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1巻前半『佐羅谷あまねは好きにならない』

登場人物名前読み方


 九頭川輔  (くずがわ・たすく)

 佐羅谷あまね(さらたに・あまね)

 宇代木天  (うしろぎ・てん)

 犬養晴香  (いぬかい・はるか)

 那知合花奏 (なちあい・かなで)

 谷垣内悠人 (たにがいと・ゆうと)

 沼田原依莉 (ぬたのはら・やどり)

 神山功   (こうやま・たくみ)

 田戸真静  (たど・ましず)


 山崎    (やまざき)

 高森颯太  (たかもり・そうた)

 田ノ瀬   (たのせ)


 山田仁和丸 (やまだ・にわまる)

序章


「モテたい」

「くたばれ」

 俺、九頭川輔と佐羅谷あまねの出会いは、およそ高校生の会話とは言いがたい、バカなことばの応酬だった。

 なに、世の男子高校生、ましてや二年生ともなれば、行動原理はすべてモテたいに尽きることは説明するまでもない。スポーツに打ち込んで大会を目指す体育会系男子も、勉強にひた励み偏差値を上げる学習系男子も、アニメやゲームに情熱を注ぎ現実を等閑視するオタク系男子も、見た目を磨き美辞麗句をうそぶくチャラい系男子も言わずもがな、モテたいのである。表向きは女子に気のないストイックな聖人君子を気取った男子ほど、心の奥底で俺だけがひたすらモテる世界を妄想しているものなのだ。

 だから、俺がモテたいのは間違っていない。俺がモテないのは間違っている、とは言わないが、モテるかモテないかを選択できるならば、モテたい。普通は言わないけどな、モテたいなんて。

 本心を言明したら、ところがどうだ。

 俺はただ男子高校生の本音を伝えただけなのに、この仕打ち。いやはや、世に真実が受け入れられないわけだ、現実を見ろよ、女子。男子高校生の語る愛は、モテたいなんだぜ?

 しかし、返ってきた罵声も、淑女にあるまじきことばだ。バカ、とちょっとばかり頬でも染めながらプイっとそっぽを向いて言ってくれたら、かわいらしさに俺もモテたいと言ったことを省みるかもしれないのに、まるで情け容赦ない男勝りな幼なじみ女子高生みたいな本気の罵りはいただけないね。

 せめて、相手の顔かたちが見えたら口調相応かとも納得できるだろうが、あいにく俺と彼女の間には冷たい黒い幕が下りている。鉄のカーテンならぬ、黒の緞帳。ここは理科実験室。放課後、西日が部屋の半分まで射し込み、机の表面の埃がキラキラと反射している。

 どうして俺はこんなところで男子高校生(二年)の一般的心情を吐露しているのだろう。そして、罵倒されているのだろう。ご褒美だろうか。


 向かい合う黒の緞帳、高さは天井から床上50センチほどまで。淡く光を反射するローファーが行儀よく並び、黒タイツがふくらはぎのあたりまで覗いている。細身だ。黒だから、細く締まって見えるだけかもしれない。黒はいいね。

 そのローファーが動いた。

 一歩、黒の緞帳に近づく。

「犬養先生、いるんでしょう? そのふざけた男をこちらへ連れてきてください。面と向かいもせず話したところで、この手の男は、埒が明かないわ」

 きびきびと歯切れのよい、明瞭な発声だった。今時の女子高生にありがちな、少し気を抜くと日本語か中国語かわからないような単語で、強烈に空気と文脈を読まないと万全のコミュニケーションを取れない会話とは無縁の世界、俺にとっては心地よい世界、一年以上忘れていた世界のことばだった。

 一年ほど、単語三つ以内の文で会話していた。それは会話というか感嘆詞の応酬で、なぜか意図が通じ合うハイコンテクストな世界。大切なのは、ことばじゃない。表情と、態度と、ノリがすべてに優先し、わからぬままわかり合い、わかっていないのにわかった気になり、あやふやなままつながるあやふやな関係。頑丈でありながら、脆弱な関係。自分の意思では崩せないのに、自分の意思と無関係に崩れる。

