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4巻前半『沖ノ口すなおは諦められない』

登場人物名前読み方


 九頭川輔  (くずがわ・たすく)

 佐羅谷あまね(さらたに・あまね)

 宇代木天  (うしろぎ・てん)


 犬養晴香  (いぬかい・はるか)

 沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)

 佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)


 谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)

 那知合花奏 (なちあい・かなで)


 山崎    (やまざき)

 高森颯太  (たかもり・そうた)

 神山功   (こうやま・たくみ)

 田戸真静  (たど・ましず)

 田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)

 入田大吉  (いりた・だいきち)


 上地しおり (かみじ・しおり)

 三根まどか (みね・まどか)

 沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)


 豆市咲蔵  (まめいち・さくら)


 山田仁和丸 (やまだ・にわまる)

序章 


 きょう学校ありますか、と尋ねると、学校はあります、と答えるアスペの先生がいる。台風の日の話だ。ことばの意味も理解できない、会話をすることもできない人間が教師をしているこの国は平和だ。

 学力は上がらないし、コミュニケーション能力は育たないし、人間性を涵養することなどできようはずがない。

 人間として失敗したヒキオタニートワープアである山田仁和丸おじさんのことばだ。


 今日は学校がない日だ。

 夏休みも最終日、うだるような暑さにアスファルトは湯気を放ち、心持ち柔らかく、自転車のタイヤまで溶かしそうだ。

 ここ数日、昼過ぎには強烈な雨が降る。夕立というには早く、昼過ぎに俄に盛り上がった入道雲が、雷を伴って豪雨をもたらす。

 それでも、午前中は天気が崩れない。

 今日は佐羅谷あまねに呼ばれた。

 意中の女子に、学校のない日に、呼ばれた。

 部活でもない。

「紹介したい人がいるの。わたしの大切な人」

 佐羅谷の電話越しの声が蘇る。

 何度も何度も反芻した。

 天国から地獄に落ちる経験は貴重だ。電話番号を知ることができた浮遊感は、ことばの内容で地に落ちる。

 ついにこの時が来たか、という絶望。


 かつらぎ高校の前に停まっていた白とオレンジのツートンカラーのハスラーの助手席から、佐羅谷あまねが降りてきた。

 いつもの白と青を基調としたファッション。ミディアムのすぐな黒髪に、深い緑の瞳が潤む。表情は読めない。

「佐羅谷、」

 俺が自転車から降りて声をかけようとすると、運転席が開いた。


「やあやあ、君が九頭川くん? あまねから話は聞いているよ」


 軽いことばは、少しだけ髪の毛の明るい男に似つかわしかった。自在に毛束を作り跳ねさせた、背格好は俺より少し上の細身の男性。学年一のイケメン、田ノ瀬に似た雰囲気のアイドル顔だ。

 大きな二重の瞳は愛嬌と凛々しさを備え持つ。まさに、大学生活を満喫している充実した若者という印象だった。

 一ヶ月前、JR王寺駅のホームで遠目に見た人に間違いなかった。

 馴れ馴れしく、肩を抱くように距離を詰めてくる。パーソナルスペースが狭い。佐羅谷の姿は影に隠れる。

 陽気を振り撒く男の勢いに飲まれ反応ができない。

「仲良くしてくれてるんだって? ありがたい! こいつ、ほんとうに友達がいなくってさ、天ちゃん以来、二人目だよ。名前の出た子は。とにかく、付き合ってくれてありがとう。やっぱ、いろんな人と付き合わないと、コミュ力って向上しないじゃん?」

「ちょっと、やめて。九頭川くんが困惑してるでしょう」

 俺が目をパチクリさせていると、佐羅谷が男の襟を指で引っ張る。

 おおっと、大袈裟にのけぞる。

 西洋人のように肩をすくめて眉を寄せる。

「やー、ごめんごめん。しょっちゅう話を聞くから、初対面とは思えなくてねー」

「いつもそんな感じじゃない。とりあえず、九頭川くん、この人は」

「イリヤだよ! イリヤって呼んでくれ」

 

 イリヤ。

 漢字を当てられないがそんな名前。

 笑顔で俺を見返す男が、佐羅谷あまねの大切な人。

 ニコニコと少し首を傾けながら、目を細めるイリヤさん。

 佐羅谷はため息をついて、俺を手招きする。校門の隅っこに連れてこられ、声を潜める。

 伏し目がちに、恥ずかしげに。

 これは、恋人を友達に紹介するときの顔だ。

「どう?」

 耳元にかかる声がくすぐったい。

 熱い佐羅谷の吐息に、眼前に揺れる黒く緑の瞳に、吸い込まれる。

「どうって?」

「わかるでしょう。あの人を、どう感じたかってことよ」

 どう?

 どう答えるのが正解なのだ。

 佐羅谷が選んだ男なら、俺なんぞが口出しする権利もない。だが、俺に紹介するということは。

 牽制か。

 佐羅谷を好きになるな、自分にはもう大切な人がいるから、という意思表示だろう。あるいは、佐羅谷の口から何度か俺の名が出て、イリヤさんの方から嫉妬か威嚇かで、一応会わせろと言われたのかもしれない。

 会ってみたら、安心したことだろう。すべてにおいて、俺は佐羅谷に釣り合わない。箸にも棒にもかからない。

「佐羅谷がいいなら、いいんじゃないか」

「なにそれ、何も答えてないようなものじゃない」

「あー、見た目はチャラそうだけど、中身はけっこう筋が通ってるんじゃないか? おまえと同じだよ、演技派だ。大学生活を満喫している大学生ってこんなもんだろ? って姿を体現している」

 適当な答えだ。

 だが、これは俺の希望的観測だ。

 佐羅谷あまねが選ぶ男が、ただのつまらないウェイウェイパリピであってほしくない。奈良県の地場企業の二代目三代目のような、言行ともにただのヤンキーであってほしくない。

 だが、俺の回答は佐羅谷の求めるところだったようだ。

 佐羅谷は相好を崩す。

「さすが、よく見ているわね」

「初見だよ、ただの、勘だ。佐羅谷が選んだ人が、見た目通りのわけがない。そう思っただけだ」

「? そ、そう? よくわからないけど、ずいぶんわたしのことを理解しているのね」

「理解ーー」

 理解したいからな、ということばは飲みこんだ。なんでもないただの友達に、理解されるなんてまっぴらごめんだろうから。むしろ気持ち悪い。

「もういいか? 顔合わせが目的なら、もう帰るぜ。明日の学校の準備もしたい」

 返事は聞かず、俺は自転車の向きを変える。

 もう、会いたくない。

 会う必要もない。

 イリヤさんとも、二度と会うまい。

 佐羅谷には部活に来いと言われていたが、二、三度ばっくれれば、無理強いはすまい。もともと、そういう部活だ。

 背を向ける俺に、声が届く。

「九頭川くん、じゃあ、またね」

 じゃあ、またね。か。

 

 一学期初めて会った時の佐羅谷の別れのことばは、じゃあまたね、だった。

 どれだけそのことばが嬉しかったか。

 だから、今から俺が振りかえって返すことばは、社交辞令だ。


「じゃあ、またな」




一章 沖ノ口すなおは諦められない


 二学期の始業式は、二個度肝を抜かれた。俺に度肝が二つあったならば、の話だ。そもそも、度肝ってなんだ。

 始業式の朝礼に、俺はいつものようにぎりぎりで駆けつける。夏休みぶりに会う神山は、相変わらずかわいらしくて、思ったままを伝えると頬を膨らまして拗ねていた。

 出席番号で俺は神山の前に並ぶ。

 校長の、夏休みを終えて誰一人欠くことなく二学期を迎えることができましたという常套句を聞き流し、ぼうっとしていると、教育実習生の紹介が始まった。

 そうか、そういえば教育実習というものがあったな。大学の教育学部から来るのだったか。

 もっとも、俺にはどうでもいい話だ。先生になる気もなく、たった二週間か三週間かでいなくなる先生の卵に、変な感情移入はない。

 だいたい、大学生なんて、先日の和歌山のリゾートバイトのチーター一味を見ていてわかるように、自分が世界の中心かのように我が世の春を謳歌し、本能や欲望のまま振る舞う獣のような奴らばかり。なまじ知恵と金と仲間があるから、タチが悪い。

 普段はチャラい格好で遊びまくっているくせに、ここぞとばかりに窮屈なお仕着せに身を包み、黒髪に戻してアクセも外し、いい子ちゃんぶっている先生の卵が、順々に無個性な挨拶をこなす。

 俺は端から興味なく、俯いて今日の昼飯をどうしようかと考えていた。

 と、にわかに女子がざわつく。

「え、ねえ、あの人イケてない?」

「すっごいタイプ……」

「うちらのクラス来てほしいんだけどー」

 ああ、実に女子高生らしい。

 少し年上のイケメン、しかも教育実習で来る大学生なんて、最高のシチュエーションではないか。少女漫画では先生と生徒というパターンが多いが、現実的な落とし所は、大学生くらいの年上が狙い目だ。大学生にとって、高校生などただの遊びなのにな。

 さあ、だが、女子がこうも騒ぐなんて、どんなイケメンだ。田ノ瀬や谷垣内という相当なカリスマがいるかつらぎ高校だぞ?

「初めまして」

 マイクを通して耳朶を打つ、軽やかな声。

(え、この声)

 俺は視線を上げた。

 壇上の男は、真新しいスーツを着こなし、熟練の先生のように生徒全体を見やりながら話していた。

 俺が頭を上げると、見事に視線を合わせてきた。

 周辺の女子が騒ぐ。

「きゃ、目が合っちゃった!」

「こっち見てるこっち見てる」

 違う、おまえら、勘違いはほどほどにしろ。

 この男は、俺を見ている。

 俺はこの男を知っている。

(ああ、そういうことか)

 昨日、校門前で顔を合わせた。

 佐羅谷が紹介したかったという理由がわかった。

 教育実習生としてではなく、佐羅谷あまねの大切な人として、俺に印象付けたかったわけだ。なるほど、一度教育実習生として会っているのに、改めて大切な人と紹介されても、印象が薄い。

 壇上の男は、しんと静まるまで待って、おもむろに口を開く。


「佐羅谷イリヤです。本日から皆さんと一緒に勉強していきたいと思います。どうぞ、よろしく」


 騒めきが波のように広がる。

 佐羅谷の名は、かつらぎ高校では知らぬ者がない。そして、あまり一般的な苗字とは言えない。佐羅谷の名は、即座に佐羅谷あまねと結びつき、取りも直さず、深窓の令嬢の二つ名が想起される。

 惑うのは俺も同じ。

(佐羅谷だと)

 イリヤは苗字ではなかったのか。佐羅谷という苗字? ということは、兄だったのか? 一番あり得るのはその線だが。だが、わざわざただの兄を、紹介するか?

 俺は、見えるはずがないのに、佐羅谷がいる二年五組のあたりに目をやった。背の低い佐羅谷は黒髪の列に埋もれる。

 同じことを考えているのだろう、なんとなく五組の方向を見ている生徒が多い。

 俺は朝礼が終わるまで、壇上を見直すことができなかった。目を逸らしたまま、ただ時間が過ぎ去るのを、嵐が来ないことを祈っているしかできなかった。


 だが、嵐は収まらない。


「佐羅谷イリヤです。よろしく」

 一時間と間を置くことなく、同じセリフを聞く。今度はマイクを通さない。

 まさか、ここまで偶然が続くなんてな。神の采配の嫌がらせを感じずにはいられない。

 奥の席で腕枕に頭を隠すが、きっとイリヤさんは気づいているだろう。そっと脱出、もしくは寝たふりを決め込みたいが、さすがにそこまですると、担任の先生の印象が悪い。

 黒板の端正な文字を見て、初めて「イリヤ」が「西哉」と書くと知る。「佐羅谷西哉」、少々珍しい名前だ。

「……というわけで、これから三週間お世話になるわけですが、何か質問はありますか?」

 始業式の今日は、授業もなく、ほとんど宿題提出と夏休み後の顔合わせのようなものだ。早く帰りたい勢とイリヤさんに興味津々勢が半々で競り合っている、二年一組。

 担任も長期戦を覚悟したのか、教室の前方隅の机で、プリントの整理を始めた。おいおい、帰りたい生徒は先に帰してくれよ。

「はい、佐羅谷先生は、彼女いますか!」

 誰ともなく直球の質問が飛ぶ。

「んーー、ノンノン、ダメだよ、そういう質問は、もっと親しくなってからじゃないとね」

 さりげないウインクひとつで、質問した女子を赤面させて、黙らせる。

 その後も、イリヤさん個人についての質問が続く。やれどこに住んでいるのか、やれ好きなタイプは、やれ休みの日は何をしているのか……。

「香芝に住んでるよ。大学は大阪だけどね」

「好きなタイプなんて、ないよ。好きになった人がタイプさ」

「休みは、そうだね、友達とぶらぶらすることもあるし、一人だとドライブして海を見に行ったりするかな。好きなんだ、海とか星とか、静かに一人で眺めるのがね」

 なんとも白々しいと感じてしまうのは、俺が妬んでいるからだろうか。男子からは羨みの、女子からは憧れの視線が集中する。

 おかしいのは、俺だ。

 いや、きっと窓際の山崎もグラウンドを向いて、唇をひん曲げているはずだ。俺たちは、そういう輩だ。

「佐羅谷先生は、五組の佐羅谷あまねさんを知ってますか!」

 つまらない質問の中に、確信に迫る女子がいた。

「もちろん、知っているよ」

「じゃあ、どういう関係ですか」

「どういう関係だと思う? 珍しい苗字だからね、そうだな、(1)赤の他人、(2)兄弟姉妹、(3)親戚、(4)夫婦、さあ、どーれだ。ヒント、ぼくは十津川出身じゃありません」

 (4)の夫婦とヒントでクラスがざわめく。

 わからない。

 普通に考えると、(4)はネタでしかない。だが、俺だけは知っている。佐羅谷が、イリヤさんを大切な人だと言ったことを。兄弟や親戚は大切だが、他人に紹介するような大切さではない。俺は兄弟がいないから、推測だが。

 そのうえ、出身が異なるということは。

「まさか、(4)ですか!?」

「ふふーん、ひ・み・つ」

 ーー高校生で結婚ってできたっけ? 佐羅谷さんって十七歳? じゃあ結婚できるの? でも高校一年の時から佐羅谷だよね? 今は十八歳からじゃなかった? やーん、ステキ。ーー

 つまらない私語がクラスを活気づかせる。

「ばっかもん」

 ぱこん、と出席簿で担任がイリヤさんの頭を張った。

「いって、パワハラっすよ、先生。教育委員会に訴えますよ」

「おまえこそ、ややこしい冗談を言うな。一人の生徒をいたずらに好奇に晒してどうする。教師の卵が、生徒を煽るな。まったく」

 肩をすくめるイリヤさんは、もう話をする時間を与えられなかった。

 代わって教壇に立った担任は、出席簿で肩を叩きながら、ため息をつく。

「まったく、おまえたちも、つまらないことを聞くんじゃない。ええっと、」

 担任が言い淀んだのを見て、俺は何をとち狂ったか、本当に無意識に尋ねてしまう。

「先生は、五組の佐羅谷さんとその佐羅谷先生との関係を知ってるんですか」

 クラスの視線が、俺に集まる。

 しまった。

 目立ってしまった。

 ただでさえ、俺は深窓の令嬢絡みでクラスのやつらに変に思われているのに。

「珍しいな、九頭川がそんなことを聞くなんて。もちろん知っているが、言わんよ」

 時間は、終了だった。

「さ、じゃあ、今日はもう終わりだ。さっきも言ったように、文化祭も近い。クラスで何をするか、今週中には決めておけよ。教室は開けておくから、自由に使っていい。ただ、五時には撤収すること。気をつけて帰れよ」

「お疲れっすー」

「ばかもん、おまえはこれから仕事だ、佐羅谷「せんせい」。ついてこい」

「えー、ぼくもみんなと文化祭の出し物を考えたいデスゥ」

「いつまで学生気分でいるんだ、性根叩き直してやる」

「えー、ぼくってまだ学生じゃないですかー」

 文句を言いながらも担任に引きずっていかれる佐羅谷先生。胸元で手を振りながら、クラスの面々に愛想を振りまくのを忘れない。何なんだいったい。

「じゃあねー、みんな。また授業で会おう!」


 まだ、嵐は続く。


「なるべく早い方がいいと思うので、今日の午後から考えていこう。みんな、残ってくれないか」

 学級委員のマジメ君のせいで、始業式の日から早速、文化祭の出し物を考えるため、帰らせてもらえない。

 いやほら、ほぼ押し付けたようにしてなってもらった学級委員長だし、こういうときは従わないとな。押しの強い生徒のいないこの一組、事前に予定があった数人を除いて、委員長に従う。

 弁当を作っていなかった俺は、購買で焼きそばロールとごぼうサラダパンとカゴメの濃縮野菜ジュースを買う。カゴメだ。野菜ジュースに関して、伊藤園はまずい。ここは譲れない。

 人の少ない購買から教室に戻ると、みんなご飯も食べずに窓際に集まっている。

「おお、九頭川、早く来い、早く!」

 窓際の特等席を占拠して、山崎が眼鏡を輝かせながら手招きする。

「見ろ、尖塔だ」

 山崎が興奮して指し示す、かつらぎ高校名物の尖塔。

 公立には珍しい洋風の風格ある建物で、グラウンドの向こう、堂々と建つ。下階は図書館で、一番上の大きなガラス窓になっている部屋は、フリースペースとして開放されている。

 しかし、冷暖房完備のその部屋は、一年前から「深窓の令嬢」佐羅谷あまねの定位置と化していた。

 佐羅谷あまねのヌーン・ルーティーンは、尖塔で食事を取り、読書をすること。そして、一ヶ月に一度ほど、身の程知らずにも告白しに来た男子生徒を容赦なくフること。

「なんだ、また告白か?」

「よく見ろ、あれは、誰だ、誰だ、誰だ?」

「女子……だと?」

 制服が、ひらりと揺れる。

 夏服の半袖の白いブラウスに、膝丈のスカート。真っ直ぐな黒髪がそこそこ長い。

「よく見えねえ。山崎、双眼鏡貸せ」

「ひゃあ、我のニコン謹製双眼鏡があああぁ」

 ひったくった双眼鏡で、じっと見つめる。

 もっとも、結ぶ像は肉眼と大して変わらなかった。こちらに背を向けているので、顔もわからない。ときどき見えるリボンの色から、俺たちと同じ二年生だとわかるくらい。

 髪が長く、姿勢も良く、制服もおとなしく、これはまるで。

「深窓の令嬢に、宣戦布告かよ」

 むしろ、佐羅谷はミディアムストレートで、表情もキリッとしているので、振舞い以外は深窓の令嬢っぽくない。小柄な点を除けば女子校の女子に人気のお姉さまっぽい。

 それに比べて、相対する女子は、理想的な深窓の令嬢に見える。俺が百合の告白ではなく、宣戦布告だと感じた理由はそこにある。

「九頭川、ちょっと貸して」

 女子の一人が、俺の双眼鏡を奪い取る。山崎の「我の双眼鏡が〜」という嘆きは当然のごとく聞こえない。

「やっぱり、あの子そうだ、うちのクラスの女子じゃん」

 何だと。

 俺は思わずクラスの女子を見渡すが、そもそも半分も名前も顔も覚えていなかった。誰がいないかさえわからない。

「えー、何あれ、一学期と全然変わってるー。髪の毛も黒く真っ直ぐになったし、スカートもブラウスも着方が普通になってるじゃん。どゆこと? 今になってイメチェンって何? 受験にはまだ早いし。茶髪のパーマもかわいかったのになー。あ、顔が見えた。えー、メイクも全然違うじゃん。いったい、どしたんだろ」

「誰なんだ?」

 俺が双眼鏡を受け取り、山崎に返す。

 女子はうーんと唸る。

「うちのクラスの、沖ノ口さんだよ。女子の出席番号一番。沖ノ口すなお」

 沖ノ口すなお。

 俺の古い記憶に引っかかる。

 その名を、俺は、確かに知っている。

 同じクラスだからではない。

 一年の時、ずっと一緒にいたからだ。

 そうだ、女王様である那知合花奏のグループに、女子は三人いた。まんまるボブの三根まどか、片寄せポニーテールの上地しおり、そして、沖ノ口すなお。

 記憶を辿る。

 当時の沖ノ口は確か……。


 ギャルだった。


 暗めの茶髪にパーマを当て、やや地黒の肌にきついメイクを施し、シャツのボタンは一つ目を外してリボンも緩く、ウエストはヘソが覗きそうなくらい。

 スカートは当然に短く、目のやり場に困った。くるぶしソックスにローファーで、健康的な足を惜しげもなく晒していた。

 教室の椅子に片膝を立てて座ったり、人の机に座って会話に熱中したり、笑うともろ手を打って全身で感情を表現するような女子だったはずだ。

 ていうか、同じクラスだったのかよ。全然気づかなかった。いかに俺が一年の時の人間関係に興味がなくなってしまっていたのかがわかる。

 もともと沖ノ口は俺と個人としては友達でもなくて、個別に連絡を取ったことは数えるほどしかなかったはずだ。

「俺の知ってる沖ノ口とはずいぶん違うな」

「やっぱり、あれかなー」

 尖塔を覗いていた女子が、俺をジト目で見る。なんだ、何なんだ。

「女が変わるって言ったらさー……」

「お、お、お、お、」

 ところが、女子のことばを遮って、双眼鏡を覗く山崎がぶるぶると体を震わせ、ぶつぶつとつぶやき始める。気持ち悪がって、女子が距離を取る。

「さあ!」

 山崎はほとばしる熱いパトスで、ハラワタをぶちまけろとばかりに大の字に体を拡げる。

 エアマイクを手に、突如喚き出す。

「さあ!!! やってきました、この時がッッッ! かつらぎ高校、孤高の女神、尖塔のラプンツェル、深窓の令嬢こと佐羅谷あまね。幾多の男子の告白をすげなく断り、快適環境の尖塔を悠々支配する天衣無縫のミューズ、だが、どうだ! 見よ! とうとう現れたのは、自ら姿見に写したかのような清楚可憐を体現する女子だ!」

 眼鏡がキラッと輝く。

「かつらぎ高校、尖塔をめぐる戦い、いま初めてのラウンドの火蓋が切って落とされたあああぁぁぁぁぁ!! 

