7巻前半『三根まどかは大人しくない』
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
玉木くがね (たまき・くがね)
槻屋尊 (つきや・みこと)
加瀬屋真誠 (かせや・まこと)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田戸真静 (たど・ましず)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)
杉原京香 (すぎはら・きょうか)
大杉右京 (おおすぎ・うきょう)
豆市咲蔵 (まめいち・さくら)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
序章
「受験、終わったよ、輔」
沼田原先輩は、少し伸びた髪を揺らしながら笑った。
マラソン大会の余韻も程々に、三年生は受験で授業も抜ける日が多い。卒業式も近く、授業はあってないようなものだ。
沼田原先輩の表情は険が取れて和らいでいた。
「春になれば、京都だよ」
昼の中庭は、一月の陽射しがあっても肌寒かった。風はない。隣に座る沼田原先輩の息遣いも、ブレザーの擦れる音も、心音さえ聞こえそうなくらい、雑音が消えた世界。
二人きりの世界。
「え、そうだね、通えたらよかったんだけど、下宿する。さすがに片道二時間の通学はたいへんだから」
先輩は三年生で、俺は二年生だ。
今まで当然のように同じ場所で同じ学校で一緒にいたのに、ある日を境にいなくなる。
偶然に会うことさえも。
住まいすら遠く離れる。
京都なんて数えるほどしか行ったことがない。
きっと、二度と会わなくなる。
連絡をしていても、会おうという話にならない。なるはずがない。俺と沼田原先輩は、理由もなく会える間柄ではない。
「なんだ、そんなに寂しそうな顔するなよ。今生の別れでもあるまいし」
沼田原先輩は俺が初めて会ったときのように、強く不敵に微笑んでいた。
俺は瞼に溢れそうな涙をごまかすように、そっぽを向いた。
「ねえ、た・す・く」
沼田原先輩の声が甘くとろける。
俺の頬に両手を当てて、自分の方を向かせる。
だんだんと唇が近づいてくる。
逃げようにも、体重をかけられて体勢が崩れる。
「だから、私たち、もう別れよう」
沼田原先輩は至近距離で洟をすすった。
想定外のことばに俺の湿った瞳は一瞬で乾いた。
「あー、ほら、輔も寂しそうだったし、試しにつきあってみたわけだけど? もともと全然好きじゃなかったし? 年下だし、髪の毛もボサボサだし、スポーツも勉強もほどほどだし、ちょっとオタクっぽいし、優柔不断だし、ラインもマメに返さないし、奥手だし、女子を見る目線がやらしいし、なに考えてるかわからないし?」
俺を押し倒して、沼田原先輩は覆いかぶさって、暴言を吐く。
「輔が京都の大学を選ぶにしても、一年は離れ離れだろう? 私、遠距離なんて無理だし。君は会いたいって言っても会いに来てくれないし? つまり、つまりさ、私たちは全然……ぜんぜん、合わなかったんだ。ぜんぜん、ぜんぜんっ」
上から、涙の雨が降る。
俺の顔に沼田原先輩の涙が降り注ぐ。
痛いほど頬を挟む両手は離れない。
頬と手の間を樋のように、滂沱の涙は流れ落ち、ベンチを濡らした。
「じゃあね、「九頭川くん」。はは、さっぱり手放してあげるつもりだったんだけど、無理だったよ。誰かに見られていたら、ごめんね」
ひとしきり乱したあと、沼田原先輩は赤くなった顔をハンドタオルで隠しながら、恥ずかしそうに笑った。
「次は、卒業式で会おう。なに、私は君の部活と生徒会の先輩でもあるんだ。いつでも話を聞いてあげるよ」
俺は恐ろしい人を先輩にしたのかもしれない。会わなくなっても、縁は切れない。恐ろしい人は頼もしい人だ。
沼田原先輩は、校舎に入るまで一切振り返らなかった。
自分の目から溢れるものの理由が、俺にはわからなかった。
悲しみではない。
喜びではない。
そうか、これは。
沼田原先輩の気持ちだ。
だとすると。
「ありがとうございました」
人は、感謝で泣ける。
俺はまた一つ大人になった。
先輩の背中に、一礼。
面を上げたとき沼田原先輩はいなかった。
あの「依莉先輩」にはもう二度と会えないのだと、俺は眼を閉じた。
一章 三根まどかは大人しくない
「田山花袋は『蒲団』で、精神的な愛と肉体的な愛の葛藤を描いた。
主人公の男は、厳格な父だ。貞淑な妻と健全な子供がいる。この幸せな家族を精神的な愛の典型として、一方で自宅に下宿する若い女性に対する欲望を肉体的な愛として、どちらが愛なのかと問うたわけだ」
俺は簡単にまとめたプリントを配って、恋愛研究会で談じていた。
恋愛研究会は、佐羅谷が口を突き出して訂正するように「恋愛相談部」ではない。古今東西の哲学者思想家文人の恋愛に関する考え方を調べ、学び、議論し、答えのない浩瀚な海を泳ぐ。
「女性が帰郷したあと、主人公は布団に染み付いた髪油や汗の匂いを嗅ぎ、寝巻きの襟に顔を押し付ける。
だが、最後まで直接に手を出すことはなかった。
田山花袋は自然主義派と言われてるが、はたしてどちらを愛だと考えていたのかーー」
話していると、ミコトがハンカチで口許を押さえていた。
「九頭川さん、気持ち悪いです」
「いや待てミコトよ、これは当時一世を風靡した作品で」
「男子ってやるよねー。さすがに好きな子のリコーダー舐めるのは創作だと思うけど、体操服とか鞄とかに顔をつけたり抱きしめたりしてるよねー」
「おい待て宇代木。そういうのは見てもツッコんだらダメだ。そいつが社会的にも精神的にも死ぬ。ついでに言うと、リコーダーを舐めるのは都市伝説じゃないからな?」
「うわぁ」
「これだから男子はサイテーなんです」
男子の居場所がない。
誰よりもかわいい女装っ子のマコトは、プリントに没入して会話を聞いていないふりをしている。気持ちはわかるぞ。
「バカな思春期の男子よねえ」
佐羅谷が髪をかき上げ、話を切った。
「二葉亭四迷が舌鋒鋭く批判したでしょう? 性欲が下劣なのではなく、品性が下劣だから性欲も下劣になるんだって」
「そう、そもそも恋愛を「高尚な精神の物」として神聖化し、性欲を「下劣な物」として汚穢化するその問いの立て方が間違っていると俺は思う」
「じゃあ、九頭川くんは『蒲団』の主人公の男性は、どちらに愛を感じていたと考えるのかしら」
「どちらにもだ」
「今の世間ではそれを二股と言うのよ」
「違う、男は最初は妻に愛を感じていた。だが、妻は子に取られるし、子は妻に取られるし、自分は厳格な父であることを強いられ、どこまでも孤独だ。家庭はあるが、自分の居場所はない。自分に対する愛情が欠如している。
この孤独を、この寂寥を埋めてくれる存在が、下宿に来た女性だった」
「妻は男を愛していなかったと?」
「男が求める形での愛し方ではなかったんだろうな」
形式的な家族の愛ではなく、自分という個人に対する愛が欲しかった。士は己を知る者の為に死すというが、自分という個人を、個体を、存在を肯定してくれる者があれば、そのためにすべてを投げ打つことができる。
男はそんな生き物だ。
「だけど、世間は愛から性欲を排除し続けているわ。その時代に平塚らいてうと森田草平の心中未遂は、性欲満足主義だと糾弾されたじゃない。愛し合う二人の愛を、認めなかった。結婚と精神が整って初めて、肉体の愛が認められる」
「精神のつながりが愛ならば、AI相手でも愛(ai)が育めるはずだが、誰も認めない。証明終了(QED)」
「つまらないオチをつけてるんじゃないわよ、まったく」
うやむやになったが、今回の俺の発表はここまでだ。愛情と性欲の非分離に悩むマコトの役に立っただろうか?
佐羅谷との議論が終わって他の面々を見ると、不思議な表情でこちらを見ていた。
「なんだよ」
佐羅谷は一人でガスバーナーとビーカーを準備している。俺だけが視線に気づいた。
「いやー、くーやんなんか凄いね!」
「二人の話が複雑すぎて全然わかりませんよ」
「部長せんぱいも九頭川せんぱいもかっこいいです!」
褒めてるのかバカにしてるのか。
絶妙な線だ。
俺はマコトの懊悩を知って、この題材を選んだんだがな。多少でも伝わることを願う。
愛は形と心と肉の三位一体が至高とされた明治時代の馬鹿げた価値観から、俺たちは令和の世になっても一向に進歩していない。
「誰も好きにならない女、誰とでも付き合う女、好きという感情がわからない女、好きの三位一体に悩む男の娘。恋愛研究もたいへんだ」
「くーやん?」
ドスのきいた低音が心臓を刺す。
頬杖をついた宇代木の笑顔が、声の出どころをバグらせる。
「まー、ほら、あれだ。江戸時代の若者組みたいな教育組織がなくなって、生きる知恵を育むことができなくなった。学問は学校で、常識は家庭で、仕事は会社で学ぶことができるが、人間関係を学ぶ場所がなくなった。恋愛含めてな。
そして今は、若者組がかつて担っていて、こぼれ落ちてしまった教育があることさえ忘れられている」
「江戸時代の若者組の教育が今さら役立つとは思えないけど?」
「中身じゃなくて、ああいう形式だよ。あの形でないと伝授できない教育がある。わかってるくせに、つっこむなよ」
「身を守るための性教育は大切なのだけれどね。槻屋さん、あなた、自分がどうやったら妊娠するのか知ってる?」
湯を沸かしながら、世間話のように佐羅谷はミコトに強烈なパスボールを投げる。
「に、にん、も、もちろん、知識としては知ってますよ。いくらなんでも、バカにしすぎです!」
「ミコト、それがそうでもないんだ。自分が何をされたかもわからないまま、医師に妊娠させられた箱入り娘がいてな。さっきの田山花袋や平塚らいてうの時代の話だ」
「その娘は、子供は天から授かるものだと思っていたそうよ」
「……………っ」
「精神が結びつく愛と、家が結びつく結婚だけが正しくて、欲望の交わる肉をとことん否定した結果が、それだったわけだ。性欲なんてなくていい、教えなくていいってな」
「理想は理想として主張するのは勝手だけど、現実を生き抜く処世術と、身を守る知恵はなおざりにしてはいけないわね。……じゃあ、コーヒーを淹れましょう」
愛だの恋だの騒ぎ立てずに、つまらないことを言う奴は、今から殴りに行こうか。秩序しかない現代にドロップキック!
きっと俺たちは少し考えすぎて、少し近すぎて、少し怖がりだ。
自分の想いが愛だと確信できなければ、好きになることさえできないのだから。
今日はもう誰も来ないのだろうか。
帰り支度を始める頃だ。
ドアをノックする音がした。全員のコーヒーが空っぽになっていた。
「どうぞ。ようこそ、恋愛研究会へ」
引き戸がガラガラと開き、黒の緞帳の向こうに気配が生まれる。
「ごめーん。直接話したいから、そっち行くね」
緞帳を退けて丸い頭が覗く。
聞き覚えのある声。
丸いボブに、丸っこい顔。飾り気のないメタルフレームの眼鏡。制服紹介に載っていそうな模範的な着こなし。
三根まどかがそこにいた。
「三根……」
一年のとき、那知合花奏のグループにいた女子。カースト上位のギャル系だった三人、那知合・上地・沖ノ口に比べてあまりに目立たない外見。パシリや金づるのように傍目には見えるかもしれない。
しかし、あの那知合が一目置く女子は、今日この場で本当の牙を見せた。
「や、輔。久しぶりー。こないだはごめんね」
俺たち部員と対峙して、三根は胸元でふるふると手を振る。ことばの軽さとはうらはらにメガネの奥の眼は焦点が合っていない。
「三根まどかさんね。恋愛相談かしら?」
「うん? 私が相談なんてするわけないじゃん」
特等席に座す佐羅谷を見下す。
「こんなところ、来たくなかったよ」
ひどく冷たい。
心が凍えそうな空気。
一月半ば。
俺は改めて、三根が那知合グループで対等に立っていられるわけを知った。
「深窓の令嬢、やめてくんない?」
椅子に浅く腰掛け、組んだ足に片肘を乗せて頬杖をつく。
お行儀が悪い。
「三根ちゃん、あまねは別に自分で」
「宇代木さんは黙って」
宇代木が空気を読み損ねた。
たははーと空元気で笑う。
「三根さん、わたしは自分のことを深窓の令嬢だと言ったことは、一度だってないわ」
「うん、知ってる」
「だったら」
「だから、そういうの含めて、全部やめてよ。別にいいところのお嬢様でもないじゃない。むしろ、その逆だったり? 清楚系って息つまるでしょ?」
なんとなく佐羅谷を育ちの良いお嬢様だと勘違いしている生徒は多そうだ。山崎など神格化しすぎて、まともに話しかけることさえできない。
佐羅谷は気高くあろうと志し、一挙手一投足まで魂がこもっている。知識も教養も深く、実践や経験が足りないことを除けば、高校生のレベルを超越した女子だ。
クラスにも同学年にも宇代木以外の友達はいなさそうだ。近づきがたい雰囲気を醸し出しているのは想像がつく。
だが、十津川の実家を見る限り、佐羅谷の家族は普通だ。本人は家族構成を「簡単ではない」と言ったが。
「わたしは十津川出身のなんの変哲もない一介の女子高生よ。だから、身に覚えのないことを止めることはしないわ」
「なんだっけ、『誰も好きになる気はない』だったっけ? 普通の女子高生が聞いて呆れるよ。「好きな人がいない」ならあり得るけど、「好きになる気がない」はあり得ない」
「人の考え方に口を出すのはどうかと思う」
佐羅谷の語気が鋭い。
珍しく怒っている。
空になったビーカーを握る手が怖い。あのまま握り潰しやしないか。ミコマココンビがそっと距離を取っている。
「佐羅谷さんがふわふわしてるからさ、こっちが迷惑してんの。わかんない? 周りからはさ、気を持たせて男を囲って、女王様気取りでさぞいい気分だって思われてんの」
「そんなつもりは」
「あんたのつもりは関係ない。現にそうなってるって言ってんの。普通に「好きな人がいる」とか「嫌い」とか簡単にフってやれって言ってんの」
三根が立ち上がる。
「人の恋心を弄んでないで、さっさと解放しろって言ってんの。私の大切な人、返してよ」
そうか、三根が喧嘩腰できた理由がわかった。
玉木くがねに一目惚れした三根からしたら、転校そうそう佐羅谷あまねに執着する様子は苛立たしいだろう。深窓の令嬢がいなければ、玉木と三根はうまくいっていた可能性もあったのだ。
「とんでもない言いがかりね。自分がフラれたから、腹いせでわたしを脅しているようにしか聞こえないわ」
「フラれてない! ただあんたの下だってのが嫌なんだ! なんであんたばっかり!」
「なるほど。いいわ、こんなの話し合いでどうにかなる問題じゃないでしょう。喧嘩しにきてる相手には喧嘩するしかないわね」
「そうさ、喧嘩しようぜ。上流階級気取りのお嬢様!」
三根が手招きすると、佐羅谷はビーカーを置いて素手で前に出ようとする。
「待て待て待て、喧嘩はダメだ!」
「そだよー! 二人とも落ち着いてよー!」
俺と宇代木が二人の間に割って入る。宇代木が半泣きなので、俺はかえって冷静になれた。
三根の言うことは逆恨みで、ただの愚痴だった。佐羅谷は怒りながらも、冷徹に論破していった。わざわざ煽り返して喧嘩を買う気満々だ。
最近ジムに通っているから、腕力にも自信がある? バカな。一等小柄な佐羅谷がちょっとやそっと鍛えたところで、平均的女子の三根に押し倒されたらひとたまりもない。だいたい喧嘩でボクシングを使うなんて、そこまで余裕はないだろう。佐羅谷は愚かではない。
「落ち着くのはあなたたちよ。女の喧嘩が不恰好な殴り合いになるわけがないでしょう。三根さん、隣の教室に行きましょう。暴力以上の力でへし折ってあげるわ」
「あっそ。逃げないんなら、なんだっていいよ」
理解し合ったライバルのように、佐羅谷と三根は間隔を空けて理科実験室を出ようとする。
「待てって。さすがに当事者二人っきりにさせるかよ」
「輔は公平じゃないからダメ」
「そうね、九頭川くんは直感で正しく動くから。だったら、槻屋さん、生徒会長として同行してくれるかしら? 三根さんも、彼女なら良いでしょう?」
「信用できんの」
「わたしよりは」
「はは、佐羅谷さんも冗談言うんだ」
三根を先頭に佐羅谷が部屋を出る。少し遅れて、ミコトがこちらを何度も振り返りながら出ていく。
残った俺たちは動けなかった。
喧嘩がなんなのか、さっぱりわからない。原因も問題も、三根の怒りの出どころが不明だ。
どうやら、佐羅谷が原因で、佐羅谷には思うところがあった。だから、佐羅谷は三根に応じた。
と言ったところか?
「待つしか、ないよねー」
宇代木が力なくつぶやいた。
マラソン大会が終わって弛緩した空気も、修学旅行が近い高揚感も、俺たちには感じることができなかった。
「三根さんから個人的に恋愛相談を受けることにしたわ」
佐羅谷がミコトを連れて戻ってきたのは、帰宅時刻ぎりぎりだった。三根はいなかった。
深窓の令嬢の厚い面をした佐羅谷と、緊張に強張ったミコトの表情が対称的だった。
「じゃあ、帰りがてら、俺と宇代木にどういう相談だったか話してくれ」
「ごめんなさい、それは無理」
「は? 三根が佐羅谷個人にお願いしたってことかよ?」
「それも含めて、なにも言えないわ。天もよ、今回のことは、忘れてちょうだい」
「おっけー。あまねに任せるよー。いま任せてるのも含めてねー」
先ほどまで船を漕いでいた宇代木はスマホを鏡がわりにしながら、メイクや髪型を直す。
「納得いかない」
「あなたの納得は必要ない。恋愛相談は、もともと誰に相談したいか、全部相手に選択権があるのよ。三根さんの相談は、わたしのものよ」
佐羅谷は帰り支度を始める。
まともに顔を合わせない。
深窓の令嬢を演じるときの取り繕った対応だ。俺が知りたいのは、佐羅谷あまねの受け取った依頼だ。
考えろ。
佐羅谷が受けた依頼はどんなものなのか。どうすれば知ることができるのか。佐羅谷を害することはないのか。
そうか、ここにもう一人、客観的に話を聞いていた人間がいるじゃないか。
さっきから無言でいるミコト。
鞄を背負ったところで俺と視線が合う。怯えたように身じろぎする。
「くーやん、ダメだよー」
宇代木はミコトに突撃しかけた俺の腕をひょいと絡める。
すぐにマコトが俺とミコトの動線の間に割り込んだ。かわいらしさの権化のはずのマコトが、一瞬凶暴な虎に見えた。
無理だな。
マコトがいる限り、ミコトから強制的に聞き出すのは不可能だ。
「九頭川くん、あなただって勝手に依頼を受けて、裏で活動してるでしょう? 見て見ぬふりをしてあげてるのよ。隠し事があることを隠していないだけ、ありがたいと思いなさい」
ああ、俺の考えはお見通しだ。
佐羅谷に隠し事が通じるわけがない。
ダメだ、この場にいる限り、俺は佐羅谷にこれ以上近づけない。
俺はもっと名を上げなければならない。もう遠慮はしない。
佐羅谷も宇代木も気兼ねなく実力を発揮できるようになり、同好会は間もなく部活に昇格する。そのときに俺も二人に並び立つ存在感を見せつけよう。
裏でコソコソ佐羅谷にかまうのは止めだ止めだ。
俺は他のメンバーを待たずに理科実験室を飛び出す。
「悪い、今日は先帰る」
今の俺にできることは、特定の男が佐羅谷の隣を占めないように画策すること。
俺が佐羅谷の隣にいても、不自然に思われないようにすること。
谷垣内のトップアスリート級の運動神経も、田ノ瀬のクリエイティブな芸能的魅力も、玉木の全方位的秀才かつ隠れた経済力も、俺にはない。
勝てない勝負に、できない理由を探すのはやめだ。
一年の終わりに玉砕がわかっていても二度告白したときの気持ちを思い出せ。
那知合にフラれるのは確定事項だった。どうして俺は、告白を決行できたのだ? 食い下がって二度も?
