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2巻後半『谷垣内悠人は付き合わない』

登場人物名前読み方


 九頭川輔  (くずがわ・たすく)

 佐羅谷あまね(さらたに・あまね)

 宇代木天  (うしろぎ・てん)


 犬養晴香  (いぬかい・はるか)

 沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)


 谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)

 那知合花奏 (なちあい・かなで)


 山崎    (やまざき)

 高森颯太  (たかもり・そうた)

 神山功   (こうやま・たくみ)

 田戸真静  (たど・ましず)

 田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)

 入田大吉  (いりた・だいきち)


 上地しおり (かみじ・しおり)

 三根まどか (みね・まどか)


 山田仁和丸 (やまだ・にわまる)

二章 谷垣内悠人は付き合わない


 もうすぐ一学期も終わるな。

 七月の三者面談と試験日が近づき、夏休みまでの日数が指折り数えられるくらいに迫ってくる。

 梅雨も例年通り梅雨明け宣言する前に開け、昨日梅雨明け宣言があったから、今日は雨だ。気象庁はいつもそう、良い方の天気は必ず外し、悪い方の天気だけは食い気味に当てる。明日の天気すら当てられないのに、悪びれもしない。

 暑い雨。

 まるで水滴が空からではなく、そのへんの空気から滲み出てくるかのようなべったりと湿った雨に、心まで重くなる。

 先日、校外学習で行った三之公天然林の、樹木が発する香りのある湿度ではない。人と、カビと、その他人工的な嫌な臭いがすべて入り混じったような湿度。

 だが、暑さにも湿り気にも動じない、凛と澄ました涼やかな女子がいる。

 長い黒髪は重い空気を感じさせない。体を翻すままに、遅れてふわりとついてくる。表情も涼しげで、汗やテカリとはまるで無縁だった。

 理科実験室から出てきた女子は、沼田原依莉。生徒会長にして、恋愛研究会の元部長。理由はわからないが、佐羅谷と宇代木にご執心で、俺が近くにいることが気に食わないらしい。

「げ」

 部室へ向かっていた俺は、悲鳴をもらす。悲鳴だ。

「やあ、挨拶は最後までしたほうがいいよ? 元気ですか、ってね」

「元気そうですね」

「おかげさまでね。君も、楽しめたようだね。校外学習」

「学校行事なんて、授業でないだけ楽なもんですよ。黙って座っているだけで、文句も言われない」

「君はそんなタマじゃないだろ。活躍は、聞いているよ。ああ、佐羅谷からじゃないよ。あの子はそんな話はしない」

「いいかげん、学校中に盗聴器を仕掛けるのはやめたほうがいいですよ」

 この人の話は、怖い。

 そもそもおかしな話だったんだ。どうして、俺の校外学習がたまたま佐羅谷と同じだったのか。どこのどいつが、俺が居眠りをしている間に土倉庄三郎に丸をつけたのか。

 沼田原先輩ではない。

 さすがに、教室に三年の先輩が、しかも美人な生徒会長が入ってきたら、誰かしらおかしく思う。きっと、誰かを使ったのだろう。この人ならやりかねない。

「失敬な、私は盗聴器なんて作ったことも設置したこともないよ。もっと便利で使いやすくて、壊れないうえに足がつかないものがあるじゃないか」

「魔法使いにでもなる気ですか」

「魔法使いは男子しかなれないんだろう?」

「そういう返しは予想外でした」

「君も、魔法使いにはなれないよ」

 それは、そういう意味だろうか。

 三十歳まで女性経験がなければ、魔法使いになる、というアレである。なお、山田仁和丸(40)は四十歳で魔法使いから大賢者にジョブチェンジした。次は五十歳の大魔導師を目指すらしい。言っているのは本人である。

 俺が魔法使いになれないということは、そんなネットのネタをこの先輩が言っているのだろうか。前に言った時は無反応だったのに。ちょっと、からかってみるか。

「先輩が、俺の魔力を奪い去ってくれるんですか?」

「いいよ、いつにする? 今日でもいいよ? 特に門限はないが、うちの家は無理だな。君の家はどうだい?」

「うい、い、い、や、やめてください!」

「遠慮するな。別に責任を取れ、とかややこしいことは言わないぞ?」

「冗談ですよ!」

 スカートの襞からスマホを取り出し、カレンダーの予定表を開く沼田原先輩。あまりに自然で、あまりに事務的で、そして一歩近づいて、かいなのうちから覗き込んで見上げてくる。

 佐羅谷とも宇代木とも異なる、別の香りがした。間近に見える肌はマットで、唇ひとつに塗った鮮やかな色が、歳不相応に大人びて見えた。顔全部を武装するようにメイクするのではなく、ただ唇だけを描くのは、大人だ。どこかで聞いた。

 俺が慌てふためく様に、沼田原先輩は、ははっと軽くおどけて見せた。切れ長の目が一層細く、流れて笑う。

「覚悟もないのに、つまらない冗談を言うんじゃないよ」

「先輩も冗談はやめてくださいよ」

「冗談ではないよ」

 沼田原先輩の瞳から、色が消えた。

「私は、たぶん、犬養先生よりも君のことを高く評価している。犬養先生は大人だから、私たちの間の微細な違いが見えないんだ」

 どうだろう。

 犬養先生はわかっていて、気づかないふりをしているのではないか。沼田原先輩の本心さえ、知った上で踊らせているのではないか。

「私の連絡先は知っているね? 気が向いたらデートくらいしてあげるよ」

「わー、先輩とデート、嬉しいなー」

「そのセリフ、録音したかった」

 恐ろしいことを平然と言って、沼田原先輩を俺の肩をポンと叩き、手を振って去った。

「私の誘いには応えること、いいね?」

 また何か考えているのか、まだ何か企んでいるのか、触れた肩に見えざる霊でもなすりつけられた気がして、俺は軽くはたく。だが、沼田原先輩の独特の香水が、シャツの一部に染み付いてしまったかのようだった。いつまでも、いつまでも。


 三者面談、この気恥ずかしきもの。

 親ではなくとも、保護者のいない高校生など、ほとんどいないわけだが、なぜかその当たり前の存在=保護者と一緒に学校という環境にいると、恥ずかしく感じる。学校だけではないか。アルルでも親といるときに友達に見られると、やはり恥ずかしい気がする。別に、親が恥ずかしいわけではない。

 小学生の時でも、恥ずかしさはあった。一人で生きられない小学生でも、中学生でも、高校生でも……。大人になると、親と一緒に出かけたりすることに、それを知り合いや友達に見られることに、恥ずかしさを覚えなくなるのだろうか。だとすると、親と一緒にいる場面を見られるのを恥ずかしく感じる心は、子供だからだろうか。

 自分は大人だと一人前ぶって、必死にカッコつけているけれども、結局は庇護を受けなければ生きてもいけない。当然の事実を見られることが恥ずかしさの源か。

 高校生は、子供だ。

 親父を横に学校の廊下を歩きながら、無言。担任の先生は、俺が二年の初日からしばらく教室にいなかったことには、触れなかった。

 学業も問題ない、生活態度も問題ない……どうやら、校外学習でのサブリーダーっぷりを担任の先生には評価されているらしい。俺、何もしてないんですけど。

「輔、大学については、さっき話した通りだ。通えるなら、生活費と授業料は心配するな」

 親父は見慣れないジャケット姿に、バチッと固めた髪型が、普段の砕けた様子とは正反対だった。シュッとしてさえ隠せない、ヤンチャ感。父親を表現することばではないが。

 家では、進路の話などしたことがない。

 進路だけではない、そもそも、親父と話すことなど、ほとんどない。それでも、片親の二人家族なので、まだしゃべるほうではあると思う。他の家庭を知らないので、推測だが。

「何をするかは決めていないが、建設や土木系の勉強がしたい」

 結局、面談で言ったことはその一文に集約できる。

 親父は電気工事系の仕事をしている。詳しいことは、知らない。何となくだが、俺はじかにモノに触れる仕事をしたほうが、肌に合う気がする。親父の仕事に近いような、遠いような。だから、地に足のついた分野を選んだ。

 正直、大学まで行く意味があるのかわからないが、かつらぎ高校は何やかやでほぼ全員が進学する。親父も大学は当たり前と考えているようだ。

「遠慮すんなよ? 多少はわがままな方が、かわいいってもんよ。息子も、女も」

「遠慮してねえよ、頭ぐちゃぐちゃすんなって。あと、息子と女を一緒くたにすんな」

「どっちも、かわいいだろ」

「どっちも、縁がねえよ」

「オレは成績よりそっちが心配だよ、オレの息子とは思えないぞ?」

「知るかよ」

 知っている。

 俺の性格は母親似だ。親父もわかっている。だから親父は、俺に甘い。だから俺は、自分の性格が母親似だとは絶対に言わない。俺と親父は、母親の話はしない。今は、しない。俺が小さい時は、無邪気に尋ねていた記憶はある。俺の中にある母親の記憶は、すべて親父経由だ。

 そして今は、きっと、俺の心が母親を宿している。

 しつこく頭を触ってくる親父を手を払う。

「あ」

 そのとき、前から見慣れた顔がやって来た。目立つ色の髪はエアリーボブ、色を合わせたカラコン、緩めのブラウスに、緩くない胸元、スカートだけはいつもより長い。

 宇代木だ。

「げ」

 向こうも、こちらに気づいた。いつものラテン系の陽気な挨拶とは違う悲鳴が口をついたのか。思わず磯でウミウシを踏んだような表情だ。

 隣には、似たような雰囲気の女性が並んでいる。白のトップスに黒のパンツスタイル。髪の毛も黒い。あー、宇代木の顔立ちと体型は母親似だ。

「天ちゃんのお友達? きちんと挨拶なさい」

 げ、を聞きとがめたようだ。

「ご、ごきげんよう、九頭川くん」

 強張った顔の、挨拶。誰だこいつ。

「ごきげんよう、宇代木さん。タイが曲がっていてよ?」

「え、ウソ……って、ネクタイなんかしてないじゃんか!」

「おまえが変な挨拶するからだろうが」

「あー、もうイヤだー」

 宇代木はいつものテンションではなく、どうにも居心地が悪そうだ。わかる、わかるぞ、その気持ち。

 親にはわからないだろうが、子供には子供の事情がある。例えば、俺たちは自分の理想とする姿、友達や周囲に見せたい自分を必死にカッコつけて、演技して、空気を読んで、ハブられないように、立場を失わないように、せいいっぱい演技している。俺で言えば、かつらぎ高校二年生の九頭川輔を演じている。

 ところが、親の前では、何はさておいてまずは、子供という役割が当てがわれる。

 子供と高校生を同時に演技することはできない。だから、親を隣にして友達と会うと、どんな自分になったら良いかわからないのだ。

 宇代木天ほどの鉄壁のキャラクターでさえ、演出の背反でキャラがぶれる。

「輔、そういや部活始めたって言ってたな。演劇部?」

「ちげーよ。そんなかっこいいもんじゃねえよ」

 俺に尋ねながらも、親父は宇代木(娘)に笑顔を向ける。宇代木は目をパチパチさせて、所在なく顔を反らす。少し赤くなってるのは気のせいですかね。息子の同級生を目で口説くのはやめていただきたい。

 だが、宇代木は一回り年上の包容力のある遊び慣れたおじさんなんかに弱そうな印象はある。俺の親父がまさにそれだ。

「九頭川くん? もしかして、くーやん君?」

 宇代木(母)が、首を傾げながら俺に問う。表情も娘と似ている。

「まことに不本意ながら、ぼくがくーやんでございます」

「不本意なんだ!?」

「危うく、くずやんになるところでした」

 バカ丁寧な返しを冗談と受け取ったようで、宇代木(母)は笑っている。

「まあ、まあ、いつも娘がお世話になっております。本当にねえ、この子、全然友達の話もしなくてねえ、ようやくあまねちゃん以外の名前が出て来てねえ」

 あー、こういうのは、子供が一番嫌がる話だ。他人事ながら、宇代木(娘)を憐みたくなる。

「なんだ、輔、おまえも全然友達も連れてこないと思っていたら、こんなお嬢さんと友達だなんて、隅におけないな、ええ?」

「ただの部活メイトだよ」

「何だよ、部活メイトって、新しいな。今はそう言うのか?」

「いま俺が作ったことばだよちくしょう」

 そして、俺と宇代木がうつむいている横で、親同士が仲良く話を始める。親父のコミュ力の高さは異常だ。

 ていうか、当たり前のようにライン交換とかしないでくれます? 同級生の親同士がつながるとか気持ち悪いんですが。しかも宇代木のお母さん、ちょっと親父に近づきすぎじゃございませんか。

「いやーこいつ学校でのことはてんで話そうとしなくてー」

「男の子ってみんなそうだって言いますよ」

「母親がいたら、違ってたのかもしれないんですがね」

「あら、じゃあお一人で子育てされてるんですね」

 その手をはたく動作でさりげないボディタッチとか、やめてください、ほんと。親父は百戦錬磨なので、その程度でなびくタイプではないが……。

「ねえ、天ちゃん。今度くーやん君にうちに来てもらいなさいよ。じっくりお話でも」

「あーもう、お母さん、そういうのいいから! ほら、時間時間! 面談だから! くーやん、また後でね! 部活でね!」

「お、おう。ほれ、親父も帰れよ。息子の同級生の母親口説いてんじゃねえよ」

 宇代木は母親の背中を押しながら、どこかの教室に消えていく。

「はー、なんで、ものの数分でライン交換してんだよ」

「ばっか、人生何があるかわからんだろ? 例えば、おまえとあの子との間に何かあったとき、とか」

「宇代木とは、何もねえよ」

「あの子、おまえにはお似合いだと思うぞ?」

「親に、そういう相手を選ばれたくねえよ」

 無意識に出たことばが、ひどすぎて後悔した。思わず顔を上げるが、親父は不敵に笑うばかり。

 やめろというのに、俺の頭をぐしゃぐしゃと撫でる。

「おまえと同じじゃねえか、高校デビューした者同士、話しやすいだろ? おまえはもう元に戻ったみたいだが」

「は? 宇代木が?」

「なんだ、違うのか? いや、気づいてないのか?」

 親父はふうむ、と一瞬だけ思案顔を浮かべ、俺の額を小突く。

「まあいいや、オレは先に帰るぜ。今日の夕飯は俺が作っとく。せいぜい、部活でも楽しんで来な。あんなかわいい子がいるなら、部活もやりがいがあるじゃねえか」

 返事も聞かず、親父は俺に背を向けた。

 親父もかつらぎ高校の卒業生だ。迷いなく廊下を進み、階段を降りる。呆然とする俺が声をかけるいとまもなく、見えなくなった。

 高校デビューだって、宇代木が?

 だが、俺は宇代木の過去を何も知らない。何となれば、今の宇代木さえ知らない。会話の端々から、何となくあっち系に造詣が深いのだろうな、とは思っているが、直接尋ねたことはない。

(何も知らなくても、宇代木は話を途切れさせない)

 土曜日のボルダリングの帰り、もしかしたら高二になって一番たくさん話をしているのは宇代木かもしれないのに、会話の内容を微塵も思い出すことができなかった。

「部室、行くか」

 俺は恋愛研究会の理科実験室へ、足を向けた。


「ちわーっす」

 理科実験室の、奥の扉を開ける。

 恋愛相談中でないことは確認済みだ。

「こんにちは、九頭川くん」

 定位置で読書していた佐羅谷は、面を上げると柔らかく微笑んだ。畳んだ文庫本は、机の上に置く。

 特別な場合を除いて、佐羅谷は部活中に他者がいると、本を読まない。

「天は遅れるそうよ。三者面談だって」

「ああ、さっきすれ違った」

「あなたも、三者面談だったのよね?」

「おう、一足先に厄介ごとは終わらせたぜ」

 俺は嫌なことは先に済ませるタイプだ。好きなものはあとに残すタイプだ。世間では、大成しないと言われる性格だ。

「まだ高二だってのに、もう進学だの就職だの、何で未来ばっかり考えなきゃならねえんだろな。今もままならないのに」

「九頭川くんは、進学するんでしょう」

「その予定だ。親父も、それを望んでいる節がある」

 三者面談で、親父の口から就職の文字は出なかった。俺が現場系の仕事を望んでいると知ってさえ、大学以外の選択肢はないようだった。先生も、同じような態度だった。よほど俺は、大学向けの性格をしているらしい。どんな性格か知らないが。

「お父さんが望むから進学? 九頭川くんは、働きたいの?」

「親父が電気工事関係だからな。俺も土木や建築に携わりたいとは思ってる。大学へ行くなら、その道だな。働くなら早いほうがいいだろ?」

「ふうん、そうなんだ。うらやましいわ」

「うらやましい? どういう意味だ?」

 ふと見上げると、佐羅谷とまともに目があった。

「わたしは、何かしたいことがあるわけでもなく、何かできることがあるわけでもなく、将来なんて、考えられないもの。働くなんて、何をしたら良いのかさえ」

 冗談か、と。

 しかし、問えるような顔ではなかった。

 俺から見たら、すべてを具えた欠けたるところのない少女が、迷える仔羊の頼りない潤んだ瞳を向ける。真っ直ぐに、真っ直ぐに。なんて顔をしやがるんだ。

「高二でしたいことがないのも、できないことばかりなのも、当たり前だろ。そもそも、俺たちは世の中にどんな仕事があるのかさえ知らない。IT企業の社長というのがいるのは知っていても、架空轆轤回しの達人ってことしか知らない」

「轆轤回しって……ああ、インタビュー写真のこと?」

 どうしてスタイリッシュ系企業のCEOさんは、インタビューで巧みな轆轤回しを披露するんでしょうね。あれかな、会社を起こして、上場させるうちに、地味なことがしたくなって、趣味が陶芸になるのかな。エア陶芸。

 くすり、と口の中で嗤う。

「ある人がね、言っていたの。十二歳にもなって、やりたいこともない、やるべきことも見つけられない、社会への貢献も考えられない人間は、欠陥品だって」

「バカげてる」

 誰だ、そんなことをいう奴は。

 十二歳までに考えつくようなやりたいことややるべきことなど、ごくごく例外的な天才児を除いて、およそ「ゴミ」だ。職業がゴミなのではなく、単に知っていて思いついただけのゴミだ。野球選手、サッカー選手、ユーチューバー、医者、芸能人、漫画家、お花屋さん、ケーキ屋さん、お嫁さん、公務員、そんなところだろ? 社会貢献が聞いて呆れる。ボランティアを騙る自己成長という名の自慰行為に、他人を巻き込むな。

 ちょっとバイトしているだけの俺だが、仕事っていうのは、花だけで成り立つものではないとわかる。茎も根も、土も日光も肥料も、全てがあってようやく成り立つもんだ。誰でもできることを誰かがする、それが働くということで、それが社会に貢献するということだ。

 その人だけができる仕事、その人にしかできない仕事など、この世にはない。世界一偉い人であるアメリカの大統領にも代わりは居るのだ。仕事なんてそんなものだ。そんなものをきちんとするのが、仕事だ。

「どこのどいつだ、そんなくだらないことを言う奴は」

「哲学者だったかな」

「フィロソフィアの前に、フィロアントロポスを学べ、と感想を送りつけてやれ」

 俺たち繊細な高二を叩きのめすような本を書いて、何がしたいのだろう。炎上商法か。哲学者のくせに文筆を悪用しやがって。

「こないださ、土倉翁のことを調べたじゃない? 土倉翁は、十六で既に完成していたから」

「あの時代の十六歳を今と同じと考える根拠はないと思うし、あの人はなんやかやで『ええしの子』じゃないのか?」

「そうね、わたしは、ただの庶民だけれど、それでもね、一人置いていかれているようで、取り残されているようで、ひたすらに不安に駆られるの」

 佐羅谷は手を胸に当てる。

「九頭川くんも、前回の案件で思いの外、というか、わたしには思いもよらない方法で活躍してくれたし、聞いてみれば、きちんと将来も考えているし。わたし、だって、わたしは、……」

 突然、どうして弱気になっているのだ。

 佐羅谷は、励ましやことばが欲しいタイプではない、はずだ。ただ気が弱っているだけか? 確かに、将来に不安で不安で、部屋の隅で毛布にくるまってガタガタ震えながら、見知らぬ神に命乞いすることもある。バイトでくだらない失敗をして、自分はこの程度のこともうまくできない、最底辺のゴミ屑かと落ち込むこともある。

