6巻後半『玉木くがねは瑕疵がない』
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)
槻屋尊 (つきや・みこと)
加瀬屋真誠 (かせや・まこと)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田戸真静 (たど・ましず)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)
杉原京香 (すぎはら・きょうか)
大杉右京 (おおすぎ・うきょう)
豆市咲蔵 (まめいち・さくら)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
二章 玉木くがねは瑕疵がない
『九頭川くん、うちに来ないか』
友達も誘ってくれない俺に初めて声をかけてくれたのは、いっとう一番苦手な年上の男だった。
鎌首もたげたマムシの尻尾を踏むか?
「イリヤさん、イノシシだって餌のない罠にはかかりませんよ」
『おやおや、ぼくはただフレンドを誘いたかっただけだよ、罠でないものに、餌は必要ないじゃない?』
「フレンド? フレネミーの間違いじゃないですか」
『おお、いちおうは友達認定してくれているんだね』
「……っ」
スマホ越しに、佐羅谷西哉の爽やかな笑い声。
煙に巻こうと珍しいことばを用いても、イリヤさんは的確に輪を巻いてきた。
『クリスマスに電話をするのは外してあげたってのに、つれないねえ』
「イリヤさんも聖夜はさぞやお忙しかったのではないでしょうか。いつか刺されないようにお気をつけください。それでは、よいお年を」
『よいお年にはまだ少し早いよ。仕方ないね、聞き分けのない子には、罠を仕掛けようか』
「……イリヤさんに、弱みを握られた記憶はありませんが、何をする気ですか」
『くくり罠に餌は必要ないんだよ』
「役場の許可は取ってくださいよ!」
止める間もなく、切れる通話。
イリヤさんとは教育実習の三週間しか顔を合わせていないし、佐羅谷との関係で弱みも匂わせもなかったはずだ。文化祭の演劇で勝手な解釈をしていたが、俺は無言を貫いた。
俺を脅せる写真や情報は、宇代木と沼田原先輩しか持っていないし、今あの二人がむやみに俺を売ることはないだろう。そう信じたい。
そう、俺はイリヤさんのコミュ力の高さを、行動力を、まったく推測できていなかったのだ。
弱みでも何でもない。
俺をいとも簡単に動かす方法は、ここに、この場所に、この家にあった。
イリヤさんの電話が終わって十分後、ドタドタと階段を登る音の後に、ノックもなく部屋の扉が開く。
「おい、輔! おまえ、友達が誘ってくれてるんじゃねえか! そういうときは行くもんだ! 断るなんてとんでもねえ!」
「親父っっ……! 圧倒的権力!」
俺の脳内プロセッサーが高熱を放出して演算を繰り広げる。ありとあらゆる世界線をシミュレートする。結。親父を論破し、打ち倒す姿が想像できない。
理屈も道理も親の圧力に敵うわけもない。親が行けと言ったら、子に否やはない。
「なんだよ、イリヤさん、いつのまに親父の連絡先を」
「あのなあ、輔。友達に誘われたら、すべて快諾しろ。ダブルブッキングのときだけ、日付を改めろ。絶対に拒否するな。動かせる用事は全部動かせ。それが、人間の証だ」
「親父が言うと重いな」
「いいか、一週間は七日ある。だから、女の子とは最大七人と付き合え」
「いい話を台無しにすんなよ!」
やたら楽しそうな親父を追い出し、改めて考える。冬休みの宿題をしながら、適当に。
(イリヤさんも、暇なのかな)
佐羅谷は年末年始に実家に帰ると言っていた。大学の友人も、実家に帰ったり家族と会ったりして、下宿に一人になるイリヤさんは手持ち無沙汰なのだろう。年下の俺を自由に扱えるのは、イリヤさんならではだ。
だが、俺の想像力は貧困だった。
イリヤさんの行動は、実にイリヤさんらしかった。
『とりあえず、大つごもりの昼前に迎えに行くよ。確か、バイクの教習は終わっているんだよね? 免許は取得しておいてくれよ!』
諦めて連絡を取ったら、イリヤさんはけっこうな無茶振りをしてきた。ちなみに、耳慣れない「大つごもり」ということばは、大晦日のことだった。
ほぼ日がない。
免許試験場も年末年始は休みだ。唯一の空いた日は、沼田原先輩と遊ぶ約束をしていた。
どうしても年内に免許が欲しいからと拝み倒して、半日以上待ちぼうけさせるが新ノ口の試験場までついてきてもらうことにした。
「まったく、せっかく輔と二人きりだってのに」
「はあ、すみません。あとでツインゲートで映画見ましょう」
「期待してるよ。それにしても、私も大学受験が終わったら教習所に通おうかなあ」
「大学行くなら、車の免許あったほうがいいですよね」
「はあ、輔が先に大人になっちゃうね」
「まぎらわしい言い方をしないでください!」
新ノ口駅から試験場まで歩いて話していると、沼田原先輩の機嫌も治ってきた。
歩きにくいだろうに、妙に腕を絡めてくる。ふわりと、女子の香りと熱が俺の耳を撫でた。
のけぞっていると、沼田原先輩の呟きが風に紛れる。
「一緒にいられるのは、今日までだから」
そろそろ、受験も本番だ。俺と遊んでいる時間もないだろう。特に、生徒会長の業務に忙殺されていたぶんを取り返すべく、人一倍勉強に励まなければならない立場だ。
沼田原先輩は、本性が生真面目だ。
免許試験場の中に入り、建物の入り口のところで時間まで雑談する。
年末で休みの人が多いのだろう、免許センターに来る人が多い。高校生や大学生、大人もひっきりなしに建物に入っていく。
その中の一人が、俺たちの横で足を止める。
「あれ、九頭川くん?」
「田ノ瀬……」
「おや、田ノ瀬くんじゃないか。君も免許を取ったのかい」
一人で、しかし多数の女子の視線を集めながら、田ノ瀬は俺たちのそばで立ち止まる。
どんな顔を向けたらいい?
たとえ演技だとわかったとしても、クリスマスイブの行動に本心から納得したわけではない。
田ノ瀬は眉を困ったようにハの字にして、立ち尽くしている。
このままでは、埒があかない。
「依莉先輩、すみませんが、しばらく席を外してもらえませんか」
「ふーん。私、さかい珈琲のパンケーキが食べたい」
「はい、あとでおごらせていただきます」
けっこうな負担が懐にのしかかるが、沼田原先輩は試験場内の建物に消えた。
「さあ、未来のパンケーキで時間を錬成したぞ。代金以上に、俺を楽しませる話をしてくれよ?」
わだかまりは難しい。
仲直りは難しい。
真剣は恥ずかしい。
だったら、道化になれ。
田ノ瀬がほんの少し、ほっとした息を吐いた。
免許を取得し、ツインゲートで映画を見る。葛城まで帰ってきてDCMの横のさかい珈琲で沼田原先輩と向かい合ってパンケーキをつついていた。
免許証を珍しげに矯めつ眇めつする沼田原先輩がかわいらしく見えた。
「ねえ、それで、田ノ瀬くんは何だったんだい」
ひとしきり雑談と映画の感想が終わって、会話の途切れたところで聞きにくそうに言った。
「懸案は、いちおうすべて解決しました」
俺には、田ノ瀬のようにただ存在するだけで異性が寄ってくる男だった経験がない。だから、どんな思考であえて佐羅谷を選んで、欲したのかわからない。
やつの言う「佐羅谷さんは、僕にちょうどいいと思ったんだ」ということばにけれん味はなかった。カチンと来た。続けて、「でも彼女は僕を選べなかった」のことばに安堵しつつ苛立つ自分がいた。
気がつくと、沼田原先輩がパンケーキを切る手を止めていた。
怜悧で鋭い瞳が揺らぎながら俺を見つめていた。あまり考えないようにしていたが、この人も中性的で端正な顔立ちをしていて、人目を惹きつける。
(いつまでも俺の都合で恣意にしては駄目だ)
俺と付き合っているふりをして、沼田原先輩の出会いの可能性を奪ってはいけない。俺の問題は解決した。
「あの、」
俺のことばは、沼田原先輩の足が止めた。
テーブルの下だ。
靴を脱いだ沼田原先輩の靴下越しの足が、俺の膝を、太ももの内側を這う。
「ちょ、先輩?」
「ねえ、輔。私は、もうじき受験なんだ。今とても大事な時期なんだ。わかるね? もしこんなときに恋人から別れ話を切り出されたら、勉強なんて手につかないし、受験も失敗するだろうし、もしかしたらこのまま引きこもって、立ち直れなくなってしまうかもしれないと思うんだ」
「先輩とは付き合っっ」
付き合ってないと言う前に遮られた。
沼田原先輩の足の指が、俺の内股をつねる。器用な!
「あー、私が引きこもりニートになったら、どうやって責任を取ってくれるんだろうなあ。私から、何もかも奪ったクズガワ君?」
長い足が徐々に伸びてきて、俺の内股のさらに奥を探ろうとする。横にずれて躱す。沼田原先輩は楽しそうに悲しそうに笑った。
「お願いだよ、もう少しだけ、もう少しだけ、私に夢をちょうだい」
女子にこんな顔をされて拒否できるほど、俺は女慣れしていない。
絶対に、気を許しちゃダメだ。なんとも思っていなくても、引きずりこまれる。受験が終わったら、きちんと話をしよう。このあやふやな関係をあいまいなまま維持したら、絶対にあとで大変な目に遭う。
「今だけ、ですよ」
沼田原先輩の唇が、緩く弧を描いたように見えた。
俺は伝票を掴んだ。
冬の太陽は、短い。
そしてやってくる十二月三十一日。
大晦日。
いつもは親父と家でのんびりと掃除しながら過ごすが、今回は違う。玄関口には一泊のお泊まりセットその他諸々が入ったボストンバッグ。冬の装いの厚着の中、ポケットの財布にはお年玉分として多めの現金。これは親父が弾んでくれた。
落ち着きなく居間でスマホをいじっていると、youtubeの動画を遮ってイリヤさんから通知が来た。
『着いたよ』
俺は試合に赴く闘士の顔で、風呂掃除をしていた親父に行ってきますと言う。
「おう、見送るぞ」
玄関の扉を開ける。
晴れてカラッとした強い冷気が頬を撫でる。
オレンジと白のツートンカラーのハスラーがアイドリングして停まっていた。運転席の前でイリヤさんが手を振っている。
「やあ、荷物は後部座席に載せておいて」
「はあ」
この後に及んで乗り気になれない俺は、ゆっくりとボストンを後ろに乗せる。
「それじゃあ、輔くんはお預かりします」
「しっかり使ってやってください。輔、粗相のないようにな!」
親父とイリヤさんは昔からの知り合いのように親しげにことばを交わし、仲良くやっている。いったいどこで知り合って、どうやって連絡先を交換したのだろう。謎だ。
「じゃ、行こうか。シートベルトはしたかい?」
俺が助手席に座ると、イリヤさんは笑顔で運転席に就いた。
くるくると切り返すと、袋小路になっている俺の家の前からするすると走り出す。
大晦日の昼前の道路は絶妙に混雑していた。
「それにしても、香芝なら、わざわざ迎えに来てもらわなくてもよかったのに」
「え、香芝? 何を言ってるんだい、実家だよ。十津川村まで、男二人のランデブーさ」
「は? 友達がみんな実家に帰って暇だから、俺を招んだんじゃないんですか?」
「なに言ってるんだい、確かに大学の友達はほとんど実家に帰るけど、九頭川くんと夜通し遊んでみたかったのは、ほんとだよ?」
「十津川の実家ってことは、佐羅谷……妹さんもいるんですよね?」
「当たり前だよ。あまねは二日くらい前に先にバスで帰ったよ」
「俺も帰ります! なんで、そんな、家族団欒に俺みたいなのが参加しなくちゃならないんっすか! 単なる邪魔者じゃないですか!」
「普通は年越しに招かないけどね、今年はスペシャルなんだ。気にするなよ」
「帰ります!」
断固拒否して信号で止まった時に扉を開けようとするが、ロックを外しても反応しない。
「ふふふ、九頭川くん、車にはチャイルドロックと言って、外からしか開けられないモードがあるんだよ」
「用意周到! 完全に詐欺師の顔だ!」
「さ、十津川村まで二時間半、楽しんでいこう!」
「トイレ! あー、トイレ行きたいなー!」
「大塔の道の駅で休憩してあげるよ。一時間くらい待って」
「あー、漏れそうだなー! このままだとイリヤさんの車を汚してしまうなー!」
「そんなこともあろうかと携帯トイレもあるよ」
ダメだ、俺の思いつきはイリヤさんの手回しで見事に回避される。逃げ道はない。
男同士でお泊まりなんてのも、楽しいかもしれないと思っていた時期がありました。やられた。
俺も別に佐羅谷の実家や、一つ屋根の下にいられることに興味がないわけではない。ただその両親や兄がいるところで、どんな態度で接したらよいのかわからないのだ。
俺の親父なら、佐羅谷を見ても拒絶したりしないのはわかる。あるがままを受け入れる度量がある。そういう考え方の親だからだ。
しかし、佐羅谷の両親がそうとは思わない。イリヤさんだって、佐羅谷に近い俺に対して、思うところはあるはずだ。
当人が付き合っていない、ただの部活仲間だと言ったところで、周りはそうは見ない。ましてや、実家に泊まるとなれば、招くとなれば、ただの友達以上と見做されていると親は判断するだろう。
怖い。
心構えもなく、いきなり相手の両親に値踏みされるのが。
俺たちは、カッコをつけたところで、自立もできないただの高校生だ。親が認めてくれなければ、惚れた腫れたも露と消える。
「テイク・イット・イージー」
うんうん唸る俺のこめかみを、イリヤさんが指でポンと弾いた。
前を見て微笑みながら運転する姿は、少しばかり先生っぽかった。この人もバカをやっているようで、もう大人なんだな。
俺とは違うんだ。
ああ、俺も早く一人前になりたい。
佐羅谷の実家は、十津川村の比較的賑やかなところにあった。住所は聞いたが、どうせ覚えられないので、聞き流していた。
ただ、イリヤさんが普通に運転しても、俺の家から二時間以上も山の中を走っていた。
狭い道の先に、斜面を無理矢理に平地にした庭がある。イリヤさんはその更地に車を停めた。
車が五台くらい停められそうな広い庭、大きな平屋建ての家、周囲は急な斜面と石垣とコンクリートの道……
「さあ、着いたよ」
イリヤさんは外から助手席の扉を開ける。ここまで来て、逃げようがない。
家の中から小柄な茶髪の女性が出てきた。イリヤさんと話している顔を見ると、佐羅谷にそっくりだ。佐羅谷を妖艶にした感じだが、言われなければ佐羅谷の姉にしか見えない。
そのうちもう一人、男性が出てきた。こちらはイリヤさんにそっくりだった。二時間の刑事ドラマで主役を張れるような深みある中年だった。
「というわけで、こちらが九頭川くん」
「よろしくねえ、九頭川くん」
「よろしく、楽しんでいってくれ」
「よ、よ、よろしくお願いします。お世話になります」
表面上はにこやかに、俺と佐羅谷家の初顔合わせは終わった。
谷垣内の兄や父と初めて会った時のように緊張した。緊張の原因は、良い格好をしたいからだ。佐羅谷の両親に、好印象を持ってもらいたいという卑しい心だ。
通り一遍の自己紹介を済ますと、二人は用事があるからと慌ただしく消えていった。向こうは当然に大人で、ついぞにこやかな笑顔を崩さなかった。
助かった。
「ホッとした顔してる。珍しい」
「意地悪いですよ、イリヤさん」
「ふふ、君も高校生らしく手伝ってもらうよ。まずは、荷物を置きに行こうか」
「佐羅谷はいないんですか」
「ぼくも佐羅谷なんですけど」
「……妹さんはいないんですか」
「頑なに名前で呼ぶのは拒むんだね」
名前で呼んで、ゴミムシを見る目で射抜かれるのは勘弁だ。
「あまねはきっと今頃、晩ごはんの準備をしてるんじゃないかな」
「へえ、そうですか」
ということは、家の中にいたのだろうか。まあ、どうせ会わずに済ませることはできないのだ。どんな顔でどんな言い訳でどんな性格づけでサプライズするか、せいぜい考えておこう。
「外で鍋とバーベキューをするから、まずはタープを立てて、コンロを組んで、薪割りだね」
イリヤさんは、なんでもできた。
どちらかというと、頭脳派で実務的なことは苦手なのではないかと思っていたが、なんのことはない。遊び呆ける大学生とは仮の姿で、技術も知識も満遍なく備えた若者だった。
「そう、そのロープを引っ張りながら、地面にペグを打って……」
「薪に対して一旦斧を軽く落としてから、もう一度振りかぶって……」
的確でわかりやすい指示。
ただよいように使われているだけなのに、快く汗をかく(直喩)自分がいた。楽しかった。
体を動かして準備するのも、頼りになる人の助手を務めるのも。
谷垣内の時もそうだった。俺は頼りになる兄貴が好きなのかもしれない。一人っ子だし、親父は頼りになるが、それは父親に対する信頼だ。
もう少し身近な年長者が欲しかった。
「うん、良さそうだね。じゃあ、ここにある薪全部割っておいて。ちょっと他の準備をしてくるよ」
「わかりました」
庭の隅に積んである相当な量の薪に一瞬唸ったが、やり始めると面白い。
だんだんコツを掴む。力んで肩や腕や腰が痛いのは、最初だけだ。だんだんと斧の重さだけで、すんなりと薪が割れるようになる。速度も上がる。
ガ、ブン、パコーン、のリズミカルな薪割りに体が温まる。
楽しい。
ガ、ブン、パコーン。
ガ、ブン、パコーン。
ガ、ブン、パコーン。
山のように積んであった短い丸木を、ひたすらに薪に変えていく。俺は人間薪製造機だ。
薪を割り終えると、今度は壁に並べて積んでいく。
「楽しい」
体を動かすのは、好きではなかった。
小学校・中学校の時も、漫画やゲームや小説、アニメだけが面白くて、外の世界に興味なんてなかった。しかし、生ぬるく優しい世界は、安泰であっても救いがなかった。
俺は普通の人間でありたかった。
普通に友達がいて、普通に恋人がいて、普通に仕事をして、普通に結婚をして、普通に子供を育てて、普通に年老いて、普通に死んでいく。
だが、中学の頃に高森を親友として浸っていた世界が、普通ではない気がしたんだ。
(俺は普通にさえ生きられないのではないか?)
