3巻後半『上地しおりは待っていられない』
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田戸真静 (たど・ましず)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
二章 上地しおりは待っていられない
「夏だ、サマーーーーーっっっ!!」
「トートツなトートロジーはやめい」
山崎の声は紀伊水道に吸い込まれて、海面をたゆたう夕日に吸い込まれる。もう時刻は夜に近いというのに、蒸し蒸しとした澱んだ空気は、肌に重い。
こういう時に、夏だ、というのだろうか。俺は取り立てて感傷にひたらず、バンザイしている男の顔を見やる。
日の入り直後の暗い橙色の光を反射して、山崎のメガネは一際輝いていた。
和歌山県某所、夏の短期集中リゾートバイト一日目。まさか、砂浜に向かって叫ぶほど余裕のある日が、初日の今日一日しかないなんて、つゆほども考えなかった。
俺と山崎が揃って夕日を見たのは、この夏最初で最後だった。
リゾートバイトに、リゾートする時間はない。求人票の嘘つき……。
俺たちは一つ、大人になった。
高森颯太の、名古屋のコスプレサミットで逢瀬を成功させるという依頼も完遂し、俺はそうそうに荷物をまとめ、山崎とともに和歌山県へやってきた。
これから三週間ほど、住み込みでアルバイトに励む。応募をする以外はほとんど詳細も知らず、全部山崎に任せっきりだ。こういう時に友達(?)がいると便利だな。
採用を担当している観光協会で、まずは挨拶をする。
「こんにちはー、お世話になります」
「こここんにちゅわ! おせしゃっます!!」
初バイトで緊張している山崎は噛み噛みだった。
人事担当役とでもいうのだろうか、穏やかで常に笑顔の壮年の男性が迎えてくれた。
「ようこそ、待っていたよ」
何度も同じ説明をしているのだろう、滑らかにハキハキと注意事項や契約内容を、書面を見ながせながら説明していく。最後に質問や確認が済むと、契約書に署名捺印して、配属の話になる。
大きく分けると、旅館の内務と、お土産店での売り子と、砂浜での海の家業務、この三種類があるらしい。原則として一度決まった配属は動かない。
ここで、終始おどおどしていた山崎が勢いよく手を挙げる。
「はい! 山崎は海の家へ行きたいでございます!」
「ほう、志望動機は?」
どうにも口調のキャラが安定しない山崎に合わせて、人事担当役氏もノリを合わせて芝居がかったしゃべり方だ。微妙に面白いな、この人。慣れているのだろうか。地域のゆるキャラステージとかで、司会をやっていそうだ。
「水着女子の接客がしたいであります!」
「よし、君は旅館の裏方で頑張ってもらおう」
「第三志望!?」
「滑り止めに受かっていてよかったじゃないか。浪人するかい?」
「滅相もございません!」
静かながら強い圧力で、山崎に有無を言わせない。ここはオーディションや芸人の面接ではないからな、欲望丸出しは良くないだろう。
まあ、山崎はバイトも初めてらしいし、最初は裏方で慣れるのがいいと思うよ、ほんと。普通のまともなお客さんばかりならいいが、そうとも言えないのが現実だ。
まして、テンションの上がる夏、観光地、アルコール、そして、露出の多い格好。ややこしい客が多いのは想像がつく。
「君はどうする?」
「普段からファミレスの厨房にいるので、できたら海の家がいいですね」
俺は神妙に答える。
別に水着女子が見たいわけじゃない。そりゃあ、海の家で働いていたら、たまたま視界に入ったり、接客することがあるかもしれないが、みんな偶然だ。
だいたい、今どき和歌山の辺鄙な浜で海水浴なんて、ねぇ? きっと家族づれとか地元ヤンキーっぽいのしか来ないだろう。奈良県でもそうだ。夏場吉野川にあふれる水着ギャルは、等しくヤンキーだと俺の親父が言っていた。若い時に親父も母親を連れて行っていたらしいが。
「ふむ、じゃあ、九頭川くん、君は海の家へ行ってもらおうか」
「わかりました」
「なんで九頭川と別々!?」
「グリフィンドールに行きたければ、少しでも課金すればよかったものを」
「いつの間に!?」
泣きつく山崎を引き離し、その他もろもろ注意事項や仕事の要点を聞き、俺たちは住み込みの寮へ向かう。年季を感じるが立派な旅館群に混じって、暗くてじめっとして、時代に置き去りにされたような長屋のような建物、これが住み込み者の寮だった。
足下でうずくまっていた猫が、人の気配に光る目を向ける。
山崎は重いボストンバッグを落とした。
「なんぞ! ビジネスホテルかレオパレスのようなものを想像していたというに、これは快活クラブ以下ではないかっ」
「快活クラブはホテルじゃねえよ」
おおむね予想通りだ。
求人には、「好きな場所で楽しみながら働ける!」「まるで旅行している気分でプライベートも充実!」「長期の職場で素敵な出会いも?」などなど、よくあるキャッチコピーが踊るわけだが、現実はこんなものだ。
飯場とかタコ部屋とか、その時代に比べたらまだマシだと思って、せいぜい楽しもうぜ。
さらに先に予測しよう、素敵な出会いに、女性は含まれない。野郎は野郎にしか出会えない。グラップラーはグラップラーと惹かれ合うのだ。
「住み込みのバイトに、人権なんざねえよ。諦めろ」
「就職してみたらブラック企業だったので、転生しようと思います」
「これでブラックなら、百回転生してもホワイトにはならないな」
「限りなく真闇に近いグレー」
「そんな小説で芥川賞は取れないな」
愚痴とは裏腹に、山崎は気を取り直してきたようだ。
口の端を歪めニヒルに笑い、建て付けの悪い引き戸を勢いよく開ける。昭和臭のするガラガラ音を上げて、玄関が開く。
「頼もう!」
元気なのは、いいことだ。
元気がないと、楽しくないもんな。
胸の中の空っぽを埋めるように、俺も自分が元気だと思い込もうと、必死に笑顔を作ろうとする。
シェリー、俺は自然に笑えているか?
山田仁和丸(40)が聞いていた古い歌と歌手を思い出す。彼は三十歳を待たずに他界したという。
問う相手は、どこにもいない。
波の音に混じる鳥のさえずり。
鳩やスズメとは違う。カラスでもない。
ああ、ここは海沿いの宿舎だったと記憶を辿って思い出す。
朝、すでに生ぬるい空気に寝苦しく目を覚まし、まずは顔を洗おうと洗面へ向かう。
古い旅館にありがちだが、部屋にトイレも洗面もない。廊下の一角に、洗面所とトイレが並んでいる。トイレは男女別だが、洗面は共用だ。
先客がいた。
意外だった。こんなところに、女子がいるとは。
横から見える姿でわかる、長い髪に標準的な体型。やや締まった感じで、運動系の部活をやっているのかもしれない。だとすると、夏休みに長期のバイトをするのは解せないが。
かわいらしいハリネズミの絵の描いた部屋着だった。
「おはようっす」
「あ、おはようござ……」
俺が隣に並ぶと、挨拶が途中で止まる。
「げ、九頭川」
「ん? ああ、もしかして、上地?」
「あんたなんでこんなとこに!」
「おまえとまったく同じ理由だと思うが」
バイト以外でこんな潰れかけた寮に泊まることはあるまい。
上地しおり。
露骨に嫌悪をあらわに、俺を睨めつける。とことん感情に素直な女だ。
上地は那知合花奏のを中心とするトップカーストの女子グループの一人。俺が一年の時、高校デビューで一緒にいた谷垣内悠人のグループとよくつるんでいた。
もっとも、一年の時は那知合にしか興味がなかったので、他の女子はあまり記憶にない。最近、なぜか上地にはつっかかられるので、印象に残っている。
「ちっ」
顔を洗っていたときは眠い目でかわいらしくも見えたのに、堂々と舌打ちとは、俺も嫌われたものだ。
「髪の毛下ろして、そんな格好してると、空手女もかわいく見えるな」
「見んなよ、ムッツリスケべの嫌味根暗男。何もできないくせにカッコつけてんじゃないよ」
俺の首根っこをつかみそうな形相で、上地は吐き捨てる。ひどい罵倒もあったものだ。
怖い怖い。反論すると、ほんとうに殴られそうだ。
「あー、やっぱ学校の紹介で来てるバイトなんかするんじゃなかった。九頭川が来るなんて、最悪」
小声で愚痴っている。
なるほど、山崎がどこからバイトを探してきたのか考えもしなかったが、学校の紹介か。確かに、学校を通すと、問題があった時も雇う側はクレームもつけやすいし、学生もハメも外しにくい。
並んで他人のように、というか他人だが、顔を洗う。何を話すべきか、どういう距離感を取るべきか。
「あんた、このバイト中、あたしに関わんないでよ。他人のフリしてて」
上地は髪の毛を片方に寄せたポニーテールにしながら、鏡越しに警告する。ああ、これで見慣れた上地しおりの出来上がりだ。
「おまえが因縁つけなけりゃ、もともと俺たちは他人同士だよ」
「ちっ、ほんとそういう言い方が腹の立つ!」
再び険悪な空気になるかと思いきや、急に上地の表情が変わる。
視線は、俺の肩の向こうを見つめていた。
「おっはー、どしたの、しおりちゃん? なんか怒鳴ってなかった?」
「こいつに何かされた?」
嫌な口調だった。
生理的に受け付けないタイプだ。
直言すると、自分を大きく見せるために、他人を低く貶めるタイプ。人を馬鹿にして見下すことに慣れた口調だ。その上、かなりきな臭い。悪い予感がする。
顔を見ても、予想の範囲だった。
一人は、短い髪をきれいな金髪に染め、ラフで派手なシャツに、ジャラジャラしたアクセサリー。日焼けした顔に、黒い首や腕。骨格のしっかりした太さがあり、これはチャラそうなわりに、何かスポーツか武道をやっていた体つきだ。かっと開いた瞳は、敵意。
もう一人は、金髪の下位互換という感じだった。いろいろ中途半端で、同じような格好をしているのに、どこか板についておらず、おどおどした様子が伝わってくる。大学デビューだろうか。目が墨を引いたように細いのが特徴的だった。
(チーターとキツネだな)
俺の中で、二人のあだ名が瞬時に決まる。大学生っぽいから、チーター先輩とキツネ先輩だ。
「猪狩せんぱぁい、若山せんぱい」
上地が信じられないような甘い女の声を出した。
「なんでもないですよぉ。ちょっとこの男子が、今日から来たばかりみたいでぇ、軽く挨拶を」
「ほーん」
チーター先輩が俺を値踏みするように、上から下までじっと目を動かす。
初対面で、よくもまあ、ここまで殺気を剥き出しにしてくるものだ。夏の住み込みのアルバイトで出会いを求めるのはわかるが、がっつきすぎは滑稽だ。
俺がへなちょこの根暗な男で、膂力では自分が上だと把握したのだろう、チーター先輩はねちっこくいやらしい笑みを浮かべ、俺の肩をぽんぽんと叩く。
「身のほど弁えて、せいぜい、仕事に専念しとけ。何もしなけりゃ、何もしねえ」
俺にだけ聞こえるように、小声でささやく。体から漂うタバコの臭いが、鼻に刺さる。
「しおりちゃん、なんかあったら、遠慮なく言ってよ?」
「すぐ駆けつけるからさ!」
チーターとキツネが俺を押しのけて、上地に媚を売る。満更でもない上地の上目遣い。
ああ、やってられねえ。あまりにも茶番、あまりにも予定調和。
盛りのついたケモノどもは、お互い好きにしたら良い。俺には、縁のない話だ。それにしても、上地も最近まで男なんてまったく興味がない感じだったのに、変わるものだ。やはり、クイーンである那知合が谷垣内と付き合い始めたからだろうか。
俺はそそくさと自室に戻った。
気を取り直して、仕事だ仕事だ。
Tシャツにハーフパンツ、どうせ火を使うので、軽い服装。海の家のオーナーから支給されたのは、帽子とエプロンだけで、それ以外の服装に規定はなかった。
「じゃ、後はリーダーに教わってくれい。リーダー、任せたぜい」
オーナーは一通り注意事項と心構えなどを説いて、すぐにどこかへ消えた。俺がファミレスでバイトしていることを知ってか、妙に適当だった。
「初めまして、九頭川君だったね、じゃあ、今日は一日、僕について業務を覚えてもらおうか。さ、まずは朝礼からだ」
リーダーは、巨体だった。
ただ単に背の高い男なら、俺は谷垣内で見慣れている。谷垣内はバスケ部のエースでもあり、身長だけでなくそれなりの体型をしている。決して華奢ではない。
だが、このリーダーは、身長こそ谷垣内より低いものの、とにかく横に大きい。しかし、不思議と太っていると感じさせない。必要な太さ、というのか、この大きさが必要なのだと納得させるような存在感がある。
まるで、熊だ。
(ヒグマ先輩だ)
俺の中で、三人目の動物先輩だった。
物腰は落ち着いていて、朝方見たチーターとキツネのようなせかせかした感じがしない。いくらか年長のようだ。
「九頭川君が入って、六人くらいかな。お盆の時期には、もう一人増えるらしいよ。大変だと思うけど、挫けずに、がんばってね」
「忙しいですか?」
「火を使うからね、暑さがつらいかな。あとは、すぐにわかるよ」
ことばの優しい人だ。だが、若干の含みがある。諦めたような、呆れたような言い方。
話しているうちに、海の家に人が集まってくる。
最初に上地が現れた。
三択の職場で、くじ運の強いことだ。露骨に顔を顰め、ムスッと顔を逸らしたまま、俺から一番遠い場所で待つ。声をかけることさえしてこない。
上地はTシャツにホットパンツ、実用的で簡素なファッションだが、すらっとした腕と脚は薄く日に焼け、ちょうどよい魅力的な肉付きだった。ちょっと露出が多いようで目のやり場に困る。片方に寄せたポニーテールが朝日を透かして、きらきらと輝く。
上地の姿が見えたときに嫌な予感はしていた。こんな予感は当たる。チーターとキツネの両先輩が、ダラダラとしゃべりながらホール(というのだろうか? 簡単な屋根とテーブルと椅子のある空間だ)に入ってくる。
二人はぞんざいな挨拶のあと俺の存在に気づき、やはり見下すような視線をくれる。敵愾心がわかりやすい。
その後、二人ほど男がやってきて、ヒグマ先輩の号令のもと、海の家の業務が始まる。とりあえず、今日一日はヒグマ先輩について、鉄板の前で仕事を覚えることになった。というか、本当に短期バイトだけに海の家の業務を任せているのかよ、オーナー。ある意味ワンオペ牛丼屋よりもひどいぞ。
ヒグマ先輩がリーダーと呼ばれていて、最初は年長だからあだ名でそう呼ばれているのだと思っていたら、実際にリーダーで驚いた。
「リーダーってほんとうにリーダーなんっすね」
「名ばかり管理職ってやつさ」
焼きそば、焼うどん、フランクフルト、とうもろこし、ドリンク類、かき氷……一通り説明を受ける合間に、世間話も挟む。
「あ、そうか、九頭川君、誤解してるね。僕はオーナーの親戚なんだ。夏休みの間、こっちにいるだけなんだ。だから、ただのバイトとも違うんだ。普段は名古屋の大学院で修士二年生しているよ」
「へえ、大学院ですか。よく知らないですけど、難しそうですね。将来は、教授ですか」
「それは、運動系の部活をしている人に向かって、将来はオリンピック選手だね、というくらい的外れだよ」
ヒグマ先輩は大きな体を屈めながら、温厚に笑う。
日々の勉強にいっぱいいっぱいで、人間関係にもいっぱいいっぱいで、大学くらいしか見えていない未来に、その先にあるという大学院が何なのか、俺にはわからない。どんな人がいて、どんなことをして、何を目指しているのか。
何なら、大学というものでさえ、漫画やドラマの中でしか見たことがない。どんなところで、どんな勉強をするのかも知らない。
「でもリーダーはスポーツもやってそうですよね」
「僕の体型を見ればわかるでしょ?」
厨房機器の操作を教わりながら、雑談は続く。
俺はヒグマ先輩の大きな横顔を見る。厳ついが、優しい表情だ。教え方も丁寧で、ゆっくりとことばを選んでいる。運動や競技に必要な闘争心が満ち満ちているとは言いがたい。
体格や見た目から、人間はどうしても他者にそうあれかしと期待する。特に、子供のうちはそうだ。
きっと、ヒグマ先輩は小さな時から大きかったのだろう。だとすると、周囲の大人が期待するのは、明らかに相撲取りとか柔道家だ。
身体が、容姿が、未来を狭める。
例えば、かつらぎ高校一の優男系イケメン田ノ瀬一倫は、モデルや演技の道を幼いときから目指していて、今もその道を進んでいるようだ。たまたま本人の希望が一致していたからいいものの、やはり葛藤はあったらしく、一時中断していた。
何も考えずに、好きなことややれることと天稟が一致したのは、谷垣内悠人だ。優れた体躯に強い闘争心、運動神経。まさにバスケをやるために生まれたような男だ。まあ、バスケ以外をやらせても、大抵のスポーツはなんなくこなすのが、谷垣内だ。
佐羅谷や宇代木はどうなんだろうな。
抜群の外見とそこそこの頭脳を持った、恋愛研究会の女子二人を思い浮かべる。対照的なところもありながら、底の通じたところもある。
深窓の令嬢でおしとやかに清楚を演じなければならない佐羅谷も、ゆるふわ能天気で元気な陽キャを演じなければならない宇代木も、周りの希望を反映しての姿でしかないのかもしれない。
俺はいつだって、表面しか見ていない。
表象だけが真実であり、信用に値する。
本当に大切なものは、目に見えるものだけであり、耳に聞こえるものだけであり、手で触れられるものだけだ。
「九頭川君、聞いてる?」
「すみません、ぼうっとしてました」
「暑いからね、仕事中も水分補給は忘れずに。これからどんどん暑くなるからよ、浜辺は、昼と夜の気温差が大きいからね。体を壊さないようにね」
「はい、ありがとうございます」
まもなく、十時。
開店はだいたい十時。
俺の高校二年の夏休み、バイト漬けの日々が、今から始まる。夏が、追いついてきた。
「いらっしゃーい」
「ありがとござぃまーす」
「こちら焼きそば三人前です」
「リーダー、このフランク持っていっていいか?」
「九頭川後輩、コーラ二つ追加」
「はいよ、お待ちあれ」
「九頭川、遅い」
三日も働くと、勝手がわかる。
初日はヒグマ先輩について、二日目はドリンクと簡単な調理、三日目から本格的に始動。
なあに、品数も少ないし、接客も衛生面もうるさくないし、気楽なものだ。
しかし、暑い。
首にかけたタオルで顔を拭う。
屋外の熱と、鉄板の熱と、人が行き交う熱。夏を連れてくる海水浴客。存在が、暑いというか暑苦しい。
海水浴客は、想像以上に変化に富んでいた。家族連れが多いと思っていたのに、案外男だらけ女だらけ、男女の混合も多い。もちろん、若者だ。
若者が外に出ないとか、草食化しているなんて嘘だろ。あるいは両極化していて、いるだけか。男も女も、見るからにアレなチャラさ。普段かつらぎ高校内で見る悪っぽい奴らがかわいく思える。
やはり、いるところにはいるものだ。
「あたし、かき氷がいい~」
「おーうおーう、いくらでも買っちゃうよー」
