8巻前半『宇代木天はままならない(再)』
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
玉木くがね (たまき・くがね)
槻屋尊 (つきや・みこと)
加瀬屋真誠 (かせや・まこと)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)
杉原京香 (すぎはら・きょうか)
大杉右京 (おおすぎ・うきょう)
豆市咲蔵 (まめいち・さくら)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
序章
生徒指導と生活指導。
似たようなことばで、どちらも生徒から疎まれる役であることは間違いない。願わくば、指導など受けずにつつがなく高校生活を満喫したいものだ。
俺は生活態度も学習態度も良好なので、指導のお世話になったことはない。ほんとだよ?
金曜日の放課後、バレンタインにかこつけたチョコづくり体験会を終わりがけに抜け出して、俺と佐羅谷と宇代木、恋愛研究会の三人で生活指導室に向かう。
少し遅れて顧問の犬養先生がついてきてくれる。
「いったい、なんの呼び出しだろうねー?」
宇代木の疑問は、独白だった。
宇代木には律儀に応える佐羅谷が、黙ったままだ。俺はなおさら答えようがない。
(良い知らせのわけがない)
俺たちが呼び出されるなら、恋愛研究会が同好会から部活動に格上げする、その可否しかない。
だが、同好会や部活は学校の問題だ。俺たち部員に直接伝えることはないだろうし、緊急で呼び出しするわけがない。
つまり、悪い知らせだ。
生活指導室は歯医者のようなにおいがした。
ただ部屋にいるだけで歯が痛んでくるようなにおいだ。
低いテーブルを挟んで、三人ずつかけられるソファが向き合っている。
上座には二人いた。
生活指導の三浦と校長先生。
体育教師の中でもひときわ強面の三浦はソファに深く凭れたまま、部屋に入った俺たちを目で威圧する。
窓際に立っていた校長は優しい声で俺たちの名前を確認して、席を勧める。
「ほら、座って座って」
最後に入った犬養先生が扉を閉めてテーブルの横に立つ。
役者は揃った。
校長が三浦に大きなA4の茶封筒を渡したのが合図だった。
「おまえたちに確認することがある」
三浦は封筒の中身をぶちまける。
写真だ。
今はほとんど見ることがないL版の固くてツヤツヤした紙に印刷した写真。
どれも画質は悪く、この大きさでさえドットの粒が見えていたり、場所や人の顔が潰れているものがほとんどだった。だが、そんななかでも、何となく見えるものがある。
(これは俺たちの写真?)
俺と同じことを佐羅谷も宇代木も感じたのだろう。横目で見る二人の顔色から血の気が失せる。
「あるところから報告があった。うちの生徒がよくない場所をうろついているのではないか、という話だ」
よくない写真だ。
画質の悪い粗い絵でも、素性の良くない場所だというのがわかる。
三浦は俺たちが俯いたまま意識が飛んでいるのを、めんどくさそうなため息と舌打ちで呼び戻す。
コンコンとテーブルをノックする。
「さあ、話をしようか」
まずいと思った。
俺が今まで切り抜けてきたイベントや事件とは、難易度が違いすぎる。
これは、高校生としての危機だ。
面を上げる。
正面の三浦と視線が合った。
虚無だった。
教師としてこの程度の困難は何度もくぐり抜けてきたと主張している。強面で皺の深い三浦の顔は、歴戦の傭兵のようだった。
一章 宇代木天はままならない(再)
テーブルに散らばる写真は十枚ほど。多くはないが、少なくもない。
すべて被写体は「俺たち」のようだ。
のようだ、と推定形になるのは、画質が悪いことと正面から撮影した写真がないからだ。だが、「俺たち」のことを知っている者が見れば、なんとなく「俺たち」だと認定するだろう。
そのくらいの正確さで、十枚の写真は「俺たち」の姿を捕えていた。
(俺たちだ)
三浦が黙っている。
何も言わず、俺たちに事実を認識させる時間を取るやり口が賢しい。
俺は平然としたふりで、写真を一枚一枚見やすく並べていく。
並べるほどに、自分の恋愛研究会での事件の記憶が蘇ってくる。だから、これは「俺たち」だ。
例えば、コスサミの写真だ。高森の依頼でコスプレイヤー・ワンカさん(実は犬養先生)に会いに行ったときだ。帰宅時に電車で寝過ごして、鶴橋でいったん降りてホテル街を歩いた。佐羅谷と二人きり、俺にとっては人生で初めての女子とのデートだった。たまたまホテル街を歩いていたところが、誰かに盗撮されたというのか。何一つやましいことはしていないのに!
例えば、王寺駅前の居酒屋の前にいる写真だ。あのときはイリヤさんに頼まれて仕方なく合コンに参加しただけだし、アルコールは飲んでいない……が、そんな言い訳は信じてもらえないだろう。折り悪く写真には俺と佐羅谷しか写っていない。
同じような写真が続く。俺と佐羅谷、あるいは俺と宇代木のツーショットだ。てんしばとか、カラオケとか、ゲーセンとか、学校の中庭とか帰りが遅れたときの高田市駅のそばの公園とか神社とか。宇代木が一人のものも一枚あり、これは東京のイベントに行ったときの一枚だろう。間の悪いことに、背後にはかなり際どい格好のコスプレが一緒に写っている。
奈良のラウンドワンの入り口っぽいところの写真もある。こちらは沼田原先輩との写真だが、よく見ないと女子は誰だかわからないだろう。同じく一枚、俺が沖ノ口を抱きしめている(ように見える)写真も混ざっている。これは修学旅行のハートロックでの一幕だろう。
(悪意)
構図の切り抜きかたに悪意しかない。
三人以上でいる場面からあえて二人だけを撮影したり、人に聞かれたくない話をするために人気のないところにいたり、転倒しかけたのを支えただけ、たまたま距離が近かっただけ、そんな偶発的な事象、誰にだって起こりうる。
「なんの問題もないですね」
佐羅谷と宇代木が何も言わないので、俺が呟く。
「なんの問題もない、だと」
腹に響く声だった。
面を上げるとすぐ目の前にしかめ面の三浦がいた。
努めて冷静に、自分で自分に暗示をかける。この写真では(というか実際問題として)俺たちは何も悪いことをしている証拠にはならない。状況証拠でさえないのだ。
「なんの問題もありませんよ」
俺は繰り返す。
ここで怯んだりおびえたりするのは、悪手だ。
「写真ではたまたま二人きりのように見えますけど、これは部活で出歩いているところだから、画面の外に他のメンバーもいますよ」
「馬鹿者が。それで問題がないと言い切れることが問題なんだ。部活で夜中にホテル街や居酒屋通りやいかがわしいイベントに出歩いていることが、悪いことだと思わないのかっ」
こんっとテーブルを癖のように指で叩く三浦。
「おまえたちは未成年で、高校生で、大人の庇護下にあるんだ」
しまった。
犬養先生もイリヤさんもヒグマ先輩も、バイトの大学生も店長も、みな一様に一人前の扱いをしてくれているので、ときどき忘れそうになる。
俺はまだ未成年で高校生で、大人の助けがなければ本当の意味で一人では生きられないことを。
そして親や保護者や学校は、俺たちを守る代わりに自由に制限をつけることを。
俺たちが解決してきた恋愛や事件は、所詮は大人の力の及ばない高校生か、個人個人の問題の範囲だった。
大人の領分につま先を踏み入れた時点で、俺の小細工なんて露と消える幻だった。
「三浦先生、この子たちは、他の同年代よりも老成していますから」
犬養先生が硬い声で擁護してくれるが、逆効果だ。
「犬養先生、早熟であろうが老成していようが、生徒には生徒の分というものがあるでしょう。だいたい、部活動で出歩くなら、きちんと制服を着用すべきところだ。おまえたち、制服を着てこの写真にある場所を堂々と歩けるか?」
それは厳しい。
俺たちが黙っていると、三浦は鼻を鳴らす。
「ふん、なにが深窓の令嬢だ。浮ついた話を解決して回って生徒からはカリスマみたいに思われているようだが、実態はどうなんだろうな? おまえら、自分たちはトクベツなんだと勘違いしていないか?」
「わたしはそんなこと、思ってもいません」
「そうです! あたしたちは自分にできることを一生懸命やってるだけです!」
初めて佐羅谷と宇代木が反論するが、声に力はなくかすかに震えていた。
「生徒のお遊び程度なら、黙って見逃すこともできた。高校生くらいとなると、他人のちょっとした能力や技術の違いが……まるで別格の……鬼や神というのか、おまえたちのことばでは? そういう大したことのない差異をことさらに誇張して、仲間内で称えあったり嫉妬したりするのはよくあることだ。
だから、今までは何も言わなかった。それがおまえたちの言う「深窓の令嬢」であり、「恋愛相談部」とやらの信用だ」
三浦は写真を一枚一枚なぞる。
「……恋愛相談部じゃありません。恋愛研究会です」
「おい、やめろ」
いつもの調子で部活名を訂正しようとした佐羅谷を止めるのは、まったく間に合わない。
「ああ?」
三浦が凄む。
体育教師の本気はさすがに怖い。
佐羅谷がビクッとソファを揺らす。
「だったら、黙って研究をしておけよ。いちいち学校内外で愛のキューピッドみたいな真似をして、つまらない自尊心を満たして満足か? 大人ぶって夜のホテル街やら居酒屋やらを巡って、仲間内で一目置かれるのはさぞや気持ち良かろうな」
三浦の叱責は痛いところを突いてくる。
恋愛研究会は、間違いなくトクベツなのだ。特別だから、相談に来る。古くは雑誌やラジオ、今ならインスタグラマーや Vtuberに相談するように、恋愛相談に来る。第三者にだからこそ聞いてもらいたい悩みがあり、語れる恋がある。
そして恋愛研究会の神聖性を保証しているのは、間違いなく日々の佐羅谷あまねの「深窓の令嬢」としての振る舞いであり、宇代木天の口コミ活動の結果である。
後から参加した俺やミコマコにも相談者は信用して相談してくれるのは、ただ二人の築き上げた実績のおかげだ。
だが、そうやって周囲に頼られる、ありがたがられるというのは、自分たちの自尊心をくすぐるのは間違いない。人は誰だって、自分を求められると嬉しい。必要とされると、声をかけられると、存在を肯定された気になる。だから、ヒキオタニートの山田仁和丸(40)おじさんも、なぜかときどき俺を呼んでよくわからないアニメの講評をぶちかますのだ。俺の呆れながらの「さすが」「知らなかったです」「すごいですね」ということばを聞くためだけに。
佐羅谷や宇代木に素朴な承認欲求があるようには見えない(二人はそもそもあらゆる面で周囲に承認される存在だ)。それでも恋愛相談における依頼や感謝が、二人のアイデンティティの一翼を担っているのは間違いないだろう。
(黙って研究だけをしてろ、か)
三浦のことばは的確だ。
古今東西の哲学者・思想家・作家の恋愛についての言説を勉強したり、現実の恋愛の在り方を調べるだけでも、部活にはなるのだ。相談に乗るのは、おまけの活動だった。
「まったく、部活動の申請を保留にしておいて良かったな」
三浦は佐羅谷も宇代木も黙り込んだのを見て、腕を組んだ。
「ちょっと待ってください、この写真と部活動の申請は別の問題で」
「別のわけがないだろう、九頭川。こんな高校生らしからぬ活動をしている部活を、学校として認めるわけにはいかない」
「そんな。こんなの、誰かの陰謀です!」
「密告してくるような生徒がいるのは遺憾ではある。しかも匿名でな。だが、九頭川。この写真は事実無根か? すべて完全に人違いか?」
「それは」
俺は言い淀む。
被写体自体は間違いはない。切り抜きかたは恣意的だが、事実である。
「語るに落ちたな」
三浦は写真を封筒に片付ける。
「部活にする申請など到底受け付けられない。同好会も活動停止だ」
「待ってくださいよ、三浦センセ。せめて同好会は残してくださいよ。恋愛研究会を必要とする人だっているんですからっ」
宇代木が悲壮な顔をする。
一番執着がなさそうだと思っていたのに、そうか、宇代木も恋愛研究会を必要としているのか。今さら佐羅谷と依存関係にあるわけでもなし、部活を大切に思っているのだ。
俺も、わかる。
こんな幕切れは、違う。
「必要とする人もいるだって? 言い訳も大概にしろ。おまえたちは、自分たちが自由に使える部屋が欲しいだけだろう。放課後にだべりながらお茶のできる部屋をな」
ああ、ダメだ。
何を言っても三浦の頭には恋愛研究会がなくなるルートしかない。不利な証拠ばかり並んだなかで、今の俺たちにはなすすべがない。
「今のまま恋愛研究とやらを続けたいのなら、学校と無関係に個人で続けたらよかろ。わざわざ学校に居場所を作ろうとするな。学校は、勉強するところだ。恋愛にうつつを抜かすところではない」
ああ、そうさ。
三浦はもともと恋愛研究会を気に入っていなかったのだ。だから、部活動の申請もここまで遅れて、放置気味になっていたのだ。そして渡りに船とばかりの黒い証拠を得て、一気に潰す手に出た。
一歩間違えれば学校にも責任が科せられる生徒の恋愛についての部活動など、生活指導からしたら面倒ごとでしかない。
恋愛研究会は、部活動になんてなれなかったんだ。
「三浦先生、待ってください。さすがに話が急すぎます」
「犬養くんの言う通りです。三浦くん、少し先走りすぎではないですか」
