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3巻前半『高森颯太はそのままじゃない』

登場人物名前読み方


 九頭川輔  (くずがわ・たすく)

 佐羅谷あまね(さらたに・あまね)

 宇代木天  (うしろぎ・てん)


 犬養晴香  (いぬかい・はるか)

 沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)


 谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)

 那知合花奏 (なちあい・かなで)


 山崎    (やまざき)

 高森颯太  (たかもり・そうた)

 神山功   (こうやま・たくみ)

 田戸真静  (たど・ましず)

 田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)

 入田大吉  (いりた・だいきち)


 上地しおり (かみじ・しおり)

 三根まどか (みね・まどか)


 山田仁和丸 (やまだ・にわまる)

序章 


 高森颯太は、俺の中学の時の親友だ。

 もともとさほど友達の多くない気弱で内向的な男同士、おそらくお互いに唯一無二の相手だったはずだ。

 親友に限らず、学校の友達は、友達なのだろうか。

 考えてみると、おかしな話なのだ。たまたま同じ年代の、たまたま近所に住んでいた、たまたま同じクラスに配置された、たまたま同じ班になった、そんな人間同士が、友達や親友になるということが。

 人間の気の合う合わないがたくさんの二項対立するオンとオフのスイッチの無数の組み合わせだとすると、生涯の友なんて、たった四十人程度の教室にいる可能性はないはずなんだ。

 ただ、同じクラスで休み時間やお昼の時間に一人でいたくない。孤独が怖いのではなく、孤独と思われることが怖い。英語のコミュニケーションでも、体育の準備運動でも、相手がいないのが怖い。

 一人は怖くなのに、一人が怖い。

 一人が怖いと感じさせる学校の圧力が怖い。

 一人の怖さに押しつぶされないように、俺たちは友達を作る。運命もクソもない、ただ同じ箱にいただけの赤の他人、それが友達だ。

 だから、教室を出ると、学年が変わると、時が経つと、友達はいなくなる。

 友達を維持するのはお互いの意志だ。意志なき関係は、ただ消え去るのみ。友達がいない人間は、つながりを維持するほど他人に興味がないんだ。自分のことしか考えない、手前勝手な、エゴイストだ。

 高校デビューのために、高森を切った。

 俺は、すべて失うことでしか、新しい何かを手に入れることができないと思っていた。

 恥ずかしながら、俺は生きている。

 たくさんのものを失い、たくさんの経験をし、今また新しい居場所を得た。

 なあ、おまえもそうだろう、高森?

 恋愛研究会の扉を敲く高森は、背格好こそ中学時代と大差なかったが(もとより長身痩躯だ)、俺の親友だった高森ではない。

 

「好きな人ができた。会ったことはない」


 そう語る高森は、ひどく大人びて、だがはにかみようは子供っぽくて、ああ、俺もそうだった。

 そういう顔、そういう仕草をしてしまう心は、俺たちが自ずと身につけたことだ。


 自分以上に知りたい他人の存在。

 おまえは見つけたんだな。


 夏の始まり、もう期末試験も終わり、一学期の残りは消化試合。暑さと湿気がいや増すかつらぎ高校の理科実験室ーー恋愛研究会。

 佐羅谷あまねは汗を浮かべながら、ビーカーでコーヒーを作っている。

 宇代木天はハンディファンを目の前に置いて、ニコニコと話を聞いている。

 俺、九頭川輔は?

 高森と視線が交錯する。

 

「いいんじゃないか。話を聞かせてくれよ」



 


一章 高森颯太はそのままじゃない


「コスプレをしたい」

 最初の告白、そして続く告白。

 俺は高森の告白を敬意を持って受けとり、ただ地面にこうべを垂れた。もちろん、現実にかしづいたわけではない。ここは理科実験室で、教会や王宮ではない。心の中で、最大級の賛辞を送った。

 自分の好きなこと、やりたいことを口にするのは、案外勇気が要ることだ。それが天地神明にかけて何のやましいことがなくとも、勇気が要ることだ。

 好きなこと、やりたいことが、そのまま自分という人格に結びついてしまっているからだ。だから、万が一でも好きなことややりたいことが否定されたり、冷笑されたりすると、自分のすべてがこき下ろされた気になって、怒りや悲しみに支配される。

 ましてや、コスプレだ。

 コスプレということばは世間に認知され始めたとはいえ、まだまだ色物という意識のある趣味だ。まして、コスプレに偏見がなくとも、若い女の子の趣味と考える人間は多い。

 男のコスプレなど、まとめサイトや動画でもまったく需要がない。下手をすると、コスプレする男がいることを知らないコスプレ理解者がいるかもしれない。そいつらを理解者というかはともかく。

「へー、いいねー、高森くん背が高くってすらっとしてるもんねー。できるキャラも多そう」

 宇代木は黄色い猫の目で舐めるように高森を上から下へと見やる。

 まあ、宇代木らしい反応だ。宇代木なら、コスプレに偏見などないだろうし、コスプレするのに十分な知識と技術を提供できるに違いない。

「宇代木、経験はあるのか?」

「やっだー、くーやんの聞き方、えっちいよー」

「俺はないぞ」

「うわー、微妙に面白いような面白くないような返し方だ、つまんなーい」

 頼むから、真面目な相談の場でエクスペリエンスの意味をずらすエクスペリメントはやめてくれ。背後に感じる佐羅谷の視線圧力がものすごい。

「あたしも、ないよ。どっちも」

 徹底的に道化の仮面に満面の笑みを浮かべて、俺と高森を交互に視線を送る。

「高森、顔が真っ赤だぜ」

 こういうところは、昔と変わらないな。

「九頭川、俺も同じことを言おうと思ってた」

「うわ、うぜぇ……」

 こういうところは、昔と変わっていなかった。

「ごめんなさい、高森くん。うちの部員がお話を遮ってばかりで。まずは一通り状況を教えてもらえるかしら?」

 佐羅谷は深窓の令嬢の透徹した笑顔で、ビーカーコーヒーを給仕する。

 俺と宇代木に見えない睨みを聞かせる。宇代木も肩を竦めて、改めてきちんと椅子に腰掛ける。

 高森は嗜められたわけでもないのに姿勢を正す。


「高校一年の時か、もともとコスプレ写真を見るのは好きだったから、いつも通り、適当に流し見てたんだ。まとめとかツイッターとか、YouTubeで見ることも多いかな、最近は。

 その時、たまたま見つけてな。古い化石みたいなSNSだよ。コスプレイヤーズアーカイブって言うんだけどよ、ほとんど機能してないし、過疎ってる。デザインも雰囲気もほら、俺らの親世代がよくやってたやつ……ミクシィか、あれのコスプレ版」

 ミクシィ、聞いたことがある。山田仁和丸(40)が、誘ってくれる人がいなくて参加できなかった伝説のSNSだ。

 そして、誰でも使えるようになった頃には、誰も使わなくなった。もともとSNSというのは、大人が使うようになると廃れるものだ。

「そのカイブで、ワンカっていうレイヤーに一目惚れした」

 高森は膝の上で手を組み、一息に放つ。

 俺たちが黙って促すと、話が続く。

「いろいろ、調べたよ。その人の上げてる写真はもちろん、日記から、同名の他のアカウントがないかとか、いろいろな。わかったのは、ワンカという名前ではカイブしかやってないということと、奈良県民ということと、社会人であるということ、くらいかな。ほとんど自分のことは積極的に宣伝していないみたいだ」

 スマホでコスプレイヤーズアーカイブとやらのサイトを開き、ワンカとやらのページを見せる。

 一目でわかった。

 ページの本人の顔写真は、アサシンズアサシンのナハティガルだった。似ている。オレンジの髪にオレンジの瞳。少し青みがかったナース帽に、はだけた肩、ちらりと見せブラの肩紐。顔写真なのでそこまでしか見えないのが惜しい。

 見た目だけが似ているのではない。ただ美人というわけでもない。大きく見開いた瞳の狂気やクマっぽい涙袋、極限まで吊り上げた口の形や、エロティックな表情が、実にナハティガルだ。このまえ、三十分ほど高森とアサアサで対戦していたから、なおさらによくわかる。

 ナハティガルの雰囲気を見事に捉えた、よいコスプレだ。コスプレなどまじまじと見たことはないが、これはきっと有名なコスプレイヤーなのだろう。

「ふーん、美人じゃん。アサアサのナハティガルだよね? ちょっと見せてー」

 高森のスマホを持つ手に自分の手を添え、宇代木は画面を操作する。きっとわざとやっているのだろうが、そういうあざといボディタッチが「宇代木天」だなあと感じる。モテない高校二年生男子にとって、女子の迂闊な接触(物理)がどういう意味を持つか、きちんと女子だけに教育をするべきだと思います。

 高森は必死な感じでプルプル震えながらスマホを支えている。

「ほんとだー、全然、個人を特定する情報はないね。よく奈良県在住ってわかったね?」

「日記も全部見直したからな。本人は書いてないぜ? 何となくそう判断しただけだ」

 高森はスマホを胸元に戻す。

「そして、この前、意を決して俺もカイブにアカウントを作って、ワンカさんにメッセージを送った」

「すげえな、行動力」

 できることではない。

 一目惚れの力だろうか。

「それで、どんなメッセを送ったんだ? 好きです、付き合ってくださいって?」

「九頭川、自分にできないことを人に求めるなよ? なあに、簡単だ。「ドクトルのコスプレをしているんですが、一緒に写真を撮ってくれませんか」ってな」

 なるほど、同じ作品のキャラクターのコスプレをしていたら、一緒に写真を撮ることは自然だ。合法的に近づけるうえ、知っている作品なのだから、会話も困らない。これは好手だ。

 あれ、しかし、高森はコスプレなんてしていたっけかな。

「合わせを理由に近づくのはいい手だねー、意外と高森くん策士じゃん。でも、コスプレしてないんだよねー? あっれー、おかしいなー?」

「だから、頼む、手伝ってほしい」

 椅子に座ったままだったが、高森は頭を下げた。

「八月最初の土曜日、コスサミで合わせをすることになった。向こうは一人らしい。カメコもいない」

「八月最初……だと? おいおい、十日もないじゃねえか」

「げー。さすがにコスプレ未経験者が準備するには大変なんじゃないかなー」

 高森のことばには理解できない固有名詞や略語もあるが、とりあえず重要なのは期限だ。コスプレに必要な衣装、ウィッグ、メイク道具。そして、実地でメイクをこなせなければならない。たった十日で、最低限のドクトルを作り上げる。かなり、厳しい。

 宇代木は自分のスマホをしきりにスッスッと操作しながら、何か調べている。横から佐羅谷が覗いていた。

「コスサミ……世界コスプレサミット、えー、これ名古屋じゃんか。さすがにあたしは行けないよ? お盆はコ……、ごほん、東京に行かなきゃだし、かなーりこっちも切羽詰まってるんだよねー、タイム・アンド・マネーで」

 たはははーという感じで眉をハの字にする宇代木。言い換えなくとも、俺や高森はその程度のことばで察するぜ?

「高森、状況確認だ。おまえはどこまで自分でできて、俺たちは何を手伝えばいい?」

「衣装とコスサミの更衣室チケットは確保してる。というか、俺は金曜日から向こうに泊まる予定だ。助けてほしいのは、ウィッグ選びとカット、メイク。コスプレ自体の完成度の確認。あとは、現地に来て、ワンカさんと二人きりになれる状態を作ってほしい。そんなに、長時間は要らない」

 まるで伝えることが決まっていたかのように、滑らかに要求を述べる。きっと、几帳面にメモでもしていたのだろう。高森らしい。

 しかし、二人きりになりたいとは、高森、本気じゃないか。いきなり告白とは行かずとも、直接通じる連絡先を知られたら、上々だろう。

「俺がヘタレにならないように、背水の陣で臨みたいんだ。逃げ道を、塞いでくれ」

 わずかに照れて口を隠す高森は、決してヘタレない男の顔だった。

「いいでしょう、恋愛研究会として、高森くんの依頼を受けましょう。ところで、まず最初に尋ねたいのだけど」

 佐羅谷は宇代木のスマホから頭を上げる。

 視線を一身に受けて、高森が居住まいを正す。

「コスプレって、何なのかしら?」

「そこからかー!」

 俺たち三人の声がハモった。

 三人それぞれに力の抜けたポーズ。

 佐羅谷はキョトンとした顔で、なにが問題かもわかっていないようだった。宇代木が、額を抑えながら呻く。

「あー、くーやん、十分ちょうだい。あまねに一般教養を叩きこむから」


「コスプレというのはわかるのよ、ただそういう格好をして何をするのかというのが……」

「ほら、あまねだって、小さい時プリキュアごっことかしなかった?」

「大人がごっこ遊びをするの? 屋外で?」

「あー、だから、別にまんまごっこ遊びってわけじゃなくてさ、こう、好きなキャラクターになってみたいっていうか」

「わざわざ目立つところで、集まってコスプレするのはどうしてなの?」

「おんなじ趣味の人と仲良くなりたいじゃんか? 一人だけだと、複数のキャラを揃えられないでしょ?」

「写真を撮りたいの? 友達が欲しいの?」

「どっちもだよ! 人に会わないと、友達も恋人もできないでしょー?」

「街コンの一種にしか聞こえないのだけれど……」

「だあー、だめだー」


 部屋の隅で嘆きの歌が聞こえる。

 取り残された俺と高森は、冷めてぬるくなったビーカーコーヒーを前に、お互い視線が合わないように、ときどき表情を窺う。

「邪道なのは、わかってる」

 佐羅谷の「出会い系趣味?」という漏れ聞こえた単語に、高森は反応する。

「コスプレはさ、創作系の趣味でありながら、やっぱりちょっと特殊なんだ。どの作品のどのキャラをどういう風に見せるか、普通はちょっとずつ親しくなって小出しに見せ合うような嗜好を、自分の身体で一気に晒すんだ。履歴書を、胸にぶら下げてお見合いするようなもんさ。

 俺はこの作品のこのキャラが好きです! 誰か、気の合う人、友達になってくれませんかってね」

「自分の好きな作品を好きな人と近づきたい、普通の感性じゃねえか。何が邪道なんだ?」

「コスプレをすること自体に、そこまで興味はないってことだよ」

 佐羅谷と宇代木の会話は白熱する一方、俺たちの会話は静かに、独り言を交互に繰り返すように、選んで選んでつぶやく。

 宇代木の力説が仰々しく耳に入る。

「だから、好きなキャラと一体になる、コスプレってのは究極の愛の表現なんだよ! 自分の体と好きなキャラを隔てる画面が邪魔なんだよー!」

 だが、当の高森は、キャラクター愛を表現するに、さほどコスプレを必須と思っていないわけだ。

「レイヤーの男女比知ってるか? 十対一だ。圧倒的に女子が多い。当然、「それ」目当ての男もいる。カメコなんかそうだな。コスプレの世界じゃ、そういう奴を出会い厨って言って、嫌悪対象だ」

 相変わらず、高森のことばにはわからない専門用語が混じる。カメコ……カメラを持っている子? 

 男女比に差のある趣味を選ぶのが、モテるコツだ。どこかの経済学者が言っていたな。経済学者の言いそうなことだ。だが、人間同士が近づいて知り合いになったら、そこには友情も愛情も仲違いも生まれるわけで、そもそも、出会いを求めることを否定しては、生物は遺伝子をつなげない。人類が何百万年も連綿と続いてきたのは、生物そのものが出会い厨だからだ。

 出会いを否定するから、社会は少子化に悩むんだ。

「バカらしい。気になる人がいる、会いに行く。そのことの何が悪い。そんなことを言ってたら、アイドル商売なんて成り立たねえじゃねえか。出会い厨の何が悪い。どうせ、そんな陰口を叩くやつは、イケメンが来たら尻尾を振るに決まってるんだ」

 神山の相談の時も、少し揉めたな。趣味に出会いを求めてません、ということばの真意。結論としては、体のいい言い訳にするための逃げ口上だ、と恋愛研究会の女子二人と男子一人の判断。

 コーヒーに口をつける。冷めているが、冷たくはない。ぬるい冷コー。今どき大阪人でも言わない単語が頭にふと浮かぶ。きっと数日のうちに、コスプレ準備で俺たちは大阪へ行くだろうから。

「だいたい、高森はアサアサをやり込んでるし、自分からコスプレをしようとしているし、コスプレの世界についても調べている。始まりは出会い目的だったとしても、その世界に愛情のある人間を、出会い厨とは言わないぜ」

「……九頭川、少し変わったな」

「相手の好みに合わせて自分を変えるのは、恋愛成就の常套手段だ。相手がコスプレする人なら、自分もコスプレする。そういうことだろ? これは俺のおじさんの山田仁和丸(40)が言っていたことだが、ある北欧系の言語学の先生は、結婚して離婚するたびに使える外国語が増えていったって話だ。一目惚れで外国語さえ習得する、そんな人をおまえは出会い厨と言うか?」

「確かに、相手に合わせようとするのは当然のことか、ずっと嫌悪感に苛まれて、気づかなかった」

「自分に興味を持ってくれる人、自分の好きなものに親近感を感じる人を、無碍にする人間はいないさ」

「レイヤーはレイヤーに対しては警戒心が薄れるからな」

 どうやら、コスプレイヤーの省略形がレイヤーらしい。イラストを重ねる階層のことではないようだ。

 視界の端では、まだ佐羅谷と宇代木は話を続けている。

 こちらの話を聞いていなさそうなのを確認して、ことさら小声で高森に尋ねる。

「ところで、ワンカさんとやらの年齢は把握してるのか? 見たところ、さすがに年上っぽいが」

「推測になるが、おそらく二十代半ばだ」

「きれいなお姉さんは好きですか」

「だけど、レイヤーは年齢不詳だから、聞くまでわからないのが実情だな」

「コスプレなんて、若い女性ばっかりじゃないのか?」

「芸能界の踏み台にしか考えてないなんちゃってレイヤーはそんなアイドル崩れが多いけど、純粋にコスプレが好きな人は、けっこう年配の人も多いぞ」

 そして、高森はスマホでいくつかのコスプレの写真を見せてくる。

「ほら、この人」

「ああ、『#羅針盤』のナビゲーターか、ロリキャラだな。実に幼女だな」

「この方、御年三十三歳」

「待てい」

「それからこの人」

「『ディスティニー/フォーチュン』の化け狐だな。夏イベントのビキニか。なんというか、顔も体もポーズも隙のない美人さんだな」

「この方、御年アラフォー」

「待てい。コスプレイヤーは美魔女しかおらんのか?」

「まあ、そういう世界だ」

 まだその世界に入ったばかりであろう高森は、達観した様子で鼻を鳴らした。

 この恋は、前途多難だ。


「待たせたわね、準備はいいかしら?」

 肩までの短い黒髪をさらりと払い、佐羅谷がいつもの席の前に立つ。

 ツンと澄ました透明感のある表情で、夏の夕方にも涼しげだ。

 疲れた様子の宇代木が隣でうなだれていなければ、さぞ絵になったことだろう。お疲れさま。

「俺たちの準備はいつでもいい、むしろ佐羅谷待ちだろ」

「そう、じゃあ、メモを開きなさい」

 妙に機嫌がよい。

 どうしたのだろう。

 ひさびさに深窓の令嬢っぽく振る舞えているから、演技に没入しているのか。前回の谷垣内の依頼の時は振り回されるばかりで、あまり佐羅谷らしい演出ができなかったから、ここぞとばかりに芝居がかっている。

「高森くん、ウィッグ選びはわたしと九頭川くんが同行するわ。ウィッグカットとメイクは、天……宇代木さんがここで指導することにしましょう。名古屋にも、わたしと九頭川くんが同行します。今回は時間もないから、うまく行く保証はないよ、そこは理解してね」