いま思うとあれが俺にとっての第二の「誕生」で、自我の目覚めで、恥ずかしい勘違いだったのかもしれないが、ともあれ、俺は普通を目指した。
俺にとって普通の生活を送っている(ように見えた)親父を参考に、親父のようになるべく自分を変えた。
まずは女子にモテたいというあたりが思春期の痛々しさだが、俺にとって親父はモテる男だったのだから、致し方がない。
紆余曲折を経て、いま俺は体を動かすことの喜びを全身で享受している。谷垣内がバスケに情熱を注ぐのも、那知合が休みの日にもダンスの練習をしているのも、以前は共感できなかったが、少しだけわかる気がした。
心の病は体の病だ。
心が元気になると体が元気になるのではない。体を元気に動かすと、心も元気になるのだ。
外の世界は厳しくも温かい。創作のもたらす優しさとはまた別種だが。
二年になって、本当に俺の周辺は目まぐるしく変わった。きっかけは犬養先生が俺を恋愛研究会に連れて行ってくれたからだが、直接的にはーー。
「佐羅谷、だよな」
「ぼくがどうかしたかい?」
「い、イリヤさん!?」
「まったく、キミは集中すると周りが全然見えなくなるねえ、大したコンセントレーションだよ。薪割りは?」
「あ、それは終わりました」
「あんなにあったのに?」
「あんなにあったのに」
俺が積み上げた薪を指差すと、イリヤさんはかぶりを振った。
「じゃあ、ご褒美をあげよう」
すでに日は陰り、太陽は十津川の深い山並みに隠れていた。大晦日の冷たい空気に曝されて、少し背に滲んだ汗がぞくりと体を冷やす。
こんな時は、熱いくらいのお風呂に入って、体の芯まで温めたいものだ。
夢というには浅薄だが、自宅に温泉が欲しい、露天風呂が欲しいという思いは、日本に生まれたならば、誰しもが一度は考えることではないか。
疲れた体を、自宅の露天風呂(温泉だと尚よし)で癒す。最高の贅沢ではないか。俺は飲酒できないが、家の庭の露天風呂で月を湯面に浮かべながら酩酊するなんて、比類なき幸せではないか。
そして、夢はわりと叶う。
「露天風呂はどう?」
「あー、最高にちょうど良いです……」
幸せはしかし気まずさも漂う。
佐羅谷家の庭の隅にある露天風呂で、ぼうっと外を眺めていた。囲いのほとんどない屋外の湯舟。見えるのは山の緑と、かすかにダム湖の湖面だけで、誰かに見られる可能性はないが、若干落ち着かない。
俺が湯にくつろいでいる裏で、イリヤさんが薪をくべているからだ。
「そして、どうだい、未来の兄に風呂番をさせてくつろぐ気分は?」
「胃がキリキリと痛みそうです」
「なんだい、ぼくの沸かしたお風呂に入れないっていうのかい」
「本当に胃が痛んできました」
よくわからないが、カンイジョウスイではなく谷水を直接引いてきて、お風呂の湯にしているらしい。だから、実質的にかかる費用は薪代だけという。
「よくこんな露天風呂、作る気になりましたね」
「これはぼくとあまねが露天風呂が欲しいと言って、自分で作ったんだよ。手間がかかるから、結局ほとんど使わなかったんだけどね。友達を招いた時なんかは、喜ばれるし遊べるから重宝してるけどね」
「手作りですか、すごいですね。確かにちょっとできない経験ですよ、こんな開放的なお風呂は」
「……ま、ぼくたちには本当は必要なかったモノなんだけどね」
「それはどういう意味で?」
「こういうことだよ」
薪をくべる手を休める。
イリヤさんは俺の頭を通り越して、庭の入り口を見ていた。
俺の後頭部に、鈴のように快い声が響く。
「まったく、この男は、人の家の庭で裸になるなんて、いったい何を考えているのかしら」
「うええぇぇぇ、くーやんなんでいるのー? ろしゅつきょうだー!」
「な、宇代木もいるのか!? これは、違う!」
思わず、振り返りざま露天風呂の湯船で立ち上がる。
立ち上がる。
目隠しのほとんどない湯船で、立ち上がる。
「あ」
全員の声が重なった。
どうなるかは、わかるな?
ざばんと一度波打った湯が静まる。
ばちばちと窯の火の粉が爆ぜる。
俺の髪から一粒落ちた水滴は、風呂の水か冷や汗か、果たしてどちらだったろう。
「九頭川くん、なかなかやるねえ」
「うはーー!! うはー!」
「その貧相なものをしまいなさい」
慌てて湯船に沈んでも、見られた事実は消えない。三秒ルールはない。もうお婿に行けない……。
「ひ、貧相なんだ」
ロシアの女子(見たことはないがそんな雰囲気)みたいなファッションの宇代木が、ぽつりとつぶやく。
やめて、しみじみと考えないで、想像しないで。というか、宇代木なら別に男のものを見るのは初めてでもあるまい。自分でそういう薄い本も描いているのだし。
「別に彼のは貧相でもないと思うけど」
「そこは問題じゃないわ、イリヤ。まったく、九頭川くんもよ。あなたには羞恥心はないの」
スキー場にでも向かうような姿の佐羅谷は、眉間に皺を寄せて震えている。怖い。
「羞恥心はあります……同級生の女子に見られるととても恥ずかしいです……」
「だったら、さっさと服を着なさい」
そこにいられると、服さえ取れませんが。
「ほんとう、イリヤも意地悪なんだから。せっかく十津川に来たのに、なんで温泉に行かないのよ」
「そだよー、こっから歩いても十五分くらいなのにー。あたしたちも温泉帰りだよー!」
そういえば、二人の頬はほのかに赤く、血行が良さそうだ。
「イリヤさん」
「おや、温泉が近いのかー、九頭川くんあとで一緒に行こうか」
「なんで歩いて行ける温泉があるのに、家に露天風呂なんて作ったんですか。しかも、俺を入れたんですか!」
「んー、面白そうだったから?」
「面白かったですけど!」
「じゃあよかった」
そのとき、家の中から佐羅谷の両親の呼び声がした。
「そろそろ、ご飯の準備をしようか」
どうやら、温泉はしばしお預けのようだ。
「普通は大つごもりにこんな食事はしないんだけど」
とはイリヤさんの言だった。
二十八日に餅を搗き、二十九日に門松を立て、三十一日に年越参りに出る……などというのが古い風習らしい。
今日の夕飯は、炭火焼きのバーベキューとボタン鍋だった。庭に大きなタープを張って風除けにして、佐羅谷家と宇代木と俺とで好き勝手に料理をとり、雑談しながら腹を満たす。大人三人はビールを飲んでいた。
「いやー、しかしあまねが友達を連れてくるなんて、めでたいめでたい」
少し口が軽くなった佐羅谷父は、朗らかに笑った。
「ほんとう、宇代木ちゃん、九頭川くん、仲良くしてくれてありがとうねえ」
甘い息を吐きながら、佐羅谷母は屈託なく笑った。
「あたしもーあまねがいなかったらどーなってたことか〜。初めて家に呼んでくれて、やっと友達に認めてくれたんだなーってうれしいですー」
宇代木はすでに家族ぐるみの付き合いかのように馴染んでいた。
言葉数少なに、どこか居心地悪そうに、佐羅谷は黙ってボタン鍋をポン酢で食べていた。親がいる場所では、なかなかいつもの調子で振る舞えない。わかる。わかる。
俺はバーベキュー串を一本持って、隣の椅子に座った。椅子と言っても、丸太を切って磨き処理をしただけの簡単な造りだ。
佐羅谷の視線を頬に感じる。
「ほんとう、どうしてあなたがいるのよ」
「イリヤさんに拐われて、親父に命令された」
「自主性のない男ね」
「年上は敬う主義なんだ」
「九頭川くんらしいわ」
佐羅谷と二人きりでことばを交わすのは、いつ以来だろう。
ざわめきが、遠い。
考えを巡らしていると、佐羅谷の頭が動いた。俺の食べさしのバーベキュー串から、ちょうど肉を一つ奪われる。
「あー、やっと肉まで来たのに!」
「ふふ、最近やけに食が進むのよね」
「ボクシングしてるからじゃね? 気をつけろよ、体も小さいんだし、運動神経だって良くはないんだから」
「キックボクシングよ。別に試合したり強くなるためじゃないわ。ボクササイズというの? 最低限の体力をつけたかっただけ」
肉を咀嚼した口唇周りを、なまめかしく舌が舐める。見てはいけない気がして顔を背けると、目の前に満面の笑みの宇代木がいた。おまえ、今の今まで佐羅谷両親の間にいなかったか?
「あーむ、あー、おいひー!」
俺のバーベキュー串から最後の肉が消えた。なんでだよ。まだ串はコンロに残ってるぞ。
「くーやん、食べてるー?」
「今まさに食べられたよ」
「にししー」
宇代木は魅力的な大きな目を細めて、隣の丸太椅子に座る。
酔ってもいないだろうにテンションが高い。俺と二人っきりのときは、俺に合わせて抑え気味にしていてくれたんだな。もう宇代木と二人きりになることはないだろうな。
「宇代木、悪いな。佐羅谷と二人っきりになりたかったんじゃねえか」
「ううん、そんなことないよー! むしろさすがに家族水入らずに一人お邪魔するほうが気まずかったかもだよー」
「確かに。なんで年末年始に友達を呼ぶんだろうな?」
「さー? でも来てよかったよ」
宇代木の目は佐羅谷を追っている。
深窓の令嬢は演技だと思っていた。ところが、佐羅谷は家でも大して変化がなかった。イリヤさんや沼田原先輩の入れ知恵で作った性格ではなく、わりと生来からこんなキャラクターだったのだろう。
裏表があってもいいが、友達なら、裏も知りたい。裏も見せてほしい。そう思うのは自然だ。
宇代木の顔は、ほんとうの佐羅谷の姿を見られて安堵している顔だ。じゃあ、あとは宇代木が佐羅谷に、ほんとうの自分の顔を見せるんだ。二人の友情は、お互いの裏表を愛することで完成する。
「あ、そうだ、二人っきりっていったらさー、今度かつらぎ高校の近くにツイッツイーツができるらしいよー!」
「ツイッツイーツ?」
「ああ、ぼくもそれは聞いたよ」
「東京で流行ってるらしいわね」
佐羅谷兄妹は知っているらしい。
「ツイッツイーツはねー、二人でしか入れないスイーツのお店なのだー!」
宇代木は得意げに説明してくれる。
「二人でしか入れない? それはまた、えらく尖ったルールだな」
「そ。一人でも三人でもダメ〜」
「よく考えられたコンセプトさ。企業理念は「すべては二人のために」。店内は席同士の間隔も広くて、目隠しに見えないおしゃれなパーテーションで区切られてる。まさに、二人だけがいるかのような幻想に浸れる。料金は時間制で、カトラリーは一卓に一組しか使えない」
「まるで見てきたみたいに詳しいですね、イリヤさん」
「日経MJに紹介記事があってね。たまたま読んでた。社長が高校生だったかな? すごくやり手らしくてね。確か、何とかタマキさんだったっけ。でも、まだ東京にしか店舗がないのに、次の展開が奈良県だなんて、不思議だね」
確かに。
普通は大阪や名古屋あたりに店舗を出して様子を見るのではないか。
しかし高校生で社長とはすごい。スイーツのお店でタマキさんということは、女子だろうか。できるものなんだな。ただ大人になりたい、一人前になりたいと言いつつ、己の恋愛さえままならない俺とは違う。
「まーいいじゃんか、東京の次が奈良なら奈良でさー。それよか、くーやん、一人でも三人でも無理なんだよー」
「それは聞いた。佐羅谷と行けばいいじゃないか」
「わたしは嫌よ。恋人の巣窟に……友達と行くなんて、肩身が狭いわ」
佐羅谷はボタン鍋の〆のうどんを掬う。友達の一言だけ言い澱むあたりが、友達の少なさを露呈している。俺も人のことは言えないが。
「僕はダメだよ。予定だけでもいっぱいだから」
イリヤさんは、ビールから日本酒に代わっていた。だいぶ顔が赤い。ほんとうにこの人は恵まれた容姿と性格と頭脳で、好き勝手遊び回っているようだ。
「あたしもイリヤさんはイヤです〜。だ!け!ど! 同行者のあてがないんですよねー。友達はたっくさんいるんだけどー」
何のアピールかわからないが、宇代木に友達が多いのはわかっている。女子同士が嫌なら、一緒に行きたいという男友達も多いだろう。何をためらうのか。
「三人じゃ、ダメなのよねえ」
「そ。三人じゃ、ダメなんだよー」
俺を挟んで、佐羅谷と宇代木が目と目で通じ合っている。
前にいるイリヤさんに助けを求めるが、気持ちよさそうに酩酊していて役に立たなかった。
「ははは、ぼくが男と一緒に寝るなんて、そんな気持ち悪いことするわけがないじゃないか。おやすみ、安らかに眠れ」
「レスト・イン・ピースは使いどころが違うし、どのみち俺は社会的にも死にます!」
夕食も楽しく終わり、後片付けも一段落してさあそろそろ床に就こうというとき、部屋割りに窮する。
「九頭川くん、知っていると思うが、日本の家屋は防音性が弱いんだ」
「そうですね」
俺の両肩を押さえつけ、赤い顔のまま真剣な眼差し。
布団を敷いた部屋は畳敷きで、区切りは壁ではなく襖。旧来の作りの家屋だ。
「だから、かつては暗黙の了解で、戸を閉めた向こうの音は、たとえどんな営みでも聞こえないふりをするのが常識だったんだ」
「そ、そうですか」
そのまま俺の耳元にささやく。
「大丈夫、ぼくも両親も、聞こえないふりをするから」
「ダメじゃないですか! というか、何もしませんよ! 聞かれてやましいことなんて!」
俺がイリヤさんを突き放すと、奥の部屋から佐羅谷が顔を出した。
「静かになさい、二人とも。何時だと思っているの。ほら、九頭川くんはこっちよ」
「はは、じゃあね、おやすみ。良いお年を」
そして、俺たちいつもの三人は、八畳くらいの畳の部屋で布団を並べる。荷物らしい荷物もない、あまり使われた感じのない部屋だ。この家自体広くて、家族四人で住むには少々寂しく、来客用に空いていた部屋なのだろう。じゃあ一人で寝させてほしいが。
川の字に並んだ布団と大きな石油ストーブ。日本の家屋の作りのせいで、全開のストーブでも空気は凛と冴えていた。
食事中の賑やかさとは裏腹に、音もなくことばも聞こえず、何となく宇代木を真ん中に、各々自分のものと思う布団に座っていた。
はしゃいだ後の気まずさで、三人とも黙っている。
大晦日の夜に、眠るには早すぎる時間だ。
耳を澄ますと、わずかに紅白歌合戦の音が漏れてくる。佐羅谷の両親だろうか。老いも若きも、紅白に出るような歌手は俺にはまったくわからなかった。
「ほんと、どうして大人は大晦日に紅白を見るのかしら」
「ぶふー」
佐羅谷の小声に宇代木が吹いた。
「あはー、オトナにはオトナの事情があるんだよー。髪の毛染めるなとかピアス開けるなとかメイクするなとか、誰も守ってないよーな決まりがあるみたいにねー」
「免許取るな、とかな」
「そういえば、恋愛も禁止されているそうよ」
「人権侵害じゃねえか」
「よくこの部活できたねー」
世界に、音が戻った。
三人で大部屋で話をするのは、合宿のとき以来だ。
一年のときとは違う、無理せずありのままの自分でいられる心地よい空間。優しくて物静かな佐羅谷と、明るくて社交的な宇代木と、暗黙の絆で結びつく関係。
恋愛研究会をきっかけに知り合いや友達ができ、俺の学校生活は心身ともに楽しくて豊かでかけがえのないものになった。
守るべきだったのに。
俺が壊したんだ。
放っておけば壊れた。
守るために壊した。
結果は同じだ。
なんだろう、この悲しい共同体は。
俺を救ってくれた恋愛研究会を守ろうとした。
恋愛研究会を守るには、佐羅谷と宇代木の抱えた相互依存を解消して、己で立てるだけの自信をつける、あるいはしがらみを取り除くことが必要だった。
だが、いざ問題を解消すると、二人が恋愛研究会に所属する必要さえなくなった。今は形の上でまだ離脱していない。しかし、きっかけさえあれば、二人はたやすく巣立つだろう。
佐羅谷が、宇代木が、二人の個性がそのまま恋愛研究会だった。
しかし、恋愛研究会は今後、独立して存在する箱になる。箱の中身は、入れ替え可能だ。
変わりゆくのは仕方がない。受け入れよう。
「取り残されたのは、俺じゃないか?」
最後まで箱から出られないのは、九頭川輔だ。
俺は、箱にすがるしかない。
ここにいるからこそ、佐羅谷や宇代木に声をかけることができる。近くにいることができる。連絡を取ることができる。
佐羅谷と宇代木が抜けていったら?