 嫌いではなかったが、ついていけなかった。あの世界。一年間。俺にはそれが限界だった。崩したのか崩れたのか。だから今の俺は、友達がいない。

 じっと自分のたなごころを見つめていると、じわりと手に汗がにじみ、肩に力が入る。その背を、軽くはたかれた。

「さあ、許可が出たよ、九頭川」

 俺の横に立って、犬養先生は柔らかく微笑んだ。グラマラスな肢体をタイトなスーツに押し込め、白衣を羽織っている。体形から予測するより高めの声で、口調に反してコロコロとかわいらしい。

 椅子に座ったまま微動だにせず、半眼で犬養先生を見上げる。

 俺はそもそも、ここへ連れてこられた意味もわからないし、ここが何なのかもわかっていないのだ。犬養先生はかわいらしい笑顔を浮かべたまま、もう一度、俺の背に手を置く。

「行ってきな。話してごらん。きっと、通じるものがあるはずだから」

 通じるとは魅惑的な言葉だ。

 通じるのはことばか心か、断言できるのは通じたかどうかはいかにしても確認できないということだ。コンピュータに、AIに心はあるかという命題に近い。俺たちは無条件に、ことばが通じ、思いが通じ、意図が通じていると思っているし、おおむね間違いなく通じているはずだ。おおむねのところが通じていなければ、世界は崩壊しているだろうから。だがマクロな世界で通じていても、ミクロの世界で通じているのかはわからない。

 通じたかどうかは相手の反応でしかわからないならば、俺は黒の緞帳越しの「中国語の部屋」でもいいと思う。面と向かって語らなければ通じないなんて、嘘だ。俺が欲しいのは。

 だが、俺のためらいは犬養先生に返すまでもなく、思考さえも即座に遮断された。

 黒の緞帳が開く。

 白い華奢な手が、目隠しを退ける。つやのある爪が、妙に目を惹いた。

 勢いよく開いた幕に舞い踊る埃、西日に反射して光る舞台、俺はゆっくりと面を上げた。

「ようこそ、恋愛研究会へ。わたしは部長の佐羅谷あまね」

 無表情に冷たい声音。

 小柄な体を規定通りのブレザーに収め、せいぜいの威圧感をもって俺を見下ろしている様は、美しかった。

 ああ、俺はこいつを知っている、俺だけじゃない、おそらく、かつらぎ高校の全生徒が知っているに違いない。先日入学したばかりの一年生は別だが。声を聴いたのも、会話したのも、こんな近距離で見たのも、名前を知ったのも初めてだ。

 だから、九頭川輔と佐羅谷あまねの出会いは、今この時だと間違いなく言える。お互いがお互いを認識したこの時だと。

 佐羅谷は俺を値踏みするように頭から足先まで見やって、身をひるがえす。緞帳は開いたままだ。

「来なさい。あなたのふざけた相談、乗ってあげるわ」





一章 佐羅谷あまねは好きにならない


 二年生になったばかりの4月、すでに高田川沿いの桜は散り始め、年々入学式や始業式の頃には桜が持たなくなっている奈良県高田市。盛りを過ぎ、花が半分・葉が半分の桜を眺めながら、俺は大中公園から動けなかった。

 かつらぎ高校は目と鼻の先。行き交う車がなければ、学内の喧騒さえ聞こえてきそうな距離。校舎の中、教室の生徒が決まったばかりのクラスで、新しい人間関係に一喜一憂している様子も窺える。

 九頭川輔、かつらぎ高校二年生。

 俗に不良やヤンキーと呼ばれる身分にはない。ああいう、行かなくて良くなると学校に来たがる迷惑なツンデレさんとは一緒にしてもらいたくない。なんで卒業式が終わるとあいつら来るの? しかも集団で、下痢便の音がする原チャに乗って。