そうだ。
あれは、那知合や谷垣内から煙たがられ、拒絶されることを願ってのことだった。
だから、告白に踏み切れたのだ。
(ならば、どうして?)
どうして俺は今、こんなに佐羅谷との距離を詰められないでいるんだ?
まもなく知り合ってから一年経つ。時期的にも、告白を決意してよいはずだ。
俺は臆病だ。
ベッドで丸まって、右手で自分を慰めて佐羅谷の名を呼ぶしかできないくらい、臆病だ。
「佐羅谷……ッ」
熱い息が布団の中にこもる。
俺は臆病になってしまった。
(この関係を失いたくないから)
そうか、わかった。
道は、一つしかないのだ。
人間関係は待っていては形成されない。
自分から作り続ける限り、道は途絶えない。
俺は暗い布団の中で光明を見出した。丸めたティッシュをつまんで這い出し、勉強机の上のスマホを開く。手に入れたばかりの連絡先に、メッセージを送る。
「あと、自分で移動する足が要る」
ジモティで手頃なバイクを探す。ちょうど良さそうな中古車が出ている。値段もなんとかなりそうだ。親父に頼んで、交渉やら手続きをお願いしよう。
やるべきこと、やりたいことが整理できた俺は賢者のように、すべてを食って計算し尽くして、未来を読む。
ピースを整えて、俺の未来にピースを。
左手の握りが強くなって、ティッシュの濡れた感触が手のひらに伝わる。いつかは、こいつにも受け皿を。
洗面所の鏡に向かい、ワックスを手に取る。
俺は今日から本気で行く。
修学旅行と黒板に文字が並ぶ。
「じゃあ、今日の放課後までに五人で一つの班を作ること。男女混合でもいいが、ホテルの部屋は別々だぞ〜。班長になった者が、報告に来るように」
朝のホームルームで担任が言ったことばに、クラスが沸き立つ。
修学旅行、この甘美なる響き。
一月末から二月の頭、二泊三日。
クラスの中でもそれぞれ馴染みができて、仲良しグループも自然に分かれる中、一年の終わりを締めくくるには最高のイベントだ。
まあ俺には碌な友達がいないが。
「九頭川、奄美大島だぞ! 楽しみだのう! 初めて聞いたが!」
山崎がのっしのっしと一時間目の休み時間に寄ってきた。珍しい。
「あれ……? 九頭川……さん?」
「なんでさん付けなんだよ」
「ききき、貴様! なんだそのチャラい髪型は! 髪の毛を上げるとイケメンなんて、今どきラノベでも禁じ手ぞ!」
「悪いな。今日は別アカなんだ」
「べ、別アカとな……」
目立たず、教室の隅でカースト底辺を楽しんでいた俺は、昨日でおしまいだ。目的はカーストでも知名度でもない。自分を上げるのは目的ではなく手段だ。
こうやって山崎が騒いで、教室でも俺の変化が暗に話題になるのはありがたい。
「俺のことは別にいい。それより修学旅行だろ。奄美大島だかどこだか知らないが、京都や広島よりはいいな。関空で現地集合現地解散ってのは面倒だけど」
「そうだなあ! 奈良交通のリムジンバスが高田から出てなかったかのう!」
「あったかもなー」
やたら絡んでくる。
俺は休み時間は本を読みたいんだが、山崎にしては空気を読まずに離れようとしない。
「ときに、九頭川よ。五人組の班を作るという話だが」
「あ、神山、よかったらおまえの班に入れてくれね? 邪魔にならないようにするから」
たまたま横を通り過ぎようとしていた小柄な美少年に声をかける。俺がクラスで気安く声をかけられる数少ない友達だ。
「よかった、ぼくも九頭川くんに声をかけようと思っていたところだよ。その髪型、久しぶりだけど、やっぱりかっこいいね」
「神山に言われると嬉しいぜ」
「我と対応違くない?」
「よーし、これで修学旅行も安泰だな」
「九頭川氏!?」
隣でガタイのいい男の嘆きが聞こえるが、無視する。
「さて、神山、他は誰を誘う予定だったんだ?」
「あー、ぼくは……」
ちらちらと山崎を見ているが、俺には何も見えない。
「おい、九頭川。俺も混ぜろよ」
神山の横に現れた玉木が、馴れ馴れしく肩をはたく。理知的な眼鏡の奥で器用にウインクする。
教室の喧騒が一瞬やんだ。
「あー、やっぱり玉木くんは……」
「誘えないよねー、仕方ないかー」
教室の方々から諦めの声が届く。
三学期から突如クラスの仲間入りをした玉木は、クールで知的な外見とマラソン大会でトップに喰いこむ運動神経、帰国子女で成績もよく、思い切った行動力で一躍時の人だ。
クラスの女子はもとより、休み時間には他のクラスからも覗きに来る。男子でも運動部の連中は勧誘や様子見をしている。
深窓の令嬢狙いを表明していても、クラスの違う佐羅谷と同じ班にはなれないのだ。クラスメイトなら、ぜひ同じ班になって近づきたいと思う者もいるだろう。
俺以外は。
「玉木、おまえは選ばれる人間だろうが。黙って最後の一人になるまで待ってろ」
「俺は選ぶのが好きなんだ。俺はおまえがいい、九頭川」
「気持ち悪いんだよ、いちいちわざとらしい!」
肩にかかる手を払う。
どこかの女子が喜びそうな危うい言葉遣いはやめろ。
どうせ玉木のことだ。マラソン大会で俺がささやかな罠にはめたことを根に持って、やり返す隙を狙っているのだろう。
「神山、俺も混ぜてくれるな?」
「うん、ぼくも玉木くんと仲良くしてみたかったんだ! よろしくね」
スポーツマン同士惹かれるものがあるのか、神山は玉木を純粋に高く評しているようだ。
「じゃあ、あと二人か」
俺は視界の一部以外を見やる。
「く、九頭川? ここに、友が、おるぞ?」
「できたら男子がいいよな」
呟いたとき、ちょうど目の前にまっすぐな黒髪をなびかせて、沖ノ口が立っていた。
椅子に座る俺を正面から見下ろす。
「たすく、わたしも」
「女子は女子同士で組めよ」
沖ノ口はギャル系からおとなしい見た目に変えて、文化祭の主役として活躍してから、クラスの女子の中で上位の影響力を有している。女子同士で班を作ったほうが楽しめるだろう。
「たすくと一緒に旅行できるのはこれが最後だから」
開き直っている。
文化祭以降、まともに会話することもなかったから、俺のことは忘れたと思っていたのに。
だが、班の中に女子がいるとめんどくさいし、ホテルの部屋が違うということは、夜の一体感も失われる。修学旅行の本番は、むしろ夜だろ。
「悪いけどーー」
「いいじゃないか、九頭川。女子が勇気を振り絞ってるんだぞ。受けろよ」
「玉木、おまえ事情も知らないくせに」
「沖ノ口、よろしくな」
「ん」
玉木と沖ノ口は固く握手した。
俺の意見は通らない。
「ちっ、わかったよ。じゃああと一人な。さて、都合よく余ってるやつがいるかなあ」
教室では他でも班作りが進んでいて、ほぼ固まっている。あぶれる者、あぶれる者……。
「なあ! 九頭川! ここに! 相棒が!」
いないな。
みんなさっさと班を確定していく。
「ねえ、九頭川くん。さすがに」
神山が憐憫の視線を山崎に向けている。
山崎は胸を押さえながら震えて、今にも崩れ落ちそうだ。
「はあ、まったく、山崎、俺がおまえを仲間はずれにするわけがねえだろうが」
「九頭川! 好き!」
「うぜえ! 抱きついてくんな、暑苦しい!」
「やっぱり持つべきものは我が友だな!」
「今月の友達代もらってないんだけど」
「ええぇ……葛城の『麺のようじ』でいいでしょうか」
「冗談に決まってるだろ」
俺、神山、玉木、沖ノ口、山崎。
一時間目の休みに早くも班が組めた。
修学旅行か。
まだどんなところを回れるか詳細は聞いていないが、そこそこ楽しめそうな気がしてきた。
昼休み、修学旅行の班員でまとまってご飯を食べる。もっとも、俺と山崎はいつも二人なので、そこに残りが加わるだけだ。
ふといつもの窓の外を覗くと、尖塔には一人で弁当を広げる佐羅谷が見えた。
「深窓の令嬢が気になるか、九頭川」
「別に」
「ふん。ところで、なぜ班のメンバーを集めたんだ? 俺は昼の約束があったんだが」
「班長決めだ。誰を班長にするかーー」
「そんなの、たすくに決まってるじゃない」
沖ノ口が話を遮った。
小さな弁当箱にゆっくりと丁寧に箸をつけている。
「俺が班長か。できたら玉木にやってもらいたいが」
「誰かに誘われたなら俺がするが、今回は俺から九頭川門下に下ったからな。考えてもみろ、ここのメンバーはみんなおまえに同じ班になろうと声をかけたんだ。誰が中心かは考えるまでもない」
「僕もそう思うよ、九頭川くんが班長をしてほしい」
今までの俺なら、班長なんて面倒で旨味もなく、本気で拒絶しただろう。最終的にやるかどうかは別として。
だが、これからの俺は一味違う。表面上は仕方なくやる風を装っても、自分の存在価値を上げるためなら班長でもやってみせよう。
それに、班長の立場があるほうが、玉木を監視下に置ける。高校生である以上、班長としての合理的な命令は拒否できない。この権限は大きい。
「わかった。俺が班長をするのが一番まとまりそうだ。確かにみんなから俺に声をかけてきてくれたしな」
「我は親友だから九頭川と同格なのでは!」
「今からでも班のメンバーを変えれるかな?」
「ごめんなさい嘘です班長の言うことなんでも聞きます見捨てないでください」
というわけで、昼食後に俺は職員室に班員と班長の報告をした。
教室に戻りがてら廊下から尖塔を見ると、佐羅谷が一人で文庫を開いていた。佐羅谷は自分から人と関わりに行くような性格ではないし、キャラクターでもない。嫌われてはいないが、孤立している。無事に班が組めたのだろうか。
佐羅谷にとっても、修学旅行が良い思い出になることを願いたい。
できたら、二日目の自由行動を同じルートで回りたいものだ。
修学旅行は、奄美大島で二泊三日。
一日目は全体で決まった場所を回る。
二日目は班ごとに自由行動だ。
自由行動とは言っても、学校の用意したいくつかのプランの中から、好きなものを選ぶだけだ。
「班長は相談して、行きたい場所を決めておくこと! 締め切りは今週末までだ!」
担任の先生がそう言ってホームルームを締めた。
(行く場所か)
班員全員が好きな場所を決めて、明日まとめたらいいか。俺は全員にメッセージを飛ばしておいた。
部活の理科実験室への道を、修学旅行二日目コースの概要が書いてあるプリントを眺めながら歩く。
「大島紬体験、カヌー体験、ダイビング体験、バギーツアー、カケロマ島……か」
どれもそれなりに楽しそうだ。
説明文に目を凝らしていて、注意が散漫になっていた。
「よう、九頭川」
「玉木」
足音に気づかなかった。
迂闊だった。
二人きりでこいつに会うのはまずい。
「なんだ? 修学旅行二日目のコース選択は、明日聞くぜ?」
「恋愛相談は続いてるぞ」
後ろからきた玉木は、俺を追い抜いて身を翻す。
中央に仁王立ち。
「俺が選ぶコースは決まってる。佐羅谷あまねと同じだ。頼んだぜ?」
「そんなの、佐羅谷に聞けよ」
「あの女が俺に素直に答えるかどうかわからない。仮にコースがわかったとして、それで班員を説得するところまでがおまえの役目だろ、俺のツイッツイーツの招待券を無為にしたんだ。頼むぜ、恋愛研究会の「白」一点」
「紅一点の反対のつもりか知らねえけど、紅の反対は白じゃねえよ」
玉木は口の端を歪め、俺の肩をぽんぽんと叩く。
「マラソン大会の件、根に持ってんのか?」
「いいや? 俺の言ったことを忠実に守って、あんなにうまくはぐらかしてくるとは思わなかったぞ。むしろ爽快だった。あそこで俺がごねたら、俺は器の小さい奴に見える。燃えるね、むしろ燃える」
「玉木、どうして俺を通す? おまえなら、自分で佐羅谷にアプローチできるだろ。なんで一枚挟むんだ」
玉木は、高校では公表していないし笠に着る気もないようだが、いま上り調子のカップル限定スイーツ店「ツイッツイーツ」の創業者社長だ。
その立場や経済力を使えば、佐羅谷をものにするのもたやすいはずだ。
「スポーツやゲームはルールに則るから面白いんだぞ。俺はかつらぎ高校の生徒だ。この学校のルールで手に入れないと、ライバルは納得しないだろ? 俺なりの矜持だ」
「矜持か」
「安心したか?」
「ライバルたちは安心するだろうな」
「今回、佐羅谷あまねと違うコースになってしまったら、俺もついうっかり本気を出してしまうかもしれないぜ」
玉木の瞳が細いメガネの奥で燃える。
同じ班にしたのはまずかった。この男を監視下に置けるわけがないのだ。
しかも、佐羅谷は選ぶコースを俺に教えてくれるとは限らない。さらに言うと、佐羅谷の望みと佐羅谷が属すであろう班の選択が同じ保証もない。むしろ、佐羅谷は主張せず成るに任せる気がする。
すると余計にコースを定めにくい。
「じゃあ、頼んだ」
玉木は手を振りながら消えた。
絶対に佐羅谷の選ぶコースを特定しなければならない。
玉木は本気だ。
俺が故意にしろ過失にしろコース選択を間違ったら、二度と俺に話を通さなくなる。それ以前に佐羅谷を手に入れるために、全力で来る。
そうなれば、話は終わりだ。
俺は、嫌だ。
もう少し、あと少しでいい。
俺の物語が欲しい。
部室に一年二人はいなかった。どうやら一年だけで特別講習があるらしい。最近はミコトがいないと、すわ生徒会案件か? と身構えて、何も聞かされていない自分が忘れられているような錯覚に陥る。
「ちゃーおー、くーやん、二日目どこ行くー?」
入るなり宇代木は俺の隣に腰を下ろした。席まで移動するのは珍しい。
妙に身を寄せてくるのを、のけぞって躱す。短いスカートから組んだ足が目に毒で、寄せる膝が触れそうで、いやが上にも意識してしまう。
宇代木の目は頻繁に俺の髪型に注がれていた。柄にもなく整えてきたのが気になるか。
「なんだ、二日目? ああ、修学旅行か? まだ決まってねえよ」
「九頭川くんのことだもの、班の話し合いにも呼ばれないんじゃない? せっかくおめかししたのに、かえって誰だかわからなくなっちゃったわね」
「失敬な。佐羅谷こそ、班決めのときぼっちで誰からも声をかけられないんじゃないか」
「見くびらないで。わたしは請われる側の人間よ」
胸に手を当て、ふふんと得意げに笑う。こんな佐羅谷は久しぶりだ。
「宇代木も班は決まってるのか?」
「とーぜん! 他は全員男子なんだけどー」
「おいおい、大丈夫かよ?」
「天もわたしも、こういうときはすぐに男子が寄ってくるのよ」
「へー」
これが佐羅谷や宇代木の格というものか。
普段の教室や学校で彼女らに近づくのは気後れする男子も、同じ班員としてなら合法的に会話できるし、距離を詰めることもできる。
男子が囲いたくなる気持ちもわかる。
「他のメンバーはどんなやつなんだ?」
「あなたの知らない人よ」
「んーとね、……」
佐羅谷は語らず、宇代木は教えてくれたが顔もわからない連中だった。二年生唯一の男子のダンス部員と他の部で親しいやつららしい。
「まあ、修学旅行でちょっと気も大きくなるし、箍が外れることもあるかもしれないから、気をつけてな」
宇代木の話はここで終わらせる。
ここからうまく誘導して、二日目はどこを狙っているか、さりげなく聞き出すしかない。
直截に問い詰めるのは無駄だ。
幸い今日は時間があるし、二人とも機嫌が良い。
「それにしても、どうして沖縄じゃなくて奄美大島なんだろうな? あとちょっとの距離を節約かよって思うよな」
「どうだろ、逆に奄美大島のほうが飛行機代も高いんじゃないー?」
「沖縄本島なら、いつでも行けるわ。むしろ珍しい島のほうがいいじゃない」
「そっかー、そーいう考えもあるねぇ!」
確かに、沖縄はともかく奄美大島なんて自分で行こうと思わないだろう。修学旅行で行くのは面白いかもしれない。
佐羅谷が入れてくれたコーヒーが卓に並ぶ。
「どうして、三人、別々のクラスなのかしら」
佐羅谷が切実なため息を吐いた。
俺と宇代木が呆けた顔で見返す。
「あまねが珍しいこと言ってるー」
「悩みがあったら、話聞くぞ?」
「なによ、二人してバカにして。どうせ行くなら、あなたたちと一緒のほうが楽しいと思ったのよ」
だが班員は五人だから、俺たちだけとはいかなかっただろう。
「三人きりというのは無理でも、二日目に一緒に回るのは可能だぜ」
「そーだねー! やっぱり二日目の選択はみんな一緒にしよーよ!」
流れは乗っている。
宇代木は元々乗り気だし、佐羅谷も本心では一緒に回りたがっている。希望が見えてきた。
幸い、俺は自分の班で意見を通せる立場にいるし、宇代木もオタサーの姫状態だから意見が通るだろう。
問題は佐羅谷だ。
どんな立場で班にいるのか。
「残念だけど、わたしは班で発言権はないわ。合わせるなら、あなたたち二人で合わせて」
「そんなあ」
「人気のあるコースを選ぶっていうのは? それなら、班員にも受け入れられやすいだろ」
「確か人数制限があったはずよ。すべての班が希望するところへ行けるわけじゃないわ」
プリントの片隅の注意書きに、コースごとに班の数に制限有り、と見える。
俺は改めて、選択コースを吟味する。
「だから、わたしは気にしないで。運が良ければ、会いましょう」
「むー、絶対だよ!?」
佐羅谷と宇代木は漫然とコースを選び、運に任せるつもりだ。
しかし、俺には一縷の望みが見えた。
この筋は光明。
「いや、待て。選ぶなら、カケロマ島だ」
五つの選択の中から、抽選にならずに行けるのは、カケロマ島だけだ。
「くーやん、どーいうことなのさ」
俺はプリントにある大島紬体験、カヌー体験、ダイビング体験、バギーツアー、カケロマ島の項目を指差す。
「この中で、ダイビング・カヌー・バギーは必ず抽選になる。大人気間違いなしだ。残る大島紬とカケロマ島だが、このうちカケロマ島には小さな文字で、早朝出発で何時間も歩くと注意書きがある。
つまり、修学旅行を楽しみたい奴らはアクティビティ三種に殺到し、静かにやり過ごしたい奴らは大島紬を選択する。体験といいつつ、ほぼ博物館巡りだからな。一番楽だ。
必然的に残りは、カケロマ島だ。
戦争の遺構に思いを馳せると重苦しい文言があるうえに、朝から夕方まで歩かされる。これは、きっと選ばない班が一番多い」
「そっかー、一番選ばれないから、早い者勝ちで選んでおけるってことか〜」
こういう早い者勝ちで決まる選択は、みんなが一番好まないもので、自分が受け入れられるものを選ぶのが、実利を取るコツだ。
一番いいものは激戦になるから、あえて見逃す。その代わり、一番悪い結果もあらかじめ避けることができる。
今回は別に悪い結果も何もないが、「自分たちの選択を合わせる」ために一番選ばれないものを先に占めるという戦法である。
頭を上げると、呆れた表情の佐羅谷と目が合った。
「なんだよ」
「ほんとう、あなた、こずるい手練手管はすぐさま思いつくのね」
「処世術に長けてると言ってくれ。これが将来、PTAの役員を回避したり、会社の歓迎会の幹事を回避したりする役に立つんだよ」
「くーやん……」
「経験もないわりに、生々しいわね」
「俺は常にリアリティのある未来を想像してるからな。ま、二人とも、カケロマ島でよろしく」
「おっけー」
「意見は伝えるわ」
宇代木は満面の笑み。
佐羅谷は上辺の笑み。
宇代木はオタサーの姫状態だから、班の男を言いくるめるのは余裕だろう。カケロマ島であろうと何であろうと、面白おかしくプレゼンして、導くに違いない。
佐羅谷はどこか力なく、班員を説得しようという気概がない。男ばかりの班なら、佐羅谷の意見は通りそうなのに。やはりぼっちだから人数合わせで仲間に入れてもらえただけなのだろうか。佐羅谷からは聞くなという雰囲気が漂う。
「なあ、佐羅谷ーー」
俺が助言を出しあぐねていると、部室の扉が開いた。相談者の扉だ。
「お邪魔しまーす」
佐羅谷は唇に人差し指を当てて、静かにとささやく。
恋愛相談が始まる。
俺たちの時間は、終わった。
机に修学旅行の栞を広げ、横にスマホでYouTubeを流し見しながら、考える。
恋愛相談(二人続けて来た)は、どちらも同じ内容だった。修学旅行で別のクラスの誰それが、選択コースのどこへ行くか知りたい、という話だった。
どちらも宇代木の「あ、じゃーあたし直接聞いてみるね〜」からの電話で解決した。宇代木の人脈と人望の厚さを改めて見せつけられた。
(電話だな)
直接聞くのが一番早い。
何がって?