「まじー? あたしもー」
「あんまり食べすぎて、おなか冷やすなよー?」
「やー、もう、おなか触らないでよー」
厨房を挟んでイチャイチャ茶番が繰り広げられること、これが毎日毎日。慣れるかというと、慣れるわけはない。
裸に近い男女が、夏の砂浜でしか許されない距離感で、べちゃべちゃと触れ合いながら駄弁っている。
こちらとしては虚無の心で機械のように対応するくらいだ。
「はーい、塩焼きそば二人前上がり!」
紙皿にプラのフォークを添えて差し出すも、なかなか取りに来ない。二度呼んで、やっと取りに来る。チーターのくせに、動きが遅い。
俺の差し出す皿をめんどくさそうに受け取り、小さく舌打ちする。おいおい、俺を嫌うのは勝手だが、仕事中くらい私情を挟むな、団塊の世代かよ。
だが、チーターはくるりと身を翻すと、愛嬌のある笑顔で、塩焼きそばを運ぶ。
「はあ」
ため息もつきたくなる。
初対面からずっと嫌われ、取りつく島もない。しかも、チーターはここのバイトメンバーではそこそこ人望があるらしく、概ね雰囲気や流れを作る。チーターが露骨に俺を排除するせいで、友達さえできやしない。友達さえできやしない(確信)。
友達ができないという責任転嫁はともかく、居心地が良くないのは確かだ。救いは、年長者でリーダーたるヒグマ先輩が徹頭徹尾中立を貫いていて、しかもけっこうな抑止力になっているから、物理的な嫌がらせにまで発展しないことだろうか。
「九頭川君、大丈夫かい」
「今のところは。リーダーがいてくれますから」
「そうか」
基本的に寡黙なヒグマ先輩は、俺が作業を一通り覚えると、あまりしゃべらなくなった。だが、そこそこ信頼してくれているようだ。
違うな、チーター先輩以下シンパが役に立たなさすぎるのだ。隙あらばサボり、水着の女性客卓に長居し、忙しくても厨房を助けようともせず、客が多くても緩慢で、そして。
「やー、もう、猪狩先輩やめてくださいよぅ」
そして、上地にちょっかいを出す。
上地のすらっとした脚を出した格好も、いざ水着の客が入り乱れると、いたって普通に見えるから不思議だ。
チーターはすれ違う時や待機の時はだいたい上地の隣にいて、さらっとボディタッチしていく。俺が気づいているだけで一日何度もあるのだから、きっと見えない回数を合わせると、もっと多い。
普通なら、セクハラだ。
被害者が、訴えさえすれば。
だから、訴えなければセクハラにならない。どれほど、傍目に見苦しくとも。
「ホントは触ってほしいっしょ?」
「もー、サイテーですよ」
太ももをスリスリと撫でる手を、パチンと払う。
だが、嫌がっていない。
頬を赤らめて、恥じらうふりをするだけ。
別に、どこかの誰かが熱に浮かれたバイト先で、ひと夏のケイケンをしてもお好きにどうぞ、としか思わない。たとえそれが、知り合いや友達だったとしても、だ。
どう考えてもクソな男に、刹那的に遊ばれるのも、良い経験じゃないか? これが、そうだな、佐羅谷や宇代木なら、喧嘩になっても止めただろう。なんとなく、嫌だ。理屈ではない。
だが、今は上地しおりだ。
一年の時の知り合いで、何かとつっかかってきて、手前勝手な正義感を振りかざす女。どうせ、俺が何か言ったところで聞く耳はない。得意の空手で、いざとなったらどうにかするだろう。
見て見ぬふりで、鉄板に向き直る。お客さんは途切れない。
「さすがに、目に余るよねぇ」
ぽつんとしたヒグマ先輩の呟きは、俺にだけ聞こえる小声だ。俺は他人事のように聞いていた。他人事なのだから。
終始穏やかなヒグマ先輩の横顔が、わずかに苛立ちを含んでいるのを、見逃さなかった。
何ができるわけでもないというのに。
宿題は、夕飯が終わってから、食堂の隅でせこせこと進める。自室に机もあるが、なんとなく窮屈な拘置所のようで、居心地が悪い。
正直いうと、一日働いてから宿題に向かうのはかなりきつい。ひたすら眠い。部屋なら一瞬で眠りそうだ。ここなら人目があるので、寝ていたら誰か起こしてくれるかもしれない。
スマホにイヤホンを差し込んで、小さな音で音楽を垂れ流しながら、面白くもない宿題をやる。
俺の他に、食堂で勉強する影はない。
もとより高校生が少ない。バイトへ来ている面々は、ほとんど大学生らしい。大学生は宿題がないのか、それはうらやましい。
じゃあ、高校生より長い休みを、大学生は何をして過ごすのだろう。バイト? 旅行? ばかばかしい。時間の無駄だ。今は酷暑も酷寒も、文明の力で克服できるのだから、なるべく休みなく勉強して、四年もかかる大学を二年くらいで修了したほうがいいに決まっている。そのほうが、授業料も安く済むし、さっさと社会に出られるし、若いうちに稼いで貯蓄できるし、早くに結婚して所帯を持てるし、いいことづくめだ。
「あー、さっさと、独り立ちしたいなあ」
覚えているかどうかでしか答えられない、あまりにもつまらない世界史の解答欄を埋める。グーグルに尋ねたら一瞬で答えの出ることを覚えて、何の意味があるのだろう。
「しっかし、山崎は来ねえな」
もうバイトが始まって一週間近くなるのに、山崎は夕飯から風呂に入って寝る、というメシフロネルの高度成長期時代のサラリーマン男性のような企業戦士と化している。
「九頭川、宿題しようぜ!」と野球に誘う魚介類家系アニメに出てくる友人のように意気揚々と肩をぶつけてきたのは、初日だけだった。
あのやろう、絶対宿題見せてやらねえぞ。
一度、チーター先輩率いるチャラい奴らに誘われて、大富豪とかウノとか麻雀(なんでこんなもの持ってきてるんですかね)に誘われた時は、就寝前までギンギンに目を血走らせていたくせに。まあ、俺もあの日は参加していて、楽しんだけどよ。
(あの時も、リーダーはいなかったな)
リーダーの実家は多分このあたりなのだろうが、みなと一緒に寮にいる。義理堅いというか、お目付役を意識しているというか、俺としてはありがたい。
何しろ、寮は食事が片付くと、大人がいない。大学生はほとんどが成人しているが、管理できる者がいない。だから、リーダーが目を光らせ、抑止力になっている。
そして、ヒグマ先輩の由来になるあの体格。やはり、体の大きさは無言の暴力だ。チーターやキツネも、面と向かっては敵対しようとしない。疎んじているのは態度で見え見えだが。
だいぶ時間が経った。
今日も今日とて、山崎は姿を見せない。
社会の宿題は切りのいいところまで進んだが、さて続きはどうするか、少し思案していると、寮の玄関の引き戸が軋む音がする。
遠く耳を苛む喧騒が、じょじょに近づいてくる。
例のややこしい面々がガヤガヤと食堂に入ってきて、適当なところで騒ぎ始めた。
「……で、よう、もうこっちの言うがままよ」
「それマジすか」
「マジよ、マジ。なんでも奉仕してくれるさ」
「はー、うらやましいっス……」
声が大きいのも、下劣な内容も、よかろう。禁止する言われはない。勉強の集中力も切れていたところだし、部屋に帰ろうと荷物を片付ける。
今日は、これが区切りだ。
「おい、九頭川、帰んのか」
「キリもいいんで、寝ます」
「こっち来いよ、飲んでけ」
「高校生になに言ってんすか」
「なんでえ、高校生が飲まずに誰が飲むよ。これだからいい子ちゃんはよぅ!」
関わるのも面倒だ。
無視して部屋に帰ろうとすると、かぁぁん! と目の前に潰れた空き缶が落ちてくる。頭上を超えてきた。
「わりい、わりい、捨てといてくれ」
後ろで、きゃははきゃははと手を叩いて下品に笑う声が響く。
ゴミ箱は、おまえらの方が近いだろうが。
俺が缶を拾い上げて、無意識に睨みつける。
しまった。
思った時には遅い。
チーターの表情がアルコールの赤さを残したまま、牙を剥いて険しくなる。
自分の目つきが悪いことを、忘れがちだ。佐羅谷も宇代木も何も言わないし、山崎や神山も怖がったり目を背けたりしない。
違うな、俺は、彼らに酷い視線を向けたことがないんだ。だから、俺の目つきが恐怖や威圧を与えることはなかった。
チーターたちは、久々に、俺の嫌いなタイプだ。遅いと知りつつも、前髪を撫でつけて瞳を半分隠す。
「なんだ、おまえ。あ? 文句あっか?」
「別に、何も」
関わりたくない。
痛いのも怖いのも嫌だ。余計なこともしたくない。空き缶を捨てるのはいつでもいいだろう。奴らの横を通りたくない。
逃げた方がマシだ。
「おまえたち、騒がしいぞ」
身を翻した俺は、声の主の腹に抱きとめられた。
「リーダー」
ヒグマ先輩は肩をいからせていた。
少し動悸が早い。走ってきたのだろうか。だが、声には噯気も出さず、俺の手から空き缶を奪い取る。
「酒は、ほどほどにしろ。それから、そのタバコはしまえ。寮内は電子タバコも禁止だ。契約書は読んだだろう? あまりひどいようだと、それなりの対処をすることになる」
リーダーは堂々とチーター一味に歩み寄る。
「迷惑かけねえ限り何してもいいじゃん」
誰かがポロリと零す。
「いま言ったのは誰だ」
普段通りの声音だが、ことばの端々がきつい。
チーターは肩をすくめる。
「わーってますって、リーダー」
「わかってないだろう。迷惑をかけなければ何をしてもいいと言うことばは、常に迷惑をかけている人間が言うものだ」
「俺らも仕事中はちゃんと働いてるぜ、リーダー。言いがかりもいいところ」
グチャン、と金属の崩れる音がした。
電子タバコをいじっていた男が、目を瞠る。
ヒグマの手の中でスクラップになった空き缶が、男の前に転がった。
「拾え。自分で出したゴミは、自分で捨てろ」
俺は殺気とか闘気というものを、初めて見た。
漫画やアニメでよくある、体から力の奔流がうねうねと湯気のように発散していく、あの空気だ。
もともと巨漢のヒグマ先輩はひときわ巨漢に、決して小さくない男たちは、ひときわ矮小に見えた。
ヒグマ先輩から滲み出る圧力が、食堂を支配する。
一人、チーターだけが汗を一筋流すだけで、行儀悪く机に座ったままこちらに向き直る。顎を動かして、男の一人に丸くなった空き缶を拾わせる。
しばらく無言で対峙する。
一瞬だけ俺を見る。
「ああ、部屋に戻ろうぜ。白けた。飲み直しだ」
チーターがキツネの肩を叩き、ヒグマに背を向ける。おう、とか、ああ、とか。小声で同調しながら、こちらには何も言わずに、食堂から消えた。
空気が、軽くなった。
一回り小さくなったヒグマ先輩が、俺を振り返る。
「すまない、怖がらせたね」
「いえ、全然。むしろ助かりました」
ほんとうに、ヒグマ先輩の介添えがなければ、どうなっていたことか。
谷垣内もそうだが、やはり俺はこういういざというときに頼りになる男が好きだ。理想の、男だ。自分には絶対に辿り着けない、理想の姿だ。
体格がどうとか性格がどうとか、なれない理由は百も思いつく。絶大な力を持っていながら、平素は誇示せず、穏やかに構えている。ところが一変、仲間の危機が訪れるや、別人のごとく力の片鱗を見せて、敵対者を追い払う。
俺の親父もそうだ。
俺の求める理想は、常に俺から遠い。
どうすれば、俺は谷垣内やヒグマ先輩や親父のように、なれるのだろう。たぶん、格闘技を習うとか、表面的なことではない。
そういうことじゃないんだ。
そういうことじゃ、ない。
「どうする、部屋まで送ろうか?」
「えっ」
これは何だ、何ルートだ。
注意すべき男のことばとして、「何もしないから」「部屋に送ってあげる」「先っちょだけ」の三つがあると平安時代の意識高い系女子のツイッター小説・枕草子に書いてあるらしいが、まさか、俺が誘われる側になるとはね!
「リーダー、すんません、俺にそっちの趣味は」
「九頭川君はときどき反応が面白いねえ。僕もそんな趣味はないよ」
なんだ、びっくりした。
「ま、男なんて飽きるくらい抱き合ったし、押し倒すことも倒されることも日常茶飯事だったけどね」
前言撤回!
ニヤリと笑うヒグマ先輩は、ジャージのファスナーを首から少し下げるそぶりを見せる。なかなかノリの良い方だ。
いやまあ、相撲か柔道ですよね? そうですよね? そうだと言ってよ、ハニー。
また二、三日経った。
海の家のリゾートバイトは、基本的に労働時間とか休日という概念がない。たぶん、厳密な話をするとさまざまな法律に違反しているような気がするが、細けぇことはどうでもいい。海の家で言うと、常に誰かしら一人が休んでいる。一応、週に一日は休める計算になる。
今日はチーターがいなかった。チーターは存在が目立つから、いないとすぐわかる。そして、チーターがいない日は平和だ。面白いことに、チーターの仲間もボスがいないとわりとリーダーの声に従う。どちらにしろ長いものに巻かれる態度は変わらないが、指示に従ってくれるだけで助かる。
ふっと店内を見回して、上地もいないことに気づく。片方に寄せたポニーテールが、チーターと一緒に不在、か。たまたま二人別々に休みを取っている可能性もあるが、ここ一週間ほどの様子を見る限り、示し合わせてのことだろうな、とは思う。
辺鄙な海水浴場のこと、周辺に遊べる場所は皆無だ。観光地でありながら遊べる場所がないというこの矛盾。もっとも、奈良県民も遊びに行こうとすると大阪まで出なければならないのだが、これもどうにかならないのだろうか。県内消費率全国最下位の業は深い。
「九頭川君、休んでいいよ」
「はい、じゃあ、失礼して」
リーダーのことばに甘えて、俺は遅い昼休憩に入る。
暑い。和歌山で働き始めてこの方、一度たりとも雨が降らない。雲さえも夕方に湧くくらいで、日中は殺人光線のような熱が降り注ぐ。
夏休みといえども、平日は若者が多いくらいで、さほどひどい人出はない。
俺は砂浜と道路の境にある遊歩道の、日影のあるコンクリートのテーブルとベンチがあるところでぐったりと寝そべる。暑すぎると、食欲が湧かない。何も食べないのは仕事に障るので、一応激辛チャーハンは作って持ってきた。暑いと、体が激辛しか受けつけなくなる。
すぐには昼をとる気にもなれず、買ったばかりのペットボトルをでこに当てたり、脇に挟んだりして、血流を冷やす。
そういえば、リーダーが休んでいる姿は、ほとんど見たことがない。
一度だけ、リーダーのいない時はオーナーがやってきた。オーナーの時は一番楽だった。さすがのチーターもオーナーがいる時には、サボったりだらけたりしない。元漁師だけあって、もう六十過ぎの小柄な初老の男性だが、赤く焼けた深い皺のある顔や、長年の海での作業で鍛え上げられた体躯は、動物的な強さを感じたものだ。
「いやあ、おまえさん、なかなか手際がいいな。いい子が来てくれたもんだ」
俺はつくづく、周囲に恵まれている。
オーナーが歯を見せてバンバンと背中を叩いてきた。悪くないと思った。
(あんまりのんびりもできないか)
体を起こすと同時に、ポケットのスマホが鳴った。ラインやメールではない。通話だ。珍しい。俺の通話は親父以外でかかってこないのに。
画面表示を見て、嫌な予感がする。
だが、滅多にないことだ。
万が一、どうしようもない危機が迫っているというのなら、寝覚が悪い。まあ、この相手がいの一番に俺に連絡してくることは考えにくいが。
「もしもし」
「もしもし、よかった、輔、出てくれた」
「珍しいな、三根。どうした」
「うん」
通話の相手は、三根まどかだ。
那知合花奏の友達の一人で、しばしば上地とつるんで俺のところまで来ていたうちの一人。名前の通り、丸っこい顔と髪型が印象的で、小柄な感じの女子だ。同じ小柄でも、佐羅谷のような美人という感じではなく、幼いかわいらしさが先立つ感じだ。上地と並ぶと、かなり凸凹したコンビになる。
一年の頃はよく一緒にいたはずだが、那知合しか見ていなかった俺には、その他大勢に近い。個人的な連絡もした覚えはなかった。
「突然ごめんね、元気してた? もうすぐお盆だけど」
「バイト中だ、要件を聞く」
世間話をする気はない。
ましてや、長年の思いが募って告白の電話だとか、デートの誘いだとか、そんな可能性は微塵もない。
「電話してくるなんて、よほどだろ。どうした? それとも、現時点で誰かに聞かれているのか? 咳払いの回数でイエスかノーかと答えさせたほうがいいか?」
「……輔は、ほんとに鋭いね。さすがに誘拐されたり閉じ込められたりしてるわけじゃないよ。むしろ、閉じ込められてるのは、そっち」
「こっち?」
「しおちゃん、いるでしょ」
しおちゃん、上地しおりのことだ。
「助けてほしいの。助けてあげてほしいの」
「あいつは、元気だよ。青春を満喫してるよ。アオハルと言っていい」
「わけがわからないよ」
緊張が少しほぐれ、スマホの向こうから軽く笑いがこぼれる。
「ナチコと悠人くんが付き合ったのは、知ってるよね、鴨都波神社に一緒にいたんだから」
「そうだな」
那知合と谷垣内は、夏休み前、鴨都波神社のススキ提灯祭りで、演出過剰な告白劇を演じてみせた。
大した奴だよ、谷垣内は。あんな大規模な祭りを利用して、やりすぎな感じもするが、サプライズとしては完璧だ。付き合うことは出来レースの二人だったとしても、一年以上待たせたお詫びにはなったんじゃねえか?
俺はもう別に那知合に思うところはない。二人に対して、嫉妬もない。はず。
「ナチコがさ、幸せそうなんだよ。それはもう、背後にお花畑が見えるような感じでさ。もともときれいだったけどさ、さらに柔らかく、なんていうかな、幸せのお裾分けみたいな、温かい空気をふんだんに振りまいてさ」
どちらかというと、気の強いギャル的な美人だった那知合だが、なるほど、恋する少女がそういうふうに変わったか。
「いい変化じゃないか。友達をないがしろにするわけじゃないだろ?」
「多少は、女子同士で集まりにくくなったけど、ナチコはそんな冷血じゃないよ、悠人くんもね」
「それがどうして、上地につながる」
「ほら、しおちゃんって、ナチコと似てるじゃん? 雰囲気とか性格とか。わからなかったけど、しおちゃんってけっこうナチコをお手本にしてたみたいでさ、急に変わったナチコに戸惑って、急に、そう、急に、おかしくなっちゃったんだよ」
捲し立てて、詰まりながら、声を嗄らして訴える。
「ストーリーとかツイッターとか、見てないでしょ」
言わずもがなだ。
「今のしおちゃん、変なんだよ。彼氏欲しいとか、恋がしたいとか、そんなのばっかり、それも、誰でもいいとか、手当たりしだいとか、そういうふうに取られてもおかしくないような発言ばかりしてるんだよ」
言われてみると、腑に落ちる。
こちら和歌山のバイトで見る上地は、異常だ。恋に恋する乙女とか、かわいらしい姿ではない。友達から仲間外れにされるのが怖くて、焦って追いつこうとしているように見える。
しかし、SNSで心情を吐露するのはまずい。仲間内のよく知った友達や善意の第三者だけが聞いている閉じた世界ではないのだ。鍵をかけていない限り、世界中に自分のことが知られる。
上地の焦燥を、もしも悪意ある人間が感づいていたら?
