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1巻後半『宇代木天はままならない』

登場人物名前読み方


 九頭川輔  (くずがわ・たすく)

 佐羅谷あまね(さらたに・あまね)

 宇代木天  (うしろぎ・てん)

 犬養晴香  (いぬかい・はるか)

 那知合花奏 (なちあい・かなで)

 谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)

 沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)

 神山功   (こうやま・たくみ)

 田戸真静  (たど・ましず)


 山崎    (やまざき)

 高森颯太  (たかもり・そうた)

 田ノ瀬   (たのせ)


 山田仁和丸 (やまだ・にわまる)

二章 宇代木天はままならない


「ちゃお~、新入部員くん!」

「ちゃ、ちゃおーぉ??」

 扉の向こうには、いかにも軽いイマドキな女子高生が、もろ手を挙げて待ち構えていた。ふんわり波打つ茶色い髪に、暖色系メイク、緩く着崩したブレザー制服のラッピングは、佐羅谷とは同じものに見えないくらい洒落た、まるでデザイナーズブランドの制服のようだ。意地が詰まっているのかというくらい限界まで短くしたスカートと、ナニが詰まっているのがわかる胸元が鮮烈な印象だった。

 唐突な外国語のあいさつ、もしくはマンガ雑誌のタイトルに脳内処理が追いつかない俺の顔を真正面から見据え、満面の笑みを浮かべる少女。何度かのまばたきで見えた瞳は、明らかに校則違反の黄色いカラコン。

「ささ、どうぞどうぞ、自己紹介しよー!」

 俺の下げる鞄を引っ張り、腕を抱きかかえるように理科実験室へ連れ込まれる。近い、当たってる! 柔らかい、何とは言わないが! なんだ、何なんだ、こいつは? 佐羅谷か? まさかな? ここまで演じ分けられるなら、千年に一度の女優にだってなれる。

 あっけにとられたまま椅子に座ると、目の前に佐羅谷がいた。

 そして、俺を引っ張りこんだもう一人が佐羅谷の隣に。

「初めまして! 天だよー」

「テンダヨー?」

 すまし顔の佐羅谷に、困り顔の俺。

 にへにへと機嫌良さそうに上半身をふらふら揺らす女。

 これが、出会いだった。

 宇代木天は、最初からぶっ飛んでいた。


 こうして恋愛研究会の全員が顔をそろえた。

 五月連休明け。

 俺たちの高校二年生は、まだ始まったばかりだ。



「というわけで、紹介するわ」

 こほん、と佐羅谷は咳払いをした。

 場を進めるために、喉に問題なくても咳払いをする人間なんて、俺初めて見たよ。別に、騒がしくしていたわけでもないのにね! ちょっと動揺していたけど。

「こちらは新入部員のクズ川輔くん」

「はい待った~! 今のアクセントに異議あり! それ小学校時代嫌というほど聞いたアクセントです! 悪意あります! 絶対漢字の変換が間違っていると思います!」

 まあ、仕方ないよね、小学生なんて、ことばの音が少し似ているだけでひたすらいじったりネタにしたり、同じことを繰り返して遊ぶ生き物だから。名字だけで、名前だけで、ひたすら一時間も笑えるのは小学生までだよね(遠い目)。

 さすがに中学校に入ってから、本人の責めに依らない特性を理由にいじるのは、まずはなくなるけどな。名前うんぬんよりも、行動や外見に基づくいじめや無視が出てくるが、それはまた別の話。いじめの対象になった人間は、名前もいじめの対象になりうるが、その逆はあまりない。

「他人の漢字変換まで口出ししないでくれる? 気持ち悪い上にいやらしいわ。わたしの変換能力はグーグル先生を上回るんだから。アレクサに聞いてごらんなさい」

「比喩に一貫性を持てよ。俺はな、日本語の漢字変換はATOK以外は信用しないことにしているんだ」

「微妙に古いわね。平安時代?」

「平成だよちくしょう」

「擁護しておくけど、ATOKは現役だからね?」

「マジか……」

 ジャストシステムは西日本の会社として頑張ってほしいです。ビバ、徳島の星、徳島の数少ない上場企業。四国に行ったことないけど。

「彼の入部理由は要領を得ないけど、とりあえず、モテたいらしいわ。顧問の犬養先生も許可しているから、一応受け入れてあげてね。名は体を表すというけれど、ほんとうにクズなスケコマシなので、注意してね」

「最後おかしい。名前でここまでコケにされたのは初めてだ!」

「スケコマシだけに」

「うまくねえよ」

 本気で怒るものでもない。反論に疲れて、冷静に考える。どっから出てきた、スケコマシ? スケ……ああ、輔の字はスケと読むから、そういうことか。輔の字って駄目駄目だな。スケベのスケでスケコマシのスケだ。全国の輔がつくみなさま、ごめんなさい。俺は悪くない。

 だが、スケコマシって古いことばだな。今なら何て言うんだろうな。すっとぼけたふりをして、佐羅谷に聞いてみるのも手だな。どんな反応が来るのか、楽しみだ。

「ん〜?」

 面を上げると、佐羅谷の隣の女が口元に指を当てて、上を見ていた。

 なんだ、かわいいな、その仕草。

「ねえ、あまね。スケコマシって何ー?」

「ん」

 佐羅谷の喉が詰まった。よし、ここで咳払いだ。こういう時こそ咳払いだ。

「俺も聞きたい。馬鹿だから、難しいことばはわからない」

「『屑』川くん」

 アクセント間違いを直そうともせず睨んでくる佐羅谷の視線は、攻撃力最大だ。俺の眉間がじりじり焦げる。

「天は知らなくてよいことよ」

「そうなのかー?」

 注意しろって言われて、知らなくていいって、矛盾してますよね。自粛しろって言って、強制ではないよって圧力をかける政府と同じ責任逃れの臭いがぷんぷん漂うよね。ひどい国もあったもんだ。JAPANはそんな国ではないよ、きっと、たぶん、絶対。

「それで、こちらは宇代木天さん。学年は二年生。一年時の途中から恋愛研究会に所属したわ。他の部との掛け持ちが多いから、たまにしか来られないけれど」

「天だよー、よろしく、くずやん」

「待って」

 速攻であだ名をつける気安さはこのさい置いておこう、問題はそのあだ名が、どう考えても俺を貶めている関西弁にしか聞こえないことだ。いやここ奈良県ですし? 普通に使いますやん、その言い方。そういえば、ヒキニートの仁和丸おじさん(40)に聞いたのだか、指揮者のカラヤンのアクセントが、関西と東京では違うらしい。カラヤンをカラヤン以外どう発音するのか、東京は未知で不思議な世界だ。

「くずやんはやめて。ほんとマジで」

「いいじゃない、くずやんくん」

「あなたはちょっと黙ってくれないかしら」

「あ、くずやん声真似うまいねー」

「ほんとやめて、」

「あなたも人の声真似やめてくれるかしら」

「あとで相手するからちょっと待って、佐羅谷」

「そんなに嫌なの? じゃあ、くーやん?」

 小首をかしげ、宇代木は唇を尖らせる。

 こいつは天然なのか、演技なのか。さすがに初めて見る女子の仕草で見抜けるほど、俺の目は優れてはいない。だが、一つ分かることは、宇代木は佐羅谷の友達をしているということだ。距離感が違う。佐羅谷の心の壁が、だいぶん低く見える。ということは、とりもなおさず、宇代木もただものではない可能性があるということだ。佐羅谷の友達を、素朴な人間ができるとは思えない。少しばかり、観察が必要かもしれない。

「まあ、くーやんなら、まだいい。普通に九頭川くんなら、なおいい」

「えー、そんなの面白くないじゃん。かわいくないー」

「そうか、かわいくないかー」

 男子のあだ名にまでかわいさを優先するんだー。女子の女子力スゲー。

 それにしても、一か月近く俺も恋愛研究会へ来ていたのに、折あしく佐羅谷だけの時に行っていたのか。いや、別に宇代木に会いたかったというわけではないが、この派手な出で立ちで、校内でもすれ違わなかったのが不思議だった。佐羅谷とは別の意味で、間違いなく目を惹く。隙が多すぎるのだ。仕草も着こなしも表情も。このなりをしながらも、遊んでいるようなやさぐれたビッチ臭は皆無で、とにかく、こちらの警戒を解いてしまうような気安さがある。

 この感じ、そう、サブカル系少女だ。見た目がゆるくギャルっぽいだけの。きっと将来、大学ではサークルクラッシャー系女子として名を馳せ、卒業するころには被害者同盟グループがラインでできていたりするに違いない。

 実は今でも、俺は目のやり場に困っている。

 浅く椅子に腰かけて、投げ出しただらんとした下肢。短いスカートから覗く太ももと膝が、どうしようもなく視線を誘導する。これは、凶器だ。

 俺は邪念を振り払い、佐羅谷と宇代木のスキマの空間を見る。理科実験室の備品が並ぶ。ビーカー、試験管、フラスコ、メスシリンダー。ああ、落ち着く。ユーグレナ? ウォーターウィード? ふっ。ていうスタンス。

「で、宇代木は、なんだ」

「天ちゃん」

「は?」

「天ちゃんって呼んでー」

「それは」

「天ちゃんー」

 上目遣いの破壊力は受けたことのある男にしかわからないと思う。王道は強い。

 というか、目のパッチリ大きな、暖色系のふわっとした女の子に見つめられて、動揺しない男がいるだろうか、いや、ない(反語)。佐羅谷とはまた正反対の美少女がここにいた。なんなの、恋愛研究会。顔面偏差値で入部の足切りでもあるの? ああ、俺が入れたから、偏差値の平均は下がったはず。でも少し、犬養先生のことばの意味が分かった気がする。この空間に、男が一人留まるのは、根性が要る。ただ中にいるだけで精神力を消耗する感じだ。

「九頭川くん、呼んであげないの?」

「なんでドスが聞いた声なんだよ」

「女の子が名前で呼んでと言ってくれる機会なんて、めったにないのよ? 甘んじて受け入れなさい」

「女の子の名前くらい、何度も名前で呼んでるぜ」

「二次元とアイドルは除く」

「おまえ反応良すぎだ」

「あなたのボケが単純すぎるのよ」

「むー、二人で会話しないー!」

 両手をぶんぶんと振る。小学生かっ。

 宇代木がじっとうるんだ黄色い瞳を向ける。

「天ちゃん」

「て……」

 俺は、顔をそらしてふっと息をつく。

「MPが足りない」

「あたしの名前は爆裂魔法かー!」

「そういうネタはわかるんだな」

「ごまかすなー!」

「天さん、でよければ」

「それはやめて」

 真顔で三段低い声で拒否する宇代木。

「マジでやめて。ありえない」

「お、おう」

「あたしは三つ目でもないし分身もしないから」

「そっちの人かー」

「一般教養でしょー」

「だな」

 顔の高さに出してきた拳に、俺もつられて軽く拳を当てる。女子と拳を交わすことはある意味、最高にレアな経験ではないか。下手をすると、口づけしたり、抱き合ったりするよりも希少な経験かも……いや、やめておこう。俺の仁和丸おじさん(40)が発狂しそうな確率論だ。どちらの可能性もゼロのおじさんにとっては。誰もがゼロから始まるのに、永遠にゼロの人もいるのだ。ああ、少し涙が。

「勝手に一般教養をねじ曲げないでくれる? あなたたちが何の話をしているのか、見当がつかないのだけど」

「佐羅谷、多数決って知ってるか。今この中で少数派はどちらか」

「少数派を切り捨てるのは多数決じゃないわよ、日本の政治じゃあるまいし。知らなくて悔しいわけではないけれど、あなたのしたり顔にはイラッとくるわね」

「いーんだよー、あまねは分野が違うんだから。ああ、でも二人ともよくしゃべるよねー。くーやんはあまねもいける口?」

 その表現おかしくない?

 俺、別に節操なしのナンパ野郎じゃないからね。一年の時は那知合花奏に一途だったし。

 ただ、佐羅谷とは話ができる。それは確かだ。なんと言うか、ことばが通じているという感触がある。お互いの発言の元になる知識や経験に、共通の理解がある感じ。だから、何も考えずに普通に思っていることを思っているように口にしても通じるし、ずらしたり外したりすると、予想通りのツッコミが来る。これが小気味良い。食い気味にボケをつぶしに来るのも、気持ちがいい。

「まあ、佐羅谷は、話していて面白いよな」

「だってさー、あまね、よかったねぇ」

「わたしに振らないでちょうだい」

「あまねが男子と長々会話するの、珍しいじゃんー。大体いつも男子が黙り込んで、静かになるしさー」

 ニコニコと宇代木は楽しそうだ。

 喧嘩になりそうな、ともすればかなりひどいことを言っているように見えるが、この二人には普通のことなのだろうか。女子の会話はわからない。

 こうしてみると、あまり女子っぽさを感じられなかった佐羅谷も、それなりに女子女子している。この状況を指すのに、「女々しい」と言うのはどうだろう。意味が違いましたね、ごめんなさい。しかし、女に対して女々しいという表現を使えるのだろうか? 

「わたしはもうじゅうぶん九頭川くんとお話ししたから、しばらくは遠慮するわ。天、あなたが恋愛研究会のことも含めて、教えてあげて」

「だってさ、くーやん!」

 佐羅谷はいつものビーカーコーヒーを作るために、席を立った。

 宇代木は椅子をずらして、俺の横まで来た。かっくかっくと椅子を傷めそうに揺らしながら、に~っと笑顔を浮かべている。

「じゃあ、ちょっと、お話ししよ?」


 いろいろと、恋愛相談部、ではなく、恋愛研究会の基本的なところを教えてもらった。活動は放課後のみ、相談がない時は各自、相談のシミュレーションやディスカッションをする。全然知らなかったことに、理科実験室の棚の一角には恋愛や心理学関連書籍が並んでいて、自由に読んでいいとのこと。むしろ、読むことを推奨。

 恋愛相談時は、茶化さない、バカにしない、投げ出さない。そして、秘密は厳守。ここで知り得たことは、誰にも話さない。場合によっては、学内で相談者にすれ違っても他人のふりをする。恋愛研究会の部員は、ある意味で「機能」だ。人格のある一個人ではない。

 さらに、最低三回は相談時に応対せず、見学することを厳命された。ようは、よく見て聞いてどんなことをしているか、実地で学べということだろう。

「だいたい、そんな感じだよー」

 宇代木は指折り数えて、ふうっと息をつく。

 違和感はずっとあった。

 こんなマンガみたいな少女は、現実にはいない。マンガみたいなって表現、昭和の人はよく使うよね。アニメのことをマンガって言う世代の表現だ。あの世代の人にとって、マンガとアニメは区別できないのだろうか。そのわりにドラえもんとかサザエさんが好きだよね。

 宇代木天は、まさに典型的な類型的に作られたキャラクターだった。常にハイテンションで、笑顔が素敵で、仕草や動きに計算ずくのかわいらしさがあって、あからさまに隙がある。他者との距離の近さや、接触の多さ。まさに、演技だ。間違いない。

 こんな、男子にとって都合のよい女の子は、いない。

 だから、違和感だ。

 宇代木は、誰を騙したい? 何のために道化を演じる?

 高二男子の行動理由が「モテたい」で、当然に女子へのアピールであるのと同様、女子の演技理由の「ちやほやされたい」は男子に向けての搦め手だ。恥ずかしくもないのに恥ずかしがったり、知っているのに知らないふりをしたり、怖くないのに怖いふりをする。

 だいたい、月に一回血を見る生き物が、ちょっと血を見て気を失うわけがない。女子は、作り上げるものだ。血を見て気を失うような繊細な女子になりたいから、血を見て気を失うようになるのだ。人は女に生まれるのではない、女になるのだ。ゲロ吐き哲学者の契約嫁はかく語りき。

 と、俺の思考は宙を漂っていた。

 高尚なことを考えていないと、気が動転してしまう。

「んー、くーやん、動かないで」

 俺の眼前に、ブレザー越しでもわかる豊満なωが揺らいでいる。断じて、πではない。無心。

 そして、甘いにおいがする。

 もう、本当に何なの、どうして女の子はにおいをつけるの。せめて志向性をつけて、誘う気のない相手にまで届けないで、その匂い。勘違いするじゃない。耐えるために、ぐっと目を閉じる。もう何も見たくない。

 ――俺は、髪の毛をいじられていた。

「ほんと勘弁してくれよ」

 宇代木の気まぐれだった。たぶん。

「どっかで見たことあるんだよねー」

 そうつぶやくと、しかまろ君のイラストの巾着袋を取り出す。中からメイク道具一式に交ざって、男性向けの頭髪用ワックスが出てきた。なんで男性向けのワックスが出てくるんですかね。気が利く女子ですかね。

「ちょっと髪の毛触るねー」

 有無を言わさず、俺の前に立ち、そして、今に至る。

 女の子に、いや、女性に頭を触られるなんて、散髪屋や美容院以外で今まであっただろうか。散髪の時に女性店員に触られても何も感じないのに、何だろう、この感覚。

 何の他意もない接触なのに、指が地肌に触れるたびにゾクゾクする。恋かしら、変かしら。

 こういう接触を無意識にやっているとしたら、罪作りな女だ。これで勘違いするなというほうが、無理だ。よほど女の子慣れしたイケメン氏や遊び慣れた俺の親父のような男ならまだしも、女子と話した回数を両手の指で数え切れるような男子諸君は、この甘美なる無造作を恋のきっかけとしてしまっても仕方がない。ああ、男ってホント、バカ。

 宇代木はすべてが演技っぽいが、この接触自体は無意識という気がする。

 男と女は接触に対する感性がずれているのだ。

 女は、気のない男にむやみに触れてはいけない。いつか、刺されるぞ。

「できたー。うん、ちょっとカッコよくなったね」

 宇代木はやっと距離を取り、しかまろ君巾着からコンパクトミラーを出す。鏡に映った俺の顔は、心持ち紅潮し、髪型は昨年までをほうふつとさせる軽めのアップバング。ああ、そういえばこんな感じだったな。デコを出すのは久しぶりだ。

「ねえねえ、あまね、どう?」

 後ろで我関せず、コーヒーを横に読書していた佐羅谷は、チラリと視線を寄こす。眉一つ動かさない。

「地味な根暗くんが、高校デビューでチャラくなった感じね」

「即座にナイフ千本分の『口撃』ができる佐羅谷さんマジかっけー」

 そしてそれは俺の一年の時の真実じゃないですか、やだー。

 つくずく、親父の若い時の姿と似ていると思う。ちょっときつめの、人によっては険が強いと感じるような、喧嘩っ早そうな顔が、このやんちゃな髪型だと強調される。髪色を変えると、ほぼヤンキーだ。そういう系のお店のキャッチとか呼び込みとか、似合いそうな自分が嫌になる。俺はこんなに地味で臆病で心優しいというのに、髪形一つで印象はがらりと変わる。

 まあ、親父は中身もけっこうやんちゃなので、俺とは違うのだが。俺は中身が母親似でよかったと思う。

「あー、思い出したー」

 宇代木がぽんと手を打った。

「谷垣内くんと一緒にいた男子だ! 何回か一緒に遊んだじゃんー! なんで言ってくれないの」

「あー、すまん。一年の時の記憶はない」

「え、記憶喪失なの? 少女漫画以外で初めて聞いたよ。大丈夫?」

「真剣に心配されると地味に申し訳ないな」

「からかって遊ぶなー!」

「だが、覚えていないのは本当だ。一年の時は谷垣内について行っていただけで、自分から行動してなかったしな」

「え、けっこう目立ってたよ? 何人か、気になるって言ってる女子もいたよー?」

「マジか……」

 社交辞令には、社交辞令で驚いておく。

 どうせあれだ、俺と近づいたら谷垣内とつながりが持てるとか、間接的に触手を伸ばしているだけの話だろう。

「まー、あたしもじかに話をしたことはないかな? オプトボウルで会ったのは確実だよー、うん」

「ボーリングか、そういや行ってたなぁ」

「今度行こうよー」

「気が向いたらな」

 なんて押しが強い娘なんでしょう、まったく。

 こうやって、どんどん積極的に引っ張ってくれる女子は、引っ込み思案系男子にはお似合いだ。自分から誘って拒絶される恐怖や羞恥を、すべて取り払ってくれるのだから。だが、注意すべきは、この気安い誘いに、他意がないということだ。遊びに行こうと言ったら、純粋に遊びに行くだけであり、人間関係に毫も影響しない。友達の間柄ならば、百万回遊びに行っても、友達のままだ。関係は動かない。

 だからこそ気楽に誘ってくるのだ。誘えるのだ。

 だいたい、相手との関係を詰めたいのならば、自分が拒絶されるリスクを負うべきなのだ。向こうから近づいてきてくれる相手を安易に好きになるべきではない。俺に近づいてくる女の子は、俺以外にも近づいてくる。俺を誘う女は、俺以外も誘う。

