6巻前半『スギオとスギコは素直になれない』
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)
槻屋尊 (つきや・みこと)
加瀬屋真誠 (かせや・まこと)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田戸真静 (たど・ましず)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)
杉原京香 (すぎはら・きょうか)
大杉右京 (おおすぎ・うきょう)
豆市咲蔵 (まめいち・さくら)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
序章
「クリスマスが近いな!」
放課後の教室で試験勉強をしていると、山崎が言った。
俺と神山と山崎。何となく試験前はこの三人で居残ることが多かった。
「のう、九頭川よ! クリスマスがっ」
「うるせえよ、俺は男と聖夜を過ごす気はない」
「は、九頭川にしては察しが悪いな。我はすでにリザーブドであるぞ!」
「なん・だと?」
シャーペンが落ちた。
先端が2ミリ、ボキっと折れた。
「これを見よ! 岩村ミラン、クリスマスライブッッ! 試験が終わったら東京まで夜行バスよ!」
「あー、安定の山崎でよかった。さすが、日本が誇る安定のウイスキー」
「やめて? 憐れまないで?」
「若いうちは二次元に命をかけるのもいいと思うぜ」
「二次元じゃないもん! 声優さんは三次元だもん!」
「あははー」
ずっと黙ってノートに向き合っていた神山も顔を上げた。
俺は拾い上げたシャーペンの背を神山に突きつける。
「神山は余裕だな? 今年のクリスマスはさぞ期待値が高うございますな?」
「やめてよ! そんな、まだ」
「まだ?」
「九頭川くん、意地悪だよ!」
顔を真っ赤にして唇を突き出して不満げな神山は、少女のようだった。
「だいたい、九頭川くんはどうなのさ。あんなに女子ばかり周りに侍らせて」
「うむ、お主、なにかと女の影があるよのう」
静かに二人の瞳が圧力を掛けてくる。
おいおい、やめてくれ。
俺は、きっと友達範疇で、恋愛対象には見做されない。そんな立場さ。
「山崎も神山もクリスマスは楽しめるようで。これはもう田ノ瀬に女子をアテンドしてもらうしかないな」
茶化すと、二人はジト目で一歩引く。
「うーん、田ノ瀬くんのほうが大変なんじゃないかなー」
「田ノ瀬イケメンがクリぼっちのわけがなかろう。九頭川、かわいそうに」
「いやいや二人して真剣に憐れまないで? 惨めになるから! というか、山崎、おまえだけは絶対許さない!」
シャーペンの芯を2ミリ出して、親指の爪で弾丸のように弾く。山崎の広いデコに芯が直撃する。
ピシっとマンガのような音がした。
「アウチッ」
俺は考えた。
どうやって女子とクリスマスを過ごすか?
直接誘うのは無理だ。
二人きりは絶対に拒否される。
「あなたとクリスマスに二人きりなんて、他の人に見られたらどうする気?」
冷たい目に冷たいことばまで脳内で生成できる。
昨年はどうしたかだって?
もちろん、好きな女と過ごした。
アルルで閉店までたむろして、ヤギナリエ(近鉄八木駅周辺のイルミネーション)を見てから、徹夜でカラオケをした。いかにも高校生っぽいクリスマスを過ごした。
もちろん、二人きりではなかった。
極力好きな女の横は確保したし、ドリンクバーに出るのにタイミングを合わせたりしたが。
「たっすん、今日はよく歌うじゃん!」
二人きりで交わした唯一の会話は、とてもつまらなかった。
誘うなら、恋愛研究会でクリスマスを遊ぼうと持ちかけるしかない。一年生は理由をつけて排除し、二年だけで集まるとしよう。
部活の一環だと言ったら、二人とも従ってくれるはずだ。
「一人はダメじゃん? 一人は寂しいじゃん?」
元気が取り柄の一つの女の心からの叫びが、耳にこびりついている。
ああ、そうだ。一人はダメだ。一人は寂しい。一人でいて、良いことは何もない。
だから、クリスマスにみんなで集まろうと根回ししたら、与してくれるはずだ。
ただあの二人に一緒に過ごす相手がいたらこの計画は成り立たない。そんな重要な個人情報、聞けるわけがないんだよなあ。
「いっそ、部活があったらいいのにな。いちいち画策しなくても、ずっとずっと一緒にいられる」
部室までの人通りの少ない廊下を歩いていると、ある教室からぞろぞろと生徒が出てきて、その場にとどまっていた。
男子二人、女子五人。
なんだ、集団下校か?
近づくと、教室の中から喚き声がする。この教室でも部活があったのか。無言で通り過ぎるのも不自然なので、一番近くにいた女子に声をかける。
「何してんの? 喧嘩?」
「まーそんな感じです。ってか、九頭川先輩じゃないですか」
よく見ると、体育祭実行委員で一緒になった一年の女子だった。体育倉庫に閉じ込めてもらうために一芝居打ってもらって以来の再会。
「九頭川? 誰?」
「ほら、文化祭の恋愛の推理劇の作者。体育祭実行委員の副委員長で水合戦の発案者?」
「あー、この人が」
廊下に出ていた男女に、興味深そうな視線を喰らう。悪い感じの視線ではないが、頭の奥がむず痒い。
「何だよ、おまえらこそ誰だよ」
「ここは文芸部だよ。中にいるのは、部長と部長」
「文芸部には部長が二人いるのかよ」
「そだよ」
聞き間違いか冗談かと思って問い返すと、真顔で答えられた。他の部員も呆れ顔で訂正しない。
待てよ、そういえば、文化祭一日目の劇の後、文芸部の男女二人組に長々と恋愛劇の内容について問い詰められた気がする。
お互い文芸部の中の支部みたいなものを主張していた気がする。
「大杉と杉原だったっけ、問い詰められた記憶がある」
「その二人が中で仲良く喧嘩してるよ」
日常なのだろう。矛盾した表現に部員は慣れっこになっている。
教室の中の怒声は、熱を帯びていた。ひときわ大きな声が漏れ聞こえる。
「馬鹿じゃないの? クリスマスに部活なんて、みんなだって都合あるに決まってるだろ!」
「は、用事のある者は来なくていいだろう? だいたい、貴様にクリスマスの予定があるわけがない!」
「はん、あーしだって用事あるさ! 絶〜っ対! 部活なんて行かないからな!」
「な、貴様、ふん、強がりだな! 後で泣き喚いても、名作鑑賞会に参加させてやらないからな!」
「うるさいやい! あんたこそ、あーしが男とクリスマス過ごしてるのを嫉妬するなよーだ!」
「オレ以外に声かけてくれる男なんていないくせに!」
「あー、そんなこと言っちゃうんだー。この前プリント拾ってくれた田ノ瀬くんかっこよかったなー」
「田ノ瀬だと!?」
「あんたじゃー逆立ちしても勝てないイケメンだね!」
「田ノ瀬がおまえなんて相手にするかよ」
「うるさいよ、あんたもスマホの待受、深窓の令嬢だって知ってんだかんね! 悔しかったら、誘ってみなよ」
「言われなくても! 後悔するなよ!」
どう考えても、痴話喧嘩だった。
俺は部員を見回し、同じ感情だということに安堵する。安堵町より安堵する。
「この二人、付き合ってんの?」
「それが、付き合ってないんだよねー」
やれやれだぜ。
「自分の謎も解けないミス研のミステリーだな。ミスを研究すべきだと思うぜ」
俺の冴えた駄洒落は部員の空気を氷点下まで冷やしたようだ。ミス研、もとい文芸部部員には高度すぎる駄洒落だったか。山田仁和丸(40)おじさんの親父ギャグに鍛えられた俺はチートスキルで無双してしまったようだ。
一章 スギオとスギコは素直になれない
「では改めて、恋愛研究会の部員になった二人を紹介しましょう」
俺が理科実験室に入ると、恋愛研究会の部員は全員揃っていた。
佐羅谷が全員の前にコーヒーを並べると、優雅に立ち上がった。
一年生二人の横に移動する。
「こちら、前生徒会副会長で、今度生徒会長になった槻屋尊さん。沼田原先輩の薫陶を受けた才女で、理知的で冷静な思考の持ち主ね」
佐羅谷が面と向かって褒めるなんて珍しい。思わぬ紹介を受けたミコトは、顔を輝かせて憧れの眼差しを返している。
「そしてこちら、一見美少女にしか見えない女装の達人、加瀬屋真誠さん。槻屋さんの幼馴染で、男女問わず柔軟に懐に入り込む人懐っこさは称賛に値するわ」
マコトはピンクメッシュのツーサイドアップをいじりながら、どこかむず痒そうに落ち着かない。
「恋愛研究会はまだ同好会だから、部員全員の承認がないと、入部は認められないのだけれど、どうかしら。天、九頭川くん」
犬養先生の許諾もあるし、すでに入部確定と思っていたが、佐羅谷は保留していたのか。お互いを理解してからとは、意外と守りの固い部活だ。
「あたしは問題ないよー。二人とも改めてよろしくぅ!」
「俺も異議なし。二人とももう文句はないな?」
初対面から突っかかってきたミコトも、うさんくささ満載で俺を謀っていたマコトも、俺がこの部にいることを認めるだろう。
先輩三人の視線を受けて、ミコトとマコトは居住まいを正す。
「それでは改めてよろしくお願いします。槻屋尊です。わたしは恋愛なんて非効率で不合理で反理性的なものだという基本的な考え方は変わりません」
相変わらず安定の居丈高な独自の理論を述べる。おいおい、ミコト、全然変わってねえじゃねえか。
「だけど、恋愛が人間の経験を豊かにするし、恋愛を大切に思う気持ち、ひいては人を愛し愛されることを理解できるようにはなりたいと思います。自分が! 自分が、そんな感情に流されるとは思いませんけど」
おお、少しは柔軟になっている。いつもの無表情のままだが、声には抑揚がある。
そうだ、自分に理解できないものを無駄だの馬鹿だの言って切り捨てるのは、とても楽だし自分の信念は揺らがないので、心も安定する。
しかし、凝り固まった思考は成長しない。永遠の足踏み、ルームランナーだ。
「幸いここには恋愛のサンプルがありますので、観察したく思います」
ミコトがとんでもないことを言い出しぞ(歓喜)。
実のところ、俺は変化のない安定した生活も好きだが、強烈に変わり続ける不安定な時代もワクワクするタイプだ。
こういう女も、悪くない。
「へえ、でも槻屋さん、あまり相談者に好奇心を向けるのは良くないわよ?」
「はい、だからそこの九頭川さんにお願いしようかと。どうですか?」
「どうですかもないだろ。なんで俺なんだよ」
「一番わかりやすいからです」
「おまえはほんとーにぶれないねぇ」
「手始めに、わたしのことを愛してみませんか? 愛されるとはどういうことか、実地で体験を……」
無表情のまま、胸に手を当ててこちらを向く。
うわー、この女とことんどうしようもないことを言い始めたぞ。
「だ、ダメだよ、みこちゃ! そんなことくーやんに言ったら、どんなひどい目に遭うかわかんないよー!」
「そうね、高校二年生男子の欲望を一身に受けるのは、あなたにはつらいと思うわ。もう少し経験を積んでからにしなさい」
宇代木と佐羅谷が当然にたしなめる。
「えー、九頭川さん、どう思います? いいアイディアだと思うんですが」
「おまえはまずは異性の友達を作ることから始めたほうがいいんじゃないか」
「失礼ですね、男子の友達くらいそこにもいますよ。それじゃ、実は生徒会副会長の席が空いているので、業務関係から親しくなるというのは」
「女子の立場が上でもパワハラだしセクハラだからな」
そうか、結局生徒会選挙で副会長の立候補はなかったのか。ミコトは性格はアレでも、責任感はあるので、一人でもなんとかなるだろう。いざとなったら、マコトが横から助けるだろうし。
「だーからー、みこちゃー、くーやんは恋愛研究会の主力だから、兼業は無理だってー」
「そうね。九頭川くんは不器用だから、手も抜けずにすぐに頑張りすぎて倒れてしまうのよ」
なぜか宇代木と佐羅谷が擁護してくれる。俺、意外と大切にされてる!? 少し嬉しい。
「むう、九頭川さん、今回はこれで諦めます。なんだか女子先輩二人に囲われてにやけてるのが気持ち悪いからです」
「にやけてねーよ」
これにて、ミコトの入部表明は終わる。
代わりに、マコトが立ち上がる。
「それじゃ、ボクも。改めて、加瀬屋真誠です。よろしくお願いします、部長せんぱい、天せんぱい、九頭川せんぱい」
マコトにしては神妙な顔でゆっくりと全体を見ながら語る。声は少し低く感じた。
「そのへんの女子よりもかわいいボクですが、心と体の性は一致しているので、心配しないでください! でも、人を好きになるって気持ちがわからないってのはほんとーで、ここで経験を積めば、恋や愛がわかるかな、そんな気持ちでがんばりたいです」
そのへんの女子よりかわいいマコトくんの厄介な悩みは、女子には詳らかにしにくい性欲と愛情の混濁にある。佐羅谷は気づいているかもしれないが、公の場では指摘しないだろうし、宇代木は気づかないふりを貫くだろうし、俺も偉そうには言えない。
「あなたは男心を掴むことにかけて敵なしだと思うけれど、それでも好きという気持ちがわからないのね。好きという気持ちを自分に向けさせるわけでしょう?」
佐羅谷の指摘は鋭い。
マコトがわからないと主張する事柄の本質を見定めようとしている。
「……そりゃーボクはかわいいって言われてる女子の仕草とか振舞いを完コピして寄せ集めて作った理想の女子ですから! ボクの行動はハリボテで、中身は伴ってないんですよ」
少しの言い淀みの後、上手く躱す。
「ふうん、そう。だけど、九頭川くんに従って前回の依頼では勉強したでしょう? どうだったの」
高森とセレット。二人の男子が異なる形で女子に向ける愛情をつぶさに観察した。二人が示した愛の形は、全然異なるものだった。
「二人の様子と、九頭川せんぱいの助言とで、ほんの少しだけ好きという気持ちがわかるようにはなってきました。でも、まだまだです!」
マコトは腰に手を当て胸を張って鼻息が荒い。
「ついては、九頭川せんぱいの恋愛を追いかけて、好きという気持ちの現れ方を追体験してみようと思います」
「おい、俺をダシにするな」
「だから、九頭川せんぱい、誰でもいいのでさっさとボクに「好き」の帰結を見せてください! 手っ取り早いのは生徒会に入って副会長になって、ミコトと付き合うことだと思いますー!」
「どうしておまえらは俺を生徒会に入れたがるんだ」
「九頭川さんの力を認めてるからですよ。わたし、知ってるんですから」
つつっと近づいてきたミコトが、俺の服の袖を慎ましく掴む。無表情は変わらないが、顔を逸らして頬は少し赤らむ。ミコトにしてはかわいらしい仕草だ。わざとらしくてあざといが。マコトの教育の成果だな。
「ボクもみこちゃには九頭川せんぱいが必要だと思いますよー」
「はいはい、そこまでだよー。二人とも離れる離れる。くーやんは生徒会なんか興味ないんだよー。ねえ?」
「そうだな」
宇代木はピシッとミコトの手を払った。
不満げな二人に、佐羅谷は口元に拳を当てながらたしなめる。
「そうね、九頭川くんが生徒会に入るなら、それはきっと、ほんとうに誰か、振り向かせたいひとがいるときじゃないかしら?」
余裕の笑顔だった。
そうだな、俺はミコトやマコトのためには、生徒会なんて入ろうとは思わないさ。
「うっわー、すっごい自信ですね、部長せんぱい。じゃー、もし九頭川せんぱいが自分から生徒会に来るって言ったら、絶対止めないでくださいよ! 天せんぱいも!」
「そうね、いちおうは部員の意思を尊重しましょう」
「まー、くーやんが自分から言うんならさー、仕方ないじゃん」
このときはまだ知らなかった。
ミコトやマコトも知らなかっただろう。佐羅谷や宇代木でさえ、予想していなかったに違いない。
俺が、自分の意志で生徒会の扉を敲くことになろうとは。
話も終わって、一息つく。
俺たちは誰ともなくテスト勉強を始める。
期末試験が近い。
二学期、冬休みまであと少し。
文化祭、体育祭と盛り上がり、学校行事のない十一月も穏当に過ぎて、少し冷えた頭に空気も冷える。
風が乾いてきた。
理科実験室の空気も、夕方に差し込む斜めの光が苦にならない。
「今日も誰も来ないねー」
空になったビーカーをくるくる回しながら、宇代木は卓にぐでっともたれている。
「じゃあ期末の勉強でもしてろよ。本気出すんだろ」
「ふふーん。君たちがいるところは、二千年前に通り過ぎてきたよ」
「おまえはいくつなんだ」
俺たちは試験勉強をしながら、相談者を待っていた。試験前はいつもこうだ。
「天は勉強のそぶりも見せないのに、ほんとうに点数は取るから。きっと本気を出せば、もっと上に行けたんじゃないの?」
「あー……」
宇代木が指で頬を掻きながら何か言い淀んだところで、扉がガンっと開いた。
部員専用と書いた札も無視して、黒の緞帳で区切った相談者入口でもなく、いきなり勉強中の部屋に。
女子だった。
見覚えはあるが、記憶はない。
佐羅谷を茶髪にして、さらに気を強くしたような容貌だった。
女は部屋を一瞥して、俺を指差す。
「いた! 九頭川! 手伝って!」
「俺? 何? 誰?」
わけがわからないよ。
「頼む、お願い! 田ノ瀬くんに取り次いでおくれよ! 九頭川、親友なんだろ?」
杉原京香は俺を拝んでちらりちらりと片目を上目遣いに瞬きする。
突然理科実験室に飛び込んできた女子は、文芸部の二年生にして部長の一人。部長が二人いるというのは既定の事実。
茶髪を雑なポニーテールにして、気の強そうな顔立ちに、荒いことば遣い。本さえ縁遠く見え、およそ文芸部の部長が務まりそうにないが、人は見かけによらない。
「田ノ瀬とはいい友達だけどよ、たぶん、今のあいつは女子と付き合う気なんてないと思うぞ」
「クリスマスイブの、一日だけでいいんだ。何なら、ダブルデートでもトリプルデートでもいい、あーしを立てると思って!」
「立てるほどおまえのこと知らないんだけど」
「じゃあ、あーしを女にしてよ!」
「それは意味が違うし、田ノ瀬に言えよ」
元気だが悲壮な拝み倒しで、俺だけに絡む。
「よくわからないわね。杉原さん、文芸部でしょう? クラスも違うし、田ノ瀬くんと縁があったのかしら」
「あ? なに言ってんの。田ノ瀬くんなんて、学校一の有名人じゃん。女子だったら一度は憧れるっしょ」
怒気を孕んで食ってかかる杉原。
佐羅谷は無感情で、宇代木はアルカイックスマイルで、ミコトは無表情だった。ダメだ、恋愛研究会の女子は参考にならない。
だが、全国区のイケメンで本気でモデルや俳優を目指して努力する田ノ瀬に惹かれない女子なんていない。と思う。
「縁もゆかりもないというと、思い出づくりで田ノ瀬くんとデートしたいということかしら? それとも、あわよくば自分のものにしたいと目論んでいるのかしら」
「……本気に、決まってんじゃん」
三白眼で睨み返す杉原の回答は、一瞬の間があった。
「本気なら仕方ないわね」
佐羅谷はため息をついた。
「田ノ瀬くんに声をかけてみるわ。ただし、期待に沿えない可能性の方が高いのは覚悟してよ。彼とクリスマスイブを過ごしたい女性は、きっとたくさんいるはずだから」
「いやー、たのやんは忙しくてそれどころじゃないんじゃないかなー」
佐羅谷も宇代木も、不可能との前提で語る。彼女のいないただの男子高校生なら、俺たちも何とかできるかもしれないが、彼女がいなくても田ノ瀬は誘える気がしない。
横から袖をくいくいとマコトが引いている。
「九頭川せんぱい、あの人、全然田ノ瀬せんぱいに興味ないですよね?」
「あのな、マコト。恋愛模様は複雑なんだ。場合によっては、好きでもない相手とクリスマスイブを過ごすこともある。難しいんだ」
難しいんだ。
「ほえー、そういうものですか」
マコトが気づくくらいだ。
佐羅谷も宇代木も当然気づいている。
(しかし、わからないな)
さっき文芸部で痴話喧嘩していた杉原と大杉。なにも障害なんてないのだから、素直になってさっさと付き合えば良いものを。
やっと落ち着いたらしい杉原がバッグから500ミリペットボトル(カバーがあって中身が見えない)を取り出して喉を潤しているのを眺めていると、宇代木と視線が合う。
にかーっと形の良い唇が笑う。
「たとえお互い好き同士だってわかってても、好きだーって伝えるのは、勇気が要るもんなんだよー」