「俺は意見すら聞いてもらった覚えがないんですが」

「あら、部長の決定に何か不満でも?」

「不満はねえよ」

 調子と機嫌の良い佐羅谷を見るのは、わりと楽しい。

「張り合いがないわね」

「張り合ってどうするよ、相撲がしたいなら、大和ガスの稽古場でも行けよ」

 しっしっと手を振ってぞんざいに返すも、やはり佐羅谷は上機嫌だ。ちなみに、大和ガス敷地内に錣山部屋があって、大阪場所の時は力士が詰めている。

 適切な決定をする能力があるのだから、将来も目標も、うだうだ悩まず、選び取ってしまえばよいのに、と思う。佐羅谷は何にでもなれる。

「ごめんねー、高森くん。ぜんぜん付き添えなくてー」

「いやいや、一番の難所、ウィッグカットとメイクを教えてもらえるなら十分だよ」

「さっそくだけど、明日、ウィッグを見に行きましょうか。あと、差し支えなければなのだけど、一度コスプレイベント? というものを見ておきたいわ」

 明日は土曜日か。いつもならバイトだが、もう夏休み前ということで、確か人員的には余裕があったはずだ。ボルダリング部の仮入部もたまには休んでよかろう。というか、いつまで俺はボルダリングをし続けるのだろう。

「えっと、ウィッグは日本橋で買う予定なんだ。慣れた人は通販で買うけど、初めてだから、店舗で買おうと思う」

「うん、最初はそれがいいと思うよー。オタロードのアシストが一番色の揃えがいいから。アサアサのドクトルなら、ミディアムでいいと思うけど、必ずかぶってから長さを見てね。マネキンの頭は小さいから」

 さらっと宇代木が助言する。さりげなく詳しいですね(意味深)。

「土曜日だと、えーっと、明日はWTCでコスイベやってるみたいだよ」

 海沿いのどこかの建物らしい。咲洲のインテックス大阪の一つ前の駅で降りるようだ。

「このコスイベは見学だけなら無料だから、心配しなくていいよ。じゃあ、明日、よろしく頼みます」

 高森は神妙な顔で頭を深々と下げた。

 コスプレか。

 思い出すまでもなく、実物は俺も初めて見る。自分でしたいとは思わないが、ここにいる女子二人がするなら、最も似合うのはどんなキャラだろう。益体もなく妄想が膨らむ。

 ああ、でも、佐羅谷も宇代木も普段から「自分。」をプロデュースしているので、コスプレみたいなもんじゃねえか。すると、本当に見てみたいのは、「中の人」か。もっとも、中の人が本当の佐羅谷あまねや宇代木天である保証は、どこにもない。最後まで演じ続けた「自分」は、本当の自分だ。そういうことだ。

 やはり、中の人など見なくて良い。

 俺は、真実から最も遠いところにいるヘタレだ。

 

 膝を突き合わせて、最終確認をする。

 俺と高森と佐羅谷の最寄駅から、明日土曜日の集合時刻と予定を組む。

 なんばとWTCまでの交通費を考慮した結果、近鉄高田から大阪線で鶴橋へ、そこでエンジョイエコカードを買って、地下鉄でトレードセンター前へ。これでも、片道千二百円くらい、それなりに痛い出費だ。夏休みはいつもより多めにファミレスバイトのシフトを入れるしかない。

 ちなみに、エンジョイエコカードというのは地下鉄一日乗り放題の切符だ。そんな切符があると知っている高森の情報に舌を巻いた。

 最初にコスプレを見学して、その後でウィッグを探すことに決まった。恋愛研究会らしく、実に色気のないただの手助け。

 だが、なんとか十日後のコスサミに目処がついて、高森は弛緩した顔で口元に笑みを浮かべる。

「しかし、助かった。九頭川、ありがとう」

「礼なら、恋愛研究会全体にしてくれよ。すべて片付いてからな」

 あとで俺が嫌味を言われるので。

「九頭川がいなかったら、ここへ相談には来なかったさ。そういう男子は多いんじゃないか?」

「俺は自分がいないときの恋愛研究会を知らないんでね。なんとも」

 佐羅谷と宇代木は、何も答えない。二人がだんまりを決め込むと、真実は知り得ない。

「じゃあ、俺は帰るよ。九頭川、どうする? たまには飯でも食って帰るか?」

「中学の時、飯を食って帰った記憶はないがな」

 社交辞令にも程がある。今の俺たちは、そうじゃないだろ? 距離感を掴み損なった元親友同士のあやふやな関係が滑稽だ。

「あ、九頭川くん、今日は、その」

 ところが、俺たちのぎくしゃくした会話に割って入ったのは佐羅谷だった。珍しく慌てた様子だ。

「ごめんね、高森くん。今日は恋愛研究会で予定があってさー」

 ことさらに「恋愛研究会で」を強調し、宇代木はつまらなさそうに目配せする。ぱっちりと上を向いたまつ毛が、二度、かわいらしくしばたたいた。

「そう? じゃあ、俺は先に失礼するよ。また明日、よろしくね」

 内心は知れないが、名残惜しそうに高森は理科実験室を出た。

 黒く乾燥したコーヒーの残りカスがこびりついたビーカーが、夕暮れの強い西陽を浴びて透かして、黒い机に独特の光を映していた。

 俺も、少し安心した。今さら、高森と仲良くすることが許されるのか。恋愛研究会という部活の環境だから、仲良く話せるだけではないか。二人っきりで、何を話せと?

「で、なんだよ、佐羅谷。おまえにしては歯切れの悪い」

 もじもじとうつむきがちに、言い淀む。

 一通り恥ずかしがって、隣で白けている宇代木に散々急かされ、ようやく口を開く。

「あ、あの、わたし、初めてだから、一緒に行ってほしいの」


 というわけで、俺たち三人はいつものゲーセン、CUEにいた。

「なんて騒音……」

 ゲーセンを全否定する佐羅谷の呟きは、周りに聞こえなくて幸いだった。

 だから、俺は反対したんだ。

 建物内のタバコは禁止されたから、今のCUEもタバコ臭はしない。だが、この喧騒や機械音は、不慣れな人間にはちと厳しい。

 アサシンズアサシンというゲームの内容が知りたい、とは佐羅谷らしい生真面目なお願いだった。俺はゲームの公式サイトでイラスト立ち絵やゲーム動画、ストーリーを見ておくだけでいいと言ったのに、佐羅谷は納得しない。宇代木は中立で、どっちでも良さそうだった。

 そして、頑固な佐羅谷を説得できるわけもなく、今に至る。

「だーから、言ったろ。ここは高校生女子が来るところじゃねえよ」

「え、くーやんとこのあいだデートしたじゃんか」

「してねえよ。おまえが沼田原先輩を使ってまで俺を追いかけてきただけだろ」

「くーやん、自信過剰だねー追いかけられると思ってんだ? まー、両手に花で? モテないなんて言っていた頃とは? ずいぶん変わっちゃったんじゃないー?」

 俺はいつも通り二人の斜め後ろを歩いていたのに、宇代木はするりと回り込んで、俺が真ん中にされる。

 どこか含みのあるじとっとした視線の佐羅谷と、にっこにこな仮面を貼りつけた宇代木。だが、わかる。ゲーセンにいるモテない男(9割)には、美少女二人を侍らせたいけすかない男に見えるということを。嫉妬の気配をビンビンに感じる。

 負の感情から逃れるように、俺は格ゲーの一角、ほとんど人のいない筐体に二人をいざなう。

「対戦しよっかー、あたしがナハティガル使うよー」

「宇代木、本気出すなよ? 瞬殺されるから」

「しないよ。このあいだだって、遊んであげたじゃんか」

 この前は遊ばれた……だと? 俺は弱かった? いや、全国のネット対戦で十一人抜きしていたんだ、そこまで弱くはないはず。いや、思い出せ、クールになれ、九頭川輔。あのとき乱入してきた宇代木は、氷姫で、最終戦までもつれた。もつれた? もしかして、もつれさせたのか? まさか、な?

 そうだ、冗談だ。宇代木特有の冗談に決まっている。あの高森でさえ、俺は使い物になると言った。

 宇代木は、筐体の横から黄色いカラコンが見えないくらい、にぱーと笑顔を一瞬だけ覗かせる。

 ゲームが始まる。

 佐羅谷はなぜか俺の横に立っている。宇代木のほうへ回ればいい、といちいち伝えるのも億劫だ。

 いつもは跳ばすキャラクター同士の会話や、ナレーションも省かない。格ゲーに深いストーリーがあるわけではないが、知っておくと理解が深まるだろう。佐羅谷はじっと文章を追っている。

「殺し屋を殺すことを生業としているものたちが闘うゲームなのね」

 およそ佐羅谷から聴けそうにないセリフが聞こえる。深窓の令嬢もアサアサに出てきそうじゃないですか? キャラクター名は響とか、ありがちで。

「ま、殺し屋殺しなんて専業にするには需要がニッチすぎて成り立たないだろうけどな。詐欺師専門の詐欺師みたいなもんだ」

「九頭川くん、お話しするのはいいけど、負けてるわよ」

「知ってるよ、宇代木が強すぎるんだよ」

 ナハティガルの勝ちポーズとセリフがスピーカから流れる。

 二回戦目は、さらに瞬殺された。手加減が一切なく、ここまで強いのかと驚く。

「九頭川くん、早いのね」

「その言い方は、ああ、もういい。おい、宇代木、もうちょっと動けるように手加減しろよ」

「ごめーん。ちょっとイラッとしたから本気出しちゃったよ。次は回避に専念するから、ドクトルの声とポージングがわかるような必殺技を見せていって」

 それから、俺たちは二回ほど同じキャラで対戦をした。

 ドクトルは、黒髪のボサボサ頭で丸目のサングラスをかけた中年男性、長身痩躯を活かした気持ち悪い基本攻撃と、外科医の道具(どこに隠しているのかはわからない)をイメージした必殺技。着古した白衣は裾のあたりが汚れて黒ずんでいる。

 ナハティガルは、オレンジの髪のツインテールに、クマの目立つ寝不足のような瞳、スプリットタン、体に比して小さい薄ピンクのナース服に、いろいろなものが隠せていない格好だ。下着見せ見せの格好でコスプレして良いのだろうか。水着は見えてもいいのだろうか。論理がわからない。意外な武闘派で、基本攻撃は空手っぽく動き、必殺技は距離を無視した理不尽なものが多い。

 ゲームの設定上では、犬猿の仲ということになっているが、殺し屋で犬猿の仲ってどういうことなの……。

 ともあれ、ゲームなどしない、まして格ゲーなど存在さえ初めて知ったであろう佐羅谷には新鮮だったようで、好悪はともかく、楽しめたようだった。

 きっかり四百円ぶんをアサアサに注ぎ込んで、俺たちは殺し屋をやめた。何とも、義務的で事務的で機械的な、遊びもない情報収集としての同行だった。これぞ恋愛研究会。

「どんな理由であれ、男女が一緒に出かけたらデート」とは佐羅谷の言だが、さすがにこれをデートというのは違うと思うんだ。

「あ、そうだ」

 出入り口の階段を降りていると、先頭の宇代木が振り返る。何か企んでいる顔だ。嫌な予感しかしない。

「くーやん、あまねとプリクラでも撮っていったらー? このあいだあたしと撮ったみたいに」

「おい待てなぜ無意味な行動に意味を持たせようとするんだ、おまえは」

「あはははー、じゃねー、今日は先帰るよ、バイトだよー、稼げるときに稼がないとねー」

 俺が止める間もなく、宇代木は踊るように自動ドアの向こうへ消えていった。

 一歩前を歩いていた佐羅谷の顔は見えない。足が、止まっている。

「あの、佐羅谷さん?」

「何かしら、九頭川くん」

「あれは、宇代木が、俺を宥めに来てくれたときのことで、」

「わたしは何も聞いていないのだけど」

 理由を言わなきゃ言わないで怒るくせに、と言いたいが言えない。これ以上燃料を投下したくない。

 とりあえず、宇代木に手を出す気など微塵もないことを伝えるが、どの程度わかってくれたことやら。俺の顔を見ることさえせず、とことこと凜然とした歩みで高田市駅までやってくる。俺は自転車を押しながら、言い訳の礫を投げ続ける。

 高田と名のつく駅は三つある。

 ここは高田市駅。佐羅谷がどこに住んでいるか知らないが(そう、俺はまだ佐羅谷の住んでいる市さえ知らないし、連絡先もわからないのだ)、この駅は使わない。そして、高田と名のつく三つの駅は、互いにつながっていない。だから、三駅間の移動は、歩くしかない。

「ところで、九頭川くん、どこまでついてくる気かしら?」

「やっとしゃべってくれたか」

「質問に答えて」

「近鉄高田まで送る。前みたいなのは、嫌だからな」

 つまらないナンパも振り払えない佐羅谷を、途中で放り出すのは嫌だった。せめて、一緒にいる時くらいは、送り迎えさせてくれ。

 夏の盛りでまだ日も高いが、それは関係ない。

 じっと見つめてくる緑がかった瞳を、静かに見つめ返す。

「そう、じゃあ、もう少し一緒ね」

「ああ、ついでにちょっと寄りたいところがある」


 高田市駅のくたびれた商店街、昭和の香りのするアーケードが設えられた一角、確かここにチケット屋があったはずだ。

 チケット屋という商売は都会でしか成り立たない。高田市にチケット屋があるということは、高田は都会であるということの証明だ。たぶん。

「近鉄の株主優待乗車券?」

「おう。近鉄の路線なら、片道どこまででも乗れる。名古屋に行くなら、直接切符を買うよりも安くつくはずだ」

 チケット屋のガラスケースの中にある切符を見ながら、俺はヤフーの路線情報で高田市駅~近鉄名古屋駅の金額を検索する。直接切符を買うよりも、数百円安い。この金額差は、往復で二倍になり、高校生にとってはかなり重要な差だ。お昼ご飯一回分にはなる。

 佐羅谷の最寄駅は知らないが、おそらく同じくらい安くなるはず。

「確かに、これはお得ね」

 一人二枚ずつ切符を買い、チケット屋を出る。

 またしばらく、佐羅谷の横を自転車を押しながらついていく。

 小柄な佐羅谷の歩みは、普段の俺よりも遅い。とぼとぼという感じで、自転車を押しながらだとちょうど良い。

 特に何かを話すわけでもなく、ただ、一緒に歩くだけ。だいたい、佐羅谷と二人きりの時は、恋愛研究会の部室でも、あまり積極的な会話はない。だが、別段居心地が悪いわけではない。無理に沈黙を打破しなくても、なんとなく、お互いの存在を認識している。その感覚だけで、じゅうぶんだ。

 ところが、なぜか今の佐羅谷はそわそわと落ち着かない。数歩歩くごとに、ちらちらとこちらを見てくる。なんだ、らしくない。

 結局駅に着いても言い淀んでいるので、俺から尋ねる。

「なんだよ、佐羅谷、さっきから落ち着かねえぞ。尾行でもされてるのか?」

「尾行してるのはあなたじゃない。そうじゃないわ、その……名古屋へ行く時、大和八木で待ち合わせでいいのかしら?」

 うつむいて上目遣いを逸らし、恥ずかしげだった。

 最初は何を言っているのかわからなかった。俺は、個人個人が別々に名古屋のコスサミで現地合流だと思っていた。高森は、着替えの時間があるので、金曜日から前泊すると言っていた。宇代木は今回は行かない。つまり、一緒に行くとしたら、俺と佐羅谷だけになる。

「おいおい、一緒にって、おまえ、いいのか? 一時間か二時間、ずっと隣同士ってことになるけど」

 きょとんとして、はっとして、慌てて、プイっと横を向いて、この間十五秒、わりと時間がかかった。そして、怒濤のまくし立て。

「別に、どうってことないでしょう? ただの部活で出るだけなのだから、部員同士が一緒に行動するのは当然のことよ。そうやってちょっと二人で出かけたところで、わたしと九頭川くんの間には、何も起こらないでしょう?」

「あー、はいはい、そうですか」

「何よその、やれやれ、みたいな顔は。ほんと、くたばれ。すぐ勘違いするんだから」

 歯軋りするほど悔しいですか、そうですか。

 部活であれなんであれ、男女が一緒にいたらそれはデートだと嘯いたのはどの口だったのでしょうね。少し突き出した形の良い唇に見入って、通報されないうちに顔を逸らす。

 コスサミの開始時刻を鑑み、昼前に名古屋・オアシス21に着くように集合時刻を決める。

 後から気づいたことだが、佐羅谷と二人きりで出かけるのはこれが初めてだった。佐羅谷と部室で二人きりとか、宇代木を含めて三人というのは、けっこうあった。しかも、準急なら二時間くらい一緒に電車で揺られる。これは少し、楽しみじゃないか。期待して夢見るくらい、勝手だろう?

 佐羅谷が何が原因で恋愛研究会に身を置いているのか、せめて一部でも理由が知りたい。

 駅まで送り届けて、改札に消える佐羅谷は、最後まで何もしゃべらない。改札の向こう、声が届くぎりぎりのところで顧みる。ここで無言で消えるほど、佐羅谷は無礼ではない。

「じゃあね、九頭川くん。またあした」

「ああ、また明日な」

 明日があるのは、いいものだ。

 明日に会う約束ができるのは、いいことだ。

 例え部活で、男が余分にいようが、コスプレ見学やウィッグ購入が目的だったとしても。


 ここは大阪湾の埋立地、咲洲。

 WTC、ワールドトレードセンターというと、大阪府庁を移転するとかなんとか話題になった気がするが、結局、地盤が安定しないという理由で立ち消えになった。今は、ちょっと吹き抜けやガラスがフォトジェニックなただのビルだ。

 向いにはATC、アジア太平洋トレードセンターというショッピングモールがある。難波や心斎橋を抱える大阪で、どこの誰がわざわざ余計に電車賃を出して、埋立地のしょぼいショッピングモールに買い物に来るのだろう。

 だから、人を集めるための施作を打った。

「ここは、関西のコスプレの聖地なんだとよ」

 昼前のWTC、建物周辺の庭と一階二階のステージや廊下、吹き抜け、エレベーターホールなどがコスプレに使えるらしい。

「詳しいのね、九頭川くん」

「俺の豆知識は山田仁和丸(40)直伝だよ」

「九頭川のおじさん、40になったんだ」

「え、実在してたの、その人」

 二階廊下の手すりに並んで、俺たち三人は点在するコスプレイヤーを眺めていた。それなりに広い空間だが、一般人とコスプレをしている人が半々くらい。

「あ、いや、会ったことはないんだ。昔から変な話をするときに九頭川がおじさんの話を持ち出してきたから」

「ああ、そういうこと」

「なんで二人して生暖かい目で俺を見るんだ、理不尽!」

 大げさに天を仰ぐ。

 佐羅谷と高森は、笑いながら階下のコスプレイヤーに視線を戻した。

「一人でいる人はあまりいないのね。昨日少し動画を見ていたのだけれど、スケッチブックを置いて、たくさんの人に囲まれて撮影されるのが普通だと思ってしまったわ」

「ああ、そういう囲みが起こるのは一部のレイヤーだけだよ。そして、一部のイベントだけ。大阪のストフェス、名古屋のコスサミ、あとは東京のとなコスかコミケくらいじゃない?」

「だいたいは、自分たちで撮影し合うのか?」

「一昔前はそういうのが多かったらしいけど、今はカメラマンを呼ぶほうが多いみたいだ。コスプレして写真を撮るのは、けっこうしんどいらしい」

 確かに、動きにくそうな非現実的で非実用的な衣装では、カメラを覗くだけでも大変だろう。カラコンをつけていたら、色もきちんと見えない。

「カメラマンって、プロなの?」

「プロと言うか、アマチュアかな。もちろんプロもいるけど、手弁当でも女性を撮影したい男はたくさんいるんだよ」

「佐羅谷、それ以上は聞かないでおこうぜ。俺たちはコスプレの楽しいところだけを見ておこう」

「相変わらず意気地なしね」

 とは言いつつも、くすりと笑う佐羅谷。

 私服姿を見たのは、二回目だ。一回目は、アルルの喜久屋書店の前で偶然会ったとき。あの時は青や水色を基調とした装いだった。今日はあの時よりも、白が多く、かすかに透ける。露出度は低い。他意はない。

 コスプレイヤーの会話や足音が、三階まで吹き抜けになったビルに緩やかに反響する。

 俺たちは別に目当てのコスプレがあるわけでもなく、コスイベの雰囲気を確認できたらよかったのだから、すぐにウィッグを買いに日本橋へ行っても問題ない。ただ、高森も実物のコスプレを見るのは初めてらしく、なかなか動こうとしなかった。

 そんな中、ケータイが震える音が俺たちの間だけでわかるくらい、静かに聞こえる。

 佐羅谷の表情が曇る。

 何度目だ。

 実は、今朝電車でここへ来るまで、頻繁に佐羅谷のスマホが震えた。最初はサイレントモードになっていなかったのを、あまりにしつこく鳴り響くので、今でも音は出さずにバイブにしたままだ。

