5巻前半『那知合花奏は目立ち足りない』
登場人物名前読み方
九頭川輔 (くずがわ・たすく)
佐羅谷あまね(さらたに・あまね)
宇代木天 (うしろぎ・てん)
犬養晴香 (いぬかい・はるか)
沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)
佐羅谷西哉 (さらたに・いりや)
谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)
那知合花奏 (なちあい・かなで)
山崎 (やまざき)
高森颯太 (たかもり・そうた)
神山功 (こうやま・たくみ)
田戸真静 (たど・ましず)
田ノ瀬一倫 (たのせ・いちりん)
入田大吉 (いりた・だいきち)
上地しおり (かみじ・しおり)
三根まどか (みね・まどか)
沖ノ口すなお(おきのぐち・すなお)
豆市咲蔵 (まめいち・さくら)
山田仁和丸 (やまだ・にわまる)
序章
「のう、九頭川さんや」
教室の窓際の席に、弁当を食べに集まると、いつもはすでにおにぎりを一つ食べ終わっているはずの山崎が、メガネを怪しく輝かせる。
「なんですかのう、山崎さんや」
いつものノリで返すと、教室の一部の視線が痛い。山崎と俺は文化祭前の実況と解説でちょっとクラスで有名になり、いつフラッシュモブ的に面白いことをするかと芸人枠扱いされてる。
そこの女子、スマホの動画撮影準備はやめましょうね?
「我らが姫君、尖塔の薄幸少女、佐羅谷あまね嬢が、文化祭でYouTube配信をしていたのだよ!!!」
「お、おう」
「見たまえ、このライブ配信の最後の様子を! 薄絹の向こうからまるで女神のように姿を見せる深窓の令嬢を。煌めく後光は、まるで天照大神!」
「お、おう」
俺には、ただの夕日に照らされた教室の埃にしか見えないが、山崎の妄想力と信仰心はサクラメントを射止めんと欲す。
「そして、見よ、同じ部活にビッ……」
言いかけて、メガネをクイっと上げる。
「いや、ギャルとイケメンがいるらしい」
文化祭の最後の挨拶、俺たち三人が並んだ場面が山崎のスマホに流れている。
ていうか、山崎よ、そのギャルとイケメン(?)に、おまえは会ったことがあると思うんだが。
「このギャルはどうでも良い。問題はこのいけ好かないイケメンだ。今だ、最後の場面だ!」
感極まった佐羅谷が、俺と宇代木に飛びついて来たところだ。いま思い出しても面はゆい。
「聞けい、九頭川隊員!」
「はあ」
「返事がぬるいわ!」
「サー、イエッサー!」
「いい返事だ、九頭川隊員! 貴様はこのイケメン男子が誰なのか、探りを入れよ! 俺たちのパブリック・コモンズ佐羅谷あまね嬢を間近で見られるなど、なんとうらや……けしからんことこの上ない! 佐羅谷嬢は我々が守護し、奉らねばならぬ!」
「さー、いえっさー」
「うむ。そのやる気のない声と顔と態度以外は完璧だ」
どこまで本気かわからない山崎は、双眼鏡を手に残りの弁当を食べ始める。目はグラウンド向こう、尖塔の佐羅谷を眺めながら、手は器用に弁当を摘んでいる。
「うむ、相変わらず清楚にして可憐、庇護欲をくすぐる乙女だのう」
俺も弁当を広げながら、はたと気づいた。
(そうか、髪型も違うし、メイクもしていたから、俺だと本気で気づいていないのか)
野暮ったく目立たないことを本意としている教室での俺が、佐羅谷や宇代木の隣に立つ雰囲気イケメンと同じだとは、ぱっと見ではわからない。ましてや、山崎の情報や考察は、ひどいザルである。本気でかのイケメン(笑)を探す気もないだろう。
なにしろ、山崎は佐羅谷が属している同好会が何をしているかも、誰がいるのかも、ほとんどわかっていないからだ。
「ふう……」
物憂げなため息も、山崎がすると鬱陶しさしか感じない。
「ハロウィンでケモ耳メイドさんのコスプレしてくれないかな。ヤンデレシスターもいいのう」
「おい、妄想は妄想に留めておけよ」
「ドSサキュバス……」
「やめい」
一瞬いろいろ想像してしまって、振り払うように山崎の頭をはたく。
山崎はむふふふと気持ち悪い笑いを漏らしていた。
もうじき、九月も終わる。文化祭の後は、一気に秋の空気だ。秋は、俺の嫌いな体育祭が控えている。せいぜい、目立たず気楽に、つつがなく過ごせるように祈るばかりだった。
一章 那知合花奏は目立ち足りない
ありえない出会いに、凍りつく。
「あ、やっと来た。おい、たっすん、いーちゃん、早く開けて」
理科実験室の扉に身を持たせかけ、スッスッと高速でフリックしていたスマホから顔を上げる。
意志の強い大きな目。くっきりとメイクしたオレンジの瞳が、ぱちぱちとまばたきする。浅黒い肌に、意志の強い顔立ち。アッシュパープルの長い髪がふわりと揺れる。肩甲骨の下くらいまで届きそうだ。
スマホをスカートのポケットに仕舞う。スカートの縁から覗く脚は長く、適度に筋肉質で、健康的に黒い。白いくるぶしソックスに、ピンクのスニーカーが目立つ。あれ、校則違反じゃないか。
オレンジがかった厚い唇がにんまりと弧を描く。
那知合花奏。
半年ぶりにきちんと対面した彼女は、やはり、いつまでも変わらず那知合だった。
「那知合……」
「なーに遠慮してんの。前みたいに花奏って呼べばいいのに」
扉の前に立ち、俺たちを見やる。
隣の宇代木は、俺と那知合を交互に窺っている。
「呼べるわけねえだろ」
「ゆーとに遠慮してんの? たっすんらしいなあ」
「そのたっすんってのも、やめろよ。殺されるだろ、俺が」
「あははは! 笑う!」
何が面白いのか、俺の胸板を手のひらでバンバンと叩く。
ああ、そうだなあ、那知合はこういう女子だったなと思い出す。この距離感が普通なんだ。さすがに赤の他人や知り合い程度にここまで「あけすけ」ではないが、友達認定した相手には、男女問わず、パーソナルスペースが近い。
今も俺の胸に手を乗せたまま、目の端に滲んだ涙を指で拭う、その顔は、額が当たりそうなほど近い。
ゾクリと、エキゾチックで脳をかき混ぜる香りが俺の本能をくすぐる。
「ちょっと、ナチ子、近すぎ!」
鼻をつく匂いが消えて、俺は理性を取り戻す。
宇代木が、俺の腕を抱くように那知合から引き離した。
「あー、ごめーん。なんだ、たっす……たすく、いーちゃんと付き合ってたんだ」
「つつつ、つ、付き合ってなんかないし!?」
「つつきあってないし?」
「わざと聞き間違わないでよー、もー!」
「なあんだ、付き合ってないの。つきあったらいいじゃんね。いつもみたいに」
「やーめーてー! そういうのいいから! いいからー!」
ううむ、宇代木が翻弄されている。これはちょっと珍しい。別にいじめているとか嫌味を言っているとか、そんな感じはない。ただ本当に思ったままを口にしているだけで、一切の悪気がない。
「あ、そっか、たすくの好きなのってサラタニさんだっけ? ゴールデンウイーク前に告白してたよな」
「してねえよ。あれは入部を伝えに行っただけだ」
「ふーん。ほんじゃ、たすくは誰が好きなん? サラタニさん? いーちゃん? それともおっきー? しおりとか、まどかもいるじゃんね」
「ほんと、おまえなあ」
身近な女子を全員挙げていったら、いつかは正解に辿り着くだろう。大して知りたくもないくせに、脊髄反射で追求してくるから厄介だ。
「ナチ子、ほんとやめなよー! そういうのはさ、デリケートな問題だから!」
俺にヘッドロックをかけようとしながら、アニメのエロ親父のようなだらしない表情をする那知合と、レフェリーのように剥がそうとする宇代木。だが、那知合は強引で、宇代木は力不足だ。俺は諦めている。谷垣内と同じで、那知合はこんな感じだ。
「ありゃ? たすく、背、伸びた?」
腕をかけようとして、少し首が遠くにあることに気づいたのだろう。那知合は頭の上に手を置いて、背を測る仕草をする。
「あー、そういえば、二年になってからちょっと伸びた。やっと一七〇を超えたよ」
「えー、よかったじゃんよ。ずーっと自称一七〇だったもんなあ」
那知合も宇代木も、女子にしては高い方で一六五くらいある。ぱっと見は俺とほとんど変わらない。
……本当は、女子より十五センチくらい高くなりたかったんだけどな。だが、親父は一六五くらいだし、それでもモテモテだし、あまり関係ないんだろうな。
「ちなみに、ゆーとは二年で一九五を超えました」
えっへんと胸を張り、制服のブレザー越しにわかる膨らみを見せつけつつ、谷垣内の身長を報告する。
「バスケ部だもんな」
「バスケ選手にしては、まだまだだけどなあ」
「谷垣内くん、そんなにあるんだー」
三人で、いかに一九五センチの身長が高いかを語り合う。
谷垣内の名前が出たのがまずかった。
ぺろりと舌を出す。
「ふふーん、ゆーとがねー、……ほんでねー、……」
延々とのろけが始まる。
さすがの俺も、こんな那知合は見たことがない。一年の時は、彼女の立場になれなかったし、遠慮があったのだろう。抑えていたものが溢れ出したようだ。
隣の宇代木は笑顔でわざとらしく相槌を打ちながら、何も聞いていない顔だ。この外面は驚異的だ。
(幸せのお裾分けか)
これを聞かされている友達の女子三人の内心を思うと、気の毒になる。情熱的で活発なかっこよさを那知合に求めていると、こんなにメロメロな様子に、困惑するだろうな。
上地が、目指すべきを見誤って、夏休みに暴走してしまったのも頷ける。いつか上地にも、ここまで心酔できる恋人ができることを祈る。
「ちょっとぉ、たっすん、聞いてる〜?」
俺が上の空なのを咎める。すでに呼び方も戻ってるし。
というか、笑顔で相槌を打つ宇代木のほうが、これたぶん何も聞いてないぜ?
俺の襟をつかんで問い詰めようとした時に、ふっと背に影が差す。
「まったく、部室の前で何を騒いでいるのかしら」
文化祭のときとは打って変わり、深窓の令嬢の仮面を貼りつけた佐羅谷あまねが、ふわりと髪をかき上げる。
「あー、サラタニさんだ! ほんとにここで部活やってるんだ! ウケる!」
「……何も受けないけれど、とにかく、教室に入りましょうか」
佐羅谷は目の端をピクピク震わせながら、理科実験室の鍵を開けた。
文化祭が終わって、興奮冷めやらぬままの恋愛研究会最初のお客様は、とんだ爆弾だった。
「適当に座って」
佐羅谷が案内するよりも前に、那知合は椅子にまたがり、物珍しそうに理科実験室を見回す。
「へー、こんなふうになってんだー」
自分も授業で入ったことがあるだろうに、意味もなく机ごとにある水道の蛇口を開け閉めする。
俺たちは那知合を無視して、まずはコーヒーの準備をする。佐羅谷がガスバーナーで湯を沸かし、宇代木がビーカーを四つ持ち出してきて、俺がインスタントコーヒーと角砂糖とフレッシュを持ってくる。
佐羅谷はブラック、宇代木は砂糖とフレッシュが一杯ずつ、俺は砂糖が一つ。
「那知合は、砂糖もミルクも多めだったよな?」
「あー、ううん、違う違う。今あたしさ、ブラックで飲めるように訓練中なんだ」
「訓練するようなもんかよ」
「知ってたー? ゆーとはさ、ブラックなんだぞ」
「なるほど」
俺は入れかけた砂糖とフレッシュを戻し、自分の角砂糖一つ入ったビーカーを見つめる。
そっと宇代木のビーカーに、角砂糖一つを移す。
「ちょっ、くーやん! 何してんのさー。あたしを糖尿病にする気!?」
「がんばった宇代木さんへのご褒美だよ。知ってるか、宇代木。ホットコーヒーを飲むと、体が温まって汗をかくだろう? 汗をかくとカロリーを消費するから、コーヒーはどれだけ砂糖を入れても実質カロリーゼロなんだ」
「えー、そうなんだー。って、それとこれとは別じゃん!」
「汗をかいてカロリーゼロになるなら、カレーも坦々麺も鍋焼きうどんもカロリーゼロだと思うのだけど」
佐羅谷がガスバーナーに小さなヤカンを乗せて、難しい顔をする。どこにそんなヤカンがあったんだよ。
「だいたいなんでさ、急にくーやんまでブラックで飲むのさ。あたし一人子供みたいじゃんか」
ぶつくさ言う宇代木を放置して、やがてこぽこぽとお湯が沸騰し、全員のコーヒーが入る。
「はい、那知合も。ビーカーだけど、ちゃんと洗ってるから」
「すげー。なんかマンガみたいだよなー、ビーカーでコーヒー飲むやつなんているんだ。エモっ」
ケタケタ笑いながら一口飲む前に、顔の横にぶら下げてスマホで写真を撮る。コーヒーを撮りたいのか、自分を撮りたいのか。そして、苦いだの熱いだの文句を言う。
まあ、苦いな。ブラックの良さは、まだわかりそうにない。
理科実験室のパーティ準備は整った。
佐羅谷が咳払いをして、那知合を見据える。
「それで、那知合さん。今日は何の用なのかしら?」
「あー、うん。あんたたちってさ、三人でつきあってんの?」
「ブホッ」
「ン」
「うわ、くーやん汚い〜」
「おまえも、口の端からこぼれてるぞ」
突拍子もない那知合爆弾に、コーヒーを吹き出す俺と宇代木。平気なのは、佐羅谷だけだが、カンッとビーカーを置く。
「……どこをどう見たら、そんな無礼なことばが出てくるのかしら」
目の横のピクピクに加えて、青筋を浮かべ、佐羅谷が那知合を睨む。
「えー、だってそーじゃん、三人ともさ、部室入ってからな〜んにもしゃべんないのに、完璧じゃん、連携! ヤバすぎ! コーヒーの甘さまでわかってるなんて、絶対そうじゃん」
「九頭川くんは、半年会っていなかったあなたの嗜好も覚えていたようだけど?」
「そりゃー、たっすんは気配りマンだし、当然っしょー。だいたい、たっすんはあたしのこと、」
「あー、わかった、もういいもういい、那知合ちょっと静かにな。俺たちはただの部員同士だから! 半年一緒にいたら、コーヒーの好みくらいわかる、そうだよな?」
「そうよ、まったく、失礼だわ。しかも、三人でつきあうなんて、どういう発想なのよ」
佐羅谷は深呼吸している。
「だってさ、恋愛研究会っていうんだっけ? ちょっと変わってるじゃん。付き合いの形もセンシンテキなのかなって。ほら、彼女と恋人が別々とか、日替わりとか」
「はい、もういいから、頼む、那知合、これ以上佐羅谷を怒らせないでくれ!」
タオルを投げ込みたい気分だ。
「あははー、ナチ子は相変わらず自由人だねぇ」
宇代木には言われたくないと思う。
いったんは那知合も落ち着いて、しばらく静かにコーヒータイム。インスタントの香りに、心が洗われる。
やっと、恋愛相談をする態勢が整った。
佐羅谷が、視線を集めるよう、咳払いをした。
「それで、那知合さん、今日は、何の相談なのかしら? まさか、おしゃべりしに来たわけじゃないでしょう」
那知合の相談は、要領を得なかった。
というか、那知合は、もともとこんな感じだ。
「自分のさ、チャンネル作りたいのよ。わかる? YouTubeの。TikTokはあるんだけどさ、もちょっとちゃんとしたやつがほしいのな」
「あー、ナチ子もついにYouTube進出するんだー」
ダンス好きで小さい頃から習っていた那知合のこと、今まで動画を上げていないなんてことは。
「え、那知合、もう動画上げてたよな」
「お母さんが勝手に小さいときに作ってたやつでね。あたしが自分で上げてたんじゃないのさ。今は、事実上ダンス部のアカウントになってるし」
「こないだの文化祭のダンスも編集しないとだねー」
佐羅谷抜きで話を進めていると、こんこんと机を叩く音がする。佐羅谷が満面の笑顔と渋面を同時に見せた。えらく器用な顔だな、おい。
「あのね、あなたたち。それは恋愛相談ではないわ。ただの雑談よ」
「なんだよ、サラタニさんだって雑談してるじゃん」
「そりゃあ、雑談くらいするでしょう。部活なんだし」
「教室じゃ、雑談も何にもしゃべんないじゃん。あたし、びっくりしたよ、ほんと。サラタニさんもしゃべるんだーって」
「那知合さん、ここは恋愛相談の場よ。雑談なら、休み時間にでもしてちょうだい」
「わ、怖っ。それそれ、どーして教室だと黙ってるんさ」
「……っ」
那知合に悪気はない。
悪気がなく、脊髄反射でトークしているだけだ。
佐羅谷は真に受けて、ひくひくと顔をひきつらせる。
「わたしのことは放っておいてくれるかしら。YouTubeのチャンネル? 作りたければ、好きにしたらいいじゃない」
「だっからさー、それの相談してんじゃん。聞いてる?」
ダメだ、全然噛み合っていない。
那知合には俺という通訳が必要か。
「谷垣内に気兼ねしてるのか?」
「ゆーとはさ、あたしにはホント甘いっていうか、も少しわがまま言ってくれたっていいのにさ、心が広いフリっつーの? そこがまた、かわいいんだけどさ」
「なるほど、谷垣内がガラにもなく優柔不断だってことはわかった」
「ゆーじゅーふだんじゃなくて、優しいんだよ。嫌じゃんよ、ゆーとが内心嫌だって思ってることやって、嫌われちゃうのなんて。やっと付き合えたんだしさ〜」
ああ、なんて柔らかい笑顔を見せるんだよ、那知合。勝ち気な女王様の猛々しい姿が瞼に焼き付いている俺には、まるで別人に見える。
「二人、付き合いは順調そうで良かった」
「ほんとだよねー、ダンス部で見てきたナチ子とはまるで別人でさー。付き合い始めて、谷垣内くんのこと、ますます好きになったんじゃない?」
宇代木も呆れるほどの蜜月ぶり。
「なーにー、いーちゃんもわかるー? むふふー。あー、でも、思ったよりは普通の男だったかな。もっとずっとトクベツな理想のオトコ! だと思ってたのに、案外フツーっていうか、ちゃんと高校生の男子なんだなっていうとこもあってー」
「ほう。谷垣内の飾らない部分に幻滅したか?」
何気なく、むしろ谷垣内にもそんな隙があるのかと驚いた気持ちでつぶやくと、何言ってんだこいつ、という顔で那知合にむしろ俺が幻滅される。
「逆じゃん。ゆーとも普通の男子なんだなって思って、だからもっともっと好きになった。一年以上も好きなのに手も出さなかったんだから。それだけあたしのこと思ってくれてたんだって。惚れ直すよ、最高じゃん」
那知合は胸の前で手を組み、頬を染める。那知合にこんな顔をさせるのは、谷垣内だけだ。
谷垣内、だけだ。
「だからさ、だけどさ、あたしもゆーとにぶら下がるだけじゃダメなんだって! カノジョにふさわしい女にならなきゃなんだって!」
「那知合は、いつだって、谷垣内のことしか見てねえな」
「え、くーやんが嫉妬してる!?」
「独り言を聞くんじゃねえよ。なあ、谷垣内は彼女がYouTubeをやってても受け入れる器だろ?」
「そう? やっぱ? んじゃあ、たっすん、手伝ってよ。決まりね。それでさ、も一個あんの。学校のなかでも、知名度上げたいんだ」
拒否する間もなく、勝手に俺の協力が組み込まれていく。
すでに佐羅谷は話を聞く気もなく、ビーカー片手に文庫本を開き始めた。
「知名度って、同学年以外にも知られているほうが一握りだろ? 那知合は、有名人じゃねえか」
「ゆーとと比べたら?」
「それは相手が悪い」
「ダメじゃんよ。あたしが付き合ってんのにさ、ゆーとに近づいてくる女がいたら嫌なわけ。周りから見て、入り込む隙がないくらいじゃないと。わかるっしょ?」
谷垣内と那知合が並んでいると、よほど豪気な女子でないと、粉をかけようとは思わないだろう。
体格が良くて元気いっぱいなギャルである那知合も、弱気な人間からすると怖いものだ。だが、谷垣内を好きになるような女子は、似たような傾向だろうから、那知合も盤石とは言いがたいか。
(それにしても、谷垣内と並んで立ちたい、か)
俺なら、およそ思いつきもしない発想だ。男は弱いものだ。ただ好きだとか、気が合うとか、一緒にいたいとか、素直な感情では相手を選べない。すべてにおいて自分より優れた女子とつきあっても、いつフられるか、いつ他の男に盗られるか、気が気でないだろう。
相手の気持ちがぶれずとも、嫉妬し、卑屈になり、体や心を傷つけてしまうかもしれない。
俺は、弱い男だ。
「谷垣内は、すげえな」
那知合が今より格を上げても、嫉妬もしないし、受け入れるだけの器があるし、そう感じさせるだけの余裕がある。
「ゆーとはすごいんだぞ」
那知合のひまわりのような笑顔は、俺には眩しすぎた。
「ナチ子がこれ以上有名になるってさー、難しいよね。文化祭のダンスで、下級生にも知られたと思うけど」
「いーちゃんに半分以上持ってかれたじゃんね。ダンスの技術とか情熱では勝ってるつもりだけどさ、フツーの人にわからねーし」