 確かに一年の頃は多少髪も染め、制服も着崩し、校則違反の服装や行動をしていたこともあるが、それも4月の頭でケリをつけたはずだった。

(ケリをつけ過ぎたのかよ)

 おかしいな、と思ったのは今朝がた、家を出て、自転車にまたがった時だった。見えない壁にぶつかったように、足がペダルを踏み抜けなかった。新しい能力でも開花したのか、危険を察知して進行を阻む壁か滝が目の前に現れる、そんな妄想に囚われて体が動かなくなった。

 原因はわかっていた。

 というか、自分で播いた種だ。自分で解決するしかない。覚悟を持って、一年の終業式と春休みに粛々と実行した別れの演出だった。計画名、「人生リセットボタン」。一年時の友達関係を、誰も困らせず誰にも気にさせず、ただ自分だけが静かにあのグループから離れる計画。後腐れなく二年生から、新生・九頭川輔が始まる予定だった。

 ところが、しくじったらしい。

 思ったより、俺は心にダメージを受けていたらしい。

 自転車を押しながら、所在なく大中公園を行きつ戻りつする。桜の盛りは過ぎたのに、この朝っぱらから桜の写真をスマホで撮っているおじいさんがいる。暇なんだな。学校に行けない俺が言うのもなんだが。

 このままではまずい。

 通学時間を過ぎても制服でうろついていたら、正義感あふれる高田市民に通報される。桜を撮るためのスマホが、俺に向けられ、めったに使わない緊急電話を試行されるのは確かだ。人生リセット計画が本当に人生リセット執行してしまいかねない。

(いっそ家に帰ろうか)

 親父はきっと叱りはしないだろう。一年の時、若干反抗期の様相を呈した時も、鷹揚に構えていた。むしろ、親父の若い頃の方が絶対ヤンチャだったはずだ。だから、親父から見たら俺の反抗なんて、子供のお遊びみたいなものだったのだろう。そもそも、高校生は子供だというのは置いておいて。

 俺にも恥という心持ちはあったらしい。学校へ行けないことが恥ずかしいのではなく、普通から外れることへの恥だ。普通であることは大切だ。つつがない学校生活を送る上で、上位のグループも最下層のグループも、その中で普通でなければ爪弾きにされる。一度弾かれれば、新たなグループに入るのは至難の技だ。

 始業式に出られない、二年次最初の自己紹介に欠席する、それはもはや、一年間の居場所を喪失するに等しい。下手をしたら、途中で入ってくる転校生のほうが居場所を見つけやすいレベル。

 俺は重い足を引きずり叱咤激励し、自転車を押した。


 そして、俺は、普通から外れた。



 気がついたら、保健室にいた。

 一年のときは一度もお世話になったことがない保健室だが、場所は無意識で覚えていたようで、俺はフラフラになりながら、まさに重症患者のように扉を引きずり開けて倒れ込んだ。

「あら、いらっしゃい」

 さして驚いたふうもなく、微笑みかける保健の先生。保健の先生と保健体育の先生は別物で、保健の先生というのが意外と忙しいというのは、保健室に来るようになって知ったことだ。

「奥のベッドを使ってね」

「いえ、体調が悪いわけでは」

 体調がおかしいのは間違いないが、自分では認めたくない。ことばにすると、本来あってはならないことを自覚し、余計に状況が悪化してしまうような気がする。なんとなく痛いな、と原因を探し、実は怪我をしているとわかると、そして血が出ているのに気づくと、痛みが倍増するのに似ている。