 特に、この女の子、宇代木はとてつもなく危険だ。

 近づいて来ない分、佐羅谷のほうが安全だ。

「谷垣内くんたちはどうしたの? あっちのグループなら、モテるのなんて簡単じゃーん」

「……ああいうのは、もうやめたんだ」

 それ以上は言えない。

「本気でモテたいって思ってないもんねー」

 冷めた声だった。

 一瞬、誰の声かわからなかった。

 ぞくりと、背筋が寒くなる。

 焦点の合わない黄色の瞳に射すくめられる。

 この女は、いったい何なんだ。

「ちょっとトイレ」

「いってらー」

 胸の前で手を振る宇代木は、にぱ~っと満面の笑みだ。

 少し、状況を整理しようか。


 あ、ハンカチを忘れた。

 手を振って水を切りながら、トイレを出る。

 考えるのは、宇代木のこと。八方美人というのだろうか。一瞬にして人の懐に入り込み、胸襟を開かせる言行は巧みだ。当たり前に近づき、当たり前に話しかけ、当たり前に仲良くする。

 友達が多いタイプだ。

 部活を掛け持ちしていると佐羅谷が語っていたが、人数合わせや会話相手として、在籍を頼まれやすいだろう。明るくて美人で、気安く親しみやすい。誘えば誰かしら 集まり、遊び相手にも話し相手にも不自由しない。

 ところがだ。

 この手のタイプは、親友が作れない。

 少し付き合えばわかる。宇代木にはたくさんの友達がいて、たくさんの世界があって、自分が宇代木にとっては、「たくさん」の一人でしかないことに。自分が相手にとって「唯一」ではないと知ってしまうと、友達以上と相手を思うことができない。

 友達は、相互に友達と考えていることがほとんどだが、親友は違う。自分の親友が自分を親友と見なしていないことの悲劇は、筆舌に尽くし難い。

 だから、友達が多い人を親友にできる人は、少ない。自身も同じような性格で友達が多いタイプか、――逆に、友達がいないタイプだ。

 そう考えると、見た目も性格も正反対な佐羅谷と宇代木が友達同士なことは、ある程度納得がいく。まるで、補完関係だ。哀しいくらいに、お互いに埋め合わせるしかないような。佐羅谷には宇代木しか友達がおらず、宇代木には佐羅谷だけが絶対に裏切らない友達。

 なるほど。

 二人の安定した関係があるところに、部活とはいえ新たな異物が侵入すると、何が起こるかわからない。いや、何も起こらないことは絶対にない。

 つまり、俺は邪魔なのだ。宇代木にとって。元部長の沼田原先輩もなぜか俺を疎ましく思っているようだった。そんなに、佐羅谷に変化が起きるのが怖いのか。

 佐羅谷は孤独たるを受け入れ、諦めている節がある。それをいいことに、沼田原先輩が部長という役割と居場所を与えたとしたら? さらに、宇代木は存外、佐羅谷に依存しているのかもしれない。お互いに善意と孤独で、知らず知らず束縛しあう関係。

「だいたい、わかった」

 だが、俺は身を退く気はない。

 生きることは他者に影響を与えること。

 どだい、閉じた世界など存在しない。

 あのヒキニートの仁和丸おじさん(40)でさえ、周囲に影響を与えているのだ。主に俺に。

 だから、俺は他人に迷惑をかける。だから、他人は俺に迷惑をかけていい。一人で生きている人間なんていないんだ。

「くーやん」

「おう、気配を消して、後ろから来るなよ。後ろなのは名前だけでじゅうぶんだ」

「ちょっとあまね抜きで話そうかー」

 なぜ、宇代木は背後にいるのだろう。トイレに行ったのだろうか。

 違うな。背後から声をかけるために、待っていたのだ。

 そういう顔だ。

 トイレと理科実験室の間にある空き教室の一つで、宇代木は扉を開けた。

「入って」

 俺が入ると、宇代木は内側から鍵をかけた。

 ガチャンと音がした。

 扉は前後に二つある。片方だけに鍵をかけた。意味はないが、逃さないという抑止効果はある。

「こんなところで、わざわざどうした?」

 俺は廊下から遠いグラウンド側、宇代木に背を向けたまま問う。

 先ほど、宇代木の行動理由はおおむね推測した。あえて問うまでもないが、佐羅谷に聞かれたくないという動機はわかる。俺をいかに恋愛研究会から排除するか、そういうことだろう。

「あまねが許しても、犬養センセが許しても、あたしたちはまだ許してないよ」

「あたしたち?」

 振り返ると、宇代木の隣には沼田原先輩が物音ひとつなく佇んでいた。

「沼田原先輩、生徒会はお暇なんですか?」

「トップなしで回るのが正しい組織のあり方だよ」

「恋愛研究会もトップなしでいいんじゃないですか?」

「恋愛研究会は、吹けば飛ぶような組織だよ。組織の形をした、個人の集まりだ。とても、とても、脆い」

「俺の力量でも計りますかね? えらく入部難度の高い同好会だことで!」

「入部試験、開始」

 沼田原先輩は、指を鳴らした。

 宇代木がしかまろ君の巾着を机に置いた。目薬を取り出し、やけにドバドバと目に注ぐ。あふれて、しずくが頬を伝う。目をこすり、マスカラが少しにじむ。次は口紅を指で掬い、右頬に丸く薄く延ばす。せっかくのメイクが、台無しだ。

「おまえ、何してんだ」

 ブレザーのボタンを外し、肩をはだける。袖には腕を通したまま、中途半端に脱ぐ。

 シャツのボタンを、上から三つ外す。首のリボンをほどき、襟を乱雑に広げる。

「おい、待て、やめろ!」

「戦士が、命乞いをするんじゃないよ」

「戦士じゃねえよ、男子だよ」

 大きく広がった胸元に、視線を持っていかれる。見えていないと言えば見えていないが、見えていると言えば見えている。

 せめてもの抵抗に、俺は教室の天井の隅に意識を集中する。

 だが、こういう時に人間の視野が広がり、感覚は鋭敏になるものだ。扉の前で腕組みして立っている沼田原先輩の呼吸音さえ聞こえそうだ。

 宇代木はブラウスの裾を引っ張り上げて腹を出し、スカートのホックを外し、ジッパーを下す。ずり落ちそうなスカートをつかんだまま、近くの机に座る。

 片足を立て膝にして、腕で抱え込む。

 ただでさえ短いスカート、座って片膝を立てると。

 グラビアの撮影か?

 くらくらする甘い香りに酔い、半ば酩酊する。

 そんな俺に、宇代木はスマホを向けた。シャッター音。

「とりあえず、鼻の下の伸びただらしない顔はもらっとくねー」

「おまえ、待て」

「きゃー、襲われるー」

 棒読みでも、近づけない。

 何この防御力。絶対に勝てる気がしない。

 放置して、ここから出よう。

 当然、沼田原先輩と視線が合う。

 ムリだ。逃げられるわけがない。

「逃げたら、襲われたって叫ぶ」

「私が一番に駆けつけた証人になる」

「詰んでるじゃねえか」

 どう考えても、この状態で叫ばれて、俺が無傷で逃げられるとは思えない。この周辺には佐羅谷しかいないと思うが、絶対に俺の味方をすることはないだろう。俺の言うことは信じない可能性が高い。

 いや、佐羅谷なら、疑いはするが、宇代木と沼田原先輩の言い分を信じるか意図を汲んで、信じたふりをする。そんな気がする。

「諦めたら、質問に答えて」

 宇代木は足を組み替える。

 ほんと、やめてそれ。目のやり場に困る。

 見え……ているとは思うが、心の盲点をソレに合わせて見ないようにする。

「どうして恋愛研究会に?」

「モテたい」

「ウソだよね。モテる男子の口癖って感じー」

「俺はモテないよ」

「球技大会と尖塔での告白。たぶん、すぐにモテるようになるよ、一年の時みたいにね」

「……見てたのかよ」

「見せてるんでしょー」

 だから、と強く宇代木は睨んでくる。

「さっさと、消えなさい」

「直球だな。そんなに佐羅谷が大切か」

「くーやんには関係ないよ」

「俺は、佐羅谷のために入部したんだ」

 しばらく、宇代木は俺を睨みつけていた。

 こちらはウソではない。

 誤解するのが確実な言説だが。

 宇代木は机にそのまま寝そべり、俺を手招きする。

 どうしたって、逃れようがない。諦めて近づくと、俺の右手を取り、服をはだけた左肩をつかませる。宇代木の膝が、俺の股間に当たる。もう勘弁してください。

「約束しなさい。絶対にあまねを傷つけないと」

「傷つけない。勝手に傷つくのは知らない」

「……さいてーだ」

 またスマホのシャッター音。俺の目が胸元とかもっと下のみぞおちのあたりとかに意識を奪われているうちに、沼田原先輩はカメラを準備していた。ああ、これは俺が宇代木を抑えつけているように見える絵だ。

 写真を確認すると気が済んだのか、沼田原先輩は宇代木に俺を放すように促した。即座に二人の間で写真がシェアされたようだ。ホント、現代っ子の情報共有速度は神ってるわ。この調子で人類すべて脳内が共有できたら、戦争もなくなるのにね。

「何かあったら、ツイッターでもインスタでもラインでも、この写真をばらまくから。あたし、友達多いんだー」

「今すぐばらまけば俺はここにはいられないのに?」

「佐羅谷が納得しないだろうからね。今は、君の手綱を握っておくだけで十分だ」

「あたしのキャラでもダメージがあるからねー。使う時は、もろともだよ。その時には、あたしの指先は容赦しないわ」

 不敵に歌う宇代木は、俺を突き放し、机の上で両足の膝を抱えて座り直す。

「ねえ、くーやん。連絡先教えてよー。メールでもラインでもツイッターでも、メルカリIDでもペイペイアカウントでもクレカの番号とセキュリティコードでもいいから」

「最後のほう、おかしいから。だいたい高校生がクレジットカードなんて作れねえよ」

「ちえ、ケチ」

「ケチつけられてもね」

 高校生にキャッシュレスは難しい。

「しかも、クレジットカード番号で連絡はつけられないだろ」

「え、使った金額の通知は行くじゃん」

「どこのパパ活女だよ」

 たかるなら、せめて俺の親父にしてくれ。優しくエスコートしてくれるから。

 生活のためではなく春をひさぐ類は、男でも女でも、中途半端にしか外見を売り物にできない人間の成れの果てだ。本当に売り物になる人間は表のメディアでも活躍する。佐羅谷の分類でいくと、恋愛強者は三割、そのうち真の強者は一割。あぶれる二割が、それでも太陽を求めもがいている。なまじ見た目が良いと、諦めがつかずに一縷の望みをかけてしまうのだろうか。哀れにも程がある。

 脈絡なく、佐羅谷の姿が浮かんだ。彼女が、そういう状態になるのは嫌だと思った。嫌だと、思った。

 宇代木や沼田原先輩については、まだよくわからない。

 とりあえず、拒む理由もないのでメールとラインだけ教えておく。ツイッターやフェイスブックはやってないしな。そういえば、一年の時の谷垣内グループからも、今も時々通知は来るな。既読さえつけずにスルーすることが多いのに、まだ残っているのが不思議だ。

 当たり前のように、二人とも俺の連絡先を取得する。あれ? 沼田原先輩に教えたつもりはないのになー? 友達が二人も増えちゃったよ。

「もう俺の弱みも握ったし、満足か? 怪しまれるし、俺はもう部室に戻らせてもらうぜ。沼田原先輩、もういいでしょう?」

「ああ。せいぜい、喉元のナイフを忘れずに暮らすことだ。天、帰ろうか」

「そうね。あたしも先に帰るー。あまねに言っておいて」

「そのまま帰る気か?」

「こんな事後みたいな格好で帰ったら、すぐにくーやんが捕まるよー」

「俺にやられたと言いふらすのは確実なんだな」

「心配しなくても、身だしなみもメイクも直して帰るよ。じゃあねー」

 そんな事後みたいな格好で、宇代木はしかまろくん巾着をぶら下げ、教室を出た。沼田原先輩が先導して行った。お手洗いまではあの格好で歩く気なのか。確かに、放課後、人もいないし部活でも使わないような一角だが、誰かに見られたらどうする気なのだろう。

 しかも、理科実験室に鞄も置きっぱなしではないか。

 そういうキャラ、なのか。

 キャラクターというのも、軽いことばだが、演技も、仮面も、ペルソナも、表現が違うだけでみな同じだ。人生は舞台、現れ、演じ、消えていく。だとすると、佐羅谷の演技も、宇代木のキャラも、俺の仮面も、みな同じものだ。偽りの自分だと思っているのは自分だけで、はた目には本物だ。

 考えるほどに、わからなくなる。

 スパゲッティのようにこんがらがった思考を投げ捨て、俺は連れ込まれた教室を後にした。

 空き教室は、また空き教室に戻った。


「遅かったわね。辞めたのかと思ったわ」

「辞めるときは、最低でも代行業者を使うさ。バックれはしない」

「自分のことばで辞退しなさいよ」

「冗談に決まってるだろ。マジレスすんなよ」

 俺が理科実験室に戻ると、佐羅谷は本から面を上げる。つまらなくしているように見えた。せっかく三人揃った部活で、独りにされたからだろうか。

「天とすれ違わなかった?」

「帰るってさ。あいつ、いっつもあんな感じなのか?」

「天の何を指して、いつもあんな感じ、なのかわからないけれど、おそらく、いつもあんな感じ、よ」

「得体のしれない女だ。かなり、病んでる」

「犬養先生とわたしが入部を許可しても、だいたい天と話すと辞める人が多いわ」

 やはり、普通には入部できないわけだ。

 俺くらい鈍感でないと、先ほどの洗礼は厳しいだろう。知っていて、佐羅谷は宇代木の行動を放置しているわけか。だとしたら幇助だ。あるいは、この洗礼に打ち克てるくらいでないと、恋愛研究会を続けられないのか。

「九頭川くん、ほっぺた」

「え?」

「なぜそんなところに、口紅がついているのかしら?」

「ウソだろ?」

 宇代木に頬を触られた記憶はない。いや、わからない。衣服が乱れて中身が見えかけていた状態で、なるべく視線を合わさないようにしていたから、何かの拍子に頬を触られていたかもしれない。

 そうだ、最後に腕を引っ張られたのは確実だった。顔に何か細工をされていたとて、気づかない。

「見てごらんなさい」

 佐羅谷の手鏡を覗き込むと、確かに頬に口紅の赤が載っている。えらく大変な置き土産だ。

 だから、宇代木は先に帰ったのか。

「どうしてくれようかしら、このスケコマシ」

「待て、誤解だ」

「そうね、ゴカイのように釣り針に突き刺して、磯に沈めようかしら」

「すまん、ツッコミが思いつかない」

「ボケてないわ」

 ですよねー。

 佐羅谷は濃い緑色の瞳を俺の顔から離さない。

「佐羅谷にとって、宇代木は友達なのか」

「わたしは、そうだと思っているわ」

 そこで友達の定義を言い出さないのは、素直に評価できる。友達の定義を問う人間に友達はいないし、友達なんて要らないという人間は友達が欲しくて仕方がない。本当に友達がいない人間は、「俺は友達なんていない」とは絶対に言わない。言うための友達がいないからね! べ、別に仁和丸おじさん(40)のことなんかじゃないから!

 だが、どこまで知っているのだろう、宇代木のあの姿を。

 佐羅谷は鞄からポーチを取り出し、ティッシュに化粧落としだろうか、透明な液体を含ませる。

「佐羅谷、近い」

「ほら、動かない。拭いてあげるわ」

 頬に冷たい感触。

 どうして今このときに、この女も距離を詰めてくるのだろう。自分で拭けるのだから、ティッシュだけ渡してくれたらよいのに。俺のすぐ横に、小さな佐羅谷の顔がある。じっと頬の紅をぬぐう。真剣な瞳と、長いまつげまではっきりと見えた。

 ぞくっとするのは、頬に触れるクレンジングのせいだ。

「痛て」

「あ、ごめん、爪が当たったね」

 細く鋭い爪だった。校則違反というほど伸ばしてはいないし、色もついていないが、甘皮はないし、ベースコートくらいはしているようだ。甘皮処理は痛いイメージしかない。

 とにかく、あれだ。深窓の令嬢を気取る少女であっても、美しさは作り上げなければ、成り立たない。天然状態で無垢な美少女などまったくの幻想だ。騙されるなよ、男子。騙された振りをしろよ、男子。

「天のにおいがする」

 すん、と俺の耳の下で鼻を動かす。

「なにを……っ」

「冗談よ。ワックスの匂いしかしないわ」

「あ、ああ」

 髪の毛は宇代木にいじられたままだった。戻すのも面倒なので、今日はもうこのままだ。

「今日はもう解散にしましょう。誰も来ないようだし、天もいないし」

 俺がいても当分は役に立てないしな。

 黒の緞帳を片付ける佐羅谷を横目に、俺は扉にかかっている「恋愛相談受付中」の札を外す。ちなみに、部員になってから知ったことだが、理科実験室のもう一つの入り口には、「部員専用、入るな!」の札がかかっている。こちらも回収する。

 入部前は片づけようとするとやんわりと遮ってきたが、今は黙って何も言わない。一応は、部員として認めてくれているようだ。

「札、置いておくぞ」

「ありがとう、九頭川くん。じゃあ、またあしたね」

「ああ、また明日な」

 認めてもらえる、居場所があるというのは、本当に良いことだと思う。

 自分が世界の中で独りぼっちだということを、ほんのわずか、忘れさせてくれる。

 谷垣内たちといた一年の時は、別れるのが怖かった。自分が先に離れた後、なにか仲間内で新しい話、面白い話が繰り広げられるのではないか。翌日再会した時、話題について行けずに、ハブにされるのではないか。そんな恐怖から、家の用事もあるのに、ぎりぎりまで一緒に歩いてだべって、離れられない。あれもまた居場所を確保する熾烈な闘いだった。

 あれは居場所だったのだろうか。谷垣内の隣、という居場所だったのだろうか。たぶん、谷垣内自身は、何も思っていなかったのではないか。谷垣内自身が、居場所なのだから。

 今になって思うと、いることも敵わぬ居場所ですらない居場所に固執していたわけだ。

「また、明日な」

 もう一度言って、俺は部屋を出た。


 見知らぬ男に遭遇した。

 というか、学内に見知った人物の方が少ないけどな。何なら、全校の男子生徒で顔と名前が一致するのは十人に満たない自信がある。

 理科準備室から、校舎を出るまでの間だ。理科準備室は袋小路なので、用事がなければ来ることはない。襟飾りの色で、二年生だとわかった。二年生なら、迷い込んだということもなかろう。

 俺は見覚えはないが、向こうに覚えはあるようだ。

 まあ、俺はここ一、二週間で有名人になったし、知られていても不思議はない。名前まではともかく。

「九頭川くん、もしかして理科準備室から出てきたの?」

 男の声は優しく、少しおどおどしていた。真面目で大人しそうな、悪く言えば個性のない少年だった。俺も真面目で大人しい少年ですけどね!