佐羅谷の班のメンバーが誰で、どう説得したら選択コースをほしいままにできるか。
幸い佐羅谷は二年五組。谷垣内と那知合と同じクラスだ。俺が連絡先を知る二人がいる。
どちらも話しにくい。
だが、佐羅谷の所属を聞くだけだ。
どちらにかける?
(……谷垣内だな)
こういうときは、一番強いやつから当たるのが正しい。ともすれば他の誰かから又聞きしようと逃げに走る自分の弱さを放逐する。
俺はスマホの動画再生を止め、連絡先から谷垣内の画面を出す。
目を閉じて、通話のボタンを押した。
『おう、久しぶりだな、輔』
「突然、悪いな」
『ちょうど花奏の電話も終わったところだ』
いいタイミングだった。
電話中ならともかく、那知合との時間を邪魔したら、谷垣内の機嫌が悪くなっていた。
「マラソン大会、よかっただろ。ツイッツイーツは楽しめたか?」
『ああ、それは……つーかよ、おまえ騙しやがったな! あの転校生、花奏狙いじゃねえだろ!』
「ははは、珍しく危機感、感じただろ? 細胞が熱くなったんじゃねえの」
『なったわー、細胞燃えまくったわ。ああ、そうだな、あの転校生、いいな。神経質で頭良さそうなのに、俺と陸上部の先輩に最後まで喰らいついて来たからな。体力も根性もある。輔とおんなじクラスだってな? いいな、あいつ。欲しい』
欲しい。
谷垣内が欲した。
玉木の潜在能力を谷垣内が一度の攻防で見抜いた。
ちくりと胸が痛む。
谷垣内は、こう見えて去る者は追わず、来る者は拒まずというところがある。谷垣内の周りの男連中もときどき入れ替わっていたし、入るときに歓迎することも、離れるときに引き留めることもなかった。
谷垣内に認められるのは、求められるのは、名誉だ。俺には、ついぞ望むべくもないことだ。
俺は谷垣内にとって、ただそこにいる同級生に過ぎなかったのだろうな。
『で、なんだ?』
「いや、一度の戦いで谷垣内の心をつかんだ転校生に嫉妬しただけだ」
『おまえはほんとに厭味な野郎だ! 佐羅谷あたりに自分の評価させてみろ』
「佐羅谷に評価させたら、って違う、俺の通知表はどうでもいい。聞きたいのは佐羅谷のことだ」
『あ? バカかおまえは。佐羅谷のことならおまえのほうが詳しいだろ』
「修学旅行で佐羅谷が誰と同じ班なのか教えてほしい」
電話の向こうで谷垣内が息を飲んだ。
なかなか返事が来ない。
わざわざ谷垣内に尋ねるーーこれは、俺が佐羅谷から教えてもらえなかったという事実を暗に示している。谷垣内なら、この事実に気づく。
『こじれてんなあ』
谷垣内は呆れているようだった。
わざとらしい咳払いが聞こえた。
『いいか、輔。佐羅谷は俺の班だ』
それから何を話したのかよく覚えていない。
なぜ? なぜ谷垣内が佐羅谷を囲う? いや、佐羅谷は男には特に人気だから、班員が男中心でも驚かないが、谷垣内は今さら佐羅谷を求めないだろう? ましてや同じクラスに彼女である那知合までいるのに、同じ班に自分を脅かすレベルの同性を入れるのを許可するか? するか、するかもしれない。那知合はそういうところ、気に入ったら近くに置きたがるところがある。
落ち着け、大丈夫だ、問題ない。
谷垣内が佐羅谷をどうかする可能性はない。むしろ、谷垣内や那知合のそばにいるほうが安全と言える。
納得に時間がかかったが、何とか話を切り上げて電話を切った。どさくさに紛れて、「俺も班のメンバーに例の転校生がいるぞ」と言った気がするが、どうでもよい。
長々と電話をして熱くなったスマホを投げ出す。
(整理しよう)
佐羅谷は谷垣内・那知合の班にいる。他のメンバーは名も聞いたことがないが、男子二人。佐羅谷の性格から言って、自らこの班に参加表明するとは思えない。きっと、那知合がぼっちでいる佐羅谷を無理やり仲間に入れたのだろう。
佐羅谷が自分には発言権がないと言っているのも納得だ。この班では、ほぼ谷垣内の意見しか通らないだろう。
唯一、意見できるのは、那知合だけだ。
(結局、説得するには那知合を抱き込むしかないのか)
どうすれば那知合を説得できる?
考えろ、那知合の好み、傾向、乗せ方。
スマホの連絡先を開き、必死に頭を回す。俺には舌先三寸で来るべき未来をほんの少しずらすしか、そんなことしかできないのだ。
さあ、今宵もまたブラフの世界へ!
決死の思いで那知合の通話アイコンをタップする。即時に通話に出るハスキーで甘い声。
『やっほー、たっすん』
「ああ、那知合か、こんな夜に悪いな」
翌朝、事前に玉木に連絡して、中庭に呼び出した。
俺の班の選択コースは決まっているが、万一他のメンバーがごねたら手間だ。特に沖ノ口。
だから、事前に玉木だけは説明しておきたかった。
「なるほど、佐羅谷はカケロマ島を選ぶと」
「ああ。だから、俺たちもカケロマ島を選ぶぞ。もし反対するメンバーがいたら、説得を手伝ってもらう」
「確証は?」
「え?」
「確かに、希望者が少ないコースを先に選んで抽選を回避するのはいい案だぜ。だが、佐羅谷の班がこのコースを選ぶ根拠は?」
「佐羅谷は班で権限がない。俺はあいつの班員を一応説得した。確証も根拠も絶対はねえよ」
「なるほど、十分だな」
玉木は口の端で笑った。
「だったら、俺はダイビングコースを推す」
「はあ? おまえ何言ってんだ!?」
「俺は佐羅谷と同じ班にしろと言った。自分が一番興味あるコースを選ばないとは言ってない」
「何を言ってやがる!」
己の声が自然と大きく吼える。
「今さらコースを変えられるかよ! だいたい、ダイビングは人気コースになる。選んだところで一緒になれる確率は下がる」
「それをどうにかするのが仕事だろ、恋愛研究会の九頭川くん?」
「玉木、おまえ」
そうか。
玉木はわざと佐羅谷と別のコースになろうとしているんだ。
今わかった。
玉木にとっては修学旅行のコースで交友を深めるなんて、どうでもよかったのだ。
玉木が望んでいるのは、俺の失敗。
「もし、佐羅谷と同じコースになれなかったら」
「それは恋愛相談の失敗だな。恋愛研究会が役に立たないのなら、俺は自分のやり方で欲しいものを手に入れることになる」
玉木はあくまでもこの学校のルールの範囲で、高校生らしく恋愛を成就させようとしていた。「俺が恋愛研究会として玉木の役に立っている限り」は。
しかし、前回のマラソン大会で、俺は詐欺ぎりぎりの方法で玉木を煙に巻いた。
どうやら、相当怒り心頭だったらしい。
玉木は俺に協力する気もなく、その上で玉木の希望を叶えなければならない。
「楽しみだな、九頭川。佐羅谷の水着姿なんて、見たことないだろう?」
「この時期は、奄美大島でもウエットスーツだろ」
「なおさら楽しみだ」
玉木は俺に背を向ける。
学校のプールさえほとんど休む佐羅谷が、修学旅行で海に入るとは思えない。だが、玉木はどうして俺が水着姿を見たことがないと思ったのだろう。水泳の授業を休むなんてことを、わざわざ誰かに聞いたのだろうか?
まあ、俺は部活の合宿で図らずも佐羅谷の水着姿は見ているのだが。
「玉木! なんで佐羅谷に執着するんだ!」
「……佐羅谷を救えるのは、俺だからだ」
「救うって、何があいつを」
「おまえには、関係ない。部外者は黙って俺の道を整えろよ」
玉木が中庭から消えた。
くそっ、なんだってんだ!
まるで俺の知らない佐羅谷を知ってるかのような言い草。佐羅谷を救うなんて、おこがましい。佐羅谷は一人で立てる女だ。今だって一人で道を切り開く強い女だ。宇代木と依存し合っていたときとは違う。状況はずいぶん改善した。
とにかく、ダイビングコースはダメだ。抽選に漏れる可能性が高いし、那知合を説得した意味がなくなる。
「玉木が従わなくてもいい、他の奴らを説得したらいい!」
俺は天を仰ぎ、なけなしの頭を働かせる。
遠くで、予鈴が鳴った。
「山崎! 山崎はおるか!」
「お? おお! 九頭川よ九頭川よ! 我はここにおるぞ!」
修学旅行の選択コースを決めるための時間に、俺はトイレに行ってからあえて遅れてやってくる。
教室の窓際、山崎の席周辺に他の班員が集まるのを見計らって、芝居がかったセリフを吐く。
山崎は戸惑いながらも、うまく乗ってくれる。さすやま。このノリがうざいときもあるが、助かるときもある。
「聞け、山崎よ。我らはカケロマ島を選択しようぞ!」
「ああ、何ということだ、九頭川よ! 早朝から長々と歩く、汝険しき途を取るゆえを語れ!」
ぼそっと、我は大島紬コースで深窓の令嬢と同席したいでござると輪唱する。佐羅谷は大島紬コースじゃねえよ。
「では語ろう、とくと聞け! カケロマ島に潜む悲運の話を!」
何というか、神山と沖ノ口の呆れた視線と、玉木の様子見のほくそ笑みが痛い。俺が痛々しいのは重々承知だ。
「時は江戸時代中期、日本本土は戦も終わり天下泰平を謳歌するも、九州は薩摩藩、島津氏は虎視眈々と幕府に抗う気概を忘れてはいなかった!」
「さすが維新の盟主!」
「力を蓄えるために島津氏は、南西諸島に手を伸ばす! 武力を背景に重税を課す島津氏、重税か死か、究極の選択が奄美大島に迫る!」
「タックス・オア・ダイ!」
「奄美の豪族の代表が集まり紛糾する会議。武力で敵わぬと恭順に傾く意見に最後までまつろわぬ気高き武将が一人、彼の名を奄美加計麻呂!」
「KAKEMARO!」
「奄美大島南部を治める猛将、奄美加計麻呂! 彼は最後まで薩摩に抗戦を主張する。このままでは奄美は滅びる、そう危惧した代表たちは、加計麻呂を騙して酒席で殺害してしまう!」
「哀れ、加計麻呂! 戦わずして死す!」
「刎ねられた首、無念に濁る加計麻呂の瞳が光を失うとき、奄美大島が大きく揺らぐ! なんだなんだと慌てる代表、そこに飛び入る伝令、まさか信じ難きことに、島の南部に地割れが起き、海が流れ込んだ、と興奮して叫ぶ!」
「加計麻呂の怒りは大地をも動かした!」
「海で割れた土地はかつての加計麻呂の領地だった。代表たちは祟りを恐れ、その島を加計麻呂島と呼び、奄美のために最後まで戦おうとした勇猛なる武将の慰めとした。これが、のちのカケロマ島となる」
「奄美加計麻呂の想いは永遠に!」
俺の不器用な語りに、山崎のハイテンションな相の手がはまる。
一息ついてうつむく俺の肩を、山崎がぽんと叩く。
「九頭川、面白いじゃないか。カケロマ島、ぜひ行きたくなったぞ! 俄然興味が湧いた!」
「そうか、それはよかった。神山と沖ノ口は?」
「九頭川くんがそう言うなら」
「たすくに任せるわ。どこでもいいもの」
これで多数決は取った。
最後に玉木を見る。
「みんなが行きたいのなら、俺も従うぞ。カケロマ島、興味がないわけじゃない」
「よし、では、決定だな。俺たちの班は、カケロマ島を選択コースとする!」
俺は希望調査用紙の行き先に丸をつけ、そのまま職員室に提出しに行った。
ひとまずは、俺の勝ちだ。
玉木が俺の班を選んだのが運の尽きだったな。
「という演説を山崎にぶちかましてだな、修学旅行は晴れて三人とも同じコースに行けるだろ。俺のおかげだな」
放課後の部室で、俺は得意げに鼻を伸ばす。実は夜のうちに那知合にも同じ演説を行った。
もう遠慮も謙遜もしない。
自分の成果は喧伝していくスタイル。
「へー、くーやんすごいねえ! あたしも興味出てきたやー」
「ほんと、まったくこの男は、前世はソフィストか詭弁学者か預言者ね」
佐羅谷は読んでいた古い文庫を畳んだ。ちらっと作者が見えた。島尾敏雄。
「天、あなたも騙されてはダメよ」
「ほえ?」
「カケロマ島にそんな伝説はないわ」
まあそうだろうな。
俺が地理的条件、歴史的条件からそれっぽい話を捏造しただけだ。
「え? え? くーやん、マジ?」
「ほう、宇代木さんでもわからないことがありますか〜」
「あったりまえじゃんかー! もー! 信じちゃったじゃん!」
「なまじ本物っぽい時代背景を使って、明らかな摩訶不思議を混ぜてるから、伝承としては本当のように聞こえてしまうのね」
佐羅谷は文庫の表面を撫でる。
「カケロマ島は、日本軍の基地がたくさんあった南国の島よ」
「うえー、ぼくもすっかり九頭川せんぱいに騙されるところでした! なんなんですか、顔色ひとつ変えないで嘘をつくなんて詐欺師の才能です!」
「本当に最低ですね、九頭川さん。生徒会で同じことをしたら許しませんから」
横で話を聞いていたマコトとミコトも胡乱げな視線を向ける。やめろよ、照れるじゃねえか。
だが、俺にできるのは、強制や指示ではなくて、最大可能性の最大確率に過ぎない。今までの恋愛相談や事案の解決だってそうだ。
偶然に賭けて。人の行動や心を誘導しただけ。
確実なことは何もできない。
宇代木や佐羅谷のようにことば一つで相手を説き伏せ自在に動かすことはできない。
「でもよかったよー、修学旅行、この三人で集まれそうで! あまねもカケロマだよね? よかったー。権限はないって言ってたのに、こういうときは外さないよね〜」
宇代木は嬉しそうなのに、どこか薄ら寒い。
「わたしは普通に希望を出しただけよ。同じ班の女子が強く説得したから、たまたま通っただけよ」
「ふーん。まーそういうことにしとこっか〜」
どこか刺のある宇代木と、どこか後ろめたそうな佐羅谷。何だよ、この二人、本当は同じコースに行きたくなかったのかよ。親友同士一緒にいたいってことばは嘘か?
違う。
俺が邪魔だったのか。
俺が余計だったのか。
俺はまた間違ったのか。
会話が途切れて変な空気になったところで、一年が気を遣う。
「いいなあ、せんぱいたち。ぼくも一緒に修学旅行行きたかったです!」
「九頭川さんが留年すればすべて解決ですよ」
「は、九頭川せんぱい!」
「するか! 誰が留年なんか!」
「だめだよー! くーやんはあたしたちと一緒に卒業するんだから!」
じゃれ合う馬鹿話で部室に温かさが戻る。だめだな、一年に気を使わせるようじゃ。
いよいよ修学旅行の日も近づき、最後の実力テストも浮ついた気分でさらっと終わった。
「うわー、玉木くん頭もいいんだー」
「まじか、うう、世界は不公平だ!」
授業での受け答えや日々の会話でわかっていたが、玉木の成績は群を抜いていた。帰国子女で英語ができるとかそんなレベルではない。純粋に偏差値的な意味で一周りも二周りも上の学力があるのに、わざわざかつらぎ高校へ編入した感じだ。
かつらぎ高校も一応は進学校で、転校してくるにはかなりの学力が必要だったはず。
「学校の成績がすべてじゃないが、学歴があると可能性が増えるからな。俺はもう見て見ぬふりをして、諦めたくないんだ」
高得点の解答用紙を折りながら、玉木はクラスメイトと談笑していた。
寝たふりをしながらじっと耳をそば立てていると、腕枕の隙間に強い視線を感じた。
俺が頭を上げると、視線が消える。
玉木の成績は学年上位だ。佐羅谷や宇代木に並ぶ。
安心してくれ、俺はライバルにもならない。
「よーし、明日から修学旅行だからな! 十時に関空に集合だ! 遅れると飛行機は待ってくれないからな! 忘れ物のないように、気をつけて来るように。では、解散!」
担任がホームルームを締める。
もう教室の、学年の雰囲気は南の島に飛んでいた。一月末の強く冷えてときに雪の舞う高田とは違い、奄美大島はかなり温かいという。
修学旅行は制服着用だが、冬服でブレザーの下にニットを着ていくか悩むところだ。
部活、今日はあるのだろうか。
明日から修学旅行といっても特別出発が早いわけでもない。他の学年は普通に授業がある。
だとすると、佐羅谷は部室に行くかもしれない。
理科実験室がある棟への渡り廊下を歩く。この廊下を通るのも、何度目だろう。しばしば誰かに声をかけられる思い出深い廊下だ。
未練がましくも誰もいない部室に向かうのが嫌で、廊下の真ん中で足を止める。
冬の冷たい空気が、低い太陽の熱を奪う。
「なんだ、窓が開いてるじゃねえか」
どうりで寒いわけだ。
開いた窓からノイズのように声が聞こえる。誰か、いるのか?