「……ッ、また、もう」

「なあ、佐羅谷、ほんとうに急ぎじゃないのか?」

 佐羅谷はスマホの通知について、何も言わない。ただ、深窓の令嬢とも演技の弱い素の佐羅谷あまねとも少しく異なる。俺が今まで見たことのない佐羅谷あまねの対応だと思った。

 漏れ聞こえる舌打ちや文句は、嫌がっているふうではあるが、聞き分けのない子供に対するような、あるいは頼られることをまんざらでもなく思っているような、ふわっとした態度だ。

 嫌がりながら、嫌がっていない。

 本当に面倒な、鬱陶しいだけのメッセージなら、一瞥をくれておしまいだろう。こんなに暖かいため息をつかないはずだ。

 俺は他人のこんな表情を見たことがない。だから、佐羅谷に連絡してきている誰かが、佐羅谷とどんな関係なのかわからない。おそらくは同一人物からの連投であろうというのも、俺の推測だ。

 佐羅谷はスマホ画面を消して、トートバックに沈める。

「ごめんなさい、気にしないで」

 そして、通知を見たときの顔は、絶対に俺たちに向けない。

「高森君、コスプレイベントというのはだいたいわかったわ。でも、あなたの話だと、コスサミ? というのは、一般の人がたくさん来て、有名なコスプレイヤーはカメラマンに囲まれたりするわけよね? その中で、ワンカさんと二人きりになりたい、ということでいいの?」

「そうだね、ワンカさんがナハティガルのコスプレをしたら、見た目もあれだから、かなり囲まれたり列ができたりすると思う。ただ、俺は直接一緒に写真を撮りましょうってアポ取ってるから、向こうも交流する時間を持ってくれると思うんだ」

「ワンカさんは、その日、一人で来る予定だったの?」

「写真をメインにする日はカメコを呼ぶらしいけど、ああいうお祭り系イベントでは、スケブを置いて撮られるほうを優先するみたいだ。だから、俺が声をかける余地があったんだけどな」

 高森はいいように解釈しているが、高森の言う「一緒に写真を撮りましょう」を向こうがどう解釈しているかはわからない。向こうは現地でたくさん他の友達やカメラマンに会えて、その中に高森が五分だけ時間をもらえるとか、そんなオチもありうる。本当にワンカさんとやらが、孤高の一人で来るならよいが。

「じゃあ、そうね、わたしたちは撮影係として同行したことにしましょうか。二人だけじゃ、自撮りしかできないでしょ? 昨日ちょっと見たのだけど、格闘ゲームなら、闘う前の向き合っている場面を引きで撮ったりしたいでしょ?」

「お、おお、そうだね、確かに、自撮りなら並んで顔写真くらいしか撮れない。でも意外、佐羅谷さん、格ゲーなんてやったりするんだ」

「別に、部活の一環よ」

 得意げに髪を払って見せる。近ごろ多いな、この仕草。というか、おまえゲームは見てただけでやってないじゃん。

「待て、佐羅谷。撮影係はいいが、見ろ、あのカメラマンやコスプレイヤーを」

 そう、彼らが持つカメラは、俺たちのよく見るスマホやオサレなバッグに入るカメラではない。黒光りするような、男の手で持ってちょうどよい大きさの巨体に、黒光りあるいは白くそそり立つようなレンズがついたカメラだ。何かそれ以外にもよくわからない機材がたくさん転がっている。俺はカメラの値段など知らないが、先日の写真部の入田の感じからいうと、あれはめっちゃ高い。

「撮影係で行くのに、手ぶらじゃまずいだろ? せめて格好のつくカメラがないと」

「高校生なのだから、スマホでいいんじゃない?」

「今はスマホでもきれいに撮れるからね、そうアイフォンならね」

「広告入れてんじゃねえよ、高森。まあ、初めてのコスプレだから、撮影係という名の同行でもいいが。ああ、ついでに言っておくが学校の写真部に期待するなよ? やつらも夏休みは活動期だ。一日たりともカメラなんて借りられない」

「カメラ、そうね」

 佐羅谷はすっと瞳を伏せる。トートバッグの中身を透視するかのように。

「カメラは、わたしがどうにかするわ。最悪、なければないでいいでしょう」

「あてはあるのか?」

「高価なものだから、気が引けるけど、わたしが頼んだら貸してもらえるかも、程度のあてはあるから」

 それ以上は、何も言わなかった。

 あてとやらを問いただす隙は、いっさい寄越さなかった。

 聞かれたくないという空気を読んでしまう。あてがあると言った時の佐羅谷の顔は、スマホが震えるときの佐羅谷の顔だった。だから俺は、何も聞けなかった。


 どことなくぎこちない俺と佐羅谷の空気を察してか、高森は不得意なくせにいろいろと話を振ってくれる。適当に、中身もなく返し、上の空の自分が嫌になる。こんな、中身のない、舌先だけの反射で会話するのは、一年の時で卒業したはずなのに。悪いのは、高森ではない。沈黙を埋めないと嫌な雰囲気を漂わせてしまう、俺の問題だ。

 昼食を終え、適度に騒がしい地下鉄を静かに乗り継ぎ、日本橋にやってくる。

 本来の日本橋の中心、電気街から一本入った筋に、オタロードと呼ばれる場所がある。いわゆるオタク系趣味の店が並ぶ一角だ。

 コスプレ関係の店もある。普通のアニメ系ショップの一角にもあるが、専業のお店もある。宇代木が教えてくれたのは、アシストというウィッグ専門店。

 ガラス戸を前にして、三人少しためらう。

「やっぱり、少し緊張するな」

 高森は深呼吸して扉を開ける。

 中に入ると、狭い店内にずらりとウィッグが並んでいた。全部髪の色が異なっているらしい。この膨大な種類から選ぶのか、と絶望的な気持ちになる。

 ところが、佐羅谷は一歩先んじる。

「ドクトルはグレー系だから、あのあたりね」

 仕事が見つかって、俄然やる気になる女。

 ぐだぐだと腐るよりも、マシだ。

 三人で、スマホで保存したドクトルのイラストと比べながら、ああでもないこうでもないと、一番近そうな色に絞っていく。

 最終的には店員さん(女性だが、男性キャラのコスプレをしていた)のアドバイスで、色と長さの選び方と被り方も教わり、実際に被ってみて、決定。

「いやー、やっぱり一人で来なくて正解だった。色とか長さよりも、あの雰囲気のお店に一人で入れる気がしなかった」

「一人なら一人で、おまえなら何とかしたんじゃないか?」

 俺が素直な感想を述べると、高森は少し声を荒くして言い返す。

「一人でできたかもしれないことを、人と一緒にやりたかったんだ」

「そうか。そういうもんか」

「そういうもんだって。九頭川だって、もうわかってるだろ?」

「さあ、どうだろうか」

 自分一人でできることを、わざわざ人と一緒にやる意味は何だろうか。どうして、高森は苦しそうにそんなことを言うのだろうか。

 隣でトートバッグの中で震えるスマホを見つめてため息をついている佐羅谷なら、わかるのだろうか。

「用事はもう終わったけど、どうしようか。ゲーセンでも寄っていく?」

「それはおまえの趣味だろ。せめてカラオケとか執事カフェにしろよ」

「カラオケって、佐羅谷さんがカラオケに行く姿が想像できないじゃない。それに、カラオケに誘うのは九頭川の役目だと思う」

「俺はすでにフラれてるぞ」

「そうなんだ」

 俺たちが次の予定を決めあぐねていると、佐羅谷がおずおずと手を上げる。

「あの、ごめんなさい。少し、電話していいかしら」


 佐羅谷はウィッグショップの隣、シャッターが閉まった酒屋の前に行って、電話している。

 漏れ聞こえてくる声。

 周辺の喧騒はけたたましいのに、聞きたい声だけは指向性を持って聞こえてしまう。この現象を何と言うのだったか。

「……だから、無理だって……」

「……バカ言わないで、……未成年よ?」

「……ところでお願いが……」

「ほんと、ひどい人……」

「……じゃあ、今回だけよ?」

「わかった。……でいいのね?」

「うん、またあとで」

 顔は見ないようにしている。

 声も聞きたくなければ聞こえないようにできないものか。

 電話の相手が誰かは知らないし、知りたくもない。だが、この「佐羅谷あまね」を引っ張り出す相手は、ただものではない。佐羅谷にこんな表情をさせられるのだから。

「ごめんなさい、今日はここで先に帰らせてもらっていいかしら?」

 確認ではなく宣言をして、佐羅谷はどこか地下鉄の駅を探して、でんでんタウンの大通りへ消えていった。胸の前で小さくふらふらと手を振り、二度と振り返りもしない。

 高森は、用事も終わったということで、引き留めもせずに笑顔で見送った。

「九頭川、すげえ顔してる」

「うるせえ」

 これはすげえ顔ではない。ひどく醜い顔だ。朝、毛束を作るつもりで整えたワックス混じりの髪を、乱雑にかき上げる。

「ゲーセン寄っていくか?」

「ついでに、晩飯まで食べて帰るか。たまには、な」

 中学時代、高森とご飯を食べて帰ることなんてなかった。だから、これが初めてだ。

 高森は吹き出して、目尻に涙さえ浮かべる。

「そうだな、たまには、だな」


 とはいえ、このあと名古屋のコスサミに同行するわけだ。あまり散財するわけにもいかない。

 なるべく時間を稼げるゲームをしたり、飲み物一杯でしばらく休憩したり、少し通りから外れた汚くてボロい定食屋で晩ご飯を食べたり、それなりに楽しんで俺たちは帰途についた。

 高森とは同じ中学で最寄り駅も同じ。帰りの電車も同じだ。

 晩ご飯を済ませたとは言っても、まだ七月、日は高く、外は明るい。夕方のオレンジ色の光に照らされる駅の構内、熱風が滞留しているかのように暑い。

 奈良県に入った。王寺駅で乗り換えのためにいったん降りる。JR高田へ行くホームに並ぶ。

「いやー、今日は楽しいな。都会へ出るのも久々だけど、たまにはいいよな」

「そうだな。アルルやCUEやブックオフだけだと、さすがにアレだしな」

「九頭川は相変わらず……あっ」

「ん、どうした?」

 高森は俺を越して何かを見ていた。

 バツの悪い顔。

 止めようとした高森に気づかず、振り返る。

 見慣れたトートバッグがぶら下がっていた。車輌一台ぶんくらい離れた同じホームに、佐羅谷が背を向けて立っていた。

 一人ではない。

 男がいた。

 佐羅谷はことさら小柄なので、一見高く見える男も平均的な背丈だろう。こちらから顔が見える。シンプルだが、さっぱりした着こなしのスマートな装いだった。大学生だろうか。田ノ瀬ほど目を惹く美男子ではないが、普通に誰が見ても好感の持てる青年という感じだった。顔立ちはきれいなタイプで、少しだけ髪色も変えているのだろうか、やや茶色で明るい。

 会話している。

 ときおり見える慈しむような笑顔が、俺が見ても優しそうだった。

 佐羅谷は佐羅谷で、俯いたりそっぽを向いたりしながらも、一向に話を途切れさせていないようだ。ときどき唇を尖らせるのも、甘えているかのように見える。

 俺は直感する。

 これは、今日ずっと通知の来ていたメッセージの相手だ。わかっていたはずだ。電話でやりとりした後、急用で消えた。わかっていたはずだ。

 ちらり、ちらりと見える佐羅谷の横顔は、少しメイクが濃くなっていた。似合わねえ、吐き気がする。目元が強くなっているし、頬に薄いピンク。唇の境目もくっきりしている。もともと大人びた服装だったということもあって、大学生くらいに見える。

 はたで見て、二人はまさに「それ」だった。

 俺の中で、何かすべての謎が解けた気がした。失われたピースが、すべて埋まった。真実は、いつも一つだった。

 ああ、おれは佐羅谷が優しいのをいいことに、気づかないふりをしていたんだ。

 だから、俺は、真実なんて知りたくもなかったのに。

「……九頭川、九頭川!」

 俺の肩を揺らす高森の顔が、目の前にあった。

「しっかりしろ、とりあえず、こっちへこい」

 俺の手を引き、空いていた椅子へと座らせられる。なすがまま、背もたれに体を預け、骨のない考える人のように崩れる。

「おい、真っ青だぞ」

「ああ、気にするな。すぐに、治る」

 前に立って肩を掴む高森をぞんざいに払おうとするが、力が入らない。

 すぐに、治る、そうだ。何の心配もない。

「大丈夫だ、問題ない」

「そのセリフは大丈夫でない奴が言うもんだ」

「俺は人の言うことを聞かないからな」

「冗談を言う余裕は出たか?」

 正直言って、柱の陰へ引っ張ってくれたのはありがたかった。

 本当に、きっと、問題ない。

 俺は一年間の想い人にフラれてさえ、三ヶ月で立ち直った。正式に谷垣内と那知合が結びついても、胸がちくりと痛む程度で済んだんだ。

 だから、きっと。

 電車が二台くらい通り過ぎた。

 高森はずっと隣に座っていた。途中一度だけ先のホームを見に行っていた。多分、佐羅谷の不在を確認したのだろう。だが、高森は何も言わない。

「高森、悪い、先に帰ってくれ。今は、一人になりたいんだ」

「そうか」

 なかなか高森は立ち上がらなかった。

「月曜の午後、恋愛研究会の部室でな。絶対、来いよ。俺がドクトルになるところを、見に来い」

「はは、宇代木がクノイチになったり、佐羅谷がシスターになるってほうが、見に行きたくなるな」

「俺が女装するよりマシだろ」

「違いない」

 高森は、俺の背中を軽く叩くと、次の電車に吸い込まれていった。

 俺は軽く手を振って応じた。サヨナラバイバイ。

 ありがとう、高森。

 面と向かっては言えないが、助かった、本当に助かった。

 終電近くになって、ようやく俺の体は動いた。えらく遅くなったにも拘らず、親父は叱りもせず、によによとデコを小突くばかり。こういう勘違いは、正直うざいが、深刻にならなくて良いぶん、気は楽だった。


 ベッドに転がって、天井の壁紙の黒ずみを数える。

 つまりは、こういうことだ。

 十津川在住の佐羅谷が、県内の最上位の進学校でもないのに、わざわざちょっとした進学校であるかつらぎ高校へ来ている理由だ。

 おそらく佐羅谷には、中学時代から付き合っている男がいた。年齢的には、三つか四つ上、ちょっと離れているようにも思えるが、同年代の少ない十津川村では、若者同士ということで知り合うはずだ。たぶん、中学でさえ一学年四十人もいないだろうから。

 その男の高校はわからないが、いま現在は大学生で、香芝あたりに住んでいて、その下宿に佐羅谷も一緒にいる。そこから通える範囲でかつ自分の学力で行ける高校として、かつらぎ高校を選んだのだ。

 佐羅谷の性格から言って、親に無断ということはないだろうし、勘当されていることもないだろう。先日の三者面談はつつがなく終わったようだし。

 つまりは、佐羅谷には、親も公認の相手がいて、すでに一緒に暮らしているということだ。

 問題になるのは、高校だ。

 別に高校生が同棲してはいけないという法律はなかったと思うが、世間的にも学校的にも、公には許されないだろう。

 ましてあの飛び抜けた見目良さ。普通に高校生活を送っていてはたくさん告白を受けるだろうし、それを断るのも大変だ。すでに付き合っている人がいるとか好きな人がいると言ったところで、詮索を受けるとややこしくなる。

 そこで、恋愛研究会だ。

 沼田原先輩と犬養先生はきっとグルなのだろう。黙っているのは別に悪くない。勘の鈍い俺が悪い。

 恋愛研究会で相談した佐羅谷は、沼田原先輩に「深窓の令嬢」という役割を与えられる。深窓の令嬢は便利だ。告白を断るのも、人間関係を深追いしないのも、周囲を説得できるだけの存在感がある。

 沼田原先輩にしてみれば、恋愛研究会の後継者も得られるし、同好会に箔もつくし、ちょうどよい追い風だったろう。

 そうか、すべては簡単な事実一つだったのだな。

 佐羅谷が自分の住所を言いたがらないのも、宇代木さえ家に行ったことがないらしいのも、納得だ。

 佐羅谷が誰の好意も受け取らないのは、すでに好意を受けているからだ。つまらないナンパも躱せないのは、守ってくれる男がすぐ隣にいたからだ。

 友達も少なく、人付き合いが苦手でも、どこか凛々しく強くまっすぐなのは、最後の最後で肯定してくれる最上の味方が、いつもそばにいたからだ。

 恋愛相談を受けてやると偉そうなことを言って、なんて的外れなんだ、俺は。

 佐羅谷には、解決すべき問題なんてなかった。

 ああ、俺はもう終わりだ。

 俺の二つ目は、もう終わりだ。

 思ったより、痛いな。

 一年かけた一つ目は、案外ゆるかったのに。内心諦めていたからだろうか。

 ああ、痛いな。

 ほんとうに、痛い。


 痛みに耐えて通学すると、授業が終わる頃に苦痛は苛立ちに変わる。

 向けるところのない苛立ちだ。

 悪いのは自分の勘違いなのに、自分を嘲るだけでは収まらず、心も頭もささくれ立つ。

 適当に昼食をかき込んで、さあ、渡り廊下まではやってきた。

 だが、あの先に見えている理科実験室の扉の前まで、足が進まない。

 今、佐羅谷や宇代木と顔を合わせると、どんな暴言を吐いてしまうやも知れない。

 やはり、今日は帰ろうか。

 高森には悪いが。

 踵を返すと、最悪の事態が発生した。

「沼田原先輩……」

 最も会いたくない人が、前に立っていた。

 凛と佇む生徒会長は、心持ち険しい顔で、わずかに見下すように顎を上げる。

「おやおや、どうした、恋愛研究会の部員が、サボる気かい?」

「今日の俺は機嫌が悪いっすよ。先輩だからって、女だからって、適当にあしらう自信ないっす。ほっといてください」

 俺はやけっぱちに言い放つ。冗談に冗談で返す余裕なんてない。

「ちょうどいい、私も今日は虫の居所が悪いんだ。付き合いなさい」

「何すかそのでたらめな理屈は」

「いいからいいから」

「やめろって!」

 ばちんと、強い音がした。

 やってしまった。

 沼田原先輩の伸びた手を、ぞんざいに払った。当たりが悪かったのか。ひどく響いた。

 いつも不敵な沼田原先輩の瞳に少し怯えが混じるが、すぐに消える。

 今さら引けない俺は、そのまま睨みつける。俺が本気で睨んだらかなり怖いと思うが、沼田原先輩は一瞬の表情以外、弱みは見せない。

「面白いじゃない。ちょっと興味出た。それが、君の素か」

「帰ります」

「帰さない。こっちへ来なよ。二人きりで、話をしよう」

「今の俺は抑えが効かねえっすよ。先輩だからって、遠慮しねえっすよ」

「前に言ったろ? 私は君を評価している。何があっても、文句は言わないよ」

 背を向けて、沼田原先輩は歩き出す。

「ついてきなさい。おあつらえ向きの場所があるよ」


 かつらぎ高校某所。

 内側から鍵をかける。

 密室。

 沼田原先輩が振り返る。

 高い窓から差し込む逆光、先輩の表情は見えない。頭が少し傾いだ。

「さあ、始めようか」

 沼田原先輩は半袖の白いブラウスを脱いだ。俺もカッターシャツを脱いでTシャツ一枚になる。

 二人向き合い、ゆっくりと動き出す。

 やがて、速く激しく舞うように動く。

 キュッ、キュッ、とこすれる音がする。

 ギシ、ギシ、ときしむ音がする。

 パン、パン、と弾ける音がする。

 時々、ダン、と踏んばる音がする。

 二人っきりの部屋で、ただ音だけが響く。

「はあ、はあ、はあ」

 俺も沼田原先輩も息が荒い。お互い汗びっしょりで、拭うそばから滴り落ちる。

「そこは、……ダメだッ」

「先輩だって、ほら、もう、こんなに」

「君も、けっこう攻めるじゃないか」

「沼田原先輩、俺もう無理です、身体中ガクガクで」

「まだだ、まだだよ、九頭川くん、もう少し、ああ! また、そんなところを攻める!」 

 沼田原先輩は紅潮した顔で汗を飛ばし、細い体をエビのようにのけぞらせる。熱い吐息を切れ切れに喘ぐ。

「まったく、君はひどい奴だ」

「すんません、俺もう!」

 そして、俺は床に突っ伏した。

 後頭部にぽすんと衝撃。

 顔の横に、バドミントンの羽根が転がった。

 運動不足だろうか。十分も打ちあえなかったような気がする。

 二人きりの体育館、白線だけのコートの向こうには、肩で息をする沼田原先輩が、仰向けに寝転がっていた。短いスカートの中がこちらを向いていることに気づいて、慌てて目を逸らす。

