7巻後半『九頭川輔は立ち上がれない』
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
玉木くがね (たまき・くがね)
槻屋尊 (つきや・みこと)
加瀬屋真誠 (かせや・まこと)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)
杉原京香 (すぎはら・きょうか)
大杉右京 (おおすぎ・うきょう)
豆市咲蔵 (まめいち・さくら)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
二章 九頭川輔は立ち上がれない
天は二物を与えずというが、あれは嘘だ。
あからさまな嘘だ。
天は二物どころか三物四物を一人に与えて、その代わりにどこかの誰かから五物も六物をも奪い取って、世の中を不公平な格差社会にすることで遊んでいるのだ。
神様から見れば人間のわずかな才能の差などどんぐりの背比べで、長い人生の間で何十年も身悶えする劣等感に苛まれることなど、考えにも及ばないのだ。
あるいは、そう、天は世界の調和を取るのに夢中で、人間ごときの個々人の差など、すべて誤差のようなものなのだ。
だから、与えること、与えられること、与える数、与えられる数、そんな小さなことで悩み、苦しみ、妬み、嫉み、一喜一憂することを、神は望んでいない。
そう、俺は声を大にして言おう。
バレンタインにチョコがもらえなくても、誤差の範囲だ。ゼロ個も一個も、誤差の範囲だ。
ゼロを発見したインド人に敬意を表す。
一月末の修学旅行が終われば、もう大きなイベントなどないと高を括っていた。
大きな間違いだった。
写真部部長の入田が、長髪ワンレンに四角いレンズのメガネといういつものスタイルで恋愛研究会の相談に来て、俺は思い知った。
いくらか女子に慣れた入田は、恋愛研究会の部室に入って、佐羅谷、宇代木、ミコト、マコトと順に視線を送ってから、最後は俺だけに視線を向けて、神妙に言った。
「バレンタインチョコが、欲しい」
俺は入田のことばで誤算に気づいた。
玉木は学校外のイベントで、佐羅谷に働きかける気だ。しかもバレンタイン、まさに玉木のホームグラウンドだ。
入田の苦悩に耳を傾ける余裕はなかった。
「なあ、九頭川よ、我はこの半年、けっこう活躍したと思うんだ! 苦手だった人物撮影も鍛えた! 男子も女子も知り合いが増えた! 向こうから試合中のカメラマンを頼まれることだってある! どうだろう、チョコはもらえるだろうか?」
本人は真面目だ。
たかがチョコひとつもらえるかどうかに一喜一憂している。
俺のように人生で一度ももらえたことのない人間にはわからない感覚だ。そんなイベントが存在することさえ忘れていた。
「だいきっちゃんはもらえるでしょー」
宇代木が爪を手入れしながら他人事のようにつぶやく。校則スレスレの薄いピンク色が光沢を持ってきらめいている。
「こないだ吹奏楽部で写真撮ってたじゃん? めっちゃ評判良かったよ? ちゃんとパートとかソロとか、一番の見せ場で一番の瞬間を捉えてるって、みんな喜んでたしー」
「ほほほ本当か! では誰がチョコをくれると!」
「誰がってのはあたしにはわかんないよー。ていうか、誰からでもいいの? そんなチョコもらって嬉しい?」
「嬉しいが……嬉しいよ、嬉しいよな? なあ、九頭川?」
「そこで俺に意見を求めるなよ」
入田に注がれていた視線が、俺に移る。
「そうだなあ、どこの誰ともしれないチョコか」
不意に一年前の記憶が蘇る。
谷垣内と那知合がまだ不安定な関係を詰められなかったときだ。
俺はなんとかして那知合に近づけないかと、義理でもいいから分け前に預かれないかと躍起になっていた。
『そういや、もうすぐバレンタインだな』
俺の無理筋な話題転換に、確かに那知合はアンテナの感度を上げた。谷垣内の様子を深くうかがうために(というのも、今ならわかる。当時の俺には那知合の雰囲気の変化の意味はわからなかった)。
だが、俺の希望は谷垣内の怒気を含む声に儚く消えた。
『輔、やめろ。俺たちの関係をそんな安っぽいイベントで台無しにすんなよ』
『お、おう、すまねえ』
殴られなかっただけマシだった。
俺のデコを小突く指は、俺の一切の食い下がりを受け付けない意志が宿っていた。
那知合も冷たい汗を一つ流してことばを呑み込んでいた。
谷垣内が「要らない」と言ったのだ。
それは那知合の気持ちを受け取る気がないということだ。
俺たちの関係で、谷垣内の考えは絶対だった。たぶん、あのときの谷垣内のグループに属していた男女は、バレンタインのチョコをやり取りしていないはずだ。
そう、あれで谷垣内と那知合に距離ができたと思って、俺は那知合に告白する計画、この関係を清算する計画を立てたのだ。
「九頭川くん、どうしたの、黙り込んで。黒歴史に身悶えしているの?」
「だいじょぶ? ナーヴギア外されちゃった?」
二つの顔が間近にあって、慌てて身を起こす。
「あー、なんだ。欲しいのは不定冠詞のチョコじゃなくて、定冠詞のチョコだよな」
「また独特の言い回しをするわね」
「チョコって可算名詞だっけー?」
「人の過去を黒歴史にしたり、人の人生をデスゲームにするよりマシだろ」
ほんとなんなのこの二人。
俺でなきゃ軽妙でウイットに飛んだユーモアを返せない会話ボケをかますんじゃないわよ、まったく。
「なあ、聞け、入田」
向き直ると、入田は「応ッ」とのけぞる。
「何個チョコをもらったとて、とどのつまり自分の体は一つだ。全員の想いに応えられないのに、ただ数を追うことに意味があろうか、いや、ない(反語)! 入田よ、大切なのはアッピルだ!」
「ア、アッピル!!」
「そう、本当にもらいたい人がいるだろう? いないとは言わせないぞ。求めよ、さらば与えられん! 直言せよ、遠く響くウォアイニーではダメだ」
「そっ」
「そ?」
「それができたら苦労はないんだよー!」
入田は泣き叫びながら理科実験室から駆け出していった。なんなんだあいつは。
ばんっと開けっぱなしにされた扉を閉めて、俺は定位置に戻る。四人の視線が集まっている。なんの含みだ。
一番口の軽そうな宇代木を見つめ返す。
「なんだよ、そんなに的外れでもなかったろ」
「べっつにー。さっきの話、くーやんもおんなじなのかなーって思っただけー」
「本命から本命のチョコをもらえるのが一番嬉しいに決まってるだろ」
「じゃなくてー、欲しいってアピってみ? 天ちゃんが本命、あげるよ?」
「うわーうれしいなー」
「なんでそこ棒読みになるのさ!」
真面目な話ではない。
ぷんすか怒ったふりをする宇代木。本命は誰だか知らないが、そのチョコは必殺の一撃だ。誰に渡そうが想いは成就するはず。俺が欲しいと言ったらくれるだろうが、義理チョコは空腹を満たす程度の役目しかない。
「だいたい今の時代、女が男に渡すだけがバレンタインの在り方じゃないよな。なんなら、俺から渡してもいいわけだ」
「え、くーやんくれるの?」
「本命をな」
「やーどうしよっかなー、あたし、確かに今はフリーだけどー」
「だからなんで自分がもらう前提なんだよ」
自分からチョコを渡すのは良いアイデアだ。もらうのを待つよりも潔い知だ。自分からゴールを目指すストライカーの資質だ。
細めた目で佐羅谷の様子を窺うと、ジト目と視線が合う。
「呆れるわね、さっきの言いくるめ方。なによ、本命からもらえるチョコ一つあればいいだなんて、よくもいけしゃあしゃあと嘘をつけるものね。いつもの山田仁和丸の論理? もう聞き飽きたのだけど」
「ばっか、違うぞ。俺論理だ」
「あなたがロンリーなのは言われなくてもわかっているわ」
「なんでそこで勝ち誇った笑みを浮かべるんですかね。だいたいLとRの発音が聞き分けられないなんて、リスニングで困るぜ? 俺がつきっきりで、耳元で調教してやろうか?」
「ロンリ的にありえないわ」
「絶妙な発音するなあ」
佐羅谷はしてやったりと少し胸を張る。
「バレンタインなんて、もはや真剣な恋愛とはかけ離れた、恋愛ゲームのイベントに過ぎないじゃない。あなたも恋愛研究会の男子部員なのだから、本命以外受け取らないだなんて依怙地なことは言わずに、快く受け取りなさい」
「そうか。本命からもらえなかったらそうするかもな」
本命からもらえなければ、本命に渡す。
俺の中で今、一つの筋道が立った。
「九頭川さんはバレンタインみたいな軟派なイベントは嫌っていると思ってました」
佐羅谷と宇代木が連れ立ってお手洗いに出たときに、ミコトが淡々と言った。ウルフショートを揺らして、俺に顔を向ける。不満げに口を突き出している。
「日本のバレンタインは、チョコレート会社の陰謀じゃないですか。つまらない商業主義に煽られて、人の心を不安にして消費させるなんて、許せないです」
「ミコトらしいな」
西欧ではバレンタインは別物だというが、そもそもチョコであろうとなんであろうと、物を贈るというのは裏に商業主義の香りがする。
「だけどな、恋愛にイベントは必要なんだよ。恋愛はどう行動すればよいのか誰も教えてくれないからな。外的きっかけがあって、そのときに動くなら、とりあえずは様になる」
「外的要因がなければ動けない程度の情動で、愛だの恋だの言うなんて、まるで恋に恋しているみたいです。滑稽です」
マコトの前で容赦なく言い切るのは、ミコトが「愛だの恋だの」を自分のこととして経験したことがないからなのだろう。
「ミコトらしいな」
俺は同じことばを繰り返した。
ミコトは不満げに唸る。
「なんでですか、どうして佐羅谷さんや宇代木さんのときみたいに、軽妙に返したり軽口を言いあったりしないんですか。説得も論破もしないで、人を子供みたいに!」
「いやおまえは年下だし。別にバレンタインの正当性を主張するほど思い入れもないし」
「不愉快です! バレンタインなんてこれっぽっちも興味がないですし、恋愛のことなんて全然わからないですけど、九頭川さんを出し抜きたいです!」
なんなんだろう、この負けず嫌いの後輩は。
助けを求めてマコトを見ると、マコトもかぶりを振った。こうなったミコトは手に負えない。めんどくさいやつだ。
「九頭川せんぱい、さっきの「恋愛はどう行動すればよいのか誰も教えてくれない」ってことばが、ボクには響きました!」
マコトは挙手しながら、ピンクメッシュのツーサイドアップを揺らして発言する。ナイス話題転換。
「部長せんぱいも宇代木せんぱいも九頭川せんぱいも、そうです。どうやったら恋愛について、知識を得たり議論ができるようになるんでしょう。あと一年でボクが同じようになれるなんて、とても思えないです。やっぱり、ボクには経験がないから……」
「経験だったら俺もねえよ。彼女いない歴=年齢だ」
疑う気満々の視線が俺を貫く。
「俺も入部したとき、佐羅谷と宇代木を見て同じことを思った。勝てないし、勝とうとも思わないし、だったら並び立ちたい、せめて見劣りしない存在になりたい。その一心だ。佐羅谷にも宇代木にもない領域から、俺は俺の恋愛論を構築した。机上の空論をな」
「最後で台無しです!」
「恋愛は素晴らしいし、恋人は愛おしいし、彼氏彼女がいると世界に色がつくぞ。友達がいると寂しさが紛れるし、子供が生まれると人生に張りができる」
「な、なんで私を見て言うんですか。気持ち悪いです」
「九頭川せんぱい、全部未経験じゃないですか」
ミコトとマコトが呆れる。
「そうだ、全部世間では「正の属性を持つもの」として称揚されるのに、誰一人として、恋愛の仕方も、友達の作り方も、結婚相手の探し方も、教えてはくれない」
「「……」」
「なにも知らない、なにもできない、だからこそ、できることがあるんだよ。佐羅谷にも宇代木にもできないことだ。当たり前の一歩後ろにいるあらゆる当たり前からもこぼれ落ちた俺にしかできないことがな」
俺は間違っていないか?
俺は今も進んでいるか?