 だが、こんな悩みは、自分で処理するしかないんじゃないか。

 違う、こんな悩みを俺は打ち明けることも、打ち明けられたこともなかっただけだ。打ち明ける友達はいなかったし、打ち明けてくる友達もいなかった。

 こんな話をする友達がいなかった。

「佐羅谷、ダメだ。そこまでにしてくれ」

 俺は立ち上がり、なるべく佐羅谷の顔を見ずに、インタビューを受けるIT企業社長のように架空轆轤を回す。

 そのまま、手の届く距離にいると、思わず頭を撫でるしか、そんなクソみたいな慰め方しか、できそうになかったから。

「将来への漠然とした不安、それは、俺にでもあるさ」

 どう言えばいい。

 何を言えばいい。

 驚いたんだ。

 佐羅谷が脈絡なく弱みを見せつけてくることも、いきなり巻き込んでくることも。

 もしかして、家族とうまくいっていないのだろうか。佐羅谷は高校で一人暮らし。スポーツ推薦や桁違いの頭脳でもない普通の高校生にはあまりないことだ。

「三者面談で、何か言われたのか」

「わたしの三者面談は、明日よ」

「家族と、うまく行ってないのか」

「忘れて」

 突き放すことばだった。

 膝に手を置き、深窓の令嬢の顔になる。

「俺の記憶力は」

「エフェメラルなんでしょ?」

「よく覚えておいでで」

 人間の記憶力なんて、都合の良いカゲロウだ。だから、忘れない。

「土倉翁のときも、立派にリーダーしてたじゃないか」

「あの程度のことはね」

 あの程度のことも、できない人間がいることは、想像もできないのか。これは謙虚を越した嫌味だ。

「ぜってー、忘れてやらね。佐羅谷あまねの初デレ記念日」

「は、なに? 何の記念日? とても不愉快な響きに聞こえたのだけど」

「佐羅谷記念日」

「せめて偉業を成し遂げてから祝日にしてくれる?」

 力なく笑う佐羅谷に、俺はスマホを見せた。自分の電話番号だ。

「なによ」

「不本意かもしれないが、いよいよどうしようもなくなったら、俺に声をかけろ。宇代木でもいい。前と同じだ」

「さあ、どうかしら。考えておくわ」

 本当なら、頼ってほしい、信頼してほしい。だが、きっと、佐羅谷は素直には来ない。宇代木にさえ、友達と言っているが、本心でどこまで打ち明けているかわからない。もともと、一人で不自由を感じないたちだ。俺も同じだから、何となくわかる。

 一人でいることに不自由も不都合も感じない人間は、自分のことを孤独だとか寂しいだとか感じない。一人が当たり前すぎて、相談するとか頼るとか、そんな発想すら出ないのだ。

 本当に、人生の終わりまで一人ですべて完全に、滞りなくできたら何も問題ない。だが、それを人は天才という。凡才は、いずれ破綻し、人を頼むしかないことにそのときにようやく気づく。

 佐羅谷は、なかなか俺の番号を書き留めようとしない。根比べ。持ち上げている右手が痛くなってくる。俺の力がないのではない、最近のスマホは、性能や画面の大きさが上がると同時に、重くなっているのだ。

 仕方ない。

 奥の手を使うか。

「なあ、佐羅谷。俺の番号が入るのが嫌なのはわかった。だがな、一応俺も部員なんだ。部長が部員の連絡先を知らないのは問題だろう?」

「そのこじつけは、まあまあ良い手ね。王手銀取り」

「そこに桂馬を打たれる時点で終わりだろ」

「まったく、そうね」

 佐羅谷は諦めたように、自分のスマホを取り出した。

 俺が桂馬をちょろまかしていたのは、秘密だ。


 ガラガラと扉が開いて、憔悴した宇代木が入ってきたのは、力ない「ちゃーおー」と同時だった。

 定位置である佐羅谷の隣に座る。

 ガックリと肩を落とす。

「絞られたみたいね、天。素行?」

「素行だな」

「あたし素行悪くないよね? 野良猫を猫じゃらしで遊んであげたり、散歩中の犬にわんわん言ってあげたり、さいこーに素行いいよね?」

「ソ、ソウデスネ」

 想像の斜め上を行っていた。これで成績上位三十位か……。

「天、あなた。ああ、なんだか、悩んでいるのがバカらしくなってきたわ」

「え、あまねも素行悪いのー? 悪いよね? 尖塔を占領しているし、男の子をフってばかりだしー」

「せ、尖塔はだって、他の誰も使わないのだから、いいじゃない」

 たぶん、佐羅谷以上に似合う文学少女が取って代わらない限り、陰口を叩かれることになろう。だから、誰も佐羅谷を追い出せない。残念ながら、ただの美少女では尖塔の主になれない。

 実際に問題視されているとしたら、先生たちから苦情が出るだろう。あるいは、生徒会。しかし生徒会の沼田原先輩は、むしろ佐羅谷が尖塔にいることをイメージ作りと考えているので、やめさせないだろう。

「男をフリまくるのは、素行が悪いのか」

「悪いよ。答えのない問題を永遠に解き続けさせられるようなもんだよ。ゲーデルの不完全性定理だよ。チューリングマシーンの停止問題だよ」

 耳慣れないことばが聞こえて、俺も佐羅谷も、くたびれて項垂れる宇代木をまじまじと見る。

 二人の沈黙の瞳に曝され、宇代木はハッとしたように頭を跳ね上げた。

「えーと、ほらだってー、付き合ってみないと、好きになれるかどうかなんてわかんないじゃん。もともと、恋愛で二人の好きが同等に釣り合うことなんてないんだから、まずはデートくらいしてみないとー」

「天、それは雑談? それとも、恋愛研究会としての話?」

 佐羅谷の表情が冷える。

 仮想のスイッチが入る音が聞こえた。

 佐羅谷と関わるようになって、なんとなく佐羅谷の演じ方のタイミングがわかるようになった。恋愛の話を自分ごととして向けられたら、すぐにこうやって逃げる。

 そして、他人事としての恋愛話は、事もなげに答えてみせる。

「また、そうやって逃げる」

 舌打ちと小声は、俺にだけ聞こえた。ぞくり、心の底が冷えそうな寒気がした。

「ただの雑談じゃんか。あたしでも、くーやんと毎週デートしてるのにねー」

「してねえよ。あれはボルダリングの一環だ」

「そう、それで、天はなにか得られるものはあったの」

「うん、少なくとも、あたし、くーやんは嫌いじゃない」

 反応に困る。

 好かれてはいない、無関心でもない、さらに、嫌いではない。だが、今のところ、俺は宇代木のことはどうでもよい。

「じゃあ、さっさと付き合ったらいいじゃない。すぐそばで、恋愛になる前の甘酸っぱいやりとりを見せられる方の気持ちになってちょうだい。サトウキビを剥いで投げつけたくなるわ」

「あまねは知らないだろうけど、つきあうって、一人の判断じゃできないんだよ。それに、あたしもサトウキビは食傷気味だし、要らない」

「そこの甲斐性なしが承諾しないということ?」

「優柔不断なくせにガードが硬くってさー」

 なんで俺が糾弾されているんでしょうか。こういう女子話は女子同士でやってほしいです。

 だいたい俺は宇代木につきあってなんて……言われたな、言われた気はする。あんなもん、ただの戯言だろ。りんご一個に100万円だ、という八百屋と同じだ。

「くーやん、もしかして、本当にげ」

「それ以上言うと、お前のママンを召喚するぞ」

「それはやめて」

 神経を電気で強化したほどの速度で、宇代木は返事した。

「九頭川くんは、モテたいはずなのに、そしてけっこうモテるようになっているのに、全然動こうとしないのよね」

「モテたいのであって、その後どうこうしたいわけではないからな」

「くーやん、次ウソついたら、パパスを召喚するよー」

「勘弁してくださいちくしょう」

 俺まで神速で返事してしまった。

 正直、付き合うというのはよくわからない。漫画やゲームの知識しかない。というか、最初はみんなそうじゃないのか? 付き合うって、何をするんだ。一緒にお弁当を食べるとか? 一緒に登下校するとか? 土日にアルルとかその他遊べるところへ行くとか? クリスマスとかバレンタインとかの紋日に、ちょっと大人びた格好でデートするとか? すべてが疑問符付きだ。

「あなたたちを見ていると、つきあっていないと言うのが信じられないのだけれど」

「こんなの、ただの友達じゃんか。そこー悪くないもん」

 宇代木はムスッと頬を膨らませる。

「天は成績も悪くないのだし、すぐに男子と遊びに行くのを控えたら、それでいいんじゃないの」

「なに言ってんの、今しかできないことを今やらなきゃ。勉強なんてするだけ無駄だよ」

「無駄なわけないでしょう」

 佐羅谷はガスバーナーでいつものコーヒーを作りながら、たしなめる。

 だが、宇代木は面談用に伸ばしていたスカートを短くして、鼻で笑う。

「無駄だよ、かつらぎ高校レベルの勉強で、どれだけがんばったところで」

「宇代木、どういうことだ」

 いつもの宇代木のことばとは思えない。

 中途半端とは言え、かつらぎ高校も進学校だ。関西の私立上位や国公立の中位に合格者を出す。大学進学だけが優秀さのすべてではないが、その一端のはずだ。それらの大学から、役所や会社で活躍している人物もいるだろう。

 学力をつけて、偏差値を上げるのは、決して無駄ではない。大学選びで選択肢が増えるということは、未来への選択が増えるということだ。

「がんばったところで、かつらぎ高校からは医者も弁護士も官僚も出ないっていうことだよー。そして、地元の名士もね。ああ、市長くらいは出るかもね。ねえ、くーやん」

「俺ほど政治家に向かない人間もいないと思うが、別に、そういうエリートの仕事だけが仕事じゃねえだろ」

「勉強するなら、そのレベルでなきゃ意味ないってことだよー」

 俺が会話を奪ったせいか、佐羅谷は黙って湯を沸かしている。というか、このクソ暑い真夏に、よくもまあホットコーヒーを作ろうという気になるな。出されたら嬉しいけどさ。部屋の気温が上がるのはけっこうつらい。

 しゃべっている俺も宇代木も、額に汗が浮かんで流れる。ハンディファンを顔に当てながら、汗を拭いている。

「勉強で生きていく気なら、最上位しか意味なんてない。それ以外はなにもしないのと一緒だよ。わかるでしょ? 奈良県に、真ん中を生かす仕事はないよ。上位の仕事はある。でも、真ん中は東京からの出張所しかないじゃない。あとは、兵隊ばかり。強いのは、結局地元の地縁、コネ、腕力、全部、全部、勉強なんて関係ない」

 わからないでもない。

 奈良県にある企業をランクづけすると、そのままブラック企業ランキングに使えそうな一覧表になる。大企業の名を冠した事務所や営業所もあるが、実質ただの兵隊詰所で、何かを考えたり生み出したりしているわけではない。それは東京かどこかの都会のエリートの仕事だ。

 小さな企業や地元の会社になると、もっと状況は悲惨で、学歴など露も意味がなくなる。高校や専門学校時代の、そのままの人間関係のつながりが、会社でも形成されて、居心地の悪さが継承される。

 だから、奈良県は有能な人間を輩出しない。広報で紹介される奈良県出身の有名人は、すべて奈良県から出て活躍した人材だ。奈良県にいて活躍した有名人はいない。奈良県出身で奈良県にとどまるのは、地元に地盤のある政治家や医者や企業の関係者か、地元を出られない理由のある人間か、地元を出ることも考えられないくらい人間関係がうまくいっている奴らだけだ。

「知ってるー? 同窓会ってね、偏差値の高い高校にしかないんだよ。それはね、こんな中途半端な高校で同窓会をしても、交流する価値がないからだよ。

 上位の学校はね、官僚とか弁護士とか医者とか上場企業の幹部候補とか、そういう人がわんさかいるわけ。で、そういう人たちは、今は東京で武者修行してるけど、いずれは地元に帰ってきて、支配者になる。官僚や企業幹部は地元政治家や地元企業に天下り、弁護士や医者は親を継ぐ、って形でね。だから、同窓会で地縁を固めて、交流することに意味があるんだよ。

 ほらね、かつらぎ高校で同窓会しても、無駄なんだ。ただの零細企業の正社員や、しょぼい地方公務員、派遣やアルバイト、名ばかり店長……交流してもお金も借りられないし」

「どうしたんだよ、宇代木らしくもない。まるで仁和丸おじさん(40)が乗り移ったみたいだ」

「あー、てなことを、あれあれ、ヤフーかどっかに書いてたのを見たんだよー」

「天、そんな他人の言い訳はどうでもいいわ」

 佐羅谷が、ビーカーを配る。俺の分もある。

「それが、あなたが勉強しない理由にならないわ」

 宇代木の前に置くビーカーが、高い音を立てた。真っ向からの苛立ち。普段は配膳で、音なんて立てない。

「べーつーにー。あたしはオベンキョしてないわけじゃないしー。それに、あたしは趣味と仕事は別物だって割り切ってるからさ。仕事なんて、生きていけるだけの稼ぎがあれば、どうでもいいよ。

 もちろん、たくさん勉強した方が、ホワイト企業だっけ? 条件のいい会社に入れるのはわかってるけどさ。でも、ああいう会社に入れる人は、もともと仕事を遊びにする人たちなんだよ。人生をゲーム感覚で楽しんで、お給料や役職が上がるのを、ゲームみたいに楽しめる人。

 あたしは、無理。自分でバイトしてみてわかったよ。あたしは、働くことが嫌いだ。仕事なんて、時間をお金に変えるだけのつまらない函数だよ。f(x)=ax+b、aやbの大小は誤差だよ。それに代入するxは小さければ小さいほどいいや」

「趣味に生きる、というのは悪くないと思うけれど」

「趣味に生きるんじゃないよ、あまね。趣味が人生なんだよ。趣味のない人生は、生きてるって言えないんだよ」

 才能のある者は、才能を最大限生かして社会に貢献するべきだ、と俺は田ノ瀬を説得した。そのことばは本心だし、間違ったことではないと思う。

 他方で、極大の才能を有している人間は稀だ。宇代木は多趣味だ。小さい才能の寄せ集めだと思う。傾向としては一貫して、いわゆるオタク系ということになると思うが、漫研や映像研、写真部とか美術部や軽音部、ダンス部なんかも行き来しているようだし、きっと俺や佐羅谷などよりもよほど広い才能があるに違いない。ボルダリングもそこそこできるから、きっと器用で、勘がいいのだろう。

 だが、仕事にしたり、お金を稼いだりするのは一握りのプロフェッショナルにしか叶えられない世界だ。

 だとすると、趣味と割り切って生きようとする宇代木の人生観も、悪くはない。宇代木の二次創作は、おそらく世界を豊かにする。知るのが怖いので、内容の偏りは見ぬふりをして。

「あまねは、ないのー? やってみたいこととか、つきたい仕事とかー」

 ことばに詰まる佐羅谷に、宇代木は冷たい視線を送る。

「ないよね、それなら、よっくオベンキョしたほうがいいよー。勉強くらいしか、打ち込めるものがないんならね」

「宇代木、言い過ぎだ。どうしたんだ、月の日か」

「……さいてーだよ、くーやん。あまね、あたし、謝らないよ?」

「わかってるわ」

「くーやん、帰ろ。送ってってよ」

 俯いている佐羅谷はうんともすんとも言わない。

「俺は、時間まで残る」

 あと半時間ほど、時間は残っていた。

 俺は、宇代木を優先しない。

「九頭川くん、帰って」

「なんでだよ」

「いいから、帰りなさい。部長命令よ」

「じゃ、帰ろっか、部長の許可も出たことだし」

 佐羅谷のことばは有無を言わせなかった。理屈じゃない。

 湯気の残るビーカーを口もつけず、俺は宇代木に引っ張られて、理科実験室を出る。一瞬も顧みる隙もなく、バタンと扉を閉められる。佐羅谷は、ずっと俯いているように見えた。

 俺の鞄をつまんで斜め前を歩きながら、宇代木は無表情だった。

「おまえ、話、聞いてたんだろ」

「何のことー? あたし、バカだから難しいことはわかんないやー」

 しらばっくれるときだけバカになれるなら、僕もバカになりたいです。

「くーやんは、優しすぎるんだよ」

「わざと煽ったのか」

「今は煽ったら免許停止だから」

「嫌われ役なんて似合わねえ」

「あたしはそういうキャラだから、いいんだよ」

 じゃあ、どうして泣きそうな顔をしているんだ。

「念願の電話番号も知ったじゃんか。さ、今晩、くーやんのスマホは震えるかな?」

 二年になってから、俺のスマホは親父の電話以外で震えたことはない。会いたくて会えなくて震えたことも、もちろんない。

「震えないに百万ペリカ」

 宇代木は、悲しげに笑った。

 もちろん、俺は賭けに勝った。

 こんなに嬉しくない賭けは、初めてだった。


 翌日の放課後、理科実験室へ行くと、鍵がかかっていた。よく見ると、「恋愛相談受付中」の札もかかっていない。本当に誰もいない。

 まさか、佐羅谷、来ていないのか? いつも真っ先に教室を出る俺より早いくせに。

(連絡をとるか)

 スマホに触れるが、よく考えると、俺のほうは佐羅谷の連絡先を知らない。

 意外とこれは不便だ。

 いるのが当たり前の人物がいないと、扇の要がいないと、俺がここにいる意味がない。

「ちゃーおー、くーやん待ったー?」

「おー、めっちゃ待ったわー」

「そこは」

「いま来たとこーって言うべきなんだろ? しかるべき時にしかるべき相手には、俺もそう言うことにするよ」

「ぶー。あたしで練習してくれてもいいのにー」

 軽口を叩きながら、理科実験室の鍵を開ける。ここの鍵、理科の先生と保健室の犬養先生が持っているんだよな。犬養先生が持っていていいのだろうか。

「ところで、佐羅谷は?」

「あまねは面談だから遅れるって」

 ああ、そうか。

 よかった。

 そういえば、面談は今日だと言っていたな。

 恋愛相談用の準備をしながら、俺は安堵した。佐羅谷は一人暮らしだし、何となくだが、わざわざ電話で親に相談したり愚痴ったりしそうに思えない。だが、今日が面談だということは、昨日の落ち込みもマシになっているだろう。

 独りだったら、自分でじっと我慢して、心が鎮まるか忘れるかするまで耐える、俺には慣れたことだ。親父になんて、相談しない。佐羅谷はどうなのだろう。女子は、親とはよく話をするイメージがある。

「くーやん、ほっとした顔してるー」

「昨日、一方的に言い負かされたやつを心配するのは当たり前だろ」

「ほんと、甘いあまーい。甘々あまねにはね、誰も彼も甘いから、ちょっとは厳しく言ってあげる人がいなきゃなんだよ。どうせ、あの子は自分の都合よく解釈して、あたしのことを「厳しく接してくれるいい友達」だって解釈するんだしー」

「厳しく接してくれるいい友達を演じる宇代木天さんは、すごくいい友達じゃないですか」

 宇代木は、はははと笑いながら席についた。すぐさまスマホを取り出しては、自分の世界の没頭する。

 俺は遅れて席につき、汗が落ち着いてから本を取り出す。

 さらに三十分ほど遅れて佐羅谷がやってきて、何の動揺もなく、普通に挨拶をして、普通に席に収まった。宇代木は普通のふざけた挨拶をして、苦笑気味に佐羅谷は応じ、それだけだ。俺が話しかけようとすると、壁を作るようにノートを渡された。

「恋愛研究会の案件記録簿よ。田ノ瀬くんの相談、あなたが書きなさい」

 とても、昨日のこと、面談のことを聞ける空気ではなかった。

 そうこうしているうちに、珍しく相談者が来た。黒の緞帳のすぐ向こうに、気配が落ち着く。

「こちらは、女子二名男子一名で相談に応じます」

「え、男子いるの? 男子には聞かれたくないな」

 定型の佐羅谷のことばに、相談者は鼻白んだ。仕方がない、こういうこともある。女子同士でしか話しにくいこともあるだろう。

 俺は佐羅谷の指図を待たず、自発的に外に出る。ついでに、相談ノートを仕上げよう。確か、中庭出入口の自販機は、屋外に傘のついたテーブルと椅子が並んでいたはずだ。あそこを使おう。

 理科実験室も、廊下も、夏の暑さは変わらない。グラウンドから遠いぶん、ほんの少し部活動の喧騒が弱まる。あの喧騒も、まもなく始まる試験期間で静寂に変わる。一斉に鳴き出すセミが、強烈な不協和音を響かせる。

 ちょうど書き終わる頃には、相談も終わっていることだろう。

 顔を見せずにする相談が、長びいた試しがない。俺の短い恋愛研究会の経験で言うと、そうだ。

 きっと、ただ話を聞いてもらいたいだけなんだ。


 恋愛研究会の相談記録簿には、もちろん俺の相談も載っている。応対したのは佐羅谷だけだから、自分で記録をつけたのだろう。几帳面な佐羅谷のこと、私情を差し挟むような内容ではないだろう。あの時の、初対面から知り合いになっていく時の、あのえも言われぬ距離感を、佐羅谷はどう表現し、どう解釈したのだろう。