「あはははー」
コミュ力でいろいろな部活に顔を出し、スキのある緩い態度で親しみやすい宇代木は、那知合より気安い。
「那知合は宇代木とか佐羅谷の路線を真似しても、無理だろ」
「あー、たっすん、そんなこと言っちゃうんだー。あたしがこの二人に劣ってるって?」
「違うって、怒るなよ、怖い。キャラが違うんだから、コミュ力モンスターにもミステリ大好き毒舌少女にもなれないってことだ」
半顔で睨む那知合の視線は、本気と書いてマジだ(昭和表現)。
忘れがちだが、那知合も怒りの沸点が低めだ。すぐにフォローを入れる。とにかく、恋愛研究会の二人とは傾向が違いすぎる。親しさの輪や孤高のカリスマ性で知名度を上げるより、例えば、決断や指導で名を上げるほうがーー。
「くーやん、モンスターって誰のことなのかな?」
「九頭川くん、毒舌の具体例を挙げてくれるかしら?」
しまった、つい本音が。
「あー、架空の事例に突っ込むなよ、なんにも、まったく、一切、この発言はフィクションであり、現実の人物・団体とは関係ありませんって。ほんとほんと。だいたい、佐羅谷、さっきまでコーヒー飲みながら読書してたろ?」
「聞き捨てならないわね。わたしが相談中に遊んでいるみたいじゃない」
「うわあ、反応に困る」
「くーやん、あたしの話も終わってなくてー。だ! れ! が! アメノウズメだってー?」
「言ってねえし! その自己評価は高いのか低いのか? モンスターですらない!」
右と左に交互に問い詰められていると、けたけたけたと笑い声が部屋に響く。
「いーっひっひっ! おっかしーの! サラタニさんも、絶対こっちのほうがかわいいって! 教室でももっとしゃべろうよ。今度、アルル行こ。サラタニさんに合う服選んでみたいよ」
「洋服くらい、自分で選べるわ」
「いーちゃんも、毎週オトコが変わってた時なんて、目だけ死んでたじゃんね。今は生き生きしててめっちゃかわいい!」
「やめてよ、ナチ子! あんなの、つきあってるって言わないよー!」
一通り笑い、目の端に浮かんだ涙を指で拭う。
「そいやさ、あれ考えてよ、たっすんが球技大会でした自爆みたいなの! 今度、体育大会あるっしょ? あれで、なんかばーっとあたしっぽいやつで。ほんじゃ、あたしそろそろ行くわー。ゆーとも部活終わる頃だし。じゃーねー」
スマホで時刻を確認し、那知合は短いスカートをさらに一段巻いて立ち上がる。
もはや俺たち三人は反応できず、その場で茫然と見送る。
理科実験室の扉から半分身を消したところで、ふいに顧みた。ただし、目は鏡がわりのスマホを見て、髪型を直している。
「あ、そだ。たっすん、二学期の最初、登校できなかったんだって? よかった、元気になったみたいで。いちお、謝っとくな、ごめん。まさか、あたしにフラれたくらいでそこまで落ち込むなんておもってなかってさ」
「……っ!」
「ほいじゃーね」
俺は、立ち上がって駆け出す姿のまま、固まっていた。
空気が、背後で凍りついた。
「へえ」
「ふ〜ん」
その日、それ以降、音が死んだ。
佐羅谷も宇代木も一言も口を聞いてくれず、俺が透明人間であるかのように振る舞う。
なんだよ、俺が悪いのかよ。俺だって、好きな奴はいたし、フラれるのはわかって告白したし、恋愛っぽいこともあったんだよ。
佐羅谷も宇代木も経験豊富なくせに、全然昔の話も今の話もしないだろ? 何も言わないのは、俺一人じゃない。どうして勝手に不機嫌になるんだ。
なるほどわからん。いっちょんわからん。
「どうしたの、九頭川くん。あらたまってさ。え、部活の作り方? へえ、ちょっと意外だなあ」
ボルダリング部の部長にして、クラスメイトにして、数少ない俺の友達、笑顔のかわいい少年、神山功。
だが、見た目の小柄で優しげな雰囲気に騙されてはいけない。自らボルダリング部を創設し、運営し、巻き込んだ顧問もうまく扱い、すでに大会での活動実績もある。
「ああ、恋愛研究会を部活にするには、どうしたらいいのかと思ってな。神山はシリアル・アントレプレナーだろ?」
「そのシリアルなんとかが、なんなのかわからないけど、多分違うと思うんだけど、部活用件は簡単だよ」
神山の話をまとめると、部員が五人必要ということだ。あとは、公序良俗に反しないこと。
「でもね、恋愛研究会は、ちょっとわからないよ。ボルダリングはさ、ちょうどオリンピック競技にもなったし、スポーツとしてわかりやすいじゃない?」
「なるほどな、胡散くさい活動内容だと、許可されないことがあるわけか」
「そういうことだね。実際にどんなことをしているのか、してきたのか、記録でもあればいいんだろうけど。ぼくはさ、恋愛研究会が真面目な部活だってこと知ってるけど、大人は……」
「誤解されやすいだろうな。まったく、めんどくさいぜ」
「ねえ、部活にしたいっていうのは、九頭川くんの考えなの?」
「いや、部長、佐羅谷の発案だけど」
神山のまっすぐな双眸が、いつになく鋭い。
「九頭川くんは、指示で動いているだけ?」
「いいや、自分の意志だ。でなきゃ、おまえに聞かないだろ」
「そうだね」
かわいらしく神山は目を細める。
「九頭川くんはさ、怖くない?」
「怖い?」
「同好会と部活動は、全然別物なんだ。学校のホームページに名前が載るとか、活動補助費が増えるとか、表向きはどうでもいいよ。怖さっていうのは、」
神山の顔が、秋口の昼下がりとは思えないほど、冷たく徹る。
「入部と退部に拒否権がなくなること」
かつらぎ高校の同好会だけだろうか。
部活は、学校のものだ。
同好会は、構成員のものだ。
そう、これは自分で生徒手帳の項目を読んでいて、驚いた。
同好会は、構成員の所有物扱いだ。だから、入部拒否ができるし、本来は退部も全員の承認が要る。実際は、来なくなればどうしようもないが。
「ぼくはもともと部活動を目指していたし、同好会と部活の違いもよくわかってなかったし。だけど、部活としてちゃんとやり始めるとさ、遊びでも遊びじゃなくなるんだよ。ボルダリング部も、一人辞めちゃったしね」
笑顔で軽く流すが、心根の優しい神山にとっては、重いことだったに違いない。
「恋愛研究会は、特殊じゃない。一人一人の個性が大きすぎるというか、普段は別のことをしている人が、プロジェクト的に集まっているというか」
「恋愛研究会製作委員会」
「そうそう、アニメだとそんな感じ。だから、なおさらだよ。今の、優しくて、静かで、温かくて、微妙なバランスで保たれている恋愛研究会は、きっと維持できなくなるよ。九頭川くんは、大丈夫なの?」
「大丈夫も何も」
大丈夫は、どうでもいい時に使うことばだ。大丈夫でなくとも大丈夫と聞かれたら大丈夫と答える。
だから俺は、大丈夫だ。
「部長様が望むんだ。俺は、その通りに動くだけだ」
嫌だ。
イヤだ。
谷垣内や那知合が相談に来るだけで、侵食されるあの感じが耐えがたい。田ノ瀬みたいな全国区のイケメンが来たときなど、気が気でなかった。
今まではみな相談者だった。
今後は、部員として居座る者が出る。俺が入ったときも、宇代木でさえ慣れるのに時間がかかったという。佐羅谷も、平然としてはいたが、内心落ち着くまで心を擦り減らしていたのかもしれない。
「九頭川くんは表情豊かだね」
「神山は思ったより嫌なやつだな」
「ぼくはもともと、こんなだよ。みんな勝手に誤解するんだ。かわいらしくて小さな男の子なんだって。優しくて素直で純情で裏表がないんだって」
神山は弁当箱の包みを掴んで、立ち上がる。
「九頭川くん、何かあったら、相談してね。ぼくじゃ、頼りにならないかもしれないけど」
「まったく、神山が女子だったら、好きになってたのにな」
「もう、すぐそういうことを言う!」
予鈴前に教室を出る神山を見送り、俺は窓からグラウンド向こうの尖塔を見る。すでに深窓の令嬢の姿はない。
(仕方ねえだろ)
俺だって、今の居心地の良い環境を動かしたくはない。
だけど、このぬるま湯は、いつまで経っても何も変わらない。成長や進化が常に正しいことだとは思わないが、このままだと俺たちは閉じたまま消えてしまう。
動かないと、世界は変わらない。
ヒキオタニートの俺のおじさん、山田仁和丸(40)は、いまだに中学時代の初恋相手のミキちゃんとコンビニで偶然に出会って、実はお互いに好き同士だったとわかって結ばれるという痛い妄想を何度も何度も俺に語る。
山田仁和丸には、自分が四十を過ぎたおじさんであるということがわかっていないし、同級生のミキちゃんも四十のおばさんであるということが理解できていない。
いつまでも、おじさんの中では、ミキちゃんは中学生のセーラー服を着て、純真な瞳をしたちょっとお転婆な女の子なんだ。
俺は、嫌だ。
俺は、大人になるなら、おじさんになるなら、おじいさんになるなら、佐羅谷も宇代木にも同じように歳をとってほしい。思い出の中でいつまでも若いなんて、そんなのは、地獄だ。
佐羅谷と宇代木を、思い出にしない。
恋愛研究会を、思い出にするんだ。
「アンニュイなため息をつく九頭川よ」
俺の深い思索を遮る山崎が、向かい合う机で紙パックのコーヒー牛乳を飲んでいる。
メガネがキラリと光る。
「目の前に我がいるのに、なんだか親友同士で? かっこいい話をして? とことん我を空気にするの? やめてくれない?」
「そういや、山崎。高田市駅のそばのヴェルデ辻甚の横の「くろす」っていうラーメン屋はいいぞ」
「それを先に言うが良い、九頭川よ」
「というわけで、情報料だ。奢ってもらうぜ」
「ぎゃふん!」
たまには、ラーメンもいいじゃないか。親友と真面目な話をした後は、どうでもいいやつと適当な飯を食う。人生のバランスを取らないとな。
文化祭も終わり、すぐにまた次のイベントがやってくる。
体育大会だ。
五月の連休前に球技大会をしたというのに、また十月に体育大会をするという鬼畜仕様。運動音痴には厳しい学校だ。
幸い、クラスで何か企画をしたり、余計な手間はかからないのが救いだ。確か、体育委員と生徒会が中心になって動いていたはず。
俺には一切関係ないな。モブキャラになれる。
「それでは、ホームルームは終わりだ」
担任が、出席簿を閉じると、教室の空気が弛緩する。
「九頭川、ラーメンに!」
「あ、すまん、今日も明日もあさっても、俺部活だったわ」
「のおおぉぉっ!」
あまりに哀れなので一応約束だけしてカバンに教科書を突っ込んでいると、教室の前方の扉が騒めく。
「ごめんくださーい……」
部活へ行く者、帰宅する者、教室でだべる者、動きの錯綜する中で、扉にしがみつくようにおずおずと顔を見せるかわいい子が一人。
ちょうど教室を出ようとしていた沖ノ口が、ばったりと出くわしたところだった。
沖ノ口の長いまっすぐな髪が、ふわりと重力に従うまで、空気が止まった。
ぴょんと教室に跳び込んでくる女。
「あー、沖ノ口せんぱいだ! 文化祭の演劇見ました! 感動しました! クラスの出し物で、あんなにみんな高レベルな演技して、内容まで凝ってるなんて、すごいです。高校の文化祭って一味違うんだなーって思いました。ボクも来年はあっと驚くような出し物がしたいです!」
よくしゃべる女だった。
高くて、よく通る、強い声だ。
強く濃くメイクした大きな瞳に、涙袋が陰る。過激なピンクのインナーメッシュの髪の毛は巻き気味で、緩いツーサイドアップにしている。前髪はすき気味で、眉毛も隠れるくらい。現実世界でツインテなんてなかなか無理だからな。
いかにもカワイイ系というか、アイドル型というか、かわいらしさを前面に出した女子だ。ただし、捕まるとドツボにはまるタイプだ。
しかもボクっ子。
沖ノ口と向かい合って、胸の前で手を組んでいる。尊敬の眼差し。
「そ、そう? そう言ってもらえると、みんな頑張ってくれた甲斐もあるわね」
沖ノ口もまんざらではない。
教室に残っていた面々も、褒められて悪い気はしない。いきなり現れた女子の挙措に、好意的な視線が集まる。遠目にはフェミニンで甘ったるい容姿、なおさら男の目はぬるくなる。
俺も席についたまま、ぼうっと見つめていた。
「あ、自己紹介がまだでしたね! ボクは一年二組、加瀬屋マコト。好きなものは、歌うこととメイクすること! 好きな食べ物は彩華ラーメン、得意な科目は国語と英語、趣味は読書とショッピング、ハニーズとヴィレバンがお気に入りです! それから〜……」
怒涛の勢いで加瀬屋マコトの自己紹介が終わらない。
教室に残っている十五人ほどに、いきなり個人プロファイルが記憶されていく。
合コンみたいだな。だが、こうやって物怖じせず人前で自己紹介ができる人間は、モテるだろう。今の俺なら、わかる。知らない人を、好きになることはできない。当たり前の話だ。だから、モテたければ、知っている人を増やさないといけない。よそのクラスでの自己紹介、これは効果的だ。
実際、教室の隅で山崎はハァハァと怪しく動悸を高ぶらせながら、ノートの隅にフェルマーの定理を書き込むがごとく、何かを必死にメモしている。いやおまえ、好みの女子と違うだろ。
しかし、一年生が何の用だ。
「それで、何か用事?」
「そうでした! えーっと、」
コツンと自分の頭を拳で叩き、小さく舌を出す。
「このクラスに九頭川せんぱいがいるって聞いてきました!」
「たすく……?」
俺は机に突っ伏し、寝たふりをする。
嫌な予感しかしない。
頭に視線が集まっている気がする。
「ふうん、加瀬屋さんだっけ? あなた、たすくの何?」
「たすく……ああ、九頭川せんぱいの名前なんですね! あ、もしかして沖ノ口せんぱいとつきあってたんですか〜? うーん、正直あんまり釣り合ってないですね。でもちょーっとだけお借りしたいです!」
「……っ。つきあってない」
「あ、そーですよねー、やっぱり! じゃあ、遠慮なく借りていきまーす! 九頭川せんぱーい、こっち来てくださーい。来ないと、あることないこと言いふらしますよー!」
はったりだ。
俺はこの女など初めて見たし、視界にいたこともない。だいたい、顔を晒さなければ、頭だけで俺が俺だとわかるはずもない。このままごまかそう。
幸いクラスの奴らも、沖ノ口も、俺を突き出すかどうか、迷っているようだ。何もアクションを起こさない。
「んー、出てきませんねー。沖ノ口せんぱい、呼んでもらえます?」
「君、けっこう図々しいって言われない?」
「あ、そう言えば、沖ノ口せんぱいフラれてましたねー! 何ですかー、嫉妬ですかー? 見ず知らずの下級生に取られるとか思ってるんですかー?」
「たすく!」
沖ノ口は叫んだ。
ああもう、こりゃだめだ。
「こら、マコト。先輩相手に失礼ですよ。控えなさい」
目立たなかったが、教室の扉からはもう一人入ってきていた。口から生まれたゆるゆるツインテとは対照的に、短い黒髪のウルフで、キリッとした面立ちに青みがかった瞳が印象深い。ボーイッシュで、真面目そうな女子だった。
「沖ノ口さん、申し訳ありません。わたしはこれと同じクラスの槻屋ミコト(つきや・みこと)と言います。九頭川さんを探しているのは、本当です」
「ふうん」
「なに、みこちゃ、口出ししないって言ってたのに、約束も守れないんだー」
「マコトに任せると進む話も進まないからだよ」
そして、どこか生徒会長に似た面持ちで、女子受けしそうなウルフショートは、教室を見回し、きっちりと俺と視線を合わせる。
「九頭川さん、来てくれますね」
眉一つ動かさず、まるでロボットのようだ。
「おい九頭川、呼んでるぞ」
俺はわざとらしく山崎に声をかける。
俺は、そこまで知られていない。
球技大会の時は、せいぜい同学年くらいにしか見られていない。文化祭の出し物でも、名前はクレジットに出ていたが、顔までは一致しないはずだ。
俺の顔と名前まで一致するのは、恋愛研究会の最後の配信を見ていた者のみだが、あの時は髪型が違う。画質の荒さもあって、今の俺とは結びつかない。
だが、ウルフショートは、無表情のまま俺を小馬鹿にする。器用な顔芸だな。
まあ、挙動不審になった山崎では、見抜かれても仕方がないか。
「なるほど、そういう人なんですね、九頭川さん。じゃあ、この写真の人物は誰ですか?」
顔を上げた俺の前に、他の人には見えないようにスマホ画面を見せる。
「!」
「おっと」
ひったくろうとすると、軽やかにスマホを胸のポケットに隠した。
あれは、まずい写真だ。
改めてしっかりとウルフショートの女子の顔を見つめる。
怒りとも嘲りとも呆れとも異なる、無感情の目が俺を見つめる。怜悧な少年のように整った目鼻立ちだった。
口だけで、笑う。
薄い色の唇。
「じゃあ、行きましょう」
否もない。
ツーサイドアップとウルフショートに左右を固められ、俺は衆人環視の中、教室を出た。
じっと沖ノ口の視線が背中に注がれていた。睨まないで……。
モテたい。
俺が恋愛研究会へやってきて、最初に吐露したことばだ。
モテたいの一言には、普通の男子高校生としての素朴なモテたいも含まれるが、あの時あの瞬間に絞り出した喉の奥の心の根っこからの餓えは、たぶん、他の誰にも理解してもらえない。
佐羅谷あまねを除いては。
那知合に二回も告白してフラれて、自分にとって好きとは、愛とは、付き合うとは、そりゃあもう、悩んだ。だってそうだろう?
「たっすんは、好きでもない女に告白すんのね」
諦めきれない俺に、那知合は諭すように言った。まるで、姉か母のようだった。姉も母もいない俺にもわかった。あの時の那知合の態度は、同級生に対するではなく、弟か子供に対する慈愛であり、呆れであったと思う。
陽キャ組のテンションについていくのが限界だったことも、那知合にフラれたことも、全部合わせて、俺は穏当に次へ進むつもりだった。
俺が理解していなかった自分の本当の心、モテたいということばに凝集した語り得ぬものを、明示せずに俺に知らしめてくれたのは、佐羅谷だった。
だから、佐羅谷は、俺の救いだ。
俺のモテたいは、……。
「もう、モテるなんて懲り懲りだよ」
心の中でつぶやいた。
怖い。
というか、もう帰りたい。
「ふーん、まこちゃんとみこちゃんね! よろしくー」
宇代木の明るい声は、俺の左右に届く。
いつも通りばっちりメイクの決まった宇代木天の元気印の顔は、満面の笑みだった。だが、目の前にあってさえ、俺とは一切視線が合わない。
恐ろしく怖い。
「加瀬屋さんと、槻屋さんね。恋愛研究会に入部、ということで良いのかしら?」
透明感のある白い肌に、深く緑がかった瞳をぱっちり二重で瞬きする。佐羅谷は姿勢良く座ったまま、俺の左右だけを見つめている。
機嫌が悪い。
ここ、理科実験室に入る前は、外に漏れ聞こえる談笑は、張り詰めていなかったはずだ。
扉を開けた時、「くーやん、ちゃおー」「こんにちは、九頭川くん」が同時に聞こえた。その瞬間までだった。
俺は両腕を女子に絡みつかれて、連行されていた。
有名になると、絡まれることが多くなる。そのぶん、モテることも多くなる。今の俺がモテているとは思わないが、自分が知らない誰かに知られていて、勝手に解釈され、好きに扱われる可能性があることは、身をもって知った。
俺は、左右を固めるツーサイドアップとウルフショートに、抵抗できそうにない。
「あのー、入部の審査をするなら、俺はあっち側だと思うんだが」
佐羅谷と宇代木を指差すが、今のところ、誰も俺のことばを聞かない。
「ずーっと気になってたんですよー。やー、女子の間で有名じゃないですか、恋愛研究会。学年有数の美人な先輩がやってるって、それだけで秘密の花園感ある! だけど、ボクにはやっぱり敷居が高くって、遠目に見るだけだったんですぅ。今回、文化祭のブースを見て、やっと勇気を出して来ました! 感激です」
沖ノ口を見た時と同じようなテンションで、やたらしゃべる。口から生まれたのか。入部希望なら、名前もそろそろ覚えてやらねばならないか。確か、マコト・ザ・ゴルトムント。
「今とっても、きんちょーしてます! 佐羅谷せんぱいはお人形さんみたいに綺麗だし、宇代木せんぱいはグラビアアイドルみたいだし、ボクもここで、恋愛の話をしたり、相談に乗ったりしてみたいです!」
「ふうん、そう、よくわかりました」
佐羅谷はそよ風のように受け流し、肯定も否定もしなかった。宇代木は、でへへへーと気持ち悪い動きをしている。今さら褒められて、まだ嬉しいか?