 実況は我、深窓の令嬢研究家、山崎と、玉砕経験者の」

 山崎は俺に手のひらを向ける。

 遠巻きに見ていたクラスの大多数が、ポカンとしたまま、俺に視線を向ける。

 なんだ、俺はどうしたらいい。

 そこでスマホでビデオ録画している女子よ、俺はどう反応したらいい。

 山崎は小声で、ボソッとノリが悪いであるとつぶやく。

 なんで俺叱られてるの……。

「実況は深窓の令嬢研究家、山崎と、玉砕経験者のッ」

「九頭川」

「で、お送りしますッッッ!!」

 あほらしすぎて、乗るしかなかった。

 何でこう、どうでもいいことで訳のわからないコントをさせられるんだ。

「さー、深窓の令嬢と言いますと、一年の頃から月一ペースで男子の告白を受け、一様に塩対応で拒絶されているということですが、その点について、同じく拒絶された九頭川さん、いかがでしょうか」

「そっすね、誰に対しても一言一句同じように断りのことばを返答するというふうに言われてますね。ていうか、俺の古傷えぐっておまえ楽しい?」

「今まで告白してきたのはすべて男子! だが、孤高にして清廉、美しい所作に凛とした態度は、宝塚的に一部女子にも人気があったものかと思われますが、九頭川さん、いかがでしょうか」

「そっすね、ただ、佐羅谷は背が低いので、お姉様的な人気というのは限定的かと思われます。女子からの人気はあるかもしれませんが、それは美しいものを愛でる気持ちで、あえて言うなら姫様役。よくある同性愛的な愛ではないと思われます」

「なるほど、では今回の沖ノ口女史の凸は愛の告白ではないと?」

「そっすね、告白というには、沖ノ口の態度は自信に満ち満ちてますね」

「あーっと、ここで深窓の令嬢の表情が歪む! 戸惑いだーー! 不肖わたくし、深窓の令嬢のこんなに困惑した表情を初めて拝見いたしました!! 何だこれはッ。さあ、解説の九頭川さん、沖ノ口女史は何を言ったのでしょう!?」

「そっすね、おそらく、沖ノ口がイメチェンして、ギャルから清楚系の姿になったことから想像するに、宣戦布告でしょうね」

「宣戦布告、これは物騒なことばがでました! 解説を続けてください!」

「つまりですね、沖ノ口は尖塔を正当に利用する権利を要求していると思われます。尖塔の使用は誰にでも開かれているのに、実際には佐羅谷があまりにも似合いすぎていて、誰も入り込むことができませんでした。なまじ批判したところで、佐羅谷に対する嫉妬にしか見えない。何かを要求するには、最低限、佐羅谷と同じ土俵に立つしかないわけです。きっと、沖ノ口はこう言っているでしょう。「わたしにも、尖塔の使用を解放せよ」と」

「なるほど、沖ノ口女史、なかなか自信に満ちた態度で、深窓の令嬢に迫る! 深窓の令嬢、たじたじと挙動が不審だ。珍しいものが見えますよ! しかし、もとより占拠しているわけでもないのに、わざわざ始業式のこの日に、どうして目立つ方法を取ったのでしょうか、解説の九頭川さん?」

「そっすね、沖ノ口は、自分のような存在がいて、深窓の令嬢に劣らぬ存在だということを全校生徒に知らしめたかったのでしょう。勝手に尖塔に入り浸るのは簡単です。佐羅谷も拒否しないでしょう。だが、勝手に使っても、それは佐羅谷あまねの劣化コピーでしかない。佐羅谷あまねと並ぶには、佐羅谷あまねと対峙して、彼女に認めさせなければなりません」

「おっと、深窓の令嬢、怒ったのでしょうか、少し頬を染めて、なにかまくし立てています。研究家たるわたくしも滅多に見たことのない顔です。深窓の令嬢を怒らせるとは、どういうことでしょう、九頭川さん」

「そっすね、「勝手にしなさい、わたしは別に占領しているわけではないわ」とでも言っているのではないでしょうか。そう言った時点で、佐羅谷あまねは敗北です。権利も権限もない、ただの慣習のようなもので許されていた空気は、本気で破壊しようと思えば、簡単な話です。尖塔の似合う深窓の令嬢をもう一人ぶつければよかった。そして、佐羅谷は実際には何もできない、そのもどかしさが怒りとして、現れたのでしょうね」

「あーっと、話し合いが終わったようです。沖ノ口女史が堂々と尖塔を出てきますッッ。肩で風を切り、目尻も涼しげだッ。現在の深窓の令嬢とは雰囲気も違うが、これはこれで……ウッ」

(何がウッだよ。頬を染めてんじゃねえ、浮気もんが)

「それにしても、二年の二学期という中途半端な時期に、なぜ沖ノ口女史は尖塔の利用権をかけて戦ったのでしょうか?」

「そっすね。深窓の令嬢になり代わらなければ、手に入らないものでもあったのではないでしょうか。あの立場になれば、全校生徒の耳目を集められるし、得られるものも多いでしょう。我々凡人の及びもつかぬメリットがあるかもしれません」

(例えば、好みの男が来るまで待つ、とかな)

 バカな実況と解説をしながら、自分自身気づいた。

 俺がなぜ、一年のとき、那知合花奏が好きだったのか、その理由を。

 俺は、那知合花奏が好きだったんじゃない。

 那知合花奏を手に入れられるような立場になりたかったんだ。だから、那知合を手に入れたら、その立場も手に入ると思っていたんだ。因果関係は、全く逆なのにな。

 そんな邪な気持ちを、那知合は察していたのだろうか。だから、俺の告白は受け付けなかった。

 では、沖ノ口はどうして深窓の令嬢になりたかったんだ。沖ノ口が、百八十度方向転換してまで、注目を浴びてまで深窓の令嬢の立場を得たいと思ったのは、何が動機だ。

「残された深窓の令嬢! 困惑の表情を浮かべたまま耳に髪をかける! 透き通る瞳には閉まる扉が写っていたァ!」

「実況の妄想が神の域だ」

「今回の実況はこれにて終了いたします! みなさん、ご静聴ありがとうございましたッッッ!!」

 うまくまとめて、山崎の実況は終わっていた。

 クラスの半分以上が、俺たちの実況と解説を聞き入っていた。意外なことに、バカな者を見る目ではなく、本当に何かの中継を見るような目で見ていた。

 パラパラと起きた拍手が、一通り大きくなって、鎮まる。

「何なのこの二人」

「キッモ。なんかもう、うまく言えないけどキモい」

「や、でもなかなか様にはなってたよね」

 神山のフォローが痛々しい。

 ざわざわと、昼食後のネタにクラス内で俺たちの実況と解説にコメントがつけられる。たぶん、否定的な意見が半分以上だろうが。

 そんな中、最初からスマホで動画を撮っていた女子が俺たちに画面を向ける。

 山崎はさっきまでのはっちゃけたテンションは鳴りを潜め、女子とは目を合わせようとしない。

「なーなー、九頭川。この動画どっかに上げようか」

「やめてくれ。恥を全世界に拡散しないでくれ」

 一度ネットに上げた動画は、いつかどこかで必ず誰かが魚拓を取っていて、永遠になくなることはない。幼き日の過ちが、いくつになっても繰り返されるのだ。

「ふーん。けっこう面白いのになぁ。おまえら二人、つまんないと思ってたけど、しゃべると面白いんだな」

「面白いのは山崎だろ。話せばいいのに、話さないだけで。俺は話もできないし、話すこともない」

「ふーん。自分を悪く見せるのがかっこいいと思ってんの? ま、いいや。あ、沖ノ口帰ってきた。なーなー、沖ノ口~。これ見てー」

 深窓の令嬢のような丁寧な仕草で教室の扉を開けた沖ノ口は、表情一つ動かさず、入り口で突っ立ったままスマホでさっきの実況の様子を見つめていた。

 一部始終見終わると、沖ノ口は俺と山崎のほうへ目を向けてきた。

 氷の無表情が、ニュルっと消えた。

 暖かい笑顔だった。

 以前の沖ノ口の記憶にはまったくない、別人の。

 だがなぜか、俺には蛇が舌なめずりしているような薄ら寒さを覚えたのだった。


「じゃあ、クラスの出し物は『視聴者参加型謎解きゲーム』ということで決まりました。ここからは、発案者の沖ノ口さんはクラス代表として、文化祭まで取りまとめお願いします。みんなも、協力するように。それじゃ、沖ノ口さん、お願いします」

 学級委員長が宣言すると、拍手に包まれながら、沖ノ口が教壇に立った。

 至極、しこりのない流れだった。

 クラスの催しというと、飲食店やお化け屋敷、展示、演劇、合唱など、いろいろな選択肢の中から話し合いという名の「声の大きさ比べ」で選ばれる。

 ところが、あまり押しの強いメンバーのいない二年一組。穏当な話し合いで候補を狭めていく。ケモノコスプレカフェを熱弁した山崎が敗れたのは正直惜しいと思った。かわいいケモノっぽいフレンズの格好をした女子だけではなく、肉食獣の被り物をした男子がいるカフェ、ウケると思ったのに。時代は、少女×人外やろがい。

 俺は当たり障りなく展示で提案した。当日何もしなくて良いから、楽だと思った。ミステリー小説の密室でも作ったらウケるかと思ったんだがな。ディクスン・カーと江戸川乱歩リスペクトだ。

 まあ、俺のネタなど、ケーキを出したい女子の意見で議題にすら上がらなかった。

 しかして、最終的には沖ノ口の案が残った。

 文化祭でクラスの出し物としては、少し変わっていた。

 そして、ちょうど今さっき、俺たちは沖ノ口が何かしらで深窓の令嬢に会いに行ったのを見ている。どうしても気にしてしまうし、同じことを言っても特別なもののように感じてしまう。

 知名度が上がった、影響力が上がった、というのだろうか。男子の中には、明確にポーッとした視線を送る者がいる。気持ちはわかる。もともと佐羅谷のような雰囲気の女子に憧れる男子は、同じく今の沖ノ口にも憧れるはずだ。

 有名すぎて手の届かない佐羅谷よりも、まだ知られていない沖ノ口のほうが狙い目なのは、間違いない。

 俺は改めて黒板の前の沖ノ口を見る

 ゆったりした動作でお辞儀をし、黒く大きな目を開く。教室の奥を見ていた。

 教室の奥には、イリヤ先生がいる。

 いつのまにか担任から逃れて戻ってきたイリヤさんは、教室の後ろに椅子を持ってきて、見学するだけだから、とお目付役のように居座っている。実際にクラスの話し合いには参加せず、終始ニコニコと頷いたり笑ったりしていた。

 沖ノ口はイリヤさんのことをどう思っているのだろう。佐羅谷との関係を知っているのか。イリヤさんはイリヤさんで、沖ノ口のさっきの行動をどう思っているのか。

「……というのが、わたしのやってみたい視聴者参加型の謎解きゲームです」

 ぼうっと教室の隅に意識をやっているうちに、沖ノ口の話は終わっていた。

「つきましては、台本を九頭川くんに作ってもらいたいと思います」

 教室のみなが視線で俺を包囲する。

「は?」

 素の声が出た。

「待て待て待て待て待て、いいかよく聞け。俺は裏方くらいしかできないぜ。台本なんてそんな」

「でも、た……九頭川、展示のテーマは密室の再現だったわよね? それにさっきの解説、即興のわりに、わたしと佐羅谷あまねの二人の心を読んで説明していたよね?」

「あれは実況の山崎が好手だっただけだ」

「それに読書家だよね、わたし知ってるんだから」

「本は読むが、書くのは経験がないぞ」

「たすく、手伝ってよ。名前通りじゃない」

「自分の名前がいじられやすすぎて、嫌いになりそうだ」

 そういえば、一年の時、俺を輔と名前呼びしていたのは、三根と沖ノ口か。谷垣内と那知合も気分で呼んでいた気がする。名前で呼ばれるなんて滅多になくて、むず痒くも少し嬉しかったものだ。

 だがこの場で名前呼びは気恥ずかしい。

「別に、オリジナルを作らなくていいんじゃないかな。九頭川くんが知っているミステリー小説をそのまま寸劇にしてもいい」

 学級委員長が背を押す。

「それに、クラス代表には、なるべく従うこと、これがルールだよね?」

「わかったよ。寸劇の台本だな? 不出来でも文句言うなよ? あと、演出や監督は他のやつがやれよ? 俺は当日も何もしねえからな」

「おおー、楽しみだの、九頭川の読書経歴からどんな謎が生まれるのか!」

 窓際から叫ぶ山崎がうざい。

「おまえも手伝うんだよ、実況の山崎さん」

「げふん!」

 そして、クラスは他の役割も決めていく。今日役目が決まらなかったやつらは、寸劇の出演者になる。今のところは流動的だろう。

 沖ノ口の中にはかっちりした出し物の構造が出来上がっているらしく、舞台作成、演出、演技総括、広告客引き、衣装係などなど、人を当てはめていく。

 俺は手持ち無沙汰に、さりとてスマホを覗くわけにもいかず、鞄を抱いて顔を埋める。

「楽しみだよ、九頭川くん」

 全然楽しくない人が、教室の隅から笑顔を向ける。俺にだけ聞こえる声で、イリヤさんは嬉しそうだ。

「あまねが楽しそうに「ことばが通じる人がいる」と言ってるんだ、あいつは文学とミステリーしか読まないから。ああ、完成まで一緒にいられないのが悲しいなあ。せめて文化祭だけでも」

「ことばなんて、日本語なら通じるでしょ」

「そうかな? 文法的に通じることばが、相手に伝わっているとは限らないよ? 『無色透明で緑色の概念は凄まじく眠る』んだ」

「は?」

「ほうら、通じない」

 イリヤさんはメモ帳を畳む。

「見せてくれよ。


 犯人は、おまえだ! 


 そう言いたくなるような謎解きゲームを」

 掠れた、喉を掴むような声に、俺は顔を背けた。

 この人は、知っている。

 俺と佐羅谷のすべてを知っている。

 俺は、尻尾を握られたトカゲだ。



 部活に行かなかった。

 五月に入部してから、無断で休んだのは初めてだった。

 罪悪感はあった。

 だがすぐに罪の意識は露と消えた。

 何度スマホを確認しても、ラインも電話もその他通知は何も来ない。もう、宇代木も催促に来なくなってしまった。

「ねえ、たすく、聞いてる?」

 テーブルの向こうで、沖ノ口は薄い色の唇を尖らせた。

「あ、ああ。聞いてる聞いてる」

「聞いてよ、わたしの話。それとも、わたしといるのがつまんないの」

「文化祭の劇の話し合いで、つまらないもクソもなかろ」

「そうやって、微妙に話をずらして誤魔化すのは、一年の時と変わんないね」

 沖ノ口はカップを持って立ち上がる。

 なぜだろう。

 俺は沖ノ口と新庄のサイゼリヤに来ていた。窓際の国道から見える席で、二人向かい合って、ドリンクバーで陣取っている。

 自転車置き場で迷ったのがまずかった。自転車を取りに来た沖ノ口に捕まった。まさか、沖ノ口も自転車通学だったとは。御所と葛城の境目あたりに住んでいるとついさっき知った。

「今日、部活ないんだ? ちょうどよかった。つきあってよ、たすく」

「いや、俺は食事の準備を」

「遅くならないから」

 押し切られて、こうなった。

 ともあれ、クラス出し物の説明をまったく聞いていなかったので、改めて説明を受けた。

 沖ノ口の提案する視聴者参加型謎解きゲームは、確か斬新で面白かった。しかも、クラスの全員が何かしらで活躍できる。

 クラスの人間がただ劇をするのではなく、来客がただ謎解きゲームをするだけでもない。

 登場人物七、八人くらいの寸劇が前半、幕間に観客が犯人を当てるアンケート、後半に謎解き寸劇という構成。一巡して一時間くらい。当てた人に特典があるかどうかは、今後決めるらしい。

 この台本を俺が作るのか。

 本格的でなくていい。なんなら、どこかのミステリー小説の換骨奪胎でもいい。

 探偵役が一人、彼が語り手として、容疑者は六人くらいか。一人が二分ずつ語るとすると、ちょうど前半が二十分くらいで収まるだろう。

「面白そうだな」

 俺が台本の担当でなければ。

 独り言を聞きつけたのか、ドリンクを淹れてきた沖ノ口が向かいに座る。

「やる気になってくれた? 人でも物でも、なんでも回してあげるからね。相談もしてね。手伝うからね」

「ずいぶんやる気だな。おまえ、そんなやつだったか?」

「すなお」

「あ? 俺は素直だよ」

「じゃあなくて、わたしの名前はおまえじゃないの。すなお」

「沖ノ口、俺は女子も男子も同級生は苗字で呼ぶんだ」

「わたしはたすくのこと、たすくって呼ぶわよ」

 もう呼んでるじゃねえか。

 俺は沖ノ口を無視して、今日もらった要らないプリントの裏に、台本の構成と案をしたためていく。

 登場人物の人数、各人に割り振った会話の時間、舞台の密室案、探偵のイメージ(やはり古畑任三郎だろうか、少し古いが、山田仁和丸おじさん(40)の録画したビデオで見た番組は面白かった)、本当は語り手で視点であるワトソン君役が必要なのだろうが、そこはナレーションで行く。

 視聴者に犯人当てアンケートを配り、回収し、集計する。その間の時間の潰し方は。

 アンケートが終わった後は、寸劇の続き、探偵がネタバラシをして、終了……。

「なあ、沖ノ口。どうしてもアンケート集計時間がお客さんの待ち時間になる。ここは、どうする?」

「うーん、どうするのがいいと思う?」

「少なくとも、演劇でどうにかするのでない限り、俺は何もしたくない。それよりは、舞台で映えるようなトリックを考えたい」

「わかった。じゃあ、たすくの言うとおりにする」

「じゃなくて、監督が考えてくれよ」

「わたしは、なんだってたすくの言うとおりにするよ」

「何のための監督だ」

「監督なんて、看板じゃない?」

 本気か嘘かわからない無表情で、緑色のメロンソーダを啜る。ストローから口を離すまでをじっと見つめていると、口の中の犬歯が一瞬見えた。

「どうしたの、たすく。わたしの顔に何かついてる?」

 黒い大きな瞳が、じっと俺を見る。

「いいや、なにも」

 沖ノ口が何を考えているかなんて、このさいどうでもいい。しばらく、家に転がるミステリー小説、特に密室ものを再読だ。やることがあって、役割が与えられて、時間が区切られているのはいい。手持ち無沙汰で、暇だと感じないで済むのだから。

 だから、佐羅谷の「じゃあ、またね」も、イリヤさんの「犯人はおまえだ!」も、今はどうでもいい。


 俺が遅々として進まぬ筆を弄んでいると、沖ノ口は単行本を取り出し、静かに読書していた。

 俺もよく知る男性向けの小説だ。一応ライトノベルという分類がされる。今の出版界では、最大級に近い売れ行きだと思われる。

「そんな小説も読むんだな」

「転生モノの中では、硬質だと思うけど、そんなに不思議?」

「そうじゃなくて、一年の時の沖ノ口は、本自体読まなさそうな女だったじゃないか」

「たすくは、読むんでしょう? だから、わたしも読むの」

 何なのだろう、この女が何を言っているのかわからない。

 会話が途切れると、また沖ノ口は本に目を落とし、ことさらに深追いしない。この雰囲気は、そう、初めて会った頃の……佐羅谷に似ていた。いや、今でもそうだ。佐羅谷と二人の時はほとんどないが、だいたいこんな雰囲気だ。

