5巻後半『犬養晴香は想いを受けない』
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)
槻屋尊 (つきや・みこと)
加瀬屋マコト(かせや・まこと)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田戸真静 (たど・ましず)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)
豆市咲蔵 (まめいち・さくら)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
二章 犬養晴香は想いを受けない
「恋愛を四つに分けたのはフランスの作家、スタンダールで、『恋愛論』では、情熱恋愛・趣味恋愛・肉体的恋愛・虚栄恋愛に分類しているわ」
のどかな初秋の理科実験室に、温かいコーヒー、佐羅谷の透き通った声が耳に心地よい。
かつらぎ高校は二学期に入って、イベントも一段落した。文化祭も体育祭も成功裡に終わり、ここ数年では特筆すべき賑わいだったのではないだろうか。
などと言うと、会話を否定からしか入れない山田仁和丸おじさん(40)は、「俺が」主体的に関わったイベントだから成功した気になっているだけだ、とニヒルに口を歪めた。
一理あると思った。
自分が苦しんだからこそ、成果を過大評価し、そこにカタルシスを見出してしまう。
謙虚にならねば。
佐羅谷の講釈を微睡の中で聞きつつ、俺は天狗にならないように戒める。
恋愛講義は、新しく入部したミコトとマコトに向けたものだ。
ウルフショートに冷たい無表情が似合う槻屋ミコトは、生徒会副会長で次期会長を狙う。
ツーサイドアップにピンクのインナーメッシュが映えるボクっ子、加瀬屋マコトは、……俺とはほとんど関わりがないので、何を考えているのかわからない。
三十分ほどの講義で、佐羅谷は語りをやめた。ただでさえ眠気に襲われる放課後、若い二人も船を漕ぎかけていた。
「今日は、ここまでにしましょう」
佐羅谷はノートを畳んだ。
恋愛相談の記録をつけているノートとは別ものだった。私物で、見せてもらったことはない。あれを読めば、少しは佐羅谷の考え方がわかるのだろうか。
それとも、恋愛相談のための知識や技術と、本人の恋愛経験は異なるのだろうか。
「んー、今日は早いけど、もう帰ろっかー。ほら、くーやんもさっきからあまねの手ばっかり見過ぎだよー」
「えっ……」
佐羅谷はさっと机の下に手を隠す。
「見てねえよ」
手は。
いやほら、でも佐羅谷の手は身長に応じて小さくて、白くて、きめ細かくて。
差し出されたことはあるが、ついぞ触れることのできなかった高貴なもの。憧れのたなごころ。
「くーやん、見過ぎ!」
「フゴッ、首が、首が!」
宇代木が俺の頭を掴んで九十度回す。
死ぬ、死ぬ。
「九頭川さん、体育祭実行委員会でちょっと見直したのに、やっぱりそういう人なんですね」
座りにくい丸椅子に行儀よく座ったミコトが、無表情で俺を見つめる。やっぱりってなんだよ。
そんな中、佐羅谷の隠れた手を見ていたマコトが大きくにんまり笑う。
「じゃー、みこちゃ、いっとくー?」
「そうね、行こう」
ふわりと髪を揺らすと、マコトは俺の腕に抱きつく。違和感のある感触。
「お、おい!?」
驚くまもなく逆の腕にミコトが抱きつく。こちらは多少遠慮がちだ。
一年生二人にぎゅっと腕にしがみつかれる。まだ寒くもない十月、ブレザー越しにお互いの体温が伝わる。そして、体温以上に自分の温度が上がるのがわかる。
「ふ、二人とも」
「二人とも、何をしてるのかなー?」
「やめろ宇代木、まずは俺の頭から手を放せ!」
ギリギリと万力のように締め上げてくる。
「くーやんも、何をしてるのかなー?」
「俺のせいじゃなくない?」
反抗すると万力が締め上がる。
これが拷問ってやつか。
「やー、だってー、ボクたちまだ九頭川せんぱいとちゃーんとお話ししたことないんですよ〜。こないだ部長と天ちゃんせんぱいとはたっくさんお話ししたじゃないですかー。今度は九頭川せんぱいから見た恋愛研究会の様子も知りたいなーなんて」
「話なんて、ここでもできるじゃんかー」
宇代木さんは万力を緩めない。
何なのこの握力。
「ほらー、九頭川せんぱいだって、同級生の女子二人がいると言いにくいことがあるかもしれないじゃないですかー」
「いや俺は別」
「ありますよねー?」
「だかr」
「ありますよねー?」
「あ、ありまひゅ!」
あの、二人でお尻つねってくるのやめてください。本当に死にます。
あと、宇代木、頭痛いです。顔怖いです。
「ほら、天も遊んでないで」
佐羅谷が丸めたノートで、宇代木の手をはたく。やっと頭の万力が外れた。
「むー、最近全然じゃん、つまんなーい!」
「時間なんて、これからもあるでしょ。あなたには。それに、わたしも、たまには天と一緒に帰りたいわ」
「あまねー! 好きー!」
「ちょっと、抱きつかないでよ」
うーん、この女子同士あたりまえに抱き合ったりする距離感がよくわからないな。嫌がっている佐羅谷も、前は自分から抱きついてきたし。
「じゃあ、九頭川さん、部長と副部長の許可も得たことですし、行きましょう」
「行きましょー行きましょー。あ、九頭川せんぱい、ボク奢られてあげますよ!」
「わたしも遺憾ながら奢られてあげます」
「なんでおまえら偉そうなんだよ。じゃあ、サイゼな」
「えー、サイゼはないでしょ……」
「サイゼが許されるのは中学生まででしょ……」
「そういうところは似てるのな、ミコマココンビ。決めた。おまえらとどっか行くときは絶対サイゼ一択な。今決めた。俺が決めた」
「理不尽!」
「どっちが」
一年生二人に両脇を押さえられながら、俺は理科実験室から退室する。
動きにくい中、ふと顧みると夕日に照らされた理科実験室に、笑顔の佐羅谷と宇代木がいた。
二人、自然な笑顔で、ことばを交わしている。きっと、俺が来る前の、俺がいない時の、恋愛研究会の日常。もう二度と見ることはできない、たった二人だけの花園が、垣間見えた気がした。
隣でギャイギャイ騒ぐマコトの声も、グイグイ引っ張るミコトの力も、なんら障害にならなかった。
俺はしばし見とれた。
ふっと、光が煌めいた。
カーテンの揺れで、視界が一瞬ホワイトアウトする。
視力が戻ると、目が合った。
「じゃーねー、くーやん」
「九頭川くん、またね」
サイゼリヤは夜の六時。
親父に今日は晩ご飯を作れない、かつ必要ない旨、連絡する。
新庄のサイゼリヤに、ミコマコを連れ込んだ。平日の夜だけあって、客足はほどほどだ。
「恋愛研究会で、俺にわかることなんてないぜ? 佐羅谷が持ってる相談者の日誌は読んだか? あれが、ほぼすべてだ」
「読みましたよ、沼田原せんぱいがいるところから、全部! 全部! 九頭川せんぱいが相談に来たところも!」
「わたしも読みました。モテたいと堂々と公言するなんて、やっぱり最低だと思いました」
「そうか、俺は自分のところは読んでないから、佐羅谷がどう書いているか知らないんだ」
「またそんな嘘ばっかり〜」
「読んでいないと、今の九頭川さんの行動が説明できないじゃないですか」
読みたいという欲に駆られたことは、一度や二度ではない。だが、俺は自制した。佐羅谷が俺に何を感じて、俺の相談にどう応じて、俺をどう導こうとしたかなんて、知りたく……知りたい、知りたいに決まっている。
「俺のことは、どうでもいい。そうだな、まずはミコト。もう確執はないはずだ。どうして今回、俺を呼んだ」
「佐羅谷さんと宇代木さんに、こってり絞られました。わたしは少し、九頭川さんのことを誤解していたようです。ごめんなさい」
テーブルの向こうで、ミコトは頭を下げる。短いウルフショートのつむじが見えた。
ほう、ミコトも考えを改めるということを知ったか。これで、沼田原先輩の懸案が一つ解決したな。独断専行も、やる気の空回りも、落ち着くといいな。
「そこで、九頭川さんにお願いです。次の生徒会選挙で、副会長に」
「断る」
「まだ何も言ってませんよ!?」
「ほぼ言ってるじゃねえか。いいか、俺はもうモテたくないんだ。これ以上、学校全体に名を広げたくない」
「まだぜんぜん広まってませんよー」
「マコトうるさい」
俺はマコトの前に熱々のアヒージョとパンを置く。これで黙るだろう。
「だいたい、ミコトは生徒会長になりたいんだろ? 副会長は自分で選べるから、マコトを指名しろよ」
そして、おそらく、体育祭の功績から、ミコトが会長に立候補したら、他に立候補があっても、当選する。どうせ信任投票になるとは思うが。
「マコトは……」
「ボクはやりませんよー。だいたい、幼馴染で恋愛研究会の一年二人で生徒会なんて、変な勘ぐりを入れられちゃうじゃないですかー。部活も疎かになっちゃうかもだし」
「俺が生徒会に入っても、状況はおんなじだろうがよ」
「だって、他の誰かが副会長になったら、やりにくいじゃないですか。わかりますよね? 体育祭実行委員で委員長副委員長だった二人が生徒会になるのが、一番しっくり来るんです」
「清々しいまでに自己都合じゃねえか。そう来るんなら、俺にだって言いたいことがある。佐羅谷や宇代木がいる場所では言えないことだ」
俺はドリアの湯気を浴びながら、二人を見た。
ミコトはベーコンとほうれん草のソテーをフォークでかき集めていた。マコトは食べ尽くしたアヒージョの油に、パンを浸していた。黙々と。
「おまえたち、何が目的で恋愛研究会に入った」
今の恋愛研究会は、犬養先生の許可がないと、入部できない。
先生の基準は定かではないが、佐羅谷や宇代木を見ていると、なんとなく感じるものはある。俺が選ばれた理由も含めてだ。
それは、恋愛に困難を抱えていることだ。
佐羅谷なら、誰も好きにならないこと。
宇代木なら、誰も拒まないこと。
俺なら、言うまでもない。
翻って、ミコトとマコトの問題は?
ミコトとは体育祭実行委員で一緒にいて、なんとなくわかった。合理主義者というか、効率厨というか、とにかく、自分が理性で動き、合理性を追求した行動をするのだから、他人もそうだと判断して理詰めで考える。
だから、ミコトは恋愛を理解できないし、理解する必要はないし、無駄なことだと思っている。
犬養先生は、ミコトの病理を見抜いた。だから、入部を許可した。ただの付き添いや幼馴染だからといって、入部を許可するはずがないのだ。
恋愛が無駄な人間もいるかもしれないが、恋愛が珠玉のごとく大切な人間もいる。
果たして、ミコトは気づいたか。
一方、マコトは。
マコトはまだ全然関わりがないので、俺にはマコトの抱える闇が見えない。いや、一番わかりやすい外見の問題は、今は突っ込むべきではないのだろう。
文化祭のブースでの俺たちの姿を見て、「同じように輝きたい」と言った。つまり、俺たちのことが、まったくわかっていないということだ。
この、タヌキめ。
「やだなー、九頭川せんぱい、ボクは入部のとき言ったじゃないですか。輝きたいんですよ、この一瞬を」
「わたしはただの付き添いのつもりでしたが、この二週間だけでも得られるものがありました。そのことは、九頭川さんにも感謝してますし、先輩と認めることにやぶさかではなりません」
「う〜ん、俺は認められなくても先輩だけど、ミコトが軟化してくれてありがたいよ。マコトは次の恋愛相談を待て、話はそれからだ。じゃあな。俺は帰る」
「あ、伝票はこれですよー」
「ほう、俺に貸しを作るとはいい度胸だ」
もしかして、俺と話したいという理由に託けて、奢らされただけでは。ち、しゃーねえな、こういう陥れられた時は、ゲーセンで恨みを晴らせってばっちゃが言ってた。久々に、CUEで憂さ晴らししてやる。
半透明の伝票入れに手を伸ばしたとき、聞き慣れた声が聞こえた。
「ああ、九頭川。探したぞ」
ひょろっと背の高い、同級生の男。
中学時代の親友にして、紆余曲折あって今はただの友達に落ち着いた、高森颯太だ。
「悪い、また相談があるんだ」
俺は伝票片手に、大袈裟に肩をすくめてみせる。
「はい、喜んで」
俺と高森は中学が同じで、よく行き来もした仲なので、お互いの家もわかる。サイゼリヤからの帰り道、共通の場所まで自転車を押しながら話す。
「ハロウィンのコスプレなんだ。ならまちを一緒に合わせで歩かないかって誘っててな」
ハロウィンか。
よくよく聞いた感じだと、イベントではなく、ただ純粋にコスプレして撮影するだけのようだ。
「しかし、ならまちで似合うコスプレがあるかねえ。普通のオバケとかヴァンパイアは浮くだろ?」
「聞いて驚け、『妖術壊戦』だ」
「ああ、納得」
『妖術壊戦』は、妖怪の能力を代々引き継ぎ、血筋を保ってきた末裔たちが、人間社会に紛れながら、世間に仇なす同類や人間を倒していく物語だ。週刊少年ジャンプで連載中で、おそらくは三番以内の人気作で、アニメはもちろん、前日譚も映画化された。今、乗りに乗っている作品だ。
ちょうど舞台にならまち編があって、奈良公園を焼け野原にするような大戦闘の場面が面白かった。
キャラクター的には、主人公たち高専生メンバーも人気だが、先生や親世代の渋いキャラも描き込みが深く、子供から大人まで楽しめる作品だ。少なくとも、ヒキオタニートの山田仁和丸(40)おじさんも文句を言いつつ原作もアニメも追いかけている。
「ふむ、ではまた付き添いか、あるいはコスプレの準備だな」
「違うんだ、今度は違うんだ」
「ほう?」
促してもなかなか高森は続きを言わない。
とうとう、俺たちが別れる交差点まで来てしまった。
俺は気が長くなった。
恋愛研究会に入ってから、無言の時間が無言ではないことを知った。
ただの無言と、ことばを探すための無言は、似て非なるものだ。
高森は、脳をフル回転して、俺に告げるべきことばを選んでいる。この無言は、重い。
明滅する蛍光灯の街灯に照らされて、高森と視線が合った。どうして言い淀むのか、わからなかった。
「宇代木さんを、呼びたいんだ」
翌日。
授業中から気もそぞろで、勉強は頭に入らなかった。これでも、最近じょじょに成績は上がってきている。「目標がある」と、無意識で頑張れるものだ。
だが、今日は授業よりも、部活だ。
高森からの恋愛研究会への依頼は、実に難しい点を突いてきた。一応、昼休みに遠隔で顔合わせし、状況は把握した。
さあ、俺が宇代木を説得できるかどうか。しかも、宇代木にわからないように、だ。
恋愛研究会の部屋には、いつも通りに佐羅谷と宇代木がくつろいでいた。俺が定位置に座り、完成。少し遅れて、マコトがツーサイドアップを跳ねながらガラリと扉を開けた。
「こんにちはー! 遅れました! ミコトは今日から生徒会選挙に入るから、当分来られないみたいです! 九頭川せんぱいが手伝ってくれないからです!」
「俺、全然悪くないよね」
「こんにちは、加瀬屋さん」
「ちゃおー、まこちゃー」
佐羅谷も宇代木も、マコトのヘンテコ発言はオオカミ少年程度に流してくれて助かる。
「おう、マコト。今日は相談者が来る予約があるから、静かにな」
「はーい! ボク、静かにしてまっす」
ぴっと足を揃えて敬礼して、宇代木の横に座る。
ほどなく高森がやってきた。
神妙な顔だ。
「時間をとってくれて、ありがとう」
恋愛相談に見えない恋愛相談。
すべては、宇代木を乗せられるかどうかにかかっている。
高森はひょろっとした体を猫背気味に、定まらない視線を俺たちに平等に注ぎながら、席についた。
「では、恋愛相談を始めましょう。高森くん、話してくれるかしら?」
「うん」
高森は直球で申し出た
「宇代木さんにコスプレしてもらって、ならまちでの合わせに参加してほしいんだ」
「はー? え、ちょっとぜんぜん意味がわかんないんだけど、あたし? なんで?」
「俺にメイクを教えてくれたのは宇代木さんだし、コスプレに偏見や抵抗もないよね? 合わせで、どうしても女子キャラが一人足りないんだ。『妖術壊戦』の先生組で」
「あー、面白いよね、『妖術壊戦』。先生組するんだー。ならまち編、先生組大活躍だったしー」