「だから、何度言っても無駄だぜ。俺は佐羅谷あまねを手に入れる」
「何度も言ってるじゃない。あの女は、玉木を好きにならないよ!」
痴話喧嘩、聞いたことのある声。
この渡り廊下の下はちょうど秘めやかな会話にうってつけの隠れ場があった。上に会話が筒抜けだという事実は、俺もいま初めて知った。
「佐羅谷が俺を好きにならなくてもいい。彼女を理解できるのも救済できるのも、俺だけだ。彼女を支えるのが、俺の生きる意味だ」
「重ッ。なにそれ、あんた、佐羅谷の奴隷なの? なんでさ、じゃあなんで、私の告白を受けたんだよ!」
「俺に恋人はいないし、断る理由もなかったしな」
「最低。あんた、何者なの。転校してきたのだって、佐羅谷目当てじゃないの」
「最低なのはおまえだって同じだろう。当てつけは成功したか?」
「……ッ」
一触即発だ。
玉木と三根が口論している。
途中から聞いてもよくわからない。だが、二人の関係は最初からうまくいっていないようだ。一目惚れで即日付き合うような関係で、長続きするほうが珍しいだろう。
「別に俺は別れてもいいんだぜ。高校生の恋愛はその程度のものだ」
「別れてやらない。あの女にいいように振り回されるのを、ずーっと見ててやる」
「好きでもない男にしがみつくのは、滑稽だな」
「好きでもない女に執着するあんたに言われたくない」
二人は何を揉めているのだろう。
俺には喧嘩しているだけで、恋人同士には思えない。むしろ、幼馴染や戦友といった体だ。
その後もいくらか荒いことばの応酬があって、やがて土を蹴る音がして、二人とも消えていった。
修学旅行前に無駄なカロリーを消費できるなんて、青春真っ只中だな。特に玉木。新進気鋭のスイーツ店経営者が、よくもスキャンダラスな行動を謳歌できるものだ。
とにかく、修学旅行では玉木が向こう見ずな行動をしないように注意するしかない。
「帰るか」
渡り廊下で時間を使いすぎた。今さら部室へ行っても、中途半端だ。部活があったなら、佐羅谷か宇代木から連絡も入っただろうに、俺のスマホは静かだ。
開けっぱなしだった窓に手をかける。
「なにをしているの」
「うひょ!」
突然耳元で声をかけられ、窓を閉める勢いが余って、指を挟む。
「ってえ!」
痛みが和らぐわけでもないのに、ぶんぶんとスナップを効かせて手を振る。
涙目で声の主を見返す。
「ご、ごめんなさい。そんなに驚くなんて思わなくて」
「笑うか申し訳ない顔をするか、どっちかにしてください。虚しくなります……」
「どうして丁寧語なの」
佐羅谷は上品に笑みを零しながら、どこまでも楽しそうだ。
「今日の部活は、もうおしまいよ。天は修学旅行の準備で来なかったし、一年生二人も早めに帰したわ」
「そうか」
俺が玉木と三根の痴話喧嘩を盗み見ているうちに、部活は終わってしまった。
うだうだ悩む前に、さっさと部室へ行っておけばよかった。
部活の帰りならば、佐羅谷と一緒に下校するのは自然の成り行きだが、たまたま廊下で出会った佐羅谷と一緒に帰るのは、ハードルが高い。ましてや、宇代木は先に帰ってしまった。
「どうしたの、帰らないの?」
「帰るけど、一緒には」
「なあに、女子と二人きりでいるところを見られて困るの?」
「むしろ困るのは佐羅谷だろ。深窓の令嬢が頻繁に同じ男と一緒にいる場面を見せるのはあまり……」
「部員同士が部活帰りに一緒になるのは、自然なことでしょう? 誰も気にしないわ。アルルでも寄らない限りね」
なぜにアルル限定。
自分が過敏になっているのは自覚している。ただの異性の友達と二人で帰ることなど、よくあることだ。
だが、佐羅谷は目立つ。つまらない噂で佐羅谷を煩わせたくない。
理由があればいい。
俺と佐羅谷が一緒に下校しても誰もが納得する言い訳があればいい。
「修学旅行中、「恋愛相談で動く」ことはなさそうだな」
俺の嘘。
俺は玉木から受け(させられ)た依頼があって、暗に進行中だ。恋愛相談で動かないと宣言することで、佐羅谷も警戒心が緩むだろう。
俺が佐羅谷と一緒にいられる理由は、恋愛研究会しかない。
だから、話題は一つだ。
先に歩き始めていた彼女に追いつく。
「そうね。「恋愛研究会として受けた相談」はないわ」
「修学旅行っていえば、恋愛の山場なのに、依頼がないってのは悲しいな」
「修学旅行を純粋に楽しめるから良いじゃない。一年のときの林間学校は、ほんとう慌ただしかったわ。あのときは天も不慣れだったし」
「俺、あのときどうしてたっけなあ」
修学旅行前の相談はいくつもあった。だが、修学旅行で何か行動を起こしたいから手伝いやお膳立てが欲しいという依頼はなかった。
玉木の依頼を部に漏らすわけにはいかない。佐羅谷に探りを入れたところ、やはり部としての相談はないようだ。三根の依頼があるようだが、玉木が佐羅谷狙いである以上、あの二人に進展はないだろう。
あとは玉木が無茶振りをしてこないことを願おう。女子風呂を覗くとか言ったら、さすがに手助けできない。
幸い知った顔には誰も会わず、学校を出る。自転車を押しながら、佐羅谷の隣を歩く。
恋愛研究会よりも修学旅行の話題がほとんどだった。
表通りから一本外れた神社の前を通り過ぎる。
今なら、尋ねられるだろうか。
冷たい風が吹き抜けた。
「どうしたの、急に黙りこんで。聞いてる?」
聞けない。
たった一言だ。
玉木のこと、どう思ってる?
その一文が口にできない。
喉が涸れて、声がかすれる。
だいたい、佐羅谷も宇代木も俺と沼田原先輩のことはきちんと聞いてこなかった。もちろん、ただの友達の関係だから、やましいことは何もない。
二人が何も尋ねてこないということは、俺に興味がないということだ。
興味を持っていない人間から突然自分の異性関係について尋ねられたら、きっと気持ち悪く思うだろう。
「さ、佐羅谷は、」
俺は埃が目に入ったふりをして、手で顔を覆った。
目を合わせない。
これが、俺の限界。
「玉木になんて言われたんだ」
返事がない。
俺は指の隙間から佐羅谷を盗み見る。
「言うわけがないじゃない」
声は固く脆く壊れそうだった。
「誰であれ勇気を振り絞ったことばを、他人に曝すことはしないわ。わたしをどこかのつまらない女子連中と同じだと思っているの? 最低ね」
「ち、違う!」
いつもの温かみのある「くたばれ」ではない。
そうだ、佐羅谷は真摯な想いを嗤うことを嫌う。
「俺は別に玉木をどうこうしたいわけじゃない。ただ、玉木が一目惚れにしては、その、佐羅谷に、執着してるように感じたから」
そうだ。
俺にとってはポッと出の憎らしいほど有能優秀な男だ。だからこそ、なぜ殊さらに佐羅谷を狙うのか、気になるのだ。
「ああ、そういうこと」
そして、こともなく佐羅谷は言った。
まるでいつものビーカーでコーヒーを作る時に「あなたも飲む?」という自然で軽い感じで。
「玉木くんは中学の同級生よ」
佐羅谷の表情は見えなかった。
俺の頭に血液が回っていなかったから。
あれはどんな表情だったのだろう。
今もってまったく思い出すことができなかった。
夜ーー。
夜は。
旅行準備で忙しい。
旅行準備で忙しい。
旅行準備で忙しい……。
修学旅行の準備は、手につかなかった。
部屋中に服やお泊まりセットやスマホ関係の充電器やモバイルバッテリーが散乱している。
頭が回らない。
同じ荷物をポーチに詰めては引っ張り出し、ああでもないこうでもないと入れ直し詰め直す。
立ち上がることさえできずに這いながらベッドに登り、布団にくるまる。
(玉木は中学の同級生)
玉木は佐羅谷と同級生だと匂わせていたか? 十津川出身だと公言していたか?
していない。
アメリカ帰りの帰国子女という情報が大きすぎて、誰もそこまで気にしていなかった。加えて、あの見た目あの性格あの身体能力あの頭脳。
さらに俺や一部の人間だけが知る、ツイッツイーツの社長という立場。
誰が奈良県の秘境出身だなんて思おう。
天才AIチャットGPTさんに尋ねてみたら、十津川中学校の生徒は五十人くらい。一学年十七人くらいだ。こんなの、学校全体が幼なじみみたいなもんじゃねえか。
今のかつらぎ高校の佐羅谷あまねは麗しくも孤高の深窓の令嬢で、親しくできる人間も会話できる人間さえ限られている。
だが、たった五十人の学校での佐羅谷が、孤高の存在だったとは思えない。きっと同級生と仲良く親しく(想像がつかないが)していたに違いない。
これではっきりした。
玉木がかつらぎ高校へ来たのは偶然ではない。
佐羅谷を追ってきたのだ。
玉木の能力には役不足な中途半端な進学校。こんなところに二年の三学期に転校してくるなんて、普通の事情ではない。
「身の程をわきまえろって言ってたか」
中学時代の佐羅谷は学校一の、いや村一番の美人だったかもしれない。同級生としてそばで見ていた男からすると、俺のような搦め手で佐羅谷の隣に居座る男を疎ましく思うのは当然だ。
(もしかして、元カレ……いや、今でも彼氏だという可能性も?)
ありうる。
佐羅谷のキャラ付けはイリヤさん含め周囲が佐羅谷を守るために作ったものだし、もともとは文学少女で押しに弱い性格だから、男に言い寄られたらすぐにそういう関係になっただろう。
玉木の自信に満ちて強引なところも、本人の資質に裏打ちされている限り、じゅうぶん魅力的だ。あるいは、箔をつけ迎えに来るにふさわしい立場になったから、姿を見せたのか。
玉木が他に見向きもせず、佐羅谷一人に深く執着する理由はわかった。
玉木は中学時代から、あるいはもっと小さな時代から、佐羅谷あまねを見ていたのだ。
「中学生時代の佐羅谷か」
見てみたかったなあ。
今度十津川へ行ったときに、佐羅谷の両親に卒業アルバムを見せてもらおうか。
修学旅行の準備も放り出してぼうっと妄想に耽っていると、部屋の扉が開く。
「おーい、輔! おまえ明日から修学旅行だろ! いつまで起きてんだ……って、おい、まだ準備も終わってねえのか!」
「あ、親父」
「何してんだ、寝るなら準備してからにしろよ。まったく、しっかりしてるようで抜けてやがるな」
結局親父に手伝ってもらいながら、修学旅行の準備を終わらせた。
明日は高田市駅から早朝に関空行きのバスが出る。気が昂って眠れないかというとそんなこともなく、すぐに意識が落ちた。
修学旅行が始まる。
俺たち奈良県の中和地域に住んでいると、関空に行くにはいったん大阪市内に出ることになる。駅で言うと阿部野橋や天王寺や鶴橋だ。そして、JRなら関空快速、南海ならラピートなどで関空に乗り入れる。
もう一つの方法は、奈良交通のリムジンバスで、桜井から橿原・高田経由で直通だ。
バスは渋滞もあるし、電車より利用者は少ないだろう。
そう推測して、寝不足でもバスでしっかり睡眠をとれると思ったのが間違いだった。
「おう、九頭川もバスか。隣、来いよ」
半分ほど埋まったバスに乗り入れるや、奥の席から玉木が顔を半分覗かせた。
やんごとなき企業経営者が、高速バスなんてものを使うなよ。
睡眠は取れそうにない。
ここで無視して好きに座るのも不自然か。
俺は小声で挨拶して、玉木の隣に座った。
バスの乗客はほとんどがかつらぎ高校の制服を着ていた。他に知った顔はいないが、一部に俺の顔を見て表情を動かす者もいた。
俺もそこそこ顔が売れてきたというわけか。
「少しクマが出てるぜ。九頭川みたいなやつでも、修学旅行が楽しみで寝られなかったのか」
「玉木は永眠してたみたいに元気だな」
「いつでもどこでも眠れるのは特技なんでな」
「いや永眠につっこめよ」
発進したバスは高田バイパスから南阪奈道路に入り、あとは高速道路上をゆく。
走行音が俺たちの会話を俺たちだけにとどめてくれる。
「この学校を選んでよかったぜ。九頭川みたいな面白いやつと友達になれたし、奄美大島に修学旅行に行ける」
「佐羅谷あまね」
「え、なんだって?」
「難聴系のキャラじゃねえだろ。俺と友達になったのはオマケだろ。佐羅谷が目当てだったくせに」
「確かに、佐羅谷あまねと会えたのは運命……」
「なるほど、同じ村出身ってのは運命かもな」
玉木は軽口をやめた。
細いメガネを外して、レンズをセーム皮で拭く。
「ふん。誰に聞いた?」
「図星か」
「ブラフか」
「一目惚れにしては執着が異常だ。行動も不自然だ。恋する男の行動じゃない。もっと深く汚く根源的な欲に起因する衝動だ。俺には、そう見える」
「恋愛研究会の九頭川輔、か。一筋縄ではいかないか」
「俺を仮想敵にする時点で、おまえに見る目はねえよ」
「俺の目に間違いはなかった。おまえの動きを封じておいて正解だった」
「ふん」
玉木の存在は目の上のコブ。
ただ恋愛研究会を通してくれたから、一番近いところで動静を監視できるのが利点だ。
玉木は起業家らしく、何かしら自分の中で美学やこだわりがあるのだろう。この制約がなければ、すでに佐羅谷をものにしていたかもしれない。
「修学旅行、楽しもうぜ」
俺はせいいっぱい強がって見せた。
「ふおー! 九頭川! 玉木! やっと来たか! 我を一時間も待たせるとは、豪気よのう!」
どたどたと山崎が大きなメガネを輝かせながら走り寄ってくる。
学校で指定された関空の集合場所には、二年生の半数ほどが思い思い集まっていた。先生方はさすがに全員来ているようだ。
「いやー、知り合いも友達も来ないから、暇でのう! スマホの充電がもう十%しかなくなってしまった! どうしてくれよう!」
「初っ端から楽しんでるな、そういうの、嫌いじゃないぜ」
「おお、玉木、わかってくれるか! そうなのだ、九頭川が書き込みしてくれた栞を見ているとだな、昨日も六時間しか眠れずにな!」
微妙に普通に眠ってるじゃねえか。
「確かに見どころやショップ情報はいいな。二日目の回り方も時間配分まで考えて無理がない。おまえ、班長向きだぜ」
「であろう、であろう! 深窓の令嬢研究だけでなく、最近は髪型を整えてイケメンになりおってのう、どうだ、玉木。転校してまだ一月だが、九頭川をどう思う?」
栞をくるくると丸めてマイクにして、玉木に突き出す。
玉木は鋭い視線を一瞬だけ俺に向けた。
「九頭川、強いね。頭脳、立場、外見、隙がないと思うぜ。だけど、俺も負けてない」
「くうぅ〜〜! 強者の余裕だな、玉木!」
何と戦う気か知らないが、玉木は決然と笑う。
強者の余裕、そうだ。奇しくも山崎のことばは正しい。
玉木はいつでも余裕がある。
高校生の形をしているが、精神力も思考力も行動力も(経済力も)人生何周目かという高次元からの判断で動いている。
それでいて、上から目線で偉そうな態度は微塵もない。男子も女子もなんとなく玉木に好感を持つのは、この包容力だ。
いつも行き当たりばったり、カツカツかつギリギリで辻褄を合わせる俺とは、格が違う。
だが、格が違うことは、勝負にならないことを意味しない。
俺は俺の土俵ならば、きっと玉木に負けない。勝てはしないが、負けない。今は負けなければいい。恋愛研究会が同好会から部活になるまで、逃げ切ればいい。
「あ、いたいた。九頭川くん!」
神山が元気に手を振りながら駆け寄ってきた。同じ走って寄ってくるのに、擬音が山崎と全然違うのは面白いな。背景も淡い星や光が舞っている。少女漫画か。
「そろそろ時間だな。並ぶぞ」
飛行機の席は班ごとに指定されていた。三人と二人に分かれる。俺は左右を山崎と神山にしようとしたが、長髪をなびかせた沖ノ口に腕を取られ、三人席の真ん中に座らされた。
「あの、沖ノ口?」
「たすくは、ここ。隣がいい」
まなじりの下がった黒く深い瞳でじっと見つめられる。
俺は食い下がろうとしたが、山崎と神山がそそくさと二人席に座ってしまった。残る通路側の席に、玉木が座る。穴熊が完成した。
機長の案内があり、窓の景色が流れ、滑走路に至る。テンションの上がるエンジン音が唸り、Gを感じながら機体が加速する。
嫌な浮揚感に続いて、急速な上昇。
ばりばりばりと機体が頼りない音を上げる。
やがて傾きが安定すると、耳がキーンとなる。
人生初の飛行機。
ところが左右に俺の初体験を分かち合う人間がいない。
玉木は飛行機なんて慣れっこであくびを噛み殺しているし、沖ノ口は隣を指定したくせにずっと窓から空を眺めている。そりゃ、空から見る淡路島や四国の山並みは美しいとは思うが。
横目で見ると、通路の向こう、山崎と神山は談笑して楽しそうだ。あの二人、なんやかやでけっこう仲がいい。好奇心旺盛な神山と偏っているが知識は深い山崎、意外と話が合うようだ。俺もあちらに行きたかった。
(寝よう)
眠いのは本当だ。
ベルトを締めたまま、俺は少し腰をずらし、目を閉じる。
「九頭川、眠いのか?」
玉木の声を無視した。
「寝させてあげて」
沖ノ口が小声で言った。
「たすくは責任感が強いから、寝ずにがんばるの。今回の栞もそう」
「沖ノ口、君は九頭川のためにこの班を選んだのか?」
「たすくといられるのは、これが最後だから」
「ふうん? まどろっこしいな」
二人の会話は俺の狸寝入りを挟んで続く。
「九頭川は彼女がいるわけでもないんだろ? 押せば落ちる」
「たすくはそんなに軽くない」
「試したのか」
「わたし、まちがえたから。たすくが嫌がること、やったから。きっと三年になったら、クラスも変わる。二度と会えない。だから、これが、最後」
沖ノ口の手が俺の肘に触れる。
「間違えたらやり直せばいい。怒らせたなら謝ればいい。足りなければ足せばいい。諦める理由にならないぜ」
「うるさい。何も知らないくせにわたしとたすくの邪魔をしないで」
「君のことはあまり知らないが、九頭川のことはそこそこ知っているつもりだが」
「じゃあたすくがいちばん嫌いな女子のこと、知ってる?」
誰だよ。
俺が知りたいくらいだ。上地か?