「危ういな」
「お願いだよ、輔だけが頼りなの。今のしおちゃん、もう私の言うことなんて聞いてもくれないし、ナチコも一度痛い目を見たらいいとかいうし、私、どうしたらいいのか」
「正直、俺も那知合と同意見だな」
電話の向こうで、ことばが止んだ。
「だいたい、すでに他人のフリをしろと言いつかっている。上地は相当、俺のことが嫌いらしいぜ」
「輔はそんなに冷たい人じゃないでしょ?」
「一番仲良しの三根が言って聞かないのを、なんで俺がどうにかできると思うんだよ」
「近い存在だから、反発する、本当のことを言えない、助けられない、そういうこともあるでしょ? お願い、しおちゃんを助けるためだと思わないで、私を助けて。私のために、動いて」
「おまえなあ」
声が半分泣いている。
知っている女の子が涙ながらに訴えて、なかなか拒絶しにくい。ほんとうに、女子は卑怯だ。男が泣いても、気持ち悪がられるだけだと言うのに。
「輔、お願い。輔しかいないの。なんでもするから」
「だから、女が軽々しくなんでもするって言うな」
「友達が傷つくことに比べたら、自分が傷つくほうがマシだよ。輔だって、そうでしょう? もし佐羅谷さんや宇代木さんが危険な目に遭っていたら」
考えるまでもない。
今の俺にとって、最も大事な二人だ。何かあれば、全力をもって救う。自分が傷ついてまでも、とは即答できないが。特に、宇代木は。
「わかった。恋愛研究会の九頭川輔として、三根まどかの依頼を受ける。部活だから、見返りはいらない。ただし、成功を保証はしない。依頼内容は、上地しおりが傷つくような恋愛は阻止する、でいいな?」
「輔、ありがとう。ありがとう。ほんとにありがとう。やっぱり、輔は輔のままだったんだね」
「いいから、泣くな。とりあえず、上地の様子で変なことがあったら、連絡をくれ。こちらは、最悪の事態だけは回避するように努める」
厄介なことになった。
どうして休みなく働いている中、よけいに気を遣う業務を受けてしまったのか。つくづく、女の頼みには弱い。これは間違いなく、親父の血だ。
なんでもする、か。
少しもったいなかったかな、と思ったが、なんとも思っていない女子に何かしてもらっても、何も嬉しくない。なんでもしてもらいたい相手は、俺には手が届かないままだ。
激辛チャーハンをかきこんでいると、また電話が鳴る。表示も確かめない。
「あー、もしもし? なんだ、まだ用があるのか?」
「YO! YO! 用があるよう! ちゃおー、宇代木天だよう!」
「用はないよう」
「あー、待って、切らないでー。くーやん、いま暇だよね? お盆明けたら、恋愛研究会でー」
「俺は夏休みいっぱい和歌山でバイトだ。じゃあな」
「は、え、何、!」
通話を強制終了し、スマホをマナーモードにする。しばらくしつこく震えていたが、やがて諦めたのか連絡が止まる。勝った。
どうせ、宇代木の電話など、碌なことがない。せめてバイトをしていなくて、地元の高田に残っているのなら遊びに誘われるのもやぶさかではないが、現状を説明するのは面倒なだけだ。最終的に、断るしかないのだから。
海の家に戻る前、ちらりとスマホの通知に現れた宇代木のメッセージのバナーを見ると、殺意に溢れたスタンプが見えた気がした。くわばらくわばら。
夜、誰もいない食堂、宿題に励む俺どう? 高校生の鑑。遊びに行けない繁忙、友達もいない絶望! 彼女不在の僻み。
脳内で無意味にラップを流しながら、一時間経過する時計。一向に捗らない宿題は文系。
国語は、苦手だ。
小説を読むのは好きだが、作者の気持ちも行間も、出題者の意図も、なんなら自分の気持ちさえもわからない。
(一服するか)
タバコも吸えない高校生の一服など、綾鷹を口に含んで苦み走った顔をするだけだ。
そういえば、夕飯時に上地もチーターもいなかった。別に必ず食堂で食事をとれという決まりはないが、俺は夕飯後からずっと食堂にいる。食堂の前を通らないと、寮へは行けない。二人は今日休みだったわけで、ということは、まだ帰ってきていない。
夏盛りといっても、すでに空は暗い。遅くまで出歩いて、元気なことだ。
食堂の入り口の横にある自販機に近づこうと腰を上げる。
不意に自販機の陰で、何かが動く気配がした。宿題に向かっているときはわからなかったが、ボソボソと話し声がする。自販機の横はちょうど袋小路で、管理人室があるが消灯後は誰もいない。用がなければ、人目につかない場所だ。
俺はスリッパを脱いで、無音で自販機に身を寄せる。
「うん、やだぁ、誰か来たらどうするんですか」
「食堂も暗いって、もうみんな部屋にこもってるぜ」
「でも、あ、もう」
まずい、と思った。
俺は食堂の端っこで宿題をしているので、灯りをつけていたのは一ヶ所だけだ。この自販機横の暗がりからは、常夜灯くらいにしか見えなかった。誰もいないと勘違いしても仕方がない。
しかも、自販機のヴーンという低い唸りが、俺の物音を消してしまっていた。
隠れたり潜めたりする必要はないのに、なまじ間近まで来たせいで、音を出せない。
「今度、また連れてってくださいよ」
「ああ、どこでもな。ほら、こっち向けよ」
「ん……」
姿は見えないが、秘めた声はよく聞こえる。
随分と遅いお帰りの上地とチーター氏。
どうせイチャイチャするなら、公共の場ではなく屋外か自室でやってもらいたいものだ。ただ、寮の女子部屋区画は男子禁制なので、さすがのチーターも入れないだろうが。
俺は動きようのないまま、自販機の横に身を潜めていた。
二人の睦まじいというよりは生々しい秘事が、度を増していく。
(さすがにまずい)
三根からは、上地の傷つくような恋愛は阻止することを約束したが、今のところ「合意なき」恋愛とは言えないだろう。どだい、恋愛は多かれ少なかれ傷つくものだ。いくら見るからにチャラいダメ男相手でも、邪魔するのは野暮すぎる。
食堂に戻ろうと腰を上げる。
ブルルル。
スマホが震えた。
自販機の唸りとは別の音に、物陰の二人も気付く。甘い会話が止まる。
「誰だ」
あからさまに不機嫌なチーターの声。
しまった。
俺は手に小銭を握り、いかにも今ここへ来ましたというふうを装って、驚いてみせる。小銭を入れると、自販機の電気がついた。
険しい表情のチーターと、慌ててシャツ裾を直す上地が見えた。
「なんすか、喉渇いたんですよ」
自販機に向き合って、綾鷹のボタンを押す。ガコン、とペットボトルが下に落ちる。
「ふん」
俺のことばを信じたのか信じていないのか。散々に顔だけで威嚇だけして、俺の耳元、小声でつぶやく。
「おめえみたいなチキンは、覗きがお似合いだ」
いやらしい。上地には聞こえない音量だ。
当の上地は、陰で俯いたまま表情が見えない。
「おい、行くぞ。さっさとしろ」
「あ、うん」
大股で部屋に向かうチーターは、ぞんざいに上地を呼ぶ。下を向いたままで俺には一瞥もくれず、上地は前を通り過ぎていった。
舌打ちは、幻聴か現実か。
俺にはわからなかった。
一人暗がりに取り残された俺は、綾鷹を一口含んで、スマホを取り出す。三根からの連絡だった。
『しおちゃん、彼氏できそうって言ってるんだけど、大丈夫?』
鼻から嘲笑が抜けそうだった。
「大丈夫かどうか、俺が知りたいぜ」
数日が無為に過ぎる。
七時起床、朝食、身だしなみを整える。
仕事が始まる十時まで、いつもはスマホのアラームで二度寝を決め込むのだが、今日は寮の中庭にあたるテラスへ行く。
朝のうちはちょうど日陰になり、涼しい風が抜ける。例えば、宿題をするには最適な環境だ。
上地が、いた。
何日か前から、上地が中庭のテラスで早朝に宿題をしているのに気づいた。
いや違う、気づいたのは山崎だ。仕事に体が慣れてきて、夕方に宿題を一緒にやるようになった山崎は、自信満々で言った。
「知っているか、九頭川。朝の八時から九時過ぎまで、中庭で勉強をしている女子がいるのだ。深い青を思わせる艶やかな長髪に、健康的に日焼けした長い手足。こちらから顔は見えないが、きっと美人に違いない」
頬杖をついて妄想を繰り広げる弛んだ顔の山崎は、その主に声をかけることさえしない。同じ高校の同級生だということも知らないのだろう。
もっとも、上地の性格から言って、山崎の好みとは合わないだろう。遠目で見るだけならば、綺麗系とも見えなくはないが、実態はあれだしな。
常にチーター一味が目を光らせ、キツネ以下アリクイ(ずんぐりむっくりでやや猫背)やカオナシ(あまりにも無個性なため記憶できない)などにも、目をつけられている俺は、上地に近寄ることさえできなかった。
「上地」
近づきたくない。
極力遠くから、声が届くぎりぎりの距離に身を潜める。
「何さ、あんたたちは人の邪魔ばっかするんだね」
顔を向けもしないが、上地のことばは少し柔らかい。この時間、チーターたちは寝ているからだろうか。
「あんたたちって?」
「知らない。あたしには関係ないし」
「なあ、」
言いかけて、淀む。
何かを尋ねようと思って、尋ねなければならなくて、だがどう尋ねたら良いのか。
「恋愛相談なら、夏休み中も受け付けてるぜ」
ぽろりとシャーペンを落として、口を半開きにこちらを初めて見る。
ぷっと、口を突き出して、
「あひゃひゃひゃひゃひゃ!!!」
突然お腹を抱えて、魔王の参謀でありながら、実は影の支配者でラスボスだったキャラのような素っ頓狂な笑いを撒き散らす。
そんなにおかしいかよ。
「ばっかじゃないの、ほんとバカだ、バカ。恋愛なんて、好きって言って愛してるって言って、付き合ったらそれだけのことじゃん。いちいち、真面目にダサい理屈こねるもんじゃないじゃん。だからあんたたちは、いつまで経っても「ねんね」なんだ」
一通り笑い飛ばされる。
「それとも、何? あんた振られたの? どっち? 高飛車地味メンヘラの方? かまってちゃん似非ビッチの方? 恋愛相談って相談に乗るフリして横取りするための方便じゃん。花奏には手が届かないからって、あたし? 舐めてんじゃないよ」
!
すんでのところで、罵声を飲み込む。
一瞬、理性が飛びかけた。危ない。わりと怒りの耐性は強いと思っていたが、気のせいだった。
そうかそうか、上地のような学年の中心になれるエリート(勉強ではなく、権力の、だ)から見ると、佐羅谷や宇代木は、そういう扱いなのか。やはり、男女で全く扱いが変わるのだな。男は特定の女子について、女子社会の階級も交友もまったく気にしない。だから、佐羅谷も宇代木も非常にモテる。
俺はそのことに何の疑問も感じなかったが、属する集団がある女子から見ると、人付き合いもできない地味な、あるいは浅く広く八方美人なだけの可哀想な人間にしか見えないわけだ。
「おー、九頭川のそんな顔、久々に見た。怒った顔のほうがいいじゃん」
「心にもないことを言うな」
俺は前髪を梳いて、目を隠しながら毒づく。
「俺は那知合をなんとも思ってねえよ。もちろん、おまえのこともだ、上地」
「じゃあ、初日に言ったことを繰り返すよ。あたしに関わんないで」
「わかった。だがな、人の好意を、足蹴にするなよ」
「キモ」
強烈な拒絶を最後に、上地は宿題を閉じた。もう、いい時間だった。
「あー、誰かのせいで全然捗らなかった。最っ低」
なあ、三根。
やはり、俺のことばは通じないみたいだ。人徳の差か、交友の差か、普段の行いの差か。
なあ、三根。
もういいんじゃねえか。たぶん、今の上地は三根のことも忘れている。友達だって、永遠のものじゃないだろう? これは、そういうことじゃないのか。
人の好意を足蹴にするな、俺は、三根のことを言ったつもりだったんだけどな。少し、挫けそうだ。
それから、お盆が過ぎる。
いつも親父に連れられていく母のお墓に、今回は行けなかった。事前に言ってはいたが、いざ行かないとなると、とてつもなく悪いことをした気になる。葬式も法要もお墓参りも、残された者のための儀式だ。
親父が送ってきた、お墓に花を活けた写真に、一瞬涙が溢れそうになったのは、秘密だ。
黙ってスマホの画面に手を合わせ、目を瞑る。
不意打ちのような感情。
心の中で、一人供養する。
俺は生きているし、生きていく。
幸せになるし、幸せにしてみせる。
人は人に。
俺は人として、人間として、生きていく。
一人じゃない。
俺は、一人じゃない。
日の没するところのバイトは、つつがなきや。
海の家はお盆を境に、少しだけ来客が減った。バイト一同の慣れもあって、なんやかやで体は楽になっていた。
上地とチーターの仲も普通に進展しているようで、今となってはほぼ公認の存在だった。
リーダーであるヒグマ先輩を別格とすると、事実上のキングであるチーター先輩、その彼女扱いを受ける上地は今をときめき、肩で風を切るような堂々たる態度だった。
「上地さん、お茶飲む?」
「しおりちゃん、今度遊ぼうよ」
そんな呼びかけを聞くことが多かった。那知合のそばにいたときには得られなかった一番手という立場に、上地もまんざらではないようだった。
人間、環境に応じて短期間で変わるものだ。
(本人が拒んでいないなら)
俺の口出しすることではない。
三根からも不安のメッセージは来るが、SOSの要請はない。そりゃあ、他の男もへいこらしてくれるし、女もゴマを擦ってちやほやしてくれるし、さぞ過ごしやすいだろう。
俺は極力関わりたくないので、食堂でもお風呂でも、やつらとは時間をずらすようにしていた。学校外でも階級制度の枠外だ。アンタッチャブル。規格外すぎる自分がかっこいいぜ!
だいたい、騒がしいやつらはギリギリの時間で動く。食事も遅いし、お風呂も遅い。
その中で、チーターと上地は二人揃って消えることが多かった。……まったく、俺はストーカーかよ。
俺が食堂で山崎と宿題に励んでいると、不意に物音がすることがあった。どうやら、裏口から出ていくらしい。この夏の夜に寮を抜け出して、何をしているのやら。蚊取り線香は常備しているのかね?
平和ボケに閉口することはあっても、安穏とした環境ではあった。
だが、均衡が崩れる時が来る。
一見安定した世界は、実は脆いバランスで成り立っていたんだ。そして、原因が俺であったことが、ますます話をややこしくしてしまった。
朝、朝礼が終わって持ち場につく。すっかり手足のように馴染んだヘラをくるくる回し、準備を整える。
その時、ヌッと影が差した。
挨拶しながら面を上げたときが始まりだった。
「へい、いらっしゃ……い?」
顔を上げる。
そのまま、俺は凍りつく。
「ちゃーおー、くーやん、来ちゃった」
語尾にハートがつきそうな甘い首の傾げ方で、ベロをちろっと出してにまーと微笑む美少女。
宇代木天が、立っていた。
黄色い頭、大きな瞳、丸っこい顔。エアリーボブのゆるく巻いた髪の毛がキラキラと太陽に映える。健康的な肢体を惜しげなく晒し、強烈なビキニで立っていた。
ほぼ裸だ。当たり前だ。
ちょっと、直視できない。
いやいや待て、落ち着け、冷静になれ九頭川輔。今の今まで、同じような格好の女性はたくさん店に並んだはずだ。ひとり宇代木だけに赤面するのはおかしい。
なぜだ、なぜ、こうも恥ずかしい気持ちになるのだ?
「どったのー? なんで顔隠すのー? 赤くなってんの?」
「バス停はあっちだ」
「バスで来てないし! まだ一度も海にも入ってないし!」
「じゃあ、チェンジ」
「じゃあって何さ!?」
ぶんぶんと腕を振るな、余計なところが揺れるんだよ。制服でもわかるその動く部位は、水着だといっそうはっきりわかる。
俺はもう、顔を背ける以外の冴えたやり方を知らない。隣にいるリーダーと目が合う。さすがのリーダーも戸惑っている。
「天、チェンジよ、下がりなさい」
ああ、予想はついた。
宇代木が来ているんだ。
当然、来ているだろう。
俺はしぶしぶ正面を向く。
「九頭川くん、いったいどこでチェンジなんて表現を覚えたのか知らないけれど、きっと、高くつくわよ?」
「やめて、知ったかぶりだってバラさないで」
「どうしてくれようかしら、このサボり魔さん」
腕を組んで楽しげに微笑む佐羅谷あまねが、そこにいた。
佐羅谷は、例の麦わら帽に、パーカー型のラッシュガードを羽織っていた。セパレートの水着ではあるが、パレオが多く、宇代木ほど目に毒ではなかった。首から、肩から、胸の間から、鳩尾から、へそへ。へそに小さなピアスがあるのを見逃さなかった。
そのまま視線を下げて行こうとしたら、佐羅谷が自らの手で遮る。
「あまりジロジロ見ないでくれる? 潰すわよ、目を」
「俺はまだまだ見たいものがあるんだ、例えばおまえとか」
「埋めるわよ?」
「さっきよりひどくないですか」
「津風呂湖でいい?」
「突き落とすの間違いだろ」
「西の覗き?」
「女人禁制だろ」
「元気そうね、何よりだわ」
「夏、海、バイト、これで元気がないわけなかろ」
ため息ひとつ。
並ぶ二人を半眼で見る。
「で、なんだ。まさか、二人揃って海水浴ってわけでもないだろ。ナンパ目当てか」
「くたばる?」
「まさか、逆ナン……」
「あ、ある意味それかもー」
「まさか?」
「そうよ、ナンパしてあげるわ、感謝しなさい。呑気にバイトしているなんて、恋愛研究会の部員として自覚が足りないんじゃない? 夏休みは合宿があるって言ったでしょう?」
「えらいツンツンで斬新な逆ナンですね」
聞いた気はするが、確定事項ではなかったはずだ。だいたい、同好会でも学校から多少は補助があるとは言っていたが、雀の涙だろう。三人が合宿できるほどの余裕があるかどうか。
連絡もない状態で、俺にどうせよと。
「まったくー、くーやんの行先探るの大変だったんだよー? くーやんは無視するから、ママ経由でくーパパに連絡してもらってさー。もう、恥ずかしいのなんのって。だいたい、どーしてママとくーパパが毎日のようにラインしてるの? どういうことよ説明してよ」
俺の親父がくーパパなる愛称で呼ばれている。なんてこったい。しかも、さりげなく宇代木ママと交友を深めているだと。
「話がずれてるわよ、天」
佐羅谷が呆れながら麦わら帽を脱ぐ。
「かくかくしかじかで、九頭川くん、二日ほど合宿に参加しなさい」
「かくかくしかじかはそういう使い方をするもんじゃねえよ。いい笑顔で全部はしょって許されると思うな」
「あら、逆らう気?」
佐羅谷はいたずらっぽく頬に指を当てた。
もう海の家は開いている時間だが、海水浴客はいても、店に来る客はいない。この二人が邪魔にならない時間で幸いだった。
いつの間にか、海の家のバイトの面々も、俺たちのやり取りに注目している。嫌でも注目するよね、こんなところで拉致されかけていたら。仕事よりも面白そうなネタに、若者は興味津々だ。
「つっても、仕事だ。合宿だかなんだか知らないが、いきなり来て休めるわけがないだろう。ないですよね?」
俺は隣のリーダーを見る。
リーダーは少し遅れて反応する。
「そうだね、一日なら九頭川くんを休みにして対応できないこともないけれど」
かつらぎ高校有数の美少女二人を前にして、なかなか平然と応じるヒグマ先輩は、さすがオーナーの親戚という風格を見せてくれる。大学院生から見ると、どんな美少女でも、やはり子供なのだろうか。
「責任者の方でしょうか? えっと、かつらぎ高校の佐羅谷あまねと申します。こちらの九頭川はうちの部員でして、どうしても部員全員で合宿に参加するという実績が欲しいんです」
折目正しく居住まいを正して、佐羅谷はリーダーに向かう。
「いかがでしょう、一日お借りする代わりに、わたしたち二人が、後日一日お仕事を手伝うということで応じていただけませんか」
「やめて俺を取り合って喧嘩しないで」
「くーやん黙って」
笑顔プラス口を閉じたままの腹話術で、俺のネタ呟きは宇代木に一蹴される。
(こいつら、台本作ってきたな)
明らかに滑らかすぎる流れでこの提案だ。即席にしては淀みない。二人まったく話し合うこともなく、連携が取れている。
「いやー、しかし、九頭川くんは貴重な戦力だし、君たちを働かせるというのは……」
渋るリーダー。頼む、粘ってくれ。
今さら、俺はあの二人と同じ環境に放り出されるのは、耐えられない。俺は消えるつもりなんだ。こんなところでまた二人と長時間関わったら……また情が湧いてしまう。ここ二週間以上、顔も見ず声も聞かず、やっと別れることに気持ちが落ち着いてきたところだというのに。
「ねぇ、なんとかお願いします~」
宇代木が胸の前で祈るように手を組み、下から覗き込んで上目遣いで「攻撃」する。
攻撃だった。
狙いは、ヒグマ先輩ではない。その他奥にいる男連中に狙いを定めた宇代木のテンプテーションだ。腕に挟まれて強調された宇代木の規格外の胸が、「おぶっ?」
俺の体は思考ごと途中で吹っ飛ばされ、一瞬で男どものかいなにかっさらわれる。
海の家の隅の方へ拉致され、チーター先輩以下、キツネにアリクイにカオナシに、とりあえずリーダー以外の男どもに押さえ込まれる。暑苦しい、気持ち悪い。
「おい、九頭川後輩」
「なんでしょう、先輩」
「あのかわいい子たちはなんだ」
「部活メイトですよ」
「部活メイトって……おまえら三人なのか? いったい何部なんだ。いや、何部かなんてどうでもいい。おまえ、休め。合宿とやらへ行ってこい」
「俺にそんな権限は」
「かまわん、おまえ一人分の働きくらい、俺ら全員でカバーできる」
そうだそうだとうなずく周りの男ども。アイソレがぴったり一致しすぎていて笑える。
「そのかわり、絶対に一日、あの二人をこっちで働かせろ」
「だから俺にそんな権限は」
舌打ちすると俺の襟を手放し、チーターは気持ち悪いくらい爽やかな笑顔で、リーダーの方に向き合う。視線は、リーダーを超えて佐羅谷と宇代木に注がれている。
「なあ、リーダー、一日くらいいいじゃねえか。九頭川後輩もせっかく来てくれた部活仲間と過ごしたいってよ」
言ってねえよ。
だがキツネやアリクイに俺の体も口も封じられている。
「ううむ、だけど僕にだって海の家を管理する責任がねえ」
いいぞ、リーダー。
その責任感に感謝する。
腕組みし、眉間に皺を寄せて首を傾け唸るリーダー。いつもはふんぞり返って最低限しかも関わらないチーターは、媚びるように片目を閉じる。ときどき、佐羅谷と宇代木を見ている。
珍しい構図だった。
佐羅谷は悠然と肘を組んで、宇代木はにへーと笑いながら店の奥の獣連中に愛想を振りまいている。
俺はなすがままの囚われの姫君だった。
一人、紅一点だった上地がホールの隅でじっとしている。
膠着を解いたのは、新しい声だった。
「やあ、さすがに佐羅谷でもわがままを押し通すのは難しいか? おー、九頭川、元気かい? エプロン似合うじゃないか」
同行していて当然の人物だった。
恋愛研究会の顧問で、かつらぎ高校の保健室の権天使(物理)。推定二十七歳のグラマラスボディは、実はコスプレで維持されていることが判明した犬養晴香先生だ。
魅惑のスタイルだった。
水着の様子は、宇代木とほぼ同じビキニスタイル。肩の大きく開いたTシャツを着ていることが違うくらいだ。年齢からいうと少々キツいところもあろう露出が、ところがどうだ、この端正に整った美しい肢体。
宇代木も確かに年不相応な凸凹を有した逸材だが、まだまだ子供っぽいというか、天然素材がたまたま光っているという印象だ。一方、犬養先生のボディはまさに本人の努力と手入れとで保たれている大人のスタイル。四肢の適度な筋肉も、バストやヒップの形も、お腹の締まり具合も、成熟した大人の女だ。
こうして女子が三人並ぶと、みな恐ろしく美人だな。
「ええと、あなたがここの店長さん? 私、彼らの部活の顧問です。先ほどこちらの部員から説明させていただいたと思うのですが」
しばらくぼうっとしていたヒグマ先輩が、電撃を受けたように体を震わせる。
「は、そうですね、そうですね」
リーダーが未だかつてなく動揺している。チーターもいつもの悪ぶった険の強さが消えている。
ぶおっ。突風が起きた。
ずおん。巨体が落ちた。
俺の目の前に、リーダーが膝をついて屈んでいた。ぐぎぎ、という重苦しい効果音が聞こえそうな緩慢な動作で面を上げる。
「なあ、九頭川後輩。あの女性のお名前は」
「犬養晴香です。保健室の先生です」
「ほう、晴香さん」
何度も口の中ではるかさん、はるかさんと繰り返す。
「あの、リーダー?」
「よし、事情はわかった。後の仕事は僕がなんとかしよう。責任は取る。九頭川くん、二日ほど合宿へ行きなさい」
「リーダー!?」
ヒグマのような腕で俺を赤子のように持ち上げると、米俵のように担いで、俺を海の家のカウンターから砂浜へ放り出す。一応平均的男子の体重はあるというのに、何という膂力。
俺は女子三人の足下に転がる。
「では、九頭川くんを合宿へ貸し出しいたしましょう。条件は、後日こちらのお店を手伝っていただくということで」
「さすが、リーダー、話がわかるぜ」
チーターは突然の手のひら返しにも順応が早い。右手をいいねボタンの形にして、女子三人の前に突き出す。
犬養先生は満足気に微笑む。
「ありがとう。さ、それじゃ、みんなあちらへ行こうか。楽しい楽しい合宿の始まりだ」
海の家から見える範囲では活動しないということだろう。
渋る俺をずるずる引きずって、犬養先生は移動を開始する。後ろから佐羅谷と宇代木もついてくる。
「いったいぜんたい、どうしてこうなった」
「あたしの連絡を無視するからだよー」
「観念して、裸になりなさい」
「は、裸? やめて、ひどいことするつもりでしょう」
エロ同人みたいに! と続けようとして、言い止まる。このネタを披露するのは山崎どまりだな。女子に言うネタではない。
「な、なにを勘違いしているのよ、違うわ」
「そだよー。誰もくーやんの裸に興味ないよ」
こほんと佐羅谷は咳払いをする。
「今からペプシとオランジーナが必要なくらい遊んであげるから、水着に着替えなさいっていうことよ」
ドキッとした。
脳裏で、沼田原先輩とのバドミントンが思い出される。佐羅谷と沼田原先輩がどんな感じでつながっているのか知らないが、俺の個人情報を守るようにはなっていないだろう。
それにしても、まいった。
二週間以上離れていて、会っていない、会わない感覚にやっと慣れてきたというのに、ちょっと姿を見ただけで、嬉しく思ってしまう自分がいる。あのまま、消えてしまうつもりだったのに。決意が簡単に揺らぐ。
ああ、俺のことをなんとも思っていないくせに。ほんとうの気持ちじゃないなら、もうしないでよ。
夏の強烈な陽射しに曝されながら、冷静に冷えていく心。合宿。なんて、気が重いんだ。
水着に着替えろとうるさい女子二人に促されて、仕方なく水着を取りに寮へ帰る。その際、海の家に寄り道する。なるべく外側から、リーダーだけが感づくように遠巻きにする。
リーダーは気づいたようで、自然に外に出てくる。
こういう勘の良さはありがたい。
「どうした、九頭川後輩」
あくまで傾いた値札を正すふりをしながら小声で問う。
「上地のことを、見ておいてください」
「上地さん?」
「人目のあるところでは、何も起きないと思いますが」
「……君も、なかなか抱え込んでいるようだな」
「あとで犬養先生の連絡先を聞き出しておきます」
「それはありがたいけど、これに関しては交換条件は要らない」
はっとした。
自分の失言を恥じる。
そうだ、ヒグマ先輩は、そういう人だ。
「申し訳ないです」
「ああ、行っておいで。君には、あちらのほうが大切なんだろう? あんなに楽しそうに会話するんだね。ちょっとかわいかったよ」
「よしてください」
リーダーの冗談を受け流し、俺は寮へ戻る。着るとは思っていなかった水色の水着を着て、上はTシャツ。
夏、だなあ。
浮ついている自分に気づく。
上地のことは言えない。
俺も大概だ。アオハルかよ。
「本気でビーチバレーっすか」
砂浜の一角に、ビーチバレーのネットをしつらえていた。
ネットを挟んで、女子三人と対峙する。やはり俺は孤独が似合う。
「ツッコむところしかないんですが、恋愛研究会でビーチバレーは」
「九頭川、合宿なんてのは、部員同士の交流が目的みたいなもんだ。特におまえは二年からの参加だからな、これを機に二人と仲良くしなさい」
「仲良くねえ」
ネットの向こう、佐羅谷と宇代木がにまにまと楽しそうだ。
本心は知らないが、仲良くはできた気がする。ただし、二人とも本来は俺が近づけるような相手ではない。外見でも、性格でも、人望でも、遥か高みだ。俺はあくまで偶然に偶然を重ねた偶然で、二人に知り合えて、よくしてもらっている。
そんな関係だろう?