宇代木の視線が虚空を泳ぐ。
きっと、作品内のキャラクターを思い出し、誰が似合うか、誰を指定されるのかを推測しているのだろう。
「ん、高森くんは、五条要だよね? じゃ、あたしは吉野メイかなー。んで、黒滝いつきはワンカさん? 川上遼太郎はあたしの知らない人ー?」
的確にキャラクターを当てはめていく。五条要は長身でキザだがチート級の強さのアラサー男性の先生、吉野メイは和風ロリに身を包む年齢不詳の女性の先生だ。黒滝いつきはホットパンツにランニングシャツという傭兵風の出で立ちに白衣をまとう女医。川上遼太郎は気苦労の多い常識人の立ち位置の男性の先生だ。
「ワンカさんが合わせにきてくれる条件なんだよ。他の先生組を全員揃えろって」
「うわあ、けっこう無茶だー」
宇代木は察しが良い。
「ねえ、九頭川くん。どうして人数を揃えるのが難しいの?」
佐羅谷が耳元に唇を近づける。不用意にそういうことをするなよ、勘違いするだろ。
佐羅谷は『妖術壊戦』のキャラクター紹介ページをスマホで見ながら、説明を求めた。
「あー、つまりな、主要キャラの高専生組はコスプレする人も多いが、先生組はキャラ年齢が高いぶん、やる人が少ないってことだ」
「コスプレする人にだって、大人はいるでしょう?」
「そこそこの大人が、高森みたいな駆け出しで未成年の男が主催する合わせに、出てこないってことだろ」
「そう、そうなんだ、さすが九頭川。未成年だと知って一緒に合わせをしたりして、もし万が一何かが起きたら、成人している人の責任が問われたりするらしい。だから、嫌がられるんだよ」
高森は力説し、唸り続ける宇代木をうかがう。
「どうだろう、宇代木さん。お願いできない?」
「別にさー、コスプレが嫌なんじゃないのさ。当然、衣装一式は用意してくれるんでしょ? 最近ちゃんとコスプレもしてないし、ハロウィンだしー」
宇代木は歯切れが悪い。
なぜか佐羅谷と俺を上目遣いで見る。
「わたしはしないわよ」
「俺もしないぞ。カメラなら回してやる」
「だーかーらー」
宇代木が唸ったときに、爆音を上げて扉が開いた。
「九頭川ッッッ! 助けてくれいッッ!」
大音声が響く。
顔面汗、紅潮して、振り乱すワンレン、少し傾いだ四角フレームのメガネ。
写真部の次期部長、入田大吉だ。
「入田くん、恋愛相談中です」
「おお、深窓の令嬢どの、すまぬ、匿ってくれいッ」
「どうしたんだ」
「ヤンキーガールに追われて」
「だーれがヤンキーだってー?」
開いたままの扉から、大して息も荒げず、青色の映える長い髪を調える。
メイクの決まるはっきりした顔立ちは、隙がなかった。
「那知合さん、恋愛相談中です」
「あ、サラタニさん、やっほー。元気ー? あたし元気! いーちゃんも元気ー? なんか今日、人多いね。なんなん、誰の相談?」
佐羅谷が額を抑えて、ため息をつく。
そうだな、諦めが肝心だ。
「あ、つーか、カメラメガネ! おまえ逃げんなよ!」
「無理無理無理、無理でござる! 俺に那知合さんを納得させる動画なんて撮れないでござる!」
「やってみなきゃわかんねーじゃんか」
「おい、おまえら走り回るな!」
「ナチ子、やめよ、ほらほら、危ないからさー!」
ただでさえ狭い理科実験室の通路を、ほうぼうぶつけながら逃げる入田と、軽い身のこなしで遅滞なく追いかける那知合。
さっと先読みして、道を塞いだ那知合が、入田の襟首を掴む。
「えい!」
「ふごっ!」
すぽん、と入田のメガネが顔から抜ける。
スローモーションで弧を描き、空を飛ぶメガネ。
「あ、当たる」
俺が手を伸ばすが、間に合わない。
こんな時のお約束。
メガネは、一番反応が悪いやつに当たる。
俺の指先を掠めたメガネが、やっと気づいた佐羅谷の頭に標的を定める。
「きゃ」
珍しい声を上げる。
「危ないっ」
俺は佐羅谷を抱きしめた。
無意識だった。
いま思うと、メガネくらい当たったところで、怪我もしない。だが、佐羅谷に何か物が当たるなんて、考えるだけでも嫌だったから。
俺はメガネに伸ばして届かなかった手をそのまま、力任せに佐羅谷を抱きしめて、そして、勢いあまり、床に自分ごと押し倒す。
後頭部にメガネがぶつかる衝撃があった。痛くはない。
むしろ、佐羅谷をかばって床に直撃した腕や膝の方が痛い。
「いったー……佐羅谷、大丈夫か?」
「大丈夫だけど、九頭川くん、苦しい……」
「怪我はないか、頭打ってないか」
「だから、大丈夫に決まってるじゃない」
佐羅谷は顔を逸らす。
「なんで顔を逸らすんだよ、本当はどこか」
「近いのよっ」
佐羅谷は真っ赤だった。
視線は、俺を超えて背後を見ている。
落ち着いてくると、背中に複数人の気配を感じる。
わかる、わかるぞ。
全員が俺の後ろで、様子を窺っている。
客観的には、俺が佐羅谷を押し倒しただけで。
床に落ちたメガネを拾う気配がした。
「九頭川、俺はいま猛烈にカメラを取りに帰りたい気分だ。それまで、その姿勢を維持してくれるか?」
「おまえをそのまま暗室に閉じ込めたい気分だ」
「たっすん、どう、そのままちゅーしたらいけるんじゃね?」
「那知合、おまえも後で谷垣内にバレないようにはたく」
「くーやん、ふじゅんいせーこーゆーは捻り切るよー?」
「これは異性交遊じゃないと思うんですよ」
脊髄にナイフを当てたような殺気を感じる。さすが、宇代木が佐羅谷を大切に思う気持ちは尋常ではない。
俺たちは別々に立ち上がる。
目と鼻の先で制服の埃を払っている深窓の令嬢。
凪の無表情、焦点の定まらないほのかに深緑色をした瞳が、嵐の前のぶ厚い雲のようだ。
「出てって」
地の底から響く、俺さえ聞いたことのない声が理科実験室にこだまする。
「あの、佐羅谷さん?」
「聞こえないの?」
「はひぃ!」
思わず声が裏返る。
「あ、あまねー、あたし……ひぅっ!?」
「ぼ、ボクは関係な……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「んー、サラタニさん赤くなっちゃってかっわいー……っ」
宇代木やマコトだけでなく、軽口を叩いた那知合でさえ黙った。
何も言わないが足下からうごめく強烈な負の感情が俺たちを追い立てる。とてもこの部屋にはいられないと、誰ともなく足早に、取るものもとりあえず、ばたばたと部屋を出る。
俺と、高森・入田・宇代木・マコト、そして、那知合。
追い出された即席のメンバーは、隣の空き教室に避難した。
何なんだこの組み合わせ。
埃っぽい教室に、椅子だけ車座に並べて、俺たちは思い思いに腰掛ける。
普通はことばに詰まる場面だが、ここには那知合がいる。
那知合はカバンからいろはすの桃を出すと、喉を潤した。きらきら夕陽を反射する唇と、ボタンを外した首元が、飲み物に合わせて動く。
「ふー、怖かったぁ! サラタニさん怒ると怖いじゃん! びびったぁ!」
「あまねはもともとそんなに怒んないんだけどねー」
「気は強いけどな」
「あ、たっすん、飲む?」
「飲まねえよ、口をつけたものを差し出すな」
「ふーん」
那知合は何が面白いのか、ペットボトルをもてあそんでいる。
「まあ、いい、ちょっと場所は変わったが、話を続けよう。恋愛相談でないし、佐羅谷抜きでいいだろ」
俺は高森に向き合う。
今日は、遅くなりそうな予感がした。
「まずは高森からだ」
「改めて言い直すが、俺のお願いは、宇代木さんにコスプレしてもらって、合わせに参加してもらうことだ」
「えー、なにそれおもしろそー。あたしも混ぜてー」
「那知合は後でな。まずは宇代木の気持ちの確認だ。どうだ?」
「どうだって言われてもー。ほんとダメだねー、ハイホーもくーやんも」
久しぶりに聞いて思い出した、高森のコスプレネームはハイホーだった。いや、昔からハンドルネームはハイホーだったが。
「ダメっていうのは、嫌だっていうことかな? やっぱり、俺なんかが誘っても」
「そういう自虐や卑下はなおさらダメだかんね」
宇代木はダメ出しをするが、原因は言わない。コスプレに偏見もなく、むしろわりと変身願望はあるだろうし、目立つことに抵抗もないし、チヤホヤされることにも慣れている。衣装だって高森が負担するのだから、懐も痛まない。
「俺、わかんねえよ、なあ、九頭川。絶対、宇代木さんなら乗ってくれると思ったのに、なにがダメなんだ?」
「わ、わかんないっピ。土星ウサギのボールペンの実用性並みにわかんないっピ」
小声でごにょごにょと男二人が膝を突き合わせる。
「なんだ、いーちゃん、和ロリのコスプレすんの? えー、めっちゃ見たいかも! どこですんの? 見に行っていい?」
いつのまにかマコトの後ろにやってきて、事情を聞いていた那知合が、マコトのスマホ画面を見ながらキャッキャと喚く。
さすがのマコトも、顔を至近に寄せて遠慮のなく絡む上級生に緊張しているようだ。頬が赤い。
「ちょっと、ナチ子〜、余計なこと言わないでよー」
「よけーじゃねーよ、だってほらかわいくね? ぜーったいいーちゃん似合うって! なあ、たっすんもえーっと、その横のも、カメラメガネも! なあ、見たいよなー? これ着るんだぜ? ちょーかわいいって!」
そして、他人のスマホの画面いっぱいに拡大された、アニメのキャラクター紹介から吉野メイのイラストを見せびらかす。
もちろん、見せられた男三人は作品もキャラもわかる。キャラは先生とはいえ金色でゆるふわな髪にヘッドドレス、和風ロリで見た目は露出が多く元気っぽいのに、わずかに憂いを含む表情など、宇代木が実に似合いそうな雰囲気だ。
「正直言うと、俺の知り合いで一番似合うのは、宇代木さんだと思ってる。だから、一番に頼んだんだけど」
「うむ、この雰囲気この表情このスタイル、許されるならば是非とも写真を撮りに行きたい所存」
「まあ、宇代木の華やかな見た目と細やかな性格だったら、このキャラの表情まで再現できるだろうな」
男三人の素直な感想に、那知合が胸を張る。
「だっからあんたたち、最初っからそー言えばいいんだよ!」
宇代木が健康的な太腿の間に手を挟んで、モジモジしている。いつもの表情筋だけで作った笑顔ではなく、困り顔で口を突き出し、もごもごしている。
「ああ、そうか」
「どういうことだ、九頭川?」
「どこかの誰かの口先だけの「かわいい」よりも、友達の具体的な褒め言葉のほうが、効果的ってことだ」
数合わせでコスプレしてほしい、と頼まれるよりも、君のこのコスプレが見てみたい、と言うほうが宇代木には有効だ。かわいいなんて言われ慣れたことばでは、宇代木は動かない。
神妙に咳払いする高森。
「宇代木さん、お願いだ。俺は、宇代木さんと一緒に合わせがしたい」
「あーもー、ナチ子、余計だよ余計。自分がちょろすぎて情けなくなっちゃうよー」
当のナチ子さんはスマホでにこやかに文字をフリックしている。彼氏からかな。
「宇代木、俺もついていくから。ハロウィンのコスプレはお祭りだろ?」
「んー、釈然としないやー。高森くんのは恋愛相談だよね? じゃー責任が出るんだよね。
他人事じゃないよ、くーやんもだよ? ハロウィンがお祭りだってことは、お祭りに一緒に行こうってことだよね?」
「お、おう?」
宇代木は俺だけにしか顔が見えない角度で、冷たい目を向ける。
「責任、ちゃんととってよねー」
責任。
そうだ、恋愛研究会としては、いちおう高森がワンカさん(保健室の先生にして当部の顧問、犬養晴香先生)との仲を取り持たないといけない。
「もちろんだ。軟着陸させるさ」
「ふうん、期待して待ってる〜」
宇代木はワンカさんと犬養先生が同一人物で、縁結びが絶望的だと知っている。高森には、涙を飲んでもらうことになろう。
「あれ、高森くん、それ妖術壊戦の黒滝いつきのコスプレしてるワンカさん? もうやってるんだー、早いねー」
「あ、うん。やっぱり、流行りに適度に乗るのも、レイヤーのたしなみだからね。しかも、ワンカさんは見た目だけじゃない。ほら、衣装のここ、これが漫画原作を見ていないとわからない点で……」
「わ、ほんとだ、すごい再現力! メイクも完璧じゃんかー」
約束を取り付けると、あとは作品談義に花が咲く。一番楽しい時間だ。
しかし、俺にはまだ解決すべきことがある。スマホを見つめる那知合と、所在なく逃げ出しそうにしている入田。
俺は静かに二人に向き合った。
「で、入田、逃げるのは良くないぞ? きちんと那知合と向き合え」
「言い訳も聞かずに糾弾!?」
「だって、何を言ったところで、那知合に勝てるわけないし、だったら入田を生贄にしたほうが早い」
「ゲスい上に消極的かつ積極的に俺を切り捨てるだと!?」
「さっすが、たっすん、話がわかる! じゃ、行こっか。来い、今日は、最後まで帰さないかんな!」
「あー……この恨み、はらさでおくべきかー」
およそ想像はついていた。
那知合がダンスの動画を撮影して、YouTubeに上げたいと言っていた。俺は知り合いの中で一番適任の入田にお願いした。
だが、那知合は気まぐれで移り気で、そのくせ妥協しなくて偏執狂的なこだわりがあるのに、一切の説明をしない。というかできない。
入田が音を上げたくなるのもわかる。
ずりずりと引きずられながら教室を出ていく入田と、襟首を引っ張っていく那知合。
「すぐに追いかけるから、待ってろ。那知合も、あんまりいじめんなよ!」
「あたしがいじめなんてするわけないじゃん。なるはやで来いよー」
いじめる気がなくても、那知合のような見た目も声もことばも強い女子に迫られると、弱い男子はたちうちできないものだ。いじめとまでは言えなくても。
俺は残っているメンバーに向き合う。
「さてと、じゃあ、宇代木とマコトは、佐羅谷のところに戻って、俺は今日はこのまま帰るって伝えてくれ」
「俺はどうしようか」
高森は含みある表情で、スマホをポケットにしまう。
「高森は悪いけど、ちょっと手伝ってほしい」
「オッケー」
「ボクもお手伝いします! 今日はもう恋愛研究会もお開きだし、九頭川せんぱいがどーんなふうにミコトをたぶらかしたのか気になります!」
「たぶらかす? なんだ、九頭川、また彼女できたのか?」
「またってなんだよ。彼女いない歴=年齢だよ、言わせんなよ、恥ずかしい」
「ほえー、なーんだ、じゃあ九頭川せんぱいもボクと一緒ですね〜。むふー」
「知りたくもない情報をありがとう。宇代木、マコトも連れていくぞ」
「オッケー。あまねには言っておくよ。くーやんがまこちゃとデートだって」
「おい聞きました、高森さん。あなた、さりげなくいないことにされましたよ」
「俺知ってるぜ。メディアの偏向報道ってやつだろ? 複数で歩いているところを切り抜いて二人だけ撮影したふうに見せるやつだ」
「あはははー。嘘も偏見も真実さえも、みーんなおんなじものだよー」
ほんの冗談、バカ話だ。
彼女や彼氏がいようがいなかろうが、
つまらない噂話を立てられようが、大切なことは、事実だけだ。
きっと何者にもなれない俺たちの生存戦略は、愛。
「で、なんでおまえがここにいるの?」
「おおぉう、我が友! 九頭川よ!」
「いや、おまえ俺以外に九頭川って知り合いいるの? 友って誰?」
「ひ、ひどい……」
入田からのひっきりなしのSOSに、のんびり到着した俺と高森とマコト。写真部の部室に入ると、スマホを構えている山崎がいた。
三脚を構える入田と、中央で踊っている那知合。
「あー、たっすん来た来た! よっし、じゃーきゅうけーい!」
「た、助かったなりぃ」
崩れる入田。
俺に駆け寄る山崎。
「怖かったぞ怖かったぞ九頭川! 探したのに見つからないし、たまたま出会った保健室の先生に聞いたら理科実験室にいるというからあんな別棟の遠い部屋まで行ったら、えらく恐ろしく冷たい顔をした女に汚物を見る目でこの部屋を指定されてのう」
いやその恐ろしく冷たい目をした女は、おまえの大好きな深窓の令嬢だと思うのだが。
「こちらはこちらで、オタクに優しくないギャルが一心不乱に踊っておるし、なぜだか撮影を手伝わされるし散々だし!」
いやでもおまえ那知合の小麦色の太ももとか目立つ胸元とか、けっこう凝視してるよね?