 ただ、今は違う。宇代木にいじられたままの髪の毛が、若干の主張をしている。

「そうだけど、何?」

「髪型が変わってたから、別人だったらどうしようかって」

「髪型が変わったくらいで見分けがつかなくなるって、少女漫画の変身ものじゃないんだから」

「これから、デートとか?」

「おまえと? 男同士は勘弁してくれ」

「何それ、九頭川くんって面白いね」

 そして、自己紹介をする。

「僕は神山功。同じクラスだけど、」

「すまん、同じクラスでも山崎以外は顔と名前が一致しない。不本意ながら」

 そして、山崎の下の名前も知らない。

「出席番号では九頭川くんの後ろなんだけどね」

 だが、ちょうど教室の折り返し地点なので、俺は一番後ろの席だ。ということは、神山は一番前か。うん、全然知らない。体育の時? うーむ、記憶にないな。

「九頭川くんってさ、始業式からずっといなかったじゃない?」

「そうだな」

 あれは黒歴史として忘れたい気分だ。いじめでもない、家庭の事情でもない、自分から告白してフラれて、心が挫けかけて学校に行けないなど、ちょっと情けない。そういえば、佐羅谷にも言っていないな。絶対に誰にも言わないでおこう。あ、犬養先生にはバレているか。口止め……してもムダかも。まあいい。

「教室に来たかと思うと、窓際で佐羅谷さんのことばかり見てるし、ソフトボールではあんなだし、いきなり尖塔で告白するし、なんだかちょっと、怖いなって」

「怖い? なんで? その流れでいくと痛い奴とか変人とかじゃねえの?」

「行動力があるっていうの? 目的のためには一直線なところとか、うーんと、その」

「なんだよ、はっきり言えよ」

「ご、ごめん」

「怒ってないから」

「ちょっと昔の不良っぽいよね。一途というか」

 知ってる。そう見えるのは重々承知している。昭和のヤンキーとか平成のDQNとか令和の陽キャとか、クラスで生徒を二分すると、俺は見た目でそちらになる。髪の毛を下ろしていると地味だから、最近は擬態しているが、やはり顔までは隠せない。親父譲りの造詣が憎い。

 しかし、神山も大人しそうな形でよく不良っぽいなどと面と向かって言えるものだ。本当に不良っぽい奴に、ことばは通用しないぜ? まずは拳が返ってくるのがああいう奴らだ。たった一つの冴えたやり方は、視線さえ合わさず、人生で一切関わらないこと。あれは人間ではなく、亜人種か何かだと思った方がいい。さすがに、中途半端とはいえ進学校であるかつらぎ高校に、そこまでの亜人はいないが。変異種くらいはいるかもしれない。

「で、何か用があるんじゃないのか」

「そ、それはそうなんだけど……。今日は、もういいかな」

「もしかして、恋愛相談か?」

 目に見えて、神山の顔が赤くなって、うつむく。何それ、俺が告白されてるみたいなんだけど。

「九頭川くんもそうだったんだね」

「ま、まあ、そうだな。もう終わったが」

「え、じゃあ、佐羅谷さんと付き合えたの?」

「は?」

「え?」

「神山?」

「は、はいいい!?」

「ちょっと状況を整理しようか」

 ものすごく勘違いされている気がした。

 ともあれ、このまま理科実験室近くで会話していると、佐羅谷に出くわしそうな気がしたので、場所を変える。

 人通りの少ない校舎と校舎の隙間で落ち着く。

 別に脅すために連れてきたわけではないぞ? だから神山、そんなに怯えないでくれ、いやマジで。

「教えてほしい。クラスでは俺はいったいどういうふうに思われてるんだ?」

「たぶん、佐羅谷さんに告白してフラれたんだと……」

 それはわかる。

 尖塔での会話は外野には聞こえないだろうし、佐羅谷はいつもの作法で拒絶の表現をした。俺の告白は失敗に終わったと見えるはずだ。

「じゃあ、なんで神山、おまえは俺が佐羅谷と付き合ってるって思ったんだ?」

「だって、理科準備室から出てきたんでしょ? あそこは佐羅谷さんがいるところだし、恋愛相談が終わったってことは、成立したってことでしょ? プライベートで会いに行ってたのかと。その髪型もかっこいいし」

「なるほど、筋は通っている」

 神山はほっとした表情になる。

 だから別に間違っていても怒らないから。ちょっとジャンプしてみ? とか言わないから。

「詳細は省くが、俺は佐羅谷とは何もない。恋愛相談したのは事実だ。で、俺はいろいろあって恋愛研究会に入部した。だから、あの部屋から出てきたんだ」

「九頭川くんが? 恋愛研究会?」

「なんだよ、似合わないのはわかってるから」

「ううん、思った通りだよ! 目的のためには一直線なんだ」

 なぜか頬を紅潮させて、きらきらした憧れの目。おいおい、それは同性に向ける目じゃないぞ。ヅカファンが男役トップに向ける目だ。あ、同性でしたね。失礼。

 しかし、目的のために一直線? 何の話だ。佐羅谷に恋愛相談させたい、そのために入部したのは確かに一直線か。こういうのを直情径行って言うんだろうな。これほど使いにくい四字熟語を自分のために使うとは思っていなかったぜ。

「じゃあ、九頭川くんも相談に乗る側なんだね」

「俺はまだ発言を許可されてないがな」

「あはは、佐羅谷さん、厳しそうだもんね」

 ひとり神山はうなずくと、

「じゃあ、僕はもう帰るよ」

「佐羅谷に用があったんじゃないのか?」

「ううん、それはまた今度。あした、九頭川くんもいるんだよね?」

「ああ、あした、来いよ」

 それを確認すると、神山は帰っていく。

 そうか、恋愛相談部はけっこう学内で知名度が高かったんだな。俺が知らないだけで、神山みたいに、佐羅谷がやっていることを知っているのが普通だったのかもしれない。

 だとすると、佐羅谷のふだん深窓の令嬢を演じ(させ)ている理由もおぼろげながら理解できる。恋愛相談に応じる人間は、神秘的で孤高で、超然としていなければならぬ。ゴシップ好きで騒がしく、口が軽くてはいけない。

 見た目が美少女であるというのも重要だ。実際の恋愛経験はともかく、美しい人の言うことはすんなりと心に落ちる。

 はたして佐羅谷が自分の意思で深窓の令嬢をしているのか、沼田原先輩の指示で演じているのか。だが、この状態はダメだ。沼田原先輩が部活を引退した今、誰が佐羅谷に指示するのだ。誰がなかないカナリヤを救うのか。

 それにしても、恋愛経験が豊富ってことは、付き合っては別れ、フラれまくるかフリまくっているということで、それはむしろ恋愛で失敗ばっかしてるんじゃね? という気もするが、失敗を糧に他人に教授するというのはある意味正しいのか。恋愛に成功した人は一生に一回の恋愛で終わるのだろうか? でもそんな人の恋愛相談は信じられない気もする。結局、一度も恋愛したことのない人の恋愛相談が一番正しいのかもしれない。というわけで、彼女いない歴=年齢の山田仁和丸おじさん(40)は最強だ。あれ、なんかおかしいぞ。

「帰るか」

 つまらないことを考えながら、俺は自転車置き場へ向かう。すでに運動部の連中も、片付けに入っている時間だった。

 あたりは春の空気も初夏に近づき、土埃と花粉とPM2.5。どこか薄く霞がかった高田市の空は、狭くて、見上げる気も起きなかった。


 通学の自転車を引っ張り出し、校門に向かう。

 校門から敷地内は乗り入れ禁止なので、押してゆくしかない。誰もいないし、誰も見ていないし、律儀に守る必要もないが、一年間の習慣で身についている。俺は飼い慣らされたニホンオオカミだ。何それ絶滅してるじゃん。

 とぼとぼと自転車を押し歩いて、校門を過ぎ、跨がろうかというとき。

「くーやん」

「……先に帰ったんじゃねえのかよ。毎回、気配を消して後ろから来るんじゃねえよ。なんなの、宇代木家は忍者の家系なの?」

「送ってってよ。高田市駅まででいいからー」

「許可してないのに、荷台に乗るな」

 当たり前に横座りをしようとする宇代木を、追い払う。

 先刻、空き教室に三人で話をしたときの険悪な感じはなく、すっかり毒の抜けた気安い宇代木天だった。

「あのあとちょっと、漫研に捕まっててさ。いいじゃんー。お話ししよ?」

「お話しはじゅうぶんしたでしょ。だいたい、二人乗りは違反だろ。奈良県の警察は弱いものいじめが好きなんだ。俺みたいな気弱な男子が二人乗りしていたら、高田市駅へ行くまででも三回は捕まる」

「そこまで警察官も暇じゃないと思うけど」

「これは俺のおじさんの山田仁和丸(40)の中学のときの話なんだが、たまたま学校から帰るとき自転車の鍵をなくしてな、用務員のおじさんに鍵を壊してもらったんだ。ところが、家に帰るまでのたった15分の間に、おまわりさんに三回も止められたそうな」

「うわあ」

「それもこれも、仁和丸おじさんがチビデブハゲ三拍子揃ったキモオタヒキニートワープアだから、目をつけられやすいのが原因なんだが」

 さすがに、中学時代に禿げてはいなかったと思うが。

「しかし、二人乗りは駄目だ。宇代木や佐羅谷みたいなかわいい子を乗せていたら、警察官は住所や電話番号まで聞き出して、ストーカーになることは確実だ。何しろ、ここは奈良県。男女警官が勤務中に交番で淫らな行為をいたす国だ」

「うわあ」

 宇代木の気持ち悪いものを見るような顔はけっこう面白かった。

「だいたい、クッションがないのに、荷台に乗ったら痛いだけだぞ?」

「それはあたしのお尻に魅力がないっていうことかなー?」

「は?」

 思わず宇代木の腰回りに目が行く。むしろ、魅力はあるほうである。そこは間違いない。きゅっと絞れた腰と、ぼんっと広がるその先。くびれに手を当てて、少し左右に腰を揺らす。やめろ……やめろ……空き教室で、スカートを半分ずらした状態が嫌でも思い浮かんで、息を呑む。

「くーやん、目がやらしいぞー?」

「クッション違いだ。わざとやって男子をからかうんじゃありません。おまえ、ほんと、いつか襲われるぞ」

「大変だー。じゃあ、駅まで送ってよ。歩きでいいから」

「俺が送る意味がな……ああもういいよ、高田市駅までだぜ」

「わーい、くーやんありがとう。男子力高~い!」

「初めて聞いたよ、男子力ってことば」


 自転車を押し、隣を宇代木が歩く。

 そういえば、女子と二人で学校から帰るのは初めてかもしれない。中学のときも、高校一年のときも、二人きりというのはなかった。何の気がなくても、意識してしまいそうだ。

「宇代木の家はどこなんだ?」

「岡寺だよ。住所でいうと白橿だけどー」

「は、橿原市民か」

「なんでバカにされてるんだろ……」

「知らいでか」

 マントでも翻す仕草に、芝居がかった口調。我ながら悪ノリがすぎる。

「うわー、なんか腹立つ!」

「生駒、香芝、橿原といえば、奈良県三大『人口が多いだけの田舎』ではないか。古くより中和の中心地だった高田とは格が違うのだよ、格が」

「言い方がひどいなー。でも、ま、先に言い分を聞くよ。まずは生駒からけなしてみせて」

「けなすとは失敬な。真実を述べるのみよ」

 生駒市は奈良県北西部、大阪府との境目にある。

「生駒など、平地もなく、山を削って斜面に家を立てて、まともに生活店舗も揃わず、北倭村や高山村を吸収してぎりぎり市になったような何の一体感もない自治体だ。大阪や京都に通勤する人間のベッドタウンで、生駒市民としての意識もなく、なんとなれば、四條畷市との境目さえ曖昧だ。目立った産業もなく、高山の茶筅と下水の沈殿池みたいなヘドロっぽいくろんど池しか語れるものがない」

「奈良県遊園地四天王最後の生き残り、生駒山上遊園を忘れてない?」

「おまえはあれを遊園地だと認めるのか」

「ノーコメント。では次、香芝はー?」

 香芝市は奈良県中西部、大阪府との境目にある。

「つい先日まで香芝町で、いまだ街中に『香芝町』の看板が残る大阪の植民地に、奈良県の誇りがあるや否や? 山という山を切り開き、立てまくったプレハブ住宅街は二十年後にはゴーストタウンと化すだろう。増えまくった人口に、道も街も追いつかず、狭く混雑する道路に、林立する郊外型大型店。役場の能力は町レベルのままで、都市計画もあったものじゃない。もちろん、独自の産業や観光地は何もない」

「せめて屯鶴峯は認めても良いと思うけどな―」

「屯鶴峯から見える真新しい病院がすべてを台無しにしているが」

「まあいいや、最後、我が橿原市を聞こうか」

 橿原市は奈良県中北部、一応県内第二の都市だ。

「橿原神宮という明治時代の幻想で肥大化しただけの神社に依存する新興都市が片腹痛い。大阪、京都、三重の交通の便が良いから人が増えただけの、典型的昭和のベッドタウンだ。周辺の零細な農村を飲み込み、山を削って団地を作り、そのくせ都心回帰で大阪に近い生駒や香芝に人口を取られている。役場も田舎者丸出しで、宿泊者もいないのに庁舎にホテルを作って民業圧迫する始末」

「そこはぐうの音も出ないよー」

「最近、必死になって『飛鳥』ナンバーを作りだしたのが涙ぐましい」

「御託はそこまでかい? じゃあ、くーやんの町を自慢してよ」

「よかろう。我が高田市を仰ぎ見るが良い」

「高田なんだ……」

 なんでそこで憐れむの? やめて? 高田市もいいとこあるから。

 高田市は奈良県中北部、面積最小の市だ。

「まずはほまれ高き、奈良県の市町村一の人口密度。これぞ都市の証! 昼間人口の高さ! 税務署、裁判所等、主要公的機関の数々。山がなく、開発できるところはすべて開発済み。江戸時代の地図でも、高田の文字はひときわ大きい。明治の町村制でも、奈良県最初の十町の一つだ」

「高田って、産業も観光地もないよね? ベッドタウンなのは他と同じだよね? かつての商業都市の痕跡もないよね、狭いから大型店舗が作れないしー。香芝に人口を取られてるのも同じだよね? 香芝市は高田警察署の管轄から外れたよね? 橿原は今井町と八木町、奈良県最初の十町のうち2つもあるよね? しかも、今井は『大和の金は今井に七分』と言われるほど栄華を極めたよね? 今の高田って借金まみれだよね? 当麻と新庄を併合しようとして逃げられたよね? 高田がすごかったのって、江戸時代までじゃない? アルルだって橿原市だしー」

「やめて! 俺のHPをそれ以上削らないで! 宇代木さんひどい! アルルの敷地の一部は高田市なのに……」

「くーやんが言い始めたことじゃん」

 二人、顔を見合わせて笑う。

 こういうバカ話も良いものだ。それにしても、宇代木、思ったよりも地元に詳しい。ゆるふわギャルにありがちな、都会に憧れるだけで何もわかっていない脳内空っぽ系女子とは一味違うようだ。I♡NARAかな? そんなTシャツがアルルのヴィレバンにあった気がする。誕生日に、I♡橿原ステッカーをあげよう。誕生日知らんけど。

「あと、高田市高田市って言うけど、高田市は新潟だから。奈良県は、大和高田市だから」

「なん……だと……?」

 マジか? ウソだろ? ウソと言ってくれ。

 今から向かう駅も、高田市駅じゃないか。高田は高田だ。大和、などという地域名をつけなくても全国区のはずだ……!

 だが、宇代木は容赦ない。

「だいたい、高田なんてありきたりな地名、なんでここだけが高田だと思うかなー? まあ、新潟の高田市は合併で上越市になったから、無印の高田市は空席だけどねー」

「では、そのニセモノの越後高田市がなくなったということで、今こそ我らが高田市が正当なる高田市へと!」

「越後高田市って、ちりめん問屋じゃないんだから……。あと、無印高田を名乗るには、陸前高田市と安芸高田市と豊後高田市とで、じゃんけんで決めるしかないかなー。まあ、このうち二つはタカダシじゃなくてタカタシだけど」

「邪道だ……っ、圧倒的……邪道!」

「でも、市名に空席ができたら、そこを埋めることはできるのかな? なんなら、くーやんが市長になって、申請してみたら?」

「そこまで高田に愛情はない」

「何それウケる。どう見ても愛情しかないじゃん」

 愛情と愛着は違うんだ。

 自分で選べない街に生まれ、自分で選べない街に育ち、自分で選べない街に住む。ほとんどの人間は、そうだろう。だから、自分の故郷を好きになることは難しいし、愛することはなお難しい。

 だから、俺たちは自分の街を貶す。馬鹿にする。いいところなど何もないと声高に叫ぶ、悪いところばかりを吹聴する。

 だが、愛着がないわけではない。

 だから、よそ者は俺の街を貶してはならない。俺の街を貶していい奴は、俺の街に住む者だけだ。

 高校でも同じだ。かつらぎ高校など、学力も部活動も就職も何もかも中途半端で、偏差値で輪切りにされた中途半端な奴らが集まる中途半端な高校だ。だが、よそ者にそれを言われる筋合いはないんだ。

 他の市を馬鹿にしたって? あのくらいのネタは奈良県では普通だ。何しろ、日本で一番県外就業率の高い都道府県。一番県外消費比率の高い都道府県。奈良県民自体に、奈良県民としての自覚がないのが奈良県だ。奈良県って、ホント奈良。

「あー、楽しかった。駅に着いちゃったねー」

 馬鹿話もいいところに、高田市駅へ到着する。

 面積はとても小さな高田市(訂正する気なし)だが、高田と名の付く駅は三つある。北から順に、大和高田、高田、高田市だ。このうち、大和高田と高田市は近鉄線、高田はJR。多分、一般的には近鉄高田、JR高田、高田市と言っている(ほら、どこにも『大和』とは付かない!)。この三駅は、微妙に乗り換えがしにくいくらい離れているのがミソだ。なんて不便に高田市!

「じゃ、またあした~」

 胸元で手を振り振り、どこからともなく引っ張りだしたKIPSカードを改札にタッチして、宇代木は駅へ消えた。

 何のわだかまりもなく、本当に何事もなかったかのように。

 俺は宇代木がホームへ上がる階段に消えるまで、ずっと後ろ姿を眺めていた。怒涛のような初部活だった。ほぼ、宇代木一人に引っ掻き回されたせいで。

 ところが、不思議なことに、嫌な気はしなかった。むしろ、振り回された快ささえ感じる。単にわがままな女や、こびへつらう女よりも、よほど面白い。しっかりとした考えが根底にあって、行動の基準がはっきりしているからだ。友達に、欲しいタイプだ。

 そうなれたらいいな。と思った。

 しかし、今日という日はまだ終わっていなかった。

 まさか、連絡先を交換したばかりで、あんな電話をすることになるとは、予想だにしなかった。やれやれ先が思いやられるぜ。


 気まぐれで、JR高田のトナリエまで来て、夕飯の材料を買った。

 どれだけ高田自慢をしようとも、地方都市の悲哀、駅前の商店や中規模の商業ビルはどこも経営が芳しくないらしい。幹線沿いの大型スーパーやディスカウントストアに客を持っていかれる。

 そんな中、JR高田駅の・近鉄高田駅の横にあったライフは大幅改装して、トナリエというイマドキな名前のショッピングモールに生まれ変わった。中のテナントはほとんど変わっていないけれども。ゲーセンが使いやすくなったのはいいよね。一年の時、ここには何度も来た。自転車置き場が有料になったのが玉に瑕かな。

 自転車の前かごにビニール袋を突っ込み、帰ろうかとJR高田駅前ロータリーの広場を走っていると、ちょっと珍しい光景に出くわした。

 ナンパだ。

 ナンパってあるんだなーと思った。

 ああいうのは、大阪や東京のどこか特定の場所の、言うなればナンパすることが許される特区のようなものがあり、そこへいく男女はお互いに「ナンパする・される」ことを了承済みで、そう、いわばゲームの登場人物として、参加承認者同士が楽しむものなのではないか。

 残念ながら、あるいは幸いにも、奈良県にそんな特区は存在しない。たぶん。俺が知らないだけで、もしかしたらあるのだろうか? 大学生になったら教えてもらえるのだろうか。ドキドキしながら待っていよう。

 普段なら、横目で眺めて通り過ぎるだけだ。周りの大人と同じように。

 だが、今回は無理だった。

「あれはどう見ても佐羅谷だよな」

 どくっと心臓が乱れる。

 絡まれている女の子は、佐羅谷だった。

 小柄で、華奢で、ミディアムのストレート。まあ、ここ一ヶ月一番見ている女子だ。間違えようはずがない。

 絡んでいるのは、男子二人。制服姿なので、高校生だろう。かつらぎ高校ではない。見た感じ、それほどやんちゃな男子ではなく、佐羅谷のような大人しく見える相手だから声をかけたのだろう。慣れていない雰囲気もありありと伝わる。

(あんなもん、無視して通り過ぎればいいものを)

 男二人で女一人に声をかけるのは愚策だ。相手に威圧や恐怖を与える。声をかけるなら、同数で。これでは、脅しているようにしか見えない。

 また、声をかけるなら、元気で強気な女の子にかける方がいい。佐羅谷のようなタイプは、かえって難しい。

 そして、本気で嫌がる女子に食い下がるのは、ナンパ慣れしていない典型だ。ナンパにしつこさは必要ではあるが、原則は球数だ。……何だこれ、有名になったらモテると同じような理論じゃないか。数打ちゃ当たる、みたいな。

 男のうち一人が、佐羅谷の手首を取ろうとした。

 さすがに、ここまでだな。

 俺は自転車を置き、走り寄る。生活感丸出しの食材ビニール袋つきママチャリを見せるのは、ナンパを助けるにはちょいと締まらない。って、駅前に放置するとすぐに警察官がやってくるのだが、このさい警察官が来るのは歓迎だから、放置する。

「おいおい、俺のツレになんか用か?」

 佐羅谷の前に割り込んで、男の伸びた腕を払う。

「何だよおまえ」

 むしろそれは俺のセリフだが。

 相手が二人、そんなにやんちゃでないとはいえ、やはり血の気のある男の前に出るのはちょっと怖い。谷垣内やその周辺と一緒にいた時はもっと柄の悪い仲間もいたが、対峙するのとはまた違う。