「それで、槻屋さんは?」
無表情なもう一人に佐羅谷は水を向ける。
「わたしは付き添いですが、入部にやぶさかではありません。佐羅谷さんと宇代木さんの有能な姿は、噂でも実物でも確認済みですから。ともに同じ部活で刺激し合えるようになれば、成長できると思います」
えらく上から目線だな、おい。
こいつの名前は、確か、ミコト。ミコト・ザ・ナルチス。
「わ、わわ。何だかすっごくかっこいいこと言ってるー」
「ふうん、よく犬養先生が入部を認めたわね」
宇代木はキャラのまま本心は知れないが、佐羅谷はひっかかったか。
「付き添いは、必要なくてよ?」
「部活動にしたいという人が、部員を選り好みですか。だったら、同好会のままでいいんじゃないですか」
「別に、悪意のある人を入れてまで、部活動にしたいわけではないもの」
「言っておきますが、少なくとも来年度まで、わたしたち以外に恋愛研究会へ来ようという生徒はいませんよ?」
佐羅谷はグッとことばに詰まる。反論できない。
宇代木は空中を見ながら、頬を掻いていた。
「どういうことだ?」
俺は誰ともなく尋ねる。
マコトがくくった髪を揺らしながら、俺を見た。ミコトが鼻でせせら笑う。
「ふん、本当に九頭川さんはわからないんですか」
「九頭川せんぱい、文化祭の配信の最後、佐羅谷せんぱいが二人に抱きついたじゃないですか。あれはダメですよ。配信の息の合い方、信頼関係、極め付けは並々ならない友情。
もう、完璧じゃないっすか。あんなかんどー的な場面を見せられて、入部しようってのこのこ名乗り出てくるのは、サイコパスかオクトパスくらいですよ」
「あの凛と澄んだ美しい空気、演劇の一コマであるかのような輝き、他者を寄せ付けない孤高、普通の神経なら、自分があちら側へ行こうとは思いませんね」
じゃあおまえらは何なんだよ。
サイコパスでもオクトパスでもないのか。
「ボクも、知りたくなったんです」
マコトが、立ち上がった。
胸に手のひらを当てて、声も一段低く、大きな目が熱烈に燃える。
「ボクも、せんぱい方のように、輝けますか? せんぱいと一緒にいたら、見る側じゃなくて、感じる側になれますか?」
ことばもない。
サイコパスでもオクトパスでもなく、パトスだけか。
俺は、自分では失敗ばかりで、その場しのぎで、何とか取り繕いながら、常に自問自答、危うい綱渡りに、肥大する自意識をかろうじて見ないふりをして、今を生きるのに必死だ。
それが、傍目で見て羨ましがられるような生き方だとは思えない。
マコトの目は、俺たち三人に平等に注がれている。
佐羅谷と宇代木だけではない。
俺にもだ。
向かいの同学年の二人をチラリと盗み見て、返事をする気がないことを知る。
視線を戻すと、マコトの顔は真っ赤だった。
「なーんて、こんな真面目なの、ボクのキャラじゃないっすね! だけど、ほら、やっぱりここに来るのって勇気が要るじゃないですか。だから、幼なじみのみこちゃに頼み込んだんです」
「マコトは悩むとぐちぐちうるさいので。わたしは、先輩方の「青春」は観測者としては興味深いですが、自分事とは思っていません。ただ、近くで、どうなるのか、どう変化するのか、どう帰着するのか、その他諸々、気になってはいます」
ウルフショートは性格までウルフだ。
全然恋愛に興味もないくせに、俺たちは見せもんじゃねえぞ。
俺が小言を吐く前に、佐羅谷が口元に手を当てて微笑んだ。
「うふふ、なるほど、そういうことね。わかったわ。だから、あなたも犬養先生は許可したのね」
「あははー、いいこと、みこちゃー、観測はねー、観測する者も変化せずにはいられないんだよー。観測という行為そのものが観測結果も観測者も変えちゃうんだ。覗き見ることは、覗き見られることだかんねー」
宇代木は指をくるくる回して、黄色のカラコンでウインクする。
「? よくわかりませんね。だけどわたしの考えは観測したところで変わりませんよ」
あくまで無表情で、ミコトは小首を傾げる。
「加瀬屋マコトさん、槻屋ミコトさん、あなたたちの入部を認めます。天、九頭川くん、異論はないかしら?」
「ないよー」
「是非もない」
ちょうど、五人。
これで、部活動への申請ができる。
「よろしくな、二人とも」
後輩ができて、少し嬉しい。
だが、いかめしく声をかけた俺に、ミコトが半眼で見つめてくる。
「早速ですが、部員として疑問があります。こちらの九頭川さんです」
俺のフレンドリーな挨拶に、あくまでエネミーな糾弾。
嵐を呼ぶ。
不可避の、嵐。
「どうしてこんな人が、恋愛研究会にいるのですか?」
「ちょっと、やめなよ」
マコトが髪をしごきながら諫めるも、ミコトは気にした様子もない。
「佐羅谷さんも宇代木さんも、恋愛研究会の顔になる特別な人だというのは、言うまでもないことです。
佐羅谷さんは、深窓の令嬢として学校中に知られていますし、清楚な挙措、控えめな言動、気品ある振る舞い、優れた成績に品行方正な生活態度、すべてにおいて理想的な高校生像の一つだと思います。スポーツが苦手なことも、愛嬌でしょう。
宇代木さんも、派手な身なりではありますが、人の心の機微に敏感で、誰の懐にもするっと入り込み、本音を開かせる人懐っこさがあります。勉学も芸術もスポーツも万能で、それぞれに高度なレベルを達成していると聞き及んでいます」
ほう、よくぞそこまで調べた。
学校の成績さえ、学年が違うと調べにくいものだ。
そして、二人に対する評価は概ね正しい。佐羅谷に対してはじゃっかん下駄を履かせている気がするが、宇代木はまさにミコトの言う通りだ。
「よく調べたな」
熱がこもってきたのか、ミコトはウルフショートが跳ねる勢いで立ち上がり、椅子に座る俺を見下ろす。相変わらず、表情も目も静かなままだ。
口調だけが、いばらを含む。
「高校の部活動も、大学入試の内申に影響するんです。形だけのつまらない同好会や、やる気のない参加者と同列と思われるのは、未来に対する損失です。
九頭川さんのことも調べました。
成績が取り立てて高いわけでも、生活態度が真面目なわけでも、コミュニケーション力やクラスの活動でリーダーシップをとるわけでもない。言い方は悪いですが、女子お二人と比べると、明らかに見劣りします。
そこのところ、どうなんですか。自覚、あります?」
暗に、外見でも、とことばを秘める。
言いたいことはそれだけか。
久々に、自分の鋭い目つきを披露するところだった。
だが、ミコトが増長するのも、わからないでもない。マコトもミコトも二人して才気煥発、地頭の良さは少しの会話で感じられる。口から生まれたようにマシンガントークをくりひろげるマコトも、無表情で論理的理知的に畳み掛けてくるミコトも、佐羅谷や宇代木に並ぶ才能だろう。
ついでながら、見た目も。
「あはー、みこちゃ、あんまり知らないのに、そうやって断罪するのはよくないと思うよー?」
「人数合わせで必要だからって、そんな生ぬるいことを言う!」
宇代木の慌てた取りなしにも、ミコトは食ってかかる。
「だいたい、男子がここにいるなんて、目的が見え透いているじゃないですか。下心ありありで、いやらしい目で周りを見て、ああ、ほんとうに汚らわしい。それとも、噂にあるみたいに、佐羅谷さんと宇代木さんが顎で使えるように囲って……」
「おい、いい加減にしろ」
少し、言い過ぎだ。
「新入り、ことばが過ぎるぞ。多少は敬え。これでも先輩だ」
「な、何ですか、急に怖い目で大声出して。そうやってすぐに怒るなんて」
「誰もが事実を言われて素直に受け入れると思うな。よかったな、俺がアンチルサンチマンで」
「図星をつかれて変な言い訳しないでくれませんか」
「俺をバカにするのはいい。俺に託けて、女子二人をバカにするのは許さない」
「なにカッコつけてるんですか」
「カッコつけて、何が悪い」
「まあまあ、みこちゃ、落ち着く落ち着く」
なおも言い募ろうとするミコトを、マコトがやっと実力行使で止めた。
ミコトが椅子に座る。
「男がカッコつけるのをやめたら、おしまいだろ」
「非理性的です。理解不能です」
「それでいい。俺もおまえは理解不能だ」
話は、終わった。
気まずい沈黙が理科実験室に満ちる。
「今日は、ここまでにしましょうか」
咳ばらいを一つ、佐羅谷は窓の外の赤色の空を見やる。隣の宇代木も、同じようにじっと眺めている。夕日の赤に照らされ、二人の頬は赤かった。照れて頬が赤いのなら、二人も素直でかわいいのにな。
どちらにしろ、二人は俺の擁護もミコマコの諫言もしなかった。
これから、この五人で部活ができるのだろうか。
佐羅谷や宇代木は、さすがだ。すでに一年二人から慕われている。俺だけが、浮いている。そうだな、同好会が部活になり、個人の集団から団体になるということは、そういうことだ。たくさんの構成員の中に派閥ができ、ただ籍があるだけの孤独の男が一人。
「さ、帰りましょ……っ」
理科実験室の鍵をかけ、歩き始めようとしたとき、佐羅谷のことばが止まる。
一歩先んじていた俺は、足音がついて来ないことを怪訝に思う。
「どうした?」
佐羅谷と宇代木が、腕を絡めとられていた。
佐羅谷はミコトに、宇代木はマコトに。ミコトはぎゅっと抱きついて、マコトは慎ましく袖を握っている。
ミコトは無表情で色のない瞳を、マコトは大好きなお姉ちゃんを渡すまいという瞳を、俺に向ける。
「えっとー、二人ともー?」
宇代木が戸惑っている。
いや、困惑した演技か。
「あー、女だけで話したほうがいいこともあるだろ。俺は先に帰るわ。じゃあな」
こうするのが、正解だろう。
ミコマココンビが何を考えているか知らないが、きっとあることないこと吹き込むのだろう。ナルチスはまだ明確な敵意を向けてくれているからわかりやすいが、ゴルトムントは得体が知れない。あのゆるふわの裏でどれほど悪辣な考えを持っているのか。
こうして、少しずつ、離されてしまうのだろうか。
それは、少し、寂しいな。
寂しいな。
「九頭川くん」
階段を降りようというとき、佐羅谷の声に呼び止められる。
「じゃあね、また、あした」
「……ああ、またな」
あとで鉢合わせしないように早めに階段を駆け降りると、ふと視界の端に制服が翻った。
この時間、この棟のこの階に人はいないはずだ。俺の前に階段を降りる生徒はいるはずがない。
(もしかして、恋愛相談に来ていたのか)
恋愛相談は、勇気が要る。
今まで、部屋の前に気配はあっても、ついに入ってこなかった生徒は多い。佐羅谷も宇代木も、本気を見る試金石だから放っておけと言った。
だが、今回は違う。
俺たちが雑談しているせいで、せっかくの勇気が無駄になったのだとしたら、責任は俺たちにある。いつでも相談できるはずの場所が、本来だ。
俺は静かに追った。
そして、校舎を出るところで、背を視界に収めた。
「沼田原……先輩?」
さらさらの髪が、夕暮れのくらい空に映える。正門まで一直線のレンガの通路に、たった一人、佇む。
俺が知る数少ない先輩。
見間違うはずもない。
「九頭川」
声は、消え入りそうに小さかった。
顔を見て愕然とする。
「どうしたんですか、その顔。体調悪いんですか? 保健室行きましょう! 今なら、まだ犬養先生もいます」
「ああ、気にするな、あまり女子のこんな顔を見るんじゃないよ、気遣え。別に体調は悪くないよ」
「そんな空元気はいいですから」
顔面蒼白で、目が赤く、クマが出て、頬がこけた女性が、何もないわけがない。
「いいから、本当にいいから」
頑なに反発するが、背負っている鞄を引っ張って、自転車置き場のそばのベンチに座らせる。
「何か飲みます? ペプシかオランジーナ買ってきましょうか?」
「ははは、君はいつでも笑いを忘れないな」
沼田原先輩は、カバンからいろはすを取り出し、口に含んだ。
黙っている。
聞き出すべきか、話すまで待つべきか。
俺は隣に座った。
とことん、待つ。
根比べなら、自信がある。
程なく、沼田原先輩は長い息を吐いた。
「九頭川、部活は、楽しいかい」
「楽しいですよ」
「だろうね。外にも、楽しそうな声が聞こえていた。一年生が入部したんだって?」
「はい。得体の知れないのと、小憎らしいのと、今日入部しました。これで、部員は五人。正式に部活動申請を出すと思います」
「そうか。変わったな。もう、私の知っている恋愛研究会は、なくなってしまったな」
「なに言ってるんすか。恋愛研究会を残すために、俺も佐羅谷も、動いてるんですよ」
嘆くなんて、お門違いだ。
俺はどうして恋愛研究会を部活にしたいかを力説した。思い出にするためだ。形を残すためだ。誰かを、救うためだ。それには、沼田原先輩も含まれる。
「私も、そこにいたと言っていいのかい」
「当たり前です。むしろ、今日だって、堂々と入ってきてくれてよかったんです」
「少し、弱気になっていてね。久々に君たちの顔を見て気を紛らそうとしたんだ。そしたら、聞き慣れない声が、聞き慣れた声に混じって談笑していてね、ああ、もう、私は入る隙間もないんだな、ここは、私の居場所ではなくなったんだなって、よけいに凹んでしまってね」
片足を曲げて膝を抱え込み、とつとつとことばをつなぐ。
「生徒会も、もう役目が終わったろう? 追い出し会も済んで、ただの受験生に戻って、ふいに、自分には何もない、何もできないことに愕然とした。
私の周りに人がいて、慕われていると思っていたのは、全部幻想だったんだな。たまたま生徒会長だから、みんなが声をかけてくれたんだ。慕ってくれたんだ。
生徒会長でなくなってみたら、私はただの高校三年生だ。
周りは早くから受験勉強をしていて、それぞれに目標があって邁進しているし、推薦組もそちらでグループを作っているし、気がつけば、私は独りだった。
生徒会にかまけて、友達もいない。恋愛研究会も引退したから、のこのこ顔を出すこともできない。受験勉強はしているが、やりたいことがあるわけでもない。勉強だって、取り立ててできるわけでもない。
こないだの模試が悪くてね、そういうことさ。別にやりたいことや、目指すことがあるわけでもない。あれ? じゃあ、いったい、私はどうして生きているんだろう、私なんて、誰も必要としてないんじゃないかって」
「俺は!」
思考を言語化するほど鬱に沈む沼田原先輩を遮る。
悪い傾向だ。
山田仁和丸おじさん(40)もそうだが、自虐やネタで自嘲し続けていると、ほんとうにネガティブ思考しかできなくなり、ダメな自分をアウトローヒーローとでも勘違いしたような、すべてを否定でしか見られない人間になってしまう。
「俺は、先輩のこと、友達だと思ってますよ」
友達。
無理がある。
今どきまともにメッセージもやりとりしたことのない相手を、友達だと豪語する不自然。
「ははは」
鳩が豆鉄砲を食らった顔だ。
「元気づけてくれるのかい? 九頭川は嘘が下手だな。私は、君を、友達だなんて思ったことはないよ」
「だったら、俺が友達だと思ってるだけですよ」
「友達に、こんな姿は見せない。沼田原依莉は、いつも凛々しく泰然自若、長身痩躯に絹のような緑の黒髪をさらりと流す、模範的な生徒……会長さ」
そうだな。
友達に、本心なんて明かさない。
赤の他人だからこそ、本心を包み隠さず見せられるのだ。
「少し、元気になったよ」
元気のない声で、沼田原先輩は立ち上がる。
とても見ていられない。
沼田原先輩は、後ろの自転車置き場に向かう。今の今まで、彼女が自転車通学だということさえ知らなかった。
(放っておけばいい)
沼田原先輩は、俺が恋愛研究会に入るのを、最初に阻止しようとした一人だ。宇代木をけしかけ、いつでもやめさせられるだけの切り札を撮られた。
その後は、宇代木ともども態度が軟化し、俺のようなつまらない男を構ってくれる先輩になった。よく考えると、バイトを除くと高校内ではたった一人の先輩だ。
佐羅谷の裏の顔を見て、荒んでいた時に助けてくれたのは、沼田原先輩だ。
俺のことなんて、どうでもいいと思っているだろうに、どん底に落ちた俺の心を、救ってくれた。軽くしてくれた。
そんな沼田原先輩が、どん底に落ちている。
「クソっ」
放っておけるはずがない。
悲壮な顔をして肩を落としている女子を前にして、無視して帰れるか?
否。
否否否否!
俺は自分の自転車を飛ばして、校門を出かけていた沼田原先輩に追いつく。
「沼田原先輩!」
ゆっくりゆっくり自転車を押しながら、一瞬逡巡するも、歩みは止めない。
「依莉先輩!」
「……なんだい? まだ何か?」
「先輩、正直に答えてください。好きな人や、恋人はいますか」
「いないよ」
「男と一緒にいるところを見られて、困りますか」
「それもないね」
「今、お金はありますか」
「君と違って、バイトもしてないんだよ。そうだな、五千円くらいなら」
「わかりました。電車賃と飲食費は出します。ちょっと付き合ってください」
「いや、今から予備校に」
「そんな状態で予備校なんて行っても、無駄でしょ。俺に、付き合ってくださいよ。かわいい部活の後輩からの頼みです」
「私は友達と遊びに行くなんて経験はないよ。どこに連れて行く気だ?」
「若い男女が、一緒に体を動かして、嬌声を上げて、汗まみれになって、スッキリして、最後にシャワーを浴びるところですよ」
乗ってきた沼田原先輩に、俺はいやらしく下卑た笑みを浮かべる。
すべて諦めたような沼田原先輩の表情を見て、俺の冗談は通じていないと思った。このまま怪しい動画を撮って、怖い業界に売り飛ばしに行くんですよと言っても、役に立てるならいいか、と受け入れるくらい精神が弱っている。
だめだ、早くなんとかしないと。
「なあ、九頭川、君の家に鞄も自転車も置いて来てよかったのか? 電車なんて久しぶりだ。どこまで行くんだ?」
「新大宮」
「新大宮? 埼玉?」
「沼田原先輩、本当に奈良県民ですか。大和西大寺の一つ隣の駅ですよ」
「へえ、じゃあ、奈良市内か。何があるんだ?」
「市役所?」
「なんで疑問系なんだ」
新大宮は、かつらぎ高校からだと、高田市〜橿原神宮前〜大和西大寺〜奈良方面へ一駅目だ。
奈良市の奈良公園やならまちがある伝統的な地域ではなく、市役所や大きなビルが並ぶビジネスの地だ。
「何があるかは、お楽しみです」
「そうか、そうか」
落ち着きなく、隣に座る沼田原先輩は膝に置いた手を擦ったり組み替えたりしていた。車窓から移り変わる街並み、じょじょに暮れなずむ景色に、切れ長の目を瞬かせた。
「ラウンドワン」
沼田原先輩は、ビルを見上げてつぶやいた。
「はい、じゃあ、入りますよ。三時間パックで、スポッチャ行きます」
「すぽっちゃ??」
もたもたしている沼田原先輩の袖を引っ張って、俺はスポッチャのコートへ案内する。
ところで、友達がいない系高校生、あるいはインドア派高校生なら、奈良県南部民はスポッチャを知らない可能性も高い。かくいう俺も、人のことは言えない。たまたま一年のときに谷垣内グループに属していたから知っているだけで、しかも行ったことは一度しかない。
なぜなら、奈良県にラウンドワンは、ここしかないからだ。奈良市は奈良県の最北に位置し、奈良県南部民には遠い。大阪の方が心理的にも近いくらいだ。I♡天王寺。
俺はたまたま谷垣内のお父さんに、みんなでまとめて車で連れて行ってもらったから、経験があるだけだ。
スポッチャの内容はホームページで見てもらうとして、とりあえず、屋内で軽く色々なスポーツができる施設だと思えばいい。時間制なので、ゲーム数の制約はない。休みの日など、延々遊ぶことができる。
が。
「さ、さすがに、もう無理です」
「足が、肩が、動かないよ。九頭川、ちょっと休もう」
普段体を動かさない俺も、生徒会長を終えたあと受験勉強に入った沼田原先輩も、体力はなかった。ものの一時間ほどで動きが鈍くなり、ついに肩で息をしてベンチに崩れる。
「ああ、オランジーナがおいしい」
「そっすねー」
沼田原先輩の顔に生気が戻る。
体は疲れているだろうに、顔にも声にも張りが戻った。俺の知っている、生徒会長として自信に満ち満ちた麗しい姿だ。
少し汗の浮く額も、首筋も、微かに香る汗の匂いも、すべて、生に満ちている。
「元気に、なりました?」
「そうだね。根本的には何も解決していないけど、楽になった」
「嫌なことも、つらいことも、みんなみんな、汗と一緒に流してしまえばいいんです」
「ほんとうだね」
沼田原先輩は小さく笑って、
「ありがとう」
と言った。
俺は、借りを返しただけだ。
人間の心は、体に規定される。どんなつらい心の悩みも、体を動かせば解決せずとも、心は軽くなるし、糸口が見えることがある。
少なくとも、沼田原先輩を恋愛研究会の人間は邪険にはしない。俺は、頼られれば応える。
一人じゃない。
それがわかってもらえたら。
「こんなのでよかったら、いつでも呼んでください。お小遣いのある限りで、ご一緒しますよ。スポッチャは一人じゃ面白くないし」
「ふふ、そうだね。……ねえ、九頭川」
「じゃあ、もう帰りましょう。明日も学校ですから」
「あ、ああ、そうか、もうそんな時間か」
何か言いかけた沼田原先輩を促す。
もう、おそらく、沼田原先輩は自分で歩ける。俺が支える必要はない。
「さあ、行きましょう」
さっさと立ち上がると、悲しげなため息が聞こえた。
「君は、そういうところが、ずるいよ」
俺は、何も聞こえない。
聞いてはいけない。
そんな気がした。
「家まで送ってくれるなんて、ほんとうに紳士だね。君のこと、誤解してたよ」
送ると言っても、沼田原先輩も自転車通学なので、一緒に家までついていっただけだ。
夜も遅い。この時間に一人で帰すなんて、できるわけがない。相手はまもなく受験を迎える高校三年の女子だ。何かあったら、俺はきっと後悔する。
夜遊びして帰ってきた息子を、親父は叱らなかった。出かける前の憔悴しきった先輩の顔を見ていたからだろう。送っていくと伝えても、頷いただけだ。
この時間なのに、いい感じのよそ行きの服を着て、ブランデーをくゆらせているのは、親父ながらどうかと思うが。
「じゃ、俺はここで」
「待って、どうして、九頭川は私を気にかけてくれるんだい?」
「別に、沼田原先輩だからってわけじゃないっすよ」
「君はそんな博愛主義者じゃないだろう」
「俺は、部活を、思い出にしたいんですよ」
俺の人生の中で、高校生活は楽しかったことにしたいんだ。一年は一年で、二年は二年で、そして、三年も三年で。
楽しい高校生活に、些細な葛藤や諍いはスパイスになりうるが、事件や事故や憂鬱や、悲しみで流す涙は、必要ない。
思い出は楽しく、嬉しく、美しく、そして、少し物悲しく、淡く心に染み入るものでないといけない。
俺の思い出に、沼田原先輩は強く凛々しく美しく、余裕を持って笑っていてほしかった。
俺のわがままだ。
「やっぱり、どこかズレたことを言うね」
沼田原先輩は、呆れる。
「だから、よかったのかもしれない」
「よくわかりませんが、もう、本当に帰りますよ」
最後まで聞かず、俺は一方的に別れの挨拶をして、自転車を押す。早く帰って、休みたかった。
とても気を遣った。
女子と二人、一緒に出かけたら、内容はなんであれデートだ。佐羅谷のことばが、今になって思い出される。
(佐羅谷、あれは嘘だな。デートと用事は、全然違うぜ)
沼田原先輩とスポッチャは楽しかったが、デートとして楽しいかというと微妙だ。先輩を元気づけるためだったし、迂闊なことを言ったり、地雷を踏み抜いたら、今日は破綻していた。二度と先輩と口を聞いてもらえなかったかもしれないのだ。
(ああ、佐羅谷の声が聞きたい)
頭に浮かぶのは、佐羅谷と一緒に行った名古屋のコスサミのことばかりだ。俺にとっては、あれが人生最初のデートで、今のところ最後のデートだ。
沼田原先輩の家から角を一つ曲がったところで、スマホが鳴る。
(なんだよ、親父か? すぐ帰るっての)
「え、佐羅谷?」
画面には、名古屋で盗撮した寝顔の佐羅谷が映っている。電話がかかってきたときの待ち受け画面だ。
声が聞きたいと思ったときに、ちょうど思い出したときに、普段自分からは連絡をくれない佐羅谷が、電話だと?