「だが、三対一は気の毒かな。ふむ、九頭川。勝ってうれしいはないちもんめ、負けて悔しいはないちもんめ、だ。誰が、欲しい」
「犬養先生、先生の時代は許されたかもしれませんけど、それ今の時代やるとイジメで」
「知っているか、九頭川。人間は普段潜在能力の三割しか使えないが、ある種のキーワードで十割の力を発揮できるようになるらしいぞ? 外しと言ってな。味わってみるか?」
「さー、誰にしようかなー天の神様のー」
犬養先生はときどき洒落にならない顔をするから怖い。飄々としているから、ついつい言い過ぎてしまう。無意識に地雷を踏んでしまう。
「九頭川くん、人を選ぶのに、神様を使うのはやめなさい。あなたの意思で選びなさい」
佐羅谷は麦わら帽のつばを抑えながら、鋭く睨む。マジか。
ネットの向こう、輝く太陽にキラキラ光る海を背景に立っている三人を、改めて見比べる。
ひときわ小柄で華奢で、日焼けしたくないくせにセパレートの水着を着て、ラッシュガードと麦わら帽で防御するアンバランスな格好の佐羅谷。シャンディガフの苦味だ。
いちばん長身で豊満で、日焼けも厭わないビキニ姿で胸を反らす。太陽がそのまま擬人化女体化した天真爛漫の宇代木。スクリュードライバーの甘くまっすぐな酸味。
自分で体型を維持して魅惑的に見せることを是とするグラマラス。南国リゾートにいても遜色ない大人の色気あふれる犬養先生。ソルティドッグの青が似合う。
(まあ、俺は未成年で酒など飲めないが)
誰を選べって、そんなもの、決まっている。選びたい相手は、決まっている。選べないことも、決まっている。
知っているか? 体育の授業や英語のコミュニケーションで「好きな相手とペアを組め」と言われた時、はみ出したものは先生と組むんだ。柔道を先生とやって勝てるわけないだろうが。体罰かよ。
キモオタヒキニートの山田仁和丸(40)おじさんなんて、先生さえ嫌がって、隅っこで休んでろって言われたってよ。残酷すぎる。
「犬養先生、お願いします」
三人は、微妙な顔をした。
なんだ、間違ったか。
俺はこれ以上ない選ぶべきではない選択問題を仕方なく回答し、最上の解を示したつもりだ。
ふうむ、と犬養先生は面白くなさそうにセミロングの髪をくりくりといじる。ゆっくりとこちらの陣地へ歩を進める。
「小僧、そりゃあ悪手じゃろ」
「あくしゅ? 手なんかつないでないですよ」
「ん、じゃあ恋人つなぎがいいか?」
「やめてください、セクハラですよ」
隣に移動した犬養先生の手が伸びてくるのをかわす。油断も隙もない。
「ああ、そうか、よくわかった」
犬養先生は手を打つと、俺に耳を寄せる。ネットの向こうの二人に目をやりながら、聞こえない小声だ。
「あの二人があられもなく息を切らせて動き回る様を見たかったってわけだな。いやあ、九頭川も男の子だったんだな」
「俺は最初からずっと男の子ですよ。だから、先生はあまり近づかないでください」
「んー? なんだ、君から見たら、私なんておばさんだろ?」
心にもないことを。
服の関係上、どこかを触って押し返すわけにもいかず、近づく顔をのけぞってかわす。なんだろう、この香り。犬養先生の首かうなじから甘く、蠱惑的な、と考えていると。
ビシュっと鋭い音が鼓膜を打つ。
さっと身をひいた犬養先生のいた場所に、ビーチボールが直撃する。
ネットの向こう、闘気が立ち上る女子二人が立っていた。いやいや、おまえら、世界線が違うから、ここはそういう世界じゃないから。
「くーやん、センセから離れてー」
「俺からは一歩も近づいてないって」
「九頭川くん、あなた、ほんとうにマゾヒストなのね」
「語弊のある決めつけはやめい」
コートの周りには、遠巻きではあるが、そこそこ野次馬が集まっている。そりゃあ、これだけの美人が三人もいるんだ。男女組なら気兼ねしようが、男だけのグループなら、遠慮なく見学しに来るだろう。
そして俺にだけ刺さる妬み嫉みの視線がひたすら痛い。
「よーし、じゃあ、始めるぞー! 負けたほうは、そうだな、後で飲み物でも買ってきてもらおうか」
砂浜に転がるボールを拾い、犬養先生は楽しそうだ。佐羅谷が麦わら帽を横へどけた。それが、合図だった。
ビーチバレーは過酷なスポーツだ。
ただし、俺たちのビーチバレーは水遊び用のぽよぽよボールで、速度も出ないし当たっても痛くない。
しかし、砂浜を走り回るのがこんなに体力を奪うなんて。
広くはないコートを、二対二で縦横に動き回る。最初は調子に乗ってしゃべりながら余裕ぶる。
だが、ものの数分だ。
まず、佐羅谷の脚がカクカクしてくる。
「おいおい、佐羅谷、もうへばったか?」
「全然、余裕ですよ」
犬養先生の煽りに、佐羅谷は弱々しくアタックする。腰が入っておらず、ボールは狙い定まらない。
「生まれたての子鹿みたいだな、見たことないけど」
「九頭川くん、後で覚えておきなさい」
睨んでくる顔も力がない。
俺が少し強いサーブを放つと、佐羅谷の顔面にヒットした。ボフっという音がした。
「あ」
体力がないくせに余計なことをしゃべるから。
「うっわー、くーやんひっどーい」
「顔とセリフが一致してねえよ、宇代木。その顔は、プーックスクスって顔だ」
「九頭川は意外と手加減しないタイプなんだな」
「この二人相手に手加減するのは、かえって失礼でしょ」
「やー、でもあまねに容赦しないってなかなかないよねー、男子はこういう女子に甘いじゃんかー」
「佐羅谷は、そういう特別扱いは好まない女だと思うぞ」
ちらっと尻餅をついている佐羅谷を見る。ボールを顔の前に抱えたまま、ぷるぷると震えている。膝が緩く開き、細く白い足の付け根が見えそうで、思わず顔を逸らす。
「ほんと、ばか」
佐羅谷は砂を払いながら立ち上がり、宇代木にボールを渡す。
「?」
「あの平等主義者に天罰を」
なんて理不尽をおっしゃる。
「わかった! くーやんにお見舞いだー」
宇代木はボールを上に投げ、サーブをしようとする。
ボールの行方も気になるが、視界でチロチロと動く佐羅谷が目障りだ。じっと俺の方を見ているのだ。気が散る。
宇代木が腕を振りかぶった瞬間、佐羅谷は宇代木の背後に回り込み、豊満な胸を後ろから鷲掴みにする。
「ぶっ」
「ひゃい!?」
深窓の令嬢にあるまじき行為。
佐羅谷も、友達と合宿という環境にあって、ちょっとばかり箍が外れ跳んでいるのかもしれない。
とりあえず、女子のじゃれあいは美しいものだが、反射的に目を伏せる。見てはいけない気がする。
コートの外からひゅうっと口笛やら何やら聞こえる。なんだかちょっとうっとうしい。耳が研ぎ澄まされる。
バシュ。
ボールを打つ音がした。
遅れて、俺は顔面にボールを受けた。
デジャブ。球技大会でも似たようなことが。腰が砕けて、砂に尻をつく。
ゆるく目を開ける。
「さあ、ひざまずきなさい」
ネットの向こう、肘を抱えて、佐羅谷は楽しそうに見下ろしていた。隣では涙目の宇代木がぶつぶつ言いながら水着を直していた。
(なんて言うか、楽しいな)
まったく、現金なものだ。
今やっていることは、将来性もなく生産性もなく経済的でもなく、人生において一切役に立たない。ただの、遊びだ。暇つぶしだ。
似たようなことは、一年生の時もやってはいた。谷垣内の友達として、何人かの男子と一緒に、いろいろと遊び回った。あれはあれで楽しかったし、あの時はこれこそが人生だと思った。
そう思わないと、自己暗示をかけないと、耐えられなかった。
今日の楽しさは、なんだ。
人だ。
一年の時との違いは、人だ。
楽しいかどうかは、何をするかではない。誰とするかなんだ。
俺は一つ、賢くなった。
そして十五分ほど過ぎて、コートで立っているのは宇代木だけになっていた。
残る三人は、俺も含めて、足がかくっと折れたり、ピクピクして動けなかったり、情けない体たらく。
「うーん、これって勝ちっていうのかなー」
宇代木は眉を寄せ、首を傾げる。
とりあえず、コートは他の海水浴客もいるのでそうそうに引き上げ、いつの間にか用意していたパラソルの下に退き上げる。
「個人戦ではないのにな」
佐羅谷と犬養先生は飲み物を買いに行った。
俺と宇代木はパラソルの下、横に並んだビーチチェアに寝そべる。
すぐ隣の宇代木の体の凹凸を考えないように、俺はまっすぐ海を見ていた。和歌山のさほど綺麗でもない海。海なし県民にはそれでも物珍しい。寄せては返す波の音を、ずっと聴いていられる。
宇代木はいつの間にか白いパーカーを肩にかけ、少し背もたれを起こし、波音に合わせるように頭を揺らし鼻歌を流していた。
「くーやん、久しぶりだねー」
「そうだな」
終業式の日に宇代木と会ってから、しばらく連絡もしていない。高森の件でコスプレや名古屋行きの同行は、常に佐羅谷だけだった。宇代木は東京のコミケ(?)のために、追い込みがかかっていたはずだ。
「夏休みは、楽しめましたかー?」
「今まさに楽しんでるよ」
「楽しい?」
「楽しい」
自分でも驚くほど素直に答える。
「そっか、よかった」
宇代木は前を向いたまま、お腹の上で手を組み、指を所在なく動かしている。
「あのね、あのね、くーやん」
「うん」
宇代木にしては、妙に歯切れが悪い。逆光で表情は窺えない。
「約束、覚えてる?」
約束、あったようななかったような。
「佐羅谷を傷つけない、というのなら」
傷つけたかどうかは、俺にはわからない。
「違くて! 違わないけど、違くて!」
宇代木が俺の真上に身を乗り出す。おい、やめろ。その上半身の爆弾を俺の上にぶら下げるな。
「そ、そうじゃなくてさー、あったじゃん、終業式の日の、部室の前でさ」
「終業式、部室の前……ああ、回答用紙をぶっちゃけた日か」
「覚え方がサイテーだ!?」
「お祭りに行こうって話だったな」
「覚えてるんだ」
「おまえは覚えていてほしいのか忘れてほしいのか、どっちなんだ」
「覚えてるなら仕方ないね、行こうね」
「そうだな」
今日の今日で、わかった。
案外この二人と、あるいは犬養先生まで含めて四人で行くのはどこであっても楽しいかもしれない。
「気心の知れた部員だけで行くのも、楽しいかもな。前回の鴨都波神社は用事みたいなもんだったし」
「そうじゃなくてー!」
宇代木がバランスの悪いビーチチェアで身をよじり、俺のチェアの上から覆い被さろうとする。ガタガタと揺れる、軋む。
危ない、やめろって。
「ずっと、言わなきゃ言わなきゃって、あたし、でも、なかなか言えなくて」
顔は影で見えないが、声がいつもと違う。
真剣な空気を感じ、俺は抵抗を止める。
宇代木も、じっと凍りついたように動かない。
波の音が消えた。
しかし、静寂の帷が訪れ、自分の心臓の音が聞こえるほど、宇代木は何も語らない。いや、喉は動いている。口も動いている。声が出ていないのだ。声にならないのだ。
いくらか、時が過ぎた。
頭上から、砂を踏む足音が近づいてくる。
「ここはアスレチックじゃないのよ、レンタル品を壊さないようにね、天」
「あは、おっそーい、やることなくて、くーやんとイチャイチャするところだったよー」
「九頭川くん、猥褻物陳列罪で検挙されたいの?」
「天国のお母さん、この国は男女差別がなくなりません」
「安心なさい、女性でも同じ罪状で捕まるわ」
飲み物を買ってきた佐羅谷が、俺たちの頭上にやってきた。
よくわからないが、宇代木も元の宇代木天に戻ったし、絡まれるのも終わったし、助かった。
ふう、とチェアの上で体を起こす。
「さ、九頭川くん、よく振ったペプシがいい? それとも口をつけたオランジーナにする?」
「そのネタはどこかで聞いたよ」
俺は話半分でオランジーナをひったくり、するっと一口飲む。
オランジーナが最初にコンビニで並んだ時は、そのえも言われぬ味に感動したものだが、翌年の改悪で味が変わり、普通のオレンジ炭酸に成り下がったのは残念な気持ちだった。それでも数多あるオレンジ飲料の中では出色の出来なので、一番好みだ。
俺が感慨に耽りながらのペットボトルを脇へ置くと、呆然とした表情で女子二人に見られていることに気づいた。
「なんだよ、お金なら払うよ」
「くーやん、違うよー。今とった方って」
「いいわ、天。気にしないなら、別に、なんでもないわ」
ジト目の宇代木と、口元を隠してそっぽを向く佐羅谷。
「え? え? すまん、待って、よく聞いてなかった。もしかして、口をつけた方って」
「あー、黙りなさい」
ことさら大きな声、佐羅谷は麦わら帽を深くかぶる。
そういえば、フタが軽かった気がする。しまった。やらかしたか。
俺はいいんだ。むしろいいんだ。
佐羅谷にとってはまずいかも知れない。自分が口をつけたものを軽々しく他の男に差し出す女だなんて、宇代木に思われたら。
いや、でも女は男女の友情があると本気で信じているらしいし、この程度は友達なら許されるはず。たぶん。俺は男同士で、口をつけたものの分け分けは嫌だけどな。
「くーやん」
「あん?」
「それちょうだい」
「いやしかし、もう半分くらいしか」
「いいからちょうだい」
「……はい」
そして、俺のオランジーナは宇代木に奪われた。
佐羅谷は黙って俺にペプシを差し出す。
後から来た犬養先生は、ファンタグレープとコカコーラを持って、無言の俺たちに怪訝な顔をしていた。
それにしても、どうするよこの砂糖たっぷり炭酸飲料ばかり。もうすぐ昼どきだっていうのに、ご飯が入らなくなるぞ?