 同じ空間にいるだけで、存在を認識するだけで、それ以上でも以下でもない。

 サイゼリヤの喧騒は、夕方を過ぎて少し大きくなっていた。

「あー、くーやんだー」

 テーブルで静かに各々作業している俺たちに、入り口から指差す女子。声だけでわかる。

 宇代木がゆるい金髪を揺らしながら、テーブルの横にやってくる。

 当然、宇代木一人というわけはなくて、後ろから静かについてくるもう一人。

「あら、九頭川くん、部活も休んで、こんなところで楽しそうね」

「楽しくはねえよ」

 佐羅谷あまねは、深窓の令嬢のよそよそしく冷たい顔だった。

 俺の向かいに目をやり、本から面を上げた沖ノ口と向き合う。

 二人、目があっても一言もことばを交わさない。尖塔での確執はうかがえない。

「おっきーだよね? だいぶん、変わっちゃったけどー」

「馴れ馴れしく呼ばないでくれる? わたし、あなたのことほとんど知らないから」

「あー、う、ご、ごめん。でも仲良くなりたくってさー」

「わたし、別に広く浅く付き合うことに興味がないの」

 珍しく、宇代木がやりにくそうだ。

 ことばの通じる人間相手でも、やはり向き不向きがあるのか。しょんぼりとうつむき、唸っている。

 佐羅谷もテーブルの横に突っ立ったまま動かない。

 案内の店員さんが困っている。

「で、何だよ、おまえら。他にもテーブルは空いているぞ。部活はどうした?」

「ぶ、部活の続きだよ! くーやんも! 今日無断で休むしさー」

「ちょうどよかったわ、時間だからと学校を追い出されたのよ。あなたも、参加しなさい。文化祭の出し物、部活でやるのだけどー」

「え、もうそんな時間なの?」

 ばん、とテーブルを手で打ちつける。突然、二人を遮って、沖ノ口が本を閉じ、左手首の腕時計を確認した。そそくさと腰を上げる。

「たいへん、たすく、もう帰らなきゃ。夕飯の準備があるんでしょ?」

「あ、ああ」

「じゃあね、お二人さん。わたしたちはもう帰るから、テーブルはお好きに。どうせなら、空いてる他のところがいいと思うけど」

「おい、腕を引っ張るな」

 有無は言えなかった。慌ててカバンの取っ手を掴み、つんのめりながら沖ノ口に連れて行かれる。

 そのまま会計を済ませ、店を出る。中の二人の様子は伺えなかった。自転車置き場で、俺はようやく腕を解放された。

「今日は、奢りよ」

「奢られるいわれがない」

「『次』、奢って」

 真顔で、強く「次」を約束させられると、否とは言えなかった。

「あるでしょう、次」

 レシートを指に挟み、俺の前でひらひらと振ってみせる。

「じゃあね、たすく。また明日。締め切りは来週月曜日だから。困ったことがあったら、何でも言って」

 最後に、沖ノ口は少しだけ笑った。

 くるりと身を翻すと、黒い髪がするりと渦巻くように跳ね、甘い香りを放つ。まるでどこかのお嬢様のような存在感だった。


 その晩、宇代木からの怒涛のメッセージをなだめ、合間合間に本棚のミステリー小説をパラパラと読み返す。特に、密室もの。ミステリーものは親父も唯一読む小説なので、けっこう蔵書がある。

 密室ものは、大きく分けると犯行時に犯人が中にいるか外にいるかで分かれるようだ。クラスの寸劇だから、なるべく単純でわかりやすいほうがいい。

 密室自体も、わかりやすいもの。よくあるのは、山奥の一軒家や孤島の一軒家で、道や交通手段が寸断されるもの。

 そうだな、せっかく奈良県なのだから、奈良県っぽく吊り橋でしか行けない一軒宿で事件が起きるなんてどうだろう。

(吊り橋)

 吊り橋というと、真っ先に十津川村の谷瀬の吊り橋が思い浮かぶ。あの吊り橋で、八月四日の橋の日には太鼓を叩くお祭りがあるという。この夏休み、佐羅谷は実家に帰ったのだろうか。

(いや、どうでもいい)

 もう、佐羅谷からは距離を置かなければ。イリヤさんからのゆるい監視もある。イリヤさんが何者で、佐羅谷との関係もわからないが、俺にとって利はないはず。

 文化祭で重要な役を任された、これを口実に、なるべく部活へは行かないようにしよう。沖ノ口も、そういう意味では使える。

「ちょっと馴れ馴れしくて得体が知れないが」

 独りごちると、スマホがぽーんと鳴った。また宇代木かと思いきや、沖ノ口のメッセだった。

『はかどってる? 明日も一緒に考えようね』

 沖ノ口の泣きぼくろが瞼に浮かぶ。

 泣いてもいないのに、泣きそうな笑顔。

「案は、まとめておく」

 一学期もの間、存在にさえ気づいていなかったが、嫌われてはいないのだろう。

 返事をして気づいた。

 直接、一対一で沖ノ口とオンラインでことばを交わすのは初めてだった。一年の時でさえ、グループのチャットでしか話したことがなかったのだ。


「ぬー、どうした、九頭川。いつも以上に目がどす黒いぞ」

「俺の目は普段もどす黒いのかよ」

 瞳は確かに黒いかもしれないが。

 昼、弁当を食べに山崎の隣へ行くや、一言目には寝不足を見破られる。

「あー、昨日ほとんど寝てなくてな。文化祭の寸劇の台本を考えて、ずっとミステリー小説を読み返してた」

「ほう、それは殊勝な心がけ。九頭川は文化祭やら体育祭やら、学校行事などには労力を費やさぬと思っておったわ」

「できたらそうしたいが、台本係はサボれねえよ。どうせやるなら、いいものにしたいじゃねえか」

「効率厨に見えて、存外に熱い男であることよ」

「リアリストでなければ生きていけない、ロマンチストでなければ生きている意味がない」

「ハートボイルドだな」

「誰がうまいこと言えと」

 すべてに無気力で、ただ生きていくだけなら霞を食うように最低限の生活をするのは、脛かじりでも生活保護でも同じだ。だが、どうやら、何もしない生活は、おそろしく「生きている意味がない」ようだ。

 引きこもってネットの記事やツイッターにかぶりついて、気に入らないものすべてに文句をぶちまけているおじさんが、俺のすぐそばにいる。

「だがしかし、お主のロマンスの相手は、今日はなかなか現れぬの」

 山崎の弁当は、もう半分もなくなっている。だというのに、窓の向こう、尖塔には佐羅谷あまねの姿が見えない。珍しいことだ。佐羅谷は、元気溌剌としたタイプではないが、学校は休まない。

 イリヤさんは、普通に教育実習生として授業を見学していた。特に変わった様子は見えなかった。何かあれば、態度に出てもおかしくはないが。

(あとで宇代木に確認を)

 ポケットのスマホに触れ、何を今さらとかぶりを振る。俺が気にすることではない。

 教室の隅で弁当をつついているイリヤさんを見るが、女子生徒に囲まれて談笑している。

「九頭川くん、呼んでるよ」

「ああ?」

 弁当箱を空にした頃に、女子から声がかかる。仰ぎ見ると、扉の向こうに宇代木の姿がある。

「山崎、悪い、ちょっと席外す」

「お主、守備範囲が広いな。あんなビッ……」

「それはやめろって言ったろ。見た目で人を差別するなって、学校で教わるだろ」

「ふん、生まれながらのことで差別はせぬさ。己の選んだ姿では判断させてもらうがな。まあ、行ってこい。友の恋路の邪魔はせぬ」

「恋路じゃねえよ。宇代木みたいな女子と釣り合うかよ。あと、友じゃない」

「ふわっ!?」

 宇代木の黄色い瞳を見返す。

 遠くてはっきりとは見えないが、どかどかと教室に入ってこないのは宇代木らしくない。 

 俺は席を立って扉の向こう、廊下へ行こうとするが、突然視界が遮られる。

「たすく、ダメだよ。台本の進捗、報告して」

「沖ノ口……」

 ちょうど動線の真ん中に、ふわりと動きを感じさせない幽霊のように割り込んできた。

「すぐ終わる」

「あ、待って」

 横をすり抜ける俺の腕を絡め、爪先立ちで、俺の耳元に口を近づける。熱い息が耳朶を打つ。腕が抱き締められている状態だが、努めて何も考えないようにする。

「たすく、あなたはこっちに戻ってきてよ」

「何の話だ」

「山崎くんの隣で、待ってるわ」

 至近距離で一瞬視線が合うと、沖ノ口は唇から舌を覗かせ、とんと俺の背中を押した。

 机の隙間を縫い、さっきまで俺が座っていた席に沖ノ口は腰を下ろす。

 新生・深窓の令嬢を間近に、山崎は挙動不審なダンシングフラワー。思わぬ棚ぼたに、何かしきりに話しかけている。沖ノ口は泣きぼくろに垂れたまなじりで、相槌を打っている。本当にあいつ、清楚系女子が好きなんだな。

 清楚は、男を知っていないとできない属性だ。だから、清楚な女子は、清楚でない事柄を理解しているし、清楚であることが一部の男子に受けが良いことを把握している。

 生まれつき清楚な女子などいない。清楚を演じることに利を感じた者が、清楚になるのだ。

 だいたい、沖ノ口は一学期までギャルだった(らしい)。見た目が変わるだけで、山崎のセンサーに引っかかる。ポンコツだな。

 一年の時、よくつるんでいたのに同じクラスだと気づかなかった俺も、大概ポンコツだが。


「くーやん、何なのさ、あの女」

 廊下に出るや否や、口を一文字に結び、ジト目で睨んでくる。

 開け放した扉からは、窓際の山崎と沖ノ口が楽しそうにしている。

「うちの文化祭の出し物の監督様だ」

「やーな感じー」

「用がないなら、戻るぜ」

「あー、待って待ってー。部活のほうでも出し物するってあまねが言ってるんだよー。あたしは反対なんだけどさ。でも、一応、部員全員で話し合わなきゃじゃん?」

「そんなもん、俺は必要ないだろ」

 自分でも驚くほど冷たい声が出る。

 恋愛研究会で出し物? まあ、やるなら何だってやればいい。だが、どうせ恋愛研究会は佐羅谷あまねの意思だ。何をするか、何をしないかは、佐羅谷一人が決めるし、そこに俺の考えなんて入る余地はない。

 合宿のような重要なことさえ、宇代木経由で、しかも直前にしか伝えてこない。

 恋愛研究会にとって、俺なんてただの頭数で、権限はない。

「だいたい、なんだ、文化祭の出し物なんて、そんな重要な話を、本人でなく宇代木にメッセンジャーさせるのかよ? なんだよ、おまえがそうやって甘やかすから、佐羅谷が何もしなくなるんじゃねえか」

「なに、なに怒ってんのさ、くーやんちょっとおかしいよ? 元はと言えば、くーやんが部活に来ないのが悪いんだしー」

 俺の八つ当たりだ。

 ここに今来てくれたのが、宇代木ではなく佐羅谷なら、俺の心はもう少し穏やかだったかもしれない。

 宇代木は教室のドア近くから、廊下を挟んで窓際へ移動する。しきりに教室の様子を気にしている。別に聞かれて困る話でもあるまいに。

「わかるじゃん、あまねはキャラがあるから、他の教室の男子に声なんてかけらんないよ。先生の呼び出し以外で他の男子なんて、……あたしでも、ほんとは勇気がいるのに」

「男子でも同じだ。よそのクラスの女子を見にいくのはハードルが高い」

 宇代木に関しては嘘だろう。そういう弱みを見せたら、俺が言うことを聞くとでも思っているのだろう。

「だいたい、おまえだって、二年の一学期しばらくは顔を見せなかったじゃねえか。なんで俺は一日二日抜けたくらいで、ごちゃごちゃ言われるんだ」

「あたしはもともとダンス部がメインだよー。それはあまねも知ってる。それに、くーやんが相談に来てた時は、あまねから来なくていいって言われてたし」

「何だそりゃ」

「新学期の初めはさ、部活見学とかいろいろあるじゃん? 新入生の。あたしはさりげなく恋愛研究会を宣伝する広告塔でもあるんだよー。だから、なるべくいろんな部活に顔を出して、新入生に恋愛を相談する場所があるよーって情報を流してたんだよ」

「そ、そうだったのか」

 確かに、女子のコミュニティは口コミが強いので、いかにもカースト上位の先輩女子がさらっとお勧めすると、いつの間にか女子の間では知られて、利用者や部員候補ができるかもしれない。遠くのメディアよりも近くのインフルエンサーだ。

 その役目は、宇代木にうってつけだ。

 結果、今でも週に一人は相談に来るわけで。残念ながら、一年生の部員までは確保できなかったようだが。

「だ・か・ら! 今くーやんが来ないのはおかしいよ! せめてさー、出し物をするかどうかはともかく、話し合いには参加しよ?」

 上目遣いで、覗きこんでくる。

 相変わらずカラコン入りの大きな瞳だ。ここまでメイクで作り込まなくても、十分かわいらしいのに。俺などは慣れているが、普通の高校生男子はメイクが決まりすぎている女子を敬遠すると思うがな。

 佐羅谷が何を計画しているのか知らないが、宇代木も反対で、俺がいなければ、実質なにもできないのは確実だ。能力の問題ではない。出し物は、一人ではできない。そういうものだ。

 恋愛研究会の出し物には協力できない、そう言いに行こう。

「わかった。結論は決まっているが、一度は話し合いとやらに参加する」

「よかったー。じゃあ、今日の部活のー」

「ダメよ。たすくに、そんな時間はないの」

 ぬるっと甘い香りが鼻腔をつく。

 俺の前に、沖ノ口が割り込んだ。胸のすぐ下から、這い寄るように見上げてくる。

「ねえ、たすく、わかってる? 来週月曜日には台本、仕上げなくちゃならないのよ? そんなつまらないことに時間を割かないで」

 俺の顎に人差し指を軽くあてると、そのまま宇代木に向き直る。表情は見えない。

「だから、あなたも邪魔しないで。結論は出たでしょう? たすくは、部活の出し物には反対。それだけを、深窓の令嬢にお伝えなさい」

「あたしたちは、部員みんなで話し合って決めたいの!」

「文化祭の優先順位は、クラスの出し物でしょ?」

「それは部員が多い部活の話で」

「あなたたちの事情なんて知らないわ。たすく、今日も五時までは缶詰めよ」

 マジか。

 こういうのは座って考えていても、アイデアが出るとは限らないと思うんだが。

「五時までって、そんな、その時間には部室も出なきゃなんないじゃないかー。いいじゃん、一日くらいさー……」

「今まで部活でずっと一緒にいたのに、まともに会話もできていないから、この期に及んでグダグダになるんじゃないの? たすくの時間を奪うっていうことは、一組全員の時間を奪うことよ。わたしたち一組全員に同じこと言えるの?」

 宇代木は唇を震わせながら、開いた扉の向こう、昼休みの教室を見ている。もう昼食は食べ終えた者がほとんどだろう。だが、いつもならよく聞こえる喧騒がない。こちらに耳を澄ませているのは間違いない。

 じりじりと視線を感じる。横目で覗くと、女子に囲まれて談笑していたイリヤ先生が、能面のような笑顔でこちらを眺めていた。ゾッとして目を逸らす。

「うー……」

 宇代木はうつむいて、ことばを失う。

 さすがに、見ていられない。

「あー、わかった、じゃあ、五時以降ならいいんだろ。すぐ済むなら、学校以外で話し合おう。宇代木、それでいいか?」

「うん、くーやん、ありがとう」

「たすく、甘いよ。それで台本が」

「沖ノ口もやりすぎだ。ずーっと根をつめたところで、いいネタなんか浮かびやしないさ。どうせ、部活の方の話はすぐ済む」

 沖ノ口は安心したように笑顔で頷いた。

 もともとギャルだったし、那知合のような女王様のグループだったからよくわからなかったが、クラスでの成功を真剣に考えているなんて、意外と純な面もあるのだな。これは、台本も真剣に作らないと、幻滅されそうだ。

 力不足なりに、がんばるしかないな。

「くーやん、じゃあ、下校時刻に校門で待ってるから」

「ああ、」

 またな、と言いかけて、それだけにとどめる。

 もう俺には、またなということばを使う資格はないのだ。

 金髪を弾ませながら廊下を戻る宇代木のメリハリのあるスタイルを眺めながら、またな、に代わる別れの挨拶を探るが、俺の語彙に適切なことばはなかった。

 さよならは、二度と、本当に二度と会えない挨拶のような気がしたから、言うことができなかった。


「これは、一学期の校外学習で川上村に行ったときにわかったんだが、あの村は一つの集落へ行く道が一つしかないところがあってな。どれも細くて急坂で、大雨が来たら崖崩れで通行止めになるような道だ。

 例えば、山奥の合宿所に来た高校生何人かが、嵐に遭い、閉じ込められる。事件は、そこで起きる。

 最初の犠牲者は引率の先生だ。

 これなら、先生役を考えなくていいし、役者が高校生だけでも自然にできる。どんなキャラクターや物語展開にするかは、ある程度当て書きで決めたいから、出演するやつを確定してからだな」

「ほう、聞いているだけでゾクゾクするな。ありきたりな展開だが、男女別の大部屋二つという環境で、いかに犯行に及ぶことができたのか?」

「どうでも作りようはあるが、寸劇でしかも観客に推理させるんだから、なるべく覚えやすい典型的なキャラクターにしたいな」

「となると、リーダー、金魚のフン、日和見主義者、マドンナ、不良、ガリ勉、成金ボンボン、臆病者、悲観主義者……そんな感じだな」

「キャラ設定が昭和アニメなんだよなあ」

 放課後、俺は山崎と神山を台本補助に指名して、いくらか昨晩のうちに考えたアイデアを述べていく。

 幅広い知識のある山崎は、意外と使える。神山はまったく別の視点からの気づきを得るために頼んだ。

 というか、クラスで頼みやすいのはこの二人だけだった。

 そして、監督の沖ノ口。

 ほとんど人のいない教室の隅に寄って、男三人と女一人が向かい合う。

「どんな感じで寸劇にする予定なの? 普通にミステリードラマみたいに、進んでいくの?」

 神山は何か含みがある。

「正直言って、俺はあまり演劇がわからない。ただ、物語を演じるというよりは、視聴者に対して訴えるような、ちょっとメタっぽい方が面白いかと思う。神山はどう思う?」

「うん、ぼくは、国語の教科書にあったじゃない、芥川龍之介の『藪の中』みたいなのが面白いかなーって思ったんだ」

「各人が独白形式で、己の事実を述べると?」

「そう。一見矛盾だらけのみんなの証言も、実は一つのトリックでうまく結びつく……なんて、できたらいいよね?」

 確かに演劇にするには、独白形式が映えるかもしれない。

「あるいは、犯人も観劇者に示してしまってもいいのかもしれないな。探偵役が、訴えかけるのだ。「さあ、みなさん、俺に謎を解く知恵をください」と言って、トリックに気づいた回答があったら、正常に劇は進み、そうでなければ犯人は証拠不十分で解放される、というのはどうだ」

「ちくしょう、山崎のくせに秀逸なアイデアが嫌になるぜ」

「ほんとう、山崎くんは物知りだよね」

「はっはっは、褒めても何も出ないぞ、神山氏よ」

 男三人、そこそこ盛り上がる中、黙って静かに座っている沖ノ口を見る。わずかに離れた椅子に、膝をそろえて足を斜めに流し、手は膝の上。

 一人、絵になる存在感があった。

「沖ノ口はどうだ。あとで役者メンバーを教えてくれたら、この線で書いていけそうだが?」

「そうね、いいんじゃない?」

「含みがあるな」

「たすくにしか書けないお話なら、嬉しいと思うわ」

「俺が書く話は、きっと俺にしか書けないよ」

「わたしは謎解きゲームを提案したのであって、殺人事件を提案したのではない、と言っておくわ」

 沖ノ口はかすかに口元を綻ばせる。

「うーんと、そういえば、ミステリー作品でも、人死にが出てくるのは嫌だっていう人もいるね。僕も、ほんとうは事件や物語のためだけに人が死ぬのは好きじゃないな」

「事件があるから探偵がいるのではなく、探偵がいるから人が死ぬのだ。探偵がいる限り、死は避けられぬよ」

 なるほど、今回は高校の文化祭だ。

 あまり殺伐とした話はよくないかもしれない。それに、殺人事件となると、意図的にしろ、偶発的にしろ、殺害が起きるほどの怨恨や諍いがあったことになる。当然に人物同士に軋轢があったことも描写・演技しなくてはいけなくて、短い時間で視聴者に納得させるのは大変かもしれない。

「『人狼ゲーム』って知ってる? TRPGの一種なんだけど」

「ああ、村人と人狼とに分かれて、相手をゼロにする話し合いのゲームだろ」

「わたしは、人狼ゲームのようなものをアレンジしてもいいと思っていたよ」

「おー、沖ノ口女史は人狼ゲームもわかるであるか!」

 声が大きく高くやや早口になる山崎。

「今はYouTubeの配信でもたくさんのvtuberがライブしておるし、ゲーム性を持ったAmongUsもあるし、実際にプレイしている様子を見たら、受けるかもしれぬ!」