それは俺やマコトにだけ聞こえるように、小さく弱々しい呟きだった。
「初めての気持ちは、とっても、怖いよ」
部活の時間はそろそろ終わりで、このまま杉原も一緒に出て部室を閉めようかというとき、もう一つの扉が開いた。緞帳で区切られた本来の相談者入口のほうだ。
「時間ぎりぎりですまない、恋愛相談、受け付けてくれるか?」
男の声だ。
あれ、この声、さっき聞いたような気がする。
「俺は文芸部の部長、大杉右京だ。おりいって深窓の令嬢に頼みがあって」
「ちょっと待ってちょうだい、今ちょうど別の相談者がいて」
いきなり話し始める相談者に、佐羅谷が慌てて止めようとする。
俺は声と人物が一致して、納得する。
「文芸部の部長?」
「スギオのやつ、なんなんさ」
隣に居座っていた杉原が、苛々と爪を噛み始める。おまえ帰れよ。
というかスギオってなんだ。
文芸部の部長二人、名前のシナジーが強烈だ。杉原京香に、大杉右京。まるで、二人結ばれることを運命づけられたような名前じゃないか。
二人が結婚したら杉杉京京になるのかとたわいもない妄想が捗る。
ああ、そうか。
何となく、大杉部長がスギオになるのはわかった。
「じゃあ、おまえはスギコなわけだ」
「次言ったらコロス」
「くわばらくわばら」
俺とスギコ(言いやすいのでこれで確定だ)が小声で話しているうちに、黒い緞帳の向こうで、スギオがうめくようにがなるように語り続けている。
佐羅谷と宇代木が止めようとするのも聞かずに、声を張る。
「だから、聞きなさい! 今は無関係な人もいるから、もう少し待って」
「かまわん! むしろ、たくさんの人に聞かれたほうが覚悟も決まるというもの!」
「あー、自分に酔っちゃってるよこの人ー」
「なあ、佐羅谷さん!」
「ああもう、なに?」
「く、くりすますいぶに、デートしてもらえないだろうか!?」
訥々とした発音のクリスマスイブという単語は、一瞬意味が捉えられなかった。
「クリスマスイブに」
「デートォ!?」
俺と宇代木の声がつながった。
田ノ瀬ほどではないにしろ、佐羅谷や宇代木のクリスマスイブの一日は、高値がつく時間だ。一食を共にするのに一億円かかるウォーレン・バフェットほどではないが、俺たちかつらぎ高校の男子なら、一生に三日しかない高校生のクリスマスイブが、どれほど稀少か身をもって知っている。
佐羅谷や宇代木に彼氏や恋人がいるかは不明だが、ダメもとで特攻してくる男が現れる可能性を失念していた。
(まあ佐羅谷なら断るだろうが)
俺の隣でスギコが黒の緞帳を睨んでいる。
佐羅谷が静かな空間に響くため息をついた。
「ふう、まったく、クリスマス前だからって、こうまでして一緒に過ごす相手がほしいのかしら」
俺とスギコのほうに一瞬視線が届く。
なんだよ、悪かったな。
だけど、俺は小細工を弄してでも、クリスマスを一緒に過ごしたく思っているさ。
「わたしは誰も好きにならないし、付き合う気もないけれど、それを承知なら、デートくらいしても良いわ」
「そ、そうか、やっぱりダメ……って、ええ? ほんとか? いいのか?」
スギオの落胆からの困惑。
「あなたが言ったのでしょう、デートしたいと。幸いわたしもクリスマスイブは用がないし」
佐羅谷はスカートのポケットから出したスマホを眺めている。
「ちょっと、あまね、そんなこと簡単に決めていいの!?」
「かまわないわ。実家に帰るのは、もう少し先だし」
そういう問題じゃないだろう。
「違うだろ、恋愛研究会は手助けや助言をするのが筋であって、ここのメンバーが代わりになるってのは!」
「九頭川くん、声が大きいわ。大杉くんは個別でわたしとデートしたいと言っているのよ。代わりではないし他の誰かさんをあてがうのは違うでしょう?」
「だからって、佐羅谷は別に付き合う気はないんだろ?」
「それは大杉くんも納得ずくでしょう。だいたい、今までわたしに告白してきた男は多いけれど、誰一人デートしたいなんて言ってこなかったわ。こういうのも、ありじゃない?」
「ねーよ、絶対ねーよ」
反論ができない。
そういえば、俺もデートに誘った記憶はない。応じるとは思えなかったからだ。しまった。そんなに簡単な方法があったのか。
「では、大杉くん、詳細はまた後で連絡するわ。ただ、わたしは恋愛研究会の活動もあるから、あまり時間は取れないかもしれないのは覚えておいてね」
「お、おお。では、連絡待っています。た、楽しみにシテル」
そして、妙にかしこまったままスギオは一度も黒の緞帳を開けることもなく、理科実験室を出て行った。連絡先、交換しているのだろうか。意外だ。
「お騒がせしたわね、杉原さん」
「あんた、そんな女だったん? その気もないのに、デートすんの?」
「人となりもわからないのに、いきなり付き合ってくれなんて言い出す男より、よほどまともじゃない」
「答えになってないよ。スギオをもてあそぶ気?」
「もてあそぶも何も、相手も納得してるのだから、ただの遊びじゃない。彼氏彼女がいないにしろ、高校時代にデートの経験くらいあったほうが、少しは箔がつくでしょう」
「あんたに箔はいらないでしょ。最初っから金箔ぎらぎらだろ」
「ふふ、そんなに大杉くんが心配?」
「べ、別に心配なんてなんもないし! ただ無様にフられるのがわかってんのがちょっとかわいそうだなってだけっ」
「フるとは限らないけれどね」
「なっ」
スギコの手からスマホが落ちる。お手玉のように危なっかしく拾い上げるスギコの前に、佐羅谷がいい笑顔で寄る。
「帰る前に、あなたと大杉くんの連絡先、教えてもらえるかしら? 心配しなくても、あなたもクリスマスイブに田ノ瀬くんとデートできるように、手を回すから」
「あ、うん」
涼しげな佐羅谷の笑みに気圧されて、杉原は嬉しくもなさそうに頷いた。
俺は見た。
佐羅谷が登録した連絡先が、スギオとスギコになっているのを。
思考が同レベルで、少しばかり安心する自分が嫌になる。
期末試験は十二月の半ばにある。終われば補講、そして終業式、クリスマスイブはすぐそこだ。
時間は少ない。
「試験前で申し訳ないけれど、杉原さん大杉くんの恋愛相談の計画を今日のうちに詰めておきましょう」
俺のベッドに腰掛けて、佐羅谷が凛と言う。ぴしっと揃った膝頭に何となく視線が吸い込まれる。黒タイツのどこに目をやればやらしくないのか教えてほしい。
「一年生も、ごめんねー? 勉強あるなら、帰ってもいいよー?」
同じく俺のベッドの真ん中に女の子座りしている宇代木は、一番成績が危うい俺ではなく一年生を気遣う。
「わたしはクリスマスイブ当日に参加できないので、今参加するのは当然です」
「ボクもたぶん当日はみこちゃを応援するので、当日は無理ぽいです! だから相談に参加するのはとーぜんです!」
ミコトとマコトはベッドの側、絨毯に置いた折りたたみテーブルに行儀よく並んでいる。ついでに俺も。
「クリスマスイブ……そういえば、生徒会の正式な引き継ぎだったかしら」
「そうなんです。生徒会のメンバーでそのまま壮行会をしますので」
ということは、沼田原先輩もその日で正式に生徒会から外れるのか。というか、マコトは関係ないのに参加するのか。別にいいけど。
それよりまず問題は。
「なんで俺の部屋で作戦会議してるんですかね」
「仕方ないじゃない、もう学校は閉校時間だったのだし」
「時間もかかっちゃうから、ガストとかサイゼはまずいじゃん?」
「部員全員の帰宅路からほど近くにあるんです、合理的な集合場所です」
「男の子の部屋に入ってみたかったです!」
いや、マコトよ、おまえは自分も男の子だろうが。
「輔〜、お茶持ってきたぞー」
返事を待たずに扉を開ける親父。
「あ、ボク受け取ります! ありがとうございます!」
「お、じゃあ、君に渡そうか。いやー、しかし、輔も急に女子を連れ込むようになって……って、キミは男の子か! いやー、一瞬わからなかったよ。かわいいねー」
「あ、はい」
おうおう、一目で性別を見抜かれて、お茶のお盆を受け取りながらマコトの表情が固まった。ちょっと面白い。隣のミコトも無表情を維持しようとしていたが、驚きが漏れている。
「ま、いいや、ごゆっくりー。あ、そっちのクールビューティちゃん、よかったら連絡先を」
「はい、アウト!」
「はは、じゃあな、輔。帰る時はきちんと送っていけよ」
親父はひとしきりからかうと、姿を消した。自室にこもってもう出てこないだろう。
嵐が去って、ミコトがポツリとつぶやいた。
「九頭川さんが、女たらしの理由がわかりました」
「なに言ってんだ。俺は母親似だよ」
「九頭川くんはお父さん似でしょ」
「くーやん、自分でわかんないんだー」
「うるせーよ」
俺のことはもういいから、スギオとスギコの恋愛相談の話をしような? 俺の部屋を使うことは、この際もう許可するから。
「こほん」
気まずい空気を佐羅谷の演技がかった咳払いが一新する。
「さて、では今回の杉原さんと大杉くんの依頼をおさらいしましょう。天、お願い」
「ほいほい! 取り出だしたりますはiPad〜!」
通学用のリュックサックからタブレットを取り出して、手描きのできるメモを開く。
細い指先で、今回の依頼者二人の名前と要望を書いていく。とても綺麗で安定した文字だった。タブレットに書くことに手慣れている。
「まずは文芸部部長、大杉くん、通称スギオね。スギオの依頼は、あまねとクリスマスイブにデートすること。これはあまねが受けたから、そのとーりになるでしょー」
さらさらと書き込む。
肯定も否定もない。
「そんで、文芸部部長、杉原さん、通称スギコね。スギコの依頼は、たのやんとクリスマスイブにデートすること。一年二人はたのやん……田ノ瀬くんのこと知ってるー?」
さすがに知らないわけもなく、二人は頷いている。
今回の依頼は表面的にとても簡単だ。二人の依頼者がいて、ただ特定の誰かとデートがしたいと主張しているだけ。付き合いたいとか、きっかけづくりをしてほしいとか、ややこしいことはなにもない。依頼を文字通りに達成することは、難しくはない。田ノ瀬を動かせるかどうかだけが問題だ。
「田ノ瀬なあ、俺が頼んだら言う通りにはしてくれるかもしれないけどよ」
「それで解決じゃないですか。九頭川さんの働き次第ですね」
「ミコトよ、違うだろ」
「なにが違うんですか。二人の依頼は」
「表面のことば通りに動くなら、AIでもできるってことだ。なあ、宇代木?」
「そだねー。先に好きって言った方が負けってマンガみたいな状況になってる意固地な二人だからねー」
佐羅谷が顎に手をやり、宇代木が呻き、俺が嘆息する。
「スギオせんぱいは部長せんぱいを好きではないし、スギコせんぱいは田ノ瀬せんぱいを好きではない?」
「憧れはあるかもしれないがな」
「もしかして、スギオさんとスギコさん、お互いが好き同士なのに、いがみあってるってことですか?」
今さら、大発見のようにミコトが無表情のまま目をキラキラさせる。だんだんミコトの感情の読み取り方がわかってきた。
「まー、難しいよね。家も近所で、幼なじみで、趣味も嗜好も近くて、だけど中学のときにお互いに大切な友達だよなー! って宣言しあって、自分で自分の恋心に制限をかけて、一番の理解者、一番のライバルを気取ってるんだもんねー」
「宇代木、詳しいな」
「天ちゃんの情報網に敬服せよ―!」
しかし、そうか。
一度、お互いに友達宣言をしてしまっているのか。
難しいな。
今の仲の良さが友達としてなのか、恋心を秘めたものなのか、お互いがお互いでわからなくなっているのだ。傍目では簡単にわかるのに、当事者にはわからない。
そして、今の関係を壊して、失ってしまったときのマイナスを恐れることで、竦んで動けなくなっている。
「まったく、これだから恋愛は不合理で厄介なんです。ずっと一緒にいる時点で好意があるのは明白なのだから、速やかに告白すればいいんですよ。それが合理的です」
「俺はミコトにそれを言いたいよ」
「わたしにずっと一緒にいる男子なんて……は、もしかして九頭川さん、ちょっと体育祭実行委員で一緒になったからって、わたしから好意を持たれてると思ってるんですか? やめてください、九頭川さんの親密度はゼロ近辺です」
「あーもう俺が悪かった。現実世界に乙女ゲーみたいなステータスを作るんじゃねえよ」
どうやら、ミコトはマコトを男として認識していない様子。
マコトの強張った笑顔を守れるように、俺はすぐに話題を変える。
「では、俺たち恋愛研究会の取る道は二つある。
一つ、スギオとスギコを合わせてダブルデートにして、二人きりになるように誘導する。自分から二人きりにはならないだろうから、流れでそうさせられたっていう強制があればいいかと思う。
もう一つ、本人たちの希望通りの相手とデートして、こっぴどくフってやってそれで終わり」
「ていうかさー、あまねー、本気でスギオとデートすんのー? クリスマスイブなのに、あたしを一人にするんだー」
「あなたは声をかけたら誰だって一緒に過ごしてくれるでしょう。むしろ去年、予定が埋まってると言って早々に放置されたのはわたしよ」
「あーうー、それはごめん。でも今年は違うじゃんかー。部員も増えたし、部活でクリスマスイブ過ごせるなんてさー、高校の今しかないじゃん」
「まあ、そうね。一年生二人が生徒会で楽しく過ごして、わたしはスギオくんとデートすると、九頭川くんがまたぼっちになってしまうわね」
当たり前のように宇代木が孤独にクリスマスを過ごすという発想がないことは、悔しいが理解できる。
こんな時に、去年も一人じゃなかったとか、一人でも悪くねえよとか心にもないことばを吐けたら、俺は少しはかっこよかったのかもしれない。
「一人は、寂しいもんな」
全員の視線が集まった。
本当なら、今この瞬間が、恋愛研究会のみんなで集まって適当な話をしているこの瞬間が、特別な日なら、どれほどかよかっただろう。
「ちょっと、九頭川くん、冗談じゃない。本当に一人なわけないでしょう?」
「そだよー! サイアクあたしが一緒に一晩でも二晩でも過ごしてあげるじゃんー!」
宇代木は優しいねえ。
でも、まあ、一晩でいいよ。二晩一緒にいると完徹48時間は死ねる。
「そうね、それがいいわ」
「何がいいんだよ」
「だから、あなたと天もデートするのよ。恋愛相談のデートなのだから、部員が一緒にいて調整するのは当然でしょう? だから、トリプルデートにしてしまえばいいのよ」
「そーだねー! それいいねー!」
「いやトリプルデートってそれただの友達と遊びに行く感覚と変わらないんじゃ」
ダブルデートくらいまでは聞いたことがあるが、トリプルだとほとんど友達と連れ立っているのと同じだ。
「いいのよ。もともと文芸部の二人も、本気で他人と恋仲になりたいわけではないのだから。みんなで遊びに行って、自分がほんとうに好きなのは誰なのか、身をもって知ればいいわ」
佐羅谷は悪い笑みを浮かべる。
「わたしとデートしたいなんて軽々しく言う男、さあ、どうしてくれようかしら」
深窓の令嬢の凄味がある、少し珍しい表情だ。
こんな顔さえ美しく見える。
部屋の中に監視カメラでも付けておけばよかったと、みんなを駅まで送ってから後悔したのだった。
『田ノ瀬、悪いが明日放課後、時間をとってくれるか』
『メッセや電話じゃダメってことかな?』
『ああ、面と向かって話さないといけない大切なことだ』
『わかった。じゃあ、恋愛研究会の部室でいいかな』
『よろしく頼む』
「こんにちは、お邪魔するよ」
扉の札を「恋愛相談中、入るな」にする音が聞こえてすぐに、田ノ瀬一倫は理科実験室に入ってきた。
今日は黒の緞帳は出していない。
少し背をかがめて入ってきた田ノ瀬は、長身に適度に鍛えた体躯、整った顔立ちに決まった髪型。同じように疲弊する授業や体育を受けてきているのに、漂う空気は爽快で高貴な香りがしそうだった。
ただ歩いて、理科実験室の座りにくい椅子に座る。
その動作だけで、どこか普通の高校生とは違う。見られる前提で、見せることを意識した、舞台に立つ人間の所作に魅了される。
ときどきは一緒に遊ぶが、会うたびに成長する。田ノ瀬は近いうちに、俺など手の届かない世界へ羽ばたく。
佐羅谷が腰を上げた。
「今日は来てくれて」
「まずは」
紳士的な田ノ瀬にしては珍しく、佐羅谷のことばを遮った。席に着くように手で促す。
声が、通る。
佐羅谷は小柄だし大声でもないが、声は通るし発音は明瞭だ。しかし、田ノ瀬は質が違う。
遮ったのは田ノ瀬なのに、まるで佐羅谷が遮ったかのような錯覚さえ覚えるほどの迫力があった。
「まずは遠くから眺めるんだ」
田ノ瀬は佐羅谷の深い緑色の瞳をじっと見つめる。
「逆光に際立つ美しいシルエット、光を透かして輝く縁取り、黒く潰れて影になる凹凸。すべて剥ぎとって、隠れた造形を想像する」
田ノ瀬のことばは、セリフだった。
惹き込まれた。
自然な会話文でもないのに、あたかも普通の口語であるかのように素直に耳に入る。
「次に近づいて、部分部分をよく見る」
田ノ瀬は熱に浮かされた演技者。
大仰だが自然な動きで、佐羅谷の至近距離に寄る。
窓から差し込む逆光を背負った佐羅谷に。
「出たところ、窪んだところ、くびれたところ、つなぎ目、顔、目、体、尻、全部全部、触って、撫でて、綺麗にして、感触を確かめたくなる」
舞いのようだった。
ことばに合わせて、触れないギリギリのところで、佐羅谷の顔や体に合わせて手のひらでなぞる。
「最初の反応は大切だよ。つまんで、捻って。君はどんな反応をするのかな? 声も大切だよ。普段はおとなしくて物静かなのに、少し昂ると上気した掠れた声を出したりしない? 思い切り激しくしたときに、甘い叫びが聞こえてきたら、こちらまでアガるよ」
目が、離せない。
佐羅谷は、努めて表情を変えまいとがんばっているが、一筋の汗が頬を伝う。
(止めるべきだ)
理性も感情も訴えるが、体が言うことを聞かない。
突然始まった田ノ瀬の独り芝居に、その内容に、宇代木もミコマコの二人も動けない。一様に顔が赤くなっている。
みんな、何を想像しているのやら。
俺は、どうだろう。
「またがって押さえつけたら、どんな反応をするんだろうね?」
田ノ瀬が、佐羅谷の顎に達した汗を指で掬った。
ビクッと佐羅谷が初めて身じろぎした。
「上から見下ろしたとき、どんなふうに見えるのかって、想像するしかないんだ。暴れる体を力で押さえつけて、飼い慣らして、僕専用になるまで、何時間でも何日でもかけてわからせてあげるんだ」
抱き合っているのか、というほど田ノ瀬と佐羅谷が近い。
「そこまでだ、田ノ瀬!」
金縛りが解けた俺は、声で自分を奮い起こして田ノ瀬を引き剥がす。
「やあ、九頭川くん。いつも動くのが遅いねえ」
「なんだよ、いつも遅いって、なにがだ? とにかく、あんまり佐……部員の女子をからかうなよ」
「別にからかったつもりはないんだけど」
「とにかく、席に着け」
理科実験室の空気が狂った。
佐羅谷が涵養した恋愛研究会の雰囲気が、田ノ瀬の技術と演技で一気に持っていかれた。ここまでの力があるなんて、普段は俺に合わせて力を落としていたのか。
「あー、たのやん、さすがにちょっと、ああいうのはよくないんじゃないかなー」
宇代木が深呼吸してから苦言を吐くが、顔は赤いままだ。
「ん? ああいうのって、具体的にはどういうことかな?」
「あー、えーっとー」
宇代木が想像している場面に見当がつく。男女の「それ」など、宇代木には慣れたことだろうが、口に出すのは憚られよう。
田ノ瀬は爽やかに笑みを浮かべ、これがまたいやらしくない。
「た、田ノ瀬さんって、思ってたよりも積極的というか肉食系というか」
「田ノ瀬せんぱいにこんな口説かれかたしたら、ボクでも耐えられないです!」
ミコトとマコトがひと心地ついて所感を述べると、田ノ瀬が魅惑的な微笑みを向けた。二人は再び真っ赤になってうつむく。
「佐羅谷、おまえが一番の被害者なんだ。何か言ってやれよ」
「被害なんて、そんな」
なんでだよ。
佐羅谷は、相手が田ノ瀬だって谷垣内だって、まったくなびかないんじゃなかったのか。なんで口元を隠して熱い目で田ノ瀬を盗み見てるんだよ。なんでだよ。
なんで、なんでなんでなんでなんで。
言ってることは愛の告白でさえない、ひどい文言じゃねえか!