それからも、夏の定番だった。
スイカ割りをした。スイカ割りなんて、昔のギャグ漫画にしかない風習だと思っていた。リアルでできるなんて思わなかった。スイカ一玉の価格に驚き(犬養先生が経費で落としてくれた)、目隠しして棒を振るうという稀有な体験をした。俺が顔だけ出して埋められて、棒で殴られる遊びでなくてよかった。
軽く昼ごはんを食べ、シャワーを浴びて着替える。三人が泊まっている宿舎へ行き、休憩する。十五畳くらいの広い畳の部屋で、海が見える側に広縁がある。けっこう贅沢な眺めの部屋だ。
昼のうだるような暑さも、窓を開け放しているとほのかに涼しい風が肌を撫で、耐えられないほどではない。
「さて、では第二回恋愛研究会の合宿を始めよう」
広縁を背に犬養先生は立ち上がる。
七部丈のパンツに、カットソー。相変わらずのシンプルで色気のない、落ち着いた格好だ。メイクも最小限で、いくぶん幼く見えた。
部員三人は、二畳分ずつ間を空けて、正三角形の頂点に座っている。少し意外だったのは、佐羅谷がパンツで、宇代木がスカートだったことだ。しかし、女子はいいよな、服にも色々な種類があって、好みのものを事細かに選べる。男物なんて、同じものしかない。
「九頭川、女子の足首ばかり見てないで、先生の話を聞きなさい」
「見てないっすよ、服しか」
「服は見ていると認めるあたり、絶妙だな」
呆れて肩をすくめる犬養先生。
女子二人が何かもぞもぞしているような気がしたが、別にそんなただ見てるだけで警戒すんなよ。男の本能的なもんじゃねえか。
「まあいい。九頭川」
先生は、その場でくるりと回転すると、鷹匠のように片腕の肘を張って、まるで鳥がとまっているかのようだ。にしし、と悪だくらみする少女の笑みを浮かべる。
「愛とはなんぞや?」
また深く、突拍子もない。
俺は黙って女子二人を盗み見る。
二人も、思案顔だった。
「スマホや書物は禁止、誰か偉い学者の引用も禁止だ。君たちの中にあるものだけで話し合って、恋愛研究会としての意見をまとめなさい」
机に置いてあるメモ用紙に、大きく「愛」と記入し、俺たち部員の中央に置く。
「私は席を外すよ。今が、一時か。じゃあ、六時まで。その間、何をしてもいい。別にこの部屋にいる必要もないし、なんならくじ引きで決めても、何も考えなくてもいい。恋愛研究会は愛をどんなものだと考えるのか。それを教えてくれたまえ」
そして、じゃあね、と言って部屋を出ていく。
なんだそれは、こんな顧問がいていいのか。違うか。恋愛研究会は、こういう部活なんだ。もとよりあるかどうかもわからない言葉の定義を弄び、あるかどうかもわからない人間関係を捻じ曲げる部活なんだ。
これは、罰だ。
心をわかった気になって偉そうな講釈を垂れる俺たちの。
なかなか、三人とも動かなかった。
つまらなさそうに、宇代木が佐羅谷に視線を送った。
佐羅谷は物憂げにため息をついた。
「じゃあ、考えましょうか、わたしたちにとっての、愛を」
「なんで今年は難しいのさー」
「抽象的で、答えるのは大変そうね」
「テキトーでよくない? くじ引きでもいいって言ってんじゃん」
「天、さすがにそれは」
「わーってるよー。去年みたいな相談のロールプレイがよかったよ」
「ロールプレイは即興で対応するだけだから、楽と言えば楽ね」
佐羅谷と宇代木は慣れた様子でことばを紡いでいく。
俺たちは三人、手の届かない距離に車座になり、ただ会話する。
「とりあえず、愛を語るには、好きということばと恋についても考えないといけないわね」
「結局、辞書的な定義にしかならないよねー。ことばの意味なんて、同語反復にしかならないのにー」
「あとは、犬養先生がどんな意図で設問したか、ということね」
「やー、犬養センセは、自分の参考にするためじゃないのー」
愛とはなんぞや、が先生の設問だ。
女子二人は軽快に語るが、俺の耳を上滑りする。
何を言っているんだ。
辞書的な意味? 犬養先生の意図? そんなものは求められていない。辞書で愛を定義することは不可能だし、犬養先生の望む答えを返すことも不可能だ。
意味は使用の集大成でしかなく、語の中に意味が内在していて、語を文法に沿って並べたら意味の足し算になるのではない。ことばが相手に与えた影響が、ことばの意味の抽出物であり、影響のないことばは「意味を持っていない」。
犬養先生は、きっと何も考えていない。どんな回答を受けても、さらりと講評するだけだろう。むしろ、先生受けするような回答は幻滅させるだけではないか。先生にとっては、この場を提供することが重要だったのだ。
ひとしきり二人は歓談し、俺が押し黙っているのになかなか気づかない。
二人はずっとしゃべっている。
こうしてみると、意外なことに、佐羅谷もよくしゃべる。深窓の令嬢のイメージから、なんとなく雑談など無駄口を嫌いそうだが、実は違う。きっとこのことは、身近な者しか知らない。と思う。
教室にいるところを呼び出した時も、校外学習でリーダーをしていた時も、佐羅谷は深窓の令嬢そのものだった。俺が微妙な距離感にいるのを見て、周囲は驚いたふうだった。
しかし、教室やバイトのファミレスで聞く女子の会話とは全然違う。宇代木など能天気で人と噛み合わない脊髄反射の会話をしているようで、きちんと通ずる。
「好きは、嫌いの反対。違ったっけ、好きの反対は無関心だっけ?」
「好きだから見ることができない、嫌いだから見てしまう、というのはよくあることでしょう」
「恋するは精神的で、愛するは心身ともって感じかな~。」
「ことさらに、愛とは、と聞いてきた先生の意図を考えると……」
およそ、女子らしくない話を繰り広げる女子が二人。
つらつらと考えていると、
「ところで、うちの部員に言わ猿がいるようね」
「頭使ってない顔だー」
ひどいね、二人とも。
ぼかあ、朝から仕事と思ったら突然連れ出されて、砂浜で動き回らされて、頭が回らないのですよ。
「二人とも、変に考えすぎじゃないか」
眠い頭で、身振り手振り。
「ことばの定義だの、設問の意図だの、むしろそんなのは犬養先生の一番嫌う答えだろ。これはむしろ、単純なロールプレイだと思うぞ? どこかの誰かが恋愛相談にやってきて、「愛ってなんでしょう?」って言うのに対する答えを出せばいいじゃないか」
俺が思ったことを述べると、二人は目をしばたたかせる。
「驚いたわ。考えないほうが良いかもしれないのね」
「くーやん、さっすがー」
「ところで、突然で悪いが、しばらく昼寝していいか? 朝から働きすぎでお腹もいっぱいで、頭が回らん」
「あら、情けないわね」
佐羅谷さんもまぶたが重そうですけどね。
「いんじゃない? はい、目覚まし二時間後にセットしといたよ。ちょっと休憩しよー。ほら、あまねも。今朝は早かったんでしょ?」
そうか、朝早くから和歌山を目指してやってきたわけか。佐羅谷は朝が弱そうだしな。
部屋の隅に畳んであったタオルケットを持ってきて、宇代木は強制的に佐羅谷にかぶせる。俺にも一つ投げてよこす。
「どーする、くーやん。あたしたちの間に来る? ドキドキして眠れないかもねー?」
「そういう冗談は本気でもやめとけ。冗談ってのは、こう言うもんだ。宇代木!」
「んー?」
自信満々で胸を張る宇代木。
「さっきの水着姿で俺の抱き枕になってくれ」
「は、何それ。さいってー。変態、キモい、エロい!」
汚物を見る目で、意味もないのに身を抱いて、宇代木は座布団を投げつけてきそうな勢いで俺を貶す。
「そうだよ、俺は変態でキモくてエロいんだよ。だからつまらない冗談は言うな」
俺は部屋の隅に膝立ちで移動し、座布団を畳んで枕にする。
そうだ、どうせ二学期には会わなくなる二人だ。変に近づいて、名残惜しくなってはダメだ。なるべく向こうから離れるように仕向けないと。忘れるところだった。
何か後ろで声が聞こえた気がするが、俺の意識はすぐに白く飛んだ。相当疲れが溜まっていたようだ。脳みそを鷲掴みにされたように、眠り入った。
あとあと考えると、同じ学校の女子二人と一つ部屋で眠るなんて、一生のうちでまずないことじゃないか? せっかくの機会をフルスイングでドブに捨てるなんて、さすが、俺は俺だ。
遠く潮の音が聞こえる。
寄せては返す単調な繰り返し。
薄暗い部屋の天井は、蛍光灯が消え、木目がよく見えなかった。
ここはどこだ、ここは、そう、合宿だ。合宿で泊まっている部屋だ。
畳で寝て、痛む体の節々を気遣いながら、体を起こす。
広縁の奥だけが、太陽を受けて明るい。
部屋には、一つだけタオルケットの膨らみがあった。寝息に応じて、かすかに動いている。芋虫のように丸まって、にょっきりと足の裏が覗いてる。髪の毛が、黄色い。宇代木だ。
もう一人が、いない。
見回すと、ぺったんこになったタオルケットが転がっている。佐羅谷がいない。
(なんだ、トイレか?)
だが、ふと目をやった広縁から外で、見慣れた背中が砂浜に座っていた。
佐羅谷? 何をしているんだ、この夏の砂浜で一人海を眺めるなんて、ナンパしてくれと言っているようなものじゃないか。つまらないナンパもかわせないくせに、ほんとうにときどき考えなしなことをする。
宇代木を起こさないように音を立てず、俺は部屋を出た。鍵はないが、まあいいだろう。
潮の音が近くなる。
宿舎の前は浜で、まばらに松の防風林が覆っている。ちょうどその防風林の途切れたところ、宿舎側から通しで海が見える場所に、佐羅谷は座っていた。
宿舎に背を向けている。
小さなマットを砂浜に敷いて、ちょこんと膝を曲げて、緩やかに頭と上半身を揺らす。髪に隠れて見えないが、首の横からイヤホンの線が見える。ブルートゥースイヤホンも一般的ななか、あえての有線か。佐羅谷らしい。
後ろ五歩ほど離れても、佐羅谷は気づかない。
わずかに声が聞こえる。
歌っている。
俺も知っている歌だった。
ああ、佐羅谷でもこんな歌を聞くのか。
ちょうど、曲もサビにはいるところ。
捉えた。
「♪ねえ、」
「「青春なんていらないわ
このまま夏に置き去りでいい
将来なんて知らないわ
花火で聞こえないふりをして」」
佐羅谷が、ビクッと跳ねた。
「驚いた。どこの九頭川くんかと思ったわ」
「親父以外に九頭川がいるのなら紹介してくれよ。親戚かもしれない」
俺は少し間を開けて横に腰を下ろす。
佐羅谷はスマホの音楽を止めた。
「意外だ。「三月のパンタシア」なんて聞くんだな」
しかも、歌がうまかった。カラオケに誘ったのを断られたから、自信がないのかと思っていたが、そういうわけではないようだ。単に、俺とカラオケに行きたくないだけか。
「なんだって聞くわ、失恋の歌も、喪失の歌も、無力を嘆く歌も」
「悲しい歌ばっかりだな、おい」
「あら、歌なんてそういうものよ。考えてもみなさい。外見も歌声も優れて、社会的に成功しているアーティストが、幸せな恋愛や成功の歌を歌っても、誰も共感しないでしょう? 失恋の歌を歌うから、「ああ、あんな美人でも失恋するんだ」と女の子は共感できるのよ。そういう嘘を振り撒くのがアイドルや歌手の仕事よ」
「逆張りで悲しすぎる聴き方をするなよ」
だが、佐羅谷あまねはこういう女だったな。自分が失恋する可能性がないのだから、恋愛研究のために擬似的に失恋する気持ちでも味わっているのだろう。
「寝てたんじゃないの、どうして? わざわざ缶のお茶まで持って」
「目が覚めて喉が渇いたからな。要るか?」
「要らないわ。なんてものを飲ませる気」
「なんてものって、伊藤園が世界で初めて作った緑茶飲料だが」
「そういう意味じゃないのだけど。それより空き缶はポイ捨てしないでよ」
「当たり前だ。空き缶は海にも嫌われるからな」
どうしてここへ来たか、あえて答えない。
佐羅谷がどう思っていようが、どうでもいいことだ。俺の自己満足でしかない。
「思ったより、歌うまいんだな。今度、カラオケ行こうぜ、みんなで」
「あら、カラオケの誘いって、一生に、三度しかできないんじゃなかった? いいの、こんなところで使ってしまって」
「合宿に誘うよりは敷居が低いだろ」
「そうね。じゃあ、少し、練習する? こんな曲はどう?」
佐羅谷はイヤホンを片方外して、俺に渡す。有線イヤホンはそんなに長くないので、どうしても顔が近づく。
ずりずりと尻をずらして、肩の触れ合いそうなくらい横に並ぶ。こういう行為は無自覚だから困る。
さっきまで佐羅谷の耳に入っていたイヤホンの片方を、スッと自分の耳に入れる。熱が、伝った気がした。
肩も顔も佐羅谷に触れそうで触れないように、プルプルと必死で支える。
佐羅谷はスマホに向かって、ぽちぽちと何か曲を探している。
「あった、これよ」
「KANA-BOONの「ないものねだり」か」
出だしは放棄して、佐羅谷は二小節目から口ずさむ。この曲は男女で歌う曲だ。
「♪あっち見たりそっちを見たり美人が好きなのね」
「♪君だってさっきのカフェの店員さんがタイプでしょ 答えて~」
一通りサビまで歌い終えて、佐羅谷がこちらの顔をじっと見ている。慈しむような優しい視線。
あまりに当たり前に流れるようにデュエットしたが、これはつきあっている二人のすれ違いを歌った曲だ。俺が、俺たちが歌うには経験値が足りない。
「九頭川くんはまさにこれね。あっちもそっちも、美人ばかり」
「自分で言うなよ。確かに美人だけどさ」
さあ、佐羅谷にタイプはあるのだろうか。コスプレイベントの帰りに王寺駅で見たあの男は、佐羅谷にふさわしいちょうど良いイケメンだった。少し軽そうな感じは髪の色とあの笑顔のせいか、あるいは、俺のやっかみか。
「俺はおしゃれでもないし、気も効かないし、いい笑顔もないしな」
「何それ。あなたの理想の自分?」
「さてね」
「ねえ、九頭川くん」
音楽の音量を下げる。
「部活、辞めないでね」
「辞める前提がある言い方だな」
「辞める気でしょう。名古屋に行く前くらいから、変だったじゃない」
気づいていたのか。
さすが佐羅谷は鋭い。
俺も自分で思うより態度に出やすいのか。まだまだだね。
「まだ構想の段階なのだけれど、どうしてもやってみたいことができたの」
「ほう」
「天にも言っていないのだけど」
黙って待ったが、佐羅谷は言いにくそうに口を開いたり閉じたりして、結局押し黙る。
「九頭川くんがいなくなると、困るの」
「都合のいい話だな」
「お願い。わたしのためにも、天のためにも」
答えられない。
どうする。
そんなもの、わからない。今のところは、辞めるというか、行かなくなると思う。一緒にいるのがつらい。こうやって、二人きりで自分の相手をしてくれている時は心が幸せになるが、ふと我に返るんだ。
こうやって俺に合わせて優しく応じてくれる佐羅谷は、絶対に俺のものにならない。その悔しさ、もどかしさ、そこにあるのに、そこにいない存在。自分で喉を掻きむしりそうになる飢え。
手に入らないものを忘れるには、物理的に距離を置くしかない。
そばにいろだなんて、勝手だ。
ほんとうに、勝手だ。
佐羅谷はワガママで、俺もワガママだ。
「さて、どうしようか」
何か交換条件でも出してみようか、とは思わなかった。そうか、リーダーがさっき少し怒ったように諭した理由がよくわかった。本当に大切なものに、見返りは要らない。見返りでもらったものに、真実はない。
長い沈黙が訪れた。
佐羅谷は急かさない。
俺は答えない。
ただ潮の音だけが繰り返していた。
「くーやんくん……どうして二人寄り添って黄昏てるのかな? ……かな?」
「かな? を繰り返すんじゃねえよ、こええよ。ひぐらしかよ」
「カナカナカナカナカナカナ……」
「ひぐらしかよ」
一通り定番のやりとりをして、振り返る。
そこには、鉈ではなく、鍵を持った宇代木が少しだけ首を傾けて立っていた。アクリルの長い棒に鍵がついた少し古いホテルにありがちな鍵は、フレイルのようだった。鍵が揺れて、甲高い音が鳴る。
「ひぐらしというと、夏の直前や夏の終わりの印象が強いわね。他のセミが弱る時期に、ひときわ目立つわかりやすい鳴き声が、始まりや終わりを告げる物悲しさがあるわ」
佐羅谷は立ち上がりながら、ひぐらし違いのことを言う。ひぐらしはひぐらしだが、四年に一度しか出てこないキャラクター並みに勘違いしたひぐらしだ。
さあ、宇代木が真似たひぐらしは、始まりか終わりか。俺にとっては、きっと、終わりを告げるひぐらしの鳴き声だ。
「お昼寝の時間はもう終わりね。部屋に戻りましょう。もう一度、わたしたちにとっての愛を定義しましょうか」
それから、三時間。
濃密に語り合う時間は過ぎた。
日が部屋の奥まで届く時刻になる。
扉をノックする音に応じて、招き入れる。
犬養先生は、少し日焼けしていた。
広縁の椅子に片膝を立てて座る。
「さ、では聞かせてもらおうか。君たちにとって、愛とはなんぞや?」
あたかもキングのように、歯をむき出しにしてニヒルに笑う。
「なるほど、これは想像とは違う答えが出たな」
犬養先生は畳の上、思い思いの場所に座る俺たちを一人一人見つめる。
「しかし、何だこれは。『自分が与えたのと同じだけの熱量を、望んでいる形で返してほしいという願い』だって? さっぱりわからんな」
俺もそう思う。
俺たちの三時間の集大成は、簡単でわかりやすい定義や説明に落とし込めるものではない。
ぎりぎり、かろうじて、ごくごく一般的な言葉で、むりやり、形作ると、こうなったんだ。
「ではまず、九頭川。簡単に説明してくれ」
「俺は、犬養先生の問いは、問いの形をした場の提供だと考えました。問いの内容は何でも良い、ただ長く話し合うことさえできれば」
「なんて読みをするんだ。実に扱いにくい子供だ。おまえ本当は人生二周目じゃないのか?」
「二周目なら、こんなに苦しくて悲しくてつらい人生は送ってないですよ。それはともかく、去年の合宿に比べて、設問は抽象的でしかも難しすぎる。と二人から聞きました。
だから、俺はそう考えました。
問い自体に意味はなく、俺たち三人が一緒に頭を使うことを、場所を提供したかっただけなのではないか、と」
先生が姿を消したことと、スマホと偉人のことばを封じたことが、感づいた理由だ。何をしてもいい、と言った。
普段から理科実験室で三人いても、こんなに長く一つのテーマについて話し合うことはない。集中力も持たないし、雑談の域を出ない。たまに有意義な話があっても、それは書物やネットからの転載に過ぎない。
話し合いは、名言や箴言を出すと終わってしまう。他者の解答は考えることを放棄し、ひいては相互の助産術を使うことなく、三人の距離は近づかない。
「俺の説明は、ここまでです。だから、どんな答えも正しいし、答えに意味はありません。『愛とはなんぞ?』と問われれば、それは『俺たち』と答えようぞ」
「よかろう。そのしたり顔ドヤ顔天狗の鼻はいつかへし折ってやるとして、よく頭を使って、しっかり話をしたことはわかった。入部三ヶ月ほどにしては、がんばったものだ。これは、先輩二人の教育がいいからかな?」
犬養先生は満足げにうなずき、視線を宇代木に移す。
「では、宇代木。愛を定義するのに、恋も好きも使わなかった理由は?」
「むー」
宇代木は女の子座りをした膝を手で撫でながら、頭をフラフラと揺らす。考えごとをするときの癖だな。
いつもの飄々として捉えどころのない宇代木の、目だけは深く色づいていた。黄色のカラコンが、今は黒く深い。
「基本的な言葉は、定義できないですよねー。辞書的な意味を問えるのは、複雑な概念だけで、調べなくてもわかる単語は、説明しようがないです。あたしは、愛なんて、語り得ぬものの中で無理に語る必要のない最たるものだと思います」
宇代木の口調は犬養先生を目の前にして、少し硬い。
「愛は感情なのか、愛は行動なのか、例えば本当に愛という概念のないものに愛を教えるとしたら、それは、相手の反応を前提とした自分の心になるのじゃないかなーって、思いました」
「私が面白いと思ったのは、その「相手の反応を希望する」という点だ」
犬養先生は足を組む。
膝に肘を乗せる。
様になるな。
「一般的に、愛の類似概念は恋とか好きとか、そういう感情を表現することばで相対的に定義する。しかし、どれも共通するのは、当人の心の中の問題であって、相手の心に言及しない。好きで恋し愛することに、相手の気持ちは必要なかろう?」
「だって、犬養センセ、恋愛は相互作用でしょ? 恋はベクトルで、愛はスカラーじゃない。恋は無償だけど、愛は有償。だから、ことさらに無償の愛が尊ばれるんです」
「ほう、そう来たか。では、佐羅谷。こんな抽象的かつ説明されてもわからない定義になった理由は?」
犬養先生は最後に佐羅谷を見た。
佐羅谷は座布団に正座し、ぴんと背筋を張っている。
名を呼ばれて、伏せていた面を上げた。
黒いミディアムロングが、はらり耳から垂れる。
「愛を定義するのに、類似の単語を使うのは同語反復で、わかった気になるただの言い換えです。だから、わたしたちは愛をゼロから再構築しました」
「それが、『自分が与えたのと同じだけの熱量を、望んでいる形で返してほしいという願い』と。およそ愛に程遠い定義だと思うが」
「自分に愛という感情があるとして、方法的懐疑を援用して、知ったことばでごまかさずに表現しようとしたら、最後に至った結論です」
「佐羅谷の愛は、ギブアンドテイクということか?」
「わたしたちの、です。わたしの、ではありません。見返りのない愛は、一見美しく見えて、ただの自己満足です。愛の押し売りは、いずれ破綻して、やがて悲劇につながります」
そうだ、ただ一方的に与えられる愛は、負債だ。
人間は誰しも、何もできない状態で生まれ、親や保護者の無償の愛で、自分で生きられる状態になる。物心ついて自分が自分で立てたとき、初めて気づく。自分は限りない愛をただ一方的に受け取ってしまったことに。
受け取った愛という名の負債は、自らも誰かに押し付けることでしか、心の安定を保つことができない。無償の愛は人心を苛む。
何の理由もなく受け取り続けた愛は、何の理由もないが故に、ひどく、重い。
だから俺たちは、世間に、社会に、友達に、恋人に、そして、子供に、孫に、受け取った愛を返すことで負債の重荷から逃れようとする。
愛は悲劇にも喜劇にもなる。
「うーむ、何となくケムに巻かれた気分だ」
しきりに犬養先生は首を傾げる。
考えた俺たち自身、納得できているわけではないし、完全に説明し尽くせているとは思わない。
先生が腑に落ちないのも当然だ。
「ともあれ、いちばん面白いのは、君たち三人が一つところにとどまって、愛だの恋だの騒ぎ立てているところだろうな。ロマンスの神様は、ここにいるのかもしれないね」
犬養先生は柔らかく笑う。
どうやら、俺たちの回答は及第点に達したようだ。よかった。なんとか枕を高くして眠れる。昼寝をしたはずなのに、みっちりと頭を使う話し合いをしたせいで、すでに眠い。
「それじゃあ、区切りもついたことだし、ここで一日目は終了だな。さ、みんな、夕飯の時間だ」
「は? 俺は帰りますよ。寮のおばさんのご飯が」
「安心しろ九頭川。すべて話はつけてある。今日はここに泊まるんだ」
「は?」
ここ?