俺は、それが怖い。
俺はまた一人になるんじゃないか?
俺に声をかけてくれる今の友達は、後ろにいる佐羅谷や宇代木の威光じゃないのか?
イリヤさんも、沼田原先輩も、ミコマココンビも。ただの一個人の俺に、興味を持つだろうか。
悶々と悩みながら表面では何もない風を装って、会話に参加する。
宇代木がじっと俺の目を見ていた。カラコン入りの黄色い瞳。
「ねー、くーやん、ちゃんと聞いてるー?」
かき上げた髪のすき間に耳が覗く。耳たぶに付いた銀色のイヤーカフが輝く。
「聞いてる聞いてる」
「うっそだー。ウソツキの匂いだー」
「やめい、においを嗅ごうとするな! 変態さん!」
首元に顔を近づけてくる宇代木を躱すと、奥の布団に座っている佐羅谷と目が合った。
悲しげな目だった。
少し長くなった髪のすき間に覗く耳に、飾り気はない。
「あしたは早いのだし、もう寝ましょうか。九頭川くんも、イリヤの車に揺られて、疲れたでしょう。薪割りまでいっぱいやらされて」
「あー、あれはヤバかったねー! くーやん、働きすぎ!」
「それなりに楽しかったけどな。ていうか、明日、早いのか?」
「それは、明日になってのお楽しみね」
俺が疲れていたのは事実だろう。
体力的にも精神的にも気を張っていた。女子二人がすぐそばで、ガードの緩い姿で笑っているのに、睡魔には敵わなかった。
最後の会話がどうなったかさえ、記憶になかった。
フラれたまま絶望で終わるはずの一年は、人生で最大の輝きに満ちた。
おやすみ、楽しかった一年。
ありがとう、楽しかった一年。
さようなら、楽しかった一年。
おはようございます、あけましておめでとうございます。
定番の挨拶を寝ぼけ眼で交わして朝食をとって、痛烈に冷える山の空気に負けないように厚着をすると、庭兼駐車場に出された。
「寒いー」
「寒いな」
宇代木と並んで立っていると、佐羅谷家の三人がバイクを押しながらやってきた。
正確な車種名はわからないが、ジョルノとカブとモンキーだろうか。どれも小さめで、たぶん原付と小型二輪というものだろう。昨日は見かけなかったので、奥の納屋にでも駐輪していたようだ。
「はい、ヘルメットとグローブ。じゃ、気をつけて」
イリヤさんから預かる。俺も宇代木も反射的に道具を受け取った。
佐羅谷以外が身を震わせながらそうそうに家に戻る。
いっそう厚く着こんでアイヌの少女並みの佐羅谷が、自分だけはシールド付きのかわいらしいヘルメットをかぶる。
「ほら、二人とも早く用意なさい。玉置神社まで行くわよ」
「あ、そっかー、じゃ、あたしモンキーで」
「ほんじゃ俺はカブで」
なんとなく気圧されてヘルメットをかぶり、グローブをつけ、バイクにまたがる。
「って、違う! なんだよ? なんでバイク? 玉置神社って、何?」
「もう、新年早々うるさいわね、男が細かいことを気にしちゃダメよ。初詣に行くのよ」
「いやー、公道でMT車に乗るの初めてだよー。緊張するな―」
「宇代木、順応力高すぎだろ。俺も乗るならMTがいい!」
「教習所でエンストしてたくーやんには渡さないもん」
「ちなみに、そのモンキーはイリヤのだから、傷つけたらきっととても怒ると思うわ」
「そんな大切なもんを簡単に高校生に貸すなよ」
「ちなみに、たぶん凍結していないと思うけれど、道中はくれぐれも注意してね」
「それじゃー、しゅっぱーつ!」
「おー……」
イリヤさんが免許を取っておけと言ったのは、これか。
それにしても、わざわざ初詣のためにバイクまで準備するなんて、すべて予定通りだったのか。まあ、十津川村内は近場を回るにも自転車では遠すぎる。バイクのほうが経済的だ。このカブも両親のものだろうか、年季が入っている。
キーを回してセルを押すと、すんなりとエンジンがかかった。俺の免許で公道デビューは、佐羅谷家のカブになった。
「じゃあ、行くわよ」
佐羅谷がヘルメットのシールドを下げた。
普段見ないスクーターに乗る姿が、少し大人っぽく見えた。
「遠い!」
玉置神社への途中で凍結で進めなくなり、バイクを停めて歩いて、白い駐車場に着くなり、俺は叫んだ。ダウンの前を開けマフラーをほどきながら、宇代木も頷いていた。
「うんうん、あまねん家から一時間も走るわ、途中から歩くわ、寒いのに暑いし、大変だねー」
「標高が高いのだもの、凍結するのも、歩くのも当然よ。ちなみにこの駐車場からも、十五分かかるわ」
「マジか〜」
白く固まった雪の広がる駐車場は、端にトイレが、鳥居のそばに自販機と売店があった。売店は閉まっていた。
自販機の飲み物が下界より大幅に高くて萎える。買うにしても、参詣してからにしよう。
「なーんにもお店ないんだねー。しょぼーんだよ」
「初詣するような神社じゃないんだもの」
「毎年、こんなところまで来てるのか?」
「なに言ってるの、初詣なんて習慣、わたしたちにはないわよ? あなたたちに合わせているだけじゃない」
「俺の初詣に、バイクを凍結路に放置して山道を歩くという記憶はないが」
「あたしは近所の橿原神宮で、人波に流されて変わっていくわたしを許して〜だよ」
宇代木が訳のわからないことを言っている。
「たぶん、家ではワカミズムカエをして、タキゾメでお雑煮を作って、トシガミ様にお供えしているんじゃないかしら」
呪文のように佐羅谷が俺の人生で縁のないことばをつぶやく。
佐羅谷は雪の残る参道を平気ですたすたと進んでいく。体力のない女子だと思っていたが、運動が苦手なだけでやはり山の民なのだろう、歩くだけなら俺よりも力強い。
快い暖かさが体に溜まり、清冽に澄んだ冬の冷気が頬を撫でる。
信心のない俺でも、社屋が見えてくると神妙な気持ちになる。宇代木も同じなのだろう。ブツブツと暑いの寒いの言っていた文句が、聞かれなくなった。
元日の、山奥の雪の積もる神社で、俺たち含め物好きな人間が、新年の挨拶をした。
少しだけ、心が軽くなった気がした。
「ここから山頂まで二十分で登れるけど、どうする? 標高は千メートルくらいよ」
社務所の奥に強烈な傾斜で登っていく階段が見えた。
佐羅谷は無表情で、思考が読めない。
宇代木と顔を見合わせる。
「二十分くらいなら〜」
「がんばろうか」
軽い判断を悔やむ。
山頂の碑があるだけで何の展望もなく、汗が風に曝されて冷えるだけだった。
「玉置神社は山が御神体だもの、やっぱり山頂まで登らないと」
と満足そうに微笑む佐羅谷の顔を見られたのは新年最初の幸せだった。玉置神社のご利益も侮れない。
「それにしても、玉置神社に玉置山か〜。そーいや、ツイッツイーツの会社、タマキさんだっけ、関係あるのかなー?」
「タマキなんてありきたりだし、名字か名前かもわからないわ」
「スイーツの会社だから社長は女子だろう? きっと名前だ。帰ったら、どんな人なのか調べてみるか」
「くーやん、やらしい」
「なんで!? すげえ高校生がいるなら、見てみたいだろ?」
「あーはいはい」
「下心ありありな九頭川くんに、恋愛研究会の部長として新年最初の助言をしてあげましょう。高校生社長を射止めたいなら、あなたも高校生社長になりなさい」
「別に射止めるも何もないだろ!」
俺の言い訳は女子二人に軽く流された。
でも、同世代で会社を作ったなんて、どんなやつなのか、見てみたくなるよな? 住む世界が違うんだ、何かしたい訳じゃない。ただ、才能があって成功していて、さらに見た目や育ちや頭脳が優れていたりすると、薄汚い嫉妬で心が狂いそうになる。
逆だったら、天は二物を与えないんだと安心する一方、自分の小物っぷりが否応なく自分を苛む。
世の中の大人は、自分より優れたすべての人を見ても、自分は自分と割り切って、一般人として生きていくことができるのだろうか。
つまらないことで他者に嫉妬し羨望する。ああ、俺に欲なんてなければよかったのに! 玉置神社に、俺の欲を吸い上げてもらいたかった!
だが、鳥居をくぐってしまうと、もう社殿まで戻る体力はない。残念だ。
本当に残念だ。
道の駅と役場の間の橋を渡ると、ほどなくして滝の湯という温泉に辿りつく。大きな温泉ではないが、川の横に開放的な露天風呂がある。
一月一日の冷たい外気に、掛け流しの湯が深い湯気を上げる。隣の人の顔も朧げだ。立ちこめる硫黄の臭いが、温泉気分をいや増す。
「どうしてイリヤさんは、俺に構うんですか」
「楽しいから」
「年下をおもちゃにするのはさぞや?」
「君は誰かと会うにも、遊ぶにも、理由や話題が必要かい? 何もないけど、何となく話を聞いてほしい、そんなときに気楽に声をかけられないと、友達のいない孤独なおじさんになるよ」
「身近に好例があるからわかりますけどね」
山田仁和丸おじさん(40)は若い時から友達もいないが、それはともかく。
湯気のなか隣に座るイリヤさんの顔はぼやけている。飄々とした口調と違って、冷たくも寂しげに見えた。
「今のままでも及第点はあげられる。でも、クリティカル・ヒットがない。君は何をためらってる?」
「即死に耐性のある妹を育てた人が、好き勝手言いますね」
「愛する妹だからね。ボクみたいなつまらない男に、渡す気はない」
のぼせそうだ。
「俺のやりたいことは一つですよ。邪魔をするなら、イリヤさんでも排除する」
お湯に半分顔を沈めながら、ぶくぶくとつぶやく。
強い決意表明は、イリヤさんにも届いたかどうか。聞き返してくることはなかった。
「なかなかどうして、強くなったね。これじゃあ、時間の問題かな?」
「時間の問題ですね。上がりましょう。ここの湯はちょっと熱すぎます。ついうっかり口を滑らせそうです」
男二人、狭い更衣室で着替えて、畳張りの休憩室で待つ。
「ちゃーおー、お待たせ〜」
ホカホカの湯気をあげながら、宇代木は満面の笑みだ。いつも思うのだが、お風呂上がりでもまたメイクをするのだろうか。女子は大変だ。
「じゃあ、帰ろう」
佐羅谷家に泊まるのは、一日だけだった。突発的に拐われた俺はともかく、宇代木も一泊だった。イリヤさんの運転するハスラーの後部座席に、二人で並ぶ。
「ここから、二時間ちょっとだね。今日はありがとう。あまねにもちゃんと友達がいるって、両親にも見せつけることができたよ」
イリヤさんは何事もなかったかのようにエンジンをかける。始動とともにぶおーんと大音量で、エアコンが冷たい風を噴き出す。じょじょに冷たい風が温かくなってくる。
ゆっくりと車が走り出す。
滝の湯の駐車場を出て、右に曲がる。
「これからもあまねと友達でいてやってね」
イリヤさんの声は、加速するエンジン音に消えた。
◯
日数のない冬休み、前半は用事ばかりで奔走していたツケを払い、帰宅後は宿題に埋もれていた。神山も山崎も高森も入田もネット上のやりとりでは元気そうだった。
沼田原先輩はこれからしばらく学校以外では会えない。受験に注力するとのことだ。結局、年が明けてからの冬休み中は会うこともなかった。もとより俺から会おうと言うことはないのだ。
ミコマココンビは新年の挨拶がスマホに届いただけ。二人の性格が出ていた。
「よっしゃ、宿題、終わり」
俺がプリントを揃えたのは、冬休み最後の昼だった。
まだ時間はあるが、誰かを誘うには遅い。さて、どうすべきか。どのみち夕飯の支度に買い物に出るのは既定だ。
男が立っていた。
偶然だった。
いつもは行かない葛城のオークワまで自転車をこいで、夕食の材料を買う。帰路、国道二十四号線沿いに、リニューアルした建物があった。
確かここはコンビニがあったはずだが、すぐに潰れて空きテナントになっていたはずだ。
すっかり変貌している。
駐車場はそのままだが、建物とファサードが爽やかなスカイブルーのデザインで統一されていて、看板やオブジェも凝った作り。
オリジナルの字体で踊る店名は、ツイッツイーツ。
「なるほど、ここか」
コンビニが元だから大きな建物ではない。カップル限定のスイーツ店だから、大きくなくて良いのだろう。
開業前で、駐車場には虎ロープを引いているが、中に一台高そうな黒いセダンが停まっている。
車の隣に、男が立っていた。
体にぴたりと合う派手なスーツ、長身でスタイルの良さが見てわかる。理知的なメガネの奥には鋭い切長の目が見えた。ゆるくセットしてある赤みがかった髪を、シルバーの腕時計をした左手でかき上げる。
一目でわかる。できる大人だ。
ツイッツイーツの社長は高校生だという話だ。ということは、この男性はそのブレーンかアドバイザーだろうか。いくら優秀な高校生でも、周りの助けがなければ会社なんてできないだろうから。
かっこいい男だ。
顔は見えないが、そういうことではなく、かっこいいと思った。そうだ、俺の周りにはいい男はいる。俳優の田ノ瀬も、バスケ部の谷垣内も、神山や高森、入田さえ高校生としては魅力的だと思う。大人では俺の親父や夏のバイトで知り合ったヒグマ先輩などもいい男だ。イリヤさんは除外。
しかし、今ここに立つ企業幹部然とした男は、どれにも当てはまらないかっこよさだ。
背中の立ち姿だけで感じるこの存在感。
俺には、この魅力を表現する語彙も、存在感を滲出する源も見つけられなかった。
急に視界に知り合いが現れる。
「あれ、輔?」
「三根」
丸いメガネに、まんまるのヘアスタイル。一年のとき那知合のグループにいた中の一人、三根まどかだった。
那知合グループの中では、上地も沖ノ口もギャルっぽい風体だったが、その中で三根だけは異彩を放っていた。いわゆる真面目でおとなしそうな、クラスでも静かそうなタイプだった。同じく真面目で品行方正に見える佐羅谷ほど針が振りきっているわけでもない、あまり目立たない女子。
「あ、あけましておめでとう」
「おう、こっちこそあけましておめでとう。一人でこんなところに、珍しいな」
三根も自転車だった。前カゴには、黒いビニールの袋。四角の型がついている。ブックオフか。
本の内容には触れないほうが良い気がして、目の前の新店舗の話を振る。
「三根も気になるか、こういうところ」
「そうだねえ、私も花の乙女ですから」
「花の乙女は、花の乙女なんてことばを使わないだろ」
「輔も、偵察? 誰と来る気?」
「興味ないね。こういう場所は、谷垣内や那知合みたいな恋人同士が来るところだ」
「また嘘ばっかり。じゃ、経験がてら、私と行ってみる? 何でもしてあげるって約束、残ってるよ」
「記憶にない約束ダネ~。だいたい俺は」
本命以外と来る気はない。
言おうとしたとき、視界の端にいたはずのスーツの男が、虎ロープを挟んだすぐ向こうに立っていた。
「やあ、未来のお客さま。どうだい、二人で来たくなる店構えだろう?」
低めの倍音が直接脳に響く雑味のない声だった。
ただ立っているだけで絵になる。駐まっている車、開店前の店舗。まるで、ビジネス誌のインタビュー記事の見開きのページだ。
目の鋭い男だった。
ビシッと決めた髪の毛に、凛々しいメガネ。使用感はあるが高級そうなスーツ。
ただし、面立ちは想像よりも若かった。
「悪いな、開店は一月十日からなんだ。待てよ、せっかく来てくれたんだ、これをあげよう」
男は長財布からツイッツイーツの招待券を取り出すと、三根に手渡す。
三根は声をかけられてから茫然と男の顔を見ていたが、券を受け取っても金縛りのまま固まっている。
「知ってると思うけど、一枚で二人ぶんだ。感想、SNSで頼むな。彼氏も」
男は俺を見て軽く微笑む。
バイト先の名ばかり管理職の店長とは違う。底知れぬ凄みだ。これが、登り調子の会社の幹部の顔か。
「あ、あの!」
財布をしまいスーツを整えていた男が振り返る。
金縛りの解けた三根は丸い眼で声を張る。いつも穏やかで諭すような口ぶりなのに、今は必死だ。上地を助けてと叫んだ時に近い。
「この券で、あなたとご一緒できますか!」
「おい、三根?」
「二人でしか行けないんですよね? 駄目ですか!」
「え、まいったなあ」
男は俺に得も言われぬ憐憫の視線をくれる。
好きな女子を誘おうと事前に一緒に店舗を確認に来て、その女子が別の男に一目惚れしたシチュエーション……だと思っているのだろう。
かなりレアな状況だが、俺としてはどうでもよい。それにしても、那知合グループでは理性的で緩衝役になることが多かった三根が、こんな突発的な情動に突き動かされるとは。これがあるから、三根もあのグループで普通にやれていたのだろう。
俺のアイコンタクトは男に通じたのかどうか。
男がほんの小声でつぶやく。
「自分の店に、お忍びで行くのもありか」
「え?」
そのとき、駐まっている車の運転席から、声が聞こえた。
「社長! 遊んでないでさっさと帰りますよ」
「ああ、ごめんごめん」
社長?