「もしもし。どうした、緊急事態か」
『夜遅くにごめんなさい。今日言っておいたほうがいいと思って。いま大丈夫かしら』
「ああ、問題ない」
『そう、よかったわ。実は……』
「九頭川、待って!」
不意をつかれた。
電話に集中していて、背後の気配に気づかなかった。
沼田原先輩が追いかけてきて、俺の腕を絡めとる。電話を持っているほうの手だ。
佐羅谷の声が、遠ざかる。
暗闇の中に、沼田原先輩の切羽詰まった瞳が街灯を反射する。
『ちょっと、九頭川くん? そこに誰かいるの? 女の声が聞こえたけれど』
「悪い、後で電話する! 今は切るぞ!」
『ちょっ……』
会話を切断して、沼田原先輩の腕を払う。
「なんすか、まだ用ですか」
「あの、連絡先、教えてくれないか。お礼、そう、お礼がしたい。今日の、お礼」
「そんなことっ……」
叫びかけて、抑える。
電話番号でもラインでも、いつでも交換できるじゃないか。なんでわざわざ今なんだ。
佐羅谷との電話よりも優先することなんて、親の訃報くらいだ。
だが、八つ当たりだ。
沼田原先輩に、悪意はない。
一応知り合って、半年以上、学校ではときどき出会うが、連絡先を交換する必然はなかった。
少し距離の近づいた今日に、たまたま今日に、こうなるのは自然だった。
しかし、こんな、絶妙なときに!
怒っても仕方がない。お互い連絡先を交換する。
「ありがとう。また連絡するよ」
「じゃあ、これで」
無愛想に、俺はもう振り返らず、ある程度自転車で走ってから、またスマホを起動した。もう、邪魔が入らないように。
だが、何度電話しても、佐羅谷は出ない。挙句、着信してもすぐ切られる。
そして、遅れてメッセージが届く。
『勝手に電話を切った九頭川部員に命じます。しばらく部活には来なくていいので、槻屋ミコトさんの用事を手伝うこと。部長として、きちんと伝えましたよ』
やばい。
これはマジでやばい。
文面に怒りが溢れて、キャラクターが崩壊している。部長として責任を持って連絡しろと言ったことが、裏目に出た。
いちおう、「了解」と返信したが、既読すらつかない。
悶々と悩み、どう言い訳をしようか、どう真実を伝えようか、なかなか眠れなかった。
文章の内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。
そして、槻屋ミコトって、どっちだ?
「では、ただ今より体育祭実行委員会を始めます」
四角く囲った卓、一堂に会する体育委員、黒板を背に無表情で一人佇み、宣言するのは槻屋ミコト・ザ・ナルチス。
ボーイッシュなウルフショートが、小さな頭に似合う。やや中性的な面立ちと鋭い目の形が、性格を反映していた。
振る舞いは余裕がある。たくさんの上級生を前に、一年生だと言うのに、場慣れしたベテランの雰囲気。
(肝の据わったやつだ)
頬杖をついてミコトを見る。
授業が終わった後、俺は体育祭実行委員会に拉致された。
そう、あれは六時間目の授業が終わってすぐだった。佐羅谷に詫びを入れるために、手早く荷物をまとめて、渡り廊下へ向かう。その狭い通路に、ミコトは鞄を抱えて立っていた。
まるで、四天王の一人であるかのように。
「おう、ええと、ミコトか。部室へ行くのか」
「行きません。聞いていないんですか? それとも、聞いたのに理解していないんですか? これから体育祭が終わるまで、九頭川さんは部活へ行けません」
「はあ? おまえの言うことなんて、信じられるか。直接佐羅谷に聞く」
「ダメです。佐羅谷さんと会うのは、カンニングと見做します」
「カンニング? 何を言って」
ミコトは俺の視界にスマホを掲げる。
動画だ。
どこかのファミレス、これは東室のガストか。佐羅谷と宇代木が映っていた。
『えー、みこちゃの評価はウワサとか又聞きでしょー? くーやんのことはさ、近くにいたら、すぐわかるよー』
『天、きっとこの子はことばじゃ納得しないわ。本来は無視しても良いのだけれど、九頭川くんの不名誉を放置するのも癪だわ』
『やだな、あたし、そーいうのほんとヤダ』
『ここは抑えてちょうだい、天。そうね、あなたも人に何かを要求するのだから、自分の非を認めたときの覚悟はいいわね』
『万が一にでも、そんなことがあれば、何でもしてあげます。ただし、お二人と直接の接触も電話やネットや文書での助言も認めません。いいですね?』
佐羅谷と宇代木が余裕綽々の表情で頷いたところで、動画が切れた。
「な、なんだってー」
「棒読みですね」
「おい、ミコト。その映像くれ」
「嫌ですよ、気持ち悪い。ともかく、わかりましたか? 九頭川さんは、私に協力して、体育祭を成功させなければいけません。お二人の助力なしで
というわけで、今から会議室に向かいます。ついてきてください」
できるわけないじゃん、という見下した雰囲気を漂わせた無表情で、俺の横を監視しつつ歩く。
何をさせられるのか知らないが、よほど俺の存在が気に食わないらしい。同好会も部活も、辞めさせるのは難しいから、役立たず認定して、自発的に辞めるように持っていく気だろう。会社員ならば、リストラという方法だ。
「ま、何もできない俺だ。別に失敗しようが、居座ることに恥も感じねえよ」
「ふん、カッコつけな九頭川さんが、恥をかいてまで、佐羅谷さんの前にいられますか」
想像してみるが、あまり問題ない気がする。
もともと佐羅谷には恥ずかしい場をたくさん見られている。佐羅谷の恥ずかしい大ボケも見ている。深窓の令嬢しか知らない大多数の生徒には、想像もつかない姿を。
だが、ここはブラフをかましておくか。
「そうだな、佐羅谷の前でだけは、かっこいい男でありたいな」
「気持ち悪い」
舌打ちを隠せよ、一年生。女子だろう。
「マコトが入部したいと言ったから、ずいぶん下調べさせてもらいましたよ」
「ほう」
「まず最初、球技大会。普通に活躍したら埋もれるから、わざと自分に向けたフライを打ちましたね。しかも、狙ったように顔面に受けて、鼻血を出す。お笑い要員で有名になって、名を広げようという魂胆が見え見えで、いやらしいです」
半分正しいな。
目立てと言ったのは佐羅谷で、俺は本気で打ってキャッチャーフライだった。
「次にボルダリング部。作りたての部ですが、確かに、結果だけ見れば大会に出るようになり、部活動としての体裁は整いました。でも、その過程で一人辞めています。自分に都合良い仲間を作るために、九頭川さんが出した犠牲でしょう?」
それは俺のせいなのか。
しかも、ボルダリング部に対する発案は、ほとんど宇代木だった。
「校外学習、佐羅谷さんと同じ場所を選んだだけでなく、彼女がリーダーになるように仕向け、自分はさりげなくサブリーダーに収まりましたね。仕事を装って距離を縮めるのは、会話のできない男子の常套手段です」
やめろよ、用事がなければ他人と会話できないのは、日本人男子の七割に達するんだぞ。パワハラだぞ。
「そして、鴨都波神社の夏のススキ提灯祭りでも、写真部に被写体となるという口実で、宇代木さんに恋人役をさせましたね。好きでもない男子と手をつなぐ気持ち、考えたことありますか」
手は、大切だよな。
触るための器官だからこそ、相手が受け入れてくれないと触れない。
「ちくわ大明神」
誰だ、今の。
「夏休み前には、友人の高森さんを使って、恋愛研究会の二人と出かけるために、恋愛とは関係ないことに同好会を動かしていますね。そして、本命の恋愛については全く解決していない」
そりゃ、保健室の先生に対する好意は、漫画ならまだしも、現実には美しいだけでは終わらない。犬養先生にもその気はない。
「夏休みの合宿では、参加さえしようとせず、逆に連絡を取れなくして、構ってもらおうとするなんて、策士にも程があります。あのお二人は優しいから」
おまえ、探偵か何かか?
まったく最近の探偵ときたら。
「最後に文化祭。沖ノ口さんの好意を利用して、自分を名目上の台本係にして、おいしい手柄だけを盗んでいきましたね。実際に九頭川さんが台本を書いたという話は聞きません。いつも沖ノ口さんと一緒にいたという情報ばかりです。本当にあの台本を仕上げたのは、誰なんでしょうね」
会議室の扉が前に迫る。
歩みを止める。
無表情のまま俺を見つめるミコト。
そのまま、今に至る。
俺は、体育祭実行委員会の副委員長に任命された。
「実行委員にできることは、それほど多くありません。運営の事務以外では、紅白対抗戦の競技を考えることだけです」
集まった各クラスの体育委員は大抵やる気がなく、熱のこもったミコトの演説も、心を打たない。
「去年と一緒でいいんじゃね、騎馬戦だったっけ」
「だよね、運営手伝いだけでもめんどくさいのに」
私語のレベルで、ぽつぽつ聞こえてくる。
文化祭のように、クラス単位で好きなことができるわけでもないし、結局は毎年似たり寄ったりの競技しかできない。当然、体育委員も流れ作業になる。
「今年の! 体育祭は、盛り上げます! 今週末、対抗戦競技を決定します。みなさん、必ず何か競技を考えてきてください。既存のものでも、新しいものでもかまいません」
ブーイングに近い嘆きが満ちる会議室を、ミコトは気にしない。相変わらず無表情ながら、一人自信に満ち満ちている。
(あまり空気は良くないな)
名ばかり副委員長の俺は、気楽に観察した。競技の一つくらいは考えられるし、運営事務も、競技に出るよりはマシだ。俺の代わりに、山崎にがんばってもらおう。
「選んだ競技について、一人一人プレゼンもしてもらうので、そのつもりで」
不平不満の怨嗟が、会議室に充満する。奥に監督者として立っている先生も、苦笑している。
だが、ミコトは呪いが発生しそうな空気も感じないようで、会議の終了を告げる。
終了さえ、一方的。
俺が副委員長になるのも、前置きもなく独断だった(反対はなかろうが)。
三人が親密で隙のない恋愛研究会に入ろうというのは、サイコパスかオクトパスだけだと言っていたが、この女こそサイコパスじゃないか。無表情で、一方的で、会議も会議の体をなさないただの命令だ。
「これは、まずいなあ」
なんとなく、嫌な予感がする。
蜘蛛の子を散らすように各クラスの体育委員が消えた会議室を眺めながら、俺は頭を抱える。
「何がまずいんですか。今年の体育祭は、面白くなりますよ。面白くするんですよ」
ミコトは冷笑する。
「だいたい、ここで九頭川さんの案が通らなかったら、勝負ありですから。せいぜい、良いアイディアを」
「縺九i縺ェ縺?h!」
「なに言ってるんですか」
「びっくりしすぎて文字化けしたわ!」
そうか、そう来るか。
面白いアイディア、盛り上がるような競技、か。何十人もいる体育委員よりも、魅力的な競技を提案せねばならないというわけか。
いや、案外、やる気のない体育委員ばかりだから、どうにかなる気もする。委員長と委員には温度差がありすぎるのに、ミコト委員長は空回り・独断専行に気づいていない。
わずかでも面白い競技を提案できたら、委員はなびくだろう。
俺がきつい目をさらにきつくして虚空を睨んでいると、ミコトは俺が悩んで絶望しているように見たのだろう。
「大丈夫ですよ、九頭川さん。先輩がいなくなっても、恋愛研究会は私たちが守っていきますから」
「あー、やっと見つけた! たっすん、どうして恋愛研究会にいねーんだよ。捜したじゃん」
顔はスマホに向けたまま、けたたましく耳に通る声が廊下に響く。
那知合花奏だった。
部活帰りなのだろう、顔を上げた時にほのかに制汗スプレーの匂いがした。
「って、また新しい女子と一緒? ほんとあんたってば、モテるねー」
「モテねえよ。何か用か?」
「サラタニさんとこ行ったらさ、たっすんはこっちだって言われてさ。ほらー、進んでんの? 花奏ちゃん有名人化計画!」
「何その頭悪そうな魔法少女育成計画」
「あは! 魔法少女いいね! まーあたしはそんなかわいい柄じゃないね。もっとかっこいいので頼むわ」
すっかり忘れるところだった。
しかし、賢明な俺はもちろんおくびにも出さず、状況を利用する。
「ちょうど、体育祭実行委員副委員長になったからな。紅白対抗戦あるだろ? 期待してろよ。ただし、がんばるのは那知合、おまえだからな」
「はん、誰に言ってんのさ。あたしは本気の舞台でいっちばん輝くんだよ」
いいよな、ここまで潔く自信を持てる、そして、隠れて努力もし、弱音を吐かない。
「そいで、この子は誰? 彼女?」
「ちげーし」
「失礼なこと言わないでください」
「おお、あたしを怖がらないって、見た目のわりに強気じゃね? 笑う」
「何を笑うんですか」
なぜか校門まで一緒に帰る感じになっていたミコトは、相変わらず無表情だ。
「ま、どーでもいいや。あんた、たっすんの好みにかすりもしてないもんね。脈なしだし〜」
「……っ!」
無表情を装いながら、頬が赤く染まるミコト。
「九頭川さんに限らず、男や恋愛に興味なんてないですが、断言されるのは先輩といえども腹立たしいです!」
「あっそう? キョーミないならいいじゃんね。でも、好きになったり、好きになってもらったりするの、幸せだよ? 一人じゃ寂しいし。たっすんを口説くのは無理だと思うけど」
「どうして無理って」
「あ、ゆーとからライン来た。じゃーねー。たっすん、あとは頼んだ!」
長めの青みがかった髪を翻し、短いスカートを跳ねながら、嵐のように那知合は去っていく。
相変わらず、動きの読めないわがまま勝手な女だ。
谷垣内は狙い澄ましてすべてを潰す台風だとすると、那知合は気ままな竜巻だ。どちらも、自然災害だと思って諦めるしかない。
しかし、短いことば、脊椎反射の解答は、滋味深くも核心を突く。
寂しいとか、好きとか、幸せとか。
ややもすると恥ずかしくて、簡単には使えない語彙を、最も簡単に自分事として素直に気持ちを述べる。
俺はそんな那知合を好ましく思うが。
「なんなんですか、あの人! 失礼じゃないですか!」
「本人に言えよ。那知合は、ああいう女だ」
「これだから、話も聞かない、規則も気にしない、風紀を乱す人たちは嫌いなんです! ほんとう、どうしてあんな人がこの学校にいるのか」
「偏差値が同じだからだろ」
「うるさいです、九頭川さんに聞いてません!」
「やかましい独り言だな、オイ」
そのまま、会話らしい会話はなく、俺たちは校門で別れた。
「では、九頭川さん、また週末の会議で」
一応挨拶はきちんとするあたり、なんとなくミコトの性格がわかってきた。これはこれで、面倒なやつだ。
ディスプレイに向かい合って時間を忘れる。
「……できた」
窓の外が紫に染まる。
今回は一晩で形になった。
とりあえず、少しでも仮眠を。
俺は薄れる意識で目覚ましを設定し、そのまま床に転がるのだった。
俺は翌日、招集をかけた。
隣町のチームに喧嘩をふっかけるためではない。
体育祭で、紅白対抗戦になる競技を考えるためだ。
イカれたメンバーを紹介するぜ!
ボルダリング部創始者にしてかわいい系男子ナンバーワン、山椒は小粒でもぴりりと辛い、神山功!
ワンレン長髪四角眼鏡の奥に細くつぶらな瞳は、挙動不審な本人とは裏腹に、ぶれることなくフレームに収める達人、写真部次期部長、入田大吉!
俺の元親友にして現友達、ゲーマーから配信者へ、そしてコスプレイヤーへ、進化は止まるを知らず、末は博士かvtuberか、高森颯太!
そして、最終兵器俺。
以上!
「ねえ、九頭川、我は、我は?」
……。
同じクラスの昼食同居人、山崎!!