 今の俺の状況は、傍目には間違いなく「そう」なのだが、これを一般的なことばで説明すると、絶対におかしくなってしまいそうだった。

 だから俺はことばを継げなかった。

「そう、なら、そこに座っていなさい。あなた、名前は? 何年生?」

 こうして、俺の高校生活二年目は、保健室で犬養晴香先生の問診から始まった。

 年齢不詳で、グラマラスな美人ではあるが、俺から見るとおばさんの年に片足を突っ込んでいる(絶対に面と向かっては言えないが)犬養先生は、致命的なことは何一つ問い質さなかった。尋ねられたのは、名前や学年、状況だけ。事実で答えられることのみ。答えにくいこと、答えたくないことは、絶対に尋ねてこなかった。

 質問も急かすでもなく、ときに作業中に思い出したかのように、書類に顔を伏せたまま、どちらでもいいや、という感じで聞いてくる。俺が答えあぐねて、顰め面のまま見やると、たまに視線が合い笑顔を返される。

 何日か、そんな日が続いた。


 放課後、連れてこられたのは、理科実験室だった。

 そして、佐羅谷あまねに出会った。

 さっきのやりとりを反芻する。

「モテたい」「くたばれ」という小学校高学年並みのステキなむつみを交わし、今まさに俺は佐羅谷と対峙していた。一方的に見降ろされていた。実のところ、この少女に見降ろされるのは嫌ではなかった。だが、おくびにでも出したら、永久に軽蔑されそうな気がした。それはそれでおいしいが、うまくない。

 なるべく無表情のまま、じっと黒い目を見つめ返した。真闇ではない少し色のある瞳。学校内でいったい何人が、彼女の瞳が深い深い緑色であると知っているだろうか。


 佐羅谷あまねは学内の有名人の一人だ。

 本来なら、俺と関わることもないような。

「そこへ掛けなさい」

 黒の緞帳を開けて、中へ誘う。

 後ろに犬養先生が控え、下がることはできない。しぶしぶ俺は緞帳をくぐり、佐羅谷に近い席に座る。間に机は挟まない。

 佐羅谷も元の席についた。

 ピンと背筋を伸ばし、行儀よく膝をつけ、手は太ももに。スカート丈は校則よりは短いと思うが、座っていると膝がぎりぎり覗くくらい。足は、細い。黒いタイツでなくとも、細身だった。

 少しだけふわりとした黒い髪は思ったより短めで、わずかに内に巻く。特に髪留めの類はつけていない。

 小さな頭に、白い肌。メイクしていないわけではなさそうだが、俺にそこまで女子高生の本性は見抜けない。メイクしていないように見えるメイクって矛盾だよね。ただ、かわいさよりも美しさの先立つ顔立ちだ。

 ああ、まさに噂通り。

「深窓の令嬢……」

 思わず口に出た。

 佐羅谷の目がひときわ冷たく睨む。

「わたしのことを知っているようね。なら、自己紹介は要らないわね? あなたのことを教えてくれるかしら」

「知っているのは、おまえが深窓の令嬢と呼ばれていることくらいだよ。ていうか、この学校の人間はみんなおまえのことを知っていると思うぞ?」

「不本意な二つ名ほど煩わしいものはないね」

 不本意な二つ名をつけられるような行動に問題がある、と俺は思う。俺も、一年の時、気になって深窓の令嬢を見に行ったことがある。誰が見ても、あれは、深窓の令嬢以外の表現はできなかった。

 ここ奈良県立かつらぎ高校は、なんの変哲もない偏差値中の上の普通科しかない共学の公立高校だが、一つだけ特徴的な建物がある。今は図書館になっている建物で、ちょっとばかり西洋かぶれなデザインをしていて、一角に尖塔があるのだ。尖塔はちょうどグラウンドを挟んだ校舎からよく見え、採光よく大きなガラスが嵌め込んである。今その尖塔部分は、誰もが自由に使える休憩室のようになっている……のだが、昼休みは佐羅谷が実質的に占拠していた。