確か、ツイッツイーツの社長は、高校生ではなかったか。しかもタマキという女子だったのでは。
違う、俺は勝手に思い込んでいただけなんだ。タマキという名の女だと思い込んで。
「これを渡しておくか。じゃあ、またな」
男は一枚の名刺を三根に渡す。三根も相手が社長とまでは思っていなかったようで、また金縛りにかかった。指からこぼれ落ちた名刺を、俺は空中で掴みとる。
タマキ・コーポレーション
代表取締役社長
玉木くがね
これが、俺と玉木の出会いだった。
◯
始業式が終わって、ざわつく教室。
仏頂面の沖ノ口が目の前にいた。
「ん」
教室の扉を指差す。
生徒会長のミコトが顔を半分だけ覗かせていた。見慣れたウルフカットから無表情の瞳。
(また鉢合って呼び出しに使われたわけね)
ため息一つで、ミコトに連れられて生徒会室へ。三学期から改めて正式に生徒会に副会長として参加することになる。今日はその顔見せの日だ。
生徒会長が任命したら認められるとはいえ、さすがに緊張する。
副会長以外は埋まっている生徒会の面々を前に、俺はミコトの横に並んだ。
「こちら、三学期から副会長として参加してもらう九頭川輔さんです。二年生です。九頭川さんは、知っての通り、体育大会で副委員長として活躍してくれました。その他、文化祭などでも名前を覚えている人もいるかもしれません」
生徒会の面々から「あー」とか「あの……」と細々声が聞こえる。俺もそこそこ知られているわけだ。そうせよと佐羅谷に指示されてから、頑張ってきた甲斐がある。
「では、さっそく本日の議題に入ります。二週間後のマラソン大会の件ですが」
俺の挨拶も生徒会の承認もなく、そのまま話が進んでいく。
(おいおい、これでいいのかよ?)
なんとなく一番手前にいた男に目配せするが、力なく首を振った。どうやら、ミコトは相変わらず、相変わらずらしい。
そういえば、この男、見覚えがあるような。
俺が機を逸して頬を掻いていると、
「ほら、九頭川さんぼうっと突っ立ってないで、座ってください。まったく、昼行灯の演技は要りませんよ」
してない、そんな演技。
というか、よく昼行灯なんてことばを知っていたな。今は年末に忠臣蔵さえ放送できない時代なのに。
マラソン大会には大して問題はなかった。
長距離が十キロメートル、短距離が六キロメートル。かつては男女で分かれていたが、例によって社会的な圧力があり、現在は男女ではなく選択制でどちらかを選べる。これは俺にはありがたかった。
結果として、走りガチ勢は十キロを、どうでもいい勢は六キロを選ぶのがかつらぎ高校の定番になった。人数制限はなく、誰もが希望のコースを走る。
しかし、当然というかなんというか、一部のスポーツ系の部活や自信のある者は少なく、十キロコースを走る者は年々減ってきていた。
「由々しき事態だと思います」
ここでミコト会長が余計なことを言った。
「ついては、十キロコースの優秀者と完走者には、なんらかの賞品を準備して、参加者を増やしたいと考えます」
「会長、おことばですが、そんな予算はありません」
会計がおずおずと進言するが、もちろんミコトはいつもの対応だ。
「学校としても、モノで釣って参加者を増やすのは本意ではない。どちらに参加するかは、自分で体力を判断し、選択に責任を持つという意味もある」
奥で会議を監督していた先生のうちの一人、生徒指導の三浦にしてはもっともなことを言った。
「では、モノで釣らずに、お金もかからずに、責任を持てるような報奨ならば、あってもよいということですね」
「ま、まあそうだが」
反論すると思わなかったのだろう。
三浦はヒゲをしごきながら、目が泳ぐ。
「わかりました。では、副会長、なにか優勝者への褒賞を考えてください」
「はい?」
俺は固まった。
部屋の視線が憐れみを帯びている気がした。
「期限は一週間です」
「いや待て早まるな」
「なんですか、ここで実力を見せつけて、早く生徒会の一員として」
「いやいやいやいや、ここは会長の腹案をだな、まずは示してもらって、それを検討したいと思うのだが!」
「もちろん、腹案はあります。それは、九頭川さんがつまらない案を持ってきたときに披露しましょう。ふふふ、次は負けません」
「この、負けず嫌いさんめ!」
実力を見せるなど単なる口実だ。こいつは俺の案が棄却されるところを見たいだけだ。本当に良案を持っているかすら怪しい。
俺の隣にいた男子生徒と目が合う。思い出した。体育祭の実行委員でも一緒にいた気がする。今は会計だ。会計男子。
「副会長、あきらめろ。会長は言い出すと聞かない」
「おまえが副会長やってくれたら、俺はここに来なくてよかったのに」
「やだよ、委員長が恋人みたいに九頭川さん九頭川さんって言ってるのに、信任投票でも立候補したくないよ」
「あー、どうせなら別の人に名前を呼んでもらいたい人生だった」
「そこ、私語は慎みなさい。では、本日の会議は終わります。お疲れ様でした」
ミコトの締めで、三々五々メンバーが席を立つ。
なんとなく最後まで動かなかった。
「九頭川さん、楽しみです」
「九頭川さんは、おしまいだよ」
厭味な笑顔に、厭味な笑顔を返す。
ほんとうに、まいった。
俺、毎月のように何か企画して、開催してないか。さすがに、アイデアの泉も涸れ果てちまうぜ? 温泉だって、永遠に湧くもんじゃねえんだ。
始業式翌日、転入生が来た。
朝のホームルーム、先生の後ろからついてきた男を見て、愕然とした。女子の浮ついた感じと、男子の押し黙る感じが対称的だった。
俺はこの男を知っている。
玉木くがね。
「足長ーい」
「顔ちっさ」
「あのメガネ、ブランドものじゃん」
「おい、美容院の雑誌でしか見たことない腕時計だぜ」
ざわ……ざわ……と教室に私語が満ちる。
「ほら、おまえら静かにな。三学期から一緒に勉強することになった、玉木くがね君だ。さ、自己紹介して」
担任にとっては転校生など日常の一コマで、教室が賑やかになることも慣れているのだろう。
だが、知っているのか。
この高校生男子が、今をときめくカップル限定スイーツ店、ツイッツイーツの社長であることを。
「初めまして」
少し低めの、キレのある声。
音量は大きくもないのに、とても聴きやすい。耳に馴染む。
鋭い目つきをレンズの奥で少し柔らかくして、一番後ろの席の俺を見つける。
「玉木くがねだ。三学期からの参加でこのクラスにいる時間は短いが、みんなと仲良くなりたいと思う。二年ほど海外にいたのでいろいろ日本の高校生活を楽しめたらいいなと思ってる。よろしく」
こういう男を、人生二度目とか強くてニューゲームとかいうんだろうな。まるでチートだ。
人生ゲームの勝者は、清々しいまでの自信に満ちていた。
経営者としての身分は一言も伝えず、自己紹介を終えた。
見た目と持ち物と声と経験。それだけでクラスの半分以上を虜にした。恵まれすぎた環境にやっかみも受けるだろうが、すべて輝くオーラで弾き返しそうだ。
「じゃあ、玉木君、一番後ろの空いている席に」
そして、玉木は俺の隣にやってくる。
複雑な感情の混ざる視線を一顧だにせず、玉木は隣の席に就いた。スタイルの良い体を窮屈そうに曲げる。
視線を感じ、俺は嫌々顔を上げる。
「よう、また会ったな」
舎弟を見つけたような、愛嬌のある笑みだった。
「ほっほー、三学期も深窓の令嬢は麗しゅう〜」
昼休み、窓際の席で山崎と弁当を食べる。今日は作ってきた。
「ほれ、九頭川も見てみるか? また一段と美に磨きがかかっておるぞ」
「いい加減、遠くから見守るんじゃなくて、近づいたらどうだ」
「ばっかもの、九頭川よ、我が近づいたらあまりの神々しさに、浄化消滅してしまうわ!」
「おまえにとって深窓の令嬢は何なんだ」
「なあ、山崎だっけ? その双眼鏡借りていいか?」
「お、おう」
後ろから手が伸びてきた。
玉木だった。
俺の背後から山崎の双眼鏡を掴む。
ふわっと独特の香水の匂いがした。
「そうかそうか、転校生もやはり気になるか、深窓の令嬢が!」
「ああ、気になるね」
一通りグラウンド向こうの尖塔を眺めると、双眼鏡を返した。
「ふうん、あんなにかわいいのに、一人ぼっちなのか? 山崎、それと九頭川、おまえらあの子に詳しかったら、教えてくれよ」
昼の教室に、玉木の大きくもない声が通る。
転校初日だ。
しかも、生まれも育ちも見た目も優れたイケメン男子。様子を見ながらも、言行には注目が集まっている。
そんな男が、深窓の令嬢に興味を持った。
「よ〜し、玉木、そこに座れ! 我れが深窓の令嬢の微に入り細を穿つ情報を提供してしんぜよう! 九頭川研究員! 資料を!」
「その設定久々に思い出したけど、資料なんてねえよ」
またしても山崎とのつまらぬ掛け合いに教室の視線を感じる。玉木がいるからなおさらだ。山崎が意気揚々と佐羅谷あまねの情報を公開する。もっとも、かつらぎ高校の生徒なら知っている浅い話だ。
玉木は目を細めて口だけで笑う。
「おまえら、面白いよ。仲良くやろうぜ」
凄みある視線を尖塔に向ける。
「佐羅谷あまねは誰も好きにならない、か。いいね。欲しくなるな」
どくんと俺の心臓が跳ねた。
まるで直接心臓を掴まれたかのように。玉木の鋭い目は、赤々とぎらついて見えた。
「というわけで、お金がかからず、十キロマラソンの参加者を増やすようなアイデアがほしい」
放課後、俺はいつものいかれたメンバーに召集をかけた。まだ暖房の温もりの残る教室で日当たりの良い窓際に集まる。
山崎、神山、高森、入田。
そして本日友達(?)になった玉木。
玉木は自分の立場については一切そぶりも見せず、ただのおかしな時期の転校生という態度を貫いていた。海外にいたと伝えることで、その他の追求を躱していた。
きっと、普通の高校生として生活したいのだろう。俺もあえて尋ねなかった。
「我はどんな賞品をぶら下げられたとて、十キロを走ろうとは思わないがな!」
「ぼくは十キロコースを走る予定だけど、入賞できる気はしないなあ」
「参加賞ならともかく、入賞ではな」
「うむ。そもそも入賞できる者は、最初から十キロコースを走るであろうからな」
神山以外は運動が苦手で嫌いなので、想定内の解答だ。そう、入賞や優勝者にだけモノを配っても、参加者は増えない。しかし、参加賞のように多人数に配れる原資がない。
黙り込んだ一同に、玉木が助け舟を出してくれる。
「九頭川、予算がないと言ってたが、まったくのゼロではないんだろう? 入賞者にメダルとか全員に飲み物とか、その程度は配ってるんじゃないか」
「確かに。そのくらいは昨年もあったはずだ」
「じゃあ、参加賞の景品を変更するくらいはできるはずだ」
その場で生徒会の会計男子にスマホで聞く。すぐに返ってきた返信によると、もともと優勝者の表彰と記念品、全員の参加賞はあるらしい。俺は記憶にないが。
「だがな、三色ボールペンがフリクションの四色セットになったところで、俺たちが走る距離を増やそうとは思わない。さりとて入賞者だけに予算を増やしても、もらえる可能性のない人間は参加しない。さすがの九頭川も、万策尽きたか?」
高森が憐れむ視線を寄こす。
何とかして今までも乗り越えてきたんだ。今回も、ミコトに一泡吹かせてやりたい。あの無表情女が泡を吹くかどうかは別として。
「お金でもモノでも釣られない人間を振り向かせる。どうしたらいい?」
玉木ががらんとした教室の黒板の前に立つ。絵になった。
同じデザインなのに高級感のある制服に、スラリとした立ち姿。背丈なら長身の高森と同じくらいだが、躍動感を感じる。
腕の動き、頭の向き、顔の変化。
目で追ってしまう。
これが、企業経営者のプレゼン力か。
「声だな! 推しを振り向かせるのに、大声は有効だ!」
「それもあるけど、ちょっと惜しいな」
「参加してくださいって、昼の放送や朝礼で声をかけていくっていうのは」
「確かに、ただ紙を配って選択肢に丸をつけて返させるより、直接にお願いするのは、宣伝効果があるだろう」
「なにかこう、好きな人がいるとかがあったら、俺みたいにお金を出してでも参加するんだろうけどな」
「そう、会いたい人、好きな人がいると、人は案外簡単に動くものだ」
「九頭川は人を乗せるのが上手いではないか。ほれ、被写体と交渉してくれたり、融通してくれたり」
「そうだ、みんな、と声をかけるよりも、君に、と頼まれると嬉しいものなんだ」
いかれたメンバーの話を、少しずつ誘導していく玉木。まるでもともと決まっていた結論に導くかのように、俺に気づかせるかのような助産術。
「体験、だ」
俺の中でつながった。
お金をかけず、参加者を増やす方法。具体的な中身は思いつかないが、なにか特別な体験ができれば、十キロコースを走ろうという人間は増えるはずだ。どうせ六キロも走るのなら、少し頑張って付加価値が得られるほうを走ろう、と考える者も多いはずだ。
「そう、参加者全員に権利というか、名誉というか、この人たちはよくやった! と周りが讃えるような状況があればいいんだ。校長の労いとか体育教師の説教とかではない、同世代からのほんとうの個人に対する」
「そう、そうだ、九頭川。使うのはお金でもモノでもない」
玉木は俺の胸にとん、と拳を当てる。
昨日今日知り合ったばかりの男だとは思えない。こいつはいとも簡単に人のやる気を引き出す。
「ここから先は、自分で考えるんだ。まあ俺に「一枚噛ませ」てくれたら、ありがたいがな」
小声だが有無を言わせぬ強いことばが耳を打つ。
抵抗できない。
一枚噛ませろ。
玉木は、そう言った。
「何でついてくるんだよ、玉木」
「いいじゃねえか、友達だろ?」
「おまえは会って即日で友達になれるのかよ」
「当たり前だろ。おまえは違うのか? 友達の定義とは、とか言い出すタイプか? 友達少ないだろ」
「ちっ」
やりにくい。
無意識の舌打ちなんて長らくなかったのに。
「俺は今から部活なんだよ」
教室でいつもの仲間との話は終わり、それぞれに帰った。部活に行く者、寄り道する者、直帰する者、いろいろだ。俺は理科実験室に顔を出す予定だった。
そこへ、なぜかついてくる玉木。
頭の後ろで手を組み、俺の隣、等間隔で足音が鳴る。
「恋愛研究会」
歩みが止まる。
俺が止まる。
玉木は俺を通り過ぎて、五歩で振り返った。
夕暮れの太陽が、玉木の背後にあった。
「放送、見てたぜ」
間違いない。
玉木は、文化祭での配信を見ている。
つまり、この学校のことも、恋愛研究会のことも、その構成員のことさえも、知っていたんだ。
ツイッツイーツの店舗前で遭遇したのは偶然だが、あの一瞬で気づいたはずだ。
あれが俺だと。
玉木の記憶力やほとばしる才気は嫌というほど理解している。
「知ってたのか」
「あの配信の画質でわかるかよ。わかったのは、今日名前を知ってからだ」
玉木は腕を下ろす。
指折り数える。
「恋愛研究会。佐羅谷あまね、宇代木天、そして、九頭川輔。一日で、わかったことがいろいろある。全員が学校で有名人であることも、独特な扱い方をされている部活だということも」
「俺は、有名でも何でもねえよ」
「苦しい言い逃れだ。女子二人に比べて、って枕詞が抜けてるぞ」
こいつはどこまで知っているんだ。
確かに俺はもう、完全無名とは言い切れない。それもこれも、恋愛研究会の二人に引き上げられただけの知名度だが。
「なあ、九頭川。恋愛研究会は恋愛相談にも乗ってくれるんだって? 女子から聞いた。俺の恋愛相談にも乗ってくれるか?」
どうやって転校初日で恋愛研究会の噂話まで辿り着くんだ。山崎の話は皆目中身がなかったんだぞ。
「相談は、俺でなく部室に来いよ。黒の緞帳の向こうで、深窓の令嬢が受けてくれるさ」
「それは無理だ。当事者に相談はできない。おまえあの二人のどちらかと付き合ってるのか?」
「そんなわけがないだろ」
「ああ、よかった。じゃあ、気兼ねなく依頼できるな」
一呼吸置く。
逆光で暗い玉木の表情は見えなかった。
「佐羅谷あまねは、俺がもらう」
立ちすくむ俺の肩にポンと手を置き、力を込める。
強い握力だ。
肩に痛みが残るほどに。
冬の寒気ではない別種の冷たい刃が喉元に触れる。
これは相談じゃない。
肉食獣の威嚇だ。
「社長は、俺に何をお望みで?」
精一杯おどけてみせた。
「身の程をわきまえて、邪魔をするな」
「邪魔も何も、恋愛研究会は、手助けするのが仕事だ」
「そういう反応か」
体が楽になった。玉木の手が離れた。
「じゃあな、また明日」
快い声が俺の耳を通り過ぎる。
俺が乱れた服を整えているうちに、玉木の影さえ消えた。
何だったんだ、いったい。
身の程なんて、痛いほど実感している。
邪魔なんて、俺にできるわけがない。
だが、どうしてだろうな。
諦めよりも、悔しさが上回る。
この感情を表現することばを、俺は知らなかった。
翌日、昼。
移動教室で少し遅れた俺が弁当を持っていつもの窓際を見ると、山崎含め、普段は別の島を作って弁当を食べているクラスの奴らが外を見ていた。グラウンドだ。
「なんだ、どうした?」
「おお、見よ九頭川!」
山崎の双眼鏡を覗くと、グラウンドを疾走している生徒が見えた。
「あれは、玉木?」
教室を見回すと、明らかに玉木がいない。
「速いし、フォームもいい。玉木、陸上部に勧誘したいな」
誰かの声が聞こえる。
昼休みのチャイムで一番にグラウンドを疾駆した玉木は、例の建物に入った。すぐに最上階ステンドグラスと開口部の大きな窓が並ぶ尖塔の最上階に現れる。
まだ深窓の令嬢は姿を見せていない。
「これはこれはこれはッ!!」
山崎は椅子に片足を乗せて、双眼鏡を覗きながら昂る。プラスチックのSDGs(笑)なスプーンをマイク代わりにする。
「転校二日目にして耳目集める美声の貴公子!! 深窓の令嬢の縄張りに突入だ! 無人の尖塔の最上階、優雅に鏡を見て乱れた制服を整えているッッ!」
転校二日目の男に、山崎は的確な二つ名をつけた。玉木の声が良いと思っていたのは俺だけではなかったようだ。
「あーっと、下手より現るは我らが姫君、佐羅谷あまね嬢! 闖入者を認め顰める眉! 一歩近づく玉木くがねとどんな会話を繰り広げているのか!」
尖塔の様子は肉眼ではほとんど見えない。山崎の解説がすべてだ。ていうか、わかりやすいな、おい。
「驚き、息を呑み、困惑、焦り、目まぐるしく変化する深窓の令嬢の表情! 美声の貴公子の告白は、時に甘露、時に麻薬! あの! 深窓の令嬢が! 揺らいでいるぞッ!」
告白ではない。
佐羅谷は、ただの告白なら絶対に受けない。いつものように、いつもの文言で、余裕綽々で拒絶するはずだ。
沖ノ口が宣戦布告した時と同じだ。
告白ではない。
もっと恐ろしい何かだ。
なんだ、玉木はいったい何を言う?