だが、状況はわかった。
向こうで那知合は汗を拭っているので、山崎の相手をする時間はありそうだ。高森に目配せして、撮影の準備を頼む。
「で、一応聞くが、どうして放課後にまで俺に会いたいと? 今日はラーメンの日じゃないぜ?」
「うむ、これを見よ!」
生き返った山崎はいつもの調子で俺にスマホを見せる。
「ネットニュース?」
「そうだ! 奈良県の誇り、ひのき坂46のエース、萩原モトがグループ卒業、しかも、妊娠婚姻嫉妬の女偏六連続地獄変だぞ! 悲しみッ……!」
「嫉妬は関係ないだろ」
「九頭川は悲しくないのか! 清楚可憐で売っているアイドルであろう!」
「「見た目が」清楚可憐で売ってるだけで、「中身が」清楚可憐なわけがなかろ」
「いやー! やめて! 聞きたくない!」
「前も声優さんの話で言ったけどよお、見た目が良くて、能力があって、大人に交じって仕事をして、そんな人間に彼氏彼女がいないわけがないだろ。ましてや、芸能界やスポーツの世界なんて、目立ちたがりで肉食系しかいないんだぞ?」
芸を売るのも労働を売るのも体を売るのも同じことだし、名前で仕事をしている人間に夢を持ってどうする、とは思うがこの場ではさすがに言わなかった。女子もいるしな。
「やめて、山崎くんのライフはもうゼロよ」
「自分で言ってんじゃねえ。余裕か」
「ほえー、意外です。九頭川せんぱいはもっと純粋というか、恋愛や女子に幻想を抱いているかと」
「マコト、君もミコト委員長並みにナチュラルにディスってくるね?」
「だって、ボク、恋愛感情ってよくわかんないんです」
茶化して軽薄につぶやく中に、混じる本音。
なんとなくマコトの病理が見えた。
好きという気持ちがわからないことは、問題ではない。問題は、本人が気に病んでいることだ。
山田仁和丸おじさん(40)はしたり顔で「誰も問題と思っていないことを取り上げて問題だと定義して、それを認めさせた人間こそが偉いのだ」とニーチェを褒め称えていた。だが、ヒキオタニートで、匿名で安全地帯から他者批判を繰り返すおじさんが、俺には哀れに見えた。娼婦で童貞を捨てる勇気さえない仁和丸おじさんは、ニーチェにはなれない。
「恋愛真っ最中の女子はそこにいるが、語らせると下校時刻に帰れなくなりそうだな。恋愛かどうかはわからないが、もうすぐちょうど良い事例が見られるさ。マコトもハロウィンコスプレについて来い」
「はい! じゃーそーしまっす!」
「よし。那知合、休憩したか?」
「いつでもオッケー」
那知合はいろはすを机に置いて、ダンス用に空けたスペースに立つ。スマホをいじって、曲を流す。
入田と高森は立派なカメラで、俺と山崎とマコトはスマホで、それぞれに踊る那知合を撮影する。静的、動的、引き、アップ、いろいろな動画素材がそろう。データはオンラインストレージで共有して……。
汗を拭いている那知合から離れて、男だけで小声で密談する。
「じゃあ、編集は任せたぜ、入田」
「おおお俺? 写真の現像はライトルームでやったことはあるが、動画なんててて」
「いいかよく聞け、那知合はダンス部部長でカースト最上位の女子だ。那知合から動画の撮影も編集もできる男子だと認識されて周知されると、今後ありとあらゆる女子から」
「あいや、九頭川、みなまで言うな! 俺も新しいことに挑戦して、自分のスキルを高めたいと思っていたところだ! アドービプレミアプロ? ああ、俺の親父に頭を下げたらきっと買ってくれるさ!」
「その調子で頼むぜ」
「九頭川せんぱいって、ときどきゲスいですよね」
「生きる知恵だと言ってくれ」
自分でできることなんて、限界がある。すべて抱えこんで、破綻してしまうよりも、最初から人に任せたほうが安心だ。
自分の思い通りにはならないかもしれないが、そんな不確定性すら楽しめるようになりたい。
だいたい、今日はまだやることがあるんだ。
高森に目をやる。高森はスマホの画面から顔を上げ、俺に頷いた。
さあ、ここからが恋愛研究会、即席の出張所だ。
「初めまして、……です」
セレットは少し暗い感じの、人付き合いが得意でなさそうな男子だった。小柄で、背丈はマコトと同じくらい。特に見た目にこだわったことはなく、顔にも髪型にも時間やお金をかけたことがないような、生まれたままの姿だった。
挨拶された本名は、一瞬で忘れた。
こいつの名は、セレットだ。コスネームのほうがしっくり来る。
今は私服に着替えていたが、親が選んだような服に、小学校時代から変わらない散髪屋に通っていそうだった。起きてから櫛を通したことのない髪、ぼさぼさの眉毛、コーティングが掠れた眼鏡、上唇の上の無精髭、体に微妙に合っていないサイズのしまむら、かかとの草臥れた靴。
そして、肥大した自尊心とはうらはらの卑屈な笑みを浮かべる口元。
(中学校までの俺だ)
同族に感じる嫌悪と仲間意識、両方が一度に去来した。
「ハ、ハイホーとはイベントで知り合って、仲良くなりました。えーっと、九頭川くんと加瀬屋さん?」
「九頭川でいい。タメだろ。俺もセレットって呼ぶ」
「ボクもマコトでいーですよ! よろしくです、セレットせんぱい! 明日香高校なんですねー、きれいな校舎ですよねー、うらまやです」
「あ、ああ、はい、そうで……そうだよ。よく知ってるね。アスコーとカツコーって、偏差値的には同じくらいだから志望者が地域で分かれて、あまりかぶらないのに」
「確かに、俺は高田だから、アスコーは選択肢にも入らなかったな」
「ボクもです!」
「そういえば、俺もだ」
高田市駅前の商店街の広場にあるベンチで、俺たちは隠れて初顔合わせをしていた。別に隠れる必要はないのだが、なんとなく。高校生は商店街なんて来ないからな。
「じゃあ、まずはこれを渡しておきま、おくね」
「確かに。これは宇代木さんに責任を持って渡す」
セレットの差し出す大きな紙袋を、高森が受け取る。中身は、コスプレの衣装とウィッグ。『妖術壊戦』の衣裳だ。
「あれ? それ宇代木せんぱいがコスプレするキャラですよね? え? よくわかんないんですけど、どーしてセレットせんぱいが準備するんですか? もしかして、九頭川せんぱいにかつあげられてます?」
「なぜ初対面の俺がカツアゲする前提なんだ。しかも変な動詞を作るな」
「い、いいんだ、これは、僕がお願いしたことなんだから」
「はえー? ほえー?」
そうだな、わからないだろう。
マコトが知っているのは、高森がワンカさんを好きで、彼女を招くには『妖術壊戦』の先生キャラを全員集めなければならなかった、だから宇代木にお願いした、そういう体だから。
高森が目配せした。
「よし、じゃあ、この四人で、情報共有をする。話を聞くからには、マコト、おまえも毒を喰らえ。覚悟はいいか」
「っ、はい! ボクも仲間でっす!」
「いい返事だ。では、今から恋愛研究会男子部、ハイホーとセレットの極秘相談を開始する!」
事は、ハイホーとセレットがイベントでたまたま知り合ったことにあった。
初イベント初コスプレで胆力をつけたハイホーは、単独で連絡して、合わせに参加した。そのときに、会場に居合わせたセレットが、声をかけたのがきっかけだった。
「『妖術壊戦』の五条要だし、年の近い男子だったから、声をかけれたんだ」
「俺も同年代の男友達ができて嬉しかったよ。まさか、こんな近所で同学年だとは思わなかったけどな」
仲良くなった二人は、趣味が近いこともあり、リアルでもネトゲでも急速に親しくなったらしい。
「それで、見たんだ。YouTubeの配信。カツコーの恋愛研究会、あんなものがあるってのも知らなかったし、最後に見たメンバーの……宇代木さんに、一目惚れして」
「へー。あまり画質よくなかったのに、女子二人のうち、宇代木せんぱいを選んだんですねー。セレットせんぱいみたいな人は、だいたい佐羅谷せんぱいがタイプだと思ってました! 九頭川せんぱいみたいに! みたいに! ……いったーい!」
俺は黙ってマコトの頭をはたいた。
「別にオタクはギャルが嫌いなわけじゃねえよ。怖いだけで。優しいギャルは大好きだし、優しくないギャルをほしいままにするのはもっと好きだ」
「うわあ、気持ち悪いです」
「さすが九頭川」
「く、九頭川、仲良くなれそうだね」
「まあ、現実にそんなギャルはいないから安心しろ。しかし、宇代木は別だ。あいつは本人がオタクだから、特に偏見もない。間違いなくいい女だ」
セレットが安堵の表情を浮かべる。
ハイホーは話を続ける。
「そして、俺はワンカさんを合わせに誘おうとしたら、先生組を揃えろと例の条件を出された」
「相談を受けた僕は、一番コスプレしやすい川上遼太郎をやる代わりに、宇代木さんも誘ってくれるよう条件を出した。おあつらえむきに、キャラ的にも似合いそうだったし」
つまり、今回の相談は、ハイホーとセレットの二人が、ワンカさんと宇代木を呼び出すこと。
そして、宇代木が恋愛の当事者になるために、感づかれないようにセレットと引き合わすことだ。
マコトが唸りながらピンクメッシュのツーサイドアップを手櫛で梳く。
「なるほどです! じゃーボクらはお二人が恋人同士になれるようにさりげなーく手配したらいいんですね!」
「いや、俺たちの役目は、引き合わせるところまでだ。だいたい、高森よ、おまえワンカさんにまったく相手にされてないだろ?」
「残念ながら、九頭川の言う通りだ。今回の合わせだって、かなり食い下がった。これ以上粘着したら、本当に嫌われてしまうかも」
「そろそろ、覚悟を決めろよ」
高森は、ワンカさんがかつらぎ高校の保健の先生兼恋愛研究会顧問・犬養先生だと知らない。
犬養先生はさすがに生徒に手を出すほど餓えてはいないし、今はヒグマ先輩(通称)という男性とうまく行っているようだ。十も下の高森が相手にされるとは思えない。
「だいたい、高森は背も高いし、スタイルもいいし、コスプレを始めて見た目もこざっぱりしてきたし、もう少し視野を広げていいだろ」
「ふん、気持ちなんて、そう簡単に変わるものじゃないんだよ。次なんか考えられるか」
「一途だなあ」
「九頭川にはわからないだろうな、これが愛だよ、愛」
高森は自分に酔っているようだ。ほんのり顔が赤い。恋に恋する男子だった。キモいので、無視しておこう。
「それから、セレット。宇代木は、ただ友達になるなら楽しいやつだが、心の奥まで入り込むのは難しいぞ」
宇代木は、誰にでも優しい。感情表現が豊かで、だからこそ頬を膨らませて怒りもするが、それさえただの演技だ。
ほんとうの宇代木は、得体が知れない。
俺が初めて見たときの、俺を恋愛研究会から追い払おうとしたときの宇代木は、とても同級生とは思えない威圧感があった。
「ちょっと前は、声をかけてきた男なら誰とでも付き合ってたらしいんだが、今は違うみたいだしな」
「宇代木さんが? そういう人だったっけ?」
「付き合ってみないとわからない、って言ってた。まあ、宇代木いわくすぐにフラれるそうだが」
「……そんな人じゃなかったと思うけど」
「さっきからなんだ、セレット、宇代木を知ってるような言い草だな」
「ああ、いや別に、youtubeの配信をずっと繰り返してるから。ほら、気になる人のことは、なんでも気になるし、知りたくなるじゃない」
「そうだな」
俺と高森は頷くが、マコトは大きな瞳でじっと様子を見ている。
「うーん、でも宇代木せんぱいのことをよーく見てて、好かれたいなら、自分も変わらなきゃだと思うんですよー」
「え?」
「こら、マコト」
「ダメです。ボクも参加者になるんなら、ちゃんと言わなきゃなのです!」
かつらぎ高校の三人が横並びに座っていたベンチから、マコトは立ち上がって間に立つ。
「セレットせんぱい、この二人を見て、何か感じることはありませんか〜?」
「え? え? まあ、そうだな、わりと仲良くなれそうかな、と」
「はーーー、ほんとこの手の人はこれだから! 仲間意識? モテない陰キャ同士、お互い牽制しあって、SNSで毒を吐いて傷を舐め合いますか?」
滑らかに俺たちも貶めてくるねえ。
俺はこの程度では怒らないよ?
「そんなこと、ボクは別に思ってない!」
「昼休みに一緒にお弁当を食べる人がいないとか、体育でペアになれないとか、休み時間にやることがなくて国語便覧を隅々まで読むとか、用事で女子に話しかけるとひきつった顔を見せられるとか」
「ッ……!」
「友達なんかいらない、一人の方が気楽だ、そう言って孤立や孤独を孤高と思い込まなきゃ生きていけない、ホントは人一倍寂しがりでかまってちゃんなのに、……って、いったーい! また! 九頭川せんぱいがぶった〜!」
「言い過ぎだ、バカ。初対面の先輩だろ。ましてや、俺ほどにディスられ耐性があるかもわからねえのに。おい、セレット、気にするなよ?」
小さくも小太り気味な体をダンゴムシのように曲げて、セレットはぷるぷる震えている。
「そんなの、僕自身が一番よくわかってるよ。こんなチビでデブで、不細工で油ぎった顔で髪の毛は天パでぱさぱさでフケ症で。宇代木さんみたいなかわいい人に似合わないのなんて、そんなの……昔から!」
「昔から?」
「む、昔から知ってるよ! 自分のことなんて!」
潤んだ目をマコトに向けた。
「そりゃ、君みたいに文句なしにかわいい子や、こっちの二人みたいに普通の男子なら、僕だってこんなに卑屈にもならないさ! チー牛舐めんな!」
「まて、勘違いも甚だしいぜ、マコトはともかく、俺と高森はおまえとほとんど変わらない。見ろ、俺たちの中学時代を」
合図をすると高森が写真をスクロールさせる。スマホに入っていた、俺とのツーショットを見せた。中学時代か。よく残ってたな。
これは、クラスで一番ダメな男子のトップツーみたいな写真。見させておいてなんだが、中学時代の俺は今のセレットとほとんど変わらないレベルで自分に無頓着だった。
食い入るようにスマホ画面に顔を近づけているセレットの表情は、驚愕に歪む。
「こ、これが……ハイホーと九頭川?」
「ありのままの自分を受け入れてもらえるなら、受け入れてもらいたいのなら、今のままでいいだろ。だけど、相手に好きだと思ってもらいたいなら、少しでも自分を磨いて、相手の好みに合わせるべきだよな」
「あ、ああ、それは、そうだと思う」
「好きな人には、ほんの少しでもかっこいいと思われたいよな? どうだ、セレット?」
「だ、だけど、」
「だけどじゃねえよ。好きな人のために、おまえはいくら出せる?」
「急に生臭いな」
「ハイホーうるさい」
「えっと、今度のコスプレ準備で去年のお年玉分まで使い切ったから……」
「二万円」
「ぜ、全貯金だよ! そんなの、年末の『じゃばらソフト』の初回限定版新作用に貯めてるお金が……!」
「さらりとエロゲ同人サークル名が出てくるところにシンパシーを感じるが、おまえまだ言い訳をするつもりか」
全力を尽くすのは、かっこいいものだ。美しいものだ。清々しいものだ。
だが、全力が敵わなかった時の絶望感は、喪失感は、心を失うほどつらい。
「なあ、セレット、聞け。俺は、高一のときにすべてを賭けて、たった一人の女子を手に入れようとして、そして、フラれた。
一か月まともに学校にも行けなかった。紆余曲折あって立ち直ったが、一年間の全力は無駄じゃなかった。
コスパとか合理性とかじゃねえ、何かが、ここに残るんだ。
ここが、強くなるんだ」
俺は、拳で自分の心臓を捧げるポーズで胸を叩く。
「ほんの少しだけ、未来を信じたくなるんだ。
だから、セレット、おまえも、来い。
こちらに来い。
俺がベヘリットになってやる。
失敗したら、俺を恨め。
安全の保障された慣れた道から外れて、失敗して、恥をかけ。
全部、失ってしまえ」
「……サイテーの勧誘なのに、不思議と説得力があるのが九頭川せんぱいのことばですよねー」
マコトがいつのまにか隣に座っている。
セレットはプルプルと震えていた。
「ボクも、変われると思う?」
「変わりたいか」
変わるのは、簡単だ。
変わりたいと言った時点で、もうその人は「変わっている」のだ。
意思は力であり、変化を望んだ時、彼はすでに変化している。
自分を諦めるのをやめる。斜に構えるのをやめる。現状維持をやめる。すなわち、人は誰だって、自由。
「か、変わりたい……ッ!」
夜の商店街の片隅に、一つの繭が弾けた。
「ボクだって、カッコよくなりたいし! 女子とイチャイチャしたいし! スゲー売れる漫画を描いて印税でガッポガッポ稼いで、ブロマイドなんか女子高生を中心にバカ売れして、声優と結婚してアイドルと不倫したいし、スクエニの新作でグラフィッカー兼シナリオライターで伝説になって、老後は紫綬褒章をもらって、最近の若者を批判したい!」
「いやそこまでは言ってない言ってない」
ともあれ、セレット変身計画はここに立ち上がった。俺が即日、田ノ瀬と神山に助けを乞うたのは言うまでもない。
某日、午後。
セレットは、変わった。
「まずは美容院だな。田ノ瀬、付き添いは頼む」
「ああ、任せてくれよ。うん、指示しがいがありそうだ」
髪型の次は、服装と最低限一週間のローテーションだ。
「次に、服だ。神山、どこで買う?」
「ファッションに割ける予算はいくらくらい? ふうん、じゃあ、デート用一着と、普段用着回しに何着か、見繕おうか」
最後は日々のボディケアだ。
「まとめは高森の寝る前のルーティーンだ」
「そんなに大層なことはしてないけど、シャンプー、コンディショナー、洗顔はそこそこ良いものを。それから、ヒゲ、眉毛、鼻毛の処理な。化粧水と乳液、こちらも肌に合うのがいいけど、とりあえずはこれで。
あと当たり前だけど、コスプレで着ただけさんは絶対やめろよ? 普通の男性キャラだからって、絶対素で着るなよ? 安物でいいから、化粧品を揃えて、メイクしろよ?」
そして、セレットは見違えた。
アルル一階の果琳で奮発したキウイジュースを飲んで一息つきながら、俺たちは一仕事終えて、互いを労う。
「こ、これがボク?」
髪型をいじって服装を変えるだけで、セレットは別人だった。高森が撮った写真をまじまじと見て、困惑半分、驚愕半分と言ったところか。
根暗でやぼったいチビデブな少年は、優しげな顔立ちでセンスのいい服に身を包む、恰幅のよい高校生男子になっていた。
「セレットせんぱい、おしゃれは一日にしてならず、ですよ! これからは自分で、今の姿を保って、磨いていかなきゃですよ!」
「う、うん、がんばるよ」
男子三日会わざれば刮目して見よ。
きっと、高校でもセレットに対する視線は大いに変わるだろう。もちろん最初は色気づきやがってとか冷笑が大半を占めようが。
「セレット」
俺は飲み干したジュースのカップを掲げる。
「おまえは、これから一生、セレットを演じるんだ。急に変わったことをバカにする奴らもいるだろうが、一切無視しろ。離れる友達も、無視しろ。必ず、近づいてくる新しい友達ができる。だから、諦めるなよ?」
「あ、ああ、ボクはセレットだ」
「よく言った! じゃあ、次に会うときは近鉄奈良駅前だ」
コスプレ予定日は、着々と近づいていた。
「違和感ありますね」
「突然ミステリ漫画っぽく右手を顎に添えるのはやめてくれ、マコト。俺は身近から加害者や被害者を出したくない」
「とーとつなネタ振りにとっぴょーしもない返しが冴えてますね、さすが九頭川せんぱいです」
セレット会議のあと、俺はマコトと一緒に帰宅していた。
高森たちと別れてから、いつもは饒舌なマコトがだんまりを決め込んでいて、やっと口を聞いたかと思えば、これだ。
「セレットせんぱいは曲者かもしれませんよ」
「あのタイプは、裏表ないだろ。中学までの俺とそっくりだ」
「裏表しかないじゃないですかーやだー」
「おい」
「まー、あれです。女の勘? ってやつです」
「は、おまえが女の勘を語るか」
マコトはピンクメッシュをくるくるいじりながら、唇を突き出す。
「しかし、宇代木は俺の数少ない友達でもある。変な男に絡まれるのはよろしくない。ちょっと、ツテをあたるか」
「うわー、めんどくさい人だー」
「男はめんどくさいんだよ。知ってますよね」
「それみこちゃの真似ですか。似てないですね」
「うるせー」
少しだけ、マコトと仲良くなれた気がした。
ミコトよりは、親しみやすいかもしれない。
「おいーっす」
「こんにちは、九頭川くん」
「ちゃーおー、くーやん」
いつものように放課後、理科実験室に入ると、心地よい挨拶が聞こえた。
二人の様子が違う。
佐羅谷も宇代木も、頭を突き合わせてプリントにボールペンを突きつけていた。
「今日は、槻屋さんも加瀬屋さんも来ないそうよ」
「そろそろ生徒会選挙も大詰めなんじゃないー?」
「なんだ、マコトのやつ手伝わないって言ってたのに、やっぱり放ってはおけないか」
「九頭川くんも手伝ってあげたらよかったのに」
「は、俺は便利屋じゃねえよ。無駄なこと、利益のないことはしない」
「ほんと、顔色ひとつ変えず流れるようにウソをつくのね」
「まこちゃの予定が空くように、高森くんの下準備を早めに片付けたんでしょー」
「んー、何のことやら」
まったく、深読みする女子たちだぜ。
俺はただ単に、「今日」邪魔されたくなかった。だから、早く終わらせたのだ。
つまり、進路調査票。
いま女子二人が前に広げているプリントだ。この作業を、一年二人に邪魔されたくなかった。
俺も同じ用紙を出して、机に広げる。
「で、佐羅谷はどこの大学だ? 奈良女子? 同志社?」
「まだ大学を決める調査じゃないでしょう。それに、どこを目指しているかなんて、言わないわ」
「くーやん、あたしは? あたしは?」
「クアラルンプールでもイスタンブールでもいいんじゃね?」
「あからさまにテキトーすぎない!?」
佐羅谷は、聞くまでもなく文系だろう。成績はいいし、科目の少ない私立なら順当に勉強していれば上位の大学でも受かるはず。もっとも、俺は佐羅谷が試験で本気を出していないと感じているが。
宇代木は、聞くだけ無駄だ。本気を出せばどこへでも行けるくせに、きっと本気を出さない。しかし、俺は宇代木を本気にさせなければならない。
だから、煽る。
「じゃあ、宇代木、本気出せよ」
「……ちょ、くーやん、なに言ってんのさー。あたしはいっつも本気だよー」
「だったら、話は終わりだ」
冷たい空気が流れた。
宇代木の大きな瞳が、獲物に狙いを定めたヒョウの目だった。
教室の向こうから射しこむ夕方の光に同調した、黄色の瞳。カラコンの色がいやにくっきりと網膜を刺激した。
「なにさ、くーやんにあたしの何がわかるってのさー」
「わからねえよ」
自分は何も言わない、何も明かさないくせに。
半年ほど、毎週土曜日のボルダリングで一緒にいたのだ。俺の中では一番長く一緒にいた女子だというのに、ついぞ宇代木天の姿は見えなかった。
宇代木の演技は完璧で、見た目も性格も振る舞いも成績も思考さえも、作られたものだ。
今、佐羅谷はじょじょに成績を上げている。それにつれて、宇代木も成績を上げてきている。
そうまでして、勉強ができることで自尊心を保っている(と思い込んでいる)佐羅谷を持ち上げて、親友の関係性を変化させたくないのか。
宇代木は佐羅谷を二つの意味で舐めすぎだ。一つは、佐羅谷は勉強だけが取り柄ではないということ。もう一つは、宇代木の演技に気づいているかもしれないこと。
あとは、佐羅谷は別に成績で負けたところで、宇代木を親友だと思うのは変わらないだろう。
「二人とも、変よ? どうしたの? 毎週仲良くボルダリング部にお邪魔しているのでしょ?」
「ボルダリングなんて、文化祭頃から行ってないじゃんか」
ムスーっとプリントにボールペンの頭を打ち付ける。
「ボルダリング部もきちんと部活になってきたからな。いつまでも部費を払わず俺たちが参加するのは、部員の手前よくない。神山の恋愛相談も、解決したし」
「そう、そうだったのね」
佐羅谷ははっとしたように面を伏せた。
しばらくするとブレザーから部屋の鍵を抜き出して、宇代木の前に置いた。
「ごめんなさい、ちょっと今日は用事があることを思い出したわ。先に帰るから、戸締りは天に任せるわ」
「え、ちょ、待ってよ、今日はひさびさに三人で帰れるって」
「九頭川くん、きちんと送っていくのよ」
「いや、まあ、そりゃあ、ねえ」
素早く身の回りを片付けて、颯爽と理科実験室を出る佐羅谷。潤いあるミディアムストレートの黒髪のあいだから、ほんのわずかに顔が覗いた。
不思議な顔だった。
笑顔にも見えたし、泣き顔にも見えた。
「吉野メイのコスプレ衣装、どうだった? サイズとか、出来とか」
「いやー、ピッタリだったよー。今のコスプレ衣装は既製品でも出来がいいねー! あたしがコスプレを始めた頃なんて、ウィッグも高級品でさー、毛糸や刺繍糸をほぐして作ってたんだよ。既製品の衣装なんてどこかの個人商店が著作権無視で作ったしょぼいのしかなくって、しかも、ヤフオク経由だったんだよねー」
「おまえはいくつからコスプレしてんだよ」
「だははー」
佐羅谷が消えた後は気まずかった雰囲気も、自転車を押しつつ駅まで帰っているうちに、もとの気安さを取り戻す。
宇代木は、話しやすい。
俺のつまらない話も面白そうに聞いてくれるし、宇代木が振ってきた話はたいてい面白い。
こいつが男だったらなと、わりと真剣に思う。
「くーやんはさ、今でも大学なんて行かずに働きたいのー?」
「……なるべく早く独り立ちしたいって気持ちは変わらねえよ」
ボルダリング後の雑談でも、ずっと言ってたもんな。さっさと働きたい、さっさと結婚したい、さっさと家族を持ちたいって。
部員連中も神山からも理解してもらえなかったが。
「大学を準備期間と思えば、我慢できるかもな。大学に通いながらでも働くことはできるし、結婚だってできる」
「け、結婚!? は、早くない?」
「結婚も子育ても早いほうがいい。俺の幸せは、そこにあるからな」
「ほーん……ねえねえ、そいで仕事ってどんなの?」
「インフラだな。安定第一、終わりなき日常を生きる」
「あははー。くーやんっぽいねー。しっかり考えてるじゃんかー」
「宇代木は?」
「え? あたしは、大学も難しいかなー? 何百万も奨学金を背負って、そこまでしたって、どうせ返せるあてもないしさ。いっちばんの高級取りでも、県庁か南都銀行じゃん? ユメもキボーもないっす。奈良県なんて」
「どうして可能性を狭めるんだよ。宇代木の頭脳と才覚なら、なんでもできるだろ。東京だって狭いくらいだ」
「なんでもなんでもって、他人だから好きに言えるんだよー」
たははー、と諦め切ったことばが、俺の知らない宇代木の姿だった。
「何にも知らない、何の力もないのに、好きに言わないで。それともなに、くーやん、責任とれる? お金の問題だけじゃないよ、あたしたちを土地に縛り付ける、すべてのものに、だよ」
「誰だって、何かしら自由にならないことだってあるだろ」
「親のお金で好きな大学行ける人が何言ってんの」
隣を歩く宇代木の凍てつく声は、痛快な笑顔とともに。
ことばに詰まる。
「あたしたちは、幸せだよー? 日本が貧乏な国になったって言っても、今日明日のご飯に困ることもないし、今日明日にオロスやキーナが攻め込んでくるわけでもないし。
だけど、違うじゃん?