弱い立場ながら庇ってくれる犬養先生に、ずっと沈黙していた校長先生が初めて口を開いた。全校生徒に話すときよりも、声に血の通った暖かい口調だった。
「犬養先生はお若いから、生徒の味方をしたい気持ちはわかります。ですが、先生、彼らがこんな場所をうろついていることを、あるいは出かけることを知っていたのですか? 顧問というのは、名前を貸せば良いというものではない。わかりますね?」
「そ、それは」
犬養先生はだいたい俺たちの活動を知っている。名古屋のコスサミは俺と佐羅谷だけで動いていたことも、宇代木が東京のコミケに一人で行っていることも、それ以外の活動でも恋愛研究会はすべて記録を取っているので、目を通しているはずだ。
ときどき笑われたり呆れられたりたしなめられたりしたが、ひどい注意を受けたことはない。犬養先生が俺たちに甘いということもあるし、本人も大学の途中まで放縦だったせいで、若者はちょっとくらい羽目を外すものだという考えが前提にある。
しかし、その理屈は三浦には通じない。
俺でも世間的には三浦が正しいと思う。
「まあまあ、三浦くん。彼らは彼らなりに大人になろうとあがいているのですから、頭ごなしに切り捨てるのはいけませんよ」
「補導されたり、問題が起きてからではまずいんですよ、校長」
「ここで急に自分たちの活動が強制的に終了させられるほうが納得もできないし、自主性を失って非行に走ってしまうと良くありません」
「確かに下手に荒れてしまうのはいけませんが」
「ですから、こうしましょう」
校長は一人ずつの顔を見渡す。
「恋愛研究会は今年度まで活動を許可します。その後、翌年度は原則として解散する方向で進めていきましょう」
俺たちは誰も抗えなかった。
犬養先生も渋面で俯いている。
三浦は腕を組んで体を反らしている。ほとんど三浦の言う通りになったようなものだ、不満はあるまい。
「では、これでよろしいですね? 君たちもお疲れ様。もう帰って良いですよ」
出来レースだった。
恋愛研究会は、終わる。
恋愛研究会は、消える。
最もひどい不本意な形で、俺たちをつなぐ絆が、強制的に断ち切られる。
俺は何もできなかった。
俺は何もできなかった。
「失礼します」
生活指導室を出る。
おざなりな挨拶は力がなく、俺たちの声が校長や三浦まで届いたかはわからない。どうでも良かった。あんなやつらに挨拶なんて。
佐羅谷は口は動いても声は出ていなかったし、宇代木は強く緊張して割れそうな声だった。
三人並んで歩く廊下に足音だけが響く。
遅れてもう一つ足音がついてくる。
「待ちなさい、三人とも」
犬養先生が呼びかける。
佐羅谷は脇目も振らず、宇代木は俺の様子を窺い、俺は対応に困る。
悪いのは犬養先生ではない。
むしろ、隙のある写真をネットに流された俺たちのせいだ。顧問をしているせいで、犬養先生はとばっちりを受けた立場だ。
俺たちが犬養先生に憤るのはお門違いだが、しかしだ。顧問の先生として恋愛研究会を守ってくれなかった。
保健室の先生など、学校内ではまったく権力がないという事実を見せつけられた。
「佐羅谷、止まれ」
俺は佐羅谷に命じた。
ここで犬養先生にまで見放されるのはダメだ。大人の味方は一人でも多いほうが良い。
佐羅谷は二歩だけ先んじて歩みを止めて顧みた。
宇代木がするりと佐羅谷の腕に腕を絡める。少しだけ佐羅谷の表情が緩む。
佐羅谷は大人だ。犬養先生の苦しい立場を理解しているし、恋愛研究会を庇いきれないわけも納得している。
怒りを抑えられず、呼びかけを無視しようとした佐羅谷は、かろうじて踏みとどまった。
「犬養先生、今までお世話になりました」
「おいおい、今生の別れみたいな挨拶をするんじゃない。今後の方策を考えよう。まず第一は、君たちが理不尽な扱いを受けないように、」
「犬養先生」
佐羅谷が遮った。
さまざまの感情が綯い交ぜになっているのを押し殺した声だった。
「お願いします。今は、なにも言わないでください。先生が悪くないのはわかっています。だけど、先生が、……っ、いえ、なんでもありません。ごめんなさい。お願いします」
「佐羅谷……」
先生が助けてくれなかったことに失望した、俺だってそうだ。自分たちだけで生きている気になって偉そうにしていても、いざ揉め事が起きたときには大人が助けてくれると無邪気に信じている。
それが叶わなかったからって先生を恨むのは、八つ当たりだ。子供っぽい責任転嫁だ。
顔を伏せた佐羅谷に、犬養先生はかぶりを振った。そして俺のほうを見る。
「とにかく、無茶はするな。自棄になるな。きっと、途はあるはずだ」
深追いせずに、犬養先生は踵を返した。
廊下に突っ立ったまま、俺たち三人は動きを止めていた。ここ三十分ほどで事態が目まぐるしく変わり、情報が溢れ返って、なにをすれば良いのかわからなくなってしまっていた。
生活指導室を出て歩いていたのも惰性で、どこへ向かうのかさえわかっていない。
「これから、どうしよっか」
宇代木が沈黙を破った。
俺たちは本棟と理科実験室をつなぐ渡り廊下にいた。
気がつけば、「巣」に向かっていた。
歩みが止まる。
すでに窓の外は暗く、黒い闇の中にかすかに紫とオレンジの名残が見えるだけだった。
廊下の蛍光灯型LEDが煌々と頭上に輝く。俺たちの影は、見事に別々の三方向を向いていた。
不吉だ。俺は少し位置をずらす。
「今年度は活動できるんだ。その間になにか方法を考えようぜ」
「そうだよねー。このまま終わっちゃうのもなんかヤだし、悔しいしー!」
恋愛研究会は形を残し存続させるか、自発的に解散する以外に、佐羅谷と宇代木を解放する方法はなかった。しかし、こんな形で消えてしまうのは、土台を崩壊させる荒療治に等しい。
きっと二人の心に嫌な思い出として残る。
そして、嫌な思い出の一員になってしまった俺のことを、好きになってなどくれない。下手をしたら、二度と会えなくなるかもしれない。
そんなのは、絶対に嫌だ。
佐羅谷は一歩、理科実験室に近づく。
佐羅谷の影だけが、あらぬかたを向いた。
「いいえ、活動は休止しましょう」
聞き間違いかと思った。
「はあーっ? あまね、なに言っちゃってんの? 意味わかってんの〜? その休止は、いつまでなんよ」
「そうだ。ここで嫌がらせに屈したら、密告した奴らの思う壺だ。さらになにかしら仕掛けてくるかもしれないだろ! 俺たちは、なにも悪いことはしていない」
写真には致命的な現場は写っていない。そもそも致命的な悪事など、俺たちは行っていない。
「この休止は、ほとぼりが冷めるまでよ」
ほとぼりなんて冷めないよ、と宇代木がもごもご言った。
「考えてもみなさい、いま活動したところで、制限ばかりでまともに動けないわ。だったら、嫌がらせに負けて大人しくしていると思わせたほうが得策よ」
嫌がらせの目的がわからないのだ。
大人しくしたほうが良いか、泰然と応じたほうが良いか、判断できない。佐羅谷の言い分に理はない。
「だいたい、どこでどんなところであの写真が流されたのかも、わからないのだし」
佐羅谷も宇代木もかなり衝撃的だったようだ。今どきどこかしらにライブカメラもあるし、スマホで撮影しているし、ネットをかき集めれば見つけられないことはないだろう。一般人の普通の行動をつぶさに追跡して探し当てるのが面倒だから、誰もやらないだけで。
(それでもピンポイントにすぎるが)
あれほど恋愛研究会を貶めるためだけの写真を集めたのは、仮想敵の手腕に脱帽する。
「あんな嘘か本当かわからない写真、気にする必要はないって」
「そだよー! なんなら、あたしたちであんな写真をばら撒いたヤツを見つけ出さなきゃ!」
「やめて!」
かすれた声。
叫び声。
まるで佐羅谷らしくない感情をぶちまけただけの怒りだった。
「嘘かほんとうかなんて、どうでもいいのよ。あんな写真がばら撒かれた時点で、もうおしまいなのよ。ダメなのよ。もう、取り返しはつかないのよ」
ウソだろ。
佐羅谷の声が震えている。
感極まって泣くのは良い。文化祭での佐羅谷の涙は、何よりも美しかった。
だが、未来が鎖されて自暴自棄になって泣くなんて、佐羅谷あまねにはあってはならないことだ。
「あまね……」
佐羅谷が洟を啜る。
うつむいた表情は見えない。
俺はかけることばを失っていた。
こんな難題をどうやって解決すればいいんだ?
教えてくれ、教えてくれよ、俺はどうなってもいい、この二人を救えるなら、俺はなんだってする。
佐羅谷と宇代木が傷つかずに、健やかに高校生活を送れるように。
そうだ。
そんな方法は、ない。
女子二人の悪い噂が広まってしまえば、親しい男子が奔走したところで心象は悪化するばかりだ。
俺は、無力だ。
渡り廊下の、本棟からばらばらと重さの違う足音が寄ってくる。複数人。
「九頭川くん!」
学校一のイケメンの声が俺を呼んだ。
田ノ瀬だった。
近づいてきたのは田ノ瀬を先頭に、玉木、沖ノ口、ミコマコの五人だった。
気まずくて会話もなくなっていた俺たち三人に、珍しいつながりの五人が交ざる。
「田ノ瀬、悪いな。放置することになって」
「いや、こちらこそ気づくのが遅れてごめん。こういうのに詳しい僕が一番に伝えなくちゃいけなかったのに」
「気持ちだけもらっておくよ」
いつだって田ノ瀬は俺の善い友達だ。佐羅谷や宇代木を巡って緊張感のあるハッタリを見せることもあるが、全部ひっくるめて信じることができる。
「せんぱい方、チョコ作り体験会の後片付けはぜーんぶボクたちがやっておきましたよ! これで貸し一つですからね!」
「マコト、やめなさい、押し付けがましい。それで佐羅谷さん、なんの呼び出しだったんです?」
田ノ瀬は何も話していないようだ。ミコマコの発言に隠れて渋面を見せる。
マコトが努めて明るく恩着せがましい言い方をしたのも、重い空気を払うためだ。本当になにも考えていないのは、あるいは事の重大さを計り損ねているのは、ミコト一人だ。
「佐羅谷さん?」
ミコトがウルフショートを揺らして佐羅谷の顔を覗きこむ。
俺も宇代木も、答えようがない。
部長は、佐羅谷だ。俺たちと部長の意見が食い違ったら、優先される判断は部長のものだ。
佐羅谷は深窓の令嬢の顔をした。
「そうね、槻屋さんと加瀬屋さん、今日はもう遅いから、一緒に帰りましょう。そのときに、先ほどの呼び出しの話をするわ」
「わかりました。ご一緒します」
「りょーかいでっす!」
そうか、もうミコマコに部活の休止を伝えるのか。佐羅谷の心は、もう折れているのか。
だがこんな部外者がたくさんいる場所で、もう下校時刻も過ぎている時間に、長々口論もできない。
「えーっと、じゃー、あたしも帰ろっかなー」
「待てよ。いつもみたいに駅まで送る」
「いーよー、今日は。ちょっと頭、冷やしたいしー」
「そうか、気をつけてな」
佐羅谷とミコマコ、宇代木が渡り廊下から消える。ずっと背中を見つめていたが、ついぞ誰とも視線が合うことはなかった。
俺は残った謎なメンバーに向き直る。
佐羅谷や宇代木と重い話をするよりは、まだ気が楽だ。
「さて、じゃあ俺たちも帰るか? 一緒に? みんなで?」
帰り道が逆になる田ノ瀬とは自転車置き場で別れることになったが、それまでに掴んだ情報と経緯を聞いた。
「学校内の友達関係でも、僕と個人的に連絡したいっていう人が多くてね。中には面識もない人が突然メッセージや写真を送ってきたりするんだ」
いつもは当たり障りない回答をするだけなんだけどね、と微笑む。
田ノ瀬と個人的に連絡を取りたい女子は多いだろう。おこぼれ目当てで男子だって寄ってくる。
「クリスマスの前、少しだけ佐羅谷さんと親しくしていたじゃない? きっと僕が彼女と付き合っていると思ったんだろうね、佐羅谷さんが実は素行が悪いという内容の文章と一緒に、何枚か写真が添付されてきたよ」
「最低な女だな」
「そうだね。でも今回は最低な行動に救われたよ。いち早く不穏な動きに気づくことができた」
田ノ瀬に届いた写真は、話で聞く限りどうやら学校に届いた写真と同じらしかった。ただし、俺と佐羅谷だけが被写体で、他者は写っていなかった。
田ノ瀬は俺に写真を見せようとはしなかった。もしかしたら、学校に届いたもの以上にひどいものもあったのだろうか。
「嫌な予感がしたから、僕は本当は宇代木さんが好きなんだって噂を流したんだ」
怖いことをするなよ。
「そしたら、今度は宇代木さんの不穏な写真と、まあこれでもかという悪い噂を聞かされたよ」
「宇代木は面と向かわない敵は多いだろうからな」
悪い噂を作るには事欠かない。あのギャルっぽい見た目に、社交的な性格。とりあえず誰とも付き合う(今は違うらしいが)なんて、素行が良いと言えない。
「それで、他にも学校で有名な女子の話を流してみたんだけど、全然変な写真なんて流れてこない。ただの嫉妬深い暴言とか彼氏がいるよ、とかその程度さ」
田ノ瀬が声を潜めた。
後ろについてきている玉木と沖ノ口に聞こえない音量で言う。
「これは佐羅谷さんや宇代木さんではなく、恋愛研究会を攻撃してるんじゃないか? そう思ったんだ」
「ただの同好会を潰して、誰が得をするんだよ」
「そうだね、僕にはわからない。だけど、九頭川くんはそんなあやふやなものを曖昧ななかで、どうにかしてきたじゃない」
それに、と田ノ瀬は言い淀む。
「友達が陥れられようとしてるのに、放っておけないよ」
「田ノ瀬……」
端正な顔をほんのり染めて見つめられると、男でも変な気持ちになる。やめろよ。誰にでもそんな顔をしてるんじゃないだろうな?