「手を差し伸べる玉木! おおっと、これは佳境! 自信に満ちた仕草が洗練されて一枚の絵画のようだ! だが、佐羅谷あまね嬢は……」
山崎は双眼鏡に目力を込める。
意味あるのかよそれは。
「悲しげにかぶりを振り、玉木の手は取らないッッ! さすがは我らが深窓の令嬢、美声の貴公子さえ撃沈だ〜ッ! 額を押さえ、信じられないかのように天を仰ぐ玉木。諦めてない、諦めてないぞ、美声の貴公子!」
しかし、いったんは退くようだ。
にべもない佐羅谷の態度に、玉木は尖塔から姿を消した。
しばらくして、玉木は教室に戻ってきた。息一つ乱さず、甘い笑顔で鋭い目つきを隠し、悠然と扉をくぐる。
遠巻きにするクラスの面々には曖昧な笑みを浮かべ、窓際の席に寄ってくる。囲む生徒は自然に道を開ける。
美貌の転校生を狙っていた女子連中も形なしだな。佐羅谷狙いの男子は、頑固でわがままだ。
「おお、玉木氏よ、なかなかに勇気のあるーー」
「何をしてたんだよ」
賑やかな山崎を遮る。
もう隠さない。
降ろした髪の隙間から俺は本気の目で睨む。
「欲しいものがあれば、すぐに動く」
玉木は弁当を机に置いた。
周りの女子が嬌声混じりで囃す。
潔さに惚れる。
「ひゃー、転校して次の日に告白?」
「あー、やっぱりサラタニさんには敵わないかー」
「これ、ヤバくない? 修羅場じゃん」
うるせえよ。
「欲しいものは、手に入ったのかよ」
「手に入った」
玉木は弁当箱の包みを開く。
「と言ったらどうする?」
「ウソだ。佐羅谷あまねは、誰も好きにならない」
「そうみたいだな。面白い。俺が化けの皮を剥がしてやる」
落ち着け。
ここでブチ切れても不恰好なだけだ。
別に玉木は暴力に訴えるとも、金を積むとも言っていない。
佐羅谷の心を溶かして深窓の令嬢の演技をやめさせるなら、俺が文句を言う筋合いもない。
「やっとここまで来た」
弁当に入っていたミニトマトを咀嚼する。
「彼女を救うのは、俺だ」
玉木の独り言は不可解だった。
黙って食べる弁当に味はなかった。
重い空気に、山崎さえバカ話をすることもできなかった。教室までも静まり返り、午後の授業中もピリピリした空気が漂っていた。
沈黙のままホームルームが終わる。
「九頭川、待てよ」
理科実験室への渡り廊下で、キレの良い玉木の声が俺を捕らえる。
「何度も何度も、おまえはストーカーかよ」
「ライバルの動向は気になるに決まってる」
「争いは、同格の者同士でしか起こらないだろうが」
「だったら、九頭川はまごうことなき宿敵だ。同じ性別で、同い年で、同じクラスで、」
「もういい、用事は?」
玉木と口論しても勝てる気がしない。
俺が、今をときめくオシャレなスイーツ店の社長と同格な訳がない。
「これを」
「ツイッツイーツの招待券? 俺と行きたいのか?」
「まさか。これを、次のマラソン大会の入賞特典にしてくれ。三枚ある」
「ツイッツイーツの一回の飲食は、五千円を超えるんだろう? そんな高価なもの、学校行事の賞品として認められるわけがない。だいたい、おまえ、並み居る運動部の強豪を蹴散らして入賞する気か」
玉木は何も答えない。
三枚ということは、安くても一万五千円。マラソン大会の参加を金で釣っていると思われる額だ。
「それをどうにかするのが、恋愛研究会の仕事だろ、生徒会副会長さん。それにこれは、モノじゃない。好きな人と一緒にいる権利だ。説得にツイッツイーツの社長と知り合いだと言っていい」
「友達じゃねえのかよ」
「俺は宿敵と書いて友とルビを振ってる」
「共通の敵が現れるまで敵同士ってか。ほら、さっさと登録しろ」
「なんだ、スマホを見せて」
「友達なんだろ、連絡先交換しておかなきゃ、「非融通不無碍」の生徒会長を説得できねえ」
「はは、オッケーオッケー。しかし非融通不無碍ってなんだよ。アドリブか?」
「アドリブでない会話はねえよ。この世界は舞台じゃねえ」
会話デッキを用意するほど深い話はしていない。
電話番号とメールとその他IDを交換し、俺は仕方なくツイッツイーツの招待券を受け取る。
「よし、じゃあな。副会長の手腕に期待してる」
俺は返事をしない。
押しの強い男は、嫌いだ。
入賞賞品に招待券をねじ込む方法は簡単だ。だが、なるべく使いたくない。
それに、玉木のあの自信。マラソン大会で、入賞することを当為だと暗に示していた。招待券を入賞特典にした時点で、やつは一歩、佐羅谷に近づく。
玉木が廊下の角を曲がろうかという時だった。
またも俺の行手を阻むものが現れる。神様は俺を恋愛研究会へ行かせたくないらしい。
「ここにいた! おい、転校生! ちょっと面貸せよ」
女子としては線の太いがっしりした体格。廊下の真ん中で腰に片手を当て、正面から睨め付ける。
ふわりと頭の片方から流したポニーテールが揺れた。
上地しおりは、戦闘態勢だった。
「なんで九頭川がついてくんだよ」
上地は校舎裏の人気のない方へ突き進む。
足が長くて歩幅が広い。怒り心頭でさらに速足だ。
「明らかに喧嘩腰なやつを二人きりにできるか」
「け、強い者にはすぐ巻かれるよな、おまえ。相変わらず金魚の糞だな」
「女子がそんな慣用句を使うな」
「うるせえ」
上地はときどき顧みて、玉木が逃げていないのを確認する。
玉木が逃げるわけがない。
「九頭川、別にいなくていいぞ。女子に手をあげたりはしない」
「喧嘩そのものがダメだってんだ」
上地は強い。
女子にしては骨格がしっかりしているし、上背もあるし、空手の稽古は今でも怠っていない。性格も苛烈だし、いざというときに技を使うことに抵抗がない。
だが、俺は上地を玉木と二人きりにすることに抵抗があった。
玉木は一見細身だが、スタイルの良さで誤魔化しているだけで、筋肉質だ。しかも、昼のあの走り。スポーツも体系的に学んでいるに違いない。それが武術にまで及んでいるかもしれない。
変なところで脆い上地が打ちのめされるのも、玉木がぼこぼこにされるのも、どちらにしろダメだ。
(ああ、めんどくせえ!)
心の中で独りごちると、上地の足が止まる。
校舎に挟まれた中庭で、人目の少ない植え込みに囲われたベンチにやってくる。
「それで、キミは誰だ? いきなり喧嘩腰で呼び出される覚えはないぞ」
「二年の上地しおり。あたしのことはどうでもいい。あんた、三根に何をした」
「三根? 誰だ?」
「ふざけんなよ!」
俺がいても見えていない。
止める間もなく上地の手が玉木の襟に伸びるが、玉木は微動だにしない。
一瞬だけ上地の瞳に驚きが混じったのを見た。
「玉木、新店の開店前に俺といただろ、あの女子だ」
「ああ、あの丸いメガネの子か。別に大したことはしてないな。一度デートに行っただけで」
行ったのかよ。
確かに三根が突発的に誘っていた。ツイッツイーツか。開店初日ならありうるか。社長なら、順番待ちも予約も不要でビップ待遇で入れるだろう。三根も三根で、本当に動いたのか。
「三根が言ってたぞ! おまえと付き合うことになったって! なのになんだよ、昼間のあれは!? 人を馬鹿にしてんのか!」
「付き合う? ああ、確かに流れでそう返した気もする。なに、別にそのときに彼女がいたわけでもないし、拒絶する理由もなかったからな。何か問題でも?」
「問題ありありだろ! 彼女ができてすぐになんで深窓の令嬢に告白してんだ、会ったこともない女にいきなり告白って、気持ち悪いんだよ」
「それを言ったら、三根さんだって同じだろ。初対面で名前さえ知らないときにデートに誘われて。逆に何を期待してるんだって思うぜ」
「だったら、せめてフッてやれよ! 軽く受けてんじぇねえ!」
「別に、彼女と付き合い続けてもいいぜ? 深窓の令嬢の次でよければだが」
「死ね!」
上地の目が燃えた。
俺は無我夢中で二人の間に割って入った。
とにかく、喧嘩はダメだ。
当事者同士ならまだしも、上地が殴るのはダメだ。
ゴッと鈍い音と痛みが頬に響く。
「九頭川!」
玉木の声が聞こえた。
目がちかちかする。
意識が跳んだ?
気づけば、玉木に抱きかかえられていた。
「意識はあるか?」
「あ、ああ。ケガは?」
「おまえだけだよ」
ぼやける目で前を見ると、青い顔をして上地が震えていた。
「九頭川、なんで! なんでそんな男をかばうんだよ! そいつのせいで、三根が!」
「三根本人が来て、玉木を殴りたいっていうなら、俺だって放っておいたよ。違うだろ、上地。おまえが勝手に先走ってるだけだろ」
「友達が苦しんでるんだ!」
「じゃあ、復讐より先に慰めてやれよ」
「あたしが慰めたって、三根は……おまえのせいだろうが! おまえがもっと早く三根に!」
「三根がなんだよ。昨日に付き合って今日にフラれるような超展開、俺が助ける余地もねえ」
しゃべると口の中が痛い。歯は大丈夫だろうな?