「ちょっといきなりだから面食らったけれど」
佐羅谷は深呼吸する。
「バイクの話、よね? さっきの」
「「「「は?」」」」
四人の声が重なった。
「ば」
「い」
「く」
「?」
俺と宇代木とミコトが一音ずつ発して、最後にマコトが首を傾げた。
田ノ瀬は掛け値なしに喜び、パチパチと手を叩く。
「ご名答、やっぱりわかるんだ、佐羅谷さん知ってた?」
「たちの悪いひとね。最近出たばかりの作品じゃないの。よく知っているのね」
呆然としていて記憶は曖昧だが、田ノ瀬の語りを反芻する。確かに、言われてみればバイクの外見や高揚感を詩的に語ったとも取れる。
しかし、作品とは? 佐羅谷が知っているということは小説だろうか? 二人だけ通じ合うなんて、どこかもやもやする。
この場で佐羅谷に対してしたことは、誤解させるための行為そのものだ。内容は女子の品定めから、もう一つの行為へ踏み込んだものと勘違いされて仕方ない。これが田ノ瀬でなければ、いきなりセクハラからの補導、逮捕までまっしぐらだ。
「なーんだー! もー、びっくりするじゃんかー! たのやん、冗談きついよー」
宇代木がこの程度で取り乱すなんて、考えられない。下ネタに恥ずかしがる女子というキャラを演じているわけか。
ミコトやマコトも勘違いしたということは、まあ、そういうことだ。これは無視してやるのが先輩の対応だろうな。
「それで、田ノ瀬、今日はちょっとお願いがあって来てもらったんだが、」
「ああ、九頭川くんや恋愛研究会からのお願いなら、できる限り協力するよ。なにせ、僕も助けてもらったしね」
「いきなりバイクの話を始めたけど、なんだよ、バイク欲しいのか?」
「そうだった、実はバイク免許を取りたいんだ。どうだろう?」
「バイク、いいんじゃないか。田ノ瀬が乗りこなすと、きっとなんでも似合うぞ」
「いーじゃん、後ろに乗せてー。あーでも自分でも乗りたいかもー!」
「そうね、田ノ瀬くんなら、フルカウルからオーセンティックまで、なんでも似合うんじゃないかしら」
佐羅谷から聞き慣れないことばが聞こえる。意外とバイクに詳しいのか? そうか、イリヤさんがバイクに詳しいのかもしれない。
「や、似合うかどうかじゃないんだよ。僕の場合は、バイクに乗れたほうが仕事の幅が広がるだろうし、年齢的にまだ車の免許は取れないから。だけど、校則があるじゃない?」
そういえば、はるか昔、3ない運動と言って、免許を取らない・バイクを買わせない・バイクに乗らせないという人権無視の運動があったという話を引きこもりの山田仁和丸(40)おじさんが憤慨して話していた気がする。もっとも、3ない運動はおじさんの頃には廃れていたので、運動神経がなくて免許が取れなかったのは本人の問題だ。
ところが一人、気を吐く女子が隣に。
「バイク免許なんて、とんでもないです! 確か生徒手帳の真ん中あたりに……ああ、マコト、何するんですか!」
「はいはい、みこちゃ、あなたは何も聞こえなーい、何も聞こえなーい」
ブレザーの胸から取り出した生徒手帳をするっと奪い、膝掛けでミコトの顔を隠して耳まで塞ぐ。マコトの手慣れた動作に思わず笑う。
「むぐーむぐー!」
邪魔者はいなくなった(?)ところで、俺たちはミコト委員長を無視して話を続ける。
「仕事の幅を広げるわけだし、別に問題ないだろ」
「そーだよそーだよー。だいたい法律で許可されてんのに、校則如きが侵害するなんて、憲法違反だよ! 最高裁まで持ちこむべきだよー!」
「わたしだって原付免許は持ってるし、実家でもスクーターに乗ってるから、いいんじゃないかしら」
「え」
佐羅谷の発言に、全員が目を丸くする。およそ運動神経が悪く、小柄で華奢な佐羅谷に、スクーターといえどもバイクに乗っている構図が思い浮かばない。
「さ、佐羅谷、バイク乗れたんだ」
「なんだー、あまねそういうの興味ないって思ってたよー。あたしもコースのレーサーなら乗ったことあったけどさー。今度一緒に行く〜?」
「行かないわよ。わたしは、ほら、十津川だと、友達の家に行くにも買い物に行くにも、自転車だと遠いじゃない」
十津川村は日本で一番大きな村で、ほとんどが山林だ。佐羅谷の実家が村のどこにあるかは聞いていないが、きっと買い物ができるようなお店は、役場とか郵便局があるような中心部にしかないのだろう。
奈良県最小の市、大和高田に住んでいる俺にはわからない世界だ。
「ははは、さすが佐羅谷さんだ。深窓の令嬢のイメージをこんなところで崩すなんて」
「深窓の令嬢なんて、周りが勝手に言っていることでしょう。わたしはただの高校生よ」
「誰もそうは思っていないよ、少なくとも、この高校の生徒はね。だけど、佐羅谷さんが免許を隠れ持っているのは頼もしいや。僕も気兼ねなく教習所に行けるね」
この冬休みで取れるかな、そう独りごちて、田ノ瀬は居住まいを正した。
さあ、田ノ瀬からの話は終わった。
次は、恋愛研究会からのお願いをする番だ。
俳優の卵の醸し出す威圧感だろうか。くっきりした二重の瞳が、優しくも鋭く俺たちを射抜く。
「なるほど、文芸部の杉原さんが僕とデートしたいと」
田ノ瀬は深く考えこんだ。
「田ノ瀬、そんな余裕がないのも、女子と惚れた腫れたする気がないのもわかってるから、無理は言わないが」
「向こうも本気ではないわ。嫌だというなら、こちらで責任を持って断るつもりよ」
「たのやん、無理しなくていーよ?」
俺たちはあくまで仲介する側。
拒否する権利は田ノ瀬にある。
そして田ノ瀬は自分の道を目指すために、今は恋愛にうつつを抜かす暇などない。最初の依頼で、モテたくないと言ってきたのは田ノ瀬だ。今でも近づく女子は多いが、誰とも深い関係にはなっていないようだ。
というか、田ノ瀬と一緒に遊んでいると、一度に二回は女子から声がかかる。女子の目に俺は映っていないが。
「僕とデートしたい、付き合いたいっていう子は、知っての通りとても多いんだ。全部事前に断ってるのに、恋愛研究会を通したら受ける、というのはちょっと違うよね。君たちを悪用する人が出るかもしれないし、杉原さんに気があったと思われるのも困るよ」
田ノ瀬が言うと高慢でも自慢でもなく、自然に受け入れられる。
初めてまともに話したはずの一年二人も、納得の表情だ。
「そうだよなあ、やっぱり無理だよなあ」
ふと考えた。
待てよ。
スギコが田ノ瀬とデートできないとなると、当初予定していたダブルデートやトリプルデートの予定は崩れる。
その場合、ただ佐羅谷とスギオのデートが実現するだけだ。俺と宇代木がついて行ってダブルデートにする理由がない。
これはまずい。
佐羅谷は何もする気はないだろうが、男と二人きりでクリスマスイブを過ごさせるなんて、俺が嫌だ。
俺が、嫌だ。
どうすればいい?
どうすれば、佐羅谷とスギオのデートに合法的に付き添える?
簡単だ、田ノ瀬が来ればいい。
田ノ瀬が来たらスギコも来ることができるし、俺と宇代木が恋愛研究会の名目で同行できる。
このとき、きっと俺の頭はパニックを起こしていたのだ。
どうしても佐羅谷とスギオを二人きりにさせたくなかったから。
最悪の手を、引く。
最低の男に、なる。
「田ノ瀬、じゃあ佐羅谷や宇代木ならどうだ? この二人なら、田ノ瀬とも見劣りしないだろ」
「九頭川くん!」
「くーやん、だめだよー!」
慌てて止める二人。
俺は失言に気づく。
「あ、すまん、別にスギコを下に見たわけじゃない、ただ、二人なら田ノ瀬が想いを寄せていたと言っても信憑性があるかと思って」
「違うわ、九頭川くん。そのやり方はあなたが否定したことよ」
「いくないよ! ウソで付き合うってことじゃんかー!」
「九頭川くん、迂闊だよ。僕が初めて相談に来たとき、ウソで付き合おうっていう二人の意見を真っ先に潰したのは、君じゃないか」
そうだった。
あのときは、田ノ瀬みたいなイケメンで能力もある男子が嘘でも付き合うということになったら、絶対に佐羅谷も宇代木も靡いてしまうと思っていた。
なぜだ、今はそう思わない。
なんとなく、佐羅谷も宇代木も一番親しい男友達は、俺だと認定してくれると無邪気に信じていた。
ただの普通の男子高校生である自分が、なんとなく特別に遇されていると思い上がっていた。
田ノ瀬は潜在的にテンペストだった。
谷垣内と同じく人外の嵐だということを、完全に忘れていた。
「本当に迂闊だよ」
田ノ瀬は冷たく繰り返した。
俺は情けなくて返すことばもない。
「でもそうか、ちょうどいいかもしれない。佐羅谷さんなら、不足はないし」
田ノ瀬の値踏みする視線が真っ直ぐに射抜く。
「佐羅谷さん、君は大杉くんとデートするんだよね?」
「ええ、そうね」
「じゃあ、僕とクリスマスイブにデートしようと言っても、拒否しないよね」
「おい、田ノ瀬!」
「九頭川くん、僕は佐羅谷さんと話をしてる」
俺のほうを見やしない。
「そうね、拒否する理由がないわね」
「おい、佐羅谷!」
「九頭川くん、うるさい」
佐羅谷も俺を見ない。
「ただし、ダブルブッキングになるわ。ダブルデート、あるいは天と九頭川くんを含めたトリプルデートになるけど、それはいいのかしら?」
「かまわないよ。僕は佐羅谷さんとデートするつもりで行く。杉原さんには悪いけど」
事務的に計画を詰める二人は、そのまま自然に連絡先を交換している。俺は連絡先の交換に三ヶ月以上もかかったのに。
「じゃあ、詳しいことは後で。夜でいい?」
「ええ、いつでも」
「楽しみにしてるよ」
長らく付き合っていたかのように落ち着いたやりとりで、佐羅谷と田ノ瀬は会話を終える。帰り支度を始める。
「たのやん、あたしは選んでくんないんだー」
「ごめんね、二人とも甲乙つけ難いんだけど、宇代木さんだと目指すものが近くてさ、嫉妬しちゃいそうだから」
「むー、褒められてるような体よくあしらわれてるような」
「褒めてるよ、もちろん」
田ノ瀬は鞄を提げて立ち上がる。
「じゃあね九頭川くん。そんな怖い顔しちゃダメだよ。当日もね。宇代木さんをエスコートするんだよ」
俺は声も出ない。
ただ田ノ瀬がにこやかに部屋を出ていくのを、情けなく、恥ずかしく、後悔して、震えながら、見送った。
扉が閉まる。
俺は、舐めてた。
何を?
全部だ。
佐羅谷も宇代木も田ノ瀬も、もとより格が違うんだ。たまたま同じ高校の同じ学年というだけで、本来は友達にさえなれないような雲上人だったんだ。
長く一緒にいすぎて、いい気になっていたのは俺だ。
ずっと一緒にいるにはとか、恋愛研究会を残すためにはとか、偉そうに!