「だけど、きっと僕にできるのはここまでだよ。あとは、九頭川くん。君がどうにかしなくちゃ。恋愛研究会は、君たちのものだ」
自転車置き場では田ノ瀬の激励を受けて、そのまま別れた。
残ったのは俺と玉木と沖ノ口。なんだこの変な組み合わせは。玉木は徒歩、沖ノ口は自転車。なんとなく別れることなく、自転車を押したまま校門から並んで出る。
田ノ瀬が消えるまで、二人とも神妙な顔で黙りこんでいた。
「で、どうするよ? おまえら二人、なにか話があったんじゃないのか?」
玉木と沖ノ口はお互いに顔を見合わせて譲り合うように口を開いたり閉じたりする。埒が開かない。
「話せないなら、もういいか? 俺はこう見えて余裕がないんだ。おまえらに拘らってる暇はない」
「待て、九頭川。重要な話だ」
「わたしも。たすく、わたし、謝らなきゃ」
「だったら、早くしろっ」
ワックスの崩れかけた前髪をかき上げて、二人を睨む。玉木は息を飲んだだけだが、沖ノ口は肩を震わせた。しまった、久々に自分の目つきが悪いのを忘れて、語気を強めてしまった。だから嫌なんだ、焦燥に駆られると他人に優しくできない。
俺は乱れた前髪を手櫛で下ろす。
「少し言いにくい話だ。できたら、人目につかないところがいいんだが」
「わたしも、そう。できたら、たすくの部屋が」
「駄目だ」
沖ノ口の提案は絶対に受けられない。
俺の部屋が盗撮・盗聴されている可能性はゼロだろうが、家に出入りする様子を悪意で切り抜いて写真に撮る誰かがいるかもしれない。
これ以上、隙は見せられない。
「そ、そんなに怒鳴らなくても」
沖ノ口がいつになく弱気だ。
もともと那知合や上地とタメを張る強気な女子だったのに、見た目を淑やかに変えてから、心までおとなしくなったのか。いや、人間は心が外見を変えるように、外見も心を変える。沖ノ口の性質が武力や暴言に弱くなっている。ありうる。
「あー、高田市駅の北に神社がある。そこで話そう。このバレンタイン前の夜の神社に人はいないだろ」
俺の提案に二人は従った。
別に俺の部屋に執着はなかったらしい。
すっかり日の暮れて眩しいヘッドライトの車が行き交う道を、口を開かずに一列になって歩く高校生三人。傍目には居残りで叱責でも食らったかのように見えたかもしれない。お通夜の重い空気を背負っていた。
コンビニや料理屋、パチンコ店や学習塾など、ひときわ明るい高田市駅前に着くと、空気が生ぬるくなった。
駅のすぐ北の神社に自転車を押し入れ、静かな境内で俺たちは向かい合う。
「どちらから話してくれるんだ?」
三人のお互いの距離は同じで、結ぶ直線は正三角形を形成していた。
玉木と沖ノ口はしばし牽制するように視線を交わしていたが、
「じゃあ、わたしから」
沖ノ口が胸の前で手を重ねた。
「詳しいことは知らないけど、わたしにも、回ってきたの。写真。何枚か。目的は、わからない」
「目的がわからないだとっ」
ひっ、と沖ノ口が首をすくめる。
「わたしじゃない、わたしはやってない。し、信じてもらえないと思うけど」
「犯人なんかどうでもいい」
ああ、なんてつまらない話だ。
俺は犯人なんてどうでもよかった。ただこの惨事で、恋愛研究会とその女子二人をなんとかして救済することしか考えていなかった。
状況証拠でいうと、沖ノ口には前科もあり、動機もある。俺のことが好きという気持ちは持続しているようだし、佐羅谷や宇代木の立場を悪くして俺と引き離すことは、沖ノ口にとっては利益になる。
だからって、自分から無罪を主張するために真っ先に寄ってくるなんて、その性根が受け付けない。当の俺に、犯人を問い詰める気がなかっただけに、なおさら的外れな弁明が癪に障る。
「どうでもいいじゃねえか、犯人なんて。おまえはそんなつまらない自己弁護をしたかっただけか?」
「やめろ、九頭川。好きな男に嫌われたくないという女心がわからないのか。冷静になれ」
玉木が俺の視線に割りこむ。
「冷静? 冷静だって? 何もかもを失いかけてる人間が、どうやって冷静になれるんだよ!」
「だから、沖ノ口が自分は犯人じゃないって言ってるんだ。その事実は事実として受け止めろって言ってるんだ」
「犯人が自分から犯人だって言うわけがないだろ。犯罪よりタチの悪い、こんな嫌がらせで!」
常識で考えると、後ろめたい人間が被害者に近づくことはない。ただでさえ確執のある沖ノ口だ。冷静になるほどに、俺の推理は沖ノ口への疑いを深めるだろう。
だが俺は、好きな相手のためには手段を選ばない沖ノ口の心を信用できない。無罪の告白も、裏の裏まで想像してしまう。
「いい。たすくが、わたしを信用できないのは、わたしのせいだから。一つだけ、これだけは、ほんとう。わたし、何があっても、たすくの味方。それだけは、忘れないで」
沖ノ口の声は震えていた。
目を合わせずに一息で言い放つや、自転車にまたがってその場から消えた。止める間もなかった。
「沖ノ口……」
少し冷静になるが、結局なにも変わらなかった。情にほだされても、沖ノ口の言い分は灰色だ。冷静に、冷静に、扱いを保留する。
今はまだ、何かを確定する時間じゃない。
「さあ、残ったのは一人だけだ。玉木、おまえは何の用だ?」
ざっと土の擦れる音がする。
玉木は肩にかけていた鞄をその場に置いた。
目を瞑り、大きく深呼吸。
ゆっくりと膝をつく。
(なんだこいつ)
荒んだ俺の心は、玉木の行為を理解することができない。
玉木は上半身を折り、両手を地面につける。頭を深々と下げる。
世間一般で、土下座と呼ばれる姿だった。ドラマやアニメ以外で、実物を見るのは初めてかもしれない。お遊びではなく、意味のある所作としての土下座は、まずもってお目にかかれない。
玉木はなかなか面を上げない。
世間的に立場のある玉木が、俺にこうべを垂れている。
(やめろ)
玉木が何を企んでいるのかわからない。
だが、土下座を受け入れてしまえば、俺は玉木を許すしかなくなる。
「九頭川、すまない。俺のせいだ」
「やめろ。高校生がやることじゃねえだろ。おまえ、自分の立場を考えろよ。誰が見てるかわかんねんだぞ!」
「はは、俺だって、ただの高校生だぞ」
冗談めかして笑いながら、玉木はゆっくりと立ち上がる。土のついた膝を払うが、汚れは完全には取れない。
「ただの高校生同士でも土下座なんてするかよ。ヤンキーの抗争でもあるまいし。それに土下座で許されると思うなよ、何をしたか聞いてからだ。判断は、それからだ」
「ああ、話す」
俺は冷静だった。
玉木の行為で冷静さを取り戻した。今回の件に玉木が絡んでいるのは何となく察していた。だが、玉木が尻尾を掴ませるとは思えない。だから、俺は犯人なんて誰でもいいと言ったのだ。どうせ捕まえられない犯人探しをしても、溜飲を下げることさえできない。
大切なのは佐羅谷と宇代木を守ること。
犯人に罪を告白させたとて、二人を守ることはできないのだ。
「俺は佐羅谷あまねに逢うためにこの学校に来た」
初手からストライクど真ん中、掛け値なしの直球だ。
初めて玉木の口から語られる真実。
「目的は彼女を手に入れるため。日本に帰ることが決まった頃から、作戦を練った。ちょうど二学期の半ばだったか。そうだ。おまえたちが文化祭で目立とうとしたときだ」
「別に目立ちたかったわけじゃない」
「現地には行けなかったが、配信はどちらも見た。結論から言うと、見てよかった」
「初配信にしてはいい出来だったろ?」
俺のひょうきんな冗談も華麗にスルーされる。
「佐羅谷を手に入れるために、障害が一つあると思っていた。深窓の令嬢とやらで、学校内で神格化されていることだ。手の届かない高嶺の花は厄介だ。学内のくだらない力学に支配されるから、周りを納得させる立場と理由が必要だ」
厄介、だと?
玉木は佐羅谷を口説く立場も理由も、充分揃っている。佐羅谷と同郷の幼馴染で、ツイッツイーツの創業者社長だ。所詮は高校生のお遊びでしかない深窓の令嬢という肩書きも、玉木の前には霞む。玉木が佐羅谷と付き合うことになっても、どこからも苦情は出ないだろう(嫉妬は出るだろうが)。
「障害が一つなら、俺は速やかに自分のことを学内に広めて、佐羅谷を囲い込むつもりだった。だが、あの配信だ。そうだ、あの部活だ。そうだ、九頭川、おまえだ。宇代木もだが、男であるおまえだ」
玉木は疲れ目を労わるように強く目を閉じた。
再び開いた冷たい目が俺を射抜く。
「まさかあの佐羅谷あまねに、あんなふうに懐に入り込む奴がいるとは。あんなに気を許す男がいるとは」
「おまえの言う「あの」佐羅谷が「どの」佐羅谷かわからねえよ。俺にとっては、佐羅谷あまねはたった一人だ」
「知る必要はない」
玉木はすげなく言い放つ。
中学時代の佐羅谷のことなのだろう。毎週のように十津川の佐羅谷の両親に顔を見せてはいるが、まったく過去の話題は出ない。俺もどこか触れることを恐れている。知らなくてもいいと思っている。
「佐羅谷あまねは孤高でなくてはならない。友達とか仲間とか、そんなものは不要だ」
「……そうやって、どうして他人が佐羅谷の性格やら行動やらに干渉するんだ、型に嵌めようとするんだ、佐羅谷の意思をなんだと思ってやがるっ!」
「あの佐羅谷を知らないから、貴様はそう軽々しく言えるんだ!」
玉木がいきなり声を荒らげた。
冷徹な仮面が剥がれ、目が吊り上がっている。
谷垣内の拳を知っている俺は怯みはしないが、ことばに詰まる。
「ん、まあいい。おまえに対する怒りと、今回の謝罪は別だ。すまなかった」
「だから、何を謝ってるのかって」
「修学旅行のときだ。俺がスマホを置き忘れたのは覚えてるか」
「ああ、あったな。おがみ山公園の展望台だった」
「そうだ。あのとき、スマホから写真が盗まれたようだ」
「おいおい、社長ともあろう男が、スマホにロックもかけないのかよ」
「もちろんロックはかけてるし、社長業のスマホと個人用は別物だ。だが、マイクロSDカードに保存したデータは、ロックなしに見られるらしいな。改めて確認したら、スマホからカードだけなくなっていたよ」
白々しい。マイクロSDがなければ、すぐにスマホのデータなんて溢れるだろうが、と思ったが、スマホでゲームもしない、動画もダウンロードしない使い方なら、気づかないことはあり得る。
なにより根本的な問題は、どうしてあんな写真を持っていたのか、だ。
「盗まれたもんは仕方ない。終わった話だ。だが、あんな写真をコソコソ集めてんじゃねえよ。陰険なやつだ」
「敵の弱みを見つけ出して、効果的な切り札にするのは当然だろう?」
「切り札を盗まれて、好きな女を危機に晒してる男が、バカ言うな」
「それに関してはほんとうに反省してる。だから、九頭川。俺は佐羅谷の身を守るためなら、何だってする。手を結ばないか、ここだけは」
「休戦協定か」
「そうだ」
玉木は手を差し出す。
握手を求める。
佐羅谷を守らなければならないのは、是非もない。今後の噂の広まりによっては、保健室登校や引きこもりになってしまってもおかしくない。今までが巧妙に下駄を履かせて贔屓されていた状況なので、貶められたときの落差も大きい可能性がある。
佐羅谷は強くもあり弱くもある。
どう転ぶかまだ予測できない。
だが、ここで玉木を全面的に信じる愚行はない。
あんな写真をネットから収集してくる偏執狂だ。常軌を逸している。
(信じられるのは佐羅谷を害する気がないという一点のみだ)
「休戦はしない」
俺は玉木の手を取らない。
「だが、佐羅谷を助けるということの邪魔はしない」
「そう、か」
玉木は忘れている。
俺たちを陥れる写真をかき集めたということ、その無様な行為を俺に告白したことを。俺も容赦なく玉木を敵にできるってことだ。
話は終わった。
玉木は別れのことばもなしに、神社の境内を後にした。
二月の寒空の下、駅前の灯りに吸い込まれるように消えた。
俺一人が暗い神社の境内で、騒めく巨樹の葉音を聞いていた。
とても長い一日が終わる。
土日は地に足のつかない時を過ごした。
いつものように十津川でとある作業に従事していたが、機械的に体を動かしながら、頭はずっと恋愛研究会と今後の対処を考えていた。
佐羅谷の両親とも顔を合わせ、特に何も変化がないことを確認した。佐羅谷はあまり自分のことを親に話すタイプではない。きっと電話もほとんどしないのだろう。
イリヤさんはいなかった。
もう大学はほぼ休みに入っている期間で、土日に一度は顔を合わせて探りを入れられている。ところが今週に限って会えなかった。
気になったが、俺からイリヤさんに連絡することはない。勘の鋭いイリヤさんのことだ、下手にこちらから連絡したら、学校での出来事まで把握してくるかもしれない。
俺は何も悪くないが、何もできていないことを暗になじられるだろう。自分でわかってるんだ、無力なことは。
黙々と作業に打ち込みながら、俺は言い訳ばかりだ。
奈良の盆地よりもほんのり暖かい十津川で汗を流していると、悩みも少しは軽くなる。体を動かせば心もつられて元気になる。恋愛研究会に入ってから覚えた事実が、助けになる。
流れに、抗う。
自宅に戻ってから、俺はひたすらネットを漁る。今のところ、俺たちの写真も恋愛研究会の根も葉もない悪い噂も、公には広がっていないようだ。きっと、特定の連絡先を通じて、個人づてに広がっているだけだ。
玉木の盗まれた(と主張する)写真は一体どこから広まったのだろう。
犯人探しは無駄なのに、とは俺が言ったことじゃないか。無駄とわかっていても、本能が犯人を求めてしまう。ダメだダメだ。
とにかく今は平然と通学することだ。
弱みを見せずに、普段通りに。
憂鬱な月曜日を思うと、なかなか寝付けなかった。時計の長針が一周しても意識があったことだけは覚えている。
かつらぎ高校に上履きはない。
だから、ラブレター(死語)があるかとドキドキしながら下駄箱(死語)の扉を開けることもない。
では気になる誰かを呼び出すのに使う個別の郵便受け代わりに使える箱はどれかというと、教室の後ろにある各人のロッカーだった。通学のカバンや体育館用の上履きなどを入れておくのだが、時に闖入物が混ざっていたりする。
これが田ノ瀬なら見飽きた告白の手紙であり、谷垣内なら果し状であったりするのだが、これが俺、九頭川輔なら……。
ガチャと扉を開けると、滑り落ちてくる幾枚かの写真。
(素敵なバレンタインのプレゼントだな)
先週の金曜日に生活指導の三浦に見せられた写真と同じだった。ご丁寧にL判にツヤあり印刷で、そのままアルバムに挿めそうな画質だった。元の画素が粗いので、内容含め見るに耐えない絵だが。
念のために写真をまとめてカバンに仕舞っておく。ネットに転がっていないし、俺個人に送られたものはないから、あとでよくよく確認しておこう。
ため息まじりに片付けていると、首の後ろに教室から視線を感じる。
「?」
振り返ると、明らかに顔を背ける者が何人もいる。
俺は通学が遅めなので、教室には常に誰かしらいる。ロッカーに写真を入れるのも簡単だろう。比較的早く来ているらしい神山に聞けば、誰が一番に教室を開けるかわかるだろうか?
