを演じるとすると、あまりにも難易度が下がってしまう。
「じゃあ、こうしましょう。今まで一度も演劇を見ていない人が、クラスに十人ほどいるわね? 彼らに一度先入観なしに劇を見てもらって、その正答率から考えましょう」
クラスの出し物とはいえ、無関心を決め込む者、部活を優先する者はいる。彼らに観劇してもらった結果、正答は三人。話し合いの末、正答率三割以上、かつ最多得票の場合のみ、正解ルートを演じることに決まった。
「たすく、いよいよ、明日からね」
「よくここまで形になったもんだと思う。沖ノ口、がんばったな」
「熱でもあるの?」
「人を病人を見る目で見るなよ。ええい、おでこを触ろうとするな」
「だって、別人みたいに優しいから」
クラスの面々で、文化祭に前向きな者たちのテンションはマックスだ。最高潮だ。今日の最後の練習も、劇からアンケート回収、集計まで、全部通してみて、何とか上手くいきそうだ。
いつも参加していなかった十人の無関心者への柿落としも、思ったより好評だった。これは、期待できる。
それもこれも、沖ノ口のアイデアと、監督のおかげだ。俺は選ばれただけ、与えられた役を演じただけだ。
まだ始まってもいないのに、クラスは騒々しく、前夜祭とか何とか理由をつけて遊びに繰り出そうとするメンバーと、たしなめようとする真面目なメンバー。みんな楽しそうだ。
俺は少し離れた場所にいるが、楽しいのは楽しい。
教室の真ん中、椅子に座って劇を眺めているだけ。隣に、沖ノ口がいる。いつのまにか二人揃っているのが、風景のようになった。
今も喧騒は俺たち二人を取り巻くように渦巻いている。
「どうする? 沖ノ口さんと九頭川くんも来る? ガストだけど」
「あたしは遠慮しておくわ。たすくは?」
「俺が行くわけないだろ」
「ほらもう、二人の邪魔しちゃダメだって」
「あ、そうだね、ごめーん、気が利かなくて」
「もう、そんなんじゃないわよ」
聞き流してもこんな感じだ。
クラスの奴らはきっと勘違いしている。沖ノ口が俺に向ける感情は、ただの「大切な台本屋」だ。一年のときの人間関係がどう変化したかわからないが、沖ノ口も何かしら知名度や信用を得たかったのだろう。
イメチェンで深窓の令嬢に挑戦し、クラスの出し物で監督をこなし、せめて出し物人気投票で全校三位以内に入れば、沖ノ口の存在はそれなりに知れ渡る。
今後もけっこう良い立場で学校生活を送れるだろう。俺を懐柔して手なづけておくのは、台本係が増長しないためには、自己主張しないためには、必須のことだ。
劇の内容もやり方も、全部俺に丸投げしているようで、実は要所要所は締めて、誘導していた。やはり、この女はやり手だ。
「たすく、早く終わったけど、今日はどうするの?」
「あー、ちょっと最後の確認に、部活の方にな」
「まだ、そんなこと言ってるの? いいように使われてるって、わかってるんでしょ? どうせ、文化祭当日はクラスに出てもらうのだから、たすくは部活なんて行けないわ」
「それは、困る。元々は台本だけって約束じゃねえか。劇の内容まで面倒見てる今のほうが、よほどこき使われてる」
「ひどい。たすく、そんなふうに思ってたんだ」
「とにかく、今日は今から宇代木と話なんだよ。部活だって、ぶっつけ本番じゃまずいんだよ」
「じゃあ、部活の出し物が、なくなってしまえばいいのね」
黒い瞳が、じっと俺を見つめる。
「発言が怖ぇよ。案内にも載ってるし、今さらなくなるもんかよ」
「でも、なかったら、たすくは、クラスの方に来てくれるのね」
椅子に座ったまま、じっと圧を掛けてくる。