その生活はこの国じゃフツーなんだし、問題はその先。あたしたちが欲しい自由は、決して手に入らないんだ」
「どうして、」
「んー?」
「どうして、宇代木はそうやって、限界を決めちまうんだよ」
「くーやんにはわからないよ」
「わかりたくもない」
高田市駅に着いた。
ここで別れるのが通例だが、今日は幸い、佐羅谷もいない。
全然自分を見せない宇代木を、少し問い詰めてやりたくなった。半年以上一緒にいて、仲違いするのが怖くて、ずっと見て見ぬ振りをしてきたことだ。
だけど、そろそろ宇代木には、佐羅谷離れをしてもらわないと困る。佐羅谷は、文化祭で恋愛研究会のブースを成功させたことで、少しずつ自信をつけてきている。宇代木を親友と考えているのは確かだが、依存度は下がっている。
一方で、宇代木は最初に出会った時から、一貫して同じだ。もともと何でもできるし、極めて能力が高いが、こと人付き合いに関しては、佐羅谷の庇護者であることだけをアイデンティティにしている。
深窓の令嬢は、尖塔から飛び立とうとしている。
ところが、保護者気取りの乳母は毎日塔に食事を届けて、自分の価値を維持しようと必死だ。
それじゃ、ダメだ。
佐羅谷自身、宇代木を思うあまり、自分が一人では立てないという演技を無意識で続けている。
こんなのは、二人のためにならない。
「じゃ、あたし帰るね」
「まて」
「……なに?」
俺は手を差し出した。
「俺が、恋愛相談に乗る。まだ、力不足か?」
宇代木は俺の差し出す手のひらをじっと眺め、伸ばした指でそっと撫でる。
「上等」
高田市駅隣の小さな神社の隅で、宇代木は語る。
体は巨木の方を向いている。
車通りの多い道路の騒音が、ほとんど聞こえない。
宇代木の独白は、俺に聞かせる気さえない。
「あたしにはママしかいないし、ママにはあたししかいないじゃんか」
俺は相槌も打たない。
宇代木が背を向けて独りごちるだけだ。
「お父さんのことなんて知らない。名前も、顔も、何にも知らない。祖父母も知らない。そういうのは、ないんだ、あたしには、ないんだ」
体の横に垂れた両の腕の拳が、かすかに震える。
「なーんの資格も後ろ盾もない、そんなママがさ、女手一つでここまで育ててくれたんだよ。あんまり言いたくないけど、ママは強くて弱いんだよ。だから、あたしは義務があるんだ。最低限、人として、娘として、恩を返さなきゃね。一人は、寂しいじゃん。一人は、不安じゃん。一人は、楽しくないじゃん。一人は、……一人は、ダメじゃん。ダメじゃん? ダメじゃんか。ダメじゃんか!」
俺は、半年間も宇代木の何を見ていたのだろう。
何も見ていなかった。
ゆるふわなギャルな見た目と、桁外れの頭の良さに、時おり覗く透徹した冷酷な瞳。
俺にとっての宇代木は、元気で強くて自立していて輝ける才能溢れる逸材だった。どうして、佐羅谷一人に、恋愛研究会一つに執着して、居場所を守ろうとするのか、理解できなかった。
そう。
宇代木も、ただの悩める一人の女子高生に過ぎなかった。
孤独の母一人の母子家庭に育ち、制限された未来しか選べない、そんな小さな世界の話だ。
俺だって父子家庭で、母の記憶などほとんどなく、別に贅沢できる家計ではない。親父には義理も恩もあるが別段……と説いたところで、なんの意味もない。
各々が心に抱いた義務感に、他者との比較は無意味だ。
しかし、解決の緒口はある。
「宇代木、このことはお母さんには」
「さー、もう暗いし、帰ろっかー」
結界が、解けた。
宇代木は、宇代木天に戻った。
くるりと身軽に半回転する。
大きな黄色いカラコンで上目遣いに俺を見上げる。
俺のことばも、俺の目も、俺の存在さえも、まったく歯牙にかけない。
「くーやん、あたしの恋愛相談に乗ってくれるんだー?」
「……ああ」
先ほどまでの時間が、何もなかったかのような態度。まるで、俺だけが架空の宇代木の独白を聞いていたかのような。
「あたしの相談なんて、簡単じゃんか。わかるっしょー? 手枷足枷のついた身動きのとれない天ちゃんを好きだー! って言ってくれる人なら、誰だっていいんだよ。だから、くーやんにだって、かのーせーあるんだよー?」
「は、誰も受け入れる気がないくせに、よく言うぜ」
魔性の女だ。
軽いようで重く、優しいようで厳しく、気安いようでよそよそしく、強いようで弱い。
宇代木を救うのは、簡単だ。
宇代木を心から思う恋人が、未来を共にしてあげればいい。
(それが、難しいんだがな)
「くーやん、恋愛って、めんどくさいね」
「俺たちがそれを言うなよ」
「ねえ」
「なんだよ」
「子供、作ろっか?」
「は、はあ!?」
「だははー、くーやん、慌てすぎ〜! そんなんじゃ、いざというとき困っちゃうぞー」
「いきなり友達に言うことばじゃねえだろうが。早すぎだし、いろいろ飛ばしすぎだ」
俺でなければ、勘違いされても仕方がない。女子が迂闊に言ってよいことではない。
「でもあたしのママは、あたしくらいの時には、妊娠してたと思うよ? あたしも子供作ってさー、あたしだけを愛するように育てるんだー」
「再生産するなよ」
何気なく言ったことばだったが、宇代木が固まった。
「そうだね、悲しみの再生産は、やめなきゃだね」
「違うっ!」
失言だ。
あまりにも心無い発言だった。
「そういう意味じゃない! 宇代木に限らず、人間は個人として幸せになる権利が」
「いいよー、そーゆーのはさ、神様の一般論はあたしには関係ないしー」
話はそこまでだった。
なんとなく、宇代木も俺もこれ以上まともな話ができそうになかった。
だが、初めて宇代木の本音の部分、表面でも裏面でもない、キャラクターとしての宇代木を形作る原因になった存在が見えた。
少しは、だ。
少しは、俺と宇代木は近づけたのだろうか。
「親父、頼みがある」
夜、夕食後、俺はいつもさっさと洗い物をして部屋にこもる。親父はビールを開けてテレビに向かう。
今夜はアルコールが入る前に、声をかけた。
「おう、こっち来い」
真剣な空気を感じたのだろう、親父はビールの缶を開けずに、テーブルに置く。
「今月の生活費が五千円多いのは、わかった。それは、親父の好意を受けておく」
「おう、いい父親だろ?」
「それとは別に、連絡先が知りたいというか、会いたい人がいる」
「あ? 俺の知り合いで、おまえが会いたい奴がいたっけな?」
スマホの連絡帳を開ける。
友達や知り合いの多い親父の、膨大な連絡先。親父はある程度スクロールさせて、ピタッと止める。
「そうか、この人だな?」
親父が見せた画面に、俺は大きく頷く。さすが、ミステリ小説好きな親父だ。ガテン系にしか見えない厳つさながら、推理力は抜群だ。
「よし、いいだろう」
親父は行動力がある。
その場で、ラインの通話を押した。
某日某所、約束の日。
俺はその人と会った。
他人に見られるのはまずいから、少なくとも高校生レベルでは簡単に行けない場所……。
「は、初めまして!」
「あら、初めてで緊張してるのね、かわい〜」
そんな会話から入り、雑談から重要な会話へ。共通の話題がそれしかないので、入りやすかった。そして、向こうはこちらの誘いの意図を理解していたようだった。
ああ、そういうことだ。
大人は、子供が思うよりも、大人なんだろう。乗り越えてきた場数が違う。
ああ、そういうことだったんだな。
彼女は、アンニュイなため息まじりに微笑んで見せた。
「ほんと、かわいいわよねえ。いつまで経っても子供は子供。でも少しは成長してもらわないといけないわ」
そして、持ってきてもらっていた資料の一つのページを繰る。
ある個人の写真のページで、手が止まる。よく知った名前に、全然違う見た目の写真があった。なるほど、そういうことか。
また数ページ後で、最近知った名前と見た目の写真がある。
これは、偶然ではないよな。
俺はテーブルの下でスマホを操り、マコトに情報を飛ばす。
(マコト、おまえの勘は正しかったかもしれないぜ)
ならまちコスプレまで、もう日はない。
万全とは言えない準備で、俺たちは本番に向かう。
ならまちは、近鉄奈良駅(地下にある)から歩くのが一番近い。駅から南に歩くと、狭い路地の古い街並みが広がっている。
今回のコスプレは、ならまちと猿沢池周辺が範囲らしい。
十月、暑さも落ち着き、流れる風はほどよく涼しく、実にハロウィン日和だ。
「九頭川くん、高森くんたちとの合流はどうなっているの?」
俺たち恋愛研究会から参加するメンバーは、四人。俺、佐羅谷、宇代木、マコトだ。ただし、コスプレ参加する宇代木は着替え時間があるので、個人で出発している。
「ハイホーと友達のセレットは一緒に来るって言ってた。宇代木も一人で行くってさ。犬……ワンカさんも一人で来るだろ、どう考えても」
セレットという人物はハイホーのコス友ということで説明してある。俺たちもよく知らない体だ。
「こんな屋外のコスプレで、集合なんてできるのかしら」
もともと観光客の多い休日で、さらにコスプレということもあり、奈良県とは思えないほど人が押し寄せている。広くない路地は、車さえ通れない道もある。
すぐそばを遠慮なく掠めて通り過ぎる人混みに、佐羅谷はすでに疲れた様子だ。
「ならまちなんてワクワクします! ボク、久しぶりです!」
マコトは本気でワクワクしているようだった。俺が事前に伝えた情報なんて気にした様子もない。
私服を見るのは初めてだが、オーバーサイズのスウェットに、ホットパンツという出立ち。スウェットが大きすぎて、ホットパンツが見えず、惜しげなく晒した足が眩しい。休日ということでメイクは学校よりも濃く見えた。こうして見ると、本当にかわいらしい顔をしている。
「ほら、はぐれるわよ、加瀬屋さん」
あちこちの出店や趣あるお洒落な建物に顔を突っ込もうとするマコトを、佐羅谷は諌める。
佐羅谷は、秋色のロングスカートにニットの上着。今回は小ぶりなトートバッグを持っていた。やはりプライベートで足を晒したくないようだ。メイクはいつも通り、透き通るように澄んで、隙がない。
「ほら、九頭川くんも早く連絡を取りなさいよ」
自分より背の高いマコトの服の裾を掴んだまま、佐羅谷がすでにぐったりとしている。
「ああ、そうだな」
スマホを取り出すのと通知が鳴るのは同時だった。しかも、通知は三件。ポポポーンとスマホが呼ぶ。
「おいおい、マジかよ」
「どーしました、九頭川せんぱい」
遠慮なく人のスマホを覗きに来るマコト。怪訝に見つめてくる佐羅谷。
「これは一つ二つ波乱があるぞ」
俺は高森の通知は無視して、残り二つの通知を見せる。
『今回、豆市くんも来る予定だ』
『九頭川くん久しぶり! 今日はならまちにお邪魔するよ!』
コスプレイヤーワンカさんこと恋愛研究会顧問の犬養先生と、その彼氏である豆市……なんだったかな、とりあえず夏休みのバイトではリーダーをしていたヒグマのような先輩、略してヒグマ先輩からの連絡だった。
一体、何を考えているんだ。
「ああ、そういうこと。ワンカさんは、思ったよりも早く終わらせるつもりなのね」
「おいおい、急転直下すぎだろ? 軟着陸させられないのかよ?」
高森の気持ちは、まだまだ熱を失っていない。今回だって、二度目の顔合わせということで、力を入れている。
もう少し冷めるまで、待てないのか。
「失恋は早いほうがいいわ。もっとも、本当に焦っているのは犬養先生のほうかもしれないけれど」
「あの人は、焦らなくてもいくらでも相手なんているだろ。おまえや宇代木と一緒だ」
「ふふ、そうだといいわね」
佐羅谷は何が面白いのか、優しく微笑んでいる。
「さ、じゃあ、集合しましょうか。九頭川くん、案内して。加瀬屋さんは、カメラを落とさないようにね」
「はいっ! こんな高そうなカメラ、初めて見ました!」
またしてもイリヤさんから借りてきたらしいカメラが、今回はマコトの担当になった。重い一眼レフを片手で余裕で持ち上げてみせる。
「はぐれるなよ。じゃあ、行こう」
ひときわ目立つ集団が、観光客のスマホに囲まれていた。一部、本格的なカメラが囲みに混ざっている。
撮影者の属性は、下は小学生くらいから上はその親世代の大人まで、年齢層は様々だ。
ハイホーたちだった。コスプレ組四人は、すでに集合し、さっそく囲まれていた。
囲まれるのも、わかる。
まずは、長身で細身でとりあえず目立つハイホー。一番人気の五条要ゆえに、似ていなければ反発を買う立場だが、公式の既製品衣装に、初心者とは思えぬウィッグの造形と丁寧なメイクでなかなか様になっていた。
そして、身長差のちょうど良い位置にワンカさん扮する黒滝いつき。スポブラのような短い上衣とホットパンツ。露出の過多は羽織る白衣がごまかす。さすが歴戦のコスプレイヤー、ポージングやメイク、表情までもアニメから出てきたような存在感。
俺の目を惹いたのは、吉野メイになった宇代木だ。和ロリでオフショルダー、まばゆい肩を惜しげもなく晒し、短く広がるスカート状の裾からはガーターベルトと複雑な意匠のタイツ。黒みがかった青い髪のウィッグに、アンニュイなメイクが似合う。まるで、別人だった。
本日の主役、セレットは、まあ、あれだ。もともとただのサラリーマンに近い見た目の川上遼太郎だから、個人でいたら全然目立たないただの若い会社員にしか見えなかっただろう。ただ、数日のうちに少し体は引き締まり、メイクもがんばってはいるようだ。
「すっごい人気ですね! 近づけないです!」
「囲みが解けるまで待つか。迂闊に割りこむと、周りのヘイトを一身に喰らうからな」
さすがお茶の間でも人気作品は、一般人の反応がすごい。
「それにしても、ハイホーくんの嬉しそうな顔。ほんとうに、ワンカさんのことが好きなのね」
佐羅谷が複雑な顔をする。
原作的な意味で言うと、ハイホーとワンカさんのキャラは同僚であり戦友という位置付けだ。ただ、ハイホーの視線は、普通の男子高校生が好きな女子に向けるそれだ。
いい顔だと思う。
一年の時の俺も、あんな顔をしていたのかもしれない。
翻って、今の俺は。
「ほんとだー。九頭川せんぱいとは全然違いますね!」
「いいかマコト、あれが恋する男子の顔だ。学べ」
「はい! ボク、学びまっす!」
「あら、不思議なことを言うのね。加瀬屋さん、騙されてはダメよ。九頭川くんだって」
「あー、おい、佐羅谷、ワンカさんがこっちに気づいたぞ」
「あら、さすが先生ね。じゃあ、合流しましょうか」
佐羅谷は、こんな時に物怖じしない。
ワンカさんと目配せすると、囲みの中に堂々と入っていく。
最初割りこまれて不満げに見ていた人も、佐羅谷の美貌と凛然たる態度に息を呑む。
カメラのシャッター音が、やむ。
ポーズを決めていた四人が、ゆるりと弛緩する。
「や、お久しぶりー! コスサミ以来だね、ハイホーくんの友達!」
「はい、お久しぶりですワンカさん」
親しさを演出して、ただの通りすがりの囲みよりも、友人を優先することを自然に印象付ける。
ワンカさんは周囲に笑顔を向けた。
「みなさん、ごめんねー! 待ち合わせの予定があるんで、これでちょっと失礼するよ〜」
さりげなくハイホーたちの肩を叩き、移動を促す。慌ただしく荷物を掴み、ワンカさんに続く。
まだ未練のありそうな囲みをするりと抜け、俺たちと合流し、そのまま移動を開始する。
「や、君も久しぶり〜」
「はい、ご無沙汰です」
コスプレイヤーとしての完璧なワンカさんの対応に、俺も応じる。
物珍しそうに見上げているマコトにも微笑みかける。会ったことがあるだろうに(当然正体も説明しているし)、マコトは少し顔を赤らめた。
「とりあえず、人がいなくて落ち着けるところに行こっかー」
アンニュイな外見からは想像もつかないいつもの宇代木の声が、一同を案内する。ならまちまで地理を把握しているとは、さすが宇代木だぜ。
そして、俺たちはエアポケットのように観光地の中で人目もなく、静かに休憩できる路地裏にやってきたのだった。路地は、どこにでもある。
俺たちは互いに自己紹介しあった。
特に初見扱いになるセレット。俺とマコトが揃って、初めましてと挨拶する。
「えー、高二なんですねー! せんぱいだー!」
「じゃあ、俺と同いか」
わざとらしくない程度に、適度に親しくしていく。
「ほえー、みんな若いねー。いいねいいねえ。十年前を見てるみたいだよー」
相変わらず自虐的に年齢を強調し、ハイホーと距離を取ろうとするワンカさん。口裏を合わせたわけではないが、先刻のメッセージを見る限り、今回でハイホーの恋心をへし折る予定だろう。
「前回の看護婦姿もまるで天職かのように似合っていましたけど、今度の傭兵医の姿もお似合いですね」
いろいろと危うい皮肉をこめながら、佐羅谷はワンカさんと話している。地雷地を歩くような際どさ。
「あらー、そう見える? 仕事は学校の先生なんだけどね〜」
笑顔だが目の笑っていないワンカさん。看護婦姿も白衣も身に馴染んでいるが、なかなかこれが先生と結びつかないだろう。
「ワンカさんって、先生だったんですね」
今さらながら、ハイホーが食らいついて、なんとか会話しようと必死になっている。というか、そのくらいのこともまだ聞けていなかったのかよ。
ハイホーとワンカさんは放っておいて、俺たちは残ったもの同士で顔を合わせる。
「しかし、宇代木」
「ノンノン、あたし、今日ははいぱーあめちゃんだよー!」
「天、大丈夫?」
「ガチで心配されるとつらいんだけど」
宇代木、いや、はいぱーあめちゃんは大きなバッグからページを開いた状態のスケッチブックを取り出す。
白いページいっぱいを使って、「はいぱーあめちゃん」とツイッターのアカウントが書いてある。黒いマジックでかわいらしい文字。
「これからもコスプレし続ける気かよ」
「あたしはもともとこっちの世界の住人じゃんか。一個くらいアカウントあってもいっかなーってね」
「写真撮ってやろうか? スマホのインカメラより、撮ってやった方が画質いいだろ?」
「ま、どうせ加工すんだけどね。くーやん、お願い」
俺がダメ出しを喰らいながら宇代木のかわいい写真を撮っていると、佐羅谷がポンと手を打った。
「あ、やっとわかったわ。天だから、雨、それではいぱーあめちゃんなのね」
「あまね、今の今までそんなこと考えてたの……」
「部長せんぱい、ちょっとこういうとこありますよね」
セレットと「雑談」しながら、マコトはため息をつく。おまえは「雑談」してろよ。
「なにがはいぱーかはともかく、印象的な名前ではあるよな」
「あたしもこのままじゃダメじゃん? ただ単に天の裏返しの雨じゃ、ダメじゃん? スーパーでもウルトラでもいいけど、決意表明、かな」
「ふーん、決意ね」
「くーやん」
宇代木が距離を詰める。
もともと女子にしては背の高い宇代木が、今は底の高めのゲタを履いている。視線は、ほぼ同じ。
俺の懐まで入りこみ、あえて屈む。上目遣いで、アイシャドウのグラデーションがわかるくらい近い。オフショルダーで晒した肩も、胸元も、体から漂う爽やかな香りも、……。
「おい、宇代木、近い」
「くーやん、自分が何したかわかってるー?」
「何って?」
「眠れる獅子を起こす気なら、飼い慣らす覚悟はあるかってことだよー」
「何のことやら」
「ま、今はいいやー。真面目な話する時間はないしー」