 別に親しいわけでもない先輩と、いったい俺は何をしているんだろうな。


 中庭の少し風が通る、日陰のベンチ。

 頬に冷たいペットボトルを当てられ、俺は奇妙な声を上げた。

「おおっふ」

「おごりだ。よく振ったオランジーナと、口のついたペプシ、どちらがいい?」

「その冗談のセンスは佐羅谷と同レベルですよ」

 佐羅谷という名前が、躊躇なく口に出せた。沼田原先輩はバドミントン前の強い当たりも霧消し、柔らかく微笑む。

「逆だよ、私のセンスが佐羅谷に引き継がれているんだよ。あの子は、恋愛研究会の一員として、お手本が私しかいなかったからね。つまらないことでも真似て、ああ見えて必死なんだよ」

 俺はオランジーナを受け取って、恐る恐る蓋を開ける。吹き出しはしなかった。

 俺の知らない佐羅谷の一年の時の姿。興味がないといえば嘘になる。俺が初めて会った時から、佐羅谷あまねは完成していた。

「どうだ、体を動かすと、悩みも少しは解消するだろう?」

「……本質的な原因は何一つ解消してませんけどね」

「だが、首をくくりそうな悩みも、ただの切り傷程度に落ち着いたはずだ」

 沼田原先輩は肩が当たるほど隣に座り、ペプシのペットボトルをあおる。

 気が楽になったのはほんとうだ。

 正直言って、バドミントンに誘ってもらえてよかった。直接礼を言うのは悔しいが。

「だいたい、問題は心なんですよ。心の悩みの原因が外的なものなのに、自分がどうこうして治るわけがない」

「そういう君の顔は、ずいぶん楽になったようだと気づいているか? まあ、私も含めてだがな」

 沼田原先輩は俺の額に人差し指を当てる。

「人間は頭でっかちになりすぎた。だから、心と体は別物で、心の悩みは心が解決するしかないと思い込んでいる。だけど、違うんだ。人間は、動物なんだ。心の痛みも、体に起因するんだ。だから、体を元気にしたら、心の痛みも和らぐし、治るし、別の解決方法が見えてくる。

 知らないか? 面白くなくても笑顔を作っていると、免疫力が上がるんだ。不治の病で医者がサジを投げた患者も、笑いが救うことがあるんだ。

 人間の心は、体が作り出したものだ。体を動かして、体を温めて、体を健康にしたら、状態は良くなる」

「まあ、否定はしません」

「だから、こうして、」

 沼田原先輩が、俺の腕を腕に絡める。

 お互い汗に濡れ、しっとりとした肌が運動後の熱を伝える。

「こうして、体が触れると心も動く。ねえ?」

「何か、沼田原先輩も俺に言いたいことがあったんじゃないですか」

 極力冷静を装い、腕を剥がす。細く硬く思えた沼田原先輩でさえ、触れ合うだけでわかる、肌のキメの細かさと柔らかさ。汗と香水の混じる匂いが、鼻腔を刺激し、本能的な獣性を呼び覚ます。

「言いたいこと、君に対する文句というか言いがかりというか、嫉妬というか。何かあった気がするね。バドミントンで、汗と一緒に流したよ。

 今やもう君は間違いなく恋愛研究会の一員だ。かけがえのない、ね。わかっていた。足りないのは、私の納得だけだったんだ。

 だから、写真を消したよ」

「写真?」

「いざというとき、君を排除しようと撮影しておいた写真だよ」

 思い出した。宇代木のあられもない肢体とともに。

 あの写真は、確かにばらまかれると停学ものだった。合意の上、ではないし、合意であっても学校内ではまずい行為に違いなかった。どうせ、俺の弁明など誰も聞くまいし。

 消してもらえたのは、今後の憂いがなくなって良いことではある。ただ、俺のスマホには残っていたかもしれないが。

「いいんですか? あれが沼田原先輩の切り札じゃないんですか?」

「かまわないよ」

 ペットボトルをベンチに置くと、くるりと背もたれの後ろに回り込み、俺を抱きしめるように首に手を絡める。驚くまもなく、頬に沼田原先輩の頬が触れる。

 その瞬間、シャッター音。

 自撮りされた。

「写真は消すんじゃないっすか……」

「天が写った写真はね」

 意味深に沼田原先輩は口角を上げる。

「うん、まあまあだね」

 スマホを眺めならが、沼田原先輩はご機嫌だ。

「ところで、九頭川」

「はい?」

「呼び捨てにしていいかい? これから」

「先輩なんだから、好きにしてくださいよ」

「じゃあ、九頭川。私のことも、依莉先輩と呼んでくれていいよ」

「その等価交換はイコールでつながりませんよ」

「やどりせんぱい、りぴーとあふたみー」

「やどかりせんぱい」

「ははは、なあ、九頭川知っているか。小学校のとき、幼なじみの寺見アキラくんは、同じことを言って乳歯の前歯二本を失ったそうだよ。君は永久歯を永久に失いたいのかな?」

「ごめんなさい、拳はやめてください」

「大丈夫、君の前歯は拳に刻みこむよ。永久に忘れない」

「ここはバトル漫画の世界じゃないんです。永久歯は二度と生えてこないんです」

 わりと本気で怒っているような沼田原先輩が、初めて年相応のただの高校の先輩に見えた。まだまだ得体の知れないところはあるが、この人も三百年生きた魔女ではなく、十七、八の高校生なのだ、俺より一つ上なだけの。

「でも、依莉というのは変わっているけど、素敵な名前ですよね」

 ちらつく拳から距離を取り、思ったことを何も考えずに言ってしまう。しまった。

「む、なんで急に突拍子もないことを言うかな、ほんとうに君は、ずるいよ、そういうところが」

 沼田原先輩は、にわかにそわそわともじもじと、視線をさまよわせる。

「まあ、いいや。今日は楽しかったよ、九頭川。また会いに来るよ。部活、ちゃんと行くんだよ」

 沼田原先輩は、半分残ったペプシを投げて寄越し、ブラウス片手に帰っていった。このペプシは、扱いに困る。

 そう、俺はこの時、もはや部活へ行くのに蟠りはなく、沼田原先輩が口をつけたペットボトルの方が悩みの種になっていたのだ。

 恋愛の悩みではないが、心の悩みを解決してくれたのは、沼田原先輩。やはり、元部長だけあって、人の心を救うことには長けているのだろうか。

 そして、オランジーナとペプシを抱え、俺は三十分遅れで理科実験室へと向かった。体は快く疲れ、頭はスッキリしていた。

 佐羅谷を見たら痛みはぶり返すかも知れない。だが、鈍痛も時間が解決してくれるような気がした。


「ちわーっす」

 小声で身を屈めて中に入ると、三つの視線が集中する。

「遅かったわね、遅れるなら連絡しなさい。今日に用事があるのはわかっていたでしょう?」

 ああ、いつも通りのよく澄んだきれいな発声で、真っ直ぐな正論をぶつけてくる。いつも通りだ。

 それはそうだ。

 佐羅谷には、何も変化はない。

「すまん、ちょっと野暮用でな」

「あらそう。ずいぶん汗をかいているみたいだけど、先生に用事でも頼まれたの?」

「まあ、そんなところだ」

 ただ突っ立っているだけでも暑い。

 一度体を動かしてかいた汗は、なかなかひかない。俺はまだTシャツ一枚で、カッターシャツは鞄に入れたままだ。

 空いた机に荷物を置く。

 ペットボトル二つも並べて置く。

「高森、遅れてすまん。もう、メイクは終わったのか?」

「軽く宇代木さんに教わったところだ。今からが本番かな」

 高森も制服の上を脱ぎ、頭にはネットをかぶっている。先日日本橋のウィッグショップで買ったウィッグネットだ。ウィッグをかぶる時、地毛が出ないように隠すための網のようなもの。

「じゃー、みんな揃ったところでメイクしていこー! って思ったんだけど、どうしてくーやん、ジュース二つも持ってるの?」

「喉が渇いたからな」

「二本同時に買って、半分ずつ飲むことなんてあるの?」

 どこか、宇代木の声が寒い。

 むしろ、なぜそんなことを突っ込んでくるのか。今は飲みかけのペットボトルはどうでもいいだろう?

 だが、佐羅谷もペットボトルを見て何かはっと気づいたようだ。

「ふうむ、くーやんは気づかないようだね」

 芝居掛かったふうに、宇代木はエア顎髭をしごく。

 右手に眉毛切りのハサミ、左手に眉毛用の剃刀を携え、理科実験室内を歩く。ミステリー作品で、探偵が最後の推理を披露するときのように、動くスポットライトが照らしている錯覚を覚える。

 なにそれ、じゃあ、俺が断罪される側じゃん。

「あたしたち、そんなに裕福じゃない高校生が、いくら喉が渇いているからって、一度に二本ペットボトルを買うことはない。買うとしたら、飲み終わってからだよねー。二本同時に買うと、片方はぬるくなっちゃうからね。

 それに、二本飲みたいくらい喉が渇いているときは、まずは一本くらい一気に飲み干しちゃうはずだよ。中途半端に半分ずつ残すことはない」

「俺が浮気性なだけかもしれないじゃねえか」

「自覚はあるのね」

 ぼそっと、佐羅谷がつぶやく。

「くーやんが仮に浮気性だとしたら、オランジーナとペプシ、同じような炭酸飲料を同時に買うのはおかしいよねー。くーやんはコーヒーも飲めるんだし、綾鷹をよく持ってるし、買うならきっと炭酸飲料とお茶やコーヒー、もしくは、それだけ汗をかいてるんだもん、ポカリとかアクエリだよね」

 宇代木はじょじょに詰めてくる。

 推理でも、距離でも。

「つまり、くーやんの持ってきたオランジーナとペプシは、もともとくーやんが買ったものじゃない。買ったとしても、どちらか片方だけ。

 片方は、もらいものだと推定される」

「どこにそんな証拠がある?」

 しまった、雰囲気に呑まれて、いかにも犯人っぽい台詞を吐いてしまった。

「ふふーん、簡単なことだよ、あたしとあまねは、妙にペプシとオランジーナが好きな人に心当たりがあるのだよー」

 宇代木は眉毛剃刀をナイフのように、俺の首筋に近づける。危ないから良い子のみんなは絶対真似しないでね!

「恋愛研究会へ来る途中にくーやんを引き止められる人、くーやんが従わざるを得ない人、そして、そのペットボトル二つを持っていたら、あたしたちが感づくことを知っている人。

 簡単なことだったんだよ、くーやん、すべてはあからさまで明らかで、なに一つ隠されてはいなかった。ただ、気づかなかっただけなんだ」

「くそう! 俺は何もやってない! 仕方なかったんだ!」

「クズ芝居はそこまででいいから、九頭川くん、言いなさい。どっち?」

「今さりげなくひどいことを言いませんでしたか佐羅谷さ」

「あなたが口をつけたのは、どっち?」

 笑顔だと言うのに夏の熱気をすべて凍てつかせそうな冷たさで、佐羅谷は微動だにしない。

 俺がオランジーナを指差すと、佐羅谷はため息をついてペプシを奪い取り、さっと一口飲んで自分の横に置いた。

 流れるような一連の動作に割り込む余地はなかった。

「あー、あたしも欲しかったのにー!」

「あら、そう? じゃあ天もどうぞ」

 そして、沼田原先輩のペプシは、俺が飲むことなく恋愛研究会の女子二人にシェアされたのだった。これはこれでよかったのかも知れない。どうということはないが、処理に困るもらいものだった。

「さあ、茶番はここまでにして、部活を始めましょう。高森くん、待たせてごめんなさい。文句はそこの、部活前に逢引きするような男にあとで言ってちょうだい」

 なんとご無体な。そんな甘酸っぱい話は何もない。

 自分こそ、部活で出かけた途中に逢引きのために抜け出したくせに。ああ、そう思っても、痛みは少しだけ、本当に少しだけだ。もうしばらく、ここにいよう。そして、いつの間にかいなくなろう。今度は、逃げ込む保健室もない。うまくやろう。うまく、やろう。笑っていれば、大丈夫だ。体が元気ならば、大丈夫だ。


 宇代木天のメイク講座、はっじまるよー!

「メイクは一日にしてならず、まずは毎日の洗顔と保湿を忘れないように!」

「おじさんキャラだからといって、コスプレでノーメイクはNG! 三次元のおじさんと二次元のおじさんは別物!」

「くたびれ中年系もいかつい俺様系もナイスミドル系も、お肌はさらっとマットに美しいのだー。

 まだらにしたいときは、色違いのファンデを荒く塗り分けるよ。シワはアイブロウやアイシャドウで元の笑いジワとかを基準に描き込んでいくよ」

「さ、まずはクレンジングからねー。で、化粧水つけてー、下地を塗ってー、ファンデを置いてー」

「余計な場所にあるホクロやシミはコンシーラーを叩くように置こうね」

「お髭はウイッグの切れ端を薄いクリアファイルの切れ端に接着剤で固めて形を整えるよ! 肌につけるときは、二重糊がおすすめ」

「ヒゲ跡は、口紅を塗ると消せるけど、高森くんくらいなら、コンシーラーでなんとかなるかな」

「本気で真夏でも落ちない化粧を考えるなら、舞台メイク系、三善なんかがおすすめ。特に、女装のファンデは」

「コスメはダイソーでもセリアでもいいけど、発色を考えると、プチプラでもいいからきちんとしたのを買ったほうがいいよ。ちふれ、キャンメイク、セザンヌ……」

「コスプレだと派手な発色でも負けないから、ギャル系のコスメもいいと思うよ、ケイト、メイベリン、コーセー……。特に、アイライナーとアイシャドウはいいものをね」

「眉毛は全剃りする? え、嫌? むー、じゃあ、形と長さだけ整えるよ。眉潰しは使いにくいんだよ……」

「目の形を変えるのはサージカルテープで、顔の端を引っ張ったらいいよ。案外隠れて見えなくなるものだからねー」

「目元のメイクは、目に近い方から遠い方へ。アイライナー、アイシャドウ、マスカラ、……」

「最後に、口紅で締める。唇の輪郭がきっちり出ると、強く見えるんだー」


 メイクと道具の説明しながら、魔法のように高森の顔にドクトルを描く。

 わかってはいたが、改めてメイクを施す宇代木の技は、巧みという他なかった。ウィッグネットをかぶって、薄い顔の高森はとぼけたマネキンのようだったのに、だんだんと完成していくメイクで、凛々しくも険しい表情のドクトルができていく。

 参考にしているのは、スマホに写ったゲームの拡大立ち絵ひとつだというのに、二次元のイラストを見事に三次元の顔の中に落とし込んでいる。

 佐羅谷も、ときどき見比べながら、何かしら指摘し、宇代木とともに顔を作っていく。

 佐羅谷などあまりそれとわかるメイクはしていないのに、普通に宇代木と丁々発止のやりとりができる。俺にはわからないだけで、佐羅谷もこんなに手間のかかるメイクを施しているのだろうか。凛とした佐羅谷の横顔をぼうっと眺める。

 メイクが終わると、高森は服を着替える(と言っても、ほぼ白衣を羽織るだけだ)。

 そして、ウィッグをかぶる。

 日本橋で買ったウィッグ、どうやら、ある程度自分で仕上げて、今さっき俺が来るまでで完成させたらしい。

「どうだろう?」

 高森は、女子二人ではなく俺を見た。

「ドクトルは、そんな不安げな表情をしないし、自信のない問いかけをしないぜ」

 高森は鋭く整った眉を上下させると、おもむろに立ち上がり、バトル状態の構えを取る。

「俺の手術は、ちいーっと骨に響くぜ?」

 口を歪めて不敵に睨むさまは、まごうことなくドクトル。

「おー、似てる似てる! やっぱり細くて手足が長いから、まんまドクトルだねー」

「ああ、悔しいが、ドクトルだ」

 コスプレの出来不出来など俺にはわからないが、少なくとも、友人のひいき目で見ても似合っていると思う。というか、アサシンズアサシンを知っている人間が見たら、間違いなくドクトルだとわかる。

「ワンカさんのナハティガルに並んで、見劣りしないかな?」

「それはーー」

 記憶の中の写真を思い出す。

「一応、あの人のメイクに合わせて、同じような世界観になるようにしたつもりだよー。あの人はあまりアレンジを入れないで、まんま二次元を再現するタイプだからね。

 むしろ、見劣りするとしたら、写真を撮られ慣れていないレイヤーとしてのレベルだと思うよ」

 宇代木はにししと意地悪く笑う。

「宇代木さんは手厳しいね。あとは、自分でこのレベルのメイクをできるようにならないと」

「付け焼き刃じゃ無理だろ。せいぜい、家で練習するんだな」

「それを付け焼き刃というのよ。とにかく、今から毎日練習することね。天、あとで、もう一度手順を説明してあげて。それと、クレンジングもリキッドは使えないのよね? そのあたりも含めて、基本からね」

「そだねー。女子のお肌は日々のお手入れの賜物だってのを教えてあげる」

 女子は一日にしてならず、か。

 ついつい、先ほど触れた沼田原先輩のきめ細かい腕や頬を思い出す。女子は俺が知らないところで、自分磨きに精を出しているのだろうか。何も磨いていない俺は、水を空けられる一方だ。


「それにしても、こうやって、九頭川や女子にメイクやコスプレの手助けをしてもらっているなんて知れたら、女の人は引くよな」

 ウェットティッシュ型のクレンジングシートで、丁寧にメイクを落としながら、高森はつぶやく。

 メイクというのはただの水洗いやウェットティッシュでは落ちないらしい。そして、きちんと落とし切らないと、シミやくすみの原因にもなるらしい。メイクは大変だ。

「質問の意図がよくわからないのだけど、どういう意味かしら?」

 佐羅谷はビーカーでお湯を沸かしている。ただでさえ暑い部屋の空気がいっそう暑くなる。

「自分一人でコスプレできる状態に至らなかったなんて、ちゃんとしたレイヤーからしたら噴飯物だろ? 絶対、バレないようにしないと」

「最初から自分一人でなんでもできる人なんかいないじゃんか。むしろ、自分一人で完全にコスプレできるようになるって、それネットで情報を集めたってことだよねー? そんなぼっち陰キャのほうがキモがられるよ」

 宇代木さんことばがきついよ……。

「高森くん、これはワンカさんが、ということではなくて、一般論として聞いてほしいのだけど、むしろ女性に対しては、友達に手伝ってもらった、女友達にメイクやウィッグセットを教わったと暗に伝えたほうが良いと思うわ」

「女子は、友達がいる男子が好きだからねー」

「周りは、高森くんのことを、コスプレみたいなちょっと人に言いにくい趣味を理解してくれて、協力してくれる男女の友達がいる、と考えるでしょう。

 親しい人間関係を築ける人間は、それだけ本人が魅力的だということの証明になるし、自分も親しくなればいいことがあるのではないかと考えるものよ」

「あー、佐羅谷。高森が心配してるのは、たぶん、そこじゃない」

 いくら恋愛研究会のベテランといえども、男子の気持ちを高森の足りないことばからは推測できないか。

「高森が心配してるのは、メイクをしてくれるような女友達がいる男子を、恋愛対象として見てくれるかという心配だ。メイクをするほど近い関係の女子がいると知ったら、そもそも割り込む隙がないと思って、向こうが最初から身を引いてくるんじゃないかと」

 高森はうんうんとうなずいている。俺の推察もあながち捨てたもんじゃないな。

 だが、モテる女子二人は驚いたような呆れた顔だ。

「なんだ、そんなこと。男って、ほんと、つまらないことを気にするのね」

 俺を見る佐羅谷。

 いやいや、俺は高森の心配が的外れなことは知っている。ただ、高森の不安を解消するには、まずは指摘しないといけないだろう?