ミコトもマコトも黙って考え込んでいる。
(おまえたちは大丈夫だよ)
立派に恋愛研究会の部員だ。こんなに抽象的で取り留めもなく名状しがたいものを、バカにすることなく真剣に扱う心があるのだから。
「ただいまー! どしたの、静まり返っちゃってさー!」
扉を開けて宇代木が入ってきた。奥に佐羅谷もいる。
この五人がいる限り、恋愛研究会は盤石だ。その点について、俺は微塵の疑いも懐いていなかった。
修学旅行が終わって一週間も経つと、学年全体で昂っていた気持ちも朝靄のように消えて、月末の期末試験が話題に上る。
もちろん、休み時間には二月半ばのバレンタインの話も漏れ聞こえる。
「うう……」
昼休みに弁当を持って教室の窓際に来ると、机に突っ伏して息も絶え絶えな山崎がいた。
「どうした、インフルか? 山崎でも流行りには乗れるのか?」
「はっはっは、我が乗れないのは会話とエスカレーターだけだ!」
「致命的だな」
しかし、メガネで隠れた目に力がない。元気がない。
「で、どうした? つまらない悩みか、面白い悩みか?」
「やだ、九頭川、イケメン、どうしてわかるの? え、好き」
「アドバイス一つごとにラーメンでトッピング一つ増えると思え」
「やだ、九頭川、ゲンキン」
山崎は弁当の包みを開けながら、姿勢を正した。
「ああ、今からの時期が不愉快だと思ってな。不愉快指数が指数関数的にバブル相場だ」
「うーんわけがわからん」
俺はわからないふりをした。
俺もモテない男代表だ。この時期の居心地の悪さは身をもって知っている。
バレンタインでチョコがもらえないことがつらいんじゃない。チョコがもらえる人間ともらえない人間がいて、自分がもらえない側であることがつらいんだ。
教室という狭い世界にいると否応なく格差が目に見える。
「おいおい、山崎。相談するなら、九頭川は不適切だろ」
俺と山崎の隣に、玉木が購買のパンを並べる。
「見ろ、九頭川の雰囲気イケメンぶりを」
「むう、確かに九頭川は髪型をいじるようになってちょいとかっこよくなったな。だが、玉木、それがチョコをもらえることと関係があるのか?」
こいつチョコって言っちまってるよ。
いやもう隠すまでもないんだが。
「俺は九頭川のこの姿しか知らないが、そうか、変わったのか? だがまあいい。見た目を変えるのは、確かに自分のためだ。だが、見た目は自分ではなくて他人のものだ。見る人がいるから、見た目を変えることに意味がある」
玉木はチョリソードッグのラップを剥がす。ケチャップとマスタードの香りが俺たちの周りに漂う。
「九頭川は、「参戦」したんだよ。恋愛という勝ち負けと理不尽しかない戦いにな。見た目を変えるってのは、そういうことだ」
「な、なんと。そうだったのか、九頭川!?」
俺は黙って弁当を食べる。
口の中に物が入っているときにしゃべるのは行儀が悪いからな。
俺は黙って口を動かす。
「だからよ、山崎。バレンタインでチョコが欲しいなら、」
そう言って、玉木はストローの袋を机の上に置く。境界線のように山崎一人を区切る。
「チョコが欲しいなら、こちらの世界に参戦するしかないんだ」
「おお! 玉木氏!」
ガッシと手を握り合う二人。
玉木のことばに間違いはない。バレンタインでチョコをもらえるということは、チョコをもらえる立場にまずは立候補しなければならない。
それは恋愛の対象になるということだ。自分が他者の目に曝され、評価されるということだ。
表立って勝ち負けや優劣をつけなくなってきている現在の学校生活で、自ら戦いに参加するということ。端から棄権して何も得られないのと、参戦して得られないのとでは、結果が自分にもたらす重みが異なる。
顔を上げると山崎と目が合う。
「九頭川、応援するぞ!」
メガネ越しでもわかる。目を潤ませる山崎。いや、おまえは参戦しないのかよ。
男三人程々に賑やかに昼食をとっていると、背後に人が立つ。
振り返ると、不機嫌な表情の沖ノ口が長い髪を整えて、教室の扉を指差す。
またミコトにでも呼び出されたのか。そう思って立ち上がる。
「違う。たすくじゃない。玉木くん」
「ああ、俺か。誰?」
「知らない。一年の女子だと思う」
「そうか」
玉木は口元を拭いて、扉に向かう。
昼休みも半分を過ぎて食事が終わったグループも多く、密かに玉木の様子に意識を向けている。少し喧騒がやむ。
扉の脇にいる女子の姿は見えなかった。
「やあ、俺が玉木だけど」
「初めまして、玉木先輩。私はーー」
かすかに届く会話は小声で、あまり聞こえなかった。玉木の声は聞こえるが、当たり障りのない日常会話だ。これが英語でできたら、海外旅行も楽だろうなとどうでもいいことを思った。
「それで、何か用かな? 一応、まだ食事中なんだが」
「あ、あの!」
進まない会話に玉木が笑顔で圧をかけると、一年女子の声が大きくなった。
「う、うわさで聞いたんですけど!」
今や教室全体が耳を澄ましている。
「玉木先輩、」
「『ツイッツイーツ』の社長だっていうのは、ほんとうなんですか!」
ざわっとした。
ざわめきではない。
俺の背中に鳥肌が立った。
ざわっとしてきた。
教室がにわかにピーチクパーチクと囀り始める。
「え、ツイッツイーツってあのカップルの店?」
「社長って、うそ? 高校生ってできるの?」
「ほんとだ、会社概要に社長名が載ってるや」
「同姓同名だとか」
「そっか、だから東京の次に奈良に出店したんだ」
調べれば、わかることだ。
だが、普通は調べない。
就活中の学生やスポーツや芸術で活躍する者ならエゴサくらいはするかもしれないが、俺たち普通の高校生は自分や友達を調べたりしない。
お店としてのツイッツイーツは高校生も調べるが、その社長や運営会社にまで興味はない。高校生社長の伸び盛りなスイーツ店として経済誌ではインタビュー記事があったようだが、見るのは大人ばかりだろう。
あるいはそんなことを調べるませた高校生は気が利くから、本人に尋ねたり言いふらしたりはしない。きっと普通の高校生をしたくてこんな高校に来たのだろうなと空気を読むだけだ。
(玉木、この高校にいられるのか)
どこか一芸に秀でた若者が集まる私立なら、玉木でも溶け込めて高校生を満喫できたかもしれないのに。
一年女子との会話を切り上げた玉木は、喧騒と視線の集中する教室を横切って、俺と山崎の隣に座る。
「やれやれ、隠せないものだぜ。思ったより早かったな」
「大丈夫なのか? 荒れるぜ?」
「別に。高校生が社長だといけない道理はないだろ?」
「それはたぶんそうだが」
玉木はクリームたっぷりあんぱんの封を切る。一口大きく齧ると、口の端にクリームが残る。
「おっと」
口のクリームを指で拭いとると、ことばをかけられなくて呆然としている俺と山崎に笑顔を見せる。
「好きなんだよ、クリームと粒あん。一見、合いそうにない二つの相性が、とてもいい」
ありきたりな好みの告白さえ、スイーツショップの社長に結びつけて解釈してしまう。
玉木のことばは重かった。
噂は燎原の火のように瞬く間に拡がった。
スポーツ万能で学業に優れ、細いメガネが似合うイケボの転校生は、さらに肩書きを増やし、かつらぎ高校のトップカーストに躍り出た。
もともと学内で知名度の高かったメンバーと競合しない個性だというのも、一気に名が広まった一因だろう。
スポーツが得意な者、勉強が得意な者、芸術系に才能のある者はそれぞれに学内で知られている。しかし何より会社の社長という肩書きは強烈な個性だった。アイデンティティだった。
噂の火が生徒の口を焼き尽くした後は、思いのほか静かだった。
二、三日後の昼休み、玉木がいないときに山崎が言った。
「まさか玉木があのツイッツイーツの社長だったとは。いまだに信じられぬぞ」
「意外だ」
「であろう?」
「おまえがツイッツイーツを知っていたことがな」
「ゲフン」
あのあと山崎は面と向かって玉木に確認していた。隠さずに答える玉木に山崎は深く感動し、さらに友達付き合いが変化しなかったことに感銘を受けたようだ。
ツイッツイーツというと、山崎から見ればリア充の巣窟で敵対勢力の親玉であるのに、玉木に対する評価は下がらなかった。
以前の玉木を知っている者ほど、社長業が周知されたあとも態度を変えないことが好印象につながっているようだった。
だが、俺が気にしているのは三根だった。
三根と玉木の関係はすでに切れているが、一部の生徒は三根が玉木をぶったことを知っている。少しばかり尾鰭がついて広まっている節もある。
「玉木、三根はどうしてる」
隣に来た玉木に尋ねた。
「会ってないな。向こうも会いたくもないだろう」
「最後にビンタを喰らったのは」
「おいおい、女にちょっと殴られたくらいで、根に持つかよ」
俺たちの昼休みは、相変わらずいつも通りだった。
玉木狙いの女子がしばしば教室に粉を掛けに来るとか、社長という存在を物珍しがる男女が視察に来るとか、そのくらいの変化だ。
だが、ツイッツイーツに憧憬や信心を抱く一部の者は、玉木本人のファンになっている。そんな信者に三根が疎まれる可能性がある。
たとえ、玉木が無関心でも。
「たすく、時間、いい?」
音もなく沖ノ口がやって来て、そばに立つ。
「あー、また誰か来たか」
「ううん、ちがう。放課後、時間、ほしいの」
「放課後は部活がな」
軽いウソだ。
部活は融通が効く。なんなら、宇代木などダンス部優先で、いない時も多い。俺とミコトも生徒会があるときは出ていない。
単に、俺が沖ノ口と一緒にいたくないだけだ。
「これ」
渋る俺に、沖ノ口はスマホの画面を見せる。ラインのトーク画面で、三根が悩んでいると書いていた。というか、プライベートなやりとりをためらいなく俺に見せるなよ。退けなくなるだろ。
「三根の頼みか」
玉木は三根の名を聞いても、平然としてピクリともしない。
沖ノ口はスマホをしまいながら玉木を冷たい目で見ていた。
「時間、いい?」
「わかった。放課後な。手短に頼む」
三根が女子の間だけで相談しようとした問題だ。玉木の存在が広まったことで、一瞬でも玉木の彼女だったこと、喧嘩別れしたことなど、悩むこともたくさんあるだろう。
俺に直接言わなかったのは……まあ普通、ただの男友達にいきなりそんなに重いことを相談するわけもないな。上地のときは、俺がたまたま上地と同じ場所にいただけだし。
部活に遅れることをグループの連絡網(部員も増えたので、宇代木が作った)に流そうとすると、玉木が俺の手を掴んだ。
「悪い、九頭川。ちょっと国語の宿題忘れててな。写させろとは言わないが、手伝ってくれないか」
「なんだ、生真面目な玉木にしては珍しいな。ま、別にいいぜ」
「助かる」
俺はスマホ画面を消して、国語のプリントを取りに戻る。沖ノ口はいつのまにか教室から消えていた。俺は部活に遅れることを伝え忘れていた。
放課後、屋上につながる開かずの扉の前に集まる。袋小路になった扉の前の空間は、ちょっとした隠れ話をするには最適の場で、原則として弱肉強食で占有できる。
三年生はほぼ通学していないので、二年生で上位に位置する上地や沖ノ口がいると、追い出される心配もない。
「や、輔。ひさびさ〜」
「おう。修学旅行ぶりだな。ていうか、上地もいるのかよ」
「うるさい」
「ほら、上地は落ち着く。輔はこっち」
一年のときを思い出す。
谷垣内と那知合が部活でいないときは、この三人と一緒にいることもあった。ただし、男は俺一人ではない。男が俺一人のときは、さっさと帰って顔を合わさないようにしていた。俺一人でこの面々と談笑しながら帰ったり、寄り道したりする状況が想像できない。
「殿井と古野と和田がいたときを思い出すな」
「知らね。誰だよ、そいつら」
「おいおい、一年のとき、」
俺が呆れて説明しようとすると、三根と沖ノ口が真顔で制する。
「輔、余計なことはいいから」
「あんなの、顔も覚えてない」
怖い。
女子、怖い。
あれだけ仲が良さそうに見えた男子でも、女子の記憶からは抹消されているようだ。なんなら、俺が一番こいつらと話していなかった気がするが、不思議と縁がある。面倒なことだ。
ともかく、話を変えよう。昔話はやめだ。
「それで、三根。身辺は大丈夫か?」
「心配ありがと」
「玉木、ほんとに卑怯な男だ。自分でケジメをつけないで、金と権力をちらつかせて周りから三根を追い詰めようとしやがる」
「いちおう、学校と通学中は三根を一人にはしないようにしているから」
「そうか。上地や沖ノ口が常にそばにいれば安心だな。まあ、那知合や谷垣内の友達に、そうそう表立って危害を加えないだろうが」
玉木をぶったことが今さらながら厄介だ。玉木が気にしていないと言っても、立場と権力が大きすぎる。日々増える玉木信者が過激な動きに出ないとも限らない。
「それにしても、三根、よかったな。谷垣内や那知合と友達で」
「それはそうだよ。こういうときのために友達やってるんだから」
「……は?」
俺の返事はたっぷり三秒遅れた。
「おまえ、打算で友達やってんのかよ」
「ある程度はね。当たり前じゃん? いざというとき、虎の威を借りられるようにするでしょ? 身を守るための知恵だよ、私みたいに舐められやすい女子は特にね」
三根が冷めた口調で淡々と言う。
上地も沖ノ口も何も言わない。肯定も否定もしない。上地は空手もやっているし体も大きいし気も強い。沖ノ口はギャルでも清楚系でも化けるし、おどおどしないので強そうに見える。
あえて打算で那知合を友達にしたというより、自然に気の合う者同士が集まった感じだ。
三根はことさら小柄でメガネにまんまるヘアというおとなしそうな見た目。傍目に那知合グループにいるには違和感がある。
だがどうだ。
身を守るためによって立つ友達を選んだって?
あまりにも、強い。
生きることを、生きる本質を捉えている。
やはり三根は一味違う。打算であろうと、那知合グループにいることは当然の帰結に思える。
俺は褒めことばを飛ばして、茶化すしかなかった。
「怖ッ。女子、怖ッ」
「そうだよ、女子は怖くてしたたかなんだよ。さ、というわけで怖〜い女子からのお願い、聞いてくれるよね? 聞いてくれないなら、ここで身ぐるみ剥いで、いーちゃんや佐羅谷さんに写真送っちゃうよ」
「怖ッ。女子、怖ッ」
三根の冗談に俺は震えた。
「大丈夫だよ、輔。最後に有益な情報をあげるから。いつだって私たちは持ちつ持たれつ」
そうだろうか。
おおむね俺が何かしら助けるばかりで、上地に殴られたり沖ノ口にスマホをいじられたり、利はない気がする。
「女子が周りにいる男はモテる。たすく、あなたはわたしたちのおかげで、たくさんモテる」
「手前勝手な論理だな」
沖ノ口が甘い声でにじり寄って来るのを退ける。
「さっさと要件を聞こう。時間が惜しい」
「うん」
三根は一歩前に出る。
「あの人はさ、自分から私を切らないんだ。だからいつまで経ってもこっちが恋慕してるように見えるんだ」
確か、玉木は「付き合った記憶がない」と言った。付き合っていない関係は切れない。しかし、修学旅行の展望台の一件を見た者は、三根が玉木に執着しているように噂するだろうし、現実にそう広まっている。
「だからね、私たち二人には何もないって、周りに人がいる状態であの人に宣言させたいんだ」
「おまえ、どれだけ無茶を言ってるかわかってるか?」
「んー、でも輔はどうにかしてくれるんだよね」
「せめて疑問文にしろよ」
俺としては、玉木が三根と揉めた状態のほうが都合がいい。これが三根でなければ、知り合いでなければ、本気で関わり合いたくなかった。
三根はどうでもいいが、その背後に谷垣内や那知合がいる。三根を適当にあしらうと、あとが怖い。どっちみち怖い。
「できるとは言わない。俺が必死におまえらのために動く動機がない。恋愛相談なら部活に直接通せ。個人に依頼するな」
「できるだろ、おまえなら。今までだって、やってきただろ」
上地が睨んでくる。どうして偉そうなの。そうやって暴力で思いのままにできると思ったら大間違いだ。
「しおちゃん、脅すのはダメだよ」
三根が静かにたしなめる。
「これはさ、前の繰り返しになるけどさ、私じゃ役に立たないかもしれないけどさ、なんでも、やってあげる。踏み台でも練習台でも」
「そうか」
つまらないな、と思った。
女子になんでもやってあげると言われるのは勝ち組だと山崎は言っていた。三根に言われるのは二度目だが、本当に捻りがなく陳腐で白ける。
むしろそれがこちらのメリットになると本気で思っているなら、俺も舐められたものだ。結局無報酬で仕事を受けるだけ。一方的な話だ。
「で、さっき言ってた有益な情報ってのは?」
俺は深追いせずに話題を変える。
さっさとこの場を離れて、部活に行きたかった。誰も来ない理科実験室で、佐羅谷や宇代木と試験勉強しているほうが有益だ。
「あ、うん。カツコーの裏サイトというか裏掲示板なんだけどね」
三根はスマホをぽちぽちと触って、あまり造りの良くない(素性も良くない)サイトを見せてくる。今どきそんな旧世代の遺物があるのか?
「かつらぎ高校の噂話サイトか?」
「そ。で、この玉木くんのスレなんだけど」
「玉木のスレがあるのか」
「佐羅谷さんも宇代木さんもあるよ。見る?」
「見ないよ。で、玉木がどうした?」
「簡単にまとめると、玉木くんと佐羅谷さんをくっつけようっていう動きがある」
三根はまとめサイトよりも簡潔にまとめた。
「ストーリーができてるんだ。玉木くんが中学時代に好きだった佐羅谷さんにふさわしい男になるために、アメリカに留学して勉強して、帰国してからスイーツ店を起業して、迎えに来たって」
「客観的には正しいんじゃね?」
「こういうの、怖いよ? 雰囲気から可能性になって、周りが受け止めた空気は事実に置き換わっていくからさ。大きな波には抗えないよ?」
「確かに有益な情報、ありがとうよ」
俺は三根が突き出すスマホ画面を隠して、押し戻す。これ以上は、聞かなくてもわかる。
現実は違っていても、周りが事実だと思い、勝手に舞台を整理して役者を動かす。しかも、異を唱えるのは佐羅谷一人では、玉木の思い描く物語に流されるのは必定。
「こうなってほしいって思ってる女子も多い」
三根は最後に言った。
「深窓の令嬢は学校の男子を惹きつけすぎる。誰かとさっさと付き合ってしまえばいいのにって、けっこうヘイトを集めてるよ」
「それは、女子の情報網か? 三根個人の意見か?」
俺は階段を降りる半ばで顧みる。
「女子の話にソースを求めるなんて、輔はやっぱりモテないんだね」
話は終わった。
結果を見れば、俺が腑に落ちない依頼を一つ受けただけ。三十分以上も余計な時間を取られた。
三十分もあれば、例えば、重要な話をするにも十分な時間だ。
俺はすぐに思い知ることになる。
そういえば、部活に遅れる連絡をしていなかった。
理科実験室への道の途中、何気なくスマホを見て違和感を覚えた。
宇代木『今日はダンス部の大会前練習で行けないかもー』
ミコト『人権教育講演で一年二人、今日は直帰します』
マコト『上に同じ!』
(なんだよ、佐羅谷以外は来ないって?)
普段はなんとも思わない。
俺が遅れることがないからだ。
ミコマコが入部する前は、一人だけ待ちぼうけというのがしばしばあった。五人体制になってからは、ほとんどなかったはずだ。
嫌な感じだ。
まるで申し合わせたかのように、佐羅谷が一人。
まるで誰かが佐羅谷と二人きりになりたかったがため、と勘繰るのは行き過ぎだろうか?