ポンと飛び跳ねて、コスプレ組の中に戻る。セレットが身じろぎした。
「さてと、せっかくだし、はいぱーあめちゃんの本格コスプレデビュー、ちゃんと撮ってよー? ほら、ハイホーくん、猿沢池で映画版のポスター再現しよー!」
そして、撮影半分、雑談半分、時間は過ぎていく。コスプレ組が四人ということで、会話の内容は『妖術壊戦』の推しやストーリーの解釈など、どこまでも話題は尽きない。
同担拒否やカップリング論争がないのは平和だ。
俺は話についていけるが、一応この場の主役ではないということで、後ろからついていく。左右には佐羅谷とマコト。この二人も、一歩引いている。まあ、作品について詳しくないのも原因だろうが。
「あの男の子、セレットくんだったかしら? ハイホーくん以外とは全然お話しできていないようね」
ハイホーがワンカさんのことでいっぱいいっぱいで、しかし、ワンカさんは宇代木と一緒に盛り上がっている。
ワンカさんがハイホーを遠ざけたいという思惑と、宇代木の知識や思考についていけるほど作品について語るには、ハイホーではまだ無理だ。ハイホーは消費型のオタクで、今ようやく脱皮し始めたところ。
すでに同人活動をしているらしい宇代木と、コスプレ歴の長いワンカさんは、より深い話で盛り上がる。
虚しいのは、残された男二人だ。
「ハイホーくんがワンカさんと近づけないのは不甲斐ないだけだけれど、連れてこられただけのセレットくんは少しお気の毒ね」
セレットは、見た目は変わったし、がんばって会話に参加したり、話題を振ろうとはしている。だが、それまでだ。会話は続かないし、発展しない。
ワンカさんは大人だし、宇代木はコミュ力モンスターだから笑顔で流してくれるが、セレットに何も感じていないことがよくわかる。
「宇代木は、何がしたいんだよ」
俺は佐羅谷に毒づいた。
「ワンカさんとハイホーを結びつけなきゃならないってのに、自分から邪魔してるじゃねえか」
「さあ、どうしてかしら」
「どうせワンカさんは今日で引導を渡す気だ。彼氏を呼んでるの、宇代木だって知ってるんだろ」
「天の既読はついたから、知っているはずよ。あえて引き離しておいて、ショックを最小限に抑えようっていう配慮じゃないかしら」
「ボクが二人ずつで写真を撮りましょうか!」
「そうだな。マコト、隙を見て、男女二人二人で別れて写真を撮るように誘導しよう」
「はい、さー!」
実のところ、俺とマコトにとって、ハイホーはどうでもよかった。問題は宇代木とセレットだ。恋愛研究会男子部として依頼を受けた手前、二人きりで話せる場くらいは作らないと、沽券に関わる。
セレットはあのYouTubeの配信を見ているのだ。他校生とはいえ、半分はハイホーに巻き込まれているし、最低限の手伝いはしたい。
「あなたたち、少し見ない間に妙に仲良くなったのね」
「なんだ、妬いてるのか?」
「妬いてほしいのなら、ふさわしい相手を侍らせなさい」
「部長せんぱい、辛辣ぅ!」
佐羅谷を嫉妬させるには、マコトでは力不足らしい。まあ、そりゃそうだろう。
ピンクメッシュのツーサイドアップをぴょんぴょん跳ねさせながら怒ったふりをするマコトは、ただかわいいだけだ。当たり前だが、恋愛感情を惹き起こす存在ではない。当人が、人を好きになる気持ちを理解していないのだから。
「天には天なりの考えがあるのでしょうけど。……そうね、いいわ。あなたたちがワンカさんとハイホーくんを撮っている間、わたしが天とセレットくんをとどめておくわ」
「ああ、頼む。あとでそちらの二人も撮るから」
佐羅谷がいるのが予定外だが、もとより屋外の観光地で、一般人の目もある。完全に二人っきりの世界になるのは不可能だ。
あとは、運に任せようか。
「じゃー、ハイホーせんぱいとワンカさんの写真撮りまーす! 二人で話し合って、作品にふさわしいポーズとか絡みをお願いします!」
マコト、うまい。
やっと宇代木とワンカさんを引き離すことに成功し、なんとか目当ての二人っきりで会話を引き出すことに成功する。これなら、否応なく話し合うはずだ。
「あ、じゃあ、怪我してるのに戦いに行こうとする五条要を、黒滝いつきが立ち塞がる場面やろうか」
「そ、そうですね! あの時の黒滝いつきのセリフがカッコよくて!」
おいおい、ハイホーよ、そうじゃないだろう。
さりげなく物理的に距離のあるシーンを提案されていることに気づけよ。泣きながら黒滝いつきが五条要の腰にしがみつく珍しい場面だってあっただろうに。
俺はマコトの助手として、二人の位置や微妙な体、顔、手足の角度などを見栄えが良いように調整する。
結局いくつかの場面再現の写真は撮れたが、一向に作品以外の会話が弾まない。
そして、執拗にこの二人だけの絡みを撮影していても、疑われる。すでにワンカさんの視線が痛い。
まあ、セレットと宇代木を撮影している間も猶予はある。がんばって、自分で距離を縮めるんだな、ハイホー。
「だいぶいい写真が撮れましたよ! じゃあ、次ははいぱーあめちゃんとセレットせんぱいで!」
佐羅谷も交えて三人で集まっていた中から、宇代木とセレットがやってくる。
「いやー楽しーねー、コスプレ。ワンカさんきれいだしー」
「ワ、ワンカさんもきれいだけど、あめちゃんも、か、かか、かわいいよ」
「あらー、ありがとー」
セレットにしては踏み込んだ賞賛のことばも、宇代木にとっては日常茶飯事だ。アンニュイな濃いめのアイシャドウに、本心は見えない。
「じゃー、二人も話し合ってポーズを決めてください!」
「ていうかー、この二人って絡みあんまないよねー。普通に並んで……っていうか、四人のほうがいいじゃんね」
「でも、一枚くらい、全キャラのツーショットも!」
「そうですよ! せっかくなんですし!」
「んー、じゃあ、まあ、一枚だけね」
宇代木は渋々、セレットとツーショットを撮ると、すぐにまたコスプレ組全員で集まって、集合写真を撮る。
配置やらポージングやら、四人で撮影していると、また野次馬が増え、雑談もできなくなる。
「うーん、うまく行きませんね!」
「何がうまくいかないのかしら。カメラの調子が悪いの?」
「あ! 違います違います。こっちの話です」
(おい、ばか!)
佐羅谷のような勘の良い女に、セレットと宇代木のことを気づかれたくない。
失言したマコトの首根っこを押さえる。
「気をつけろよ、宇代木のことは佐羅谷には内緒だ」
「はい、ごめんなさいです! つい」
なかなか意中の相手と会話が弾まないコスプレ男子二人に、苛立ちや疲れが見えてきた。これはよくない。
撮影場所を移動しながらも、やはり男女にきれいに分かれてしまう(非コスプレ者も含めて)。俺は隣を歩くハイホーににじり寄る。
「おい、ハイホー。このままじゃジリ貧だ」
「九頭川もそう思うか。ダメだ、ワンカさんもなしのつぶてで、全然反応がない」
「いったん仕切り直そうぜ」
ハイホーは頷いて、合わせ主催として全員に声をかけた。
「じゃあ、ここで一回、化粧直ししましょう。また十五分後に、更衣室前に集合で」
十月に入って、もうそれほど暑くはないが、コスプレしていると衣装によっては熱がこもるし、撮影されるほうはけっこう体を使う。ウィッグは頭を締めつけるので、頭の大きい男にはけっこう痛いという。
さらに、化けるための普通とは異なるメイクも、長丁場となると治す(直す?)のが普通だ。
女子組と別れて、俺たちは更衣室のそばの休憩所で作戦会議に入る。
コスプレ男子二人の顔は、どこまでも暗い。
「おまえはこっちだ、マコト」
「あ、やっぱりですかー」
当たり前のように女子更衣室へ入ろうとするマコトの首根っこを捕まえて、男子組の会議に参加させる。更衣室には戻らず、休憩広場へ。
実のところ、女子組に働きかけてマコトができることは何もない。こちらで話を聞いておくほうが勉強になる。
ハイホーがワンカさんに好かれる可能性はゼロだ。これはヒグマ先輩がいてもいなくても同じだったろう。
そしてもう一方、セレットが宇代木に好かれる可能性も皆無だ。理由はわからないが、宇代木は告白してきた相手と誰彼かまわず付き合うことはやめたらしい。そして、今は誰とも付き合う気はないらしい。恋愛研究会の美少女の一人がそれでいいのかと思うが、恋愛の自由は基本的人権らしいので、仕方あるまい。
だいたい、男子は見た目だけでも女子を好きになれるから一目惚れがありうるが、女子にそれは起こらない。正確には面食いタイプの女子で、相当なイケメン相手でないと、起こらない。
今のセレットは多少良くなったとはいえ、イケメンではない。宇代木の興味を引くほどの話術や個性があるわけではない。経験豊富な宇代木を初対面で振り向かせるのは、無理だ。
「なあ、ハイホー。もしかして、ワンカさんは彼氏ができたんじゃねえか。前回会った時よりも、そっけない気がするぞ」
俺は軟着陸させるために、ハイホーに覚悟を決めさせる。
だが、ハイホーはすでに悔しさと諦めの表情だった。
「そうだよな。あんなきれいな人が、フリーなわけがないんだよな……」
うつむいて、歯ぎしりする。
「俺はあの人の、コスプレ以外、何も知らないんだ。何も教えてくれない。いつも質問は俺からで、こっちには何も聞いてもくれない」
これは、たぶん、独り言だ。
本来、俺たちが聞いて良いつぶやきじゃない。
「あと十年、いや五年早く産まれていたら」
俺は何も声をかけられなかった。
そうか、ハイホー……いや高森颯太は、最初から覚悟を決めていたのか。今日で、最後にするつもりだったのか。
俺が思うほど、高森は浮かれちゃいなかった。
高森がワンカさんを見つけてから、半年も経っていない。だが、その時間がなんだ?
ネットで見つけたそこそこフォロワーの多い美人なコスプレイヤーを、本気の恋愛対象にするなんて、なかなかできることじゃない。
高森は、やってのけたのだ。
自分もコスプレをし、周りを巻き込みながら、年の差も経験の差も必死で埋め、追いつこうとして。
実際に出会う約束をし、二度目の合わせをするところまでこぎつけた。
そして、近づいてこそ、気づくことがある。
近づいても、恋愛対象に見られないことに。近づけば近づくほどに、遠い。
諦めろというのは簡単だし、諦めるしかないのは、当の本人も知っているんだ。俺が言うまでもなかったんだ。
今まで茶化したように諦めるよう仕向けていた自分が、いかに浅はかで醜かったか。
高森は微動だにしない。
潤んだ瞳から涙が零れないように。
せめて今日は笑顔で別れられるように。
高森の横顔は、一人前の男だった。
マコトも真剣な目で見つめている。
周囲の喧騒に包まれながら、俺たちの囲む机だけは静寂に包まれていた。
(あとで、ワンカさんにメッセージを送るか)
ハイホーは、もう今日で一つの恋を終わらせるつもりだ。わざわざワンカさんが男を呼んで見せつける必要はない。そこまでは、させてはいけない。
ポケットの中のスマホを撫でる。
そのとき、異変に気づいた。
「おい、マコト! どうした!」
「あ! え! あれ? ボク、どうして?」
「涙が」
マコトは、一筋の涙を流していた。
くるくる変わる表情は鳴りを潜めて、今は透き通る無表情だった。まるでミコトに似た無表情に、流れる静かな涙。
カメラを机に置き、慌ててバッグからハンカチを引っ張り出す。
「あれー? おかしいなー? ボク、こんなことなかったのに。ハイホーせんぱいの感情が移ったのかな」
メイクを落とさぬように、優しく抑えて涙を拭く。
「なんだろう、なんだかわからないけど、ハイホーせんぱいが何を考えてるんだろーってトレースしてたら、勝手に涙が」
ハイホーは力なく笑う。
「そうか、俺は泣きたかったのかもな」
「じゃあ、どうして涙を我慢するんですか」
「男には、泣いて失恋する権利はないんだよ」
「こんな気持ちなのに、こんなにつらいのに、理不尽です」
「泣いていいのは、他人のためだけさ。だから、マコト。しばらく、代わってやれよ」
俺はどさくさに紛れて、素早くワンカさんにメッセを送る。すぐに既読がつき、了解の返事。とりあえず、ヒグマ先輩がここに来て、とどめを刺すことは回避できそうだ。
「それでセレットはどうだ。宇代木は人を立てるのがうまいだろう?」
マコトとハイホーが落ち着いてから、俺はもう一つの案件に話を進めた。
全然うまくいっていないが、あえてうまくいってる風に尋ねる。
「そ、そうだね、思ってた通りの人だよ。つかみもいい感じ」
あれでうまくいっていると思っている気か。つくずくダメだな。
俺の無表情から高森もマコトも悟ったようで、生ぬるい声が漏れる。
「しかしセレットよ、どうする? もう一緒にならまちを回れるのは一時間くらいだろ? 二人きりにしようとしても、宇代木が逃げてる感じなんだよな」
「は、恥ずかしがりなんじゃないかな」
「ポジティブシンキング!」
ちょっと見た目が変わっただけで、ここまで前向きになれるなら、人は外見から変えるべきだな。
「まあ、いいだろう。ハイホーは覚悟を決めたし、なんとか俺と佐羅谷でワンカさんと宇代木を引き離すことにしよう。マコトは……」
「はい! ボクは宇代木せんぱいがセレットせんぱいから逃げないようにします!」
俺とマコトの事前の打ち合わせは完璧だ。
かわいらしい見た目に反して、勘は鋭いし、演技力がある。たまに抜けたり、一言多いのが玉に瑕だが、俺だって人のことは言えない。
俺は机の下で佐羅谷に連絡を取る。簡単な暗号で、いくつか用意していた計画を発動する。
宇代木とセレットのことは、佐羅谷にも知らせていないのだ。
このまま、作戦は知られずに進み、知られずに終わる。すべて計画通り。
再び、更衣室前に全員集まって、今後の話をする。
「そろそろ疲れも溜まってきたと思うので、あと一時間くらいで解散しましょう。どこか撮影しておきたい場所とか、組み合わせはありますか?」
「はーい! あたし、ピンで撮ってほしー! まこちゃ、その一眼、85mmの単焦点ある?」
「はい? なんですかそれは?」
「ああ、イリヤから預かっているわ。これじゃないかしら?」
佐羅谷はハンドバッグから重そうなレンズを一つ取り出した。おいおい、そんなものを持って歩いていたのかよ。
「おーすごいじゃん、わたしも撮ってー」
ただのコスプレイヤーのように、無邪気にはしゃぐワンカさん。いや間違いなくただのコスプレイヤーなんだが。
「それじゃあ、ならまちの人の少ない通りに移動しましょうか。九頭川くん、行くわよ」
「おう。あ、ワンカさん、ならまちに詳しいんですよね? 先導してもらえますか?」
「うん、いいよー」
そして、自然にワンカさんと宇代木を分離する。
ワンカさんを先頭に、すぐ後ろを俺と佐羅谷。次にハイホー。最後に宇代木、マコト、セレットが並ぶ。
そして、俺と佐羅谷で少し早めに歩き、ハイホーはゆっくり歩く。不自然にならない範囲で、距離を空ける。
小声で話せば、後ろには聞こえないくらい離れる。
「ワンカさん、ヒグマ先輩は呼ばないでくださいよ」
「メッセが簡潔すぎてわからんよ。一体どういうことだね?」
「ハイホーは、ワンカさんを諦める覚悟を固めてるっていうことですよ。たぶん、もう誘うこともないでしょう。これ以上の引導を渡す必要はないっす」
「そうか、さすがに、何度も会うってなると、身バレが怖いからね。特に、恋愛相談部の面々と近しいというのが問題だ」
「恋愛研究会です、ワンカ先生」
耳ざとく訂正する佐羅谷は、いつもの調子だった。
「そういや、恋愛研究会を部活にする話は進んでるのか?」
「もう先生には申請しているわ。槻屋さんと加瀬屋さんが入部したのだから、前提は満たしているはずよ」
「私も顧問として、申請は通している。ただ、受理されても、審査や面談があるからな。よくて、三学期の半ばだと思っておきなさい」
「そうですか、よかった」
「よかった? へえ、九頭川からそんな感想が聞けるとはね」
「なんですか。俺にとって、恋愛研究会が持続可能かどうかっていうのが重要なんで」
「ふうむ、なるほどね」
俺の行動原理なんて、簡単だ。
俺の夢は、もう犬養先生も佐羅谷も知っている。
その対象が、実のところ「誰だっていい」というのも、おそらく知られている。
俺は、「その人」のそばにいなければならない。
そのためには、恋愛研究会は途中で瓦解してはならない。また、閉鎖的な蛸壺であってもならない。
恋愛研究会がなくなれば、俺たちの関係は消える。
だが、このまままったく変化がなければ、卒業して終わる。
佐羅谷あまねと宇代木天という二つの強烈な個性に支えられ、組織の形をした共同体。
二人の体から、組織を引き剥がす。
二人の身も心も壊さないように、少しずつ、少しずつ。
今はまだその途上だ。
「佐羅谷が、がんばったからですよ」
「わたしひとりの力じゃないわ。わかってるくせに」
「しかし、まさかこんな展開になるとはねえ」
ワンカさんは白衣を翻し、俺と佐羅谷を順々に見比べる。
何を言おうとしているのか、俺にはわからない。隣の佐羅谷を見ても、複雑な感情を抑え込んだ無表情で、口をつぐんだままだった。
横目で後ろを盗み見る。
少し遅めに歩くハイホーに、マコトが横を固めておしゃべりしている。こうして並ぶとかなり身長差があり、いかにハイホーが長身かわかる。傍目にはお似合いのカップルに見えるかもしれない。
結果的に残った二人、宇代木とセレットが何かしら会話している……微妙に距離もあり、聞こえないが会話しているとは思う。全然親そうには見えないが、きっと多分大丈夫に違いない。
「あ、ここだよ。ならまちの中で一番撮影しやすいし、余計な背景が写り込まない場所だよ」
そして、夕景になった空の赤い路地で、それぞれのピン写真を撮る。古い街並みが、『妖術壊戦』先生組の撮影に映える。カメラを構えるマコト。全景、バストアップ、顔のアップ……まずはハイホーから撮影する。
「あ、アイコン用に、ちょっと表情作るね」
ワンカさんは手鏡で自分の表情と角度を厳しく吟味し、カメラマンのマコトにも設定まで指導し、写真を撮らせる。
俺は隙を見て、宇代木とセレットを他から離すように移動する。
「はいぱーあめちゃん、どうよ、こういうコスプレは」
「見るのは慣れっこだけど、やるのも楽しーね! 今度踊ってみよっかなー? ナチ子も動画出すんだし、あたしも入田くんに頼もっかなー」
「セレットもコスプレはどうだった? おまえも初めてだったって聞いたぜ?」
「う、うん。友達が増えて嬉しいよ。あめちゃん、今度メッセ送っていい?」
「あー、うん、コスプレ誘ってー」
宇代木の満面の笑みは、一瞬の時差があった。
これは、誘われても「ごめーん、用事があるんだー」という返しで終わるパターンだな。
「コ、コスプレ以外でも遊びに誘っていい?」
「あー、うん、うん、あたし部活でもいろいろ忙しいから、行けないことも多いと思うけどー」
「あめちゃん、友達多いんだ」
「そだよー!」
「宇代木はコミュ力モンスターだからな」
「言い方ー!」
「へ、へえ、ほんと、全然信じられないや。ぼくも最初は別人だって思ったくらいだし」
胡乱なことばは、セレットの甲高い声とは思えないほど腹に響いた。
なんて言った?