「うふふ、楽しみね。文化祭、きっと、面白くなるわ」
「そうだといいな」
適当に答えて、俺は席を立つ。
沖ノ口と話していると、変な怖さが胸を騒つかせる。俺の単純な精神は、まるで傀儡のように操られている気分になる。
「たすく、また明日」
俺は頷くだけで、返事をせずに身を翻す。
教室の後ろの扉の横には、イリヤさんが座っている。女子連中に囲まれている。そういえば、教育実習は今日までだったか。配慮のないことだ。せめて、文化祭まで実習期間に組み込めばいいものを。
「さよならです、佐羅谷先生」
「やあ、有意義な三週間だったよ。九頭川くんのおかげでね」
女子連中を差し置いて、イリヤさんは俺にかいなを拡げる。
「文化祭、楽しくなりそうだね。クラスの劇も観に行くよ。ネタはわかってしまっているけど、観客の反応を想像するだけで、わくわくするね」
「だといいっすね」
女子と話していればいいものを、やはりイリヤさんは俺を見逃さない。佐羅谷につく悪い虫は、どこまでも警戒するということか。
さっきまできゃあきゃあと囲っていた女子も、なぜか俺とイリヤさんが話すときは、興味深そうに黙っている。落ち着かない。
「あとは、部活のほうかな。そちらも、楽しみだね」
「楽しみなら、檄を飛ばしに行ってやってくださいよ。きっと今ごろ、一人孤独に押し寄せる虚無感と戦っていますよ」
「なんだい、それは君の役目じゃないか」
「俺は今日は行けないと思いますよ。もう一人手強い相手を説得する必要があるんでね」
「ふーん?」
「ビー・シュア・トゥ・ゴー・トゥ・ハー」
しょぼい英語で言うと、イリヤさんは眉根を寄せた。アメリカ人っぽく大仰に肩をすくめる。
「オーケイ、アンダースタンド」
本当は流暢な発音ができるくせに、あえてカタカナ発音の英語で返してくれた。
これが、防波堤になれば良いが。
一縷の望みをかけて、託せる相手に託す。俺にできるのは、無様に助けを乞うのみ。
いつでも、そうだ。
いつでも、俺は一人では誰も助けられない。
いつでも、人を頼るしかできないんだ。
だが、ここから先の戦いは、俺一人。
俺だけしか、作れない道だ。
楽しいはずの文化祭、前日の重みがズンっと双肩にのしかかる。
さあ、宇代木は来てくれるのか。
ダンス部の部室から適度に離れた場所で、なるべく目立たないように背を向けて立つ。一般人がスマホを眺めながら窓の外の夕陽を見ている感じで。
ダンス部には、那知合花奏がいる。
俺は一年のとき、那知合つながりでダンス部の面々には名前くらい覚えられているはずだ。着こなしや髪の色、髪型も変えて面影はないはずだが、それでもバレてしまうのは好ましくない。
願わくば、早めに一人で宇代木が出て来てほしい。
なんとなくだが、宇代木は一人で出てきそうな気がする。強烈なコミュ力を持つ宇代木ではあるが、彼女の力は対個人であって、複数の中で主導権を取れるような気質ではない。たくさんの知り合いはいるが、深い友達が佐羅谷しかいないということも、傍証になる。
親しくはできても、一緒に帰ろうと誘われるグループには入れない。自分から誘えても、誘われることはない。誰とも仲良くなれることの代償に、一線引かれてしまうのだ。
「でさー、あいつが言うわけよ」
「えー、マジそれ、うっけるー」
「言いそう言いそう、ほらあん時もー」
そして、三々五々ダンス部の女子が出てくる。ダンス部は男女混合だが、男子はごくごく少ない。
ダンス部に入るような人間は、みな見目よく、自分(体)に自信があり、性格も外向的な恵まれた者ばかりだ。と思う。廊下の隅に立つ俺など、風景とも思わず、一瞥さえくれずに歩き去っていく。ありがたいことだが。