 だが、俺のきつめの目と、強い髪型が、役に立つ。二人は少々怯み、俺と佐羅谷を交互に見やる。

「九……」

 名前を呼ぼうとする佐羅谷の唇の前に、そっと人差し指を立てる。こんなところで、名前を言うもんじゃない。

 すぐ意図を察してくれたようで、佐羅谷は俺の体の後ろに隠れる。

「嫌がる女の子に手を出すなよ。二人がかりで、恥ずかしくないか?」

 わざと大きめの声で言う。

 見ぬふりをして通り過ぎていた通行人が、いくらか足を止めて注視してくる。これで十分だ。

 俺は不敵に笑う。周りの視線が集まっていることは、二人のもわかるはずだ。

「こういう女の子に声をかける時は、一人で、誠意を持って、だ」

「うるせえよ。彼氏持ちって知ってたら、誰が声かけるかよ。行こうぜ」

「あ、ああ」

 二人は逃げるように小走りに、JR高田へ消えていく。姿が本当に消えるまで、見届ける。

 俺が息を吐き、表情を緩めると、周囲の緊張もなくなり、ぬるっとした空気に戻る。野次馬も溶けたように動き始める。正直言って、宇代木に髪の毛をいじってもらっていて助かった。普段の地味な姿では、ここまで楽に追い払えなかったと思う。手を出していた男も、俺が睨むと僅かに怯んでいたように見えたし。この険の強い顔も役に立つものだ。

 内心、こちらもビビっているのは同じなのにな。

「九頭川くん」

 名前を呼ばれた。

 聞いたことのないような弱々しい声だ。

「とりあえず、あっち行くぞ。歩けるな?」

 こういう時は、現場から速やかに離れるのが効果的だ。俺は自転車を回収し、佐羅谷を横に、またトナリエに向かう。

 何も見ず、何も考えない。

 トナリエ2階のバルコニー状になっている広場のベンチに座るまで、俺は一度たりとも佐羅谷の顔を窺うことはなかった。


「落ち着いたか?」

 佐羅谷の前に、あたたか~いのペットボトルほうじ茶を渡す。この時期にまだあたたか~いが残っていてよかった。

「ありがとう、九頭川くん」

 まだだな。

 消え入りそうな声に、かすかに震える膝に、蒼白な顔。

 たかがナンパに、とは思うが、慣れなければナンパもカツアゲも似たようなものか。俺のようにことばで押し負けたら引き下がる人間は、素直に諦めるから口だけで退けることができるが、ああいうどだい言語や理屈に頼らない人間は、佐羅谷には苦手だろう。せめて、校内の振る舞いと同様に堂々としていたら、つけ入られることもなかったろうに。

「あんなの、無視しろよ。佐羅谷はかわいいんだから、ナンパなんて慣れたものだろ」

「初めてよ」

「ウソだろ」

「信じなくてもいいよ」

「すまん」

 調子が狂う。

 言いたいことは山ほどあるが、たぶん、この状態で正論をぶつけても、佐羅谷は聞かない気がする。いつものように姿勢よく凛と歩いているだけで、あの程度のナンパは諦めてしまうのに。声をかけられて、生真面目に対応しようとしてしまったのだろうか。

 奈良県の警察など仕事をしないのだから、こんな時こそ即座に通報して、たまには税金分の仕事をさせたらよいのだ。消費税以外払っていない仁和丸おじさん(40)がいつも言っている。

 電車で通学しているなら、ナンパはともかく、痴漢くらい遭っていそうなものなのに。本当にそんな経験もないというのか。大人しく見える美少女は、本当に大変だ。娘を心配して、あえて金髪ギャルの見た目にする親の気持ちもわからなくない。

「家まで送るか? 一人暮らしだろ? 帰れるか?」

「家を、知られたくない」

 この期に及んで、そこは譲らないのか。

「なら、宇代木を呼ぶか? あいつなら、一緒に帰ってくれるだろう?」

「待って。もう少し、もう少しで落ち着くから、お願い。ちょっとだけ、待って」

「わかった」

 つらい時間だった。

 待つのがつらいのではなく、何もできないことが。

 バルコニーのベンチからは、近鉄高田駅のターミナルと行き交うたくさんの車が見える。駅の放送も騒音に紛れてたまに聞こえる。

 西日が前方の建物に遮られて、少し暗く、空気も冷えてきた。

「ごめん。待たせて。帰ってくれていいよ」

「さすがに俺も怒るぞ。こんな状態のおまえを放って帰るか。暗くなったらなおさらだ。嫌がっても、意地でも家まで送るぞ」

「じゃあ、がんばらないとね」

 佐羅谷の声から、ようやく震えが消えていた。

 こういう状態は、結局、自分で乗り越えるしかない。

 だが、何か嫌なことがあった時、ただ黙ってでも側にいてくれるだけでずいぶん心の頼みになる。その点、黙って受け入れてくれた保健室の犬養先生には感謝している。

「うん、何とかなりそう。本当にありがとう、九頭川くん。このお礼は、何でもするよ」

「何でもする、は、男子高校生には一番言っちゃいけないことばだと思うぜ?」

「感謝の深さだと思っていてくれていいよ」

 実際、これはどういう意味なんだろうな。

 俺たちがあと十歳くらい年上ならば、遠回しに付き合うことを承知している、と解釈して良いと思うが、残念ながら俺たちはまだ高校生だ。恋愛経験もなく、人間関係も乏しい俺には、見当もつかない。

「じゃあ、電話をしてくれ、帰宅したら。家まで、ここから、何分くらいだ?」

「三十分くらいよ」

「家に着いたら、必ず電話をしてくれ。もし四十五分経って連絡がなかったら、こちらから電話する。それで出なければ、通報する」

「心配しすぎよ」

「心配の深さだと思ってくれ。佐羅谷、おまえさっき自分がどんな状態だったかわかってないだろう?」

 俺は自分のスマホに電話番号を表示し、手渡す。口を固く結んだ一文字で、佐羅谷は哀しそうにうつむく。

「わかったわ。じゃあ、そうする」

 佐羅谷は自分のスマホを取り出し、ポツポツと電話番号を入力する。

 ポーンと、何かの通知が鳴った。メール? ライン? どうせいつもの迷惑メールか、企業の広告メールだろう。どっちも迷惑メールか。楽天からのメールなんか、一度も読んだことがないな。

 だが、佐羅谷の動きが止まる。

「どうした?」

「ずいぶん、お楽しみだったようね?」

「はぁ?」

 俺のスマホの画面を、掲げてみせる。

 画面いっぱいに、受信したばかりの写真が写っていた。

 首から下、太ももまでの写真。肩と、胸元と、おへそと、その他際どいところをはだけた自撮り写真。宇代木の写真だった。

 メッセージは、「今日は楽しかったね♡」。

「うわあ、これは、誤解だ」

「そうね、こんなにゴカイがあるなら、釣り針にざくざく突き刺して、キスも大量に釣れるわね」

「何でもするから許してくれ」

「許すも何も、あなたにしてもらいたいことは、今しがた、なにもなくなったわ」

 電話番号の登録を途中でやめて、佐羅谷は俺にスマホを返す。

 これでは、連絡がつけられない。

「おい、それとこれとは話が別だ」

「同じだよ。ああ、バカらしくなったわ。さっきまでのことは、本当にありがとう。そして、さようなら。『部活』で会いましょう」

 先ほどまでのおぼつかない足取りとは打って変わって、姿勢も正しく早足で近鉄高田へ歩き始める。慌てて追いかけるも、振り向きもせず、一言も話さず、逃げるように改札に消えた。何を怒っているんだ、あいつは……。

 佐羅谷が見えなくなって、宇代木に慌てて電話する。

 写真を送ってきた後だ。即座に宇代木は通話に出た。

「ちゃーおー。喜んでもらえたー?」

「真面目な話だ、宇代木」

「なによー、せっかく渾身の写真だったのにー」

「聞いてくれ、真面目な話なんだ」

「つまんなーい。何よ?」

「今から四十五分後、佐羅谷に電話してくれ。もしつながらなければ、その時の対処は任せる」

「は、何よそれ? あんた、あまねに何をしたの? 今どこよ?」

 むしろ、何かしたのはおまえの方だ! よほど叫ぼうかと思ったが、ギリギリで押し留める。冗談もバカ話も、今はやりたくないし、やれる余裕がない。そうだな、このタイミングでなければ、宇代木の際どい写真は単なるネタでしかなかったのだ。何の、とは言うまい。

「叱責は後日だ。今は宇代木しか頼れない。頼んだぞ」

「そんなの言われたら、怒れないじゃない」

 悪いな。

 俺は自分一人でできることも、できないことも、全部把握しているつもりだ。できないときは、頼れるものは何でも頼る。後悔したくないんだ。何もしなかったことを後悔し続ける仁和丸おじさん(40)のようになりたくないんだ。

 悪いな。ほんと、悪いな。


 意地でも佐羅谷について行けばよかった。なじられようが疎まれようが、ついて行けばよかった。どうしたって、後悔するんだ。

 悶々と、眠れない眠れないと繰り返して夢うつつ、睡魔に負けて意識が飛ぶ。いつだってそうだ。

 いつだって、そうだ。


 予鈴の五分前、教室に駆け込んで、グラウンド側窓際の席に直行する。

「山崎!」

「おう、どうした柄にもなく慌ておってからに」

「佐羅……深窓の令嬢は何組だ?」

 俺はそんなことさえ知らない。

「彼女は五組だが」

「サンキュ。今度、丸源で肉そばおごるわ」

「え、我れの情報の報酬、高すぎぃ!?」

「時価だ時価」

 山崎の当惑も無視して、俺は五組へ走る。

 佐羅谷の性格だと、遅刻やギリギリは絶対にないはずだ。

 五組の入り口付近で、中の様子を窺う。パッと見た感じでは、どこにいるかわからない。まだ席替えをしていないなら、サ行の女子はあの辺ではないかと教室を目で走査するが、これではただの不審者だ。

 しかも、教室でひときわ目立つ二人を、俺はよく知っていた。

(おいおい、谷垣内と那知合もこのクラスかよ)

 あの二人には、できたら気づかれたくない。

「なあ、すまんが、佐羅谷はどこにいる?」

 扉のそばにいた男子に小声で尋ねる。

 一番前だから、アかイかで始まる名字だろうか。アなら朝日くん(仮名)で、イなら今西くん(仮名)だな。この名字、絶対すみっコに来る系男子。略してすみっコだんし。なにそれペンギン?とかエビフライっぽいな! 声をかけた男子はシロクマっぽいガタイだったが。

「ん? ああ、佐羅谷さーん!! 呼んでるよ!」

「わ、おいおいっ」

 抑えようとしたが遅かった。ガタイの良い男の発する声は、一瞬クラスを静寂に変えた。やめて、朝日くん(仮名)。でかいのは体だけにして。朝日くん(仮名)に集まった視線は俺に移動し、そのあと名を呼ばれた佐羅谷に移る。ああ、谷垣内と那知合にも見られた。気まずい。

 教科書を整理していたらしい佐羅谷は無表情でため息一つ、すっくと立ち上がり、俺のほうへやってくる。

「少し、外れましょうか。ここは目立ちすぎるわ」

 通り過ぎざま、目も合わさない。

 俺は慌てて後を追う。

 五組の教室は、なかなかざわめきを取り戻さなかった。

「ここでいいかしら。わざわざ教室まで来ないでくれる?」

 階段の前で、佐羅谷は顧みた。

 視線は合わさないが、とりあえず平常のようだ。肘を抱えている。

「何か、用?」

「来てて、よかった」

「何それ。学生なんだから、来るに決まっているじゃない」

「そうだな」

「部活で、って言ったでしょ」

「そうだな」

「もう、さっきから、そうだな、ばかり。いったい何なの」

「ほんと、元気そうで、良かったよ」

 なんだろうな。

 俺らしくもない。いつものいつも通りのいつもの俺がいつものように出てこない。十津川芸人ほどでなくとも、面白くもないことばのやりとりは得意だと思っていたのだがな。

 ただほっとした。

 俺は今どんな顔をしているのだろう。

 ようやく視線を上げて見つめる佐羅谷の表情からは、俺の表情は読み取れなかった。佐羅谷は困惑顔だった。

「じゃあ、またあとでな」

 それだけ告げると、俺は返事も待たずにきびすを返した。

 後悔は、なかった。


 放課後。

 まもなく中間試験ということで、休みに入っている部活もあるようだが、恋愛研究会は休まないとのこと。だいたい、相談者が来ない限りはやっているのかいないのかわからない部活だからね! 何なら、勉強するのも可。

 佐羅谷は勉強ができそうだし、教えてもらえるならはかどりそうだ。

「ちわーす」

 理科実験室の後ろの扉を開ける。

「ちゃーおー、くーやん」

「こんにちは、九頭川くん」

 二人とも、すでにいた。

 なんでほんとに、こいつらこんなに早いの? ホームルームが終わったら寄り道せずに来てるのに、俺の教室の時計だけ五分遅れてるの? 

 俺が適当に席に就くと、佐羅谷はこれみよがしにため息を吐く。

 今朝のことをまだ怒っているのだろうか。やっぱり、俺みたいなのが深窓の令嬢を呼び立てるのは、イメージを損なうよね。すまぬ、すまぬ。だがあれは、来ているかどうかを確認したかっただけなんだ。大声で叫んだ朝日くん(仮名)が悪い。

「あなたたち、どうしてきちんとした挨拶ができないの? お昼の挨拶は、こんにちは、でしょう?」

「えー、なんでー? ちょっと硬いじゃん。あまねが言うのは似合ってるけどさ、あたしが言うとおかしーよ」

「俺も言いにくいな。友達や同級生に言うのは、なんか不自然だ」

 確かに、きちんと挨拶ができるなら、そのほうが良いに決まっている。しかし、こんにちは、は硬すぎる。うん、教室でも聞いた記憶はないし、一年のとき、谷垣内たちとつるんでいたときも、はるか子供のときも、仲間内で使った記憶がない。おっす、とか、やあ、とか、なにかそんな、ごまかしたような挨拶だけだ。

「朝は、おはようって言うのでしょう?」

「おはよーは言うね」

 宇代木がいうとどんな挨拶も軽く聞こえるけどね。

「これは、あれだな。わかった。朝の挨拶には、おはようとおはようございます、この二つがあるが、昼には、こんにちは、一つしかない。で、おはようは、親しい間で使う挨拶で、おはようございますは、親しくない人に使う挨拶だ」

「おー、なんかくーやんがリチテキなこと言ってる!」

 俺は理知的なんだよ。

「で、こんにちはは、本来こんにちはとこんにちはでございます、二つあるべきなのに、一つしかない。だから、親しくない人の挨拶に、こんにちはを使ったせいで、親しい間柄で使える挨拶がなくなったんだ」

「九頭川くん」

 佐羅谷はにっこり微笑むと、

「こんにちは」

「言うと思ったよちくしょう」

「親しくない間柄の挨拶として、ふさわしいと思うわ」

「いつか絶対、佐羅谷にちゃおーって言わす」

「一生、イタリアに行かないようにしないといけないわね。それは少し寂しいかしら」

「ちゃおーってイタリアの挨拶なんだー」

「驚くのそこか?」

 宇代木はイタリア人のクオーターではなかったのか。まったくハーフともクオーターとも思っていなかったが。むしろ、佐羅谷のほうがロシアの血が混ざっていると言われたほうが、信憑性がある。いやないな、ないない。

 どうやら、昨日の不穏な空気は、払拭できたようだ。

 昨日はあのあと、宇代木から連絡はなく、不安であったが、電話はしなかった。宇代木が佐羅谷と電話して、どんな話をしたのかは知らない。佐羅谷のことだ、あまり詳しくは話していないだろう。

 どちらにしろ、俺は佐羅谷のことも、宇代木のことも、ほとんど知らない。だから、黙って読書する佐羅谷も、体をフラフラ揺らして船を漕いでいる宇代木も、この関係が日常なのだろうな、と推測するしかない。

 ともあれ、二年になって初めての中間考査前。みな試験勉強でさっさと家に帰るだろう。このややこしいときに恋愛相談など――いや待て、今日来ると言っていた男が一人。

 

 ノックと同時に扉が開く。

 足音。

「こんにちはー」

 由緒正しい、親しくない間柄の挨拶が、黒の緞帳越しに聞こえる。

 男の声だ。

 佐羅谷はおもむろに居住まいを正し、緞帳に顔を向ける。

「ようこそ、恋愛研究会へ。こちらは女子二名、男子一名でお窺いいたします」

「あ、ごめん、覆面じゃなくて、直接相談がしたいんだけど」

 この声、記憶のとおりだ。

 昨日廊下で出会った……名前はなんと言ったか。

「ではこちらへどうぞ」

 佐羅谷が緞帳を上げ、招き入れたのは、思った通りの男子。

 昨日はなんとも思わなかったが、並んでみると佐羅谷とほとんど変わらないような小柄で細身で、頼りなさげな体躯だった。

「はじめまして、わたしは佐羅谷あまね。恋愛研究会の部長です」

「宇代木天だよ。部員だよ!」

「九頭川輔だよ。部員だよ!」

「真似しないでよ!」

「そもそも、部員だよって言わなくて良くない?」

「あなたたち、相談者の前で騒がない」

「あははは、なんだか、思ってたよりも自由な感じなんだね」

 佐羅谷は申し訳なさそうに頭を抱える。

「ぼくは神山功。九頭川くんと同じクラスだよ」

「それでは神山くん、お話しを窺いましょうか」


「ボルダリング部?」

 神山の所属は、ボルダリング部らしかった。

 ボルダリング、聞いたことはあるが、やったことはない。谷垣内といたときも、行っていない。ああ、でも那智合たち女子グループが、なんばかどこかで遊びに行ったときにやったという話は聞いた。そうか、それでボルダリングということばに聞き覚えがあったのか。

「ボルダリング部なんてあったんだー」

「部員6人でできたばっかりの小さな部活なんだけどね。校内に施設はなくて、部活としてジムのパスポートを買ってるんだ」

「奈良県にボルダリングジムなんかあるのか?」

 俺は恋愛相談では喋ってはいけないことになっているが、このくらいは許されるだろう。佐羅谷も特に何も言わない。

「うん、橿原にあるんだ。グランドワズーっていうジム。アルルを少し過ぎたら五井っていう交差点があって、そのへんに」

 バッティングセンターもそのへんにあったな。

「ふふん、橿原はいろんな施設があるんだよ。高田とは違うのだよ、高田とは!」

「なんで宇代木が得意げなんだよ」

 高田にもオプトボウルていうボーリングの老舗がありましてね、大会が開かれたりするんですよ? そりゃあ、老舗だから設備がちょっと古いし、周辺の道が狭かったりするけどさ。

「それで、神山くんはそのボルダリング部の中で気になる女子がいるということかしら?」

「ボルダリング部は男子しかいないんだ」

「べ、別に男子が相手でも」

「あまね、あまね。話は最後まで聞こうねー?」

 真面目な話なのに、遅々として進まない。すまんな、神山。

 だが神山は笑顔でけっこう楽しそうだ。

 まあ、恋愛の話を真面目すぎる環境で聞かれるのもちょっと気後れするよな。部活仲間には話しにくいだろうし。ほ、本当に気になる相手が男子だって言われたら、俺は少しばかり席を外させてもらうが。あまり、聞いてはいけない気がする。

「あ、いや、相手は、その、ジムに来ている女の人なんだ……」

 顔を赤らめてうつむく神山は、恋する男子の顔だった。見ているこちらがムズムズする。もしかして、俺も那知合に対峙した時はこんな顔だったのだろうか。思い出すと、恥ずかしいな。めっちゃ恥ずかしいな!

 だが、慣れているのか。佐羅谷と宇代木はいたって普通の顔だ。むしろ、慈母の顔とさえ言っていい。こういうときにモテる女子は強いな。モテない男が顔を真っ赤にしながら言い寄ってくるのなど、腐るほど見てきたのだろう。なんか悔しい。佐羅谷はナンパは初めてだと言っていたが、告白されるのは山崎調べによると、年間十二回だ。宇代木はきっと、それどころではすまないだろう。佐羅谷ほどガードが硬そうに見えないし、交友が桁違いに広い。好みは知らないが、付き合う男を選ばなければ彼氏作りに労はないはず。日替わりで彼氏がいると言われても納得できる。

 これが上位一割の恋愛強者の風格か。確かによく考えるとこの二人はヤバいな。俺など、勢い余って「佐羅谷の恋愛相談に乗る!」などと大見得を切ってみたが、全然必要なかった気がしてきた。俺の存在意義やいかに。

「なるほど、ということは、その女性がどこの誰かもまだわからないということね?」

「名前も聞いていないんだ……」

 ボルダリングジムというのが、どんな環境なのかは知らないが、簡単に名前を聞けるほどではないのか。黙々と打ち込むタイプのスポーツなのだろうか。

「神山くんはさー、どこまでお膳立てがほしいのー?」

「お、お膳立て?」

 宇代木のことばはいつも通り軽いが、厚い笑顔の仮面の奥に苛烈な獣性が透けて見える。舌なめずりする虎だ。

 佐羅谷が口元に手を当てる。

「天が知りたいことはね、神山くんの覚悟なのよ」

「か、覚悟?」

「覚悟、完了ー?」

「か、完了?」

 怖がらせるばかりできちんと説明しないのは、いけないと思います!