この十五畳くらいの広間に?
ダメに決まっている。
何を言ってやがるんだ、この教師は。
「わざわざ別に部屋があるんですか?」
「何を言っているんだ、君は。こんなに広い部屋だ、四人くらい寝られるさ」
「空間的には可能でも、倫理的に不可能でしょう」
「なんだ、女子三人いるところで、間違いなど起きるまい?」
正気か、この女。
「あのですね、先生。逆の状態を考えてみてくださいよ。女子高生が一人で、男子高生が二人、顧問の若い男性の先生が一人。その状態で女子高生を同じ部屋に泊めるって、間違いなく懲戒処分ものですよ」
「む、それを言われると痛いな」
言われる前に気づいて、ほんと。
これだから女は。男女差別を非難するくせに、ちゃっかり自分は女性であることの恩恵をフルに享受する。
ほんとうに、男なんていないほうがいい。女子だけなら、男子が肩身の狭い思いをすることもないのだ。
世の中も、そんなふうに進んでいるじゃないか。どんどん男の権利は削られ、今や子供は欲しいが男は要らないという時代だ。いずれ、男という性は不良品として試験管で飼われ、女が店で精子を品定めして買うという、そんな未来が見える。
山田仁和丸(40)のSF的な未来予測も、あながち間違っていない。食欲と睡眠欲は肯定するが、ひとり性欲のみを否定する社会に住む主体は、人間とは言えない。俺はあいにく、あるいは幸い、人間が人間でなくなる世界まで生き延びられそうにないが、未来は暗そうだ。
人間が人間らしく生きられる世界が、いつまでも続けば良いが、まず無理だろう。人間は心を失い、獣から機械になる。
二日目も、同じような日程だった。
午前中は遊び、午後はテーマについて話し合い、犬養先生の講評を受ける。
なんだよ、「結婚とは」って。恋愛研究会のテーマとしては重すぎるだろう。むしろ自分の参考にしたいだけではないのか。言えないけど。
(佐羅谷の結婚に対する考えは明瞭だった。憧れるほどに。だからこそ伴侶になる男は大変だろう)
(宇代木はいつものキレがなく、どうやら結婚というものを考えたこともなかったようだ)
(俺? 俺の恋愛観・結婚観は簡単だ。ただ一直線に突っ走るだけ。すでに佐羅谷と犬養先生には話した)
そして、つつがなく合宿二日目も過ぎていく。
夕食後、宿の部屋に集まり、少し雑談をする。
「それじゃ、今日ももう帰るぞ」
「九頭川くん、おやすみなさい。明日は、十時でいいのね?」
「せいぜい、こき使ってやるから、そのつもりでいろよ」
「お手柔らかーに」
二人から、一瞬だけ、奥で缶ビールを呷っている犬養先生に視線を移す。あちらに挨拶は必要ないだろう。
「じゃあな、二人とも。二日間、けっこう楽しかった」
返事は聞かず、素早く身を翻す。
つい気が緩んで、余計なことを言ってしまう。未練は、ある。この二日間でわかった。何かテーマを決めて真剣に話し合うのは疲れるが、楽しい。中身のない脊髄反射のやりとりではない、きちんとした話し合い。
そうだ、俺はこんな話ができる相手が欲しかったんだ。
宿から寮まで、狭い路地のような道を歩く。ホテルや旅館の遠い灯りと海の向こうに船の光、空には星がまたたく。
一人とぼとぼと歩を進め、頬が濡れているのに気づく。
ああ、情けない。
まったく、情けない。
決めたことは、貫徹しろよ。
ゆらゆら揺らぐ弱い決心に、鼻をすする。
夜でよかった。
この姿と顔を、誰にも見られなくて済むから。
翌朝。
海の家の朝礼は、いつもより賑やかで、華やいでいた。
上地の紅一点だったところに、佐羅谷と宇代木が加わった。夏の涼しく軽そうな私服に、エプロンをつけた姿で、リーダーの横で自己紹介をする。
なぜか今日は誰一人休むことなく、ホールの男たちは鼻の下が伸びているのを隠そうともしなかった。女子二人が自己紹介すると、男どもが奇矯なテンションで囃し立てる。
冷静なのは、リーダーたるヒグマ先輩くらいだった。やはり頼りになるのはこの人だけだ。
「さ、それじゃあ、各自持ち場について。えっと、こちらの女子二人の指導だけど」
「ああ、それ、あたしがやります」
リーダーの視線を受ける前に、上地が嫌そうに手を挙げる。我が意を得たりと、上地に微笑みかける。
一番妥当な人選だろう。上地が佐羅谷と宇代木を嫌っているらしいことを別にすると。だが、なぜ上地が自ら申し出たんだ?
「じゃあ、お願いするよ、上地さん」
だが、俺の意に反して、上地はさらりとうべなう。
「しおりん、よろしくー」
「気安く変な呼び方すんなよ」
片眼をつぶって絡む宇代木に、上地は露骨に迷惑そうな顔。宇代木は気にせず、身を寄せていく。
演技だろうが、大した根性だ。
「あの、わたし、バイトをするのも初めてで、できたら調理がいいんだけど」
おどおどと佐羅谷が俺の袖を引く。
なぜ俺に言う。俺に権限はない。
だが、佐羅谷を調理係にするわけにはいかない。
「おまえはバカか」
「またおまえって言う。バカって、なによ、ひどい」
「あのなあ、一日しか働かないのに、調理なんて見てるだけで一日が終わるじゃねえか」
「でも、わたし、接客なんて」
「まったく、思い出せよ、自分の特技を。普段どれだけ難しいキャラを演じてるんだ。どれだけ本を読んできたんだ。自分に暗示をかけろ。たかが一日、ホールでウエイトレスを演じるだけだ。ないのか、そんな登場人物が出てくる作品は?」
「演技なんて、そんな」
「明治時代のお屋敷にいる女中さんでも、大正時代の喫茶のメイドでもいい。何かしらイメージはあるだろ。自信を持て。おまえは自分で思う以上に、有能だ」
「そんなこと、初めて言われたわ」
不思議な表情で、佐羅谷は俺を見返していた。そうだな、有能なのは見ていてわかるから、特に誰も言おうとはするまい。
渋る佐羅谷を、むりやり上地の隣に押していく。
一日調理に入ったところでほとんど役に立たないのはもちろんだが、純粋に佐羅谷がホールでどんな動きをするのか見てみたいというのもある。
今日はきっと、大変だ。
いつも以上に、客が来るぞ。
そんな予感は、当たる。
大繁盛だった。
お盆休みの盛りを過ぎて、こんなに人が集まるなんて。
「長年夏休みは店番をしているけど、知る限り最高の客入り」
とは、全身汗でびしょびしょになったリーダーの呟きだ。二日分の在庫がなくなりそうな勢いで、焼きそばもお好み焼きも売れていく。氷も底をつく。
昼過ぎに冷やかしに来た犬養先生(この人はお店を手伝う気はないらしい。公務員は副業禁止らしい。ボランティアではないのか)に、無理を言ってオーナーに倉庫から材料を手配してもらう。
そのくらい、忙しかった。
客が客を呼ぶというのだろうか。
小刻みに何度もやってくる客もいて、実にファッキン迷惑な奴だ。
「てんちゃーん、また来たよー」
「いらっさーい。でも買ってくれない人はお客さんじゃ、あーりませんー」
「ひっどいな、ほらほら、メロンソーダ持ってるじゃん」
「じゃあ、三百円分だけのお客さんだねー。まいどありー」
宇代木はわかっている。
普段のバイトもきっと接客なのだろう、飲食系だとは聞いた気がする。
とにかく、自分の武器を熟知している。
あえて外から見えるところで愛想を振り撒き、外の客をキャッチ。即席キャバクラ状態になっている。宇代木の気を惹こうと、何度も来たり、追加注文を繰り返したりするバカな男。
一方、佐羅谷も悪くはなかった。
「お待たせしました。焼きそばとコカコーラです」
「おー、ありがとう。あ、ちょっと」
「まだ何か?」
「よかったら、あの、名前と連絡先を」
「注文以外は受け付けておりません」
すげなく、徹底した塩対応に、宇代木とはまた別の魅力があった。
何を参考にしたかはわからないが、一貫したこのキャラクターで、佐羅谷にはリピーターや新規がついた。
口調はきついが、凛とした佇まいと折り目正しい態度が、板についていた。ツンツンしたメイドさんの僅かなデレを引き出そうという挑戦で、人気らしい。
まるでツイッターかインスタかでハッシュタグ付きで宣伝しているのではないかという繁盛ぶり。
俺はヘラを振るい過ぎて、腱鞘炎になりそうだ。昼も休んでいない。レッドブルでごまかしているが、限界は近い。つまみ食いのフランクフルト一本だけがエネルギーだ。
ともあれ、宇代木は心配していなかったが、佐羅谷も問題なさそうでよかった。もとより能力はあるのだ。
焼きそばを受け取りに来たときに、ぼそっと声をかける。
「な、何も問題ないだろう。やらないから、不安になるだけなんだよ」
「そうね。物怖じせず、やってみるものね。良い経験になったわ。ありがとう、九頭川くん」
「素直だな。明日は槍が降るぜ」
「ほんと、くたばれ」
仏頂面が、ほんの少し緩んだ。
焼きそばを受け取った客は、佐羅谷の顔を見てポカンと頬を赤くしていた。演技が抜けているぞ、佐羅谷。
「もう、三時前か。何とか無事終わりそうだな」
ようやく、客もはけてきた頃だった。
最後の客が海の家を出て、一時的に来客が消える。
バイト中の全員に、弛緩した空気が流れる。
俺は、リーダーと一緒に鉄板の焦げ付きをヘラでこすって掃除していた。
ざわざわと私語が飛び交い始めた時だった。
「気安く名前で呼ばないで」
ガラスを割るような鋭さ。
佐羅谷の凛とした声が、雑音を一気に振り払う。
ホールが静寂に包まれる。
なんだ、何が起こった。
視線が一斉に佐羅谷に集まる。
ホール中央でエプロンの前にお盆を抱いて立つ佐羅谷は、チーターと対峙していた。
チーターの呆けた顔がみるみる紅潮し、怒りに血管が浮く。一歩にじり寄る。
佐羅谷が顔面蒼白でじっと見上げたまま、一歩退く。
まずい。
何があった。
「なんだぁ、おまえ、どういう口の聞き方だ」
「口の聞き方を知らないのは、あなたでしょう。初対面の相手を名前で呼ぶなんて、常識知らずもいいところよ」
「誰にモノ言ってやがる」
にじり寄る。
退く。
「おめえに、年上に対する態度を教えてやる」
チーターは拳を握る。
周囲を見る。
チーターの取り巻きは何が起きたか把握できていないようだ。上地は興味がなさそうに隅でテーブルを拭いている。
宇代木は、あわあわと困惑している。谷垣内が現れた時と似ている。コミュ力モンスターも万能に見えて、圧倒的暴力の前には無力だ。
リーダーは冷静に動く隙を窺っているが、まだ判断に迷っている。
佐羅谷は、震えている。
大バカか。
いくら気が強かろうが、正論をぶつけようが、腕力と権力には絶対に敵わないのだ。無力なら、無力なりの身の処し方を覚えろよ。
今さら青くなって怯えて、短慮もいいところだ。
チーターの短い金髪や、だらっとした服装、ジャラジャラしたアクセや、横柄な振る舞いで、普通のことばが通じないことなんてわかるだろうに。
「そ、そうやって、暴力で言うことを聞くと思ったら大間違いよ」
「そうやって、煽ったら言うことを聞くかと思ったら、大間違いだぜ!」
……ほんとうに、大バカだ。
俺は。
ヘラを鉄板に放り出す。
佐羅谷のほか何も見ずに腕を引き、抱きしめて、そのまま跳びすさる。
佐羅谷がいたところに、一陣の風が通り抜ける。
チーターの拳が空を切っていた。
ガランと佐羅谷が抱えていたお盆が床に転がる。
「佐羅谷、ケガは」
「わ、わたしは、別に」
佐羅谷を抱きしめるのは、何度目だろうな。わりと役得、と思いつつ、目の前の殺気に恐る恐る顔を上げる。
「九頭川ァ! 邪魔すんな!!」
感触にひたる暇はなかった。
俺はチーターに目を向けたまま、おぼつかない足で立つ佐羅谷の頬を軽く張る。
静寂にパチンと乾いた音が響く。
「何をするのよ、どうして……わたし、何も悪くないじゃない」
先ほどまで恐怖で泣きそうな目をしていた女が、絶望で泣きそうな目に変わる。
ああ、嫌だ嫌だ。
武力も話術も権力もない男は、こんな茶番でしか女を守れない。
「バカか。今日一日だけとはいえ、職場の先輩だろうが」
「でも、親しくもないのにいきなり名前で呼ばれるなんて」
「だったら言い方もあるだろう。なんでいきなり喧嘩腰で、文句をつけるような言い方なんだ。おまえは先生にもそんな言葉遣いをするのか」
さあ、泣くなら泣け。
佐羅谷は一瞬俺を睨みつけて、失望した顔を伏せる。口を一文字に結んで、肩を震わせている。鼻を啜る音が微かに漏れる。
小声で、どうして、とか、だって、とか、俺にだけ聞こえる疑問符が届く。すべて無視した。
「先輩、勘弁してやってください。こいつ、今までまったくバイトの経験もなくて、職場とかの人間関係や常識にうといんです」
俺は佐羅谷の後頭部を押して頭を下げさせようとするが、頑なに拒む。佐羅谷が手で弾く。やめてよ、と聞こえた気がした。
「九頭川、おまえ」
チーターは肩を怒らせ、歯ぎしりをしたまま、へらへらとおどける俺を睨めつける。
ばれてないといいな、俺の足がガクガク震えそうになっているのが。
「舐めた奴だな、ほんとに」
チーターは再度拳を握る。
無理か。茶番は見抜かれたか。
せめて、佐羅谷だけは逃すしかないか。
佐羅谷の前に出よう。
膝の抜けそうなまま足を一歩進める。
「猪狩くん、高校生の女の子が言ったことだよ」
いつの間にいたのだろう。
リーダーが、俺とチーターの間にレフェリーのようにさりげなく立っていた。
大きな体で、ちょうど動線を遮るように。
「ほら、佐羅谷さん。ごめんなさいは?」
リーダーが優しい声で促す。
佐羅谷は長い間をとって、小さく頭を下げる。
「……ごめんなさい」
顔は決して上げなかった。
チーターを見ようともしなかった。
「ほら、猪狩くん」
皆の視線がチーターに集中する。
ちっと舌打ちして、頭を掻き、おどけて肩をすくめる。
「なんでい、これじゃあ、俺が悪いみたいじゃねえか。せっかくかわいい子と仲良くなりたかっただけなのによ。おお、おお、悪かったよ。二度と名前で呼ばねえよ」
口元を見ていた俺にはわかる。
最後のことばのあとに、声に出さずに言った。「クソ女」と。
チーターはめんどくさそうに身を翻すと、取り巻きに「先に帰るぜ」と言い残して海の家を出る。途中で上地を拉致するように連れて行った。
状況は良くないが、空気は少し軽くなった。
リーダーが一つ手を叩く。
「さ、みんな持ち場に戻って。えーっと、佐羅谷さんと宇代木さんは、今日はもういいよ。お手伝いありがとう。また改めて顧問の先生に挨拶に行くから。九頭川くん、送って行ってもらえるかな」
「送ってって言われても」
リーダーのことばを反芻して、佐羅谷を見る。佐羅谷は微動だにせず、同じ場所で突っ立ている。
宇代木は複雑な表情で近づいてきて、佐羅谷の手を取る。
「あまね、行こ?」
ずいぶん遅れて、佐羅谷は頷いた。
宇代木に引かれるままに、とぼとぼと後ろをついていく。
「くーやんもついてきてよー?」
動けなかった俺を、宇代木は呼んでくれた。海の家から出るとき、ヒグマ先輩が暖かい笑顔を見せてくれた。少しだけ、救われた気がした。
初めに、力があった。
力はすべてだった。
力は、万能だった。
力は、我が儘を押し通す原初のルールだった。
だが、力は衰える。
どんな力持ちも、やがて新たな力持ちに取って代わられる。
だから、力を維持する方法が生まれた。
自分の力を永遠にするために。
それは法であり、それは金であり、それは血筋であり、それは地位であり、それは物語であり、それは技術であり、それは知識であった。
力を得たものは、力を持たないものを虐げ、操り、恣にし、己の我が儘を押し通す。
だが、現在の分散したもろもろの力の源は、「力」だ。腕力であり、武力。力の本質は変わらない。
法律を守るのは、法律を運用する国の武力が恐怖だからだ。
お金で物が買えるのは、お金を発行する国の武力を信用できるからだ。
ほんとうの力とは、殴られることを、殺されることを恐れる単純な恐怖に由来する。武力。腕力。ただそれだけのことなんだ。
今の時代、力は弱く分散して、あらゆる場において常に強者や常に弱者は存在しないかもしれない。か弱い子供でも、巨漢の無法者を法律で倒せるかもしれない。
だが、それは、今ここにある危機を救ってはくれない。
どんな弁護士も、突きつけられた銃口より弱い。法律が通り魔のナイフを退けることはないのだ。
だからいつでも、殺人者の人権は守られるが、殺された人間はないがしろにされる。
法律や知識は、往々にして正しい。
正論や理屈は、きっと君の身を守ってくれる。
だが、そこにある拳を止めることはできない。
理不尽な武力に対するすべを、俺たちは持ち合わせていないのだ。
佐羅谷と宇代木が、恋人のように寄り添い前を歩く。
離れて俺が後を追う。
(嫌われただろうな)
ちょうど良いのかもしれない。
二人に嫌われて、恋愛研究会に行かなくても何も言われなくなれば、自然に消えることができる。
佐羅谷が俺を来させようとしなければ、宇代木が絡むこともないだろう。そうすれば、沼田原先輩も姿を見せない。
上地にはもともと嫌われているし、三根も今さら俺に関わろうとするまい。
神山や田ノ瀬は恋愛研究会としての九頭川輔に関わってくれていたのだから、個人としての俺には不干渉だろう。
やれやれ、高校二年になって、俺の知り合いは山崎と高森だけか。
振り出しに戻る、だな。
いいさ、静かに、本来の自分らしく、目立たず、教室の隅っこで国語便覧や倫理資料集でも眺めながら、時間を潰すさ。