 知りたい。

 読みたい。

 だが、俺の手はギリギリのところでとどまる。

 何となく、本人に許可を得ず読むのは、卑怯な気がした。

 理性が勝った。

 ボルダリング案件の神山功(読み返して、久々に神山の名前が功であると思い出した)の部分を参考に、田ノ瀬一倫の記録をつける。神山の案件は、宇代木が記録していた。

 宇代木の文章は、本人のしゃべりとは一線を画し、端然として明瞭な記述だった。ただ文字のかわいらしさだけが、宇代木っぽさを醸し出していた。学年三十位以内という成績は嘘ではないのだな。

 概ね自分の記録を書き終えた頃、横に人の気配を感じた。

「あれ、九頭川くん、一人? 珍しいね」

「おお、神山。ボルダリングは、ああ、そうか」

「そうだよ、今日は水曜日、座学の日だよ」

 性別不詳の笑顔を俺に向ける。

 ボルダリング部の部長、神山は小柄で中性的な顔立ちとは裏腹に、行動力のある男子だった。自分で人を募って部活を作る、それだけで尊敬に値する。

 座学の日は、ボルダリング実技の日より早く終わる。ボルダリングに参加していたときに見た記憶のある男子三四人が、俺の隣の神山に別れの挨拶をして、通り過ぎていく。

 神山は笑顔で応じた後、俺の斜め前に座った。

「うまく行ってるみたいだな」

「おかげさまでね。ようやく部活らしくなってきたよ。夏休みには、合宿もできそうなんだ」

「すげえな。え、ボルダリングができる国民宿舎とかあるのか?」

「ううん、本当の岩を登るんだ。ロッククライミングをしている人と知り合えてさ、二泊三日で教えてくれることになったんだ。天川村で宿泊するんだ」

「ほう、すっかり部長になってるな」

 俺はノートを閉じる。

 恋愛相談に関する情報は、考えるまでもなく部外者には見せられない。神山は他人の恋愛話を覗き見るような趣味はなかろうが。

「で、どうした。天川ロックな話がしたいわけじゃないよな?」

 わかるんだ、という顔をする神山。

 そりゃあ、俺に声をかけるなんて、恋愛研究会関連か、ちょっと顔貸せやくらいしか考えられない。後者は冗談だが。

「実は、今度一度、平日のボルダリングに参加してほしいんだ」

「毎週土曜日は参加してるが、それではなく、か?」

 ぼかして、重要なことは何も言わないが、どうやら、俺に会わせたい人がいるらしい。

「俺はいいが、宇代木が出られるかどうか」

「あ、できたら、九頭川くんだけがいいんだ。むしろ、宇代木さんがいると気まずいというか」

 歯切れが悪い。

「まあ、女子に見られたくないこともあるよな。じゃあ、恋愛研究会の二人には言わずにおいたほうがいいか?」

「それでお願いするよ。のちのち話すかどうかは、九頭川くんの判断に任せるから」

「わかった。じゃあ、明日、そっちへ行く」

「ありがとう、待っておくよ」

 神山は必要事項だけを語ると、ひらひらと手を振って帰っていった。

 俺がいて役に立てるとは思えないが、神山の恋路は順調に進んでいるように見えた。


「くーやん、花火だよー!」

「俺は花火じゃないが、宇代木、説明を」

 恋愛相談が終わったから40秒で戻って来いとの宇代木のメッセに、40秒で仕度するからムリと返事をすると、3分間待ってやると返ってきたので、たっぷり5分かけて理科実験室に戻った。

 その途端、宇代木の花火のような笑顔だ。

「これから、奈良は祭りだよ! 祭りといえば、花火! 花火といえば、みんなで見るものだよ!」

「男五人で肩を寄せ合って蛇花火を見つめる耐久レースか。渋い趣味だな」

「ちがーう!!」

 昨年は、谷垣内らと一緒に花火を見に行ったり、手持ち花火をやって騒いだ記憶はある。密かな目当ては、那知合の浴衣姿だったが、あいつは祭りだといって浴衣を着てくるようなタマじゃなかった。

 今年は、たぶん、祭りも花火も行かない。わざわざ蚊に噛まれに夜の人混みに出かけるくらいなら、アルルでたまに来る献血に協力するほうがマシだ。

 だが、そうだな。部として花火に行くのなら、やぶさかではない。ちらっと佐羅谷を見るが、佐羅谷は俺の返した相談記録簿を読んで、顔を上げようともしない。

「好きな人をお祭りや花火に誘うのにさ、くーやんならどうする?」

「それは恋愛相談かしら」

「そーね、恋愛相談ね。さっき来た女子の相談だよ。さ、どう」

 俺の渾身の佐羅谷の声真似は華麗にスルーされ、恥ずかしくって身悶えしちゃうね! 

 だが、恋愛相談というなら、真剣に考えなければならない。迂闊な回答は、余計反感を買う。

「その人とどのくらいの親しさかわからないが、誰々くんと一緒に花火見に行きたいな、とでも言えば、瞬殺だろ。男は、好きになってくれる相手を好きになる。恋愛の主導権は、いつも女子だ」

「じゃあ、くーやん、一緒に」

「だが断る」

「瞬殺だ!?」

「俺が野口チャンチャン祭りに行くと思うか?」

「え、さっきの相談、まさか聞いてた? さすがに引くわー」

 うへぇ、と口をへの字にする宇代木。

 バカな。聞かずともわかる。このあたりのお祭りは、野口チャンチャン祭りから始まるんだ。この七月初めの花火に誘う相談、考えるまでもない。というか、試験前によく行くね。

「天、違うわ。この男、盗み聞きするほどの悪党ではないから。あえて言うなら、小悪党」

 佐羅谷は相談記録簿を閉じ、笑顔で会話に参加してくる。あえて言う意味も、どこを見て小悪党と評したのかも謎だ。

「実に、九頭川くんらしい記録で満足したわ。これだけ書いているのだもの、盗み聞きする余裕はなかったはずよ」

「さすが名探偵。あまね子さんの足下には失恋した男子が眠っているだけのことはある」

「九頭川くんの記録文はいつだって斜め上ね」

「あのー、二人の世界に入らないでほしいんだけどー」

 ぺち、ぺち、と手のひらで机を叩く。 

「でー、どうすんのー? あまね、花火、見に行かないの? 今年は三人いるのにさ。ひと夏の! 思ひで!」

 それは俺も興味がある。

 花火なんてどうでもいい。違う、どうでもいい奴らと見る花火なんて、どうでもいい。

 一年の時は部活をしていなかった。同じ部員同士集まって花火を見るなんて、いかにも青春っぽくて最高じゃないか。高校生っぽいことがしたい。

 だが、およそ佐羅谷はすげない。

「わたしが人混みに行くわけがないでしょう。前が見えないし、息苦しいし、くだらない。炎色反応なんて、教科書だけで飽き飽きよ」

「佐羅谷を花火に誘うには、どうしたらいい? どんな言葉が、どんな行動が、おまえには響くんだ?」

 他意はない。しょげた宇代木を見るに忍びない。高校生の時間は、短いんだ。

「さあ、どうかしら。殿方に、手首でも掴まれて、情熱的に誘われでもしたら、少しは、なびいてしまうかもしれないわね」

「……その時点で、あたしには無理じゃんか」

「いじけるな、宇代木」

 俺はすっくと佐羅谷の前に行く。

 佐羅谷は突然近づいた俺に警戒して、身を竦めるように体の前で腕を縮める。

「な、なに、九頭川くん」

「佐羅谷」

 殿方に、手首でも掴まれて、情熱的に誘われでもしたら、か。

 残念ながら、佐羅谷の手首を掴むことは俺にはできない。白い半袖のブラウスから伸びる細い腕は、俺には気高すぎる。

 佐羅谷の面に手を差し伸べる。

「せっかくだ、みんなで花火行こうぜ」

 しばしの沈黙の後、二つのため息がセミの合唱に混じる。

「わたしの話、聞いたでしょう? そんな無粋な誘いには乗らないわ」

「このヘタレ」

「これが俺にできるせいいっぱいだよ」

 軽蔑する二つの視線に耐えながら、腰を下ろす。撃沈。

 あ、そうだ、撃沈ついでに。

「そういや、佐羅谷。あした、部活休むわ。ちょっと用事で」

「あら、珍しいわね。試験勉強なら、ここでやっていてもいいのよ? デートをここでされたら困るけど」

「試験勉強ならここでするし、デートならここでしねえよ」

「え、いつもここであたしとデートしてるじゃんか」

 宇代木にしては面白くない冗談だ。佐羅谷もかわいそうな女子を見る慈母の表情だ。

「なあ、佐羅谷。コーヒーをもらえるか」

「そうね、用意するわ」

「ねえ何で無視するの!? ねえってば!」

 わざとらしく手をぶんぶんと振り回す宇代木。こんな関係が、面白いよな。

 厳しくて、冷たくて、居心地が悪くて、仲が悪いふりをする必要なんて、ない。どうせ、高校二年生の俺たちを演じるならば、つらい青春を舞台にする必要はあるまい? 

 宇代木は、よくわかっている。本当によくわかっている。だがすまんな、佐羅谷を花火に誘うことは、できなかった。


「こんにちは、かつらぎ高校ボルダリング部です」

「ちわーす」

「よろしくお願いします!」

 ボルダリング部の雰囲気は、一変していた。ボルダリングが好きな高校生集団が、きちんと統制の取れた部活動になっていた。

 あれから、一人部活を辞めたらしい。部活には部活の厳しさがある。好き勝手したいなら、部活である必要はないのだ。

「じゃあ、今日は上級者は黄色の5、他は赤の7を中心にやっていこう」

 神山は、部長だった。

 今でも俺と宇代木は土曜日にボルダリング部有志に参加しているが、土曜日は本当に遊びのようだ。こんな厳しさはない。

 ひときわ小柄で、下手をすると中性的で女の子のような神山が、とても大きく強く、かっこよく見えた。

 俺はゴマメ扱いで、邪魔にならないように細々と壁に向かっていた。

「じゃあ、各自休憩しながらやってね。他のお客様の邪魔にならないこと!」

 しばらくすると、クライミングシューズを脱いで休憩する俺の横に、神山が腰掛けた。

「すっかり部長になっちまったな」

「残念そうに言うところが九頭川くんらしいね」

「悪くない。惚れてないけど、惚れ直したぜ」

 俺の軽口に神山は目を細めて笑う。

 ほとんど自分では壁に向かわない。疲れているわけでもあるまい。

「で、どうした。見せたいものがあったんだろ?」

「うん。多分もうすぐ」

 ことば通り、ほどなく女子高生が三人、ジムにやって来た。珍しい。何やかやで、ボルダリングは男子のほうが多い印象だ。

 制服を見るに、かつらぎ高校ではない。

 三人にうち一人が、キョロキョロと見回して、神山を見つけると、ひらひらと手を振った。神山も笑顔で手を振り返す。

 神山が気になると言っていた医大看護学科の女性ではない。ああ、なるほど、そういうことか。何となく得心した。

 女子高生は、橿原高校の生徒だという。部活ではなく、ボルダリングが好きでジムに来ている同好会らしい。

 そのうち一人、大渡という女子が、明らかに神山と距離が近い。というか、残りの女子は挨拶くらいしかしないし、その大渡さんはかつらぎ高校のうち神山にしか話しかけない。

「神山くん、考えてくれたー?」

 隣に俺がいるからだろう、近づきたいのに近づけないという距離を維持して、話かける。敵意はないが怪訝なものを見る視線をチラチラと感じる。

「ごめんね、まだちょっと調整中なんだ。今度の期末試験が終わってからでいいかな?」

「あ、うん。お願いだよ? 連絡、ちょうだいね?」

 隣にいるだけで居心地が悪い。

 何だこの粘度の高い砂糖水のようなやりとりは。サトウキビを剥いて投げつけてやりたくなるな! 

 

 部活終了後、俺と神山はガストで向き合っていた。ドリンクバーで一息つく。

 テーブルに行儀悪く肘をつき、組んだ手の甲に顎を乗せる。

「では、テクニクスの弁明を聞こうか」

「て、テクニクスって何?」

 薄いコーラで口を潤し、俺は唇の端を歪めて見せた。功だけにテクニクスとは、下手な名付けだ。

「まあ、神山のことだ。あだ名と思ってもらっていい」

「あだ名ってどうやってつけるんだっけ……」

「ちなみに、あだ名がある間柄は、親しくないらしいぜ。あだ名、名前呼び捨て、名字呼び捨ての順に親しくなるらしい」

「そうなんだ。逆だという気がするね」

 話が逸れた。

 俺がそれ以上説明しないでいると、神山も黙ったままだった。交互に沈黙のままグラスをもてあそぶ。

 たまに口をつけ、表面にしたたる水滴を指で拭う。

 なんとなく神山の相談内容は推測できるが、俺から話すわけにはいかない。俺が追求した部分を、部分だけを、相談にしてしまうかもしれないからだ。

「大渡さんのことなんだけど」

「おう」

 耐えかねて、神山は話し出した。

 あれほどわかりやすい好意もない。

 神山が田戸真静に向けているようなほのかな好意とは、圧が異なる。神山の奥ゆかしい性格だと、戸惑うだろう。

 実に女子高生らしい、目に見えるキラキラしたものを追いかけたくて仕方がないという直接的な恋愛感情だ。神山は、その対象になりうる魅力を持った男子だ。

「その、こんなの初めてだから、確証は持てないんだけど、たぶん、言い寄られているの、だと、思う」

 頬を染めて俯きがちに細々と語る神山はかわいかった。褒めことばとは思ってもらえないだろうが。

「宇代木さんのアドバイスをもらってから、部員とも話し合って、一人辞めちゃったけど、でも、こうして部活の形になってきたんだ。

 最近はジムに来る人でも、講師をしてもいいって言ってくれる人もいるし、今度の合宿に来てくれる人もそうだし、大会も視野に入って来たんだ。顧問に引っ張った先生も、ちょっとやる気を出して来てくれたみたいで、ほんとうにすべてが好転し始めたんだ」

 いいことづくめじゃないか。

「実は、大渡さん、ぼくらが部活を作った頃から知ってたらしいんだ」

「部活を作ったのって、一年の時だよな?」

「うん。一年の時は挨拶くらいしかしない、名前も知らない関係だったんだけど、ぼくが急に部長としてしっかりして来た頃から、気になり始めたって。そんなこと、あると思う?」

「あるだろ」

 俺は即答した。

 神山の部長らしさは、豹変と言っていい。語源通りの豹変だ。つまり、良い意味での大化けだ。

 もともと麒麟になる資質は秘めていたし、放っておいても獅子にはなっただろう。恋愛研究会に相談して、宇代木の助言を得て、急成長したのは確かだが。

「ひいき目に見て、神山はかっこいいよ」

「ほんとに、九頭川くんは直球なんだから」

 どうして頬を染めるんですかね。勘違いしそうになるからやめてね! 俺にその気はないの!

「それで、どうするね。彼女の好意を受けるのか?」

「田戸さんともね、それなりに親しくお話しできるようになったんだ」

 神山は俺の問いに答えず、大学生の想い人の話をする。

「でも、全然反応が薄くてさ、まるでなしの礫。合宿に誘うとか、そこまでの関係さえ築けないよ。嫌われてはないけど、近づかせてくれない。ぼくだけじゃなく、他の人にもそんな感じ。正直言って、数分で連絡先まで聞き出した宇代木さんは驚異だよ」

「宇代木はコミュ力モンスターだからな。あれと比較して劣等感を持つことはない」

 ただし、本当に恐ろしいのは、コミュ力モンスターさえ演技に過ぎないことなのだが、今は関係ない話だ。

「もしも、神山が俺たちに遠慮して、田戸さんだけに操を立てるというのなら、それはよしてくれよ? 恋愛研究会は、あくまできっかけ作りや人助けだ。障害になってはいけない。神山の気持ちが揺らいでいるなら、心のままに従うべきだ」

「やっぱり、すごいね。言わなくても、九頭川くんはわかるんだ。ぼくはぼく自身が、少し嫌になったよ。堅くて絶対だと思っていた自分の気持ちが、ちょっと横から向けられた好意でこんなに簡単に揺れてしまうなんて」

「好きになった相手がつれないのを、ずっと好きでい続けるのは生半可な精神力じゃあ無理だろ。まして相手は大学生だ。性別が逆なら、可能性はあったかもしれないけどな」

「宇代木さんがチラッと言ってた、甘えてみるのもいいかも、っていう手段がもしかしたら、田戸さんと近づける唯一の方法だったのかもしれないね」

 寂しげに笑う神山は過去形で語った。

 神山くらいの男でも、背中をただ押してほしいと思うことがある。きっと、俺に相談を持ちかける前から、神山は決断をしていた。俺を招いたのは、恋愛研究会に対する贖罪か、懺悔か。

 社会人なれば、三、四歳の年の差など消滅するだろうし、上下差など気にならなくなるだろう。だが、大学生と高校生、この差は大きすぎる。

 甘えて、年上のお姉さんの庇護欲を刺激するのは、神山のような可愛らしい犬系の男子が取り入るたった一つの冴えたやり方だった。しかし、神山は見た目に反して、気骨あるリーダーだった。

「きちんと、大渡さんに説明して、納得してもらって、それでもいいなら、って言ってみたらどうだ。好きでも嫌いでもないんだろ? それは、好きになるかもしれないってことだ」

「ありがとう、話を聞いてくれて」

「気にすんな。ああ、いつか、落ち着いたら、理科実験室に来て話せよ。宇代木も佐羅谷も、気にしやしねえよ。むしろ、他人の恋バナは好物って奴らだ。喜んで聞いてくれるさ」

「ははは、宇代木さんはともかく、佐羅谷さんはそうは思えないけどね。じゃあ、もうぼくは行くよ。九頭川くんは」

「俺はもうちょっと残るよ。じゃあな」

 ドリンクバー二人分のお金を置いて、神山は大人の顔をしてガストを出て行った。

 悩み多き少年に、幸あれ。

 空になったグラスを掲げて、俺は次に飲むウーロン茶を汲みに立ち上がった。


 恐るべきは、宇代木だ。

 恋愛研究会の記録簿に、神山の相談内容をしたためたのは宇代木。俺は昨日、田ノ瀬一倫の記録を書くためにつぶさに読み込んだ。

 実は、宇代木は今日のこの瞬間までを予測して、ノートに記していた。

 神山が田戸さんと親しくなるのは困難なこと、部活動が本格化すると他の女子からアプローチがあること、俺を呼び出して相談すること、そして、俺に対するメッセージまで。

「背中を押してあげること、か。化け物かよ」

 人間の恋愛行動なんて、所詮はパターン化された反応の組み合わせということなのか。ここまで予測できるということは、神山の性格と田戸さんの性格、それをあの短い間に見抜いて、想定したということ。