「九頭川の嫌いな女子? こいつは基本的に女好きだと思うが」
いや、言い方。
玉木、言い方!
「そう、たすくは女がとても好き」
いや、言い方。
沖ノ口、言い方!
「降参だ。九頭川が嫌いそうな女子なんて、情報がない」
「それはね、わたし」
な、なんだってー。
沖ノ口は苦手だが、別に嫌いでもないぞ。一年のときもほぼ会話もしていないし、共通の趣味もないからな。俺の好みに合わせて外見や性格や趣味まで変えてくるのは、正直ちょっと恐怖を覚えるが。
「たすくが好きになる女子は、これからもたくさん出てくると思う。だけど、嫌われるのはわたしだけ。わたしだけが、たすくに嫌われたまま心に残るの」
「君は歪んでるな」
「あなただって、歪んでる」
俺の肘に触れる沖ノ口の手が熱を帯びる。
「三根を泣かせたの、許さない」
「友達だったのか」
「こんな男の何がいいのだか。ちょっと顔が良くて、頭が良くて、スポーツができて、将来性がありそうで、おとなびてるだけなのに」
どう聞いてもいい男だろ。
しかも、三根は玉木がツイッツイーツの創業者社長であることも知っている。女なら誰だって一目惚れする少女マンガの男役レベルだ。
「向こうから言い寄ってきたのに、恋心が薄れたら被害者ぶるのには辟易するぜ。冤罪はこうして作られるんだな」
「最低」
さすがに聞いていられず、目を開けそうになる。沖ノ口の手が震えるのを感じて、かろうじて狸寝入りを続けた。
「たすくが」
「ああ?」
「きっとたすくが、三根を救ってくれる。今までだってそうだった。わたし、見てきたんだから」
「はん、今のこいつは無力さ」
そうだ。
俺は、無力だ。
上地のように噛み付くことも、沖ノ口のように圧力をかけることもできない。
何より、どうすれば三根を救えるかが見えない。玉木と撚りを戻す? 謝らせる? ダメだダメだ。この局面に解法はない。
「無力さ」
玉木の声がもう一度重く響く。
いつしか俺は、本当に眠りに落ちた。
沖ノ口と玉木の会話の記憶は、そこで跡切れる。
奄美大島に降り立った俺たちは、さっそく強い陽射しと生ぬるい風の洗礼を受ける。
「クラスごとに指定のバスに乗れー! 荷物を忘れるなよー!」
学年主任の先生の声に従って、俺は班員を先導して所定のバスへ向かう。バスの横っ腹の荷物入れが開いている。
「たすく、待って。暑いから、一枚脱ぐわ」
「お、おう。そうだな」
沖ノ口がもぞもぞと制服の下に着ていたニットを脱ぐ。なぜか見てはいけない気がして、あらぬ方を見ながら俺も他のみんなも春先の気温に合わせて薄着になる。ブレザーまで脱いだのは山崎だけだったが。
奄美ナンバーのバスに乗り込むと、班ごとにまとまって座る。ガイドさんの案内を聞きながら、バスはゴトゴト走る。
今日の残り半日間は島を半周するように観光地を回るらしい。
程なく最初の目的地に着く。
まずは空港のそばの奄美十景の一つ、壮大な断崖と青い海。
「あやまる岬、すげー!」
奄美大島北端の灯台まで、狭く急な石階段を登る。
「笠利崎灯台、すげー!!」
南に走り、鹿児島県最南端の道の駅『奄美大島住用』。
「マングローブすげー!!!」
内陸を横切って宇検村に入るとすぐに幅広の滝があった。
「アランガチの滝すげー!!!!」
東シナ海沿いに北上しながら、大和村のトンネルを抜ける。
「徳浜の断崖、すげー!!!!!」
「おまえ、すげーしか言ってないぞ」
誰よりもテンションの高い山崎は何を見ても楽しそうなので、やかましいが咎めるものはいなかった。
どれも海なし県の奈良では見られない景色だったし(滝はともかく)、風は強いが幸い好天に恵まれて、どこまでも青い空に青い海。テンションが上がるのも仕方がない。
沖ノ口や玉木も自然な笑顔だった。
予定ではここで奄美大島の中心地、奄美市名瀬でホテルに入る予定だったが、担任とバスの運転手が相談している。
「えー、予定よりだいぶ時間があるので、もう一ヶ所まわってからホテルに向かうことにする! とっておきの場所だそうだ」
そして、市内を通り過ぎて、空港側に少し戻る。
バスを降りると、ハートロックという看板。そばには「それいゆふぁーむ」というヤギ乳加工品のショップがあった。
今まで興奮状態だった山崎のメガネの輝きがスンっと落ち着いた。
「は、ハートロックとな。聞くだけで虫唾が走る、きっと爆破対象に違いない! 我は、行かぬぞ! ここでヤギ乳のソフトクリームを食す!」
「もう、山崎くん、そんなこと言わずに、一緒に行こうよ」
「む、むう、神山氏がそう言うなら」
「うん、行こ?」
「は、はい! 山崎、行く、行っちゃう〜」
神山は天然なのか計算なのか、上目遣いで山崎を意のままに操る。俺が煽らずとも班行動するように誘導してくれるので助かる。
「せっかくだし、ソフトクリームを食べながら行こうぜ」
クールなイメージがあるが、やはり玉木はスイーツに興味があるらしい。クッキーやドーナツではなく、真っ先にソフトクリームを注文する。結局、班員全員でソフトクリーム片手にハートロックの矢印に従って歩く。
道路の看板を矢印に沿って歩くと、砂地の道に木々のトンネルに入る。長い緑のトンネル、左右には背の高い木となぜか巨大なクワズイモの群生。
奥には白く輝く空と海と浜。
「こんなにも美しい世界が現実にもあるのか」
呆然と山崎がつぶやく。
こんなところで正気になるなよ。
「現実だから美しいんだろ。ほら、ハートロックまで走るぞ!」
玉木が山崎の肩を叩き、駆け出す。
「お、おう、我も青春するぞ!」
砂浜に出てからもハートロックは少し離れている。先に歩いていたクラスのやつらが海辺でワイワイ騒いでいる。
なんとなく男四人が走り出したところで、沖ノ口が砂浜に足を取られてこけそうになる。
「あ、たすく、待って」
「おい、しっかりしろ。別に置いていかないって」
「うん、ありがとう」
男三人は駆けて行った。
なんとなく今さら走って追いつくのも気恥ずかしく、俺は沖ノ口と並んで歩く。
「ソフトクリーム、落としちゃった。半分残っていたのに」
「……」
「半分残っていたのに」
「俺のでよかったら、やるよ」
走り出したのは玉木なのに、責められるのは俺か。
「全部もらうのは悪いから」
沖ノ口は俺の差し出したコーンを一口食むと、口を離す。俺の顔をじっと見ながら、くちびるの周りのクリームを舌で舐めとる。
「一口だけ、ね?」
「別に全部いいのに」
俺が残りをガサツに食べ終えると、沖ノ口は満足げに笑う。
なんなんだよ、いったい。
俺にはもう関わらない約束だろ?
遠くのきらきら光る海辺から耳の端にシャッター音が届く。玉木がスマホをこちらに向けていた。
「あいつ、変な写真を!」
駆け寄ろうとする俺の袖を、沖ノ口ががっちり掴んでいる。なんなんだ。
「足元が悪いの。ゆっくりで、いいでしょ?」
沖ノ口はまっすぐな髪を指でくるくるしている。
どうせ玉木は写真を消してくれないだろう。急いでも無駄か。
ハートロックは砂浜から少し海に隠れているようだ。俺たちはとぼとぼと砂を踏み歩いた。珊瑚の埋もれる白く柔らかい砂は、靴の中に入って歩きにくかった。
ハートロックは、ハート型をした岩穴だった。地理学的には甌穴という仕組みだ。神山が記憶を頼りに教えてくれた。
砂浜から少し海へ、水を被る岩場を歩くと、姿を見せる。
サンダルなんて持ってきていない俺たちは砂浜に靴と靴下を置いて、裸足で滑る岩の上を歩く。
「い、い、痛い! 痛い!」
先行していた山崎が岩場をよちよち歩きしている。ハートロック以外にも、円筒の五右衛門風呂のような穴がいくつも穿たれていて、足場は尖った岩と滑る海藻で歩きやすくはない。
「あ、みんな、これだよ! ハートロック!」
神山が声を上げる。
「おお、これがハートロック!」
「ちゃんとハート型だな」
一番最後に俺と沖ノ口がハートロックの周りを囲む。
寄せて返す波が足を洗い、ハート型の穴を水面下にしたり表に出したりする。
水はどこまでも透明で、岩の底まではっきりと見えた。
「これはいいな」
俺が静かに感動していると、沖ノ口は黙ってスマホで写真を撮っていた。ひとしきり撮影すると、物欲しそうに俺を見上げる。
「写真、撮ってやろうか」
「うん」
俺がスマホを受け取ろうと手を伸ばしたとき、肩に何かが当たってバランスを崩す。手から、沖ノ口のスマホがこぼれ落ちる。
「あ」
「しまっ……」
沖ノ口は手を伸ばしてスマホをつかむが、自分自身の体がどうしようもないくらいに傾ぐ。まっすぐな長い髪が水面に触れそうだ。
世界がゆっくりに見える。
瞬時の判断で、ハートロックを跨ぐ。
低く構えた俺に、沖ノ口が倒れてくる。抱き止める。なんとか耐える。
ばくばくばくと心臓が跳ねる。
「あ、危なかった。沖ノ口、すまん」
「ううん、大丈夫」
初日から制服が潮臭くなるところだった。なんとか水没は免れた。
沖ノ口のハートロック自撮り(なぜか俺も一緒に撮られた)の手伝いが終わると、玉木の声が背中に聞こえた。
「悪いな、九頭川。肩が当たって」
後ろにいた。
声の調子でわかる。悪いと思っていない。結果的に何も起きなかったのだ。ここで憤るのも器が小さい。それに、スマホを落として一番被害を受けるのは、沖ノ口だった。玉木が何を考えているのか知らないが、三根とつながりがある沖ノ口を牽制しているのだろうか。陰険だ。
ハートロックからの帰り道、バスまで戻るにも沖ノ口は俺を中心にするように玉木の反対側に回る。やたら距離が近い。視線が合うと、頬を染めて瞳を潤ませる。
(玉木を警戒している?)
班員の間で問題を起こすわけにはいかない。不本意だが、俺が玉木と沖ノ口の距離を空けてやるしかない。
玉木は好きに動くので、俺が沖ノ口の周りで警戒するしかない。明日のカケロマ島でも面倒なことになりそうだ。
バスがホテルに着く。
ホテルの部屋は男女で分かれるので、沖ノ口は同じクラスの別の女子グループの部屋に入る。俺たちは男四人で一部屋だった。
「じゃあな、沖ノ口。また夕飯のときに」
エレベーターに沖ノ口一人を残し、男子四人が下の階で降りる。
女子はホテルの上のほうの階を使う。もちろん男子はその階に足を踏み入れることさえできない。
部屋はほとんどベッドしかない狭い洋室で、本来は二人部屋なのだろう。
荷物を置き一息つくと、山崎がメガネを光らせる。
「食事までまだ一時間以上あるのう。では! 修学旅行の! 定番というと!」
楽しそうに枕をつかみ上げる。
「あ、悪い。俺、ちょっと一階のロビーにあったお土産を見てくる。まあ夕飯までには戻る」
「九頭川!?」
「俺も行きたいところがある」
「玉木も!?」
「えーっと、山崎くん、枕投げはいけないと思う」
「神山どの……」
「あ、その、ほら、トランプ持ってきたから」
「ふしゅー」
風船のように空気の抜けた山崎は神山に任せて、俺と玉木は最低限の荷物で部屋を出た。
俺は一階ロビーのお土産コーナーに向かおうとしたが、玉木は動線を遮る。
「お土産は夕飯のあとでも見られるだろ? 付き合えよ」
「今は自由時間だ」
「恋愛相談だ」
「伝家の宝刀を好き勝手抜くなよ」
「だが、おまえは来るだろう?」
従うしかない。
まだ玉木を自由にするわけにはいかない。制約のなくなった玉木は、きっとどんな手を使ってでも佐羅谷をモノにするだろうから。
「面白いところを見つけてな」
玉木は名瀬の賑やかな市内を迷わず歩く。大島支庁の脇から南国の雰囲気漂う木の小道を抜ける
おがみ山公園。
黒豚のマスコットキャラクターが公園の案内をしているイラストがある。順路通りにコンクリートの道を登っていく。
登山かよ。疲れてはいないが、勘弁してほしい。
「心配するな、低い山だ」
俺の心を読んで、玉木は涼しく笑う。
確かに低い山で、コンクリートの道だけですぐに展望台の広場に着いた。
「おお……」
俺は息を飲んだ。
「どうだ、いいだろ?」
確かにいい場所だった。
標高は低いのに視界が開けていて、眼下に名瀬の街並みが広がる。島で一番の都会で、ホテルを含めて大きな建物が所狭しと並んでいる。夕暮れの太陽に斜めから照らされ、赤い空に街灯や建物の明かりが夜景を描き始めている。
都市部を囲むように周りには山が押し寄せ、奥には港、そして東シナ海が視界一杯に広がる。
連れてこられてよかった。不覚にも感謝する。
次の一言を聞くまでは。
「ここで、明日の夜、佐羅谷を手に入れる」
そこは「告白する」とか「思いを告げる」だろう。佐羅谷はものじゃない。手に入れるなんて表現は許しがたい。
暴発をグッと堪える。
「そうか、好きにしろよ。俺には関係ない」
「関係あるだろ」
「ねえよ。さすがに告白の成功までは保証できねえ」
「違う。明日の夜、ここに佐羅谷を来させろって言ってるんだ」
「そこまでお膳立てさせて、情けなくねえのかよ。明日は一日中、カケロマ島を一緒に回れるんだぜ」
「もちろん俺が自分でも誘う。だが、誘いに乗らない可能性がある。だから、おまえも誘うんだよ」
「……っ!」
そういうことか。
佐羅谷は俺が友達として誘っても来ない。だが、部活としてお願いしたら、絶対に来る。佐羅谷あまねは、そういう女だ。
改めて俺は自分が強い権限のある部活の一員なんだと思い知る。あの佐羅谷あまねや宇代木天を、自由に呼び出せる立場にあるのだ。
「おまえなら、誘えるだろう?」
「そう、だな」
しかしこの誘いは、佐羅谷を騙すことになる。呼び出せるのは間違いないが、きっと俺は佐羅谷からも宇代木からも軽蔑されるだろう。辞めさせられることはないと思うが、重要な案件は任せてもらえなくなるかもしれない。
なるべく玉木の誘いで動いてほしいものだ。
話はおしまいとばかりに、玉木は展望台の手すりに身を預け、暗くなってきていっそう映える夜景にスマホを構えていた。
「……左右の山、……中心に光り輝く夜景、……これをモチーフにしたスイーツもありか」
ぶつぶつと何かつぶやいている。
玉木の顔は高校生ではなく、企業人の顔だった。強く険しく凛々しい。俺が最初に見た玉木だ。まさか同級生だとは思わなかった、あのときの玉木だ。
こんな男に、敵うわけがない。
谷垣内や田ノ瀬とはまた違う絶対的な力の差。
どうやって時間を稼げっていうんだ。
俺の嘆きは静かなおがみ山公園に満ち満ちた。一人っきりなら、大声で叫んでいたところだ。
どうすればいい。
どうすればいい。
俺は。
玉木を一人残し、俺はホテルに戻る。
一階のロビーにあるお土産コーナーを散策する。まだ夕飯まで時間はあるが、同輩は少なかった。
修学旅行でホテルのお土産コーナーに来るのなんて、部屋にいられないボッチかコミュ障かいじめられっ子くらいだろう。たいていの男女は、部屋割りなど気にせず好き勝手好きな相手のいる部屋で好きにするものだ。たぶん。
お土産を買うのはここでなくても、帰り際に空港で買うのがいいとガイドブックを隠しながら佐羅谷がドヤ顔で言っていたし。だからこそ、あの二人と被らないお土産を探せると思ったのだ。
食べ物やおもちゃではない。
ストラップがいい。なるべくカバンにつけて、ずっと持っていてもらえるものをーー。
(なに考えてんだ、俺は)
手で口を覆う。
はたから見ると、耳まで真っ赤だったかもしれない。
クリスマスのどさくさに紛れて、二人にアクセサリを贈った。あれはどちらも「学校ではつけられないもの」だった。わざとそういうものを選んだ。使ってもらえなかったときの悲しさを遠ざけるために。特にピアスなど、高校時代には無理だ。だから、俺は佐羅谷の答えを知らないで済む……はずだったのに、俺は今なにを考えた?
目の前の棚に並ぶのは、アマミノクロウサギのイラストのアクリルストラップで、一つ一つに異なるアルファベットがついている。いわゆるイニシャルキーホルダーというものだ。
(俺が輔だからTで、佐羅谷があまねだからAで、……)
見るだけ、見るだけだからと、手のひらに乗せ、はたと気づく。
(そうか、宇代木も天だからTなのか)
これは、いけるんじゃないか?
ごまかしが効くというか、佐羅谷に拒否されても無理やり受け取らせる方法があるというか、勘違いでねじ伏せられるというか、うん、いけるいける。
「よし、TとAを一つずつ買おう」
クロウサギのイラストもかわいいしね。最悪二つとも自分で持っていても問題ない。将来、イニシャルがAで始まる女子と付き合えばいいんだ(現実逃避)。
ホテルの受付でお金を払って、小さな紙袋に一つずつ入れてもらう。
「あー、くーやんだー。何してんの〜」
男女十人くらいの群れから、聞き慣れた声がする。
ぶんぶんを手を振りながら寄ってくる宇代木。打って変わって賑やかだった男女十人くらいの群れは、静かにぶつぶつと噂話を始める。
明らかに俺と宇代木の関係性についてだ。恋愛研究会で部活メイトだというのは知られていても、直接に他の生徒がいる前でこうやって話をすることはあまりない。宇代木はたいてい友達がいて忙しいし、俺のクラスに来たときだって他の友達も会話に参加するからだ。俺に用があるときは業務連絡で、事務的だ。
だからたった一人でいる九頭川輔に宇代木天がわざわざ雑談しに行く、この状態が他の生徒からはきっと珍しく見えてしまう。
「別に、何もしてねえよ」
紙の小袋をポケットに隠す。
宇代木の「にかーっ」とした笑顔の向こうにいる生徒たちを見やる。顔くらいは知っているが、名前まで出てこない。
「どったの?」
「いや、お友達が多いことで」
「うん、おんなじ班の男子と、同じ部屋の女子だよー。あ、そーだ、くーやんも一緒に行く?」
「行かない」
「おがみ山展望台ってのがあってさー、めっちゃ眺めいいらしいの。一緒に、行こ?」
「行かないって。手を引くな」
「うえー、なんでぇー? みんなで行ったほうが楽しいじゃんか!」
後ろのメンバーはあまり歓迎していない顔をしていますがね! 誰も彼もがあなたと同じだけ初対面ですんなり会話ができるとは思わないことです!