 佐羅谷に俺が相談したときは、もう少し裏表もなかったような気がする。ああ、佐羅谷一人しかいなかったのと、モテたいという漠然とした願いに応じるためだからだろうか。

 いわゆる普通の特定個人が好き、という頼みなら、いくらでも手助けしてくれるということか。

「つまり、わたしたちがどこまで介入してよいのか、ということかしら」

「名前がわかったらいいのか、話ができたらいいのか、連絡先を交換したらいいのか、デートができたらいいのか、付き合えたらいいのか、まあ、そのどこまで求めるのか、ということが知りたいんだよー」

 付き合えるところまで応じるのか。

 同じ疑問を神山も持ったらしい。

「付き合えたらって、そんなことできるの?」

「相手の女の人を見ていないから何とも言えないけれど、付き合うのは、好きになってもらうより簡単よ。どちらにしろ、そこまで周りが作り上げても良い覚悟があるか、ということね」

「そ、そうなんだ?」

 混乱している。

 俺はだいぶんしっかり佐羅谷と話をしたから、恋愛研究会の論理は何となくわかる。佐羅谷ができると言えば、できるのだろう。人間の心も、所詮は電気信号。ラプラスの悪魔ならばすべて読み切って、未来を予測もできるかもしれない。読み切って作り替えるラプラスプラスの悪魔も必要かもしれないな。もう訳わかんない!

「い、今のところは付き合うっていうか……話ができたらいいなって」

 いいなぁ、ものすごく初々しいなぁ。

「それに、ほら、こういうのって、趣味の世界で出会いは求めていませんっていう人もいるじゃない?」

 どうしてそこで俺を見る、神山。恋愛相談になったら、俺に発言権はないぜ。でも、趣味というのは好きでやることで、好きなことは同好の士と話をしたくなるものではないだろうか。それが出逢いになってしまうのは、必然だ。

 ことさらに出会いを求めないと公言するほうが違和感がある。いるんですよねー、SNSのプロフィールに「出会いは求めてません」って書く女子(笑)。だったらSNSに登録するなよって思う。

「そういう考えの人もいるとは思うけれど、ただのポーズではないかしら。演技や性格付けの一種だと思うわ」

「本当は出会いが欲しいということ?」

「出会いが目的ではないですよ、というアピールだよー。出会いが目的で、何かしらの趣味を始める人もいるからね。一概にそれが悪いとも言えないけどー」

 本当に出会いたくない人間は、態度でわかるだろう。孤高で人を寄せ付けない空気をまとっているはずだ。

 だいたい、人間、出会える場所など限られている。学生なら学校か趣味かバイトか習い事。社会人なら仕事か趣味。それ以外で、他人と会うことなどほとんどないのだ。学校は勉強するところ、会社は仕事をするところ、趣味は遊ぶところ……そんな狭義の定義でがちがちに固めて、あらゆる出会いを否定するならば、いったいどこで出会う気なのだろう。出会いは出会い目的のマッチングアプリ以外で出会ってはいけないとでもいうのだろうか。あるいは、ナンパか何か。パンをくわえて走っていたら、曲がり角で運命の人とぶつかるというのだろうか。まず間違いなく、車とぶつかるので、出会いは期待できない。奈良県の道路は車優先だ。

 ドラマチックな出会いなど、この世にはない。あるのは、出会いをドラマチックに感じられる人間と、感じられない人間だ。

「九頭川くんはどう思う?」

 神山は押し黙っている俺を真剣な瞳で見つめる。佐羅谷を覗き見ると、話す許可を得られた。

「これは俺のおじさんの山田仁和丸(40)が言っていたことなんだが、何かしらプロフィールで「出会いを求めていない」と記入する系女子は、本当に出会いを求めていないのではなく、「お前みたいなチビデブハゲのキモオタヒキニートワープアを求めていない」ということらしい。つまり、イケメンで高収入で定職についていて浮気をしなくて優しくて甲斐性のある男性になら、いくらでも声をかけてもらいたい、ということだ」

「と、途中ちょっとわからないけど、本当は声をかけられてもいいということ?」

「出会いを求めていない、と書いておくと、興味のない相手が声をかけてきたとき、簡単に断れるだろ? 後腐れなく、な。そして、自分の眼鏡にかなう相手が出てきたときには、そういう女ほどハイエナに変わるんだ。これだから女は」

「九頭川くん?」

「何でもないでーす、何でもないでーす」

 危うくねじり切られるところだった。

「昨日から気になってたんだけど、くーやんが時々例えに出すキモオタなんとかとか、山田仁和丸(40)って何?」

「九頭川くんがダメ理論を展開するときに使う架空の人物のことよ。普通は友達の友達という表現をするのだけれど、彼は友達がいないから」

「待って。俺の仁和丸おじさんを勝手に幻想郷入りさせないでくれる? 架空でも空想でもないから。リアルアカウントだから!」

「アカウントなんだ……」

 こほんと、佐羅谷は咳払いの真似事をする。いいね。

「九頭川くんの言い方はともかく、女性の言う「出会いを求めていない」は、あまり気にしなくて良いと思うわ。「彼氏がいる」も実はそれほど気にしなくて良いわ」

 マジか。彼氏がいてもいいのか。

 ここは追及したくない。神山もさすがに目をしばたたかせている。そうだよな、正直どういう意図なのか、知るのが怖いよな。

「今は、出会えない時代だから、出会おうとしてくれる男子は、受け入れられやすいと思うわ。セクハラやパワハラが厳しすぎて、会社や仕事の関係ではまともに出会えない、本当に職場が仕事以外できない環境になってきているそうだから。一方で、学校は人間関係を切れないので、別れた後を考えると、やっぱり深い関係になりにくい」

 確かに、俺の親父も、男同士でさえ飲みに誘うのは、年齢や役職が違うと難しいと言っていた。あの節操なく誰とも親しくできる親父がだ。ていうか、俺の親父、酒もタバコもしないけどな。何を飲むんだろう。ペリエかな。

 一昔前は、職場結婚が当たり前だと聞いたこともあるが、今は仕事以外の会話さえしてはならないのだろうか。

「セクハラセクハラやかましい女の自業自得だな。自分が求めるイケメン以外からの誘いを退けるために、セクハラを禁止するように圧力をかけたら、イケメンも物怖じして、声をかけなくなった。男女が同じ空間で長々と一緒にいるのに、恋愛関係に発展することができなくなった。そして、お互いを前にして嘆くんだ。「出会いがない!」ってな」

「九頭川くん」

「くーやん」

「って、山田仁和丸おじさんが言ってた! 仁和丸が言ってた! 俺じゃない!」

 ちょっと本気で擦り潰されそうな圧力を感じた。やはりうかつなことは言うもんじゃねぇな! これだから女は。

「まあ、僕の気になる女性は、多分まだ社会人じゃないから」

 ごめんね、神山に気を遣わせて。会話の流れを変えてもらって。

「九頭川くんのせいで話がずれたわね。とりあえず、話ができるようにする、で良いかしら、神山くん」

「そうだね。他にもアドバイスがもらえたら嬉しいな」

「ボルダリング部、試験期間中はやっていないんだよねー?」

「え、うん。それがどうしたの?」

「あたしたちも、しばらくはボルダリングをしなきゃいけないと思うんだー。ボルダリングって、お金かかるよね?」

「場合によるけど、一回二千円くらいだよ」

 けっこう高いな。

「あ、でも、パスポートに二つ空きがあるから、体験入部扱いで来てもらっても大丈夫だよ」

「じゃあ、今日のところは、これで切り上げましょうか。試験が終わるまでの間に、恋愛研究会で方針を練っておくわ。試験終了後から、神山くんの相談に応えていきましょう」

 少し早いが、試験勉強もある。

 佐羅谷の判断は良いところだろう。

 神山は跳ねるように立ち上がって、頭を下げた。

「それじゃあ、よろしくお願いします!」


 中間試験も終わり、本格的に神山の恋愛相談に動き始めることになった。面白いことに、試験期間中も二人ほど相談に訪れた。両方女子で、黒の緞帳越しの軽いやり取りで解決したようだった。ようだった、と言うのは、俺も一応、横で聞いてはいたが、どだい発言は許されていないし、単に後押しが欲しいだけの、逃げ道を塞ぐような告解に過ぎなかった。「告白したら?」とか「さっさと別れなさい」とか、そのくらいのアドバイスで、解決したようだった。

 なぜわざわざ試験中にとも思うが、追い詰められると別なことがしたくなるものだ。勉強中は部屋の片付けがしたくなり、部屋の片付け中は漫画が読みたくなる。でも、試験中に告白されたり、別れを切り出されるとちょっと戸惑うんじゃないかなぁ。あるいは、判断力が鈍っている時が狙い目か。大災害の後とか、疫病蔓延の後とか、自分が直接的な被害を受けていなくても、なんとなくそばに誰かがいてほしいと思うもんな。

 というわけで、ボルダリングである。

 橿原のグランドワズーというクライミングジムに来ていた。ボルダリング部の面々は顧問の車で、俺は自分の自転車で来た。佐羅谷は車に便乗したようだ。顧問には、体験入部という名目で、俺たち恋愛研究会の三人が参加すると言ってある。しかし、たぶん、顧問の先生には真意がバレている気がする。

 ジムのパスポートの空きは二人なので、俺は常について行くが、佐羅谷と宇代木は交代で通うことになった。恋愛研究会を俺一人にはできないという判断らしい。賢明だ。

「佐羅谷も体操服があるんだな」

「あなた、わたしをなんだと思っているの」

 一つしかない更衣室で交代で着替えて、合流する。体操服に色気はないが、深窓の令嬢の体操服姿というのはちょっとレアだ。普段は黒タイツで見えない膝から下の白くて細い脚が、ちょっとアレだ。

 倉庫を改造したジムは思ったよりも狭く、板を張った壁には所狭しとホールド(というらしい。人口岩とでも言うか)が並び、床には厚いマットが敷いてある。滑り止めに使うチョークの粉が、あちらこちらを白く汚す。

「ボルダリングの靴ってこんなにきついのか」

「慣れないうちはそうかもしれないね。休憩する時は、緩めておくといいよ」

 本当はスタッフに指導を受けるところ、なぜか神山に教わる。スタッフも、ボルダリング部の面々を信用しているらしい。

 もともと、平日の部活動時間には、一般客はほとんどいないからか。

「一応、基本的なことは説明しておくね。ちなみに、ボルダリング部は掛け持ち可だから、いつでも言ってね」

「相談のたびに掛け持ち部活を増やしていたら、身が保たないわ」

「あはは、佐羅谷さんは厳しいね」

 そこで社交辞令は言わないんですね。確かに、こんな相談に応じるために体験入部を繰り返すだけでも、負担になる。

 ボルダリングのルールは簡単だった。壁一面のホールドには色分けした番号やアルファベットが割り振られていて、白の1なら、「白の1スタート」から「白の1ゴール」まで「白の1のホールド」をつかんで登っていくだけ。最初は、地面から体を離し、「スタート」のホールドをつかみ、足もホールドに乗せ、壁に引っ付いた状態から始める。そして、「ゴール」のホールドを両手でつかんで、静止できたらクリアだ。

 難易度が低いうちは、足はどのホールドを使っても良いが、難易度が上がると手と同じホールドしか使えない。手が「黄の9」なら足も「黄の9」しか使えない。ただし、壁を蹴ったり引っ掛けたりするのは良いらしい。

「指が痛いわ」

 開始十分で佐羅谷がじっと手を見ている。チョーク粉で白くなった指は、かすかに震えている。

「佐羅谷さん、九頭川くん、休憩しながらやってね。特に慣れないうちは、握力がすぐになくなるから」

 確かに。初心者用の白課題は簡単だが、調子に乗って次から次やっていると、握力がなくなり、腕が動かなくなる。

 予想できるように佐羅谷は力がなく、初心者用の課題もときどき登りきれず、無様に落ちていた。腰ではなく、足から落ちろと言われているのに、だいたい背中から落ちている。危ないなあ。

 休憩用のベンチに腰掛けて、ボルダリング部の活動を眺める。隣に少し空けて佐羅谷も座る。すでに帰りたそうな雰囲気を醸し出している。こいつにしてはわかりやすい表情だ。

「しんどくはないけど、腕に来るな」

「そうね。下から見ていると簡単そうなのに」

「神山、部長だけあって、さすがにうまいな」

 素人の俺が見てもわかる。同じ課題をやっていても、何というか、動きが美しい。無駄がないというか、簡単にこなしているように見える。だが、いま神山が向かっているのは初心者用よりランクが三つは上の課題で、たぶん俺はスタートのホールドにさえしがみつけない気がする。なんなのあれ、ペットボトルの蓋くらいのホールドなんだけど。抓んで体を支えるの? 

「九頭川くん、これ開けてくれないかしら」

「は?」

 佐羅谷が頬を少し赤く染め、俯きがちにペットボトルを寄越す。いろはす。俺は奥大山の天然水のほうが好きだ。

「ペットボトルくらい自分で開けろよ」

「前に何でもしてくれるって言ったでしょう」

「してほしいことなんかないって返ってきたじゃねえか」

「いつまで昔のことを根に持っているのよ」

「そのまま自分にブーメランだからな、その発言」

 だが、俺もそこまで意地悪する気はない。佐羅谷からペットボトルを奪い、蓋を開ける。開けようとして、佐羅谷が頼んできた理由がわかった。指に力が入らない。意外とペットボトルの蓋は強い力でしまっているのだと知る。歳を取ると開けにくいわけだ。

 ボルダリングで酷使した指で、もともと力の弱い佐羅谷なら、ペットボトルの最初の蓋はつらいかもしれない。

 素直に力が入らないから開けてくれと言えばいいものを。

 俺もかなり危うかったが、一応は面目を保って蓋を開けると、佐羅谷に渡す。

「ありがとう……」

 小声のお礼を俺は聞き流した。

 恩を売るにも安すぎる、どうでもいいようなご奉仕だ。

 結局、その日はかつらぎ高校ボルダリング部しかジムにはやってこなかった。もともと、移動時間も含めて2時間しかできない部活だ。神山の意中の人がどこかの生徒か学生かわからないが、しばらく通わないと会えないだろう。

 佐羅谷はくたびれた表情で、ボルダリング部の面々と一緒に顧問の車で帰っていった。俺は一人、自転車で直帰した。アルルに寄って行こうかとも思ったが、食品スーパーは広すぎて混雑して使いにくいので、家の近くのマンダイを散策して帰った。やっぱり高田市民は、高田で買い物すべきだと思うんだ。


 二日目は俺と宇代木がボルダリングに参加した。佐羅谷は恋愛研究会で留守番。

「えー、いいじゃん、後ろ乗せてってよー」

「前にも言ったと思うが、二人乗りはいけません。歩いて行けるほど、ジムは近くない。諦めて、ボルダリング部の車に乗れ」

 予測はついたが、宇代木がごねた。

「サービスするからー」

「一応聞いてやるが、サービスとは」

「んもう、わかってるくせにー。実演する?」

「サービス料を取られそうな気がするから、やめとく」

 宇代木がからかう。胸元を強調する仕草が扇情的で、俺は視線を逸らして自転車を押す。そりゃあ、女子を自転車の後ろに乗せた時のサービスというとアレですよアレ。

 校門を出てもずっとついてくる。

 鼻歌を歌い、時々スマホを覗き、危なっかしい足取りで。

 宇代木みたいに気安く、人の懐に入り込んでくる女子は、男を手のひらで転がすのは簡単なのだろう。ちょっと甘えたり、ちょっと体に触れたり、ちょっと視線を流したり、ちょっと喉に引っ掛けた甘い声を出したり、「ちょっと」で世界を意のままに操る。

 一向に戻る気配もない。本気でどうする気だ。歩いてジムまで行く気か。

「ああもう、わかったよ。せいぜいお巡りに警戒しとけよ? 奈良県の警察官は陰湿なんだ」

「やったー、くーやん大好きー」

「はいはい、世界一うれしくない大好きいただきましたー」

「ひどいー」

 いそいそと荷台に乗る宇代木。クッションはないが、痛くないのだろうか。俺は後ろに乗ったことがないからわからない。というか、男はあまり後ろに乗ることがないな。横乗りで乗っているので、例のサービスについては正直、よくわからなかった。腰にしがみ付いている腕の感触、ときどき動いて組み直されるのが、妙に気恥ずかしい気分にさせただけだった。


「実はあたし、ボルダリングやったことあるんだよねー」

 小さなクライミングシューズを受け取りながら、宇代木は何気なく言った。

 交友も広くて、遊び回ることに長けた宇代木のことだ。パルクールやワカサギ釣りをやったことがあると言われても納得できる。その影に必ず男の存在が垣間見えるが、あえて気づかないフリをする。

 手慣れた様子で靴を履き替える宇代木。

 俺は慌てて止めた。

「待て宇代木。おまえはなぜ制服のまま靴を履き替えるのだ」

「え? 別に制服でも良くないー? 激しい運動でもないし。あたし、もう中は夏服だから、ブレザーさえ脱いだら行けるじゃん」

「その極短スカートでナニをする気ですか」

「ごくた……、何? え、スカート駄目?」

「駄目に決まってるざます」

「やるでがんす」

「お願いやめて、それでボルダリングすると、ここにいる部員全員とスタッフさんが前屈みになるから」

 神山含め、聞くとはなしに聞いているボルダリング部は、俺たちから目を逸らしている。気持ちはわかるぞ、痛いほど良くわかるぞ。止めたくて止めたくなくて裏腹な僕たちのこの気持ちを、みたいなJPOPの歌詞が浮かんでくるよね! 知らんけど。

「何、見たくないの?」

「そのセリフを考えた脚本家を殴り飛ばしたい。そこは言われて初めて気づいて、顔を真っ赤にして、慌てて「着替えてくる!」と更衣室に駆け込む演技をするべきだ」

「で、見たいの?」

「勘弁してください」

 俺が力尽きると、笑顔と苦笑をないまぜにした若い男性スタッフさんが、仲裁に来た。

「まあまあ、お嬢さん。その格好でボルダリングするのは、獲物を仕留めるときの奥義としてとっておいたほうがいいんじゃないかな。俺としては大いに興味はあるけど、このジムにストリッパー目当てのクライマーが増えても困るんでね」

「ほんと申し訳ない」

 クライマーというよりクレイマーだな。

 どうして俺がこんな気苦労をしなければならないのだろう。そして、一応納得したらしい宇代木は更衣室へ消え、なぜかスタッフさんに労われる始末。

「なんだか君も、大変そうだね。昨日の娘といい今日の娘といい、美人に囲まれて」

「そんなんじゃ、ないですよ」

 傍目には、美人な女の子二人と仲良くしているように見えるかもしれないが、今のところ部活仲間以下の間柄だ。同じ部活にいるだけの存在。何なら、佐羅谷は連絡先すら知らない。住んでいる市町村さえ聞いていない。宇代木は宇代木で、自撮りと一度の電話以降、何の電子的やり取りもない。直接会うと気安いのは変わらないが、今の時代、会っていないときの音沙汰がないと、友達と思われていないという疎外感を感じる。

 ただ、ネットで孤独なことを、周りはわからないだろう。おそらく、ボルダリング部の面々も、俺がたいそう幸せな学生生活を送っていると見えるはずだ。いやまあ、楽しいですけどね? 部活している間は、一応美少女二人が話し相手にはなってくれるし。

 その日も、神山の求める人は来なかった。神山自身、彼女の来る曜日を把握しているのではなく、なんとなく気づいたら目で追っているだけ。ただ確実に週に一回は来ているらしい。ボルダリング部は水曜はジムに行かず、学校で座学と基礎体力づくりをしている。土曜日は任意だ。筋肉を休める意味でも、毎日通い続けるのはよくないらしい。それは早く言ってほしかった。

 ともあれ、宇代木はボルダリング経験者らしく初心者用の課題は難なくクリアした。当たり前のようにボルダリング部員に混ざり、コツを教えてもらったりしていた。俺たち以外では中年男性一人と若い女性三人が途中から参加したが、ほぼ入れ違いで、俺たちはジムを出る時刻だった。