「っとに、この男は! そいつと自分の顔を見比べて、わかんねえのかよ」
「玉木の顔?」
俺は支えられながら、ようやく視点の合ってきた目で玉木を見上げる。
ただのイケメンがいた。
玉木は眼鏡の奥の鋭い目で上地を見ている。
「女子なら一目ぼれするようなイケメンじゃね?」
「馬鹿ばっかかよ! ああ、もういい。玉木、おまえ、二度と三根の前に現れんじゃねえぞ。潰す」
「おお、怖い怖い」
ダンダンと足音を響かせ、上地は校舎に消えた。
とりあえずは一件落着か。
ようやく俺は一人で立てた。
「大丈夫か?」
「大丈夫って聞かれたら、大丈夫って返すよ」
「わけがわからん」
険しかった玉木の表情が緩む。
「九頭川は俺を怒らないのか」
「何を怒れって? 三根をもてあそんだことか? 俺が代わりに殴られたことにか?」
頬が痛みを増してきた。
「友達だったんだろ」
「友達が、どこの誰と付き合おうが、すぐにフラれようが、どうしようもねえだろ」
ネットやマスコミでは、不倫や浮気がとてつもない悪行として非難や罵倒の対象になる。だが、迷惑を受けていない人間まで寄ってたかって憎悪をぶつけるのは間違っている。どんな有名人だって、恋愛の前ではただの人間だ。
人間の心は、時に理性も超える。
道を外れてでも欲しい相手ができたときに、俺は理性を制御しきる自信がない。
だいたい、悪口に参加する面々は、本当は美男美女をとっかえひっかえする誰かに嫉妬しているだけだ。自分が身も心も満たされる伴侶と幸せを享受していたら、どこかの誰かの乱れた話に怒りを感じる時間などない。
だから俺は、玉木が女子をとっかえひっかえしても羨まないし、嫉妬しない。そんな恵まれた男を相手にしても精神衛生上よくない。
ヤフコメで暴れるキモオタヒキニートの山田仁和丸おじさん(40)を見続けた結論だ。ネガティブ感情は何も生み出さない。
「それに、あのままだと上地がやられてたしな」
「友達は守るか」
玉木は学校では内緒にしているが、立場も権力もある。理不尽な暴力に対抗する弁護士だっているだろう。上地が殴ったら、まずいことになっていた可能性もある。
それ以前に、玉木の体。
少し支えられてわかった、やはり鍛え方が違う。ただの優男ではない。黙って殴られるタマではない。玉木だけに。
ツイッツイーツの招待券を入賞者の景品にねじ込むのも、本気で自分が入賞できる自信があるからだ。自分に最適の舞台を作って、あたかも自然にかくあるべき姿でドラマを演出する気だ。当然にマラソン大会で入賞し、当然に佐羅谷あまねを招待し、既成事実を作り上げる。
高校生社長の権威を利用しないところは、自分なりの矜持か。
しかし、俺の本能が告げる。
俺はこいつが嫌いだ。
自分より強い男、かっこいい男、頭のいい男、そのような敬服に値する男はたくさんいた。嫉妬も羨望も抑え込んで敬意を表した。
だが、こいつは無理だ。
生理的に受け付けない。
俺は、玉木くがねが嫌いだ。
「うぃーす」
俺が理科実験室の部員専用扉をくぐった途端だった。
「あー、くーやんおっそーい。いったい何して……うえぇぇええぇえ?」
「まったく九頭川さん、マラソン大会のアイディアも考えないといけないのに、遅刻なんて余裕ですね……ど、どうしたんですか!?」
「九頭川せんぱい、鏡! 鏡!」
宇代木が叫んで、ミコトが柄になく慌てて、マコトがスカートから手鏡を取り出そうと慌てる。手が引っ掛かってまくれてスパッツが見えてんぞ……。
三人の慌てぶりとは裏腹に、一人佐羅谷が静かに動く。
俺の足元までやってきて、そっと小さな手のひらで俺の頬に触れる。
「九頭川くん、痛くない?」
「少し」
痛みは増していた。
佐羅谷が触れた面は、佐羅谷の体温と鈍い痛み。ほのかに温まる。深い緑の瞳が潤んでいた。
「加瀬屋さん、槻屋さん。悪いけれど、保健室で湿布をもらってきてくれるかしら? 天は職員室で氷をもらってきて」
部員に指示して、すぐに理科実験室から人が消える。
佐羅谷は俺の頬に手を当てたままだ。
最初感じた佐羅谷の低めの体温も、今は俺の熱を持った頬で温まる。
二人きりの部室。
久しぶりな気がした。
「喧嘩でもした? あなたもそんな甲斐性があるのね」
「ちげーよ」
「相手は誰?」
「言わない」
「そう」
直接の犯人は上地だが、彼女が悪いとも言えない。止めた俺が悪いかもしれないし、原因は玉木だ。きっかけは三根かもしれない。
いずれ察するかもしれないが、誰かに対して変な先入観を持ってほしくない。
どちらにしろ、こんなケガは高校生男子なら普通だ。
佐羅谷はそれ以上追及しなかった。
黙ってじっとしている。手は俺の頬に当てたままだ。
たまに下を見ると、常に目が合う。
「なに?」
「いや、別に突っ立ってる必要なくね?」
「じゃあ、座ったら?」
そのまま席に移動しても、佐羅谷はずっとついてきた。
違う、そうじゃない。
かえって佐羅谷とずっと見つめ合うことになって、気まずい。
早くみんな帰ってきてくれないか。
「佐羅谷の手は治癒効果でもあるのかよ」
「そうよ、わたし、異世界から帰ってきた役立たずのヒーラーだから」
「あなたからそんなネタ発言が返ってくるとは思いませんでしたよ、深窓の令嬢」
「心配するじゃない」
「え?」
「例えば、わたしや天が誰かに殴られた顔で姿を見せたら、九頭川くんはどうするか?」
「あー」
たぶん動転して、そのまま抱えて保健室に担ぎ込むだろう。本人の意見は聞かないと思う。この部室では俺を抱えて運べる者はいない。物を取りに行かせるのが善後策だ。
俺ならさらに殴ったやつを特定して、一対一で勝てそうになければ、闇討ちも考える。
「こんなことはこれ以上はないから、心配するな」
「そう」
佐羅谷は一度大きく瞬きした。
今日は、いや今日もいろいろあった。
昼に玉木が尖塔に突撃してーーそういえば、佐羅谷は玉木にどう答えたのだろう。今なら、誰もいないし、聞けるか?
「そ、そういや、今日のひーー」
「氷もらってきたよー!」
ガラっと扉を開けて、宇代木が駆け込んできた。早い。廊下を全力疾走してきた。ミコトを先に行かせたのは、このためか。
頬から、佐羅谷の手が離れた。
少し名残惜しい。離れる寸前、思わず手に触れる。
佐羅谷はわずかに反応し、息を漏らす。
結局、それ以上は何も聞けなかった。玉木が尖塔で何を言ったかーー。
「はい氷ぎゅー!」
「ぎゃー、冷たい冷たい!」
宇代木が俺の首を手繰り寄せて、氷の入ったビニール袋を頬に当てる。痛い。冷たい。
その日、俺は顔半分に湿布を貼るという情けない姿で下校したのだった。
親父に笑われたのは言うまでもない。
条件を整理しよう。
俺がすべきは、マラソン大会で長距離に参加する人数を増やすことだ。
使えるのは、手許にあるツイッツイーツの招待券三枚と、一人あたり百円程度の参加賞。
俺のブレーンたちが言ったように、参加賞の中身が変わったくらいで、長距離を走る動機づけには弱い。入賞にツイッツイーツの招待券があっても、たった三枚では端から無理と諦めてしまい、こちらも動機づけにならない。
だから、参加賞に付加価値をつける。
まあ、見てろ。
俺にしかできないやり方で、マラソン大会を赤く染めてやるぜ。
次の生徒会の会議の日がやってくる。
やっと頬の腫れが引いて、見た目も痛みも落ち着いた。三根と上地と那知合からラインで謝罪は受けている。那知合が柄にもなく怒っていたので、上地も絞られたのだろう。
俺としては、もう上地とは関わりたくないと思う。あいつのそばにいると暴力に巻き込まれる。
「俺も鍛えるべきか」
佐羅谷がキックボクシングで運動神経と武力を伸ばすなら、俺も追随したほうがいいかもしれない。
手始めにマラソン大会で十キロ走ることから始めようか。隗より始めよ。
放課後寄り道せずに会議室に来たが、中ではミコト会長が席を動かして準備をしていた。
「九頭川さん、こんにちは」
「ああ。このあいだは湿布とってきてくれてありがとうな」
「同じ部員として当然のことです。だいたい、九頭川さんは生徒会副会長として使命があるのですから、怪我や病気をする暇などないのです」
「それはそれとして、これを」
俺は鞄から一本の切花を取り出す。造花の真っ赤なカーネーション。
「え、なんですか、花なんて。気持ち悪い、気持ち悪いです、九頭川さん」
「どん引きするなよ」
「でもまあ、感謝の気持ちを無碍にするのは悪いので、受け取ってあげます。あ、でもこれでデートに誘えるとか付き合ったことになるとか勘違いしないでくださいよ」
「するか馬鹿者」
「なんですか、もう。九頭川さんみたいな下心の塊は、マコトを見習ってほしいものです」
「お、おう」
俺が下心の塊なのは否定しないが、マコトだって似たようなものだ。ミコトがこうだから、よけいにマコトはつらいんだろうな。
「あれ、この花、タグがついてますよ。QRコードですか?」
ほくほくした顔で矯めつ眇めつしていたミコトが、茎に絡んだタグを見つける。
「おお、スマホのカメラで読んでみろ」
「愛のことばが書いてあったら、軽蔑しますよ」
「それは楽しみだ」
いつのまにか生徒会のメンバーが会議室に集まってきていた。ミコトと俺の周りにガヤガヤと頭を突き合わせる。
ミコトがスマホを取り出し、QRコードを読み取る。
「えーっと、『2ー1クズガワタスク0001』? なんですかこれ?」
訝しげに俺を見上げるミコト会長。他の面々も釣られて同じ表情だ。
「じゃあ、説明しよう。ミコト、賽を振れ。俺が、十キロマラソン参加者を増やしてやる」
はったりが肝心だ。
俺が操れるのは、せいぜい空気の流れくらいなのだから。
「では、考えてきた案を披露しよう」
会議が始まる。
語り手は俺だ。
生徒会のメンバーは、すでに俺が体育祭実行委員で活躍したことを知っている者も、知らない者もいる。
知らない者にとっては、今からの演説が俺の第一印象になる。ゆめ情けない姿を見せるわけにはいかぬ。
「一つ。十キロ出場者は、体育の成績を一段上げる」
「おい、九頭川。成績の参考にはするが、無条件に評定を上げることは無理だ」
奥に座っていた体育の先生が諭す。
拒絶は想像の範囲。無理だとわかっている。提案というのは、無理筋を最初に持ってきて、あとから緩めの案を示すのが常套手段だ。
どんどんと悪手から畳みかける
「一つ。翌日を休みにする」
「気持ちはわかるが、じゃあ六キロを走って通学してきた生徒は、何をするんだ」
オーケイ、いい感じに否定してくれる。
「一つ。学食で大盛りにする券を配る」
「金額的には可能でしょうが、大盛りを喜ぶ生徒は、もとから十キロを選ぶと思います。六キロから移行する人は少ないと思われます」
そうだな、ミコトの言う通りだ。
(というわけで、本命だ)
俺は先ほどミコトに渡した造花を振る。
一同の視線が集まる。
「このカーネーションは、権利だ」
物としては、ダイソーで買った造花だ。
これは安っぽい一本の造花だが、所有者には偉大な権利が与えられる造花である、と俺は言う。
「この花の持ち主は、学校内の誰とでも、学校内のどこでも、一緒に写真を撮る権利が与えられる。特別な理由がない限り、拒否権はない」
しんと会議の場が静まった。
みな、頭をフル回転させているのだ。
マラソン大会に参加することに、誰一人としてこんな発想はなかっただろう。
だから、実現可能かどうか、効果があるかどうかを想像している。実現は可能だ。かかる費用は、一つにつきせいぜい二百円程度。手間はかかるが、生徒会全員でかかれば一日でできる作業だ。
問題は、効果だ。
俺は、勝算があると見ている。
というのも、十キロマラソンに進んで参加するのは、運動に自信がある積極的で元気な人間だ。行動力のある人間は好きな人や気になる人にも、自分で行動を起こせる。
一方、六キロを消去法で選ぶ人間は、運動が苦手で奥手で、きっかけがないと人と話せない消極的なタイプだ。
つまり、参加数を増やすには、彼らに特に訴える魅力が必要だ。
普段は声をかけられないような人にでも、理由があれば話ができる。
俺が、理由を与えてやる。
幸いに、かつらぎ高校には目立つカリスマがいる。
異次元のイケメン、田ノ瀬一倫。深窓の令嬢、佐羅谷あまね。バスケ部の顔、谷垣内悠人。ダンス部のギャル系美人、那知合花奏。恋愛研究会の広報係、宇代木天。前生徒会長で大和撫子風の沼田原依莉先輩。現生徒会長のクールビューティ、槻屋尊。その相方の男の娘、加瀬屋真誠。突如現れた美声の貴公子、玉木くがね。
一緒に写真を撮れるというなら、是非ともと願う生徒は多いはずだ。
もちろん、憧れの人ではなく、本当に個人的に好きな人に思いを伝える絶好の機会にもなる。
「どうでしょう、先生方」
俺は生徒会メンバーの奥に座る先生方に了承を取る。俺の判断では、ぎりぎり許されるルールであるはずだ。
「正直、好きな人と写真を撮りたいから十キロを走るなんて軟弱な生徒には思うところもあるが」
生徒指導の三浦は渋い顔だ。
「面白いじゃないですか。好きな人というからいやらしい感じもしますが、誰かに声をかけてコミュニケーションを広げる練習にもなります」
英語の三田先生が助け舟を出してくれる。なぜか表情がほくほくして嬉しそうだ。
他の先生も、肯定はしないが否定もしない。
読み通りだ。
参加賞の権利として、許される範囲。
あとは、生徒会の連中、なかんずく、ミコト会長だ。この女が面倒くさい。
「好きか否かに関わらず、きっかけがないと声もかけられないなんて情けない限りですが、効果はありそうな気がします。手間も最小限ですし、費用も当初の予定通りに収まります」
実のところ、俺はこの「権利」の半分は行使されずに「死に札」になると踏んでいる。合法的なきっかけがあろうが、女子に話しかけるなんて中学の時の俺には無理だった。
俺は、自分を救いたかった。
俺ならこの権利を得るために十キロ走っても良いと思った。
実際に声をかけるのが無理でも、小さな一歩を踏み出せるように。
「じゃあ、ミコト会長。これで作業を進めていいな?」
「これはこれで良いですが、もう一押し欲しいですね。これだけだと、弱いです。そうですね、学校でこんなのができるの? という驚きがほしいです」
「このわがままさんめ」
ミコトが一度で納得しないのは想定内だ。生徒会長は一筋縄ではいかない。
俺は切り札を使う。
使えと言われて使わなければならなかった切り札だ。
「ここに、三枚のお札がある。ツイッツイーツの招待券だ」
あの男にーー玉木くがねにしてやられた。
三枚というのがいやらしい。三位以内には入れるという自信が。
マラソン大会で得た招待券は、ただの無料券ではない。「誰かと」一緒に行ける権利だ。参加賞のカーネーションと同じで、好きな人を誘える「権利つき」だ。玉木は暗に招待券に「権利」を付与せよと圧力をかけてきた。
拒否されるなら、俺は玉木の依頼を遂行できないことになり、玉木は俺を通さず独自に佐羅谷にアプローチを続けるだろう。そうなれば二人のやりとりが不可視化され、状況も経過もわからなくなる。
そう、どちらにしろ、玉木は佐羅谷と近づけるのだ。俺という邪魔者を強制的に傍観者に仕立て上げることによって。
厄介な男だ。
「ツイッツイーツだと? 九頭川、そんな高価なものは、ポケットマネーでも許可できないぞ!」
生徒指導の三浦もツイッツイーツがどんな店で、どんな単価設定か知っているようだ。
「先生、実は俺、近所にツイッツイーツができたから、店にメールして、金券をマラソン大会の景品にして良いかって聞いたんですよ。そしたら、向こうの社長から是非ともって、招待券をもらったんです。だから、これはむしろ使わないと失礼に当たるっていうか、申し訳ないっていうか」
「まったく、おまえは先走りすぎだ」
そういう設定なんですよ。
「なんなら、社長と電話してもいいですよ。直接電話がかかってきて、連絡先わかるんで」
「いやしかし、学校内で写真を撮るのと、学外のカップル限定スイーツ店の券を配るのとは、意味合いが異なる! 学校側が不純異性交遊を認めているように思われるのは困る」
「不純だって決めつけるのは言い過ぎじゃないっすか」
生徒指導の三浦が渋るのに、俺は反射的に反論してしまった。
まずい、と口を抑えても遅かった。
いかつい眉毛を険しく寄せて、立ち上がりかける。
「ふうん、いいじゃないですか。九頭川さん、さすがの行動力です」
機先を制して、ミコトが静かな拍手をする。
「ツイッツイーツの社長も見返りなく無償で提供したわけではないと思います。きっと、生徒の間で話題にして評判を上げてほしいという思いがあってのことでしょう。これを突き返すのは、かえって失礼になるかと思いますが、先生方はいかがですか」
うまい。
表向きは俺が頼んで招待券をもらったのだから、それを突き返すのは失礼すぎる。しかし、配らずに死蔵してもいずれ明るみに出る。カップルでツイッツイーツに行くような高校生が、SNSで招待券をもらったことを呟かないわけがないのだ。
「むう、まったく余計なことを」
三浦も打つべき手がないことを理解して、俺を一瞥して舌打ちする。他の先生方も、思うところはあろうが、反論はなかった。
ミコトは一同を見回して、ぱんと手を打つ。結論は出た。
「では、マラソン大会の十キロコースの参加賞と特別賞は、九頭川副会長の提案を採用します。引き続き作業の分担を決めていきましょうーー」
マラソン大会のコース選択用紙を配る日。
朝礼の最後に生徒会長が朝礼台に立った。
寒い朝の時刻に、どうせつまらない話だろう? 高校生らしく挑戦をとか、自分で考えて選択をとか、なんとか十キロコースを選ばせたいんだろう?