「だいじょぶだよ、高森くん。女子は、モテる男が好きだから。むしろ、積極的に宣伝すべき」

「だから、男は、女の前で、モテないとかモテたいとか言っちゃいけないのよ。なぜだかわかる、九頭川くん?」

「すべての男の中からいい男を探すことはできない。そこに書いた通りですよ」

 投げやりに言うが、佐羅谷の反応は鈍い。

「どこに書いたのよ。ネットの掲示板? きちんと説明しなさい」

「あー、もう、いいか、高森、ちょっと生々しい話だぜ?」

 こんなことは、恋愛研究会という箱が与えられなければ、決して話せない内容だった。

「雌は、自分の遺伝子を残すのに、できれば最高の雄の種が欲しい。本当はすべての雄を比較して、究極の雄から種がもらえたらいいが、そんなことは不可能だ。自分の目で判断できる雄なんて、せいぜい十かそこら。

 だから、他人の目を使う。

 自分では見ていない雄、良さがわからない雄、初めて見る雄、そういうのを判断するのに、他の雌から好かれていたらどうだ? その雄は自分にとっても伴侶候補になるだろう? 他の雌が、時間をかけて選び抜いた雄なんだから。

 モテる男がさらにモテるってのは、そういうことだ。自分にはわからない、よく知らないが、誰かが良いと言ってるから良いに違いない。彼女持ちや既婚者がなぜかモテるもの、同じ理由だよ。

 女がことさらに口コミが好きなのも、同じような理由だろうぜ。他人の評価を重視するほうが子孫を残すのに都合が良かったから、本能的にコミュニティの意見を重視するようになったんだろ。

 そして、雌は一回でも種をもらえたら良いから、待つという選択ができる。たとえ結婚してようが、彼女がいようが、その隙をついて分け前に預かることは簡単だ。

 なぜなら、雄は逆に、たくさんばらまくことが子孫を残す戦略になるからだ。雌は種を厳選して受けようとするが、雄は一人の至高の雌を何年もかけて口説き落とすよりも、手近で手頃な雌にばらまいていくほうが早い。

 だから雄は雌同士の口コミやコミュニケーションなんか相手にしないし、雌社会で友達がいなかろうが嫌われていようが、気にしない。気にするのは、自分を受け入れてくれるかどうかだ。だから男のボッチは救われないが、女のボッチは簡単に救われうる」

「九頭川くん、じゃあ、それを一般的な女性誌の恋愛相談ふうに言い直すと?」

「そうだな、女は好きになってくれない男を好きになり、男は好きになってくれる女を好きになる、ってところか。好きな人が振り向いてくれるまで待つ、というのが女の子だけに許される戦略だと言える理由だな」

「まあいいでしょう、よくできました」

 ゆっくりと拍手し、満足げな笑顔を俺に向ける。

 今さら褒められたところでその先もないのに、単純に嬉しくなる。最初の時に黙りなさいと言われたことを考えると、大した進歩だ。

 素直に喜ぶのも悔しいので、あえてブスッとして、顔を逸らしておく。

「世間的には、外見を磨いて選ばれる性が女、スペックを上げていい女を選ぶ性が男、というふうに思われているけど、実際はまるで逆。男は自分を好きになってくれる女しか口説かないし、最終的な決定権は女にある。

 だから、どの年代をとっても、女の方が性経験が早いし、婚姻率が高いのよ。女は、妥協できる側だからね」

 相変わらず、反応に困る数的事実を平然と述べる佐羅谷と、慣れたように口許に笑顔を張りつけた宇代木。

 俺のような彼女いない歴=年齢の童貞には反応しがたい。

 同じ心地だろうかと高森を見ると、感嘆した顔だった。ただ、佐羅谷ではなく俺に驚いている。

「すごいな、九頭川。恋愛研究会に入ったって知ったときは、どうせ幽霊部員みたいなもんか、あるいは居場所づくりのためかと思ってたけど、ちゃんと考えてるんだな」

「そりゃあ、どうも。ここには恋愛百戦錬磨で頭が良くて気が利く美少女が二人もいるんだ。俺も俺なりの論理で恋愛相談に対応できるように、日々勉強してるさ。

 居場所っていうのも、あながち否定できないが。

 知っているか、文化部っていうのは、青春できない陰キャが陽キャのマネゴトをするための、駆け込み寺なんだってよ。皮肉な話だよな。本来ここにいるべきでない女子二人に、俺が救われてんだ」

「九頭川、おまえ自分が何を言ってるかわかってるのか?」

「何かおかしいか?」

「天然か……いや、中学時代のおまえとは、違うんだな」

「お互い様だろ、ドクトル」

「「カルマの研究が! 次こそは、貴様の脳みそをチップに換えてくれる!」、いつか九頭川のニンジャマスターが見たいね」

 高森は、ドクトルの負けセリフを吐くと、メイクを落とし、宇代木に化粧品のおすすめを教わり、一足先に理科実験室を辞した。さっそく帰る足でキリン堂かココカラファインで化粧品を買うのだろう。なかなか男子高校生がメイク用品の棚をうろつくのは勇気が要る。想像するだけで冷や汗が出る。

 部活はそのまま、早めにお開きになった。佐羅谷も宇代木もほとんど俺がいないような扱いで、一瞬自分が新たなスキル「透明化」でも獲得したのかと思った。視線が合うと、なぜかちょっと怒ったような顔で、必要最低限の会話ともいえない単語を吐き出すのみ。

 次の部活は最終日、終業式の後だということだ。

 なんだ、俺は何か、怒らせるようなことを言ったのだろうか。まったく思い当たらない。女心は難しい。


 終業式前日の夕方に響くスマホ。

 登録のある電話番号。放置上等の知り合いではない。

 これは無視できない相手だ。

「はい、九頭川です。店長、ちょうどよかった、夏休みのシフトの件なんですが……はっ!? マジですか? えー、一ヶ月改装で仕事なしっすか……いや、それは困りますよ。もう一週間ほどしかないじゃないですか」

『よその店舗を紹介してもいいんだけどね、九頭川くんはよく働いてくれるからさぁ、できたら夏休みの間はどこか自分で短期のバイトを探して欲しいんだよねぇ。よそに紹介して、取られちゃったら、悔しいじゃない?』

「店長、その言い方はずるいっすよ」

『どうしてもバイトが見つからなかったら、よその店舗に斡旋するから、三日以内になんとかしてよ』

 そして俺は夏休みの予定が全て消えた。

 どうするよ、これ。


 終業式が終わり、成績表を受け取る。

 相変わらず成績は上の下。

 勉強「も」がんばりたいところだが、いかんせんやる気が盛り上がらない。何か、ここぞという大学でも定まれば、集中力も出るかもしれないが。

 教室は賑やかだった。

 先生もいったん職員室かどこかへ消え、生徒が好きなもの同士集まって、夏休みの算段や駆け引きが行われる。その隙をついて、友達がいなかったり、無愛想な何人かがすっと姿を消す。

 残った面々は、どうやって夏休みを有意義に過ごすかを、もっと端的に言うとどうやって夏休みに彼氏彼女を得るかを、必死に画策しているようだ。

 いつものグループ以外と、ここぞとばかりにうまいこと言い合って、連絡先を交換している。宿題だの、合同練習だの、花火だの、ああ、俺も去年はそうだったっけか。一度も稼働していない連絡先がいくつかある。

 俺が鞄に教科書や宿題を詰めていると山崎が近づいてきた。珍しいこともあるものだ。

「ようよう、九頭川よ。気は変わらぬか?」

「まかり間違っても、おまえと友達になる気は起きないぜ?」

「はっはっは、冗談がうまいな。違う違う、夏休みの海の家や旅館のリゾートバイトの件だ。別に、我が一人で行くのが怖いのではないぞ? 大学生の先輩に囲まれて、稼いだバイト代が全部カツアゲされたらどうしようとか、そんなことこれっぽっちも考えてないぞ?」

 山崎は胸を張りながら揉み手をしている。器用なやつだ。だが、ちょっと待て、これは渡りに船ではないか?

「そうか、それだ」

「なに、貴様、我のバイト代をくすねるつもりなのか?」

 俺は山崎の気持ち悪いクネクネした動きを無視する。

「まだ間に合うんだな?」

「ほう、お主も来るか、シー戦場ヘブンズドアを潜る気になったと!」

「来てほしくねえのかよ」

「来て! ほんと待ってた! 一緒に働けるってほんと素敵! メーデーもストライキもずっと一緒だよ! カツアゲから守って!」

「本音だだ漏れでネタも滑りまくりだな、おい」

「それはともかく、本気で登録していいのだな?」

「ああ、頼む」

 俺は頭を下げる。

「では、あとで入力フォームを送っておこう。おそらく、まだ採用しているはずだ」

「助かる。さすが持つべきものは、山崎だな」

「そこはさすがに、友達って言わない?」

 きらりと光る眼鏡の奥に呆れた瞳を見せて、肩を落とす山崎。そういうのは、恥ずかしいだろ?

 僕は友達が少ない。

 友達が少ない男は、モテない。

 ああ、そういうことだ。


 教室には、クラスでも友達が多かったり、同調性の強い声高な面々が残っていた。人数的には、半数。俺と山崎は珍しいほうだった。

 そんな終業式後の弛緩した空気の中、扉付近で冴えた声がした。 

「やあ、お邪魔するよ」

 教室内は一瞬で水を打ったように静まる。視線が教室の扉に集中する。

 俺も山崎も、そろそろ荷物をまとめて教室を出ようかというときだった。

 聞き覚えのある声。

 沼田原先輩がきょろきょろと教室を見渡し、俺を見つけると顔を綻ばせて近づいてくる。

 よその教室に入るというのは、気後するものだ。ところが、沼田原先輩は背筋を伸ばし、堂々と悠々とクラスの面々を笑顔一つで警戒の視線を解き放っていく。

 自然と人垣が割れる。

 美人の生徒会長の存在感は、鮮烈だった。

「九頭川、元気そうだね」

「今しがた誰かさんのせいで頭痛が始まりましたよ」

「それはいけないね」

 すっと、沼田原先輩の手が、俺の額にかぶさる。あまりに自然で素直な動作に、俺はまったく対応できなかった。

 見ていたクラスのやつらも、山崎も、独特な反応を見せた。顔を赤くして見てはいけないものを見たと視線を逸らす者。逆に凝視する者。顔色を変えずに訝しげに睨みつける者。山崎は童貞の反応だ。俺も同じ状況にあったら、同じ反応をするだろうが。

「熱はなさそうだね」

「頭痛は冷えた時に起こるんですよ」

 沼田原先輩の手を払う。

「何か用ですか。俺は今からこの山崎と食堂行くんですけど」

「ああ、先客がいたのか。む、それは仕方がないな。約束は早いもの順だからな」

 突然俺と約束があったことにされた山崎は、紅潮したまま慌てふためく。おいおい、落ち着けよ。

「ふうむ、君、山崎くんだっけ? 九頭川と約束を?」

「あ、はい、えー、そういう約束もあったなーっていう感じで」

 キャラが剥落してるぞ、山崎氏。

 少し思案して、沼田原先輩は諦めてくれた。

「まあ、いいや、今回はそういうことにしてやろう。九頭川、忘れるなよ? 私のことを振り回して汗だくにしたのは君なんだ」

「人聞きの悪い。俺を足腰が立てないくらい使い潰したのは、先輩じゃないですか」

「はは、お互い初めてのことで、ボロボロだったな。次はうまくやろう。ところで、夏休みは空いてるのかね?」

「夏休みは山崎と蟹工船ですよ」

「どこか下宿でバイトするってことかい? ふうむ、ということは、夏の間は部活に出ないと?」

「部活は今日まででしょう? 聞いてないですよ」

「ふふ、なるほど、あの二人の反応が楽しみだね」

「?」

 俺が疑問を質す隙もなく、沼田原先輩は手を振る。

「じゃあね、また二学期に誘うよ。そのときは、山崎くんも一緒でいい」

「勘弁してください」

 俺がため息をついている間に、沼田原先輩は平然と教室を去っていった。

 ざわ…ざわ…と教室に喧騒が戻るが、どう考えても先ほどまでと話題が違う。女子も男子も、もれなく俺をちらちら盗み見ながら、生徒会長との関係性を噂しているようだ。

 まあな。年上の生徒会長と、二年のただの目立たない個性もない男子の関係は気になるだろう。

 今となっては、モテたいという嘘ではないが事実でもない願望を叶えたいとも思わず、やれやれ、困ったものだ。

「あー、山崎、なんか巻き込んですまん」

「ラーメン」

「あの人は何かと突っかかってきて」

「ラーメン」

「あの、山崎さん?」

「ラーメン」

「血の涙を流しながら要求することかよ。面白い話も、色っぽい話も、何もないぞ」

 何かを勘違いした山崎にラーメンを奢る約束をさせられ、ああ、まったく理不尽だ。モテているわけでもないのに、モテていると周囲には思われ、妬みややっかみだけを一身に受ける。

 せめて、本当にモテていたらまだ救いもある。だが、俺ほど好意を受けられない男も珍しいだろう。

 欲しいものは、何も手に入らないんだ。

 何も、手に入らないんだ。


 理科実験室の扉の前で逡巡する。

 やはり、この部屋に入るのは少し、抵抗がある。前回は沼田原先輩に連れ回されて気が紛れたし、高森もいることがわかっていた。

 だが今回は、佐羅谷と宇代木しかいない。しかも、特に予定もない日だ。

 コスサミの日はすでに待ち合わせ時刻も決まっている。今日は、普通の部活だ。

 扉の取手に手をかけたまま、じっと凍りつく。

「何してんのー? 早く入りなよ」

 ふっと、手に熱を感じて、思わず手を払う。

 ばちん、ばささ、と音がつながる。

「宇代木? すまん、ちょっと、びっくりした」

「あー、うん、ごめん、いきなり触って。ほらあたしって、クノイチだからー」

「ついに自ら忍者の末裔だと認めたか」

 手を払ったのは、本当に驚いたからだ。

 誰であれ、熟考している時に体に触れられたら、拒絶してしまうものだ、と思う。

「本当に無意識だから。そんな悲しい顔をすんなよ」

 廊下に散らばった成績表や宿題やテストの解答用紙などを集める。成績表は畳んであって見えないが、テストの点数は見える。学年で三十番くらいというのは嘘ではないらしく、七十点八十点という数字が見える。

「へえ、本当におまえ成績いいんだな」

「もー、やめてよ、くーやん。女の子の点数を見るなんてサイテー」

「男の子の点数は見ていいのかよ」

 慌てて俺の手からテスト用紙をひったくる宇代木。

 俺は、このとき僅かに違和感を感じたのだが、結局、気づくことができたのはずいぶん先の話になる。宇代木は本当に点数を見られるのが嫌なだけだと思った。だが、事実は違ったんだ。やけに空白の多い解答用紙に秘めた真の解答よりも、目先の悩みが目くらましだ。

「ねえ、くーやん、また、お祭り行こーよ」

 プリントを集めながら、さらりと言う。

 前回の鴨都波神社のススキ提灯では、宇代木を放置するという最低な行為をした。

「前は悪いことをしたしな」

 宇代木は押しが強い時よりも、さらりと告げる時の方が、拒否できない空気を醸し出す。普段より一オクターブ以上も低く、喉にかすれたように泣き出しそうな声を、俺は無碍にできない。

「約束だよー?」

「ああ。これで全部だな」

 落としたものをすべて拾い上げると、宇代木の先導で理科実験室に入る。

「こんにちは、二人とも」

 いつものように読みかけの本を畳むと、力のない微笑みを浮かべて佐羅谷がこちらを向く。

「あまり、部屋の前で騒がないようにね」

 小声でささやくように嗜められた。そのあとは何も言わずに読書に戻る。

 俺も宇代木も軽く謝って、各々の時間に入る。宇代木は明らかにそれっぽい原稿を広げていた。今どき手書きだろうか。間に合うのだろうか。空いた窓から夏の熱気が

出入りするなか、ときどきカリカリカリカリと良い音が響く。

 俺は本を読む気も起きずに、椅子に浅く腰掛けて、半分船を漕いでいた。


 どうして、俺はこの部屋にいるんだっけな。

 原因は佐羅谷だ。

 佐羅谷に話を聞いてもらえて、確かに俺は救われた。普通に学校へ来られるようになったし、日々が楽しくなった。こんな美少女が、話し相手になってくれる、それだけで、じゅうぶんだろう?

 そこで、俺は佐羅谷に闇を見た気がしたんだ。だから、少しでも、救いのかけらにでもなれたらと、佐羅谷が無愛想に手を差し伸べてくれたように、ただそばにいて手を差し出したかったんだ。

 ところが、実際に佐羅谷は救いを必要としていなかった。はっきり拒絶しなかったのは佐羅谷なりの優しさだろう。

 じゃあ、俺がここにいる意味はなんだ。

 ここにいたいというこの胸の焦がれは、何なのだろう。

 むしろ、俺は佐羅谷にとって己の秘密を暴くことになる爆弾ではないか。俺がいないほうが、佐羅谷にとってはありがたいのでは。

(潮時、なんだな)

 間もなく夏休みだし、ちょうどよい。

 このまま、消えてしまおう。保健の犬養先生には申し訳ないが。

 そうか、しかも、宇代木の罠にかからないようにずっと気を張っていたが、気持ちよく騙されて晒されるのも悪くない。

 どうせなら、とことんダメな男として嫌われたほうが気楽だ。ここしばらく、学校でも教室でも妙に認知されてきて、案外不自由でいけない。俺はもっと目立たなくて、陰に隠れるほうがよかったんだ。

「ほら、ここは曖昧な態度よりも毅然と対応したほうが」

「えー、でも、優柔不断でハーレムになるのが持ち味じゃん?」

 いつのまにか、佐羅谷が宇代木の原稿を覗きこみながら、和気藹々と談笑している。恋愛研究会は、女子二人で完結しているではないか。

 凛然たる深窓の令嬢に、多才で外向的なゆるふわ少女が、過不足ない花園を生み出す。

 そう、これは、夢だ。

 夢だったんだ。

 那知合花奏に告白してフラれて、ちょっと登校できなくなったが、なんとか持ち直したという、あるいは持ち直すための自分のシミュレーションだ。胡蝶の夢はいよいよ醒める。

 自然、口もとが綻ぶ。

「どうしたの、九頭川くん。何か楽しいことでもあったの? 彼女でもできたの?」

「えー、くーやんに彼女ぉ?」

「はは」

 俺にしては珍しく自嘲気味な笑い声が漏れる。額を抑えて、天井を仰ぐ。じっとしていても汗のにじむ暑さに、前髪はしっとりと濡れていた。

(そうだな、そうなら、もう少し楽しかったのかもな。俺のことを想ってくれる誰かがいるのなら、男でもクラッときそうだ)

 何も答えずにしばらく笑い続ける俺を、二人は怪訝な目で見つめていた。

 結局、終業式のその日、どうやって帰ったのかも記憶にない。何一つことばも交わさずに帰路に就く俺に、佐羅谷が何か言っていたような気がしたが、まったく覚えていない。

 ああ、心配するな、八月最初の土曜日、コスサミには行く。高森との約束だ。

 それが、俺の、最後の部活動だ。


 八月最初の土曜日、早朝。

 大和八木駅、名古屋行きホーム。

 特急がゆっくりと停まる。

 後ろから二車両目、そわそわした表情の佐羅谷が椅子から頭を伸ばして、こちらを窺っている。

「よ、おはよ」

「おはよう、九頭川くん」

 ぱああ、と嬉しそうに裏表なく笑う。

 この笑顔が勘違いを生むんだ。まったく罪作りな女だ。自分の挙措ひとつ、仕草ひとつ、どれほどの効果があるかを知らず無自覚に愛想を振りまく。危険だ。

 電車内の何人かの男どもの、嫉妬混じりの視線と値踏みするような視線。悪かったね、佐羅谷が待っていたのが、俺程度の男で。だが、おまえたちが思っているより、佐羅谷はさらに素敵な女性なんだぜ? 抜群の見た目さえ、霞むほどのな。