 チラチラと沖ノ口の顔を見ながら、熱弁する。沖ノ口はニコニコと受け流しながら、ときどき、ゆるりと相槌を打つ。

 放っておくと話を続ける山崎を脇に、俺は神山に人狼ゲームのルールを簡単に説明する。

「へえ、そんなゲームがあるんだ」

「やってみると、面白いぞ。ボルダリング部でも、暇な時にやってみろよ。人数が少ない時は、ワードウルフの方がいいかもしれないが」

「そっかあ。それなら、観客は誰が狼か、ハラハラしながら見てるだけでも楽しそうだね。狼探しに参加しても、しなくても楽しめそう」

 神山の笑顔や、山崎と沖ノ口の会話にならない会話を聞きながら、なんとなくもう少しでパズルのピースが合いそうな気がした。

 あと少し、あと少しで、俺にしか考えつかない視聴者参加型の謎解きゲームの台本のネタが完成しそうなんだ。

 しかし、今のところ時間はなかった。

 下校を促す放送と音楽がスピーカーから流れる。

「今日はここまでだな。みんな、ありがとう」

 四人揃って教室を出て、校舎を出る。じゃあなと挨拶して自転車置き場へ行くと、沖ノ口も後ろをついてくる。そういえば、沖ノ口も自転車だ。

「たすく、一緒に帰ろ」

「今日は、部活のメンバーと話し合いがあるんだよ。聞いてただろ」

「じゃあ、校門までで」

「好きにしろ」

「好きにする」

 自転車を押す俺に、並んで自転車を押す。

 秋の始まりの赤い空に照らされ、長い影が二つ並ぶ。俺とは自転車を逆側に持ち、体が触れそうなほど近くに寄ってくる。

 おかしな距離感に顧みると、ちょうどたまたま視線が合い、無言の微笑みにこちらが恥ずかしくなる。

 ことばはなかった。

 特に何を話すでもなかった。

 友達でもないただの知り合い同士で、俺はことばの交わしかたを知らない。


 ポケットのスマホが揺れるのと、自転車を押す俺が校門前に到着するのと、女子二人が立っているのを発見するのが、ほぼ同時だった。

「あー、くーやん、遅〜い。やっと、」

 振り返った宇代木は俺の隣を見て顔を引きつらせる。不自然に口が開いたまま、無言になる。

 ため息が聞こえた。

「遅かったじゃない、九頭川くん」

 佐羅谷は笑顔で、風に揺れる髪を耳にかき上げる。隣を見もしない。

「あー、すまん。文化祭の、」

「別に遅くないわ。文化祭の作業が許される時間の範囲内よ。ねえ、たすく?」

「あ、ああ」

 沖ノ口の言い分は、確かに間違っていない。そう言われたらそう返すしかない。

「むー」

 珍しく、不満げな顔の宇代木が見える。怖くて、佐羅谷の顔を見ることはできなかった。

 ふふ、と沖ノ口の声が聞こえた気がしたとたん、ぐいっと襟を引かれる。バランスを崩した俺の耳に、沖ノ口は小声でつぶやく。

「たすく、期待してるからね?」

 ぽんっと、肩をはたくや、沖ノ口は自転車にまたがり、手を振りながら佐羅谷と宇代木の間を抜けて走り去る。

「じゃあね。また夜に連絡するわ。出てね?」

 勢いに押されて手を振り返していると、目の前の女子二人に半眼でじっと見つめられていたのに、ようよう気がつく。

「なんだよ」

「べーつーにー」

「いつも以上に語尾が伸びてるぞ」

「伸びてないし! いっつも伸びてないしー!」

「ずいぶんと、仲がいいことね」

「普通だろ。ただのクラスメイトだ」

「顔と名前が一致するクラスメイトが半分もいない九頭川くんだと、説得力がないわよ」

「何で知ってんだよ、俺のこと」

「もう、五ヶ月も一緒にいるじゃない」

 そうだ、佐羅谷と知り合って、もう五ヶ月にもなるのか。気づけば半年近い。俺の高校二年生は、ほぼ佐羅谷と宇代木メインだ。

(それが、ダメだったんだ)

 少数に執着して、叶わなかった時の絶望よ。

 俺にとってはたった一人でも、相手にとってはただの一人。相手が十七年の生活の中で築いてきた人間関係に、半年程度で割り込み、深い間柄になれるなんて、おこがましいにも程がある。

 もともと、俺は「ある人」の一番になれないと思うと、親しくなるのを諦める人間だったはずだ。「ある人」の人生には、年齢分の人付き合いがあり、何人もの人間がシナプスのように絡み合っていて、だから今さら俺なんかが「ある人」の一番になれるなんて、思えないーーだから、俺は、いつも一人なんだ。

 同じく友達は少ないだろうが、深く人間関係を築いている佐羅谷は、宇代木という親友とイリヤさんという兄か何かがいる。

 宇代木は誰とでも速やかに親しくなれるうえ、佐羅谷と強固な紐帯でつながっている。

 俺は、知り合い以上友達未満のまま、二人にとっては何者でもない卑小な存在だ。一番には、絶対になれない。二番じゃダメなんですかと問われれば、二番になれるかも怪しいと答えようぞ。

「どうしたの、九頭川くん? 顔色が悪いわ。少しクマも出ているし、大丈夫?」

「……大丈夫だ」

 少し眠いのは事実だ。昨晩はあまり寝ていない。

 俺は覗き込む佐羅谷の視線を遮って、目元を手で隠す。

「さっさと用事を終わらせよう。クラスの出し物の台本、早く仕上げたいんでね」

「クラスの台本ねー」

「用事、なのね」

 二人の反応はどこかトゲがある。

 だが、いちいち考えるのも面倒だ。

「どうするかな。公園なんか無理だし、図書館はもう閉まっているし、やっぱり、サイゼかガストか」

「無理よ。ドリンクバーとはいえ、毎日使うには安くはないんだから。それに、うるさくて疲れるわ」

 佐羅谷はかぶりを振った。

 どんな暮らしをしているのかわからないが、自律や節制に関して佐羅谷は優れていそうだ。バイトはしていないようだし、自由になるお金は多くないのだろう。俺とて、無理はできない。夏休みのリゾートバイトの給料は、本やゲームに消えていく。

 そして今から晩ご飯の時間で、ドリンクバー一つで長居するのは気が引ける。しかも、来客が多くて騒がしいのも間違いない。

「じゃあ、どこにするんだよ。否定ばかりでなく、代案を出してくれよ」

 疲れているのだろう。少し声が荒くなってしまう。

「ここから近くてー、タダで使えてー、静かなところでー、長居できるところだよー」

「そんな都合が良い場所が転がっているわけが」

 言いかけて、思い当たる。トナリエのベンチや、オークワの休憩飲食コーナーなら使えないこともない。

「人の往来がある場所は避けたいわ」

「だから否定から入るなよ。文句ばっかり言うなら、俺の家くらいしかないぞ」

「はー? なにそれ、ここぞとばかりに女の子連れ込む気なんだー」

 もはや冤罪の域。

 だが、ことばとは裏腹に、宇代木の眼はきらきらと輝いている。そういえば、いつもボルダリングの後で俺の家に来たがっていたな。面倒ごとはごめんなので、のらりくらりと躱していたが。

「九頭川くん、いいの、お邪魔して?」

 佐羅谷は申し訳なさそうに顎に手をやって、上目遣いで覗いてくる。

(こいつら、また台本作ってやがるのか)

 リゾートバイトでも、口裏を合わせていた。俺を合宿に引き込むための演技だ。

 今回だって、ただで場所を提供させるために理詰めでシナリオを作っていたに違いない。

 学校は無理、公共施設も無理、ファミレスも無理となると、誰かの家しかないが、学校から歩いていける範囲の家は、俺の家しかない。家を知られると溜まり場にされそうで、一年の時でさえ、誰にも教えたことはなかったというのに。

「ま、仕方ないか。言っとくが、そんなに部屋はきれいじゃねえからな。来て文句言われても受け付けないからな」


 奈良県最小の市、大和高田市。

 近鉄の高田市駅の程近く、扇型をした池のそばに、俺の家はあった。住所は三倉堂。物心ついた時から、俺はこの家に住んでいた。もちろん、親の家だ。

 車が一台と自転車が三台くらい置けるガレージと、木造二階建ての小さな一軒家。奈良県では小さめの敷地。だが、親子二人で暮らすには十分だ。

 扉に鍵はかかっていなかった。

 車庫にはハイエースが停まっている。もう親父が帰ってきているようだ。

 九月、赤く染まる空はまだ明るいが、不用心だ。まあ、奥まった住宅地なので、よそものが悪さをすることはないと思うが。

「ただいまー」

 玄関に入る。

 おずおずと借りてきた猫のように、後ろから女子二人がくっつきながらついて来る。

 居間の扉が開く。

「おー、輔、遅かったな。今日は俺が晩飯を」

 タンクトップにトランクス姿の親父が、扉を半分開けたままで固まった。ボサボサの髪の毛が、一束はらりと目を隠す。

 逆再生したかのように扉が閉まると、どったんばったんひとしきりものをひっくり返す音が聞こえる。

 そして、扉が再度開く。

「やあ、お嬢さんがた、ようこそ。ささ、上がってくれ」

 一瞬でちょいワル親父風に着替えただけでなく、髪の毛がセットされ、ポーズを決めてピンとしている。

「息子の同級生相手におめかしすんなよ、気持ち悪い」

「ばっか、おまえ、あとで「九頭川くんのお父さん、ダサい」って言われてフラれるのはおまえなんだぞ。女子に言われるダサいは一生のトラウマだぜ」

「この二人はただの部活メイトだって。ちょっと、文化祭での話するんだ。ご飯は後でいい」

「そっかそっか、部活か。一年の時は友達なんて誰も連れてこなかったもんなー、いやー、いいことだいいことだぞ」

「聞けよ。友達じゃねえよ」

「家に来るのは友達でいいんだって。あ、天ちゃん、ちゃおー」

「ちゃおーです、おじさま」

 俺が親父を居間に押し返そうと揉み合っていると、宇代木とニヨニヨと手を振り合う。

 そういえば、この二人ラインでつながってましたね。正確には、親父と宇代木母がつながっていたのだったか。

 だらしなくにやける親父に、宇代木は緊張とも警戒とも取れる不思議な表情だった。俺に見せるどんな表情とも違う、少しやりにくそうな顔だ。

 一方、初対面の佐羅谷は、むしろ余裕のある態度だった。なるほど、佐羅谷は大人と相対するのが得意そうではある。

「初めまして、同好会で部長をしている佐羅谷あまねです。本日は、文化祭の件で、少しお邪魔します」

「うむ。こんにちは。えーっと、輔、なんだ、俺はしばらく外にいた方がいいのか」

「なんでそういう発想になるんだよ」

「や、修羅場なのかと」

「話聞いてた? 部活の! 文化祭の! 出し物の話だって」

「その心は?」

「あー、もういいから。親父はご飯食って、ビール飲んで、アマゾンプライムでも見てろって。おい、二人は上で待っててくれ。階段登ってすぐの部屋だから、入っててくれ」

 俺は親父を居間に押し戻しつつ、女子二人に上がるよう促す。

 二人は呆れて顔を見合わせるが、靴を脱いで足取り軽く階段を登っていく。スカートのひらひらを極力見ないように、親父をどしどしと居間に押し込み、扉を閉める。

「おいおい、片付けもしていない部屋を女子に曝して大丈夫か」

「今どき見られて困るものはねえよ。全部ネットの中だ」

「今の若者はハイテクだねえ」

 ハイテクという言葉がローテクだな。

 とりあえず、お茶と軽いお菓子だけでも持っていこう。

 真ん中に邪魔者ばりに突っ立っている親父を無視して、お盆に客人用グラスと小皿を並べる。

「で、どっちだ」

「すぐそういう発想をするのが嫌われる親の行動第一位だ」

「俺は嬉しいよ」

「その発言は嫌われる親の発言第一位だよ」

 どうして、親はこうもうざいのだろう。

 俺は親父を無視して、淡々とグラスに冷えた麦茶を注ぎ、少しばかりのお菓子を開ける。

「洗い物も後でするから。あと、部屋には来るな」

「おうおう、思春期っぽくていいねえ」

 思春期に言われると一番腹が立つ決めつけだ。苛立ちを理性で押さえこんで、お盆を持ち上げる。

「輔、待て」

「なんだよ、まだなんかあるのか」

 振り返ると、神妙な顔をした親父がいた。

 ちょいワル親父の格好が相俟って、腕を組んだ姿が雑誌モデルのようだった。我が父ながら、ないがしろにできない存在感。

 思わず動きを止める。

「次のお母さんは、ゆるふわビッチか、清楚系お嬢様か、どっちがいい?」

「真面目に聞いて損した! 息子の同級生を狙うなよ!」

「しかし、面白い二人組だな。まったく逆なのに」

「ああ? あー、確かに見た目は正反対だけど、あいつら親友同士だってよ」

「それはわかるがそうじゃなくて、俺が言ってるのは中身と外見の……ああ、そうか、おまえにはわからんか」

 なぜか呆れられる。

 そして、自分から話を振ってきたくせに、手のひらを返して、さっさと上へ上がれとばかりに居間を追い出してくる。なんなんだ。

 階段を登り背を向けると、親父が最後に言った。

「やっぱり、おまえは俺の息子だな。好みが、そっくりだ」


 自分の部屋の前、あまり防音の良くない扉越しに、声が漏れる。

 ノブに手をかけようとして、固まった。

「くーやんのパパかっこいいよねー」

「そうかしら。わたしはあまり」

「あー、あまねは年上好きってわけでもないんだー」

「年齢や見た目なんて、あまり関係ないわ」

「ふーん。でも、くーやんも歳を取ったらあんな感じになるかもよ?」

「……」

「なんで黙るの?」

「べ、別に」

 入りたいが、なかなか会話の途切れるタイミングがない。

「それにしても、天、九頭川くんのお父さんと知り合いなのね」

「あー、ママつながりでさー。学校で会ったこともあるよ。ラインもつながってる。へへーん、うらやましい?」

「部員の親の連絡先を知っても、どうしようもないじゃない。というか、天、かってに本棚を漁るのはやめなさい」

「えー、だって、男子の部屋に来たら定番じゃんか。本棚の奥に隠したモノを探してあげないと!」

「まったく、この小綺麗な部屋でわかるでしょ? きっと九頭川くんはそのくらいで尻尾を掴ませるような失敗はしないわよ。天が欲しがっているようなものは、きっとその机のタブレットやパソコンの中に隠されているわ」

 佐羅谷、正解だ。

「何さ、くーやんのことよくわかってるんだー」

「そりゃあ、半年近く一緒にいるんだもの」

「あたしだって似たようなもんじゃん」

「ちょっと、何してるの、やめなさい!」

「えー、いいじゃん、あまねも来る?」

「ダメでしょ、どきなさい」

 なんだ、何が起きている?

 部屋の中でドタバタと音がする。

 漁られて困るものはすべて電子データだし、タブレットもパソコンもログインは指紋認証だから、まず見られる心配はない。

 部屋のフィギュアやプラモなども、大して問題あるキャラクターや作品はないし、まさかあいつらが人のものを壊すことはないだろう。

 会話が途切れた。

「おーい、待たせたな。入るぞ」

 自分の部屋に入るのに入るぞとはこれいかに。

 自分の部屋ではなく、女子がいる場所に入るのに緊張しているのだ。というか、小学校時代でも女子が自分の部屋に来たことなんてなかった気がする。緊張だ。

 扉を開けた。

「何してんだ?」

 危うく、お盆を取り落とすところだった。

 女子二人が絡み合って、俺のベッドの上に転がっていた。

 宇代木が下で、仰向けに寝ている。

 佐羅谷が上で、うつ伏せで肘を立てて覆い被さっている。

 腰から胸辺りまでは二人ピタッとくっついていて、佐羅谷の短めの髪が宇代木の頬に軽く当たるくらいに、顔も近い。

 宇代木は膝を立てて寝転がっていて、健康的な肌色が白いシーツに直に触れている。佐羅谷の黒タイツの細い足も、宇代木に絡まっている。二人のスカートは際どいところまで捲れ上がっている。

 少し赤い顔で、俺と目が合う。

「何してんだ」

 もう一度問うた。

「ま、まあ、俺は理解があるし、女同士でもいいと思うし、だけど、人の部屋ではやめてほしいかな!」

「ち、違うし! あまねのことは好きだけど、そんなんじゃないし!」

「そうよ、女子にとってこのくらい普通よ? 何も知らないのね、男の子は。すぐそんな発想になるのがほんと、気持ち悪い」

「だったら頬を赤らめて早口になるんじゃねえよ。だいたい、男の部屋で急にいちゃこらすんなよ」

 俺は部屋の小さな折りたたみテーブルを組み立てて、持ってきたお盆を置く。二人もいそいそと身だしなみを直し、テーブルに向いて座る。

 さっきまでのむき出しの太ももが気になって、足元を直視できない俺がいる。

「で、なんだ。さっさと本題に入ってくれ。俺は忙しいんだ」

 脳裏に焼きついた美少女二人の絡み合いを努めて忘れ、本題に入る。

 ともかく、忙しいのは本当だ。今週中にクラスの劇の台本を仕上げないといけない。一分一秒が惜しい。昨日もほとんど寝ていないし、今も非常に眠い。

「二学期になって急に忙しいなんて、勝手な話ね。合宿でも言ったじゃない。部活に来てねって」

「勝手なのは、どっちだ」

 人の気を知ったうえで、いいように振り回して。たった一日部活に出なかったくらいで、大騒ぎして。

 そんなに俺をつなぎ止めたいなら、何も言わずに自分の中だけで完結する思考を、少しでも外に吐き出せよ。

「俺には何も連絡も寄越さないくせに、合宿だの文化祭だの、勝手に話を進めてるのはおまえらだろ。なあ、俺の言い分は何か間違ってるか?」

「連絡が不十分だったのは、ごめんなさい。じゃあ、これからどうしましょう?」

「どうしましょうって、電話でもラインでもメッセでもなんでもいいじゃねえか」

 なぜか佐羅谷は念を押すように何度も確認し、時おり宇代木の顔を窺いながら、スマホに登録をしていく。一応電話番号だけは教えているし、嬉しくもない内容の電話はかかってきたので、俺も登録済みだ。

「天のぶんはいいの?」

「宇代木の連絡先は全部交換済みだ。なあ、佐羅谷。これからは、宇代木を通すなよ。重要なことは、部長が自分で連絡してくれ。部員二人なんだ、負担にもならないだろ?」

 宇代木を挟むと、情報が伝言ゲームになる。今となっては、宇代木に俺を辞めさせる悪意があるとは思えないが、不安はある。

「ひっどいなー、くーやん、あたしのこと信用してないんだー」

「部長なら、部長の責任を果たせってことだ。いつまでも宇代木におんぶ抱っこじゃまずいだろ」

 詭弁だと自分でわかっている。

 少しでも、佐羅谷と関わる時間を増やしたいだけの、浅ましい考えだ。

「そう、ね。今まで、少し天に頼りすぎていたかもしれないわね」

「ふーん、そうなんだ。そうなんだ」

 じっと正面から真っ直ぐ見返す宇代木に、佐羅谷はばつが悪そうに俯いている。

 空気が重い。

「で、もういいか? 送っていくぞ」

「まだ始まってもないし!」

「そうね、急いでいるのね、じゃあ、本題に入るわ」

 背筋を伸ばして、佐羅谷は俺と宇代木を交互に見遣った。宇代木ははすに構えたまま、きちんと向き合わなかった。

 少し震える佐羅谷の唇。


「恋愛相談のブースを文化祭で出したい」


 佐羅谷のことばは簡潔で明瞭で惑いがなかった。

 そして、内容において我らが恋愛研究会として、何の問題もない。

 ここまで勿体ぶるものでもないし、言いにくそうに、申し訳なさそうにするものでもない。そして、宇代木が嫌がるのも不審だ。

 俺は、どうだ。

 俺はどうしたい。

「何も問題はないように思う。俺は当日はクラスにいる必要もないし、部活の方に入れるぞ」

「前も言ったけどさー、あたしはムリ。ダンス部の発表があるから」

「文化祭は二日もあるんだ、ダンス部で何時間踊り続ける気だ」

「舞台に出る時間だけが必要な時間じゃないじゃんか。実際は前後にたくさん時間がかかるんだよ。それに、普段サボりがちだから、事前の練習もちょっと本気でやんないと、迷惑かかるんだよー。ナチ子怒ると怖いし」

 ダンス部は那知合花奏がもう次期部長に内定しているのだろうか。那知合は真面目一辺倒というキャラでもないが、自分の好きなことにかけては、適当にこなそうとする人間を許さないだろう。

「それに、あまねは大切なことを言ってない」

 宇代木は三角座りで膝を抱え込み、顎を乗せる。

「だいたい、おかしいじゃん。一年の時はやどり先輩だって何もしなかったんだよ?」

「依莉先輩は、別にやる必要はないって言ってただけじゃない。やるなとは言わなかったわ」

「じゃあ、一年の時なんもしなかった理由は?」

「あの時は、わたしだって、先輩を押しのけてまで提案する勇気もなかったから」

「あたしはさー。恋愛相談や恋愛研究会っていうものじたい、あまり表の存在じゃないと思うんだよー。そんなにおおっぴらに目立って良いものじゃないよ。恋愛は、密やかに、静かに、隠れて相談するものだよ。あたしたちの存在は、恋愛研究会の一員としてそれなりに個性があったほうがいいけど、相談する場は必要な人だけが見つけられる見えにくさが必要なんだよ」

 宇代木は珍しく饒舌に、だがひどく言いにくそうだ。理論をあえて曖昧に、あやふやにして宇代木天というフィルターを通したような。

「天は、人を好きになることは恥ずかしいと感じるの?」

「ほんと、そーいう話の逸らしかた、あたしにすんのはやめなよ」

「わたしは、恋愛相談する場はもう少し表に出てもいいと思っているし、人を好きになることは素敵なことだと思うわ」

 意外だ。

 合宿でも「愛とはなんぞや?」という犬養先生の問いに対して三人で話し合ったが、あのときに対立はなかった。

 こんなに佐羅谷と宇代木がぶつかっているのは、初めてだ。しかも、二人、キャラクターの部分ではなく、わりと素のところで言い合っているように見える。

「九頭川くんはどう?」

「くーやんに逃げる前に、早く言いなよ。舞台設定のことをさー」

「舞台設定?」

 なんだ。

 いつもの理科実験室で、飛び込み相談者が来るのをぼうっと待ちぼうけしているのではないか。それなら、ほとんど読書したり昼寝したり、文化祭も楽をできると思ったのだが。

 しかし、佐羅谷の野望は想像を絶することだった。


「youtubeでもなんでもいいのだけど、恋愛相談の様子をライブ配信したいと思っているの」


 返事が、できなかった。

 眠気と台本の案件で複雑に混乱した頭に、処理を超える新たな問題が舞い込んできた感じ。マイコンだけに、古い俺の頭ではスペックが足りない。クロックがアップアップしてるぜ。