スマホをポケットに戻し、早足で渡り廊下を抜け、理科実験室を視界に収める。
部員専用の扉が開く。
佐羅谷の開け方ではない。
ああ、そうだ。
俺は佐羅谷が扉を開け閉めする速度や力加減さえ把握してしまっている。
俺は足を止めた。
もし推理通りにやつが姿を見せるなら、ここで待つのが正解だ。理科実験室に声が届かない、ここで待つのが。
予想が外れろと心で願うが、事実は残酷だと脳が諦める。
男が、現れる。
知的な瞳を細いメガネの奥に隠したまま、確かに一瞥を感じた。
扉を閉めてから、廊下に立ち塞がる俺を見下ろし悠然と歩み寄る。
「よう、遅かったな、九頭川」
「玉木、おまえ何をした?」
「邪魔者がいない教室で、男女がすることをしただけだ」
「気をつけろよ? 理科実験室には防犯カメラがあるからな。俺が狼藉を働かないように」
「くっ、オチに自虐を持って来させると天下一品だな。不覚にも笑ってしまったぜ」
「俺の愚行が世界にばら撒かれてもダメージは少ないが、おまえは比べ物にならないだろ?」
「せいぜい気をつけるさ。見られることには、慣れてるからな」
「そうか。じゃあ今から確認するとしよう」
防犯カメラなど、もちろん嘘だ。
生徒が意を決して恋愛相談しにくる部屋に、無粋で信頼を裏切るカメラなど仕掛けるわけがない。
「確認するまでもないぜ、九頭川」
すれ違う俺の肩を指でとんと押さえる。
「ちょうどさっき、佐羅谷から衆人環視の中で本命のチョコレートをもらう確約をしたところだ」
「はっ?」
俺より頭半分以上背の高い玉木の冷笑が、視点の合わない間近にあった。
「言質も取って録音もした。聞くか?」
「要らねえよ。玉木、さすがに気持ち悪いぞ。執着が異常だ。ストーカーかよ」
「そっくりそのことばを返すぜ。高校に入ってからの佐羅谷あまねしか知らないにわかが、一丁前に知った気になってるんじゃねえよ。ちょっと優しくされただけの陰キャオタク君が、勘違いしてナイト気取り、痛々しくて見ていられない」
「それが本心か、口の悪いスイーツだな!」
「中学時代の佐羅谷の話は聞いたか? 聞いてないだろう? 九頭川、おまえは信頼されてないんだ」
「殺人犯でもない限り、過去がなんだ。おまえが見てる佐羅谷こそ、記憶の中の理想化されたアイドルだろ」
「どちらにしろ、バレンタインには結果が出る。誰もが認める形で、佐羅谷は自分から俺を求める。おまえには佐羅谷を受け止めるには力不足だ」
「そんなことは」
言っていて認めてしまう。
佐羅谷の家に行った時でさえ、過去の話は何一つしなかった。両親とつながりができてさえ、過去の話は禁じられているかのように芒洋として具体性がない。イリヤさんにもはぐらかされてばかりだ。
ほんとうはわかっている。
俺が佐羅谷に不釣り合いなことなど。
ちょっと見た目をいじって、勉強もがんばって、生徒会に入ったところで、生来の華が違う。黙っていても学校の最上位に並べる才能に、俺は程遠かった。
黙り込んだ俺を見て溜飲を下げたのか、玉木は満足げにつぶやいた。
「割れ鍋に閉じ蓋ってな。自分に合う女を探せ」
「あら、遅かったわね」
「悪い。用事があるのを連絡し忘れた。他も来てないのか」
「そうね。もう時間も時間だし、今日は二人きりかもね」
理科実験室に入ると、佐羅谷はブックカバーのついた文庫本を開いていた。俺が来ても視線を上げるだけで、動かなかった。今日はコーヒーを淹れる気もないようだ。
佐羅谷はすぐに本に目を落とす。
静かな時間だ。
音を立てずにカバンを置き、抱きかかえるように突っ伏す。
悪くない時間だ。
佐羅谷と二人で同じ空間にいる。ことばは要らない。お互いの存在と熱を近くに感じて、緩い時を共有する。
初めて会ったときと同じ、揺り籠の心地よさ。
だが、とても不安定で、とても儚くて、微妙な均衡で保たれていた関係性は、俺の思う以上に崩壊と隣り合わせだった。
(訊くべきか訊かざるべきか)
眠いふりをしながら、玉木と交わしたらしい約束を想像する。
聞いてどうなる?
渡すな、と言うか?
佐羅谷の行動を制限する資格は俺にはない。
そもそも佐羅谷は玉木をどう思っているのだ。玉木が自信満々で「チョコを受け取る」と言った。確約したと言った。つまり、佐羅谷はそうせざるを得ない弱みがあるということだ。
佐羅谷が本心から渡すというのならば、諦めもつく。しかし、玉木が脅しているのなら話は別だ。
俺は同じ部の人間として、助ける義務がある。
ぱたんと音がした。
佐羅谷が文庫本を閉じた。
「九頭川くん、さっきからちらちらと盗み見るの、やめてくれる? 気が散って仕方がないわ」
「見てねえよ。自意識過剰か」
「あなたがね。なに? 言いたいことがあるのなら、言いなさいよ」
離れた席、二つほど机を挟んで、佐羅谷が真正面に相対する。
適当に狼狽するふりをしてうやむやにしようとするが、佐羅谷は冷ややかに俺を見つめていた。不満ゲージが溜まっていくのが表情でわかる。
ダメだ。
ごまかせない。
俺は腹を括った。
「バレンタインの話だ。お、俺はな? 今回はここの部員全員に渡そうと思ってる。佐羅谷は受け取ってくれるか?」
「まだその話題? 配りたいのなら、別に拒否したりしないわ。そこまで非情じゃないもの」
「佐羅谷は?」
「わたしは配らないわ」
力なく微笑んで、佐羅谷は嘘をついた。
淀みなく定まったセリフを述べただけ。
これが嘘だとわかってしまうくらいには、俺は佐羅谷と近しい関係になっていた。
(違う、嘘じゃない)
配るとは、不特定の複数人に渡すことだ。特定の誰かに渡すことを、配るとは言わない。嘘はつかずに事実を誤認させる。ああ、そうだ。これが佐羅谷あまねだ。
「そうか、残念だ。佐羅谷は料理もできるし、どんな凝ったチョコを作ってくれるか、楽しみだったのにな」
「別に、カカオ豆から作るわけでもなし、市販品と大差ないわよ。技術的な話なら、玉木くんのほうが見栄えの良いものを作れるんじゃない」
「玉木には、」
佐羅谷が名前を出すから。
追及せずに放っておこうと思ったのに、俺の心の堰が流れてしまった。
「玉木には、渡すんだな」
「……なんの話かしら」
隙があった。
佐羅谷あまねが深窓の令嬢になる一瞬の隙が。
「前に言ったよな。俺も恋愛研究会の一員だ。相手が佐羅谷だって、相談に乗るぞ」
「あなたにする相談なんて、なにもないわ」
「バレンタインの日に、人目のある場所で、そういう行為をすることが、どういう意味かわかった上で言うんだな?」
佐羅谷に詰め寄る。
のけぞるのを押しとどめ、両肩をつかみ、逃げられないように押さえる。
「九頭川くん、近い、怖いっ」
「なあ、言ってみろよ! 玉木に何をするか、玉木のことをどう思ってるか!」
なんなら、今ここで引導を渡してくれ。佐羅谷あまねが深窓の令嬢をやめるなら、それは俺が願っていた結末のはずだ。つまらない演技を終えるのに、玉木のほうが影響力があっただけ。ただの同じ部にいる知り合って間もない男より、同郷の幼馴染のほうが佐羅谷の心を動かしただけ。
俺はどうすればいいんだ。
玉木が佐羅谷の弱みを掴んでいるのは間違いない。だが、佐羅谷が助けを求めなければ、もはや両者合意のうえで恋愛ゲームに興じているのと変わらない。
他者が入り込めないし、助けようがない。
「もう、やめなさい!」
佐羅谷の腰が浮いた。
刹那、腹に鈍痛。
佐羅谷の華奢な脚から放たれた膝が、俺のボディを突いた。ゆっくりと黒タイツの足が収まって、身をかがめた俺を睥睨する。
「痛って……」
「無様ね。玉木くんは、もっと上手くするわよ」
「あんな人生五周目くらいのチートと一緒にされてもな」
「じゃあ、人生五周してから出直してきなさい。今のあなたは、最低よ」
「そうかよ。そうかよ」
顔を上げられない。
腹部の鈍痛よりも、ただひたすらに胸がつらい。
床に転がったまま、俺は情けなくて顔を覆う。
「なんで全部一人で抱え込むんだよ。なんで他人を頼ろうとしないんだよ。なんで、助けを求めないんだよ」
ほんの独り言だ。
一般論に見せたただの嫉妬だ。
他の誰かが助けを求めてきても、俺は面倒臭いと思うだけだ。
「そのことば、まるっきり全部あなたにも当てはまることよ」
カブトムシの幼虫のように丸まったままの俺に、佐羅谷が小声でつぶやいた。
何を的外れな。
俺こそ、人に頼ってばかりで、一人では何もまともにできなくて、助けてもらってばかりだ。
今だって、どうすれば佐羅谷を助けることができるか、関わり続けることができるか、考えたって思いつかない。
ほんと、何してんだか。
「こんばんちゃおー!」
まもなく下校という際どい時刻に、ガラガラと理科実験室の扉が開いた。床に寝そべっていると、振動も伝わってきた。
「って、くーやんどしたの!? なんのコスプレ?」
「人生に思い悩む男子高校生の姿だよ」
「こーいうときの男の子ってえっちぃことしか考えてないっていうじゃん、そこんとこどーなの?」
「俺がそんな質問に答えるわけないだろ」
「だよねー、くーやんはむっつり草食系だもんねー」
宇代木は話しながら俺を抱き起こす。いろいろなところが制服越しに触れる。冬でも宇代木はスカートは短いし、体の凹凸はわかりやすいし、ともかく、心を無にして立ち上がった。
腹の痛みはすでになかった。
「で、どしたん? えっと、もしかしてあたしお邪魔虫だった?」
「天、つまらないことを言うと怒るわよ。この部屋で、あなたが邪魔になることなんてないのに」
「そっかなー? そーだよねー?」
宇代木は佐羅谷が服の乱れをさりげなく直したことに気づいただろうか。
状況証拠だけ見れば、確実に俺が悪者だった。佐羅谷を襲おうとして、返り討ちにあったというだけの。
佐羅谷がなにも言わないことで、俺は咎められずに済んだ。これがミコトなら、部員で副会長だということも関係なく糾弾されて、自宅謹慎させられていたかもしれない。
佐羅谷は俺を助けてくれたのか?
「で、宇代木はもう下校時刻なのに、今さらなんでここに?」
「なんでって、そりゃあ、ほら、あれだよ、バ、バレンタインだし、相談も長引いてるかなーって思ってさ。一年二人もいないじゃんか!」
「今日は、」
「今日は、相談者は来なかったわ。九頭川くんもさっき来たばかりだし、昨今、バレンタインだからってことさらに動くのは、すでに思い人がいる人くらいじゃない?」
俺が答える前に、佐羅谷がかぶせた。
玉木は来なかったことにしたいらしい。別に俺だって、私用で来た玉木のことを言いふらす気はないのに。
「そっか、よかったー。くーやんも来たばっかりなんだ。じゃー、帰ろっかー」
「そうだな」
「悪いけれど」
荷物を手にした俺と宇代木に、佐羅谷は座ったまま告げる。
「今日はもう少し用があるの。二人で帰ってくれる?」
宇代木と二人っきり。
思い返すと久しぶりだ。
部活でボルダリングを始めた頃は、毎週のように一緒にアルルやその周辺で遊んでいたのに。きっかけがなくなると女子と二人きりになれない、典型的な会話のできない男だ。
「ついでに夕飯の材料買って帰っていいか?」
「ご相伴にあずかります」
「女を家に入れると思うか?」
「入ってたじゃんか。おっきーもあたしたちも! 一泊したし!」
「勝手に入ってたやつと無理に入ってきたやつらは知らん」
「むー」
高田市駅前の近商ストアに宇代木と連れ立って入る。夕飯の買い物の時間で、店内はかなり人が多かった。
俺も宇代木も一人親で、家で料理をすることも多く、お互い制服姿でスーパーで買い物をすることに抵抗がなかった。
「やっぱり近商はちょっと高いよねー」
「全体的に高田は高めだな。葛城や御所まで行くと、だいぶ安いぞ」
「ほへー。くーやん主夫になれるよー」
「俺は共働き希望だ」
「じゃーあたしと一緒じゃん。お試しで一緒に暮らす?」
「おい、声が大きい。冗談でも変なこと言うなよ。どこに知り合いがいるかわからないんだから」
「じょーだんじゃないないわ」
宇代木はこくうまキムチを俺のカゴに入れた。俺の家の食材なんだがなあ。
「本気の話だよ? 大学行くとしてさ? 奈良県のこんな場所からじゃ、ほとんど通えないじゃん? だけど、あたしたち親は一人だし、あんまり経済的にあてにもできないじゃん? だったらさ、知ってる者同士一緒に暮らしてたら、家賃も折半だし、親も安心するし、どうさ? くーやんはあたしのママの覚えもいいんよ?」
「どうさ、と言われてもな」
ママのくだりは無視した。
そういえば沼田原先輩も四月からは京都の大学に通い、一人暮らしをするようだった。大阪や京都の中心部なら通えないことはないが、大阪は中心部に大学が少なく、京都は京都に着いてからが遠い。奈良県のこのあたりからでは、大学の選択肢は限りなく狭い。
イリヤさんや佐羅谷のような南部の山間部出身なら、高校からしてすでに親元を離れている。佐羅谷兄妹が一軒家で暮らしているのも、親の不安と経済的な不安を解消するための策なのだろう。
「東京にはシェアハウスってのがあるみたいだけどさ、ただでさえ知らない環境、知らない学校、知らない人に囲まれて不安だしね。慣れてきたらいいんだろうけどー」
「家に知った者がいるっていうのは、慣れない土地では安心かもしれないな。何かあってもお互いの親まで連絡できるし」
「でしょー? だからさ、予行演習で一緒に暮らさない? まずは今晩一緒にご飯を食べるってことで!」
「断固拒否」
「なんでさ!」
談笑しながら、買い物を片付けていく。
シェアハウスとかそんな俺にとっては先進的な世界は、テレビや漫画の世界のことに思える。都会っぽくて、先進的で自分がなじめる気がしない。
「将来な」
「んー?」
「遥か将来、五七が素数になるくらいの可能性で、シェアハウスするなら、宇代木に声をかけるよ」
「可能性ゼロじゃんか!」
「計算がお早いことで」
あとから素数になる可能性があるかって? 小さな数はともかく、大きな数はそれが素数であるかの判断さえ、計算機を使っても簡単ではない。もっとも、素数でないとわかった数が、あとから素数になる可能性はゼロだ。
つまり、宇代木とシェアハウスをする確率は、ゼロだ。
宇代木の潜在能力は、俺のために損なって良いレベルじゃない。羽ばたける限りの翼を広げ、天高く舞い上がるべきだ。
食材をカゴに入れて、レジに行く途中に製菓の棚を通る。年に一度、この棚が賑わう。おりしもバレンタインの色に染まっていた。
宇代木が遅れる。
歩みを遅らせても、常に二、三歩後ろにいる。
「どうした、気になるものでも?」
「くーやんさあ」
宇代木にしては歯切れ悪く、うつむき加減で言い淀む。
「今年は自分でチョコ配るって言ってたよねー」
「そうだな。今年は友達も増えたし」
本命に渡すカムフラージュにもなる。
宇代木は製菓の棚の前で物思いに沈んだまま、歩みを止める。
いくらスーパーの製菓コーナーの人通りが少ないと言っても、ずっと立っていると邪魔になる。
幸い、俺の買い物に冷凍食品はないし、冷蔵品もこの時期なら傷むことはないか。
話があるなら外で聞こう。
「買い物終わらせて、コスモスプラザの公園に行くか」
「うん、そうだね」
コスモスプラザは近商の隣にある高田市の市民会館的な施設だ。狭い公園が隣にあり、ちょうど植樹を囲む四角い木のベンチがいくつかある。
誰もいない一角に、俺と宇代木は並んで座った。間に買い物袋を置く。
「お母さんと喧嘩でもしたか?」
「ほえ? なんで? 姉妹みたいに仲良しだよー?」
「なんでって、帰りたくないんだろ? だからさっき製菓コーナーで時間稼ぎしようとしたんだろ」
「そっかー、くーやんにはそう見えたんだねー。やーでもうちの家庭環境はりょーこーだよ。うん、おかげさまで」
「それが一番だ。家族が幸せで、みんな笑ってるのが一番だ」
「はは、そういうの、さらっと言っちゃえるのがくーやんだよね」
「だから居間で観るテレビはお笑いに限る」
「そういうの、くーやんっぽいね」
宇代木がくすっと笑った。
少しだけ胸のつかえが取れただろうか。
「ぜーったいないと思ってたんだけどさ」
宇代木の手は膝の上で所在なく動く。
ことばは遅かった。
周辺道路の車の音が絶え間なく行き交う。
「前にさー、受けてくれるって言ったじゃんか?」
なんだろう。
宇代木とはいくつか約束があった。
恋愛研究会の二年生三人を仲良く維持すること、お祭りに一緒に行くこと(これは完遂したか?)。
他には。
(ある、あった)
かつて一笑にふされた、俺の先走りが。
「もう、くーやんにしか頼めないんだ」
宇代木は俺の服の袖をつまむ。
「恋愛相談、乗ってくれるよね?」
ぐいぐいと袖を引っぱってくる。
ポケットに突っ込んだ手が出そうだ。
「う、」
「う?」
「宇代木さんから恋愛相談を持ちかけられる程度に、俺も信頼性を上げたってことだな! できることならするから、言ってみ?」
「信頼してるよ。あたりまえじゃん。だからさ、あたしと一緒にチョコ作ってほしいの!」
両手を合わせて拝む宇代木。
俺は一瞬頭の処理が追いつかなかった。
かろうじて出たことばは、的外れだった。
「それは、恋愛相談か?」
駅で宇代木と別れて、一人家に帰った俺は夕飯を作る。台所でごちゃごちゃと動きながら、先ほどの宇代木との会話を思い出していた。
『やー、ほらさー、やっぱり男子の意見も聞きたいじゃんか?』
男子の知り合いなんて、宇代木は事欠かないはずだ。
『いるよ、いるよー? けどさ、きっとみんなチョコ作り一緒にしたいって言ったら、勘違いしちゃうんだなー』
俺は男子認定されていないということか。
『材料もさ、二人で持ち寄ったほうが余らないし、ちょうどいいと思うんだよねー』
ということは、数を配らずに本命一人に絞る気か。
宇代木が俺に頼んでまで万全を期すということは、本気で落としたい相手がいるということだろう。信頼されるのはありがたいが、責任が重い。
正直言って、普通の高校生なら宇代木が告白したら、十中八九は成功する。宇代木の性格や行動、外見、どれも好印象の塊だからだ。
そして宇代木の頭脳なら、自分の告白の成功率の見積りも厳密だろう。
つまり、いま宇代木の意中の相手は、ひどいほどに難攻不落だというわけだ。
男の心をつかむお菓子ならば、むしろ佐羅谷に相談したほうがいいのでは?