お情けで汚していた末席は、俺が獲得した居場所なんかじゃない。
「九頭川さん、大丈夫ですか? 顔色悪いですよ」
「保健室行きますか! ボク付き添いますよ」
ははは、一年生二人に気を遣われてちゃ、世話がないぜ。
顔を上げられない。
佐羅谷と宇代木の冷酷な視線に耐えられそうにないから。
「このあたりで二輪免許というと、葛城教習所かしら」
「え? あー、そーかもね。確か香芝に二つ並んでたよね」
「あったわ。すみれ野にあるのが葛城自動車学校で、別所にあるのが香芝自動車学校ね。バイク免許があるのは、葛城のほうね」
俺が落ち込んでいることなど意にも介さず、佐羅谷と宇代木はバイク免許に夢中だ。
「どったの、あまね免許に興味あるのー?」
「そうね。今は実家に帰るにもバスなのだけど、バイクだったら自分で帰れるじゃない」
「えー、あまねがバイクー?」
「悪いことは言わない、やめとけ」
まったくの無意識で制止してしまった。普通に声が出た。
むっと唇を尖らせた佐羅谷と口を半開きにした宇代木が見えた。
「何よ、九頭川くんには関係ないじゃない」
「いやいや、佐羅谷の背丈と運動神経でバイクなんて、危なっかしくて仕方ないだろ!?」
「うん、あたしもあまねはやめといたほうがいんじゃないかなーって」
存在感が大きいから気にならないが、佐羅谷は自称150cmだ。たぶん、本当はもうちょっと低い。
「別に、普通のバイクが欲しいんじゃないわよ。125のスクーターに乗りたいだけよ。どうせすぐに車の免許を取るんだし」
「あー、それなら……」
よくわからないが、バイク免許にもランクがあるのだろうか。宇代木の反応から言うと、佐羅谷ならそのくらいが穏当ということか。
「あまねが取るんなら、あたしも取ろっかなー。いずれ取る予定だったし」
宇代木もか。
「あら、今なら、友達を紹介したらお互いに一万円引きになるみたい」
スマホをぽちぽちしながら、佐羅谷はしばらく考え込む。ゆったりとした動作でスマホを耳に当てる。
「もしもし、田ノ瀬くん? まだ帰ってない? そう、よかったわ。実はわたしも免許を取ろうと思って、ええ、今ならお互いに一万円引きで入校できるみたいだから」
「おおい!」
「あまねー!」
俺と宇代木の声が被る。
しかし、佐羅谷はしーっと唇に指を当てて、田ノ瀬との会話を終わらせる。
「ええ、じゃあ、すぐ追いかけるわ。また後で」
佐羅谷はスカートのひだの中にスマホをしまう。
「それじゃあ、今日の部活はここまでにしましょう。わたしは用があるから、みんなは先に帰ってくれていいわ」
「いやいやいやー、あたしも行くよ! 今日行くよ!」
「俺もだ。今なら冬休み前に教習も終わるだろ」
「むー、わたしは何も聞いてない、何も聞いてない……」
「はいはい、みこちゃ、帰ろうね。あー、ボクも教習所入るかどうか自分で即決できたらなあ」
というわけで、校門で待つ田ノ瀬と合流して教習所へ手続きに向かう二年生一同。一年生二人はとぼとぼと帰宅するのだった。
あー、バイトしててよかった。
結局、一日目から飛び込みで手続きできるわけもなく、書類一式をもらうだけで終わった。自動車学校は突然押しかけてきた高校生にも丁寧な対応をしてくれた。近いうちに、ここに入校することになるだろう。
「それじゃ、わたしはここから近いから、歩いて帰るわ」
「あー! あ、あまね! 一緒に帰ろ? 家、行っていい?」
「別にかまわないけど。イリヤと一緒に住んでるし、面白いものがあるわけでもないわよ?」
「いいのー! ずっと行きたかったのー!」
「そうなの? 何も言わないから、てっきり興味ないのかと」
「友達じゃん? でも、あまねって、あんまりプライベート入り込ませないっていうかー」
自動車学校の自動扉を出たところの階段の隅で、俺も田ノ瀬もいるのにどこか百合百合しい二人。宇代木がもじもじしているのが珍しい。
「友達……友達、そうね、じゃあ、今度天の家にも行っていいかしら?」
「も!ち!ろ!ん!」
「約束よ」
女子二人でひと通り友情を温めると、宇代木が佐羅谷の腕を抱き締めて、にかーっと俺に笑顔を向ける。
「ふふーん、あまねの初めてはあたしがもらうかんねー! どーお、くーやん、悔しい?」
「意図的に悪意あるはしょり方をするな。初めて部屋に入るってことだろ。至極どうでもいいよ。帰り、気をつけてな。じゃあ、俺は帰る」
「ああ、僕も帰るよ。九頭川くん、途中まで一緒に帰るかい?」
「そうだな」
佐羅谷と宇代木は歩きで、俺と田ノ瀬は自転車だった。どうやって女子二人と男子二人がここまでやってきたかは秘密だ。ミコト委員長に見られなければ許される。
「じゃあね、二人とも。またね」
「ばっいばーい!」
女子二人とは別方向へ。
クリスマスの予定は埋まったのに、これから期末試験まで勉強しなくてはいけないのに、とことん悩み事が未来を苛む。
横で自転車を並んで押す田ノ瀬。
人畜無害な清涼な顔立ちに慣れて騙された。
こいつは、モンスターだ。
「田ノ瀬、ちょっとそこの公園寄っていこうぜ」
たまたま街区にあった小さな公園を指差す。
田ノ瀬は待っていたとばかりに眉を動かす。
「ほんとうに、九頭川くんは遅いね」
街灯の照らす中、仄暗い公園。
すっかり冬の入り口。
陽が落ちると一段と冷える。
俺と田ノ瀬はブランコに並んで座った。
お互いの姿も朧げに、輪郭くらいしか見えなかった。
「田ノ瀬、どういうつもりだ」
「僕もただの高校生なみに恋愛してみたくなった、かな?」
「ほんの半年前に、モテたくないと言っていた男がか?」
「もう半年も前に、だよ。僕らにとっての半年なんて、はるか昔だよ。違うかい?」
「確かに、おまえはずいぶん変わったよ。その、なんだ、もともとイケメンだったけど、今は嫌味のない自信があふれてる」
彼女を作って「がらんどうの男」だと思われ幻滅されることを恐れていた田ノ瀬一倫は、ここにはもういない。
夢を目指して地道に努力し、一つ一つ雑誌やメディアに露出を増やしてきている。
田ノ瀬の背後に成果が並び、その成果がまた田ノ瀬の自信に裏付けを与える。
名実ともに、いい男だった。
「一学期に相談に行ったときは、高校生のうちは恋愛なんてもういいやって思っていたのはほんとだよ? だけど、このまま高校時代に恋愛もしない、恋人もいない、というのは、僕が自分をプロデュースするうえで、ちょっと違うと思ってね」
「自分をプロデュース?」
「田ノ瀬一倫は、努力なんてしない。天賦の才にあぐらをかいて、適当に女の子と浮名を流して、世の中を舐めたまま人気者になる」
まったく逆じゃないか。
田ノ瀬が恵まれた容姿に油断せず、レッスンにも稽古にも努力している真面目な男だというのは、俺がよく知っている。この間は、ボイストレーニングのレッスンを加えたと言っていた。声優やナレーションの仕事も視野に入れているのか。
バイクの免許だって、そうだ。アクションやライダー系の俳優の仕事で有利になる可能性がある。
だが、俳優としての田ノ瀬一倫というキャラは、あえてチャラい天才という嫌味な性格づけで行く気なのか。それはそれでアリだと思うが。
「だからって、なんで佐羅谷を選ぶんだよ」
「宇代木さんでもよかったんだけどね。……いや、ダメかな。彼女は僕に近すぎる。嫉妬しちゃうかもね。佐羅谷さんくらいが、ちょうどいいんだ」
「ちょうどいいだと」
「ああ、ちょうどいいよ。佐羅谷さんは僕と付き合うことになっても、浮かれたりしないし、誰にも言いふらさないし、仕事で他の女性と絡んでも嫉妬しないし、急な予定が入っても怒らないだろうし」
「なんだよ、それ。なあ田ノ瀬、おまえなら女なんて選び放題だろ。なんで、なんでなんで! 消去法で佐羅谷を選ぶなよ」
「おやおや。おやおやおやおやおや」
隣の田ノ瀬に怒りをぶつけても、ブランコに揺られて軽くいなされる。
田ノ瀬の笑みは、不気味な鉄仮面に見えた。
「友達の友達、だからかな」
田ノ瀬は笑顔を消した。
「九頭川くんが大切に思っている二人なんだ、それだけで、魅力的だ。そのうち佐羅谷さんを選んだのは、さっき言った通りだよ」
「友達か」
田ノ瀬は俺を友達だと言う。
「友達だよ。だから、友達の恋愛を応援してくれるだろ?」
「……最低だな」
確かに、応援しただろう。相手が佐羅谷でなければ。
田ノ瀬は、すべて知った上で、わざと佐羅谷を選んだのだ。わかる。半年以上も田ノ瀬とつるんでいたのだ。
「おまえを敵に回したくなかったよ」
田ノ瀬を憎めない俺がいる。
田ノ瀬に依存している俺がいる。
田ノ瀬に憤るのはお門違いだと理解している。
無理じゃないか。
別に佐羅谷は誰のものでもないし、田ノ瀬は卑劣な手段を用いてもいない。
俺は、ただ悔しくて泣きそうな顔をするしかない。
「九頭川くん」
田ノ瀬は俺の前に立っていた。
形の良い細い顎を撫でる。
「君はもしかして、自分が物語の主人公か何かだと勘違いしてるんじゃないかな?」
「は?」
「モデルや演劇志望の仲間の恋愛話をたくさん聞いてきた僕から見て、君に足りないものがある」
どこかで聞いたことがあるような演技がかったセリフ。しかし、いやに自然に聞き入ってしまう。
「何が、足りない? 行動力か?」
「危機感だ。恋愛は早い者勝ち、やった者勝ちなところがあるのに、君は動かない」
「い、今は状況を整えているところで」
「そうやって、みんなを救おうとして、何もかもを失うまいとして、一番欲しいものが手に入らなくなる可能性を考えないんだね」
「ち、違う、このまま俺が我を通すと」
「悠長でいられるのは、自分が最後には想い人と結ばれるっていう楽観的な勘違いがあるからだよ。それは、主人公だけが取れる態度さ。でも君は、世界という物語の主人公じゃない」
まるで自分は主人公になれるとでも言いたげだ。
「何を失っても今すぐにこの人が欲しいと思って、即座に動かない。だから、僕みたいな軽い男につけいられるのさ。君に足りないのは、がむしゃらな、ひたむきな、無鉄砲な、背を突き動かされて止められない、今しかないという危機感だよ。
誰も好きにならないだの、告白されたら誰とでも付き合うだの、そんな女子のことばを真に受けて信じてるようじゃあ、ダメだね」
「見た目が良くて、性格も良くて、勉強もできて、目標があって、努力もできる。俺から見たら、完璧な男だよ。誰もが、おまえみたいに強くない。強くないんだ。そう、生まれついたんだよ!」
「親ガチャとかつまらないスラングで自分の不遇を正当化なんてしないでよ、九頭川くん。僕の知る九頭川くんは、もっと計算高くて、凄みがあって、粘り強かったよ。そして、読書家で勘が鋭かった」
佐羅谷はかつらぎ高校では高嶺の花だった。だから、逆に本気で狙う男子はいなかった。
仮想の敵は谷垣内や田ノ瀬だったが、二人とも佐羅谷に興味はなさそうだった。他の学年のそこそこモテると有名な男子も、わざわざ佐羅谷を狙っている様子はなかった。もっと手近に寄ってくる女子がたくさんいるからだ。
田ノ瀬が彼氏候補から外れた時点で、俺は完全に油断していた。
一番近くにいる男子ということで、時間をかけて親しくなる算段だったのに。
時間をかけるしかなかったのだ。
佐羅谷と宇代木の相互依存を緩やかに解消したり、恋愛研究会をただの組織にしたり、ゆっくりゆっくり二人を「自由に」するしかなかった。
「一番の身内に、刺されるなんてな」
「友達の想い人は、ことさら魅力的に見えるからね。僕に佐羅谷さんを意識させたのは、君だよ」
つまり、俺が田ノ瀬と友達になって、いろいろ相談したり遊びに行ったりしたのも原因か。
「手の打ちようがねえよ」
「九頭川くんの危機感のなさを、もう一つ指摘してあげようか?」
「え?」
「九頭川くんは、こう思ってる。仮に今、田ノ瀬一倫と佐羅谷あまねが付き合うことになっても、どうせこの男は高校を卒業したら東京へ行くし、そうなればチャンスは巡ってくる、って。そういう考えが、もう、甘いし遅いんだよ」
田ノ瀬の顔が、怖い。
無表情でもなく、いつもの温かい笑顔のはずなのに、底知れぬ闇が覗く。
「佐羅谷さんは、たぶん東京の大学に行く気だよ。それに、知ってる? ボイストレーニングとボクシングジムに通い始めたらしいよ」
「な、そんなの知らない、聞いてもない……!」
「ほうら、だから、言ったろ? 知ろうとしないし、聞こうともしない。危機感がないから」
「ま、待てよ! 詳しく!」
「待たない。じゃあ、僕はもう帰るよ。試験勉強もあるし、クリスマスイブのデートも計画しなきゃいけないからね。佐羅谷さんに楽しんでもらうのは、少し難しいかもしれないし」
田ノ瀬は緩慢な俺の腕をすり抜けて、颯爽と自転車に跨って消えた。
佐羅谷が、東京の大学に行く? ボイストレーニングにボクシングジム? 全然似合わない。いや、ボイストレーニングはわかるが、ボクシングなんて。
だが、俺は何も知らない。
こんなに近くにいて、一番の理解者のつもりで、どうしてどうして何もわかっちゃいなかった。
田ノ瀬のことばの重みが胸にのしかかる。
その通りだ。
俺は危機感がなかった。
言わなかった。聞かなかった。
押しを強くして嫌われたくなかったから。
だけど、田ノ瀬は俺の知らない佐羅谷を既に知っている。
「どうすりゃいいんだよ」
ブランコのチェーンを強く握る。手のひらに爪が食い込む。ギシギシとチェーンが擦れる音がする。
相談したくとも、当事者に相談することはできない。
「誰か、俺を助けてくれよ。何でまた、こんな思いをしなくちゃなんねえんだよ」
始まっていない恋愛が、また終わる。
前回は保健室に逃げ込めた。
今回は、どうだ?
犬養先生は優しく受け入れてくれるだろうか。
ダメだな。
誰も頼れない。
誰も相談できない。
俺は、一人だ。
俺は、独りだ。
ぎーこ、ぎーこ、いつから繰り返しているか公園のブランコ。
ポケットのスマホが黙って尻で震動する。
そういえば、自動車学校の説明を聞くときにマナーモードにしていたっけ。通知も溜まっていたが、今は電話だ。
「もしもし」
「ばっか、輔、おめえ今どこだよ? 何時だと思ってんだ! カラオケでもラブホでもどこでもいいが、一言言っとけよ!」
「あ、親父、ごめん。いま香芝にいる」
「香芝? まったく、心配させんなよ。飯は卓に置いとくからな」
「うん、今から帰る」
「ていうか、おまえなんで香芝なんかにいるんだ?」
「あー、そうだ、親父。俺、免許取りたい。お金は自分のバイト代から出すから」
「免許? 十七歳で取れる免許というと二輪か。そういう年頃だな。別にいいぞ。そんなもん、事後承諾でいいだろ」
「いちおう保護者の同意書も要るし、危険もある乗り物だから」
「は、危険だってわかってんなら、大丈夫だろ。同意書なんかくだらねえ。いいか、ハンコっていうのは未成年でも捺せてだな」
「あー、悪い、親父、それは聞きたくない」
「くっくっく、そうかそうか」
親の武勇伝ほど恥ずかしいものはない。
「で、なに悩んでんだ?」
「え?」
「声で丸わかりだぞ、おまえは隠し事ができないやつだからな。フラれたか?」
ことばにされると、胸に刺さる。
親父の勘が鋭いのか、俺がわかりやすいのか、本当のところは知れない。
「親父には、関係ないだろ」
「関係なくはないぞ、将来、家族が増えるかもしれないだろ。まあ一つだけ言っておこう。俺はおまえの母親に、十回以上フラれてる」
「初耳だ」
賑やかで軽々しくて友達の多い父親と、物静かで孤高で本好きだった母親の接点は確かに謎だ。
「気を惹くために、どこまでも相手の好きなものを追いかけたぜ。勉強も、読書も、映画も、歌手も、俳優も。いろいろだ。結局今でも読書と映画だけは続いてるがな」
親父の声は少しだけ寂しそうだった。
「あとは、頼れ。甘えろ。助けてもらえ。俺に限らずな。人間ってのはよ、不思議なもんで、頼まれ事や相談を受けるのはめんどくさいし怠いのに、そうやって近づいてくる相手の方が気になるし、親しくなるし、好きになる。心の底から一人が好きな人間なんて、いない。それは、人間じゃない」
「一人が好きな人間なんて、いない……」
「そうだ。一人は、寂しい」
「だったら、早く再婚しろよ。親父なら、相手はいくらでもいるだろ」
「はっはっは、それはおめえが考えることじゃねえよ!」
少し、元気になった。
他人と話をすることは、ただそれだけで薬だ。どうやら、明日からも学校に行くことはできそうだった。
親父との電話を切って、改めてスマホ画面を見る。他にも通知が来ていた。最近連絡先を交換した相手だった。
「頼れ、甘えろ、助けてもらえ、か」
この人なら、応じてくれる気がする。
俺は自転車を押しながら、通知をタップした。そうだな、通話がいい。文字じゃだめだ。声で、訴えよう。スマホを耳に当てる。呼び出し音が、一周してつながった。
「やっと折り返してくれた」
「何ですか、沼田原先輩」
少しの話ののち、会ってくれることになった。
翌日に。
「明日からしばらく、試験勉強に専念したいから、部活へは行かない。あと、(佐羅谷の)誕生日を教えてください」
部員全員に、名前部分だけ違うメッセージを送った。よくよく考えると、俺は誕生日すら知らなかった。聞く機会はあったろうに、勇気がなかった。
脈絡のないメッセージで全員に送ったらごまかしも効くし、あわよくば重要な情報を得ることができる。我ながらずるい手だ。
四人四様の返事をもらい、部活へ行かない了解と誕生日情報だけを入手して、俺はつつがなく授業を終える。
どちらにしろ、自動車学校ではしばらく顔を合わせることになる。
「九頭川くん、自動車学校では休戦しようね?」
とは田ノ瀬の弁だ。俺は返事をしなかった。
「休戦も何も、俺の不戦敗だ」
何度かメッセージを返そうとして、削除を繰り返したことば。
ことばにするとなおさら負けを認めた気がして。言霊にだけは、せめて負けないように。
帰りのホームルームが終わり、教室には弛緩した空気が流れる。勉強のためにさっさと帰る者、学校に残って勉強する者、何も考えずにだべっている者。いろいろだ。
俺はーー
「九頭川よ! 今日も勉強しようず!」
「あー、悪い、今日からしばらく先約が」
なぜかウキウキしながら歩み寄ってくる山崎の後ろで、しかめ面の沖ノ口がホラーのように無音で立っていた。
「たすく、呼んでる」
指差す先の教室の扉では、沼田原先輩が笑顔で手を振っていた。
「な、なんと、学園の絶対権力者までも知り合い……だと!?」
「たすく、最低」
「俺は何もしてないんだが。だいたい、生徒会が権力を持ってるのはマンガの中だけだし、あの人はもう生徒会長じゃねえよ」
あまり見られるのもバツが悪いので、俺は手早く荷物をまとめて、教室を出る。
先導する沼田原先輩はときどき振り返りながら、思わせぶりな笑顔を見せる。
沼田原先輩は、目立つ。
女子にしては長身で、伸びてきたまっすぐなセミロングが艶めく。歩く所作一つとっても品がある。
元生徒会長の知名度と身につけた社交術で、ただ通り過ぎる生徒にも印象を残していく。
周りから、沼田原先輩が俺を引き連れている様子は、どのように見えるのだろう。
「先輩、どこへ行くんですか」
何も答えてくれずに、優しく微笑みを返されただけだった。
「尖塔……」
久しぶりに入った尖塔は、グラウンドを通り過ぎて冷えた体にぽかぽかと温かかった。
連れて来られる途中で、ここへ来るのは見当がついた。
尖塔は、全校舎からグラウンドを挟んで建っている。この学校の名物で、歴史を感じさせる魅力的な場所だ。
日当たりが良いので、もう初冬だというのに、エアコンがなくても暖かい。勉強するにはうってつけだ。
昼休みは相変わらず佐羅谷が占有しているが、放課後は空いている。
「勉強するには、いい場所だろ?」
沼田原先輩の声が古い塔に吸い込まれていく。声が反響しなくて、とても静かだ。
「じゃあ、始めようか」
思わせぶりにニットを脱ぐ。俺の左に座って、肩がつきそうな距離で、勉強道具を机に広げる。
「先輩、近いです」
「私は左利きだから、邪魔にならないよ」
「そういう問題じゃないです」
そもそも、学年が違うのに、一緒に勉強する意味があるのだろうか。しかも、沼田原先輩は自分であまり勉強ができるわけじゃないと言っていた気がする。
いや、でも一緒に勉強すると相互監視になるから、気を抜かなく……なるか?