そうか。「最初は」なんだな。
じゃあやはり今回は「最初」じゃない。
ぞくり、空気が冷える。
俺が視線を向けると同じく、セレットは少し背伸びして宇代木の耳に口を近づけた。
「ねえ、ーーーーさん」
聞こえない。
だが、宇代木の顔色が変わった。
青白い。顔が蒼白だ。
「おい、宇代木、どうした」
「今日、一緒に帰ってくれるよね、はいぱーあめちゃん?」
「そ、そだねー。うん、家も近いしね」
「待てよ、おかしいだろ、なんで今の今まで健康一番だった女子が、こんな病人みたいな顔してんだよ。セレット、おまえ何を言った?」
「ぼ、ぼくは別に。ねえ、あめちゃん?」
「くーやんは関係ないじゃん。あたしが誰と帰ろーが、どうしよーが」
「関係なくないだろ。友達が顔色悪いのに、放っておけるか。少なくとも、今日初対面のセレットより俺のほうがおまえのことがわかる」
「じゃー、放っておいてよ、付き合い長いなら、わかるでしょ」
「付き合いが長いから、放っておけないことがわかるんだろうが!」
俺と宇代木が諍いあっていると、異変に気づいて他の面々が集まってくる。
「どうしたの、二人とも。大声出して」
誰も、経緯を見ていない。
原因はセレットだが、そのことは一部始終見ていないとわからない。マコトは撮影に専念していたし、佐羅谷とハイホーは撮影を補助していたし、ワンカさんも被写体になっていた。
傍目には、俺と宇代木が突然喧嘩し始めたようにしか見えない。
「あはは、ごめーん。別に、何にもないよー。ちょっと、今日はセレットくんと一緒に帰って、親交を深めようかなーって言っただけ。そしたら、くーやんが怒っちゃってさー。ほんと、嫉妬深いんだからー」
すでに宇代木の鉄面皮は復活していた。誰が見ても、いつもの宇代木天だ。
「天、今日は一緒に帰る予定だったじゃない」
佐羅谷はどことなく釈然としないものを感じたのだろう。ブラフをかける。
「あははー、ごめんねー、あまね。まー、コスプレの合わせなんて、帰りは突拍子もない組み合わせになるなんてこと、よくあるからさー。ねえ、ワンカさん」
「まあ、なくはないかな。だけど、こう空気の悪いのは嫌だなー。みんな疲れてて、我慢が効かなくなってるんじゃないかな? ハイホーくん、今日はもう解散しようか」
「そうですね。じゃあ、更衣室に戻りましょう。着替え終わったら、休憩所で集合ということで」
ハイホーは少し恨みがましい目で俺を一瞥した。
厄介を起こしてしまったのは、俺だ。恨まれても仕方がない。後でほとぼりが覚めたら、謝ろう。せっかくのワンカさんとの最後の機会を奪ってしまったのは、最低の所業だ。
来たばかりの道を更衣室へ帰る皆の足取りは、どこか重い。
隣に佐羅谷とマコトがついていたが、どちらも何も話しかけてくれなかった。
更衣室へ消えるコスプレ組を見ながら、俺たちは何も会話することがなかった。
「マコト、なんとか宇代木についてやってくれないか。たぶん、宇代木は、俺だと拒絶する」
「えー? ボクですか〜。途中までは電車もおんなじですけど、それは九頭川せんぱいだってそうじゃないですか」
「それはそうなんだが」
「わたしがついてあげましょうか? まったく、九頭川くんは行動が遅いのよ。気になるなら、もっと早く態度に示しなさいよ」
佐羅谷は撮影の終わったカメラをバッグに丁寧にしまう。
早く態度に表せと言われても、困る。
俺とマコトだけが秘密裏に動いていて、結びつける依頼と、それにまつわる不穏な気配。すべてを佐羅谷と宇代木に勘づかれないように遂行するのは、不可能だった。
「急に態度のおかしくなった宇代木が悪いんじゃねえか」
「ほらまたそうやって人のせいにする。これだから、男は。人の気持ちなんて、すぐに転ぶのよ」
「少なくとも宇代木は」
「その自信過剰はどこから来るのかしら」
「あーもう、いい、わかったよ。口で佐羅谷には勝てねえよ」
「別に勝ちたくはないのだけど」
「お二人の会話、微妙に噛み合ってない気がするんですけど!」
マコトが割りこむと同時に、俺のスマホが鳴った。画面を見るや、うめき声が出る。
しばらく放置しても、呼び出し音は止まない。諦める気はないようだ。
五回、六回。
「九頭川せんぱい、スマホ……」
七回、八回。
「九頭川くん、気にしないで出たら?」
二人から静かな圧力。
九回。
「なんなら、ここで話さなくてもいいわよ」
笑顔と声と感情が一致しない佐羅谷が怖い。
そういえば、俺の電話なんて、ほとんど部活中も鳴らない。
出たくない。
「九頭川くん」
「ああ、もう!」
俺は通話ボタンを押して、席を立つ。声が届かない場所まで離れ、口元を隠して話す。
「もしもし、俺です」
『ああ、俺くんか、ちょうどよかった』
「どちら様でしょうか?」
『義兄だよ』
「俺に兄はいませんよ」
『じゃあ未来の義兄だよ』
「現在の妹に代わりましょうか?」
『いけずだねえ』
急に京都人にならないでくれ。
電話の相手は。
『久しぶり、文化祭ぶりだね、九頭川くん。佐羅谷西哉だよ』
「わかってますよ、それで、何か?」
『端的に言う。合コンに出てほしい』
「はあっ? 俺、未成年ですよ?」
『わかってるよ。人数合わせでどうしても必要でね。大学一年生ということで、もちろんお酒は飲まないでいい。代金も立て替える』
「違うでしょ、イリヤさんなら、いくらでも知り合いが呼べるでしょ? 男でも女でも!」
『本当ならそうしたいのはやまやまなんだけどね、訳あってどうしても君を呼びたい。君だって、来たいはずだ』
「いやまあ、経験として合コンはいつかは行ってみたいっすけど、大人になってからでしょ。先生の卵がなんてことするんです」
『先生の卵も先生も人間だよ』
そりゃそうだが、人数合わせでも高校生を誘わないだろう。期待してやってきた女性にも失礼ではないか。
『仕方ないね、あまねが来るから君も来たほうがいいと思ったんだけどねえ』
「待て」
思わず敬語が消える。
「佐羅谷が来るって、どういうことですか。妹に何をさせてるんですか」
佐羅谷も高校生だ。
合コンなんて出ていいわけがない。
『なに言ってるんだ、女子は年上が好きだから、高校のうちから大学生の合コンに出るなんて普通だよ?』
「知りませんよ、そんな普通」
知りたくなかった。
そうか、佐羅谷も年上が好き、か。ありうる。もとより落ち着いた性格で物静かな質だ。兄同伴の合コンなら、変な男を近づけることもないだろうし、男に対する抑止力にもなる。恋人選びとしては、悪くない。
『あまねはモテるからね。合コンのたびに友達が連れて来いってうるさいんだよ。いつもはなるべく理由をつけて断るようにしてたんだけどね、今回は君と知り合って初めての合コンだから、ちょっといいことを思いついたんだ』
「はあ」
『君、あまねの恋人役をやりなさい。僕もね、いつまでも妹を大学の男どもの目線に晒したくないんだ、本音では。恋人がいたら、キッパリ断れるだろ?』
「嘘ですね。イリヤさんなら、友達でもキッパリ断れるでしょ」
『そうはいかないのが、同級生同士だ。僕だって、ただの一介の大学生さ』
わからない。
飄としたイリヤさんの口調に淀みはなく、作ったセリフのようであるし、本心でもありそうだ。
『今まで守ってきたけど、そろそろあまねもお持ち帰……』
「わかりましたよ、これっきりですからね。あと、一切のこと不問にしてくださいよ! 俺、居酒屋なんて行ったことないんですから!」
オッケーと軽く答えて、イリヤさんは集合場所と時刻を伝える。俺の役柄も作ってくれる。大丈夫か、この教職課程の大学生。高校生をどうする気だ。
99%の不安と1%の期待が綯い交ぜになって、俺は頭を抱える。
集合場所は、王寺駅前の居酒屋。奈良市のここからはJRで一本だが、宇代木やセレットと別の電車になる。
(まずいな)
自販機に寄って一番安いコーヒーを買いながら、どうするか考える。佐羅谷も合コンへ行くということは、俺と同じルートで帰るはず。
(マコトにお願いするしかないな)
休憩所の机に戻ると、スマホ画面を見つめていた佐羅谷が鬼を秘めた暗い瞳で睨みつけてくる。
「な、なんだよ、俺、何かしたか?」
「さあ、知らないわ。自分の胸に聞いたら?」
佐羅谷は汚らわしいとばかりに、顔を背ける。
「マコト、俺なにかしたか?」
「さあ? 部長せんぱいに電話がかかってきて、すぐにあんな感じに。彼氏と喧嘩ですかね? 女心と秋の空ですね」
「自称フェミニストに言葉狩りされそうなことわざだな……」
「そこ二人、なにをこそこそ話しているの?」
佐羅谷の機嫌の悪い声。
本当にゲリラ豪雨前の秋の空みたいな感情の変化だな。
「あー、佐羅谷。俺はちょっと用事ができて、どうしても宇代木について行ってやれなくなった。ついては、マコトを付き添わせることしか方法はないと思うが、どうだろうか」
「ふうん、奇遇ね。わたしも天についていてあげることはできなくなったわ。でも、天のことが心配なのは九頭川くんに同意よ」
恋愛研究会の部長の顔に戻った。
「ワンカさんは車だからここで別行動するでしょうし、ハイホーくんは一人で帰りたいでしょう。わたしと九頭川くんは、所用がある。加瀬屋さんが天についていてくれると、安心なのだけど」
「えー! そりゃあ宇代木せんぱいは大切ですけど、セレットせんぱいなんかがどうかできるとは思えないですよー。どうしてもって言うなら、ボクがついて帰るのが自然になるように誘導してくださいよ」
ピンクメッシュの髪をくしゅくしゅしながら、唇を突き出す。
「そういうのは得意よ。九頭川くんが」
「俺かーい!」
「得意でしょ?」
「得意げに言うなよ」
いつも、自分でできないことを、人に頼って、頼みこんで、つけが回ってきた。
だが、今回は簡単だ。
落とすのは、宇代木ではなくセレット。宇代木が頑なになっても、セレットが多少強気に出ても、ことマコトに関しては「つい世話を焼きたくなる後輩」ポジションだから、話はつけやすい。
それに、見た目はカワイイし。
「全員揃いましたね。じゃあ、今日のところは、これで解散ということで」
着替え終わったコスプレイヤーと俺たち付き添い組がなんとなく輪になって、最後の挨拶だ。
取りまとめは、ハイホー。
「えーっと、ワンカさん。途中まで一緒に、いいですか?」
「んー? いいよ、そこのパーキングまでね」
「はい。時間は取らせませんから」
ワンカさんはそっけない。
今もキャリーケースの伸ばした持ち手に肘をついて、スマホをしきりにいじっている。犬養先生なら、会話中にこんな失礼なことはしない。ハイホーに嫌われるための、故意の行動だ。
着替えた格好も、やぼったいパーカーにダメージジーンズという色気も何もない。わかるのはスタイルの良さだけだ。
「九頭川、すまんが、あとは頼んだ」
「ああ。またな」
「じゃーねー、みんな! 今日の写真楽しみにしてるよ」
がらがらと音を立てて、二つのキャリーケースがならまちから消える。
俺はしばらく高森のキャリーケースの滑りの悪いコマを見ていた。
(わからねえよ、どういうことばをかけるべきなのか)
これからフラれに行く男の背中は、出征するに等しい。旅立ちは、いつも一人。俺も一年の終わり頃は同じ状態だった。あの時は助けになるものもなくて、犬養先生に拾ってもらったのをふと思い出す。
「さ、そいじゃー。あたしも帰るねー。セレットくん、行こっかー」
二人を見届けて、宇代木も小さなマイメロのキャリーケースを引き寄せる。話はついていると、恋愛研究会のメンバーはいないかのような扱い。
「待てよ、宇代木」
「なにさ」
「俺と佐羅谷が急遽、用事でな。マコトを一人で帰さなくちゃならなくなった」
「ふーん、それがなにさ」
「おいおい、冷たいな。カワイイ後輩が一人で帰らないといけないんだぜ? せめて、橿原神宮前までは一緒について行ってやれよ」
「高校生にもなって、一人で電車に乗れないなんてないわー」
「普通のやつならそれでいいけどな。この見た目で、この夕暮れの時間に、一人にできないだろ。なあ、セレット!」
気を抜いていたセレットに話を振る。
「え、えーと、そうだね、と、途中まではいいんじゃないかな」
「じゃあ、決まりだな。マコト、一緒に帰ってやれなくて、ごめんな」
「ほんとそーですよ。ボク、電車はあまり使わないから不安で。宇代木せんぱい、ボクと帰るの嫌じゃないですよね?」
「むー。嫌なわけじゃないんだけどー」
「どー?」
「なんでもない!」
これで、宇代木とセレットを二人きりにする時間を最小限にできる。いざというとき、マコトはきっと頼りになる。マコトには隠れて岡寺まで――宇代木の最寄り駅までついて行くように伝えてある。
「これで、話はついたわね? 天、ほんとうにいいの?」
「べっつにー。用事なんでしょ?」
「つまらない用事よ」
「用事はつまらないよねー」
宇代木はよくわからないことを言い、セレットとマコトの背をはたいた。
「ほら、行こ行こー。あまねもくーやんも、ばいばーい」
「じゃ、九頭川せんぱい、お先っす!」
「おう、気をつけてな」
元気に手を振るマコトだけが異質で、宇代木はことばも最低限、セレットに至っては、最後は視線さえ合わせようとしない。
最悪の事態にならなければいいが。
マコトに託したいくつかのシミュレーションを思い返す。
「九頭川くん、わたしたちも行きましょうか。JR奈良駅はこっちでいいのかしら?」
「まったく逆だけどな。そっちは春日大社だ」
「……知ってるわよ。ちょっとした冗談じゃない」
「ほんとうは般若寺だけどな」
「っ……いじわる」
まあ、このあとはイリヤさん肝入りの恋人役をするわけだ。少しくらい冗談を言い合うことくらい許されないなんて、冗談じゃない。
佐羅谷と二人きりで電車に乗るのは、名古屋のコスサミのとき以来だ。お互いに不慣れなJR大和路線で、静かに打ち合わせをする。事前に、口裏合わせが必要だ。
「なあ、恋人同士っていう演技でいいんだな?」
「イリヤが言うんだもの、仕方ないじゃない」
「嫌なら、俺が一方的にアプローチしてるってことでもいいが」
「別に、嫌だなんて言ってないわ。だいたい、興味もないのに、イリヤに合コンに駆り出されるのは辟易してたのよ。これを境に、きっちり断るようにするわ」
「いいのか、もう合コンに呼ばれなくなるかもしれないぞ」
「なぜわたしが合コン好きみたいに思われているのかしら。不愉快ね」
実際のところ、佐羅谷は合コンに呼ばれはするものの、本気で口説くためではなく、純粋にかわいい女の子を見たいというイリヤさんの友達の意向らしい。それ合コンでは女子に嫌がられるのでは、と愚考する。
いかに傍若無人な大学生といえど、さすがに兄を前にして妹を口説こうという強者はいない。ましてや、イリヤさんは妹に関してはやや過保護のきらいがある。
佐羅谷は時間も取られるし、酔っ払いの相手もするしで、得るものはないらしい。本人のことばを信じるならば、だが。
俺の知る佐羅谷は嫌なことはしないタイプだ。イリヤさんの知らないところで、好みの男に目星をつけて、密会している可能性もある。
「いつも言ってるでしょ? わたしは、誰も好きにならないわ」
深窓の令嬢ではなく、佐羅谷あまねの顔を俺に向けた。
俺はどんな表情を浮かべていたのか、自分でもわからない。
佐羅谷と同じ、とても悲しくてとてもやるせない顔をしていたのではないかと思う。
王寺駅前の居酒屋で、イリヤさんたちと合流し、十人ほどの団体になって掘り座敷の奥の部屋に案内される。
俺はイリヤさんの隣で一番隅っこ。向かいには佐羅谷が座った。
「それじゃあ、まずはカンパーイ!」
賑やかな男子による乾杯から、合コンは始まった。おざなりな自己紹介。
なんとなく居心地は悪く、会話もしにくく、俺と佐羅谷は隅で食事に意識を集中していた。唐揚げおいしい。ピーマン串おいしい。
佐羅谷は烏龍茶の大きなジョッキをちびちび飲みながら、揚げ出し豆腐やトマトスライスを食べていた。
隣のイリヤさん含め、この食事の中でもさまざまな駆け引きが行われているのだろうか。喧騒の端にあって、アルコールも飲めない俺たちは素面で大学生を観察しているしかなかった。
「唐揚げおいしい。佐……あまねも、食べるか?」
「ありがとう。今日はいいわ」
なんとなく無言でいるのも不自然で、会話を試みるも、佐羅谷はいつも以上の塩対応だ。
なお、あまねと名前呼びするのはお互いに今回限りと許可をとっている。恋人同士のフリで、苗字呼びは不自然だからな。
「いーよう! あまねちゃん、飲んでるー!」
いつのまにか佐羅谷の横にいた女子が消えて、陽気な男子がビールを片手に胡座をかいた。
「もう来てくれないと思ってたぜ! また会えて嬉しいよ!」
「わたしは嬉しくもないです。ほんとうは来たくなかったです」
恨みがましくイリヤさんを睨む。
イリヤさんは俺の隣で、普通に合コンを楽しんでいた。俺に対するような大人ぶった態度もなく、ただの大学生のようだった。
いや、間違いなくもともとただの大学生なのだが、その仮面の使い分けが俺には不思議だった。あのミステリアスで洞察力に富んだ姿と、合コンで女子に熱い視線を送る姿が、頭の中で一致しなかった。
「それで、君が、あまねちゃんを射止めた彼氏?」
「はあ、どうも」
「よくイリヤが許したよなー。俺たちには指一本触れさせようともしなかったのに! なんだろ、キッカケはなんだったんだよ?」
「キッカケっすか」
いちおう、事前の話し合いでキッカケも考えては来た。だが、佐羅谷はそれでよいのか?