『絶対ダメ』
宇代木は即座に拒絶した。
『ほら、だってさー、同じ女子じゃん、あまねは。あまねに手伝ってもらったチョコで相手に通じたら、それはもうあたしじゃなくあまねに落ちたってことになるじゃん』
そうだろうか。
いくらなんでもお菓子の出来で告白の成否が決まるとは思えないが……というのが人生でチョコをもらったことがない人間の思考だと気づいた。
これが例えば田ノ瀬なみのモテ男なら、一度にたくさんのチョコをもらう。外装でも中身でも目立って気を惹けないと、ライバルに並び立てないのだ。
ましてや形が悪かったり、味が合わなければ、致命的だ。
『ねえ、ダメ?』
宇代木らしくないすがるような上目遣いに、俺は落ちた。別に負担も大きくないし、と自己暗示をかける。
結局、どこか一日使って作業することで約束をさせられた。
親父は帰りが遅れるとのことで、一人テレビを垂れ流しながら、夕飯を食す。豚肉入りキムチ焼きそば。なかなかに美味だ。
状況を整理しよう。
三根からのお願いは、衆人環視の中で玉木から「特別な関係にはない」と言わせること。しかし、玉木は来るもの拒まずという態度だったらしく、玉木にとって三根は「もともと何もなかった」関係だ。もともとなかった関係を、「なかった」と宣言させるのは至難の業だ。
この時点で頭が痛い。
玉木からの俺への煽りは、衆人環視の中で佐羅谷から本命のチョコをもらうということ。場所は不明だが、昼休みの尖塔は条件に当てはまる。本命チョコというものの定義は難しいが、佐羅谷はバレンタインでチョコなど配らない。たった一人に渡すなら、客観的にはそれが本命だ。
本人たちの心がどこにあろうとも、周囲に見える行動は、間違いなく二人を結びつける。しかもかつらぎ高校の噂サイトにあるように、玉木は佐羅谷を追いかけてきたというあらすじが二人の関係性を補強する。
二人の物語に、俺という異物が入り込む隙はない。
最後に、宇代木からの依頼は、一緒に男の好みに合うチョコを作ろうということ。俺もなにかしら手作りして部活で配る予定だったが、いっそう手を抜けなくなった。なんなら、本命一人分で良いかと思っていたのに、宇代木の前で一つしか作らないわけにはいかない。
そして、チョコ作りの日は身動きが取れなくなることが確定した。
(三根を尖塔に入れて、玉木にチョコを渡させるか?)
玉木が受け取らなければ、周囲から三根はフラれたと見えるだろう。だがその後、佐羅谷からのチョコを受けとったら……いや、間違いなく受け取るのだが、それはドラマを助長するだけだ。
邪魔が邪魔だとわからない形で、佐羅谷と玉木を引き離すにはーー。
(ねえよ、そんな都合のいい方法!)
考えても無駄だ。
俺はテーブルに置いたスマホで、なんとなく「バレンタイン」を検索する。
聖ウァレンティヌスが西暦二六九年に殉教したと知って、そんなに昔だったのかと驚く。なんとなく恋愛関係なのでもう少し新しいかと思っていた。
皇帝の弾圧に屈せず、当時禁じられていた兵士の結婚を隠れて行っていた。それがのちのち、家族や恋人を思う日に変容していったようだ。
なんとなく、ごくごく近代に物を贈るだけかと思っていたが、千年以上の伝統があることに驚き、チョコを贈る行為も案外的外れでもない気がする。
「贈与、贈与、か」
贈与については恋愛研究会に入ってから少しだけ調べたことがある。人間という生き物が真に利己的なら、贈与という行為はなぜ行われるのかとか、贈与は相手に負債を負わせるとか、過大な贈与は侮辱であるとか……。
日本でバレンタインデーとホワイトデーが一ヶ月空いているのも、偶然だが意味のあることだ。贈与に対するお返しは、一定期間空けなければならない。その場で返せば、それはただの交換だ。
バレンタインでチョコという物品の贈与を行うことで対象に負債を負わせ、告白の成功率を高める。つまらない勘ぐりをすると、そういうことだ。
その場での交換なら、ドラマは起こり得ない。
「交換、交換か」
俺が言ったことじゃないか。
近年のバレンタインデーは変質しつつあり、女子が想っている男子にチョコを渡すだけでなく、女子同士、男子同士、友達にあげることも普通だ。義理チョコという意味でもなく。
バレンタインデーでチョコをあげることに、受け取ることに周りが騒いで囃すのは、バレンタインデーが贈与だからだ。
だったら、バレンタインを交換にすればいい。男女問わず、みなが普段から仲良くしている人、お世話になっている人に、配る交換イベントにしてしまえばいい。
そうすれば、チョコ一つ一つの重みがなくなる。
(できるか?)
考えろ。
俺にできるのは考えることだけだ。
佐羅谷が玉木にチョコを渡すのを阻止するのは無理だが、玉木がたくさんの人間からチョコを受け取らざるを得ないように追い込むのは、無理ではない気がする。
その中に三根も紛れさせて、それでも佐羅谷からしか受け取らないなら、三根からのお願いは達成できる。
その場に宇代木や俺も混じっていれば、牽制にもなる。
(行ける!)
道が、見えた。
俺がするべきは、バレンタインを贈与から交換に格下げすることだ。
残っていた冷めた焼きそばをかきこむと、台所のシンクに皿を置き、すぐにスマホをつかむ。
だとすると、巻き込むべきは多人数。
木を隠すなら森の中だ。
『おう、九頭川よ、どうした? 我にチョコがもらえるアイデアを思いついてくれたか!』
「逆の発想だ、聞け、入田。おまえがチョコを渡すんだ。渡したい相手がいるんだろう?」
『いや無理だって、無理!』
「特定の一人に渡そうとするから、怖いんだろ?」
『何?』
「おまえがたくさんの人に配っても不自然じゃない状態を、俺が作ってやる」
『なる? ほど? 確かに、それなら』
電話越しの入田が俺に傾き始めた。
「いいか、これからの時代、男が家事をするのはあたりまえだ。そのうえお菓子まで作れるとなると、」
『あいや、九頭川! みなまで言うな! 我はわかっていたぞ! 撮影現場に甘いお菓子はつきもの!』
「ちょろ……話が早くて助かる」
俺は同じような電話を、次々と掛けていく。
「なあ、山崎。推しグッズを集めてお祝いツイートみたいなのするだろ? その延長でチョコ写真でお祝いツイートするのは普通のことじゃねえか」
「神山、部員に配るってのは有りだ。なんなら俺も欲しい。もちろん俺も渡すから」
「どうだ、高森。直接渡せないにしろ、写真で撮って感謝の気持ちだけでも送ってみるっていうのは」
「去年は谷垣内に拒否られたけど、今年は行けるだろ? やってみろよ、那知合」
「というわけだ。三根、ここでなら玉木に合法的に渡せると思う。玉木の対応までは保証できないが」
「おう、スギコ、突然だが高校時代の思い出にチョコをみんなで作ってみるイベントに興味はないか?」
「いいか、スギオ。おまえは来るだけでいい。もちろん自分でやってみてもいい。運が良ければおこぼれに預かれるぞ」
などなど、けっこうな人数に声をかける。
概ね良好な反応。巻きこんだ人数と、これから巻きこむ人数を指折り数える。絶対に来させたい者これをどうやって巻き込むかが重要だ。
ここで最後の砦、俺は生徒会長の電話番号を呼び出した。こんなときこそ、生徒会副会長の権力を存分に使うべきだ。
さあ、俺の企画屋としての本番が始まる。
主役は遅れてやってくる。
「九頭川さん、遅いですよ」
生徒会室に堂々と入ると、会長席で姿勢良く座っていたミコトが睨んでくる。
時計を見なくてもわかる。俺は時間ぴったりに生徒会室に入った。
直前まで隣の空き部屋で待機していたのだ。全員が揃って、挨拶や雑談が一区切りし、ちょうど次の話題を探して間を持て余すときを。
「九頭川さんが突然招集したんです。つまらないことだったら、許しませんよ」
「心配するな。つまらなければ、責任は取る。なんでも好きなことをしてやるよ」
「な、なんでもって、そんな、ハレンチな!」
「何がハレンチなんだよ。荷物持ちでも勉強を見てやるでも生徒会室の掃除でもやるってだけだろ」
「そ、それならそうと言ってください!」
それ以外に何がある。
「会長、声が大きいです」
俺とミコトの会話は他のメンバーに止められた。いつもの漫才に一同呆れている。俺は漫才をする気はないんだが、ミコトがね。
こほん、とミコトが咳払いする。
ほんのり顔を赤く染めている。
「それじゃあ、速やかに用を述べてください」
「おう」
俺は背後のホワイトボードにペンを走らせる。
本当は一枚もののプリントを拵えようかと思ったが、やめた。ぱっと一瞥して概要を把握されるのも癪だったからだ。
『バレンタインチョコづくり体験会』
書き上げて振り返ると、微妙な顔と期待に満ちた顔が半分半分くらいだった。
「九頭川さん、自分がチョコをもらえないからって、とうとう強権を発動して……」
「ミコト、おい待てやめろ。なんなら俺は自分で作って配る側だからな? それに、今回はミコトも作りたくなるはずだ」
「く、九頭川さんがそこまで言うなら、わたしだって別に作ってあげなくはないですよ。こんなところでみんなに言わなくても」
「はあ? なにをモジモジしてるのか知らないが、俺はお世話になった沼田原前生徒会長に渡したいんだよ」
「それならそうと言ってくださいよ!」
「会長、声」
今日はどうした、ミコトがすぐに大声を出すし顔も赤くなったり青くなったり、忙しないやつだ。いつもの無表情はどうした。
しかし、俺が沼田原先輩にチョコを渡したいと言うと、生徒会メンバーの微妙な顔が納得の顔に変わってきた。
「今さら説明するまでもないとは思うが、バレンタインだからって今は女子が男子にチョコを渡すだけのイベントじゃない。家族でも友達でも先輩後輩でも、お世話になった人に親愛を伝えるための日だ。
前生徒会メンバーの壮行会は行ったと思うが、こちらはもう少し私的なものだ。だから、今ここにいるメンバーで、興味がなければ参加してもらわなくてもいい。
本音を言うと、一人で沼田原先輩に渡すのが気恥ずかしいっていうのもあるからな」
俺は嘘と真実を織り交ぜながら、虚構論理を組み立てる。
沼田原先輩にチョコを渡したいという気持ちは本物だが、そこに気恥ずかしさはない。
「前生徒会メンバーで今年の卒業生に渡すという副会長の気持ちはわかった。だけど、わざわざそれをチョコづくり体験会みたいなイベントにする理由は? 今の生徒会有志で、やりたい人が集まればいいんじゃないだろうか?」
いい意見だ。さすが立候補してきた生徒会メンバー。同学年ながら見込みがある。
「イベントにしたほうが合法的に調理室を使いやすいってのがあるが、生徒のなかに同じような気持ちを秘めているやつらを救い上げたいと思っている。
今日びチョコの作り方は動画でも転がっているが、きちんと教わっていい物を作りたい生徒もいるだろう。
それに、体験会で作ったチョコは「言い訳」になる」
「言い訳? は、なるほどな。そういうことか」
察しのいい男は嫌いじゃないぜ。
個人で作って誰かに渡すのは、動機から行為まで一直線で、渡す側には拒絶された時の絶望が、受け取る側は相手の想いに応える責務がのしかかる。
しかし、体験会で作ったチョコは、言い訳が通じる。「体験会で作ったから」を言い訳に使ってもらえばいい。渡す側も受け取る側も、少しだけ逃げる余地が生まれる。
「幸い、俺の知り合いにいくらか声をかけた。反応は上々だ。チョコづくり体験会を催せば、参加者ゼロは避けられる」
生徒会メンバーの反応は良い。
もともと生徒会に入るような生徒は何かしらお祭り好きで世話焼きなやつらばかりだ。政治のことを『まつりごと』と言うゆえんだ。
自分達の企画したイベントで参加者が確保できるなら、やってみたいと思う。生徒会の活動の実績にもなる。
「どうだ、ミコト」
「ここでは会長と呼んでください! 公私混同しないでください。親しみを出すのはもっとこう、目立たないところで」
「会長、静かに、静かに」
「あっ、えーっと、そうですね。今年度の予算はどうですか?」
ミコトが会計に視線を送る。
「材料費は生徒会からは出せません。でも、イベントのチラシや案内は印刷できると思います」
「ふむ、開催するとしたら、バレンタイン当日……は土曜日ですから、前日の夕方ですね。ほとんど周知する時間も準備する余裕もありません。集客が不安ですね」
「だからそれは、俺の知り合いだけでけっこうな数に」
「それが不安なんですよ」
「それは俺が友達が少ないと貶めているのかな」
「それもありますが」
「あるのかよ!」
「生徒会と九頭川さんの知り合いが大半を占めるとすると、私的に生徒会が調理室を使用していると思われかねません。あと一週間ほどですが、せめて非関係者が半数になるようにしたいですね」
「お、おう」
さすが一年近く沼田原先輩の下で副会長をしていただけのことはある。一年生らしい子供っぽさもあるが、こうしていると年以上にしっかり者に見える。
「恋愛研究会の部員は使ってもらっていいぞ?」
「九頭川さん、部活で一番権力のない男子が、部長や副部長を動かせるわけがないでしょう」
「そのディスりにちょっと気持ち良くなってきた俺がいるぞ?」
「うわあ……」
「上級者だ……」
生徒会での俺の立場がどんどん悪くなり、性癖が明るみに出る。大丈夫だ、まだ焦る時間じゃない。
「恋愛研究会だぞ? バレンタインのイベントにオブザーバーとして手伝いをするのは普通のことだろ?」
「そう言われてみればそうですね」
俺一人で佐羅谷と宇代木を説得するのは不可能だ。だが、生徒会主催のイベントで参加を促せば、あの二人は動く。ましてや、このイベントへの参加は、部活の活動実績の底上げになる。
今のところ、同好会から部活動への格上げの申請は音沙汰がないが、もしも活動内容に対する猜疑ならば、ここで一気に巻き返す。
「わかりました。では恋愛研究会にも全面的にバックアップしてもらうと言うことで、こちらはわたしと九頭川さんで協力を要請しましょう」
ミコトが書記のほうを見る。
会議内容を記録しているのを確認すると、満足げに頷く。
さあ、実はあと一人どうしても巻き込まないといけない男がいる。
むしろ、そいつを巻き込むために俺はこの方法を考え出したと言ってもいい。
ミコトがこの段階で満足するなら、俺は注進しなければならない。
あの玉木くがねを講師として招け、と。
ミコトは席を立ち、書記の背後でパソコン画面の議事録を見ている。
「ふむ、内容、参加の呼びかけ、周知方法、問題なさそうですね……あれ?」
ミコトが首を傾げる。
気づいたか?