「君たちに集まってもらったのは他でもない、体育祭で紅白対抗戦の競技を考えてもらうためだ。励め」
「あはは、なんだかよくわからないけど、楽しそうだね」
「うむ、俺は写真くらいしか芸がないぞ」
「九頭川、体育祭のネタでこのメンバーはちょっと無理だろ」
「うむ、我はラーメンの早食い競争くらいしかできぬぞ!」
「それはラーメンに対する冒涜だからやめような?」
「ア、ハイ」
冗談はさておき。
「実は、ネタは考えてある。問題は、それを実行する細かな設定だ。識者諸君の知恵を拝借したい」
四人の顔に安堵の表情が浮かぶ。ゼロから考えさせられると思ったのだろう。さすがに、俺も飲み物一つで呼んでおいて、そこまで無茶振りはしない。
しんと静まり返った教室の隅で、全員の視線が集まる。
「やるのは、スプラトゥーンだ」
「スプラトゥ~ン」
四人の声が重なる。
合唱してるみたいな節をつけるなよ、おまえら仲良いね。
スプラトゥーンは、ニンテンドーのゲームだ。基本は陣取りゲーム。ただし、すべてがさすがニンテンドーというべき完璧なシステムで構築されている。
まず、陣取りはインクで行うが、その際に鉄砲、筆、バケツ、ローラーなど、さまざまな「塗る道具」がある。そして、それはそのまま「武器」となる。
キャラクターはイカの擬人化っぽい姿をしていて、自分が塗った色のインク部分に「潜る」ことができる。潜ると、道具にインクを補充できる。
勝利条件は、塗った陣の広さと、倒した相手の数、両方が関係する。
簡単に説明すると、そんなゲームだ。
高森が説明すると、神山は興味深そうに目を輝かせた。入田と山崎は、もともと知っていたようで、頷いている。
「それで、九頭川。スプラトゥーンがなんだって?」
「体育祭で、紅白対抗戦として競技にするにはどうしたら良いか、考えてほしい」
「まどろっこしいぞ、九頭川よ! お主のことだ、九割九分、完成しているのだろう?」
「うわー、腹立つわー。山崎に見破られてるとは」
「えー……我とお主の仲であろう」
「やめて、気持ち悪い」
とりあえず、ゲームのシステムをそのまま現実で行うのは無理だ。残すべきキモは、「インクで陣取りゲーム」「相手をインクで倒せる」「インクで上書きできる」、この三つだ。
「陣取りはどうやるの?」
神山の疑問はもっともだ。
「実際にグラウンドにステージを作るが、もちろん、ゲームのような街並みやアスレチックは作れない。だから、最低限の迷路とポイントになるものを作って、それを塗り合うという形を取る」
「だが、ゲームでは塗った面積の大小は簡単にわかるが、現実では無理だろう?」
「そうだ。だから、それぞれのポイントに金魚掬いのポイを立てる。布を貼って、上書き可能にしてな」
「それなら塗り返しのシステムが機能するわけか」
「キャラクター同士の生死はどう決めるの?」
ゲームでは、敵チームのインクを受けると倒されたことになり、陣地で復活する。
それを再現するとなると?
「試案だが、頭にポイをつけ、相手のインクがついたら敗北、速やかに陣地に戻り、ポイを交換するまで攻撃できない」
「いいな、それ。でも、頭の上だと、自分で撃たれたって気づかないんじゃないか」
「そうだ。だから、体育委員全員が審判として見張ることになる」
「あとは物理攻撃や体当たりを反則にせねばならんな。ラグビー部に突っ込まれたら、我死ぬぞ?」
確かに、審判は重要だ。
「インクで上書きできるのが、このゲームの面白さだが、現実にあんなことが可能なのか?」
高森は懐疑的だ。
「絵の具を薄めて使おうと思う。実際に紅白にすると、赤が強すぎるから、青と赤でやることになると思う。ここから先は、実際に試して、分量を調整したい」
「実際に?」
「試す?」
「もしかして九頭川くん、そのためにぼくたちを呼んだんじゃ」
さすが、神山。察しがいい。
「おいおい、おお俺は嫌だぞ! 体操服に着替えるだけで気が滅入るわ!」
逃げ出そうとする写真部の入田。輝く四角メガネの奥で目が泳ぐ。腰を浮かせる。
「我も、脳筋どもに跳ね飛ばされるのは好きくないのう」
追随して、山崎もふわふわとする。
別に本番ではないし、全員参加でもないのに、試しすら嫌がるなんて、おまえらは俺か。俺だって、ミコトに睨まれていなければ、体育祭なんてまともに出ないさ。
「四人で検証できれば、この競技が体育祭の目玉になっただろうにな。これじゃ、お蔵入りだな」
教室から逃げ出しそうだったメガネ二人が、歩みを止める。
「まあ、九頭川、諦めろ。体育祭では、実行委員として活躍するおまえをカッコよく撮ってやるから」
「我は教室から深窓の令嬢を眺めておるよ、双眼鏡で」
困り顔の神山と、呆れ顔の高森は、様子を見ている。
どうする気だ? と二人が俺の様子を窺う。
やれやれ、人参をぶら下げるしかないか。ぴょいぴょいしてくれや。
「残念だ、水鉄砲と水風船とバケツと柄杓と霧吹きと注射器。ありとあらゆる水を発射する道具で、服も顔も髪も色水で濡れそぼり、体のラインも露わになる競技なんて、今後一生見られる機会なんてないだろうになあ、ほんとうに残n……」
「あいや、待て九頭川、みなまで言うな。俺は最高の写真を撮って名を上げねばならん! 体育祭などつまらないが、写真のためだ、協力しようではないか! これも、友の勤め!」
「深窓の令嬢の濡れそぼる姿!(わわわ我も手伝うぞ、九頭川!)」
食いつきいいね、君たち。
ていうか、山崎、本音と建前が逆だからな? しかも、佐羅谷はこんな競技に参加しないぞ?
「九頭川、おまえ本当に変わったな」
人を動かすためには、変わるさ。
「九頭川くん、ちょっとよくないかも」
「安心しろ、みんな神山の濡れそぼる姿も楽しみにしてる」
他の男の視線が、神山に集まる。
山崎のメガネがキラリと光る。
「ちょ、み、みんな?」
山崎の太い手が伸び、神山の肩に乗る。
「心配めさるな、我らは味方ぞ、神山氏」
ぷるぷる震えて神山が叫ぶ。
「もう、冗談はやめてよ!」
会議が終わり、校門前で解散するとき、他の三人が離れてから神山がそっと横に並んだ。
頭半分低い神山は思案げな上目遣いで、俺のことばを待っている。自転車にまたがらず、少し並んで歩く。
「どうした、神山。もうそろそろボルダリング部にお邪魔しなくなるのは確定事項だぞ? 部費も払わず、遊ぶだけのメンバーはあまり良くないだろ?」
「そこはわかってるよ」
「じゃあ、なんだ」
「九頭川くん、昨日寝てないでしょう?」
「……さて」
「ダメだよ、ぼく、もう文化祭のときみたいに、倒れるの、見たくないからね。どうやってゲームを実際の競技にするかは、ぼくたちでも話して詰めていくからさ、九頭川くんは、今日だけでも休んで」
「敵わないな、神山には」
顔色が悪いのか、目にクマができてるのか。
どちらにしろ、普段からよく見ていなければ、気遣えない。
「心配してるのは、ぼくだけじゃないんだから。忘れないでね?」
「あいつらが、心配するとでも?」
前を行く男子の影に顎をしゃくる。
「女子を泣かせちゃ、ダメだよ」
「……っ」
そういうことか。
ぜひもない。
おことばに甘えて、今日だけは早く寝よう。昨日徹夜で、競技から基本的な仕組みを考えたのだ。すでに頭は限界だった。
その日、電源が切れたように眠った。
会議までの数日、俺たちは放課後に競技を実地で運営してみて、細部を詰めた。
使う武器(水を発射する道具)、食らい判定当たり判定のポイの位置と強度、インク(絵の具)の色と濃度。
だいたい現実に競技としてできそうだというところで、完成版スタイルで競技中の動画を撮影、入田と高森に編集してもらい、準備は整った。
あとは、会議で通すのみ。
「九頭川、俺はこのゲームはけっこう面白いと思う。男女も運動神経の良し悪しも関係なく楽しめるし、戦略性もある。けど、これが体育祭実行委員会で選ばれるかはわからないぜ」
データを受け取りながら、俺は不敵に笑う。
「たぶん、大丈夫だ。過半数は取れる」
「体育祭実行委員会は、本日の放課後の午後三時からです。委員全員に連絡お願いします。名簿はこちらです」
昼休み、弁当を手に山崎の横へ行こうとすると、むすっとした表情の沖ノ口に呼び止められた。教室の扉では、ミコト委員長が立っていた。
というか、また沖ノ口と扉で鉢合わせしたのね。
「委員の呼び出しまで俺に丸投げかよ」
「ギブアップします?」
「これも審査対象かよ」
もはや、いじめか嫌がらせのレベルだ。俺でなければ、挫けているぞ。
「やれやれ、昼休みが消えるねえ」
「私はいつだって、昼は休んでないんです」
「おまえ、社畜の才能あるわ」
「やめますか?」
「やるよ。連絡先書いてあるし、そんなに時間はかからないだろ」
それに、一つ思いついた。
委員は各クラスに男女一組、ちょうど良い。
そのあと、山崎と神山と沖ノ口を巻き込んで、学校中の体育委員に会議時刻の連絡をした。なぜか文化祭の時の占い師役と、役者の女子二人も参加していた。全員に新庄のサイゼで一食奢ることを約束させられる。まあ、サイゼで喜ぶ友達は、悪くない。友達かどうかはともかく。
会議室に定刻前にビシッと席に着いている委員の男子全員。
副委員長席には俺が座る。
埃ひとつ立たぬ。
物音ひとつ立たぬ。
ガラッと音を立てて、扉が開く。
照明は暗めにして、じっと潜む男子一同に気味の悪さを感じたのだろう。息を飲む音が、俺にも聞こえた。
「遅かったな、委員長。チキンが冷めちゃったぜ」
「……何してるんですか、灯りまで消して、黙りこくって。どうせ、卑劣なことでも考えていたんでしょう」
会議開始十分前、想定通りに「一番」にミコトはやってきた。
俺の隣、委員長席に座る。
そのあと、ホームルームの終わってしばらくした体育委員の女子連中も集まってくる。
全員の出席を確認してから、監督の先生に目配せし、ミコトは立ち上がる。
「今から、体育祭実行委員会を始めます。今回の会議は、紅白対抗戦の競技を決定します。では、順番に、考えてきた競技を発表してください。最後に、全員の投票を行います」
戦いは、始まる前に終わっている。
俺は、戦わずに逃げる専門家だぜ?
委員全員の競技プレゼンが終わって、男女問わずほとんどが適当にしか考えていないことに、ミコトは無表情なまま苛立ちを露わにする。先輩も同級生も問わずに、ちくちくと真顔で嫌味を言うからたちが悪い。
「誰々さんと申し合わせたように同じアイディアですね」
「今どきパン食い競争なんてできると思ってるんですか」
「じゃんけんのどこが体育なんですか」
競技の内容に確かに難もあるが、言い方もある。
特に委員の女子からの鬱屈した空気がすぐそこまで届いている。
「ふう、じゃあ最後に、副委員長、プレゼンお願いします」
「心得た」
俺は立ち上がる。
本日「二度目の」リアルスプラトゥーンの説明を行う。ゆっくりと男子全員と視線を交わす。男子一同、密かに同じクラスの女子委員にメモを渡す。
すべて、委員長からは見えないように。
一番奥の男子が小さく指で丸を作る。
俺は頷いて、説明を始めた。
体育祭どころか、見たことも聞いたこともない競技内容に、ミコト委員長はなかなか理解が追いつかないようだった。
だから、紅白戦の競技を多数決で選んだ時に、圧倒的多数でリアルスプラトゥーンが選ばれたことが、信じられないという顔で見ていた。普段の無表情が、じゃっかん青ざめていた。
俺も、ここまで計画通りに進むとは思っていなかった。だが、はったりは俺の十八番だ。
「ふむ、ざっとこんなもんだ」
「どうして、こんな……確かに、他の競技はありきたりだけど、ここまで大差がつくなんて」
馴染みのない競技に、過半数以上の票が集まるなど、普通は絶対にあり得ない。どんなにお祭り好きな高校生といえども、体育委員は自分たちで運営する側だ。めんどくさいことや予測のつかない仕事は、極力やりたくない。当然、聞いたこともない競技に賛同する者は少ない。
ノウハウのある騎馬戦や棒倒しをやっているほうが、あるいはどうでも良いスウェーデンリレーでもやっているほうが、運営は楽だ。
しかし、男子高校生をやる気にさせることが、ことこのリアルスプラトゥーンには存在する。事前に入田と山崎をやる気にさせた、アレである。
ミコトに委員会の招集を押し付けられた俺は、男子の委員のみを三十分早く集合させた。
そして、あらかじめリアルスプラトゥーンの競技が十分に可能なこと、どんな仕事があるか、負担はどのくらいかを説明した。
特に自分で考えてきた競技に執着のない委員は、すぐになびいた。きちんと考えてきた委員にも、アレを伝えると、かなり揺らいだ。男ってほんとバカ。
ともかく、競技の運営責任者は俺だということ、競技が実現可能で、準備も日程も問題ないということを伝え、男子の九割以上の票を獲得した。稟議と根回しは、日本の伝統だ。
さらに、相方の女子委員に、メモを渡してもらう。「準備は手伝わなくて良い。当日に手伝ってくれるだけで良い」旨を書いたメモだ。負担がほとんどないことを強調して、賛同を得る。
結果、過半数を大幅に超える得票。
「どうせ、なにか卑怯なことをしたんでしょう」
「それは自分の意志で投票した体育委員をバカにする発言だってわかってるか」
自分で言うのもなんだが、この競技は面白い。前例がないから、うまく行くかどうかはわからない。しかし、元ゲームが面白いのは確かで、現実で再現するのは挑戦としても魅力的でやりがいがあるし、遊びや競技としても深い。
だいたい、高校生にもなって、大真面目に水鉄砲やバケツで水を掛け合うなんて、それだけで楽しいじゃないか。
だから、やる気のある委員はむしろ、俺の競技に票を入れてくれているようだ。
「多数決は多数決です。競技は、決まりです」
ミコトは眉間に皺を寄せて、俺の発案を受け入れた。
かつらぎ水合戦ルール(リアルスプラトゥーン改め)
インクの色 白組:青 赤組:朱
競技の服装 古着のシャツ(なるべく白)・下は水着。
脱げにくいサンダル。
ゴーグル必須。好きなもの。
競技の舞台 グラウンドにダンボールを敷く。
市街戦のイメージでダンボール構造物を迷路のように配置。
お互いの陣地は両端にある。
競技の人数 十五人ずつ
競技の武器 一人一種類選ぶ。
水鉄砲(十発近距離)
水鉄砲(二発遠距離)
手桶
霧吹き
水風船(五つ)
注射器(一リットルボトル付き)
スポンジナイフ(色水を浸しておく)
競技の時間 7分×2戦
勝敗 ポイント制
構造物一つにつき 10点
キルごとに 1点
終了時にキル状態 ー5点
反則者(後述) ー7点
合計点数の多い組の勝ち
構造物判定 ポイの塗り面積で判断。
目視過半以上の塗り。
キル判定 頭上のポイに敵インクがついた時にキル。
キル後の攻撃は無効、キル前の攻撃は有効(相打ち有)。
判断は審判が行う。
復活 キルされた後、陣地でポイを交換すれば復活。
インク補充 占領した構造物周辺または陣地で行う。
(陣地には自陣のインクを、構造物内部には双方の組のインクを置いてある)。
インク補充中も喰らい判定有り。
反則 直接の身体接触、暴力。ただし、スポンジナイフの接触は除く。
ポイ・武器を外す・奪うなどの行為。
フィールド外からの物理攻撃・塗り。
反則による塗りは無効。
反則者は競技から外れる。
その他 ポイを庇うのは有り。
武器は一種類のみ持てる。
武器の交換は自陣で行える。
体育祭実行委員で話し合い、以上のルールを詰め、学校にも掛け合い必要経費とモノの保管場所、工作時間の確保はなんとかなった。
競技自体は六戦ほどするが、すべて使い回せると考えると、消耗品はインク(絵の具)とポイ用の布くらいだ。シャツは各自用意してくれるだろう。
「あと一週間か。けっこう用意に時間がかかるかもな」
俺は副委員長席で、一段落した後に独りごちる。
会議室は思いのほか静寂に包まれていたようで、全員の視線が俺に集まった。
ミコトが書類を見返す。
「全員で作れば、じゅうぶん間に合うでしょう?」
「いいや、女子の委員には、当日の審判を任せたいから、準備は男子でやる」
言えない。
女子からの票を得るために、裏工作したことを。
「そんなの、体育委員なのだから、手伝うのが当然じゃないですか」
「しかし、事前に約束があってな」
「関係ありませんよ。文書に残っている契約ですか? ないでしょう? 私が全員手伝えと命じれば、済む問題です」
「済まねえよ。信頼や信用ってもんがあってだな」
「九頭川さんに信頼も信用もないでしょう」
真顔で蔑むミコトは、ウルフカットにふさわしい鋭い視線を向ける。
同じ目つきで、委員全体を見渡す。
「今後、全員参加でかつらぎ水合戦の準備をします。病気と冠婚葬祭以外の欠席は認めませんので」
「おい、やめろよ」
「副委員長は黙ってください」
ミコト委員長の強権で、反論もなく予定が決まる。この委員会、そもそも個人にまともな発言権がなかった。
体育祭実行委員なんて、文化祭と違って、やる気のない人間が嫌々来ているだけのことが多いのに、本当にまずい。このやり方はまずい。
男子は俺が懐柔して得票しているので、まだマシだが、伝わってくる女子の怨嗟がいっそうひどい。会議が終わるや、挨拶もなしに消えるメンバーの多さよ。
俺が机に突っ伏して唸っていると、隣の男が気遣ってくれる。先輩だったか。
「おい、副委員長、どうする気だよ? 男子はともかく、女子は準備が嫌で賛成したやつも多いぜ?」
「買い出しとか、競技ルールを各クラスに周知するという名目で、実質サボっていいようにします。やってもいい人だけ、手伝ってもらえたら」
「そうか、それならなんとか。おまえも大変だな、委員長がワンマンだと」
幸い、委員全員の連絡先はわかる。面倒だが、一人一人詫びを入れて、作業が最小限になるようにお願いするしかない。少しでもつつがなく終わるように。
体育祭実行委員の全女子に頭を下げながら連絡して、一応の許しを得た。やる気なく嫌々参加している者が多いが、ミコト委員長がアレなので、憐れみながら許してくれる。
そこそこやる気のある女子は、準備の参加も快く引き受けてくれた。どうしても参加したくない者は、買い出しやルール説明だけをするということで、なんとか折り合いをつける。
すでに、連絡だけで時刻は十時。
普通なら電話するには非常識な時間だが、最後の一人へ。
『通話していいか』
半年以上ぶりだ。
メッセを送る。
即座にスマホが震えた。
通話で返事が来た。すぐに出る。
「もしもし」
『もしもしって、笑う。昭和かよ!』
「令和でも、もしもしだろ」
『そいで、何? 花奏ちゃん有名人化計画、おっけー?』
片言の外国人のような日本語で、那知合は楽しそうだ。
すべてわだかまりはなかったことに。
俺の告白も、フラれたことも、無干渉の期間も、なかった。
気にしていたのは、俺だけだ。
離れたかったのは、俺だけだ。
(那知合に近づいている意識もないか)
「那知合、今から体育祭の紅白戦の競技のルールを説明する」
『待ってたー!』
「複雑だぜ? それを理解した上で、用意してもらうものがあるんだが」
『うんうん、たっすんの言うことなら準備するっしょ』
「いいか、よく聞けーー」
粛々と体育祭の準備は進んだ。
必要な道具の買い出し、加工、実地での運営の練習、すべて並行してぎりぎりの日程だ。
助かったのは、ミコト委員長が体育祭の本体を準備する体育教師とともに動くことが多く、紅白戦競技にはあまり顔を出せないこと。俺が奇しくも副委員長に任命されていて、みな指示に従ってくれること。
「九頭川、ポイとヘアバンドの縫い合わせは終わったぞ」
「じゃあ、つけて走り回って、問題ないか確かめておいてください」
「副委員長〜、段ボールをもらいに行っていたグループが帰ってきたぞ」
「じゃあ、模様のない向きに箱を組み立て直して、大中小の構造物に作り分けてくれ。終わったら、最上部にポイをつけるから、また連絡をくれ」
「九頭川先輩! インク作って、ポリタンクに入れたんですが、どうしましょう?」
「じゃあ、台車を借りてきて、体育倉庫に運んでおいてくれ」
なんだよこれ、俺が一番働いてる気がするぜ。いやまあ、働くのはやぶさかではない。俺の夢は、さっさと働いて、独り立ちして、結婚して、家庭を築くことだ。
しかしこれは、無償労働、やりがいさえない。
一番手間のかかる箇所で、段ボール箱を裏返して組み直し、構造物(これはサバゲーで言う建物や塹壕にあたる)を作りながら、質問や報告に来る委員に対応する。報・連・相は大事だ。報連相がなくなると、少女漫画になるからな。
「しっかし、おまえが副委員長でよかったよ」
報告に来た三年生の一人が、ため息をつく。
きょろきょろと辺りを見回す。
「あの一年女子が仕切ってたら、体育委員はほとんどボイコットしてたと思うぜ」
「ははは、冗談きついですよ」
俺の肩をポンと叩いて、三年生は力なく笑って作業に戻る。
(本当は、俺が中心になるのは違うんだよなあ)
ミコト委員長の愚痴をさらっと聞かされるのは、一度や二度ではない。
俺には、どうしようもないのだ。ミコトには試験されている身分だし、不満のある委員にしても、委員長を代わりたいわけではない。ただ、独善的な委員長の愚痴を、何となく言いやすい俺に言いたいだけだ。
「まあ、愚痴で済むなら、いいさ」
これが実際の諍いにならなければ、体育祭は成功裡に終わるだろう。
切に願う。
及第点に届くことを。
準備を始めて何日か経った。
やることは順調で、目的に向かってみんなで作業をするのは、無償だということを除外すると、一体感があり、楽しくもある。
存在しないと思っていたやりがいも、感じられてくる。
前回の文化祭と同じだ。
特に、予定通りに目的を達成できそうな絶妙な進捗が、満足感をいや増す。
「九頭川さーん、全クラスに紅白対抗戦のルール説明と、参加者の一覧をまとめてきました」
放課後、いつものように空き教室で集まって作業していると、あまり印象にない女子二人が近づいてきた。
おそらく、体育委員をやらされているタイプで、準備ではなく審判だけお願いしていた女子だ。
「動画を見せながら説明すると、どのクラスも簡単に参加希望者が埋まって、本当に楽でした」
「それはよかった。友達に協力してもらった甲斐があったってもんだ」
俺は参加者名簿を受け取りつつ、その他作製中の道具の状況や、段取りのマニュアル、審判のルールブック(という名の一枚もののプリント)など、全方面の進捗にまとめこむ。
本当は委員長にやってもらいたいが、ミコトはすまし顔でごまかしつつも、体育祭全体の調整や段取りでいっぱいいっぱいだ。こちらにあまり顔も見せない。
「もう用事がないなら、帰ってくれていいぞ」
なぜか目の前に止どまる女子二人を見やる。二人とも体育とは縁遠そうな、おとなしい感じだった。一年生だろう。
紅白戦の参加者をまとめた紙を手渡してくれたほうの女子が、上目遣いに覗く。
「あの、ちょっと聞いたんですけど、九頭川さんって、文化祭の恋愛謎解き劇の台本を作ったってほんとうですか?」
「あー、そうね、だいたいね」
「やっぱり! ずっと気になってたんです。あ、わたし演劇部で」
「うわあ、やめてくれ、ダメ出しはやめてくれ。俺は台本なんててんで素人だし、クラスの奴らも素人なんだ」
「あ、違います。否定したいんじゃなくて、むしろあれを演劇部で作り直してやってみたいっていうか」
「それ、遠回しなマウントだよね? ひどい、俺、泣いちゃう。よよよ」
「九頭川さんって、わりと面白いですよね。最初ちょっと怖いっていうか、暗いっていうか、近づきにくい印象だったんですけどー」
「君は初対面のわりにずけずけ来るねえ」
そこでもう一人、隣の女子に顔を向ける。話したそうで様子をうかがっているように見えた。
「あ、えと、私は文芸部で」
「うわ」
「文芸部で引かないでください……。うーんと、それでミステリが好きで、」
「うわわ」
「どうして引くんですか!?」
「だが断る」
「まだ何も言ってないじゃないですか!?」
「だって、マウントとるためのカウントダウンじゃん」
「逆ですよ、むしろ、あんなミステリもありうるんだなーって」
よくわからないが、文化祭で沖ノ口の名はそこそこ知れ渡り、付随して台本係ということで俺も知られているらしい。
(どうだ、少しは、佐羅谷や宇代木の隣にいても、恥ずかしくはないか?)