うつむく視界に、短いスカートから伸びる健康的な太ももが飛び込む。
「ちゃおー、くーやん。待っててくれたんだ」
俺の視線を遮るように回り込んできたのは、太陽のように明るい笑顔の宇代木だった。
「おお、宇代木、時間とってもらって悪いな。まず場所を移動しよう。ここは俺にはまばゆすぎる」
「何わけわかんないこと言ってんのー。まあここじゃ話にくいけどさ。中庭行こっかー」
宇代木と面と向かうのも久しぶりな気がする。半袖のブラウス、相変わらず短いスカート、惜しげなく晒した腕と脚が目のやり場に困る。少しだけ四肢が引き締まったような気がする。連日のダンス特訓の成果だろうか。
ふわっと金髪が揺れ、制汗料の香りが俺の鼻先をかすめる。
「ほらほら、こっちこっち」
俺の服の袖をつまんで、とことこと歩き始める。
同じく帰途に就くダンス部員の視線が痛い。
「あー、いーちゃんバイバイ。明日がんばろーね」
「うん、がんばろーねー。司会は完璧!」
ダンス部も文化祭は見せ場だから、気合が入っている。ダンス部から見たら宇代木などイレギュラーな存在だと思うが、やはり、持ち前の運動神経と頭脳で、ダンスでも上位につけるのだろうか。
それにしても。
「なあ、前から気になってたんだけど、いーちゃんってなんだよ」
谷垣内も、宇代木のことをいーちゃんと呼んでいた。宇代木の名前は、宇代木天。どこにもいーちゃんと呼ばれる要素はない。いーちゃんはいーちゃんだよ、とトートロジーを語る青色サヴァンもいない。
「あー、ナチ子がねー、あたしのことそう呼ぶんだよ」
ナチ子、那知合のことだ。
「説明になってないぞ」
「あー、あたしってさ、ほら、神出鬼没じゃん? そしたらさー、クノイチみたいだから、くのいっちゃんて呼ばれ始めてさー。いつのまにかそれがいーちゃんに」
「あー、納得。じゃ、俺もいーちゃ」
「やめてマジで無理」
「お、おう、久々に食い気味に否定してきたな」
「親しい人にはさ、きちんと名前で呼ばれたいじゃんか」
「そういうもんか」
「そういうもんさー」
教室と教室の間にある中庭は、ちょうど日陰になっていた。秋の低い太陽が、長い影を伸ばす。
大きなケヤキが一本と、ツツジの植え込み。脇にあるベンチには、誰も座っていなかった。
二人で、ベンチに腰を下ろす。
「それで、話ってなにさ?」
「わかってるだろ、文化祭の恋愛研究会のブースのことだ」
「行くよ。ダンス部がないときは、ねー。もう話したことじゃんか」
鞄から取り出した無糖のアクエリアスのペットボトルを口に。喉がこくこくと動く。
「だが、明日から文化祭は始まる。今日のうちに情報共有をしておいたほうがいい。いつもの部活とは違うんだ。聞いているだろう?」
「聞いてるよー。中学生だっけ、たのやんの知り合い? あらかじめ何人か、相談者を用意してるんでしょー」
「配信もあるし、いつもとは勝手が違う。俺は準備も手伝ってたから、ある程度わかるが、三人で最後に意思疎通しておきたい」
「え、なんて」
「だから、最後に三人で意思疎通を」
「違う」
手の甲で口を拭いながら、宇代木は飲み干したペットボトルに栓をする。低く静かな声が、まるで別人のように威圧してくる。
「そのまえ、なんて言ったの?」
「俺は準備も手伝ってたから、って言ったんだ」
「なんで手伝ってんのさ」
「なんでって、一人で準備できるようなもんじゃねえだろ。ただの恋愛研究会のブースじゃない。来場者に見せることやら配信することやら、悩みどころだらけだ」