短いウルフショートが重力方向に垂れ下がる。
たっぷり二分ほど眉間に皺を寄せて、俺に問う。
「九頭川さん、このイベント、大切なものが抜けてますよ」
ミコトが生徒会長席に戻る。
「いったい誰が、お菓子づくりを指導してくれるんですか?」
よくぞ聞いてくれた。
俺のはったりで玉木を巻き込めるか、それはミコトの説得にかかっている。
ことさら余裕ぶって、ニヤリと笑ってみせた。
翌日、昼休み。
いつものように俺は窓際で弁当を食べる。山崎と玉木も同じ机を囲む。
ちょうど休み時間も半ばを過ぎた頃、音もなく沖ノ口が背後に立った。予定通り。
「おう、俺か?」
「今日は玉木くん」
「え、また俺?」
食事が終わり、カゴメの野菜ジュースをストローで啜っていた玉木が顧みる。
沖ノ口はいつも通りに不満げで、俺たちに声をかけてすぐに教室を出ていく。
代わりに入ってくる生徒会長、槻屋ミコト。俺は見慣れているが、丁寧に整えたウルフショートに、中性的でクールな顔立ちのミコトはそれなりに目を惹いた。クラスの視線を集めながら、玉木の隣にやってくる。
「えーっと、君は?」
「初めまして。わたしは生徒会長の槻屋尊と言います。このたび、玉木さんにご協力いただきたいイベントがあって、誘いに来ました」
「イベント?」
玉木は訝しげにミコトを見上げる。
「おい、ミコト。俺、聞いてないんだけど」
「九頭川さんはもう少し生徒会にも顔を出してください」
空いている椅子をミコトに渡し、座らせながら「演技に」入る。
今回のバレンタインチョコづくり体験会、俺は一切知らなかった体で進める。俺が発案だと知れると、玉木はきっと疑う。幸い、玉木は転校してきたばかりなので、俺がこの一年であれやこれや暗躍してきたことをほとんど知らない。三学期になってからのほんの一部だけ。
「よくわからないが、まずは話を聞こうか」
「助かります」
ミコトは玉木の斜め四十五度に椅子を寄せ、膝が当たりそうな距離でイベントの説明を始める。
(この距離感よ)
正面から話をするなと言ったが、ほぼ初対面の男相手に息遣いも聞こえるほど身を寄せる。
これが玉木でなかったら、勘違いして恋に落とすレベルだ。ミコトは恋愛に興味がなくて、男の心理がまったくわかっていない証拠だ。
さすがの玉木も少し身を反らしながら、ミコトの話を真剣に聞いている。このあたりは真面目だ。
「へえ、いいじゃないか。そんなイベントがあるなら、俺も参加するぞ、ミコト」
「九頭川さんうるさいです。副会長が参加するのは当然です」
窓際でミコトが来て微妙に震えていた山崎は、とうとう女子との距離に耐えられなくなったようで、半泣きでトイレに走っていった。なんなんだ、あいつは。
「なるほど、だいたいわかった。生徒会でチョコづくり体験会をするから、講師として俺を招きたい、と」
「はい。学内でお菓子作りに造詣の深い方ということで著名な玉木さんが来てくださったら、指導を受けたいという生徒は多いですから」
「俺のことは当然調査しているわけか」
「噂の範囲ですよ? 決して非合法な手段は使っていませんから」
バレンタインまで一週間だ。
イベントをするなら、今週の金曜日。
日がないから、集客のために知名度の高い人物を講師に掲げる。玉木を合法的に招く俺の発想だ。
外部の料理系youtuberとか家庭科の先生ではダメなのだ。日数や謝礼の問題ではなく、最も身近でありながら手の届かない、ちょうど今ノリに乗っている同世代。
玉木は頭が良いから、なぜ自分が選ばれたのかを説明しなくてもわかってくれる。
生徒会長が頼みにくることを、不自然には思わない。
「逆に聞くが、どうして生徒会長さんは」
「槻屋尊です」
「槻屋は、俺が受けると思う?」
「それは拒否ということですか」
「穏当に答えると、その通りだ」
じっと無表情に見上げるミコトにたじろぐことなく玉木は拒絶した。想定通りだ。
「おかしいですね、玉木さんは普通の高校生をしたいから、アメリカから帰ってきて、社長という立場だと通いにくいはずの公立高校に編入したんじゃないんですか?」
ミコトは理屈で問い詰める。
食い下がられるとは思っていなかったのだろう。玉木は眉間に皺を寄せる。
だろうな。
「わたしが一人で玉木さんを説得するんですか?」
生徒会で、俺はミコトに玉木を口説き落とす話術を仕込んだ。正攻法で正面突破しか考えないミコトを説得するのは厄介だったが、俺が玉木を口説くよりも、絶対にミコトが口説いたほうが可能性が高い。
だから、これは俺が裏で糸を引いていると知られない形で、周りも巻き込むように追い込んでいくのだ。巻き網漁だ。
「いいか、玉木はアメリカに留学していて、しかもツイッツイーツみたいな話題性のある会社を興すような飛び抜けた才能だ。そんな男が、どうして奈良県のただの公立の普通の進学校にやってきたと思う?」
「それは、マコトによると、佐羅谷さんを追ってきたとかなんとか」
「演出だ、それは」
「演出?」
「玉木は、あくまで普通の高校生として、佐羅谷と付き合いたいと思って、ここに来たんだよ。玉木の権力と知名度なら、故郷の十津川でもきっと知られてるだろ? 佐羅谷を手に入れたいだけなら、いかようにも手を回せた」
「……女子を手に入れるという表現が気に入りません」
今はそういう話じゃねえよ。
「ともかくだ、玉木は自分から高校生社長だってことも公開しなかったし、立場を笠に着て佐羅谷を手……ごめにすることもなかった」
いちおう言い換える。
「俺の推測だが、玉木は「普通の高校生」をしたがってるんだ。ずっと普通でいられなかったから、普通に憧れてるんだ。やつが大学に行くかどうかはわからないが、大学で普通の扱いを受けることは、あいつの立場ならあり得ないだろ? 普通の子供で、普通の高校生でいられるのは、今のほんの一瞬の時間だけなんだ」
「言わんとすることはわかりました。でも、どうしてそれが説得の根拠になるんですか?」
唇を突き出すミコトに、俺は断言する。
「普通の高校生は、生徒会長から講師をしてほしいって言われて、悪い気はしない」
「ねえ、お願いします。開催まで日付が少ないなか、どうしても玉木さんが必要なんです」
「しかし、俺の立場上」
「わたしは、お菓子に詳しい玉木さんにお願いしてるんです」
絶妙な言い逃れだ。
「イベントの要旨には、玉木さんが講師をするということしか書きません。同じ学校の生徒しか参加しない、有志のイベントです」
「会社を背負わないということか」
「だから当然、謝礼もありませんよ? もちろん材料費は参加者持ち、玉木さんはせいぜい試食してもらうくらいです。あ、コーヒーと紅茶くらいは用意しますね」
「試食ねえ」
「なんなら、内申書に下駄を履かせてもらえるよう、上申しますよ」
「おい、九頭川、この生徒会長、大丈夫か」
「やると決めたらどこまでも意固地な女だよ」
「九頭川さんも説得を手伝ってください」
ぷくーと頬を膨らませる。いい演技だ。ミコトも緩急をつけて人を巻き込む感覚を身につけてきた。
「玉木、受けろよ。ミコトの言う通りだ。銭勘定抜きで動けるのなんて、高校生のうちだろ? 生徒会長がシナを作って頼んでるんだ。受けてやれよ」
「九頭川、貴様」
「わたし、シナなんか作ってませんよ! サイテーです!」
周囲の生徒の目もある。
ミコトを無碍に断ることも、俺を悪し様に罵ることもできない。
そして、クラスの雰囲気も玉木が講師をするチョコづくりイベントがあるなら参加したいという流れだ。
玉木には何の落ち度もないのに、受諾するのが当然だという空気。
「なあ、ミコト。そのイベント、恋愛研究会も手伝わせてくれよ。バレンタインに恋愛は不可欠だろ」
「もちろん、そのつもりです。昼休み返上で働いてください」
「お気に召すまま!」
ミコトと台本を読むように話を合わせる。玉木は渋面をごまかして天を仰ぐ。
玉木は佐羅谷からバレンタインにチョコをもらう算段をつけていた。だが、バレンタインは土曜日で学校は休み。周りに佐羅谷と玉木両方を知る人間がいるところで、チョコを渡さねばならない。そうしなければ、二人の関係性が変化したことを公にできない。
だから、玉木はバレンタイン前日の金曜日に予定を入れたはずだ。それも可能性としては昼休み。普段の佐羅谷は昼休みにグラウンド向かいの尖塔で弁当を食べる。だが、チョコづくりイベントの準備があれば、どうだ。
昼休み、佐羅谷は調理室に行く。佐羅谷の周囲に誰もいないが注目だけを浴びている状態は作れなくなる。
(佐羅谷の教室にチョコをもらうためだけに訪ねるわけにはいかないしな)
チョコをせびりに行くなんて、玉木にはできないだろう。さりとて、佐羅谷がどんな弱みを握られようと、自分から俺たちの教室にチョコを渡すためだけに来ることはない。おそらく。
そもそも学内に流布したストーリーでは、玉木が佐羅谷を追いかけてきたのだ。ここで佐羅谷が来るのはおかしい。
玉木が尖塔に行くという絶妙なシチュエーションのみが、お互いの立場と物語を崩さずに美しくまとめることができる。
どうだ?
これで玉木の「美しいストーリーの流れ」は完全に崩したはずだ。
「九頭川、おまえは本当にどこまでもっ……!」
玉木は自分の想定通りに事が運ばないと結論を導いたのだろう。いっそ清々しい顔で俺とミコトを交互に見る。
「生徒会長、わかった。喜んで講師を務めよう」
「わあ、嬉しいです。さっそく案内プリントを清書します。あと明日のお昼の放送で宣伝しますね」
無意識なのだと思うが、ミコトは玉木の手を両手で包み、無表情ながら喜びを表現する。なるほど、マコトがやりそうなスキンシップを真似ているわけか。かなり荒技だな。
玉木は苦笑いしながらミコトの手を剥がし、うすら冷たい笑顔を俺に向ける。
「やるからには本気でやるぞ。九頭川、おまえとの格の違いを見せてやる」
「お、おう。お手柔らかにな」
本気でやる、このことばを俺はチョコづくりイベントのことだと単純に解釈した。
だが、違った。
今ならわかる。
玉木は、俺を排除することに本気になると言ったのだ。俺がすがっていた恋愛研究会を崩壊させることを、暗に示していたのだ。
俺が小細工を弄しているうちに、玉木は俺の前提条件から消し去るつもりだった。
授業が終わって放課後、一年の教室にミコトとマコトを拾いに行った。
二年生が呼びに来るのは思いのほか影響力があったようだ。二人には悪いことをした。
教室の扉でたまたまそばにいた生徒に声をかけると、むしろ俺のほうに好奇の視線を向けた。
何か訊きたげな雰囲気を黙殺していたが、一年生は空気を読まなかった。
「九頭川先輩、ですよね?」
「ただ一年早く生まれた男を先輩というなら、俺は君の先輩だろうな」
「名前と業績は知ってましたが、間近で見るのは初めてです。思ったより、イケメンですね」
「イケメンの基準が低いな。君は良い恋愛ができるぞ」
「わあ! 嬉しいです! 先輩も悪い噂に負けないで頑張ってください!」
「悪い噂?」
ある意味俺は悪い噂だらけだが、面と向かって言われるのは初めてだ。ここ最近で、気になる噂なんてあっただろうか?