いや、意味がない。
俺は考えてすぐに否定する。
一番に来た者が写真を仕込むとは限らない。通学したら誰だって大概はまずロッカーに向かう。他人のロッカー位置をしっかり覚えているわけではないし、一つ二つ隣のロッカーに細工したところで、周囲は気づかない。
あえて推理するなら、他クラスの生徒ではないってことくらいか。さすがによそのクラスの生徒がロッカーをいじっていたら、違和感を覚えるはず。
ということは、俺に対する視線は、この写真とは無関係ということだ。単純な好奇心、別に今ここのロッカーに写真があると知っているわけではない。
どうやら、俺が思う以上に恋愛研究会包囲網は広がっているらしい。
「まずいな」
「どうした、何がまずい?」
「うおっ、玉木か。耳元で急に話しかけるなよ」
気配を感じさせることなくやってきた玉木が、俺の隣でロッカーに向かう。なまじよく通る明瞭な声が疎ましい。
「もしかして、何か嫌がらせでも受けたのか」
「何が嫌がらせになるか確認中ってところだな」
俺の言い方で、玉木は察したらしい。
「九頭川、休戦はするが、もしも佐羅谷に危険が及べば俺は最優先で彼女を守るぜ。たとえ、おまえの立場を失うことになってもだ」
「俺にはもともと立場なんてねえよ」
俺たちは短くことばを交わすと、席に着く。
朝のホームルームまで、俺はいつも通り文庫本を開いて過ごす。ちらちらと視線を感じるのは、思い過ごしか? 気にしすぎか? 本の内容はついぞ頭に入ってこない。大好きな作家の、待望の新作だったのに。
一限の授業が終わって、ここまで特に何事も起きない。むしろ何事か起きるほうが異常だ。
きっと教職員の間では例の写真について、恋愛研究会について情報が共有されているだろうが、先生はなにも言わない。当たり前だ。
だが、異変は休み時間に起きる。
先生が退室した直後の扉の周辺が騒がしい。
「ちょっと、ゆーと、落ち着いてっ」
「俺はこの上なく落ち着いてるぜ」
「ウソだっ! ダメだって!」
廊下から悲痛な叫びと憤怒の猛りが聞こえてくる。
この声は。
扉が乱雑に開く。
巨躯を折り畳んで、教室にスポーツマンが一人。茶髪を刈り上げた学校一の体育会系イケメン、谷垣内悠人。
怒気を孕んでいる。
ただごとではない。
一年のときはしばしば見た感情をあらわにした顔。二年になって距離を取ったのと、谷垣内が那知合と付き合い始めたのとで、性格は丸くなっていた。周囲を無差別に威嚇するような強面を見るのは、久しぶりだ。
教室から出ようとしていた生徒が怖がって腰を抜かしているが、谷垣内は関知しない。
後ろからおずおずと那知合も入ってくる。那知合の存在は谷垣内の歯止めになる。助かった。
どよめく教室をどこか他人事のように感じながら、俺は安堵した。
(いきなり殴られることはなさそうだ)
傲慢にも、俺は谷垣内から憤りを向けられることに納得していた。
谷垣内は、義に外れたことをしない限り、小物は相手にしない。腕力でも学力でもスポーツでも、自分より明らかに劣る者を等閑視する。谷垣内は自身の能力が高いから、比肩する相手を求める篩も目が荒いのだ。奴の目には大物しか写らない。
谷垣内と那知合の目は、まっすぐに俺を向いていた。窓際で冷や汗まじりにグラウンドを見つめて嵐の通過を待つ山崎など、存在さえ認知されていない。
俺はまだ、谷垣内に相手にされる程度に友達だと思われているらしい。
次の授業の準備をする手を止め、立ち上がる。
「たすく、行かないほうが」
そばに来ていた沖ノ口が袖を引く。わずかに震えていた。
俺が行かないと、教室が戦場になる。
谷垣内が黙って俺を招く。
沖ノ口が離れた。そうだ、それでいい。
那知合も離さないとな。谷垣内が那知合に危害を加えることはないが、俺が原因で仲違いなんてごめんだ。
谷垣内が教室を出るのについていきながら、ぼんやりと思った。
今日は長い一日になるんだな。
先週の金曜日も長かったが、この月曜日も長く、一筋縄では行かなさそうだ。
学校一の死角というわけではないが、植え込みと窓の少ない位置にある中庭のベンチ。俺は知らないうちに通っていた。こんな場所はリア充の恋人同士しか来ないと思っていたのに。
谷垣内が身を翻した。
怖い。
噴火する寸前の火山だ。
俺の後ろにいる那知合が息を呑む。
「花奏。離れてろ」
「やだよっ。ゆーと、絶対殴るじゃん。停学とか退学とか、やだよ。たっすんも被害者だしさ」
「殴るかどうかはこいつ次第だ」
谷垣内の優しさか、この場から那知合を退けようとした。
「那知合、言う通りにしてくれ。男同士の話だ」
「たっすん……」
俺に気遣わしげな目を向けながらも、那知合は棟内に姿を消した。
およそ那知合らしくない、まるで普通の女子のような振る舞いに表情。すべてが魅力的なはずなのに、不思議と俺は「女子っぽい那知合」にまったく魅力を感じず、むしろ幻滅さえしかけている。
那知合が女になるのは、谷垣内の前だけだからだろうか。
どちらにしろ、那知合に気遣われるなんて悍ましい。俺のことを男だとも思っていない無邪気な態度こそが、俺の好きな那知合だった。
「二人きりは緊張するな、谷垣内」
「やましいからじゃねえか?」
谷垣内はブレザーのポケットから皺の入った写真を取り出す。一枚、二枚、三枚、もっとある。ちょうど目の高さに掲げる。
見覚えのある写真。
つい金曜日に見た、胃痛がする暗い写真。
ああ、谷垣内も受け取ったのか。
「谷垣内にも回ってたか」
「輔。おまえ、この写真がどこにあったか知ってるか?」
奇異なことを言う。
今どきの嫌がらせやいじめは、痕跡を残さないようにネット上で匿名で、しかも大人には気づかれない巧妙な手口で行われる。
この写真も、口の軽いゴシップ好きな生徒に送付したのだろう。拡散するなかで、谷垣内のアカウントにも届いた。それだけじゃないのか。
「先週の半ばから広まり始めたらしいからな。もうネットに転がってるんだろ」
「無責任なことほざくんじゃねえぞ!」
谷垣内が写真を握りつぶし、両手で俺の制服の襟を締め、吊し上げる。谷垣内の力で持ってすれば、俺など軽く宙に浮く。
「これはおまえの写真じゃねえか! 自分と自分の仲間に攻撃してきてる奴がいるんだろ! 呑気に学校来て、授業受けてんじゃねえぞ!」
「ネットに広がった写真なんて、回収もできないだろ! 俺にどうしろって言うんだ!」
どうにかできるなら、俺が知りたい。
ネットの悪意とリカバリーの困難さは想像を絶する。消し去ることは赤の書記長でも難しい。
「もう一度聞く。この写真はどこにあったと思う?」
「だから、俺たちを陥れたいやつが送ってきたん……」
言いかけて、口をつぐむ。
谷垣内がわざわざ写真を印刷するだろうか。陰険な人となりを嫌う谷垣内に、誰が送るだろうか。
谷垣内の連絡先を知っている者なら、仲間を貶める写真を送付する者にも激怒することがわかるはずだ。
そう、つまり、俺たちを追い詰めるのに、谷垣内を動かすことなどできない。現に谷垣内の怒りの原因は「何もしない俺」であり、「写真の内容」ではない。
ということは、谷垣内が写真を見たのは、偶然。
谷垣内「が」見たのではない。
谷垣内「も」見たのだ。
つまり、公的な空間に写真があった?
「まさか、」
「朝、教室の黒板に貼ってあった。クソだ。サイテーだ。はらわたが煮え繰り返る。こんなつまらねーことをするやつが、学校にいるってことにな。文句があるってんなら、直接殴り合え」
「谷垣内……」
ひととおり罵倒して気が落ち着いたようで、声は低く小さくなった。だが、俺の襟首を締める手は弱まらず、いっそう強まりベンチに押し倒される。後頭部が生垣にこすれる。
「知ってるか? 佐羅谷はいっつも一番に通学してくるらしいぜ。だから、写真はその前から貼ってあったんだろ。想像しろよ、あのちっこいお嬢様が、通学してくる奴らにどんな目を向けられるか。全員が全員、深窓の令嬢を特別だと思ってるわけじゃねえ。トップの陥落をいい気味だって嘲笑ってるクソどもがいるんだ!」
「な、なんで佐羅谷は写真を剥がさないで……っ」
「剥がせるかよ! 佐羅谷が一番に来るのはみんな知ってるし、剥がしたら貼ったやつの思惑通りだって、写真の内容は事実だって、認めたことになっちまうだろうが!」
そうか、だから、権力の頂点にいる谷垣内以外に、写真を処分できる人間がいなかったのか。
「わかるか、おまえ、わかるかっ! 好奇の視線に晒されながらよ、震えそうな体を必死に支えて、凛と座って平然と澄ましてる女の気持ちが。なんでおまえが一番に助けに来ねえんだよ」
そんな理不尽な。
俺の教室にそんな写真はなかったし(ロッカーにはあったが)、佐羅谷からの連絡もなかった。
言い訳は浮かぶが、愚かだ。
俺は、愚かだ。
写真の広まった次の日の学校だ。
何がなくても、佐羅谷と宇代木の様子を見に行くくらい、当然すべきことだったのだ。名も知らぬ犯人が次の一手を打つことも考慮すべきだった。完全に後手に回った。
「今ごろになって情けない顔しやがって」
谷垣内の言う通りだ。
俺は顔も心も情けない。
無理なんだ。
だけど、無理なんだ。
今まで扱ってきた案件とは複雑さの階層が違う。
全世界に広まって、大人も嘴をはさむ状況にあって、俺が打てる術はない。ましてや写真はネットに晒されているわけではない。どこかの運営に連絡して写真の削除を要請することさえできない。個人が個人に送り合う写真を、止められる個人はいない。
せめて友達を誹謗中傷から守れたらと思うが、助けを呼ばない女を助けようがない。
「仕方がないんだよ、もう、終わったんだ! 俺は助けを呼ぶに値する友達でさえなかったってことさ。佐羅谷にとって、その程度だったって」
「甘えんじゃねえ!」
谷垣内がキレた。
それでいい。
今の俺が解放されるには、谷垣内の意に沿うか、反して殴られるしかない。だったら今は、甘んじて殴られよう。
谷垣内の巨躯が躍動し、拳が背後に弓のように引かれる。
(意識を保てるかな)
他人事のように俺は迫り来る拳を見た。
これが夢なら醒めればいい。
ひゅっと風圧を顔面に感じる。
目を閉じる。
「待て!」
かすかに聞こえた深みある声。
拳は振り下ろされなかった。
恐る恐る目を開けると、谷垣内の腕を搦めとる玉木がいた。
「邪魔をするな、玉木!」
「違う、悪いのは九頭川じゃない! 俺が原因なんだ」
走ってきた玉木は息を弾ませながら、谷垣内をうまくいなす。曇ったメガネを一拭きし、俺と谷垣内の間に立つ。
「話、聞いてくれるか」
玉木は俺にしたのと同じ説明を、谷垣内にも簡潔に話した。佐羅谷の現状を把握するために写真を集めていたこと、奄美大島のおがみ山展望台でスマホを置き忘れ、そのときにデータを抜き取られたらしいことーーもちろん、その場合、犯人は展望台にいた誰かなのだが、玉木はいっさい触れない。
谷垣内も近しい誰かが犯人だと察しただろうが、何も言わない。そもそも関係者以外があの写真を拡散する利はない。
「なるほどな。女々しいやつがいたもんだ」
「谷垣内、心配するな。俺の不始末は、俺が片を付ける。何があっても、佐羅谷たちを守る。今、九頭川を助けたようにな」
玉木の鋭い目が細い眼鏡の奥で燃え上がる。これ以上、俺に言い寄るなという牽制だ。
しばらく睨みあった末、谷垣内が折れた。
「だったら、任せる。もう二度と、俺の前であんなクソみたいな嫌がらせをのさばらせてみろ。今度はおまえを殴る。許さねえ」
「ああ。覚悟してるぞ」
玉木は拳を突き出す。
谷垣内は自分の拳を玉木の拳に軽く当てて、深く息を吸った。視線は校舎の隅に立っている那知合を見ている。隣には沖ノ口もいた。玉木と一緒に来たのだろうか。
「じゃあな」
谷垣内が立ち去る。
玉木が来てから、一度も俺のほうを見ない。
視線が合わない。
俺は谷垣内の意識から消えた。
「ウソでもいいから男を見せろってんだ。男からも女からも、守られてばっかりだな、輔」
ベンチの横を通り過ぎざま谷垣内が吐き捨てた。
身動き一つできなかった。
事実だった。
嘘をつかない、誠実だと言えば見栄えはいいが、自分の大切な女子さえ守れず、これからもどうするかを宣言できない。できない言い訳ばかりを並べる俺は、玉木に比べるまでもなく、小物だ。
谷垣内が消え、校舎の脇に立っていた那知合と沖ノ口も姿を消す。
「九頭川、少し対処法を考えないか」
「言っただろ? 敵と手を組む気はない」
「だが、このままではおまえだけじゃない。恋愛研究会のメンバーまで立場を失うぞ。男はまだいい。味方を失った女子は、やっていけないぞ」
「あの二人は、俺より強いさ」
俺は玉木の誘いは受けない。
この一年、ずっとずっと佐羅谷と宇代木を見てきたのだ。あの二人はもうすでに一人で立てる。たかが学校内での立場を失くしたくらいで、心を病む弱さはない。
中学時代の記憶しかない玉木にはわかるまい。
むしろ、二年の頭に保健室登校になった俺の心の弱さを心配してほしいくらいだ。男だからって、強いとは限らない。
「九頭川、どこへ行く!」
「教室だよ」
「ほんとうにほとぼりが冷めるのを待つだけなのか! それがおまえのやりかたか!」
俺は玉木の声を無視する。
休み時間は短い。
もう戻らなければならない。
俺はあるがままを答えただけだが、玉木の怒りは我慢を超えたらしい。
「見損なったぞ、九頭川! ちょっと都合が悪くなれば、仲間を見捨てるなんて!」
好きに喚け。
俺には俺のやり方がある。
今までは自分に不利にならないようにしながら、諸問題を解決したり都合よく捻じ曲げたりしてきた。
今回は、何かを犠牲にしなければ、大切な人を救えない。起きてしまった問題は、誰かが貧乏くじを引いて、ヘイトを一身に受けるしかない。
だったら、簡単じゃないか。
今の今まで俺は自分が助かることを考えて、さらにうまく切り抜けようとしていた。だから、方策はなかった。
奇しくも、田ノ瀬がクリスマスデート案件の演技で言った「君はまだ自分が主人公だと思っているんじゃないか」ということばが心臓に突き刺さる。
そうだ。
俺は、主人公じゃない。
だから、最後に救われることはないし、褒められることはないし、語られることはないし、だから……だから、好きな人と結ばれることはない。
やることは決まった。
俺は教室へ足を向けた。
どこへ行くと玉木に問われて、教室だと答えた。
俺は嘘つきだ。
自分の教室に戻るとは言っていない。
ここは二年五組。
佐羅谷と谷垣内と那知合のいる教室だ。まもなく休み時間も終わりかけで、生徒はほとんど戻ってきていた。
俺は前方の扉からそっと中を覗く。
扉側には前回大声で佐羅谷を呼んでくれた朝日くん(仮名)が大きな体を揺らしながらうつらうつらしていた。寝不足かな?
朝日くん(仮名)の巨体に隠れて、教室の様子を伺う。
佐羅谷が、いた。
教室の真ん中あたり、凛と澄まして背筋を伸ばし、人を寄せ付けない空気をまとう深窓の令嬢がいた。次の授業の教科書を机に並べ、自身はブックカバー付きの文庫本に目を落としている。
教室だから前後左右の席の配置も間隔も同じはずなのに、不思議と佐羅谷の席だけが周囲から隔絶しているように見えた。
ところどころ集まっている生徒のグループも、佐羅谷を遠巻きにしている。
(ああ、前と全然違う)
かつて佐羅谷に集まっていたのは、敬意や憧憬や恋慕であり、一部嫉妬はあっても好意的な敬遠だった。存在を認めつつも近寄りがたい個性、そこに悪意はなかったはずだ。
いま佐羅谷に集まっている視線は、従前とは違う。堕ちた神に集まる無慈悲の批難だ。悪意と嘲笑と好奇の視線だ。
深窓の令嬢を引きずり下ろすとは、俺が言ったことだったか。塔の上のラプンツェルをただの少女に戻したかっただけなのに、これが結果か! こんな残酷な結末なら、佐羅谷はずっと深窓の令嬢のままでよかった。
地上に降りた天使は、ただの人間にさえなれやしなかったのだ。
翼を失った佐羅谷は、脆く壊れそうな小さな少女に過ぎなかった。
俺は入り口を塞ぐように立った。
教室を改めて見渡す。谷垣内と那知合はいない。
「あれ、君は」
うたた寝をしていた朝日(仮名)が顔を上げる。
教室が俺の存在に気づく。
私語が緩やかに消えていく。
視線が徐々に集まってくる。
俺はただ一人、佐羅谷だけを見ていた。
教室が静謐に包まれたとき、佐羅谷がふっと顔を上げた。文庫本に栞を挟み、まるで誰がここにいるのかわかっていたかのように、俺に笑顔を向けた。見たことのない表情だった。
「さ……」
俺が声を上げる前に、佐羅谷は唇に人差し指を立てた。
話すな、の合図。
そして小さな声で、とても小さな声で、だが静まり返った教室では、はっきりと聞こえた。
「今日はどんな空かしら?」
佐羅谷はそれだけ言うと、また本に目を落とした。俺も教室の生徒も注目するなか、一切の外界を遮断し拒絶する。
ああ、そういうことか。
空なんて、教室の窓から見ればわかる。
この空は、「天」のことだ。
自分のことは良いから、宇代木の様子を見てこいと言っているのだ。
何人が佐羅谷の暗号に気づいたことだろう。
俺は黙って身を翻す。ここに突っ立っていてもできることはない。もう一人の堕天を救うために、俺は次の教室へ向かう。
佐羅谷のクラスを後にしてすぐ、廊下で谷垣内と那知合の二人にすれ違う。俺は目を合わせることさえできなかった。馬鹿にされる? 厭味の一つでも言われる?