特に男子連中、射殺しそうな目をしてるぜ。
「だいたい、おがみ山はさっき行ってきた。いいところだったよ」
「え、誰と行ったの」
「怖い。玉木だよ」
宇代木が笑顔のまま瞳の輝きだけ消えるのが本当に怖い。
宇代木はよほど俺が不純異性交遊をするのを嫌がっていると見える。自分は自由なくせに。同じ行為でも、宇代木なら目こぼしされ、俺なら糾弾される。そういうものだ。
「そっかー、てっきりあまねと行ったのかと思っちゃったよー。部屋にもいないっていうしー」
「佐羅谷はカケロマ島の予習だろ? 島尾敏雄でも読み直してるんじゃないか? たぶん居留守だ」
「しま落とし……? 必殺技?」
「なんでもない。まあ気をつけてな」
「うん、あとで自撮り送るね〜ちょーレア!」
「課金はしないぞ」
「SSRが当たったので強制課金です」
「ひどい」
あまり長々話をすると、後ろの面々からあらぬ噂が広まってしまう。俺は早々と話を切り上げて、フロントから逃げるようにエレベーターに向かった。
宇代木たちは何事もなかったかのようにそろってホテルを出て行った。
こんな団体に、佐羅谷が参加するわけがない。俺だってごめんだ。宇代木ならそんなことくらいわかりそうなものなのにな。不思議なものだ。
部屋に戻って、なぜか高森や入田まで加わって大富豪をやっている途中に、俺のスマホが震えた。
宇代木からの通知。
普通のインカメラによる夜景とバストアップの自撮りかと思ったら、きちんと誰かに撮ってもらった全身の写真だった。女優のようにポーズも決めて、少し物憂げな表情に、遠く夜景が水玉にボケていた。
隣で盗み見た入田が、眉をひそめた。
「ボケは加工だが、ライティングはいいな。今のスマホはバカにできん」
「入田が褒めるなんて」
「だが、被写体に愛がない。被写体も愛がない。感情がない。これは風景写真だ」
淡々と入田は告げる。
小声で、前に俺たちが撮った写真と違って、と呟いた気がした。
入田が前に撮った宇代木の写真は、常に俺が隣にいた。
(まさか、な)
宇代木は俺のことを佐羅谷に付きまとう悪い虫だとしか思っていないはずだ。俺に絡んでくるのも、監視目的半分、遊び目的半分くらいだ。
そうだ。
宇代木の無指向性の全方位に広がる好意は、ただのお友達の好意だ。
俺は勘違いしない。
「九頭川」
俺がスマホを置くと、神妙に入田は四角いメガネで俺を見つめる。
「なんだよ」
「革命」
「マジか!」
行き場をなくした2のカードが二枚、いつまでも手元から消えなかった。最強だったカードが二枚仲良く、手元に残ったまま最下位に転落した。
二枚の最強の手札を持っても、自分が強くなったわけではない。まるで何かの暗示のように思われた。
翌朝、修学旅行二日目。
カケロマ島行きを選んだ班は、早朝五時に起きて、バスに乗り込む。ホテルの朝食さえ食べられない。
名瀬の中心部から長々とバスに揺られ、南の大きな街・古仁屋の港で降りる。フェリーかけろまに乗るのを待ちながら、全員が支給されたパンとコーヒー牛乳で朝ご飯を食べる。
マグロ日本一と書いた大きなマグロのオブジェを見ながら、思い思いにパンをかじる。朝早すぎて、頭が回らない。
「マグロって大間じゃなかったけなー」
「大間はブランドでしょう。水揚げが多いわけではないわ」
「へえ、じゃあ一番はカケロマ島ってわけか」
「養殖マグロの漁獲量ね。県単位では長崎県だけど。あと、カケロマ島ではなく、瀬戸内町の数字よ」
「朝から佐羅谷はよく頭が回るな。さすが恋愛研究会の生成型AI。というわけで、おはよう」
「おはよう、九頭川くん」
当たり前のように同じベンチの端に座り、食べ終わったらしいゴミの袋を持っている。
「珍しいな、佐羅谷が自分から俺に寄ってくるなんて」
「そうかしら? 気にしすぎじゃない?」
確かに今は生徒数も限られているし、人目も多くない。たまたま同じベンチでご飯を食べていてもおかしくない。特にボッチ同士は。
(というか、こいつもしかして)
そわそわしている佐羅谷。
カマをかけるつもりで、問うた。
「ところで、カケロマ島って、どういう見どころがあるんだ?」
「あなた、自分が行く場所も調べていないの? 栞にも書いてあるじゃない」
「読むのが面倒でな。教えてくれよ。俺が食べ終わるまででいい」
「ほんと、しょうのない男ね」
そして、俺がゆっくりとパンを食べ終わりコーヒー牛乳を空にするまで、佐羅谷のカケロマ島情報は続いた。まるでウィキペディアを記憶しているかのような詳細な説明と、役場ホームページや観光協会にあるような魅惑のポイントまで、滔々と語る。
「というわけで、見どころはたくさんあるけれど、今回の修学旅行では安脚場の戦跡公園と、呑ノ浦の震洋艇基地跡だと思うわ」
「ほー」
「ちょっと、ちゃんと聞いているの?」
「聞いてる聞いてる」
これはあれだ。
谷垣内や那知合の班に属していて、全然誰とも会話できなくて、話をすることに飢えているのだ。なんとなく気持ちはわかる。
佐羅谷は誰とも会話しなくても本さえ読んでいれば幸せなタイプだが(俺もそうだからわかる)、中途半端に会話に参加させられたり、周りが話をしていると、自分でも意見を整えたり、思いつきを披露したくなる。しかし、千変万化する話題に追いつけず、その時は訪れない。だから、ストレスが溜まる。
きっと、一日中那知合のトークに巻き込まれて、自分の話ができなくて、鬱屈していたのだ。
「佐羅谷、理解る、理解るッス。その気持ち」
「は? やめて、なんだか気持ち悪いのだけど」
「ことばが通じるって意味じゃなくてさ、自分が話すことばの意図が通じる、その感覚が嬉しいよな。話す内容、使う語彙、口の速さ、声の大きさ、全部だ」
どこか遠くの東屋で、谷垣内と那知合の笑い声が大きく響いている。
ああいうのが悪いとは思わないが、少し疲れる。
「俺は、今の恋愛研究会の空気が好きだぜ。佐羅谷と宇代木が作ってくれた、あの静かで暖かい世界が」
「……あなたもよ」
「え?」
「今の恋愛研究会の雰囲気は、あなたも含めて作り上げたものよ。一人だけ無責任に余所者のフリをするのはやめなさい」
「意外だ。佐羅谷が俺を認めてくれてるのか」
「当たり前じゃない」
佐羅谷は腰を上げた。
まもなく乗船が始まる。
「もうすぐ部活になるし、恋愛研究会も安泰よ。だから、九頭川くんも少しはわがままになるべきね。例えば、修学旅行の勢いを駆って、とか」
「なんの話だ」
佐羅谷は俺の問いには答えず、一人で集合場所に行った。自然に生徒が並ぶ。
玉木もいた。さりげなく佐羅谷のそばを確保している。
(わがままになれ、か)
あと一歩の踏み出しが難しいんだ。
カケロマ島を選択コースにしたのは五、六班。そのうち俺と佐羅谷と宇代木の班が半分を占めているので、なんとなく知り合いが多い。
フェリーかけろまには俺たちのバスも乗り入れ、汽笛を鳴らし、出航する。
目の覚めるような青い空に、透明感のある海。船が波を割ってさえ海の底が見えそうな澄み具合だ。
カケロマ島は古仁屋の港を出る前から見えているが、近づいてくるとさらに広大だ。果ては見えないくらい長く、聳える山脈もノコギリの刃のように空を斬っている。それもそのはずで、日本に島の中でも上位の面積を有するらしい。
やがてカケロマ島の瀬相港に着き、一同バスに乗り込む。
「九頭川、早速だが船とバスの相乗効果で、我は嘔きそうである!」
「嘔くなら窓の外にしてくれ」
「ひどい!」
リアス式海岸の入り組んだ海岸沿いに道があって、最初から右に左にバスは揺れた。
しかしすぐに最初の目的地に着く。
呑ノ浦の震洋艇基地跡。震洋隊とは船の特攻隊のことだ。船と言っても、まるでボートのような粗末なものだったという。ここには、特攻命令を待つだけの震洋艇の基地があり、今でも掩体壕が残っている。
入り江になった静かな海はまさに透明、悲壮な戦争の気配を感じさせない。俺はこんな色の海を見たことがなかった。
海沿いの木々に覆われた小径を行く。隣に真っ直ぐな黒髪が並んだ。
「よい雰囲気の道」
「そうだな。ていうかなんでおまえ俺の横にいるの?」
「道幅が狭いから」
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「ふふ」
沖ノ口が俺の隣から離れない。
まあ玉木がなにか画策している節があるから、目の届く範囲には置いておきたいが、余計な噂が広がるのは勘弁してもらいたい。
ただでさえ沖ノ口の好意はわりと知られているので、風聞を補強するような真似はしたくない。
肝心の玉木は、
「おう、転校生! 一度じっくり話してみたかったんだ! 来いよ!」
「あ、ああ」
谷垣内が積極的に絡んでいた。
玉木もさすがに拒めず、震洋艇基地まで先頭を二人で歩きながら、交遊を深めている。
本来交遊を深めたかったであろう佐羅谷は、二人の後ろを那知合と歩いている。
「つまんなーい」
那知合の声が聞こえた。
「あなたが好きな男の子は、こういう人でしょ」
「……おっどろいた、サラタニさんもそんな気持ちがわかるんだー!」
「ほんと、あなた、わたしのことなんだと思っているの」
「やっぱさー、強い男は強い男を認めて、ばっちばっち火花飛ばして、せいちょーしていくんだよ。悔しいけど間に入れないんだ。でもそれが好き!」
「聞いてないわ」
「カッコいー」
「はあ」
佐羅谷はそこで道を外れた。
広場になっていて、奥に石碑がある。
列はそのまま小径を進んでいくが、俺もなんとなく外れる。
「沖ノ口、先行っててくれ。山崎、頼むぞ」
「で、では沖ノ口嬢、こちらへ……ってあれ、無視してる? 見えてない? 我、透明人間スキル発動?」
宇代木も周りが横へ逃してくれず、そのまま道を進んでいった。
(なんで佐羅谷だけ勝手に道を外れるんだよ)
優等生のくせに突飛な独断行動をする時がある。
佐羅谷は俺に気づかず石の階段を少し登り、石碑を見て読んでスマホで写真を撮っている。
「島尾敏雄の石碑か」
俺が後ろから声をかけると、佐羅谷が飛び跳ねた。
「わたしの後ろに立たないでよ。気持ち悪いわね」
「写真、撮ってやろうか?」
「どこの女子高生が、石碑と自撮りするのよ」
ただの石碑を真剣に撮影する女子高生もどうかと思うが。
だが、何も言わずにスマホを差し出してくる。撮ってほしかったんだな。気持ちはわかる。いわゆる聖地巡礼だ。平安時代の昔より、テキスト系オタクのやることは同じだ。
島尾敏雄、いわゆる戦争経験者の作家。太平洋戦争末期はカケロマ島に赴任。震洋の隊長として、あとは特攻命令を待つばかりだった。
不思議と島尾敏雄のいる隊は爆撃を受けることなく、地元では神様のように扱われたという。
明日ともしれぬ死を前に、奄美大島出身でカケロマ島にいた女性と恋仲になる。そして震洋艇に特攻命令が下されることなく終戦を迎え、その後結婚。
「島尾敏雄は、運命の人と出会ったんだな」
「運命なんてないわ、バカバカしい」
「おいおい、俺たちが運命を否定してどうなるよ」
「わたしたちだからよ。人間はいつも一緒にいる人を好きになるものだし、好きになった人を運命だと思いこむのよ。それは、零れ落ちた無限の可能性を無視して現実を受け入れるための妥協」
「……それを、俺は、運命と言うんだよ」
強いことばで言って、佐羅谷にスマホを返した。
写真を確認して佐羅谷はスマホをスカートのポケットにしまう。写真には満足いただけたようだ。
「あなたが感じている運命は、取り返しのつく、やり直しのきく、とてもありきたりで、どこにでもあって、凡庸で陳腐な勘違いよ」
「なんで、そこまで否定するんだ! 拒絶するんだ!」
「じゃあ、証拠を見せましょうか?」
「証拠?」
佐羅谷は誰もいなくなった石碑の広場から、震洋艇の基地があるほうへ歩き始めた。
「九頭川くん、今日の夕食前の自由時間に、おがみ山公園の展望台に来て。一人で」
「なんだって」
「いい、必ず一人で来てよ。絶対に絶対よ」
ダメだった。
俺は佐羅谷の約束を果たせないと、聞いた瞬間に理解した。
なぜなら、玉木が同じことを佐羅谷に求めるから。例え玉木が佐羅谷を誘えなくても、佐羅谷がおがみ山公園展望台に行くなら、俺は恋愛相談を完遂したことになる。それは同時に、佐羅谷とは会えないことを意味している。
そして俺が玉木を妨害しても、一時の邪魔にしかならない。今後は玉木が本気で佐羅谷を得ようと動くだろうから。
佐羅谷が自らの意志でこの約束を持ち出した時点で、俺になす術はなかった。
ああ、そうか。
これが運命なのか。
俺と佐羅谷にもとよりイトがつながっていなかった、そういうことなのか。
これが証拠か。
俺には、なかったんだ。
運命なんて。
運命なんて!
「佐羅谷!」
みんなに追いつく前に、後ろから声をかける。
「なあに?」
「俺からもお願いだ。夕食前の自由時間に、一人でおがみ山公園の展望台に来てくれ」
「なにそれ、わたしからの誘いだけじゃ不服?」
「男の矜持を認めてくれ。本当は俺から誘いたかったんだよ」
「そう、じゃあお互いに逢引の約束をしたということにしましょう」
佐羅谷は笑ってくれた。
「二人きりの、秘密ね」
昭和のラブストーリーみたいなことばも、佐羅谷が言うと現代でも通じる新しさがあった。
震洋艇基地から、バスで安脚場の戦跡公園まで移動する。遠い。狭く蛇行する道を延々と走る。
最初は元気に酔ったふりをしていた山崎も本当に限界が来たみたいで、目を閉じて念仏を唱えていた。
俺は最近十津川へ行ったこともあり、バスで長く揺られるのには抵抗力があった。だいたい、大騒ぎしていた山崎以外は、皆それぞれに賑やかに楽しんでいた。
「ふう、」
「お疲れだな、玉木」
いつも余裕綽々の玉木が隣で髪をかき上げる。
「二年生の終わりなのに、バスケ部に来いって言われてな」
「谷垣内に気に入られたな。あいつが自分から誘うなんて相当だぜ」
「だろうな。断るのに苦労した」
「そんな暇はないって?」
「ないな。知ってるだろう、九頭川は」
「だったら、あっちを諦めたらどうだ?」
「あっちがどっちのことか知らないが、九頭川に依頼したほうは俺の人生だ。諦めるという選択肢はない」
「いちおう、言っておく。例の場所、例の時間に約束は取り付けた。誰が行くかは言ってないが」
「……そうか、仕事が早いな。九頭川、おまえ将来、うちに来るか?」
「おまえの下だけは勘弁してくれ」
「そうかよ。じゃあ、俺と同じ立場になるしかないな」
俺の隣には沖ノ口が座っている。なにもしゃべらないが、話は聞こえているだろう。あまり決定的な表現は使えない。
「俺のライバルだな」
心にもないことを。
玉木のライバルになる高校生なんて、日本に一人いるかどうかというレベルだ。
「……立場とかライバルとか、ほんと、男ってバカらしい」
窓際の沖ノ口がボソっとつぶやいた。
ようやくバスが止まった。
「ほら、たすく、行こ。修学旅行なんだから、楽しも」
沖ノ口に引っ張られる。
バスを出た俺たちは、今まで以上に好き勝手に、気の合う者同士がまとまって安脚場戦跡公園内を歩き始めた。
バスを出るときに先生が「一時間で戻ってこいよ」という注意しかしなかったからだ。もはや班はあってないようなものになっていた。
「ちゃーお、くーやん一緒に行こー!」
「なんであんたがいるの」
「おっきーも一緒に行こー!」
「あんたにおっきーって呼ばれる言われは」
「いいじゃんかもう!」
なぜかはみ出していた宇代木と、俺につきまとう沖ノ口。
この三人で回ることになった。
「あたしだって一生に一度の修学旅行なんだもん、譲んないよ!」
宇代木が珍しく空気を読まなかった。
班の他のメンバーも佐羅谷も孤立はしていないようなので良しとしよう。
一番苦虫を噛み潰した顔をしていた玉木はすぐに谷垣内に捕まるが、そのグループには佐羅谷もいたのでまんざらでもないようだった。
なんなんだ、いったい。
安脚場の戦跡は本格的だった。
なにに使ったのかわからないコンクリートの建物、その無骨な作りと崩れかけ具合が、時代を感じさせた。戦争が終わったのが一九四五年。俺の亡くなった祖父母が生まれた頃だろうか。そんな歴史でしか知らない時代のさまざまな現実が、冷たいコンクリートに手を当てるとまざまざと感じられる。
この気持ちこの感覚この思いを、どう咀嚼してどう嚥下してどうまとめ上げれば良いのか、一朝一夕では頭の処理が追いつかない。
「ひゃーすごいねー!」
砲台跡の展望台からは三六〇度の眺望、海を挟んだ奄美大島と、それ以外はひたすらに水平線。
「くーやん、こっちこっち。一緒に撮ろー!」
「たすく、わたしも一緒に撮ろう」
「わかったから、引っ張るな二人とも! 順番な!」
珍しい。
宇代木が沖ノ口と張り合っている。
沖ノ口が俺のことが好きで手を出してくるのはわかるが、宇代木が妨害してくる。
だいたい誰にも嫌われないように上手く立ち回り、気がつけばなんとなく親しい関係を築くのが宇代木のバランス感覚だったはずだ。
弾薬庫跡、天水貯蔵、広い公園をくるっと一周して、バスの停まっている駐車場まで戻ってくる。
「宇代木さん、お手洗いに行くわよ」
「おっきー一人で行ったらー?」
ムッとした顔で、しかし我慢できそうにないらしく、沖ノ口は駐車場にあるトイレに一人で行った。
「くーやん、二人きりだね」
「生徒はいっぱいいるけどな」
「モブはね」
「モブなんて人間はいねえよ。みんな主人公だよ」
「あたしにとっては、今ここにくーやんしかいないよー」
離れたところにいる佐羅谷や谷垣内、那知合でさえ、宇代木にとってはモブキャラか。
「ねえ、くーやん」
宇代木は遠慮がちに俺のシャツの袖口をつまむ。
「あたしさ、本気出すことにしたじゃん?」
「そうだな」
「で、必死に考えて考えて考えてわかっちゃったんだけどさ、全員が完全に満足する結果って、出ないこともあるんだね」
「そりゃあ、全員が満足する結果があるなら、世界は自動的にそちらに向かって進んでいくだろうからな」
「今までのあたしはさ、全員の満足度を極力同じにするように割り振ってたわけさ」
調停者のようなことをしれっと言う
宇代木の行動力と頭脳ならできそうな気がする。
「だけど今回はムリ。どれだけ考えたって、誰かの満足度が下がっちゃう。誰かが、我慢するしかないんだ」
「ほー」
「で、思ったんだ。初めて思ったんだ。あたし、「自分が我慢したくない」って」
宇代木は天才だ。
頭脳も洞察力も身体能力も恵まれている。恵まれているがゆえに、親の気持ちを読み、友人の気持ちを読み、波風を立てないように自分を押し殺し、誰からも好かれる宇代木天を演じてきた。
だが、俺は佐羅谷を深窓の令嬢から解放する流れの中で、宇代木の能力の桎梏になっているものを一つ一つ開放していった。今の宇代木は遠慮せず本気を出して良い。現に成績は不自然でない程度にトップまで伸びている。
「いいことじゃないか。能力がある人間は、その能力を世の中のため人類のために十全に生かすべきだ」
「にししー」
宇代木は俺の腕に抱きついてきた。
おいやめろ、おまえは目立つんだ、これだって誰かに見られて……。
「これだって、くーやんのせいなんだかんね」
カケロマ島を回る時間は終わり、俺たちはフェリーでもバスでも往路より静かに過ごした。高校生も疲れが溜まる。
窓際の沖ノ口は元気だった。
「たすく、スマホ貸して」
甘いまなじりをいっそう甘くして訴える。
黙ってスマホを手渡すと、自分のと俺のとを両手に持って、しきりに何か操作している。
「はい、これ」
「……おい、勝手に待受をおまえにするなよ」
「ふん」
「どうせすぐ変えるのに」
「誰に?」
「誰じゃねえよ。もとの野良猫だ」
「女の写真」
「え?」
「わたしが一枚目だと思ったら、いっぱいあった」
「さあな」
「人に簡単にスマホ渡しちゃ、ダメよ」
「普通は見ないだろ」
「盗まれて、困るのは、たすくじゃ、ないのよ」
ドキッとした。
「気をつける」
まもなくバスはホテルに着く。
俺はホテルロビーで一人ペットボトルの綾鷹を啜っていた。
夕飯までの憂鬱な時間、どうやって過ごそうか。手の出しようはあるのか。
佐羅谷と玉木がおがみ山公園展望台で会う。夜景を背後にしたムーディな雰囲気に佐羅谷が左右されるとは思えないが、玉木には何か思惑が、あるいは勝算があるのかもしれない。
佐羅谷の幼馴染ということは、小さいときの様子も、案外押しに弱いことも知っているだろう。
玉木は佐羅谷を来させろ、と命じた。
きっと正攻法で佐羅谷を落とす(本人のことばでは「手に入れる」)つもりだ。だから、ここを凌げば、ここを不発で終わらせたら、もう三学期にイベントはない。玉木も打つ手がなくなるはずだ。
時間はない。
(どうすればいい?)