いや、まだまだだな。
身近で、ミコト委員長には小馬鹿にされたばかりだ。増長してはいけない。
「あとは、九頭川さん、「あの部」にいるんですよね。すっごく気になります」
「そうですよ、かつらぎ高校の憧れの女子二人と同じなんて、うらやましいです」
「雲上人です、一体、どんな話するんだろー」
二人は当然にあの配信を見たらしい。
やめて、本人の前で配信内容の切り抜きを読み上げないで。
「そうだ、九頭川さん、ライン交換しましょう」
「私もお願いします」
「んー? 連絡先は、前に電話しただろ」
だが、二人は頑なに電話以外の連絡先を推すので、仕方なく伝える。まあ、電話は通信費的にデータではない枠になるので、お金が余分にかかるからな。わからないでもない。
というか電話番号で友達登録できるのでは。
連絡先交換が終わる頃、背後から声がかかる。
「何を遊んでるんですか、九頭川さん。そちらの二人も」
オオカミの足音はとても静かに、致命的に距離を詰める。
接近するまで、ミコト委員長がいることに気づかなかった。しまった。
「ああ、委員長か。なに、単に参加者の報告を受けてただけだ。こんなことでもないと、俺は女子と話をするきっかけもないからな。副委員長の権限で、帰りたがる女子を引き止めてただけだ」
演劇部と文芸部の女子二人は、あからさまに剣呑な雰囲気。同じ一年とはいえ、この委員長と仲良くするのは難しいだろう。頼む、ややこしいのは勘弁してくれ。
「ほら、二人とも、引き止めてごめんな。もう、帰っていいから」
俺がほいほいと手を振ると、意を汲んでくれて、文句も言わずに教室を出る。
ミコトは俺の横で腕を組んで仁王立ちのまま、女子二人の出た先の扉と俺とを交互に見る。
騒がしくも和気藹々とものづくりに励んでいた教室が、一気に静寂に包まれる。黙々と、ただ手を動かすモダンタイムズ。
ミコトの視線が届くたびに、作業者はそっと目を逸らし、工作に集中する。本社の偉いさんと外部コンサルに見せるためだけの「仕事してるふり」だ。仕事の「見せる化」という状況。かつてのホンダでも、宗一郎社長が来た時だけ使うラインがあったという話だ。
おかげで、とことん空気は澱む。
「ふうん、まあ良いでしょう。段取り含め、九頭川さんに任せるので、失敗しないようにお願いしますね」
「少しは自分で進捗を見ろよ」
「私は私の仕事をしていますよ。信じて任せるのも大切でしょう?」
信じて任せるのは場合によっては正しいが、俺の知る限り、ミコトは何もしていない。俺は自分で提案した紅白対抗戦を実行するからと頑張ってきたが、うまく使われすぎている。
「そうだ、九頭川さん、もう一つ追加です。開会式と閉会式の挨拶文ですが、一緒に考えてください」
「え、そこまでするの、俺が?」
「盛り上がるようなものを、頼みますよ。私は添削しますので」
添削って、ということは俺が考えることまで既定路線かよ。
口で言っても勝てないので、黙って睨み返すと、小馬鹿にしたように見下してくる。
「降伏はいつでも受け付けますよ」
小声でささやくと、ゆうゆうとミコトは教室を出て行った。教室を出てもやることはあるまいに。
誰からともなく、ため息が聞こえる。
呆れや怒りのことばが漏れる。わかる。宥めるまでが、俺の領分だ。
誰かの声が聞こえた。
「九頭川くんは、ほんとうによく我慢してるね」
お褒めに預かり、光栄至極。
耐え忍ぶのも、待ち続けるのも、わりと得意なんだ。
大企業は、中抜きが仕事だ。
製造業は製造しないし、建設会社は建設しないし、システム会社はシステムを作らない。
大企業の仕事は、受注して下請けに流すだけ。重要なのは仕事を受けるに見合う大企業の看板であり、実質的な業務は何もない。
俺は大企業ではないが、大企業の真似はできる。
「もしもし、沼田原先輩ですか」
『やあ! 九頭川か、この前はありがとう。少し、気分も持ち直してきて、勉強も身が入るようになってきたよ』
「それはよかったです」
『なにか用なんだろ? 君は、用もなく連絡なんてくれないだろうし』
「実は、……」
俺は体育祭実行委員に属して、開会式と閉会式の挨拶まで任されたことを告げる。
『いつの間にかそんなことに……まったく、あの子は』
「それで、沼田原先輩は生徒会長だったし、こういうの、得意でしょ? 手伝ってもらえないかなと」
『……』
「あの、先輩?」
『つーん』
「いや、擬音でつーんって」
『九頭川、私はロジカルなほうだけど、いちおう情緒的な生き物なんだ』
「や、依莉先輩だけが頼りなんです」
『うーん、そういえば、忍海の葛城食堂跡地にクレープのお店ができていたなあ』
「……おごります」
『ははは、ダメだね、九頭川。そりゃあ、おごってくれたら大切にされてるなーって嬉しくはあるけど、そこが本質じゃないんだ。女子にはね、君を連れて行きたい、一緒に行きたいって誘ってくれる、その思いが大切なんだよ』
「女心は俺には難しすぎますよ」
『私も彼氏いない歴=年齢だから、妄想だけどね』
「もう俺泣いていいっすか」
『君には助けられてばかりだからね、喜んでお手伝いするよ。ところで、君は女子と二人っきりでクレープ屋さんにいるところを見られて、問題ないのかい?』
「……ないでしょ、たぶん」
ふうん、と、沼田原先輩は意味ありげだった。
とりあえず、仕事丸投げの予定は立った。何とか、挨拶文も雛形はできそうだ。受験生を使うなんて、あとから考えると、鬼畜だったな。沼田原先輩には感謝しても足りない。
時間は刻々と迫る。
体育祭は明日だ。
ヤフー天気予報はここから数日降水確率0%を並べる。
開会と閉会の挨拶文も、沼田原先輩と山崎の協力で、面白いものが出来上がった。
「閉会式はともかく、開会式の挨拶文、どうしてひらがなだけなんですか」
眉をひそめて、ミコトは不審がった。
「まあ、その通りにスピーチしてみろって。一部で大盛り上がりするのは請け合いだ」
「ふうん。何だかよくわかりませんけど。それで、紅白対抗戦はどうですか」
「そっちも、準備は整った」
モノができてから、男子が二手に分かれて実践形式で模擬戦をした。女子は審判として、一通り流す。
審判から競技が見にくい→テニス用の審判席を使う
撃墜に気づかないままのプレイヤーが出る→拡声器で声かけが必要
観客からも見にくい→実況解説の拡充
その他、およそ出てきた問題は改善できたはずだ。
「体育祭より、俺に対する評価はどうなったんだよ。途中経過は」
ミコトに余計なツッコミや口出しをさせないように、別のことを質問する。
正直、夏休み前の、高森の件で名古屋から帰ってきたときならば、佐羅谷や宇代木と関わりを絶って、フェードアウトするという考えもあった。
だけど、今はダメだ。
恋愛研究会から離れたくないし、なんなら、俺が恋愛研究会だ。
「九頭川さんは、人をたぶらかすのがお上手ですね」
しばらく考えて、ミコトは無表情な目を俺に向けた。手の中で、挨拶文を印刷した紙がくしゃっと音を立てる。
「見ていて、イライラします」
「もはや言いがかりじゃねえか」
「悔しいですが、うまく行っているようです」
それはよかった。
「じゃあ、今日は帰る。明日、遅れるなよ」
「こんなに、私だって、がんばってるのに」
「あん、何か言ったか? また悪口か?」
「悪口なんて、私は事実しか言いません。九頭川さんこそ、遅れないでくださいよ。恥をかかせないように」
軸のぶれない綺麗なターンで、俺に背を向ける。ミコトは廊下を歩いて消えた。
初めてまともにミコトの姿を見た気がした。
細身の体に、狭い肩幅、短いウルフショートが覆う小さな頭。一年生で体育祭実行委員長の役職は、あの双肩に重くのしかかっている。
いたずらに敵を作る強気な物言いはいただけないが、真面目で愚直で真剣で、正しくあろうとする心意気は本物だ。研ぎ澄まされた抜き身の刃だ。さぞ、生きるに苦しいだろう。
(俺も、甘いな)
実行委員のほとんどは、ミコトの杓子定規で高圧的な態度に反撥しているが、一番近くにいる俺には、成功させたいという気持ちが空回りしているのが伝わってくる。
何とかしてやりたいな。
どうでもいい他人のことなんて、放っておけ。黒い心が囁く。それができれば、苦労はないんだ。俺は、こういう男だ。
乾いた銃声が、俺の頭ではなく、乾いた秋の空をぶち抜いた。空砲が体育祭の開催を告げる。
体育祭なんて興味がなくて、それでも昨年は谷垣内の金魚のフンとしてほどほどにがんばった。那知合にいいところを見せたかったが、どうがんばっても谷垣内より目立つのは不可能だった。
今年は、別の意味で緊張するし、気が気ではない。
佐羅谷と宇代木からは信用されていると思いたいが、ミコトの判断で俺が追放されることもありうるのだ。表向きだけでも、無難に収めなければ。
グラウンドに体操着姿で全学年が整列する中、体育祭実行委員の委員長ミコトと副委員長の俺だけが、体育教師と同じ場所に並ぶ。
「それでは、体育祭実行委員長、槻屋尊さん、開会の挨拶を」
ミコト委員長はいつもの無表情を心なしか緊張に固くし、台に上がる。
挨拶文のカンペはない。
あの程度は記憶してもらわないと、話にならない。演技指導もした。ミコトは演技の意味を理解していなかったようだが、わからないなりに様になっていた。
すべては、沼田原先輩の基本挨拶を、山崎がアレンジし、一部に熱烈にウケる内容に仕上げた。一部の熱狂で、全体を煽る方式だ。
マイクの前に立つミコト。
凛と澄んだ冷たい表情が、整列する生徒から私語を奪う。
一陣の風が、薄い水色のパーカーをはためかせる。ゆるりと、腕を後ろに組む。
「きょうは ステキな日だ
はなが さいてる
ことりたちも さえずってる
こんな日には 俺たちみたいなヤツは
体育祭で もえつきてしまえばいい!」
最高だ。
発音、抑揚、演技、ぶっつけ本番にしては、文句がない。音楽担当も、最後の台詞に遅滞なく曲を流した。メガロバニア!
「お、おおおおぉぉぉぉっっっ!」
指導員・山崎が俺のクラスの列で吠える。人目を気にしないやつは、こういうときに使える。
山崎の叫びに呼応して、ノリのいいやつ、何となく意図を理解したやつから声が上がり、生徒全体に叫び声が広がり、一つになり、盛り上がっていく。
「では、各自所定位置へ下がってください。体育委員は準備を、最初の競技にでる人は集合場所へお願いします」
俺たちの体育祭が、高揚のなかに幕を開けた。
「始まったな」
実行委員用のテントに下がり、俺は首を傾げるミコトに、どうよ? と問う。
「何が何だかわかりませんが、盛り上がったので良しとします」
感情のない瞳に、口を一文字に結ぶ。
一週間以上顔を突き合わせてきて、何となくわかったが、ミコトはこれでも喜んでいる。
「そのしたり顔が苛立たしいです」
「そういう時はな、九頭川先輩のドヤ顔、ムカつく〜って、頬を膨らましたら、もうちょっとかわいいと思うぜ」
「は、キモ……あ、気持ち悪いです」
なに、今日は体育祭の、ひいては祭りの本番だ。多少ははっちゃけたって、普段と違うテンションでハメを外したって、悪くはねえだろ?
パイプ椅子に座り、委員用の運営プログラムを開くミコトの顔は、ほのかに紅潮していた。
「こっち見ないでください。言いつけますよ」
「はは、誰に言いつけるって」
「まあ、体育祭がうまく行けば、すべてこともなしです」
「ふうん?」
確かに。
どうやら、俺は恋愛研究会の一員として、文句なく認められるらしい。
適度に盛り上がりながら、体育祭は順調だ。
やる気のない面々も、やる気のある面々も、懲りずに学校行事を果たす。
かつらぎ高校の紅白は、男女ではなく、クラスごとに分かれる。体育教師も心得たもので、ほとんど紅白で点数差が出ないように割り振っているようだ。
今回も、僅差で抜きつ抜かれつ、やってきたのは我らが企画立案した紅白対抗戦、最終競技、『かつらぎ水合戦』だ。
「次は紅白対抗戦『かつらぎ水合戦』です。出場予定者は入場門に集まってください。舞台準備まで時間がかかるので、この場を借りて改めてルールを説明します。……」
放送部がアナウンスでルールの説明を始める。
ここからは、時間の勝負だ。
体育委員総出で、グラウンドに戦場を作り出す。
放課後に作った、ビルや自動車、街路樹や家屋を模した段ボールの構造物を並べる。審判用にテニスの審判台を並べる。陣地用に、ポールテントを建てる。武器である水鉄砲や手桶、霧吹きなどを並べる。
……あれ?
準備していて、何かおかしい。
大切なものを忘れている気がする。
「どうした、九頭川」
「いや、なにか足りないっつーか」
「ポイ付きヘアバンドはあるぞ」
「武器も人数分と予備もありますね」
「審判の笛もあるし、拡声器もあるぞ」
「委員長と副委員長なしで進める緊急用マニュアルもあるぞ」
「それは今日は要らないですよ、先輩」
何人かで、車座でクレタ人のように隣に問うも、解決しない。
俺は一つ一つ指差し呼称しながら、違和感の正体を探る。
水鉄砲をぽひゅぽひゅと空撃ちする。
「もうすぐ始まるのに、何してるんですか。配置についてください」
「待て、何か足りないものが」
全体を見ていたミコトが、俺たちの輪にやってくる。
俺は水鉄砲の銃口をミコトに向け……。
「あ、インク!」
水鉄砲が装填されていない! インクがないと、ゲームが始まらない!
俺が叫ぶと、準備していた連中も、一気に顔が青ざめる。
「何してるんですか! 競技の要を忘れるなんて! 誰ですか、準備係は!」
ミコト一人が顔を真っ赤にして怒鳴るが、ここで担当者を追及する時間がもったいない。
「委員長、追及は後でいい! 体育倉庫だろ、悪い、準備終わったみんな、手伝ってくれ!」
手伝ってくれそうな「特定の」メンバーに目配せして、俺は一目散に駆ける。ここグラウンドから、学舎沿いに端まで走った敷地の隅に体育倉庫はある。
移動自体は走ればすぐだが、問題は水溶き絵の具が入ったポリタンクが十個ほどあるということだ。とても一人では運べない。確か台車があったが、それでも複数人欲しい。
ミコトにも、優先順位をわかってもらいたいものだ。ただでさえ委員から委員長への心象はよくないのに、ここで協力してもらえなかったら、競技が始められない。
(何人かついて来てくれているな)
ミコトも横を走っている。
なんとかなりそうだ。
体育倉庫を開け放ち、俺とミコトがポリタンクを外に出す。後から追いついて来てくれた委員たちは、台車のあるかぎり台車で、台車がなくなると担いで運ぶ。
一つ二つとインクの入ったタンクが消えていく。
「よかった。なんとか間に合うな」
「まったく、なんて情けない。あとで反省会を」
「ミコト委員長、もういいじゃねえか。誰にだって、ミスはある」
「各自が自分の役割を果たせば、こんなミスが起きることなんて、絶対にないんです! 当たり前のことが当たり前にできないから」
「だーかーらー、役割をきちんと決めなかった俺が悪いんだよ!」
体育倉庫の中で怒鳴り合う俺とミコト。
俺は、準備で何を担当するかなんて、細かく決める必要はないと思う。融通が効かなくなるし、担当以外に無責任になるからだ。
だいたい、本来はチェックリストでも作って、その時々に応じて、ミコトが指示を出すべきじゃないのか。
たまにやってきて上から目線で掻き乱していくだけの管理者なんて、仕事をしているとは言えない。
「ふん、じゃあ、九頭川さん、あとで覚えておいてくだs」
ガチャンと、騒音がミコトのことばを遮った。
体育倉庫が、急激に暗くなった。
扉が、閉まった。
引き戸だ。
勝手に閉まるなんて、あり得ない。
「え、どうして? ちょっと待って」
隙間に指を入れて動かすが、重い扉は少し浮き上がるだけで、びくともしない。
「ちょっと、開けて! 中にいるの! 誰か、いないの!」
ばんばんばんと扉を叩いては、隙間に指を入れてを繰り返すミコト。
だが、外からの反応はない。
これは、俺のおじさんの山田仁和丸(40)が中学生時代、同級生にやられたいじめと同じものかもしれない。まさか、高校生になってもあるとは思わなかったし、俺がハメられるとも思っていなかったが。「ほんとうならば」な。
「おい、ミコト、やめろ。手を怪我してるじゃねえか」
必死になって扉に喰らいつくから、指に切り傷ができている。
俺はミコトの手首を掴んで、扉から引き離す。
「おまえだって女子だろ、体は大切にしろ」
「今は関係ない! 行かないと、紅白対抗戦、始まるのに! 遅れる。困る。私が、きちんと、しない、と」
短い髪を振り乱して、涙声まじりに俺の胸に殴りかかってくる。本気ではない。痛くはないが、うっとうしい。
「あー、大丈夫だ。俺やおまえがいなくても、うまく運営してくれるマニュアルはあるし、三年生のまとめ役に任せてるから。競技はつつがなく進行するさ」
「私は、ちゃんとしたいだけなのに! どうして、どうして、こんなことに!」
どうして?
どうしてだろうな。
どうして、わからないんだろうな。
どうして、あれだけ恨みを買うような独断専行を続けて、言うことを聞くと思えるのだろうな。
「こんな……こんなんじゃ、だめだ……来月、生徒会選挙なのに……こんなんじゃ、体育祭もちゃんとできないなんて、最低……どうして、もう無理……」
「生徒会選挙? なんだ、生徒会に入りたかったのか」
「当たり前じゃないですか。体育祭実行委員長は、生徒会長の試金石ですよ。知ってますよね?」
「知らねえよ」
ん?