 だから今日の俺の会話は、神山が感謝したり感動したりするような深みはない。宇代木天の指先で踊る傀儡だ。

「他人の恋愛はここまで見えても、自分の恋愛は見えないんだな」

 嘘か真か、十何人と付き合っても長続きしないと自嘲する宇代木を思い浮かべる。

 詳しくなってもうまくいかないもの、それが恋愛なのだろうか。フラれた経験しかない俺には、わからない。

 宇代木の足下にも及ばないことだけが、わかった。俺はもう少し賢くなれる気がした。


 俺のスマホが誤動作ではなく震えた。

 どうも宇代木専用のメッセージ受信機になりつつある俺のスマホ。通信料下がらないかな。

『明日は必ず部活に来ること!』

 俺は宇代木よりも皆勤賞に近いのだが、あえて釘を刺すということは、重要な客人があるということだろう。

 何となく悪いほうの客人だと直感する。

 それは例えば、生徒会長とか。

 沼田原依莉先輩。会いたくないなぁ。


「ちわーっす」

 客人が誰もいないことを確認して、理科実験室の『部員専用』の扉を開ける。

 いつもの二人がいつもの定位置に座っていた。ホームルーム後に直行しても、この二人に敵わないのは諦めた。

 挨拶のあと横目で窺うが、多少の緊張感が漂う。おかしい。沼田原先輩相手で、この二人が緊張するわけがないのに。

「昨日のは、どういうことだ?」

「昨日の?」

「今日は絶対来るようにって。佐羅谷が連絡させたんだろ?」

「相手の希望よ。どうしても三人一緒の時に、相談したいそうよ」

 佐羅谷は普段以上に無愛想で、嫌悪感も露わにしている。これは、俺の想定と違う。しかも、「相談」と言うなら、先輩ではあり得ない。

 宇代木は宇代木で、力なく抜けた笑顔を浮かべている。あははー、とでも言いそうな顔だった。

「すぐに、わかるよー。今日は、きっと、大変だよ」

「大変……」

 俺の呟きは、扉を開く音に遮られた。

 あらかじめ退けておいた黒の緞帳、普段は見えない出入り口がよく見える。本日のゲストは、力強く扉を開け、巨体を心持ち屈めながら、理科実験室にまかり入る。

「谷垣内……」

 俺の声は、漏れただろうか。

 谷垣内は部屋を睥睨すると、俺たち三人の姿を認め、精悍な笑みを浮かべた。

「全員、揃ってるな」

 嫌悪感を露わにした佐羅谷、諦観の宇代木、そして闘う前に満身創痍の俺。勝負でもないのに、はなから見える負け戦に、戦意を喪失しそうだった。

 谷垣内は、しかし、まだ始まったばかりだな、とうそぶきそうな表情で、どん、と席についた。

「今日は、俺の相談だ。ちょっと長くなるぜ?」

 表の『恋愛相談受付中』の札をひっくり返していないだろうな、現実逃避するよに、そんなことを思った。


 まず動いたのは、佐羅谷だった。

 無言で部屋を出て、すぐに戻ってくる。几帳面に、表の札を返してきたのだろう。

 谷垣内が入ってから、一言も声を発しない。

 わざと聞こえるように、大きなため息。

「さて、それじゃあ、谷垣内くんの話を聞きましょうか」

 事務的な佐羅谷のことばに、谷垣内は濃い眉を上下させて語り始めた。

 太い声の一人語りは、本人の言う通り、長く重いものだった。

「兄の話だ。俺の兄は今は大学生で、鹿児島の鹿屋ってところで下宿してるんだが、高校の時にな、友達以上恋人未満な相手がいたんだ。

 けっこう真面目な兄貴でな。高校の時は部活にうちこんで、その女子と付き合うことはなかった。まあ、はた目にはそういう関係にしか見えなかったと思うがな、きちんと、一線引いていた」

 確か、谷垣内は兄貴も似たような体型で、恵まれた体躯を生かしてラグビーをやっていた。俺は直接見たのは一回か二回、それも遠目にだ。そうか、もう大学生になったのか。

「卒業の時、告白して、正式に付き合うことになって、いきなり始まったのが、遠距離恋愛だ。もともと家族も公認で、半分付き合ってたようなもんだとはいえ、やっぱ付き合ってすぐ近くにいられねえってのは、けっこう堪えるもんだって言ってな。

 この前、ゴールデンウイークに帰ってきた時、兄貴にしては珍しく弱気なこと言ってたよ。ちょっと、見たことがないくらいにな」

 聞く限り、誠実な人なのだろう。

「その時、ちょろっと兄貴から聞いたんだけどよ、遠距離恋愛もつらいのはつらいが、ほんとうに悪いと思ったのは、高校生の時に恋人らしいことが何にもできなかったってことだって、繰り返し言うんだ。

 兄貴の相手も一筋だったからよ、三年間、他の男には見向きもしなかった。だから、兄貴とは一緒にいたけど、二人きりでデートしたり、遊びに行ったり、そんな思い出を作ってやれなかった。

 高校はよ、三年しかねえんだ。高校を出たらよ、制服を着てデートなんてできねえんだ。そういうことを言うわけよ。高校生の時に二人っきりでの思い出を作ってやれなかった、これはその時にしかできなかったんだって、今になって気づいたって」

 どうだろう、重要なことなのだろうか。高校生のど真ん中にいる身としては、その希少性など考えたこともない。ほとんど、生きている限り自動的に高校生になり、自動的に卒業していくのが高校ではないか。

 十九、二十などと数字の境目に何か意味を持たせたがるのは、人間の抽象化能力の誤動作ではないか。大体、数えで歳を考えていた時代は、新年を迎えるたびにみな一斉に歳を取ったのだから、誕生日さえ意味がない。

 制服も、着ようと思えば二十でも三十でも着られる。人はそれをコスプレと言うが。

「それで、俺も思ったわけだ。宙ぶらりんで、待たせるのは男らしくねえよな。兄貴が自分の経験から助言してくれることを無視はできねえ。

 中学の時ちょっといろいろあってな、恋愛に関しては、高校のうちは兄貴と同じようにするつもりだったんだが、とうの兄貴がそう言うんだ。よくよく考えたら、俺が中学の時の話なんて、今の俺を気に入ってくれている相手には関係ないしな。俺が臆病なだけだ」

 初めて聞く話だった。

 谷垣内は一年の時、浮ついた話を絶対にしなかった。常に一緒にいた那知合のグループで、明確に那知合は好意を向けていたし、谷垣内が気づかないわけがない。

 恋愛の話を持ちこまないのは、理由があったのか。

「というわけで、俺も決心した」

 やはり、そうなのだろうな。

 佐羅谷は、学内カーストのトップグループは、自動的に付き合うなどと乱暴なことをのたまったが、こと谷垣内と那知合に関しては、まさにぐうの音も出ない適切な説明だ。

 どだい、俺などが割り込む余地はなかった。那知合は、谷垣内以外の男を男とさえ認識していない。だから俺みたいに勘違いして、意識して、気にすることで一層ドツボにハマって、思い込みの加速が起こって、取り返しがつかなくなるのだ。

 もっとも、一年終わりの告白で、那知合からの俺個人への連絡は一切なくなった。これだけは、俺は自分の成果だと思っている。少なくとも、那知合は、自分が女で、自分を恋愛対象として見る男がいるということを理解したはずだ。

 谷垣内以外の視線を一切意識していない、それがまた、那知合の魅力でもあるのだが。

「あなたの決意表明はよくわかったわ」

 俺が過去を回想して陰鬱な気分に浸っていると、佐羅谷が心のこもらない相槌を打った。

「それで、誰をどうしたいの?」

「まあそう焦るな」

 完全に谷垣内のペースだ。

「今度、地元の祭りがある。それに誘いたい」

「谷垣内の地元というと、御所か」

「ああ、そうだ」

 御所市は高田市の南、市とは名ばかりの何もないところだ。人口で言っても、斑鳩町や田原本町や王寺町に負けているような、むしろ町に戻れよと言いたくなる市だ。

 ちなみに、なぜ人口が少ないのに市になりたがる、あるいは政令市になりたがる自治体があるのかというと、職員や議員の給料の基準が上がるからだ。チビデブハゲ三拍子揃ったキモオタヒキニートで消費税以外の税金を納めたことがない山田仁和丸おじさん(40)が憤慨しながら語っていた。というか、あなた御所市民でもないじゃん。

 ちなみに、住民にとっては、市であろうが町であろうが村であろうが、いっさい損得はない。せいぜい、住所を書く時に「南葛城郡」という郡表記が面倒くさいだけだ。むしろ、役場職員の数が増えたり給料が上がることで、間接的に損害を受ける。

「御所ということは、鴨都波のススキ提灯か、蛇穴の汁かけ祭りかしら?」

「さすが、深窓の令嬢、詳しいな。俺が誘いたいのは、ススキ提灯だ。七月の半ばの日曜日、試験休み中だ」

「でも、ススキ提灯は参加する側でないと、あまり楽しくないのではないかしら?」

「本当に詳しいな。だが心配無用だぜ。俺は提灯奉納側の自治会所属だからな」

「あのー、ごめん。あたしにもわかるように説明してほしいんだけどー」

 谷垣内と佐羅谷がサクサク話を進めるが、御所の祭りなどわからない。宇代木が挙手して説明を求めた。

「輔は知ってるだろ、去年みんなで一緒に行ったじゃねえか」

「ああ、あれか、竹の棒に提灯を十個くらいつけて、くるくる回すやつか」

「あなたにかかると神事が曲芸に聞こえるわね」

 久々に、佐羅谷がほほ笑んだ。

「まあ、やってる俺らは曲芸みたいなもんだけどな」

 谷垣内が大笑する。

 谷垣内が説明し、佐羅谷が補完したところによると、鴨都波神社のススキ提灯とは、年二回行われる豊作祈願の献灯行事らしい。

 10mくらいの竹の棒に、帆を張るように提灯を上から水平に三段、2・4・4とぶら下げる。これだけで10kg以上ある。この道具がススキのように見えるからススキ提灯と呼ばれる。鴨都波神社の氏子の自治会が30くらいあって、それぞれがススキ提灯を用意して、鴨都波神社の境内でパフォーマンスを行う。だいたいは、一自治会から三人ほど、ススキ提灯を回しながら境内を一周走る。

 つまり、特定の自治会に属していないと、ススキ提灯を回す側にはなれないということだ。

「若衆会に入ってたら、若衆会の時間にパフォーマンスはできるけどな、あの時は若衆何人かと一緒だ。自由には動けねぇ」

 その口ぶり、谷垣内も若衆会に参加しているのか。

 なるほど、谷垣内はそういうのが好きそうだ。だんじりで太鼓を敲いたり、屋根に乗って音頭を取るのも好きそうだ。なにしろ、巨漢で面立ちが濃くて目立つ、祭りに持って来いの人材だろう。

「俺んとこの自治会でな、去年まで兄貴がススキ提灯をやってたんだけど、今年からは俺にやらしてくれるって、やっと兄貴の許可が出てよ。ま、それがあるから決心もついたんだがな。それに誘いたい」

「谷垣内が誘ったら、誰でも来るだろ。そこに何で、俺たち恋愛研究会が関係するんだ」

 実際、去年は俺たちを誘った。誰一人欠けることなく、谷垣内の誘いに応じたはずだ。男グループはもとより、那知合のグループも。試験も終わったところだし、これから長い休みに入る。友達とも会いにくくなるし、彼氏彼女を作るには一番いい時期だ。あれー、俺はあのとき何をしていたんでしょうね。全く覚えてないな。那知合が浴衣を着ていないだけで楽しみが半減していた気がする。

「境内でススキ提灯を回す場所があってな、そこを囲うように自治会の人とか野次馬とかカメラマンとかいっぱいいてよ、何人かでまとまってないと、押し潰されかねねえからな。おまえらにも手伝ってほしい」

「わたしたちは、恋愛の助言や提案はするけれど、スタッフじゃないわ」

「ふうん?」

 佐羅谷はまっとうに切り捨てるが、谷垣内を遠ざけるには力不足だ。

「結果まで保証してくれるのが、恋愛研究会じゃねえのか? 女子がそんな話をしてたぜ?」

「ばかばかしい。恋愛には相手がいるのよ。結果まで約束できるわけがないじゃない」

 俺が知る限り、神山の相談のとき、付き合うところまでやってやる、とか言っていた気がするんですが。相手によって対応が違いすぎませんか。とはおくびにも出さない。

 しかし、便利屋のようにうまく使われるのは、さすがに勘弁してもらいたい。ようは、那知合がつぶされないように場所を確保し、特等席を用意せよ、ということなら、ごめんこうむる。まあ、那知合は人ごみでつぶされるようなガラじゃない。

「ふん、やっぱり、おまえら、なんか勘違いしてやがるな」

 谷垣内は立ち上がり、左手をグーパーグーパーと何度か開いたり閉じたりする。

「輔、俺が誘ったら、誰でも来るんだな?」

「は?」

 嫌な予感がする。

 俺は四月から一線引いていたし、谷垣内も原則として去る者は追わずというタイプだ。近しい女子グループから俺の動向を尋ねることでもなければ、ここに姿を見せることもなかったはずだ。

 谷垣内が誘ったら、誰でも来るだろう。男子なら、縁遠い奴でも、わざわざ本人から来てくれと言われるのは誉れ高い。いじめたりたかったり、そういうことをしないのは同級生ならみな知っている。女子なら女子で、トップの男子に声をかけられて「本心」から嫌がる者はないだろう。

 だが、俺は違う。

 俺は、単なる祭りの誘いなら、谷垣内のススキ提灯パフォーマンスの晴れ舞台を見に来いというなら、受けてもいい。

 だが、今回はダメだ。

 誰が悲しくて、ちょっと前に俺をフった女が告白されるのを見に行かないといけないのだ。那知合をずっと見ていた俺だからわかる。あいつは、谷垣内の前でだけ、女子から女の子になる。別に、媚びたりしなを作ったり、そんなあざとい明確な変化があるのではない。ただ、脳内回路が切り替わっているんだなと、真空管が明滅する程度のわずかな変化が、見えるんだ。見えてしまうんだ。

「谷垣内、俺は行かないぜ」

「……ばかやろう、それが、勘違いだってんだ」

 谷垣内のことばに、怒気が混じっていた。

 

 谷垣内の左手は、一瞬で捕えた。

 右手首。

 いとも簡単に椅子から引きずり上げる。

 華奢で軽い体が、ふわりと浮かんだ。


「佐羅谷、祭りに来い」


 驚きに目を見開く佐羅谷、ぶら下がるように立ち上がらされ、谷垣内と見つめ合う。

 息もかかりそうなほど肉薄する二人。

 谷垣内は、真剣だった。笑っていない。

 なんでだよ、笑えよ、冗談だって言えよ、演出だろ。

「わ、わたし? なんで?」

 佐羅谷は戸惑っている。

「今まで何の話をしてた? 俺は誰を誘うとは一言も言ってなかったぜ? 誰のことだと思ってたんだ?」

「だけど、わたし、あなたと何のつながりもないじゃない」

「同じ学年の同じクラスで、一回怒鳴りあった仲で、何のつながりもないってのは無理があるぜ」

 何が起こっているのだろう。

 これは、何だ。

 視界の端に、蒼白の宇代木が見える。

 これは、何だ。

「痛いわ、放して」

「放したらおまえは答えないだろ。答えるのに、一秒もかからない。来るか、来ないか。すぐ放してやるよ」

 びくっと震えて、こちらを見ようとする。

「見るな」

 右手で、佐羅谷のおとがいをとどめる。

「おまえ、前に二人に言ったよな? 誘われているのは自分なんだから、自分で決めろって。俺は、佐羅谷あまねを誘ってんだ。わかるか?」

 どうして、佐羅谷なんだ。

 どうして、谷垣内なんだ。

 ダメに決まっている。

(殿方に、手首でも掴まれて、情熱的に誘われでもしたら、少しは、なびいてしまうかもしれない)

 何日か前に佐羅谷の言った誘われたいパターン。あんなもの、冗談に決まっている。佐羅谷は、強制的で逃げ場のない状態や、情熱だとか雰囲気だとかに流されたりしないはずだ。はずだ。

 俺が、そう思いたかっただけなのだろうか。俺が佐羅谷を見誤っていたのだろうか。

 違う、俺にはできないだけだったんだ。

 谷垣内がやると、同じ動作もこうも様になる。

 見ろ、佐羅谷は嫌がったふうには見えるが、少し頬が赤くなってるじゃないか。冗談めかしていたけれど、本音では佐羅谷だって少女的な気持ちがあったかもしれないんだ。

 俺は、できなかった。かっこ悪く、手を差し出して、ごまかすように、みんなで、なんて無様な誘い方しかできなかったんだ。

 谷垣内は、潔い。

 やると決めたら迷いがない。

 バスケで鍛えた素早さで、判断力で、有無を言わせず、佐羅谷の欲しかったかもしれない行為とことばを与える。

 だから俺は、谷垣内が好きで、まぶしくて、近づきたくて、俺が欲しいものを根こそぎ奪っていく。だから、だから、……嫌いなんだ。

「あなたなんか、大キライよ」

「それは光栄だ。知ってるか? 好きの反対は嫌いじゃねえ。好きの反対は無関心だ。大嫌いは大好きって言ってるようなもんだぜ、恋愛研究会の部長さんよ」

「文字通りの意味よ」

「しかも今のキライはカタカナだろ? おかわいいことで」

「この!」

 佐羅谷が踊らされている。

 やめろよ、やめろよ、そんな対応をするなよ、佐羅谷、おまえは深窓の令嬢だろ? 恋愛研究会の部長だろ? 対応を、間違うなよ。

 いつでも冷静に余裕ぶった、メリハリのある美しい所作で、鋭く切り落とせよ。

「さあ、来るか、来ないか」

「行くわよ。行けばいいんでしょ。そう言うまで、放さない気なんでしょう」

「察しがいいな」

 谷垣内は、いとも簡単に手を放す。

 何の未練もないようなあっさりとした態度。

 佐羅谷が椅子に頽れるのを一顧だにせず、俺を見る。

 俺だけを見る。隣の宇代木には、視線をやらない。

「邪魔したな。また、詳しい時間の相談に、いや、いいか。直接佐羅谷だけ呼び出すことにするか。じゃあな」

 悠然と谷垣内は部屋を出た。佐羅谷の確約も連絡先も聞かないのに、余裕の態度で。少し頭を屈めて理科実験室をあとにし、静かに扉を閉める。「恋愛相談中、入るな!」の札は、きっとそのままだ。

 そのままでいい。

 俺たちは、もう、今日は相談を受けられない。

 満身創痍で挑んだ戦いは、強烈な爆撃を受けて、ようやく終息した。後には、何が残った? 何が、残った?


「なんで、」

「佐羅谷! どうして行くって言った!」

 恐る恐る何か言おうとした宇代木を遮って、俺は佐羅谷に詰め寄った。

「あんな脅し、まともじゃない!」

「ああ言わないと、あの男は放さないじゃない」

「だけど!」

「九頭川くん、うるさい。あなたには、関係ないでしょう」

「関係ないだと」

 谷垣内がやっていたように、佐羅谷の右手首を掴もうと手を伸ばす。夏の日差しに抗う白い腕の、手首に赤い痕が残る。

 佐羅谷は俺の手をかわし、手首を隠す。

「俺が先に誘った時には、いとも簡単に拒絶したくせに」

「あら、そうだったかしら。情熱が足りなかったんじゃない?」

「だったら!」

「やめて、触らないで!」

 俺がさらに近づくと、佐羅谷は椅子ごと逃げた。別の椅子に当たって、大きな音が響く。

 自分で立てた音に驚いて、佐羅谷は顔を蒼白にする。

 俺は肩を引かれた。

「はい、二人とも、そこまで」

 宇代木はいつもの剽軽な声音ではなく、静かに責め立てるような大人の口調だった。

「あまねは、悔しいからって、人に当たらない。くーやんは、不甲斐ないからって、怒鳴らない」

 俺の横を通り過ぎる時に、聞こえるようにささやく。

「ったく、どうしてあたしが仲裁しなきゃなんないのさー」

 宇代木は佐羅谷の脇に屈みこみ、小声で何ごとかことばを交わす。視線を逸らして合わそうとしない佐羅谷。

 少し落ち着いたようで、牙を剥く猫のような猛々しさはなかった。

(何をしてるんだろうな)

 自問自答する。

 俺は、思いの外、この空間を楽しんでいたのだと思い知る。学校の中にありながら、どことなくエアポケットのように緩く守られて、いつも面白くもない相談が来て、稀に手応えのある相談が来る。誰も来ないときは読書して勉強して、飽きたらつまらない話を振る。佐羅谷も宇代木も、傾向は違うが、打てば応える返しがいい。話をするための前提知識に共有部分があるというか、冗談が冗談として通じるというか、「こうと言ったらこう答えてほしい」がその通りになる嬉しさ。

 だが、この聖域も今日までだ。

 やはり、谷垣内は嵐だ。強烈で純粋な力が、か細い糸でつながる不文律を根こそぎ作り替える。

 今なら、沼田原先輩の気持ちが分かる。恋愛研究会を守りたい。その気持ちが。ここへ来てまだ三ヶ月と少し。ここも、なくなってしまうのか。

 俺は、カバンを掴んで立ち上がる。

「今日は、先帰るわ」

 返事は聞かなかった。宇代木が何か叫んでいたが、無視した。耳は動いても、脳が処理しない。もう何も、考えることができなかった。

 どうして、谷垣内なんだろうな。

 俺が谷垣内に敵う要素なんて、何一つもないのに。


 人に見せられない顔をしていると思った。自転車を撮りに行くまでにすれ違う数人が、俺を見ると道を開ける。露骨に、ひっ、と声を上げる者もいる。

 般若の顔かもしれないし、翁の顔かもしれない。あるいは、ハザード級のゾンビの顔かもしれない。

 ぐるぐると悲観的な未来だけが脳内を駆けめぐる。谷垣内が狙った獲物を諦めるとは思えない。佐羅谷が谷垣内を拒否し続けられるとは思えない。そも、佐羅谷が谷垣内を拒絶するという前提は、俺の希望的観測に過ぎない。

 好きの反対が嫌いではない、谷垣内のことばは、当を得た表現だ。嫌いになるくらいに、よく観察している。見て、知って、だからこそ嫌える。

 ああ、きっと、無理だ。

 佐羅谷は恋愛研究会の要だ。彼女がいない恋愛研究会は考えられない。宇代木は、ここが絶対にして唯一の居場所ではない。宇代木では、支えきれない。

「ああ、これが夢であったなら」

 無意識に、俺はCUEに来ていた。中学時代もそうだっけか。嫌なこと理不尽なことがあるとゲーセンに来て、格ゲーに明け暮れた。未だに俺の逃げ癖は治っていないらしい。って、普段も来てましたね、ゲーセン。単にゲーセンが好きなだけでした。

 一階駐輪場に自転車を停めて、自動扉に向かう途中、ケータイの呼び出し音が鳴る。知らない番号。宇代木ではない。

 まさか、佐羅谷か?