「正気か」

「ほらー、くーやんも乗り気じゃないじゃん」

 問題が、多すぎる。

 まだ、相談を後から編集して動画としてアップするなら、わかる。だが、ライブはダメだ。誰が何を言うかわからないのだ。そして、一度公にしてしまったネット上のデータは、きっと完全に消去することはできない。

「九頭川くん、どう?」

「参考までに聞くが、佐羅谷、ツイッターやインスタはやってるか?」

「やってないけど」

 ダメだ。

 頭は良いから、ネットリテラシーを普通に体得していれば、ライブはもちろん、迂闊に名前や顔、学校名を晒すことの恐怖がわかるだろうに。

 一足跳びに、高難度の世界を目指しすぎだ。

「おすすめは、しない」

 かろうじて俺にできたのは、直接の否定ではなく、婉曲に諦めさせることだった。

 潤んだ瞳で見つめられ、これ以上は言えなかった。

「大体どうして急にそんなに活動的になるんだよ。恋愛研究会は、宇代木の言う通り、秘めやかに、密かに悩む者にだけ門戸が開かれていたら、それで十分だろう?」

「そだよー。文化祭で出し物をするってことは、案内で全校生徒にも来場者にも知られるってことだし、ネット配信なんてもってのほか。あまねはネット住民の悪意を知らなさすぎるんだよ」

「ネットはな。ネットの向こうに生身の人間がいるということを想像できないで、暴言を吐くのが当たり前の世界だからな」

「そーそー。大人しく、学校内に閉じこもってるのが一番だよー」

「宇代木の言い方は悪いが、俺も学内で留めておくほうがいいと思う」

 沈黙が降りた。

 窓にかんかんとぶつかる羽虫のブーンという音が、エアコンの低い唸りと混じる。

 誰も、音を立てない。

 ある程度稼働して、温度が安定したのか、エアコンの音が消える。

「……なによ」

 ちょうど、うつむいたままの佐羅谷が、掠れた声を出した。

「わたしをこうしたのは、九頭川くんじゃない! どうして、どうしてっ」

 顔を上げたのは、俺の知らない少女だった。

 俺の知っている佐羅谷あまねではなかった。

 佐羅谷あまねは、こんな顔をしない。

 佐羅谷あまねは、こんなしゃべり方をしない。

 俺は佐羅谷あまねではない少女に、どう対応すれば良いのかわからなかった。

「ま、待て、落ち着け、」

「触らないで! 近づかないで!」

 汚らわしいものを見る目で身を退かれると、俺にはなだめる術がない。

 宇代木に目配せすると、特に慌てた様子もなく、あやすように抱きしめにかかる。

「ほらほらー、あまね、ちゃーんと話さないからこうなるんだよー」

「話したって、どうせ通じないじゃない」

「あたしにはね?」

 宇代木は、俺に意味ありげな視線を寄越す。

「ほら、今なら聞いてくれるでしょ?」

「話があるなら、いつだって聞いてやるさ」

 佐羅谷はいつも大切なことは話さない。どうでもいいことばかりだ。無防備に近づいたかと思うと、急に険しい表情で拒絶する。女はわからない。

 俺がどうして、佐羅谷のやる気を引き出したのかさえわからない。

 正面から佐羅谷を見る。

 視線は合わない。

 しばらく、時が過ぎる。


「わたしは、恋愛研究会を部活動に昇格したいの」


 佐羅谷のことばが沈黙を破る。

 ふー、と宇代木の息が聞こえる。

 やっと俺と佐羅谷の視線が合う。

 佐羅谷の表情は落ち着きを取り戻し、深い緑色を秘めた黒い瞳が、強い光を宿していた。

「部活動に昇格」

「そうよ。今の恋愛研究会は、同好会で、しかもかなり特殊な状況を許されている。そうじゃなくて、普通の、誰でも参加できる部活にしたい」

 ことばを選んでいるが、特殊な状況とは入部の際の審査のことだろう。誰でも入れるわけではなく、顧問の犬養先生の判断があるらしい。

 実際に誰でも入れるなら、佐羅谷や宇代木狙いの男子がもっといてもいいものだ。

 そういえば、神山は自分でボルダリング部を立ち上げた。今度、部活を作るときの要件でも聞いておこうか。

 だがしかし。

「どうして部活にしたいんだ? 同好会のままじゃいけないのか?」

「だめよ。このままだと、わたしたちの代で恋愛研究会はなくなってしまう」

「なくなったっていーじゃんか。野次馬とか興味本位とか下心ありありとか、そんなつまんない生徒が来たって、めちゃくちゃになっちゃうし」

 宇代木は麦茶をアルコールのように呷りながら、ブスッとつぶやく。

「あたし、今の三人の環境がけっこう気に入ってんだー。やどり先輩がいた時も良かったけど、今のくーやんが入って、男子の視点もあるバランス取れた状況がさー」

「わたしだって、そうよ。だけど、この状態は永遠じゃない。わたしたちは高校生で、もう一年半後には卒業するわ。どれだけ変化を拒んでも、わたしたちは大人になって、そして、三人が一緒にいられる場所はなくなる」

「そんなのあたりまえじゃん。同好会だろうと、部活だろうと、高校なんて卒業しちゃえば、気軽に会うなんて難しいよ。大学だって、通える範囲かどうかもわかんないんだし」

「だからよ。わたしは、わたしたちがいた痕跡を、ここに残したい。この三人がいるということ、この三人がいたということ、たとえ将来、気軽に会えなくなっても、かつらぎ高校には恋愛研究部があって、ホームページもあって歴代部員も名前が残って、何かあったら集まれるような。そんなふうにしたい」

「はっ。なーに言ってんのさ。そのために、よくわかんない誰かさんを部員にしたり、幽霊部員の溜まり場にしたり、それであまねはいいわけ? 自分の大切な恋愛研究会が、めちゃくちゃにされるかもしんないんだよ」

 二人の諍いは、重い。

 なんとなくだが、俺がいないところで確執があったのだろう。もしかしたら、もともと話をしていたのかもしれない。

 宇代木は昔、恋愛研究会は部活にはならないと言って馬鹿にしていたこともある。ここまで頑なに拒むというのは、部活にするというのも、夢物語ではないということか。恋愛研究会をめちゃくちゃにされたくない気持ちはわかる。題材が恋愛という危ういものだけに、いとも簡単に堕落しそうな予感はある。

 佐羅谷の言うことも、わかる。自分が所属した部が残るというのは、よりどころを求める基本的な感情だ。何か人生でつまづいた時、ふっと思い出すんだ。そして母校の、部活のホームページや掲示板なんかで、会ったこともない後輩がまだ活動しているのを見て、ちょっと元気をもらったりする。

「なるほど、それで部員補充もかねての文化祭の出し物と、配信というわけか」

 俺が独りごちると、女子二人の視線が突き刺さる。

「ねえ、くーやん、嫌でしょ? 他の何目的かよくわかんない人が入ってきて、部活をめちゃくちゃにするのなんて」

「九頭川くん、お願い。手伝ってほしいの。文化祭だけでなく、人が集まるような形で配信できるように」

「あー、いやいや、ちょっと待ってくれ」

 考えさせてくれ。

 寝不足で回らない頭に、ごんごんとしびれが走る。見えない圧をかけてくる二人。金髪は物理的に詰め寄り、黒髪はテーブル越しに精神的に詰めてくる。

 俺は、どうしたい。

 いずれ、恋愛研究会はなくなってもいい。それは宇代木と同じ考えだ。この環境、この空間は、至高だ。深窓の令嬢とコミュ力モンスターの美少女二人がいる時点で、完璧だ。本来は俺が邪魔者ですらある。

 本気で恋愛研究会を維持管理していける後輩が入ってくれるのならまだしも、興味本位の出歯亀的な人間が来て、形骸化するなら、なくなったほうがマシだ。

 だから、恋愛研究会がなくなってしまうのは、惜しいが許容範囲だ。しかし、それとは別に、文化祭でブースを出すというのはやりたい。

 ずるいとは思うが、佐羅谷と宇代木、こんな女子と近くで何かをできることなんて俺の人生で二度とないかもしれない。思い出を作ることくらい、許してほしい。

「くーやん、無理だよねー」

 お茶を飲み干して、宇代木はニヒルに口元を歪める。俺が反対すると断定した顔だ。

「文化祭で恋愛相談ブースを出すのは賛成だ。ただし、俺はクラスの出し物があるから、準備もほとんど手伝えないし、部活動にできるかどうかの助力もできない」

「ウッソ、くーやん、正気? 文化祭でブース出したら、案内にも載るし、きっともっと知られちゃうんだよ? 冷やかしの入部希望者が増えたりしたら」

「そこは、宇代木の後ろ向きな予想だろ?」

 最悪の想定というやつだ。

 実際のところ、佐羅谷にライブの準備ができるとは思えないし、入部を訴えかけても人が増えるとも思えない。部活にするなんて、夢のまた夢だ。

「九頭川くん、ありがとう」

「だが、準備は自分でしろよ。俺が手伝えるのは、せいぜい数日前からだ」

「ありがとう。十分よ」

 はたして、あまり機械物に詳しくない佐羅谷に、準備ができるのか。そもそも、理科実験室で来場者を入れて、どんな形で恋愛相談所を開設するのか。頭の中に構想があるのだろうか。そして、公開で相談に来るような強者がいるのだろうか。

 それとも、イリヤさんに頼るのだろうか。あの人なら、何かと顔が利くし、知識もありそうだ。

「イヤだ!」

 立ち上がりざま、宇代木は吠えた。

 膝が折りたたみの机に接触して、少し揺れる。浮きかけたグラスが甲高い音を立てる。

「あたしは、絶対イヤ! 手伝わない! 信じらんない! 恋愛研究会は、このままでいい!」

「おい、落ち着け。まだどうなるとも決まったわけでも」

「なんでだよ、なんで、あまね、そんなこと言えるのさ!? せっかく、せっかく、せっかく……」

 ぷるぷると拳を振るわせて、拳をぐるぐると、やり場なく回す。

 なだめようにも、触れるわけにもいかず、俺は見上げるしかできなかった。

「天、お願い。二人がいたから、やろうと思えたの。二人がいない恋愛研究会なら、今回のは」

「勝手だよ、卑怯だよ。そうやって、そうやってさー。もう、いい。知らない」

 プツンと糸が切れた。

 宇代木は魂の抜けた顔で、笑う。

 色のない白い笑い顔だった。

「帰る」

 止めるいとまもなく、持ち前の運動神経を遺憾なく発揮して、クノイチのように宇代木は消えた。

 ばたんと扉が閉まる音に、ようやく気づく。

「おい、おい、まずいんじゃないか。ちょっと見たことのない顔してたぞ」

 ただの怒りや悲しみのほうが、まだ安心だ。

 あの表情は、ちょっと危うい。

 俺の人生で見たことのない表情だった。

「佐羅谷、泣かないんだな」

 体も、表情も、瞳も、すべて揺らいでいる佐羅谷は、姿勢良く正座したまま、じっと宇代木がいた場所を見つめていた。

 俺のことばに、涙を浮かべたまま、精いっぱいの笑顔を見せる。

「だって、泣いたら、九頭川くん、天を追いかけられないでしょう? わたしは、大丈夫だから」


 大丈夫だから。


 俺は、大丈夫ということばが嫌いだ。

 大丈夫ということばは、大丈夫でない時に使うことばだ。「大丈夫ですか?」「大丈夫です」というやりとりは、大丈夫ではない時のものだ。

 大丈夫ではないときも、大丈夫としか言えない、大丈夫という表現しかない日本語が嫌いだ。

 なあ、どうして日本語にはこんな表現しかないんだ。

 見ろ、佐羅谷の姿を。

 全身に悲哀を貼り付けた少女が、大丈夫なわけがない。だが、この女の子は、いま、大丈夫としか言えない。俺が大丈夫かと聞けば、大丈夫と答えるだろう。

 陳腐でつまらないことばしか交わせない俺の語彙力が情けない。

 強がるなよ。

 我慢するなよ。

 だが、俺は、大丈夫を信じるしかない。

 佐羅谷あまねが大丈夫ではないことは確かだが、すでに日の落ちて暗くなり始めた大和高田の宵闇に、もう一人の大丈夫でない少女を一人放っておくわけにはいかない。

 俺は、そういう男だ。


「おう、輔、どうした? 天ちゃんが大慌てで出て行ったぞ? まさかおまえ、ほんとうに」

「おやじ、悪い。今、上に佐羅谷が残ってる。アイツを絶対に一人で帰さないでくれ」

「二股か」

「違えよ。こっちは真剣なんだ」

 玄関で一番走りやすく足に馴染んだ靴を履く。親父は居間の扉にもたれたままコーヒーカップに指を掛け、優雅にすすっている。

「まあ聞けよ、落ち着け」

「なんだよ、すぐ戻る」

「人のいない公園だ。そう遠くには行かない。だが、家に帰ることもない。チラッと見えた、あの子の表情は、そんな顔だった」

 にんまりと口を歪めて笑う親父は、俺が顧みると、片眉を上げて見せた。

 悔しいが、女慣れしている親父の判断は、きっと正しい。高校生の行動パターンや感情なんて、どれだけ誤魔化そうとも装おうとも、通じるのはせいぜい同世代までで、人生経験の豊かな大人には、本心なんて手に取るようにわかるのだろう。

 公園か。

 近くに、いくつか心当たりがある。だが、宇代木はこのあたりに詳しくないはずだ。きっと、高田市駅周辺の公園にたどり着くだろう。

 だとすると、駅の北の新しくできたコミュニティーセンター、コスモスプラザの広場だ。

「こちらは、任せろ」

 頼もしいことばを背に、俺は家を出た。迷いなく、駆ける。


 日は落ちた。

 西の空のほの赤い残り香のような灯りは葛城山脈の向こうに消え、街灯りが照らす中途半端な高田市駅周辺。まだ人の往来は残り、通勤帰りのスーツ姿や、制服姿も少し残る。

 寂れた商店街のアーケードを突っ切り、インドカレーのサグンを通り過ぎ、近商とコスモスプラザに挟まれた小さな広場で、俺は足を止める。パーキングの明かりがわずかに届く、広場のような公園。動物の形のバネ付き木馬と、小さな滑り台があるだけ。

 宇代木は、いた。

 バネ付き木馬の一つに横乗りして、スマホを覗きこんでいた。白い光が、宇代木の顔を照らす。無表情に、文字を追っていた。ツイッターかインスタか。黄色い瞳の動きは、文章を読んでいた。

 俺はあえて、正面から近づく。

「宇代木、探したぞ」

 宇代木は俺に反応しない。

「戻ろう。佐羅谷が心配してる」

 ゆっくりとスマホをしまう。

「嘘ばっかり」

「嘘じゃない。わかるだろ、佐羅谷はおまえ以外に友達らしい友達はいないんだ。あんな態度でも、大切に思われてることくらいわかるだろ」

「そんなのただの依存じゃんか。自分だけやりたいようにやってさー、あたしだって、バカだけどさ、意思ってもんがあるんだよー」

「それが、このままがいいってことか? 恋愛研究会は、知る人ぞ知る隠れた存在でいい、と」

「見つけられるかどうかも、本気で恋愛に悩んでいるかどうかの判断基準だよ」

「どこのハンター試験だ」

 へへーん、と宇代木はいつものように笑う。少しだけ元気がないが、先ほどよりはマシだった。

「大変なんだよ、宇代木天が宇代木天をするのも」

 不思議な言い回しだと思った。

 言いたいこと言えないことをすべてまとめて、絞り出したような。

「あたしさー、今がけっこう気に入ってるんだ。もう、中学時代みたいにはなりたくないし。だけどさ、誰からも好かれる宇代木天もさ、そこに一人増えるだけで大変だったんだ」

 俺の足元を指さす。

「やっと三人に慣れたのに。やっと宇代木天の修正もできたのに。あまねがうまくやってけるように、微調整してあげたのに。こっちの気も知らないで、何が文化祭だよ。何が部活動にしたいだよ。あまねがあまねでいられるように、ずーっと陰ながら助けてきたってのにさー」

「それが、お節介じゃないのか。佐羅谷にも佐羅谷の意思があるだろう」

 沼田原先輩も、宇代木も同じだ。佐羅谷を深窓の令嬢であらせようとする。

 そして、沼田原先輩は一つ抜けたが、宇代木は自分で自分に縛られている。自分のやっていることが、逆に依存だということに気づいていない。

 宇代木は佐羅谷を助けているのではない。佐羅谷を助けている自分に、自分が助けられているのだ。自己陶酔だ。自己欺瞞だ。

 だから。

「試験で本気を出さないのも、そのせいか?」

「……なんのことかわかんないなー。あたしは学年で三十番くらいだよ? 本気に決まってんじゃん」

「言い淀むなんて、いつもの宇代木天なら絶対にしないのにな。今日はほんとうにつらそうだな」

「くーやんになにがわかんのさ」

「書いた答えはすべて正解、残りは空白。それで学年三十番くらいの成績。せめて、ダミーを入れるべきだったな」

「あー、いちいち間違うのめんどくさかったから。ちぇ、くーやんに見られたのはまずったなー。あの一瞬でバレるなんて思わなかったや」

 終業式、テストの回答用紙をぶちまけた時に、脳の端に違和感がこびりついていた。普段推理小説ばかり読んでいたおかげだな。

 だいたい、すべての科目で三十番くらいというのがおかしいのだ。すべての科目で一番はわかる。それはむしろ、もともと上位校へ行ける学力があったのに、あえて落としたとか、通える範囲で学校を選んだとか、理由がある。だが、全科目で中途半端というのがむしろおかしい。得意科目苦手科目である程度差がついて、結果として三十番になるというのはわかる。

 極め付けは、空白の多い回答用紙。

 だとしたら、結論は簡単だ。

 宇代木は、点数調整をして、三十番くらいを維持している。しかも、常に揺れ動く平均点を想定しながら、同じ位置をキープしている。きっと、本当は桁違いに頭がいいはずだ。学力的な意味だけでなく、洞察力や思考力なども。

 ここで問題だ。

 宇代木はなんのために学力をたばかっている?