「じゃなくてさ、くーやん、言ったじゃん。俺は手伝わないって」
「言ったかもしれねえが、台本が終わるまで、だったぞ。最後の一週間くらいは手伝えるって言った」
「違うよ、違う!」
宇代木はペットボトルをベンチに置く。
俺の襟を掴み、押し倒すように力をかけ、顔を近づけてくる。
「どういうこと? 当日まで行かないから、おまえも来るなって連絡してきたじゃんか。だからあたしだって、一度もあまねのとこには行かなかったのに。なんでさ!?」
「わけがわかんねーよ、俺はそんな連絡してない!」
「あー、そういうこと言うんだー。そんなにあたしが邪魔なんだ。じゃあ、もういいじゃん。二人でがんばりなよ!」
「待てよ。宇代木のいない恋愛研究会なんて、そんなもの、嘘だろ。佐羅谷がいて、宇代木がいて、だからこそ恋愛研究会だろ。なんなら、俺が一番どうでもいい部員じゃねえか」
逃げようと体を放す宇代木の腕を、俺は力の限り掴む。加減はできない。いま逃すと、きっと宇代木は本当に帰ってしまう。
宇代木は腕を振って、ほどこうと必死だ。
ベンチに置いた空のペットボトルが、俺たちが暴れるに応じて転がり落ちる。
爪を突き立てる宇代木を、俺は両手で腕を押さえこむ。
(細いな)
改めて、思い知る。
佐羅谷も宇代木も、俺とは違う生き物なのだ。当たり前の事実に、わかっているようでわかっていない事実に、打ちのめされる。
違う生き物だから、考えていることも見ているものも、違うのだ。千のことばを尽くしても、一も通じ合わないのかもしれないのだ。
「頼む。今から、文化祭用の教室へ一緒に行ってくれ。最後の、打ち合わせを、しよう」
「あたしに、なんのメリットがあるのさー」
宇代木はもがくのをやめた。俺の本気が通じたのか。
だが困った。俺に宇代木を満足させるような何ものも提供できない。
「ね、願いを、一つ叶えてやる」
「バカじゃないの」
「願いを増やすのは、なしな」
「しないよ。ねー、くーやん、その願いに、前に一緒にお祭りに行ってくれるのは含まれる?」
「それとは別に、一つだ。あと、文化祭に出ないとかもなしな」
「わかった。それでいいよ」
「そうか、よかっ」
「さっそく、一つお願い」
「早ッッ」
宇代木の腕を放す。
もう逃げなかった。
すっと立ち上がり、にまーと笑いかける。
「ずっと三人、このままでいようね」
ああ、なんだ、そんなことか。
簡単なことだ。
どうせ俺たちの関係は、高校までで終わりだ。きっと大学は別々になるし、住む場所も離れ離れになるし、連絡を取り合うこともなくなるだろう。
あくまで同じ部活の部員同士。それ以上でも以下でもない。
このままでいる、というのが、友達の関係を続けるという意味ならば、実に簡単だ。俺の親父など、何年も連絡を取らない友達がいっぱいいる。それでも本人は友達だと言うし、会えばまた普通に話せるし、大人になるとそういうものらしい。
だから、ずっと三人がこのままでいるのは簡単だ。
佐羅谷や宇代木を狭い世界から解放したいと意気込んでいたこともあったが、今は俺がこの世界を守りたがっている。
俺が見ている間は、このままでいい。俺がいないところで、どうなっても仕方がない。
俺は矮小だ。
俺は卑怯だ。
宇代木を正面から見返す。
「ああ、ずっと、このままでいよう」
俺のことばに安堵して、宇代木はベンチから落ちたペットボトルを拾い上げる。
「じゃー、文化祭用の教室に行こうか。くーやん、案内して」
「ああ、あっちだ」
「連れてってよ。手を離すと、また逃げるかもよー?」