「……もしもし」

「ああ、つながった。九頭川くん?」

「沼田原先輩。間違いですよ」

「悲しいことを言うね、女子からの電話だ、ありがたく思いなさい。登録しておいてもいいよ?」

「すみません、今は冗談を返す余裕がないんです。切りますよ」

「待て待て、今どこにいる?」

「ゲーセンですよ」

 沼田原先輩が知っているかどうか定かではないが、一応店名と大体の場所を説明する。

「じゃあ、しばらく遊んでいておくれよ」

「先輩が来たら帰りますよ」

「君と遊びたいんだよ」

「俺で遊びたいの間違いでしょ」

「君が言うと卑猥だな」

「先輩、見た目に反して乙女力が足りないんじゃないですか。もっとバラとかユリとか食べた方がいいですよ」

「元気そうじゃないか。少なくとも、今は私と君は、共闘できると思うよ? まったく、あんなに余裕のない天は久しぶりに見たよ。私の後輩を泣かせたら、ただじゃおかないよ?」

 一方的に切れる電話。

 共闘、か。

 だが、共闘の後には仲間割れが待っているだけだ。偉そうな理念を掲げても、権力を取った愚者はギロチンを愛用した。俺だって、次には切られるだろう。

 それに、佐羅谷を深窓の令嬢から引き摺り下ろすのは、悪いことではないし、別に俺がしなければならない救いではない。むしろ、沼田原先輩の繰り糸から解放されるのは良いことだ。

 ぞくりとした。

 俺が佐羅谷を恋愛研究会に留めたいのは、なぜだ? 俺が自分で解放したかったからだ。なんて、わがままで自分勝手な! だらだらと長々と下らない駄弁を繰り返す、そんなぬるま湯の快楽に浸っていたのは、俺だ。

 やはり、共闘はできない。

 ぽーんと鳴るメッセージ。宇代木がすぐにこちらへ行くらしい。一体、何をしにくるんだろうな。

 何も、できないのに。

 他力であろうと尖塔を巣立とうとするならば、俺は見守るしかない。及ばぬ己の不甲斐なさを噛みしめながら、見守るしか、ない。


 ゲーム機に向かう。

 ためらいなく、「アサシンズアサシン」を選ぶ。今の俺が頭を使わず体で覚えていてできるのは、この格ゲーしかない。

 リニューアルされたか、最新作か分からないが、基本のゲームシステムもコマンドも変化がない。迷わずに、ニンジャマスターを選ぶ。忍者の格好をした暑苦しいおっさんキャラだ。おっさんと言っても多分、犬養先生と同い年くらい。おっと、これ以上はいけないね。壁に耳ありだ。

 ストーリーモードでやるかと思ったが、全国のネットで繋がっている対戦モードもあるらしい。コンピューター相手の無機質な闘いも気が晴れない。どこか遠くの見えない人間相手に、二次元で殴り合おうか。

 百円、また百円と吸い込まれるうちに、勘を取り戻す。気がつけば、十人抜き。いつの間にか周囲に野次馬がいる。

 ほんとうに、面白くないぜ。いや、ゲームは面白い。ゲームに罪はない。だが、俺が勝てるのはゲームだけかよ? 現実がゲームなら、どれだけ楽だったろうな。何度でもやり直せるし、何度でも練習できるし、何度でも待ってもらえる。

 現実は、最低だ。クソみたいな時代の、クソみたいな国の、クソみたいな人間に生まれて、出てくる敵は常に最強レベルの最強装備で、やり直しは効かない。

 ああ、相手が弱い。

 ディスプレイの向こうでは、俺のニンジャマスターが華麗にカタナをぶん回す。

「ゲームでなら、いくらでも勝てるんだけどな」

 十一人抜き。

 すぐにまた新たな挑戦者が乱入する。

 今度は、ネットの向こうじゃない。向かい側だ。面白い。

 画面に隠れて見えない相手は、氷姫を選ぶ。玄人向けの難易度が高いキャラだ。どこかの雪の女王をパロったようなキャラで、女性キャラにありがちな素早さ重視で、体力も低く、攻撃が軽すぎるのだ。手数やコンボが必要になるので、使いこなすまでに時間がかかる。

 逆にここでこのキャラで割り込むということは、相当な自信があるということだ。

 そして、最終戦までもつれて、俺は負けた。ゲームで負けても悔しくはない。というか、eスポーツで戦えそうな実力者だったぜ、いやマジで。

 ギャラリーも感嘆して、いいため息をついている。

 俺は相手が気になって、筐体の隙間から向こうを覗く。

 にぱーっと猫のような笑顔で、手を振っている女。

「ちゃおー、くーやん、まだまだだね」

「アイエェ、ウシロギ=サン!?」

「それはニンジャスレイヤーだよー」

 宇代木の様子はいつもの通りだ。

 ニンジャマスターを倒した宇代木はニンジャスレイヤーと言っても過言ではない。

 氷姫をあそこまで使いこなすゲーマーが、ギャルっぽい美少女ということで、集まっていた連中も遠巻きに眺めている。

 話しかけて嫉妬と好奇の視線に晒されるのも嫌だが、しゃべらないわけにはいかない。

「なんでここに?」

「タクシーだよ」

「方法を聞いてんじゃねえよ」

「タクシーのナンバープレートは1729、つまらない数字だったよ」

「なんで英国紳士みたいな仕草と口調で言うんですかね」

「タクシーの代金は650円、明日はお昼抜きだよ」

「いやまあ、出せと言われたら出すけどよ、コイン一個しか残らないぜ」

「あんたが、コンティニューできないのさ!」

「おまえ、何しに来たんだよ」

 わざわざタクシーまで使ってきてくれたのか。宇代木も、佐羅谷を留めるためには手間暇を惜しまないやつだ。もしかして、沼田原先輩を使って連絡をしてきたのか? 別に、宇代木からの電話でも出てやるのにな。

 宇代木はするりと俺の腕を絡めると、格ゲーコーナーを離れる。プリクラが並ぶ一角に移動する。こちらまで来ると、野次馬はいない。まだ数人が遠巻きに見ているが、けっ、という感じの舌打ちが聞こえそうな顔を作ると、散っていく。

 いや、おまえらが思うような色っぽい関係は、俺と宇代木にはないから。ただの部活メイトだから。

「プリクラ撮るのは初めてだねー。あたしとくーやんの初めてだー」

「プリクラの機械を作る会社が確か橿原市にあったな」

「え、マジ?」

 宇代木の定番の下ネタを無視して、どうでもいい豆知識を披露する。

 どれだけカメラの機能が進化しても、プリクラの画質だけは進化しない。プリクラ機の暖簾はプロ級の高画質で美しいのに、実際に吐き出す絵は残念なことこの上ない。今どき、加工技術も描画エンジンも、スマホのほうが圧倒的に優れている。

「で、ほんとうに、何だ、宇代木。わざわざ、今日この日に追いかけてくるなんて、重要な相談があるんだろ?」

 二人記念写真のような棒立ちで写る。

 プリクラにあるまじき写真だ。

「んー、どうしよっか。くーやん、ちょっと屈んで」

「聞けよ」

「聞いてるよー。ていうかー、ほら、見届けるしかないじゃんか。行くでしょ、ススキ提灯だっけ? お祭り」

「行くかよ」

 行くわけがない。谷垣内が行くなら、那知合が行くだろう。佐羅谷も約束は守るから、きっと逃げたりはしない。谷垣内の意図は汲めないが、俺は何も見たくない。

「今日のタクシー代。心配して来てあげたんだよ? りんご飴おごってよ」

「今度、ペイペイで送金しとくわ」

「本気で言ってるなら、怒るよ」

 二人少しだけ顔を近づけて、ぎりぎりプリクラっぽい写真が撮れた。写真は恋人同士に見えなくもないが、お互いカメラの方を見て、色気のない会話。

 特に手間をかけず、宇代木は出てきた写真を取り上げた。

「俺たちがいたところで、何をできるわけでもあるまいよ。だいたい、邪魔をするとかそんなことはしたくない。さすがに、それは真偽にもとる」

 俺は半分に切られたプリクラを受け取る。

「なら、結果を佐羅谷から聞くだけでいい。恋愛研究会がどうなるかは、そこからだ」

「この、いくじなし」

 俺は、反論できなかった。

 宇代木は重くゆっくりと吐き捨てた。

 俯いて、わずかに体を震わせて、たくさんのことばを、たった一言に集約して、かすれた声でまとめあげた。

 俺は、動けなかった。

 思った以上に、宇代木を慮る余裕もない。考えているようで何も考えられない。しごく、ぼうっとしている。

 沈黙を破るきっかけは、第三者の声だった。


「九頭川? ちょっといい?」


 ゲーセンのプリクラコーナー、隅っこの暗がりに二人黙って動けずに、視線も合わせずにただ立っている。

 俺の背後から、懐かしい声が聞こえた。

 忘れていないものだ。

「よう、高森」

 高森颯太。

 中学時代の一番の友人で、高校も同じかつらぎ高校。だが、俺がつまらない高校デビュー計画を遂行したせいで、疎遠になり、つい最近、一年ぶりに話をした。

 ひょろっと背が高く、線が細い。モデルのような小顔、手足の長いコーカソイドのようなスタイル。GUでコーディネートしても様になる男だ……というのは、一年間疎遠にしていて、初めて気づいたことだ。ずっと一緒にゲームやアニメやマンガの話をしていた時には、いちいち男の外見に興味などなかった。

 スタイルだけなら、全国区のイケメン田ノ瀬や、マッチョ系谷垣内にも引けを取らないのに、この自信のなさそうな瞳が、女っ気を遠ざける。

「えっと、デート中? すまん」

 あまりすまないと感じていない申し訳程度の前置き。

「くーやんの彼女の宇代木天だよー」

「おまえはいつから俺の彼女になったんだ」

「え、2i+3ヶ月前?」

「なんでリアル世界に複素数が出てくるんですかね。俺とおまえの関係はイマジナリーなの?」

 腕にしなだれかかってくる宇代木をさりげなくかわす。

 微妙な距離感をどう取ったか、高森は苦笑する。

「うん、宇代木さんのことは知ってるよ、宇代木さんは有名だから」

「ちなみに高森、宇代木の半分はウソつきでできているからな」

「うん、知ってる」

「ひどい、くーやんひどい。高森くんもひどい。でも、ひさびさだねー。全然電脳研に来なくなっちゃったねー」

 ああ、そうか、この二人も元々知り合いだったのか。さすが行動範囲が極大の宇代木さん。あちらこちらに愛想を振りまいて、玉砕や勘違いする男子を量産しているのだろうな。こいつの冗談やからかいを真に受けずに友達でいられる男は、俺くらいだ。たぶん。

「電脳研はもうだめだよ、宇代木さんみたいな女子が来たら。ぎすぎすして、ぎすぎすして、九頭川、わかる?」

「あー、三語でわかる。宇代木、ダメ、絶対ってやつだな」

「あたしは覚醒剤かー!」

「なまじ覚醒剤よりたちが悪いよ、おまえ。それより、高森、何か用があったんじゃないのか」

「ああ、そうだった」

 高森はすっと宇代木を見る。

「うん、あ、そう? じゃあ、あたし帰るねー。くーやんまた明日、ボルダリングでねー」

 宇代木は持ち前の察しで、すっと身を退く。

 先ほどまでのわだかまりや執着が嘘のように、手を振り振り未練なく消える。

 これだから、宇代木は怖いんだ。どこまでが演技でどこまでが本心か、まったく掴めない。宇代木にバラバラにされる集団は、この怖さを知らないんだろう。優しくて、積極的で、元気で、気が利く表の姿しか見ていない。普通、こんな女子には秒で惹かれて、分で好きになって、時で告白して、「え、なに、そんなつもりなかったんだけど、キモッ」とフラれるのがオチだ。宇代木は告白を断らないらしいので、それはそれで問題しか起こらない。電脳研の状況、想像するまでもなく恐ろしい。

「高森、助かった」

「そうか? じゃあ、手伝ってくれよ」

「できることならな」

「できるさ、九頭川ならな。さっきのアサアサの腕を見ていたら、十分だ。しかも、宇代木さんのテンプテーションを無効化できるなら、文句なしだ」

 そうか、宇代木の誘惑はスキルか持続型常時発動範囲能力だったのか。ありうる。だが人間の能力は常に安定した数値で描かれるわけではない。その時の体調や気分で、容易に上がり下がりする。

 演技だと分かっていても、かわいい女子に付きまとわれて、理性を保つのは容易ではない。

「で、何をしたらいい?」

「アサアサで、ドクトルを使ってほしい」

「ドクトルはおまえの持ちキャラじゃないか」

「ちょっと訳あって、ナハティガルの動きを見たくてね」

 ナハティガルは看護婦のようなキャラだ。名前の由来はナイチンゲール。まあ、アサシンズアサシンは「殺し屋の殺し屋」という名目の格ゲーなので、ナハティガルもただの通り名という扱いだが。ニンジャマスターやドクトルもそのまんまだ。

 ナハティガルもタイニーでタイトで大切なところがほぼ隠れていない看護婦白衣に、ガーターベルトとか網タイツとかへそチラとか見せブラ(?)とかオレンジ色の髪とか、そういうキャラ造形だ。

「まあ、対戦するくらいならお安い御用だ」

「あと、恋愛研究会」

 高森から、似つかわしくないことばが聞こえる。

 俺が言うのもなんだが、俺も高森も中学の頃は二次元や二・五次元に入り浸って、現実の色恋の話はあえて忌避していた。俺たちの不文律のタブーだったと言っていい。生々しい話は、してはいけないんだと思っていた。俺たちのような立場の人間は、生身と向き合ってはいけないのだと思っていた。

 思い込んでいた。

 思い込んで、自分をも騙して、ごまかして、知らないふりをしていた。愛とは、恋とは、欲とは。そんな概念をもてあそぶだけでわかった気になって、何もわかっていなかったことさえわかっていなかった。

 好きとか嫌いとか、誰かと誰かが付き合ってるだとか、クラスの真ん中で大声でしゃべる集団と、実態は何も変わらないのに。好きだとか興味があるとか、それは本来とてもいやらしい動物的な感情だ。

 俺は、少し、ほんの少し、素直になれた。

「九頭川、恋愛研究会に入ったんだって? 今度、相談に乗ってくれ」

 ああ、そうだ。

 時間は戻らない。

 高森も、俺がいない一年間の間に、ただゲーセンに通っていたわけではない。当たり前だ。みんな、進むんだ。立ち止まり、動かず、じっとしているのは、山田仁和丸(40)だけだ。

 俺はずっと握っている半分のプリクラが汗でふやけているのに気づいた。

「いつでも、理科実験室に来いよ。恋愛研究会は、どんな恋愛相談でも受け付けるぜ」


 月曜日、それでも暗黒の月曜日はやってくる。月曜日から逃げるのは恥ではないし、役に立つ気がする。

 一学期の期末試験まで数日。授業も一部を除いて試験勉強のようなものだ。

 続きの勉強をする心づもりで、放課後に、理科実験室へ向かう。恋愛研究会へ向かうのではない。心を偽る。

 扉の前で、深呼吸する。

 扉には、「部員専用」の札。すでに、中に人がいるということだ。

「平常心、平常心」

 中に入るとなんのことはない。

 宇代木しかいなかった。

 椅子にだらしなく腰掛けスマホをいじっていた宇代木は、俺を一瞥するとひらひらと手を振った。

「ちゃーお。あまね、今日は来ないってさー」

「そうか」

「谷垣内くんと打ち合わせするからって」

「……そうか」

 宇代木の力のなさは、他人の目のあるところでは見られないほどの脱力だ。その姿を見せる程度に、俺は信頼されているということか。

 俺は脳内の煮え切らない思考を抑え込み、勉強道具一式を机に広げる。宇代木はしばらく俺の様子を見ていたが、何も言わないでいると手の内の小さな液晶に目を戻した。

 何か言いたいことがあるなら、言わなきゃわからないぜ? 俺は、何も言わない。

 佐羅谷がいないと、コーヒーも入らない。いや別に俺が淹れてもいいのだが、何となく宇代木を蔑ろにして俺がしゃしゃり出るのは違うと思うんだ。ときどき口を湿らせたいと思っても、ペットボトルの綾鷹くらいしか鞄にはない。

 小一時間ほど経って、表の相談者入り口の扉が開いた。ちょうど、勉強も疲れてきた頃だ。

「どうぞー」

 宇代木が眠そうな声で応じると、黒の緞帳の向こうは、甲高い男の声。

「いや、すまぬ、直接話したいのだ。俺は、写真部部長の入田、入田大吉だ」

 これは真面目な話だ。

 俺は勉強道具を脇へよけ、宇代木もスマホを机の上に置き、姿勢を正す。緞帳を開けると写真部の入田が入ってくる。

 四角い大きな眼鏡が特徴的な男だった。頭の横まで髪の毛が長く、少し外側に跳ねている。

 重そうなカバンを置くと、俺たちの対面の椅子に座った。

 部活は、部活だ。

 俺たちの悩みはこの際関係ない。むしろ、嫌なことを忘れられる案件はありがたく思える。

「恋愛研究会の宇代木です。今日は、あたしと、こちらの九頭川くんとでお話を聞くよー」


「女子の写真を撮りたいのだ!」

 いろいろ溜めがあったが、入田は意を決したように叫んだ。エコーがかかりそうな大声だった。

 宇代木はじと目で、俺は眉間にシワを寄せて、四角眼鏡をどう料理しようか考える。

「撮ればいいじゃないか」

「それができれば苦労せんわ! おおお俺が女子に声をかけるなど、できると思うか?」

「いや、俺、そこまでおまえのこと知らねえし。というか、二年生だよな? 写真部の部長って言うけど、三年はいないのか?」

「ああ、正確に言うと、次期部長ほぼ確定、だ。だからこそだ、だからこそだよ、九頭川。俺は部長にふさわしい実績が欲しいんだ」

 これだけ自己主張できたら、じゅうぶん部長が務まると思うけどな。腕を振り回しながら語る様は、IT企業社長の架空轆轤回しの洗練された華麗さはないが、力強く、存在感はある。

「現部長は、街角スナップでときどき雑誌や写真サイトで掲載されるレベルなんだ。その後釜が、何の実績もないんだ。ただでさえ、わざわざ大きなカメラで写真を撮るのが時代遅れに見える時代、なんとか、部長として、様になる実績が欲しいんだよ!」

「なるほど、わからん」

 確かに、部長を張るにはそれなりの実力や成果が欲しい。そうでないと、部員はついてこない。本人が部員の誰よりも優れているというのも一つの基準であるし、ボルダリング部の神山のように、部活を自ら作り出したら、普通は従おう。恋愛研究会でいうと、佐羅谷は間違いなく部長だ。宇代木では務まらない。

「別に、女子の写真を撮ったところで、評価されるわけではないだろ」

「違う違う。女子のポートレートを撮る環境を作る、それもまた実績になるんだよ」

「へたれの集団だ」

 ぼそっと、宇代木は冷たい。

 入田の気持ちもわかるし、宇代木の呟きもわかる。女子にモデルになってくれと頼むのは勇気が要るし、街ゆく女性に声をかけるのはなお難しい。女子の写真を撮りたいという下心はこの際おいておこう。

「だが、どうして被写体を捜すのに、恋愛研究会に来たんだよ?」

「いやいや、恋愛研究会にはかつらぎ高校有数の美人がいるわけで」

「直球だな、おまえ」

 横目で窺うと、宇代木はまんざらでもないような、むず痒そうな表情をしている。かわいいだの美人だの聞き慣れていそうなのに、嬉しいわけか。

 しかし、対象が女子となると、俺の出番はないな。

「じゃあ、入田。あとは自分で宇代木を説得しろ。そうだな、部活が終わるまで、三十分ある。ガンバ。俺はムリだ」

「どどどしえ? どうやって女子としゃべれと?」

「それだけしゃべれたら普通に声かけろよ……宇代木は、女子の中では話しやすいほうだぞ?」

「むー……」

 唇を突き出して、うめく宇代木はちょっとレアだった。

 それからは、いたたまれないような、面白いような、いわく言いがたい場面が展開した。

 入田は顔を真っ赤にし、文法もめちゃくちゃでまともに意味が通じないことばを発し、宇代木は体を斜めにして聞くとも聞かぬともない態度で頭を押さえながら「うー」とか「ぬー」とか絞り出す。

 大仰な身振り手振りに、汗や唾を飛ばしながらの主張に、それでも、時を追うごとに意味が通じ始める。

 奇妙なことに、俺は、そんな入田がカッコよいな、と思えてきた。普通の意味では、入田はお世辞にもイケメンではない。ワンレンを側面で横に跳ねさせ、四角い眼鏡で、無精髭が濃く、眉毛もボサボサだ。写真など誰でも簡単にスマホで撮れる時代に、旧態依然のカメラなどを愛好するオタク気質、自分の外見を飾ることも調えることも考えたことがないのだろう。

 入田にあるのは、情熱だけだ。

 部長になるための実績という不純な動機に、単に女子の写真を撮りたいだけの下心。

 だが、行動を起こした。

 土下座して靴まで舐めそうな勢い。

 本当にまともに女子と話したことなどほとんどないのだろう。写真のモデルになってくれる知り合いさえいないのだろう。わざわざ場違いな恋愛研究会の扉を敲くほどだ。

 この行動力が、かっこいいな。

 動かなければ、何も変わらなかった。動いても、変わるとは限らなかった。しかし、動いた。

 翻って、俺はどうだ。

 動いたか? 俺は動いたか?