ありえない。
谷垣内はそんなことはしない。
俺が足元を見ながら真っ直ぐ突進すると、谷垣内は廊下の端に寄った。
「顔を上げろ。前を見て歩け」
落ち着いた声だった。
谷垣内の怒りは収まったらしい。
ほんとうに、丸くなったもんだ。俺なんかに甘くなるなよ、ますます甘えちまうじゃねえか。
二年三組の教室を覗く。
休み時間の残りは少ない。目立つとか噂になるとか、考える余裕はなかった。
開きっぱなしの扉から、茶髪のエアリーボブを探す。見つけた。
クラスの友達と談笑している。取り立てて変わった様子は見えない。話しているグループでも、よそよそしさは感じない。
「宇代木!」
俺が勇気を出して呼びかけると、宇代木は話を中断して近づいてきた。教室の賑わいが若干静まり、俺たちの挙措動作に注目が集まっているのを肌で感じる。
「元気そう、だな」
「おかげさまでね〜。なんなん、心配してくれてんの?」
「それは、まあ、このクラスでも、広まってんだろ?」
「朝来たら、黒板に写真が貼ってあって驚いたのなんのって」
「すまん」
「悪いと思ってないのに謝んの、やめてくんない?」
宇代木の冷たい声を久しぶりに聞いた。
教室の出入り口付近で話し合うのも、まして噂の渦中の二人が対面しているのは目立って仕方がない。
教室でもいくつかのグループがチラチラと視線を寄越している。話題は考えるまでもない。
「場所変えよっかー」
「けど、休み時間が」
「体調悪いんさ。仕方ないじゃんか」
宇代木は鼻で笑うと、顧みもせず歩き始めた。
「おい、待てよ!」
慌ててついていく。
向かう先は、保健室。
ちょうど保健室の扉を開けたとき、チャイムが鳴った。
「犬養センセ、ベッド借りますねー」
「まったく、サボるなら学校を休みなさい。私は知らないからな」
机に向かっていた犬養先生が、盛大にため息をついた。
およそ先生らしくない。犬養先生にしては余裕がなく、憔悴しているように見える。やはり恋愛研究会が実質的に活動休止からの解散に追い込まれたことに、責任を覚えているのだろうか。
悪いのは隙を見せた俺たちなのに。
「ふー、あー疲れたー。やっぱりちょっと気を遣うよね」
宇代木は奥のベッドにカラフルなスニーカーをつっかけたまま仰向けに寝転がる。うーん、堂々と校則違反の靴。白さの映える清潔なシーツが沈んだ。
乱雑に跳びこんで着衣の乱れたまま背伸びをする。足を振って爪先に引っかかっていたスニーカーを床に振り落とす。ブレザーとシャツが伸び上がったり、スカートがまくれたり、目のやり場に困る。
犬養先生が注意をしてくれたら良いが、ベッドを囲うカーテンがあって、姿は見えない。
「少しは男の目を警戒しろよ。無防備すぎるだろ」
「いーよ、別になんだって。求められるってことはさ、あたしが必要だってことじゃんか」
「それは女が欲しいんであって、「あたし」が欲しがられてるわけじゃねえよ」
「くーやんのそーいう正直なところ、好きだよー」
宇代木は寝転がる自分のベッドの隣をポンポンと叩く。隣に寝ろって? 無理に決まっている。
俺は横にあった簡素な椅子に腰掛ける。
「あまり、無理するなよ。俺が助けられるわけじゃないけど、話し相手にはなってやるから」
「ふーん。話し相手以上にはなってくれないのー?」
「宇代木さんには慰めてくれる男子なんて、掃いて捨てるほどいるだろ」
「男子なんか慰めにもなんないよ。クラス全員、学年全員からシカトされても平然と通学してた天ちゃんのメンタルなめたらいかんぜよ」
「もともと孤独だったときと、一度温かさを知ったあととじゃ、違うだろ」
俺が脊髄反射で返すと、宇代木の軽佻な会話が止まる。
カーテンの向こうで、犬養先生がキーボードを打つ音がしじまに響く。
息さえ聞こえないベッドの宇代木に、急に不安になる。
「おい、宇代木?」
「もー、どうしてすぐわかっちゃうのかなー、くーやんは。そんなにあたしのこと好きなん?」
「お、い、っ?」
芋虫になってベッドを這ってきた宇代木が、ぬるっと腕を伸ばして、俺の頭を抱きしめようとする。
「やっぱりちょっとつらかったよねー。そりゃー、天ちゃんはさ? 告ってきた男子誰とでも付き合ってきたけどさ? すぐ別れたってさ、ぜーんぶこっちに主導権があったわけですよ」
俺は横向きになったまま、宇代木の胸に軽く抱かれる。引き剥がせるが、静かに語る宇代木の声を遮ることができない。
「今回はさ、あたしが遊ばれたってことになってんのさ。ちょっと納得いかないよねー」
真面目な話かと思ったのに、なんだ自惚れかよ。
「だからさ、くーやん」
宇代木は腕を少し解いて、俺の顔を正面から手のひらで挟み込む。目のピントも合わない超至近距離。宇代木の大きな瞳と黄色のカラコンが、ゆらゆら潤んで見えた。
「あたしとーー」
「おい、おまえたち! セックスするなら、家に帰ってからにしろ。これ以上、自分たちに不利な振舞いをするんじゃないよ」
ザッと乱雑にカーテンが引かれて、しかめ面の犬養先生が睥睨してくる。
まこと先生の言う通りだ。これ以上隙を見せて、学校側や犯人を喜ばせるわけにはいかない。
というか、セックスって。やる相手がいたとしても、さすがに先生の横ではしない。学校の保健室というのは、妄想で憧れるシチュエーションではあるが。
「やるわけないじゃないですか。セクハラですよ、まったく」
「そうか? はたで聞いてて、一歩手前の雰囲気だったぞ。元気なら早退するか、教室に戻りなさい」
カーテンは開けたままに、犬養先生はパソコンに戻る。
気勢を削がれた俺と宇代木は、顔を見合わせてどちらともなく立ち上がる。
ポンっとスマホの通知が二つ響く。二人同時に画面を見る。佐羅谷からの連絡事項だった。恋愛研究会二年生の共通グループでの連絡だ。
授業中にも拘らず、あの佐羅谷がスマホを触っているのかと思うと、少し意外だった。それだけ佐羅谷も焦っているということだ。
「じゃー、くーやん、また後でねー」
ひらひらと宇代木は手を振って、一足先に保健室を出た。
犬養先生の邪魔が入るまえ、いったい何を言おうとしたんだろうな。万が一、「二度と関わらないで」だったら、少し傷つくな。ありえそうで怖い。宇代木の親友と立場、どちらも台無しにした原因は俺なのだし。
それもあとで話せるだろうか。
佐羅谷のメッセージは簡潔だった。
『本日放課後、トナリエの二階オープンテラスに集合』
二月も半ばを過ぎると、夕暮れは急速に遅くなって、学校が終わってからトナリエにやってきても、まだ空は明るかった。
大和高田駅ロータリーの隣にある商業施設トナリエは、歩道橋でつながっている。ロータリーや交差点を見下ろすように広いオープンテラスが憩いの空間を作っていた。
部分部分に花壇があり、ベンチがある。
四時過ぎ、仄赤い夕暮に照らされる西向きの空間。
「なんでおまえらのほうが早いんだよ」
自転車置き場に止めてから外の階段を駆け上がると、すでに佐羅谷と宇代木が離れたベンチに腰掛けて、まるで他人同士かのように無言だ。佐羅谷は本を、宇代木はスマホをいじっている。
あ、佐羅谷が読んでいる本、最近出たばかりの例の作家の新作だ。『ラクトガール・イン・ザ・ケミラボ』シリーズ。クリスマスで田ノ瀬にしてやられて、俺も買った。もちろん新刊もチェックしていた。昼はブックカバーをつけていたような気がするが……もしかしてついさっきトナリエで買ってきたのか。
二人は徒歩だというのに、やはり俺よりも行動が早い。まあ二人が遅いだろうと思って自転車を押してきた俺が遅すぎたのは認めるが。
「相変わらず、女子を待たせてばかりね、九頭川くん」
「くーやん、おっそーい」
各々ほとんど視線を動かさずに俺の姿を認める。
二人は三人掛けのベンチに別々に座っている。俺はどちらに座ればいいのか迷っていると、スマホに宇代木から通知が来る。
『声が聞こえる別のベンチに座ってー』
スマホ越しに佐羅谷と宇代木を見るが、まるで無関心で、他人同士であるかのように微動だにしない。
(なるほど、スキを見せないためか)
また三人膝を寄せ合って相談していると、変な切り抜かれ方をして、犯人の思う壺にはまる可能性がある。幸い二月夕方の寒空、外で語らいたがる物好きはいない。おあつらえむきに、ベンチも声が届く程度に散在している。
俺は二人と背中合わせになるベンチに座り、カバンから英単語の参考書を取り出す。ダミーだ。
「槻屋さんと加瀬屋さんには、伝えたわ」
唐突に佐羅谷が言った。
表情も姿も見えないが、きっと文庫本を開いたままだろう。
「何を伝えたのかこっちに伝わらねえよ」
「そだよー。二人とも、納得したん?」
納得するわけがない。
ミコマコは存外我が強い。
「伝えたのは、恋愛研究会が活動停止になること、部活にはならないこと。事実上解散するということ」
今年度中は活動できるはずなのに。
そうか、もう佐羅谷のなかでは「終わって」いるのか。
「納得はしていないでしょう。だけど、あの写真を見せて、学校側からの指示だと知って、どうしようもないことはわかるでしょう」
「まだ終わってねえだろ。あと一ヶ月半もある」
「あなた、この後に及んで女々しいわね。本気で活動できると思っているのかしら。校長先生の許可も、暗に自粛しろってことじゃない」
「俺は空気も行間も読まないんだよ」
「じゃあはっきり言うわ。わたしが、つらいの。恋愛研究会も、三人でいた時間も、一年二人が入ってからの時間も、どれもかけがえのないほど楽しかった。だから、この時間をどこかの誰かに汚されて、好奇の視線に曝されて、後ろ指さされることに耐えられない」
「あまね……」
なんだよ、それは。
今ごろになって、どうしてそんなしおらしいことを言うんだよ。
「恋愛研究会での時間を、美しく綺麗なままで、ずっと心に置いておきたいの。ねえ、わかってくれるでしょう、二人なら。あの空間だけは、絶対に誰にも邪魔なんてさせない」
声が湿っぽい。
いいのか、ほんとうにこれは正しいのか。
恋愛研究会をガラス瓶に封じ込めるような扱いが、ほんとうに俺たちのとるべき道なのか。
「恋愛研究会を思い出にして、じゃあ俺たちはどうするんだ」
恋愛研究会を思い出にする。これは俺の目標の一つではあった。佐羅谷と宇代木を恋愛研究会の依存から解放すること。こんな形になるのは不本意で、しかもなくなってしまうなんて論外だが。
「別にラインのグループまで解除するわけではないし、部活がなくなったくらいで消えるつながりなら、遠からず消えるものでしょ?」
佐羅谷の言うことは正しいようで、たぶんに希望的だ。
人間は「親しいからやりとりが続くんじゃない」、「やりとりするから親しくなる」のだ。ネットの人間関係が続かないのは、相手の時間を強制的に束縛しないからだ。人間関係は相手の時間の奪い合いだ。だからその「めんどくささ」をお互いに提供し合うことで、親しくなるのだ。
やりとりを強制とし、時間を束縛する部活という枠組みは、親しくなるのに最も都合の良い箱だった。
この箱が消えて、俺たちはきっとつながりを失う。日に何度もあったメッセージが、日に一度、週に一度、月に一度に減っていくさまが容易に想像できる。
佐羅谷と宇代木はまだ部活以外での親友としてのつながりがあるから、今後も交友が続くかもしれない。
俺はどうだ? ただの部員という立場を使って無理やり学内の有名人に近付いただけのモブだ。用事や議論もない日々のよしなし事をメッセージで送ることなどできない。
恋愛研究会を思い出に封じ込めるということは、俺も同じく思い出の中に冷凍保存されるということだ。
ここにいる九頭川輔は、消えてなくなる。佐羅谷や宇代木には、これからの俺を知ることはなくなる。
「しかたない、のかなー……」
宇代木も珍しく歯切れが悪い。
なんとなく嫌だ、どうしても受け入れられない、頭は拒絶するが、方法がない。
「ただの友達に戻るっていうことか」
「それなのだけど」
俺のバカな呟きに佐羅谷が反応した。
本を閉じる音がした。
「恋愛研究会の有終の美を飾るためにも、なのだけど、最後に一つ、お願いを聞いてくれないかしら」
「モテたい」
俺と宇代木が息を呑んで耳を澄ませていると、佐羅谷が抑揚なくつぶやいた。
俺はさらに息を呑んで、宇代木は貯めた息を吐いた。
「ぶ、」
「はっ……あー? なに言っちゃってんのー?」
佐羅谷は俺たちの反応に少し笑う。
「ふふ、懐かしいわ。九頭川くんが最初に黒い緞帳の向こうで吐いたことばは、今も忘れられないわ」
「もう時効でしょう、忘れてくださいよ、深窓の令嬢サマ」
「ふーん、そーなんだー、くーやん意外と俗物だったのねー」
「世の中なんて男のモテたいっていう欲望を原動力にして発展してきたんだ。俺はとことんまで一般的男性だよ」
我ながら訳のわからない言い訳をする。
「欲望と発展の関係は今は置くとして、どう、九頭川くん、ずいぶんモテるようになったと思うけれど、まだ彼女の一人もできないの?」
クリティカルでセンシティブな問いかけをする。ちょうど開いている英単語帳の受験必須単語に含まれていた。
「あいにく、彼女も恋人もいないな」
俺の中で筋は一本通っている。
佐羅谷の隣にいるためだ。
俺に彼女ができない限り佐羅谷の恋愛相談は終わらず、近くにいる口実にできる。
「くーやん、もしかしてまだナチ子のこと」
「那知合のことはなんともない。今となっちゃ、どうしてあれだけ好きだったのかわからないくらいだ」
「九頭川くんが好きだったのは、というより憧れていたのは、那知合さんではなくて、那知合さんと付き合える谷垣内くんだったのだから、当然ね。それに気づいた時点で、那知合さんへの恋愛感情は消えたことでしょう」
佐羅谷は俺が半年くらいかかって辿り着いた結論に、いともたやすく到達する。
「そこで九頭川くんにお願いなのだけど、付き合ってくれないかしら」
聞き間違いかと思った。
ここでこの場で、買い物に付き合えとかそんなややこしいラブコメの初期段階の勘違い展開ではない。
ここでいう付き合うは、まさに彼氏彼女としての関係を築けという謂だ。
(それは願ったり叶ったりだ)
俺はもちろんと声を上げかけた。
英語の参考書を畳んだ。まじめに顔を見て答えるべきだと思ったのだ。
しかし、佐羅谷は無情だった。
「天と、付き合ってほしいの」
「……はっ?」
参考書の表紙を変に握って折り曲げてしまう。
「わたしの恋愛相談で解決していないのは、このあたりだけなのよ。言ったでしょう、恋愛研究会を美しいままにしたいって。それには、恋愛相談をすべて成功裡に解決したという実績も含まれるわ」
「いやいやいやいや、付き合うってのは相手の気持ちもあってだな!」
「あら、天が嫌がるわけがないじゃない。ねえ、天は九頭川くんのこと、好きでしょ?」
「うん、好きー」
「その好きはラブじゃなくてライクだろ」
「英語でわかった気になるのはやめなさい。九頭川くんだって、天のこと、好きでないことはないでしょう」
「そりゃあ、好きか嫌いかで言えば好きに決まってる」
嫌いな人間と我慢してまで関わる気はない。俺はけっこう好き嫌いのはっきりした人間で、特に嫌いな人間とは顔も合わせたくない。
恋愛研究会にいる時点で、俺はそのメンバーのことを好ましく思っている。宇代木とは初対面のときに少々こじれたが、あれさえ今では良い思い出だ。