いきなり初対面の後輩に気遣われるほどの噂はなかったと思うが。
「もう、見境なくナンパしないでください! これだから九頭川さんは!」
「いや別にナンパした記憶も事実もないが」
「そーだよ、みこちゃ! 九頭川せんぱいはナチュラルボーンナンパ師だから、ナンパは常時発動型スキルみたいなものなんだよ!」
「異世界転生ハーレムもの主人公みたいなスキルを付与するな! 俺はナンパする度胸もないし、どこまでもモテない男なんだよ」
「そうやって女子を安心させるんですよね、わたし、学びました」
「モテるのにモテないふりをして、たった一人を特別扱いする、そうやって落とすんですよね! ボクも学びました!」
「おまえらなあ……」
このまま一年の教室で目立ちたくない。
俺は二人を引き連れて速やかに恋愛研究会の部室に向かう。
「まったく、これ以上目立ってどうする気ですか」
「悪い。まさか俺が一年に知られてるなんて思わなくて」
「九頭川せんぱいは一年の間でも有名人ですよ! 今回ボクたちを呼びに来ていっそう有名になりました! 間違いないです!」
あれか、「一周回って有り」な先輩というやつだな。無名よりも悪名のほうがマシとは、政治の世界の話だ。普通の成人男性の未婚率が五十%を超えるのに、迷惑系youtuberや連続殺人犯がすんなり結婚できる理由だ。
「でも九頭川せんぱいが呼びに来るなんて、珍しいですね。は、もしやボクを誘う口実にみこちゃを使ってるんですか? ダメです、こう見えてボクは男の子ですから!」
「九頭川さん、不潔です。まさかそんな思惑があったなんてっ」
「ええい、時間がないから茶番は終わりな」
廊下を歩きながら今日の部活の話をする。具体的には俺が発案してミコトが形作ったバレンタインチョコづくり体験会に、恋愛研究会も参加するという話だ。
「ほえー、楽しそうなイベントですね!」
「ついては、万が一佐羅谷と宇代木が反対するか渋った場合には、俺たちの味方をしてほしい。純粋に多数決なら三人いるし、負けることはない」
「だけど、ダメです!」
「そうだろ、これでおまえも楽しめる……って、え? なに? 反対?」
「ちょっと、マコト、どういうこと」
「どーもこーも、ボクにだって自由意志があるってことですよ!」
意外な反発を喰らう。
マコトがミコトと反する立場を取るのは、想定していなかった。
「今回の九頭川せんぱいの動き、ボク、気に入りません」
「むしろ今までは気に入ってくれてありがとう」
「む、そんな感謝に騙されませんよ」
マコトは少し赤くなった。
かわいいな、おい。
「九頭川せんぱいは、必要に迫られて、巻き込まれて、仕方なく動いて、何となく流れを変えて、自分に都合よく調整するのがいつものじゃないですか」
まるで自主性がなく役立たずだと言われているようだが、ぐうの音も出ない。
「でも今回は、なーんにもないところに突然イベントをするなんて言い出したわけでしょ? おかしいですよ。みこちゃも、おかしいと思わない? 九頭川せんぱいの舌先三寸に、とんでもない罠があるかもしれないのに!」
「だから、それは最初に言ったろ? 沼田原先輩に感謝をだな」
「ボク、九頭川せんぱいを恋愛教本にしてるんですよ? 沼田原先輩のことを何とも思っていないことなんて、さすがにわかりますよ」
「え、そうなんですか、九頭川さん! てっきりイベントにかこつけて沼田原会長にチョコを渡したいのかと」
ミコトの中では沼田原先輩はまだ会長なんだな。
「そうだよ、俺は沼田原先輩にチョコを配りたいんだ」
「ほら見なさい、マコト。九頭川さんはこういう小狡い策を弄するのが好きなんだから」
「九頭川せんぱいが小癪なのはもとからだよ!」
なぜだろう、ミコマコ二人の悪意のないやりとりが俺を貶めているだけに聞こえる。
「と! も! か! く! ボクは賛成も反対もしませんからね。部長せんぱいと宇代木せんぱいは二人で説得してください」
言い切ると、プーンとそっぽを向いて、スタスタと部室に向かう。
「ちょっと、待ってよ!」
廊下は走れない。
早歩きでミコトが追おうとするが、マコトは足を速める。
「もういい、ミコト、諦めろ」
「でもっ」
「あと一人だ。ひどいと言われようが、最低あと一人説得するだけなんだ」
一人が難しい。
宇代木は俺と二人きりでチョコを作りたいと言っていた。きっと、他の人間に、俺がチョコの味を見ているところを見られたくないのだろう。イベントなら多様な男子に味見してもらえるが、それは本意ではないのだろう。
だから宇代木を翻すのは至難の業だ。
(狙うのは佐羅谷だ)
佐羅谷は玉木にチョコを渡すことを確約している。玉木が講師をするイベントで渡すのは、周囲の目もあるので約束に違わない。そしてバレンタイン当日が土曜日ということは、前日のイベントであるチョコづくり体験会で渡すしかない。
もう一押し。
説得のダメ押しが欲しい。
だとしたら、最後の情報は、あれしかない。
「悪い、ミコト。先に行って、イベントの話をして軽く説得しておいてくれ。あとから追いかける。無理強いするなよ? あの二人は、おまえの理論なんて簡単に反駁するからな?」
「あ、ちょっと! もう、敵前逃亡なんて、最低ですよ!」
文句を言いつつも、追いかけてこないあたりが生真面目な生徒会長だ。
俺は一路、保健室に向かった。
おかしいと思っていた。
佐羅谷は従順なところがあるから、いつまで経っても音沙汰のないことを疑問に思っていなかったようだが、俺はおかしいと思っていた。
部活動に格上げする申請の回答がないことに、だ。
普通は途中経過の報告があるのではないか? あるいは、申請が通らないなら、その理由が伝えられてしかるべきではないか。
顧問の犬養先生はずぼらではないから、申請漏れとは考えにくい。何度か出会ったときも「申請してるよ」との回答はもらった。
だが、もう三学期も終わりに近づき、場合によっては来年度に一年生向けに部活動案内を作り始めなければならない時期に、いまだ同好会か部活か定まらないのは、不自然だ。
ということは、考えられることは一つ。
(難航している)
そう、どこかで、判断が止まっている、あるいは決めあぐねているのだ。
「やれやれ、やはり君は鋭いな」
「俺で鋭かったら、佐羅谷は二次元だし、宇代木は一次元ですよ」
「たとえが微妙にわかりにくいな」
保健室で対峙した犬養先生は俺の推論を聞いて、最後に苦笑いを見せた。
「私はもちろん、校長も好意的だ。保留しているのは、生徒指導の三浦先生と教務主任の芋背先生だ」
生徒指導の三浦は(呼び捨てにするのが生徒間の習わしだ)知っているが、教務主任という先生は初めて聞いた。先生の名前さえ初めて聞いた。担当の学年が違うのかもしれない。
「まあ教務主任の芋背先生は気にしなくて良い。ほとんど三浦先生に押し留どめられているだけだからね」
「(ちっ)三浦は何をケチをつけているんですか」
「三浦先生だ」
「……三浦先生は何がご不満で?」
正直言うと、恋愛研究会という全国に例を見ない特殊な活動が、正規の部活動になるというのは、学校という立場でも爆弾を抱えることになるかもしれないことは、俺でもわかる。
特殊な私立高校ならまだしも、ただの公立高校にあって穏やかな部活ではない。先生とてただの公務員だ。なにか問題があったときに、面倒に巻き込まれたくはないだろう。
つまり、三浦の反対は至極当然なのだ。
俺の問いかけに、犬養先生は言い淀む。
「ほんとうは、良い報告だけをしたかった。だから、ずっと何も言わなかったんだけどな」
「もう三学期も終わりますよ。問題があるなら、早く解決しないと、来年度から部活動として発進できません」
「そうだね、そうだね。そして本来、こんな質問は部長が直接談判に来るべきことだったんだよ。ねえ、九頭川。私は君が恋愛相談部……じゃなかった、恋愛研究会を大切にしてくれていることを嬉しく思う反面、どうして佐羅谷あまねがここに来ないのか、不思議で仕方がないよ」
なんだ。
もしかして、俺はとんでもない過ちを犯してしまったのではないか。
俺が顔面を蒼白にして口をつぐむと、犬養先生はぱっちりとマスカラで整ったまつ毛をしばたたかせる。
「だから、君には言わない。言えない。そういうことだよ」
俺は走った。
心の中でだけ走った。
実際に廊下を走って、万が一にも生徒指導の三浦に咎められてこれ以上悪印象を積み重ねると、成るものも成らない。
落ち着け、落ち着け、冷静点!
俺は大いなる勘違いをしていた。
恋愛研究会の活動実績や日々の相談があれば、人数の問題さえ解決すれば自動的に部活動に格上げできると信じていた。
甘かった。
俺たちが活動実績だと自信を持っていた事柄も、生徒指導から見れば単に頭痛のタネを増やしていただけだったかもしれないのだ。このうえに、チョコづくり体験会を開催したところで、業績の上積みどころか、ややこしい面倒ごとだと思われる可能性もある。
さらにまた、味方であるはずの犬養先生の落胆。擁護はしてくれているようだが、三浦が何を問題視しているかはついぞ教えてくれず、現状では同好会からの格上げも期待できない。
(三浦に直接談判するか?)
ダメだ。
ムダだ。
体育教師で生徒指導、噂で聞く限りでも、頑固で生徒の言うことなど聞きはしない。きっと三浦の反対は客観的な論理ではなく、主観的な好悪だ。むしろ感情で訴えかけるほうが効果がある。
この際、三浦は無視だ。
先に変えるべきは、犬養先生だ。
恋愛研究会は、実質的に佐羅谷の兄であるイリヤさんと沼田原先輩と犬養先生の三人が、佐羅谷あまねを守るために作った同好会だ。佐羅谷に「深窓の令嬢」という役を与え、何かから身を守る術を身につけさせるための。
そうだ。
恋愛研究会が個々人の個性に依存しているのは当たり前のことだ。存在理由からして、佐羅谷あまねの居場所の創出だったのだから。
活動が目的なのではなく、存在が目的だった。
だから、活動を永続することを意味する部活への格上げは、実績や人数の問題ではなく、佐羅谷あまねの覚悟が必要だったのだ。
(そうか)
犬養先生が待っていたのは、佐羅谷の覚悟、そして決意。
自分はもう一人で立てる、安全で温かい孵化器はもう要らない。
そのことばを、佐羅谷のことばで伝えなければならなかったのだ。
(これは一苦労だ)
部室に向かいながら、どう佐羅谷を説得しようか、頭が痛くなるほど悩む。佐羅谷にイベント参加に賛成させるだけではいけないのだ。
佐羅谷が全員を賛成させなければならない。そして、その選択に責任を持たなければならない。
無理だ。
それだけやっても、犬養先生が納得するにとどまる。さらに三浦を説得する方法を考えないと。
無理だ。
どうしようもないと思いながら、渡り廊下を抜け、人気の少ない棟の理科実験室前にたどり着く。
中からは静かに議論する声が聞こえる。
扉に手をかけた。
今までで最も重く感じた。
「というわけで、恋愛研究会としても全面的にイベントに主催者側として参加してもらいたいんです」
ちょうどミコトの説明が落ち着いた頃だった。
いつもの位置に佐羅谷と宇代木が並び、少し離れてマコトがちょこんと座っている。
「あら、九頭川くん、いたの」
「いま来たところだよ。なにその俺の存在感がないみたいな言い方」
「ともあれ、これで全員揃ったわね。槻屋さんのお話によると、バレンタインの前日の金曜日、放課後にチョコづくり体験会を催すということね。九頭川くんは生徒会だし、説明は要らないわね?」
佐羅谷は俺に確認を取ってから、宇代木とマコトを見る。宇代木は最初から机に頬杖をついて、不満そうな顔だ。マコトは終始ニコニコしているが、笑顔がかえって怖い。
「あたしは、はんたーい。もちょっと早く言ってくれてたらさあ、考えることもできたかもしんないけど、急すぎるよー。あたしだってさー、こう見えて予定ってのがあるんさ」
具体的なことは何も言わないが、大きな黄色いカラコンの瞳が俺に訴えている。約束はどうする気だ、と。
約束は、一応守れるはずだ。講師役は佐羅谷ではなく玉木だし、俺も一緒に作るし、味見くらいはできる。
イベントに協力しても問題はない。
「わかったわ、現状で天は反対と。じゃあ、加瀬屋さんはどう?」
「ボクは判断保留です! これがみこちゃも九頭川せんぱいもいない生徒会からの依頼だったら、賛成したと思いますけどね!」
腕を組んでそっぽを向いたまま、マコトは必要最低限の意見を返した。
「そう、加瀬屋さんは保留ね」
佐羅谷は小さく息を吐いた。
星勘定をするまでもない、俺とミコトが賛成だとすると、あと一人の賛成で多数決は成る。別に多数決で恋愛研究会の意見が決まるという慣習はないが、なんとなく揉めない規則として受け入れられている。
その状態で、最後の一人、佐羅谷は自分で自分の意見をどちらにするか、決まっている。
「沼田原先輩に生徒会からチョコをあげるのは良いことだと思うわ。だけど、わざわざ恋愛研究会としてまとまって……」
「待てよ、佐羅谷。俺の意見を聞いてくれよ」
「九頭川さん?」
「はあー、くーやんなに言っちゃってんの?」
「まったく、意見を聞くまでもないわ。あなたの発案でしょう? 当然賛成でしょう?」
「発案者が必ず賛成すると、誰が決めた?」
俺が立ち上がると、全員の頭が混乱しかけているのがわかった。戸惑いの空気が正常な思考を妨げる。いいぞ、判断を鈍らせろ。場に流されろ。雰囲気に呑まれろ。
あの宇代木もポカンと口を開け、ミコトが戸惑いから怒りに表情が変わりかけていた。
「状況が変わった。チョコづくり体験イベントに、恋愛研究会は参加しない」
「九頭川くん、正気なの?」
佐羅谷が眉をひそめた。
冷静さを失いかけた佐羅谷に、俺はもう一枚狂気のことばを畳み掛ける。
「正気も正気だ。これ以上目立たないほうがいいと判断した。恋愛研究会を部活にしないためにな」
二月半ばの冷たい理科実験室で、空気は完全に凍りついた。
「なにを……言っているの……?」
佐羅谷が掠れた声を振り絞る。
「俺は参加に反対だ。これで、俺と佐羅谷と宇代木が反対、マコトが保留、ミコトが賛成、順当に言えば多数決で否決。そういうことだな?」
実はこの判断は俺にも利がある。
玉木を説得し、犬養先生に話をしたあと考えたのだ。
玉木の金曜日の時間を拘束してしまえば、佐羅谷が衆人環視でチョコを渡す機会など、失われるのでは? 玉木は何かしら佐羅谷の弱みを握って言いなりにしたようだが、知ったことか。
仮に玉木の報復があったとして、佐羅谷の立場が悪くなれば俺が付け入る隙もできる。それに、弱みは「公開しない」からこそ力があるのだ。一度使った切り札は二度と役に立たないし、弱みを暴露された佐羅谷が玉木に従うとは思えない。
そう、玉木の戦略は隙がないようで、戦略自体が隙だったのだ。
そうなれば、ここで恋愛研究会をチョコづくりイベントに絡ませないのは、正しい選択のはずだ。
もっとも、俺の思いは叶わない。
佐羅谷が賛成に回るからだ。
否、俺以外が賛成に回るように、佐羅谷が説得するからだ。
「佐羅谷は、反対なんだろう?」
「そ、それは……」
「話はここまでだろ?」
「九頭川さん! 許しませんよ! 説得できずに不参加はいたしかたありません。だけど、九頭川さんが反対するのは違います!」
ミコトが机を両手で叩いて立ち上がった。
トレードマークのウルフショートの無表情が、顔も真っ赤に柳眉を逆立てて怒りに染まっている。
「何が違うって? 生徒会としては手伝うし、玉木というスペシャルゲストも招いた。このうえに恋愛研究会が参加しようが、客寄せには変わらねえよ」
「そ、それは」
「それに、今回の佐羅谷の態度でわかった。なあ、佐羅谷、」
「なによ」
向き直ると冷たく憤る佐羅谷の深い緑色の瞳に吸い込まれそうになる。
「本気で恋愛研究会を部活動に格上げする気がないんだろ? ちょうどいいさ、俺もやっぱり同好会のままでいいと思い始めてた。これ以上、目立つのはごめんだ」
「言っていいことと悪いことがあるわ! 部活動にするのは既定路線よ。今さら変わらないわ」
「既定路線、ね。じゃあ、もう三学期も半分以上過ぎてるってのに、どうして音沙汰がないんだよ? 生徒会じゃ、新入生向けの学校のしおりに、部活動の紹介文を依頼し始める準備中だ。そのなかに、恋愛研究会はないぞ? なあ、ミコト?」
「そ、それは、そうですね」
「ほら見ろ。四月になっていきなり部活になりましたって、そんな突然なわけがない。今の今まで犬養先生から連絡がないってことは、恋愛研究会に問題があるって学校が考えてるってことだろ?」
「犬養先生だって忙しいから、あまり急かして煩わせるわけには」
「そうやって、自分を納得させてたわけだ? そうだよな、自分の居場所が、今なら一切おびやかされないもんな」
「違う! わたし、そんなことは!」
「違わない! かつらぎ高校の恋愛研究会は、奈良県内の一部の中高生には大人気だ。部活になれば、四月から確実にたくさんの入部希望者が来る。そして、部活動は入部に審査も拒否権もない。自分の身を危うくする新入部員を排除できないからな」
「くーやん、あたしも部活動にするのはあんまりいくないって思ってるけどさー、言い過ぎだよー」
宇代木は佐羅谷がことばに詰まった合間に俺を咎める。
「九頭川くん、少し落ち着いて話をしましょうか。悪いけれど、槻屋さんと加瀬屋さん、今日のところは先に帰ってもらえるかしら」
「そういうところだよ」
「なにがよ」
「一年二人を部員として認めていないあたり、もう半年近く経ってるってのに、部の根幹に関わる話から退ける態度が、この部が自分のものだって考えの表れだって言ってるんだ」
実際、俺も五月に入部して九月には文化祭で相当重要な判断に参加している。一年のミコマココンビも今後の恋愛研究会の中心を担うのだから、話し合いに参加すべきなのだ。
「一年生にこんなみっともない姿を見せるわけには……っ」
「佐羅谷さん、わたしはきちんと三人の議論が聞きたいです」
「ボクもです。部長せんぱいが考えてるこの部の形、ずっと引き継いでいきたいです!」
俺と佐羅谷が興奮していくのと裏腹に、一年二人は落ち着いて議論を咀嚼していた。
そう、一年二人は文化祭のイベントで俺たちを見てやってきたのだ。俺たち三人にどんな紆余曲折があって同好会から部活動への格上げを志向したのか、内実を知らない。
佐羅谷はいくばくか落ち着いてミコトとマコトを交互に見る。観念して、かぶりを振る。
「きっと、長くてまとまりがなくて感情的で、そして、つまらない話よ」
どうして恋愛研究会を同好会から部活動に格上げしなければならないか? 実はこの問いは、俺と佐羅谷と宇代木で目論見が違っている。
表向きには、恋愛研究や相談を大きく綿密に行うことができるようにするためだ。例えば、人数が増え予算が増えると、今回のバレンタインのチョコづくり体験会を独自に主催できる。将来的には活動の幅を広げ、部活動で培った知識や体験を生徒に還元できるようになる。
学校側にはそんな計画を伝えて部活動設立の申請をした。
「俺も最初は部活にしたほうが活動範囲を広げられると思った。優秀な生徒を恋愛研究会に引き入れられるし、恋に悩む生徒を一人でも多く助けられると思ったからな」
ウソだ。
恋愛研究会は、佐羅谷あまねを守るための『箱』だ。俺がやりたかったのは、佐羅谷が一人で立てるようにすること。そして佐羅谷を助けることを自分の意義にしてしまって、己の問題を先送りにしている宇代木を解放すること。
恋に悩む生徒など放っておけばいい。
「ところが、生徒会に入ってわかった。同好会でもよその力を借りれば、活動の範囲は広げられる。むしろ、少人数でお互いの能力を把握できている小さな同好会のまま動くほうが、やりやすい。だから、俺はこのさい部活動への格上げを諦めて良いと思ってるし、ここで駄目押しして滑り込みで四月から、なんてごめんだ」
ウソだ。
佐羅谷も宇代木も、俺が入ってめちゃくちゃに乱れた恋愛研究会の中で、己の問題を把握し、緩慢ながら解決に至り、はっきりいうと「同好会のまま問題を解決した」。佐羅谷はもう恋愛研究会に守られる必要はないし、宇代木は「佐羅谷を助ける自分」をアイデンティティにするほどの依存はない。
ほんとうは、俺も部活動になってほしい。名実ともに佐羅谷と恋愛研究会の有機的つながりが消えたとき、やっと一人の人間としての佐羅谷と向かい合うことができるのだから。
今の俺は、佐羅谷と玉木を一時でも引き離したいという情けない私情を優先しているだけだ。
佐羅谷が玉木にチョコを渡せないことで、佐羅谷にとってどれほど重大な過去が暴かれようとも一顧だにしない、俺の非道な決意の表れだ。
「宇代木だって、もとは同好会のままを希望してたろ? 同好会なら、俺たちはずっと「このまま」だ」
「よけーなこと言わなくていーよ」
宇代木は気まずそうに顔を逸らす。
八方美人で誰とでも簡単に仲良くなれる宇代木の才能は、比類なき努力で作り上げたキャラクターだ。
疲れ知らずの宇代木でも、気兼ねなく付き合えて心の休まる場所と同級生が欲しくなるだろう。それが佐羅谷はともかく、もう一人が俺だというのは、少々思い上がりがすぎるが、許してほしい。
宇代木が「あたしたち三人、ずっとこのままでいよう」と言った本意は、そういうことだろう?