「ここでいいよ」
冷たい声で、宇代木は言った。
まだ二人の泊まる宿舎から、相当離れた場所だった。
「そうか」
「くーやん、どうしてあんなやり方するのさ」
宇代木の声は硬い。
「あんなやり方って?」
宇代木に半分隠れる佐羅谷は、ずっと視線を合わせようとしない。
「他に方法あるんじゃないの」
「買い被りすぎだ。それに、あまあまあまねちゃんには、厳しく言ってあげる友達が必要なんじゃねえの?」
「くーやん!」
宇代木の初めて聞く叫び声。
ああ、そうか。
宇代木もこんな顔をするのか。
カラコンで黄色い目は赫く輝き、頬は紅潮して膨らむ。
「なあ、佐羅谷、おまえも俺と一緒だよ。勉強なんてするより、さっさと働いたほうがいい。弱いものは弱いものの処世術を身につけるべきだ」
「どうしてそういうひどい言い方をするの!」
「やめて、天。もういい、もういい」
低く腹に響く声。佐羅谷の静止。
宇代木は押し黙った。
「今日は、ありがとう。本当に、ありがとう」
潤んだ目に感情を浮かべず、真っ直ぐに俺を見返す。
ことばはことば通りの意味でしかなかった。
だが、話は終わらない。
緩く開いた唇が、何か次のことばを紡ごうと薄い息だけが何度も何度も通り抜ける。
やがて、またしても俯く。
宇代木がそっと寄り添う。
膠着状態は、俺のせいか。
「じゃあな、気をつけて帰れよ」
返事を聞かず、俺は海の家の方へ体を向ける。
背中に、声は聞こえなかった。
砂を踏む足音も聞こえなかった。
「九頭川くん、これを犬養さんに渡してくれないかな」
寮へ帰るとヒグマ先輩に呼び止められて、封筒を受け取る。中を見ると、ちょっと驚くような金額が入っていた。
「まさか、リーダー、犬養先生に貢いで」
「違う違う、これは今日の売り上げの異常増加分のうち、手伝ってくれた二人の貢献を返還するだけだよ」
「ああ、バイト代ですか」
「違うよ」
ヒグマ先輩は歯切れが悪い。
「いろいろ面倒なんだけど、二人に直接お給料を渡すのはややこしいんだ。だから、あの二人は手伝ってもらっただけ、ボランティアだね。売り上げが増えたのは、リーダーたる僕の手腕という扱い、だから、オーナーは僕に臨時ボーナスをくれた。
そして、僕は犬養さんにもう一日、ここに宿泊してほしい。あの女子二人は犬養さんの車で送ってもらったって聞いたよ。これだけの金額があれば、二人を電車で帰らせて、犬養さんがもう一泊することもできるでしょ?」
「なるほど」
なかなかどうして、リーダーも行動力がある。
「ていうか、オーナーも知ってるんですね」
「さすがに、無断でボランティアを雇えないよ。臨時ボーナスだって、普通はバイト代にまとめるさ。こんなことは、滅多にないよ」
「犬養先生の件も?」
ヒグマ先輩は何も答えない。
話題を逸らす。
「ここのバイトもあと数日だけど、ちょっと気をつけよう。僕も気をつけるよ。せっかくの夏のバイトだ、「いい思い出」で終わるようにしよう」
「いい思い出」を強調して、俺に封筒を握らせる。俺が横取りする可能性なんて、考えてもいないようだ。
いい思い出とは絶妙な表現だ。
本当の意味で「良い思い出」とも取れるし、間違った、失敗した経験さえも、「いい思い出」と言えなくはない。今さら、俺たちに「良い思い出」は作れない。せいぜい「いい思い出」にするくらいだ。
バカだったな、そうやって笑い飛ばせるような、くだらない思い出で済むように、それが俺がするべき目標だ。記憶の底にトラウマの残るような思い出は、要らない。
あと数日。
ヒグマ先輩の言い残した期限は、途方もなく遠く思えた。
スマホに、三根からの悲痛な通知がひっきりなしに届く。
『どうしよう、どうしよう、しおちゃんを助けて、お願い、何が起きてるの、ねえ、輔。見てるの!?』
行きたくはないが、犬養先生に会うため、合宿している宿舎へ向かう。部屋の扉を叩くのは嫌だな。鬱々としていると、幸い、宿舎入り口のホールで犬養先生に出くわす。
自販機でビールを買っていた。セレブだ。アサヒスーパードゥラァァアイ。
「あ」
別に大人なのだから、お酒を買っても良かろう。なぜ気まずそうなのだ。
「先生、ちょうどよかったこれを」
俺は封筒を渡し、リーダーの言伝も重ねる。
先生は中身を一瞥し、軽くため息をつく。
「ちょうどいい、九頭川、二人きりで話そうか。外へ行こう」
是非もない。
先生と話すことはないが、宿舎のホールや二人のいる部屋で話すよりはよい。
夕暮れ、まだ六時になったばかりで、外は明るい。浜の向こうに大きく揺らぐオレンジ色の強い太陽がたゆたっていた。
浜と歩道を分ける植え込みのところどころにある屋根つき休憩所の一角に、離れて同じ方向を向いて座る。
犬養先生はいつものパンツスタイルで、長い足を組んで、すぐにビールのプルタブを開けた。
「初っ端からアルコールを入れていいんですか」
「回る前に先に言っておこうか。リーダー君には、その通りにすると答えておいてくれ」
「へえ、意外です」
犬養先生が、ナンパに近い声かけを受け入れることが。
生活もしっかりしていて、面倒見が良くて、問題なく努力する美人で、コスプレの趣味も充実していて、それこそ男なんて選び放題に見える女性が、ヒグマ先輩の誘いに応じるなんて。
ヒグマ先輩は、確かにいい男だ。海の家でバイトしている中では、間違いなく一番信頼できるし、仕事もできるし、気が効くし、きっと頭も良いだろう。いいところに就職するかもしれない。
だが、それは不確定な未来の話で、今は少し年長の学生に過ぎない。飛び抜けてよくできる学生は、高校や大学の頃から事業を起こしたり、商売を成功させたりする。ヒグマ先輩は、そこまでのことはない、普通の学生だ。
「少し、昔話をしよう」
「なんですかそれ。先生の友達の友達の話ですか」
「そうだ。私にとっては十年近く前だったか、まあいい。だが、君たちにとっては、今日、もしくは明日の話だ」
ゾクっとする。
俺のふざけた返しに、先生はきちんと距離を詰めてきた。
缶ビールに一口、薄い色の唇をつける。
喉がこくんと動いた。
「いい加減わかると思うが、私は高校時代までいわゆるオタクでな。何よりも二次元の推しに貢ぐのが好きな腐りかけの女子だった。今は小綺麗なオタク女子も多いが、その区分で言うと、私は見た目も気遣わず、男子の値踏みにさえかからないような女子だった。
勉強は普通にできたから、特に何も考えず、教育大に入った。両親から、手に職をつけるような分野へ行けと言われた。おまえみたいな見た目がダメな女は、頭か技術で生きていくしかないんだって。
私は親の言うことに反撥はしたが、自分で見た目が悪いと思っていたから、一方で納得もした。
ただ、それでも、その時はまだ思っていたんだ。大学に入れば、普通に彼氏ができて、普通に就職して、普通に結婚して、普通に子供ができて、普通に生活していくんだって。親がそうであったように、自分も普通に親になり、家庭を築くんだって」
普通は、難しい。
普通であることはすでにエリートだ。
普通になれずに悩む人間の怨嗟が聞こえるか。
「大学へ行っても、何も変わらなかった。当たり前だ。世界は、自分が変わらないと変わらない。違うか、世界は常に変わっているのだが、自分の感じ方が変わらないと、世界が変わったことにも気づかない。
大学一回生の半ばで、急に危機感を覚えて、何か変わろうと思って、自分の趣味に近い分野で、コスプレを始めた。インテックス大阪とかそういうところで見慣れてはいたからな、ただ、自分がするとは考えたこともなかった。
今までまったく美容やメイクに疎かったんだ、大変だった。美容院だって、初めて行ったようなものだ。大和八木の近鉄百貨店にいる美容部員さんに話をしたのも、清水の舞台から飛び降りる気分だった。
見よう見まね、既製品の着ただけさんから始まったコスプレは、私の性に合っていたんだろうな。イベントに参加するたびに知り合いや友達ができ、ますます没頭するようになった。バイト代を全額注ぎ込んで、学業もかなりおろそかになった」
今のしっかりした犬養先生からは想像もつかない。
いや、違う。その過去があるから、先生はこうもしっかりしているのではなかろうか。
「実は、中学時代から同じ趣味の親友がいたんだ。コスプレを始めるとき、その子も誘ったんだが、あえなく断られた。「わたしたちみたいなブスは、目立っちゃダメなんだよ。二次元は、影から支えるのがいいんだよ」って。
コスプレを始めた頃は、自撮り写真とかずっと送っていたんだけどな。だんだんと私が綺麗になって、ちやほやされるのが自慢に感じられたんだろう、返事はまばらになった。わたしも、彼女を放置した負い目から、いつしか、どちらからともなく連絡は途絶えた。
あの時は、こちらも調子に乗っていた。今まで男子からは侮蔑や失笑の視線しかもらったことがないのに、それがちょっとメイクを覚えて、コスプレしていると、カメコからいっぱいお誘いの連絡が来る。
今まで自分のことを不細工だと思っていたけど、実はかわいいんじゃね? ってな」
「俺はむしろ、先生がなんで自分が美人だと感じていないのかが不思議です」
「美人は作るもんなんだよ。平均的な顔なら、誰でもこのくらいになれるさ。態度、所作、表情、心持ち。メイクで変わる表面に加えて、中身がついてくる。
不細工なのは、見た目以上に中身だ。自分はブスだと思って何もしない心がブスなんだよ。
だから、私は中学生や高校生の早いうちにこれに気づけた恋愛研究会の二人に嫉妬しているよ。高校生のうちにああなれたら、さぞや輝かしい高校生活を過ごせただろうに」
含みのある言い方だ。
「コスプレもね、友達がどんどん変わっていくんだ。初めの頃は初心者同士で集まるが、だんだん慣れてきて、良い写真を撮ろうとすると、どうしても見栄えのする者同士が集まる。
コスプレガチ勢になると、キャラそのものに化けるレイヤー同士で集まるようになる。言うなれば、コスプレランクに応じて集まる友達が変わっていくんだな。もちろん誰も明言はしないよ?
その頃には当たり前に彼氏もいたが、誰一人として長続きしなかった。言っちゃなんだが、コスプレの写真を撮りにくる男なんて、ほとんどが体目当ての、誰でもいいから付き合えたらラッキー、みたいなのばっかりだ。
私なんて、ただでさえ人付き合いが苦手で、見た目は変わったが、中身は大学デビューした陰気で奥手な女だった。ちょっとちやほやされたら、もう簡単に落ちる。手慣れた男にとったら、ちょろいものだったんだろうよ。
当時の男なんて、イベントに財布さえ持ってこない奴、一緒に写真を撮ったメンバー全員と関係を持ってた奴、キャラとは関係ない露出した写真やポーズばかり要求する奴、付き合ってても他の女とホテルの個室で撮影会をする奴……」
ビールを呷る。
少し、回るのが早すぎないか。
「だけど、私はそんな経験もバカだったなーと思うが、周りのせいにする気はない。私だって、かっこいいとか優しいとか自慢できるとか大学生にもなって彼氏がいないのは恥ずかしいとか、そんな理由で男を選んでいたんだ。男の方だって、何かしら理由があって、私を選んだんだろう。お互いの利害が一致している間は、幸せだったわけだしな。
だいたい、そんな若い頃の恋愛でなくても、今でも恋愛なんて条件のすり合わせばかりだ。男が女の見た目や従順さでランク付けするのが嫌で嫌で仕方なかった。でも良く考えたら、女だって男の就職先や年収で足切りするんだから、お互い様だ」
「先生にとって、リーダーは許容範囲なんですか?」
高森に比べて?
高森はまだ高校生だから、論外だろうか。しかし、リーダーもまだ学生じゃないか。
「彼が許容範囲になるかどうかの判断は、もう少し先かな」
ビール缶を傾けたまま口を離す。
もう、中身はなかった。
「だからな、九頭川。バカな男に騙されるバカな女がいても、ギリギリまで放置してやれ。ただし、その関係に亀裂ができて、抜け出したいと思っているなら、そして、おまえに助けを求めているなら、なんとかしてやれ」
潤む瞳が、俺を見つめる。
この人は、どこまで知っているのだろう。
上地しおりのことだ。
先生の話を上地に適用すると、助けを求めているなら、助けてやれ、ということだ。
三根は助けろと言う。
さっきのメッセージを見る限り、切羽詰まっている。
「いざとなれば、人を頼れ。なんでも自分一人で解決するのが賢いわけではないぞ? 頼られて、喜ばない大人はいない」
「俺なんて、一人じゃ何もできませんよ。頼って、迷惑をかけてばかりです」
「奇遇だな。私も迷惑をかけてばかりだ。
男に貢ぎまくって、お金がなくなって、すわ大学の学費に手をつけるか、春をひさぐかという思考停止に陥った時に、両親に連絡してどん底から引き上げてくれたのは、連絡もしていなかったあのかつての親友だったよ。
あの子は、本当に賢かったよ。
とても、美しかった。
美しくなる努力もしないで、バカな子だと下に見ていたこともあったのに、一年ほど見ないうちに、すっかり変わっていた。
メイクもファッションも覚えて、外見も見違えただけでなく、学校へ行けない子供たちのための支援団体を立ち上げてね。私がコスプレにうつつを抜かして、自己顕示欲を満たしている間にね」
犬養先生は静かに立ち上がった。
「合宿のまとめは、こんなものかな。どうだ、少しは、参考になったか?」
「そうですね」
きっと、ヒグマ先輩を通して、ある程度話が通っているのだろう。俺が三根から受けた依頼、どうすべきか。
すべきことはわかっているんだ。
なあ、上地。
俺たちは、正しく間違っていて、だからこそ間違っていないだろう。
夏休みの宿題は最後の追い込み。
ホテルの部屋係も板についた山崎も、毎日きちんと宿題をこなすようになり、食事と風呂の間の時間は、食堂の隅で二人勉強していた。
毎日毎日顔を合わせていても、なぜか尽きることのない話題。テレビもユーチューブもほとんど見る時間はないし、寮と仕事場の往復しかしていないというのに、よく話すことがあるものだと思う。
他愛ないのに、話が続く。まるで友達みたいじゃねえか、やめろよ、気持ち悪い。
「む、すまぬ、ちょいとトイレ」
「いちいち報告すんなよ」
「ちなみに詰まり気味だ」
「黙れ」
山崎がトイレへ消えた時だった。
見計ったように、やつらが来た。
チーターを先頭に、アニマル軍団。みな示し合わせたようにポケットに手を突っ込み、俺が宿題をする机を囲む。
「なんすか、勉強中ですよ」
身体中、冷や汗が滴る。
これはまずい。
山崎が早く戻ってくれば。いや駄目だ、あいつでは役に立たない。誰か、具体的にはヒグマ先輩を呼んでくれればいいのだが、山崎はヒグマ先輩を知らない。
怯えを出さないように、チーターを見上げる。
「おう、九頭川、おめえ、あのメンヘラクソ女のライン教えろよ」
「知りませんよ……っ」
事実を伝えただけなのに、言い終わらないうちに、息が詰まる。腹に、激痛。
動きさえ見えなかった。
チーターの拳が、俺のボディを打った。
顔はダメだな、目立つから。狙うならボディだ。さすが、手慣れている。
「いつまで強がれるかな、おお?」
「宇代木に聞いたらいいでしょう。あいつなら、誰でも連絡先交換してくれるでしょ?」
「ゆるふわのほうか。そのラインは聞いたが、返事はねえよ」
ああ、そうとう宇代木も怒っているということだ。外面のいい宇代木にメッセさえ返してもらえないなんてね。
「もう一発喰らいたいらしいな」
「ほんとに知らないですって!」
これ以上、痛いのは嫌だ。
チーターのパンチは普通ではない。明らかに覚えのある者の拳だ。
俺は慌ててスマホの連絡先を開ける。どうせ、見られて困るような相手はいない。宇代木は知られているし、それ以外の人物はきいたこともない名前だろう。
チーターは取り巻きのキツネに俺のスマホの連絡先を確認させる。
連絡先だけでなく、ツイッターやインスタなど他のSNSの知り合いも見て回るが、もちろん、佐羅谷の連絡先はない。
「こいつ、ほんとうに連絡先がないですよ」
「マジか。なんだ、九頭川、おまえたった三人の部活で、嫌われてるのかよ? かわいそうなやつだな。あんな女、一発殴ったら簡単に落ちるだろ」
(そういう発想がねえよ)
睨み返したい、言い返したいが、ぐっと堪える。
バカにされてでも、解放されることが大切だ。
やっと、腹の痛みが落ち着いてきた。俺は手を出し、キツネからスマホをひったくり返す。
「もういいでしょう。佐羅谷は部活の同級生ですよ。それ以上でも以下でもない。俺なんて、連絡さえさせてもらえない」
「じゃあ、今日のあれはてめえがいいカッコするチャンスだったのにな。惜しかったな。今じゃなく、あのとき殴られてたらよ、同情でも買えたかもしれねえのに」
何が面白いのか、アニマル軍団はギャハギャハと大声で楽しそうに笑う。高笑いする。
何も面白くない。
「ま、知らねえならしょうがねえな。せっかく遊んでやろうと思ったのによ。おう、あいつで我慢するか」
もう俺には興味がなくなったようで、チーターを先頭に寮の部屋へ消えていく。
「猪狩さん、俺たちにも……」
「ああ、あと三日待て。悪いようにはしねえ」
黙ってチーター一味が消えるのを待った。気味の悪い会話が、最後の最後に聞こえた。
あと三日?