いつのまにか卓を囲む全員が静かになって、こちらの様子を伺っている。やはり、佐羅谷を落としたことは、このメンバーの中では重要らしい。
「やー、俺たちなんて、誰も連絡先さえ聞き出せてないんだぜ? 同じ学校だからって、ガードは硬いんじゃね?」
その通りだ。俺だって半年近く連絡先を知らなかった。知った今でも、連絡はほとんど取っていない。
だが、大学生が高校生の連絡先を知りたがらないでほしいものだ。
「普段なんて呼び合ってんのー?」
別の女子からからかいのことばが飛ぶ。
「名前で呼んでますよ、あまねって」
「たすく、余計なことは言わなくていいわ」
佐羅谷が頬を赤らめて、ピシリと言った。
同じ高校生同士なら、佐羅谷が場を支配して、このままつまらない質問など終わるだろうが、ここは大学生の合コン、アルコールの入った大人に、佐羅谷の空間支配は効かない。
「いやーん、初々しい! あまねちゃんかわいい!」
質問した女子は身悶えするとジョッキを呷り、また別の相手と話し始めた。こういう空間、俺が一年の時に耐えきれなかった雰囲気に似ている。
話の内容に意味はなく、話をすることに意味がある。こんな環境で話をするのは大変だった。
話の内容を考えていたら会話に間に合わず、空気が読めないやつと言われる。何も考えずに脊髄反射で会話していたら、何も考えていないやつと言われる。
この空間での会話は、はたで見るよりもはるかに高度で、絶妙で、仲間と仲間以外を明確に篩い分けする。
「で、どっちから告白したん?」
「俺からですよ。わかるでしょ」
「たすく、だから黙りなさい」
佐羅谷の目が据わっていて怖い。
「一体どんな情熱的な告白をしたら、あまねちゃんが落ちるんだ? 君、再現してくれよ!」
さすがに無理です。
「まったく、わたしが答えるわ。たすくは黙ってなさい」
「九頭川くん、わたしに告白して」
王寺駅のプラットホーム、人もまばらな隅に寄って、送り出した電車を背景に、佐羅谷は髪をかき上げた。
逆光で、顔は見えなかった。
「な、なに言ってんだよ。そんなこと、できるかよ」
「勘違いしないでよ、これだから九頭川くんはダメなのよ。いい? わたしたちは曲がりなりにも恋人同士の役を演じるのよ? 役に入り込むには、きちんとした手順が必要だわ」
「だからって、嘘の告白をしろと?」
「そうよ。わたしも、嘘の許諾をするわ」
佐羅谷は一歩近づく。
影に入る。
深呼吸をして開いた瞳は、深い緑色だ。
「告白、か」
佐羅谷には、成り行きで告白して、すでにフラれている気がする。
だが、今回は「許諾」されるのだ。嘘とか演技とかどうでも良い。俺にとって重要なのは、佐羅谷が俺の告白を受け入れて、恋人になってくれるという結果だけだ。
「どうしたの、時間はまだあるけど、恥ずかしいの?」
「恥ずかしくはないが、緊張する」
「ちょうどよかったじゃない。練習になるわ。本番でそんなに真っ赤な顔をしてたら、女の子に引かれるわよ」
「そのことば、そっくり返してやるよ」
「わたし、赤くなってないわ。もしそう見えたとしたら、少し暑いだけ」
「はいはい」
むくれる佐羅谷は、それさえも演技なのだろう。
俺は、佐羅谷の恋愛に対する考え方や立場を知っている。恋愛研究会の合宿で、佐羅谷は明言した。
犬養先生が出したお題、「結婚とは?」に対する回答が、奇しくも佐羅谷の恋愛を俺に教えてくれた。
「わたしにとっての結婚は、次の恋愛の結果です」
俺の解釈では、佐羅谷あまねは、誰も好きにならないのではなく、結婚に値する相手しか好きになる気がないのだ。
そして、今のところ、身を捧げるに値する男は出ていない。
簡単なことだったんだ。
俺は、いつも言っているように、さっさと働いて、さっさと結婚して、さっさと家族を育んで、幸せな家庭を作るのが目標だ。
だから、次の恋愛を結婚に結びつけるという佐羅谷に、俺は強く惹かれた。
しかし、佐羅谷の眼中に俺はいない。
俺ではきっと頼りにならないし、俺の気持ちも信用されていない。
だから、嘘でもいい。
告白を受け入れてくれるのなら、嘘でもいい。
俺だけが、本気だ。
本当の嘘を。
喉が渇いて、唇も乾いて、体は震えて、声が上ずる。
どうか、俺の嘘が本当であると気づいてくれるな。
「佐羅谷あまねさん」
普段は言わない呼びかけに、佐羅谷がびくんと揺れた。
「あなたのこれからの未来で、俺を隣にいさせてください」
言えた。
噛まずに、滞らずに、甲高くならずに。
俺は頭を下げて、手を差し出した。
女子に対する告白として、正しい態度なのかどうかはわからない。
手を出してどうしたいのだろう。
握手を返すのだろうか。
友情でもあるまいに?
ここが駅のホームの端でよかった。無様な俺の姿を見る人は誰もいないから。
「なに、それ」
地獄のような沈黙のあとに、佐羅谷は息をついた。
「あなた、それが告白のつもり? 好きだとも愛してるとも言わないで、伝わると思ってるの?」
「悪かったな。俺は告白で成功したことがないから、試行錯誤の最中なんだよ」
恥ずかしくなって戻そうとした手が、佐羅谷に捕まる。
佐羅谷は両手で俺の差し出した手を包んだ。
肘をキュッと曲げて、握った両手を額近くに掲げる。
「でも、とてもよかったわ。あなたらしい告白だった。これで、好きな人ができた時もきっと大丈夫よ」
「おい? 馬鹿にしてるのかよ」
「バカになんて、してないわ。これほど温かい告白を受けられる未来の誰かさんに、ほんの少し嫉妬しただけよ」
なんだよ、それは。
俺の告白に対してこんなに優しい返しができるなんて、やはり佐羅谷は恋愛強者なんだな。嘘でも演技でも、これほど気持ち良くさせてくれるなんて。
これが本当の告白であったら、どれほどか嬉しかっただろう。
間近にある佐羅谷の笑顔を、いっそう好ましく思った。
居酒屋の隅で、烏龍茶のジョッキを両手で抱えながら、佐羅谷は周りの質問に答える。自分の恋愛観を。
「わたしは、次の恋愛を最後にするつもりなんです」
ことばは違えど、言っていることは同じだ。
「え、最後? ってことは?」
「わたしと一生を共にする気概のない男は、論外だってことですよ」
大学生相手に、佐羅谷は一瞥もくれない。ちびちびとアルコールのようにジョッキに口をつける。
「ひゃー、きびしー!」
「でもでもでもでも〜! この九頭川くんがあまねちゃんのお眼鏡に適ったってことだよね? 詳しく聞きたいなあ」
佐羅谷はじとっと据わった目で俺を見る。俺は何も言ってないぞ。恨むなら、この環境を恨め。
「た、たすくの夢は、立派なお父さんになることなんです」
こう言われると、ほんとうにバカにされているように聞こえる。いや、子供っぽく感じてしまう。
「へー! 高校生でそんなこと考える男子もいるんだー! かわいー」
女子の視線が俺に集中する。やめて、見ないで。
というか、もう高校生だとバレてしまっている。佐羅谷がイリヤさんの妹なのは周知の事実だし、合コンメンバーにはあってないような設定なのかもしれない。
「やー、遊ぶことしか考えてない大学生男子にも君みたいな子がいたらねー! ねえねえ、あまねちゃんじゃなくて、あたしにしない? 今すぐお父さんにしてあげられるよ!」
すぐ結婚できるということだろうか。そちらは良くても、俺の年齢が足りない気がする。
「えっと、俺まだ十八になってないんで」
「そーじゃないって、真面目か!」
そして卓の隣に来て屈み、耳打ちする。
「子供作れるよってことじゃん」
「子……っ」
「ダメです!」
俺がうろたえているうちに、佐羅谷が間に割りこんできた。ぎゅっと体をくっつけてくる。
「おい、おい、さ……あまね、近い、近い!」
柔らかいし、温かいし、いい匂いがするし、俺の理性がもたない!
「たすくは、わたしのよ。渡さない」
「わー、あまねちゃんって、こんなふうになるんだー。もっとクールな感じかと思ってたのに、意外と嫉妬深い?」
「嫉妬なんてしてないわ」
佐羅谷が俺の腕を絡め取って抱きしめてくる。
温かい。
どう考えても、かなり熱い。
「あれ?」
佐羅谷の顔を見ると、真っ赤だ。
「おい、もしかして、酔ってる?」
「酔ってないわ。烏龍茶しか飲んでないじゃない」
だが、先ほどまで佐羅谷の座っていた席には、烏龍茶の色をしたジョッキが二つ並んでいる。
どちらも、適度に減っている。
俺の隣のイリヤさんが動く。ジョッキ二つを一口ずつ飲む。顔を顰める。
「おい、誰だ。俺の妹にアルコールを飲ませようとしたやつは」
ドスが効いた低音。
最初に佐羅谷の隣にいた男がビクッと震える。
「お、俺じゃあねえぞ! 自分の場所に置いてたまま移動しただけだし!」
「まったく……」
きっと、犯人はいない。ただ単に、佐羅谷が隣の人のウーロンハイ(?)を同じような色だから間違って飲んでしまっただけだ。
「おい、あまね、大丈夫か、吐き気は?」
「よい気分よ。ふわふわするわ」
「ダメじゃねえか」
「ふふ、たすく、真っ赤」
「おまえのほうが多分真っ赤だよ」
佐羅谷が佐羅谷っぽくないが、これはこれでかわいい。しかし、イリヤさんは家族として許せないようだ。あたりまえだ。大切な未成年の妹にお酒を飲ませるなんて、一大事だ。
「仕方ない、九頭川くん、あまねを家まで送ってくれないか」
「俺ですか? イリヤさんが送ったほうがいいんじゃないですか」
「僕にも事情があるんだ。ほら、これ家の住所。君だって、帰りどきを探ってたろ?」
「はあ」
図らずも、佐羅谷の住所を知ってしまう。もちろん、秒でグーグルマップにハートマークをつけた。二度と忘れない。試験前の英単語よりも記憶に深く刻みつける。
「じゃあ、気をつけて」
「はい、お先です」
足元のおぼつかない佐羅谷を支えながら、俺は居酒屋を出て、王寺駅へ向かう。
「ふふふ、楽しいわね」
「あーもういいから、あちこち行こうとするな。危ない」
「怒った顔もかわいい」
「おまえ絶対、今夜の態度で後悔するぜ」
また言われなく俺が怒りの対象になるんだろうな。理不尽なり。
駅の入り口に着いたところで、佐羅谷がスマホを取り出す。イリヤさんからメッセージが来ていたようだ。
「あら、イリヤ、今夜は帰らないんだって。ほんと、遊び人なんだから」
「意外だな。先生を志す人がこうも奔放なんて」
「先生に人格を求めるなんて、たすくらしいわ」
佐羅谷は教師をなんだと思っているのだ。いやまあ犬養先生を見ていると、教師もまずは人間なんだとは思うが、それでも俺たちの前では先生であろうとする。
……まだ先生ではないイリヤさんにその態度を求めるのは間違っているのか。
大人びて、ミステリアスで、少し頼りになると思っていたイリヤさんも、ただの一介の大学生だ。
「あーあ、家に帰っても一人だなんて、つまらないわね。ねえ、たすく?」
「はいはい、バカ言ってないで、帰るぞ」
そして、道草のひどい佐羅谷に翻弄されながら、なんとか家に帰し、まどろみ、ようよう目が覚めたのは、日も高く上がった昼前のことだった。今日が日曜日でよかった。
ベッドから手を伸ばして覗いたスマホには、通知が三つ。
来た順に、マコト、宇代木、佐羅谷。
三人とも、申し合わせたように簡潔なメッセージで、いかにも事務的連絡で、会話を楽しむふうではなかった。
既読は、重要度順につける。
佐羅谷
「昨日は何も起こらなかったわね」
俺
「確かにおまえを家に送っただけだな」
佐羅谷
「おまえって言うな」
俺
「返信早ッ」
やはり、不慣れなアルコールでふわふわしていた態度は「なかったこと」にしたいらしい。
佐羅谷の普段見られない姿を見たのは俺だけということで、これは心の中にしまっておこう。
宇代木
「責任とってよ嘘つき何も言わないなんてひどいじゃんか全部知ってたんでしょほんとサイテー!(ぷんすか)」
俺
「俺より頭が良くてなんでもわかる宇代木さんなら、とっくに気づいてると思ってたがな」
宇代木
「何かあったらどうする気だったんさー(むきー)」
俺
「おまえがセレットに負ける絵は浮かばない」
そのまま、既読無視。
想定内だ。
実のところ、宇代木は俺の作戦をわかった上で、騙されて怒っているふりをして、俺から優位な言質を引き出したいだけだろう。
後で少しだけフォローしておこう。
マコト
「すべてつつがなし。報告は月曜日の昼にです!」
俺
「助かった」
マコト
「九頭川せんぱいはみこちゃが思う以上に」
俺
「途中送信でやめるなよ」
だが、続きは来ない。既読も付く。これ以上、ネットで語る気はないと言うことか。マコトの勘はそこそこ鋭いようだ。
あの見た目、あの演技力。ただものでないのは、わかりきっていた。
無表情で怜悧なミコトよりも奥深い闇と天性の才能を隠している。
ニコニコとフワフワと柔らかく明るい表皮に騙されては駄目だ。恋を知らないマコトが、ようやく恋することの意味を知り、学び、一皮剥ける。
今回の恋愛相談は、佳境を迎える。
終章 恋愛研究会の憂鬱
三人と密な連絡を交わした翌日の昼休み。
今の今までマコトからの連絡はなく、俺はいつも通りに弁当を片手に山崎の横へ移動しようと腰を上げる。
「待って、たすく」
「沖ノ口」
不機嫌な顔の沖ノ口が長い真っ直ぐな髪を揺らして、俺の行手を阻む。
怖い顔だ。
ここ最近、俺に執着することもなかったのに、なんだ。
「あれ。また来たわよ」
指差す扉ではマコトがピンクメッシュのツーサイドアップの一部を覗かせている。
「またはち合ったのか」
「わたし、あの子、嫌い」
「別に悪いやつじゃないぞ」
「だって、何度も何度も呼びに来てる。あんなぽっと出てきた子にたすくが取られるなんて」
「ないない」
「どうしてそう言い切れるのよ」
俺が沖ノ口とどうにかなるよりも、可能性は低い。
だがそうか、あまり関わりがないと、マコトのことはわからないのか。俺もすぐには見抜けなかったし、仕方がないな。
「あいつは、男に興味なんかねえよ。むしろ沖ノ口、おまえのほうが気を許すなよ」
「え?」
珍しく素直に驚いて、身を守るように自分の肩を抱く。気持ち悪いものを見るような目で、扉の先のマコトを顧みる。
俺は弁当を持って、教室を出る。
「よう、マコト。話は……そうだな、中庭でするか。あそこなら、人目は少ない」
「わかりました! じゃ、ボクも購買行ってから追いかけます!」
「というか、先に購買行けよ。焼きそばパンなくなるぞ」
「焼きそばパンだけがパンじゃないっす!」
俺が呆れるより早く、マコトは廊下を駆けていった。わざわざ教室に来なくても、スマホで連絡すればいいものを。妙なところで律儀というか。
(違うな)
マコトは、俺を呼ぶことはもちろんとして、クラスの連中に姿を見せたいんだ。他学年や他クラスに顔が知られることは、知名度を上げることにつながる。
上級生の教室が並ぶ廊下を歩くのは、けっこう勇気が要るだろう。
人は、よく知っているものやよく会うものを信用し、好意を持つ。ましてや、あの目立つ姿に、お世辞抜きにかわいらしい顔立ち。
今後の恋愛研究会で中心になる存在として、宇代木と同じような立場に立てるだろう。ハンデがある中で、マコトなりに考えている。
(かわいらしいところがあるねえ)
俺が一員として認められるよりも早く、自ら行動して自立する。
「俺もうかうかしてられないか」
まずは、昼を食べてからだ。
「ボクがずっと張りついてたから、セレットせんぱいは動きにくそうでした」
ご飯を食べ終わって、弁当箱とゴミ袋をベンチの間に置いて、飲み物だけ手にしながら、本題に入る。
「最後、宇代木せんぱいの家の近くの公園で、セレットせんぱいが動きました」
マコトの話を、聞いた感じから見たままに再現すると、こうだろうか。
白橿の住宅街、とある公園にて距離を空けて相対する宇代木、セレット、マコト。
三人が同じくらいの距離をとっていた。マコトは俺たちの指示通り、宇代木を優先して守れる位置。
このまま宇代木を家に送って、あとはマコトとセレットが別々に帰る予定だったが、なかなかセレットが帰らない。
「わ、わかった。マコトさんもいていい。ただ宇代木さんしかいない前提で話すよ」
マコトが絶対に宇代木から離れないのを見て、セレットが折れた。
「う、宇代木さん、最初、YouTubeの配信を見てもわからなかったよ。珍しい名字だから、特定はできたけど。ずっと、会いたかった。ちゅ、中学時代から、言おうと思ってたんだ」
「ふーん。あたしは全!然! きみのことなんて覚えてないけどねー」
「う、ウソだ! ぼ、僕に告白してきたじゃないか!」
「黙れ」
「黙れ? ほんとうに宇代木がそう言ったのか?」
「びっくりしましたよ! いつもと違う低くてお腹に響く声で、とっても怖かったです」
「な、なんだよ!」
「中学時代、デブでオタクでいじめられっ子で、罰ゲームで男子に告白するように仕向けられた可哀想な女子は知ってるよ」
「それが、きみじゃないか!」
「その子が宇代木天っていう名前なら、同姓同名の別人じゃない? あのときの可哀想な女子の告白をどうやって断ったか、男子のセリフを一字一句間違わずに再現してあげようか?」
「あ、あのときは僕も気恥ずかしくて、照れ臭くて」
「ねー、そーだよねー。あの奇跡のブサイクがこんなにかわいくて、こんなに愛されて、こんなに元気で、こんなに楽しそうだなんて、信じらんないよねー? 逃した魚は大っきかったかなー?」
「ぼ、僕は、ほんとうはきみのことが」
「なに言ってんだおまえ」
宇代木の冷えた声に、再度マコトも震えたという。
「過去をちらつかせて人を思い通りにしようっていう考えがもうダメだよねー。来るなら真っ向から来なよー」
「……あ、あれは、そうでも言わないと話を聞いてもらえないから!」
「だいたい、きみ、言いふらすほど友達いないでしょー。あと、別に言いふらされたところで、今のあたしの大切な人は、誰も離れないよ。半年遅かったねー」
「す、好きだったのに! ほんとうに! あの頃からだよ! ずっとずっと!」
「だったらさ、世界からハブられても、あのとき、あの場所で、あの女子の手を取ってあげたらよかったんじゃないかなー? その覚悟がなかった、きみの失敗だよ。結局さ、自分が一緒にいじめられないように保身の気持ちが優先したから、全部ダメになっちゃった。
くーやんのおかげかな? 見た目はちょっと変わったみたいだけど、まず最初にあたしの弱みを握って保険をかけてくんの。それがてってー的にダメ。
これが、かつらぎ高校恋愛研究会の宇代木天ちゃんの分析かなー」
「……ていう感じで、宇代木せんぱいを家まで送って、セレットせんぱいも駅まで送って、おしまいです!」
「ご苦労」
「なんで偉そうなんですか」
宇代木はマコトがいなくても、身の危険はほとんどなかった。暴力に訴えても、宇代木はセレットより運動神経がよく、背も高い。押し倒されでもしない限り、逃げるのはたやすい。
ただ、それでも正気を失ったセレットが何かしら暴挙に出る可能性があった。武器や卑劣な道具を使われたら? あるいは、宇代木の過去の弱みが俺の想定以上に効果的なら?