「あら不思議、こんなところに手錠が」
俺は鞄からおもちゃの手錠を取り出す。
「何でそんなもの持ってんのさ。気持ち悪ッ! 変態ッ!」
「手錠を見てまず変態という宇代木さんのほうが変態なんじゃないですかね。いったい何を想像したんですかね」
「……ッ」
しまったという顔で、頬を染めてそっぽを向く。
これは、ちょっと見たことのない顔だ。宇代木は薄い本などで知識は多いはずだから、慣れているはずだと思ったが。だいたい、宇代木は出会った初日から体を武器に俺を脅してくるような女だ。この恥ずかしがった仕草さえも、作りものである可能性がある。
俺や山崎など、女子に免疫のない男子は、ころっと騙されるだろう。
俺は手錠を指でクルクル回しながら、教室へ向かう。
「なあに、これはダイソーで買ったコスプレ道具だよ」
「あ、そうなんだー。くーやんもコスプレする? 本格的なのじゃなくてさ、ちょっと歩きに出てみるー?」
「俺のじゃねえよ。高森がコスプレで使うんだとよ」
「そっかー。くーやんはコスプレしないの。別に嫌いじゃないんでしょー」
どうやら、手を引かなくても宇代木はついてきてくれるようだ。ごまかされてくれて、よかった。
「コスプレなぁ。誘ってくれるやつもいねえしな」
「ふーん、そうなのかー」
宇代木は手錠の一方の輪っかを掴む。
もう片方の輪っかは、俺が掴んでいる。
手錠越しに手をつなぎ、たわいない話。教室には、すぐに着いた。
前後の扉と窓を開け放した教室の前に、椅子を出して読書している大人がいた。絵になる姿だった。
体にぴったりと合うスーツに、ハードカバーの本。フリクションペンを片手に静かに文字を追っている。足を組み替えたとき、俺と視線が合う。
「やあ、九頭川くん。やはり、来たね」
イリヤさんの表情は柔和で、友達に対する優しさだった。
来ることができて、よかった。
来られない可能性はあったし、もっと遅れると思っていた。宇代木を早く説得できて幸いだった。
「隠れているのは、宇代木さんだね」
「ちゃおーです」
顔の横で手を振る宇代木を見て、イリヤさんの表情がにわかにかき曇る。
「九頭川くん。僕は、明日からただの一般人になる。もう学校へは簡単に入れないし、君たちに偉そうに説教もできなくなる。だけど、今はまだぎりぎり先生見習いだ。だから、言わせてもらうよ?」
何を咎めるというのだ、そんなに声高に。
「いくら何でも、手錠をつけてまで無理やり連れてくるのは、関心しないな。君たちはどういう関係なんだい?」
「はぁ?」
慌てて顧みると、宇代木は手首におもちゃの手錠をはめていた。
「あたし、抵抗したのに、くーやんが絶対逃さないって。このまま多目的トイレに監禁してやるって脅されて。怖かったですゥ」
「いやおまえそのクソ演技」
「九頭川くん、ちょっと職員室へ行こうか」
「佐羅谷先生も何マジになってんすか、こんなの、ダイソーのおもちゃっすよ! 鍵もかからないっすよ!」
俺は宇代木の手首から外そうと、掴みかかるが、宇代木はよよよと泣き崩れるふりをして、巧みに俺の手をかわす。
「きっとあたし、このままくーやんの慰みものにされるんですゥ。FANZA動画みたいに!」
「風評被害やめい」
「九頭川くん、見損なったよ」
真面目な顔をしているが、イリヤさんは絶対悪ノリしている。吹き出しそうな顔を必死に押さえ込んでいる。ちくしょう。
俺たちが廊下で茶番劇を演じていると、教室の中から佐羅谷がのっそりと姿を見せた。
「まったく、あなたたち遊んでいる暇があったら、手伝ってくれない?」