 佐羅谷はノースリーブのワンピースに、薄手のカーディガンを羽織っていた。揃えた膝に籐のトートバッグと、麦わら帽を抱いている。

 隣に座った俺は大きめのボディバッグひとつで、中身は空っぽに近い。

「おはようは言えるのね」

 くすりと口元に手を寄せる。

「おはようは親しい間柄の挨拶だからな」

 佐羅谷におはようと言えるのは、これがたぶん最後だろう。今後は、朝も昼も夜も、きっと会うことがなくなる。

「でも、よかった。今日は、来てくれないかと思った」

「ずっと前からの約束じゃねえか」

「九頭川くんは、大切なもののためには、約束なんて守らないでしょう?」

「約束は、大切なものだろ」

「そうね、今日は、とても大切な日だから」

 佐羅谷は物憂げな、少し眠そうなとろんとした目で言う。

 大切な日、まさか高森の逢瀬のことを指しているわけではあるまい。あれは恋愛研究会的には日常だ。

 ということは、佐羅谷は俺がフェードアウトしようとしていることに感づいているのか。そうだな、佐羅谷なら、察していそうだ。大切な日、いつか青春の一ページとして、笑って話せるようになったらいいと思う。

 ああ、ありがとう、ありがとう。

 佐羅谷の横顔をふと覗くと、いつもよりクマが濃いのに気づく。

「どうした、寝不足か?」

「ええ、少し。ごめんなさい」

「寝てろよ。名古屋まで、一時間以上かかる。寝不足は熱中症の原因にもなる。今日も、暑くなるんだ」

 すでに、日向は汗もにじむ。

 さらに、名古屋は熱がこもる。

 ましてや都心の炎天下、光を遮るもののない公園だ。立っているだけでも倒れかねない。

「じゃあ、これを見ておいてくれる?」

 佐羅谷はトートバッグからカメラを取り出す。小さなかわいいカメラではない。この前の写真部が持っていたような、一眼レフだ。

「借りてきたのか」

「ええ。ついでに、ポートレート? の撮り方も簡単に教えてもらったわ。これ」

 佐羅谷はカメラと一緒に、A4用紙1枚の手書きのメモを寄越す。几帳面な箇条書きで、ポートレートの撮影方法が書いてある。

「頼むわよ、カメラマンさん。わたしには、少し重いの」

「これ、もしかして夜通し自分で練習していたのか?」

 メモにざっと目を通すが、どう考えても佐羅谷が実際に扱ってみて咀嚼した説明だ。単なる聞いたままを書き写した感じではない。

「どうせなら、いい写真を撮ってあげたいじゃない」

「ほんと、おまえはいい奴だよ」

「おまえって言わないで」

 ブスッと唇を尖らせて、窓から外を見る。

 俺は佐羅谷のメモをもとに、カメラの基本操作を学ぶ。スマホカメラなら、ボタンを押すだけなのに、一眼レフは不便なことだ。

 ひたすら自分の足下や遠くのビルや山を撮影しながら、ポートレート撮影の意図を理解する。まずは、レンズが拡大縮小(ズーム?)ができないことに衝撃を受け、絞りというものを知り、ボケということばの意味を実感する。人物撮りのピントは、カメラに近い方の目の上まつ毛の根本に合わせるなんて、考えたこともなかった。

 しばらくパシャパシャと触っていて、いくらか理解したところで、肩に重みを感じる。

 すうすうと快い寝息。

 佐羅谷の小さな頭が、俺の肩に乗っていた。

 こわごわ覗きこむ。

 さらさらした前髪の下、閉じたまぶたと長いまつ毛が規則正しく上下しているのが見える。ふわり、爽やかな香りが鼻腔をつく。

 心臓の音さえ聞こえそうな、聞かれそうな距離に、じっと身じろぎせず眺める。

 高森のメイクを一緒に勉強してきたからわかる。佐羅谷のまつ毛の根本はアイライナーでつながっているし、上向きに揃っているし、まぶたにもゆるいグラデーションがかかっている。天然でも美しいのは間違いないのに、さらに美しくあろうとメイクをする。

 だが、勘違いしてはいけない。女子のメイクは、服と同じだ。外へ出るには、メイクが必要。別に、俺がためにメイクしているわけではない。

 ただ、佐羅谷ほど土台の秀でた女子でさえ、さらに美しくあろう、かわいくあろうと研鑽を惜しまない態度に、俺は少し嬉しくなった。浮世離れして唯我独尊に我が道を行くだけの変人奇人の類ではない。才能に胡座をかくわけでも、諦めて何もしないわけでもない。

 俺は一眼レフのバリアングル液晶を正面に向け、撮影をポートレートモードにし、瞳オートフォーカスで、自分たちにレンズを向ける。静音シャッターで、自分たちを撮影する。

 二人肩を寄せ合って、首を傾け、眠っているように見える写真。

 撮れた写真をWiFiで自分のスマホに飛ばし、独り笑う。カメラのデータも残しておく。

 ほんの、いたずらだ。帰ってから佐羅谷がこの写真を見た時の反応が楽しみだ。怒るだろうか。笑うだろうか。呆れるだろうか。一緒に住んでいる男に見つかって、修羅場にでもなるだろうか。俺との関わりを切られるかもしれない。何であれ、楽しみだ。わずかばかりの俺の存在、佐羅谷の人生記憶に残っていられれば。

 それにしても、俺たちは習わなくても、自分のためなら一眼レフさえことごとく操作して見せる。自分の溢れる才能に恐怖さえ覚えるね。


 近鉄名古屋駅から地下鉄に乗り換え、名古屋の繁華街、栄まで行く。

 表に出ると、すぐにわかった。

 名古屋は大都会だ。

「この広場がオアシス21ね」

 大通りの東にある芝生の広場と骨組みのような構造物。説明するのは難しいのだが、外周に柱だけがあって、一番上には人工の泉を備えたフロアがある展望台のような建物だ。土台は地下にあって、一階の公園から地下の様子も見える。

 地下は地下鉄や地下街ともつながり、ステージがあり、このたびのコスプレサミット用の出店があり、たくさんの人々が出入りしている。

 俺は朝からすでに暑さと人ごみにやられて、気が滅入っていた。

「この中からワンカさんを捜すのかよ」

「とりあえず、この建物の一番上から眺めていきましょうか」

 すでに、コスプレしている人がたくさんいた。このクソ暑いなか、重装備の鎧を着込んだグループ、派手派手なアイドル衣装を着たグループ、スーツや学生服っぽい着こなしのイケメン女子グループ、変身ヒーローものの一見一般人にしか見えないグループ(俺でなきゃ見逃しちゃうね)、有名アニメから出てきたような和装刀所持団体、海賊っぽい一団、野球部、サッカー部、自転車部……機械音で歌い出しそうな一連の衣装の人々、異世界へ転生した系の人々、妖怪や戦艦やもろもろを擬人化したゲームの人々。

 一般人ももちろんいるが、圧倒するばかりのコスプレイヤーが泡のようにうごめいていた。

 オアシス21の一番上は、人工の泉があるせいか、若干風が通り、空気がひんやりとしていた。けっこうな高所で、手すりはあるが周囲はガラスかアクリルで、地面がよく見える。

 意外や意外、佐羅谷はこんな場所が怖くないらしい。

「こんなの初めて見るけれど、悪くないわね。みんな、楽しそう」

 手すりから覗きこんで、軽く微笑んでいる。

「楽しそうだな。楽しそうなところへ飛び込むのも楽しむコツかもしれないぜ? テレビの中の人が楽しそうに見えたからって、テレビ出演を許可した歌手もいたらしいし」

 山田仁和丸(40)の知識である。

「テレビなんて、出たくても普通は出られないわよ」

 髪を押さえながら、佐羅谷は笑う。

 電車で寝ていたせいか、目の下のクマは薄くなった。

「わたしは、コスプレなんてしないわ」

「コスプレって考えるから、やりたくないんだろ。佐羅谷がいつもの制服姿で、宇代木なみにスカートを短くして、もう少しメイクを濃くしていたら、それだけでカメラマンが寄ってくるさ」

 何しろ、コスプレには私服やオリジナルという分類もある。要は、本人の心持ち次第で、なんでもコスプレになるのだ。

 佐羅谷の深窓の令嬢など、まさにコスプレそのものではないか。じゃあ、今の佐羅谷はどうだろう。本物の、なんてつまらないことばで語る意味はない。深窓の令嬢も本物だし、今の佐羅谷も本物に違いないからだ。

 嘘をつく自分も、嘘をつかない自分も、分け隔てなく本当の自分なんだ。

「コスプレついでに、一つ言っておく。今日は高森のことをハイホーと呼んでやってくれ。昨日メッセが来た」

「ハイホー?」

「奴がゲームをしたりするときのハンドルネームだ。コスプレイヤーも、本名ではやらないからな」

「どうしてそんな挨拶みたいな名前なの?」

「高森を英語でハイフォレスト。日本語発音で略して……」

「ああ、そういうこと。でも、覚えやすくていい名前じゃない」

 くすっと、口もとを隠す。

「それで、あなたは?」

「俺はレイヤーじゃない」

「でも、ゲームとかラインとか、つけている名前はあるんでしょ? 言いたくないほど酷い名前?」

 俺は、しばらく固まった。

「何、そのトーテムポールみたいな顔」

「あ、いや、佐羅谷がそんなことを聞くなんて、意外でな。俺は昔から、ノインコップフって名乗ってたが」

 しまった、つい言ってから後悔する。検索されると出てくるとかそういうことではなく、この名前自体が、ちょっと痛い。今さら変えられないからそのままだ。

 普通の高校生は気づかなかろうが、案の定、佐羅谷は勘が働く。

「ノイン……コップフ。もしかして、ドイツ語?」

「単純で厨二病で悪うございましたね!」

「黒歴史?」

「やめて佐羅谷さん、そんなことばをあなたが使わないで。イメージが崩れちゃう!」

「九頭川くんのわたしに対するイメージはよくわからないわね。でも別に悪くないんじゃない? 複数形でないのが気になるけれど」

「中学生にドイツ語の複数形を考える余裕はねえよ。じゃあ、佐羅谷はどうなんだよ。イマドキ女子高生として、ツイッターネームくらいあるだろ」

「嫌よ、九頭川くんには言わないわ」

 プイっと逸らす顔は笑っている。

 少し、赤い。

 これはもしかすると、同じような路線で付けた名前があるのかもしれない。英語、いや、佐羅谷は英語のようなわかりやすい言語は使わないだろう。ドイツ語だとすぐに見抜いたということは、ドイツ語か。フランス語やラテン語という線もある。

 「佐羅谷」が「新しい谷」という意味だとすると(スマホでグーグル翻訳)……。

「ノイエスタール?」

「知らない」

 この表情は、楽しんでいる。

 当ててごらんなさい、という顔だ。

 だが、屋上の泉の広場から目当てのコスプレを探しながら、何十もの名前候補を挙げるが、どれも佐羅谷は楽しそうに否定する。悔しいが、当たらない。ドイツ語もフランス語もスペイン語もラテン語も、「佐羅谷」も「あまね」も当たらない。俺には、佐羅谷あまねの真名が掴めない。

「あ、あそこに看護婦姿の人がいるわ」

 そして、俺に与えられた時間は、終わった。俺は、佐羅谷を見つけることは、できなかった。


「ほら、あの植え込みの横の二人組よ」

「むう、あれは爽屋花那ッ……!」

「どうして急に腕組みして芝居がかったセリフになるの」

 半眼の佐羅谷にネタは通じず、少し凹む。

「あー、あの看護婦はナハティガルじゃない。さんじよじの爽屋花那だな」

「3.14次元? コッホの雪片?」

「フラクタルかっ」

 思わず秒でツッコんで、手の甲で佐羅谷の肩をはたく。しまった、十津川芸人のボケに引きずられた。

 だが佐羅谷は俺が触れたことには意に介さず、呆れ気味だ。

「よくわかったわね」

「わかるだろ、もう四ヶ月も一緒にいるんだから。読書傾向だって、会話から推測できるさ」

 ついでに言うと、コッホの雪片は1.26次元くらいだった気がする。

 佐羅谷はさらにジトッとした目になる。

「うわあ、気持ち悪い」

「読書子は自分の読書遍歴を認めてくれる人に心を許すもんじゃないの……」

「ヴァーチャルユーチューバーが一目でわかるあなたが気持ち悪い」

「そっちかよ。佐羅谷だってわかってるじゃないか」

 むしろそれに驚いた。

 俺の指摘にふん、と顔を逸らす。ボソボソと何か小声で言っている。

「だって……と天が……らないなんて……まはずれ……びしい……」

 ああ、これはどうせ俺の悪口だろう。天という名前も聞こえたので、きっとそうだ。どうせ、佐羅谷の鈴のような声を聞くのもこれが最後だ。

 そう思うとただの文句さえ一抹の寂しさがこみ上げる。

 意識を払い、眼下のレイヤーに目をこらす。

「爽屋加那と、しかも隣にいるのはもしや淡雪巴? て、てぇてぇ、てぇてぇ……」

「九頭川くん、さすがにそれは引くからやめて」

「あ、はい」

 その汚物を見る目もやめてくださいお願いします。

 でも、百合は正義だ。これは譲れない。

 佐羅谷と宇代木だって、似たようなものだ。さすがにこの妄想は、墓場まで持っていく他ないが。


「ねえ、九頭川くん、あれじゃない?」

 あてもなく歩き回りながら、時に日陰に涼を求め、ペットボトルで口を潤し、炎天下の名古屋オアシス21を歩き回る。地下のイベントスペースの霧吹きのようなシャワーが一番涼しかった。コスプレイヤーは一段と暑いようで、地下鉄構内まで入り込んで涼んでいた。

 そんななか、何度目かの芝生広場を捜索していて、更衣室方向から一人歩いてくるグラマラスな看護婦姿を見とめた。

「ああ、アサアサのナハティガルだ、間違いない」

 小さな鞄を肩にかけ、大きな袋を手に、やたら露出度の高い看護婦が歩いてくる。オレンジのソバージュがかったボブが鮮明で、薄いピンクの衣装に、下着類のオレンジが髪色と調和していて印象深い。

 上も下も下着が見えているが、あれはたぶんオレンジ色の水着などで代用しているのだろう。宇代木に言わせると本物の下着が見えるコスプレは、公の場では禁止されているという。だが、水着だろうが、扇情的なのは間違いない。

 実際、かなり人目を惹く。

 こんな殺し屋がいるわけないよな。

「コスプレイヤーズアーカイブで見たワンカさんだ」

「そう、では様子を見ましょうか」

 ナハティガルがオアシス21の敷地内に入ってきて、身なりを整え、スマホを覗きウィッグやメイクを確認している。

 場所を落ち着けると、さっそく、カメラマンや道ゆく一般人に声をかけられ、写真を撮られている。ポーズや表情は、モデルのように堂に入っていている。

 さらに紙袋から大きな注射器を取り出して構える。

「むう、あれはラブ・トキシン……ッ!」

「だからどうして腕組みして芝居掛かったセリフになるの」

「詳細省くが、あれは普通には出せない特殊な必殺技だ。攻撃力はないが、ラブ・トキシンを受けたキャラは、次の攻撃を一切躱せなくなる」

「つまり、どういうこと?」

「相当にゲームをやり込んでいるってことだ。見た目がかわいいとか、自分を売り込むために派手なキャラをやっているのではなく、作品まできちんと押さえている、本格的にオタクなレイヤーってことだよ」

「なるほど、ということは、高森くんにも分があるわね」

 俺と佐羅谷は向こうの死角からワンカさんの様子を窺う。

 俺は佐羅谷から預かったカメラを右手に、じっと声をかけるタイミングをうかがう。なぜかすぐ隣で佐羅谷も緊張している。麦わら帽が呼吸に合わせて上下する。

 だがしかし、しばしの躊躇。

「なあ、佐羅谷。実はハイホーにワンカさんの写真を見せられた時から、気になっていたことがあるんだ」

「奇遇ね、わたしも、気のせいだと思って無視していたことがあるわ」

 アイコン画像のナハティガルは、メイクも濃いし表情もキャラクターに合わせてエキセントリックで、一目瞭然とは言えなかった。

 だが、実物のコスプレイヤーはいつもキャラクターの表情をしているわけではない。普通にしている時の顔は、あくまで普通だ。だから、わかることがある。

「ワンカさんって、」

 俺と佐羅谷は顔を見合わせ、ハモる。


「「犬養先生」」

 

「だよな」

「よね」

 そう、かつらぎ高校の保健の先生にして、恋愛研究会の顧問、アラサー美女でグラマラスなスタイルが売りの、犬養晴香先生、その人だ。

 祭りの見回りに駆り出され、ジーンズに色気のないトップスでやって来るような人だが、本気に作り込むと、ここまで扇情的に魅せることができるのかと舌を巻く。

「で、どうするよ? ハイホーからはそろそろ着替えが終わるって連絡来たけど」

「どうするもこうするも、無理でしょ。いくら犬養先生でも、生徒とつきあうほど落ちぶれちゃいないでしょ?」

「ていうか、あの人なら、男なんてよりどりみどりだろ……」

 二十代後半で、定職に就いていて、面倒見も良くて、良識もあり、見た目も優れている。言わないだけで、彼氏なりなんなりがいると言っても信じる。

「だから、九頭川くんは甘いのよ」

 佐羅谷は麦わら帽の下でクスリと笑う。

「写真を撮らせてもらいましょう。わたしたちは、コスプレイベントを楽しみにきた一般人なのだから」


「はーい、どう……ぞ?」

 ナハティガルにあるまじき笑顔でこちらを向いたときに、疑惑は確信に変わる。

 「写真撮らせてもらっていいですか?」に対するワンカさんの言い淀みが、如実に示していた。俺たちを見て驚いた顔。

「な、な、な、なんでなんであなたたちが」

「ポーズお願いします。「五秒でイかせてあげる」の構えで!」

 俺は知らないふりでポーズをお願いする。ワンカさんはコスプレイヤーの性だろう、驚きや戸惑いを裏に隠し、立派にポーズを決める。俺は慣れないカメラで、全身とバストアップを撮影する。ズームができないので、歩いて撮像範囲を変えるのがひと手間かかる。

「ど、ど、ど、どうしてこんなところに」

「もう一ついいかしら? 「スクランブル乙女解剖」のカットインポーズをお願いします」

 さりげなく佐羅谷が笑顔で無茶振りする。しかし、たった三十分しか見ていないゲーム画面で、よくもまあ超必殺技の名前とポーズまで覚えていたものだ。さすが佐羅谷さん、俺たちにできないことをことごとく簡単にやってのける、そこにシビれる憧れるゥ!