 見ろ、宇代木はわずかばかり、心が動いている。もとより好きと言われたらとりあえず付き合うとうそぶく女だ。写真を撮らせるくらいやぶさかではあるまい。

 ならば、ここに俺も加わろう。

「宇代木。乗ってやれよ」

「えー。だって、写真部だよ? 男ばっかの密室に一人閉じ込められるんだよ? さすがに、あたしでもそれはちょっとないかなー」

「鴨都波のススキ提灯に行こう。それならどうだ?」

 俺の提案に宇代木は暗い目を向ける。「くーやん、本気?」

 ススキ提灯を見に行くということは、谷垣内と佐羅谷に会うということ。どんな結末になろうとも、見届けるという覚悟。

「入田、これが宇代木をモデルにする妥協点だ。今週末のススキ提灯、パフォーマンスが始まる前の境内が、写真部のものだ。二時間くらい、どうだ?」

「かまわん、じゅうぶんすぎるくらいだ! 九頭川も来るのだろう? デートポトレなど、なかなか撮れるものではない。しかも、祭りが始まる前ということは夕暮れで、トワイライトタイムの陰りと、提灯や電飾の玉ボケがそそるぞ! 大口径の単焦点レンズを持っていかねば、夜景となるとストロボも必要だな! 全員分のディフューザーはあったかなーー」

 拳を握りえらく興奮する入田をなだめ、日時を確認して追い出す。何というか、この種の人間はテンションが上がると専門用語を駆使してひたすら一方的に話を続けるのだ。山田仁和丸(40)のように。

「ていうか、デートポトレって、俺も被写体かよ」

「やー、ちょっと楽しみになってきたよー」

 宇代木はスマホを拾い上げ、スッスッと画面を撫でている。気持ち良いくらいの笑顔。

「いい写真撮れたら、データもらわなきゃね」

「好きにしろよ。俺はりんご飴をおごって、貸し借りなしだ」

「うん、期待してるね」

 裏表なく真っ直ぐな笑顔を向ける宇代木が眩しくて、俺は目を逸らした。

 ススキ提灯祭りに行くことに、宇代木と入田を利用しただけだ。自分一人で行く勇気はなく、行く気もなかった。たまたま、ほんの偶然、仕方なく行くだけだ。動かなければ、何も変わらない。だから、動くんだ。

 本当にそれだけだ。


 そして、定期考査中もあってないような部活は続く。律儀に出席する必要もないと思うが、なに、勉強部屋にするだけだ。家に帰ると遊んでしまうからな。

 自分の部屋ほど、勉強しにくい空間はない。ちょっと休憩と漫画を手に取ると、そのまま部屋の片付けに入り、永遠に終わらない無限ループだ。勉強する暇もない。

 それに比べて、恋愛研究会の理科実験室は良い。相互のぬるい監視があるから、一応勉強できる。俺より成績の良い女子が二人もいる。

 そうだ、部活に出る理由はいくらでもある。

 しかし、いつもより動きが緩慢だった。教室を出る前に、珍しい男に捕まる。自称深窓の令嬢研究家、山崎なにがしだ。眼鏡をキラリと輝かせる。

「なあ、九頭川よ。お主、夏休みにバイトする気はあるか?」

「深窓の令嬢を観察するバイトはないぜ?」

「それは犯罪だから」

 わかってるって、素で返すなよ、傷つくわー。

「俺は今でもファミレスでバイトしてるよ。夏休みは、シフトを増やす予定だ」

「なんと、それは残念な。我はリゾートバイトなる短期のバイトを見つけたのだがな。海水浴場で旅館や海の家で住み込みで働くらしいのだが」

「ほう、そんなバイトもあるのか」

 長期休暇だけ働きたい向きには便利だな。住み込みというのも面白い。ただ、遊びまくって、宿題ができそうにないが。きっと、大学生の先輩とかに絡まれて、夜も寝られないのだろうな。

「なあ、九頭川、一緒に来てくれよ」

「悪いな、山崎。他をあたってくれ」

「我に他がいるわけがなかろう!」

「なんで自信満々でそのセリフを言うんだよ」

「一人で知らないところにバイトなんて、我こわい!」

「ならそんなバイト選ぶなよ……」

 山崎は俺にしがみついてぶら下がる。

 ごつい体で、ええい、暑苦しい。

「あー、わがまま言ってもダメだダメだ! ファミレスのバイトだって、一ヶ月もシフト空けるわけにはいかねえよ」

「じゃあ、せめて! せめて、連絡先教えて! 寂しくてつらい時、声を聞かせて!」

「気持ち悪いよ、おまえは俺の彼女かよ」

 解放されそうにないので、結局連絡先を交換する。

 ふ、また友達でない連絡先が増えてしまった。

 俺の名前を登録すると、山崎はホクホク顔だ。

「九頭川も遠慮なく連絡してくれていいぞ! 暇な時! 悲しい時! 嬉しい時! 551の肉まんがある時! いつでもな!」

「ラーメン食いたい時にでもな」

「それが一番だな!」

 今のやりとりは、ちょっと友達っぽかったな。

 そのためか、俺は少し口が滑る。

「なあ、山崎。自分の親しいやつで、自分が一番近いところにいると思ってたのに、横から暴力的で手の早い人気者が、嵐みたいにそいつをさらって行って、しかも、そいつが、まんざらでもない顔をしてたら、どう思う?」

「なんぞ、周りくどいな。そんなこと、日常茶飯事ではないか。親友だと思っていたのはただひとり我のみ、相手には友達とさえ思われていないなど、よくあること。慣れたわ。慣れたわ!」

「何かすまん。血の涙を流しそうな勢いで叫ばなくていいから」

「だがしかし、我などは、黙って耐えて、忘れるしか、方法はなかった気がするな。おすすめはせぬ。その結果が、今の我ゆえに」

「山崎……」

 山崎の表情は眼鏡に隠れて窺えない。

「だが、安心しろ、九頭川。どんな二次元キャラのロスも、また新しい作品のキャラで贖われるのだ。喜ぶべきは、春夏秋冬絶えず弛まずあふれんばかりのジャパニーズアニメ! フーーーー!」

「そっちかー……」

 山崎の照れ隠しのテンションの高さに、乗っておいてやる。ああ、俺たちただのクラスメイト、あるいはラーメンメイトのあいだに、真面目で陰鬱な話はそぐわない。山崎に気を遣わせるなんて、俺はダメダメだ。

「だからお主も、深窓の令嬢を忘れられる時が来るさ」

 びくんと心臓を鷲掴みにされた。

 ああ、そうだ。

 俺は世間的には深窓の令嬢に告白してフラれたように見えているのだ。それが、五月のことだ。

 恋愛研究会に入部したことまで知っている者には、佐羅谷のストーカーだと思われているに違いない。

 山崎は、おそらく、俺がフラれたというところまでしか知らない。研究家を気取っているわりに、山崎の情報はザルだ。

「そうだな、忘れたくないものほど、忘れてしまうもんだ」


 山崎と絡んで遅れて部室に行くと、「恋愛相談中、入るな」の札。

 相談中は原則として部員であっても入室禁止だったと聞いた。相談者に誰が相談を受けるか明示する以上、途中で増えるとまずい。特に、男子が増えているとまずいだろう。

 俺は廊下でしばらく待つ。

 だが、違和感。

 中から、全く人の気配がしない。いくらなんでも、聞き取れない程度の音が漏れてきてしかるべきだ。

 扉に耳を当てるが、音がしない。

 教室を隔てて、グラウンドの喧騒が聞こえる。おまえら、帰って勉強しろよ……。

 しかし、今現在、中に人はいない。

 念のため、そうっと部員専用の扉を開ける。

 見慣れた二つのカバンが机の上に放置されている。無用心な。リコーダーとかある学校なら、絶対危なかったぞ。いや、俺はしないぞ? そういう話は、都市伝説だろ?

 人は、いない。

 だが、気配がする。

 薬品棚の奥、資料室とは名ばかりの窓さえ埃かぶる物置部屋。そちらで物音がする。そういえば、この部屋に入ったことはなかった。鍵を管理しているのが佐羅谷で、入ろうと思ったこともない。

(ここに、いるのか?)

 悪いことはしていない。俺はあえて音を立てて扉を全開にする。

「おーい、誰かいるのか?」


 空気が凍りつく体験をしたことがあるだろうか。

 俺は、あまりない。

 強いていうなら、つい最近、谷垣内の前に対峙したあの一件が、わりと近い。佐羅谷が涙目で食ってかかった時に、二人の視線を遮ったあれだ。

 今回は、凍りついた。

 俺が。

 埃舞う物置と化した資料室、わずかに開いた空間で、一糸纏わぬ女子が二人。目を奪われたのは、横から射す夏の日光に照らされた、白い肌。奥にいた一人。

 ああ、あまり気にしたことがなかったけれども、やはり佐羅谷は色白だったんだな。小さな体に小さな頭に、黒のミディアムストレート。今は後ろにゴムでくくっている。顧みる瞳は黒の中に緑が混じる。驚いて見開いた目は、俺を凝視している。俺も、同じだ。瞳から首へ、うなじへ、鎖骨へ、胸元へ視線が流れ、……。

「ぎゃあああ? あああ?」

 奇怪な叫び声がして、そして時は動き出す。

 佐羅谷の横で、黄色い髪が跳ねる。

 全然よく見ていなかったが、宇代木が肩を抱き抱えるようにうずくまった。

 声に正気を取り戻し、佐羅谷は何かを羽織ると、そばにあった人体骨格から頭蓋骨をもぎ取り(おいおい)、無言で全力投球。ためらいがないね!

「おい、待て!」

 気づけば俺は、頭蓋骨と熱烈なキッスをしていた。ちょっと唇を噛まれてるし、多分これ、鼻の骨直撃してるし、めっちゃ痛い。せめて、この標本のモデルが、女性であることを願うばかりだ。

 ううん、いいねこの感触。

 頭蓋骨は、歯が命。


「おまえが俺のファーストキスだってばよ」

 俺は理科実験室の定位置で、机に頭蓋骨を置いておきあがりこぼしのようにグリグリと頭頂部をいじりながら、独りごちる。

 奥の資料室から、夏の涼しげな薄いブラウスを着た二人が出てくる。佐羅谷と宇代木。無意識に、佐羅谷の首から鎖骨あたりに視線が行く。今はもちろん襟に隠れて、何も見えない。宇代木は胸元に何かを抱えている。風呂敷か?

 佐羅谷はいつもの椅子に腰掛けず、真っ直ぐ俺の前に立つ。

「九頭川くん。何を座っているの?」

「何をって」

「正座」

「はい?」

「そこへ直れ!」

「はい!」

 漫画やアニメの女性暗殺者によくあるような、太ももにベルトでナイフを隠し持っている体で、佐羅谷はスカートの襞からガラス棒を取り出し、俺の喉元に突きつける。あれか、薬品を混ぜるやつか。

 佐羅谷の剣幕に押されて、俺はガタガタとその場に正座する。

 これはこれで、ちょうど視線の先に佐羅谷のスカートの裾と黒タイツの境目があるわけで、どこを見たら良いのか、困る困る。

「まずは、先生に連絡しましょうか」

「待て、佐羅谷、理不尽でござる。話せばわかる」

「そうね。そう言った五條代官は、天誅組に首を斬られたわね」

「け、賢者は歴史に学ぶだろう? 過去の過ちを繰り返さないためにもだな、まずは話を聞くべきだと」

「異動してきたばかりの五條代官は何の咎もなかったけれど、それは天誅組にはどうでも良いことだったのよね……」

 遠い目を細めてにっこり笑う。

 それを解釈すると、俺の事情はどうでも良いというようにしか聞こえませんが、佐羅谷さん。

 まずいな。

 全然怒っていないような顔をしているが、かなり怒っている。俺の短い人生でも、女子の着替えに遭遇するなど一度もなかった。言い訳も思いつかない。

「もういいよー、いいじゃない、あまね。見られたものは見られていない状態にできないんだし」

「この男を五回くらい殴ったら、記憶が消えるかもしれないわよ?」

「おまえは俺を何だと思ってるんだ」

「わたしは別にいいのよ、だけど、天がこんな男に、その、裸を見られるなんて」

 裸、で言い淀むあたりが少しかわいいなと思った。目の前をちろちろ揺れるガラス棒がなければ。

「あたしも、別にいいよ。よくないけど、どうしようもないし」

 宇代木には出会った時にえらい格好を見せられたしな。ボルダリングの時には、極短スカートでそのまましようとするし、って、もしかして露出狂の素質があるのか? 

 しかも、今回に関しては、俺は宇代木を見ていない。叫び出すまで、見えていたが認識はしていなかった。

「そもそも、俺、宇代木は見てないし」

「はあ!?」

 しまった、口に出た。これは藪蛇。

「何それ、あまねしか見てないってこと? むー、それはそれでなんかムカつく!」

「九頭川くん、義眼になるのは右か左、どちらがいい? よく考えて選びなさい」

「か、片方はとーっくに義眼じゃわい」

 決死の覚悟でネタを披露するが、佐羅谷はにっこり笑って、本気の声だ。

「じゃあ、二分の一の確率を神に祈りなさい」

「ほんと勘弁してください」

 今の俺はほぼ土下座。

 本気で泣きそう。

 ところが、視界をさまよっていたガラス棒は奥へ消える。

 少しく頬を赤らめた佐羅谷が、深呼吸しながら、そっぽを向いていた。よかった、何かはわからないが、怒りは落ち着いたようだ。宇代木を見ていなかったのがよかったのか。義憤の士だな、佐羅谷。天誅組よりは理性的だ。

「いずれ落とし前はつけてもらうとして、今日は許してあげるわ。物音立てずに部屋に入ってきたのは、不問にしてあげる」

「相談中だとまずいから、静かに入ったんだよ」

 だから、理科実験室にいないとわかってから、資料室の扉は音を立てて開けただろ?

「そうね、そういうことにしてあげる」

「そういうことだよ」

 信じていない佐羅谷にため息をつき、俺はようよう解放される。

「それで、何であんな密室で服脱いでたんだよ。百合?」

「くーやん」

「目が怖い、宇代木」

「天に浴衣を持ってきてもらっていたのよ。わたしは浴衣なんて持っていなかったから」

 佐羅谷はガラス棒をしまうと、浴衣を掲げて見せた。模様までは見えなかったが、白と水色を基調とした浴衣。

 だが、佐羅谷が浴衣か。

 自分でわかる。どす黒い感情が、みるみるうちに心を染め上げていく。

「佐羅谷が、浴衣か。気合入ってんな」

「トゲのある言い方ね。なによ」

「別に」

 俺は床から椅子に戻り、黙って鞄から勉強道具を出す。試験は明日が最後だ。今は勉強のために出したのではない。勉強するフリでもしていないと、余計なことを口走る気がした。

 佐羅谷が嬉々として祭りの準備をしているのが、嫌で嫌で仕方がなかった。佐羅谷は、どちらかというと、俺と同じ人種だと思っていた。思い込んでいた。

 何があっても冷徹で、平静で、感情の起伏は穏やかで、心乱されずに安らかな日々を好むものだと。そういう人間であってほしいと、勝手に理想を押し付けていたのだ。

 ははは、これじゃ、山崎を笑えないな。深窓の令嬢に過度な理想を見て、高嶺の花として近づこうとさえしない山崎。ところが、俺だって佐羅谷を見ているようで、自分の理想フィルターを通した理想の佐羅谷を見ていただけで、何一つ佐羅谷の本来を見てはいなかったんだ。

 友達が少ないからとか、誰の告白も断るからとか、そんな隠れ蓑に安心して、何も動かなかった俺が悪い。

 祭りに誘われて、喜んで浴衣を選ぶなんて、そんな女だとは思わなかった。

 そして、そんな程度のことで幻滅する自分に幻滅する。

「どったの、くーやん、むつかしい顔して。勉強おしえてあげるよー?」

 目の前に置いた風呂敷を横に、宇代木が顔を覗きこんでくる。

「俺は今、非ユークリッド空間における特殊相対性理論について研究中だ。邪魔をせんでもらおう」

「その非ユークリッド空間の三角形の内角の和はいくら?」

「おまえときどきわからないマジレスするよな」

「言っとくけど、特殊相対性理論は一般相対性理論より簡単だからね?」

「だからそういうのいいから」

 まあ、元気づけてくれているのはわかる。難しい話をしているはずなのに、心は解れていく。

「あたしの浴衣も楽しみにね、くーやん。高田市駅で待っててね。また連絡するから」

「おまえも浴衣かよ」

「嬉しいでしょ〜」

 指で頬をつつこうとするのを首をそらして逃げる。

「え、あなたたちもどこかへ行くの?」

 表の札をひっくり返しに行ってきた佐羅谷が、驚いた表情。なんだ、聞いていないのか。

「ススキ提灯だよ。言ってなかったのかよ」

「えー、だって、驚かせたかったんだもん」

 浴衣って言ったら、その時点でバレるんじゃないですかね。浴衣になるほどの祭りは、この時期このあたりではススキ提灯くらいだろう。

「そう、天はともかく、九頭川くんはお祭りなんて興味がない人だと思っていたから」

「興味ねえよ、祭りなんか」

 ただ、写真部の案件で宇代木を連れ出すのだから、付き添わないのは義に悖る。写真部の奴らが悪人ということはないが、男ばかり五、六人に、宇代木を一人放り込むのもあまりよくない。個人個人は善人でも、集団になると歯止めが効かなくなるのはよくあることだ。