ちょうど、バイトの最終日だ。四日後の朝に、俺たちは家に帰る。
何の話だ。
チーターの悪辣に歪めた口元と、媚を売るキツネのゴマ擦りが、いつまでも脳裏から離れなかった。
ちょうどややこしい奴らが消えてからスッキリした顔で出てきた山崎の顔面を、俺はぺちっと殴った。
「スッキリした顔がムカつく」
「理不尽!?」
「太陽が眩しかったから」
こんな冗談が言い合える仲なら、長続きしそうじゃないか。なあ、山崎。
「え、花火? たぶん、観光協会の売店でも売ってたと思うよ。バケツ? ああ、消化用の水か、バケツなら、寮にあるから、それを持っていくといいよ。でも急に、どうしたんだい? 九頭川くん、みんなで何かして遊ぶなんて、あまり好きそうに見えないけど。え、いいよいいよ、手伝うよ。
いい思い出にしたい? ああ、そうか、そういうことか。せめていい思い出にしたい、か。難しいね。
……僕にだって、カッコつけさせてくれよ。それで、よかったら犬養さんにアピールしておいて。
うまくいくよ。うまくいかせるさ」
和歌山県某所、海の家でのリゾートバイト最終日。
さすがに夏の終わり、子供たちも遊ぶどころではないようで、人の入りはあまりなかった。夕方、店の片付けも終わったところで、オーナーがやってきて、全員を労った。
「というわけで、みんな、長い間ありがとう。よく頑張ってくれた。じゃあ、今からお給料を渡すから、呼んだ順に取りにきてくれ」
全員に封筒が渡る。
「じゃあ、これで仕事はおしまいだ。今日はゆっくり休んで、明日の九時までには部屋を出るように。くれぐれも、忘れ物するんじゃないぞ。あと、ハメを外しすぎないようにな。
それじゃあ、解散。元気でな」
オーナーは呵々大笑しながら、引き上げていった。
残ったメンバーはしばらくお互いに牽制し合うように、動かず様子を見る。今さら、なにかやることがあるわけでもない。
海の家のバイトは俺が入った頃から人数も顔ぶれも変わらず、俺と気の合いそうな人はいなかった。一番頼りになるヒグマ先輩とは連絡先を交換してつながっているので、それだけで十分だった。
それはチーター率いるアニマル軍団も同じで、俺の連絡先は欲しくもないはず。
女子は上地一人しかいなかったし、きっと連絡先は知っているだろう。
口火を切ったのはチーターで、めんどくさそうに頭をかきながら、首を回す。
「じゃ、俺らは先に帰るわ、リーダー。飲むから、遅れるかもしれね」
「わかった。最後の最後で、ハメを外さないようにな」
「わーってるって」
そう言って、チーターたちは海の家を出た。上地がすぐ後を追うかと思いきや、なぜかもじもじと躊躇している。
「どうした、上地。ついていかないのか?」
「あ? うるさいよ。ほっといて」
ことばは悪く、俺に声をかけられるのはいまだに耐え難いらしい。
だが、気づいた。
頬が、少し赤い。この赤さは、熱や恥ずかしさや怒りではない。頬を張られたような赤さだ。
指摘するべきか。気づかないふりをするべきか。俺は判断しかね、リーダーを仰ぐ。
ヒグマ先輩は俺の視線の意図を理解してくれただろうか。
「上地さん、この一ヶ月、どうだった? いい思い出になりそう? いい思い出で、終われそう?」
「いい思い出? いい思い出!」
素っ頓狂な声。
見てわからないの、バカじゃないの、そんな含みのある肩のすくめ方だった。
「いい思い出なんて、何もなかったよ!」
かすれた声で言って、上地は身を翻す。
リーダーが声をかける間もなく、チーターたちの消えた街の方へと走っていった。
「リーダー」
「ああ。予定通り、九頭川くんのいう作戦で行こう」
砂浜と旅館や売店など観光施設が集まるちょっとした観光地域の間は、松や灌木の防風林が帯状に広がっている。中には遊歩道があったり、丸太材を模したコンクリート屋根の東家があったりする。
そんな一角に、かつて休憩小屋があったが、朽ちて撤去したであろう場所がある。わりと街の明かりから離れた場所で、防風林の先は磯を構成する大きな岩山に突き当たる場所だ。
ちょうど小さなキャンプファイヤーができそうな広場になっていた。
とっぷりと日も落ち、あたりは暗い。遠く月明かりと遊歩道の終わりの街灯だけが、広場を淡く照らす。
さあ、どうしてこんな人気のない場所へやってきたのだろう。
上地とチーターは黙って向き合っていた。恋人同士の距離感ではない。だから、「俺たち」は覗きではない。
尾行に尾行を重ね、ここへ来た。
一番暗くなる木陰に、そっと身を寄せる。
口火を切ったのは、不機嫌な上地だった。
「で、なに? こんなところに呼び出して」
「何もクソもねえだろ。なんだ、別れようってどういうことだ」
「ことば通りだよ。もう、終わりにしよう。もう、あんたなんか懲り懲りだ」
「ひでえなあ、あんなに睦みあった仲じゃねえか。ずっと一緒だよってむさぼりあったあの時間を忘れたのか」
「うるさい。もう、無理だよ。なにさ、ちょっとかわいい女が来たら、すぐデレデレしちゃってさ。何が悲しくて、あたしがあいつらとあんたの仲を取り持たなきゃなんないのさ」
「だから言ったろ、それは若山とか他のやつらとあわよくば、って気持ちだって。俺はしおり一筋だって」
痴話喧嘩だ。
犬も食わない茶番だ。
「知ってるんだから。あんた、九頭川にあの女の連絡先聞こうとしてたでしょ」
「あの陰キャに聞いたのか」
「は、やっぱりそうだ。ほんと、嫌んなる」
「てめえ、カマかけたのか」
危なかった。事実無根の嘘で危機に晒されるところだった。俺が。
「だから、もうこれっきりだよ。明日で帰るんだ。もう、連絡しないで」
「そう言うなって。せっかくこんな広い世界で知り合えたんだ。滅多にないことだぜ? ちょっとの喧嘩やらすれ違いやらで別れてたら世の中、みんな不幸になる。ちょっとした行き違いじゃねえか」
「もうあんたの甘いことばに騙されない。どうせ、男なんてヤることしか考えてないんだ。都合のいい女捕まえて、キープしておきたいだけだろ」
上地の声は硬い。
それにしても、よくこのチーター相手にきついことばを吐けるものだ。俺なんて怖くて、面と向かってここまで言えない。
そして、チーターもことばは温和なままだ。一応は恋人として、尊重しているのだろうか。
「なに言ってんだ。おまえだって、つかのまの女王様気分を満喫してただろ? 俺の女だったからだぜ? 男どもからかしづかれて、女どもから憧れの目で見られて、満更でもなかったろ?」
「それは……」
「何だっけな、『誰でもいいから、彼氏欲しい!』『彼氏にするなら強い男がいい!』『やった、めっちゃかっこいい彼氏ゲット』『もうすぐ、彼のものになれるかも』」
「何でそれを! あんたに言ってないのに」
「脇が甘いぜ。ツイッターなんか、探そうと思えばいくらでも探せる」
暗がりでもわかるくらい、チーターは両腕を広げる。
「さあ、しおり、来いよ。今なら、やり直せるだろ?」
上地はじっと俯いて、震えている。
迷っているのか、怒っているのか。
(どうするんだろうな)
別れるにしろ、続けるにしろ、いま選ぶしかない。
俺はどちらでもいい。上地のような男まさりで気の強い性格には、チーターのような喧嘩っ早く腕っぷしの強い男が合っている。暴力やら浮気やらで苦しみそうだが、それも含めてお似合いだとは思う。
「イヤだ」
上地は、絞り出した。
「あたしは、間違ってた。こんな行きずりみたいな、ただ焦って恋愛するなんて、間違ってた。こんなの、もう、ごめんだ」
「そうか」
夏の夜が凍りつく声だった。
チーターの瞳が血走って見開かれた。
「そうか」
もう一度、腹に響く声。
上地は目の端に浮かべた涙を拭い、一歩退く。
「やれやれ、俺の女でいるなら、見逃してやろうと思ってたんだがな」
「見逃す?」
チーターがパチンと指を鳴らすと、ガサガサと周囲から男たちが出てきた。キツネに、アリクイにカオナシに、他数名。
俺たちが尾行していたのは、こいつらだ。見つからないようにするのが大変だった。
アニマル軍団は、木々に囲まれた広場に散る。
上地を逃さないように、円形に。
真ん中に追い詰められる上地。
一歩前に出るチーターは牙を剥いた。
「なあ、仕方ねえな、最後にみんなとちょと遊んでもらうぜ?」
下卑た笑いが広場に響く。
見えなくてもわかる。
上地は蒼白になっているだろう。
だが、ただ、言われるがままになる女ではない。
「この、クソ野郎!」
上地はためらわなかった。
一瞬の予備動作のあと、下段気味の前蹴り。躊躇なく金的を狙っている。前蹴りは、回し蹴りとは違い、一直線に目の前の相手を打つ。素人の喧嘩ではなかなか出ないが、効果的な技だ。
なにしろ、脚は腕よりも筋肉量が多いので、威力がある。しかも射程距離が長い。そして回し蹴りと違って、振りが少ないので、かわされにくく、止められた後の隙が少ない。
だがそれは、俺のような素人相手の話だ。
ビシッという音が響く。
上地が前蹴りをチーターに止められたのを見て、俺は初めて上地が攻撃を仕掛けたのに気づいたくらいだ。そのくらい、使える者の技は鋭い。
そして、使える者は、受けも心得ている。
チーターのいやらしい笑みが、この暗闇ではっきりと見えた。
「いい蹴りだ。俺が相手でなきゃ、吹っ飛ばされてただろうな。おめえ、習わなかったか? 武術で武装するのも、武器で武装するのも、同じものだって。人に武器を向けて敗北した時の覚悟はできてんだろうな!」
ここからは、空手ではない。なすすべなく怯える上地の足首を吊し上げ、地面に転がす。
「さあ、お楽しみはこれからだ」
上地は、嫌だと言った。
なあ、よく言った、よく言ったよ、上地。
心が途切れていても、惰性でつながる関係を切るのはとても精神力が必要なものだ。何もせず、波風立てず、放置したほうが楽だからな。
だけど、おまえは関係を自分から切る道を選んだ。
強いよ、おまえは。
俺にはできるだろうか。
見込みのない未来を希求して、今の心地よさに安住して、次の止まり木を見つけるべきを、後回しにしてばかり。
よかったな、三根。
上地は、戻ってきたぞ。
俺はリーダーにスマホを渡して、立ち上がった。録画したデータは、パスワードをつけて、三根の方へ。パスワードは、犬養先生の方へ送るようにお願いしてある。
さあ、動いてくれよ、俺の脚。
震えないでくれよ、俺の声。
今から俺は道化。
花火を配る、哀れなピエレット。
「あー、先輩方、こんなとこにいたんすっか。ちゃんと場所、教えといてくださいよー。めっちゃ探しましたよ」
両手に袋を開けた花火を振り回しながら、俺はあえて木々をかき鳴らして広場に入る。
全員の視線が集中する。
周りの男どもの視線は、問題ない。
上地は怯えて泣き出しそうになるのを堪えている感じ。
強烈な殺気は、もちろんチーターから。
「なんだ、てめえ」
「あなたの後輩、九頭川ですよ。言われた通り花火買ってきましたよ」
俺は袋から適当に花火を掴んで、上地を取り囲む男たちの両手に、一本ずつ花火を差し込んでいく。シュールだ。
だが、俺は道化の顔をしながら、内心バクバクと心臓が早鐘を打っているのを感じる。ほんの少し、チーターがブチ切れたら、終わりだ。男たちに捕まえるよう命じたら、終わりだ。
しかし、チーターは何もせず、ただ俺の背中に焼けるような視線を送り続ける。見ていなくてもわかる。
「ほれ、上地も」
上地には特別に二本ずつ花火を刺す。
尻餅をついたまま、俺にまで怯えた表情を隠そうともせず向ける。
怖かっただろうな。
俺が、一騎当千の武者なら、ここで上地を安心させることもできたろうが、すまんな、俺にはこれが限界だ。
一つ、小さく深呼吸。
ここからが、正念場だ。
ゆっくりと、身を翻す。
ボディビル界の帝王のように肩をいからせ、上半身から湯気が噴き出ていそうな男が、そこにいた。
「九頭川ァ!」
「はい、先輩が最後っすよ。花火」
チーターの拳に、花火を差し込もうとする。
しかし、拳は逃げていく。
「歯を食いしばれッ!」
これまでか。
せめて、上地にとばっちりが行かないように、視線を完全に遮る。体に力を入れて、目を瞑る。
無理だった。
俺だけじゃ、やはり、無理だった。
リーダー、頼みます。
「やー、お待たせ。水を汲んでたら遅くなっちゃってさ。蝋燭とライターも持ってきたよ」
木々をガサガサとかき分けて、ヒグマのようにのっそりとリーダーが姿を見せた。
まったくためらいなく俺とチーターの間に割り込み、バケツを足元に置く。
「いやー、しかし意外だったよ。猪狩くんがまさか、みんなで思い出を作りたいっていうなんてね。こんなリゾートバイトなんて、結局ほとんど再会することなんてないのにね」
リーダーは俺から花火を取ると、チーターの拳に無理やり持たせる。
「いい思い出に、しよう」
空手の構えのまま花火を握っている姿は、滑稽でさえあったが、笑い出す心の余裕はなかった。
そして、俺と上地だけに聞こえる小さな声。
「さっきまでの君たちの会話は、パスワード付きのデータと、パスワードを分けて、別々の人に送ってある。今後、上地さんやその周辺に手を出したら、どうなるかわかるね?」
威圧感のあることばだった。
がっしりと良い体格のチーターに比べると、ヒグマ先輩は身長こそ低いが、圧倒的にゴツい。それも、肥満体型で太いわけではない。首や、腕や、腰など、明らかに使う者の筋肉だ。
チーターが絶対にリーダーと反目しなかったのは、一対一では敵わないことを直感的に理解しているからだろう。
「いい思い出、か」
頭に上った血が引いてきたようだ。
チーターたちのやろうとしたことは、歴然たる犯罪だ。今回は未遂だが、リーダーが止めなければ、そうなっただろう。
本気で訴えようと思えば、公権力も動くかもしれない。そうでなくても、チーターたちの所属する大学を通して、罰則を与えることはたやすい。
だが、リーダーは表沙汰にするのは最終手段にしようと言った。俺も、同じ意見だった。だから、判断はデータとパスワードの送り先両方を知る上地に委ねることにした。
チーターたちに罰則を与えるということは、上地を被害者にするということである。被害者には違いないのだが、そうすると、上地のこの一ヶ月の思い出はずっと「嫌な思い出」として残り、まつわりつくことになる。
うやむやにしてしまえば、ちょっと夏休みに失敗した思い出に過ぎなくなる。
そして、今回に関しては、上地にも悪いところがある。ジョックのクインビーとしてバイトも適当にしかこなさず、周囲に横柄に振る舞い、ここまでこじれるまでに離れる余地はあったのに、なあなあで済ませた。
そのぶんの責任は、取ってもらう。
痛い目を見ろ、ということだ。自分にも非があったのだから、このくらいは受け入れろ、と。ちょっとくらい腕に覚えがあるからといって、いつでも通用するとは思わないことだ
俺は聖人君子ではない。リーダーも同じだ。
この状態で、上地に否やはなかろう。
チーターが受け入れるかどうか。
最悪、俺とリーダーが壁になれば、上地は逃げられるはず。すべての努力が水泡に帰すが、それが最終手段だ。
じっと花火の導火線を見つめていたチーターは、軽く舌打ちする。
ずいぶん、時間が経った。
「まったく、リーダー、遅えよ」
諦めた乾いた笑顔だった。
周囲の緊張が解けた。
チーターが受け入れた。
取り巻きのアニマル軍団が、従わないわけがない。
「おい、九頭川。さっさと火をつけろ。とろとろすんな」
ささやかな花火大会が始まる。
いい思い出に、なっただろうか。
「うぇぇぇぇ~~~ぃい」
「あっつ、おまえ、バカ、花火振り回すんじゃねえ!」
「燃えてる! 髪の毛!」
はっちゃけたのか、諦めたのか、チーターの取り巻きどもは存外楽しそうに花火を満喫していた。
もともと取り巻き連中は一人では何もできないヘタレだ。チーターの権力におもねっていただけの日和見主義者。人間は群れなければ、だいたい無害なのだ。仲間が集まると、仲間外れを恐れる同調圧力のせいで、過剰に残酷なことを平気でできるようになる。だから、人間は一人でいるべきなのだ、とは、独りでいるしか選択肢のない山田仁和丸(40)の愚痴だ。
広場の端の切り株に腰を下ろし、チーターは黙って花火を摘んでいた。精神を統一するかのように微動だにせず、炎を上げるしょぼい手持ち花火をじっと見つめる。
俺は上地とリーダーと三人並んで、静かに花火に火をつけていた。
上地は手が震え、なかなか火がつけられない。体も、歯も、ガクガクと震えている。自分の手で抑えようとしているが、そうそう収まるものではない。
今になって、自分の身に起きたかもしれない出来事に想像が及んだのかもしれない。俺とリーダーが助けに来なかった並行世界に。
リーダーはヒグマのような大きな手で上地の花火の柄を掴み、そっと蝋燭の火に導く。
「僕と九頭川くんの間にいなさい。今日は、もう大丈夫だから。もう、何もさせないから」
はっとしたように、上地はリーダーの顔を見上げる。
何の役にも立たなかった俺は、線香花火の耐久チャレンジをしながら、改めてリーダーのさりげない手助けに感銘を受ける。
ああ、かっこいいなあ。
俺には手に入れられないもの全てが、ここにあった。もはや嫉妬さえ起きない。
線香花火の火の玉が、土に落ちる。
視界が暗くなった。
俺が求める未来は、いつまでも落ちない線香花火だ。
ないんだ。
そんなものはないんだ。
わかっているんだ。
だからこそ、胸が潰れるほど恋焦がれるんだ。
終章
和歌山県某所、JRきのくに線はなかなか電車が来ない。地方ローカル線、利用者は少ない。
俺は山崎と並んで、自販機くらいしかない駅ホームのベンチにだらんと座り、つまらないことをネタにして会話に花を咲かせていた。
「それでな、このベッドのシーツというやつは」
「ほー、そりゃすげー」
ベッドメイキングのセミプロとなった山崎は、何やかやで楽しかったようだ。将来ラブホで働いて、内輪事情を暴露した本とか書いたら受けそうな気がするが、どうだろう。
山崎は今までバイト経験もなかったらしいが、今回の長期バイトでちょっと自信がついたようだ。
その気持ちはわかる。
俺も初めてバイトして、お給料をもらったときには、大人になった気がしたものだ。
「む、すまぬ、まだ電車は来ないな? ちょいとトイレに行ってくる」
「おう」
「ちなみに大きいほうだ」
「クソどうでもいい」
なぜかニヒルに笑うと、山崎はドタドタとトイレへ駆けていく。
俺は所在なくスマホを取り出すが、何を調べるでもなく、通知の有無だけを見ると手にしたまま腿の上へ伏せる。
目の端に、人影を見た。
夏休みも終わりがけ、あまり人のいないホームに、目立つ。
髪の毛を片方に寄せたポニーテール。
少し焼けた顔。惜しげもなく腕と足を晒した長身は、改めて見ると均整が取れて若々しかった。この一ヶ月のバイトの、面倒のタネだった女だが。
「九頭川、ありがとう」
上地しおりが、目つきはきついままだが、軽く頭を下げた。
「感謝されるいわれがないぞ。俺のバイト代は渡さんぞ」
「んな、そんなもん要らないよ。あたしをなんだと思ってるんだ」
「カツアゲ?」
「もう、ほんと、腹の立つ。ああ、違う違う、こんなこと言いたいんじゃない。全部、豆市さんに聞いたよ。あんたが、陰ながら助けてくれてたんだって?」
「誰だよ、マメイチって。時代劇の人か」
「それ座頭市のつもり? リーダーじゃないの。あんたもしかして、名前も覚えてないの?」
「俺はずっとヒグマ先輩って心の中で呼んでた」
上地は呆れて、額を押さえる。
「あんたらしいや。ヒグマヒグマね、まあ確かに。あの人、豆市咲蔵っていうんだって。かわいらしい名前だよね」
「ほう、サクラ」
カードキャプターでもクライベイビーでもないサクラか。男性では珍しい名前で、しかも全く見た目と似合わない名前だ。だが、素敵な名前だ。
「あの人、強いよね。最初、全然わからなかった。昨日、猪狩に向き合った時、背中を見て怖気を振るったよ。
空手やっててもさ、もう、見ただけで絶対に勝てないってわかる相手がたまにいるんだ。どんなシミュレーションしても、絶対に負ける未来しか見えない相手が。
正直、猪狩なら五回に一回くらいは勝てそうなんだけど、豆市さんは無理だった。普段まったく強さなんて感じないのに。
最初からあの人を選んでたらよかったなあ」
「何を今さら。海の家グループの中でいい男は、ヒグマ先輩だけだ。他は俺を含めてゴミだ。それがわからなかった上地は、男を見る目がない」
「ひどっ。って、でも、反論できないや」
口元に手を当てて、軽く笑う。
少し、かわいらしい笑いだった。険のない付き物が取れたような柔らかい笑み。
「なあ、九頭川。何かお礼させてよ。なんなら、デートくらいしてあげてもいいよ、二人っきりで」
「何で上から目線なんだよ」
「だってあんた、あの二人のどちらとも付き合ってないんだろ? 練習しといたほうが良くない?」
「けっ、言ってろよ。それに、感謝なら俺よか三根にしろ」
「三根? なんで三根が関係あるのさ」
「上地を助けてあげてって、しつこく頼まれた。お礼に、なんでもしてくれるって話だ。おまえみたいに、デート一回よりも余程いい」
まあ、そんなものは要らないと無償で受けたのだが、今は言わないほうが面白そうだ。
「なんだよ、それ! 聞いてないよ」
「言ってないからな。そうだな、なんでもさせてくれるっていう女子に男子が頼むことは、だいたい一つくらいしかない。だが俺はひどい男だからな。たくさん思いつく。例えば、そうだな、やらしい動画を撮って荒稼ぎするとか、方法や使い道はいろいろある。三根のことなんて、俺は全然好みでもないし」
「九頭川、貴様なに考えてんだ! やっていいことと悪いことがある!」
「男に軽々しく何でもすると言う女が悪い。男の怖さは、おまえも身をもって知ったろ?」
シャツの襟を掴もうとする上地の手を払う。
「おまえのせいだろ? おまえが心配をかけたから、俺を動かすために三根は対価を払った。おまえがやったことは、それだけ周りに迷惑をかけてんだよ」
上地は真っ青になって、汗を流す。
このクソ暑い夏の終わりの駅ホームで、冷たい汗を流す。
「あたしが!」
「はあ?」
「あたしが、三根の代わりになんでもする。だから、あの子には手を出すな! 頼むから!」
「知らねえよ。俺はどうだっていいんだ。勝手に、三根と交渉しろ」
「そうする。九頭川、話が終わるまで絶対、三根に手を出すなよ! 絶対だぞ!」
上地は目を釣り上げて、スマホを触りながら、俺から離れていく。きっと、大慌てで三根に連絡しているのだろう。
それでいい。
自分のことを本当に心から心配してくれる友達を、せいぜい大切にするべきだ。こうしたら、嫌でも話し合うだろ? 俺の冗談に気づいて、拍子抜けするがいいさ。
俺はラインの通知をミュートにしておいた。きっと、しばらくのあいだ、けたたましく鳴り響くような気がしたから。
上地は声も聞こえないところで、大きな身振り手振りで電話をしていた。まあ、良かったのだろうな。
いい思い出に、なったんじゃないか?
「ところで、九頭川さんや」
「なにかのう、山崎さんや」
「さっき海の家のエゴサーチをしておったんじゃが、どうも深窓の令嬢っぽい人物が映った写真が上がっておってのう。おぬし何か知っておるか?」
「のう、山崎さんよ。深窓の令嬢がパレオ付きのセパレート水着で焼きそばを食べたり、ビーチバレーで息も絶え絶えになったり、スイカ割りで諸手を打ってはしゃいだり、そんなことするわけがないでしょう?」
「だよな、だよな、きっと夏休みは軽井沢の別荘で、文学をお読み遊ばされているに違いないよな!」
「なんでわざわざ奈良県民が軽井沢まで避暑に行くんだよ。おまえ、軽井沢言いたいだけだろ」
帰りの電車の中は、無駄話に花が咲いた。奈良県生駒市の山麓にも軽井沢があるが、それはどうでもいい話。
俺と山崎は、まるで友達のようだった。
古い電話機は、相手の電話番号が表示されなかったという。受話器を取るまで、誰からの電話かわからなかった。当然、押し売りや間違い電話も、声を聞くまでわからなかった。
親父も山田仁和丸(40)も言っていたが、当時は家や親戚、職場、親しい友達の電話番号は諳で覚えていたものだという。まあ山田仁和丸はヒキオタ無職ニートなので、覚える番号もなかっただろうが。
俺なんて、自分のケータイ番号さえ覚えているか怪しいものだ。
今は電話番号どころか、ライン通話なら名前でつながるから、番号さえ意識しない。
山崎ともしゃべり疲れて、電車で半ばまどろみながら、うとうとと車窓から和歌山の紀の川沿いを眺めていると、スマホが震えた。
ふっと画面を覗くと、みたこともない番号だった。070で始まるケータイの番号だった。
(ヒグマ先輩か?)
普段は知らない番号は二回かかってくるまで無視する。間違いや押し売りが鬱陶しいし、本当に重要ならかけ直すだろうから。
だが、今回はリゾートバイトが終わってすぐだ。しかも、すぐには切れないのでワン切りでもない。
電車のトイレがある結合部まで移動して、電話に出る。
「もしもし?」
俺の問いかけに応じたのは、意外な声だった。
「もしもし、佐羅谷あまねです。九頭川くん?」
「佐羅谷?」
俺は素っ頓狂な声を上げた。
驚きだ。
そして、じわじわ広がる喜び。
やっとだ。知り合って五ヶ月ほど。やっと、佐羅谷が連絡先を教えてくれた。家の電話や公衆電話の番号ではなかった。
「初めて、電話してくれたな。登録するぜ?」
「好きになさい。電話番号くらいで、何を調子に乗っているの」
「じゃあ、突然電話するかもしれないぜ」
どうやら、舞い上がってしまったらしい。
バイトが終わって、小金を持って、ふあふわした気分だ。
このうえ、佐羅谷から連絡先まで教えてもらえた。部活に行かずにフェードアウトするなんて考えも、しばし頭から消えていた。
今の俺の顔は、きっとだらけてニヤニヤと気持ち悪かったに違いない。ガラス窓に映った表情は自分とは思えない。
「電話なんてしなくても、平日はいつでも会えるじゃない」
佐羅谷は呆れてため息をつく。
平日でも夜は会えないし、声も聞けないのだが、佐羅谷にはその気持ちはわからないらしい。金曜日のおはようは、二日間会えなくなる合図なんだぜ?
だが、何か気の利いたことを言おうと思案する俺に浴びせることばは、ひどく残酷で、ひどく抑揚がなくて、俺と佐羅谷の温度差を象徴するかのようだった。
「明日、まだ夏休みだけど、学校に来てほしいの」、そう言う佐羅谷は、最後のことばを告げた。
「紹介したい人がいるの。わたしの、大切な人」
(了)