 そして、かなり難易度の高い顔芸となるスクランブル乙女解剖のイラストをそこそこ再現する美人コスプレイヤー・ワンカさんには敬意を評したい。

 ポーズや表情の出来がよく、俺たち以外にも勝手にカメラマンや一般人がたかる。

「あー、みんなごめんなさーい、ちょっと待ち合わせしてた人が来たから、写真はここまでねー」

 少し高いかわいらしい声で、パラパラと手を振り、ワンカさんはづかづかと俺たちの方へ寄ってくる。面白い顔だ。

 がしっと、俺と佐羅谷の首に腕をかける。

「なんなのさ、あんたたち! なんでこんなところに?」

「高校生の男女が盛り場でデートする、何も不自然はありませんよ」

「そうだな、おまえたちが奈良県民でなければ、名古屋で出会ったことも不問に付そう」

「さわやかのハンバーグが俺を呼んでいるんですよ」

「じゃあ今すぐ静岡まで行きなさい、名古屋で途中下車するんじゃないよ」

 呆れてワンカさん=犬養先生はいつもの保健の先生の顔でため息をついた。ナハティガルのメイクで別人のような顔だが、確かに犬養先生だ。

「で、どうして名古屋に? 不純異性交遊するにしても、ちょっと遠すぎるぞ? そんなに、見られて困る関係なのかい?」

「先生が煽ってどうすんすか……」

「わたしたちに何もやましいことはありません。先生こそ、若いつばめと逢瀬を約束して、失職する覚悟はおありですか?」

 煽り耐性のない佐羅谷は怒気を込めてやり返す。

「相変わらず佐羅谷は回りくどいことばを使うねぇ。若いつばめって、もしかして、今日会う約束をしたレイヤーのことか」

「高校生とは知らないんですか?」

「うわー、マジかー」

 ワンカさんは天を仰いだ。

 犬養先生は、特に担任を持っているわけでもないし、全校生徒を診る。よほど目立つ生徒や部活の参加者くらいしか、顔ではわからないだろう。ましてや、高森は顔を晒さずに約束している。

 高森は高森で、保健室のお世話になったことがなければ、保健の先生の顔など知らない。俺だって、犬養先生の姿形は、二年になって初めて知ったのだから。なんなら、名前さえそのときに知った。

「ま、レイヤーとして合わせの写真を撮るくらいなら、別に先生と生徒でも構わないさ」

「わたしたちが来ている意味がわからないわけじゃないですよね」

 とぼけるワンカさんに、佐羅谷は逃げ道を与えない。

 恋愛研究会の二人が、一緒にいるはずのないイベントにいる。部活で出張ってきているのは嫌でもわかる。この部活は、恋愛を推進することが目的だ。

「佐羅谷、人の心を勝手に決めつけるんじゃないよ? 私はハイホー君と一緒に写真を撮る、それ以上は、今のところ知らない。だいたい、男から合わせや撮影したいって声がかかるのは、よくあること。都合がつけば、特に断る理由もないさ」

「理性的な判断を」

「そっくりそのまま返してあげるよ、佐羅谷。今日一日、理性的にね」

 学校外で出会ったからだろうか。

 犬養先生は先生というよりも、年上のお姉さんという態度だ。佐羅谷にも教員らしからぬ挑発するような口調だ。俺の知らないところで、なにかしら確執があるのだろうか。

 佐羅谷も、先生に対する言いようではない。もっと強くあからさまに嫌悪感を見せている。

「佐羅谷、さすがに犬……」

「そこはコスネームで呼ぼうか」

「……ワンカさんに失礼じゃないか?」

「九頭川くん、顧問が不祥事を起こしたと想像してごらんなさい」

 なるほど、そういうことか。

 本人らはただのコスプレで一緒に写真を撮るだけだと言っても、はた目には未成年の生徒をたぶらかしていると見えなくもない。しかも、ワンカさんの衣装は目の毒なほど扇情的で悪戯に劣情を刺激する。

 俺も実は、けっこう目のやり場に困りながらも、本能的にはいろいろなところを密かに覗いてしまいそうになる。はだけた胸元とか、剥き出しのヘソとか、短いタイトなスカートとか、いろいろだ。

 ただの他人よりも、知っている人の露出は来るものがある。

「なあに、任せな。大人を信じて、合わせてちょうだい。さ、どうやら、待ち合わせの相手が来たようだ」

 ワンカさんの視線の先、おっかなびっくり歩いてくる白衣の似非医者、ドクトルが見えた。

 鞄とスマホを両手に、キョロキョロとあたりを見回し、やがてこちらに気がつく。

 クソ暑い中、小走りに寄ってくるハイホー。

 さあ、役者は揃った。


 恐々と、高い背丈をやや猫背気味に、ドクトルは俺たちの方へ向かってきた。視線は俺と佐羅谷とワンカさんをさまよいつつも、じょじょにワンカさんに固定していく。

「は、初めまして。ハイホーです。えっと、ワンカさんで間違いないですよね?」

 ワンカさんのほうが頭一つ背が低いのに、ハイホーのほうが小さく感じられた。これが上位コスプレイヤーの持つ存在感だろうか。

「初めまして~。今回は声をかけてくれてありがとうございます~」

「いやこちらこそ、あの、その、いきなりのことなのに」

「大丈夫ですよ~、最初はみんないきなりなんだから。いやー、それにしても、思ってたより若いじゃん。もしかして、高校生?」

 ワンカさんの声は、犬養先生の声ではない。高くて若くて少し媚びたような、女子が合コンでしゃべる声だ。知らんけど。少なくとも教え、諭し、嗜めるような先生の声ではない。

「わっかーい、あたしなんてもう十年も前だよ~、気づいたらレイヤー十年近くやってるんだ」

「そうなんですか、とてもそんなには見えないです、若くて、きれいで」

「やー、そりゃあ、写真は加工するし、コスプレは塗りたくるからね。オフの姿はみせらんないよ」

「そんなことないですよ! 同級生に混じっても遜色ないくらい若いし、その、スタイルだって、」

「若いって言われて、嬉しくなっちゃうと歳を感じるんだよね。十代の頃は、若いって言われると、子供だって思われてるみたいで、反発したよ……あ、ごめんなさい、ハイホーくんには関係ないよね」

 さりげなく、だ。

 直接的には世間話を装っているが、自分が相当に年上で、一線引くように壁を作っている。

 だが、ハイホーは緊張しているのか、察せるほど頭が回っていないようだ。もちろん、保健の先生だとも気づいていない。そもそも知らないかもしれない。

「ハイホーくん、初コスなんでしょ? そのわりにすっごい出来がいいよね? 衣装は既製品としても、ウィッグも一眼でわかるくらいドクトルの特徴を捉えてるし、メイクもがんばってるよ。もしかして、メイクする系男子? 美容系目指してるとか?」

「あ、いや、そっち二人とかに手伝ってもらったりして」

 ハイホーはマジでテンパる五秒前という雰囲気で、俺たちにバトンを投げる。

「あ、なんだ、知り合いなんだ。さっき話してたんだけど、奈良県の高校生なんだね。こっちの二人はコスプレしないの? 彼氏さんのほうは、ひねくれて世の中斜に構えてるわりに、根は誠実ななんちゃって不良系が似合いそう。彼女のほうは、そうだ、黒髪清楚なツンツンに見えて、どろっどろに甘えたがりなのを毒舌で隠す系女子なんか似合いそう」

 ハイホーには見えないように、ワンカ氏はめちゃくちゃ笑顔で俺たちを見ている。

 この煽り顧問よ。

  案の定、佐羅谷は即座に返す。

「彼女じゃありません」

「マジ?」

 ワンカさんは俺を見る。

 俺は頭を横に振る。

「そうなの? あの二人付き合ってないの? もしかして、ハイホーくんもライバル?」

「ち、違います、俺はただの友達で」

 すっと口を寄せてハイホーに過度に近づいて耳打ちする。強烈に狭いパーソナルスペース。

 わざとなんだろうな。

「あー、いいなー、若い子はほっといても出会いもいっぱいあって。あたしなんて、コップレしてる時くらいしか男なんて寄ってこないよ~。どっかに定職についてて、趣味に理解があって、優しくて強くてイケメンな男はいないかなぁ」

 わざとなんだろうな。

 さすがに、テンプレートすぎる婚活ダメ女のセリフだ。年収要件をつけないだけ、まだマシだが。ダメな女の演技を佐羅谷は理解したようだが、ハイホーは少し表情が陰る。

 沈んだ空気に、佐羅谷がため息ひとつ。

「せっかくの楽しいコスプレイベントなんでしょう、世知辛い現実は忘れて、2・5次元に楽しみましょう。ハイホーくん、写真を撮るわ、こちらの男が」

「俺かよ、いや俺だけど」

 というか、佐羅谷から2・5次元ということばが聞けたことが驚きだった。

 俺がカメラを取り出すと、ワンカさんが口笛を吹いた。したり顔だ。ハイホーも鞄を置き、ダイソーの手鏡でウィッグやメイクの様子を確認する。

 さあ、コスプレ撮影を楽しもうか。


 俺がカメラ係、佐羅谷がポーズや構図の指定係となって、ハイホーとワンカさんの写真をたくさん撮影する。アサシンズアサシンはアーケードの格ゲーだが、美麗で派手なイラストということも手伝って、わりと世間的にも知名度がある。男のみならず女でも、コスプレに興味がある面々はたいてい聞いたことくらいはあるようだ。

 俺たちが写真を撮っていると、撮影を乞う一般人やコスプレイヤーがちらほらと現れる。もちろん、勝手に撮影していく人もいる。

「本当はいけないけど、ローアングルとかでない限り、こういうお祭りイベントでは、あたしは気にしないかな~」

 とは、ワンカさんの弁だ。

 気がつけば、百枚以上写真を撮っていた。ワンカさんの実地の指導もあって、俺は今日一日でカメラスキルが相当上達した気がする。というか、ワンカ先生、めっちゃカメラに詳しいですやん……。

 ハイホーは初コスプレ初イベント初合わせというのに、ワンカさんのリードで様になっているから、俺は少し悔しい。

 最初から上手くできるなんて、そんな気楽な話はファンタジーだろう? 誰だって、最初は失敗しながら、経験を積んで、一人前になるんだ。

 少なくとも、女目当てに飛び込んだ出会い厨には見えないぜ、高森。

 同作品で、しかも絡みがあるキャラが二人でいると声をかけやすいのだろう、ただオアシス21や地下街、歩道を歩いていても頻繁に声がかかる。もちろん、男はすべてワンカさんに、女子は半数がハイホーにだ。

 コンビニで買った昼食を済ませ、ただぼちぼちと歩く。俺のカメラでの写真の撮れ高は十分で、さすがに撮影ばかりするわけにも行かない。

「あの二人、悪くはないんじゃないか」

「ワンカさんのおかげね」

 先頭をワンカさんとハイホーが並んで歩き、俺と佐羅谷は遅れてついていく。

 先頭の二人はずっと何かしらしゃべっていて、そこはかとなく楽しそうだ。

 もとより、同じ作品が好きで、コスプレという世界に親近感がある。こだわりが強い人が多いから内部での確執はあろうが、親しくなるのは普通の出会いより遥かに早いだろう。

 何より、ワンカさんの気遣いだ。

 先輩として、先生として、女性として、立て方がうまい。外向的でもなく、口下手で、挙動不審なところもあるハイホーを、さりげなく様になるようにしている。

 同じ学校の先生でさえなければ、可能性はあったのだろうか。それとも、ワンカさんにとって、初見の男女と一日絡むことなど日常茶飯事なのか。

 佐羅谷は犬養先生のことを馬鹿にしていたが、ほんとうはものすごく面倒見が良く、モテモテだと思う。

 後ろで見ていて、とても今日初めて出会ったとは思えない。

「なあ、佐羅谷、さすがにいつまでも二人についているわけはないよな」

「そうね、二人きりにするというのも、放っておいても、自然にそうなりそうね」

 高森の依頼は、ワンカさんと二人きりになる時間が欲しい、というものだった。今の様子だと、そもそもイベントの時間いっぱいは二人でいる気らしいので、自然に依頼は達成できる。

 むしろ俺たちがついているほうが不自然か。

「おーい、ハイホー、俺たちはそろそろ別で回るぞ。他のコスプレも見てみたいし」

「え、そうなのか? 時間いっぱいいてくれないのかよ」

「ハイホーくん、察してあげなよ」

 にしし、と声が聞こえる笑みを浮かべ、ワンカさんは袖を引く。

「は、そうか」

 わざとらしく手を打つ。

「じゃあな、九頭川。佐羅谷さんも、ありがとう。俺は今日も宿を予約してるんで、また落ち着いたら連絡するよ」

「ええ、また二学期に会いましょう。今日は、珍しい経験ができて、楽しかったわ」

「俺たちは適当に回って、今日中に帰るよ。ワンカさんも、ハイホーをよろしく」

「かしこまりー」

 ビシッとウインクに敬礼を重ねてふざけたポーズだが、様になるし、目は笑っていない。

 そして、思い出したように俺たちに寄ってくると、ハイホーには聞こえない声で耳打ちする。

「あなたたち、晩ご飯を奢ってあげるわ。夕方まで、時間を潰しなさい」

 有無を言わせず、反論するいとまもなく、犬養先生は高森と一緒にコスプレイヤーの人混みに消えていった。

 暑くて、汗がとめどなく流れるのに、このままあと二、三時間も灼熱の名古屋で時間を潰せって? 真上の太陽を仰ぎ、絶望する。だいたい、佐羅谷は俺と一緒になんていたくないだろう。

 ふう、とため息が聞こえる。

「仕方がないわね。無視すると後が怖いし、従いましょう」

 気怠げに麦わら帽子を被り直す佐羅谷。

 弾ける汗が似合わずも健康的に見えた。

 最初で最後と思うと、すべてが、美しく、儚く、かけがえのないものに思われた。


 よくよく考えると、女子と二人きりで出かけるのは、これが初めてだった。

 中学時代は女子とは無縁だったし、高校デビューの一年目は谷垣内の取り巻きとして、一緒には動いていたが、あれは同行でしかなく、グループデートというものでもなかった。

 宇代木は、ただの監視だ。

 相手をしてくれるのは嬉しいし、話題も豊富で勝手に話をつないでくれるので、一緒にいるのは悪くない。だが、まったくデートという感じはない。男女が理由を託けて一緒にいても、デートとは限らない。

 そして、今だ。

 佐羅谷にとっては用事だろうが、俺はそれでも嬉しい。

 伸ばせば手の届くすぐそこにいる。

 心臓の鼓動さえ聞かれそうな距離にいる。

 手を振るタイミングを少しずらせば、うっかり佐羅谷の手に触れてしまうかもしれない。

 ああ、もどかしいな!

 ただ、二人、黙ってコスプレイヤーの間をゆっくりと歩き、時に休み、僅かにことばを交わす。お互いちらりとしか顔を見ない。

「あ、すまん、ちょっと、あの人の写真撮らせてもらってくる」

「あの金髪のアイドルみたいな娘? あなた、本当にああいうのが好きなのね」

「佐羅谷だって、さっきからあちらのイケメンの人たちをチラチラ見てるじゃねえか」

「……知らないわ」

「ちなみに、あのちょっとアウトローな感じのお兄さんがたは、ヒネクレテッド・ワンダーランドっていってな、世界史上の悪人や犯罪者を今どきのイケメンの絵面にして、更正させる目的で作った学園で主人公の女の子を落としにかかるっていう乙女ゲームだ」

「全然これっぽっちも興味はないけれど、教えてくれてありがとう」

「さらに言うと、あのコスプレイヤーはみんな女子だからな」

「ウソ……」

「乙女ゲーだからな、女子ウケするキャラクターに絵面なんだよ」

 佐羅谷も、コンシューマー向けに特化した作品の魅力には抗えなかったわけだ。俺がアイドルマイスターのコスプレに惹かれたのと同じだ。

 俺が勇気を出してアイドルマイスターの高星きらりのコスプレイヤーと一緒に写真を撮ってもらっていると、佐羅谷が写真を撮られていた。写真を撮られていた。

 何を言ってるかわからねえと思うが、俺も同じだ、心配するな。

 少し離れて眺めていると、すがるような目で俺を見つめる。何なんだ。

「あのー、すんません、こいつ俺のツレで、コスプレしてるわけじゃないんっすよ」

 鼻息荒く撮影していた男に低い声で伝えると、ドタドタと慌てたように、何か言い訳をしながら離れていった。

 麦わらで顔を隠しながら佐羅谷が寄ってくる。

「変なこと、されなかったか」

「写真を撮られただけだから」

 だから何なのか。

 土台が美人だから、現代物の作品のキャラクターと言われたら、そうかもなと思ってしまう。夏っぽい麦わら帽がそう感じさせるのか。

 なぜか、男が去ってももじもじしている。コスプレイベントの環境では、写真撮影を拒否することなど簡単なはずだ。いくら佐羅谷でも。

 もしかして、写真を撮られたかったのか?

「そうだ、記念に写真撮っていいか? 佐羅谷でもどこかに写真あげてたりしないのか?」

「人に見せる写真なんて要らないわ」

 どうやら、俺の回答は正しかったようだ。そっけないことばとは裏腹に顔が晴れる。

「でも、恋愛研究会の活動報告用に、写真があったら助かるわね。将来、同好会から部活にする布石として」

 佐羅谷が言うのなら、そうなのだろう。

「九頭川くん、何をカメラを構えているの?」

「いや、部長様の写真をですね」

「活動報告なのよ? 今いる二人を自撮りするしかないじゃない。わたしのポートレートなんて撮って、どういうつもりかしら?」

「あ、いや、すまん」

 圧力がすごかった。

 真夏なのに別の汗が背中を流れる。

「隣に来なさい」

 ちょうど、俺たちの背後にはオアシス21の広場が見渡せ、自撮りすると背景にコスプレイヤーが写り込む角度だ。

 佐羅谷はトートバッグから手鏡とハンカチを取り出して、見た目を整える。俺はぼうっと突っ立っていると、佐羅谷が黙って俺の汗を拭き、髪を整える。

 近い、近い。余計に汗が出るから、やめてくれ。

「じゃあ、お願い」

「やっぱり俺が撮るのね」

 三脚はないし、自撮り棒もない。一眼レフでは画角が足りず、仕方なくスマホで撮影する。

「佐羅谷のスマホでも撮ろうか?」

「要らないわ。あとで天に送っておいて。そちらからもらうわ」

 そこまで俺と直接電子取引をするのが嫌なのか。まあ、男の連絡先があると、同棲している男も良い顔はするまい。俺は何枚か撮影した写真のうち佐羅谷の許可が出たものを宇代木に送っておく。

「まだ時間があるな」

 コスプレイベントは真夜中までやっているらしいが、さすがにご飯に誘ったワンカさんはそこまで粘らないだろう。しかし、コスプレだけを見続けていても、時間が過ぎない。

「じゃあ、あそこにいきましょうか」

「あれは、テレビ塔か」

「大都会名古屋の街並みを拝見しましょう」

「奈良県民や十津川村民が言っても嫌味にもならないぜ」

 むしろ、名古屋民に謝るべきではないだろうか。近畿の秘境民よ。

「あら、面白いじゃない。名古屋なんて、きっともう来る機会はないわよ。特に、恋愛研究会の面々ではね。嫌なの?」

「まさか」

 それこそ、デートっぽくていいじゃねえか、と続くことばは胸に秘めた。

 スタスタとテレビ塔へ向かう佐羅谷の一歩斜め後ろを、ワクワクしながら追った。

 まったく意識されていないのが、癪だったが。


「真っ直ぐ大通りが貫いているのが素敵ね」

 佐羅谷はテレビ塔の窓から広がるビル街を眺めて、ひとりごちる。

 名古屋の風景は、俺の知る大阪の街並みよりも密度が低いように見えた。車が十分に通れるだけの広さがあるようだ。

 テレビ塔はこれと言って語るべくもない観光名所で、むしろ一般的なデートスポットでしかなかった。どこへ行くかではなく、誰と行くかが重要になる、そんな場所だ。

 テレビ塔のエレベーターに乗り込むときも、降りるときも、普段の冷静でゆったりとした挙措の佐羅谷が、心持ち軽妙に跳ねて移動するのを見て、俺は嬉しくて悲しくなった。


 完全に自分の気持ちに気づいてしまった。


 那知合に二回振られて、佐羅谷と出会ってまだ四ヶ月だ。自分の節操のなさに嫌気がさすと同時に、時間ではないと理性が諭す。

 恋愛研究会の濃密な時間は、心も頭も曝け出すような痛々しいことばのやり取りも、すべてがすべて、ヌガーの海を泳ぐようにぬめり、血肉となる。

 軽佻浮薄で空虚な、ただ単語を並べて沈黙を埋めて仲間を確認する関係では永遠に近づけない距離が、瞬く間に埋まる。

 この四ヶ月は、楽しかった。

 だから、俺は、佐羅谷と宇代木に感謝している。二人には迷惑をかけないように、静かに密かに、存在を消してゆこう。

「九頭川くん、どうしてそんなに難しい顔をしているの? ごめんなさい、もしかして、疲れた? そうよね、わたし一人電車で寝てしまって」

「いや、別に」

「ほんとうに?」

「ああ、楽しいよ」

 そして、悲しい。

 楽しさの後には、必ず寂しさがやってくる。楽しさの山が高ければ高いほど、のちに来る寂しさの谷の深さに怯えるのだ。今回ばかりは、乗り切れるか自信がない。助けてくれる保健の先生もいないし、信用の置けない生徒会長は会ってもくれなさそうだし、山崎なんてラーメンを食べるくらいしか役に立たない。