 俺の結論は、こうだ。

「佐羅谷の点数を超えないように、調整しているのか?」

「成績のいい女の子なんて、かわいくないじゃんか。男なんて、なんだかんだ言いながら、自分よりバカで、力がなくて、能天気な女子が好きじゃん。

 犬養センセも言ってたよー。女のほうが年収が高かったり、学歴が高かったりすると、いつのまにか離れていくってさ。

 自分を落として愛してもらえるならさ、そのほうがいいじゃん。誰にも好かれない生き方なんて、悲しすぎるよ。寂しすぎるよ」

 宇代木は俺の質問には答えなかった。

 だが、嘘だとは思えなかった。

 バネで揺れる木馬に座ったまま、頭を軽く左右に揺らしている。

 佐羅谷は、生活力は乏しいが、学力的な面でも思考力的な面でも、なかなか優秀な女子だと思う。宇代木がテストで加減していたら、気づく程度には。俺はむしろ、佐羅谷が学年で十番前後というのも「作為」があるのではないかと感じている。こちらは証拠はないが。

 宇代木は佐羅谷を過小評価しているきらいがある。佐羅谷が勉強しかできない少女だと思っている。だから、学力で宇代木が一番をとってしまうと、佐羅谷のプライドをへし折ってしまい、今の関係が壊れてしまうと思っているのだろう。

 今までは、そうだったかもしれない。

「佐羅谷は、一歩踏み出したんだよ」

「要らない、そんなの要らないよ!」

「なあ、宇代木。準備を手伝えとは言わない。だが、文化祭でのブースは来てくれ。部活にするとか、誰でも入部できるようにするとか、そんなもん、どだいムリだ。わかってるだろ?」

 さあ、乗ってこい。

 現実問題として、学期の途中で部活に入るなんて、そうとう特別な要因がないとできない。

 たとえ文化祭で訴えたとて、誰も入部することはないのだ。一番可能性のある一年生だって、すでに一年目の半分近く過ぎているのだ。部活に入るような性格の者は既に入っているだろうし、入らないような者は、文化祭さえ歩き回るか疑わしい。

「くーやんは、どうしたいのさ」

「俺? 俺は部長の仰せのままに」

「そういうのさ、やめよーよ」

 宇代木の表情は氷のように冷たかった。久しぶりに見た。

「考えてないふりも、無関心なふりも、もういいじゃんか」

 俺は、どうしたいのか。

 諦めなければ、と思っている。だが、佐羅谷はまだ俺を上手く使いたいらしい。そして、頼られれば喜んでしまう俺がいる。

 ほんとうに、どうしようもないんだ。

 理性では離れて忘れるべきと結論は出ているのに。だから、あながち部長の仰せのまま、という回答はふざけではない。

「このまま、俺と宇代木が何もしなくても、佐羅谷は一人でやろうとして、失敗して、ボロボロになるだけだろ。部活自体がうやむやになってしまうかもしれない。それは、困る。俺が放課後いられる場所がやっとできたんだ。だから、大成功でなくてもいいから、形だけでも取り繕いたい。宇代木だって、恋愛研究会がなくなるのは惜しいだろ?」

「ふーん」

 俺の嘘八百に、宇代木は唸る。

「わかった。それでいいや。あたし、当日しか手伝わないかんね? ダンス部の発表がある日は、前後一時間は無理だからねー?」

 木馬に座ったまま、宇代木は眉をハの字にして、手を差し出す。

「なんだよ」

「ん」

 俺の目の前で、右手を振る。

「ほらー」

「おまえは、一人で立てるだろ」

 そうそう気安く女子の手を取ることはできない。

「ははっ、くーやんが女子の手なんて握れるわけなかったっけ」

「そうだよ、俺は意気地なしなんだ」

 ぴょんとバネ付き木馬から立ち上がり、宇代木は高田市駅に向けて歩き始める。後ろを追いかける。

 黙って改札にイコカをかざし、数歩進んで顧みる。

「くーやん、約束覚えてる?」

「またそれか。お祭りのことだろ?」

「絶対、だよ」

 宇代木は柄にもなく掠れた声を震わせる。どの祭に行きたいのか知らないが、宇代木が誘ったら誰だって来るだろうに。わざわざ俺との約束に固執するなんて、どれだけ借りを返させたいのやら。

 俺が頷いたのを見て、宇代木はにぱーッと破顔して、駅ホームに消えていく。

「気をつけて帰れよ!」

 背中に声をかけると、宇代木が後ろ向きに手を振った。俺が触れることができない手だった。


 家に帰って慌てて玄関を開けると、佐羅谷の靴が残っていてひとまず安心する。

 だが、居間から話し声がする。

 嫌な予感がして、中に入ると、食卓に座って楽しそうに談笑する佐羅谷と親父。

 俺は一気に脱力した。

 見ておいてくれとは言ったが、関われとは言っていない。ほんとうに、女と見ると手が早い。

「あら、九頭川くん、おかえりなさい」

「……ただいま」

 なんとなく、このあいさつはまずいと思いつつ、平常心を装う。

 ちらりと盗み見ると、笑顔の親父と視線が合う。ああ、うっとうしい。

「宇代木は帰した。とりあえず、文化祭当日はダンス部の出番以外、こちらに来るってさ。ただ、準備は手伝えない」

「そう」

 残念そうに息を吐く。

 俺の前に親父が冷たいお茶を置いた。

「あなたは? あなたは、手伝ってくれるの?」

「一人で、準備できるのか? 俺はほとんど手伝えないぞ」

「なんとかするわ。本当は手伝ってほしいけど」

 珍しく素直だ。

 もしや、親父の入れ知恵か。

「たぶん、最初の時期はクラスの出し物に取られるから、手伝えない。台本だけって沖ノ口は言ってたが、きっと演技練習も見させられると思う」

「下校時間まで?」

「おそらくは」

「ふうん」

「何だよ、その含みのある顔は」

「そんなにクラスに思い入れがあるようには見えなかったけれど、ずいぶんね」

「思い入れなんて」

 ぶるるっと、ポケットのスマホが震えた。メッセージなどではない。断続的に揺れ続ける。

「出たら?」

 画面をチラッと覗くと、沖ノ口の名前。

「別に、後でいい。佐羅谷、送る。話はもういいだろ? 手伝ってやれるのは、準備時間が延長される一週間前からだ」

「じゃあ、お願い。送ってもらわなくていいわ。九頭川くん、疲れてるんじゃない?」

「そういうわけにはいかない。夜に一人で帰せるか」

「そうだ、それは輔の言い分が正しい。佐羅谷さん、男の子にはね、ちょっとカッコつけたい時があるんだ。こういう時は遠慮するふりをしつつ、好意を受けるのがいい女の対応だぜ」

「おいそこのおっさん、女子高生に耳打ちすんな、わざと俺にも聞かせてるだろ。ほら、佐羅谷、さっさと準備しろ」

 親父がぎらつく顔で佐羅谷に耳打ちしている。

「なんでい、輔、嫉妬か?」

「親父が絡むと、俺の立場がなくなるんだよ」

「ほいほい、邪魔者は消えますよっと」

 二人の間に腕を伸ばすが、オヤジはスルッと避けて、居間を出る。

 空を切った手が、勢い余って佐羅谷の肩に触れる。

「おっと、すまん。とにかく、駅まででも送る」

「じゃあ、それで」

「なに赤くなってんだよ」

「これはっ、別にっ」

 鞄を抱き抱えて玄関に逃げる。

 まあ、親父は高校生の息子がいるとは思えないほど、見た目は若いからな。腹も出ていないし、髪の毛も黒くてふさふさしているし、身だしなみも気を遣っている。

 高校生女子の好みなんて、恋愛相談に来た数人しかわからないが、近い世代よりも極端に年上を好きになるタイプもいるらしい。一番ありがちなのは学校の先生だ。

(親父と比べられたら、俺なんて勝てる要素が何もないじゃねえか)

 経験も、知識も、経済力も、人あしらいも、俺は親父の下位互換だ。

 駅に歩く佐羅谷の隣を、黙ってついていく。

「いいお父さんね」

「自分の父親なんて、いいと思うことはねえよ」

「わたし、ほんとうの父親がいないから、もしいたらこんな感じなのかしらって」

「たぶん、俺の親父は世の父親とは違うぞ」

 佐羅谷は父親がいないのか。いや、微妙な言い方だ。「ほんとうの」父親とは。あまりにも重要な情報に、反応できない。

 イリヤ先生も含めて、佐羅谷の家族構成が少しずつ埋まっていく。

「佐羅谷も、片親なんだな」

「うちは、そんなに簡単じゃないのよ」

 俯いたまま、佐羅谷は声もなく笑った。それ以上は、何も言わなかった。

 会話の止まったまま、高田市駅に着く。先ほど宇代木を見送った駅だが、佐羅谷の最寄り駅はここではないはずだ。

「え、佐羅谷は別の駅じゃ……」

「イリヤが迎えに来るから」

 呼び捨てかよ。

 普通、兄ならお兄さんと呼ぶのではないか。いや待て、イリヤ先生を兄だと思い込んでいたのは俺の願望ではないか。一度として、佐羅谷はイリヤさんを兄だと言っていない。大切な人、だ。

「いったいイリヤさんは、佐羅谷の」

 俺が質問しようとすると、またスマホがやかましく鳴り響く。

 呼び出し音に、駅の周囲にいた人の視線が刺さる。呼び出し音がデフォルトだと、みんなビクッとするよね。

「出れば? 同じ人でしょう?」

 むろん、同じだ。

 今度の呼び出しは、なかなか切れない。

「もしもし」

『あー、やっと出たね。どう、進捗は?』

「やってますやってます」

『ごめんね、たすく。ネタだっていうのはわかるんだけど、何かまではわかんないよ』

 だろうな。

 俺の仁和丸おじさん(四十)世代のネタだからな。三行一気に印字できるインクリボンを備えたワープロが画期的で、三行革命とか言われてたんだってよ。ワープロがわかる現役男子校生なんて、俺くらいのものだろう。感熱紙って知ってる?

 目の前でじっと俺のスマホに目をやっている佐羅谷でも、インクリボンが何か理解できないはずだ。

『あれ、何だか雑音が聞こえる。もしかして、たすく、まだ外にいるの?』

「ああ、ちょっとな」

『まさか、こんな時間まであの二人に連れ回されてるっていうの? なに考えてるのよ、最っ低』

 スピーカー越しの声に、佐羅谷は眉を寄せる。

『わたしが言うよ。たすくが優しいのをいいことにさ、好き勝手使われて、たすくだって、嫌でしょ』

「あー、もう解決したから、落ち着け。これから台本に取り掛かるって」

『ウソ。今どこよ』

「どこだっていいだろ」

『たすく、あなたは自分が思っている以上に有能なんだからね? あんな二人に、いいように使われちゃダメだよ? 嫌なことは、嫌って言わなきゃ』

 別に嫌なわけではない。だが、話が終わりそうにないので、適当な相槌を打つ。


「そうだな」

 

『今日も少しは進めてよ? 明日、また見せてね。わたしは、たすくの味方だからね』

「ああ。ありがとよ」

 頭が痛い。

 台本を考えるだけでいっぱいいっぱいなのに、佐羅谷は部活で出し物をすると言うし、宇代木は手伝わないだけならまだしも反発するし、沖ノ口は執拗に締切を追い立ててくるし、体と時間が足りない。

 めんどくさいのでスマホをサイレントモードにしてから仕舞う。

「九頭川くん、やっぱり、もういいわ。わたし一人で、準備はやるから。あなたは、クラスのほうに専念して」

「あー? 何だここまで来て仲間外れかよ」

「今まで無理させていたのなら、ごめんなさい。そうよね、九頭川くんは」

 うつむく佐羅谷のことばは最後まで聞こえない。

 問い詰めようとすると、ちょうど小さな高田市駅ロータリーに、白とオレンジのツートンのハスラーが入ってくる。イリヤさんの車だ。

 俺たちの前で停まると、助手席の窓が開く。

「やあ、九頭川くん。送ってくれたのかい? ありがとう」

「ほら、いいからっさと帰るわよ。もう遅いのだから、あまり九頭川くんの時間を奪ってはダメ」

「いやいや、お礼くらいは」

「じゃあね、九頭川くん。もう、邪魔しないから。次は、ブースができてから会いましょう」

 佐羅谷は速やかに車に乗り込み、一方的に言い放つと、俺が何を言っても無駄で、窓も閉め鍵も掛けてしまう。もうこちらを見ようともしない。

 運転席のイリヤさんのほうが戸惑うくらいで、ごめんね、と仕草で謝る。

 そのままロータリーを出ていくハスラーのテールランプを、俺はしばらく呆然と見つめていた。

 訳がわからない。

 佐羅谷は急に不機嫌になった。

 何でも自分勝手に解釈して、機嫌良くなったり悪くなったり、一向にわからぬ。

 聞いて覚えたばかりの電話をかけてみるが、当然出てはくれないし、かけ直しもない。

 ああ、そうだ。

 いつだって、関係が途切れる時は一瞬なんだ。那知合花奏に告白した後、一切の連絡がなくなった時のように。

 反応のないスマホに一縷の望みを託し、机の隅に置いて、俺は台本に専念した。今なら、台本が捗りそうな気がした。俺にしか書けないもの。何となく、わかった。

 今の俺には、恋愛研究会が心から大切なものだったのだから。


『たすく、どう、アイディアは出たかしら?

 わたし、信じてるからね。きっとたすくなら、すばらしい謎解きゲームを作ってくれるって。

 え、どうしてここまで信頼しているかって? そんなこと、言わなくてもわかるでしょ。

 明日、また、放課後教室でやりましょ。大丈夫よ、たすくなら』


 謎解きを、犯人探しと考えるから、殺伐とした話になったんだ。

 謎なんて、いたるところに転がっているのだ。

 ただ、誰もこれを謎とは思わない。

 あるいは、謎を謎のまま謎とも思わず所与として甘んじて受け入れている。

 謎は、どこにもなくて、どこにでもあった。

 俺には解けない謎を、さあ、寸劇に混ぜ込み、解くことはできるだろうか。

 謎を解くのは、俺じゃない。

 全人類だ。

 男と女の、解けない謎だ。

 いよいよ混迷の度を増す。


 翌日、昼食時間に、佐羅谷は尖塔に現れなかった。もぬけの殻になった尖塔は、色付きガラスを通り過ぎた淡い光が、主人のいないテーブルの一角を強く照らしていた。

「悲しみ! 深窓の令嬢のお姿を拝謁できないとは!」

「そう言いながら沖ノ口を盗み見るんじゃねえよ」

 沖ノ口はクラスの女子と弁当を食べている。イメチェンしてから、どことなくクラスで中心的な存在になっているように見える。

 特段、尖塔の主に取って代わりたいわけでもないらしい。始業式の日の宣戦布告は、まさに沖ノ口の存在感を上げるためには最適だったわけだ。

「ところで九頭川、顔色が悪いが、寝ていないのか?」

「ああ、ずっと台本にかかりっきりでな。ほとんど寝てない。つらいわー、昨日ほとんど寝てないわー」

「まだまだ余裕ぞ、おぬし」

 笑って見せるも、正直言うとかなりつらい。通学中にも意識が飛びそうになる。授業など、ほとんど頭に入っていない。今回の中間試験は諦めの境地だ。俺はマルチタスクができない輔。

 助けてほしいのは、俺のほうだぜ。


 だが、そうは問屋が卸さないとはよく言ったものだ。

 放課後、読書する沖ノ口を向かいに、無言の圧力に恐々としながらA4用紙にボソボソと台本っぽいものを書いていると、次から次へと客が来る。

 まず最初は、高森颯太。ひょろっとした長身をすこし猫背に、俺と沖ノ口しかいない教室に入ってくる。

「おっす、九頭川。仕事中もうしわけないんだけど、いいか?」

 俺を教室の隅に招く。

「実は、コスプレの関係でお小遣いじゃ厳しくてな、バイトしたいと思って。九頭川、学校に隠れてバイトしてるよな? どうやってるかとか、いろいろ教えてくれないか?」

「なるほど、コスプレはお金がかかるってか。本格的に始めることにしたんだな。まあ、バイトするならーー」

 一通り説明して、高森は納得して帰っていった。

「さんきゅ。何か俺でもできることがあったら、頼ってくれよ」

「おう、またな」

 美人コスプレイヤー・ワンカさんに一目惚れして始めた趣味は、どうやら順調に続いているようだ。まさか、ワンカさんが、かつらぎ高校の保健室の先生だとは思ってもいないようだが。叶わない恋をいつ諦めることになるのだろうか。


 次に、三根まどか。特徴的なまんまるボブを教室の開いたままの扉から出して、キノコのように跳ねながら教室に入ってくる。

「やっほー、おっきー。たすくも。元気〜? ちょっと相談があるんだけどー」

 なぜか沖ノ口ではなく、俺を教室の隅に拉致する。

「実はさ、今度ちょっとしたイベントに行くんだけど、たすく、一緒に来てくれない?」

 聞いてみると、男性向けの薄い本のイベントらしい。ちょっとそれは勘弁願いたい。

「そんなの、沖ノ口とか上地を誘えよ」

「無理だよ。あの二人が来てくれると思う? あと、できたら男子が一緒の方がいいの。わたし、ちょろく見えるみたいでさ、一人で行くとだいたい、その、嫌な思いするんだ」

 沖ノ口や上地は気も強いから、一緒にいると心強いと思うがな。だが確かに、あの二人がオタクイベントのむさ苦しい人口密度に耐えられるようには思えない。クラブで? ダンスとか? ならば似合いそうな気もするが。

「あー、じゃあ、高森でも誘ってみたらどうだ? 俺の名前出したら、考えてくれると思う」

「高森くん? ああ、電脳研の? 確かに、あそこの部員なら、理解はあるかも。ありがと。お邪魔したね。文化祭楽しみにしてるよー」

「ほどほどに期待していてくれ」

 じゃあねーとばかりに手を振りながら、三根は教室から出ていった。夏休み中、上地を慮って泣きそうなラインを送り続けていた様子はまったく窺えない。きちんと話し合ったのだろう。わだかまりは感じられなかった。


 さらに、写真部の入田大吉。いっそう伸びた長髪をワンレンにして、夏の半袖シャツから日焼けした腕を出し、黒い一眼レフを首からぶら下げている。さぞや重いのだろう、四角い眼鏡に汗をほとばしらせながら入ってきた。

「おう、九頭川、探したぞい! 先日、デートポトレを撮らせてもらっただろう? あの写真だが、文化祭の展示に使ってもよいか?」

「あー、良識的な写真ならいいんじゃね? いちおう、宇代木にも聞いておく」

「うむ、よろしく頼むぞ。ときに」

 入田はわざとらしく手をかざして、俺に耳打ちする。

「前回のポトレは出来が良くてな。また被写体を探しておるのだが、モデルにならんか?」

「男を撮影したいのか?」

「ばっか、何度も言わせるな。本命は女子でも、俺に女子が誘えるわけがなかろう。それに、男なら気兼ねなく、失敗しても問題ないしな」

「その潔さは褒めてやろう。まあ考えておくよ。いつまでも無報酬だと思うなよ?」

「良き良き。良い知らせを待っておるぞ。では、またな!」


 ひっきりなしに、来訪者があった。

 最後に、大物が来た。

 俺の台本は遅々として進まず、沖ノ口は本を読んでいるが、ほとんどページが動いていない。平然とした顔をしているが、かなり怒っている。空気が痛い。

 いつのまにか、放課後半時間が過ぎていた。何人か残っていた生徒も帰り、俺と沖ノ口だけが沈黙の中、向かい合っていた。締め切りに缶詰になる作家先生ってこんな気分なのかしら。

 少しだけ進んだ台本の上にペンを漂わせていると、開け放った扉から巨体が入ってきた。

「おう、輔、捜したぜ」

 身長百九十の体躯を折り、扉をくぐる。筋肉の発達した体に精悍な顔を乗せて、仁王立ち。

「谷垣内」

「まったく、理科実験室にも誰もいねえし、部活なくなったのかよ? 所詮、文化部だな。やる気もありゃしねえ」

「文化祭前だからな。バスケ部と一緒にするなよ」

 運動部の花形で、一学年十人以上集まるような、しかも根性のある人間が集まるバスケ部とは、わけが違うんだ。

「まあいい。おい、深窓の令嬢を呼べ」

「呼べって言ったって」

「先日の件だ」

「ちょっと、谷垣内くん。わたしたちだって文化祭の準備で忙しいんだけど。いまじゃなきゃできないことなの」

「ああ?」

 谷垣内が離れた場所から睨みを効かせるだけで、沖ノ口も口をつぐむ。

 三根・上地・沖ノ口は那知合花奏のグループではあるが、じかに谷垣内を枉げられるのは、那知合だけだ。

「あんまり時間は取れないと思うぞ。そもそも、佐羅谷が俺の電話に出てくれるとは思えないがな」

 スマホを取り出し、佐羅谷の番号を鳴らす。昨日の晩、反応がなかった履歴を再ダイヤルする。

 谷垣内の視線を誘導するために、沖ノ口から離れる。友達とはいえ、谷垣内にぶつかるのは怖いだろう。

 もう留守番電話になるかという十回目のコールで、つながる。

『……もしもし』

 不機嫌を隠さない、嫌そうな声。

 だが、良かった。電話には出てくれた。

「佐羅谷、悪いが、谷垣内が会いたがっている。少しだけ部活に顔を出してくれないか」

『今、パソコン室にいるの。こっちに来てもらって。九頭川くん、あなたも来てよ』

 ため息の後に、躊躇なく指示をした。谷垣内の名を聞いて、抵抗が無駄だと思ったのだろう。嵐は避けられない。被害を最小限に済ますのが最善だ。佐羅谷も、少しわかってきたようだ。

「パソコン室に来てくれってさ。沖ノ口、すまん。なるべく早く帰るが、もし下校時刻が過ぎたら、帰っていてくれ」

 不満げに頬を膨らますが何も言わない沖ノ口。言ったところで、谷垣内の行動を制限できない。俺たちに、どのみち選択権はないのだ。

 疎ましげな視線をずっと背中に感じながら、俺は谷垣内とパソコン室へ向かった。


 佐羅谷は二人いる。

 部屋の真ん中のパソコンに向かって睨めっこしている佐羅谷と、簡素な椅子に足を組んでいる佐羅谷。イリヤさんだ。寄り添うくらいの距離で、佐羅谷が覗くフルハイビジョン十五・六インチの画面を指差している。

 俺たちが入っていくと、佐羅谷二名の距離が少し開く。

「やあ、九頭川くん、ようこそ。昨日はあまねを送ってくれて、ありがとう」

 イリヤさんは少しだけ茶色い髪をかき上げる。

「で、そちらは?」

「二年五組の谷垣内ッス。部活関係の相談で」

「ああ、なるほど。じゃあ、僕はいないほうがいいね」

「教育実習の佐羅谷先生っすよね? 珍しい苗字ですけど、兄妹なんですか?」

 直球だった。

 確か、イリヤさんは谷垣内のクラスは行っていない。きっと、自己紹介の時の質問コーナーではぐらかしたことを知らないのだろう。

 SNSなんかの噂話や憶測は谷垣内にも届いているはずだが、そもそも気になることを搦め手で解決する性格ではなかった。

「ひゅう、直球だね」

 イリヤさんは大袈裟に肩をすくめる。

「ま、あまり思わせぶりだと指導の先生に怒られるんで、正直に答えるよ。谷垣内くんの言う通りさ」

 イリヤさんは最も簡単に肯定した。

 隣の部屋にいると佐羅谷に言って、パソコン室から消える。

 兄妹、だって?