待てよ。
じとっと涙を隠した目で見上げてくるミコト。
確か、沼田原先輩が言っていなかったか。生徒会副会長の一年生がいて、それを補佐してほしいと勧誘された気がする。その一年生は、独断専行気味で、やる気が空回りしているとの評価だった。
ああ、そういうことか。
高校の生徒会なんて、希望者がいない信任投票の出来レースだ。別に実績がどうの、能力がどうのではなく、先生の推薦で決まるようなものだ。体育祭でしくじったところで、ほとんどの生徒は興味がない。
だが、この高慢ちきをそのままに生徒会長にするのはよろしくない。
「なあ、ミコト委員長、おまえ本当に自分がなんでこんな目に遭ってるかわかってないのか?」
「やるべきこともできない、指示がないと何もできない人間が、図星をつかれて逆恨みしているんでしょう」
「違う」
この後に及んで、まだ自分の正しさだけを主張するか。
「おまえは正しいよ」
「じゃあ!」
「でもな、おまえの正しさはおまえにとってだけの正しさだ。体育祭実行委員長にとっての正しさは、体育祭を問題なく運営して、終わらせることだ。おまえは正しいかもしれないが、体育祭の紅白対抗戦の合図を出せなかった。じゃあ、おまえのやり方は正しくなかった。違うか?」
「それは誰かがこんな陰湿な嫌がらせをしたからで」
「こんな行為をさせるくらいに、体育委員たちを追い込んでいたのは、委員長の責任じゃないか?」
「私は決められたことをしているだけなのに……っ」
「人間は、正しくないんだよ。正しさには、反論できない。だから、正しさで追い詰める人間の言うことを、誰も聞かない。
自分で自分を律して、正しくあろうとするのはかっこいいと思うぜ? だけどな、正しさは強要するな」
「追い詰めるなんて、そんなつもりは」
正しさは正しいがゆえに、一切の反論を許さず、だからこそ厄介で、反撥を買う。
「でも、佐羅谷さんも宇代木さんも沼田原会長だって、みんな高潔で正しいじゃないですか。私だって、彼女たちみたいに、なりたいんです」
「あの三人が、正しい?」
冗談を言っている顔ではない。
本気であの三人が正しいなんて思っているのか。
「正しかったら、恋愛なんてできないだろ。あの三人は、正しさの対極にある存在だと思うが。なんなら、俺の方が正しさに準拠しているくらいで」
「は? あの御三方は、自分たちは恋愛をしないじゃないですか。一段高い立場からの助言をするだけで、自分のこととして恋愛なんてしないでしょう」
「あー、その点で根本的に間違ってるんだな。そうか、だから、犬養先生はミコトの入部を認めたのか」
腑に落ちた。
恋愛なんて、自分が自分でなくなり、周りが何も見えなくなり、決まりやルールがバカらしくなるような、およそ世に言う「正しさ」すべてを放棄したくなるような心の動きだ。
正しさに従う限り、恋愛はできない。
ミコトから見たら、恋愛なんで無駄なことで、正しくないことで、必要ないことなのだろう。
人間にとって恋愛はすべてではない。
だが、人を愛す気持ち、人を恋焦がれる気持ちを理解せずに、人を動かすことはできない。
恋愛を知ることで、人間はロボットからヒトになる。学校では教えてくれないことだ。
「ミコト、生徒会長として認められるために、変わる勇気はあるか?」
「九頭川さんが、私を生徒会長にしてくれるんですか」
「その助けにはなれる」
俺はハーフパンツの中にあるスマホと折り畳んだ紙を手で確認する。まさか、このルートが来るとはな。
ミコトは暗い体育倉庫のマットに膝をついたまま、悔しげな目で唇を噛む。
「お願いします。助けて、ください」
一番の涙声で、ミコトは頭を下げた。
なんだ、できるんじゃないか。
必要なことは、とても簡単で単純なことだ。
「ミコト、」
俺はポケットから折り畳んだ紙を取り出し、ミコトの手に握らせる。中身が開かないように、強く。
ミコトの手は、小さくて少し冷たく感じた。
「死に物狂いで、居ても立っても居られないくらい、誰かを好きになってみろ」
しごく真面目な俺のことばに、ミコトは目を瞬かせた。
ふざけているつもりはない。
人を好きになること。
これが、心を理解するたった一つの冴えた方法なのだから。
人は、人が好きだ。
人を救えるのは、人だけだ。
きっといつか、ミコトを救ってくれる人が現れる。問題ない。観測者が観測されるのは、時間の問題なのだから。
「さて、では佐羅谷を呼ぶか」
俺は紙片をミコトに渡すと、伸びをする。
「こんな校舎の隅の体育倉庫、大声を上げたって、誰も来ませんよ」
「文明の利器があるじゃないか」
体育倉庫に閉じ込められても、助けを呼べる、そうアイフォンならね。
「スマホは貴重品袋に預けてるじゃないですか。体育委員が結託して私たちを閉じ込めたのなら、閉会式まで、先生も気づきませんよ」
「おまえ、あんなものにスマホ預けてるのかよ」
「どうして九頭川さんはスマホ持ってるんですか。この不良男子」
「スマホくらいで不良認定はやめてくれ」
俺も、普段の体育なら預けることもあるさ。だが、体育祭のような長時間の拘束で預けるなんて、スマートじゃないぜ。
「というわけで、佐羅谷を呼ぶ」
「待ってください」
紙片を弄ぶミコトは、立ち上がってお尻をはたく。
「マコトを呼んでください。佐羅谷さんや宇代木さんに、知られたくありませんから」
「俺はあいつの連絡先を知らねえよ」
「わたしが知っています」
「スマホがないのに?」
はっと気づいて、絶望的な顔になる。
そうだ、今の俺たちは、スマホがなければ友達の電話番号さえ記憶していない。俺だって、親父のケータイ番号くらいしか覚えていない。
ほんと、バックアップ大事。データが飛んだら、社会的に死ぬ。マジで。
「学校に、ホームページから学校に電話して」
「だめだ。学校にかけたら、先生か用務員さんが出る。体育倉庫に閉じ込められていると言ったら、きっと大ごとになる。それともおまえは、体育委員の中から犯人を探して、糾弾して、恐怖政治を敷いて、生徒会長になりたいか?」
「……いいえ、そこまではしたくないです」
うつむいて、唇を噛む。
実は手はないこともない。俺は犬養先生の連絡先があるので、そちらにかけたら、内々に処理できるだろう。だが、ミコトの性格から言って、先生よりも佐羅谷や宇代木にこの姿を見られるほうが、辱めになる。
だから俺は、迷いなく佐羅谷を呼ぶ。他意はない。
「いいんですか? 佐羅谷さんを呼んだら、九頭川さんの負けですよ? まだ、体育祭は終わってないんです! 部活、やめてもらうかもしれませんよ?」
「は、そんなこと」
この期に及んで、小さいな。
「あまり、なめてんじゃねえぞ?」
もう、有無は言わせない。
これ以上の議論は時間の無駄だ。
紅白対抗戦の水合戦に、委員長が不在というのはまずい。いくら運営できるとは言ってもだ。
俺は、佐羅谷を呼び出した。
即座に通話に出る。まるで待ち構えていたかのように。
「悪い、佐羅谷、助けてくれ」
『どこにいるの?』
まったく、大した女だ。
今の俺たちの状況を、しっかり把握しているらしい。「なに」ではなく「どこ」と即座に応じる。
これだから、佐羅谷あまねは隅に置けない。
「体育倉庫だ」
『わかったわ。すぐ行く』
ざっと、こんなもんだ。
ポケットにスマホをしまう。
ミコトは額を押さえて、うずくまった。低く呻いた。
何かを退ける音がして、ガラガラと建て付けの悪い扉が開いた。光が埃っぽい体育倉庫の中を照らす。
「まったく、こんな場所に閉じ込められるなんて、冗談は九頭川くんの顔だけにしてほしいものね」
駆けつけてきただろうに、息ひとつ乱さず、佐羅谷は悠然と佇む。
十日ぶりくらいだろうか、佐羅谷を見るのは。もちろん、いつもの佐羅谷だ。
「槻屋さん、大丈夫だった?」
俺には厳しい佐羅谷も、怯える下級生には優しい。
別に何も怖くなかろうに、ミコトは身を震わせて、佐羅谷を見上げる。
「私、九頭川さんに襲われました!」
ほう、そう来たか。
確かに、閉じ込めが意図的なものなら、襲うためというのはありうる。俺は俺で、助けを呼ぶ手段があったわけだし。
しかしさすがにこんな芋演技、佐羅谷は信じまい……信じないよね?
「へえ、九頭川くんに襲われたの」
「そうです。……抵抗、したから未遂ですけど」
そういう設定か。
顔を落として表情を見せないあたり、まあまあアドリブにしてはがんばっている。
俺がこわごわ佐羅谷を覗きやると、ジト目で溜息をついたところだった。
「そう、九頭川くんにレイプされなくて、残念だったわね」
「ざ、残っ!? レ、レイプって」
「まったく、もう少しマシな嘘をつきなさい。嘘をつくなら、世界をたばかる覚悟で、死んでもうろたえない意志を見せなさい」
佐羅谷は肘を組んだまま、アンニュイに視線を流す。
「ほんとうに、そうよ。つまらない男で初めてを卒業するよりも、九頭川くんに優しく抱きしめてもらったほうが、よかったんじゃない? きっと、一生、責任を取ってもらえるわ」
そうだ、佐羅谷はこういう話を平然とする女だった。深窓の令嬢の外側だけを見ている部外者にはわからないだろうが。
「だいたい、九頭川くんがわたしや天を差し置いて、あなたを襲うわけがないじゃない。一緒にいる時間も、二人きりでいる時間も、はるかに長いのに。それとも、あなたは自分がわたしたちよりも魅力的だと思っているの?」
佐羅谷はうつむくミコトの顎に手をかけ、上を向かせる。
「頬も張られていない、服は伸びてないし、破れてもいない、爪に肉が詰まっていないし、剥がれてもいない。抵抗できないくらい脅されているとしたら、こんなに健康的な顔色はしていないわ。もう少し、不本意な男に襲われた時のシミュレーションをしておくことね」
「なんなんですか! おかしいです! 佐羅谷さん、何を言ってるかわかっているんですか」
「おかしいのは、あなたよ。いいこと、九頭川くんの良さはわかりにくいから、いったんあなたに預けたけれど、ここまででまだわからないなら、容赦しないわよ?
九頭川くんがわたしと天を貶めるのを許さないように、わたしも九頭川くんが貶められるのを許さない」
ああ、そうか。
佐羅谷は、怒っていたんだ。
この感情は、喜びだ。
佐羅谷は、俺のために怒ってくれてるんだ。
嬉しい。
なあ、嬉しいよ。
俺には、それだけで、もう十分だ。
報われた。
佐羅谷あまねに、認められたんだ。
「佐羅谷、もういいだろ」
このままでは、ボロボロのミコトが委員長の役目も果たせなくなる。
「ほら、委員長、もう行け。今なら、まだ紅白対抗戦の終盤には間に合うから」
「……お先に」
襲われた演技をやめたミコトは力強く立ち上がると、体育委員のテントに向かって駆けていく。すぐにグラウンドを蹴る足音も聞こえなくなった。
体育倉庫は、にわかに落ち着いた。
「佐羅谷、助かった」
「よく言うわ。あなた、どんどん性格が悪くなってるんじゃない」
「さて、何のことやら」
「体育委員の女子二人、わたしに言伝に来たわよ。二人を閉じ込めたから、連絡があったら助けてあげてくださいって」
「マッチポンプだな、その二人」
「わざと槻屋さんを煽って、強権的に行動させて、体育委員の怒りを集める。さも自分が間を取り持つような位置で、話のわかるナンバーツーの立場を演出して、信頼を取り付ける。こんな面倒なこと、九頭川くんでないとできないわ」
「それってあなたの感想ですよね」
「別に論破してないわ」
佐羅谷は嘆息した。
「わたしたちは、何でも屋じゃないのよ。恋愛研究会の領分を超える仕事じゃない」
「いろいろあんだよ、俺も。水合戦の企画も通さなくちゃならないし、ミコト委員長の鼻をへし折らなくちゃいけないし、そして何より、恋愛研究会から追い出されないように、な」
「追い出させるわけがないじゃない。恋愛研究会は、「まだ」同好会よ」
佐羅谷はかすかに微笑む。
「九頭川くんの恋愛相談は、まだ終わっていないでしょう?」
「ああ、まだ佐羅谷の相談も、宇代木の相談も、端緒にもついていない」
「あら、おこがましい。そうね、でも、いつか、わたしたちの相談に乗れるくらいになればーー」
佐羅谷はまなじりを柔らかく下げた。
とろんと、優しくも哀しい表情を浮かべる。
誰もいない空間、たった二人で話をするのは、かけがえのない時間だった。
「おおおぉぉぉーーー!!」
「きゃああああぁぁーー!」
グラウンドから歓声が漏れ聞こえる。
「そろそろ、戻りましょうか。紅白対抗戦も、そろそろ終わるわ」
「最終戦は、那知合と宇代木のグループの対戦だろ。あれは見応えがあるぞ」
「どちらも、運動神経は抜群だけど、九頭川くんはどちらの味方?」
「本当に一対一なら、宇代木。だが今回は……」
「ねえ、よく聞いて。九頭川くんは、どちらの味方?」
「意地悪な質問するなよ」
俺の肩ほどの位置にある頭が、黒い髪を跳ねながら俺を試す。
本当なら、佐羅谷が出場している場面も見たかった。もっとも、佐羅谷が水鉄砲で暴れ回る姿なんて、想像ができない。
佐羅谷あまねに、手桶で頭から水をかける機会なんて、一生に一度もない。やりたいかどうかでいうと、やってみたい気はする。
「九頭川くん、何かいやらしいことを考えているでしょう」
「めっそうもない! ああ、ほら、みろ。陣地の一段高い台に、那知合が立ってるだろ。今回はちょっとチートだけど、那知合にはこの水合戦の必勝法を伝授した」
「ほんと、身内に甘いのね」
那知合は、もう身内ではない。
今回は、那知合の相談に応じた結果だ。すなわち、谷垣内に並ぶ知名度を得たいという希望に沿うため、最大限の力を発揮できるように。
「さあぁー! 興が乗ってまいりました! かつらぎ水合戦第二戦、皆の衆、心構えは整ったかぁ! 二回戦も実況は我、山崎と!! 解説は体育祭実行委員から怜悧なショートカットが似合う委員長!」
「槻屋尊です」
「で、お送りしまっっっす!」
全身全霊で、熱くマイクを握り締め、板についた実況を繰り広げるのは、俺のクラスメイト、いつもの山崎だ。ううむ、どうやら実況となると声がかかる上に、誰が相手でも物怖じせずに丁々発止、立板に水の如くことばが出るようだ。
「赤ーーーっ組ィ! 司令官・那知合花奏選手!」
山崎の声がスピーカーで拡声してグラウンドに響く。生徒たちの応援する声が地響きのように体に伝わる。
俺と佐羅谷は少し離れた木の下で眺めていた。
「那知合選手と言いますと、ダンス部の部長で、ダンスはもちろん、体力も運動神経も二年生ではトップクラスだと言いますが、おや、どういうことでしょう、陣地に立ったまま、準備を始めません。他のメンバーは武器にインクを充填していますが、これはどういうことでしょう、委員長?」
「そうですね、ルールでは、武器を持てる、というだけで、必ず持てとは言ってませんから、あえて戦場に出ず、陣地から指示だけをするつもりではないでしょうか」
「なるほど! 司令官が本当の意味で司令に徹するということですね! これは那知合選手、自らの運動神経を封印して、果たして吉と出るか凶と出るか、楽しみなところです。
おおっと! 赤組、全員がブルートゥースのイヤホンをつけているようですが、これは奇策だ! いかがでしょう、委員長」
「そうですね、ルールでは電子機器の使用を禁止してはいませんから、体育の先生方が禁止しない限り、合法ですね」
「先生方の様子は……おーっと、清原先生が指をクルクル回しています! 続行です! 合法です! これはいい判断、ゲーム性が上がりますよ!」
テンションの高い山崎と、黙々と応じるミコトの語りが対象的だが、聞いていてわかりやすい。悔しいが、山崎の盛り上げ方は上手い。
そして、ミコトは俺が渡したカンペを読み込んだのだろう。俺が那知合に教えた「ルールに書いていない」抜け道を説明する。
「赤組、武器を選び終わったようです! おおっと、なんだあれは! 全員がスポンジナイフだ! しかも二刀流です! 整列している様は、熟練の暗殺集団、武装兵、まるでグルカの民のようだ! 一体どういうことでしょう、委員長」
「そうですね、ルールでは、武器は一種類に限る、とありますが、一種類を何個も持ってはいけないとは書いていません。よって、合法ですね。驚きの戦略です」
「司令官が武器を持たず戦略に特化し、無線で指示を出し、ナイフ二刀流の武装兵がどのような戦いを見せるのか、赤組の戦いっぷりから目が離せそうにありません!
さあ、では次に白組を見ていきましょう。
白ーーーっ組ィ! 司令官・宇代木天選手! 宇代木選手と言いますと……」
隣で、佐羅谷のわざとらしいため息が漏れた。
「呆れた。なによあれ、あなたの入れ知恵でしょ? 水合戦のルールを知って、参加表明からチームの顔合わせまで、三日ほどしかなかったのよ? ルールを理解するだけでなく、裏をかくなんて、できるわけがないわ」
「一番難しかったのは、前線に出たがる那知合を陣地に押し込めることだったがな」
俺は、かつらぎ水合戦のルールが決まった時の、那知合との通話を思い出す。説得が大変だった。
『えー、あたし、ゆーとと一緒に出たいし。ほら、銃持った男女が背中合わせでバンバン敵倒すのって、ロマンっしょ』
「気持ちはわかるが、谷垣内は出すな。みんなの目が谷垣内に行って、那知合が目立てない」
『たっすん、あんたあたし馬鹿にしてんの。なめてんの』
「頼む、俺は、那知合を本気で活躍させて、全校生徒に知られるような女子にしたいんだよ。俺が好……懸想してた女が、無名なわけないだろ」
『けそー? なにそれ。ていうか、たっすん、あたしのこと好きでもないのに、まだ言ってるんだ。あんたが好きなのは、あたしじゃなくて、ゆーとでしょ』
「そういう一部腐った女子が喜びそうな発言はやめてくれ。それより、谷垣内の説得は頼むぞ」
『まーわかった。あたしが一人でやってみたいって言ったら、なんとかなるっしょ。で、あたしはどの武器が似合うと思うー?』
「ああ、違う。那知合は武器を持たない」
『たっすん、やっぱあんた嘘ついてんだろ。あたしが失敗するのを待ってんだ』
「いいから、聞け。那知合が一人でフィールドで孤軍奮闘してもだ、相手チームには、宇代木がいる。たぶん、二人が本気でやり合ったら、なかなか勝負がつかない。それは認めるだろ?」
『む、いーちゃんが相手だと、あたしもさすがに』
「だがな、このゲーム、どんな達人も凡人二人に挟まれたら、終わるんだ。俺は模擬ゲームで何度も実践したから、わかる。大切なのは、的確に指示を出せる司令官と、指示に忠実に従う兵士なんだ」
『えー』
渋る那知合に、俺は通話でひたすら語り続けた。いかに那知合の知名度を上げるか、司令官が本当に武器も持たずに、陣地の台の上で采配を揮っていれば、否応なく目立つ。
まして、体幹を鍛えて立ち姿さえ美しい那知合が、青のメッシュが入った長いストレートの髪を靡かせるさまは、およそ戦女神アテーナーに等しい。
見目よく、運動神経抜群で、しかも司令官として人心を掌握し、適切な指示を出し、チームを勝利に導けたなら、間違いなく学校中の耳目を集める。
谷垣内の隣に立つにふさわしいと、誰しもが納得し、認めるカップルとなるだろう。
那知合が有能な兵士であることは、俺も嫌というほどわかる。だが、有能な兵士では、この競技でそこまで目立てない。そして、兵士としての有能さは、出場しないにしろ、谷垣内が頂点に立つのは論を俟たない。だから、路線をずらして、知名度につなげるしかないのだ。
かなり難しいことを、俺としては論理的に述べたつもりだ。返事も聞かずまくしたて、キモいやつと思われたかもしれない。
佐羅谷や宇代木に説明するような理屈っぽい言い方になったが、果たして那知合がわかってくれただろうか。
『たっすん』
しばらくして、那知合が少しエコーのかかる声でゆっくりと呼びかけてきた。
『なあ、こっち見て。スマホ。ビデオ通話』
「はあ? ……って、おい、なにして!?」
すぐに目を逸らす。
スマホ画面には、裸の那知合が写っていた。
勘違いするなよ、裸と言っても、胸から下はお風呂に浸かっていて、見てはいけないところはなにも見えない状況だ。って、俺は誰に説明しているんだ。落ち着け、落ち着け。
「ななな、何だよ、風呂入るなら言えよ」
『たっすんの言うこと、難しくてよくわかんないけど、あたしのために本気なんだってことはわかった。だから、信じる。どうしたらいいか、全部教えて』
「わかった、わかったから、風呂上がったら、また電話してくれ。何でこの場面でビデオにするんだよ」
『だって、顔見せないと、ちゃんと信じて任せるって、伝わらないじゃんか。ことばやら文字なんて、あたし、信じないし。たっすん、こっち見て。……うん、本気の顔じゃん。信じる』
風呂に入りながらも、那知合の顔は冴えて冷たく鋭い瞳だった。まったく、メイクを落とした顔を平然と晒すなんて、俺のことなんて石ころくらいにしか思っていない証拠だ。
『でもたっすん、女子の裸見るの、初めてってわけでもないじゃん? 違うん?』
「もう切るぞ!」
俺はその場で通話を切った。
これ以上、昔好きだった相手のお風呂場面などを見ていると、気がなくても変になってしまいそうだ。
あと純粋に、このことが谷垣内に知られたら、俺は殺されるかもしれない。那知合は悪気なく告げ口しそうで、なおさら怖い。
しばらくは、谷垣内に会わないようにしよう。
「あーーっっと、赤組、強い、強いぞ、圧倒的な強さだ! スポンジナイフの二刀流、これほどの戦闘力だとは思いませんでした! 不祥、この山崎、テストプレイヤーとして参加しましたが、この戦略は想像以上です! いかがでしょう、委員長」
「そうですね、この水合戦、実は手で水を防ぐことができるので、水鉄砲や水風船は、思ったより命中率が下がります」
「確かに、遠隔攻撃を当てるには、二人で挟み撃ちにするのが鉄則です!」
「そして、スポンジナイフには、二つの利点があります」
そうだ。
スポンジナイフは刃渡り五十センチほど、射程は他のどの武器よりも短い(霧吹きもあるが、あれはネタ武器なので、誰も使わない)。
「あああぁぁぁーっと!!! 白組3番、赤組に挟まれた! 二丁拳銃だが、全部ナイフで防がれてしまいます! あー、しかも弾切れだ! 赤組の二人、スポンジナイフでめった打ちだ! 庇っても無駄ァ! ポイはみるみるうちに赤に染まります! これはどういうことでしょう、委員長」
「スポンジナイフの利点ですね、直接相手を攻撃できることと、弾切れがないことです。水合戦では、直接的な肉体の攻撃や接触を禁止しています。だから、近接戦闘で何も考えずに相手に当てて良いスポンジナイフが有効なのです、弾切れがないことも、混戦では有利です」
「なるほど! 白組3番も反撃できずに沈みました! これは悔しい!