 佐羅谷は昼になると尖塔にやってきてお弁当を食べ、その後時間いっぱいまで本を読んでいる。俺の知る限り、一年の梅雨入り前には深窓の令嬢がいるという噂が流れていたので、おそらく入学時から尖塔を使っていたに違いない。

 昼休み、他の生徒がいるところを見たものはいないので、何となく佐羅谷に遠慮してか、あるいは佐羅谷が舌打ちでもしてか、他人を追い払っているのであろう。冷暖房完備の快適空間をたった一人で占有するなんて、普通ならば非難されるべきだろうが、幸い佐羅谷に関しては咎めがなかった。

 まったく、美人は得だ。

 一言でまとめるとそうなる。

 つまり、佐羅谷あまねという少女は、絵になったのだ。尖塔に一人いる様子は演劇か絵画のように美しく、校舎から大砲のようなレンズをつけたカメラで盗撮する者もいる始末。あえて眼福にケチをつける男子生徒はいなかった。果敢にも声をかけに行った男子もいるらしいが、かんばしい戦果を聞いた覚えはない。一年のうちは聞くような友達がいたので、決して強がりではないぞ?

 一方、女子生徒も表立っては非難しなかった。佐羅谷はつるむタイプの女子ではなく、どちらかというと孤立していた(昼を一人で食べているのだから推して知るべし)。ようは、美人ではあるが、自分たちの領域に入り込んで、力関係を崩したり再構築したりするような実害はほとんどなかった。一部、百合百合しい憧れで見る者、何を気取ってるのと嫌悪を示す者もいたが、特に後者はただのやっかみにしかならず、大勢にはならなかった。

 俺が思うに、佐羅谷は深窓の令嬢であることを望んでいる。好きで演じている。友達がいなくて孤立するより、高嶺の花に見せて孤高を気取るほうが、精神的に楽だからな。少し、ほんの少し、今日初めて二言三言ことばを交わしただけでわかる。こいつの性格は、見た目のわりに、深窓の令嬢っぽさはない。

 だいたい私立でもなく最上位の公立でもない普通の県立高校に、深窓の令嬢といえる身分の子弟が入学するわけがない。

「では改めて。初めまして、わたしは佐羅谷あまね。二年生。この部の部長よ」

「俺は、九頭川輔。二年生だが、えー……、正直、わからん。ここは、いったい何なんだ」

 後ろで、声を押し殺して犬養先生が笑っている。あのねえ、思いの丈を述べてみろと煽ったのは先生だと思うんですけどね。

「保健室登校していたら、犬養先生に連れてこられて」

「ここが何部かは最初に言ったけれど?」

 佐羅谷は鋭く俺の後ろを睨む。

 犬養先生の含み笑いが鳴りを潜める。ひと睨みで俺も先生もを黙らせる、なんて強烈な瞳だ!

「あー、なんだ、何か言っていたな。読書感想文部? 美人生主配信部?」

「聞いていないのに聞いたふりをして、ニッチなネタでボケるのはやめなさい、そういう部活を作りたくなるでしょ」

「作りたくなるのかよ」

 こいつ、面白いな。

 まったく笑いもせずに、いいツッコミだ。だが、佐羅谷が読書風景を配信したり、読書感想文を読み上げるだけで視聴者がつくと、俺は本気で考える。深窓の令嬢が演技だとしても、挙措も外見も確かに魅力的だ。このさい、インスタ部でも可。

 で、何の部だったか。

 佐羅谷は机の上の本に掌を重ねる。

 イメージとして、深窓の令嬢は文学を読んでおらねばならぬ。岩波文庫のオフセット印刷なのに滲んだ感じの古めかしいフォントや、新潮文庫の天が切りそろえられていないところから栞が生えているのが、佐羅谷には似合う。他者が勝手に押し付けるレッテルだ。