 人間は、つるむと悪事も犯罪も平気でできる。だから、人間は一人で生きるべきなんだ。

「あまねは心配しなくていーよ、邪魔しないからさー」

「そ、そう? 別に邪魔なんて」

「だから、お互い楽しも?」

 宇代木は有無を言わせず笑顔で押す。

 まあ、楽しまないと損だな。昨年のグループで喧騒の一部になって楽しんだふりをして自分を騙すよりは、宇代木と写真を撮られているほうが、いくらかも楽しいはずだ。

「そうだな、楽しむしかないな」

 ポツリと俺が呟くと、キッと鬼のような形相で佐羅谷に睨まれる。何でだよ、俺は祭りすら楽しむ資格がないのか。

 悲しいねぇ。


 定期考査の最終試験も終わり、あとは夏休み前の終業式だけが登校日だ。ああ、でも七月中は部活をすると佐羅谷は言っていたな。

 筆記用具その他を鞄に詰めていると、つつつと、山崎が這い寄ってくる。

「どうだ、九頭川。一ヶ月会えなくなるぞ? 最後の晩餐と洒落こもうではないか」

 晩餐でもないし、俺たちは十二人もいないし、食堂の机の片側にだけ座って占拠する迷惑もかけないが、悪くない提案だ。

「悪くないな」

 だが、世の中はままならぬものだ。

 人の出入りでガヤガヤと騒音が耳を塞ぐなか、扉付近から俺の名前が聞こえる。

「九頭川、いる?」

 嫌な予感がした。

 俺をわざわざ呼びつけにくる女に、良い思い出がない。聞こえないふりをして山崎とたわいない会話をしていたが、すぐに見つかる。

 机の前に、山崎を押しのけて二つの人影。

「九頭川、いるんなら返事しろよ」

「俺は教室では目立ちたくないんだよ」

 努めて小声で、ゆっくりと面を上げる。

 長い片寄せポニーテールの揺れる上地しおり。どうしてこの女はいつも怒ったように目つきがきついのだろう。怖いよ。

 もう一人はまん丸ボブの三根まどか。丸眼鏡の奥の丸っこい瞳。相変わらず凸凹コンビで動いているんだな。

「ほら、しおちゃん、抑えて抑えて」

「ち、くそっ」

 クラスのほとんど喋ったこともない奴らが、遠巻きに見ている。

「用事なら、今度にしてくれ。今日は今からかけがえのないラーメンメイトと最後の晩餐に赴くんでね」

「さよう、先約は優先すべき……」

「ああっ?」

「だけど、譲ってもいいかなー、なんて」

 上地のひと睨みで山崎が小さくなる。

「おい、空手女。カタギ相手に武をちらつかせるのは、大人げないぜ」

「ほんと、この男はわけわかんねえ屁理屈ばっか言いやがって!」

「ごめんね、山崎くんだっけ? 少しだけ、輔を貸してもらえないかな?」

 おーい、俺のいないところで俺のレンタルしないでくれる? 山崎に俺の所有権はないはずなのだが。

 しかし、大人しそうな見た目の三根に上目遣いで頼まれて、顔を赤らめながら大仰に頷く山崎。

「か、か弱き女子に頼まれては仕方がないな! 最後の晩餐をできぬのはつらいが、九頭川よ、また二学期に会おう! でも寂しくなったらいつでも電話してね! ボクと君の約束だよ!」

「わかったから、おまえはもう帰れよ」

 山崎がそそくさと教室を出るのを見届け(というか、本当に帰りやがった……)、俺は二人に嫌悪も露わな目を向ける。

「どうする? ここでいいか? 場所を変えるか?」

「すぐ終わるよ、ここでいい。九頭川、おまえ知ってるか? 深窓の令嬢と谷垣内が、この前デ、デートしてたの」

 デートということばで言い淀んで恥ずかしがるあたり、上地の初々しさが出ている。俺はいつの間にか、慣れてしまった。恋愛研究会の経験は、偉大だがどうしてもスレる。

 上地の反応のほうが気にかかり、内容はあまり頭に入らなかった。

「佐羅谷と谷垣内がデート?」

「一緒にビクドン入っていくの、見たって」

「それで、俺にどうせよと?」

「何も知らないのかよ? 何なんだよ、あの女! 無愛想でお高くとまってるくせに、あっちこっちで色目使ってさあ、あたしたちを、めちゃくちゃにしたいのかよ? おまえ、ちゃんと首輪つけとけよ」

「俺と佐羅谷はただの部長と部員の関係だ。プライベートで何をしようが、お互いどうしようもねえよ」

 佐羅谷が打ち合わせで来ない日があった。その日か。わざわざ目立つところでうろうろするなよ……。

 幾人か、教室には帰宅せずに残っている生徒がいる。明らかに、俺たちの会話を聞いている。

 まずいな。

 俺はもう目立ちたくないんだ。球技大会も、その後の尖塔での会話も、今ではやりすぎだと反省している。

「輔はさ、佐羅谷さんが谷垣内くんと付き合ってもいいの?」

「三根、それが俺に何の関係がある?」

「関係ないの?」

「それを答える義務はない」

 上地と三根、こいつら二人の過干渉は辟易する。目的も意図も判然としないまま、真綿で首を絞めるようにじんわりじんわりと何かことばを引き出そうとする。

 圧迫面接か、誘導尋問か、こりごりだ。

「だいたい、外野がガタガタ騒いだところで、何も変わりはしねえよ。谷垣内は決めたことは貫くだろ。止められる奴は、いない」

 そうだ、谷垣内に抗せる者は、いないのだ。

「そうかなあ、谷垣内くんと話ができるのは、輔だけだと思うけどなぁ」

 三根は無表情に呟いた。

「話はそれだけか?」

「もう一つはお願いだ」

 上地はポニーテールを触りながら、むすっとしている。

 ほんとうにこの女は、性格が荒いばかりでわがままだ。これがお願いする態度かよ。中学生の男勝りな女子がそのまま高校生になったかのような存在だ。長身でスタイルがよく、なまじ顔がいいだけに、こいつを好きになった男は大変だろう。

「これは谷垣内くんからの言伝なんだけどね」

 上地のことばを三根が継いだ。

「輔にも、ススキ提灯に来てほしいって」

 三根はよく上地に懐いているようで、案外、三根が上地を馭しているのかもしれない。大人しいのは大人しいが、俺がこれだけ邪慳にしても怯まないし、俺のたわ言を知って見ぬふりをしている気がする。くりんと大きな目は、深淵を覗きこむ者の目だ。何やかやで那知合のグループにいるのも、那知合が一目置いているからだろう。

 一人でいると大人しい文系少女なので、優しくされると山崎のようにちょろい男は勘違いしてしまう。

「どう、来てくれる?」

「いい知らせと悪い知らせがある。どちらから聞きたい?」

「その言い方は一年の時の輔っぽいね。わりとそういうの、好きだったよ」

「そりゃあ光栄だ」

 俺は、そうやってせいいっぱい、おまえらと肩を並べようと虚勢を張っていたんだよ。

「じゃあ、いい知らせからお願い」

「いい知らせ、ススキ提灯には行く。電車が止まらない限りな」

「そうなんだ。悪い知らせは?」

「悪い知らせ、もともと行く予定だったから、谷垣内がどうであろうが、おまえらがメッセンジャーを仰せつかったのは、無駄足だ」

「無駄じゃないよ、ねえ、しおちゃん?」

 三根はかけらも微笑まず、上地を見上げる。上地も、固い表情で頷いている。

「すげえ、三根の言った通りだ。どんなにあたしらと一緒に騒いでも、祭りなんかつまらないって、冷静な顔してた九頭川が、自分から祭りに行くなんて」

 はっとして、三根を見やる。

 三根は名状しがたい表情だった。

 俺の高校デビューも陽キャ演出も、みんなみんな、バレて筒抜けでしたってか。さぞや滑稽だったろう。さぞやかわいらしかったろう。さぞや見苦しかったろう。

「輔、どうしてススキ提灯に行こうと思ったの? どうして、好きでもないお祭りに行こうと思ったの? 輔を変えたのは、なに?」


「やあ、初めてだね、九頭川くんから連絡してくれるなんて。え、いいよ、大丈夫だよ。大丈夫じゃなくても、九頭川くんの頼みなら、喜んで駆けつけるよ。だって、九頭川くん、人に頼るなんて、よっぽどでしょ? なんでも一人で片付けてしまいそうじゃない。……ふうん、お祭りに行く服を選んでほしい? いいよ、僕の感性でいいのなら、いくらでも。あまり日がないんだね。じゃあ、金曜の午後、アルルでいいかな?」

 田ノ瀬一倫、電話でさえどこまでも頼りになる男だった。


 近鉄南大阪線、阿倍野橋行きホーム、高田市駅の一番後ろの車両の扉が開くと、宇代木が派手な浴衣で迎えてくれた。

 明るい髪色に瞳も同色のカラコン、浴衣も暖色の花柄だった。出会った頃より少し伸びた髪をバレッタで上げている。

 他にもちらほらと浴衣女子は見えるが、明らかに宇代木が視線を独占している。

 普段から見慣れた顔であるのに、俺でさえ声をかけるのがためらわれるほどに、かわいかった。いつものハンディファンではなく、小さなうちわを持っていた。

「ちゃーお、くーやん、どうかな?」

「男どもの嫉妬の視線でウェルダンだ」

「評価が婉曲すぎるー」

 当たり前のこと言っても仕方がない。

 かわいい女子は自分がかわいいことを知っているし、周りがどう見ているかも知っているし、かわいさをいかに扱うべきかも知っている。

 こんな時には、少しはにかんで、上目遣いで半歩近づき、欲しいことばを自分から催促するのが常套だ。

 ハレの場での衣服が似合っているかどうかを尋ねる。そして、男は恥ずかしがって答えない。

 ここで気の利いたことばを生み出すには、今のAIは力不足だ。月が綺麗ですね、とでも誤訳しておこうか。

 上機嫌な宇代木と、おろしたての服に身を包んだ俺は、電車の隅っこに立ちながら、尺土で乗り換え、御所で降りる。御所駅から鴨都波神社まで、南に五分もかからない。

 鳥居をくぐると、境内は賑やかだった。準備は万全だ。太鼓の周囲に若衆、宮司に神社の関係者、小さな巫女さん。撮影目当てでカメラをぶら下げた人、自治会の世話役、逆側に伸びる参道には夜店が並ぶ。

 ススキ提灯は、ここから離れた葛城公園に集まり、神社まで練り歩く。三十機を超えるススキ提灯と、関係する自治会の人はまだこちらに来ていない。だが、すでに神社は人いきれで蒸し暑くごった返していた。

 ペットボトルのいろはすを渡す。

「ほい、水分補給は忘れずにな」

「ありがとー」

 あまり人の邪魔にならないところで二人黙っていると、写真部の入田を先頭に、カメラを持った男子が近づいてきた。

「待たせたな、宇代木さん、九頭川」

 俺は呼び捨てかよ。

 いやまあ、写真モデルで男はおまけみたいなもんだと思うけどよ。

「じゃあ、どういうふうにしたらいい? 普通に祭りでデートしている感じでいいのか? 動いていていいのか?」

「くーやん、普通にお祭りでデートしたことあるのー?」

「……祭りどころか、デートさえしたことがないな。おい入田、俺はどうしたらいい」

「それは俺に聞かれても困る。デートっぽく頼む。エア彼女や二次元彼女くらいいただろ? その通りに動いてくれてかまわんぞ、俺たちはいないものだと思ってくれ」

 いないものと言っても、五人の男子にカメラを向けられて落ち着かない。

 見られ慣れている宇代木は、意にも介さないようだ。

「じゃ、くーやん、行こう? 今日は、あたしのリードに従ってね?」

 抵抗は、できなかった。

 これは部活の一環だ。仕方がない。するりと腕を組まれたことも、ギュッと二の腕に何かの感触があることも、肩にもたせかける頭から良い香りが漂ってくることも、仕方がない。

 よく、男は自然な石鹸の匂いが好きで、それがためあえて香水をつけずに石鹸で匂いづけする女子もいるというが、俺は石鹸の匂いは子供っぽくて狙いすぎて気に入らない。石鹸が好きだなんて、童貞っぽくて嫌だね。俺も童貞だが。

 香水は、耳の後ろとうなじと。汗に混じり一番届けたい相手に届くように、ってね。とっておきは、とっておくものだ。

 宇代木は心の赴くまま、夜店を好き勝手めぐる。りんご飴も、綿菓子も、景品くじも、金魚すくいも、たこ焼きも、イカ焼きも、ナンバも、ヨーヨーも、唐揚げも、それは楽しそうに覗いて、冷やかして笑顔でキョロキョロと渡り歩く。

 後ろを、前を、周囲を必死にまつわりついて撮影する写真部の面々は大変そうだが、こちらも充実した表情だ。

「くーやん、ほれほれ」

「むぶ」

 いきなり口の中にたこ焼きを放り込まれる。熱いわ!

 爪楊枝を持つ指が、一瞬俺の唇に当たった。指についたマヨネーズを、宇代木はペロリと舐めとる。まったく、行儀が悪い。ママンに告げ口したい気分だ。

「おいしーねー」

「りんご飴はいいのか?」

「絵面的にはチョコバナナの方が」

「おまえ酔ってるのか?」

「失礼だなー、未成年は薬できないよ!」

「成年でも薬はできません。そういう台詞は誰が聞いているか分からないからやめろよ、マジで」

 宇代木は組んだ腕をほどき、手を滑らせ、俯いて動かないまま、長く逡巡、俺が不審に思って首を傾げると、すっと手を重ねた。

「お、おい、さすがにこれは」

「写真部がいる間だけね、一応恋人同士のポトレでしょ?」

 いわゆる、恋人つなぎというつなぎ方。

 手は、特別だ。手は体の一部であるようで、心の一部でもある。

 フリだとはいえ、何もない相手としてよいつなぎ方じゃないだろう。だが、宇代木は思いのほか強く握ってくる。

「九頭川、いいぞ、少し止まってくれ」

 俺の心など知らぬまま、写真部の入田はじめ一同テンションが高い。組んだ手の部分のアップなどを撮影して、満足げだ。

 ファインダー越しに、俺と宇代木はどう写っているのだろうか。

 彼女や恋人がいた経験はないが、そんなふうに見えているだろうか。

 ものの研究によると、恋人同士は一緒に歩いている時も恋人同士であるとわかるようなシグナルを出しているという。それは無意識で、本人たちに意図はなく、他者もどれがシグナルだと気づいているわけでもないが、無意識的に感づき、当の二人が恋人同士であると理解するという。

 じゃあ、俺たちはどうだ。

 そして、今から見るであろう二人は、どうだ。

 夜店の並ぶ山道の一番手前、代車に乗ったススキ提灯の群れが、順番に鴨都波神社に練り入ってきた。

 俺は、宇代木の恋人つなぎを切った。

「恋人の時間は終わりだ。入田、写真の時間は、終わりだ」

 エキセントリックかつアクロバティックな姿勢でカメラを構えていた入田は、神妙な顔でファインダーから目を離す。他の写真部員を退ける。

「ああ、ありがとう、宇代木さん、九頭川。後日、改めてお礼に伺う」

「楽しかったよ。写真、楽しみにしてるねー」

 少し汗の浮く顔にうちわを仰ぎながら、宇代木は目を細める。泣き出しそうな目だった。


 境内の中央に熱がこもる。

 奥では若衆が太鼓を叩く。ドン、ドン、ドンドンドンドンという大きな音に、小さな太鼓の音と鈴のような音が混ざる。

 観客が円を描くように境内を包む。円が縮まないように、警備員が立っている。

 俺と宇代木は、傍観者で、離れた木の影からススキ提灯の奉納を眺めていた。

 自治会ごとに三名、ススキ提灯を持って境内を駆け回るが、明らかにやる気のある人、ただ一周するだけでいっぱいいっぱいの人、遊び心のある人、暴れすぎて提灯を倒す人など、いろいろだ。傾けすぎて提灯に火がつき燃えることもある。

 音と、熱と、埃と、遠くで響く花火と、人間。ときどき思う。人間は、頭のぼうっとする環境に身を置いていると、個人ではなくなる。大きな集合としての人類という存在の一端末になる感覚。

 例えば、カラフルな毒ガエルを食べて痛い目を見た鳥は、やがて毒ガエルを食べなくなる、だから毒ガエルは目立つ色をしているという。だが、毒ガエルを食べて痛い目を見て(そして死んだ)経験は、その鳥固有の経験で、同じ鳥の種類全体に知識が行き渡ることなんてないはずだ。ところが、その鳥の種はやがて毒ガエルを食べなくなる。

 個体の経験が同種の生物全てに行き渡るなんてあり得ないのに、それが起こるのは、個が無意識下でつながっていることの証明ではないか。

 人間も、昔は無意識下で個と全体がつながっていたのではないか。だから、子孫のため、国のためとか言って、自分という個体を投げ出すことができたのではないか。

 現代は個は個だ。

 しかし、祭りという環境は、人間の中の個を全体に融解する原始の力を持っていると思う。俺という個人も、人間という種に、溶けて、消えて、流れて、共通の感覚を得たような気になる。

「どうして、こんなお祭りがあるんだろうねー」

 境内を走るススキ提灯を見ながら、宇代木はつぶやく。質問ではないだろう。

「歌垣の一種じゃないのか? ススキ提灯が、田植え後と稲刈り前に行われるってのがミソだな。作業の一段落した余裕のある時に、よその村にどんな男がいて、どれだけ力持ちで、どれだけ頼りになるかっていう自己紹介じゃねえの?」

「へえ、合コンみたいだね」

「行ったことはないが、祭りなんてそういうもんだろ」

 二人適当な上辺の会話。

 突然、背後から返答がある。

「お祭りを見て、無粋な話をするんじゃないよ、花の高校二年生が」

 なんだ、ベトベトさんか? ベトベトさん、お先にどうぞ!

「びっくりした、犬養先生なんですか背後から。あ、もしかして力持ちのイケメン探しですか?」

「九頭川、顎を擦るように殴ると、脳が揺れて一瞬で天国に行けるらしいぞ?」

「それは都市伝説だと思いますやめましょうその拳は傷跡なく心臓を貫きそうなのでやめてくださいマジで」

 俺が宇代木の背後に隠れると、犬養先生は構えを解いた。

 祭りに似合わないカジュアルな格好。いつもの白衣とパンツスーツよりはマシだが、色気のないことだ。顔もスタイルも抜群なのに、もったいない。

 保健室の先生で、恋愛研究会の顧問として、今日のこの見た目は至適だ。

「犬養センセ、なんでこんなところに?」

「お祭りでハメを外す生徒が出ないようにね、見回りだよ。高校生にもなって、先生の巡回に見つかるようなやつらなら、大した悪さもできないのにね、上にそういう道理は通じないんだよ」

 確かに、頭のいい学校の頭のいい生徒ほど、先生などには見つからずに極悪なことをするものだ。見たことがないから知らんけど。

「しかし、九頭川、さっきの話、よく考えてあって面白くはあるが、残念ながら、ススキ提灯に関しては、間違いだよ」

「え、そうなんですか」

「ああ、ススキ提灯は、御所の中心に賑わいを取り戻すにはどうしたらよいか、ということを考えた有志が集まって、いつのまにかこういう形になったものなんだ。ここ二、三十年のあいだの伝統さ。残念ながら、歌垣ではないよ」

 犬養先生は先生の顔で笑う。

「話は良かった。民俗学や人類学という分野の話だから、興味があれば、調べてみるといい」

「へえ」

 考えたこともなかったが、そんな学問もあるのか。早く働くことしか頭にないので、知的好奇心は趣味レベルでいいや。

「しかし、君たち二人か。まさかこの組み合わせになるとはねぇ。部長は、不在かい?」

「どういう意味ですか」

 宇代木の低い声。

「おお、怖い怖い。「なんでもないよ」」

 犬養先生は肩を竦めて、わざとらしい「なんでもないよ」。

「デートの邪魔したね。ハメは、外すなよ? 高校生の君たちは言われたら一番嫌がることばだろうが……君たちはまだ子供だからな」

 俺たちの返事を待たずに、犬養先生は手をふりふりいずこかへ消えた。本当に、ただ見回りを仰せつかっただけらしい。大人は、先生は、社会人は大変だ。どこで何か悪さをしようと企んでいる、いるかいないかもわからない高校生を見張るために、こんな祭りに孤独に潜伏しなければならないのだから。

 俺が犬養先生の後ろ姿を追って首を逸らしていると、宇代木が何かを言った。太鼓と、喧騒と、ススキ提灯の奉納の熱気に当てられて、耳も聞こえにくい。

「こんなの、デートなんかじゃないやい」

 耳も、聞こえにくい。

「ねえ、どうして、逃げないの」

 宇代木が俺の袖を引き、耳に口を近づける。むず痒い。

「逃げて逃げて青森県は下北半島の果てまで行って、それで逃げ場がないと気づいても遅いだろ?