「なんなら、付き合うふりでもいいわ。できれば、卒業まで。九頭川くんは彼女いない歴=年齢も更新できるし、ウィンウィンでしょう」
「宇代木に何のウィンがあるんだよ」
「守ってくれる男ができる」
佐羅谷は立ち上がると、俺と宇代木のベンチの間を抜ける。
「天の立場は、九頭川くんが思っているよりも危ういわ。人間関係で綱渡りをするのは消耗するものよ」
そうなのか。
宇代木天のキャラクターは、まさに今の状況でこそ真価を発揮しそうなものだ。
「まーしんどいのはしんどいよねー。腫れ物に触るようにされるのも、後ろ指さされるのも。ちょーし狂っちゃうもんなー。いっそくーやんが彼氏になってくれたら、楽だよねー」
まずい、このままでは宇代木と付き合うことになってしまう。
いやいや別に悪いことは何もないが、これを受け入れると、高校在学中に佐羅谷と関係を深めることはできなくなるし、きっと、これは脳幹をチリチリと焦がす予感なのだが、きっと佐羅谷と友達としての関係も漸減していくに違いない。
佐羅谷は律儀だから、宇代木に遠慮して関わりを減らしてくる。
それは、駄目だ。
「だったら! だったら、佐羅谷はどうなんだ。俺が宇代木と付き合うと、佐羅谷は一人になるじゃないか」
「わたしは、もともと一人よ」
佐羅谷は決然と言い放つ。
「恋愛研究会の最後の仕事よ。円満に、片付けましょう」
俺の好きな、佐羅谷の笑顔だった。
ほとんど沈み切った赤黒い空の下、車も電車も行き交う雑音が空に響くトナリエのオープンテラスで、ひときわ輝く。
「二人とも、なんて顔してるの。別に今生の別れでもなし、ただ部活がなくなるだけよ」
俺たちはいつしかカムフラージュを忘れ、三人で向き合うように立っていた。
暗くて表情などきちんと見えないはずなのに、佐羅谷は俺と宇代木のどんな感情を読み取ったのか。
「天、九頭川くん、じゃあ、気をつけてね」
結局、佐羅谷の独壇場だった。
釈然としないまま放置され、今ごろになって佐羅谷は俺たちの意思など求めていなかったことに気づく。
(じゃあ、またね、ではないんだな)
佐羅谷はいつだって「またね」で締めくくった。初対面のときでさえ、「またね」で俺に門戸を開いてくれた。
この集まりは、佐羅谷最後の覚悟だ。
表向きにはもう二度と俺や宇代木と会わないという、決意表明だ。
だが、嫌だ。
俺はこのよすがを切りたくない。
別れの挨拶に返すことばもなく凍りついていた俺は、重い一歩を踏み出して声を張る。
「佐羅谷!」
オープンテラスから歩道橋に足をかけていた佐羅谷は、突然の大声に振り向く。何人か通りすがりの人もびくりと体を震わせる。
「またな!」
手を振った。
反応は見えなかった。
暗くなった佐羅谷の影は歩道橋を渡り、高田駅に消えていった。
「じゃー、くーやん、あたしたちも帰ろっかー。なんなら、付き合った記念にプリ撮ってく?」
「冗談はもっと冗談っぽく言えよ。全然プリクラ撮るようなテンションじゃねえぞ」
「もー、いじわる。仕方ないじゃんかー」
「元気づけようとしてくれてるんだよな、すまん」
待っていても結論は覆らない。
佐羅谷の消えたあと、俺と宇代木はとぼとぼと高田市駅に向かって歩いていた。自転車を押しながら、ねばつく重い空気をかき分けて、ことさらゆっくりと。
踏切を渡り、さざんかホールを過ぎ、商店街の合間を抜ける狭い道を南下する。ここは車が少なく、まだいくぶん静かだ。
「あー、でも記念に写真はほしいなー。撮っていい?」
「いいけど、もうちょっと明るいところでな」
「うん。じゃー、駅に着いてからね。絶対ねー」
宇代木なりに明るく声をかけてきてくれる。
恋愛研究会を完全に解散することについて、宇代木はどう思っているのだろう。思いのほかダメージを受け、戸惑っているのだろうか。割り切って、大人しくネットで交友をつないで満足するのだろうか。
ぼうっと考えながら歩いていると、宇代木が俺の腕に腕を絡めてきた。
「お、おい!?」
「なにさ、黙りこんでさー。付き合ってんだから、お話ししよ?」
「それだ」
「どれさ」
「俺は今まで女子と付き合ったことがないから、付き合ったらどういうことをするのかわからない」
「やりたいことをやったらいいんじゃないかなー?」
「やりたいこと……」
「今エッチなこと考えたでしょー」
「か、考えてない!」
ほんとだよ?
ただ、宇代木と付き合うのは佐羅谷の命令だ。付き合っているように見えなければ、この恋愛相談は破綻する。今さら恋愛相談の功績など意味を為さないが、佐羅谷が自分のために付き合えと言ったのだ。
うまくやらないと、佐羅谷に幻滅される。佐羅谷に見限られるのは、嫌だ。
「んー、だけどさ、付き合ってる男女って、そういう信号を周囲に発してるっていうじゃんか?」
「コミュニケーション論的な話か?」
「そ。夫婦ほどではないけど、彼氏彼女って関係は、他の人間関係よりも優先されるもんじゃん? 自分の特別な人だから、そうとわかるような束縛とか執着を、公けの場所で示すらしーよ?」
「動物かよ」
「人間は動物だよ。くーやんが一番よく知ってるでしょ」
「しかし、学術的一般論は、俺たちがどう振る舞えばいいかの解決にならないな」
「だから、こーしてるじゃんか。これでいいんだよー」
宇代木は身を屈めて、両手で俺の腕を抱き締める。自転車を押していると引き剥がすこともできない。佐羅谷とは違って、さっぱりした香りがする。
若い男女が腕を絡めていたら、付き合っているように見えるか。
俺は写真部の入田に撮影してもらった、宇代木との写真を思い出す。二人しっかりと手をつないでいたのに、およそ湿り気のない絵だった。
「まー、いんじゃない? あたしはあたしで彼氏にしたいことみーんなするからさー、くーやんはくーやんで彼女にしたいことしてくれたらいーよ。あたし、なにも拒まないからね」
「嫌なことや違法なことは拒めよ」
「あたしが彼氏の要望を拒むわけないじゃん」
宇代木は真顔だった。
仲睦まじい恋人のように抱きついていても、心は至って冷静に、彼氏彼女の演技をするに過不足ない集中力だ。
ああ、そういうことか。
宇代木も、佐羅谷のことばに従って恋愛相談の成就を目指しているだけだ。俺のことなど、蚊ほども気にしてはいない。
だったら、むしろ楽なものだ。
ラノベや漫画にあるつまらない恋愛のテンプレートをなぞればいいのだ。一緒に通学して、昼食をとって、たまに弁当を作ってきて食べさせあったり、休憩時間に膝枕をしたり、休みにはショッピングや遊興施設に出かける。
宇代木はうまくやるだろう。
それが宇代木天に期待される役割ならば。
だが、宇代木天というキャラクターと付き合ってしまうと、今の裏表のある本物の宇代木は、二度と俺に顔を見せないだろう。
今の、深くて重い話も軽くて馬鹿な話もできる宇代木天は、俺の前からいなくなる。
「くーやん、ここで写真撮っとこーよ」
駅の改札隣のデイリーでイチゴのスムージーを買ってきた宇代木が、一口口をつけたストローを俺に突き出してくる。虚無の心でストローを咥えたところで、宇代木が頬を寄せてきて、一枚写真を撮られる。
「んー、まあまあかな。あとでくーやんにも送っとくねー」
宇代木はスムージーを取り返すと、スマホの画面を矯めつ眇めつする。
「そいでからさー、写真も全部あげる」
「全部って」
「ほいさー」
何の写真だと問う前に、宇代木は俺のポケットに写真を捩じ込んだ。現物ということは、教室に貼られていた写真か。宇代木にとってはあらぬ噂の元凶であり、見たくもないだろう。俺が責任を持って処分するか。
「じゃあ、帰ったら連絡しろよ。寄り道すんなよ」
「いつもは言わないセリフだー」
「せいいっぱい彼氏っぽい態度を模索してるんだよ」
「嬉しいなあ」
宇代木はずももっとスムージーの底を啜り、わずかにはにかんだ。感情表現が大仰な宇代木にしては年相応の女子のような奥ゆかしさだ。
「文化祭の相談でもさ、ウソの告白でつきあうって話があったじゃんか?」
「あったなあ。嘘もバカにできない」
「だったらさー、ウソでつきあい始めて、ホントになることだって、あっていいじゃんね」
「本当の気持ちで付き合い始めて、嘘になることだってあるかもしれないからな」
「あたし、どっちだっていーよ? くーやんが彼氏してくれる限り、信じるし、守るし、頼るし、大切にするからさー」
宇代木の決意は重かった。
何が何でも、ボロを出さない演技をやり遂げるという表明だろう。
だったら俺も宇代木のことは最低限守らないといけない。恋愛研究会も佐羅谷も、結局なにも守れず手をこまぬいて見ているしかなかった。
せめて佐羅谷の最後の願いを完遂して、認められ、高校卒業以後につなげるしか。
「ああ、宇代木とは、全力で彼氏のフリをする」
「……うん」
宇代木は元気に手を振って、改札から駅のホームへ消えた。すぐに連絡通路の影に隠れて見えなくなる。
じっと駅構内を見ていると、スマホが震える。
さっき宇代木が自撮りした写真だ。
視線も合わさない、ポーズも撮っていない日常の一コマの写真なのに、写真部が撮影したものよりも、はるかに恋人同士っぽく見えた。写真の中の俺たちは、なぜか幸せそうで、俺はどうしようもなく悲しくなった。
高田市駅の短いアーケードを一人歩きながら、帰路に就く。
いつもと同じ道のり、いつもと同じ日常の繰り返し。
恋愛研究会に入ってからはルーティーン化していたはずの行動が、揺らぐ。揺らぐ。揺らぐ。
もしかして、この日常は、二度と繰り返せないのではないか? もし俺にタイムリープする能力があるのなら、どこか日常を繰り返せるフラグまで、巻き戻してほしい。このまま時間を進めるのは嫌だ。嫌だ。嫌だ。
この道を、このアーケードを、今ここで夕闇のなか家路に就くのは、最後なのではないか。
佐羅谷と、宇代木と。
(ああ、そうか。俺は今日でかけがえのない日常を失ったんだ)
アーケードの真ん中で立ち止まる。
寂れた人通りの少ない駅前だ。
しかしこの時間でも一部店舗は開き、通り過ぎる人もある。
ぶつかりそうになると、真ん中で自転車を支えている俺を邪魔そうに見上げて、驚いた顔、恐れた顔をして避けて通る。
(なんだ、なんだよ?)
ショーケースのガラスに映る自分の顔を見て、人が驚き避ける理由がわかった。
俺は泣いていた。
ひどく静かに泣いていた。
頬に手を触れて、涙が溢れていることに気づいた。
「なんてっ……情けない!」
何もできず、何もやらず、何も救えなかった結果がこれだ。
涙を流す資格さえない。
あるがままを受け入れ、佐羅谷の提案してくれた最後の救いに縋るしかなかった哀れな男の報いだ。
走った。
自転車にまたがり、力の限り漕ぐ。
男が泣くなんて、人前で泣くなんて、自分のために泣くなんて、最低だ。
アーケードを抜けると、すぐに路地に入り、人もいっそう少なく暗くなる。
俺は速度を緩めなかった。
一気に家の車庫に投げ入れる。
息の荒いまま、肩をいからせて家に入る。鍵は開いていた。親父は帰っている。
「おう、輔。今日は連絡もなかったが、」
台所から顔を出した親父は俺を見ると喋るのをやめた。
手に持っていた包丁と玉ねぎを置いて、三和土に立ちすくむ俺に近づく。
抱きしめられた。
「はっ? なに?」
気づけば俺は親父より少し背が高かった。だが、上がり框から抱き締める親父の胸に、俺の頭は埋まった。
「やめろよ、もう高校生だぜ」
「高校生だろうが、俺の息子だ」
「男同士で気持ち悪いんだよ」
「だから、これが最後だ」
耳の上で親父の声が聞こえる。
こんなに至近距離で父親を感じるのは、物心ついてから初めてかもしれない。
「俺が抱きしめてやるのは、これが最後だ。これを、最後にしろ。いいな」
「……親父」
「次からは、自分が見つけた女に慰めてもらえ」
相変わらず真面目できれいなままでは終わってくれない。
振りほどけるくらい軽い抱擁なのに、優しさに包まれて動けなかった。次は自分が見つけた女に慰めてもらえとは、失笑を買う表現ながら真理だと思った。
こんなに情けない俺を、抱きしめて慰めてくれる女なんて、この世にいるのだろうか。もしも存在するのなら、すべて投げ出しても求めるに値する。
俺は、大切なものを失ったのだから。
九頭川輔は、それでも前を向く。
三学期の期末試験前、たいていの部活は休止状態になり、早めに帰って勉強をしたり、図書館に残ったりする。
教室の後ろの席で教科書をカバンに詰めていた俺は。
「おうおうおう、九頭川よ、たまにはラーメン」
窓際から存在感ある体を揺らして近づいてくる山崎は日常運転だ。俺が、おうっと答える前に、ざわつく教室の喧騒を切り裂く元気な声が届く。
「やっほー、くーやん、いっしょに帰ろー!」
堂々と宇代木が入ってきた。
教室内の好奇の視線も、ここしばらくの話題の渦中の人物(俺もだが)だということも、意に介さない鉄面皮を装って。
「お、お、お。ギャ、ギャルさん?」
突然吃音になった山崎が、俺の机にしがみついて宇代木を見上げる。
「んー? なにー? 山ピー、くーやんに用事?」
「や、や、や、山ピー!?」
女子にあだ名で呼ばれて、まんざらでもなく驚きと喜びが混じった感じで頬を赤らめる。いや、気持ち悪いから。
「くーやん、どーすんの?」
「もちろん、宇代木を優先するさ。山崎、悪いな」
「お、おう? えーっと、我、邪魔者よね?」
「別に邪魔者じゃないぞ。今日は都合が悪いだけだ」
実際に腫れ物扱いされる状況において、平然と声をかけてきてくれる山崎は稀有な知り合いだ。友達と言ってもいい。いや友達なのか。
「ラーメンはまた今度な、山崎」
「山ピー、またくーやん誘ったげてねー」
「あ、はい、そうします」
宇代木のにっこり笑顔に山崎はだらしない顔で答えた。おまえギャルは嫌いじゃなかったっけね。距離感が近くて優しくて空気も読める宇代木は、本当に奥手男子キラーだ。
「じゃ、くーやん、外で待ってるよー」
宇代木が教室から出ると、山崎が怖々と尋ねてくる。
「あのー、九頭川さん、もしやあの女子とお付き合いを?」
キャラ崩壊の著しい口調だ。声は小さいが、教室の耳が俺の回答に集まっているのを感じる。視界の端に玉木の鋭い目が見える。
「ああ、俺の大切な人だ」
「か、かっけー……」
なにが格好いいものか。
逆だ。
山崎は腕組みし、すりガラス越しに見える宇代木の輪郭を仰ぐ。
「お主のことを好いてくれる女子など、そうそう現れるまいて。我に気兼ねせず、仲良くするがよい」
「おう。微塵も気にしないから、心配するな」
「あ、いえ、少しくらい気にしていただけると嬉しゅうございますが」
「冗談だ。また誘ってくれ」
「九頭川、好き!」
俺は放っておくと追及を深める山崎を切り捨てて、立ち上がる。宇代木を待たせるわけにはいかない。
話が終わると、教室内の偵察の雰囲気が忽然と消える。視界の端で俺に集まっていた目も耳もあらぬ方を向く。
俺は何も気づかないふりをして教室を出た。
「お待たせ」
「うん、今日はどうしよっかー?」
「期末試験の勉強だろ。おまえのほうが頭がいいんだから、教えてくれよ」
「そーだねー、高校生っぽいね!」
高校生だからな。
これで、良いのだ。
高校生同士の彼氏彼女っぽく見えるだろうか? 俺たちは間違っていないか? 俺はまだ上手くやれているか?