「わからないところは、聞いていいよ」
「はあ」
沼田原先輩は特に邪魔をするわけでもなく、勉強は捗った。
陽だまりの尖塔はシャーペンの音とページをめくる音だけが大きなガラスと高い天井に吸い込まれていく。
「あ、」
「ん、どうしたんだい?」
「これなんですけど」
「ああ、数学か」
思わず尋ねてしまったが、先輩にわかるのだろうか。
ところが、思いのほか丁寧な説明で、俺の疑問も理屈で納得できるくらい解消してしまった。
「先輩、勉強ができないなんて、嘘でしょ」
「君のおかげだよ」
「?」
「恥ずかしさを投げ打って、クラスのみんなに勉強を教えてもらって回ってたら、何だか急にみんな親しくなって、勉強もどんどんわかるようになって、すべてが好循環するようになったんだ」
「そういえば、顔色もいいし、俺が出会った頃みたいに自信にあふれてますよね」
「ははは、頼られると嬉しいものなんだね、自分がそうだったんだ、クラスのみんなもそうさ。どうして、それが思いつかなかったのか。
これができない、あれがわからないって聞き回っていたら、しっかり者に見えておバカな生徒会長というイメージになったみたいでね、かえって親しみが湧いたみたいだよ」
「なるほど」
そうか、クラスのみんなは、あまりに完璧に見える先輩に気後れして、一歩離れたところで立ち止まっていたんだ。
それが沼田原先輩自身から弱点を見せて歩み寄ったので、クラスの中に居場所を見つけ、馴染むことができた。
生徒会長をして強く気高く見えても、所詮は同じ高校生なのだ。
「で、君は?」
「先輩、手が止まってます。顔が、近いです」
考えごとをしていると、俺に擦り寄って、頬どうしが触れそうなすぐそばに沼田原先輩の顔がある。黒い瞳の瞳孔まで見える。
「私の誘いにのこのこ乗ってくるなんて、どうせまた一人で悩んでるんだろう?」
「またってなんですか」
「私だって、恋愛研究会のOGなんだよ? うまく、使ってごらん。頼ってもらえるのは、嬉しいんだから」
沼田原先輩が元気になったのは喜ばしい。だが、どこまで信用できるのかがわからない。
今さら隠すこともないが、明言したことと明白なことはまったく別物だ。
だが、親父と脈絡のない話をしただけでも元気が回復した。話をすることが、自分の気づかない問題点を可視化し、客観視し、解決につながるかもしれない。
話すこと自体が、心の負担を軽くする。
それに、沼田原先輩は興味津々で瞳を輝かせ、とても見逃してくれそうになかった。
「俺の友達の友達の話ですよ」
「あ、そういう設定なんだね」
なんですか、設定って。
「つまらない話ですよ、ずっと一緒にいて、何となくお互いに両思いなんじゃないかって探り探り距離を詰めていた女子が、横から来た超絶イケメンに取られたってだけの」
「あー、ご愁傷様」
「敗因は、女子の友達フォルダに入れられたこと、そこから抜け出す一歩を踏み込めなかったこと」
「女子は一度友達認定した男子を恋愛対象にはしないからね、致命的だ」
「もう少し早く知りたかったです」
言い訳だ。
恋愛研究会の、特に宇代木がたまにしかいなかった頃の空気が、俺はとても好きだった。
佐羅谷が読書の合間だけ俺と小説や文学の話を交わす、ほんの数分の時間が、珠玉だった。
宇代木が邪魔だとか思ったことはない。宇代木がいなければ俺は勘違いして、かなり早いうちに想いを打ち明けて、排除されていただろう。
宇代木がいるから、佐羅谷と深く関係を深めることができた。
だが、皮肉だ。
時間をかけすぎたせいで、俺は可能性を失った。
「言っただろ、九頭川。私をうまく使ったらいい」
「権力ですか? 伝言ですか? 無理ですよ」
「違う違う。揺らぎを与えるんだよ。長く一緒にいると関係が固定して、進まなくなる。そのうちに横から来た誰かにひょいと場所を奪われるんだ。新鮮なものは輝いて見えるからね。だったら、いったん九頭川自身が動くしかないだろ?」
「間違ってはいないと思います」
「あと、女子は一途な男よりも、自分を見ていない男の方が好きだよ? 特に、自分の魅力に自信がある女子はそうだ。自分なら、あの男を振り向かせることができる、自分だけを見るようにできるって考えるんだ」
「そんな性格ではないと思うんですが」
「君は、まだまだ女子の怖さを知らないね」
いつのまにか沼田原先輩は俺の前に立っていた。手招きに応じて、俺も何となく立ち上がる。
「別に彼女が誰と付き合ってもいいんじゃないか? 最後に、君のもとにいればいいんだろ。そして、君だって他の誰かと付き合ってみて、最後に彼女のものになればいいんじゃないか」
その発想はなかった。
だが、佐羅谷は卒業後東京へ行くという不確定情報がある。もう帰ってこない可能性が高い。
じゃあ、俺も誰かと付き合って、大学は東京を選んで、別れて追いかけるのか。
「私がしばらく一緒にいてあげるよ。今までいつでも手に入ると思っていた男が、突然自分から離れたとき、彼女がどう思うか、だね。まったく心が揺らがないならそもそも可能性はないし、揺らぐなら関係を変えるチャンスだ」
「だけど、沼田原先輩に迷惑がかかります」
「いいんだよ、私が好きでやってるんだ。うまく使いなよ。だいたい、私はあと三ヶ月ほどで高校生じゃなくなるんだ。遠距離恋愛が音信不通になるなんてよくあることだ」
「よくあったら困りますよ」
「どうする?」
甘美な誘いだ。
沼田原先輩に恋愛感情はないし、弄ばれているだけであまり楽しくはないが、提案はもっともらしいし効果がありそうだ。
三ヶ月後に卒業するのも本当だから、何もなかったことにするのも容易だ。
「どうするのかわかりませんが、お願いします。ただ、俺、何もできませんよ」
「生真面目だね、相変わらず」
「あの、近いです。沼田原先輩」
「じゃあ、せめて名前で呼ぼうか」
「……依莉先輩」
「なんだい、輔」
俺のうなじに手をかけて、上目遣いに覗く。
名前で呼ばれるのは、効く。
「キスくらいしておく?」
「ダメですよ、付き合ってもないのに」
「付き合うことにしてもいいのに。じゃあ、友達以上恋人未満だね。関係を聞かれたら、曖昧にごまかすということで」
「それで依莉先輩に迷惑はかかりませんか」
「ふふ、気にしなくていいよ。私は人の恋愛を食べて生きていけるから」
沼田原先輩は楽しそうに笑う。化け物じゃないか。
「とりあえず、試験までは毎日ここで二人っきりで勉強しよう。冬休み中も、会える限り会おうか」
スマホの予定表を開いた沼田原先輩が、俺が自動車学校へ行く話をしたら、途端に不機嫌な顔になった。そこまで演技をしなくてもいいのに、生真面目なのは先輩も同じじゃないか。
年末と年始になんとか会える日を作るということで、機嫌を治してもらった。受験生でしょ、先輩……。
うまく、行くだろうか。
期末試験までの毎日、尖塔で沼田原先輩と勉強する日々が続いた。
いつも放課後先輩が呼びにきて、グラウンドを横切り、尖塔の最上階に二人横並びで勉強する。
だんだん先輩が隣にいることが当たり前になって、内容を尋ねて教えてもらうことにも抵抗がなくなった。わからない問題は一緒に考えてもらった。
俺だけが一方的に得をしている気がする。
「ところで、依莉先輩。どうしてここは勉強に最適なのに、他に誰も来ないんですか?」
「ふふふ、どうしてだと思う?」
「佐羅谷と比べられるから?」
「目立つからだよ」
横を見ると、至近距離に沼田原先輩の顔があった。
思わず体ごと顔を引こうとすると、腕を絡め取られて半身がぴったりと接触する。
「こうしてイチャイチャしている様子も、教室に残って勉強している生徒や、部室から覗いている生徒に、しっかりと見えてるんだよ」
俺の目は尖塔のガラス越しの校舎棟を追った。理科実験室からも、尖塔はよく見える。
「見せるために、わざとここで?」
「そうだよ。毎日教室に呼びに行って並んで廊下を歩いて、尖塔で勉強する。この様子を見た人は、悪意なく何となく私と輔の関係を理解する」
「これじゃ、ほんとうに付き合ってるって思われるんじゃ」
「私たちが明言しない限り、事実は伝わらないよ。君、今まで誰かに聞かれたかい?」
「今のところはまだ」
「だろ? そんなことは本人にきちんと聞けないものだよ」
「さて、明日から試験も始まるというところで、次の提案をするよ」
沼田原先輩は俺の耳に唇を近づける。
「生徒会においでよ」
「またそれですか」
なぜだろう、ずっと誘われ続けていると、意固地に断るほうがおかしく感じられる。
「輔、思い出してみて。君が一番その彼女から親しくされたのは、君が他のことに一生懸命だったときじゃないかい」
「他のことに……」
はっとした。
佐羅谷の距離感には波があるから、女子特有の気まぐれなのだと思っていた。だが、違う。俺が他のことにかまけている時ほど、佐羅谷のほうから距離を詰めてきた気がする。
実際の距離というわけではなく、気遣いとか心理的なものでもだ。
宇代木と毎週ボルダリングへ行っている時、リゾートバイトの時、文化祭や体育祭の時。なぜかそんなときほど、佐羅谷を近くに感じた。
「今の君は、部活とバイトだけで何もしていないだろう? 女子としては、これほど御しやすい男子もいないよ。自分のことだけを見て、他のことをしていない男子なんて、いつでも籠絡できるじゃないか。それが見た目でも性格でも経済力でも最高の男なら、いちいち放置はしないよ? だけど、君は、違うだろ?」
「凡庸だから、いつでもものにできると放置されている……?」
「そうだ。君は、彼女のいないところでも何か打ち込んだほうがいい。生徒会なんて、ピッタリだと思うよ? 君は裏で組織を支えるのに向いているタイプだ」
確かに俺は人前で采配を振るうタイプではない。何となく人数合わせにされているようで癪で、生徒会は断り続けていたが、体育祭実行委員のことを考えると、あのときの俺の立ち位置はおいしかったし、やりがいはあったと言える。
それに確かに、あのときの佐羅谷は近かった。
だが、話がとんとん拍子だ。うますぎる。恋愛研究会創始者で元部長とはいえ、こんなに転がされて良いのだろうか。何か裏が。
「どうする、槻屋さんに電話しようか」
「あ、ちょっと待ってくだ」
「そういう判断の遅さがダメなんだ」
遅さ。
そうだ、少し前に俺は判断が遅いと田ノ瀬に呆れられた。たとえダメになったとしても、もともとダメになる予定だったことが、早まっただけだ。
あとは受験で少しでも内申点に有利になるかもしれないという下心もある。
「依莉先輩、お願いします。俺を副会長に推薦してください。あー、ミコトには断り続けてたんで、口聞いてもらえます?」
「もちろんだよ。じゃあ、早速電話するね」
沼田原先輩は俺の腕を絡めたまま、もぞもぞとスマホを取り出し、通話の準備をする。
呼び出し音が鳴っている間、優しい顔で俺を見ていた。
「なんですか、俺の顔が面白いですか」
「輔、君は優しいね」
その先は、聞こえなかった。
口は動いていたのに、音はなかった。
掠れた息だけが、俺の頬を撫でた。
『もしもし、沼田原会長、お久しぶりですー』
スピーカーから、ミコトの明るい声が聞こえてきた。
試験は終わった。
これからしばらく授業は落ち着く。
沼田原先輩との勉強はなくなったが、帰りは一緒に帰ることが増えた。俺の部活が終わるまで、先輩は先輩で勉強して待っていてくれた。
ただ、部活が終わった後は教習所に通ったり、休みの日はバイトがあったりと、学校以外で会うことはなかった。そのことは、恋愛研究会の誰にも言わなかった。沼田原先輩が、何も言うなと言っていたからだ。
「いいかい、自分を全部見せると相手は君をキープにできると判断して、軽んじる。だから、隠すところごまかすところを用意するんだ。向こうに想像させ、嫉妬させるんだ」
だんだんと佐羅谷と宇代木の態度がよそよそしくなっている気がするが、これも先輩の言を信じるなら、状況を把握しようと様子を見ているだけ、ということになる。
今日も今日とて、部活が終わる。
刻一刻と終業式が近づいてくる。
終業式が近づくということは、クリスマスイブのデート日が近づいてくるということだ。
「ふいー、じゃー、今日も教習所行こっかー! くーやん、後ろ乗せてー」
「だから、途中まで沼田原先輩と一緒だから、無理だって。後から追いつく」
「うえー、毎日そうじゃんかー。なんで急にやどり先輩とー」
「天、やめなさい。一緒に行きましょう」
「あまねはいーじゃん、たのやんに送ってもらっててさー」
「だって、今はそういう約束なのだから」
二人ごちゃごちゃと話しているのを横目に、俺はさっさと部室を出る。
一年生のミコマココンビも近頃は俺に頓着せず、生徒会に入ることになったことも一切触れなかった。なんだろう、あれだけ誘っていたくせに、本当に入られたら嫌だったのだろうか。
沼田原先輩に簡単にメッセージを送って、自転車置き場で落ち合う。
「や、今日は早かったね」
「教習所がありますからね。送るのは途中までで」
「むう、仕方がないなあ」
二人自転車を押しながら、田畑の間を抜け、別れ道になる尺土駅南の踏切付近まで行くのがいつものルートだ。
「どうだい、お目当ての彼女の様子は」
「かっさらって行ったイケメンと順調に懇ろになっているようですよ」
「おお、怖い顔!」
佐羅谷も(ついでになぜか宇代木も)俺が急に沼田原先輩と一緒にいることに、戸惑っているようではある。何一つ聞いてこないが、スマホをいじっているときなどに強い視線を感じる。
だが、そのことと佐羅谷が田ノ瀬と頻繁に通じ合っていることとはまったく別だ。
俺は、怖い。
このまま、恋愛研究会は部活になるだろう。だが、そのあと俺たちはただの部員同士になって、卒業したら思い出の中に封じ込められるだけなのではないか。
佐羅谷とも宇代木とも、ギクシャクした関係のまま、疎遠になっていきそうで。
「怖いんですよ、俺。一年のときは玉砕して、二年でもこの想いが届かず、届けもできず、燃え尽きて消えて行ってしまうのが!」
「輔、私が、知ってるよ」
畑の間を抜ける道で、沼田原先輩は自転車を止める。俺も同じく一列に止めた。
「君が、真面目で一途で一心不乱で、とても優しくて強くて脆いことを」
「依莉先輩に知ってもらってても」
「君は好きでもない女子にだって、自分を陥れようとした女子にだって、救いを差し伸べてくれるじゃないか」
それは仁とか惻隠の情というものだ。
「ねえ、輔。もし君が一人になってしまったら、私が責任を取るよ」
「え?」
「だから、彼女でも恋人でも妻でも、あるいは、その、体だけでも、何だっていい。君に再び一生愛せる人ができるまで、絶対に寂しい思いはさせない。いらなくなったら、捨ててくれたらいい。だから、心配せずに私を使いなさい」
「先輩、ダメです、女子がそんなことを言っちゃ、ダメです。そんなセリフは、ほんとうに一生を共にしたい男に言ってあげてください」
「ははは、そのくらいの覚悟があって、私だって恋愛相談を受けてるってことさ」
「覚悟はわかりました。さあ、行きましょう」
自転車のスタンドを立てる。
オイル切れか、ガチャンと大きな音がする。
「一世一代の告白も、君には通じないんだね」
「え? 何か言いました?」
「何も」
「何ですか、そんな顔して、何もないなんてないでしょう」
「あーあ、ほんとうに、君は、一途だねえって言ったんだよ」
「男子はだいたい一途ですよ。自分を好きになってくれる女子にはね」
「冗談が言えるなら、大丈夫だね」
そのまま、たわいない会話を交わしつつ、自転車を押す。
内容を覚えていない会話が、取り止めもなく続く。
心の底が、少しだけ暖かくなった。
教習所の学課では、佐羅谷と田ノ瀬の存在が際立っていた。ずっとそばにいると気づかないが、世間的に見ていかに魅力的な存在であるか、よくわかる。
二人並んで交通教本を開いているだけで、面白くもない流れ作業のような講義が、ドラマ撮影の一幕のようにさえ見える。
宇代木は宇代木で別の存在感を発揮していた。なんとなくいつも俺とは一緒にいたが、持ち前の社交性を発揮して、もはや教習生全員が(大人まで含めて!)友達になっているのではないかというくらいに、愛想を振りまいていた。
佐羅谷は横に田ノ瀬がいるから話くらいはしても、誰も連絡先は聞かない。しかし、宇代木は本人の性格もあるし、隣にいるのが俺なので、明確に狙っている男が何人も確認できた。
「あーもう、学課めんどくさい」
「そう? 基本的なことばかりじゃない」
「軽車両って何だっけ」
「自転車と台車! あと馬!」
田ノ瀬は何事もなかったかのように、休戦協定を遵守していた。俺はほとんど話しかけなかったが、田ノ瀬はお構いなしだ。
俺ばかり不貞腐れているようで、子供っぽくて、いっそう虚しくなる。こんなに俺とおまえは違うのか。
「それにしても、高校と同じような座学でも、自動車学校は全然違うわね」
「あー、それはあるねー」
「俺も思った。こちらが理解してるかとか聞いているかとか、一切無視だよな」
「学校や塾みたいに優しい教室なんて、僕は他に知らないよ」
田ノ瀬がさりげなく他と比較する。
「やる気のない人を構ってくれるのは、学校だけじゃないかな」
「じゃーがんばらないとだね!」
そして、実技も座学の合間に入る。みんな別々に車両を予約しているはずだが、わりと重なる。
不恰好なプロテクターとゼッケンをつけ、埃っぽい待合室で定刻を待ち、時間と共に指定のバイクにまたがる。
「佐羅谷だけ小型二輪のAT限定か」
「何よ、悪い?」
自前の白いヘルメットを被り、長袖長ズボンで色気のない格好。佐羅谷らしくないが、ヘルメット越しの冷たい視線はまさに本人のものだ。
教習用の改造をしたボロいスクーターにまたがって、スイスイとコースを走っている。およそ教習というよりも、ただ走っているだけにしか見えない。
「くーやん、行こ行こー。あたし、六号車だってさー」
「おお、引っ張るなよ、もう」
俺と宇代木と田ノ瀬は、普通二輪免許だった。よくわからないが、田ノ瀬がそれを取ると言ったので、ためらわず俺も追随した。宇代木は知った上で選んだようだ。
「普通二輪がこんなにデカくて重いなんて知らなかったよ」
この教習所では、普通二輪までしか取れない。これが普通二輪ならば、大型二輪は、どんなにデカくて重いのだろう。
デザインは、いわゆる普通のバイクだった。CB400SFというのだろうか? 丸いヘッドライトに大きなタンク、エンジン。シートは窪み、テールにかけて緩く跳ね上がる。
自転車しか乗ったことのなかった俺は、あまりの重さと大きさに、何度こかしたことか。
そして、エンスト。
「半クラって何だよ……なんでこんな意味不明な作業が必要なんだよ」
「クラッチを自由自在に操れるから、マニュアルは面白いんだよー」
「おまえは本当に何でもできるよなあ」
エンストして転倒しカーブの藪に突っ込んだ俺は、ヒラヒラと教習コースを走り回る宇代木を見つめる。すでに教官から驚かれるほどの運転技術で、内容そっちのけで教官と追いかけっこしたり、一本橋で耐久勝負をしていたりした。
何なの、この女。
「慣れるまで、時間がかかりそうだなあ」
と言いつつ無難に教習をクリアしていくのは田ノ瀬。嫌味にならない程度に良くできる。できすぎると嫉妬を買うから、普通を演じているようにも感じる。俺はとことん捻くれてしまった。
傍目には、何となくいつも一緒にいる高校生四人組に見えただろう。学課は皆同じ時間が必要だったが、実技は各々異なる。まずは小型二輪AT限定の佐羅谷が一番に終わり、宇代木が二番目、最後が田ノ瀬と俺だった。
卒検も、田ノ瀬と俺が同じ組になった「やあ、結局追いつかれちゃったね」
「そうだな」
これさえ、わざと田ノ瀬が合わせたようにさえ思う。俺が一人遅れることを気兼ねして。
「田ノ瀬も、やっぱり普通以上に何でもできるんだな。宇代木ほどではないにしろ」
「彼女は異常だよ。僕は、経験が広くてコツをつかむのが早いから、うまくできるように見えるだけさ」
「経験か」
「九頭川くんも、最近先輩と付き合ってるんでしょ? いろいろ教えてもらったらいいと思うよ」
俺は答えなかった。
卒検のコースを覚えるのに必死だったし、余計なことを考えたくなかったから。
そして、無事に合格して、証書をもらって教習所を出る。あとは、新ノ口の免許センターで学科の試験を受けて、合格すれば晴れて免許取得だ。これで、冬休み中には取得できる算段がついた。
「九頭川くん、待って!」
教習所の自転車置き場から出ようという時に、田ノ瀬が走ってついてきた。何人か、名残惜しそうな目で見ている女子がいるが、田ノ瀬は気にもかけない。
「なんだよ、俺はこれからバイトなんだよ」
「すぐ済むよ。まずは出ようか」
追いついてきそうな一部の追っかけ女子を気にして、田ノ瀬は教習所内から道路に出る。
しばらく二人無言で自転車を押し、大通りから外れて車の喧騒がなくなったあたりで、やっと会話が始まる。
「あさって、いよいよ終業式だね」
「そうだな」
「終業式の翌日は、クリスマスイブだね」
「そうだな」
「九頭川くんは、もう来ないんだよね」
「は? なんで?」
「なんでって、せっかく彼女ができたのに、部活を優先する気なの? 本当は付き合ってないの?」
「そ、そんなことはないぞ! 先輩は生徒会長で、生徒会の壮行会があるからな、もともとクリスマスイブは予約済みだ。俺だって、部活で先に決まった予定を遂行するのが道理ってもんだ」
危ない、沼田原先輩と付き合っている風を装っているのがばれるところだった。
「へえ、わざわざクリスマス前に彼女を作ったのに、一番大切な時に放置するんだ」
「だから、違うって。それに沼田原先輩は恋愛研究会の元部長だから、部活にだって理解がある」
「君はまた女子の言うことを真に受けて……」
田ノ瀬はかぶりを振る。
「そうだ、クリスマスイブのデートプランだけど、一応固まったよ。とりあえず、歩きやすい靴で来るようにって、佐羅谷さん以外には九頭川くんから伝えておいて。十時半に天王寺駅に集合」
「なんで佐羅谷以外だよ」
「佐羅谷さんには、僕から電話するからさ。曲がりなりにも彼女に、他の男からデートプランの話をされたくないだろ?」
「彼女じゃねえだろ、そういう役割だろ」
「さあ、そう思っているのは、九頭川くんだけかもしれないよ?」
「まさか、教習以外でも会ってんのか」
「ノーコメント」
「ああ、いらいらする」
「絶対、佐羅谷さんには電話しないでね」
「するかよ。佐羅谷が嫌がるなら、俺は身を引くさ」
「賢明だね」
田ノ瀬は自転車にまたがった。
「じゃあね、九頭川くん。クリスマスイブに、また会おう! なんなら、免許センターに行く日も決めようか?」
「勝手に行け」
俺の吐き捨てたことばに返事もせず、田ノ瀬は葛城市のほうへ消えていった。
俺の知らないうちに、田ノ瀬は佐羅谷と距離を縮めているのだろうか。
佐羅谷だって、高校生の女子だ。自分ではしばしば「普通の」と言ったりする。「誰も好きにならない」なんていう深窓の令嬢のための役作りだって、ただの男避けだった。だが、佐羅谷の眼鏡に適う男子がいたら、建前も放棄するのでは?