 あの距離感が兄妹だって? 兄を名前で呼ぶ兄妹があるのだろうか。一人っ子で母親もおらず、友達の少ない俺にはわからない。

「ふーん、兄妹ね。顔がいいのは似てるけど、顔そのものは似てねえな」

「イリヤのことはどうでもいいわ。九頭川くん、こちらに座りなさい」

 佐羅谷はさっきまでイリヤさんが座っていた席を示す。肩が触れそうなほど、近い。努めて気にしないように、パソコンの画面を見ると、グーグルの検索画面になっていた。

 検索履歴が候補に出ている状態だった。「YouTube 配信 やり方」「webカメラ おすすめ」「グーグル アカウント 作れない」……ああ、何となく佐羅谷のやろうとしていることがわかった。

 俺がじっと画面を見ていると、佐羅谷がブラウザを閉じた。恨みがましい目で睨まれる。顔が近い。少し頬を染めて、目で訴えかける。何も聞くなというアイコンタクト。

「それで、谷なんとかくん、なにか御用かしら?」

 わざと名前を言わない、興味のないことをあからさまに明示した呼びかけ。またどうしてこいつは神経を逆撫でることをするかな。

 恐る恐る谷垣内を見るが、適当な椅子に腰掛けて、くっくっと笑い声を漏らしていた。

「とことん、ふざけた女だ。おまえくらいだぜ、俺に突っかかってくるのは。ほんと、花奏がいなけりゃ、好きになってたかもしれない」

「ああ、よかった。防波堤があって」

「最高だ、なあ、輔。ほんと面白いな、この女」

「同意を求められても困る。普段はもう少し理性的だ。谷垣内のことがほんとうにキライなんじゃね?」

「ちょっと、九頭川くん、やめなさい。よけいなことは言わないで」

 佐羅谷さんも無邪気に人の腕を握らないでください。

 それにしても、谷垣内は機嫌がいいだけではない。間違いなく、性格が丸くなった。一年の時の谷垣内はもっと尖っていた。たとえ友達でも、女子でも、挑発されたらまず手が出るようなタイプだった。今の佐羅谷の態度など、真っ先に拳が出ていたはずだ。

 ところが、椅子の背もたれに頬杖をついて、呵呵大笑する余裕ぶり。それも、人間的に一回り大きく感じる。

 那知合とつきあって、約一ヶ月半。そのあいだ夏休みを挟み、親交を深めて、影響するものもあったということか。三根も言っていたが、那知合のほうも幸せのお裾分けするような雰囲気らしいし。

「ま、今回は礼を言いに来ただけだ。佐羅谷にはケジメの点でもお世話になったし、一応な」

「それはようございました。用事が終わったのなら、もう二人とも帰ってけっこうよ」

「心底興味ねーって感じがそそるね。那知合とは全然違うぜ」

「やめて、ほんと無理」

 嫌悪と好意は紙一重というのは、正しいのかもしれない。佐羅谷がこんなに感情を剥き出しにしゃべるのは、滅多に見られない。

 俺には、じゃれあっているようにも見える。腑に落ちない負の感情が心に沈潜する。

「安心しろ、俺はやっぱりこれが好きだから、おまえじゃ駄目だ」

 谷垣内は胸の前でお椀を撫でるような仕草をする。

「最っ低」

 無意識に佐羅谷の白いブラウスを見つめてしまうが、恐ろしく鋭い視線に弾かれて、そのままあらぬ方を見つめる。

 佐羅谷の胸も、決してまな板とか絶壁とか言われるほどではないと思う、たぶん。ただ、那知合と比べたらいけない。あいつは、宇代木に並ぶ立派なものを持っている。

「九頭川くん、その脳内の妄想を詳らかに語るか、その男の息の根を止めるか、好きなほうを選びなさい」

「その選択肢はクソゲーです」

 しかし、佐羅谷と普通に話せるようになって、ありがたかった。谷垣内のような嵐も、時には悪くない。

「しっかし、俺は男でよかったよ。女だったら、外から見える大きさだけで評価されちまうんだもんな。怖えよ。街を歩くこともできねえ」

「俺に同意を求めるな。俺の顔を見るな」

 どう答えても地雷にしかならない呼びかけは地獄だ。

 佐羅谷は汚物を見る目で俺たちを見下す。

「はあ、まったく、なんて下卑た発想なのかしら。でも、お生憎さま。女子だって、男子の大きさである程度判断することもあるわ」

「は……?」

 空気が、凍りついた。

 谷垣内の顔色が変わる。

 きっと俺の顔も凍りついている。

 佐羅谷一人、しれっと物憂げにパソコンのディスプレイに目を遣っている。

(男子を大きさで判断する、だと?)

 そんなことがあるのだろうか。

 女子の胸は、幸か不幸か大きさが外からわかる位置にあるし、好き嫌いはともかく、魅力の一部であるのは間違いない。

 男子のそれは、しかし、ふつうは見えないし、大きさを測るものもないし、むしろ、女子は見ないものなのではないか。だいたい、男子のそれは可変だ。大きさなんて測れない。え、もしや迂闊にチ○ポジを正すこともできないのか? いやん、女子さんのエッチ、そうなのか? 

 俺が悶々と悩んでいると谷垣内がしきりに手招きするので、隣に移動する。

 さっそく耳に口を近づけ、ささやき声。

「なあ、輔、この女、真顔でこういう話をするタイプなのか?」

「俺も正直、初めてのことなんで戸惑いまくってるよ」

 二人、無意識に互いの股間に視線が行く。

「おまえ、どのくらい?」

「聞くなよ。見るなよ。計ったことねえよ」

「だよな……おい、今度修学旅行の風呂で」

「クラス違うって」

 まるで中学生のように困惑する谷垣内は、少し幼く見えた。

「なあ、深窓の令嬢さんよ、参考までに尋ねるが、おまえはどのくらいのが好きなんだ? 160くらいか?」

 おい、やめろ!

 谷垣内は禁断の質問に踏み込む。

 俺にはわからないが、160ミリメートルは平均より大きい気がする。

「なにそれ、少し小さくない?」

 俺と谷垣内の椅子がガクッと揺れて大きな音がパソコン室に響く。

 なん……だと?

 男二人の驚愕をよそに、佐羅谷はすくっと立ち上がる。片足を前に出し、ピシッとモデルのように立つ。

「ほら、わたし、こんなじゃない? だから、男の人には平均くらいは欲しいかなって思うわ」

 佐羅谷の胸は女子で言うと平均よりは小さいか。だから相手の男子には平均くらいを求めると。わからないでもないが、平均が160では小さいだと? あとでウィキペで調べておくか。

「平均だと、170くらいじゃない? でも、好きになってしまうとあまり関係ないかもしれないわね」

 たった10ミリの違いなんて、そんなに重要なのか? そうなのか? 

「で、深窓の令嬢さんから見て、俺たちはどうよ?」

 聞くのかッッッッ! それをッッッッ!

「は? なに言ってるのよ。あなたたち二人とも、大きいじゃない。あなたは言うまでもないし、九頭川くんも170くらいあるでしょ?」

「は?」

「え?」

「おまえ透視能力でもあるのか」

「身長なんて透視しなくてもわかるじゃない」

「は?」

「え?」

「身長の話?」

「身長以外のなにがあるの?」

 谷垣内は股間に目を遣る。

「いやいやいやいや、女子の胸との対比っつったら、男子のこれだろ! 何で身長の話するんだよ!」

 まったくその通り。

 だが、指差すな谷垣内。

「な、な、なっ」

 今までの会話の齟齬を思い出したようで、佐羅谷の顔が目に見えて赤く染まる。

「女子のバストの対比って言ったら、男子の身長に決まってるじゃない! これだから男は。すぐに下劣な話に結びつけたがるんだから、ほんと、嫌になるわ」

「あー、びびったー。深窓の令嬢がいきなり下ネタだもんなー、どう対応したらいいかと」

「まったく、考えなくてもわかるでしょう? 女子は胸が大きければ目を惹くし、男子は背が高ければ目を惹くのよ。そこがとりあえずの性的魅力なのだから。身長が高い方が年収が高いという調査もあるし、女性が男性の身長の高さを求めるのも、根拠がないわけじゃないんだから」

「そ、そうなのか」

 佐羅谷の剣幕に押される谷垣内。

 とりあえず、一件落着だ。

 ひとしきり笑った後、谷垣内は立ち上がった。

「あー、笑った笑った。なあ、輔、この女はやっぱりいいぜ。おまえがここにいる気持ちもなんとなくわからあ。今日のところは、ここまでだな。じゃあな」

「帰るなら、九頭川くんも連れて帰りなさい。九頭川くん、ついでにイリヤを呼んできて」

 人使いも荒いことだ。

「台本もあるし、沖ノ口も待たせてるしな。じゃあ、俺も戻る」

 佐羅谷はもう俺たちのほうを見向きもしなかった。真剣な顔で

 パソコンのディスプレイを見つめている。口を堅く結んで、何を調べているんだろうな。何を悩んでいるんだろうな。

 イリヤさんは隣で待っていて、無表情でパソコン室へ戻った。教室へ帰る途中まで、谷垣内とは同じ道だった。

「ああ、そういやあ、輔、写真とか動画とか撮れるか? バスケ部でよ、自分たちのプレイをかっこよく撮りたいんだけど、スマホじゃうまくいかなくてな」

「俺には無理だな」

「じゃあ、誰かならできるってか?」

「嫌でないなら、写真部を紹介できる」

「よろしく頼む。またライン寄越せよ。じゃあな、俺は花奏を待たせてるから」

 谷垣内は軽く俺の肩をはたいて、階段を降りていった。悩みもせず、即時に依頼してきた。この決断の速さが、谷垣内の魅力だ。

 悩んでも悩んでいるそぶりを見せず、常に堂々とし、万一問題があれば甘んじて責任を取る。

 那知合の隣に立つ男が谷垣内でよかった。俺は安堵する。

 それ以上の感情は、湧き起こらなかった。

 沖ノ口からの督促でスマホが震えるまで、俺は光射す廊下をじっと見つめていた。谷垣内が消えた廊下を。実に穏やかな気持ちで。


 例えば、お互いに記憶を失った状態で再会して、谷垣内と那知合は再び恋仲になったかというと、おそらくなっただろう。

 客観的に観察して、かくあるべくしてかくある、そんな関係性の見える人間がある。

 佐羅谷とイリヤさんも同じだ。冷めて静かな関係に見えるが、深く結びついているのがよくわかる。育んできた関係性が二人の紐帯を否応なく感じさせる。

(嫌だな)

 誰かが誰かと深く結びつくのに、俺だけが一人浮いている。

 どうせなら、みんなバラバラになってしまえ。そして、もう一度同じ相手と結びつけるか、確かめたらいいのだ。

 運命の相手は、本当に運命の相手か。

 俺の手を取ってくれる相手は、闇に紛れて、存在さえ見えない。

 怒りとやるせなさと寂しさと虚しさと、ひとかけらの希望をこめて、俺はペンを振るう。

 さあ、謎が欲しいか?

 じゃあ、おまえらは全て忘れて、もう一度やり直せ。

 運命の相手を見つけるのが、真実の謎だ。


 クラスの出し物の、謎解きゲームの寸劇の台本の構想は定まった。

 しかし、書き出す前に、やっておきたいことがある。

 スマホを手に取った。

 俺はつくづく、諦めが悪くなった。

 まずは、写真部の入田に電話する。

「さっすが、仕事が早いな、九頭川。して、被写体は?」

「バスケ部の谷垣内がご指名だ」

「チェンジ!」

「不可能だ。嵐と思って諦めろ」

「俺の! 写真部が! 壊れる!

 野球部、サッカー部、バスケ部、天下の脳筋三羽烏に、まともに話が通じるか!」

「何だ、おまえは動きの激しい被写体は撮れないとでも?」

「む……それは我々に対する侮辱ぞ? 古き一眼レフの動体AFの食いつきと精度を舐めるでない!」

「いいか、谷垣内は口より先に手が出るような男ではあるが、分け隔てはない。能力を認めた相手には、きちんと敬意を持ってあたる器がある」

「しかし、汗臭い男どもを写してもな」

「甘いな、ワンダの微糖よりも激甘だな。いいか、バスケ部男子のコミュ力を舐めるな。男バスで認められたら、奴らは女バスに話を通し」

「あいや待て、九頭川、みなまで言うな。わかった、せっかくのご指名だ、我々もちょうど動体撮影で技術を鍛えたいと思っていたところ! 別に最終的にサッカー部マネージャーの瀬野ちゃんから声がかかったらいいなーとか、まったく思わないでもないこともないしな!」

「意味はわからんが、ちょろくて助かるぜ、入田」

「で、お主のことだ、何かあるのだろう、話せ。聞いてやろう」

「ああ、実はなーー」

 写真部の入田の次は、三根まどかだ。

「輔から連絡くれるなんて、ひさしぶりだね〜。あ、今日はありがとう。高森くん、ついてきてくれるってさ」

「それはよかった。代わりと言っちゃなんだが、一つ頼まれてくれ」

「一つどころか、二つまで願いを叶えてあげるよ。ただし、願い事を増やすのはなしね」

「どこのランプの精だよ」

「なんでもしてあげるって言ったじゃん」

「それはいらないって言ったじゃん」

「もう、真似しないでよ。それで、何?」

「ああ、三根って、イベントとかの流れとか、テンプレとか詳しいよな?」

「多分、普通の高校生よりはね」

「実はそれをーー」

 三根からも了承を得ると、最後に高森に電話する。

「やあ、九頭川。どうしたの?」

「突然すまない。高森、パソコンと機材の接続とかウェブカメラとかマイクの選び方とか、配信の設定とか、基本的なことはわかるよな?」

「まあ、そういう部活だったからね。個人的にも、ネトゲでいろいろやってるし、一応配信もしてるよ」

「マジか。いや、助かる。実はなーー」

 一通り、高森にお願い事をする。

「なるほど、ほんと、珍しいね。九頭川がこんな形で頼ってくるなんて。自分でもできるんじゃないの」

「いろいろ事情があるんだよ。それに前に高森も言ったろ? 自分でできることを仲間とやってみたくなったんだよ」

「まあ、わかった。頼まれとくよ」

「ありがとよ。一つ借りにしといてくれ」

「友達じゃないか。こんなもの、借りじゃないよ」

 友達じゃないか。

 ああ、そうか。

 俺はスマホを持ったまま、少し固まる。

 高校に入って、高校デビューのために、一方的に親友を切った俺。そんな男を、高森は再び友達だと認めてくれるのか。

 こんなに、自分勝手でわがままな男を。

「友達、か」

「そうさ、だから、今度、ラーメンでも奢ってよ」

「ラーメン、そりゃあいい。「いつもみたいに」飯でも食って帰る時にな」

「そうそう、いつもみたいに」

 電話越しに二人笑う。

 俺たちは中学時代に、下校時は買い食いさえしたことがなかったはずだ。「いつもみたいに」。

 いつか本当にいつもみたいにご飯を食べて帰れるようになれば、素敵なことじゃないか。

 日が変わるまで、俺たちはつまらないことを話し続けた。通話を切った時には、すでに何を話していたのか忘れた。友達の話なんて、そんなものだ。


 〜台本〜

 『恋人探しゲーム』(仮)


舞台:どこかの密室

   椅子だけがある白い部屋。

   扉はあるが、開かない。


人物:男女同数で6〜10。偶数。

   謎解きから言うと、多すぎると

   覚えられない。


   ナレーション(?)

   占い師(声だけ?) 


あらすじ


 記憶を失った男女複数人が、意識を取り戻すところから始まる。

 全員椅子に座っている。

 お互いの面識はない。自分の名前などは覚えているが、人間関係だけは一切思い出せない。

 部屋からは出ようとしても出られない。

 司会者から声だけの案内が来る。

「あなたがたは全員もともと恋人同士だった。記憶のない今の状態で元の恋人と正しく結びつくことができたら、この部屋から出られるだろう」

 制限時間あり。

 じょじょに水が溜まっていく。

 時間内に各々が自分のこと、自分の好みなどを話して、対応する恋人は誰かを探る。

 ここで前半寸劇終了。


 観客にアンケートを取る。

 集計。 


 一番多かった組み合わせで結末を演じる。正しい組み合わせは一つだけ。それ以外は間違いルートを演じる。


 正しければ無事に外へ出られる。道端に怪しい占い師がいて、何か寿いで露と消える。

 全員がお互いの恋人ときちんと結びつき、愛情をいっそう深くする。

「運命の相手は、記憶を消したくらいでは、離れ離れにできないらしいね。やれやれ、賭けは私の負けだ」


 間違っていたら、溺死……したように見えて、一応外に出られる。道端に地蔵があるだけ。ただし、その時点で元の記憶と、別の相手を恋人だと断言した記憶とが全員に残る。

「運命の相手はその人かね? あなたの運命の相手は、記憶を失ったくらいで見つけられないものなのか? 君たちの愛は、そんなものなんだね」



 ほとんど寝ずに、あらすじを完成させた。ト書きはまだできていない。

 沖ノ口にデータだけでも添付しようかと思ったが、時計は朝の4時だった。そのまま机に崩れるようにうたた寝、飛び起きて学校へ行く。

 授業は朦朧として記憶になく、放課後、ここ数日のごとく沖ノ口と向かい合って座っていた。今日は、沖ノ口も読書していない。俺のあらすじデータを印刷したプリントに目を通している。

「ねえ、たすく、あなた、いくらか頭の中に草案があるんじゃないの? それを、少しでいいから、書いてみてよ」

 沖ノ口はしかつめらしい顔で原稿を読み終わり、真正面から俺を見返した。

「ねえ、みんなも少しくらい実際の台本が見てみたいわよね?」

 今日は放課後、役者役のうち十人ほどが一緒に残っていた。一様に志願して役者に名乗り出た、やる気のある男女ばかりだ。やはり、外向的で溌剌として、華がある。あまり押しの強くないクラスだと思っていたのに、人生を謳歌している奴らもいるんだな。

「うん、俺も実際のト書きを読んでみたい。面白そうじゃん」

「九頭川にこんな才能あったんだー」

 才能なんてない、ただ、沖ノ口の圧力に負けて捻り出しているだけだ。

 俺は担当と編集者に囲まれた出版社の会議室で缶詰にされる気分で、台本を書き始める。


〜台本〜

 登場人物

 A太、B壱、C也、D雄、E助。

 1子、2奈、3瑠、4葉、5美。

 (人数が減る場合は後ろから削る)


「ほんとひどい名前ね。どこかで聞いたような名前があるし」

「まるで気のせいだ」

 短時間の寸劇で、誰が誰と結びつくかを考えてもらわないといけない。名前は極力単純化すべきだ。


〜台本〜

 白い部屋の中、A太が一番に目を覚ます。椅子に座っている。他のメンバーはまだ眠っている。

A太「ここはどこだ? 白い壁の部屋? 誰だかわからないが、俺と同じ高校生くらいか、みんな寝ているようだ。いや待て、俺は、誰だ? 名前はわかる。だが、自分の名前以外、何も思い出せないぞ!」

 A太、部屋を探るが、扉ひとつない。

 仕方なく、寝ている全員を起こす。

 全員が起きるが、自分の名前しかわからない状況。

B壱「おい、なんだよ、誰か外にいるのか? ここから出せよ!」

1子「そうよ、出してよ! どういうこと?」

 全員がしゃべると、部屋に扉が現れる。


「どうして扉は最初からないんだ?」

「扉が後から現れることで、ここが現実ではない不可思議な世界であることを明示するためだ」

「なるほどな」


〜台本〜

C也「なんや、扉あるやんけ! わては先に出るで!」

 ドアノブに触ると、じゅっと音がしてC也は手を火傷する。

C也「あっつ! 何やこれ、ああ、火傷してもうたぁ」

 ここで占い師の声が入る。

占い師「ここからは出られないよ」

 誰だ、何さまだ、どう言うつもりだ、などなど怒りの声。落ち着いてから。

占い師「私はしがない占い師さ。君たちが悪いんだよ? 君たちが勝負をふっかけてきたから、私は乗ったまでだ。君たちは、こう言ったんだ。


「俺たちはたとえ記憶がなくなっても、また同じ相手と恋人同士になる」


 君たちのお互いに対する記憶は全て消させてもらった。さあ、君たちは本当に元の恋人同士と結びつくことができるかな? 正しく結びついた暁には、無事に出ることができるだろう」

2奈「何よそれ。もし元の恋人同士以外と結びついたら、どうなるって言うのさ」

占い師「さあ、それはどうだろう」

3瑠「だいたい、あなたが本当のことを言っている証拠はありませんよね」

占い師「では、おのおの胸元のポケットを探りたまえ」


 ポケットを探ると、各自自分に当てた短い文章のメモが入っている。筆跡は自分のものだ。


A太「確かに自分の字だ。『俺ならわかる。自分を信じろ』って……」

4葉「『自分の気持ちを隠さずに言うこと』無理だ、無理だ。だいたい、言う通りにして出られるとは限らないのに!」

占い師「これ以上の質問は終わりだ。今から、話し合いを始めてくれたまえ。せいぜい楽しませておくれよ? ちなみに、制限時間はある」


 占い師が言い終わると、部屋に水が溜まり始める。以降、占い師は一切反応しない。


A太「このまま、何もしないでいてもジリ貧だ。占い師の言う通りにするのは癪だが、脱出する方法がないなら、従うべきだ。メモの筆跡も自分のものなのは間違いないし」

1子「賛成。とりあえず、ここにいる全員が誰かと恋人同士っていうことは、自分の好みを言っていけば、自然に組み合わせができるんじゃないの」

4葉「そんなの、言えるわけない」

B壱「正しく組み合わせないと、戻れないかもしれないんだぞ? わがまま言うな」

D雄「時間がもったいないな。ああ、もう水が足首まで来た」

A太「よし、じゃあこうしよう。みんな自分はどんなタイプが好みかを正直に告白する。そして、この中で誰が恋人であってほしいか指名しよう」

5美「あたしは見た目じゃわかんないわ。だから、男が全員先にしゃべってよ。そしたら、ある程度性格もわかるし」

E助「言い出しっぺの男から順に言っていくしかねーべ。自己紹介、合コンだべ」



A太「僕は、元気で前向きでスポーツも勉強もほどほどにできるから、相手にも同じくらいのものを求めるよ。真面目で朗らかで、何かにつけ簡単には諦めない人がいいな」

B壱「俺は第一に見た目だ。大人っぽい美人がいい。性格は根暗でなけりゃ、どうでもいい。俺の色に染めてやるだけだ」

C也「わてはおもろなかったら、よう一緒におらんわ! せやさかい、女子に求めるのは絶妙なボケか、鋭いツッコミやで」

D雄「ぼぼぼくは、女子となんて付き合えないよ、自分が完璧じゃないのに、ひひひ人のことなんて気にする余裕はないっ。きっと、ぼくらは騙されてるだけだっ」

E助「俺はしょうじき、付き合ってくれるなら誰でもいーぜ。頭も悪いし、顔も良くねえ、そんな俺のことを好きだって言ってくれたら、幸せじゃねえか。誰だって好きになってみせるさ」


1子「自信過剰な男も、卑屈な男もごめんだ。男ならカッコつけて、泣き言なんて表に出さない奴がいいな。本当にこの中に彼氏がいるのかよ?」

2奈「あたしは生理的に受け付けない人じゃない限りは、付き合ってみないとわかんないな。自分から告ることはないから、誰か自分から好きって言ってくれる人が相手じゃない?」

3瑠「男子が本当のこと言ってるかわからないのに、判断しようがないわ。でも、わたしは賢い人が好き。きっと、一番賢い人がわたしの相方よ」

4葉「言わない。言えない。男子と付き合っている可能性なんて、絶対にない。気持ち悪い。絶対無理」

5美「うちは好きな人には積極的に行くけど、向こうがその気になったら冷めちゃうタイプなんだよね〜。だから、うちの相手って、なかなかなびかない男の子だと思うんだ〜」



 書き上げた草稿を沖ノ口に渡す。

 何人かが沖ノ口の後ろにたかって、セリフを読んでいる。黙読だ。音読されたら、もだえ死ぬ。

 さすがにここ数日の台本やら部活(していないのに心労が溜まる日々)やらのせいで、意識が朦朧とする。

「たすく、やっぱり、あなた、すごいわ。思った通り、いえ、思った以上よ」

「それはようございました」

 沖ノ口は役者役に草稿を渡し、俺の隣に回り込んできた。

「それで、たすくなら、どんな口上を切るの?」

「現実でそんな恥ずかしいことを言うかよ」

 長い黒髪をいじりながら、ここ数日見なかったような柔らかい笑顔で、俺を覗いてくる。

 ようやく、形ができて、ひどい缶詰からは解放されそうだ。

 そのとき、教室の扉付近で黄色い声が聞こえる。

「あ、田ノ瀬くん、どうしたの」

「ひっさしぶりー。最近遊んでくれないじゃない」

「ごめんね、レッスンが忙しくてさ。ところで、九頭川くんはいる?」

 甘いマスク、心をくすぐる美声。

 かつらぎ高校一のイケメン、田ノ瀬一倫の声だ。奴はモテたくないと相談に来て、もっとモデルや演技のレッスンに励めと追い返した。なぜかその時の付き合いで気に入られたようで、ときどき連絡したり、相談したり、雑談したり、会ったりする。

 女子に通せんぼされた教室の扉の前で、田ノ瀬と俺は目が合う。

「九頭川くん、ひさびさだね! ちょっといいかい?」

「ああ、今行く」

 立ち上がった。

 足が、おかしかった。

 ふわふわと感覚がない。

 膝カックンを受けたように、下半身がくずおれた。そのまま、頭から血が抜けたように、意識が白くなっていく。

(え、なんだ?)