さー、他の戦況を見てみましょう。
あーっと、白組司令官、宇代木選手が孤軍奮闘していますッッ! 二丁拳銃……いや、三丁拳銃だ! 両手に握る銃の他に、口にもう一丁くわえています! なんという、立ち回り! 銃で巧みにナイフを弾く格闘技術はまるでガンカタ! しなやかな体に、ふわりとした金髪からは想像もできない、俊敏な様は、忍者そのもの!……現代に舞い降りたクノイチだあぁぁッッ!」
「天、何やっているのかしら。動きにくいだけだと思うけど」
「まあ、宇代木ならできるだろ」
「ほんと、あの運動神経と天性の勘の良さはうらやましいわ」
「頭の良さもな。あいつは、世界で活躍する器だ」
宇代木は、巧みに体を傾けたり、地面に転がったりしながら、障害物で頭上のポイだけを隠し、相手を各個撃破していく。
そして、水の切れた武器は、フィールド外に投げ捨てながら、最短距離で那知合を目指している。
赤組の要・那知合を戦闘不能にしなければ、勝てないことを一瞬で悟ったのだろう。
「那知合は司令に特化してるからな。遠距離で狙われたら、なすすべもない」
補充を諦め、短期決戦に持ち込む。判断が早い。
「だけど、無理ね。天がどれだけ個人として優れていても、神の目で見る那知合さんの敵ではない」
佐羅谷の冷静なことばは、預言者のエウ・アンゲリオン。
「あーっと、宇代木選手、撃沈! 那知合選手の適切な指示、赤組5番・11番・14番による無慈悲な挟み撃ちに対抗できませんでした! おーっと、ここで前半戦終了、3分のインターバルを挟んで、後半に続きます。
さあ、ここで前半戦を振り返りましょう、現在のところ、那知合司令官率いる赤組の圧勝というところですが、この戦術、いかがでしょう、委員長」
「体育委員の想像を絶する戦い方です。驚いています」
「あまりに一方的な展開と、ルール破りに近いやり方に、一部ブーイングが聞こえた気もしますが、いかがでしょう」
「ブーイング?」
ミコトは、眉をひそめる。
ほんの少し前のミコトは、ブーイングする側だったろう。卑怯だとか狡猾だとか、理由をつけて。だが、俺はメモに、こう書いた。
「むしろ、我々の作った競技のルールをたった数日でここまで理解し、読解し、よくぞこの短期間で抜け穴を探り、必勝パターンを見つけたものだなと。これは那知合選手らの努力によるものです。むしろ、我々は喜びに打ち震えています」
「なるほど! さすが委員長、懐が広くていらっしゃる!
では、白組がここから挽回するにはどういう手が考えられるでしょうか?」
「相手と同じ手を取るしかありませんね。それでも、同条件です。しかし、全員が全員、ブルートゥースイヤホンをつけ、グループ通話やスカイプをつなぐ余裕はありません」
「ありがとうございます。さあ、準備が整いました。後! 半! 戦! 始まるぞぉお!!」
さすがに、宇代木は適切だ。
どこからか調達した拡声器を手に、陣地の台に立つ。白組メンバーも一様にスポンジナイフの二刀流に変更。
那知合率いる赤組は先ほどと同じ、訓練されたアサシン集団のように、淡々と武器を構え、配置につく。先ほどの大成功で、自信がついたように見える。モチベーションの高まりが傍からも見えるほどだ。
「試合、開始!」
体育委員の合図とともに、水合戦後半が始まる。
歓声がフィールドを包んだ。
「ダメね」
佐羅谷は冷静だった。
「まあ、無理だろうな。いくらスピーカーがあっても、まず、兵士が指示に従うという意識が付け焼き刃ではできない。この喧騒では、ちゃんと聞こえないし」
「わたしが出ていなくてよかったわね」
「は?」
「こんな仕打ちをされたら、あなたのこと、一生恨むわ」
「怖い、怖いって。佐羅谷は勝ち負けなんて、気にしないだろ」
「わたし、けっこう負けず嫌いよ」
「そうなのか」
「欲しいと思ったものは、必ず手に入れる。その程度には、だけれど」
人差し指を唇に当てて、ひととき、艶かしい笑みを浮かべる。
佐羅谷なら、欲しいものなんて、実力でなんだって手に入るだろうな。運動神経にまつわるもの以外は。
水合戦は、前半ほどではないが、那知合の赤組優位で進んでいた。
「さあぁぁぁッッ! 後半戦いよいよ大詰め、混戦の様相を呈しながらも、やはり前半戦の優位がある赤組かッ! スピーカーを片手に八面六臂の活躍を見せ、猛烈に追い上げる白組かッ! 終了まであと30秒を切りました!」
「速報的な計算によると、赤組優位ですね」
「ううむ、白組、完全に戦略でしてやられたかッ! 宇代木選手、ゆるふわな髪型に反して険しい表情がビュリホ!」
ゲームは楽しく見応えがある。
赤白(インクは赤青だが)の絵の具が飛び交い、楽しそうにスポンジナイフで殴り合ったり、構造物のポイを塗りつ塗られつ、陣取りの戦況そのものは拮抗している。
だが、キルの回数で圧倒的な差があるはずだ。
徐々に、応援もあきらめが混じる。
テンションの高いのは、赤組の面々。
クラス席から、ひときわ大きい声援が届く。
「花奏! 最高だぜ!」
飛び抜けた巨体が跳ねている。
谷垣内だ。
クラス中が沸いている。
「ゆーとぉ! 見てるー!」
那知合が、司令官としての厳めしい形相を弛め、フィールドから目を離し、翻ってぴょんぴょん飛んでは両手を振る。
「さっすが、かっこいいぜ!」
「でっしょ〜! あたしだって、やればできるんだいっ」
そのときだった。
「あ」
と佐羅谷はつぶやいた。
「え」
と俺は驚いた。
「終了3秒前!!!」
スローモーションで流れる風景に、実況の山崎の声がカウントダウンを始める。
両手でピースしながら、陣地の台の上で跳ねる那知合、体はフィールドの逆、クラス席を向いている。
油断。
勝敗は決している。
今さら、那知合が指示しなくても、結果は変わらない。
だが、試合に勝って勝負に勝っても、雰囲気で負けることもある。
例えば、終了時に司令官がキルされていたら?
陣地にいる司令官は、たとえ攻撃を受けても、すぐにポイを付け替えることができる。だから、本来は狙う意味がない。しかし、終了直前に狙われればーー。
「さすが、天ね。勝敗は覆せないとわかって、一矢報いることにしたのね」
「これは、次の試合の士気に影響するな」
俺と佐羅谷は、見た。
宇代木が、フィールドの外を駆けるのを。スポンジナイフを二刀流で、一目散に外野を走る。
「九頭川くん、外野のルールって、どうなっていたの?」
「外野は、喰らい判定はあるが、当たり判定はない。つまり、攻撃され放題だ」
「だけど、今は誰も飛び道具を持っていないわ」
「つまり、障害物もなく、相手の陣地まで一直線に近づける」
この短い時間に、水合戦のルールの隙間をついたか、宇代木。さすがだ。
宇代木は身を屈めたまま、那知合の陣地のすぐ下にやってくる。
陣地周辺には、ポイの入れ替え要員やインク補充の体育委員がいるが、攻撃できる参加者はいない。みな、フィールドで自分達の戦いに必死だ。
「陣地の上は、フィールド扱いよね」
その通りだ。
だが、俺も、実際に陣地上で攻防が起きるとは思っていなかった。
「花奏! 下だ!」
「ふえっ?」
谷垣内が外野から叫ぶ。
だが、遅い。
宇代木が陣地の土台を蹴り、パンッと飛び上がる。
そこからは、全校生徒が見つめるなか、最高の殺陣が繰り広げられる。
立体機動装置を装備し、巨人に立ち向かう兵士の如く那知合の視界に飛び出した宇代木。両の手にはスポンジナイフ。
那知合と谷垣内の視線を遮るように、ヒュッと垂直に飛び上がった宇代木。
「覚悟!」
二刀流を背から大きく振りかぶる。
那知合も、さすがの反応速度だ。
両腕をクロスして、頭上のポイを庇う。
「そうすると思ってた!」
宇代木は、走り高跳びのように、空中で背中から身を反らし、那知合の後ろに移動する。
「嘘だろ、あいつ空中で方向転換だって?」
「最初から、あの位置へ行くつもりで跳んだのね」
まさに、クノイチいーちゃんの面目躍如。
無防備なうなじを晒す那知合。正面からの攻撃に備え、視界を自ら遮ったせいで、後ろに回り込んだ宇代木が見えていない。
「チェックメイト!」
二刀流で、ポイとうなじを同時に切り付ける。
那知合が力なく膝をつく。
宇代木が敵陣の陣地に立ち、息を整えながら、ぐっと目を閉じていた。
「試合、終!了! 時間です! 各自、フィールドから出て、所定の位置に戻ってください!」
山崎の声が、グラウンドに響いた。
水合戦第二戦、これにて終了。
最大級の盛り上がり。
どうよ、那知合に、ミコト委員長。
俺にも、及第点をもらえないか?
まだ足りないか?
体育祭は、終了した。
水合戦の片付けも終わり、全校生徒が弛緩した動きで、クラスごと、学年ごとに朝礼台の前に並ぶ。
俺は台の横のテントの前で、先生とミコト委員長の横に並んでいた。
「最後に、閉会のことばです。体育祭実行委員長、槻屋尊さん」
「はい」
ミコトは、体育倉庫で別れたのを最後に、一切俺と意思疎通しようとしなかった。なんなら、視線が合っても幽霊を見ているかのように見えない子ちゃんを演出していた。
「みなさま、お疲れさまでした。今回の体育祭は……」
台に立ったミコトが、面白味のない定型句を述べる。講評、生徒と先生への感謝、だが、そこで止まる。
放送事故か?
マイクはときどきノイズが入る。
事故ではない。ミコトを見上げた。
台の上で、微かに震えている。
(おい、どうした?)
俯いたミコトの顔を覗きこむ。
少し赤い目が合った気がした。
「それから、体育祭実行委員の皆様。至らない委員長ではありましたが、みんなの協力で、最高の体育祭ができました。
ありがとうございました」
きれいなお辞儀をして、なかなか面を上げなかった。
遅れて、全体から大きな拍手。
ミコトは逃げるように、顔を覆ったまま台を降りた。解散のことばも待たずに、校舎の中に消えていった。
咎めるものは、どこにもいなかった。
気だるい夕暮れ。
橙色の光に満ちた埃舞う会議室。
ただひたすら眠い。
今回の体育祭実行委員、最後の集まりだ。
体育祭の片付けも終わり、皆ぐったりしている。
ミコトが入ってきた。
席にもつかず、前置きもなく、議長席から無表情に全体を見回す。
「みんな、ごめんなさい」
震える声で頭を下げた。
「わたしが自分勝手に押し付けて、迷惑をかけました。
も、もう、こんな……ことは、ない、よ、う、に」
声が途切れがちになる。
祭りの後の平和な雰囲気だった会議室が、緊張に静まる。悪い緊張ではない。
「それは、違うぞ」
三年生の男子が立ち上がった。
「そう、私たちだって、全然協力的じゃなかった」
一年生の女子が言った。
「私たちも、嫌がらせしてごめん。全然知らなかったんだけど、水合戦のアイディア、委員長が考えたんでしょ?」
「自分が考えたアイディアを通したら、強制してるみたいになるから、九頭川先輩の発案ってことにして、自分は一歩引いてたんだよね」
例の一年生の女子二人が、並んで前へ出て、ミコトに頭を下げた。
「自分で考えた競技だもんな、そりゃあ、本気で成功させたいよな。態度がきつくなるのも、わかるぜ」
「実際、こんなに盛り上がる体育祭なんて、他のどこにもなかったんじゃない?」
俺は、隣で黙って座っていた。
苦手なんだ、こういうのは。
ミコトは弾けたように上半身を起こし、戸惑った顔を右へ左へ向ける。最後に俺を見るが、俺は何も言わない。
「ま、いいんちょが嫌でなけりゃ、来年も頼むわ。水合戦でも別のでも、きっと面白くしてくれるんだろ」
「生徒会長にもなるんでしょ? 応援してる!」
ミコトがぽかんとしているままで、どんどん周りに人が集まる。
実行委員会の最初とは違う、好意的な空気に、ミコトの顔がくしゃくしゃになった。
「何ですか、何なんですか、わたし、こういうのは、嫌なんですよ! 心乱されて、自分が自分でなくなるみたいで、だから、絶対、……」
とうとう、堰を切って涙があふれる。
うわーん、とまんがのような泣き声だった。
あの性格、あの無表情、どこまで作ったものかはわからないが、ずっと正しく、ずっと規則通りじゃ、心休まる時間もなく、張り詰めていたんだろうな。もはや、生きているのか死んでいるのかわからない。感情の表出も、大切だ。人間は、心だろ?
理性だけがすべてなら、そもそも人間は劣化ロボットでしかない。この世に必要ない。
人間は、人間が好きだ。
人間らしい姿を見せたミコトは、みなに必要とされる。ここにいる人には、絶対にな。
委員長に群がる温かい人混みから、俺は一人そっと外へ出る。ビッグウェーブには乗らない。
「ちゃーおーぉぉ」
「遅かったわね、九頭川くん」
昼の体育祭の喧騒が嘘のように、落ち着いた静寂が支配する理科実験室。
いつもの部屋に、いつもの二人。
たったそれだけのことに、古巣へ帰ってきた安心感でいっぱいになる。
俺は、帰ってきた。
「おお、お疲れ。特に、いーちゃん」
とんだ軽口も出たものだ。
「むー、やめて、やめてよ! くーやんだってさー、ずっこいじゃんか。ナチ子だけにあんなチート教えるなんて。あたしにも教えてくれたっていいのにさー」
「宇代木が相手ってわかってたから、あいつを贔屓したんだよ。今回の依頼は、那知合を谷垣内にふさわしい女に見せるってことだろ」
「九頭川くんに任せっきりになってしまったけど、よかったんじゃない? 今回の水合戦で、那知合さんは指導力やカリスマ性は見せつけたし、誰もが認める才色兼備ぶりも広まったでしょう」
佐羅谷は俺の前にビーカーコーヒーを置いた。砂糖は一つ。今日は、背伸びせず糖分が欲しい。そう思っていたところだ。
「だけど、宇代木が最後に一矢報いてくれてよかったよ。あのまま圧勝していたら、ルールの隙をついただけの嫌な女っていうイメージが先行するところだった」
そうだ。
俺は、というか、男同士なら、ルールの穴をついた戦術的圧勝も相手の頭脳に敬意を表してチクショーと思うだけだが、どうやら、女子はそういう単純なものではないらしい。難しいな。
最後の最後、谷垣内の賞賛に気が抜けて競技から目を外したことも、宇代木に仕留められたことも、完璧ではないからこそ、ぎりぎり好感度を維持できたらしい。
過ぎたるは及ばざるが如しってやつだな。
「そういや、ミコトの相方は?」
「今日はみこちゃもまこちゃも来ないってさー。まあ、みこちゃは来られないんじゃない? くーやんが泣かせたんでしょ」
「おいやめろ人聞きの悪い」
「ほんとう、あなたの悪い癖よ、九頭川くん。放っておけばよかったのに」
「そういうわけには、行かねえだろ」
俺はコーヒーを一口含んで、佐羅谷の目を見ない。
ミコトは、早いうちに挫折するべきだと思った。やり直しのきくうちに。俺のおじさんの山田仁和丸(40)のように、中途半端に大人になってから挫折すると、思考全てがネガティブに沈み、未来を悲観的にしか見られず、前を向けなくなってしまう。
俺が高校一年の終わりで那知合にフラれ、自分の力ではどうしようもないことがあるという事実には気づけた。そして、幸い人に恵まれ、世界を憎むことなく生きている。
ミコトの不器用な生き方は、レールに乗っているうちは良い。だが、万が一、脱線した時、あれでは立ち直れない。そばにいつもマコトがいるならばよいが、俺は二人の関係がどのようなものかわからない。
だったら、今のうちに挫折させ、今のうちに復活させなくてはならないと思った。
「違うー。くーやん、勘違いしてる」
「そうね、槻屋さんの問題は、槻屋さん本人が解決すべきことよ。わたしが、わたしたちが許せないのは、どうしてあなたは自分の業績を軽々しく他人に譲ってしまうのか、ということよ」
どうして、こいつらはこんなに情報が早く、正確なんだろうな。100%伝説だな。
「別に、俺は今さら目立ったり、有名になったりする必要も無いからな」
「そういうのさ、かっこいくないよ。それに、やだよ。自分だけのことじゃないじゃん。くーやんもさ、恋愛研究会の一員なんだよ?」
「天の言う通りよ。あなたも、恋愛研究会を構成する一部なのよ。自分の存在が、行動が、発言が、部活の品位を代表していると理解しなさい」
そうか、そうなのか。
ハッとした。
俺は恋愛研究会のただの一員のイメージだったが、二人にとっては、俺も恋愛研究会なのか。
「だいたいさ」
宇代木が鼻を啜った。
「くーやんがバカにされて、あたしがどれだけ悲しかったか、わかる? ほんと、ジェムが闇色に染まるかと思ったよー」
軽口のようでいて、ことばが湿る。
俺とも佐羅谷とも視線を合わさない。身振り手振りを大きく、気恥ずかしさを隠すように。
「なんで宇代木が泣いてるんだよ」
「な、泣いてなんかないし!」
「やめてくれよ、俺のためになんて、泣くなよ」
「だから、泣いてないし!」
宇代木は椅子ごと背を向けて、虚空を見つめながらコーヒーに口をつける。
文化祭のブースでも、最後まで涙を見せなかった宇代木が、俺のことを思ってくれるのか。仲間だと、認めてくれるのか。
「九頭川くん、あなたは自分の業績を他人に明け渡して、格好をつけたつもりでしょうけど、こんなの、誰にとっても益のないことよ。このままじゃ、あなただけ、いつまで経っても救われない」
佐羅谷は苦しそうだ。
「俺は、近しい人が理解していてくれたら、それでいいよ」
「その考えが甘えだって言ってるのよ!」
バンっと机を打った。
佐羅谷らしくない。
「あなたは、自分の業績に責任を持ちなさい。他人に気安く譲るのは、責任からの逃避よ」
「責任……」
そうか、誰かに成果を譲ると、その人に責任が生まれるのか。その時には成功したように見えても、後々何かしら綻びが現れるかもしれない。
俺は、維持する責任を放棄していたのか。
「だいたい、あなたにはもっと確固たる立場を築いてもらわないと、困るのよ」
「え?」
「あなたの恋愛相談が、終わらないじゃない。さっさと彼女でも恋人でも作ってもらわないと、わたしの恋愛相談に汚点がつくのよ」
佐羅谷は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
ああ、そうだ、そうだ。
佐羅谷の中では、俺の恋愛相談は継続中なのだ。
「孤高を気取っているわけじゃないんでしょ? 手頃なところで、妥協して経験を積むのも大切よ?」
「そだよー、くーやん。いつでも告ってきてみ?」
「あー、もう、そりゃあ、学校有数の美人二人にとっちゃ、恋愛なんて遊びみたいなもんかもしれねえけどさあ」
なんだ、真面目な話かと思ったら、いつものバカ話か。
よかった。
俺たちには、このくらいの距離感がちょうど良い。
ずっと三人、このままでいられる。
かけがえのない関係を、維持できる。
俺は今、最高においしいポジションにいる。
これを、幸せって言うんだな。
二人に会えて、よかった。