それが、俺ではなく田ノ瀬だっただけだ。
しかも普通の女子高生なら、誰かを好きにならなくても彼氏くらい欲しいと思っても不思議ではない。上地しおりだって、「あの人が好き」ではなく「彼氏が欲しい」という思いで夏休みにややこしいことになっていたし。
佐羅谷と田ノ瀬なら、悔しいくらいに釣り合う。
沼田原先輩の計画は、うまくいっているのだろうか。俺は墓穴を掘ってしまったのかもしれない。
夜、電話をする。
ご飯を前にして、好きな食べ物を最後まで残すか、最初に食べるか、ここで性格の違いが出る。
一般的には、好きなものを最初に食べる者のほうが、社会では成功するという。
競争状態にある社会では、何ごとも判断が早く、他人に先んじて利を取ったほうが、成功率が上がるからだ。特にインターネットの世界では、勝者がすべてをかっさらって行くことが多くなった。
通販もフリマも動画サイトもSNSも、原則的には勝者一強だ。
好きなものを最初に食べる人は家族が多く自分が年下で、好きな物を残すと兄や姉に取られてしまうからだという。だから、好きな物を先に食べるという、機会を失わない素早さと判断力が養われるのだ。
となると、父一人子一人で育ってきて我慢はあったが不自由なんてなかった俺は、好きな物を好きなときに食べる性格になってしまった。
それじゃ、だめだ。
俺は真っ先に、佐羅谷に電話をかけた。
「……電話中、か」
この夜中のちょうど良い時間に、友達の多くない佐羅谷が電話をするなんて、相手が誰だか考えるまでもない。
食べたいものが、すでに卓上にはなかった。
泣いてなんかない。
俺は宇代木から電話をかける。
『ちゃっおー、くーやんから電話って珍しいねー』
「おお、クリスマスイブの予定でな、田ノ瀬から伝言だ」
集合場所と時刻、靴の話を伝える。
『おっけー、まーもともとあたしはヒールの高い靴は履かない予定だったんだー』
「そうか、スタイルいいから、高い靴も似合うと思うけどな」
『……だってさ、背が高くなりすぎちゃうんだよ』
「男女の性的分業が減ってきたせいか、身長の男女差も減ってるからな。女子の背が高くなるのも仕方ないさ。俺は宇代木の体で大きなダンスをするのはカッコよくていいと思うけど」
『ダンスはいーんだよ、ダンスは! けどさー、デートはまた違うじゃん?』
「まあ良識のある宇代木なら、歩くって言ってんのに厚底ブーツなんて履いてこないだろうけどな」
『あたしもさすがにそんな靴持ってないよ』
「じゃあ、まだ電話するやつがいるから」
『あー、待って、最後に! ねえねえ、くーやんはスカートとパンツ、どっちがいい?』
俺に聞いても意味のない質問をした。
それは本当のデート相手に尋ねるべき質問だろう。仮にもトリプルデートの相方だから、俺の好みに合わせようというのか。だが、今回は歩ける靴で来いと田ノ瀬が言ったのだ。おそらく、正解は。
「そりゃーパンツ一択だろ」
『ほー、そーなんだ。わかったー。じゃーおやすみーまた終業式で!』
宇代木との電話を切る。
よくよく考えたら終業式の日に口頭で伝えても、と思ったが違う、それはダメだ。女子は準備に時間がかかるから、少しでも早く伝えるのが必須だ。
次は、文芸部の女子部長、スギコに電話する。
『歩ける靴? むしろ歩けない靴ってあんの?』
「ちょっとスギコさん、女子力足りないんじゃないの?」
『九頭川、コロス』
「田ノ瀬が来るからって、あんまりおめかしして、慣れないカッコすんなってことだよ。田ノ瀬から言ってきてるんだ。嫌われたくないだろ」
『あー、そうだな』
「じゃあ、切るぞ」
『待って待って! なあなあ、もし田ノ瀬くんに付き合ってって言われたら、どうしたらいいと思う?』
「寝ろ」
『真剣なんだよー!』
「一秒でも迷うなら、やめとけ。俺は好きな人に裸で学校からアルルまで逆立ちして歩けって命令されたら、秒で従うくらいに迷わねえよ」
『裸? 逆立ち? 九頭川、おまえバカじゃね?』
「いいから、寝ろ」
スギコみたいな男慣れしていない女子と、田ノ瀬が付き合う可能性はゼロだ。見栄で田ノ瀬を呼び出して、どこまで妄想を繰り広げる気なのやら。
時を逸して、本当に欲しいものを失わないようにしろよ。
最後に、文芸部の男子部長、スギオに電話をする。
『歩ける格好か、なるほど。……ジャージとか?』
「おまえは林間学校で曽爾村にでも行くつもりか」
『デートなんて初めてなんだよ。九頭川〜、助けてくれよー』
「二日前になって慌てるな。そうだな、どうしてもっていうなら、明日の終業式後にアルルで適当なショップを眺めて、マネキンが着てる服を丸々買い揃えろ。それが無難だ」
『な、なるほど、助かる!』
「じゃあ、切るぞ」
『待って待ってくれ! なあなあ、もし佐羅谷さんに付き合ってって言われたら、どうしたらいいと思う?』
「さっさと寝ろ。おまえらほんとお似合いだよ」
『何のことかわからないんだが!』
「好きな人に好きと言われて戸惑うなら、それは好きじゃない」
返事も聞かず、電話を切った。
再コールもなかったので、納得したのだろう。
ああ、たった三人に電話をしただけなのに、どっと疲れが出た。
結局、佐羅谷にかけた電話は、そのあともつながらなかった。通話中ではなかった。出る気がないのだ。俺の声は、届かない。
二学期の終業式が終わった。
これで正式に沼田原先輩は生徒会から外れ、ミコトが名実ともに委員長になる。俺は三学期から合流する手筈だが、生徒会長の任命で参加する者は、きちんとした紹介もされないらしい。
ともあれ、今日は一介の生徒だ。
「じゃあな、九頭川よ! 我はこれからトーキョーまで夜行バスで行ってライブ……もとい、友達の家に泊まってくるであーる!」
「奈良にもいない友達が東京にいるのかよ」
「グフッ」
「まあ気をつけてな。何かあったら、俺以外に電話しろよ」
「んもう、九頭川くんはツンデレだなあ」
「デレ要素は一切ないがな」
メガネをきらりと輝かせる山崎は一通り俺と話して、どたばたと教室から消えた。俺はもう一人の友達(こう言うと山崎も友達みたいじゃないか)を捜す。
「あ、神山、今日ちょっといいか?」
「え、九頭川くん今日は一緒に帰れるの? 珍しいね!」
周りとおしゃべりしていたところに割り込み、神山を誘う。神山は恋愛研究会で相談に乗って以来、一番気安く声がかけられる。
「もちろんいいよ! 楽しみだなあ」
「期待されると困るが」
男同士で、ただの学校帰りで、期待されても困る。ただ今日は田ノ瀬が頼れず、神山の感性が必要だっただけだ。
「じゃあ、ちょっと付き合ってもらうぜ」
しかし、俺と神山がコソコソしていると、クラスの一部の女子がじっと様子を覗き見てくるのは何でなんだろうな。神山に気があるなら、もっと積極的になればいいものを。
女子並みに小柄だが、整った顔立ちと部活をまとめる行動力、見る者が見たら、好感度の高い少年だというのに。まったく、君たちは行動が遅い。二学期も終わりになって、まだ声さえかけあぐねているなんて。
「俺だって、他人のことは言えねえや」
「え? 九頭川くん、何か言った?」
「いいや。今日は、振り回すぜ」
「望むところだよ」
そして、アルル……イオンモール橿原にやってきた。
どの公立高校も終業式なのだろう、昼過ぎのアルルは血気盛んな高校生の群れが行き交っていた。試験と授業からの解放感が全身から溢れて、翌日からのクリスマスイブに向けての熱量で空気も温まっていた。
俺たちも、そのうちの一人だ。
神山もわずかに頬が上気していた。
「今日ついてきてもらったのは他でもない、部員に渡すプレゼント選びなんだ」
「やっぱり! 九頭川くんもなんだ! 僕も、手伝ってほしかったんだ。僕たち、同じことを考えてたんだね」
「それは彼女に言ってやれよ……」
「彼女の考えなんて、わからないよ」
「やさぐれるな、かわいい顔が台無しだ」
気を取り直して。
「じゃあ、ミッション開始だ」
「神山の贈る相手は、一人か」
神山はモジモジと頷く。
「念のために聞いておくが、女物を探すんだよな? 相手はイケメンじゃないよな?」
「もう! またからかう!」
「かわいいって罪だよな」
俺たちはごった返す専門店を眺めつつ、何を選ぶべきか迷う。
「目星はついてるのか?」
「そうだね、服は好みやサイズ感があるし、アクセサリーやコスメは使ってもらえなかったら悲しいし、マフラーかブランケットとか実用性があって使いやすいものにしようかと」
「いい判断だと思うぜ。じゃあ、かわいい系か美人系かユニセックス系か、どのあたりを選ぶ?」
「彼女はかわいい系じゃないかなあ」
あまり神山の彼女を見たことはないのだが、記憶にある限り、神山と同じようなかわいい系だった。じゃっかん気の強い感じの。神山はこう見えて芯が強いから、気が強い女子でもうまくいなすだろう。
そうか、こうやって相手のことを想ってプレゼントを選ぶことが、意味なんだ。
物自体の値打ちではなく、その物をどうやって選んだか、どれだけ心を尽くしたか、その蓄積がプレセントに付加価値として載っていくのだ。
親父も、こんな気持ちで選んでくれていたのだろうか。親父はプレゼントを贈るなんて慣れっこかもしれないが。
親父や親族以外から物をもらった経験のない俺は、そういえば誰にもプレゼントをした記憶もない。
他人のために物を選ぶなんて、初めてだ。
そして、プレゼント選びを友達とできるなんて、こんな幸せはない。
「ねえ、九頭川くん、これかわいいと思わない?」
ある店先で、猫の顔がプリントされたマフラーを笑顔で広げる神山。おまえが一番かわいいよ、ということばを封じる。
「かわいいけど、ちょっと使いどころに悩みそうな過剰なかわいさだな」
俺の引きこもりおじさん山田仁和丸(40)なら、コンビニまで余裕で首に巻いていけそうだが。
俺も一応は二人に贈る品を選びつつ、どれもしっくりこなくて、触れることさえなかった。
神山は防寒具で選ぶことを確定しているので、ためらいなくデザインや絵柄で探していた。楽しそうだった。
俺はそっと同じ柄のかわいい猫の小銭入れポーチを購入しておく。
何ヶ所か回るうちに、神山の買い物は済んだ。
「僕のはこれでおしまいだね。じゃあ、九頭川くんはどう? 気に入ったのはある?」
「俺は、装身具を」
「ソーシング?」
「アクセサリーのことでありんす」
「ああ。え、それでいいの、九頭川くん? アクセサリーは難しいと思うんだけど。男でいうと、腕時計とかスマホケースみたいなものだよ? よほど気に入ったものでないと、使わないじゃない?」
わかっている。
コスメは肌の色や体質があるからプレゼントには合わないし、衣服も同じだ。どちらも付き合っていて一緒に行って選ぶものだ。
その二つと比べると、装身具は単独で選べるものだ。
しかし、好みや意味が通常のプレゼントとは異なる。
「アクセサリーは、どれも、重いよね。それをわかった上だよね」
俺は頷く。
ショッピングの途中から、あの二人にはアクセサリーしかないと思った。今、神山の様子を見てその思いを強くした。
佐羅谷にワイヤレスイヤホンを、宇代木ににゃんこ型のブルートゥーススピーカーを、というのが次善策だった。
だが、田ノ瀬はすぐそこにいる。俺の前にいる。
時間はない。
猶予はない。
高校生でも手が届く比較的安価なアクセサリーショップを覗き、ごった返す女子やカップルの合間を縫って、俺は二種類の銀細工を選び出す。予算は少しオーバーした。ここ最近、貯金を崩してばかりだ。
「へえ、その二種類なんだ。どちらが誰に……なんて聞かないほうがいいね」
「ああ」
「だけど、校則で引っかかりそうだよね」
「二人とも、つけてないからな」
「え?」
「え?」
「大丈夫なの、九頭川くん?」
少なくとも、俺が知る限り、二人ともつけていない。だからこそだ。俺が、一番を獲る。
レジの終わった俺は、不安げな神山を連れて店を出る。買い物は終わりだ。
「じゃあな、神山。今日は助かった」
別れ際に、俺は猫柄の小銭入れポーチを神山に渡す。
「こんなの、いつのまに」
「少し早いクリスマスプレゼントだ」
「あ、待って。僕も、これを!」
「……ヘアワックス?」
「うん。ほら、覚えてる? 初めて理科実験室の前で九頭川くんと会ったとき、髪型、違ったじゃない」
「そうだったな」
「どこかに出かけるんでしょ? じゃあ、見た目はきちんとしないとね」
「そうだな、ありがとう」
りんごの香りのするヘアワックス。
初めて親族以外からもらうプレゼントが、女子並みにかわいい男子からなんて。しかも戦に赴く武器だなんて、洒落たオチじゃないか。
そして、運命の日の前日。
俺はグループで通話をつなぐ。
恋愛研究会の二年生限定。
つまりは、俺と佐羅谷と宇代木だけで。これなら、佐羅谷も拒否できないはずだ。
『もう、こんな日になに?』
『ちゃーおー』
二人が時差なく会話に入ってくる。
「最終確認で悪いが、明日のデート後の話をしたい」
『そんなの、明日でいいじゃない』
「駄目だ。明日は演技が入るから、途中で集まって作戦会議ができないだろ」
『作戦もなにもないじゃんか、あたしとくーやんは付き添いだし、うまくやんのはあまねじゃん』
「明日はスギオとスギコをうまくくっつけるのが本意だろ? デート戦略が終わってから、すぐに三人で反省会をしたい」
あえて「戦略」と強調する。これは、誰にとってもデートではない。そうだろう?