流れるように自然で素直な動きだった。
佐羅谷は宇代木の振り回す腕をするりと捕まえると、余っているほうの手錠の輪に、自分の腕を噛ませる。そのまま、宇代木の手と手を合わせ、体を近づける。
空いた腕で宇代木の腰を引き寄せ、頭を大きな胸に埋める。
突然の不可解な行動に、誰も声が出ない。
音が、消えた。
「天、」
佐羅谷の声は小さく響く。
「ありがとう。来てくれて、本当にありがとう。もう、会えないかと思った」
「あはは、おおげさなんだなー、あまねは」
宇代木の目尻が下がっている。
「ちえっ、こんなの、ずるいや。なにも言えないじゃんかー」
「佐羅谷、俺はいいから、宇代木に文化祭での流れを説明してやってくれ。配置や役割もだ」
「わかったわ。それじゃ、天、中に入って」
「うん。あ、くーやん、約束、忘れちゃダメだかんねー」
「約束? 何かしら」
「それはあまねには関係ないよー。さ、じゃ、文化祭の段取り、説明して?」
「え、ええ。九頭川くんも、あとでね」
「ああ」
女子二人が、教室の中に消える。
扉も窓も全開なので、声が通る。二人の声だけではない。今日は文化祭前の最終日。どこかしら賑やかな喧騒が遠く耳に届く。
「君は、人を使うのがうまいね」
二人廊下に残る、俺とイリヤさん。
佐羅谷と宇代木が教室で話を始めるのを見計らって、小声で俺をたしなめる。
「ゴマを擦るのがうまいだけですよ」
「部下をうまく使うのと、上司をうまく動かすのと、どちらも根底は同じものだよ」
「部下は使うものですが、上司には使われるものでしょ。バイトくらいでしか経験ないですけど」
ファミレス(店名は秘密)のバイトでは、当然一番下っ端だ。最低限に教わったことはできるが、自分で人を使うことはない。シフトの決定権もない。
「上司をうまく使うというのは、そんな意味じゃないんだけどね。僕だって、別に九頭川くんの上司でもないし」
イリヤさんのことばはよくわからない。俺は、人を使ったことなんてない。この文化祭でも、沖ノ口に振り回され、佐羅谷に指示を仰ぐばかりだ。
拍子抜けした顔で、イリヤさんは校門側の窓に目をやる。
「僕が、ここに、いる。そういうことだよ」
「全然意味がわかりませんが」
「じゃあ、そういうことにしておこっか」
イリヤさんが指で窓の向こうを指さす。自転車を押し出て行く沖ノ口が見えた。校門前で足を止め、真っ直ぐにこちらを振り返る。とっさに視線を逸らすが、イリヤさんは笑顔で手を振っていた。
俺の方に向き直ると、少しだけ、飄々とした仮面が剥がれて、渋面が見えた。
「九頭川くん、教育実習生として、最後のことばだ。文化祭の間は、この教室の戸締りを忘れないこと。無人にするときは、必ず施錠するんだ
じゃあ、先に帰るよ。明日、楽しみだね。二人にもよろしく」
恋愛研究会のブースは、完成していた。
正方形の教室を、まずは縦に割る。半透明の白いカーテンが、真っ直ぐに前の黒板から後ろの黒板まで走っている。
廊下側は来場者の席で、二十脚くらい椅子が並んでいる。廊下側の天井にはウェブカメラが設置されていて、観客席の上部とカーテンが映るようになっている。
カーテンの一部に、大きめのディスプレイが立っている。
「この画面はなにすんの?」
「相談者の人間関係とか、発言助言を記述しておくんだよ。見てるだけ聞いてるだけで覚えておけるほど、真剣な観客はいないだろうしな」
「この画面は中のパソコンにつながっているから、天に要約を任せたいと思うのだけど」
「おっけー」
半透明のカーテンを潜ると、今度は横に黒の緞帳が遮っている。いつもの部室で見慣れた黒の緞帳。恋愛研究会は、これがないと。