第三者がいるだけで、安全性は桁違いに高まる。
「いやいや、ほんとうに感謝してるよ、マコト」
「むふー。まったくです! もっと褒めていいんですよ!」
年相応にかわいく鼻を膨らませる。
「だいたいですねー、万が一やけっぱちになったセレットせんぱいに、ボクが襲われたらどうする気だったんですか! 宇代木せんぱいを送ったあとは、二人きりだったんですよ!」
「あ? その心配はないだろ。セレットに同性愛の気はない」
「え?」
「あ?」
「なに言ってるんですか、九頭川せんぱい。セレット先輩はオトコですよ!」
「いや、だから、おまえも男じゃん」
どうやら、隠す気も隠し続ける意志もなかったようなので、ついつい口をついて出たが、マコトは気づいてほしくなかったのか?
マコトはペットボトルのカルピスウォーターを一気に飲み干した。
「いつから、気づいていたんですか?」
キリッと眉をそばだてて、間近から見上げてくる。この至近距離で見ても、そうそう男には見えない。
きめ細かい肌に、丁寧なメイク。ほのかに漂う心地よい香り。唇はぷるんとしていて、ラメ入りのグロスに思わず引きこまれそうになる。実のところ、同性でもキスくらいはいけそうな気がする。
今は、今だけは、男の顔だ。
もしかしたら、恋愛研究会の三人しか、気づいていなかったのかもしれない。
マコトが、男子だということに。
「いつから、そうだな、わりと最初からか。佐羅谷と宇代木に抱きついて、話が聞きたいって俺だけを帰らせたときがあったよな? あのとき、ミコトはしっかりと佐羅谷の腕を抱いていたのに、おまえは宇代木の袖を掴んでいただけだった」
「さすがに、先輩女子の腕を許可なく抱くことはできません」
「だが、俺に対してはがっちり掴んできた」
「迂闊でした」
「それから、ミコトとの距離感か。知ってるか? 男子は親しくなると名前呼びになるが、女子は名字の呼び捨てになる。まあ、おまえらの場合は幼馴染だから違うのかもしれないが。
今は違うけど、おまえら昔は付き合ってたんだろ?」
「そんなのフツー気づかないでしょ!」
「あとは、かわいすぎる。あまりにも男が好むタイプの女すぎた。本物の女は、女であるが故に、必ずしも完璧に女の仕草や思考や態度を示さない。あの佐羅谷や宇代木でさえ、ときどき気の抜けた姿を見せるし、男っぽい振る舞いを演じることがある。あれは、女だからできるんだ。
でも、おまえは徹頭徹尾、女の子してた」
「褒められてる気がしないです」
「褒めてるよ。理想的な女子だって思う。
ただ、男子との距離の取り方は、間違ってるな。女子は女子同士の距離を近しい男子に対しても持ち込むが、おまえは男子の距離感を維持した。あざとさを見せる時以外は、不用意に近づかなかった」
「九頭川せんぱいのことが、嫌いだとか苦手だったかもって思わなかったんですか?」
「マコトというキャラクターなら、たとえ嫌いでも、警戒していても、男子全部に同じ距離感で接しただろ?」
「もしかして、ボクの学年の名簿を見たとか」
「俺がそんなめんどくさいことをすると思うか? 確証を持ったのは、セレットと二人きりで一緒に帰ったってところだ。ほんとうに女子なら、そのまま宇代木の家に泊まっていたはずだ。危険は少ないと言っても、あの状態のセレットと二人で夜道を歩く女子はいない」
「完敗です」
マコトの顔は戸惑いから感服した驚きに満ちていた。
「正直言うと、ボク、九頭川せんぱいを舐めてました。今、評価が覆りました。部長せんぱいと宇代木せんぱいが一目置く理由、わかった気がします」
「おまえが本当の女だったらよかったのにな。男心を完璧に理解した女なんて、最高じゃねえか」
「最高に都合のいい女ですよ、そんなの。きっと、つまらないです」
マコトは珍しく笑顔をやめた。
「九頭川せんぱいは、ボクが気持ち悪くないんですか?」
「なんで?」
「見たまんまですよ! コスプレとかプライベートじゃなくて、学校でまで女子の格好をして、ほんとうの女子のように振る舞って! だけど、別に男子が好きなわけでも、女子になりたいわけでもない!」
「今は心と体の性が一致しないとか、好きな見た目であることも許容する社会なんだろ? 別に迷惑もかかってないし、見苦しくもない。気持ち悪がる意味がわからない」
「寛容、じゃないですね、ボクに、興味なんてないって感じ」
「あたりまえだ。マコトがその姿でその態度で周りに認めてもらいたいなら、俺はそのままを受け入れる。俺にとっては、今ここにあるものがすべてだからな」
「ボクは、汚いんです。汚いんですよ!」
マコトは立ち上がると、俺の前に仁王立ちになる。それでも女子に見えるあたり、相当立ち居振る舞いを訓練したのだろう。
「男は、っていうか、人間なんて、汚いものだろ」
「一般論じゃないですよ、ボクが、自分を許せないんです。ちょっとかわいい子、きれいな人を見ると、やらしい妄想ばっかり考えてしまって、その人のことなんてなにも知らないのに、興味もないのに、体のことばかりで、だから、大切な友達だったミコトのことも傷つけただけで、償いもできてなくて。
ボクは、好きという気持ちが、わからないんです」
顔を覆うように両手で隠し、文法の整わないことばを吐き捨てる。
何となく意味はわかる。
たぶん、男なら誰もが通る道で、俺も現在進行形でどう対処するかを思案していることだ。
大人なら、思春期の初々しい悩みと微笑んでくれるのだろうか。
渦中の人間には、笑顔になる余裕もない。
「ここには恋愛研究会の女子がいない。だから俺なりの落とし所をつぶやくぞ?」
マコトは顔を隠したまま、小さく頷く。
「俺にとって、愛と性は同じものだ。好きっていう気持ちの発露はさまざまな形があるかもしれないが、根源は同じだ。
おまえは、好きという気持ちがわからないと言うけど、欲望はあるわけだ。欲望を分離してしまうから、好きとは何か? というありもしない悩みに捕われる」
好きとは。
「心と体を、俺のためだけに使ってほしい。そういうわがままだろ、愛ってやつは」
だから、恋愛は難しいんだ。
だから、恋愛は成就しがたいんだ。
愛とはなんぞや?
この話は、合宿できちんと語り合った俺たち三人に分がある。
「俺たちは、合宿で「愛とは何か」について何時間も語り合った。だから、一応マコトにも俺たちの落とし所を伝えることはできる」
「知りたいです!」
「だが、教えない。これは、教えても意味がない。マコトは今回、高森とセレット、二人の男子の好きという感情と、心に突き動かされた行動を見てきた」
「はい……」
「マコトの愛の形がどう現出するか知らないが、きっとマコトだけの形じゃないか? どんなに醜かろうと、どんなにエゴイスティックであろうと、それが、好きという気持ちじゃないのか」
「九頭川せんぱいは!」
マコトは目に涙を浮かべる。
「せんぱいは、好きという気持ちがどんな形で現れるんですか」
「は、簡単だ」
愛とは、『自分が与えたのと同じだけの熱量を、望んでいる形で返してほしいという願い』。
「俺が差し出すすべてと、相手が差し出すすべてを交換するだけ。俺にとって、それが好きになるということで、愛するということだ」
そして、ついぞ受け入れてはもらえることはない。
終わりを先延ばしにして、心の平穏を保つ。
今の俺は、カッコ悪く永らえるしか方途がない。
「九頭川せんぱいが、女子だったらよかったのに! どうして男子なんですか! ボクの彼女になってくださいよー!」
「何で泣くんだよ、ああ、 抱きついて来るな、うっとうしい!」
「胸貸してくださいよー! 九頭川せんぱい、好きですー! ボク、けっこううまいですよ?」
「今の状況と発言、ややこしくなるから、やめような! ほんと、離れろ!」
「うわーん!」
マコトは、ミコトと同じく漫画のような声を上げて俺の胸で泣く。なにが心を打ったのかはよくわからないが、きっと、思うところがあったのだろう。これで少しでもマコトのわだかまりが解けて、前進できるならばしめたものだ。
マコトは、好きという気持ちがわからないのではない。欲望と愛情を分けるから、答えのない悩みに陥って、身動きが取れなくなる。
欲望のない愛はない。
どこかの誰かが言う高尚な愛は、愛ではない。頭でっかちな理性だ。理性は、愛ではない。理性に愛は理解できない。
欲望や愛情は、独り占めだ。自分が独り占めにしたい、そのかわりに独り占めされることを受け入れる。
こんなに簡単なことが、偉い人にはわからない。
一通り泣いて、真っ赤になった目元を気にしつつ、マコトはその日部活に出ずに帰宅した。ミコトも付き添ったようだ。
午後、また二年生三人だけの気楽な部活がやってくる。
部員専用の札を見ながら、理科実験室に入ると、いつもの二人が、いつものように談笑しながら、ビーカーで湯を沸かしていた。
そろそろ気温が落ち着いてきて、ホットコーヒーもおいしくなる時期だ。
「コーヒーが入ったわ」
佐羅谷が俺と宇代木の前にビーカーを置く。
「そろそろ、きちんとしたカップを買うべきかしら。来年の四月からは部活動になるんだし」
「へえ、確定したのか」
「三学期から部活動になっても、どうしようもないもの。事前に連絡はあると思うけれど、気長に待つわ」
佐羅谷は宇代木を見る。
宇代木は角砂糖をくるくるとガラス棒で溶かす。
「部活になったって、変わんないさー。よくよく考えたらさー、今だって犬養センセが許可したら、誰だって入って来るんだしー」
ここにいないミコトとマコトの定位置を一瞥する。
そうだ、一年の時は、恋愛研究会は秘密の花園だったので、誰も部員になる生徒はいなかった。あるいは、いたかもしれないが、下心ありの男子生徒は、沼田原先輩と宇代木が秘密裏に追い払っていた。
しかし、今年の恋愛研究会は、部員を募った。変わることを自ら望んだ。
もとより、このままではいられない。
覚悟の上だ。
だが、一つ、面白い未来が見えた。
「そういや、俺たち三人とも国公立志望で、理系クラスだって? 佐羅谷、大丈夫なのか?」
「あら、わたしは文系が得意なだけで、別に理系科目が苦手なわけではないわ。国公立大学は理系科目も必須なのだから、不思議じゃないでしょう?」
「そうだな。宇代木は? 別に佐羅谷に合わせたわけでもないだろ?」
「あははー、あたしは大学なんて行く気、これっぽっちもなかったんだけどねー。ママに、馬鹿にするなって怒られちった。ママはあたしがいないとダメなんだって、ずっとそう思ってたのは、あたしだけだったみたい」
溶けた角砂糖を、ずっとかき混ぜ続ける。
「子離れできてなくて弱くて、娘に依存してるように見えてたのは、あたしがそう見たかったから、そんな母親を演じてくれてただけなのかもね。
ママは、あたしを産んだ時点で、一人で生きてける強さがあったんだなーって思い知ったよ。ほんとに離れられなかったのは、あたしのほう。親離れできない、ただの子供」
「未成年が親離れできなくて、何が悪い。かじれるだけ脛をかじれよ」
「脛を適度にかじるのも、きっと親孝行だよねー。それはともかく、あたし、ちょっと本気出すよ」
ガラス棒がビーカーに当たるカラカラという音が消えた。
「あまね、あたし負けないからねー?」
「何の勝負かわからないけど、友達として受けて立つわ」
「むふふー、言ったねー、上等上等」
果たして、佐羅谷は宇代木が学力をごまかしていることに気づいているのかどうか。
どのみち、成績くらいで二人の友情は動かないだろう。勝負は勝負として、面白いことになるだろう。
「それから、くーやんも覚悟しなよー? あたしに本気出させたいんでしょ?」
「は? 俺は成績で二人にはもともと負けてるし」
「成績なんて、関係ないじゃん。さすがのあたしも気づかなかったよー。まさか、高森くんとワンカさんの問題に絡めて、あたしまで巻き込んでたなんてさー。でもさー、ひどくない? いくらあたしでも、あんな男子はムリだよー」
「前は、誰とだって付き合うって言ってたじゃねえか」
「知らない人とはね、だけど、あの男子は知らないわけでもないし、卑怯じゃんか、やり方が」
「そうだな」
「いま、あたし、フリーだから」
「そうか」
「あたしを本気にさせたんだかんねー。責任とってもらうからねー」
どうやら、俺の画策はすべて明るみに出てしまったようだ。
もともとの計画は、こうだ。
高森と犬養先生は穏便に終わらせる。こちらは単独の計画で、問題なく完遂する予定だった。
宇代木は、依存をやめさせることが狙いだった。宇代木のお母さんにまで会って、宇代木の心を縛っているものは何か、確認までした。突き放して激励するようにも仕向けた。
宇代木ママは、宇代木が言うほど娘に依存しているわけではなかった。昔は知らないが、一人で子育てする強い女の人だった。経済的には厳しいようだが。
依存しているのは、宇代木本人のほうだ。
佐羅谷と宇代木母。
宇代木を縛り付ける(と思い込んでいる)、依存を正当化する二者から、くびきは解き放った。あとは少しずつ、宇代木が一人の人間として、己が足で立てるようになればいい。
そして、宇代木とセレットは、あわよくばつきあわせる。セレットの意識を改革したのは、セレットが本気で宇代木を得たがっていると思ったからだ。
……セレットが、宇代木の過去を持ち出して脅すという無意味なことをしなければ、可能性はあったものを。
計画は、俺のエゴのためだ。
だから俺は、宇代木をとことん応援する。
「責任か。時が来たら、真剣に恋愛相談してやるよ」
「そーだねー。告白とか、デートの予行演習とかしてくれるー?」
「必要ないと思うが、お望みとあらば」
告白の予行演習というか、演技はしたなあ、と佐羅谷を見ると、ジトッとした目で睨み返される。佐羅谷の黒歴史だな。
「ほんと、九頭川くんも立派になったものね。わたしたちに相談もなく、勝手に依頼を受けて、部員まで巻き込むなんて、大物だわ」
尖る佐羅谷のことば。
「なんだよ、部員同士だからって、恋愛が絡んだら言えないことだってあるだろ」
「そうね、むしろ天をたばかろうとして隠し通したのは褒めてもいいわ。ただ、よ~く覚えておきなさい」
にこりと笑う顔は、なぜか能面のように無表情だった。
「あなたの恋愛相談は、あなたに恋人ができるまで終わらないのよ。自分が相談中だということ、忘れないことね」
「……相手が、いないって」
俺は喉の奥から搾り出すだけで精一杯だった。
佐羅谷も宇代木もしらけさせてしまったようで、黙ってコーヒーを味わう。
砂糖を入れなかった俺のコーヒーは、底に溜まったインスタントの粉がいつも以上に濃く、この味を、もしかしたらほろ苦いと言うのかもしれない。 俺は一つ、大人の世界へ足を踏み入れた。
(了)