『……どうして、即日で集まるのよ』
『そだよー。遅くなるかもだし、次の日でいいじゃんかー』
「部活だからだろ。自分が一番楽しんでどうするよ。それに、クリスマスイブの夜だぞ? 後回しにすると、そのあいだに二人とも分岐イベントが発生しまくって、部活のことなんて忘れるだろうが」
『くーやんの言い回しがギャルゲに出てくるオタクっぽくてキモい』
どうしてピンポイントでキャラ設定をいじってくるのかね、この子は。
『まったく、九頭川くんはそうまでしてクリスマスイブを一人で過ごしたくないのね』
『あっ……なーんだもー、くーやん、正直に言ったらいいのにー』
「部活だって言ってんだろ」
『はいはい。じゃあ、わたしたちらしく色気もなくデート後に反省会をしましょう。でも、終電までには返してよ』
『あたし、終電なくなっちゃったねって言いたい!』
「一人で駅に残れ! じゃあ、というわけだから、忘れるなよ!」
俺は下手なごまかしでなんとか約束を取り付けられて安堵する。スマホを机の上に置く。横には、包んでもらった贈り物が二つ並ぶ。渡せずに処分とはならなさそうだ。
しかし、明日がデートだというのに、この時間で二人とも通話に応じてくれるなんて、落ち着いたものだな。二人にとっては日常の延長なのだろうか。
俺など、明日のデートは脇役の脇役なのに、なぜか神経が昂ぶって眠れそうにない。
一度手放したスマホを握りしめ、ベッドに潜る。そうだ、今なら……。
「天王寺」
「どーぶつえん」
天王寺駅のてんしば入口あたりで集合した俺たち六人は、田ノ瀬が先導するに任せていた。
さらっと告げた行き先に、俺も宇代木も無意識に反芻した。
天王寺動物園。
あまりにも身近で、まるで小学生の遠足ではないか。だいたい男女の初めてのデートは水族館が定番なのでは。おあつらえむきに、大阪には海遊館やニフレルもある。
「はー、やっぱ田ノ瀬くんは定番を外しても許されるんだー」
ワンレンに近い黒のストレートを撫でつけながら、スギコは感心する。田ノ瀬なら何をやっても許される感じ。
スギコの格好は上はブラウンのコートに、下はスキニーのブラック。細身が映える。よし、ちゃんと歩けるな。
「天気も晴れてよかったね。動物園が雨だとつらいから」
きっと雨の時は別のコースを考えていたであろう田ノ瀬は、先導しながら顧みる。
チェックのシャツにニットを合わせ、下はチノパン。あまりに普通なのに、動作一つ一つに締まりがあるのか、どこを切り取っても人目を惹く。
今でも、周囲の女子のみならず男子の視線も集まっている。
しかし、声をかけてくる不作法者はいない。
隣に、佐羅谷がいるからだ。
白いモコモコの上着に、コーデュロイのロングスカート。歩くといっていたのに、踵の少し高いブーツ。ミディアムというには少し長めの黒髪に、今日は部分的な三つ編みがある。濃いめの紺色のエクステだろうか。白い肌と黒い髪に彩度の華を添えていた。
周囲とは隔絶した空気感の二人を見て、割り込めるものはいなかった。
「わたし、動物園は初めてかもしれないわ。天は、来たことがあるの?」
「あー、たぶん何回かねー。でも期待しないほうがいいかもよー。動物に関してはねー」
俺と並んでいた宇代木は、話を振られて虚空を仰ぐ。動物に期待できない動物園とは。
宇代木は大きく腕を振りながら、元気いっぱいだ。髪型はいつも通りだが、少し明るい。オーバーサイズのパーカーは裾が太ももまであり、ホットパンツが見えないので、まるで何も履いていないように見える。この寒いのに、足を惜しげもなく晒す。目のやり場に困る。
しかも、パステルカラーのスニーカーに合わせているのは、オレンジ色のルーズソックスだった。ルーズソックスなんて、親父や仁和丸おじさん(40)の世代で絶滅した靴下(?)だと思っていた。
「にしても宇代木、足寒くないか」
「んー、だいじょぶだよ。ねえ、くーやん、あたしのカッコ、どう? かわいい? かわいい?」
「ええい、パーカーをまくり上げるな!」
周りの男どもがさりげなく視線を向けていることに気づいていないのか、この女は!
「九頭川も髪型整えるだけでけっこうかっこいいよなー。一瞬誰かわかんなかったぞ」
田ノ瀬に近づけないスギコが俺たちの会話に挟まってくる。
お世辞を言うタイプでもないので、本気でかっこいいと言ってくれているのだろう。
「は、髪型を変えたくらいでなびくなんて、おまえの好き嫌いは軽いなあ、杉原!」
最後の一人、スギオがスギコに絡む。こいつも佐羅谷に近づきようがないから、一番後ろにいた。
終業式の日の助言が効いたのか、見た目も普通にデートする男子高校生という感じで、可もなく不可もなく、俺と一緒にいるとちょうどよい感じだった。髪型までは手が回らなかったようだが。
「あー? あんたこそ、ボサボサ頭で、佐羅谷さんに挨拶の一つでもしてみろってんだ」
「田ノ瀬に近づけないからって九頭川に近づくなど、考えが浅いんだよ!」
「なにさ!」
「何を!」
「おまえら、喧嘩するなら二人でカラオケでも行けよ」
なんだか、何もしなくてよい気がする。このまま動物園さえ行く必要もないのでは。
「しっかし田ノ瀬くん、かっこいいけどあのカッコってさ。なあ、スギオ?」
「おう。佐羅谷さんの私服、あれもそうだよな、かわいいけど、全然らしくない」
「寄せてるよな?」
「違いない」
二人、既に肩も顔も寄せ合って、いがみ合っているのか、通じ合っているのか、俺にはわからない話で楽しそうだ。
てんしばのオサレな飲食店やバーが並ぶ公園を抜け、天王寺動物園の入り口に着く。さすがクリスマスイブ。若いカップルや親子連れがたくさん並んでいた。
一通り時間をかけて、中に入る。
入場料は破格に安く、海遊館の四分の一か五分の一くらいだった。田ノ瀬の心配りか。
「くーやん、何から見るー? やっぱりコウモリかな!」
「真っ先に夜行生物を目指すな、この夜型人間め」
などと言いつつ、六人並んで宇代木が先導するままに園内を一筆書きで進む。
都会にあるにしては広い動物園内は、動物より人間の方が多かった。混雑はしていないが、騒々しい。
そして動物もいるのだが、まばらであまり動きがない。よほど子供のほうが動き回っていて、どちらが動物かわからない。
「歩く距離のわりに、見どころが少ないわね」
佐羅谷が珍しく愚痴っぽいことをつぶやいた。
「だから言っておいたでしょ、動物には期待しないでねって」
田ノ瀬がなだめる。
言っておいた、か。
「ふう、まああなたが選ぶ動物園だから、期待はしていなかったけど」
「そう言わずに。キリンもライオンもいるからさ」
「動いてる動物を見せてよ」
「そうあれかし」
しばらく離れているうちに、二人の距離感が近づいている。谷垣内を除き嫌悪をあからさまにしない佐羅谷が、明確に田ノ瀬に厭味を言う。これは、親しいからこそできる態度だ。
だいたい、田ノ瀬に愚痴を言えるのは、その隣に立てるからこそできる強気の行為だ。
(そうか、もう佐羅谷はその立場に)
「あー、レッサーパンダだー」
二人の不穏な空気を払うのは、宇代木の高い声。
「うっわ、スギオ見ろよ、暴れ回ってるぜ」
「おー、走り回ってるな! 落ち着きのなさが杉原並みだ」
「ああっ!?」
「おおっ!?」
「だからおまえら喧嘩するために来たのかよ」
やっと激しく動き回っている動物の檻は、レッサーパンダとタヌキだった。なぜか檻が交互に並んでいる。
つまらなそうに先行する佐羅谷となだめながら着いていく田ノ瀬を横目に、俺はスギオとスギコの間に入る。
「ていうか、二人とも。目当ての相手にちょっとくらい話しかけろよ」
強気なスギコも卑屈なスギオも、遠目に佐羅谷と田ノ瀬が並ぶのを見て、肩を落とす。
「いやだってさ、あそこまで見せつけられてさ、無理から声かけるのも変じゃん!? けっこー佐羅谷さんわがまま言ってんのに、田ノ瀬くんは穏やかだしさ」
「あの非の打ちどころのない田ノ瀬を顎であしらうなんて、俺には佐羅谷さんに声をかけるのも無理だよ。むしろいつも一緒にいるだけでも九頭川を尊敬するよ」
俺たちは前に二人、後ろに四人の隊列のまま、動物園を回る。
佐羅谷がたびたび小言を言うように、本当に広さのわりに動物が少ない。
山岳を模した地区に羊の原種と言われるムフロンがいるが、ひたすら餌がこぼれ出るバケツを頭突きしまくっている。
オオカミは狭い部屋を所狭しと走り回っている。檻には二頭いるが、別々の部屋だ。
ぐるりと回っても、目玉とも言える象はいない。
カバは水中でずっとお尻を向けて動かない。
サルは面白かった。
種類が多く、昼間でもよく動き回っている。
「おー、くーやん、ゴリラゴリラ!」
「それだと俺がゴリラみたいじゃないか」
「そうね、彼はゴリラほど優しくないわ。ねえ、霊長類に詳しい九頭川くん?」
「そーだな」
基本的にサルは凶暴な種が多い。全体的な傾向としては、体格の大きなサルほど穏やかで暴力を嫌う。ゴリラはその最たる種だ。もちろん、弱いわけではない。いざというときは戦うが、無意味に争わない。
逆に、小さくなるほどサルは凶暴になる。チンパンジーやニホンザルの残虐性、好戦的な態度は有名だ。人間が指など出すと簡単に食いちぎられる。
サルについては、けっこう調べた。サルの交配や配偶が人間の恋愛研究や相談に応用できないかと考えたからだ。
結論で言うと、サルでも種によって様々で、よくもまあこれだけ多様なシステムがあるなあと感心したことと、なんとなく人間としても理解できる部分があるということだ。
例えば、ボノボではボスでないオスの子を育てているメスは、必ずボスとも交尾する。それが自分の子を殺させないことにつながるからだ。
(なかなか人前で交尾だ何だとは言いにくいが)
「あら、あの子はあなたに似てるわね」
「それは褒められているのか、貶されているのか」
急にオランウータンを指した佐羅谷に、田ノ瀬は苦虫を噛み潰した顔になる。
ヒトとサルは近いからだろうか、何となくサルに喩えられると、馬鹿にされたように感じる。これが愛嬌ある鳥類や見目麗しいネコ科の動物なら素直に受け入れられるのだが。
「たのやん、だいじょぶかな? ちょっと、あまねー、やめなよー」
「いいんだ、宇代木さん。僕は気にしてないよ」
「そうよ、天。わたしたちには、わたしたちにしかわからない関係があるのよ」
「だったらいいけどさー」
あまり人を馬鹿にするような言行は気分が良いものではないが、二人がそういう関係として成り立っているなら、外野は黙っているしかない。
話しかけるのを諦めたスギコとスギオは動物園を楽しみながら、俺たちと同じくらいに佐羅谷と田ノ瀬のいびつな関係に思うところがあるようだった。
「なあ、スギオ、さっきのオランウータンってさ……」
「ああ、確かに覚えがある。一巻の終わりだ」
一巻の終わり?
ときどき、はしゃいだ会話とは別のトーンで声が聞こえるが、途切れ途切れで内容まではわからなかった。
(一巻の終わり、か。あの二人が破綻するってことか?)
動物園もだいぶん回りきって、ライオンの区画に移動する。檻ではなく、ガラス窓から覗けるだけだ。
「ほら、佐羅谷さん、ライオンだよ、やっぱりかっこいいねえ」
「そうね、オスの生き方には感心できないけれど」
「え? オスは群れを守って、狩りをして、凛々しく生きているんじゃないか?」
「オスの仕事は、他のオスと戦うことよ。負けたら死ぬか、追い出されるだけ。そうして追い出されたライオンは、一番弱い生き物を狙うのよ。それを人喰いライオンって言うの」
口元に指を当ててしたり顔で顧みた佐羅谷は、妙に艶かしかった。
「あーもう、佐羅谷さんは皮肉ばかり言って!」
「あなたはそうなってはダメよ?」
「え?」
「何でもないわ」
佐羅谷は田ノ瀬の腕を取って、俺たちの間を抜けて、駆けて出ていく。人混みに紛れて、すぐに見えなくなる。
「何なんだ、佐羅谷も田ノ瀬も。仲がいいのか悪いのか」
二人を追いかけようとしたら、宇代木に背を押された。
「わっかんないねー。あ、くーやん、オスライオン動いた動いた!」
「お、ほんとだ」
どうせあとで合流できるだろう。せっかく見応えのあるライオンの姿だ。少しくらい観察しておこう。
「ほら、スギオもスギコも見とけよ。ライオンは滅多にないだろ?」
俺がスギコと呼んでももう諦めて怒らなくなった。渋面だが。
二人と入れ替わりにガラス窓から離れる。
離れて見ていても、杉杉コンビは何となくうまくいっているようだ。ただ、ライオンの雄々しい姿を語るのに、しかつめらしい表情をしているのが不思議だった。
ライオンなんて、おーとかすげーとか感嘆詞だけでいいと思うがな。
一通り回って、園内で軽食を取って、とうとう出口が見える。
出口は入り口の隣で、売店経由でてんしばに通じる。
売店の隣に、興味を引く立て札があった。
「これ、面白いわね。ほら、ヒトって」
売店の横には、かなり高所まで登るアスレチックのような木製の遊具があった。安全帯までつけて挑戦する本格的な仕様だ。階段、はしご、吊り橋、ロープ渡りなど、大人でも楽しめるアトラクション。
その立て札は「ヒト」。
「なるほど、動物園の最後には「ヒト」を配置するなんて、大阪は風刺が効いているね。佐羅谷さん、ヒト科代表として、是非とも」
田ノ瀬が十メートルはありそうなアトラクションの最上部を指差す。
「スカートを履いた女子を下から覗きたいなんて、ずいぶん欲望に素直ね」
「そりゃあ、理科実験室の姫様の秘密には興味津々さ」
「ほら、姫はヒトの動き回る様をご所望じゃ。とく行ってまいれ」
「お気に召すまま!」
小芝居のあと、田ノ瀬はまんざらでもない感じでアトラクションの入り口に消えた。
「なあ、俺も行きたい」
「あたしもあたしもー! あまねー、待っててー」
「好きになさい。わたしはここにいるから」
腕組みして嘆息する佐羅谷をよそに、俺と宇代木は好奇心に負けた。楽しそうじゃないか。
「あーしも行こっかなー。ちょっと楽しそう」
「お、おまえも行くなら俺も行く!」
「足ぶるってるじゃん。佐羅谷さんだけ残るみたいだけど?」
「あとでチキン扱いされるくらいなら、間近で怖がる顔を見ておきたい」
「だーれが怖がるか!」
「言ってろよ!」
俺たちの後ろをスギコとスギオもついてくる。
説明を受け、安全装備を身につけ、順々にコースを進む。さすがにコース一本を渡るのに、二人同時には行けない。
踊り場で待機していると、相変わらずスギコもスギオもこそこそと真面目な顔で会話……というよりも議論している。
「なあ、さっきから二人とも何の話をしてるんだ?」
ちょうど宇代木がいなくなったタイミングで尋ねる。二人がなんやかやで仲が良いのはわかっているが、ひそひそと語るには色気のない表情なのが気になった。
「あー、九頭川、推理小説は最新作も読むか?」
「そこまでは」
「そうか、実はな、さっきから何となく感じていて、杉原とも話していたんだが……」
神妙に推理を披露するスギオ。
二人交互に補うように整然と語る内容に、俺は混乱しながらも受け入れた。この二人が嘘をついたり騙したりする利益がない。しかも、推理やミステリにかけて真摯なのは信頼できる。
「そうか、情報ありがとう」
長時間動かないと怪しまれる。
俺は戸惑いを隠しながら難なくアトラクションをクリアし、宇代木に「くーやん、おっそーい」と言われながら装備を外した。
六人合流してから売店で思い思い買い物をして、動物園を出た。
てんしばで未成年でも楽しめるショップを回りながら、わずかの時間を噛み締めて、天王寺の駅までの芝生の横をゆるゆると歩く。
結局、六人の位置関係は、最初からずっと変わらなかった。トリプルデートと銘打っていたにも関わらず、だんだんとペア同士の距離は広がっていった。ペアの中の距離は縮まっていった。
「くーやん、こーいうのも楽しいねー!」
「そうだな。友達同士で動物園も悪くない」
「違くてさー、あたし、クリスマスイブに男子と一緒に遊ぶって初めてじゃんか」
「知らないけど。そうなのか? 意外だ」
「ほらー、天ちゃんは友達多いからさ、彼氏いる子は彼氏と過ごすし、彼氏いない子はあたしを呼ぶんだよー」
「予備回線用のsimみたいだな」
「寂しくないけど悲しい役回りだよねー」
たははーと嘘か誠かわからない空笑いを漏らす。
「くーやん、このままにg」
「このままに?」
「ず、ずっと、このままだといーね!」
「約束だからな」
「くーやんは生真面目だねえ」
距離が、近い。
宇代木の振れる手が俺の手に触れるくらい近い。
動くたびに空気の揺らぎを手の甲に感じる。
最後の最後まで、触れることはなかった。
「着いちゃった」
てんしばを通過して地下につながる階段の前に、佐羅谷と田ノ瀬がいた。俺と宇代木も追いついた。すぐに杉杉の二人もやってきた。
田ノ瀬が全員に向き直る。
「さあ、僕が組んでいた予定はここまでだけど、どうしようか?」
「せっかくのクリスマスイブだし、ここからは二人ずつに分かれて帰ろうか」
「だめだ、田ノ瀬」
佐羅谷の肩に手を回そうとするのを、遮る。
「なんだい、九頭川くん。じゃあ、六人揃って帰るつもりかい」
「悪いな、恋愛研究会は三人組なんだ」
「元ネタはわかるけど、つっこまないよ」
ノリが悪い。
「悪いが、「恋愛相談」はここまでだ。ここからは、「部活」だ」
俺の最後の切り札だった。
田ノ瀬の思惑は無視して、今までの関係性もすべて恋愛相談だったと切り捨てる。これで期末試験前からの関係性はリセットだ。
田ノ瀬の長いまつ毛から覗く瞳が、じっと俺を見つめる。
この十二月末の夕暮れ、体の芯まで冷えそうな冷気の中、背中は汗が滲む。
「佐羅谷さんは? それでいいの?」
「佐羅谷は関係ないだろ。おまえが、ここで、恋愛相談は終わったと認めればいいんだ」
「恋愛相談は君たちから依頼してきたことじゃない」
「そう思わせられていたんだよ、俺は。なあ、田ノ瀬。稽古はもう充分だろ?」
一瞬身を震わせた佐羅谷が、俺と田ノ瀬を交互に見やる。
「な、なんだか田ノ瀬くん別人みたい」
「九頭川もこんなにはっきり言うやつだったとは」
後ろからスギコとスギオのこそこそ話が聞こえる。
「ね、ねえ、くーやん、もういいんじゃんか。集まるのはまた今度でさー」
「ダメだ!」
「そ、そんな大っきな声出さなくても」
「今日は、譲れないんだ」
今日の夜は、譲れない。
ここで佐羅谷を帰してしまうと、もう二度とあの恋愛研究会は戻らない。
これは予感だ。
これは予兆だ。
これは確信だ。
「それでも僕は、佐羅谷さんが決めるべきだと思う」
田ノ瀬は熟考の末、また佐羅谷のことばを求める。
あくまで、自分では選ばない。選ばれ続けてきた男子の自信か。
一同の目が佐羅谷に集まる。
佐羅谷は体は俺に向けたまま、何度も田ノ瀬に上目遣い。やがて一つため息をつく。
「わたしは、最初からずっと、恋愛相談のつもりだったわ。ここで相談が終わるのなら、あとは個人で決めることよ」
わかりにくい言い方だ。
このクリスマスイブまでのデートが、すべて恋愛相談だった。ということは、田ノ瀬を理科実験室に呼んだときから、今の今まで佐羅谷の行動は全部「部員」としての活動だった。
田ノ瀬と親しくしていたのも、今日の、今日までの彼女っぷりも、演技だった。そういうことか?