そのとき、不意にスマホが震えた。
「……三根?」
珍しい相手だ。
喧嘩腰で恋愛研究会に乗り込んできて、なんとなく俺から連絡をするのは憚かられていたし、佐羅谷に個人的に依頼をしている。迂闊に話すと、三根の依頼を問い詰めてしまいそうだから、連絡も避けていた。
「よう、久しぶりだな。また上地を助けたらいいのか?」
『キレがないね、輔。しおちゃんは私のことで怒ってばかりだよ』
「いい友達を持ったな。それで、なんの用だ。恋愛相談は、うちの部長が個人で受けたはずだが」
『あー、そんな真面目な件じゃないよ。いま部屋のみんなと話してたんだけどさ、夕飯までにちょっと時間あるじゃない。簡単に行ける良さげな場所、知ってるでしょ?』
「知ってはいるが」
変な聞き方だ。
教えて、ではない。
知ってるでしょ、だ。
まるで自分も知っている、という含意。自分から明かせないが、俺からなら聞いて良いというような……三根の意図が摑めない。
『ねえ、輔。いいところ、教えて。お礼に、なんでもしてあげるから』
「だから、おまえは、女が軽々しくなんでもするとか言うな」
『ふふ、輔には借りばっかりだね。ないの? してほしいこと』
「だから、」
怒鳴りかけて、はたと気づく。
できるんじゃないか?
玉木の依頼を棄損することなく、その意図だけを挫くことが。
三根が何を佐羅谷に依頼しているのかはわからない。しかし、いちおう玉木と深い仲にある三根は、玉木がどこにいて何をしようとしているのか、薄々勘づいているのではないか。
ところが、三根は自分の意志では玉木のところへ行けない。玉木が来るなと命じているのかもしれない。
動かすには、自分の意志以外の原動力が必要だ。
それは例えば、俺の命令だったり、部屋のみんなの誘いだったり……。
そうだ、おがみ山公園はあくまでみんなのもので、誰か特定の人物が占有して良い場所ではない。かつらぎ高校の尖塔と同じだ。誰でも好きにして良い場所だ。
誰かが愛の告白に利用するのも勝手なら、同時刻に美しい夜景を見ようとするのも勝手だ。
「三根」
『うん』
「とっておきの場所を教える。だから前に言った、なんでもいうことを聞いてくれるっていう約束は、今でも有効か?」
『そうだねえ』
曖昧に三根は無機質な声を出した。
俺は大きく息を吸った。
「めちゃくちゃに壊してくれ」
三根は返事をしなかった。
スマホ越しの向こうで、頷いてくれたように思えた。
一日外を歩いてくたびれた髪型をセットし直し、玉木は夕暮れのおがみ山公園の道を登り始める。俺は距離を置いて後をつけた。ついてくるな、とは言われていない。隠れて見守ることは許されるはずだ。
そうだ、これは恋愛相談なのだから、見届けるべきだ。
展望台にはまだ誰もいなかった。
眼下の明かりは加速度的に増え、宵闇に名瀬市内の夜景が形作られていく。
玉木は欄干に身を預け、じっと俯瞰している。
二つある展望台入り口のどちらにも、興味がないように見えた。
俺は展望台には入らず、ヤブと木々に隠れて様子を窺える位置に身を潜める。
風がある。
葉擦れの音がひっきりなしに耳を打ち、少々音をさせたところで、気づかれることはない。
じゃり、じゃり、とコンクリートの階段を踏み締めて登ってくる音がする。
(来た)
現れた影は迷わず展望台の玉木の隣に並んで立つ。
「ふう、いいとこだよねー、ここ」
違う!
佐羅谷じゃない!
うっすら見える輪郭や髪の色からおかしいとは思ったが、佐羅谷ではない。
「ああ、いいところだ」
表面上は動じず、玉木は体を起こす。
「えーっと、宇代木さんだっけ? 恋愛研究会の」
「そーだよー。そっちは転校生の玉木くんだね! どしたの、こんなとこに一人で。話聞くよー?」
「悪いが、君に興味はないな」
「ひっどいなー。せっかくこんなにロマンチックな場所にさー、修学旅行中の男女が二人っきりじゃんか?」
「抜き身の刃みたいに張り詰めた女にロマンチックもクソもないぜ。ここは巌流島か?」
「男と女の化かし合いなんて、決闘みたいなもんじゃん」
玉木と宇代木は初対面とは思えないくらい自然に会話している。
初対面だから、か。
しかし、まずい。
まさか宇代木も誰かと会う約束をしていたなんて。この場所は誰だって使えるのだ。修学旅行で来ている俺たちが旅先のテンションに任せて夜景を背後に甘い告白なんて、幾百と繰り返されたシチュエーションだ。
ましてや、宇代木は学校中に知り合いのいる人気者の女子。これを機にと男子が呼び出していても不思議はない。
(このままだと、依頼失敗じゃねえか!)
玉木が佐羅谷とここで会えなければ、俺が依頼を仕損じたと思われる。玉木が実力行使に出るかもしれない。
「だけど、どういうことだ?」
俺はマナーモードにしたスマホを光が漏れないように起動する。特に佐羅谷から連絡はない。まだ準備ができていないのか? メッセも電話も来ていない。
「ああもう、佐羅谷、どこに!」
「なあに?」
スマホを仕舞い、小声で悪態をつくと、目と鼻の先で佐羅谷の長いまつ毛が大きく瞬きした。
「佐……!」
「しっ!」
叫びかけた俺の口を佐羅谷の手が塞ぐ。
こんな時でさえ、佐羅谷の手の感触や暖かさやその他諸々の接触について俺の唇はよく覚えていた。閑話休題。
柳眉を逆立てて佐羅谷はゆっくり手を離す。
俺たちは声をひそめてささやき声で話す。幸い、宇代木と玉木には気取られていない。
「すまん。だが、なんでこんなところに?」
「それはわたしのセリフなのだけど」
「俺は、その」
ここで本当のことを言っていいのか?
玉木が佐羅谷と二人きりで会いたがった。その斡旋をした。玉木の目的は明白だが、俺が明かすのは仕事を放棄したに等しい。
「先客がいて、出るに出られなくなってな」
もっともらしい嘘をつく。
「佐羅谷は? 俺を呼んでどうする気だったんだ?」
「何か大切な用があったはずだけど、忘れたわ。物陰で屈んでコソコソと話すことではないのは確かね」
「てっきり愛の告白かと期待したのに」
「おあいにく様。身の程を弁えなさい」
九割の茶化しと一割の希求を込めた軽口は軽々と粉砕される。だけどこんな何気ないやりとりが嬉しくて楽しくて、苦笑する佐羅谷の横顔に慈愛を感じるんだ。
「にしても、玉木くんの待ち人、遅いねー」
「たとえ二人をつなぐ関係が儚い運命だとしても、俺は諦めないぜ」
「ん、運命ね」
完全に暗くなった展望台では、宇代木と玉木が談笑している。
隣の佐羅谷は目を細めて、二人の会話を聞いている。
「運命かしら」
「どうした、急に」
「わたしは運命なんてないって言ったけど、ここまでうまく行かないなんて、本当に運命がないのかもしれないって、そう思ってしまうってことよ」
「佐羅谷……」
「ほんと、どうしてあなたはここにいるの? あそこにいないの? くたばれ」
「貶されるのも俺の運命ですか。そうですか」
打開策のないまま隠れていると、山の途上から声が聞こえてくる。複数人。いくつかの団体だ。なんとなく聞き覚えがある声。
(しまった、俺の作戦が)
播きすぎた種がほうぼうで芽吹き始めた。
「誰か来たみたいね」
「いい場所だからな。もともと二人きりで隠れて会うには不向きだろ」
「そうね。だからこそ、ここで二人きりになれたカップルは、運命でしょうね」
だとしたら、今ここに集まるかつらぎ高校の生徒は、みながみな、運命共同体だ。
一番に登ってきた団体は、谷垣内と那知合を中心とした面々だった。
賑やかに話しながら、展望台からの夜景に期待を膨らませている。チラチラと見える名瀬の明かりに声も大きくなっている。
「ちょうどいいわ、あの後ろに紛れて出ましょう。あなたはきちんと天にも挨拶するのよ」
「そうだな。佐羅谷も玉木に挨拶しろよ。一応同郷だろ? なにか用かしら、くらい言っておけよ」
「気が乗らないけど、仕方がないわね」
これでいい。
玉木は佐羅谷をこの時間にこの場所に呼び出せと言った。
二人きりで、とは言わなかった。
それに、ここは公共の場だ。たまたま他の生徒が夜景を眺めに集まってきても、止めたり遮ったりできない。俺にできるのは、ここまでだ。
なあ、そうだろう。
谷垣内たちの団体の末尾に紛れるように、まるで佐羅谷と俺は別々にやってきたかのように展望台に足を踏み入れる。
「ゆーと、ほらヤバい! 来てよかったじゃん!」
「確かにこりゃいいな。海に浮かぶ宝石箱みたいだ」
谷垣内と那知合の声に、宇代木と玉木の視線が向く。俺と佐羅谷を見つけ出すまで、時間はかからなかった。星屑を散りばめた夜景を背景に、二人の表情までは見えなかった。
「ちゃーおー、くーやんも来たんだねえ」
「おう。二日連続の夜景だな。お互いに」
「ここさー、ダメだねー。こんなに人がいたらさ、ロマンティックもないやいや」
「ロマンティックが必要だったのか?」
「自分を酔わせるくらいのロマンティックがねー、あたしには必要だったんだよー」
展望台はかつらぎ高校の修学旅行生でごった返していた。
俺が宇代木に近づいて話をしているうちにも、どんどん人が増えていった。
「友達と夜景ナウ、と」
虚構を捏造する山崎。
「谷垣内くん、那知合さん、そこに立って、見つめあって……そう、視線をお互いに!」
カメラマンに徹する入田。
「うわあ、こんな綺麗な夜景、天川村の合宿だとみられなかったねえ!」
ボルダリング部を連れて登ってきた神山。
「この夜景! ああ、ハスクバーナ・マンの十三話の再現ができる! ワンカさんが……いればなあ」
孤独にロケハンする高森。
「修学旅行の夜に盗み出て女子と夜景を見る、うむ、これで大学で合コンをしても非モテだとは思われるまい! なあ杉原!」
「あーしはおまえなんかに興味ないけど、男子と夜景を見るってのもケーケンだからな! どうせ一緒に行ってくれる女もいないんだろ? 協力はしてやる!」
文芸部の部長、スギオとスギコもいた。
「げ、なんでハルカちゃんが!?」
「犬養先生と呼びなさい。自由時間でも生徒が大挙して押し寄せたら、他の人に迷惑がかかるかもしれないだろう? 私は若いからな、お目付役だよ。若いからな!」
パンツスーツの犬養先生までいた。
その他諸々、賑やかに夜景を眺めている。とてもではないが、男女が思いを告白して関係を築くような甘い雰囲気ではない。
集まった雑多な同級生を一瞥して、俺は感想を述べる。
「宇代木だったら、背景効果のバフなしでも余裕だろ」
「よゆーもゆーよもないんだよねー、しかも機会も気合いもないんじゃあね〜」
「前にも言ったが、俺が恋愛相談に乗ってやるぞ?」
「冗談」
だろうな。
宇代木は俺なんて頼りにしない。
頼るなら、彼女が認めた唯一の存在。それは佐羅谷だけだろう。
佐羅谷は玉木と対峙して、喧騒から外れた展望台の隅にいた。距離感は心持ち広い。警戒感のある間合い。
宇代木の視線に釣られて、俺も佐羅谷と玉木に注視した。
喧騒に満ちた空間でも、自分の悪口や気になる人の会話だけはきちんと聞き取れた経験はないだろうか。人間の耳は聞きたいものを聞き、聞きたくないものを聞かなくできる能力がある。
暗い帷の落ちるなか、騒がしい展望台で佐羅谷と玉木の会話は、はっきりと聞こえた。
「よう、遅かったな。待ちくたびれたぜ」
「あなたと話すことはないのだけど、また何か用事でもあるのかしら」
「残念ながら今ここで話すような内容じゃないな」
「そう。人に聞かれて困るような話をしないでくれる?」
「聞かれて困るのは、おまえだ。昔の素行を知られて、今の立場をーー」
俺も宇代木も、二人の会話に集中していた。まったく周囲に注意が行き届かなかった。
佐羅谷と玉木の間に割って入るまで、存在にさえ気づかなかった。
「何してんの、あんた」
胸の底に響く声だった。
「近づくなって言ったじゃん」
喧騒が吸い込まれて消えた。
三根まどか。
丸いボブが心なしか青白く光を帯びて見える。灰色に冷えた瞳。燃え立つ殺気が全身を覆っている。
とんっと佐羅谷の胸を押して、遠ざける。
佐羅谷がよろけて下がる。
展望台に集まった何十人かが、凍りついて動けない。犬養先生はじっと様子を窺っているが、谷垣内でさえ事態を把握できていない。
「別に、近づく気はないわ」
「近づく気もないなら、なんでこんなに人がいる展望台の隅っこで、二人で向かい合ってんのさ?」
「用があるのは、わたしじゃなく玉木くんよ」
「そうなるように誘導してるんでしょ?」
「落ち着けよ、三根」
玉木が後ろから三根の両肩をつかむ。
「元はと言えば!」
三根は玉木の両手を剥がして、今度は玉木を問い詰める。
「あんたが二股かけようってのがいけないんだよ!」
「二股とは言いがかりも」
「じゃあ、今ここで宣言して。私のことが好きだって。私と付き合ってるって」
三根の追及は止まらない。
いちおう三根と玉木の関係を知っている身としてはお互いの言い分もわかるが、先入観なしで見ていると一方的に玉木の株が下がる一方だろう。
三根は玉木と向かい合い、切り揃えた前髪の下から睨みつけている。
玉木は肝が座っていた。
佐羅谷や周囲の視線を気にすることなく、堂々としていた。
(全然動揺もしない。すげえ根性だ)
こんな劇場に立たされたら、己に非がなくてもどぎまぎするものではないか。
玉木は平然と、そう、まるで王者のように長い息を吐いた。
「何の話かわからないな。少し頭を冷やしたらどうだ?」
「……このクソ詐欺師!」
ぱぁんっ!