「だいたいさ、「このまま」なんてどだい無理だったんだよ。変わらないものなんて、何もないんだ」
「あるぜ、変わらないもの」
「いちおー聞いてあげる」
「それは、人間の心だ」
「はっ」
鼻で笑いやがった。
「まーいーよ。あたしはもともと恋愛研究会に変なのは入れたくなかったんだー。新しく入ってくれたのが、みこちゃとまこちゃで安心したもんね。このままほったらかして部活動にならないんならさ、仕方ないじゃん」
「恋愛研究会で沼田原先輩向けのチョコを作ってもいいしな。純粋に参加者として生徒会のチョコづくりイベントに出てもいい」
「どっちみちくーやんは生徒会として出るんだよねー?」
「そうだな」
「はー、めんどっちいなーもう」
他には聞こえない小声で舌打ちした。なんで俺が睨まれるの……一緒にチョコを作るのは、一応できるじゃないか。
「ダメよ」
宇代木の話が終わって降りた沈黙を、佐羅谷が破った。
「恋愛研究会は、きちんと部活になるわ」
「ミコトとマコトにも説明しろよ。部長が何を思っているのか。同好会じゃダメなのか」
ミコマコにはきちんと話したことはなかった。文化祭で恋愛研究会がブースを出すときに揉めたことも、きっと知らない。
「佐羅谷さん、わたし、知りたいです」
「ボクも、役に立てますか?」
それぞれの思いを込めて、強さの違う視線が佐羅谷に集まる。
「恋愛研究会を、残すためよ。同好会のままだと、わたしの卒業で恋愛研究会はなくなる。槻屋さんと加瀬屋さんには悪いけれど、あなたたち二人が営む恋愛研究会は、今とはまったく異なるものになるでしょう」
「わたしは、佐羅谷さんたちのやり方を引き継いでいくつもりです!」
「そうね、あなたはそうしてくれるでしょう、でも根本的に違うのよ。恋愛研究会にわたしたちがいるんじゃないの。わたしたちが、恋愛研究会なのよ」
ミコトとマコトの顔に疑問符が浮かぶ。
そうだろうな、俺は佐羅谷と宇代木だけのときを見ているから、因果関係がわかる。だが、俺が入ってからの恋愛研究会はわりと安定して「恋愛研究会」だから、意味が通じないだろう。
「つまりね、恋愛研究をするために恋愛研究会があるのではなくて、わたしたちができることが、恋愛研究だったのよ。今やっている恋愛相談や古今東西の恋愛研究も、沼田原先輩を含めてなんとなく作り上げたパターンでしかないの」
「実際、あまね一人で読書してるだけの期間も長かったしねー」
幸いだったのは、恋愛研究や恋愛相談が、既存の部活や同好会と内容が重複しないことだ。ここに、恋愛研究会が箱として独立できる可能性があった。
「だから今後、この恋愛研究会がなくなって、誰か問題を抱えた生徒がいたとしたら、犬養先生は同じようなことをするでしょう。そしてその活動はオンラインゲームかもしれないし、ネットラジオかもしれないし、地域ボランティアかもしれない。恋愛研究会はそういうものなのよ」
佐羅谷の告白は、宇代木にとっては既知のことで、俺にとっては推測の範囲で、ミコマコにとっては未知のことだった。
返すことばもなく、ミコマココンビは衝撃を受けて動かなかった。
「だけど、安心して。恋愛研究会は、なくさせない。部活動にして、ずっと続くようにするわ。部員は多くならないでしょうけど、この記憶と記録が、失われないように」
「そこに、俺は疑問を持ったんだ」
さあ、ここが真骨頂だ。
「もう佐羅谷も宇代木も恋愛研究会がなくなったって、困らないだろ? 俺だって同じだ。別に解散しろとまで言わないが、ミコマコがいなくなったあとまで残す意味はあるか? 今後入ってくるやつらが、恋愛研究会にどんな思い入れがあるかもわからないんだぜ」
「どんな思い入れがあるかわからないのは、あなただって同じでしょう。自分一人古株気取りで、偉そうに言わないで。これだけ長居してるのに、いまだに彼女の一人もできないことを恥ずかしく思いなさい」
「それは今は関係ないだろ! 今は! 俺だって本心じゃあ変なやつを入れたくないんだよ! この恋愛研究会が、俺は好きなんだよ」
「……じゃあ、なおさらね」
「何がだ」
「あなたがここに依存してどうするのよ。決めたわ。いま決めた」
佐羅谷の目が据わる。
ちょっと見たことがないタイプの表情だ。
太陽のほぼ沈んでしまった夕暮れを背に、佐羅谷は部員全員を順繰りに睨んでいく。
「これは部長命令です。生徒会主催のバレンタインチョコづくりイベントに、恋愛研究会も参加します。異論反論文句批難欠席辞退その他もろもろ一切認めません。いいですね?」
「ちょ、あまね、」
「いいわね、天」
「はい……」
「マコトちゃんも」
「は、はい」
呼び方がマコトちゃんになっているが、本人は気づいていないようだ。きっと内心ではずっとマコトちゃんと呼んでいたのが、無意識に表に出たのだろう。
最後に佐羅谷は俺に向き直る。
「あなたに逃げ場なんて認めないわ。いいわね、『輔』」
「ぐっ」
宇代木とミコトの肩が揺れたのが、視界の端で見えた。
俺は心臓を握り潰された。気がした。
破壊力抜群だ。
端倪すべからざる才の持ち主だ。
一見激情して、混乱して、俺の話術に乗るフリを装って、押さえるところは押さえてくる。
こんなところで、いきなり名前呼びされて、拒絶できるほど俺は女子の優しさに慣れていない。抵抗できる可能性は、ゼロだ。
「さ、今日の部活はここまでよ。わたしは今から犬養先生に催促してくるわ。さっさと恋愛研究会を部活動にするように、わたしたちの深い思いを知ってもらわないと」
佐羅谷はカバンをつかむと、部屋の鍵を宇代木に握らせ、そのまま止める間もなく部屋を出た。颯爽と風のように。
結局、混乱したのは俺のほうで……だが、当初の目的通りに事は運んだ、のか?
宇代木を見ると、目の前で鍵をぶらぶらさせながら、ため息をついた。
「まー、納得いかないこともあるけど、部長命令じゃ、しょーがないね。がんばろっか、イベント」
それからの一週間は慌ただしく過ぎていく。
一日一日が時間単位でイベントに向けて進んでいく。チラシを作り、掲示物を作り、お昼に放送し、調理室を抑え、玉木も招いて、予行演習しておく。
今のところ、三年生で受験も終わった人や、一年生が多いように見える。二年は俺の息がかかった知り合いが多い。山崎はいない。こういうところで根性がないやつだ。
生徒会の面々は口々に忙しい忙しいと文句を垂れるわりには活き活きと動き、連携や準備に無駄がなく、まだ始まったばかりの生徒会なのに、熟年の夫婦のように阿吽の呼吸で開催に向けて精を出す。俺一人、生徒会と恋愛研究会の狭間で手持ち無沙汰だった。
週末はすぐにやってきた。
かつらぎ高校の調理室は、参加希望の生徒で埋まった。想定よりも反応は良く、ミコトはホクホクした顔で胸を反らしていた。
「これも、生徒会と恋愛研究会の知名度ですね」
「玉木の知名度だろ」
「うるさいです、九頭川さんは黙って玉木さんの手足となってきりきり働きなさい」
「俺はビターなチョコクッキーを作るだけだよ」
実際に玉木の知名度もあっただろうが、俺の分析では、「言い訳」がほしい生徒が多かったのだろうという結論だ。
三年生が多いのは、仮に告白を拒絶されてももう会わなくなるから最後のチャンスに賭けるということだし、一年生も多いのは、まさに一年間かけた思いをここでさらっと告げるためだ。
二年生は、中途半端だ。これから受験に向けて大切な一年が始まるし、失敗したときのダメージは蓄積する。と分析したところで、失敗を恐れてためらうような恋心なんて、取るに足らないものだ。
「ん、時間ですね」
裏方に徹することになった生徒会メンバーの一人が、そっとやって来てミコトに時刻を告げる。
今回は主催が生徒会で協賛が恋愛研究会。ゲスト講師が玉木という布陣だ。参加希望者が多かったので、生徒会メンバーは参加せず、なぜかマコトも仲良く裏方に混ざっている。
教壇側に立っているのは、生徒会長のミコトと副会長の俺。恋愛研究会の代表、佐羅谷。そして講師の玉木。並んだ椅子にこの四人が座って、調理室を眺めているのは変な気分だった。一刻も早く、手を動かしたい。
「じゃあ、始めます」
ミコトは私語の満ちる調理室をものともせず、教壇に立つ。
一部の生徒は気づいて会話を止めるが、全体としては浮ついた雰囲気、雑談は止まらない。しかし、意に介さずミコトは開幕を告げる。
「このたびは生徒会主催、恋愛研究会協力のバレンタインチョコづくり体験会に参加いただき、ありがとうございます。みなさん知っての通り、バレンタインデーというと日本では最初女性から男性に思いを伝える日として始まり……」
緩急のついた澄んだ声に、私語は自然とやんだ。
ミコトは無表情で感情表現に乏しいが、こうやって人前で動じずに朗々と台本を読めるのが強みだ。
俺なんて、話している途中によそ見をされたり、小声で会話されたりすると、その瞬間自分の話が何かまずかったのかと愛想笑いを浮かべて話を止めてしまう。
「そして今回は、特別講師として玉木くがねさんに来ていただきました!」
校長ほどではなく、適度に短い挨拶。
ミコトは玉木を紹介し、拍手を促す。
ゆっくりと玉木は立ち上がる。
「ご紹介に預かりました、普通の高校二年生、玉木くがねです。今日は少し苦味のある大人の味のチョコクッキーを作ろうと思います。ご心配なく、カカオ豆から作るほど本格的ではないですよ、一度やってみたらわかりますが、あれは体力と時間がかかるのに出来上がりは市販品と変わりません」
ユーモアか本気かわからない話を織り交ぜて、玉木は楽しそうにプレゼンする。動きに余裕があり、セカセカしていない。聴衆全体を見回しながら、話をしていない時間もあるのに、まったく遅さや無駄を感じない。
ミコトが高校生として適切な話し方だとすると、玉木は完全にプロの域だ。
改めて並んで見て痛いほどに実感する。
この男の才気もまた、高校生のレベルを超越している。
「それじゃあ、作業に取り掛かろう! まずは材料の確認から……」
玉木が全体を見ながら指示を始める。
俺とミコトと佐羅谷は全体を見ながら、宇代木の場所で自分たちの分のチョコクッキーを作る。
賑やかに楽しげに、調理室にはチョコの香りと温かい空気が満ちていた。
「今回は苦めのチョコクッキー、これで他との差別化を図ろう。まあ俺が甘いものが苦手ってだけなんだけどな」
小麦粉を計って篩にかける手順を指示しながら、玉木は各テーブルを回って様子を見る。
「おい、玉木。突っ込みにくい冗談はやめろよ」
「よかった、おまえが突っ込んでくれないと、自分でオチまで説明するところだったぜ」
調理室の微妙な緊張が解ける。
まったくスイーツ店の社長が自己否定みたいな冗談を飛ばすんじゃねえよ。別に社長が嫌いなもののビジネスをしていてもおかしくはないが、ゴシップも洒落にならない。
それ以降は特に問題もなく、玉木と初めて関わる他の面々も、お茶目な男だという認識をした程度で、ときどき差し挟む妙な冗談も笑いに変わった。
「玉木は昔からああいうやつだったのか」
玉木が他の人のテーブルに向かっているときに、俺はつぶやく。
「それは誰に聞いているのかしら」
「あたしに、じゃないことは明白だねー」
「中学時代から才能の片鱗が輝いていたのかと思ってな。学校のリーダーだったのか?」
「ふ、まさか。新しい視点ね」
チョコチップを混ぜながら、佐羅谷はかぶりを振る。
「目立たなくて、大人ぶったところもないただの男子生徒だったわ。面影さえ探さないと気づかないほどに、ね」
「へえ」
しかし、中学の終わり頃には親についてアメリカに行くくらいの人間だ。そもそもアメリカに行くということは、親も相当レベルの高い仕事をしているということだ。
目立たないだけで、潜在能力は高かったのだろう。実際に、今テーブルを回っての教え方一つとっても、手慣れていてわかりやすく、とても同じ高校生とは思えない。本人は講師役を渋っていたが、実はやったことがあるのではないか。
「くーやんにしては珍しいねー」
宇代木はハート型に型抜きを始めながら、冷たく言い放つ。悪かったよ、二人で隠れてチョコ作りをしようっていう約束が、こうなってしまって。でもギリギリ許容範囲だろ? 佐羅谷のアドバイスはないのだし。
「何が珍しいって? お菓子作りは初めてじゃないぞ」
「違うよ。他人の過去を聞くなんて、どーいう風の吹き回しさ。あたしとあまねに、昔の話を聞くことさえなかったじゃん」
「それは、だって、女子の過去を根掘り葉掘り聞くのは」
「やっぱ男の子は男の子のことが好きなんだよねー、知ってたけど、悔しいなー。男同士の「ピー」情に割りこめないや〜」
「おい待て、なにか大いに誤解を招きそうなところに規制音を入れるな」
「腐腐腐」
「その笑い声さえおかしく聞こえる! やめろ、俺を二次元に巻き込むな!」
「二次元じゃないよ、二次創作だよー」
「ナマモノはヤメロ!」
声が大きくなる。
「あなたたち、仲が良いのはけっこうだけど、みんな見ているわよ」
「あー」
「お、おう」
参加者も玉木も生ぬるい視線を寄越している。
針のむしろだ。
一番尖った針はミコトだ。
プルプル震えながら、しかしこの場で怒りを爆発させることはできず、必死に耐えている。えらいぞ、ミコト。さすが生徒会長。あとで怒られるんだろうなぁ。
わりと近い卓に三根がいて、もちろん上地と沖ノ口もいる。三根はともかく、上地や沖ノ口もせっせとチョコ生地を延べているのが面白かった。
「じゃあ、型抜きの終わった人から、クッキーを焼いていこう。まずは予熱を……」
玉木がオーブンの使い方を説明して回る。
型の使い方(使わずに成形する者も)も作業速度も個性が出る。
俺とミコトはオーブンの稼働音が部屋に満ち始めたのを見て、隣の部屋に移動する。紅茶とコーヒーの準備だ。
隣の部屋にティファールのポットが並んでいた。チョコの実習に参加しているのは俺とミコトだけなので、ほとんどお茶の準備は他の生徒会メンバーがやってくれていた。
「みなさん、お手伝いありがとうございます。特に問題なくイベントも完了しそうですね」
ミコトがほくほくと笑顔だ。ミコトが笑顔だと、露骨に生徒会のメンバーも嬉々とした表情になる。おまえらミコトが好きなんだねえ。
各テーブルに保温瓶に入れたお湯とコーヒーと紅茶の小袋を配っていく。そのうちに香ばしくも甘い香りが鼻腔をくすぐる。
最後に玉木の席にお茶セットを置く。
全体を見回している玉木は、さすがに緊張しているようだった。責任はないとはいえ、いちおうツイッツイーツの社長だから、不出来だと格好もつかないか。もちろん、玉木は自分では作っていない。
「玉木、心配しなくても、俺のチョコを分けてやるよ」
「自分から火に油を注ぐなよ。俺はネタを提供する気はないぞ? ネタになるのは、おまえだけでじゅうぶんだ」
「でも、女子からのチョコは受け取ってやれよ? あくまで試食だからな」
俺は全体に聞こえるように言った。
ここに来ている女子の中には明確に玉木目当ての者がいる。普通の場面では受け取らないと言い張っても、この場で講師役が試食さえしないのはおかしいだろ、俺はそう言っているのだ。
「試食程度ならな」
メガネを外して眉間を揉みほぐし、軽く返す。
今のところ、なにか揉めることはないように見える。ミコトの言うとおり、問題はなさそうだ。
部屋全体から、廊下にまで芳しい香りが漏れる。全体の管理や広報用の撮影をしていた生徒会や先生方も意識が嗅覚に集中する。
それは実際にクッキーを焼いている俺たちも同様だった。
玉木のチョコクッキーという選択は、さすがに絶妙だった。
普通のチョコレートのみの加工品(生チョコとかトリュフとか)ではなく、焼き物にした点が、やはり男なのだと思う。
チョコがもらえるなら何だっていい、という現実はともかく、苦味のあるチョコクッキーを渡してくれるような女子には落とされたくなる。
俺の性癖はともかく、オーブンが焼き上がりを告げ始める。
「じゃあ、できあがったら火傷しないように取り出して。まだ完成ではないぞ、きちんと全体が焼きあがっているかを確認するんだが」
焼き時間が短い気がしたのはそのせいか。端の部分を押して柔らかいならば、まだ完全には焼けてないと。
玉木の説明を聞くまでもなく、そうやって判断している女子が何人かいた。三根もその一人だった。
「よし、できた」
大きな声だった。
三根だ。
調理室の視線が集まる。
三根は自分の作ったハート型クッキーをお皿に移すと、ちょうど部屋の真ん中あたりにいた玉木に一直線に近づく。
俺のいる場所から、三根の表情はうかがえない。ただ、相対する玉木が平静を装おうとしているのはわかった。
衆人環視のなか、玉木が三根のチョコを受け取らなければならない状況だ。
これは理想的だ。
不可能なシチュエーションがここに実現した!