盗み見ると、田ノ瀬と視線が合う。
田ノ瀬が苦笑した。
「そうか、じゃあ、ここまでだね。僕は一人寂しく帰ろうか。やれやれ、今日は楽しかったぶん、一人で電車で帰るのがたまらなくつらいね」
悪態をついてやろうかと思ったが、こらえる。田ノ瀬を巻き込んで、クリスマスイブに誘い出した責任は、俺にだってあったんだ。
飄々と身を翻し寒そうに襟を立てた田ノ瀬に、スギコが一歩前に出た。
「田ノ瀬くん! 今日は来てくれてありがとう! 楽しかった!」
今日一日、ほぼ会話していなかったスギコが、顔を真っ赤にして叫んだ。
「はは、僕もだよ、けっこう楽しかった。また学校で見かけたら声をかけてよ」
驚きもせずに、田ノ瀬は手を振りながら地下へ消えていった。
スギコは肩で息をしながら、満足そうだった。
「さて、それじゃあわたしたちも、」
「さ、佐羅谷さん!」
「はい?」
「俺……ぼくも今日は楽しかったです! ま、また良かったら一緒に出かけませんか!」
スギコに触発されたか、スギオも同じく顔を真っ赤にしながら叫ぶ。
佐羅谷はいつもの深窓の令嬢の顔で、にこりと微笑む。こうして見るとほんとうに美人だ。いや、いつも美人なのだが。
「そうね、あなたにわたしを誘う余裕があるなら、出かけてもいいんじゃないかしら?」
「は、はい! いつも暇です!」
これが佐羅谷とスギオの今日一番の会話だった。そして、会話はすぐに終わった。
「だけど、ごめんなさいね、今日はこれから部員だけで反省会の予定だから、杉原さんとも大杉くんとも、一緒には帰れないの」
佐羅谷は申し訳なさそうに伝える。
しかし、杉杉の二人は思い残しのないスッキリした顔だった。
「スギオ、スギコ、ちょっとこっちに」
俺は二人を地下の階段入口の裏に引っ張りこむ。佐羅谷と宇代木に声が届かない場所まで。
「予定していた相手とほとんど会話できなかったけど、もういいよな? 恨むなよ?」
「まー、ほんとに田ノ瀬くんまで連れてきてくれるとは思わなかったから。いちおうは一緒にデートしたんだし、あーしは嬉しかったよ」
「俺もこんな機会がなかったら、佐羅谷さんと学校以外で会う機会なんてなかっただろうしな。良い経験になった」
「それはよきかな」
自然に隣り合う二人に、俺は耳打ちする。
「さっき情報をくれた礼だ。おまえら、今日はカラオケでもネカフェでもいいから、日が変わるまで一緒にいろ。帰るな」
「な、なに言ってんだ、九頭川! どーしてあーしがこんな男と!」
「それはできない相談だ、俺だってこんな暴言女、願い下げだ!」
「だから、聞け! さっき二人とも良い経験ができた、お膳立てがあったとしても、田ノ瀬や佐羅谷とでクリスマスイブにデートした、その事実はあっただろ?」
条件反射で反撥する二人をなだめる。
「だから、今日、事実を作るんだよ。クリスマスイブに異性とデートして、日が変わるまで帰らなかったっていう事実を!」
「それがあーしになんの得が。あれ、でも、もしかして?」
「そうか、なんとなくわかってきたぞ、九頭川の言うことが」
「さすが文芸部のミステリーと推理担当だ」
ややこしい二人だ。
「そう、今後三年生になり、大学生になり、俺たちには新しく知り合う人が増えていくだろう。そんな時に、異性とデートしたこともない、付き合ったこともない、日が変わるまで一緒にいたことがないってのは、不利に働く」
「不利?」
「人間は、好かれる人を好きになる。好かれる人は助けてくれる友達や恋人が多いから、どんどん人が集まる。恋愛に限らず、モテる人間はモテるほどにモテるようになる。権力も金も愛情も、同じだ。集まるほどに集まりやすくなる。
その逆は、悲惨だ。どんな好人物であったところで、広める友達や知人がいないと、誰も知らないからな。永遠に、孤独だ」
「なんとなくわかるけどさ、大袈裟じゃね?」
「そうだ、だが、俺には中学時代から引きこもって40歳になるおじさんがいる。時間が過ぎるのはあっという間だ。考えてみろよ、自分が30や40になって知り合った相手が、誰ともデートしたこともないとか付き合ったことがないと言われたら、何か性格や行動に問題があるかもしれないと感じないか? 事実はわからねえけど」
「そのために、今のうちに経験を捏造するのか」
「そうだ」
スギオはすでに理解している。
「今日このまま二人でオールしたら、クリスマスイブに異性と日が変わるまで一緒にいたという事実が手に入る。それを聞いた他人がどう解釈するかは、放っておけばいい。たとえこのまま高校で彼氏彼女ができなくても、大学に入ってから事実は事実として伝えられるだろ? この人は誰かに好かれていたという事実は、次に好きになってくれる相手から見て一定の担保になる」
「九頭川の言うことはわかったけどよ、なんだってこの男と」
「俺だって、どうしてこの女と」
じーっと見つめ合う二人は、この至近距離で視線を交わしても照れたり恥ずかしがったりしないようだ。
「というわけで、恋愛研究会の九頭川輔からの助言はここまでだ。このチャンスをどう活かすかは、二人に任せる。よいクリスマスを」
俺は話を切り上げて、地下階段の入り口に戻る。
笑顔で楽しそうに談笑している佐羅谷と宇代木がまるでドラマの一場面のようだった。点灯を始めたイルミネーションが、遠くぼやけてクリスマスイブの夜を祝福していた。
「待たせたな、行こうか」
クリスマスイブの夜に、天王寺の洒落た飲食店など予約なしではほとんど入れない。予約にあぶれて寄るべない俺たちは、ハルカスの十六階庭園で人の少ない一角から夜景を眺めていた。夜七時に閉まるというが、まだ時間はある。
「くーやん、スギコとスギオになに話してたん?」
「ちょっとしたおまじないだ。あの二人に必要なのは言い訳だからな」
「恋愛相談、今回も無事解決ってとこだねー」
「わたしの恋は成就しなかったんだけど」
「まったまたー、あまねの恋は始まってさえないじゃんかー」
「そうだ。佐羅谷の恋は、きっと小説が完結するまで成就しない」
「くーやん、なにメタい話ししてんの?」
「見ろ、宇代木。佐羅谷の顔を」
きらきら光るイルミネーションと街灯を背に、佐羅谷は目を丸くしていた。
「いつ、気がついたの?」
「え、なになになにさ?」
「俺だけじゃ気づかなかった。推理ものに詳しい二人がいたからこそさ」
俺はスマホにとある小説の表紙を映す。
『ラクトガール・イン・ザ・ケミラボ』
「乳酸菌少女?」
「言うと思ったけど、違う。鍵をかけられたって意味のほうだ」
「そのラクトガールが何さ?」
「新進気鋭のミステリ作家の代表作で、このシリーズは三冊出ているが、どれも大好評発売中だ。
設定はわかりやすくて、いわゆるアームチェアディテクティブもの、探偵役は外に出ず、助手が情報を集めて回って、探偵が推理して、犯人を言い当てるタイプの作品だ」
「三行で」
「……探偵は女子高生で、理科実験室に引きこもる実験大好きお嬢様。助手は同級生のイケメンモデルでプレイボーイ」
「誰かと誰かに似てるねー」
「一巻の最終話で、助手はお嬢をデートに連れ出すことに成功する。場所は、動物園。その動物園には最後にアトラクションがあって、看板には「ホモ・サピエンス」と書いてある」
「どこかにそっくりだなー」
「噂だが、人気急上昇中のこの作品、ドラマ化予定でオーディションがあるとかないとか」
俺と宇代木はじっと佐羅谷を見つめる。
「ボクは事実を述べるだけだよ。キミが見つけてくれた真実の中からね」
佐羅谷は、作中のお嬢の決め台詞を放った。
作品を俺は知らない。アマゾンやファンサイトで、あらすじを追っただけだ。このデートの終わりかけに、内容まで読む時間はなかった。だが、デート中の佐羅谷の台詞はどこか不自然に聞こえた。田ノ瀬に対していやにわがままな態度も不自然だった。
俺はぎりぎりで、見つけることができた。真実を。
「よくわかんないんだけど、ここしばらくあまねとたのやんはずーっとお芝居してたってこと?」
「まあ、そうね。助手の男子が自分にまったくなびかない探偵女子を落とそうとするのが、ミステリーと並行するストーリーだから。稽古にお付き合いするのが、田ノ瀬くんが今回のデートに来てくれる条件だったのよ」
「先に言っとけよ、ったく」
「練習だって言ったら、自然なお芝居にならないでしょ。どう? 違和感はあったかしら」
「違和感しかなかったよー」
「台詞っぽさがな」
俺と宇代木のダメ出しに、佐羅谷の表情は沈む。
「やっぱり、わたしじゃダメね」
別にそういうわけではなかった。俺は今の今まで本気で悩んだ。
しかし隣の声は冷たかった。
「気づいてほしかったからじゃないかなー」
十二月の冷気が一陣の風となって吹き抜ける。
「くーやんが気づかなかったら、あのままたのやんと帰ってたもんねー」
佐羅谷が宇代木の顔を見てびくっと震える。
俺が横を見た時には、いつもの笑顔しかなかった。
「あー、うんうん、ほら、ドッキリとかサプライズってさ、隠し通したいこともあるけど、気づかれてもおいしいっていうか、そういう気持ちもあるじゃん!?」
「そうね、そんな気持ちが漏れ出てたのかもしれない。二人を騙すのは気持ちが良いものではなかったし」
「そうそ、そうそ。隠し事はいくないよー」
二人はぎこちなく笑顔を交わす。
確かに、サプライズは喜んで驚いてほしいし、薄々感づいても楽しみに待っていてほしいという気持ちもある。
「あ、そうだ。サプライズついでに、二人にこれを」
俺は神山に手伝ってもらいながら選んだ品を鞄から取り出す。包み紙を間違わないように、佐羅谷と宇代木に丁寧に渡す。
二人はお年玉を受け取る小児のように、ぽかんと両手で受け取って、眺めている。こぶしより小さな包み紙だ。
「いつもお世話になってるからな。俺からのクリスマスプレゼント。一年生二人にはないから、秘密でな」
「なんでー!? くーやんそんな話してなかったじゃんか! あー、あたしなんにも用意してないよ……しかもこのタイミング!」
「別に、ただの気持ちだから、気にしなくていいって」
「わたし、家族以外からきちんとした贈り物を受け取るの、初めてだわ。だから、ごめんなさい。わたしも誰かに何かを贈るなんて、考えてなかったわ」
「だから気にするなって。突き返されたり捨てられたりしなかったら、それでいい」
ここで俺が作っておきたかった事実は、クリスマスイブの夜に女子にプレゼントを贈ったことがある、という事実だ。俺はどこまでもずるい。
二人は手のひらに包みを載せたまま、宝石をいただくかのように瞳をきらきらと輝かせて見つめている。ときどき見つめあってお互いを窺う。
品定めされているようで落ち着かない。
「ねえねえくーやん、いま開けてもいい?」
「九頭川くん、わたしも確認したい」
「と言いつつ二人とももうリボンを解いているんですよね。小さいから、落とさないようにな」
そして、俺が二人を思いながら選んだ結晶が、夕暮れの箱庭で明かされる。
まずは宇代木が小さな箱を開ける。
「これって……イヤーカフ?」
宇代木に贈ったのは、シンプルなシルバーのイヤーカフ。単独でも使えるわずかに装飾性のあるものだ。金髪に隠れずに目立ち、さりとて元気のよい宇代木のまっすぐさを損なわない程度の装飾。
そんなことを考えていた。
「学校にはつけていけないけど、これならいつでもつけ外しできるしな」
「うん、今度つけてみるよー。そのとき、二人で一緒にお出かけしよ?」
「ああ、まあそのときにな」
宇代木は箱を傾け矯めつ眇めつしながら、シルバーの煌めきに見入っていた。喜んでくれて幸いだ。
一方、遅れて包みを開けた佐羅谷は。
「これは、ピアスかしら」
その通り。
佐羅谷には、濃いクリアグリーンの石を付けた一組のピアスだ。
「九頭川くん、わたし、ピアスは開けていないのだけど」
エクステのついた髪の片方をかき上げて、耳を露わにする。仕草が一つ一つ色っぽい。
「やー、さすがに高校でピアスは難しいんじゃないかなー。学校で外しても穴はわかっちゃうし」
「そうね、免許は持っているだけじゃ見つからないけれど、ピアスはね。内申に響くでしょうし」
「わーってるって」
俺だって品行方正な高校二年生男子だ。俺たちの高校でピアスをつけている女子は悪目立ちする数人だし、男は皆無だ。
「もー、くーやんいじわるだなあ、二人お揃いにしたらよかったのにさー」
ピアスを見つめながら動きの固まった佐羅谷を慰めるように、宇代木が腕や背を撫でる。
「イヤーカフかイヤリングならあまねだってつけられたのにー。石だって、どうしてグリーンなのさー。誕生石でもないしー」
佐羅谷は宇代木のことばを反駁しない。
伝わらないのか。
わからないのか。
俺が込めた想いは、佐羅谷には届かなかったようだ。
「もういいわ、天、わたしは大丈夫だから」
佐羅谷は小箱を閉じ、世界からピアスが消えた。
「全然違う二人に、同じものを渡すほうが失礼じゃないか」
歯を固く食い縛る。
心臓がばくばくと脈打って、自分の耳の横で鳴り響いている。
初めて自分の意思で贈り物をしようとした。その相手を考えて選んだ。自分の念を込めた選択が受け容れられないこと、誤解されること、拒絶されることがこれほど絶望的な気分になるなんてな。
やっぱりなし、冗談だ。
そう言って取り返したら、どれほど気が楽になるだろう。
よいアイディアだ。
そう思って顔を上げると、佐羅谷が複雑な顔をしていた。
「返さないわよ」
「読心術!?」
「あなたの考えなんて、お見通しよ。まったく、とんだ贈り物だわ。九頭川くんは、これをつけたわたしを褒めに来る義務が生まれたのよ。ほんと、たいへんね」
「うええぇー、あまね、ピアス開けんのー?」
「すぐにではないわよ? 近いうちに、ね」
「じゃー、開けるときいっしょにやろーよー!」
「天はさっさとイヤーカフをつけてデートでもしておきなさい」
「はーい」
佐羅谷は大切そうにまた包み直して、鞄にしまった。
俺の意図は通じたのだろうか。
俺の想いが伝わったのだろうか。
期待していいのだろうか。
勘の鋭い宇代木さえ、まったく理解できていないようだった。
「さて、では、九頭川くんからのプレゼントはありがたくちょうだいするわ。でも、もらっただけだと、わたしたちの心が痛むわね。かといって、今から一緒に買い物をするというのもときめきがないわ」
これは、人をたばかるときの佐羅谷の顔だ。
楽しそうに口角を上げ、唇の下に指を当て、少し目を細めながら。
この顔がもらえるなら、俺は他に何もいらない。
「くーやんにはさー、あたしの初めてを奪われたわけだし……」
「酔っぱらってないで、お酒は家に帰ってからにしなさい」
「家に帰ってからでもアウトですよ、佐羅谷お嬢さま」
二人は普段よりテンション高めで、俺に何かお返ししようと女子トークを繰り広げている。
クリスマスイブの夜のテンション。
一時の夜の恥はすべて夜陰に乗じてかき消してしまえ。
「じゃあ、こういうのはどう? さっき文芸部の二人におかしな入れ知恵していたでしょう。あれと同じ、九頭川くんには、クリスマスイブに、日が変わるまで女子と一緒にいて、朝帰りしたという経験をあげるわ」
「あー、それいいねー! あたしもクリスマスイブに男子と夜明かししたことないから、くーやんに初めてをあげられるね!」
「あー、なんて素敵な経験をプライスレス~。だが残念だったな、俺はすでにクリスマスイブを好きな女と過ごしたことがある」
自信満々でからかってきた二人をあしらうと、瞳のハイライトが消えていた。
あれ? 一年のときに那知合たちとカラオケでオールしたことは言っていなかったか?
「詳しく聞かせてもらえるかしら。モテないはずの九頭川くん?」
「そーだねー、まずはカラオケ行こっか? だいじょうぶだよ、真実はいつも一つだから!」
傍目には両手に花で、クリスマスにはしゃぐ高校生にしか見えなかっただろう。だが、両腕を捕らえられ、尻や腕を隠れてつねられながら、俺は拿捕された宇宙人だ。そのまま抗えずカラオケに連れ込まれた。
ああ、クリスマスイブだってのに色気もなく、部活のメンバーとバカ騒ぎして夜を明かしそうだ。
「幸せだなあ」
「九頭川くん、何か言った?」
「別に」
「さ、きりきり吐いてもらうわよ」
そういえば、佐羅谷と宇代木とカラオケに来るのは、妄想していた夢でもある。静かに別れの歌を歌う佐羅谷は、歌い慣れた風で、とても人前で歌うのが苦手だとは思えなかった。
本当に、俺は幸せだ。
こんなクリスマスなら、毎月あってもいい。
楽しそうにマイクを握る宇代木と、伏し目がちにアイスティーを飲む佐羅谷。
ここに俺がいても許される。
ありがとう。