なあ、佐羅谷。
見ていなくても、見えていなくても、わかってるんだろ? これが、おまえの望んだ未来だ。
二日が経った。
水曜日になった。
俺と宇代木は毎日同じ調子で二人で下校し、たまに昼休みに一緒にご飯を食べたりした。
佐羅谷と学校内では会わなかったし、オンラインでのやりとりもなかった。
たった二、三日の行動パターンが、あたかも何年も続いているルーティーンかのごとく身体に馴染む。
佐羅谷と会わないことでさえも。
そもそも一年のとき、佐羅谷と学校内ですれ違うこともほぼなかったのだ。会おうとしなければ、会えるわけがない。友達もいなくて無駄な徘徊をしない相手と、偶然に出会うことはない。
佐羅谷の存在が幻でないことは、昼の尖塔を覗けばわかる。今日も今日とて、佐羅谷は昼休みになると尖塔で弁当を広げていた。
弁当を片付けた佐羅谷に近づく影が一つ。
「誰だ?」
「むむっ、あれは美声の貴公子、玉木ではないか!」
素早く双眼鏡を構えた山崎は、窓から身を乗り出す。
尖塔まで距離はあるが、肉眼で見えないことはない。俺も山崎の隣に並び、目を凝らす。
玉木が動く。
危惧してはいたが、俺には止められなかった。
だが、今の佐羅谷の立場で誰かと懇ろになることはない。ましてや玉木はツイッツイーツの社長だと学内に知られている。立場の危うい佐羅谷と何かがあれば、悪い噂が立つ。
「ああっと、玉木、これは間違いない、二度目の告白だ!!」
山崎の解説が教室内に響く。
昼食や談笑に沸いていたクラスメイトも、玉木の再びの告白に尖塔を振り向き始める。
(だが、佐羅谷は告白を拒絶する)
それが、深窓の令嬢たるゆえんだからだ。佐羅谷あまねは誰も好きにならない。
好きに、ならない。
なるはずがない。
俺の希望的観測。
「ウソ、だろ?」
佐羅谷は立ち上がって玉木と対峙する。
「何たることだ、深窓の令嬢、尖塔のラプンツェル、佐羅谷あまね嬢、堕ちたりッッ! 玉木にそっと差し出す細いかいなに白いたなごころ! 成った! 成ったぞ!」
ああ、山崎、うるせえよ。
ガンガンと脳で響くのは山崎の叫びか、俺の神経のアラートか。網膜が赤い。
「玉木が深窓の令嬢の手を取るッ! 握手ではない、ダンスに誘う優しい手、ここに、かつらぎ高校の二年間に渡る深窓の令嬢の伝説は打ち破られたり! 打ち破られたり! 孤高の姫君を救い出したるは、極上の甘露を持つる美声の貴公子、玉木くがねその人だ!」
山崎の解説は正しく分かりやすかった。
怒鳴って黙らせたいのに、どう言いがかりをつければ良いかさえわからない。
教室の中もざわめき、ぽつりぽつり驚きの嘆息が聞こえる。
「ああ、まじかよ」
「元鞘ってやつ?」
「やっぱり九頭川は関係なかったんだ」
「じゃああの写真って?」
おまえら、黙れ。黙れよ。
噂もゴシップも、俺のいないところで存分にやりやがれ。
「九頭川、どうした?」
双眼鏡を置いた山崎が、心底不思議そうに俺を気遣う。山崎にとっては深窓の令嬢はアイドルや芸能人と同じで、リアルの「好き」な対象ではない。だから、俺が深窓の令嬢に対して好きだという気持ちも、自分と同様の「好き」だと思っているのだ。
「なあに、推しの恋人発覚は絶望に狂いそうになるが、心配することはない。また次の推しは必ず現れる。心配するな」
ああ、そうだ。こいつはこういうやつだ。
こう見えて修羅場をくぐり抜けてきているんだ。地元アイドルひのき坂46の萩原モトが辞めたときも、二、三日で復活していた。岩村ミランという声優がいる限り、山崎は揺らがない。
しかし勘違いするな。
俺にとって深窓の令嬢は電脳世界の推しではない。血肉のある現実世界の女子だ。笑い、怒り、泣き、喜ぶ、ただの一人の人間だ。
「佐羅谷あまねに代わりはいない」
そのことばをグッと飲み込む。
山崎に伝える意味はない。
教室でも一部の者が俺のことばに注視しているのがわかる。迂闊なことは言えない。
「佐羅谷だって、人間だからな」
宇代木と一緒に帰っている。恋人同士というのは、平日はともかく、休日はどうするのだろう。会話の合間に考えていると、宇代木が心を読む。
「くーやん、土日も会おーよ。せっかく付き合ってるんだしさ」
柄にもなくはにかむ。
女子が勇気を出して誘ってくれているのだ。断るなんて、俺にはできない。たとえ義務で付き合っているとしても。
「そうだな。ちょうどテスト前だし、勉強しよう。本気で成績上げたいしな」
佐羅谷は東京の大学を目指すらしい。俺より一回り成績の良い佐羅谷に食らいつくには、もう一つ上の勉強が必要だ。
「家はダメだな、集中できないし。図書館は空いてるかな。無理だったら、アルルで探すか? って、どうした? なんでジト目?」
「はぁー、べっつにー、なんでもないですー」
「アゴ出てるぞ」
「出てないですー。天ちゃんはしゃくれてませんー」
「一緒に勉強するのは嫌だったか? 集中できないか」
「ほんと、くーやんはこれだから」
どれなのだ。
「いーよいーよ。しっかり勉強して、一緒に理3目指そっか」
「いやそこまでは無理無理」
というやりとりがあって、俺たちはおしゃべり半分、勉強半分で土日を過ごした。ほとんど宇代木に教えてもらうばかりだったが、急速に自分の理解度が上がるのがわかる。やはり宇代木の頭脳は桁外れだ。
「本気で理3目指せるんじゃね?」
「あははー、あたし、医者にも医学にもキョーミないよー。とにかくさ、さっさと独り立ちして、たくさん稼がなきゃだよ」
「違いない」
そして、期末試験に突入する。
試験最終日。無感情で試験を終えた俺は、解放感に浮かれる教室を抜け出て、宇代木のクラスに向かう。
いつもは俺を迎えに来る宇代木が、珍しくクラスの中で友達と談笑している。今日を過ぎるとクラスの友達も終業式までは会えなくなり、そのまま三年になればクラスも代わるかもしれない。残り少ない交歓を遮るのも無粋だ。
俺はカバンから「ラクトガール・イン・ザ・ケミラボ」の新刊を取り出す。佐羅谷も読んでいた、最近ネットの広告でも見かけるヒット作だ。基本的に実験室から出ない探偵少女と、彼女に恋心を抱く少年助手のやりとりが事件やトリックと並行して作品を深く楽しませてくれる。
試験前からの続きを読む。
ちょうど、ラクトガールが密室に閉じ込められ、扉が開いたときには眠らされた彼女と被害者の遺体が発見されたところだった。少年助手が悲痛な叫び声を上げたところで栞を挟んでいた。
小説に没入する。
どうやって犯人は二人を閉じ込めたのか? 殺害してから密室を脱したのか? 自由に動けないラクトガールに替わり、少年助手が必死に情報を集める。
密室自体にカラクリがあるようだった。
部屋の前に落ちていた時間を錯誤させる手紙、それが扉の隙間から差し入れることができたらーー。
「くーやん、お待たせ〜。なんなん? ラノベですかぁ?」
「推理小説だよ」
まさに佳境で教室から出てきた宇代木が俺の視線に割り込む。栞を挟んで、顔を上げる。くりくりの黄色い瞳は興味津々だ。
「ほーん、どんな話?」
「簡単に言うとだなー」
宇代木に適当に説明する。なんとなくすぐにトリックを見破られそうな気がするので、ぼかしながら。
「……じゃー、残りは歩きながら聞こっかー」
宇代木が俺を急かす。なんだ? 身を翻すと気まずそうな声が漏れる。目を凝らして廊下の向こうを覗く。
「佐羅谷……」
佐羅谷だけなら驚かないし、気まずさもない。宇代木が俺を促した理由は簡単だった。
「ちゃおー、あまねー、それから玉木くん」
玉木がいた。
たまたま並んだわけではない。
奥からずっと歩調を揃えて、つかず離れず廊下を進む。話が弾んでいるようには見えないが、佐羅谷がときどき見上げながら応じている。
どうして?
どうして、佐羅谷と玉木が一緒に帰るんだ? 尖塔で玉木が誘った続きか? あれはあの場の演技ではないのか?
そんな話、知らない。なにも聞いていない。俺と宇代木を付き合わせようとしたのは、このためか? 佐羅谷は一人でも平気だって言ったじゃないか。
どうして、玉木なんだ。
そこに立つのは、俺じゃダメだったのか?
(はめられた?)
佐羅谷に、ではない。
玉木に、だ。
恋愛研究会のメンバーに悪い噂が広まって、特にイメージの悪化が著しい佐羅谷には近づく男が減る(女はもともと少ない)。そんな状態で俺が宇代木と時間を共にするようになれば、必然的に佐羅谷は一人の時間が増える。
孤独の佐羅谷の心の隙間に入り込むのは、同郷の幼馴染の玉木には容易だ。
もしや、玉木が何かしら手を回して佐羅谷を孤立させようとしたのか。ぬかった。佐羅谷の言うことだからと、唯々諾々と従ったのは間違いだった。玉木が佐羅谷に言わせた可能性を失念していた。
傍目に見える今の俺たちの関係性は、簡単に崩せない。
「よう、九頭川。調子はよさそうだな」
玉木は宇代木を見ている。
「おかげさまで、期末試験は上位に食い込むだろうよ」
あえて勘違いのふりをする。
「調子のいいやつだぜ、なあ、あまね」
何がおかしいのか、玉木は破顔して佐羅谷の肩に手を回す。長身の玉木の長い腕が佐羅谷の小さな顔の横に現れ、肩を抱こうとすると、パチンと軽い破裂音が響く。
「やめて、こんな人目のあるところで。今さら見せつけるものでもないでしょう」
「そっちも、元気そうだな。なあ、宇代木」
「ほんとだねー。わざわざ遠回りして帰るくらいに元気なんだねー」
校舎の構造上、宇代木の教室周辺は一番人通りが多くなる。特に、全生徒が同じ時間に解放される試験期間中は、帰る者と駄弁る者とが入り乱れ、ごった返す。
そこへ噂の渦中の人物がみごとに男女二人組に分かれて、不穏な空気を漂わせる。
廊下を通過しようとしただけ、あるいは教室の中で遊びに行く算段をしていた生徒たちも、しんと静まり返って耳をそば立てている。
問い質したかった。
佐羅谷の隣でほくそ笑む玉木の襟首を掴み上げ、どこまで奴の仕業なのか聞き出したかった。だが、ここで手を出したら、間違いなく殴りかかってしまう。今の俺は先生からも要注意人物に思われているから、きっと停学や退学を喰らう。そして、玉木は手を出さず、よりいっそう株を上げるだろう。
ぐっと握る拳に爪が刺さる。
緊迫した空気に、佐羅谷が弛緩したため息をついた。
「九頭川くん、それ、トリックはわかった?」
「はっ?」
佐羅谷の視線を追うと、俺の持つ小説を見ていた。
そうか、うまい。周囲の注意を逸らし、どうでも良い世間話に持ちこむのか。
「まだ半分ほどで、密室のトリックがわからない」
「ラクトガールが助けを求めてるのよ。早く読んでしまいなさい」
「ちょうど試験期間に入ったんだよ」
「まったく、一刻を争うというのに、悠長な人ね」
「主人公なんだから、助かるだろ」
だいたい、すでに販売された小説だ。いつ読もうがラクトガールは助かるし、無実のはず……よほど奇を衒った作品でない限り。
「あまね、行くぜ」
「くーやん、あたしたちも行こー」
「そうね。それじゃあ、さようなら。「願いが叶う」といいわね、locked girlの」
佐羅谷の最後の発音は、カタカナではなく英語だった。佐羅谷は平素も丁寧な発音をするが、英語も流暢だとは初めて知った。俺は佐羅谷のことをこんなにも知らない。
しかし、願いが叶うとは何のことだ。ネタバレは勘弁してくれ。
俺たちは別れの挨拶もおざなりに、正反対にすれ違っていく。
故意か無意識か、教室からも廊下からも、耳に届く。
「恋愛研究会の女子って、結局ああなったの?」
「落ち着くところに落ち着いた感じ?」
「玉木くんめっちゃ一途じゃん」
「あの男は、どっちでもよかったってことか?」
「誰とでも付き合う女も、ゲテモノ喰いだな」
馬鹿らしい。
学内の噂話なんて、ヤフー記事のコメントと同じで、聞くに値しない無責任の塊だ。誰も見やしない戯れ言だ。
わかっている。
わかっていても、心が荒む。
「くーやん、気にしちゃダメだよー」
睨みつけそうになる俺に先んじて、宇代木がにこにこ笑いながら小声で耳打ちする。
「あたしが、助けるから。あたしが、くーやんを、守るから。だから、大丈夫。へーきだよ。きっと、大丈夫」
ーー「大丈夫」は、大丈夫でないときにも使うことばだ。
自分を守るように、自分を奮い立たせるように繰り返す宇代木の大丈夫に、俺はすがるわけにはいかない。
軽く震えながら、「平気だよ、平気だよ」と唇を動かす女子を、俺はどうすればいい?