黒の緞帳で区切られた一方が、相談者の席で、こちらは椅子が一つあり、横に三脚に乗ったマイクが立っている。
相談者の広々とした部屋の隅に、移動式の更衣室のようなものが置いてある。高さ二mくらい、四方は不透明なカーテンで覆われている。
「この試着室みたいのはなーにー?」
「相談者をここに入れて、移動させるんだと。来場者に見られたくない人もいるだろ」
「へーほー」
黒の緞帳が区切るもう一方は、俺たち恋愛研究会の三人が待つ場所。長机一つに、椅子三つ。表のディスプレイ用のパソコンと、配信用のパソコン。そして横にはマイク。
こちらは荷物が多く、狭苦しい。
「あまね、本気で配信する気なんだ……」
「いろんな人に教えてもらったわ。カメラとマイクの接続とか、配信の仕方とか、注意事項とか」
「注意事項って?」
「まず、全員に配信することを周知して、変なことを言わないようにお願いすること。個人名や住所ね、特定できる情報を出さないようにすること」
「そもそも、配信するって言われて、恋愛相談なんか誰も来ないんじゃないのー」
「土曜日枠は、すでに四人埋まってるぞ」
「くーやんそれほんと?」
「九頭川くんの言う通りよ。だから、天もきっちり対応してくれないと困るわ」
「うわー。絶対そんな相談、ただののろけとか後押ししてほしいだけの「恋してるアテクシトニカクカワイイ!」じゃんかー」
うげーと、食傷気味な顔芸を披露する宇代木の様子を、動画に流せないのはもったいないと思った。
配信でも、映るのは来客の頭と、半透明のカーテン越しの俺たちと相談者の陰だけだ。
「あら、恋愛相談なんて、もともと恋に恋する乙女ののろけに共感してあげるだけのものじゃない」
「部長がそれ言っちゃいますかー」
佐羅谷と宇代木のわだかまりは、ブースの説明をしているうちに、解けたように見える。
二人が椅子に座って、パソコンやマイクの位置を調整しているのを見つつ、俺は半透明のカーテンをくぐった。
グラウンド側から射す秋の低い太陽が、二人の影をカーテンに映していた。
仲良く近づいたり離れたり、薄布一枚隔てた影絵に見惚れる俺は、不意に涙が込み上げてきた。
観客席に座って、たった一人即興の影絵劇を眺めている。
(よかった)
なんとか、文化祭はつつがなく行えそうだ。宇代木のダンス部に取られる時間と、俺のクラスの劇にとられる時間、それを考慮しても、恋愛研究会のブースは一日あたり四時間くらいあるはずだ。
やがて、半透明のカーテンが開く。
「くーやん、なんで一人で休憩してんのさ!?」
「まったく、あなたも当事者意識を持ちなさい。」
「「恋愛研究会の部員」」
「でしょう」
「じゃんか!」
二人はハモって、俺に文句を言う。
少なくとも宇代木に言われたくはないな、と思いながらうまい言い訳が出てくるはずもなく、あいまいに笑った。
求められるのも、悪くない。
ヘラヘラ笑う俺に、いっそう表情を険しくする二人。
楽しいな。
一人が怖いから、寂しいから、仲間外れになりたくないから、同じ場所で興味のないことに共感して、バカみたいに大騒ぎして、楽しいふりをする。
違うんだ。
この場所は、違うんだ。
等身大の自分が、ただいるだけで、認められて、たわいない話も、真面目な話も、みんな、みんな、楽しいんだ。
なあ、わかるか、仁和丸おじさん(40)。おじさんから見たら、ちょっとカワイイ女子に囲まれてヒヨってるように見えるだろうけど、これが、俺なんだ。
幸せなこの時間がずっと続けばいいのに。
(続く)