 この世に確かなものを求めて、法律から哲学へ、哲学から物理学へ、だが、物理学さえ経験則の寄せ集めで、声の大きいセンセイの一言で決まってしまう人間臭い世界だという事実を知って、世の中何も信用できないと四畳半の世界に引きこもっても、いずれやがて逃げ場は無くなるんだよ。

 いつか立ち向かうなら、敵が致命的に大きくなる前がいい」

「そういうことを聞きたいんじゃないなー。どうしてくーやんは、あたしから……」

 宇代木の非難めいたことばは、若衆のマイクにかき消される。うおおおーと、湧き上がる歓声。

「次は、北松本の皆さんです!」

 北松本、谷垣内が所属する自治会だ。

 境内の広場を囲う人波の一部が本殿のほうへ消え、奥から新しい集団が穴を埋める。集団から男が三人、別のところへ移動する。そこに自治会のススキ提灯が置いてあった。

 ひときわ背が高くガタイのいい男、自治会名が書いてある法被を着た谷垣内。遠くて、表情は見えない。

 穴を埋めた一団に目をやると、水色の浴衣に身を包んだ佐羅谷。賑やかなおじいさんおばあさんがワイワイガヤガヤしている中、小柄ながら凛と背筋を伸ばして独りたたずんでいる姿は、異彩を放っている。知り合いのいるでもなく、ただ谷垣内に言われてそこにいるのはつらかろう。宇代木のように、見ず知らずでいきなり親しくできる術も知らない。何となく、周囲の北松本の住民とは、距離があるように見えた。

 ただ、黙って立っていることでしか、心を保てない。

 しかし、佐羅谷の隣は、思いもよらない人物だった。

 那知合花奏。俺が三月に二回告白して玉砕した、カーストトップの女子集団の中心。ここしばらく顔さえ見ていなかったが、祭りの暗い光に照らされた髪色は、また少し栗色が増したように見えた。気の強い目鼻立ちのくっきりしたところは変わらない。

 そして、相変わらず女子の定番を外すファッションが那知合らしい。犬養先生ほどではないが、動きやすさを重視したカジュアルな格好で、ノースリーブのひらっとしたシャツに、ふわっとしたパンツスタイル。浴衣は着ないんだな。

 佐羅谷と那知合が、境内を囲う一番前に立っていた。北松本の住民でもない二人が。

 どうして、二人を招いたんだ? 仲が良いわけがない。佐羅谷と那知合に共通点はないし、性格も全く違う。いったい、谷垣内は何を考えているんだ。

「何あれ、最低じゃん」

 宇代木は俺に聞こえるように吐き捨てた。

 聞こえないフリをして、二人を睨むように見つめた。二人は、俺に気づきもしない。じっと、谷垣内を見つめている。佐羅谷は腕を抱えるように組みながら、那知合は胸の前で祈るように手を組みながら。


 北松本のススキ提灯、三人目が谷垣内だった。前二人は無難に境内を回っただけ。年齢も中年で体力がないのかやる気がないのか、あまり見栄えはしなかった。

 谷垣内が、十メートルあるススキ提灯を両手で高く掲げる。明らかに、前二人よりも高い。境内を囲う人々からも期待の歓声が上がる。

 いや高まる太鼓と鈴の音、一歩踏み出した谷垣内がススキ提灯を片手で抱きかかえると、ギャラリーに手を振った。

 うおおおおーー!!! と空気が震える。さっきまで見ていたからわかる、あのススキ提灯を片手で支えるのは並大抵のことではない。

 十キロほどとはいえ、先が重くバランスが悪い。湧き立つのは、皆それを知っているからだ。

 谷垣内が走り出す。

 美しいフォームだ。

 回転させながら、上げ下げしながら、汗を飛ばし、晴れのような笑顔だ。

 一周目、佐羅谷と那知合の前も、すっと通り過ぎる。

 俺たちの前も、通り過ぎる。

 ふっと視線を感じたが、果たして気づいたかどうか。

「やっぱかっこいいな」

 無意識にことばが漏れる。

「ほんと、ずるいよねー」

 俺のことばが聞こえたのか、宇代木が感想を返してくる。

 ずるい、か。

 だが残念ながら、天は二物どころか、四つも五つも、あるいはもっともっと、たった一人の人間に与えるものだ。そして、与えられなかった人間は何一つ永遠に得られないものだ。人生は配られた札でしか戦えないポーカーだ。

 溢れんばかりの才能の持ち主をただずるいと疎むなら、山田仁和丸(40)になる。俺は、絶対にそうはならない。何もないなら、失うものも何もない。逆に開き直って、立ち向かえるじゃないか。

 普通の奉納では、境内を一周したらそのまま次へ渡す。ところが、谷垣内は止まらずに、もう一周走った。

 境内の真ん中へ行く。

 太鼓と鈴の音は続くが、喧騒はすうっと静まる。

 おもむろに、ススキ提灯を高く掲げ、ぐっと手を伸ばす。そして、片手だけでバランスを取り、めいっぱい高く、高く、高く。

 息遣いまで聞こえそうだ。

 隆々と膨らむ筋肉。

 湧き立つ境内。

 ぽんっと跳ね上げて、落ちてきたススキ提灯を花束のように抱え、歩く。

 佐羅谷と那知合のもとへ。

 やはり、

「ダメだ」

 体が、前に動いた。

 ダメだ。

「ちょ、くーやん、どこ行くの!」

 声も制止も、すべて後ろに。

 

 俺の前に道はできる。

 どんな悲壮な表情をしていたのだろう。

「すみません、通してください」

 北松本の人々は、俺が後ろから声をかけると、怯えたように隙間を空けてくれた。

 佐羅谷と那知合のすぐ後ろに来る。

 二人は、背後の異変に気づかない。

 小柄な佐羅谷と、平均より少し大きな那知合。

 二人の頭越しに、近づいてくる谷垣内。

 目が合う。

 驚いた様子はない。

 余裕綽綽だ。

 口には笑みさえ浮かべている。

 まるで、こうなることがわかっていたかのように。

 谷垣内は声が聞こえるまで近づくと、手を伸ばそうとする。

 ダメだ。

 おれは、叫ぶ。

「佐羅谷!」

 びくっと震える女子二人は同時に振り向く。

「く、九頭川くん?」

「佐羅谷、来い」

「は?」

 返事はいらない。

 俺は佐羅谷の腕、ではなく浴衣の袖を掴むと、北松本の人たちの隙間を引っ張り、通り抜ける。つんのめりながらも抵抗せず佐羅谷がついてくる。

「ちょっと、待ってよ。九頭川くん、聞いているの? どこまで行くの?」

 囲みから少し離れて、邪魔にならないところで、手を放す。

 遠くで、耳をつんざくような歓声が起こる。ススキ提灯での盛り上がりとは異なる歓声だ。

 囲みの向こう、ほんの少し見えた。

 谷垣内のガッツポーズと、口を隠して目を細め涙を浮かべる那知合。

 俺はすぐに下を向いた。

 佐羅谷の足が見える。素足に歩きにくそうな草履だった。しばらく、息を落ち着け、透き通るような白い足に見入る。

 ゆっくり顔を上げる。

 佐羅谷は、どんな顔をしていただろう?

 悲しげではなかった。諦めたという表情かもしれない。佐羅谷の口調で言うと、「もう、本当に仕方がないわね」、だろうか。

 だがこの時、俺は、佐羅谷の顔を見て、自分は間違っていなかったと、根拠はないが確信した。

 だから、俺は、動いて、正しかった。

 動いて、良かった。


「あー、こんなところにいた!」

 宇代木が小走りに寄ってくる。

 隣に佐羅谷がいるのを見ると、こわばる笑顔で優しく手を振った。

 次に俺を見る顔は、呆れて、疲れたような、悲しいような、複雑な感情が入れ替わり立ち替わり、最後にこれでもかという笑顔。

 ぱちん、と軽い音がした。

 頬をぶたれた。

「天、どうして?」

 困惑する佐羅谷。

「くーやん、あたし、謝らないよー?」

 手加減して右の頬を張られても、痛くも痒くもない。身体的には。

「ほったらかして、すまん」

「ごめんなさい、わたしが不甲斐なくて」

「どうして、あまねまで謝るかなー。あまねにも何か引け目があるの? 何か悪いことをしたって思ってるの?」

 悪くは、ないだろう。谷垣内に押し負けて、あの場に立たざるを得なかった。佐羅谷が謝るのは反射のようなものだ。

「別に、佐羅谷は巻き込まれただけだろ」

「そーだねー、ほんと、そーだねー」

 この宇代木は、初めて出会ったときの含みを全開にした得体の知れない宇代木天というキャラクターだ。ここしばらく見なかった、底知れぬ怪しさを抱えている。

 居心地が、悪い。

 ススキ提灯は続いている中、少しだけ離れた木陰で、男女三人、重苦しい顔で突っ立っている。

 どうしたらいい。

 謝るのも違う。

 何が問題なのかが俺にはわからない。

 だから、どうしようもない。

 宇代木は、俺よりも佐羅谷に腹を立てているように見える。佐羅谷は、その原因に気づいているように見える。だが、俺には二人の確執の原因が見えない。

 そして、おそらく、その原因を尋ねることは意味がない。

(俺は、何もわからないんだ)

 どのくらい沈黙が続いたろう。

 三人の沈黙は、部長だけが破ることができる。

「帰りましょう。事情は、あとで説明するわ」

 佐羅谷は宇代木を見ていた。

 宇代木は黙ったままだ。二人の表情は陰になり、どんな視線を交わしているのかは見えない。

「うん、帰ろう。今のあたしたちは、ちょっと、だめだね」


 何となく二人の後ろを、少し離れてついていく。二人の微妙な隙間の、三歩後ろをついていく。

 青の浴衣と黄の浴衣。見学の人混みを縫うように進む。ススキ提灯はまだ半ばで、他に人が帰る様子はない。国道前の鳥居を潜ろうというとき、視界の端に見たくないものが見えた。

 谷垣内と那知合がひっつくように並んで笑っているのを。その周りに和田とか殿井とか古野だったか、谷垣内の取り巻きが賑やかしで盛り上げている。そして、女子は上地と三根ともう一人。

 女三人が、俺たちを見ていた。

 その強い視線の意味を、俺はまだ知らない。

 前をいく二人は視線に気づかない。

 離れた歩幅を、小走りに追いかける。

 鳥居をくぐると、ヘッドライトをつけた車がまばらに行き交う国道。ススキ提灯の喧騒が、タイヤのロードノイズとエンジンの音に紛れる。

 俺たちは、日常に帰ってきた。

 駅までも、電車の中でも、何も会話もなかった。静かに、ただ一緒にいるだけの三人。駅で降りるとき、かすれるような声で、ほっとする気持ちを隠して、別れの挨拶をした。

 こんなに苦い祭りは、初めてだった。


 思い返して自分で一番驚いたこと。

 谷垣内と那知合に、何も感じなかったこと。

 二人が一緒になった様子を見ても、ほとんど心が動くことはなかった。



終章


 実質自習のようなテスト明けの終業式までの数日。

 まったく頭は勉強に割く余力はない。

 放課後、いつもの部屋に行く。

 重い足取り。

 どうせ、急いだところであの二人に先んじることはできないんだ。

 相談を受け付けない態勢にして、俺たちは頭を突き合わせた。佐羅谷の淹れたコーヒーが久しぶりな気がして、立ち上る湯気がほんの少し懐かしかった。

 宇代木が机に置いたハンディファンの唸る音が、静かに響く。

「さて、何から話しましょうか」

 ビーカーのコーヒーにフレッシュを混ぜながら、佐羅谷は陰鬱そうだ。

「谷垣内くんの意図を」

 短く宇代木は問うた。

 そうだ、なぜ谷垣内は佐羅谷を誘ったのか。必要なのは那知合ただ一人と言って過言ではない。見届け人が必要だとしても、第三者は佐羅谷である理由がない。

 佐羅谷は俺も同じことが疑問だと見てとったようで、軽くうなずいた。

「少しややこしい話になるわよ」

 居住まいを正して、佐羅谷は口を開いた。


 佐羅谷の要約を会話劇にすると、たぶんこんな感じだったのではないだろうか。谷垣内が佐羅谷を呼び出しての、東室のびっくりドンキーでのやりとりだ。


「まずは、謝る。すまなかった」

「謝るなら、恋愛研究会の全員に謝ってほしいのだけど?」

「謝る件を勘違いしているな。先日の相談の場での行動を謝る気はない。俺が謝るのは、中学時代の話だ」

「なおさらよ。わたしは、十津川出身よ? あなたと会ったのは、高校二年になってからだもの」

「おう。だから、俺が謝るのは、自己満足だ。ああ、勘違いするな、赦されたいんじゃない。謝るなんて、相手の許しを強制的に引き出す自分勝手な行為だ。卑怯だ。だから、俺はあいつに謝らない。代わりに、おまえに謝る。それが、俺なりのけじめだ」

「全然、意味がわからないわ」

「……中学時代、俺は付き合っている女子がいた。ちょうど、おまえと同じような雰囲気だ。小柄で、黒髪で、陰気で、本が好きで、ほとんどしゃべらず、だが、見た目だけは抜群にかわいかった。まったく俺の好みじゃなかったがな。俺は、明るくて元気で派手で強い女が好きだ。

 言ったら何だが、俺は中学の時、一番の人気者だった。周りの囃し立てとかお膳立てとかいろいろあってな、本来なら教室の隅で小説でも読んでいるだけのその女子となし崩し的に付き合うことになった。

 まあ、男子も女子もあれだけ道を作って逃げられないように囲われたら、あいつも嫌だとは言えなかっただろうよ。

 ただ、学年で一番かわいいってだけで、学年で一番人気者の俺とくっつけられたんだ。あちらにとっては、迷惑な話だっただろうな」

「状況が、目に浮かぶようだわ。その子、ほんとうにお気の毒ね」

「まあ、俺としても、彼女の一人も作れないと思われるのが嫌で、周囲のなすがままに任せていたのが悪かったんだ。

 あいつも、俺のことなんて好きでも何でもなかったと思う。だが、俺たちが男だけでつるんでいる時も、面白くもないだろうに、ちゃんとついてきたり、一緒にいたりした。つまらなかっただろうよ、一人で本でも読んでいたかっただろうよ。

 俺は、何一つ、あいつに気を遣ったことなんてなかったのに、精いっぱい彼女として、彼女っぽいことをしてくれたよ」

「……」

「そして、卒業式の時、俺は別れるつもりで最後に呼び出した。傲慢な話だよな、俺は、あいつを解放してやろうと思ってたんだ、その瞬間まで。

 あいつ、なんて言ったと思う?

 今までありがとう、さようなら、だってよ。

 俺に発言する時間なんてなかったよ。びっくりするようないい笑顔だった。俺は、人生で初めて、フラれた。その時が、俺の初恋の始まりで、俺の初恋の終わりだ。

 なんつーか、うまく言えねえ。

 すべて何もかもわかった上で、あいつは俺に合わせていてくれたんだな。女子は、すげえよ。俺のしょぼいプライドなんか、全部見抜いて、でもそれを壊すことなく、守って、合わせていてくれたんだ。

 一年間も、あいつは俺を守っていてくれた。俺はあいつの一年間を、無駄に奪ってしまった」

「情けない男。同じ中学でしょう? 直接会って、謝るのは簡単なのに」

「さっきも言ったが、謝るのは自己満足だ。あいつはきっと謝ってほしいと思っていないし、俺は赦されたくもない。この想いはずっと心に抱えたまま、そう、このままだ。

 だから、俺がおまえに謝るのは、自分に対するけじめだ。ここにこんな情けない男がいて、その過去を知った者がそすぐそばにいる」

「わたしが、言いふらすとは考えないの?」

「佐羅谷に友達がいるとしたら、あの二人だけだろ? あの二人になら、言いふらしてもらってもいいぜ。もともとそのつもりだ」

「なら、どうして恋愛研究会で言わないの?」

「言っただろ? あいつとおまえはなんとなく似てる気がする。もしかして、万が一、俺の勘違いかもしれないが、おまえにも同じような状況があったとしたら、おまえと付き合っていた男は、俺と同じようなことを考えているかもしれない。

 だから、俺が謝る相手は、直接に伝えるのは、佐羅谷一人でいいと思った」

「そう、だいたい、わかったわ」

「言いたかったのは、まずはそれだけだ」

「恋愛研究会の佐羅谷あまねの意見になるけれど、あまり、女の子を舐めないことね。きっと、あなたがつきあっていたその女子は、あなたのことなんて忘れて、幸せに恋愛しているわ。女は、男みたいに女々しくないの。昔の男なんて、ゴミ箱も通さず記憶から消えるわ。仮にわたしが同じ状況であったとしても、ね」

「くくく、そりゃあいい! 女は、強いな。だが、俺は、女の強さにあぐらをかくのは嫌だったんでな」


 佐羅谷の話を復元すると、そんな会話が繰り広げられたらしい。

 信じがたい。谷垣内がそんな話をしたことが。あの谷垣内が。それだけ、佐羅谷が谷垣内の付き合っていた女子に似ていたということだろうか。

 谷垣内は初恋と言ったらしい。そりゃそうだ。あんなことを言われて、落ちない男はいない。

 ところが、ここに男心のわからないゆるふわ女子が一人。

「全然、わかんないんだけどー」

 足をぶらぶらを振りながら、宇代木は不満もあらわに唇を突き出す。ラメ入りのグロスが夏って感じだ。確実な校則違反。

「何がわからないのかしら?」

「全部だよー。でも、もういいや。あまねも、これ以上話す気はなさそうだし。とりあえず、谷垣内くんの一件は、解決したってことでいいんだよねー?」

「ええ、谷垣内くんの相談は、過去の恋愛の清算と、那知合さんに告白する場を作ること、だったから」

「真実はいつも一つで、謎はまったく解けていないけどー、くーやん、どう?」

 突然、宇代木に話を振られる。

 正直言って、よくわかっていない。

 谷垣内の恋愛相談が正規に恋愛相談だったとは思えなかったし、それを当たり前に佐羅谷が解決したとも、宇代木がなぜか納得していないことも、よくわからない。

 二人の真剣な視線に、なにがしかを発言しなければとせっつかれた気になる。

「で、佐羅谷は、谷垣内と一緒にいて、どうだったんだ? やっぱり、大キライか?」

 馬鹿な質問だ。

 聞く気もない中身もないくだらない。

 目をぱちくりさせて、佐羅谷は、口元に手を当てた。

「そうね、今は、心の底からどこまでもまったく興味がない、というところかしら」

 そして、悪戯っぽく笑う。

 騙されてもいいと思えるような魅惑的な笑顔だった。

 

 どくんと俺は自分の心臓が生き返る気がした。鼓動が聞こえた気がした。

 佐羅谷の答えは、俺が欲しかった答えだった。

 安堵。

 俺の首は皮ひとつ、つながっていられた。



「今年はいちおう祭りも行けたし、終わってみたら、楽しい一学期だったな」

 佐羅谷が表の札をひっくり返してきて恋愛研究会の準備をし始めたので、俺は誰にともなく言った。

「あんなお祭り、消化不良だよ。ぜーんぜん楽しんでないやい」

「天はいつものお盆のあれに行くんでしょ? 東京のなんちゃら」

「あれはお祭りの種類が違うよー。あまねも、八月四日は十津川に戻るの?」

「橋の日は、谷瀬の吊り橋で太鼓を叩くお祭りがあるから。わたしはやらないのだけどね」

 二人で楽しげに話し始める。

 なんだなんだ、予定が埋まっていて楽しそうじゃないか。まあ、俺は俺で、バイトのシフトを増やして、せいぜい使える小遣いを増やしておくさ。

 別に、疎外感なんて感じていない。と断言するには、わずかに心が痛む。夏休みの頭は部活もあるというが、八月に入ると休止だろう(佐羅谷が十津川に帰るならなおさらだ)。

 ああ、そうか。

 一ヶ月近く、この二人と会えなくなるのか。それは、少し。少し、なんだ? この感情は、なんだ? この感情を言い表すことばは、どこにある?

 谷垣内に佐羅谷がつれさらわれそうになったときと、わずかに近い感覚。

 これは、なんだ。

 女子二人の会話を聞くとはなしに耳にしながら自分のことばを探っていると、どんどん話は転がっていく。考えて答えるいとまを与えずに、話題が二転三転するのは女子の秘術だ。悶々と悩む俺を放置して、少女二人はコロコロと玉の鈴を転がすように話し続ける。

 

 そして、扉が開いた。

 この試験期間終了後の一学期も終わろうかというときに、恋愛研究会の扉を敲く者。

「お邪魔しまーす」

 中学の時の見慣れた顔だった。

 ここ最近は、ゲーセンでだけ顔を合わせる男。俺の昔の親友。

 高森颯太。

 ゲーセンCUEで見るより、緊張しているように見えた。空に跳ねた短い髪の毛を必要もないのに手櫛で整える。

 今こちらは三人で雑談していたこともあり、黒の緞帳もまくってある。弛緩した雰囲気だが、初めてこの部屋に入る高森にはわかるまい。

 俺は相好を崩す。

「よう、高森。相談する気になったか?」

「ああ、九頭川、切羽詰ってる」

 高森は俺たちを順繰りに見ていく。

 大きく深呼吸を一つ。

「一緒に、祭りについて来てほしいんだ」

 初めて見る元親友の真剣な眼差しに、俺は居住まいを正した。

 ここは、恋愛研究会。ただの零細同好会だが、大切な部活だ。軽い気持ちでやっているわけではない。

「それじゃあ、恋愛相談を始めましょう」

 いつものように佐羅谷は言った。

 やっぱり、この部活動は面白いな。

 高森の話を聞きながら、そう思った。



(了)

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