朝礼に並ぶ生徒からは、明らかにしらけた雰囲気が漂ってくる。
「生徒会からのお知らせです。今年のマラソン大会のコース選択ではーー」
ミコトが朗々と十キロコースのタグ付きカーネーションの話をすると、風向きが変わる。
生徒が話の途中でざわめく。
さっさと寒空の朝礼など終わらせて教室に帰りたいはずの高校生が、嘘でしょ? とか、ヤバい! とか周りとコソコソと私語を始め出す。
「おまえら、静かにしないか!」
生徒指導の三浦の声を、マイクが拾って、キーンと甲高い音があたりを支配する。
「生徒会長、質問がありまする!」
俺のクラスの山崎が、ビシッと手をあげる。
朝礼で質問するとは、この男、心臓に毛が生えているのか。まあ俺の仕込みだがな。こういうとき物怖じせず意図を汲んでくれる知り合いがいると、便利でコンビニエンスだ。
「誰とでも写真を撮れるというのは、本当に誰とでもなのでしょうか!」
「誰とでもです。当校の生徒でも先生でも、誰とでも。公序良俗に反しない限り、拒否は認めません。何かあれば、生徒会に相談してください」
山崎とミコトの力強い「誰とでも」ということばが、ほうぼうで反芻されていく。
考えるまでもなく、いかに強力な権利かということがわかる。
居並ぶ生徒の視線が、なんとなく一部の生徒に収斂していく。いうまでもなく、普通では一緒に写真を撮ることさえ叶わないカリスマたちだ。
「さらに」
ミコトは平然と続きを告げる。
「三名限定ですが、ツイッツイーツの無料招待券も用意しています。こちらも参加賞と同じく、誰でも好きな人を誘うことができます。ただし、こちらは双方合意の上でお願いします」
もはや生徒の私語を抑えることはできなかった。たぶん、好きな人を拒否なく誘えるとほぼ全員が誤解したはずだ。あとで招待券に説明を貼り付けておかないと。
もっとも、誘われる側も嫌々のフリをしてついて行く理由がもらえるわけで、それだって青春の一コマではないか。せいぜい、俺のできない青春を楽しんでくれ。
俺は朝礼台の下で、ミコト会長が降りてくるのを待っていた。
視線を感じた。
俺のクラスからだ。
玉木がいる。
鷹揚に頷く姿が居丈高で鼻につく。だが仕返す術もなく、ただ気づかない振りをするしかなかった。
「集計できました」
生徒会の庶務がマラソン大会の距離選択の集計を終えた。
俺たちはできるところから、造花のカーネーションに個人のタグをつけていた。個人の名前とQRコードは偽造防止だ。学年とクラスと個人名、それにもう一つ生徒会で振った連番がコード化されている。この連番は生徒会の名簿上でしか照合できないようにしてある。
権利の行使は、カーネーションを意中の相手に渡し、タグを切り取ることで完了する。もし相手の権利を疑うなら、QRコードを読めば、偽造がわかる。タグがなければ、権利は無効だ。
「今回、十キロマラソン参加者は約半数です。前回が三割だったので、二十パーセントの増加です」
「パーセントポイントな」
「??」
「九頭川さん、細かいことはどうでもいいんです」
よくない。
テストだと間違いを喰らって、点数を下げる。
「みなさん、協力ありがとうございました。おかげで、今回のマラソン大会は我々生徒会の力を見せることができました」
ミコトはいつもの冷たい表情の中にも少しだけ頬を赤らめて嬉しそうだ。
「九頭川副会長、さすがわたしが推薦しただけのことはありますね。十全の役割を果たしてくれました。ありがとうございます」
ぱちぱちぱちと拍手すると、他のメンバーも俺に拍手をくれる。
ううむ、面と向かって称賛されると、少々気恥ずかしい。
「それじゃあ、みなさん、最後まで作業をがんばりましょう。気を抜かないように!」
一同で手分けして、QRコードを作る者、印刷をして切り抜く者、タグを作る者、くくりつける者。
実のところ、何か目標を決めて、アイデアを出して、成功するというのは嬉しい体験だ。自信につながる。
俺も二年生になっていろいろと参加してきたが、小さな成功を重ねてきて、多少は自信がついた。このあいだ佐羅谷の実家に行ったときの体験で、やってみたいこともできた(これはイリヤさん経由にて水面化で進行中)。
鼻歌を歌いながら造花をいじっていると、隣のミコトがそっと口を寄せる。
「九頭川さん、もしどうしてもというのなら、カーネーションを受け取ってあげますよ」
「なんで俺がおまえに渡す前提なんだよ。だいたい俺は十キロを走らないって」
「な、なんてこと! 生徒会の風上にも置けませんね! ちょっと感動して損しました!」
「さいですか。おまえは多分いっぱいカーネーションもらうだろうから、覚悟しとけよ」
「ふん、なに言ってるんですか。わたしに花をくれる人なんて、いませんよ。そうです、誰も、いませんよ」
口唇を突き出して、ミコトは黙々と作業に戻る。
謙遜ではないだろう。
本気で言っているなら、つくづく自分の魅力に気づいていない女だ。
「生徒会長に、両手一杯の花束を」
俺はタグ付けの終わっていないカーネーションの束を目の前に置いた。
「もう、なにをするんですか! 自分のぶんは自分でやってください!」
花束を押し返しながら、ミコトはプンプンと怒った。
どうだ、寂しさは紛れたか?
生徒会室に、笑いがあふれた。
一月中旬、十年に一度の寒気が襲う寒空の高田周辺。かつらぎ高校の校庭に集まったジャージ姿の生徒一同は白い息を吐いて震えていた。体を小刻みに震わせる。
マラソン大会が始まる。
出発地点は十キロも六キロも同じで、折り返し場所が違うだけだ。だから、三学年が一度に走り始める。
「それではみなさん、精一杯頑張りましょう!」
校長の短い話も終わり、体育教師の合図でぞろぞろとスタートラインに並ぶ。
この時点で、やる気のある者とない者の差が著しい。
見るからに逞しい運動部の面々が先頭をキープしている。一際背の高い谷垣内がよく目立つ。
はたから見てもわかる。
燃え立つオーラが見える。仕上がっている。本気で優勝を取りに行く気だ。
すでに恋人のいる谷垣内にとって、カーネーションなど必要ない。狙っているのはツイッツイーツの招待券だ。
実のところ、バイトしている高校生に自腹で払えない金額ではないが、谷垣内のことだ、那知合のために優勝して獲得することに価値を見出しているのだろう。
さりげなく同じ先頭に、玉木が陣取っている。知的な雰囲気と長袖のジャージで隠れているが、身体は筋肉質な様子が見てとれる。涼しい顔で動的ストレッチをしている。
(俺にできることは限られてるんだよ)
インチキも裏技も使わない。俺は玉木から受けた依頼を遂行しつつ、本人の責でもって失敗に導かねばならない。
人をかき分け、ごそごそと玉木の隣まで這い出す。
尋常でない雰囲気を醸し出しているせいだろう。玉木の周囲は少し人がまばらだった。
「お、九頭川。おまえもやる気か? 負けねえぞ」
「玉木、本気で勝つ気か?」
「入賞はする」
三位以内に入るつもりか。
「運動部のやつらが、プライドにかけて阻止してくると思うぜ」
「は、俺は二年間、自分よりはるかにデカいやつらの間でバカにされないように必死に戦ってきたんだぜ? 日本の高校のぬるい運動部ごとき、相手じゃないな」
「そうか。じゃあ、なにも言わない」
「まあ見てろ。九頭川がせっかくねじ込んでくれた招待券、無駄にはしない」
さすがに優勝までは自信がないということだ。玉木は曲がりなりにも企業経営者だ。自己分析も正しいのだろう。
優勝する自信まではない、この自己分析が知りたかった。本人が言うのだから、間違いないだろう。
谷垣内を始め、陸上部の三年やサッカー部、野球部など、上位層は本気だ。そして、玉木の宣言を聞いていた周囲の者たちに不穏な空気が漂う。誰も面と向かって何も言わないが、苛立ちと憤りが漏れる。
俺があえて聴こえるように大きめの声で先頭で会話したから、彼らのプライドを刺激することに成功した。
少なくとも、運動部の連中は玉木を警戒するだろう。それで十分だ。
「よーい、スタート!」
体育教師の合図のあと、銃声が空を震わせる。
校庭を一周する間にすでに速さに応じて集団が分かれる。俺は体格のいい先頭集団に割り込む。
速い。
先頭集団のほとんどは十キロを走るだろうに、俺には短距離走並みの速度に感じる。
「は、は、は、は、」
自然息が荒くなる。
脇腹が痛い。
しかし、周囲は呼吸さえ聞こえない。
(なんとか一キロ持てばいい)
先頭集団の中でも速度差が出てきて、谷垣内を先頭に鏃の形に引き伸ばされる。
俺は全速力一歩手前の速度で、周りの生徒を一人一人抜いていく。
「はあ、はあ、はあ、」
「よう、輔。しょっぱなから飛ばすと、後がきついぜ?」
「二人っきりで話すには、こうするしかなかったんだよ」
きっと、本気の半分も力を出していないのだろう。
二メートル近い高さから見下ろしてくる谷垣内は、まるで歩いているかのように平然としていた。
「やっとおまえも本気を出す気になったってか。招待券、とってみせるか?」
「まさか」
単語単位でしか話せない。
「俺は六キロだ」
「ウソだろ」
谷垣内が俺を見ている。
俺が必死の形相なのを見て、それ以上は問い詰めてこない。
「情けねえ。信じられねえ。マラソン中じゃなけりゃ、ここで殴ってたぜ」
「どうせ入賞できない」
「気持ちの問題だ。できるできないじゃねえよ。根性なしかよ」
「谷垣内」
「なんだ」
「優勝しろよ」
「それを目指す。当然な」
俺はマラソンで優勝も入賞もできない。十キロ走って、カーネーションを手に入れても、意味がない。拒否権のないツイッツイーツの招待券は、俺のものにならないのだ。
だから、俺は俺の戦い方をする。
いつものつまらない小細工だ。
「安心した。それが聞けて」
「はあ?」
「勝てよ、谷垣内。玉木が、狙ってるぜ」
「玉木? ああ、あの転校生か」
玉木は先頭集団の中程を悠々と走っている。
「確かにいい走りをしてるが」
「那知合、取られないようにな」
「なに、輔、どういうことだ!?」
「招待券に、拒否権は、ないんだぜ」
少しだけ慌てた谷垣内に意味ありげに微笑み、俺は先頭を離脱した。走っている最中にハッタリは見抜けない。
マラソン中に追いかけてくるほど、谷垣内も無鉄砲ではなかった。ただ玉木を一瞥し、気を引き締めた様子が見えた。
ここからが踏ん張りどころ。
俺は先頭集団の中から、優勝候補のメンバーに同じように煽りを入れる。陸上部、サッカー部、野球部、テニス部、ラグビー部、柔道部。とにかく、転校してきたばかりで実力の知れない玉木を警戒対象に引き上げる。
少しでも玉木の勝率を下げてやる。
どうだ、この小物っぷり。
玉木は先頭集団が引き伸ばされてきても、ずっと中間を維持していた。息も乱さず、己のペースを保っている。
俺はどんどん力尽きて、やがて玉木に並ぶ。
「九頭川、足がもつれてるぜ」
「うるせえ」
「それで十キロもつのか?」
「おまえだって、この位置じゃ、入賞は無理だ」
「はん、相手になるのは、二、三人だ。それに、最後にごぼう抜きするのが快感だろ」
「反吐が出る」
「くくく」
玉木が速度を上げる。
「九頭川、おまえは俺が佐羅谷あまねを誘って店に行くのを、指を咥えて見てろ。なんなら、実況配信でもしてやろうか?」
「この野郎!」
「その足じゃ、走り切るのも無理だ」
思わず出てしまった手。
玉木は流れるような動作で身を躱す。
バランスを崩した俺は無様に転ぶ。
「うおっ!」
幸い、後続は離れていた。俺は膝から地面に倒れ、二転三転して道路脇の草地で茫然とした。
目の前を通り過ぎていく先頭集団。
視線が痛い。
膝の出血は大したことはない。
せめて、完走だけはしないと、格好がつかない。
二番手集団が通り過ぎるまで待って、俺はゆるゆると立ち上がる。宇代木と那知合の視線を感じた気がするが、あの二人はどちらのコースを走るのだろう。
俺にできることは、すべてやった。
ああ、すべてだ。
いつまでも見せ物になるのは気持ち良いものじゃない。
最後尾に近い集団が近づいてきて、中に佐羅谷がいるのを認めて、俺はゆるゆるとマラソンを再開した。
足をつくたびにケガをした膝が痛むが、走れないほどではない。
力を抑えて、集団に紛れる。
自然に佐羅谷の横に並ぶ。
「一人で走ってるのか」
佐羅谷の周囲は、なぜか集団の中でも間隔が広かった。みな遠慮して、遠巻きにしている。
「マラソンは一人で走るものでしょう」
佐羅谷は息が上がっていなかった。
速度が遅いのもあるが、やはり日々のジム通いの成果だろうか。
走るフォームも美しい。
「一人で走るったって、佐羅谷となら並んで走りたいやつがいっぱいいるだろ。男女問わず」
「話しかけてきたのは、あなた一人。それが事実ね」
「恥ずかしがり屋が多いんだな」
佐羅谷の隣を走っていると、俺まで遠巻きにされる。
佐羅谷が時おり俺の足に目を向ける。
「どうしたの、膝。また、転んだの?」
「先頭集団について行こうとしてな」
「またなにか、一人で抱え込んでいるのね」
「佐羅谷には関係ねえよ」
反射的に答えて、失敗したと思った。
佐羅谷はもう俺の方を向かなかった。
前だけを見て、ストイックにマラソンに打ち込む。速度が上がった。ついていけないほどではないが、集団から徐々に抜けていく。
程なく六キロコースの折り返し地点が見えてくる。
最後尾集団だ。
ほとんどの生徒は嫌々マラソンに参加している口だ。次々と三角コーンで折り返していく。担当の体育教師が笑顔で励ましている。
そんな中、佐羅谷は曲がらずに直進した。
「おい、佐羅谷、六キロはここで折り返しだ」
「あら、わたしは十キロ走るのよ」
「マジかよ」
「マジよ」
佐羅谷が平素は使わない語彙を冗談めかして返す。
「じゃあ、俺も十キロ走る」
「あら、もとは六キロの予定だったの? 情けない人」
この速度なら、俺でも十キロ走れる気がした。最後尾集団は数を減らしながら、とろとろと次の三角コーンを目指す。
冷たいはずの真冬の風が、微塵も寒くなかった。
「今さら十キロを走ったところで、参加賞はもらえないんじゃない?」
「マラソンは参加することに意義があるんだよ」
佐羅谷と並んで走れるだけで、俺はじゅうぶん幸せだった。
「佐羅谷こそ、そんなに参加賞が欲しかったのか?」
「そうね」
恐ろしく素直に、佐羅谷は白い息を吐く。
「さ、佐羅谷から花をもらえるやつは、幸せ者だな!」
考えるのも悔しかった。
一緒に写真を撮る権利などと曖昧にごまかしているが、生徒の間での実質的な理解は「合法的に告白する権利」だ。記念写真を撮るために選ばれる一部有名な生徒を除いて、想い人に声をかける絶好の機会。
佐羅谷が花を捧げる相手は、誰なのだろう。
知りたくもあるが、知りたくない。
会話は終わった。
ときに佐羅谷の視線を感じながら、十キロマラソンはだらだらと続く。
六キロ折り返しコーンを過ぎてしばらくして、十キロの先頭集団が前に現れる。
谷垣内と陸上部の元主将の三年生を先頭に、想像以上の速度で向かってくる。
谷垣内が俺に気づく。
六キロ折り返しコーンを過ぎているのを見て、表情が少し綻んだ。
どうやら、俺は許されたらしい。
先頭集団の中の先頭争いに混ざれる位置に、玉木もいた。玉木は俺に気づいて嘲るような視線を寄越す。
体力的には玉木も余裕がありそうだが、走りにくそうだった。
明らかに、周囲の運動部員が警戒し、自分の好きな場所、好きなペースで走りにくいようにマークされている。
玉木が前へ出ようとすればするほど、俺が最初に焚き付けた運動部員の警戒がいや増し、いっそう自由に走れなくなる。
頼むぜ、名も知らぬ運動部員たちよ。
復路の残り三キロを切ったあたりで、俺と佐羅谷に体力の差が出てきた。
周りはヘロヘロな奴らばかりだ。
「なあ、佐羅谷」
「手を抜いて走っても、つまらないでしょう。先に行きなさい」
「一つ、聞いていいか」
「それは今このときに尋ねること?」
「いや、すまん。忘れてくれ」
今このときじゃない。
佐羅谷を見つけてから、並走して、ずっと尋ねようか迷い続けていた。
今の今、やっと勇気が出たのだ。
今なら、不本意な回答を食らっても、さっと走って逃げられる。無様な顔を見られなくて済む。だから、今しか尋ねられないと思ったんだ。
佐羅谷は不真面目な俺をたしなめた。
マラソンの最中に、考え事をしている余裕があるなら、つまらない画策をしているんなら、正攻法で戦えと言っている。
実際に佐羅谷は自分が花を捧げたい相手がいるから、苦しい十キロコースを選んだ。
俺は端から入賞を諦めて、六キロコースを走った。
俺は、無様だ。
「先に行く。また後で」
「ええ、また後で」
残り三キロ。
未練を振り払え。
俺は全力に近い速度で疾走した。
かつらぎ高校のゴールをくぐったとき、足が絡まった。一日で二度も転倒した。
四つん這いで、痛む脇腹を抑えながら邪魔にならない隅に避ける。くすくすバカにする笑い声が聞こえるが、今さらだ。六キロでバテバテになってんのダサッて? おっしゃる通りで。
足音が近づく。影が差す。
「くーやん、おっつー」
宇代木が屈託ない笑顔で手を差し出してくれた。
「お疲れ。大丈夫、俺は一人で立てる」
周囲の目がある。
ただでさえ目立ち、人気者の宇代木の手を迂闊に取るわけにはいかない。せっかくわだかまりも解消して、己の力を十全に発揮できるようになった少女を、俺が再び縛りつけるわけにはいかない。
俺が嫌がらせを受けるだけならまだいい。宇代木が傷つけられるのが、たまらなく嫌だ。
ところが、スクールカースト埒外の権力者は臆さない。
俺の手を平然と掴むと、合気の達人の技で俺を一瞬で立たせる。
「女子が出した手は、受け取ってほしーかなー」
宇代木の手は冷たかった。
「あたしだって、傷つくんだかんねー?」
周囲の視線は冷たかった。
俺を立たせて、宇代木は手を振り振り消えた。すぐにあちこちの生徒と談笑し始める。
俺に注目する視線も消えた。
わかってはいたが、人目を惹きつけることに関して格の違いを見せつけられた形だ。
「……マラソン大会運営のほうに行くか」
最後に全員で整列し、生徒会から参加賞と入賞者の表彰がある。お待ちかねのツイッツイーツの招待券だ。
生徒会なら、俺はまだ必要とされる。
ほんの少し生徒会に入っていることに感謝した。ミコトには絶対言えないことだったが。
「それでは、入賞者の表彰に移ります」
ミコトが表彰台の隣でマイクを握ってマラソン大会を進行する。そろそろ締めだ。
表彰するまでもなく、順位はわかっている。
「一位、二年五組、谷垣内悠人さん」
谷垣内が一位だった。
やってくれた。
生徒から拍手と喝采、黄色い声が飛ぶ。
直接ゴールをくぐる場面を見ていないが、早々にリタイヤしてテント脇で観察していた山崎によると、一位と二位は最後までデッドヒートを繰り広げ、最後は粘り勝ちだったらしい。
惜しくも二位になったのは、
「二位、三年四組、松平翔太さん」
三年の陸上部の元主将だった。一位とわずかな差を分けたのは、部活を引退したあとの練習不足だろう。手を挙げてはいるが悔しそうな表情に、生徒から飛ぶ労いの声は抑え気味だった。
そして入賞の最後は。
ミコトが次を告げると同時に、最後の一人が表彰台に登る。
「三位、二年一組、玉木くがねさん」
玉木は、三位だった。
ギリギリ入賞できたようだ。
転校してきたばかりの美声の貴公子がスポーツでも才覚を見せつけるなんて、まるで少女漫画じゃないか。ものの一、二週間で、玉木はかつらぎ高校の有名人に名を連ねる。
山崎情報によると、三位以下は団子になっていて、誰が勝ってもおかしくないくらい競り合っていたという。
今でこそ飄々と涼しい顔をして表彰台から甘い笑みを振りまいている玉木だが、鬼気迫る目つきで駆けていたという。
危なかった。
入賞を狙う運動部員が揃って警戒しても入賞してくるとは、想像以上だ。
校長先生が表彰台の一人一人に声をかけながら、メダルをかける。
玉木は表彰台に立ちながら、眼鏡を通さない横目で俺を見下ろす。
そうだな。
誰でも好きな人を招待できるツイッツイーツの招待券は、三枚だ。
玉木の勝利は目前だ。
拒否権は事実上認められないので、佐羅谷が招待を蹴ることはない。その先はわからないが、ともかくも佐羅谷に一歩も二歩も近づくという事実は変わらない。
玉木が、勝利していれば、だ。
だが。
(俺の勝ちだ)
玉木にわかるように、そう口を動かした。
「では、入賞者の表彰に続き、ツイッツイーツ招待券の授与に移ります」
ミコトがマイクを俺に寄越す。
この役目は、「俺」でなければならない。
俺が生徒会の副会長で、仕事をしている姿を見せるためではない。
この発表をミコトが行って、ミコトに悪評や憎悪を向けさせるわけにはいかないからだ。
無表情が売りのミコトが、珍しくウルフショートを揺らして、何度も俺の様子を窺う。
ミコトの隣に招待券の入った封筒を持った庶務が来る。
「今から名前を呼ばれた生徒は、前へ出てください」
生徒のざわめきが水を打ったように静まる。俺の声が響き渡る。
「三年四組、松平翔太さん。二年五組、谷垣内悠人さん」
ここまでは、入賞者と同じだ。
だが、呼び出す順序が違うことに気づいたか?