「明日は水曜日だから、ボルダリングはお休みだな」

 帰路、俺は宇代木から開放されることはなく、坊城駅まで送らされる。悔しいから、ことさらゆっくりとペダルを漕ぐ。

「まあ今週中あと木金とあるから、どちらかで会えるでしょー」

 ポカリを飲みながら、宇代木は少しけだるげだ。眠そう。

 こうしていると、本当にふわふわなだけの、ちょっと緩いところのあるかわいらしい少女なのに、俺は初日の印象が強すぎて、警戒心を解けないでいる。警戒を解かないのが正しい。

 佐羅谷がナンパされた日、あのあと電話をしたのか、何を話したのか、今でも気になっている。知ったところで過去は変わらない。

 だから、未来を問おう。

「宇代木、おまえ、休みの日は何してんの?」

「日曜はバイト。土曜日は遊んでるよ。あ、そうだ、くーやん土曜日暇だよね?」

「残念ながら、土曜日はバイトだ」

 親父から小遣いをもらっていて、特に不足はないが、学校以外に行くべき用事を作っておきたかった。もっとも、一日中ではないので、空きがあるといえば空きがある。

「じゃあ、十二時に坊城に集合ね」

「俺の話を聞け」

「土曜日は暇じゃないー?」

「それならせめて、ボルダリングを続けることにしろよ。今度の案件が片づいてさ、いきなりボルダリングしなくなるのも不自然だろ? 相手の女の人にとっても。だから、掛け持ちまではいかないけど、せめて毎週土曜日だけでも出たほうがいい」

「そっかー、くーやん、頭いいね!」

 ボルダリングの体験入部でやってきた人間が、神山と目当ての女子が連絡先を交換した時点でいなくなれば、あまりに不審だ。きっと、俺たち、といっても佐羅谷か宇代木の働きかけで新しい関係ができるだろうから、勘ぐるまでもなく作為に気づくだろう。

 だが、その心配はまだ早い。いま俺たちは、相手の顔さえも見ていないのだ。

「俺のバイトは二時までだから、行けないことはない」

「じゃー、約束だよー。今週はまだいいや」

「当たり前だ」

 まずは、自分の部活優先だ。

 高田バイパスの下道から狭苦しい坊城までの道へ入り、さすがに危ないので宇代木を下ろす。どれだけ狭くても、車は近い道を通りたがる奈良県だ。車がすれ違えない道を必死に通り抜けるよりも、大通りをのんびり走ったほうが早いのに。こうして常に歩行者は蹴散らされる。警察官仕事しろ。

 暴走する車をやり過ごしながら、近鉄坊城駅に到着。取り立てて何もない小さな各駅停車の駅だが、かの有名なだんご庄の最寄り駅だ。久しぶりに買って帰るか。近くには卸値市場ヨシムラもあるし、夕飯の買い出しもできるな。

 あまり来ない駅だ。ぼうっと小さな、タクシー数台のロータリーを眺めていると、目の前にペットボトルが差し出される。

「はい、いつものお礼〜」

「ああ、おまえも感謝する気持ちはあるんだな」

 しまった、つい本音が。

 すっと周囲の音が消える冷たい目に変わり、宇代木からゆるふわが消える。黄色の目が虚に光を失う。

「じゃあ、言い換えるわ。あまねを助けてくれて、ありがとう」

「あの日のことか。電話、してくれたんだな」

「あまねは何も言わないし、何もわからない」

 宇代木の視線がいっそう強まる。眉間にシワを寄せて、唇を噛み、怒りを隠そうともしない。

「おまえのその二面性、感心するわ」

「あたしは一つだよ。天は天をしてるだけ。あまねがあまねをしてるだけなのと同じ意味でね」

「なあ、宇代木、思うんだが」

「写真は消さない」

「おまえの恋愛相談にも乗っていい」

「……百億光年早いなー」

 宇代木の反応には、間があった。

 やはり、と、もしかして、のはざまだった。

 佐羅谷にはわかりやすい演技とわかりやすい脆さがある。宇代木の馴れ馴れしい親しさや気安さは演技だとすると、宇代木の脆さはどこにある。宇代木の脆さは、過剰な防衛反応だ。苛烈なまでに俺を排除しようとする。そしてそれは、佐羅谷を縛る呪いと同じ空気を感じる。

「あたしの心はあたしのものだ。人の心を電気信号や確率論に還元する恋愛相談なんて、ごめん被るね」

 強烈な自家撞着だ。

 たぶん、宇代木は自分で何を言っているか分かっていない。多少の反省はあったのか、髪を手櫛で梳きながら、肩を上下させる。表を上げたときには、宇代木天に戻っていた。

「ごめん、言いすぎた。今は少し、くーやんがこの部活に入れたのがわかる気がするよ。くーやんは、あたしともあまねとも、違う」

「そりゃ、違いすぎるだろ。染色体構成から」

「ほら、そういうところがねー。あ、電車来た。じゃあ行くねー」

 俺が答えないでいると、宇代木はやってきた電車に消えていった。俺はしばらく駅の外から出発する電車を見ていたが、宇代木の姿は見えなかった。

 俺は先ほどもらったペットボトルに口をつけ、

「げほっ」

 盛大に吐き出した。クソ甘い。良く見ると、五倍に希釈するコーヒーだった。その場で飲めないペットボトル、宇代木はどこで買ったのだろう。かわいげのない嫌がらせに、俺は苦笑しつつ、口を拭う。

 こんな悪戯を、楽しんでいる自分がいる。断じて言うが、マゾヒストではない。サディストでもない。他人を馬鹿にしたり、いじったり、周囲を威圧したり、己の優位を無自覚に利用し、わがままを通す「楽しさ」など低劣だ。楽しくもないことを楽しんでいるフリをしなければ維持できないグループなど、もう二度と俺は所属できそうにない。

 生きるってのは、仁和丸おじさん(40)が言うほど、悪いものでもないと思うぜ? 今度会う機会があったら、話してみようか。百億年後にでも。

 まずは宇代木に、光年は時間ではなく距離の単位だってことを説明してやるか。


 そして、翌週の火曜日。

 すっかりボルダリングに馴染み、俺は半ばボルダリング部員。日に日に指力が備わってきている。これがユビキタスか。違う。

 俺と宇代木が当番の時に、やっとその女性は現れた。

 こんにちはーと、清く正しい挨拶で入ってきたのは、初夏の明るい彩りのファッションに身を包んだ、大学生くらいの女性だった。上にはカーディガン、下は足首までのスカート? 最近はスカートに見えてパンツみたいなのもあるからわからない。

 休憩しながらちらっと顔をうかがったが、今どきのややおとなしい女子大生という印象だった。ピアスが堂々とできるのは高校生との違いだな。今までもそのくらいの歳の女性はいたので、今回が目当ての人かどうかはわからない。

 だが、目に見えて神山の表情が強張る。

「あの人か」

 隣の神山は黙ってうなずく。

 さっきまで課題に向かっていた宇代木が、目ざとくいつのまにか俺たちの前にいて、ペットボトルを口に当てている。こいつほんとに、時々後ろに目がついてるんじゃねえの? と言うくらい勘が鋭く、動きが素早い。やはり忍者の家系か?

「神山くん、あの人いつも一人?」

「ぼくが知る限りは一人だよ」

「ふうん。じゃあ、あとであたしが声をかけるよー。くーやん、何もしないでね」

「見ず知らずの女の人に声をかける勇気はない。安心しろ、ガヤに徹する」

「いろいろ嘘ばっかりー」

 宇代木は楽しそうに笑った。

 女性の名前は、田戸真静さんという。これはあとで宇代木が聞き出してわかったことだ。田戸さんは県立医科大の看護学科二回生。趣味で週一回ほどボルダリングに来ているらしい。一人暮らし。住まいはおそらく、この近辺。県立医科大も近いので、当然だろう。

 はたで見る限り、田戸さんもあまり積極的な、社交的な性格でないのはよくわかった。どちらかというと、本当に上達したくて、黙々と課題に向かうタイプ。ときどき周囲と話はするが、事務的な会話で終わっているようだ。何やかやと言っても、このグランドワズーのボルダリングジムは男性比率が高い。自分から会話はしにくいだろう。ボルダリングの腕前はそこそこで、神山と同じくらいらしい(これは神山が言っていた)。

 声をかけるときの宇代木の時機は絶妙だった。

 準備運動を済ませ、軽く簡単な課題を一通り終え、ちょっと難しい課題を二つ三つこなし、さて休憩か、というペットボトルに口をつけたあたり、一番状況に慣れて、気が抜けて、落ち着いたタイミングを見計らってのことだった。故意に入り込みやすい隙をついているなら化け物だし、無意識にできているならそれも化け物だ。

「おねーさん、上手ですねー」

「あ、はい」

 唐突に声をかけられるのが苦手な人間の反応だ。俺もよくする。わかる、わかるぞ、あ、はい。

 ただ、明らかに高校の体操着の女の子に声をかけられただけで、そんなに警戒はしていないようだった。

「あたし、宇代木天って言います。高校のボルダリング部の体験入部できてるんですけどー、女の人って意外と少なくてー、よかったですー、お話しできそうな人がいてー。お名前お聞きして良いですかー?」

「田戸真静です」

「たどさんですねー、たどさんはボルダリング歴長いんですかー? あたし、ほら、あの赤の11番の課題がー……」

 絶妙に逃げられない宇代木の会話。

 話を終わらせないように、必ず質問や投げかけで顔を向け、しかも、個人情報に関する答えにくい質問は絶対にしない。答えに詰まっても気にせず、また簡単な質問や同意を得るだけの話。身振り手振り、表情もくるくる、田戸さんに考える隙を与えずに、少しずつ距離を詰める。

「そういう時はあまり手元だけを見るんじゃなくて、怖くても足元を見るようにして……」

 田戸さんは真面目な人なのだろうな、と思った。宇代木のどうでも良い話に、きちんと応じている。

 どうでも良いのは、会話の内容だ。初めて会う人間同士の会話は、どんな内容であれ、ようは「あなたに興味があります」の表現の応酬だ。田戸さんの受け答えを見る限り、コミュニケーションはあまり得意ではなさそうだ。

 宇代木は緩急をつけつつ、相手が嫌がっていない範囲で食らいつく。

「ほらー、やっぱり、男子にコツを聞くのもやりにくい時があるじゃないですかー」

「ここって、微妙に駅まで遠いですよね? あたし、坊城まで行くんですけど、ホントめんどくさくてー」

「たどさんは、お近くなんですかー?」

「毎週来てるんですか? 決まった曜日ってあります? よかったら、一緒にやりませんか?」

「えっと、おねえさん、ですよね? 大学生ですか?」

 聞かれるがままに丸裸(比喩)にされていく田戸さん。二人とも小声なので、特に田戸さんの声は小さいので、休憩していても俺には聞こえない。

 聞き出しにかかった時間は、ほんの十分くらいだったと思う。当然のように連絡先を交換して、こちらに戻ってくる。

 スマホ片手に、かわいらしくウインク。こういう仕草って、うまくできるように鏡を見て練習とかするんですかね。やっぱり女子の女子力すげー。

 通り過ぎざま、圧力のある小声で、俺と神山だけに満面の笑顔。

「明日、ボルダリング部はジムに行かない日だよねー? 神山くん、うちの部室に来てね?」

「ああ、うん」

 神山は気圧されて、勢いでうなずく。

 その気持ちはわかる。緩くてふわふわなイメージだけで宇代木を見ていると、隙をついて来る押しの強さ。俺は慣れているから、特に何も思わないが。

 ともあれ、これで一つ、コマが進んだ。

 やっと本番に入れるな。


「じゃー、情報の共有は終わったねー」

 水曜日の放課後、神山が来るまでに、俺と佐羅谷は宇代木から基礎的な話を済ませていた。ほとんど、田戸真静という人物の話だった。宇代木が聞き出した情報量は膨大で、そのまま探偵社の浮気不倫レポートでも作れそうな程だった。探偵というと、殺人事件が起きる現場に必ずいるイメージだが、現実の探偵はほぼ浮気と不倫の調査しかしていない。むしろ、殺人現場に必ずいる探偵はただの死神だ。大迷惑。

「お待たせ、遅れてごめん」

 神山は一時間ほど遅れて恋愛研究会の理科実験室に来た。ボルダリング部の座学を半分切り上げてきたらしい。

 ボルダリングは座学も大切らしく、課題のムーブ(動き方)を話し合ったり、レスト(アタック中の手指の休め方)を考えることで、イメージトレーニングになるらしい。

 恋愛相談について、俺はまだ意見を述べる許可は出ていない。直接、田戸さんとつながれたのは宇代木だから、一番詳しい宇代木が、今後の案をまとめていくことになった。

「では、恋愛研究会の宇代木さんが代表して今回の提案をします」

 少し格式ばって佐羅谷は言った。

「はあい、宇代木天だよー。今回はあたしからアドバイスしますー」

 手元にノートを開く。

「まず、神山くんに確認するね。最初に聞いた通り、話ができる関係になれたら良いのね?」

「そ、そうだね」

「じゃ、まずは、自分たちの身分を明かしましょー。個々にバラバラに、同じ体操服を着てボルダリングをやっている高校生じゃなくて、自分たちはかつらぎ高校のボルダリング部である、そして自分が部長であると、あのジムに来ている人全員にわかるようにしようね」

「の、幟でも持っていくの?」

「ほんとは、顧問のセンセが毎回スタッフさんに挨拶するか、見学席にいてくれたらいいんだけどー」

「あー、先生は無理やり顧問になってもらったところがあるから……」

 車を動かせて、暇そうな先生に頼み込んだらしい。神山もそれ以上は強く負担をかけられないらしい。確か、生徒がジムにいる間、顧問は車で書類を作ったり、テストの答え合わせをしていたような。個人情報保護的に持ち出していいのかしら。

「じゃあ、部長の神山くんが代表して、挨拶すること。ジムに入った時、ただこんにちはーって言うんじゃなくて、かつらぎ高校ボルダリング部です、よろしくです、ってね」

「宇代木、それになんか意味はあるのか?」

「あるよ。周囲に、自分たちの身分と立場を明確にする。だいたいね、高校生の男子が五人も六人もまとまっていたら、たとえ大人しくても、周りには威圧感を与えるものなんだよ。でも、自分たちから自己紹介することで、得体のしれない男集団が、高校のボルダリング部員に変わる。万が一何かあっても、高校にクレームをつけるという形で、相手に手綱を握らせることができるじゃんー」

 なるほど、確かにそうだ。どこの誰かわからない子供のはしゃいだ声は騒音だが、特定の誰々さんの子供の声は、まだ少し許せる。そのうえ、自分が知らないところで自分たちの紹介をしてもらえる。ジムの会員同士で、彼らはかつらぎ高校の生徒だよ、というふうに。かつらぎ高校はそこそこの進学校なので、あまり悪印象もないだろう。

「まずは自分たちは怪しくないってジムの人たちに周知しないとね。で、神山くんは部長なんだから、みんなを代表して挨拶すること。なんなら、他の部員は今まで通りにさせてもいいよ。自分で名乗りながら、先客には、ちょっと騒がしくなるかもしれませんがごめんなさいーとか、後から来た人には、やりたい課題があったらすぐ退けるから遠慮なく言ってくださいーとか、とにかく、全員に話しかける心づもりで。もちろん、名乗りながらね」

「け、けっこう大変だね」

 神山は途中からメモを取り出した。

 軽い話だと思っていたら、指導が驚くほど細かい。俺も驚きだ。宇代木のアドバイスが細かいことに、ではない。宇代木は、自分で伝えるこのようなアドバイスを、平時当たり前のようにこなしているということに、だ。

「それから、部活なんだから、今みたいに部員が各自テキトーに課題に当たって、ただ時間を消費するだけじゃダメだよ。レベルに応じて、同じ課題を一人ずつチャレンジして、人の動きを見て、意見交換したり、お互いに技術を向上させなきゃだよ。今のままだと、ただボルダリングの好きな個人が集まっているだけ。個人集団を部活の集団に変えるのは、部長の役目なんだから」

 部活内容についてまで指導が及ぶ。

 さすがに言い過ぎではないかと神山を見るが、うつむいて、メモを取っている。少し居心地が悪そうだ。しかし、宇代木の指摘は正しい。部活動ならば、個々が好き勝手時間いっぱい課題に向かうのは、許されない。部活には学校からお金も出ているのだ。ボルダリングで遊びたいだけなら、自分のお小遣いでやればいい。

 それに、多人数が課題に向かうと、ジムに来ている他のお客さんが何もできなくなる。ジムはそこまで広くない。

「オブザベも、座学でやるより現地でやったほうがはかどるでしょー?」

「耳が痛いよ、宇代木さん、ほんとうによく見てるね」

「それでねー、声をかけながら、少しずつ使える人を集めていくのー。まずは、ボルダリングの座学の講座とか講習とかを主催するの。かつらぎ高校ボルダリング部としてね。特に、年長で、技術があって、教えたがりの人を味方につけられたらいちばんだね。講師になってもらえませんか、とか、見本を見せてもらえませんか、とかね。高校まで来てもらうのはかなり負担だから、ジムでちょっと集まって話をするくらいでもいいと思う」

「恋愛相談から離れている気がするな」

「九頭川くん、黙りなさい」

 彫像のように微動だにせず、スカートの上で手を合わせている佐羅谷。叱責のことばは音速を超えて俺の耳朶を打つ。何これ怖い。

「そろそろ、たどさんが出てくるよー」

 宇代木は不敵に微笑む。

 黄色のカラコン、いつ見ても鮮烈な色合いだ。見つめ返すのも臆するほどの。 

「さてさて、今までの中で、たどさんも参加者に含めることができたらいいと思うんだー。あの人の性格からすると、真面目に攻めたほうがいいよ。座学をするとか、研修をするとかいうと、その時に連絡先は得られるでしょ? もちろん、狙いはたどさんだけでも、他の人にも同じように、特に年の近い人たちには連絡先を聞いてね? あからさまに一人だけ聞くのはやめてねー?」

「すごい、ね。よく考えてくれてるんだ」

「最終的には合宿とかできたらいいよね。周辺の高校にボルダリング部はないのかな? みんな巻き込んでやっちゃったらいいと思うの!」

 合宿まで一緒に行けたら、それはもうかなり距離も縮まっているのでは。まあ、男ばかりのかつらぎ高校ボルダリング部主催の合宿に、どれだけ人が集まってくれるかは未知数だが。

「あと、おまけで少しだけ。相手はおねえさんだから、甘えてみるのもいいかもね。庇護欲を刺激するとか、頼ってみるとか、相談してみるとかー。部長だけど本当は自信がなくて、とかね」

「うわー、あざとい」

「隙のない男は好きくないなー」

「それは隙というか、攻城戦で逃げ道を残しておくのと同じやり口だぜ」

「だいじょぶ、女子は男子のあざとさをわかった上で、のってあげるから」

「もういや、何も信じない」

「だから神山くん、心配しなくていいよー」

 何を心配しなくて良いのだろうか。

 神山もメモを矯めつ眇めつしながら、乾いた笑いを浮かべている。

「というところね。これが、恋愛研究会からの回答だけれど、いかが、神山くん?」

 途中、俺の口をふさぐときだけ発言をした佐羅谷は、ゆっくりと顔を向けた。

「うん、まさか部活内容まで指摘されるって思ってもなかったけど、ほんと、漠然と気にしていたことを言ってくれて、目標が見えた感じだよ。ありがとう、佐羅谷さん、宇代木さん、九頭川くん」

「うまく行くと良いわね」

「迫りすぎて、逃げられないようにね。あと、相手は大人の女性なんだから、断らせるような告白はしないように」

「ははは、それは難しそうだね」

 フラせるような関係しか築けないなら、告白するなと言っているのだ。恋愛偏差値が低くて、空気も読めない俺にはどだい不可能なことだ。神山にそこまでの判断ができるのか未知数だが、その頃にはすでに恋愛研究会に責はない。

「それじゃ、今日はここまでにしましょう。神山くん、また何かあったら、遠慮なく来てね」


 今日は、かなりへこんだ。

 自分のふがいなさに、役立たずっぷりに、いたたまれなくなった。

 茶化して、チャチャを入れて、茶番にするくらいしか存在を示せなかった。そんな存在は茶柱ほどの役にも立たない。

 神山が理科実験室を出たあと、一切目もくれない佐羅谷と、一切口も開かない宇代木に、なじられている気がした。

 言い訳しても仕方がないが、この二人は別格だ。もともと上位一割の恋愛強者でありながら、さらに自覚的に勉強や思索を重ねている。心理学や社会学の知見に当たる佐羅谷の手法も、勘や経験を深化させて人の心を読み解く宇代木の手法も、どちらも抜けや問題があったとしても、現実の恋愛相談を遂行しているのは間違いない。