 何かにぶつかった。

 顔から。

「もう、たすく、大胆なんだから」

 声は、聞こえた。

 聞こえるが、意味が取れなかった。

「たすく? え、たすく、たすく!」

「九頭川くん!」

 意識は、田ノ瀬の叫び声で消えた。

 何も、わからなくなった。

 体が動かなかった。


 夢も見なかった。

 脳みそを鷲に握り潰されるような睡魔に囚われたあと、少しだけ意識が覚醒した。

 夢かうつつかわからぬまま、走馬灯のように見覚えのある顔が見える。

 なんだおまえら、そんなに心配そうな顔をするなよ。ただの寝不足だ。起きたら、すぐに元気になるさ。

 ああ、だから悲しそうな顔をするな、深窓の令嬢は、透徹したすまし顔が似合う。それか、笑え。おぬしの笑顔は美しい。


「……気がついたかい?」

 目の焦点が合わない。

 誰かが覗き込んでいる。

 奥の蛍光灯がちらちらと目障りだ。

 重い瞼をしばたたかせると、不安げな顔がくっきりと見えてくる。

「犬養先生?」

「そうだ、ここは保健室だ。どうしてここにいるかわかるか?」

「確か、教室で文化祭の準備をしていて、田ノ瀬に呼ばれて、立ち上がったら意識が飛んで。まさか、あいつ魔術師か何かか?」

「ばかもん、人のせいにするな。田ノ瀬には感謝するんだよ? お姫さま抱っこでここまで運んでくれたんだから」

「マジっすか。田ノ瀬ファンの女子に殺されるじゃないっすか。田ノ瀬の初お姫さま抱っこを奪うなんて」

「君の冗談は稀に面白いね」

 くすりと笑うと、保健室の扉の隙間から、長い黒髪が覗いた。

「せんせい、さっき声が……たすく! 気がついたの」

「ああ、沖ノ口か。すまん、」

 台本の途中で意識を失って、と言ういとまもなく、駆け寄ってくる沖ノ口に抱きつかれ、押し倒される。起こした半身がまた寝台に沈む。

「おい、どうした?」

「ごめんね、ごめんね、わたしが台本を急かしたせいで。心配したんだから! つらかったら、ちゃんと無理だって言ってよ! 倒れるまで頑張ってほしくないよ!」

 さらに謝っているのか詰っているのかわからないことばを連ねて、保健室の薬品臭い布団越しに、ずっと俺にしがみついている。

 小さな肩を震わせて、鼻を啜る。

「いやまあ、ただの寝不足だ。授業中寝てたらよかったんだが」

「寝不足をバカにしてはいけないぞ、九頭川。昼は働いて、夜はゲーム配信をして、深夜にグッズを作って、朝にイラストを描いていた忙しいサブカル系の若者が、遺体で発見されたこともあるんだ。栄養ドリンクの残骸と一緒にな。若いからといって、睡眠が不要なわけではないんだ。とりあえず、今日は送っていこう。明日は土曜日だ、きちんと休みなさい」

「せんせい、わたしが送っていきます」

「だめだ。沖ノ口さん、君はもう帰りなさい」

「でも!」

「九頭川くんの保護者に、送り届けると約束したんだ。そこは私の責任だ」

 毅然と言い放つと、さすがに沖ノ口はわがままを収めた。だが、犬養先生の目を盗んでこそっと、耳元でささやく。

「ねえ、たすく、お見舞いに行っていい?」

「好きにしろ。どうせバイトも休みだし、ボルダリングも行かない」

 結局、台本はあらすじしかできていない。一週間以内に、完成させておかねばならない。休みたくても休めないのだ。沖ノ口は良い編集者になれる。

 沖ノ口が去ると、犬養先生は白衣をハンガーにかけ、車のキーを指でクルクル回した。

 白いブラウスに黒のタイトスカート、普段着やコスプレの時とはまったく印象の違う、働く女性の正装だった。ふわっとした髪の毛を首の後ろでひっつめていた。

「犬養先生、送ってくれるって言っても、俺、自転車通学なんですけど」

「私は一向に構わんッッッッ」

「何のモノマネなんっすか」

 自転車を押しながら校門まで歩いてくると、アイドリングしているNボックスが駐車していた。電子タバコを吸いながら、犬養先生はスマホを眺めていた。

 保健の先生ともコスプレイヤーのワンカさんとも違う、若いOLに見えた。大人は、たくさんの仮面を使い分けているのだと実感する。

 犬養先生はNボックスの後ろのドアを開け、リアシートを畳み、自転車を収納する。

「へえ、この自転車も普通に入るんですね」

「Nボックスはいいぞ」

 俺が助手席について、シートベルトをしたのを確認すると、犬養先生はナビに住所を入力した。ほぼ間違いなく、俺の家を指していた。

 手慣れた運転で、車を発進させる。親父の運転以外で車に乗ったことはほとんどないが、奈良県の社会人は自分で車を運転できないとまともに生活できないから、性別年齢問わず、誰もが一通り運転できる。俺も、卒業前には自動車学校へ行きたい。

 だが、それとは別に、犬養先生はちょっとやんちゃな車が似合いそうな印象がある。一応養護教諭だと言うが、看護師資格もあるらしいし。看護師というと医者を捕まえて玉の輿を狙うか、一人で生きていくシングルマザーを選ぶか、人生の選択肢が二択しかないイメージがある。

 だいたい、登山やスノボやサーフィンやバイクや車や釣りやキャンプなどを一人で趣味とする女性は、ヨガインストラクターか看護師だと、ヨガインストラクターとも看護師とも縁遠いヒキオタニートワープア山田仁和丸(40)おじさんは言っていた。

「先生なら、スープラとかスカイラインに乗ってそうなのに、違うんですね」

「おまえは私をガソスタで働いてる系女の子か何かと勘違いしてないか。どこかの峠に遠征する系の」

 ガソスタで働いている女子はなんでおしなべてギャルなんでしょうね。経営者の趣味か、客層を考えての人選か、あるいは当人の好みか。

「Nボックスはいいぞ。コスプレでも、キャリーケース三つに三人乗っても、長距離走るのに不満はないし、ロケに行くにも中で着替えができるし、何なら東京までイベント遠征に行って車中泊も可能だ。しかも、高速道路料金は軽自動車。人気車種だから、通勤や法事で乗っていても後ろ指さされることもない。こんなに汎用性の高い車は他ないぞ」

「はあ、ずいぶんお気に入りなんですね」

「おお、これでほぼ日本中走り回っているからな」

 コスプレで日本中走り回るのだろうか。そんなに遠方へ行く意味があるのだろうか。

「それに、相撲取り並みの巨漢を乗せても、普通に走るし」

「相撲取り?」

 世間話のように楽しそうに呟いたことばに、俺は引っかかった。犬養先生はしまった、という顔をしている。

「あー、その相撲取り並みの巨漢は、俺も知ってる人ですかねえ」

 夏休みの話だ。

 俺は佐羅谷と宇代木から距離を置こうと、そして小遣いを稼いでおこうと、リゾートバイトという住み込みのバイトをしていた。そこで知り合った海の家のリーダーが豆市咲蔵さんだ。サクラというかわいらしい名前ながら、頭脳は大学院で勉強するレベルで、体躯は小柄な相撲取りレベルで力強い。贅肉ではなく、筋肉質だ。しかも、穏やかな性格でいろいろな問題を解決してくれた。

 そんなリーダーが、俺を捜しに来た犬養先生に一目惚れして、何かしらあったようだ。特に取り次いだ気はないが、どうやらつながっているようだ。

「ふーん、先生もアオハルですねえ」

「何だ、バカにするな。私だって、君らの前だと大人ぶってるがって、いや大人ではあるんだが、社会人になってせいぜい五、六年のひよっこだ。学校だったら、君たちの態度が私を大人にするが、生徒の目がないところでは、君たちよりちょっと上なだけの、半分子供みたいなもんなんだよ」

 少し早口になる犬養先生は、いつもよりかわいく見えた。

「デ、デートしたりしてるんですか?」

「まあ、いろいろね。磯の浦とかマリーナシティとか白浜アドベンチャーランドとか串本海浜公園とか那智の滝とか熊野本宮大社とか」

「めっちゃ充実してるじゃないですか。え、まだ二、三週間しか経ってないですよね、知り合って」

「そのあたりは、こちらは大人だからね。付き合うって決めたら、とりあえずお互いどんな性格でどんな思考かをすり合わせて、一緒にやっていけるか、早く決断したほうがいいから。君たちみたいに、ストイックなまでに潔癖に、相手の一つの齟齬も一つの欠点も許せず、運命の人を探すなんて、悠長なことはしないから。絶対に許せない、絶対に耐えられないところ以外は目を瞑って良いところを見るようにしないとね」

「そんなの、妥協じゃないっすか。そうまでして、付き合う意味なんてあるんですかね」

「それを言うなら、そもそも付き合うこと自体に意味はないよ」

 先生は軽く、しかし険しく断ずる。

「俺はよくわかりませんが、ヒグマ先輩は、先生が付き合うに足る人物なんですか?」

「ヒグマって……まあ、まだちゃんと働いていないから何とも言えないが、来年の四月から大阪のどこかで研究職で就職も決まっているらしいし、今のところは?」

「何で疑問系なんですか」

「ちょっと奥手なのがね」

「あの人がイケイケなら、ちょっと怖いでしょ。腕力では誰も敵わないんだから」

「男は、細腕でもすぐに暴力を振るうからねえ」

 実感のこもったため息。

「俺は振るいませんよ」

「優しい暴力はいいものだよ」

「先生、絶対ナチュラルボーンダメンズインキュベーターですよね」

「僕と契約して、ヒモになってよ」

「ほら、そういうところですよ」

「つぼ湯も行ったんだけどね」

「つぼ湯」

 記憶を思い出す。

 確か、和歌山県の本宮にある、貸切の小さな温泉だ。家族風呂のようなもので、もちろん、男女の別はない。

「つぼ湯って確か」

「さあ、着いたよ。自転車を下ろそう」

 話を打ち切って、犬養先生は運転席を降りた。車はいつのまにか家の前に停まっていた。

 車の音が聞こえたのか、親父が降りてきていた。いつもの仕事から帰ってきた薄着ではなく、まあまあしっかりした姿だった。先生が送ってくると言ったから、着替えたに違いない。

「輔、無事か? 心配させやがって」

「そのわりに顔が先生の方を向いてるんですが」

「はっはっは、元気で良かった元気で良かった」

 バンっと一回俺の肩を叩いた。

 あとは犬養先生といくらかことばを交わし、如才なく連絡先を交換し(!)、Nボックスは高田の街に消えていった。そういえば、先生も土日は休みなのだろうか。この週末はデートなのだろうか。俺は、また引きこもりだな。今週はきちんと寝よう。

 そう思って、自転車を車庫に入れようとすると、見慣れぬ自転車が一台、車庫に置いてある。

「この自転車って、確か」

「たすく、おかえり」

「沖ノ口。おまえ、帰れよ。お見舞いって今日か? 親父も、俺のいない時まで女子高生連れ込むなよ」

「やめろ輔、まるで俺が普段から女子高生を連れ込んでるみたいな言い方をするな」

 親父にしては、ちょっと剣呑な言い草だった。ああ、さすがに、直接面識もなく、俺を挟まずに訪ねてきた女子高生だ。扱いに困ったのだろう。たとえ息子のクラスメイトだと本人が言っても、確かめる術はない。

「少し話がしたかっただけじゃない。ねえ、たすく、明日、来てもいい?」

「台本の仕上げなら」

「わかった。じゃあ、明日ね」

「やけに素直だな。てっきり、泊まっていくと言い張るかと」

「泊まっていいの?」

「ダメに決まってる」

 沖ノ口はふふふと笑い、親父に礼を述べてから、自分の自転車を出した。

「気をつけてな」

 黙って帰すのも不自然だ。

 定型句を去りゆく背中にかけると、沖ノ口は手だけ振って応えた。住宅地の角を曲がると、程なく姿は消える。


 保健室で一眠りしても、睡眠は足りなかったらしい。

 家に着いた安心感からか、またしても眠気が襲ってくる。

 だが、今日中にやっておかないといけないことがある。

 田ノ瀬にありがとうの連絡を。

 それにしても、いったい何の用事だったのだろう。既読はついたが、定型文のどういたしまして、お大事にね、という返事が来ただけだった。

 遠くない未来、田ノ瀬は俺など手の届かない世界へ行くだろうが、なぜか今のところは俺のことを気にかけてくれている。買い物や映画にも付き合ってくれる。嬉しいことだ。

 友達も、悪くない。


 暑い。

 エアコンのタイマーはとっくに切れていた。日差しは窓からジリジリと顔を照らす。

「ううむ」

 寝苦しさと裏腹に、頭は冴えている。

 起きるべきか、二度寝するべきか。

 考えていると、家の呼び鈴が鳴る。

 親父が出るかと思ったが、いつまで経っても一階で玄関扉が開く音が聞こえない。再度、呼び鈴。なんだ、佐川かヤマトか。今日届く荷物なんてあったっけか。

 まあ、再配達でいいか。

 俺は居留守を決め込もうとエアコンのリモコンを探る。

 タオルケットから手を伸ばすと、柔らかいものに触れた。何だ、この感触は?

 のそりと、面を上げる。

「たすく、呼び鈴鳴ってる」

 一気に目が覚める。

 沖ノ口が、ベッドの横に膝立ちになって、俺の伸ばした手を握っていた。慌てて振り解く。

「な、な、なあ、なんでおまえがこんなところにいんの?」

「たすくのお父さんに入れてもらったけど? あ、ちなみにお父さんはお仕事だって」

「聞いてんのは、方法じゃねえ! 理由だ!」

「どうでもいいけど、早く出たほうがいいんじゃない?」

 沖ノ口は黒と白基調の、コンサバなパンツスタイルだった。高校生らしくはなく、少し年上の女子大生のようだった。今はその上からエプロンをしているが、俺は何も考えないことにした。

 ため息を一つ、沖ノ口を無視して階段を降りる。

 再度鳴る呼び鈴の相手を確かめることもせず、直接扉を開ける。

「はーい、サインでいいですか、」

「あー、くーやん、やっと出た! もう、心配したんだからね!」

「え、宇代木?」

「わたしもいるのだけれど」

「佐羅谷も」

 くるくる表情が変わる宇代木に、無表情の佐羅谷。二人とも二人らしい姿で、立っていた。

 これは、あれだ。心配して、お見舞いに来てくれたのだろうか。昨日倒れたことを誰が知っているのかは知らないが、素直に気にかけてくれるのは嬉しい。

「もう、ほんと、心配したんだかんねー。くーやんは真面目すぎー」

「そうよ、根をつめすぎじゃない?」

「そうだな。わざわざありがとう」

「それだけ?」

 間髪いれず、佐羅谷は腕を軽く組む。

「それだけって……ええ、い、いくら払えばいいんでしょうか」

 俺はお見舞い代を請求される立場なのか。友達料もバカにならないぜ。

「なにバカなこと言ってんのさ。大切な話があるってライン送ってきたの、くーやんじゃんか」

「大切な話?」

 ああ、そういえば、恋愛研究会のブースを作ったり、youtubeの配信の下準備をしたり、俺はクラスの出し物から離れられそうにないから、知り合いやら友達(?)やらに頼んで、佐羅谷を手伝ってくれるようお願いしたのだ。いちおう、佐羅谷には言っておかないと混乱するだろう。

「あー、そういやそうだな。えっとなー」

 どう説明しようか思案したところで玄関の扉が開く。

 ひょこっと、お玉を持った沖ノ口が顔を覗かせる。

「ねえ、たすく、時間がかかるなら、入ってもらったら?」

「そうだな、二人とも、入ってくれ」

 門扉を開けて誘う。

 二人は凍りついたように動かない。

「どうした?」

「なんで、おっきーが、こんな朝からいるの? なんで中から出てくんのさ?」

「それは俺が知りたい」

「何それ。無責任じゃない?」

 さっき真面目すぎと評価を受けたのは僕です。

「わたし、昨日の晩もここにいたわよ」

「誤解を招くようなことを言うなよ、おまえは」

「事実じゃない」

「事実だが真実じゃないだろ」

 沖ノ口はぺろっと舌を出すと、家の中に消えた。

「まあ、入ってくれ。俺も寝起きで、ちょっと待たせるかもしれないが、」

「最っ低じゃん。大切な話って、こんなことだったんだ。こっちがどんなに心配してさー!」

「天、やめなさい」

 珍しく演技のない宇代木の怒り顔を見た気がする。

 乗り出した体を押さえて、佐羅谷が冷たい顔で俺を睨む。

「ごめんなさいね、九頭川くん。わたしたちは、ちょっと鈍感すぎたわね。もう、大丈夫だから。また、学校で会いましょう」

 佐羅谷は厳然と言い放つ。

 だが、声は震えている。大丈夫でない時に言う大丈夫だ。佐羅谷の言う大丈夫は、大丈夫ではない。いったいどういうことだ。どうして二人は手前勝手に怒っているのだ。俺に非があるのか。

「じゃあね。お邪魔したわ」

「ちょっと、あまね、そんなんでいいの!?」

「天、あなたも悪いのよ。いつまでもいつまでも動かないから」

「なにさ、なんなのさ、あたしが悪いなら、ちゃんと言ってよー!」

「後で説明してあげるから、待ちなさい」

「むー」

 振り向かずに、すたすたと歩き去る佐羅谷。

 しばしこちらを向いていた宇代木も、頬を膨らませたまま小走りに佐羅谷の後を追う。

 ぽつねんと取り残された俺を、沖ノ口が呼ぶ。

「たすく、朝ごはん食べる?」

「……ああ」

 すべて、なにかうまく行かない。

 あらゆる要素が、齟齬を来たしている。掛け違えたボタンが、どこまでもたたっている。まるで修正の効かない未来を求めて、ひたすら足掻いている気分だ。

 原因は、きっと、目の前で微笑むこの女。味噌汁の湯気越しに、半分ぼやけた表情は、女神か般若か、それさえも俺には捉えられなかった。


「おまえ、あの二人に何か余計なこと言ったのか?」

「んー、別に? あの二人の連絡先なんて、知らないし」

「俺のスマホで」

「たすくのスマホは、指紋認証でしょ」

「そうだよなあ」


 一口啜る味噌汁は、いつもと違う味に感じた。

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