「だから、佐羅谷はそんな顔をするなよ」

「そう。なら、よいのだけど」

 佐羅谷のスマホが鳴る。メッセージを受け取った音が沈黙を埋める。

 表示を確認して、俺に掲げて見せる。犬養先生のメッセージだ。

『名駅の矢場とんで並んで待っていて』

「なえきのやばとん? ああ、名古屋駅のことか。なんでそんな略し方をするんだよ。しかも、ヤバトンってなんだ。やばいトンカツ屋さん?」

「そんな芸大出身のコミックバンドみたいなトンカツ屋さんはないでしょ。とりあえず、行きましょうか」

 夕飯には少し早い気もするが、並んで待っていろと言うからには、有名店なのだろうか。奢ってもらえるなら、なんだっていい。

 それにしても、佐羅谷と犬養先生はスマホでつながっているのに、俺と来たら。俺が思うほど、佐羅谷との距離は縮まっていなかったんだな。


 矢場とんは、名古屋名物味噌カツのお店だった。まだ夕飯には早いかと思ったのに、名鉄の矢場とんはすでにそこそこ列ができていた。

 並んでしばらくすると、カートを引いた犬養先生が現れる。

 海外旅行のようなカートと、派手で大ぶりなガーリーファッションはパステル調の色彩で、首に下げたサングラスが、南の島へ海外旅行へ行く都会のOLっぽかった。

 グラマラスなパンツスーツに白衣という保健の先生ファッションもフェティッシュだが、こちらはこちらで普通の若い女性で、道ゆく男性の目を惹いていた。俺たちのところへ手を振って現れると、関係性を窺うような空気が漂う。少し歳の離れた旅行帰りの姉、という感じか。

「間違いなく来たね。いいよいいよ」

「犬養先生、名古屋駅のことを暗号みたいな略し方しないでください」

 挨拶より先に、佐羅谷がなじる。

「んー? 知らないのか、名古屋駅を地元ではメイエキと言うんだよ? ついでに言うと、『「な」ごや』ではなく『な「ご」や』と言うのが正しい」

「名古屋人でもないのに、なんで名古屋人ぶってるんですか」

「コスプレをやってたら、名古屋には親近を覚えるよ。聖地だからね、コスプレの。ま、積もる話もあろうが、まずはご飯だご飯。さ、順番が来たよ、入ろうか」

 矢場とんの中から店員の呼ぶ声がする。

 犬養先生は押し込むように俺たち二人の肩を抱き、笑顔で暖簾をくぐる。先ほどまで見ていたメニューの金額に改めて戦慄しつつ、いくらなんでも高すぎる定食は頼まないでおこうと決めた。松乃家のロースカツ定食4食分のトンカツってなんだよ……。矢場とんマジでやべえ。


「初々しかったね」

 困った表情で、犬養先生は静かに言った。

 高森の話だ。

 二、三時間、いっしょにいたのだ。

 態度で、高森の気持ちなど筒抜けであったろう。

 だが、実質初対面で、告白ができようわけもない。気持ちを伝えられるだけでも、上出来だが。

「佐羅谷、睨むんじゃないよ。私でも高校生相手に手を出すほど落ちぶれちゃいない」

「高森くんは、なんと言ってましたか」

「また会えますか、と」

 がんばったんだな、高森。

 せいいっぱいが伝わる、いいことばだ。

「また会えるよ、コスプレを続けている限りね、と答えた」

「連絡先は交換しましたか」

「もちろん。さすがに不自然だよ、ラインのひとつも交換しないのはね」

「今夜、人恋しいからって、声をかけちゃいけませんよ」

「突っかかるね、佐羅谷。先生が信じられないのかね?」

「先生のことを思って言ってるんです」

「君は私の先生かね」

「先生はわたしの先生でしょう」

「はいはい、二人とも落ち着いて。こんがらがってんぞ」

 矢場とんに舌鼓を打ちながら、二人を嗜める。

 ふっと口の端で笑い、犬養先生は俺たちを交互に見る。やけに艶かしい唇は、ナハティガルとは異なる色をしていた。

「君たちと私は十も離れている。そして、先生と教え子だ。だが、そんなことは本質じゃない」

「大人と子供の違いですか?」

 俺は最後の味噌カツを咀嚼する。

「急くなよ、九頭川。あえて言うなら、変化の中にある存在と、およそ停滞の中にある存在の違いだ」

 犬養先生が味噌汁を混ぜると、色が一様になった。ひとくち口をつける。

「三十と四十の十年の差は、それほど大きくはない。だが、十代と二十代の十年は、質からして違うものだよ。君たちは、これから大いに変わる。……ま、こんな陳腐な話は聞き飽きたろうし、ひねくれたおまえたちには、意固地に変化を認めようとしないだろうけどな」

「子供とは、付き合えないと言うことですか」

「逆だね。私たちは変わらない。変わるのはいつも子供のほうだ。こちらが同じように接しても、そちらは勝手に成長し、勝手に感性が変わり、勝手に幻滅し、離れていくさ。

 高森くんみたいに、特定のレイヤーに一目惚れして、この世界に入ってくる男性は多いんだ。だいたい、きっかけになったレイヤー以外の人と結ばれるよ。下世話な話だけど、一目惚れさせるようなレイヤーは、モデルとかアイドルとか芸能人とか有名人の卵や、あるいはちょっと見た目や体を売りにするような仕事の人が多いんだ。残念ながら、普通の高校生や大学生は相手にされない。

 でも、なんやかやで男子の少ない世界だからね。若い男性で、まともな性格で清潔な身なりをしていたら、それだけで女子と関わることが増えていく。そういうことだよ。

 特に、今までモテた経験のない男子は、免疫も耐性もないから大変だ。高森くんは顔も悪くないし、長身でスタイルも良いから、『本当に』コスプレを続けたら、女子からのアプローチに驚くんじゃないかな」

 本当に、というところを犬養先生は強調した。コスプレが好き、ということが、コスプレの世界では重要だということか。

 犬養先生は唇についたソースを舌で舐めとる。あだっぽく含みのあることばは、経験に裏打ちされた予想だった。

 俺たちは、何も言えなかった。


 矢場とんは入店待ちの行列が切れないので、食後すぐ喫茶店に場所を移し、コーヒーをいただく。犬養先生も薄給の地方公務員、さほど余裕があるわけでもなかろうに、豪気なことだ。

 もちろん、俺は高校生男子の無邪気さで、遠慮なく奢られる。

 佐羅谷の心は知れないが、珍しく長ったらしい名前の甘そうな紅茶を選んでいた。

「それより、どういうことだ、九頭川。どうして、二人なんだ。まさか、泊まっていくなんてことはないよな? 見過ごせないぞ?」

「部活ですよ部活。高森と先生の件ですよ。わかるでしょ」

「違う、なぜ宇代木が一緒でないかということだよ」

「天は、お盆に東京へ行くから、その追い込みですよ。先生ならおわかりでしょう」

「ああ、そういうことか」

 察し良く、目をしばたたかせる。

「ところで、九頭川。首尾はどうだ。一学期、話は進んだか?」

「今、そんな話をしますか」

「話せる場所があまりなかったからね。ある意味、新入部員の面談だ。佐羅谷がいると話しにくいかね」

 俺は横の佐羅谷の手元を盗み見る。

 顔は、見ない。

 佐羅谷は行儀良く背筋をピンと伸ばし、初めて会った時と変わらず、凛として美しかった。

「いえ」

 首尾は何もない。

 進める必要のなかった話を、俺が勘違いをして一人いい気になっていただけ。何が、佐羅谷の恋愛相談に乗る、だ。首尾よく恋愛を謳歌している高校生女子に、相談すべき主題はない。

「どのみち、まったく進んでいません。進まない、進めようがない、進める必要がない、というのがわかったあたりが進捗ですかね」

「それはうまく行っているってことじゃないのか」

「守備に入っているだけですよ」

「それは面白くないね」

 だが、犬養先生は呵々と笑う。

「だいたい、俺より犬養先生のほうですよ。本当は彼氏の一人や二人いるんじゃないですか」

「彼氏は一人だけで十分だが、残念ながら、今はいないよ。むしろ、九頭川、一男性としての結婚に対する意見を聞かせておくれよ。どんな女ならいいんだろう」

「まだ社会にも出てない俺に聞きますか」

「少年も、未来の社会人だろう」

 マスカラの効いた瞳でウインクして見せる。

 あくまで、俺個人の意見ですが、と前置きして話す。意見というか、夢だ。中学の終わりくらいから考えて、高校デビューをしてでも得たかったもの。

 俺は、モテたかったんじゃない。

 俺は、彼女が欲しかったんじゃない。

 俺が欲しかったのは、その先なんだ。

 隣に佐羅谷を置いて声高に語るのも恥ずかしいが、なあに、どうせ会わなくなる同級生だ。聞かれたところで、佐羅谷がばらすのは宇代木くらいしかいない。

「知ってるかもしれませんが、俺は物心つく前に母親を亡くしてます。だから、家庭というものに憧れてるんです。父がいて、母がいて、子供がいる、そのなんでもないただの普通の家庭というものに、憧れているんです。

 だから、俺は結婚できるなら早い方がいいし、付き合うなら結婚できる人がいい。むしろ、結婚前提でないと付き合おうなんて思えないですね。子供も早く欲しい。できたら何人も欲しい。親父もまだ若いんで、俺がさっさと自立して、一人前にならないと、再婚もしにくいでしょ。

 俺はもう一人前だ、だから安心してくれ、と言いたい。早く結婚式を見せてやりたいし、孫を抱かせてやりたい。早すぎだバカやろーって言われるくらいがちょうどいいですね。

 勘違いしないでほしいのは、俺は別にお母さんが欲しいんじゃないんです。彼女や嫁に母性を求めているわけじゃないんです、そんなのは母に対しても嫁に対しても冒涜だと思うから。俺は、ただ、父親になりたいんです。

 よく小学生の女の子の将来なりたいものに、お嫁さんっていうのがあるでしょ? あれの男子版ですよ。俺は、お父さんになりたいんです。

 働いて、嫁をもらって、子供を育てて、家庭を守って、笑って、泣いて、幸せな生活を、当たり前の暮らしをしたいだけです。そのためには、しっかり稼ぐつもりだし、しっかり働きたいと思ってます。さすがに、この時代、共働きでないとやっていけないとは思いますが」

 三者面談で、高卒で働きたいと言ったのは、この考えが根底にある。親父は、もう俺から解放されていいと思うんだ。そのためには、俺は自分で立てることを証明しなければならない。大学に行くと、最低でも四年間、その時が伸び伸びになる。

 だが、親父は俺が大学へ行くことを望んでいる。長期的には、将来のことを考えるとその方が良いのだろうが……納得できない俺がいる。

 俺が一気呵成に述べると、犬養先生は神妙な顔で見つめ返していた。横の佐羅谷も、えも言われぬ顔でじっと見てくる。何かおかしいのだろうか。

 てっきり、鼻で笑われるかと思ったのに。

「ああ、驚いた。なあ、佐羅谷?」

 佐羅谷は返事をせず、じっと俺を見たままだ。

「佐羅谷?」

「……はっ、そ、そうですね」

「思わず深窓の令嬢さえも固まるほど、九頭川の考えは突拍子もない、と。ありがとう、興味深い意見を聞かせてもらえた。お礼に、いい話と悪い話と、少しつらい話をしよう」

 犬養先生は三つ指を折る。

 マグカップを横に避け、語り始める。

「まずは、いい話だ。

 もし九頭川が本気でそう考え、そのまま社会に出て働き始めたなら、そしてその時、将来を共に目指せる伴侶がまだいないなら、速やかに結婚相談所などに登録しなさい。きっと、引く手数多で、すぐに結婚できるし、概ね願いは叶うだろう。

 その若さできちんと家庭を持って、責任を持って生きたいとは、なかなか言えるものじゃない。姉さん女房になるかも知れないがな」

 そして、小さく「いないんだよ、そういう男が」と吐き捨てたのは聞かないことにしておこう。

「次に、悪い話だ。

 残念ながら、九頭川の考えは若い女子にはウケない。女子の方が基本的に成熟が早いから、白馬の王子様がいないことにはいずれ気づきはするが、さすがに十代の若いうちは刺激が欲しいし、夢見がちだ。

 結婚なんて考えないし、いかに自分が特別な扱いをしてもらえるかとか、そういう付き合うことのプレミア感がないとすぐに拗ねたりね。

 そして、暴力を振るわれてもそのあと抱きしめられて、ごめん、好きだよ、とか言われると泥沼から離れられなくなるんだ。束縛を愛情と勘違いしたり、横暴を頼りがいがあると勘違いしたり、将来武道館をいっぱいにするとかいう夢物語にころっと騙されるんだなぁ。

 財布忘れちゃったとか、スマホの充電切れてたんだとか、そんな嘘もことごとく信じてしまってねえ、若かったねぇ」

 そして、小さく「ダメンズはこりごりだ」と吐き捨てたのは聞かないことにしておこう。

「最後に、少しつらい話だ。

 九頭川、もしも、子供ができなければどうする? いろいろあるが、できないことはある。原因は、女の時もあるし、男の時もある。豊臣秀吉など、おそらく本人の問題だろう?」

「子供ができない」

 そうか、そういうこともあるのか。

 そんな可能性、考えたこともなかった。

 だが、そうだ、そうだ、不妊治療に何百万も使ったというヤフー記事を見た記憶もある。それで子供ができたらまだしも、努力虚しく授かれないこともあるという。

 犬養先生の悲しげな目が問う。

 言わなくてもわかる。

 そのとき、おまえは、嫁を愛することができるのか、そのとき結婚生活を維持できるのか。

 そう問う目だ。

 嫌がらせの質問ではないと思う。

 どうすればいい?

 子供ができない状態。

 ほんとうに、どうすればいい。

 俺は、答えられなかった。

 しばらく、彫像のように、目を見開いて、前を見ていた。

「九頭川くん!」

 佐羅谷が慌てて俺の肩を揺らす。

 俺は、泣いていた。

 佐羅谷がハンカチで俺の頬を拭いながら、犬養先生を睨む。

「犬養先生、ちょっと意地悪な質問です」

「いやすまない。まさか泣くとは思わなかった。だが、自分たちの意思ではどうにもならないこともある、九頭川、まだ時間はある。その時までに自分の心に、きちんと答えを見つけておきなさい。何度も言うが、九頭川の夢は素敵だ。私でもクラッと来るくらいにね。だからこそ、自分の力ではどうにもならないことの可能性を考えておきなさい」

 バツが悪そうに、犬養先生はそれだけを告げた。

「お邪魔したね、じゃあ、私はホテルに戻るよ。二人とも、気をつけて帰るんだよ」

 佐羅谷の恨みがましい視線にいたたまれなくなったか、そうそうに犬養先生は喫茶店を出た。

 涙を見られたのは、少し恥ずかしいが、自分の考えを整理できたこと、大人の意見を聞けたことは嬉しかった。犬養先生の見立てでは、若いうちに結婚相談所なりの登録したら、なんとかなりそうだ。モテない俺でも、なるべく早く家族を持つという夢は叶いそうだ。その先は、きちんと考えて、向き合っていかなければならないが。

「あなたの言うモテたいって、そういうことだったのね」

 佐羅谷はハンカチをしまった。

 そうだよ、俺は生涯かけて愛せる女性が欲しいんだ。生涯かけて愛してくれる女性が欲しいんだ。

 それが、俺にとっての「モテたい」だ。

「モテたいって気持ちは、嘘じゃない。ただ、男子高校生としてはちょっと重いだけだ」

「そうね、告白を受けるのがそのままプロポーズを受けることになるなんて、ふつうの高校生には耐えられないでしょうね」

 佐羅谷は、静かに甘ったるそうな紅茶のストローを咥える。小さな口で、ついばむように。グロスを塗った唇の動きに目を奪われる。

「でも、ほんの少し、」

 独り言は、掠れて消えた。

 佐羅谷は何を言おうとしたのだろう。

 考えているうちに飲み物が空になり、しばらくカップを弄びつつ、席を立とうと切り出す時機を逃す。つい力任せに紙のカップを凹ませると、ペコっと音がして、ハッと佐羅谷は面を上げた。

「帰りましょうか、ずいぶん長居してしまったわね」


 まどろみの中で見ていた夢は、門番にさよならを告げると記憶から消えた。

「九頭川くん、起きて、ねえ、起きて」

 肩を揺らす佐羅谷の声に重いまぶたを開ける。

 無表情の佐羅谷が至近距離で見つめていた。

 ここは、どこだ。

 扉の閉まる音。

「次は鶴橋に停まります」

 停車駅の案内、ああ、電車の中だ。

 思い出してきた。

 矢場とんで味噌カツを食べ、喫茶店で少し話をし、そのまま近鉄名古屋から上本町行きの電車に乗ったのだったか。

 だが、どこだ?

 俺は大和八木で降りねばならぬ。

「鶴橋だって?」

「ごめんなさい、わたしもいま目が覚めたばかりで」

「大阪環状線内回り、鶴橋・京橋経由大阪行きのあの鶴橋か」

「天王寺基準で、近鉄南大阪線の住民だということが露見しているわよ」

 佐羅谷は呆れながら、軽く笑う。

 なあに、寝ていたのはお互い様だ。佐羅谷が謝る必要も申し訳なく思う必要もない。

「仕方ないな、とりあえず降りるしかないだろ」

 しばらくして、電車は鶴橋に停まる。

 八月最初の土曜日、夜。大阪へ向かう人は少ない。まばらな電車を降り、乗り換えの多い鶴橋の駅構内をさまよう。近鉄の株主乗車券があるので、改札さえ出なければ、逆向きの電車に乗って、帰ることはできる。

 帰ることはできる。

 俺は斜め前をゆったりゆったり歩く佐羅谷をためつすがめつ、声をかけあぐねる。

 なぜか佐羅谷は逆のホームへ向かわない。もしかして、方向音痴だったか。二人きりで一緒に出かけるのは初めてだから知らなかったが、なんとなく地図が読めなさそうな印象はある。

「佐羅谷、どうするよ。終電までにはまだ時間があるし、ちょっと休んでいくか」

「休む?」

 佐羅谷が身を翻す。

 駅構内からでも覗く、けばけばしいLEDネオンのビル群。その中には「休憩2h~いくらいくら」と書いた建物も。

 大阪の、都会の、ジメッとまつわりつく夜の熱気をぶつけてくる、佐羅谷の恨みがましい視線。

「あいや待て、他意はない。なんならそこの自販機でペプシとオランジーナでも」

「わたし、別に何も言っていないのだけど。ついでに言うと、あまり炭酸飲料は好きじゃないわ」

 このあいだ、沼田原先輩からもらったペプシを引ったくったのはどちら様でしたっけね。

 結局、駅構内の人通りの少ない袋小路、ベンチで二人静かにペットボトルに口をつける。発着する電車からも距離があり、わりと静かな一角だった。

 綾鷹とレモンティ。

 俺と佐羅谷の最後のささやかなデボーチェリ・ティーパーティー。


「今日は、本当に楽しかった」

 俺は飲み終えた綾鷹を傍のゴミ箱に捨て、ベンチに腰掛けたままの佐羅谷の前に立つ。

「今日は、短い人生の中で、一番楽しい日だった」

 俺にしては珍しいことだ。

 嘘偽りなく、本心を飾らない。

「そして、区切りの日だ」

 俺は、恋愛研究会から卒業する。

 リハビリは、終わりだ。

 俺のことばを受けて、佐羅谷はほっと安心したような表情を見せた。いつもどちらかと言うときつめの眉が、柔らかくなる。

 もう俺につきまとわれて、秘密を暴かれる心配がないという安心だろう。今まで、やきもきさせて、本当にすまなかった。

「変な言い方。まるで今生の別みたいじゃない。少なくとも、わたしと九頭川くんは、あと一年と半年くらいは毎日顔を突き合わせるでしょう?」

 佐羅谷は腿の上に乗せたペットボトルを両手で包んでいる。

 見上げる緑混じりの瞳は、外のネオンを受けて揺らいで見えた。

「そうだな、ほんとうに、そうだ」

「またそんな言い方をする」

「今まで、ありがとうってことだ」

 そして、さよならだ。

 俺は右手を差し出した。


 救うつもりで差し出した手ではない。


 別れの挨拶だ。

 佐羅谷は、もとより俺の救いを必要としていなかった。踊り疲れた道化は、舞台から落ちて誰からも見えなくなる。ただそれだけのことだ。

 俺の右手と顔を、佐羅谷は交互に見やる。

 失望したような、呆れたような表情だ。

「何が何だか、あなた一人の中で勝手に結論が出ているようだけど、残念ね、その手は握ってあげられないわ」

 颯爽と立ち上がると、俺の耳に口を寄せる。

 ふわり、汗と香水の混じった香り。

「今日という日は、まだあと三時間あるわ。今日が人生で一番楽しかったというのは、まだ早いんじゃない?」


 何かすべてその後の記憶は曖昧だ。

 だが。


「これは、ネイベルというのよ」


 その日、俺は一生忘れられない単語を一つ知った。

 それだけは、覚えている。


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