 ただの思い着きや、場当たり的な意見とは、実が違う。

 恋愛相談、各人の考え一つで簡単にできると思ったら、大きな間違いだ。他人事で、馬鹿らしいことで、どうでもいいことで、ついつい斜に構えて、毒づいてしまう。恋愛に現を抜かすなんて、ああ、恥ずかしい、恥ずかしい! 照れて、踏み込みたくなくて、ついつい、逃げて、逃げて、逃げて……。

 俺は、あの部屋にいてよいのだろうか。

 何もかも、足りない。

 頭も、知識も、経験も、根性も、エンターテインメントさえも。

 役立たずだ、役立たずだ、役立たずだ。

 那知合にフラれた時とは比べ物にならない絶望感。新しくいてもよいと思えた場所は、たなごころにつかめたと思ったらただの幻覚で、はるか遠く、とても遠く、はらはらと指のすき間から零れ落ちる儚い蜃気楼。

(もっと、力をつけないと)

 追いつけない。

 追いつきたい。

 あの二人に近づきたい。

 あの二人に並び立ちたい。

 あの二人の力になりたい。

 あの二人の相談に乗りたい。

 勉強しないと。経験しないと。思索しないと。

 戦わないと。苦しさと、ニヒリズムと、羞恥と、この逃走癖と。

(理科実験室には、恋愛研究会の推奨本が置いているってか)

 だが、あれはだめだ。あれは佐羅谷や沼田原先輩が選んだものだ。佐羅谷の劣化コピーになれても、佐羅谷の恋愛相談に乗るには及ばない。今さらちょっとやそっと恋愛にふけったところで、宇代木の豊富な経験に勝てるはずもない。

 俺は俺の力で、俺のことばで、俺の経験で、俺のこころで、立ち上がらないといけない。

 俺は自分で、理科実験室に、恋愛研究会に、居場所を作り上げなければならない。

 他人が作った生ぬるい居場所ではなく、泥臭い、土と血のにおいがする、汗と涙に濡れた居場所を。


 東室のガストで、ドリンクバーを注文して神山と向き合っていた。帰るつもりが、なぜか待ち構えていた神山に自転車置き場で捕まり、ガストまでやってきた。

「ドリンクバーでいいよね? おごるよ」

 おごられるいわれはないと思うが、わざわざ拒否するのも大人げないか。各々適当な飲み物を入れて、一息つく。

「お礼を言いたくてさ」

 しばらくの沈黙の後、頬を赤らめながら言った。どうしてそこで赤くなるのだろう。恋愛研究会の女子二人と話すならばともかく、俺と話すのに赤くなる必要もあるまい。

「俺はまったく何もしてないぞ。今回はほとんど、宇代木の独壇場だ」

「うん、思った以上に、まさかここまで親身になって提案してくれるとは思わなかったよ。恋愛相談って、まるで進路相談だよね。ううん、進路相談のほうがもっと適当かもね。偏差値で切って、君はここ、君はあそこ、って言うだけだし。感動したよ。何をどうしたらいいか、今の何が悪いのか、きちんと指摘してくれた」

 熱っぽく語る目は活き活きとしていた。

「ボルダリング部もさ、どうにかしなきゃとは思っていたんだ。自分でやりたくて発起した部活だけどさ、作って、顧問もお願いして、部員も集まって、でもそこで力尽きて、しかも集まってくれた負い目もあるから、なかなか部長なのに強く出られなくて」

 だが、高校生がスポーツをやりたくて、人を集めて部活を作り上げるのは、生半の行動力ではない。きっと、神山はかわいらしい少年の見た目以上に性根が座っているのだろう。

「もしかしたら、ただの遊びからちゃんとした部活に変わって、辞める部員も出るかもしれないけど、でも、やってみるよ」

 窓の外、流れる車を見ながら、決然とした声。横顔に見惚れた。かっこいいじゃねえか、おい。

「宇代木さんから聞いたんだけど、毎週土曜日は出てくれるんだよね?」

「あー、そのほうが、自然だろ?」

 うやむやになって流れるかと思ったが、宇代木はやはり手回しが早い。すでに神山に話もつけているとは。ああ、だが、佐羅谷はまだ誘っていなかったな。こんど声をかけておくか。

「来てくれる時間には、ぼくも必ずいるようにするから。パスポートも使ってね」

「まあ、そういう部活だしな、俺ら。普段体も動かさねえし、週に一回くらいは。ちょっとは登れるようになりたいし」

「指導するよ」

「お手柔らかに」

 二人顔を見合わせ笑顔を交わす。

 神山、こんな顔だったっけな。つきものの取れたような、透明感のある表情だった。何も始まっていないのに、一皮むけたような。やるべきことを自覚し、決意しただけで、人の顔はこうも印象が変わるのか。

 俺は、どんな顔をしているのだろう。相変わらず、成長を拒否した、険の強い無表情だろうか。

「俺は、何もできなかったな」

「そんなことないよ!」

 独り言だ、慰めはいい。

 自分の無力は、痛いほどよくわかる。

 しかし、神山は本気で否定した。

「九頭川くんがいたからだよ、ぼくが恋愛相談に行ったのは。あの二人だけなら、ぼくは行かなかった。だってほら、二人ともきれいだから、近づきにくくて、怖いっていうか」

「俺は凡人だからな」

「そういう意味じゃないんだけど」

「わかってる。あの二人はちょっと怖い」

 見た目という意味ではない。見た目も、抜群に整っているだけで(特に佐羅谷)、顔貌が怖いわけではないのだが、同じ人間なのに、同じ学年なのに、はるか高みの手の届かない存在であることをまざまざと見せつけられるのが怖いのだ。自分が優れた人間であるとか、特別な人間であるとか、物語の主人公格であるなどと今さら誤解する気はないが、自分が自分の人生の主人公でさえないということを、自覚させられるのだ。

 あの二人は、主人公になれる存在だ。

 ネットやテレビの中ではないところに、自分の日常に、特別な存在がいる。自分が凡庸で矮小でその他大勢であることを思い知る。知ってしまう。

 それが、怖いんだ。

「九頭川くん、そんなに卑下することないよ。あの二人は、かなり九頭川くんのことを認めてるよ」

「……だといいな」

「驚いた。素直に、認めるんだ」

 神山が驚くことに驚いた。

 不思議か? 俺が佐羅谷に近づいて、離れたくないと思ったのも、宇代木に疎まれながら憎みきれないのも、どちらも、俺にはない世界を持っていて、あまりにも魅力的で、あまりにも輝かしくて、あまりにも、あまりにも……浅ましいことだが、どす黒い感情で独占して、一人己の心の中にだけで閉じ込めたいとさえ考えているからだ。

「それに、聞いたことない? 恋愛研究会は、特別な人しか入部できないんだ。普通は、門前払いされるんだよ。だから、入部を認められた時点で、九頭川くんには、何かがあったんだよ」

「何か、か」

 俺は恋愛研究会の存在すら知らなかった。入部に資格か何かが必要だということも知らなかった。門番は、犬養先生だろうか。

 佐羅谷とは確かにことばが通じる。ことばが通じたと思える。ことばが通じると嬉しさに悶えたくなる。だから、佐羅谷から離れないためには、最低限認められるしかない。今の恋愛研究会の二人に。それだけが、俺と彼女をつなぐよすが。

「俺は、佐羅谷のそばにいたかったんだ」

「九頭川くんは、その感情をなんて表現するの?」

「……惻隠?」

「やっぱり、九頭川くんはよく見てるんだね」

「よせよ、俺を口説いてもおいしいことは何もないぜ? 褒めてくれてありがとう、だけど、今は誰とも付き合う気はないの」

「何それ、佐羅谷さんの真似? 言いそうだね」

 モテたいを連発していた高二男子の心変わり、今の俺はモテたいどころではなかった。

 だが、ちょっとしたお遊びならお手の物だ。

「これから神山くんは大変だよー。部活も、恋愛もね。覚悟、完了ー?」

「宇代木さんの真似もできるんだ! 大丈夫だよ、今のぼくは、なんでもする覚悟があるから」

 最高の笑顔で、胸に手を当てる神山。

 俺が恋愛研究会に入部しての最初の案件は、こうしてかたづいた。あとは乗るも反るも神山次第。

 経過報告と結果報告を確約して、その日はお開きになった。とりあえず、週に四日行っていたボルダリングは週に一日にまで減らす予定。負担はずいぶんと軽くなるだろう。


「佐羅谷、土曜日あいてるか?」

 宇代木のいない隙に、さらっとうかがう。

 俺が恋愛研究会に来るようになってから、宇代木は必ず顔を見せるようになった。部員なのだから、本来は毎日出てきて当然なのだが、他の部活や友達付き合いで、来ないことが多かったらしい。

 明らかに、俺を牽制しての態度。

 俺の理性はそこまで信用できないのだろうか。宇代木のあの誘惑(?)にさえ耐えてみせたというのに。

 だから、宇代木の早退した時間は貴重だった。

「わたしの予定を知って、どうするつもり」

「そこまで警戒しなくてもいいと思うんだがな」

「ごめんなさい、九頭川くんに割く休日は、わたしにはないの」

「俺限定かよ……」

 さすがに、少しへこむ。

「あー、ボルダリングに行かないかってことなんだけどな」

「遠慮しておくわ。わたしにスポーツは似合わないみたい」

「そうか、残念だな」

 それっきり黙ったままコーヒーをちびちび啜る。

 部活の活動時間いっぱい、ことばを交わすことはなかった。たまに佐羅谷の視線が届いた気がしたが、その緑色の瞳の含む感情を推測することはしなかった。

 宇代木のいない放課後は、思った以上に静かだった。


「くーやん、アルル寄ってこ! 後ろ乗せてー」

「へいへい」

 毎週土曜日、当たり前のように宇代木に足にされる日々。俺も飼い慣らされた。ボルダリングの帰り道は、いつもアルルに寄って帰る。

 特に用事があるでもなく、ただ一時間二時間ほどぼうっとショップを眺めて歩き回ったりするだけのこともある。二階のフードコートや一階のベンチで適当に話をしているだけのこともある。というか、ほとんどそんなものだ。

 アルルの三階、喜久屋書店の前で化粧直しに消えた宇代木を待っていると、見知った顔が本屋の袋を持って出てきた。

 ミディアムの黒いストレート、初夏に涼しげな青色を基調としたトップスに、テキスタイルのスカート。私服姿を見るのは初めてだが、見紛うはずもない。

 向こうも気づいたようで、一瞬眉根を寄せたが、すたすたと一直線に俺の前にやってくる。

「奇遇ね、九頭川くん。こんなところで」

「佐羅谷も、アルルまで来るんだな」

「このあたりで大きな本屋さんはアルルの喜久屋書店しかないじゃない。わたしでも、買い物くらいするわ」

 でも佐羅谷がドンキとかトライアルにいる姿はちょっと想像できないかな、と思った。キティちゃんのスエットとか、絶対着ないでほしいです。ワークマンにいると逆に面白いと思った。建築女子ならまあ許せる。

 学外で見る佐羅谷の緑がかった瞳は、いつもより優しい気がした。きちんと着こなしたブレザーではなく、体型の出にくい緩い服装のせいだろうか。そういえば、いつもは真っ直ぐなだけの髪の毛も、今日は少し動きがあって、ふんわりと流れている。

 ともあれ、先日のナンパの件はもう克服できたらしい。そうでなければ、こんなところまで出歩けないだろう。

「九頭川くんは、一人?」

「今日は土曜日だぜ? 一人のわけがない」

「どうして、土曜日だと一人のわけがないの?」

「どうしてって、土曜日はボ」

「くーやん、お待たせ……って、あまね?」

「天もいるの?」

 小走りに近づいてきた宇代木は、制服の上だけ脱いで、オーバーサイズのシャツを着ていた。ボルダリングの時は耳にかからないように留めていた派手な髪が、今はふわっと頭を包んでいる。

 ちなみに、俺は私服だ。制服で休日に出歩くのは部活でも居心地が悪い。バイト帰りだし。しかも制服に付加価値があるのは、女子だけだ。男の制服でかっこいいのは、むしろ社会人になってからだ。

「ああ、そう、そういえば、そうだったわね」

 佐羅谷の凍るような声を聞いた。俺は対応に手をこまぬいて、何をすべきかわからない。怖くて宇代木に向けたままの視線を戻せない。

 宇代木はさりげなく俺の鞄の端をつかむ。

「あまねはボルダリングしないって言ったもんねー」

「そうね、仮入部だけで、わたしには合わないってわかったわ。部活時間が終わったのなら、プライベートは好きにするといいと思う」

 プライベート? なんだ、話が噛み合っていない。とんでもない誤解がある。これは、部活の話ではないのか。俺にとっては、ボルダリングもそのあと宇代木につきあうことも、部活のつもりなのだが。土曜日だけボルダリングを続けようと言ったとき、誘いさえ碌にさせてくれなかったのは佐羅谷のほうだ。

 一歩退いた佐羅谷に一歩踏み出そうとすると、体が動かない。宇代木が鞄を強くつかんでいた。表情は申し訳なさそうな笑顔を佐羅谷に向けたまま。

「じゃあ、また部活で。お邪魔したわね」

「おい、佐羅谷……!」

 なぜに機嫌を損ねているんだ。

 だが、体が動かない。

「じゃあねー」

 強い力ではない。本気で振り払おうとすれば、簡単に振り払える。だが、笑顔の奥に秘めた宇代木の底知れぬ闇が、俺の体と口を封じ込めた。

 佐羅谷はすぐに人ごみに紛れ、見えなくなった。

 ようやく、宇代木は手を放す。佐羅谷の消えた先をじっと見つめていた。俺が覗くと、にぱーっと笑顔で見返してきた。

「おまえ、佐羅谷に何か言ったのかよ」

「なんにも言わないよ。例えば、くーやんと付き合ってるなんてー」

「そもそも付き合ってねえよ」

 またこうやってはぐらかすのか。

 またこうやってうやむやをうやむやのまま放置するのか。

 そんなに、俺が佐羅谷のそばにいるのが気に食わないのか。今回の誤解は、なかなか解けそうにない。せっかく、神山の件が落ち着き、俺も独自に恋愛相談の勉強をし始め、何とかときどき意見を言えるところまで許されたというのに、すべて水の泡だ。

 気を抜いたところで、これだ。

 とりあえずは月曜日。全部話して、佐羅谷に納得してもらうしかない。

 それでも憎めないキャラクターを演じる宇代木。この化け物。スッスッとスマホを操作しながら、俺の鞄の紐をひっぱる。

「ほらほら、ごはん食べて帰ろー。クーポン出てるよ、くーぽん」

「俺の名前はくーぽんじゃない……」

「え、何それ、素でそんな寒いネタ言ったつもりなかったんだけど」

 悩みすぎて、夕飯に食べたラーメンはラーメンの味がしなかった。亜鉛不足の味覚障害かしら。別に頼んだ餃子は、とてもおいしかったことをよく覚えているのに。

 宇代木は、いつものように楽しそうだった。

 いつものように、底知れぬ笑顔を浮かべていた。


 アルルとはイオンモールのことである。元はジャスコとかダイヤモンドシティとか言ったらしいが、俺はその時代をよく知らない。

 三階建ての大きなショッピングモールで、奈良県最大の集客力を誇る。たぶん。今は京奈和道が通って、十津川の某所からでもギリギリ一時間半で来られるらしい。カタカナの「レ」というエンブレムがついたスポーツカーが駐車場にあったら、だいたいそれが十津川村民で間違いない。もちろんウソだ。県境を超えて和泉ナンバーまでやってくる、魅惑のイオンモールである。こちらは本当だ。

 悔しいことに、アルルは橿原と高田の境目の橿原側にある。この巨大施設が落とす売り上げや税金を思うと、たった数メートルの差で橿原に位置することが悔やまれる。高田は今里の民家を立ち退きさせてでもアルルに土地を提供すべきだった……! 

 って、何の話をしているのだ、俺は。

「くーやんはさー、アルルアルルって言うけどさ」

 三階のフードコート、魁力屋のラーメンをすすりながら、宇代木は落ちてくる髪を耳にかける。

「正式名称はイオンモール橿原であって、どこにもアルルっていう名前はないからねー?」

「またまたご冗談でしょう、宇代木さん」

「今のイオンは、ペットネームがないんだよね」

「待て待てグーグル先生に聞いてみよう」

 スマホにスッスッとアルルを問いただすと、一番上にイオンモール橿原の文字。ほら見ろ、間違いない。

「今のグーグル先生は空気を読みすぎるから」

 呆れる宇代木を横に、公式ホームページを流し見るが、ない、ない、ないぞ、どこにもない、アルルの文字が、どこにもない! 馬鹿な! 俺の知らない間にアルルはアルルでなくなったというのか! ではいま俺がいるこの建物はなんだ、並行世界のありうる可能性としてのアルルか? 蓋を開けるまでは確定していない半分生きていて半分死んでいる猫のようなアルルか? 

「バカな、アルルがアルルでないだと? こういう大きなショッピングモールはみんなアルルって言うんじゃないのか? 郡山のイオンモールは郡山のアルルだろ?」

「さすがにそれはくーやんだけじゃないかなー」

「いま俺の人格が否定された」

「くーやんはときどき面白いねー」

「もういい、ラーメン食べる」

 どうでもいい会話、どうでもいい内容、本心や本来話すべきことをすべて秘匿して、上辺のことばのやりとりだけで場をつなぐ。

 逃げるように消えた佐羅谷、弁解の余地をくれなかった宇代木、先の刺々しい雰囲気が嘘のように、弛緩した空気。夕飯には少し早いフードコートの適度にざわついた気配が、聞かれたくない会話にはうってつけのはずだった。

 ラーメンの味がしない。味はあるのだが、脳に味を解する処理をする余裕がない。どうやって、何から話を切り出すべきか考えていると、丼鉢の麺はなくなった。宇代木の鉢も、スープしか残っていないようだ。

 最後の餃子を箸でつまむ。

「もう一度聞くが、佐羅谷に何を言ったんだ」

「何もー? ボルダリングに誘ったのは、くーやんでしょ」

「ならなんで、あんなに不機嫌になるんだよ」

 もしかして、宇代木がボルダリングを続けるとは思っていなかった? 俺が誘おうとしたとき、理科実験室には佐羅谷しかいなかった。俺もいちいち宇代木のことは言わなかった。

 もしも、宇代木がボルダリングに行かないと佐羅谷に伝えていたとしたら? あの反応は、そうとしか思えない。

「あまねにとって大切なのは、恋愛研究会だけでいいんだよ」

「最低だ」

 かつて宇代木に浴びたことばを、もっともっと強く返す。

 ウソをついたのか、事実を述べなかったのか、本当のところはわからない。だが、どうして、人の心を勝手に決めつけて、勝手に閉じ込めて、狭い世界で、調和を取ろうとするのだ。

 沼田原先輩は、一年間変わらなかった佐羅谷が、ほんの一ヶ月ほどで変化して見えたと言った。変わることを、変わろうとすることを、否定するな。

 宇代木と佐羅谷は友達ではないか。なぜ、友情に亀裂を入れようとするのだ。

 俺には、わからない。

「あたしさー、このあいだ彼氏と別れたじゃない?」

「いや、知らねえよ」

 さらっと、このラーメン背脂多くない? と同じような口調で宇代木の恋愛を語られても、俺は何も聞いていない。そもそも、恋愛研究会以外での宇代木の交友や行動を知らないのだから、彼氏がいようがいなかろうが、知る由もない。まあ、宇代木なら米軍基地にプエルトリコ出身の海兵隊の彼氏がいると言われても、なんとなく納得できる。名前は偽名で「フォーク」だ。奈良県に米軍基地はないし、プエルトリコがどこの国なのか、俺はまったく知らないが。

 宇代木はレンゲで、背脂の浮いたラーメンスープをすくうともなくかき混ぜている。片方耳にかけたままの髪の毛、そのわずかに見える首筋に目が釘付けになる。見たこともない黒い肌の巨漢が、宇代木のうなじから首筋を撫ぜるさまを思い浮かべて、かぶりを振る。なんて妄想をしているんだ、俺は。

「だから、彼氏にふられたんだよー」

「だからなんだよ。彼女いない歴=年齢の俺に何をしろと? 恋愛相談してもいいが、嫌なんだろ?」

「ただの雑談じゃんか」

 俺のけっこう勇気が要った告白は、宇代木の心に刺さらなかったようだ。佐羅谷と宇代木、この二人に「ええかっこ」したところで詮無いことはわかっているので、わりと包み隠さず話せるが、それでも恋愛遍歴なしを晒すのは勇気が要る。きっと、宇代木の御大には理解できないことだろうが。