勉強中に部屋の掃除をしたくなるように、部屋の掃除中に漫画を読み返したくなるように、人の心は常に快楽を求め安易な浄化に浸る。
俺たちの色気づいた醜聞は、ちょうどかつらぎ高校の学内ニュースとして最適の息抜きになったようだ。
俺が、というのはおこがましい。知名度のあるのは、佐羅谷と宇代木。もちろん、卒業間近の沼田原先輩に、現職の生徒会長のミコト、男の娘として抜群の容姿を誇るマコトなど、恋愛研究会を形づくる構成員一人一人の挙措動作が話題になってしまうのだ。
今回は特に俺と佐羅谷と宇代木。
幸い、試験後に卒業式を残すのみの沼田原先輩や、一年生でまだ部活に所属したばかりの一年生二人は被害を免れている。
被害が俺だけに集中したら、むしろやりやすい。オンラインMMORPGでいうところの、ヘイト管理をしてダメージを受けるメイン盾になるタンクだ。
「おまえ、佐羅谷と付き合ってるってマ?」
「俺は天ちゃんと二股かけてたって聞いた」
「かー、どっちでもうらやましいな!」
「で、どうなん? もうどっちともヤッたのか?」
廊下やトイレで、本気で聞きたいのか冷やかしたいだけなのか、下世話な質問が飛ぶ。顔も知らない、話したこともない男が多い。
「よお! なんとか言えよ!」
俺にできるのは、沈黙を守るだけ。
非がないのに反論するのは骨折って益がない。佐羅谷と宇代木の名誉のために、俺がこれ以上名を落とすわけには行かない。暴力沙汰など最低だ。
せめて、佐羅谷や宇代木が直接ことばの暴力を被っていないことを祈る。
トイレを出ると、雲も吹き飛ばす笑顔の宇代木がいた。
「ちゃーおー、くーやん。今日も一緒に帰ろー。勉強しよーよ」
「ああ、そうだな」
宇代木は、強い。
こんな環境下でも俺を気遣って笑っていられるんだ。
堂々としていれば良い。
期末試験が終わり、終業式も終わり、新学期になれば、みんな自分たちの友達作りや恋人探しに奔走して、俺たちのことなんてすっかり忘れるさ。
俺が相槌だけを打ちながら、上の空で宇代木に対応していると、口を尖らせて睨まれた。
「もー、くーやん、テキトーすぎ! 聞いてる、あたしの話!?」
「ああ、聞いてる聞いてる」
「うん、わかってたらいいよー。何があっても、あたしが守ってあげるかんね」
宇代木がそっと腕を絡めてきた。厚いコート越しに感じるほのかな体温は、確かに救いだった。
これだけは、失うわけには行かないと思った。
俺は静かに壊れていた。
期末試験は、散々だった。
何も手につかず、勉強したことは頭から抜け、回答用紙の半分も埋められなかった……と言えたら、俺も漫画やドラマの主人公になれただろうか?
実際は、人生最高レベルにうまく回答できた。理由は明白で、宇代木という家庭教師が土日に詰め込み教育をしてくれたからだ。
期末試験の結果が出ると、あとは終業式まで授業がない高校もあるらしい。あいにくとかつらぎ高校は試験が終わっても授業は続く。
手元に帰ってきた解答用紙を見て、自分の平均点を計算して、心の中の乱れ様と成績は一致しないことを知る。
「九頭川くん、元気そうで、よかったよ」
たまたま横を通り過ぎた神山が成績表を覗く。神山も写真の件以来、気を遣ってくれているのだろう。
「まあ、元気だよ」
「どう、久しぶりにボルダリングしない? 宇代木さんも一緒に」
「ああ、悪い。今日から部活があるからな」
「え、部活は」
「佐羅谷も宇代木も、早いんだ。俺がホームルームが終わって走って行っても、なぜかいつも先にいてな」
「……」
「あいつらを待たせたくないんでな」
「九頭川くん!」
「ん? まあ神山も相談がなくたって、いつでも来てくれていいぞ。佐羅谷も宇代木も歓迎するだろ」
「そうじゃなくて!」
なんだ、神山はどうして泣きそうな顔をしているんだ。付き合っている彼女とうまく行ってないのか? 今回の試験の調子が悪かったのか? いやいや、神山に限ってそんなことはあるまい。
「用がないならもう行くぜ。じゃあな」
俺はカバンを担いで立ち上がる。
なぜか教室中から強い視線を感じるが、俺はそんなに目立つ存在ではないぞ。きっと自意識過剰になってしまっているだけだろう。
それよりも、部室に行かないとな。
試験期間中は休みだったから、二人に会えなかった。一年生二人はなおさら顔を合わす機会がない。
話したいことがたくさんある。
話し足りないことが、たくさんある。
俺はいつも通り、恋愛研究会の部室である理科実験室に向かう。ケミラボだ。そこは化学変化の起こる部屋。俺たちの世界。
廊下は走らない。
走ってしまって佐羅谷と宇代木に追いついたら、興醒めだ。
俺は、あの理科実験室の扉を開けたときの、部屋の中に窓の向こうから射す強い夕日を浴びるのが好きなんだ。
光を背にして座る佐羅谷と宇代木の姿を見るのが好きなんだ。
いつも定位置に座る二人が好きなんだ。
ガスバーナーを前に文庫本を開くうつむき加減の佐羅谷と、長い足を組んで惜しげなく晒し卓に突っ伏しながらスマホを眺めている宇代木と、二人の、二人だけの友達っぽい空気が、花園が、情景が、絶対に失ってはいけない空間なんだ。
だから、俺は二人の移動に追いついてはいけない。
はやる気持ちを抑えて、渡り廊下を歩く。
二人はもう部屋にいるだろうか?
ひやりと冷たい澱んだ空気の別棟、理科実験室の周囲は静謐に包まれている。まるで人の気配がしない。
(なぜだろうな)
恋愛相談受付中の札も、部員専用の札も、扉にぶら下がっていない。
普段は部員専用の方の扉の把手に指をかける。
開かない。
鍵がかかっている。
おかしい。
放課後は、佐羅谷も宇代木もこの部屋にいるはずなんだ。
鍵をかけて籠るなんてあり得ない。
「おい、冗談はやめろよ」
開かない扉の向こうに、俺は苦笑を投げかける。
何かのリドルか?
佐羅谷ならやりそうだ。
ガチャガチャと扉を力任せに揺らす。古い校舎の建て付けの悪い扉は大きな音を立てる。だが、鍵は強固で開く気配はない。
ガチャガチャ。
「おい、聞こえてるだろ? そろそろ開けてくれよ」
ガチャガチャ。
「仲間はずれなんて、やることが小学生レベルじゃないか?」
ガチャガチャガチャ。
「なあ、終業式前で告白の書き入れどきだぜ? このままだと、相談者が来るかもしれないぞ」
ガチャガチャガチャ。
ガチャガチャガチャガチャ。
ガチャガチャガチャガチャガチャ。
「開けろ、開けろよ! 開けてくれよ!」
ガチャガチャガチャガチャガ……。
「くーやん! ダメだよ! 扉壊れちゃう!」
俺のガチャガチャは止まらない。
誰かが俺の背中に抱きついてきた。
やめろ、邪魔をするな。
俺は恋愛研究会の部員で、佐羅谷と宇代木に会わないといけないんだ。
俺の居場所は、ここなんだ。
「離せ! ここに、俺はここにいなきゃいけないんだ! ここにいれば、佐羅谷と宇代木に会えるんだ!」
乱雑に腕を払うが、力が入っていない。
無様に転がされて、床に押し倒される。
泣き顔が俺を見下ろしていた。
「あたしはここだよ! 宇代木天はここにいるよ! 見てよ、あたしを。あたしはここにいるじゃんか!」
「宇代木? なんで、なんで、部屋にいないんだよ? なんで俺の後から来るんだよ?」
俺は寝たまま、理科実験室の扉を仰ぐ。
「部室にいろよ。いつもそうだろ、俺がどれだけ早く来ても、おまえと佐羅谷は先に来てて」
「ダメだよ、違うよ、くーやん、もう、部活はないんだよ。恋愛研究会は、終わったんだよ。あたしたちは、孵化器を出たんだよ! 戻る場所なんて、もうないんだよ!」
「ウソだっ」
俺は泣き崩れる宇代木を退かせ、執拗に扉を叩く。
「ウソだ、ウソだ、ウソだ……」
叩く力が弱くなる。
わかってる。
わかってるんだ。
ここに俺たちの居場所はない。
あの暖かい空間は失われて久しく、永遠に戻ることはない時間。
俺は扉に凭れかかり、鍵を傷めつけるのをやめた。
「あー、ああー、あ、あ、ぁ、ぁ、すまない、宇代木。おまえのお願い、守れなかった」
「え?」
「三人、いつまでもいっしょに、ってお願いだよ。無理だった。俺のせいで。俺のせいで、何もかも壊しちまった。俺の」
「違うよ! くーやんだけのせいじゃないさ! あたしが、あたしが、ずっとそんなお願いでくーやんを縛っちゃったからさー! だから、こうやって今、バツを受けてるんだよっ」
宇代木は涙を拭こうともせず、かわいい顔をくしゃくしゃにして立ち上がる。
「くーやんはさ、あたしに弱いじゃんか。あたしがこうやってお願いしたら、きっと助けてくれる。きっと成し遂げてくれる。きっと、いつも、だから、お願い」
宇代木はカバンについていたTの字のついたアマミノクロウサギのストラップをちぎり取って、俺の前に落とす。
「あたしたちは、自由だ!
あたしたちは、お互い依存するために集まるんじゃない! 三人一緒にいたいから、自分たちの意思で、自分たちの場所を作るんだ!」
なのに、と洟を啜る。
「あたしたちの居場所、なくなっちゃった」
宇代木は乱雑に笑顔を作る。
今まで見た最高の笑顔だった。
なんでもできる万能キャラクターの「宇代木天」が、ただの一人のかよわい女子になっていた。
「あたしたち、どこで間違ったんだろーね。どうやったら、元に戻れるんだろーね」
宇代木は俺に背を向ける。
「ばいばい、くーやん」
そして誰もいなくなる。
廊下の冷気を全身で感じながら、俺は一人だった。
扉にずりずりと頭を擦り付けながら、やがて頭も床にぶち当たる。
ははは、情けない。せっかく宇代木が助けてくれるって言ってくれたのに、俺が狂気に憑かれたせいで愛想を尽かされた。宇代木にさえ見捨てられた。
佐羅谷は玉木が救い上げ、宇代木はもともと一人で生きていけるやつで、じゃあ、残ったのは何もできない主人公にもなれない九頭川輔。
「俺は、一人だ」
頬に触れる廊下が冷たく痛い。
「九頭川くん、起きて! だめだ、だめだよ、君はそんなに生ぬるい男じゃないだろう?」
「……田ノ瀬?」
「そうだ。神山くんが要領を得ないことを言ってたから、来てよかった」
「放っておいてくれよ、俺はもうダメだ」
俺が力なくされるがままに任せていたら、田ノ瀬が口を押さえて笑う。
「なんだ、失礼なやつだな」
「いやいや、まさか九頭川くんがこんなにかまってちゃんだったなんてね。知り合ったときは、天変地異が起きたって一人で生き抜きそうだったのにね」
「ほんとうに失礼なやつだな」
「友達を放っておくわけがないだろ」
田ノ瀬はなぜか俺を過剰評価する。
きっと、他の生徒は田ノ瀬を特別視しすぎて、同等の立場で友達にならないのだろう。佐羅谷や宇代木は分け隔てなく接するが、そこは異性だ。
男でありながら、田ノ瀬に裏表なく接するのは、俺くらいだろう。だから田ノ瀬は、俺を信じてくれる。
「田ノ瀬に友達だと思ってもらえるのは、嬉しいね」
「ああ。君が僕を助けてくれるように、僕だって同じようにする。それだけだ」
俺は田ノ瀬に引き起こしてもらう。膝と手のひらに付いた埃を払っていると、廊下の奥からミコマココンビの男の娘の方マコトと写真部部長の入田がやって来る。
「九頭川せんぱい! 部室に向かうのが見えたんですけど! でも部活じゃなさそう?」
「悪いな、マコト。俺の勘違いだ。部活はもうなくなったよ」
「やめてください、そんな悲しいウソ、聞きたくないです!」
「そ、そうだぞ、九頭川。お主なしでどうやってこれ以上写真部を盛り上げていけと!」
「おまえはすでに充分写真部を盛り上げていけるだろうが。いろんな部活から引っ張りだこじゃねえか。というか、どうしてここに来たんだよ」
「我は風の便りでな。聞いたところ恋愛研究会の危機は盗撮写真のせいだと」
入田は四角いメガネをきらめかせ、神妙に眉間に皺を寄せる。
そうか、写真が送りつけられていない生徒も一定数いるわけだ。知らなければ、直接に見たくもなろう。ましてや入田は写真部だ。
「縁もゆかりもない仲ではなかろう、九頭川」
噂は聞いているのだろう。
そのわりに入田の態度は変わらない。
「ふん、入田のくせに生意気だな」
「失敬な。お主は陰キャの星としてこれからも我らの先陣を切ってもらわねば困るのだ! 切込隊長がおらねば、動けないではないか」
「清々しいまでに平常運転だな」
俺は少し笑えた。
何か裏があるかもしれないが、そうだ、入田は最初からこうやって俺を足がかりに利用し、俺は俺で乗せてやって好きに使ってきた。直接築いてきた信用は、そうそうに崩れない。
「九頭川せんぱい、ボクも力になりたいです。部長せんぱいの決定はわかりますが、黙って従うのが正しいとは思えないです! 安全地帯から石を投げるなんて卑怯です、お互い向き合って正々堂々戦うべきだと思います!」
「マコト……」
「それに九頭川せんぱいが二股だろうが三股だろうが、今さら驚きもしません! むしろ学園ハーレムアニメなら、全員彼女でもいいと思います!」
「おまえ言ってることわかってる?」
「学園ハーレムに男の娘は必要じゃないですか」
「自分をオチに使うなよ」
なるほど、潔癖なミコトはともかく、男心のわかるマコトは俺を人間としては信用してくれているらしい。
こんな情けない男にも、ボロボロに崩れたときに助けてくれる友がいるわけだ。期待されるなら、信じてくれるなら、できることがあるかもしれない。
俺は面を上げた。
「なあ、みんな、手伝ってくれるか?」
「なによ、元気そうじゃない」
俺が三人と話をしていると、廊下の奥で足音が止まる。
顧みると佐羅谷がいた。
遠く距離を取ったまま、一人で肘を抱いて立つ。
「天から悲壮な連絡があったから何かと思ったら、男同士楽しそうね」
言い方。
「九頭川くんは女子よりも男子に慰められたほうが元気になるのね」
いや言い方。
「佐羅谷、いいのか、玉木を放っておいて」
「あの人は余裕のある人よ」
確かに余裕があるだろう。
中学時代の想い人を得るために、あらゆる努力を惜しまなかった。成功してさえ強引に事を進めることはなく、丁寧に丁寧に手順を重ねた。今さら何一つ焦ることはない。
佐羅谷が他の男を気にかけることくらい、鷹揚に許すだろう。
「ほんと、情けないひと。女一人悲しみから救えないどころか、自分まで友達に救ってもらうなんて。わたしの知る九頭川くんは、もういないのね」
「佐羅谷さん、そんな言い方はないよ」
田ノ瀬の苦言も佐羅谷は一顧だにしない。
佐羅谷は俺しか見ていなかった。
「俺は昔からずっとこんなだよ。弱くて脆くてダサくて、どこまでも無力で、せめて女子の前ではカッコよくありたいって思う俗物だ」
「だったら、どこまでも演じ続けなさいな」
佐羅谷は耳を隠す髪をかき上げた。
一瞬、ほんの一瞬、耳たぶに濃い緑色の何かが見えた。目を疑った。
髪の毛が覆い隠している限り先生に指摘されることはないが、まさか?
あの佐羅谷あまねが、ピアスを?
俺は驚いて目を瞠る。
佐羅谷はすぐに耳を隠し、太陽のように笑った。ピアスについている石と同じ色の瞳が俺を見つめ返していた。
そして、いつもと違う口調で、歌うように言った。
「わたしに自由に動ける体があることを教えてくれたのは、君じゃないか」
佐羅谷のことばっぽくなかった。
口調も内容も、佐羅谷あまねのものではない。深窓の令嬢かというと、それも違う。だがどこか馴染みがある。
セリフ……そうだ、似たようなセリフを、俺はどこかで見た。読んだ。思い出せない。
俺が無反応で立ちすくんでいると、佐羅谷は悲しげに息をついて、身を翻した。一歩たりとも近づくことはなかった。肩にかけたカバンの端で、アマミノクロウサギが揺れた。
この日、俺は爪を失った。
牙は、残った。