玉木は気づいた。
眼鏡の奥で、一瞬驚き、焼けるような忿怒の炎が瞳を彩る。だが、それだけだ。玉木は外面を崩さない。
俺は大きく息を吸う。
「そして、一年二組、川俣薫さん」
にわかに騒がしくなる。
「え、俺? 俺、四位だったんだけど」
喧騒の中、素っ頓狂に自分を指差しながら、一人の男子生徒が出てくる。俺は面識がないが、彼が川俣くんなのだろう。
「呼ばれた三名は、こちらに並んでください」
彼らの間に順位はないので、表彰台ではなく、学年順に並んでもらう。
三年の松平と二年の谷垣内は当人もそのつもりだっただろうから、落ち着いている。一人一年の川俣が不安そうにきょろきょろしている。
「趣旨を説明します」
マイクがあると声を張り上げないで良いから楽だ。私語も独り言も無視できる。
「こちらの招待券は、各学年の一位の走者に授与します。単純に着順にするとどうしても一年生の不利が否めないことを勘案いたしました」
たぶん誰も真剣に聞いていなかっただろうが、ミコトは招待券が特典にあると言ったが、その授与基準は一切口にしていない。言うなと言ったのは俺だが。
もともと招待券の授与は、完全にランダムにしようかという意見もあった。上位三名では、大半の人間が期待しなくなるからだ。
今回はとりあえずということで、各学年での一位に配ることにした。これで不満や不平等があれば、今後は変えていくかもしれない。次のマラソン大会では。
今回は、この通りだ。
「それでは、これでマラソン大会を終了します。参加賞の権利は明日の放課後までですので、お忘れなく!」
ミコトのことばで、若干の違和感も吹き飛んだ。十キロをがんばって走った面々は参加賞の権利をどう使おうか、必死に頭を使っていることだろう。どうせ入賞できないからもらえるとは思っていなかったツイッツイーツの招待券が、誰に渡っていようと、自分には関係ないのだ。
三位の二年生は気の毒だが、四位の一年生は健闘した。他人事だと思えば、その采配は仕方なくも思える。
人間なんてそういうものだ。
玉木の性格を鑑みても、ここでごねることはないはずだ。
俺の作戦は、同学年に谷垣内がいたから成り立った。というか、谷垣内がいたから、各学年の一位に渡すというもっともらしい屁理屈を、意地でも押し通したのだ。
普通に考えたら、上位三人に渡すほうが誰にでも受け入れられる。
自分で敵わない相手とどう戦うか?
これが、俺の答えだ。
解散して、三々五々教室に帰る生徒を見送りながら、俺たち生徒会一同は教師と一緒に朝礼台の周りに残っていた。
玉木が運動部から一目置かれて、小さな囲いができている。
「おまえ、すげえなあ!」
「まだ部活は決めてないのか?」
涼しい顔で誉め言葉をいなしながら、ゆっくりと校舎に向かう。
隣を通り過ぎる。
俺と玉木の視線が交錯した。
「九頭川、宣戦布告は受け取ったぞ」
俺にだけ聞こえる小声で通り過ぎる。
一瞬背筋が冷えた。
玉木が社会的立場や経済力をフルに使えば、俺など敵にならない。しかし、どうしようもないのだ。
俺が敵と認めなくても、相手が敵と見做してくるなら、俺は戦うしかない。
どんなに困難であるとしても。
翌日の学校は、見てわかるほどに浮足だった雰囲気に包まれている。来月のバレンタインデーを待たずに、同じ類の空気が廊下も教室も支配する。
今日ばかりは先生方も諦めているようで、授業は簡単な復習や雑談が多かった。
休み時間は賑やかだった。
造花のカーネーションを持った生徒が、あちこちの教室に訪問し合う。
昼休みともなると、なお大変だった。
グラウンドの向こうの尖塔には、写真を撮りたい生徒の列ができていた。きっと他の有名人も写真撮影希望者が大挙しているのだろう。
「山崎は尖塔に行かないのか?」
窓際で弁当を広げ、一向に動き出さない。
「ふふふ、我が十キロ走ると思うか?」
「あんなにやる気だったのにか」
「はっはっは。聞いて驚け。五キロ走った時点で、捻挫してリタイヤしたわ! リタイヤしたわ!」
「なんかすまん、聞いて悪かった」
血涙を流しつつ歯を食いしばる山崎は、滑稽ながらも己の足で一歩を踏み出した感がある。
「そういう九頭川は行かないのか」
弁当を持って、玉木が席に就いた。
玉木は特に俺に敵対した様子を見せず、まるで友達のようだった。
「俺は六キロしか走ってねえよ」
「まるで十キロ走ったかのような遅さだったのにか?」
「おまえこそ、行ってこいよ。佐羅谷狙いの玉木くん」
そして、深窓の令嬢と写真を撮りたい凡百の一員になってしまえ。握手会に並ぶファン養分と同じ養分になってしまえ。
きっと佐羅谷はこんなときに写真を希望する人間の、顔も名前も一切覚えない。
「俺が欲しいのは、深窓の令嬢の写真じゃない。佐羅谷あまねの写真だ。この造花じゃ、手に入らない」
さすが、よくわかっている。
「なあ、九頭川」
「なんだよ」
「依頼は、継続だ」
有無を言わせず、机の下で俺の手首をきつく握る。
「よろしく頼むぞ、親友」
終章
理科実験室の鍵がかかっていた。
珍しい。
いつもいつも、俺がホームルーム直後にやってきても理科実験室の扉は開いていたのに。
引き戸をガチャガチャと鳴らしていると、額を抑えながら佐羅谷が姿を見せた。恨みがましく俺を睨み上げる。
「お疲れさま?」
「ほんとうよ、あなたの思いつきのせいで、大変な目に遭ったわ」
「今日は俺がコーヒーを淹れようか?」
「けっこうよ。おかしなものを混ぜられたら、貞操の危機を感じるわ」
「貞操ね」
二人で理科実験室に入ると、恋愛研究会の形に整える。しかし、今日という日は終わっていない。まだまだ写真を撮りたい生徒が来るかもしれない。念のために扉は開け放しておく。
佐羅谷がビーカーコーヒーを準備するのを、砂糖と撹拌棒をいじりながら眺めていた。
「宇代木も遅れてるんだな」
「天だけじゃないわ。槻屋さんも加瀬屋さんも遅れるそうよ。早いのはあなただけじゃない? モテない九頭川くん」
「そうだな、誰一人として俺と写真を撮りたいって言ってくれないなんて、寂しくて仕方がないぜ」
期待しなかったといえば嘘になる。
それなりに知名度は上がっているし、別にその後を期待してなどないが、誰かが思いを寄せてくれていても良いと思ったのに。俺は所詮、この程度か。
「お気の毒な九頭川くんに、これをあげるわ」
佐羅谷は鞄から一本の造花を取り出すと、俺の前に優しく横たえる。
「……こんなものなくても、佐羅谷とならいくらでも写真を撮ってやるよ」
むしろ、願う。
かつてコスプレサミットで名古屋に行ったとき、電車の中でまどろむ佐羅谷の寝顔を一眼レフで撮った。あの写真、佐羅谷は見たのだろうか? wifiで転送した写真は、俺のスマホに残る。
「違うわ」
佐羅谷は揺らぐガスバーナーの炎の向こうで、垂れた髪を耳にかける。
「その花の権利を、あなたにあげるのよ。誰でも好きな人に声をかけてきたらどう?」
「そんな馬鹿な」
この造花にそんな使い方があるとは想定外だ。
好きな人と写真を撮る権利。
ひどく魅力的で抗いがたい誘惑だが、これは、諸刃の剣だ。
俺が使いたい相手は決まっているが、俺が使いたい相手は「こんなもの」を使った男を認めない。
そして、「こんなもの」が手元にある以上、徒手空拳で写真を乞うこともできない。
詰んだ。
この造花は、死に花にするしかない。
「九頭川くん、わたしの十キロを、無駄にしないでね」
さらに詰んだ。
淡い笑顔で念を押されたら、今日の放課後、つまり今日中にこの花を使わないといけない。
ビーカーの水が沸騰した。
ぶくぶくとあぶくの沸き立つガラスの向こうに、佐羅谷の表情は見えなくなっていた。
「ちゃーおー……」
元気が取り柄の宇代木が元気なく理科実験室に入ってきた。
「お疲れね」
「ほんとだよー。笑顔で写真撮りすぎて、もう自分の顔がどんなだったかわかんなくなっちゃったよー」
「面白いこと言うわね」
宇代木はどすんと鞄を落として、机に突っ伏す。
ちょうど沸いたばかりのお湯で、佐羅谷は三人分のコーヒーを淹れた。
「あー、落ち着く〜」
俺の気持ちを宇代木が代弁してくれる。心なしか佐羅谷の表情も軽くなった。
宇代木は半分閉じていた目をぱちぱちと大きく瞬きして、俺の前に置いてあるカーネーションを見つける。タグはついたままだ。
「あ、くーやん、まだ誰にも渡してないんだ」
「まあな」
曖昧に応じる。
「ねえねえ、あまねは?」
「わたしは十キロも走らないわ。体力がないのはよく知っているでしょ?」
「ふーん。そうだっけー?」
どこまで本気かわからない女子二人の危うい腹の探り合いに、俺は黙ってコーヒーを啜る。
「あたしの写真希望者、見てみる? こんなだよ!」
鞄に手を突っ込んで、造花から外したタグをじゃらじゃらと並べる。軽く二十個はある。それだけの人間が、宇代木と写真を撮りたいと希望したわけだ。
「……倒した冒険者のネームプレートみたいだな」
「人のことPKプレイヤーみたく言わないでよ〜。それよりこれ。はい、くーやんにあげる」
「は?」
宇代木はタグのついたままの造花を俺に寄越す。
「俺と写真を撮りたいなら、こんなもんは」
「ちっがーう! この造花ごとくーやんにあげるって言ってんの!」
「いやいやいや、造花はもうここにあるだろ」
「くーやんが十キロ走るわけないよね」
張り付いた笑顔が怖い。
有無を言わせずに、宇代木は俺の前にあった造花に自分のものを並べる。
佐羅谷は知らん顔でビーカーコーヒーをふうふうと冷ましていた。
「あたしの権利、無駄にしないでね」
「権利は自分で使いましょうよ」
「なにか言った?」
「いえ、何も」
タイムリミットは近い。
今日のこの部活時間が終わるまで。
俺にとれる道は、一つしかないじゃないか。
一気にコーヒーを飲み干す。手早くスマホである人物を呼び出す。たまたま部室にいるようで、二、三分で来てくれそうだ。
「宇代木、お願いがある」
「んー、なにー?」
「髪の毛、セットしてくれ」
「おっけー」
今度は鞄から、しかまろくんの巾着を取り出した。
「待たせたな、九頭川! って、くず、がわ?」
「なんで疑問形なんだよ」
「おお、見違えたな。おまえ、イケメンだったんだな」
「髪型だけでイケメンになれるなら、俺は今頃モテモテだよ」
やってきたのは、写真部の入田大吉。
一眼レフとディフューザー付きリモコンストロボを持参してもらった。
「して、どちらとの写真を撮れば良いのだ?」
入田は四角いメガネから佐羅谷と宇代木を交互に見る。
空になったビーカーを前に、佐羅谷も宇代木も沈黙したまま俺のことばを待つ。
俺は造花のタグを外して、二人に差し出す。
「二人一緒に、写真を撮ってください」
佐羅谷には佐羅谷のタグを。
宇代木には宇代木のタグを。
頭を下げて、しかしなんの返事もない。
頭を上げると、面白い顔をした女子二人が見えた。
「ないわー、九頭川。それは俺でもわかる。ないわー」
「うるせえ」
「まったく、こんなものを使わないと写真さえ撮れないなんて、ほんと九頭川くんはダメね」
「一緒に写真ってさー、記念写真じゃないんだからさー」
「いいんだよ。記念写真なんだから。これが恋愛研究会の同級生で、卒業アルバムに載るんだよ」
「なるほど、それなら有りか」
「無し寄りの有りね」
「無し無しの無しだよ……」
文句を言いつつも、女子二人は鏡で髪型やメイクを再確認する。
「もうすぐ正式な部活動になるんだしな。同好会最後の写真も残しておきたい」
どうでもいい言い訳だ。
だが、このとき、俺たちはまだ知らなかった。
この写真が、三人揃って撮影できる、最後の写真になってしまうということを。
入田が渾身の思いで撮影してくれた一枚の中で、俺たちは最高に輝いていた。
(了)