「あたし、誰とつきあっても続かないんだ。長くて、一ヶ月」

 その短期間でつきあったと言ってよいのだろうか。

「百戦錬磨の宇代木女史も恋愛は難しいか。参考までに、今まで何人とつきあったんだ?」

「十五人くらいかな?」

「女の申告する元カレやアレの人数は、倍にせよってじっちゃが言ってた。男の申告は半分にせよって、ばっちゃが言ってた」

「何それキモい。そういうの、わかった上で黙ってるのが男子力の見せ所でしょー。細かいことにウダウダ言ってるから、彼女いない歴がいたずらに伸びるんだよ」

 まあ、言っていたのは山田仁和丸おじさん(40)だけどな! 彼女いない歴については、俺も仁和丸おじさんをバカにできる立場にはない。

「つきあうなんて、簡単だよ。つきあうのはスタート。本当に難しいのは、関係を続けることなのにねー」

「それは、宇代木が恋愛強者だからだよ」

「何それ、あまねのことば?」

「宇代木みたいに、見た目が良くて、気立てが良くて、誰とでも仲良くなれて、男受けする手練手管を極めていたら、放っておいても男は寄ってくるだろ。俺や仁和丸おじさんなんか、黙っていたら誰も寄っても来ないさ。下手したら、男でも話しかけてこない。彼女を作るっていう、そのスタートにすら立つのも難しい。そういう人間もいるんだよ。そんな人間にとっては、彼女ができる、そのことをゴールだと思ってしまっても、仕方ねえよ」

 少しことばが荒れる。

 つきあえることが当たり前の人間の論理は、マリー・アントワネットのことばを想起させる。パンもお菓子も、手に入らない人間には、とてつもなく稀少だ。

「気に入らない」

 レンゲがスープに沈んだ。

「見た目に、気立てに、人と仲良くするのに、男に好かれるために、あたしが何をしてるか知ってる? どれだけお金をかけているか、どれだけ時間をかけているか、どれだけ頭を使っているか、くーやん、知らないでしょ? ありのままの自分なんて、誰も見向きもしないよ。何もしないくせに、好かれたいなんて舐めてんじゃないわよ」

 黄色の瞳が、熱い炎を湛えていた。

「あたしは、フリーの時は告白されたら誰とでもつきあうんだ。今まで、拒否したことはないよ。どんな人なのか、つきあってみないとわからないし。結果的に、続かないけどさー。くーやんの言う仁和丸おじさんだっけ? その人、いったい何人に声をかけたって言うのさ。百人に声をかけたら、一人くらいはあたしみたいな考えの人もいるよ」

「……一人に、声をかけることさえ、心が折れそうになるんだよ」

 三月末の自分を思い出して、かろうじて絞り出す。那知合花奏に告白した時、本当に一生分の勇気を使い尽くしたと思った。

 しかし、宇代木のことばは重かった。普段の宇代木も、俺を陥れるときの宇代木も、どちらもキャラクターとしての宇代木天を演じているならば、この強烈に痛切なことばを吐く宇代木が、一番素に近いのかもしれない。

「レンゲ、落としちゃったー」

 眉をハの字にして、宇代木は肩を落とした。宇代木天というキャラに戻った合図だった。

「みんな、あたしを好きだっていうんだけど、自分勝手に宇代木天っていうキャラクターを想像してさー、理想を押し付けて、実物がちょっと理想と違ったら、君は思ってたのと違うんだね、とか言って離れていくのー。あたしは、どうしたらいいんだろーね」

「恋愛相談か?」

「違うから。雑談だってば」

 宇代木は似合わない苦笑を浮かべた。

「誰も、あたしが好きになるまで、待ってくれないんだ」

 俺には、正直、宇代木が身も世もなく恋に溺れ、見境なく、誰か一人にのめりこむさまがまったく想像できなかった。つきあった男にすぐにフラれるのも、同じ理由ではないか。宇代木の誰にでも優しく、誰にも同じくらいしか踏み込まない態度は、適度まで親しくなれても、決して唯一の存在になれない。否応なく、その強固な壁が見えてしまい、男たちは諦めてしまうのではないか。

 宇代木天が宇代木天という性格を演じている限り、この壁は消えない。宇代木天は、特定の一人を好きになることができないキャラクターだからだ。

 だから、宇代木とつきあうには、踏み込めないと割り切って一緒にいるか、この強固な演技をやめさせるか、どちらかしかない。

「いつか、宇代木が、すべてを捨て去って、誰か一人を好きになれるように、祈っておくよ」

「というわけで、くーやん、つきあおうよー」

「勘弁してくれ」

「なんでー? 彼女いない歴=年齢もリセットできるし、あたしも彼氏が途切れないし、ウィンウィンの関係だよー」

「おまえそれ、ウィンウィン言いたいだけだろ?」

 一週間でフラれる未来しか見えない。こんなインスタントな彼女で、彼女いない歴が清算できるわけがない。俺には一つのウィンもない。

「モテたいっていうわりに、ほんと、強情なんだねー」

「だって、宇代木、絶対俺のこと好きにならねえだろ? そんな関係は、むなしい」

「つまんない、つまんない。これだから、童貞は。いつまでも、恋愛に幻想を懐いてたらいいんだ」

 ほんの小声で、俺にだけ聞こえるくらいの罵声を吐き、宇代木はトレイを持って立ち上がる。丼鉢を返却口へ置くと、俺のほうを顧みることさえなく、エスカレーターに早足で消える。

 あとで気づいたことだが、宇代木と一緒にいて、駅まで送らなかったのはこれが初めてだった。

「何だってんだよ、いったい」

 翌週のことを思うと、頭が痛くなった。

 胃もキリキリと痛くなる。

 しばらく、立ち上がることもできなかった。ようやく動けたとき、ラーメンのスープは、脂が固まっていた。


 月曜の昼休み、いつものように山崎の隣で弁当を開く。教室から見える尖塔に、とりたてて変化もなく佐羅谷が佇んでいた。表情や顔色は、見える距離にないが。

 ふと、情報通の山崎が知っているのか気になり、宇代木のことを尋ねる。山崎は、珍しく露骨に嫌悪を露わにした。知っているんだな。

「奴は、男の敵だ。女の敵でもある。あれほどわかりやすいビッチもいない」

 いかに宇代木が移り気で思わせぶりで小悪魔で計算高くて人心を弄び、男を虜にし、女から嫌われるかを力説する。嫌いなタイプはよく見てしまうという典型だろうか、山崎の情報は微に入り細をうがっていた。

 だが、山崎の語る宇代木の言行は、すべて演技上の宇代木の姿だ。はっきり言って、俺が知りたい宇代木の姿ではない。宇代木の根幹のようなところは、たぶん、俺のほうが詳しい。

「その宇代木が、佐羅谷と親友だとしたら?」

「ありえんな」

 即答。

「清楚にして可憐、高嶺の花を地で行く深窓の令嬢と、およそ対極の存在だ。話すことばさえ通じるかどうか怪しいものだな」

 佐羅谷に心酔する山崎は、無条件で深窓の令嬢の姿を信じているようだった。ほんの少し、本人と話でもしたら、過度に縁遠い存在でないことはすぐにわかるのに。

 深窓の令嬢研究家を名乗る山崎でさえ、これだ。自分の見たい理想の姿だけを見て、真実の姿は見えていても認識できていない。人はみな、現実の中のバーチャルリアリティに生きている。きっと、他人は俺が思うほど俺のことを見ていない。

 でも俺は、佐羅谷と宇代木を、見ている。あの二人の表象を見ている。

 あの二人は、俺のことを見ているのだろうか。


 それは恐ろしく罪深く、恥かしく、あさましく、おこがましい問いかけだった。


「九頭川、どうした? 顔面が蒼白ぞ」

「なに、どうすれば、神ごときものに並び立てるようになるのかと思ってな」

「なんだ、そんなことか」

 山崎は、自嘲した。根拠なき自信にあふれた山崎の、もしかしたら最初で最後の素の姿だったのかもしれない。よくよく考えれば、この時まで俺は自信満々ではない山崎を見たことがなかった。

「おぬしは、我から見たらすでに並び立っておるよ。我を見よ、これほど深窓の令嬢に興味があるというのに、どこにいるかも、どうすれば対話できるかもわかっているというのに、一向に行動には移せぬのだ。それにひきかえ、おぬしは軽々と、まことに軽々と動いた。俺はおまえがうらやましい」

「山崎……」

「九頭川、逃げるなよ。俺に言えるのは、それだけだ」

 しばし神妙な顔をして、山崎は眼鏡の橋を押し上げた。きらりと光るレンズは、山崎そのものだった。


 部活へは行くつもりだ。

 山崎に言われるまでもない、俺は、逃げない。

 だが、体は無意識にここへ向かった。

「いらっしゃい。放課後保健室登校とは、珍しいね」

 犬養先生は、驚いた顔ひとつせず、当然に俺を受け入れてくれた。

 保健室の主は、いつも同じような包容力で受け止めてくれる。俺だけが常連ではなかろうに、犬養先生は誰をも拒まない。

 この女性は、いったい驚くということがあるのだろうか。俺とは十ほどしか歳が離れていない。あとたった十年だ。一目見ただけで、すべてを悟るような大人に、俺はなれるのだろうか。

「言ったろう? あの甘い匂いのむせ返る空間は、男の子には苦しい、と」

 それだけが原因ではない。まつわりついて離れない重だるさは、俺の力不足に起因する。

 調子に乗って勢いだけで入部を決めたときは、すぐにどうにでもできると思っていた。

「俺は、あそこにいていいんでしょうか」

「くだらない質問だね」

 いろいろありすぎて、一気に自信がなくなった。

「九頭川は入部届けを出した。私は入部届を受諾した。それがすべてだと思うよ」

 形を尋ねたいのではないんだ。

「その質問自体、君はあそこにいたいと表明しているようなものだ。それが答えだ。ねえ?」

 そうだ、あそこにいたいのだ。

 あそこにいることを許されたいのだ。

 その許しは、どこでどうすれば得られるのか。

「もしも、恋愛相談部……じゃない、恋愛研究会にいる資格がどうの、能力がどうの、という思春期特有の懊悩に身をよじらせているなら、勘違いも甚だしいよ」

 色っぽい紅色の唇に人差し指を当てる。

「必要なのは、そこにいたいという意志だよ。意志は、力だ。所属を願ったとき、君はすでに所属している」

「そんな観念論の話をしているんではいんです」

「ほら、もうその答えが青い。ういねぇ」

 俺の真剣な思いも、大人から見れば瑣末な取るに足らないことなのだろう。確固たる居場所を持っている大人には、自分が何者かさえわからず震える気持ちを忘れてしまっているのだろうか。

 ただ居場所があることによって、わずかに自分を安定して感じられる。

「わたしが、ここにいるのは、自分で作り上げたからではないよ? 学校には保健の先生が必要という仕組みを作った人がいて、わたしに保健の先生を志させた恩師がいて、教育委員会がたまたまわたしを拾い上げてくれ、偶然にかつらぎ高校に配属された。たくさんの人が結果的に作り出した場所を、ちょっと間借りしているだけだよ。だから、ねえ、九頭川、恋愛研究会に、君はいてもいいんだよ。誰かが作った同好会の顧問をわたしが引き継いで、許可を出したんだ。佐羅谷も宇代木も、大きな顔をしているけど、間借りしているだけなんだ。間借りだよ。やがて、出て行かなくてはならないんだ。沼田原がそうだったように」

 作り上げた居場所ではなく、間借りしているだけ、か。だとすると、俺も対等の立場になれるのだろうか。そして、出て行くことが確定している場所に、たった一年や二年在籍することに、何の意味があるのだろうか。

「二人しかいない空間に、三人目が入る。そりゃあ、軋轢があるし摩擦も起きるだろう。でもね、できあがった人間関係、完全に無欠な人間関係なんて、ないんだよ。はた目にどれほど強靭な関係に見えたところで、つまらないほころびから破綻する。最初はみんな誰もが自分のものではない場所に飛び込み、やがて自分のものにする。その過程で、元あった関係が変化するのは当然だ。人と人との関わりは、閾い値を超えたら急速に変わる。それを我々のことばでは「出会い」という。出会いは、化学反応だよ」

「化学反応……もしかして、恋愛研究会が理科実験室なのは」

「くだらないシャレだよ。さ、わかったら、もう行きなさい。どんな居場所も、やがては出て行かなくてはならない時が来る。君も、彼女らもね。永遠に、ずっと、ぬるま湯の中でたゆたうことは、できないんだ。だから今は、居たいところに居てごらんなさい」



終章


 春先に比べて、太陽は高くなっていた。

 グラウンド側から教室を貫いて廊下まで伸びていた斜光は、今はもう届かない。暗くはないが明るくもない廊下をひとり歩く。自分の足音以外に、何も聞こえない。

 理科実験室から、何も聞こえない。

 「部員専用、入るな!」の掛け札を眺めて、手を伸ばし、少しためらい、もう一つの扉へ向かう。「恋愛相談受付中」の札を裏返し、「恋愛相談中、入るな!」にしてから、扉を開ける。

 教室の三分の一だけ照らす昼過ぎの光。

 俺は、黒の緞帳の前に立つ。

 緞帳の下、すき間から、行儀よくそろったローファーが見える。

 微動だにしない。

 しんしんと降りつもる埃。

「ようこそ、恋愛研究会へ。今日は、女子一人で相談を受け付けます」

「俺だ」

「間に合ってるわ」

「そこにいるのは偽者だ」

「あら、それは緞帳を開けるまで、存在の確定はできないわ、シュレーディンガーの九頭川くん」

「女子一人で相談を受けると言ったよな」

「あなたは、まだ発言できないものね。ねえ、九頭川くん?」

 わざわざ「ねえ、九頭川くん」のところだけ、後ろ向きに発話するあたり、芸が細かい。いま求めているのは芸ではない。

「なあ、俺をそちらに招いてくれ」

「意味がわからないのだけれど。もしかして、昨晩誰かに咬まれたの?」

「吸血鬼じゃないから」

「なんなら、天に咬まれたの?」

 シャレにならない冷たい声だった。

「あれは、」

 誤解だ、と言いかけて口をつぐむ。

 ゴカイを繰り返したところで、釣り餌にされるのがオチだ。あれを誤解ではなく他のことばで何とか言い表せないだろうか。勘違い、思い違い、すれ違い、齟齬、不幸の積み重ね……違う、どれも状況を表現しきれない。あれは、トラップだ。罠だ。陥穽だ。

 言い訳だ。何を言っても、言い訳だ。

 無作為も作為も放置した無作為が、この報い。

 いいように宇代木に踊らされて、一方で構われることを心地よく感じる心もあり、強く咎めなかった。積み重なった誤観測の山。誤観測も観測者にとっては本物だ。

「あの後、天から電話があったわ」

「なんだ、それなら」

「全然気づかなかったのだけれど、天とつきあうことになったのね。おめでとう、九頭川くん」

「待てい。どうしてあいつはそんなでたらめを」

「デートの邪魔をして、ごめんなさいね」

「デートじゃない」

「デートよ。男と女が、一緒にいたら、その理由が部活であれ、買い物であれ、出張であれ、全部デートよ。一人で行きにくい店だから、とか、家族のプレゼントを選びたいから、とか、部活の帰りだから、とか一人でできることに理由をこじつけて意中の人を誘うのは、常套手段でしょう?」

 ぐうの音も出ない。

 確かに、佐羅谷に指摘されると、デートであるような気もする。だが、デートはただ出かけるという行為に過ぎない。その行為に含意はない。ましてや、百戦錬磨の宇代木のことだ。下手をすると、毎日がデートかもしれない。

「あの子、誰かとつきあうのは初めてだから、大切にしてあげてね」

「はあ?」

 大声が出た。

 緞帳が揺れるほど。

 佐羅谷が顔をしかめた様が見えるようだ。

「声が大きいわ」

「あいつ、じゅ……何人ともつきあってきたって言ってたぞ、あの後」

「あら、そう? なら、どちらかがウソかしら。とてもそう思えないけれど」

 どういうことか、考えたくなかった。

 嘘をついているのか、冗談を言っているのか、からかっているのか。あるいは、俺と佐羅谷でキャラを変えているのか。その演じ分けは無意味だと思うが。

 そして、佐羅谷も驚いている様子がなかった。

「佐羅谷、全然驚かないんだな」

 親友に、嘘をつかれているかもしれないのに。

「天はわたしを裏切らないから。それだけは、絶対に絶対だから」

 特段、動揺した様子もなく、佐羅谷は力強く言った。

 信頼なのだろうか。それとも、信じたいのだろうか。俺には、宇代木の昨日の発言が嘘だとも真だとも、判断がつかない。冗談と言われればそういう気もするが、どうだろう。

「ともかく、聞け、デートはともかく、つきあってはいない。部活帰りだ」

「ふうん。恋愛研究会は土曜日に活動はしていないけれど、じゃあ、いいわ。そういうことにしておいてあげる」

 俺にとっては、ボルダリングも恋愛研究会の活動の一環なのだが、佐羅谷にとっては截然と区別されるものなのだろう。細かいことで。

 結局、宇代木が何を伝え、何を伝えていないのか、わからない。ただ、佐羅谷を蔑ろにしているように思えるだけだ。嘘や裏切りではないにしろ、友情が破断する行為だ。二人にとっては冗談の範疇かもしれないが。

「佐羅谷、我慢してるわけじゃないよな?」

 佐羅谷は友達が少ない。宇代木は、相当ひどいことをしても、佐羅谷が離れないことを知っている。その上で、怒りの沸点を探るような、あえて貶めるような行動をとっているのでは。

「多かれ少なかれ、天はずっとあんな感じよ、ご心配なく」

 話は終了とばかりに、佐羅谷が立ち上がるのが見えた。

 緞帳が開く。

 既視感のある光景だった。

「あなたのことは、まだよくわからないわ」

 おずおずと右手を差し伸べてくる。

 なぜそうしているのか理解していない表情だった。

 自分の行動に戸惑っている。そんなふうに感じられた。


 初めて佐羅谷と対峙したとき、右手は差しのべられていなかった。


 緑がかった瞳が、遠くの光を写してゆらゆらと揺れる。深窓の令嬢で作った表情ではない。何度か見たことのある、気負いの抜けた、心をとろけさせるような自然な顔。

 小柄な佐羅谷は、少し上目遣いに、俺を覗く。俯きがちだった俺の表情を見て、不思議そうな顔をした。俺は、何て情けない顔をしているのだろうか。

「ほら、こちらに来なさい。あなたの居場所は、こちらでしょう?」

 伸ばせば届く佐羅谷の手は、甘美なる誘い。

「俺に、資格はあるのか?」

「何をしち面倒くさいことを言っているのかわからないけれど、あなたはこちらにいたいのでしょう? なら、こちらにいなさい」

 図らずも、犬養先生と同じようなことを言われる。

 俺は無意識に手を伸ばす。

 だが、手は取れない。

 佐羅谷の手を握る寸前、理性で押し留め、きつくきつく拳を握る。

 手を握るのは、ダメだ。

 手は、特別だ。

 例えば、胸とかお尻とか腰とか太ももなら、触っていいと言われたら誰彼かまわず触ってしまうかもしれない。理性の歯止めも効かないかもしれない。俺も一介の男子高校生だ。

 だが。

 手を握るのは、ダメだ。


 手は、その人そのものだ。

 

 佐羅谷は、軽々しく手を差し出すべきではなかった。この手を握り返したとき、たぶん俺は、すべてを佐羅谷に捧げてしまう。自分の弱さも、不甲斐なさも、欲望も、欲求も、すべて、すべて、何もかも、押し付けて、きっと、ダメになる。

 そして、佐羅谷は拒絶しない気がする。

 それは、ダメだ。絶対にダメだ。


 俺は、佐羅谷に救われたいのではない。


 指と拳は、触れそうなほど近い。

 佐羅谷は手のひらの前の俺の拳を、揺らぐ瞳でじっと見つめている。

「ありがとう。これで、俺はそちらに行ける」

「そう、よくわからないけど、それはよかったわ」

 所在なく伸ばした手を折り畳み、佐羅谷は緞帳を戻した。

 なんとなく、もう二度と佐羅谷に手を差し伸べられる機会などないような気がした。大変な後悔をしそうだ。

 だが、思い直す。もう二度と、佐羅谷が手を差し出さないようにしたい。誰に対しても、だ。

「手を差しのべるのは、俺の役目だしな」

「え、何? 何か言った?」

「何も。よく考えると、佐羅谷の恋愛相談を受けるまで、俺はこちら側の人間だったな」

「さっきまで泣き出しそうな顔をしていたくせに、よく言うわ」

 戻した緞帳を背に、佐羅谷は優雅に身を翻した。

 いたずらっぽく口だけ動かして、最後に少し舌を出す。


 くたばれ。


 佐羅谷の口の動きは、俺にはそんなふうに見えた。


(了)

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