「玉木くん、受け取って」
絶妙な言い方だ。
味見して、ではなく、受け取って。
味見しなければならない立場の人間は、どのみち拒否できない。しかし、受け取ってと言われて諾々と試食すれば、それは間違いなく噂を掻き立てる。
芳しい香りの漂う調理室に不穏な緊張の糸が張り詰める。
なかなか玉木は動かない。
注視しているのは俺だけではない。
宇代木は興味なさそうだが、佐羅谷は自分のオーブンを横目で見ながらじっと様子を窺っている。ここで三根のチョコを受け取った男に、佐羅谷はやすやすとチョコを渡さないだろう。
「じゃあ、味見をしよう」
玉木は三根の差し出す皿に手を伸ばす。
チョコクッキーを摘もうというとき、指が変な動きをする。
「あ」
誰かの声が聞こえた。
「味見だからな、一つ丸々は要らない」
玉木は器用に皿の上でクッキーを二つに割った。
綺麗なハートは半分になる。
割れたハートが意味することは、周知の通り。
玉木は半分のハートを口にすると、ひとり頷いた。
「うん、良い出来だ。誰に渡しても恥ずかしくないぞ」
玉木は満足げに三根に伝えると、他の卓を見に回る。しばらく立ちすくんでいた三根はうつむいたまま上地と沖ノ口の隣に戻っていった。
「ひどいねー、玉木くん」
宇代木がポツリと言った。目はじっとオーブンを見たままだ。焼きすぎじゃね?
「付き合えない相手を暗に拒否したんだ。誠実だろ」
俺が思ってもいない擁護をする。
「この場で女に恥をかかせておいて、誠実もないでしょう」
佐羅谷は出来上がったチョコクッキーを神妙に皿に並べている。全部同じように見えるが、こだわりでもあるのか。
調理室は三根の出来事が治まると、また賑わいを取り戻す。ざわざわとお互いに作ったクッキーを試食したり、出来の良いものを袋詰めしたり、各々好きに動き始める。
生真面目なミコトは無表情でクッキーを選別して、形の良いものを袋に入れていた。沼田原先輩用だろう。
「ミコト、俺のも一緒に入れておいてくれよ」
「変なもの、入ってないでしょうね」
「あえて言うなら俺のクッキーが変なものだ」
「自分で言っちゃうんだ〜」
宇代木が横で呆れている。
「槻屋さん、大丈夫よ。ずっと隣で見張っていたから」
「なら安心ですね」
「いやむしろずっと隣で見張ってたことにつっこめよ?」
そこまで佐羅谷に見られていた記憶はないが、俺も真剣にクッキーを作っていたので、あまり見られることには注意していなかった。
「さ、できた」
佐羅谷は大きな口で笑顔を作り、決然と面を上げた。その先には例の男。
「玉木くん、食べてみてくれるかしら?」
穏やかに弛緩していた調理室の空気が再び張り詰める。
三根のクッキーの半分を食べたあとも、玉木は何人かのクッキーを試食している。しかしそれは試食の域を出ない。誰も本気で玉木にクッキーを渡したいという雰囲気でもなかった。
なんなら、普段関わりのない学年や別クラスの生徒が、「話題の玉木くん」と話をしてみたいから声をかける感じだ。
佐羅谷が動いた。
これはドラマだ。
学内で流布する玉木が佐羅谷を追いかけていたというストーリーの続きが、今ここで新たな展開を迎えようとしている。
誰もが行く末を注視する。
自然に私語が消える。
「どうかしら?」
佐羅谷は玉木に近づき、皿を見せる。
「形も色もきれいだな」
玉木の手が伸びる。
玉木が時の人になっていて忘れがちだが、佐羅谷も知名度や存在感では間違いなく学校内で一流だ。
誰からの告白も断ってきた佐羅谷が、自分から玉木にチョコを差し出した。
「佐羅谷さんから動くんだ」
「今まで告白を受け付けなかったのって、そういうことなの?」
どこかの卓から小声で漏れ聞こえる。
さあ、真実はどうだろうか。
全員の視線が注がれる。
まさに玉木が指定した状況だ。
佐羅谷から本命のチョコを渡す。
これも玉木が指定した条件だ。
本命のチョコ、それは皿の上に並ぶなかで最も大きく、厚みがあり、焼け加減の良いもの。試食では選ばないであろう一枚。
玉木はためらわない。
佐羅谷の本命に指を伸ばし。
「あ」
三根のときとおなじように、誰かの声が聞こえた。
玉木がクッキーを摘まもうとしたとき、ハートはきれいに二つに割れた。
俺は気づいた。
玉木がしくじった表情をしたのを。
ほんの一瞬でメガネの奥に表情を隠した。
「あら、残念ね。わたしのチョコクッキーじゃ、不足かしら?」
「生地の混ぜ方が、足りなかったのかもな」
「そう。わたし、不器用だから。ごめんなさいね」
佐羅谷は深窓の令嬢のように慎ましく笑うと、俺たちの卓に戻ってきた。
「佐羅谷さん、不器用なんだ」
「いがーい。苦手なこともあるんだ」
「玉木くん、佐羅谷さんでも断ったってこと?」
「噂はしょせん噂だよね、そんな面白い話はないよ」
玉木と佐羅谷の話が、再び満ちる賑わいに混じって聞こえる。
一度佐羅谷は玉木の意向に沿って、本命のチョコを衆人環視の中で渡そうとしたのだ。佐羅谷はやるべきことをやった。しくじったのは、玉木だ。佐羅谷は二度とチョコを渡さないだろうし、玉木は再度強要しないだろう。
玉木はそこまで無様ではないはずだ。
どうやら、今回は俺に都合が良いように回ったのか? 手を尽くした結果か? 俺は安心して良いのか?
佐羅谷が卓に置いた皿を見る。
半分に割れた大きめのハートと、数枚の小さなハートが小さな皿に並んでいた。俺が手を出して、良いものだろうか。
佐羅谷に許可を取る勇気は起きなかった。
「フォース」
俺の隣で最後までオーブンを見ていた宇代木が、ポツリとつぶやいた。
「あまね、器用なとこあるじゃんか」
「フォース? スターウォーズ?」
「手品の技術の一つだよー。」
「考えすぎよ、天。わたしはそこまで器用じゃないわ」
「フォースっていうことばは説明しなくてもわかるんだー」
「ミステリ好きには慣れ親しんだことばよ」
「くーやんはわからなかったみたいだけどー」
「彼は読書量が足りないわ」
「アウトプットも足りないよねー」
俺を挟んでなぜか罵倒するのはやめてくれ。
フォースということばは言われてみたら耳に覚えがある。佐羅谷なら隠れていろいろな練習や稽古を積んでいる可能性が高い。キックボクシングやボイストレーニングをしているなんて、学校の生徒に言っても信じてもらえないだろうし。
それはともかく。
俺は佐羅谷の皿に残ったチョコクッキーを見る。一番大きなハートは半分になり、残りは小ぶりな大きさのハートがいくつか。
「佐羅谷、味見させてもらっていいか?」
「どうぞ、好きになさい。もともと作ってみたかっただけだから。誰に渡すつもりもないわ」
「せめて沼田原先輩ぶんは除けておこうぜ」
俺は腕を組んでそっぽを向いている佐羅谷の前でしばらく逡巡して、意を決して手を伸ばす。
玉木が割った残りの半分を。
さすがに味見と言って形の良いハートを積極的に選ぶ自信はない。向こうから差し出してきたら、その限りではないが。
俺が半分のハートを摘むのを見て、佐羅谷も宇代木も緊張を緩めたのがわかる。俺の選択は間違いではなかったようだ。
半分のハートは、割れ目に切り込みの凹みがあった。焼く前につけたであろう裏側の線。表からは見えない。
なるほどな。
俺は知らんぷりをして半分のハートを一口で食べる。これで証拠は残らない。
佐羅谷のクッキーの味は覚えていない。佐羅谷どころか女子の手作りの食事やお菓子など食べるのは(たぶん)初めてだが、記念すべき一つ目が策謀にまみれた逸品で、味覚も感情も理性の狭間に消えていた。
「くーやん、食べた? 食べた?」
飲み込んだ頃を見計らって、宇代木がずずいっと俺の口に熱の残るチョコクッキーを突っ込んでくる。
「だぁ! 近い! 早い! うまい! 安い!」
「めっちゃ適当だし! ちゃんと食えー!」
「食べるから! 食べるから、落ち着け!」
結局、このとき食べたチョコクッキーは佐羅谷と宇代木の二名のものだけだった。
にわかに廊下が騒がしくなる。走る足音が近づいてくる。休み時間ならまだしも、放課後に廊下を走るのは珍しい。先生だっているこの教室に来るのは、叱られる危険もある。
見学者も多かったので調理室の窓は全開にしていて、中には先生もいた。廊下を走ってくる生徒を見て、何か叱責のことばを述べているようだが、足音は止まない。
ただごとではない。
先生のたくさんいるイベント中に走ってくるなんて。
ただごとでないことは、力任せに扉を開けたところでさらに異常度が上がる。
「田ノ瀬?」
学校有数のイケメンでモデルや俳優もこなし、学校でも優等生の男が、息も絶え絶えに廊下を駆け抜けて、イベント中の教室に割り込んでくるだろうか。
止めようとしていた生徒会の男子生徒も、田ノ瀬の気迫に遠巻きに見ているだけだ。
扉を開けて、半身を調理室に突っ込んだ状態で、田ノ瀬は険しい顔を向けた。
さまよった視線は、俺で止まる。
「大変だ、九頭川くん!」
鬼気迫る形相に、咎めようとした先生たちですら動かなかった。
尋常ではない。
それはわかる。
だが、なにがおかしいのか、なにが起きているのか、田ノ瀬の慌てようではわからない。
田ノ瀬は呼吸が整わず、話を続ける状況にない。
いつも冷静なミコトが、冷たい水を田ノ瀬に差し出す。
一気にグラスを呷ると田ノ瀬はいくらか落ち着いたのか、調理室に集まる生徒や先生を一瞥して、言い澱む。
なんだ、聞かれるとまずいことなのか?
「九頭川くん、君たちの――」
せいいっぱいことばを選んで話そうとしたところで、校内放送が田ノ瀬を遮る。
「呼び出しです。今から名前を読み上げる生徒は、至急職員室に来なさい」
なにかが起こったのはわかった。
なにが起きたのかはわからなかった。
田ノ瀬が俺たちに危機を伝えようとしてくれたのだった。
「二年一組九頭川輔、二年三組宇代木天、二年五組佐羅谷あまね。以上の生徒は、職員室に来るように。繰り返す――」
終章
何が起きたかわからないが、呼び出された以上、生徒である俺たちは従わねばならない。
イベントに集まっていた全員の視線を集めるなか、俺たちは無言でアイコンタクトを取る。こんなとき、ある程度よけいなことをしゃべらずに何となくで話が通じるのは助かる。
「あの、九頭川さん」
ミコトが困り眉で寄ってくる。
「おまえが心配そうな顔すんなよ。しゃんとしてろ。何も悪いことはしてないんだ」
「そだよー、みこちゃ。残ったクッキー、沼田原先輩用にまとめといてー」
「槻屋さん、悪いけれど、後片付けはお願いするわね」
そうだ、俺たちは何も悪いことはしていない。
呼び出されることだって、きっと同好会が部活になることの確認とか、その程度のことだ。すぐに帰れる。
三人並んで、通路の狭い調理室の卓の間を通る。
ちらりと見える三根と沖ノ口の表情が固い。
教壇からじっと見つめる玉木は感情が読めない。
扉の横、田ノ瀬はまるで普通の高校生男子のように己の無力に打ちひしがれているようだった。
「田ノ瀬、ありがとうな。早く知らせようとしてくれて」
「九頭川くん……。僕がこういうことには一番強かったはずなのに、すまない」
どういうことなんだろうな。
他の生徒の前では迂闊に言えないことか。
ミコトには心配するなと言ったが、どうにも分が良くない。
部活動への格上げ決定で、こんな呼び出され方をするわけがないのだ。
調理室を出て、三人横並びで歩く。
誰も口を開かない。
不安なんだ。
佐羅谷はしきりに両腕をさすっている。
宇代木はスマホを取り出しては仕舞うを繰り返している。
俺は隣の二人が気になって仕方がない。
「待ちなさい!」
背後から声がかかる。
犬養先生だ。
いちおう、恋愛研究会の顧問ということで、今回のイベントでも立ち会ってくれていた。
「犬養先生」
「私も行こう。君たち三人が呼び出しされるということは、私にも関係するはずだ」
「だけど、きっとよくない呼び出しです。先生にご迷惑を」
「なおさらだ。こんなときくらい、教師を頼りなさい。君たちは、大切な私の生徒なんだから」
たまに見る犬養先生の大人の顔だった。
俺の父親もたまにこんな顔をする。
見るたびに思うんだ。
俺も早く、誰かを守れる人間になりたい、守れる誰かを手に入れたい。
そう心から思うんだ。
(了)