三根の平手が玉木の頬を打った。
夜の展望台に甲高い破裂音が吸い込まれて消える。
時が溶けた。
玉木が口元を拭う。
三根は手を振り抜いたまま固まっていた。はあはあと熱い息づかいがこちらまで聞こえる。
「そこまでだ!」
沈黙を破って、犬養先生が二人を引き離す。三根の腕を掴んで、玉木の間に割りこむ。
「恋愛のことは当事者以外はわからないが、これ以上の暴力はいけない。君も、いいね?」
「女を殴るようなカッコ悪いことはしませんよ」
「そうか、それはよかった。あとで湿布をあげるから、教職員の部屋に来なさい」
玉木が冷静なのを見て、犬養先生は腕を掴んだままの三根の顔を覗き込む。
いつのまにか那知合と上地、沖ノ口が囲っていた。物言いたげな、不安げな顔だ。脇には谷垣内が渋い表情で玉木を見つめている。
「君も、事情はわからないが、いったん落ち着きなさい」
三根は小さく頷いた。
「先生、まど……三根は友達だから、あとはあたしたちが」
那知合が三根を抱くように引き寄せる。
「そうか。あとは任せよう。さて、では諸君、そろそろ自由時間も終わりだ! 夕飯までにホテルの食堂に行くように!」
動けなかった生徒も、先生の解散のことばに金縛りが解ける。特に三根や玉木と近しくない者は我先に展望台から降りていく。
俺と宇代木の横をどんどん通り過ぎて、人が減る。佐羅谷と玉木は最初の位置から動かない。犬養先生は全員がいなくなるまで留どまるつもりだ。
谷垣内を先頭に、三根を囲む女子が隣を通る。
通り過ぎるとき、三根は俯いたまま確かに言った。
「めちゃくちゃに、壊してあげたよ?」
「宇代木、佐羅谷を頼む」
「うん、わかったー」
宇代木は頭の回転が速い。
最後まで残っていた俺たちと玉木。
一緒に帰るには剣呑な組み合わせだ。犬養先生がいるから滅多なことは起きまいが、修学旅行の気分に水を差す。
佐羅谷が玉木を苦手にしているのを察して、宇代木は素早く佐羅谷を連れて行く。
最後まで残ったのは、俺と玉木。
あたりは既に真っ暗で、気を抜くと顔も表情も見えない。
「さあ、君たちも帰りなさい」
犬養先生は最後まで残るつもりだ。
俺と玉木はどちらともなく並んで歩き、展望台から山道を下る。もう佐羅谷たちの背中も見えず、離れて後ろから犬養先生の足音だけがついてくる。
静かだった。
「九頭川」
玉木の声は無風だった。
「恋愛相談部はこうやって私情を優先するのか」
「恋愛研究会な」
俺は部長の真似をして訂正する。
「期待に沿えませんでしたか、主よ」
「曲解するランプの魔人にはお灸を据えねばならないな」
「願い事は三度、あと一度でございます」
「そうか。あと一度か」
玉木は考えこむ。
そうだ、今後三学期で大きなイベントはない。玉木が佐羅谷に手を出す機会はないはずだ。
玉木の性格から言って、普通の何もない日に、佐羅谷に働きかけることはないはず。
そして、新学期になれば恋愛研究会は部活になり、形が整う。俺が表立って動けるようになる。個々人の個性に依存した不安定な集団から、全員がただの部員になる。それまでの時間が稼げたら良いのだ。
「あと一度か、あと一度か」
玉木は何度も同じことばを繰り返す。
ぶつぶつと独り言を繰り返し、虚ろな目で深く考え込んでいることだけがわかる。不気味だった。見たことのない怪物のようだった。
「なるほど、そういうことか」
玉木がほくそ笑んだ。
すべての盤面を読み切った。
そんな顔だった。
ホテルの玄関に入り、眩いロビーのもとで玉木は俺に向き直った。
自信満々だった先ほどとは打って変わって、少し青ざめた悲壮な顔つきだ。
自分の体をパンパンパンと両手でしきりに叩く。まるで変な伝染病に冒された男のようだ。
「おいおい、パンデミック映画の冒頭で死ぬ役みたいな動きをするなよ」
「パンデミックよりダイナミックにヤバいな」
玉木はおちゃらけて見せるが、表情に余裕がない。
「九頭川、最後の願い事だ」
「おう」
「俺に電話してくれ」
「……?」
お安い御用だ。
連絡履歴から玉木を選んで、呼び出す。俺のスマホは呼び出し音がずっと聞こえるが、玉木は電話を取らない。
いや、玉木の体からスマホの音もバイブもまったくしてこない。
玉木がスマホを持っていないわけがない。ホテルの部屋に置き去りということもない。
玉木がスマホをなくした。
そういうことだ。
「おいおい、どうするよ?」
「展望台で通知チェックをした記憶はある」
「そこで落としたのか」
「今さら戻る時間はないな」
自動ドアが開いて、犬養先生が入ってきた。
犬養先生に許可をもらってと考えるが、学校では律儀で厳格な人だ。スマホ所持が禁止ではないにしろ、夕飯の時間を無視して取りに戻るなんて、許可されないだろう。
黙って立っている俺たち二人を視線で食堂へ促し、犬養先生は後ろから圧をかけてくる。ダメだ。俺たちは夕飯を食べるより他の選択肢がない。
「どうする? さすがにこれは俺も一緒に外に出られるように頼んでやるが」
俺たちにとって、スマホは己の半身である。仲良くもない玉木とはいえ、他人事とは思えない。
「風呂前に抜け出すさ。どうせ夜に抜け出す生徒だって多いだろうからな。修学旅行っぽくていい」
「見回りに来たとき、口裏を合わせてやろうか?」
「いや、問題ない。もう九頭川に何かを頼むことは、絶対にない」
食堂の扉をくぐる。
玉木のことばは剃刀より鋭かった。
「三枚のお札は使い切った。あとは、自分の力でやる。もうおまえを煩わせることはないさ。今まで悪かったな」
労いが俺の胸をえぐり、切り裂いた。
逆だ。
優しさではない。
玉木の宣戦布告だ。
俺に何かを頼むことはない、つまり俺を通さずに佐羅谷に働きかける宣言だ。俺に見えないところで、俺の知らない手段で、俺を超越する魅力で、佐羅谷の心を奪うつもりだ。
そして、当然だが俺に邪魔をする権利はない。
最後の願い事なんて、体のいい言い訳だ。玉木は前回と今回の俺の「のらりくらり」を断罪したのだ。
食堂の前で立ちすくむ俺を玉木は顧みる。
「どうした? 食欲がないのか? 食べられるときに、食べた方がいいぜ。食べたくなったときには、「何もかもなくなっている」かもしれないからな」
玉木のスマホは展望台の出入口のベンチの上に落ちていたらしい。玉木はベンチに座ったり、近づいたりした記憶はないという。
少し土で汚れていたが、故障もせず、ロックが解除された形跡もなかった。
「何もなくてよかった。友達の写真もたくさん入っているしな」
修学旅行も、あとは飛行機に乗って帰るのみだ。
奄美空港の広くはないロビーで、帰りの飛行機を待っていた。
修学旅行も終わりが近づき、無尽蔵な体力の高校生も疲労が溜まり、弛緩した空気が流れていた。
本来はクラスごと、班ごとにまとまっていないといけない待ち時間も、気の合う者同士がなんとなく集まっていた。
俺はというと、佐羅谷や宇代木のような人気者と一緒にいられるわけもなく、床にへばっている山崎の横に立ってスマホをいじっていた。
「旅の終わりを感じて泣きそうでござる」
「そーだなー」
「結局、潤いのある話は我には起きなかったでござる」
「自分から動かないからだろ」
適当に相槌を打っていると、顔とスマホの間にぬっと手が差し込まれる。
「なんだ、三根か」
「さっきから呼んでたのに。ちょっと、いいよね?」
「ああ、整列するまでなら」
「じゃあ、こっち」
丸いボブを揺らして、三根は人気のない方へ向かう。俺は「裏切り者!」と叫ぶ山崎を無視して、空港の一角へついて行く。
階段を登って、三階の送迎デッキへ。
平日だから人は少なかった。
滑走路を望む大きなガラスを前に、三根は憑き物が取れたように微笑む。
「やー、どうだった? めちゃくちゃになった?」
「めちゃくちゃにはなった」
三根は結局なにをしたかったのか。
俺はまだ真意を図りかねている。
佐羅谷と喧嘩をするため恋愛研究会に殴り込んできたのも、玉木の計画を潰すために俺の希望を叶えてくれたのも、三根だ。
「だが、これでよかったのか?」
「よかったって、なにが?」
「その、三根は、玉木のことを」
「はー」
腰に手を当てて、三根は深く長く息をついた。
「輔には一生わからないし、わからないほうがいいんじゃないかな」
「佐羅谷にだって、なにか依頼してたんだろ?」
「あー、あったね」
「もしかして、俺がお願いしたせいで三根の希望が叶えられなかったりしたら、」
「輔、それは私に申し訳ないって思ってる? それとも、恋愛相談に傷がつくことを怖がってる?」
顔に出ただろうか。
三根は鋭い。
俺が本当に危惧したのは、三根のことではなくて、佐羅谷の恋愛相談が失敗したという結果だ。言いふらすような女ではないが、人の口に戸は立てられぬ。
佐羅谷には恋愛相談で傷一つないカリスマであってほしいから。
俺はどこまでも利己的だ。
「輔にはさ、今までも助けてもらったしさ。しおちゃんの件も。だから、今回のでいったん全部、精算しようよ」
「三根が、それでいいのなら」
「うん、じゃあ、そろそろ下に行こっか」
あまり長く離れると変な勘ぐりをするやつらも出てくる。三根も気を遣うだろう。
二人つかず離れず階段を降りる。
三階は静かだったが、階段の踊り場まで来ると、かつらぎ高校の生徒の騒々しい声が雪崩のように押し寄せる。
「あーあ、彼氏が社長っていうのはちょっと憧れてたのになあ」
「さすがに高望みが過ぎるな」
「というわけで、私、三根まどかはフリーに戻りました! 彼氏いない歴=年齢だけは回避しました! 輔! いい男紹介してくれなきゃ、イタズラするぞー!」
「そこに谷垣内がおるじゃろ?」
「谷垣内くんは絶対無理じゃろ!」
一年のときのノリを少し思い出した。
そうだ、三根はこういう女子だった。
まん丸いボブを揺らして、丸い眼鏡の奥の目を細めて笑う様子は、過去を超克して一回り成長したかのように感じられた。
ああ、三根はけっこう気を遣って、俺が浮かないように会話をつないでくれていたんだな。
今ごろになってようやく彼女の取りなしに気づく。
一年のときに気づいていたら、三根に対する認識も大きく変化していたかもしれないな。ありえない仮定に、一瞬だけ可能性の狭間を見た気がした。
バスか電車か、それが問題だ。
関空からの帰路の話だ。
修学旅行は楽しかった。
気の置けない仲間と、少し距離感に戸惑う何人かと班になって、新鮮な気持ちだった。
高揚感が消えない。
今ならなんでもできそうな万能感が胸に熱く脈打っている。
この気持ちを分かち合いたい。誰かに話したい。一緒に笑いたい。一緒に幸せを噛み締めたい。
これも山田仁和丸おじさん(40)に言わせると、くだらない集団心理に流された洗脳の一歩手前ということになるのだろう。苦手なことや嫌なことも努力して克服するとなにかしらの達成感を得られる。人はこうやって隷属の道を自ら好き好んで選ぶのだ。
暗い部屋でNHKの映らないテレビを前に、俺の顔を見ずに毒を吐く仁和丸おじさんの口の端はへの字に下がっていた。誰ともしゃべらず日がな一日喜怒哀楽を表出することがないと、表情が死ぬ。どんなに面白い芸人のコントも、仁和丸おじさんには面白くない。
否定し絶望することが、自分を正当化する唯一のよすがになってしまっているのだ。
ただ日々の出来事に笑い、楽しみ、感謝する。
人間を人間たらしめる素朴な感情を圧殺して、前を向けなくなった。
俺には、無理だ。
俺は弱く寂しくちっぽけでどうしようもなくただの人間だ。
だから、飛行機を降りて、引率の先生方が「解散!」と言った途端に音もなくJR線のほうへ向かった佐羅谷の後ろを、ためらいなく追いかけた。
この気持ちを、真っ先に分かち合いたい人間と分かち合うために。
JRの関空快速。天王寺行き。
佐羅谷の後を追う。列車の一番後ろの二人掛けの席の窓際に座ったところを見て、黙って横に座る。
他にも空きがあるのに突然隣に男が来たことを訝しんだ佐羅谷も、俺だとわかって警戒を解く。
「わたし目当てで男が隣に座ってくるなんて日常茶飯事だけど、あなたもそうなのね」
「俺も普通の男なんでな」
「そうね、ただの男ね。少し手が早いだけの」
「手は早くないだろ、佐羅谷の逃げ足のほうが速い」
他の生徒はなんとなく修学旅行の余韻に浸り、帰れるのに帰らない。帰れずに友達や知り合いと駄弁って、ぬるくまつわりつく非日常にしがみつく。
さっさと帰ろうとするのは、友達がいなくて修学旅行なんて本当ならば休みたいと思っていた連中だけだ。
そんな奴らよりも、佐羅谷の行動は早かった。
あらかじめ決めていたのだ。
誰にも引き留められることなく帰ることを。
誤算は、俺だけが佐羅谷を徹底的に追尾していたこと。
「こんなところ見られたら、誤解されるじゃない」
「まだ誰も来ないさ」
電車の扉が閉まる。
窓の向こうの階段の手すりから、黄色のエアリーボブが揺れながら駆け登ってきたが、誰だか特定する前に音もなく静かに電車は出発した。
あとは天王寺まで眠っていても着く。
車内の音声案内が終わってから、俺は尋ねた。
「首尾はどうだった」
「不甲斐ないわ。今回は役に立てなかった。九頭川くんは?」
「俺も上手くなかった。佐羅谷はどんなふうにダメだったんだ?」
「言うのは難しいけれど」
佐羅谷は窓の外を見ながら髪をかき上げた。一瞬、耳たぶになにか深緑色の輝きが見えた気がしたが、夕陽の反射だった。
「結びつけたい人同士の邪魔をしてしまったわ」
「じゃあ依頼は継続か」
「ええ」
「俺のほうは、佐羅谷に手間をかけるかもしれない」
「そんなの、慣れてるわ。わたしは部長なのよ? たまには頼りなさい」
「俺も部員としてちょっとは実績をつけたいんだよ」
「あら、良い心がけね」
「同好会から部活になるんだからな。きちんと自分の名前で成果を書いていきたいだろ」
「部活になれば、わたしに来てる依頼は簡単なのに」
「奇遇だな。俺もたぶん簡単だ」
「じゃあ、あと少しね」
佐羅谷はこちらを見て、優しく微笑んだ。
窓の向こうに太陽、埃舞う車内に低い光がきらきらと反射して、幻惑される。
たまに見せる佐羅谷の演技が抜けた年相応の笑顔。
「わたし、少し寝るから。天王寺に着いたら、起こして」
「ああ、わかっ……」
佐羅谷がバックパックを膝に抱えるのを見て、唐突に思い出した。カバンにびよーんと伸びた動物の小さなぬいぐるみストラップがぶら下がっていたから。
今なら、渡せる。眠気で判断の鈍る今なら。
「ああ、そうだ。佐羅谷にこれを渡したくて」
俺は自分のバッグから紙袋を二つ取り出す。奄美大島のホテルのお土産コーナーで買った、アクリルのアマミノクロウサギがついたイニシャルキーホルダー。
袋を上から覗いて、Aの字がついたほうを渡す。
どう言えばいいのだろう。よければ付けてほしい? 付けてくれると嬉しい? 肌身離さず持っていてくれ? 頭は回っても口からことばは出てこない。
無言のまま差し出すと、無言のまま受け取る。
「?」
紙袋からキーホルダーを取り出して、文字の部分を目にするや、急に慌ててまくし立てる。
「なによ、これ? 九頭川くん、そっちは? もしかして、T? それ、どうする気?」
「どうって、それは、その、」
自分のカバンにつける、と言い出せる空気ではなかった。
「まさか、同じキーホルダーを二人でつけるなんて、言い出さないわよね? それがどういう意味か、わかってるわよね」
「どういうって、そりゃ、なんだよ、そんなに怒るなよ……周りに人もいるんだ」
声の大きくなった佐羅谷に、周囲がちらちらと視線を向ける。
佐羅谷は咳払いをして、声を潜める。
「ほんと、信じられない」
「わかったよ。じゃあ返せよ。もうおまえには何もやらねえよ」
「いやよ。もらったものは返さないわ」
佐羅谷のカバンにはすでにAのキーホルダーがついていた。
なんなんだ、この女。自分では受け取るが、おそろいは嫌か。
「はい、九頭川くんはこれで我慢しなさい」
佐羅谷はそっぽを向きながら、細い紙袋を差し出す。どう見ても同じ紙袋で同じ大きさで同じ重さだった。
袋の中身は、アマミノクロウサギのT。
「おんなじじゃねえか」
「全然違うわ」
「いやだってどちらもTで」
「こちらは、わたしが選んでわたしがあなたに贈ったものよ。どこが同じなの? 付加価値って知ってる?」
佐羅谷が選んで贈った付加価値は、なるほど確かに計り知れない。自分で言うあたりが残念だが。俺だってもちろん、佐羅谷がくれたほうを付けるのは望むところだ。
その場で俺もバッグにぶら下げる。
「あなたが買ったもう一つのT、どうするべきかわかってるわね?」
佐羅谷は窓から外を眺めながらつぶやく。片手でしきりにアマミノクロウサギをいじっていた。
どうするのが正解なのだろう。俺にとっての正解と、佐羅谷にとっての正解と、恋愛研究会としての正解は、一致しない気がした。
俺は、佐羅谷に好まれる答えしか持っていなかった。
「Tの名前を持ってるやつに渡すさ」
佐羅谷の手が止まる。
「そう、そうね、それが、いいわ。そうするべきよ」
大波が来そうでなんとか凪のまま修学旅行は終わり、振替休日を挟んで、授業が始まる。まるで修学旅行などなかったかのように日常の授業が一日を占め、浮かれた気分も期末試験に向けて引き締まった。
まだ旅気分、休み気分が抜けず、部活の時間になっても体は重だるかった。
理科実験室の扉を開けると、すでに四人は中にいた。
「あー、九頭川せんぱい、遅刻ですよ!」
「九頭川さん、修学旅行明けだからって、たるんでるんじゃないですか」
ピンク頭のツーサイドアップを揺らしてマコトがぷんぷん怒り、ウルフカットの隙間から冷たい目で睨んでミコトは静かに怒る。
どうせこの二人はことあるごとに俺にいちゃもんをつける。これが後輩なりのコミュニケーションだ。
「くーやん、ちゃおー」
「それじゃあ、コーヒーを淹れましょうか」
机に置いたカバンに突っ伏したまま、宇代木はひらひらと手を振った。空いた手は、あのキーホルダーをいじっている。
佐羅谷は準備していたバーナーに火を点した。
緩やかな日常があった。
恋愛研究会も生徒会も取り立てて大きなイベントがなく、次は三年生の卒業式まで穏やかに過ぎるだろう。
「あー、くずがわ先輩のカバンもクロウサギついてます!」
「女子二人とお揃いにするなんて、気持ち悪いです、九頭川さん」
「ボクたちもおそろい、ほしかったですぅ」
一年生二人のことばに佐羅谷のカバンを見ると、びよーんと伸びた動物の横に、俺の渡したイニシャルが。外さずにいてくれたようだ。
「そうか、ミコマコも欲しかったか。でも、おまえらは自分たちで好きなのを買ったほうがいいと思うぞ。これはあくまで俺たち二年生の問題だ」
佐羅谷も宇代木も否定しない。
一年生の二人には悪いが、二年生三人の絆は別格だ。俺たちには三人で育んできた関係性がある。三人にだけ許される儚い永遠。
「ほんとうに先輩方の、そういうところには、少しだけ嫉妬します」
「あーあ、ボクも一年早く生まれたかったです!」
出会いは、運であり運命だ。
一学年の差は関係あるともないとも言える。
俺だって、犬養先生がいなければ、ここにいなかったのだ。俺が今のミコマコと同じ感情を抱いていた可能性もあったし、そもそも一人鬱屈して仁和丸おじさん二世のようになっていた可能性もある。
「大丈夫よ」
佐羅谷はコーヒーを配りながら、ミコトとマコトに断言した。
「あなたたちは、最初からわたしたちには届かないものを手に入れているのだから」
温かい。
佐羅谷のことばの意味はわからなかったが、ミコトとマコトを高く評して認めていることは伝わった。
三人と二人が集まって確かに進んでいく一歩一歩。恋愛研究会の未来に、一抹の不安もないように見えた。
このとき、俺は知らなかった。
心温まる陽だまりのような凪が、嵐の前の静けさでしかなかったことを。
いつだって嵐は前触れなく、強烈な鋭さで、大切なものから順に奪っていくのだ。
大切なものを、奪っていくのだ。