 思ったより髪の毛が短く、ミディアムというのか、肩にかかるくらいという時点で、イメージには外れるのだが。深窓の令嬢は長髪であるべきだ。

 俺が盗み見しながら益体もないことを思っていると、後ろから静寂が破れた。

「ここは、恋愛相談部だ」

「違います。恋愛研究会です。勝手に活動内容を矮小化しないでください、犬養先生」

「いつも一人で読書するだけで、研究もしていないじゃない?」

「いつも一人ではないです」

 理科実験室には佐羅谷しかいなかった。

 一人ではないときもあるのだろうか。だが、こんな部活に5人も6人もいるとは思えないし、活動時間である放課後に佐羅谷しかいない。いつも一人ではないが、ほとんど一人、それが正解だろう。

「恋愛相談部って」

「違う、恋愛研究会」

 目が怖い。そんなに重要か、その名称。

「相談にも応じる。だけど、相談はあくまで活動の一部でしかないわ」

「俺の相談も受けてはくれるわけか」

 どうでも良い、独白だった。

 確かに、モテたいという気持ちはあるし、あった。教室に行けなかった原因も、突き詰めればそこに行き着くのかもしれない。だが、モテたいなんて嘘だ。本当であるが、嘘だ。バカな自分を嘲笑しておどけただけだ。

 ことばにできない、したくない想いを説明することなく戯れに飄々と冗談めかして一言で言うと、モテたい、だ。

「モテたい、ね」

 心の舌打ちが聞こえる。

 佐羅谷は犬養先生を退室させる。先生は抵抗せず、あとは若い者同士で、と理科実験室を出た。何なのそれ、お見合いおばさんなの? 面と向かっては言えないけど!

「恋愛相談なんてセンシティブな問題に、先生が同伴しているなんでゾッとしないでしょう」

「センシティブな問題を他人に相談するのもどうかと思うけどな」

「あなた、友達はいないの? 高校生の会話の4割は、恋愛の話じゃない? わたしは違うけれどね」

「恋愛研究会が急に嘘くさくなったぞ、おい」

 こいつ恋愛脳なのか違うのか、どっちなんだよ。いや、恋愛研究会なんてやっているのだから、恋愛脳なのは、間違いないか。女同士が普段、何を話しているかは知らないが。

 だが、男子高校生の恋愛話なんか、およそ公にできるものじゃない。せいぜい、おまえ誰のこと好きなん? という修学旅行のピロートーク(誤用)が公にできる限界で、それ以上は恋愛というかもっと表現に苦しむというか、少なくともここで佐羅谷に言えるものではない。まあそういうものだ。

 あと聞き捨てならないが、俺は一年の時は友達がいた。やるべきことは一通りやった。ラウワンは近所にないが、それに類するものは高田にも橿原にもある。むしろ、昼休みに一人飯をしている深窓の令嬢に、友達がいるのかと問いただしたい。

「少なくとも、友達に話せるようなことじゃないな」

「近い人にほど話しにくいこともあるでしょう。特に、あなたたちクラス上位の集団は、男女が近いから」

「……おまえ、俺のこと知ってるのか」

「いいえ全く。塵ほども興味はないわ。あと、おまえって言うな」

「いきなり名前呼びは難易度高くない?」

「……くたばれ」

 盛大にため息をつく佐羅谷に、俺は勝手な感情を持ち始めた。

 楽しい、と。

 ここ一年、ついぞなかった感情だった。人と話すことが、楽しい。昨年の会話は、すべて楽しいなんてものじゃなかった。空気を読み、裏切らず、心にもないことを言い、単語三つで文を作り、ただ騒ぐだけ、とにかく声か音で静寂を埋めた。沈黙が怖かった。

 だが佐羅谷と話すのは苦痛ではない。今の思いを正直に伝えたら、きっと二度と近づかせてもらえなくなるだろう。冷徹に汚物を見る目で蔑まれるのも確実だ。それは、避けたい。

 佐羅谷が少し頰を染めて唇を尖らせているのも、俺も同じく紅潮しているであろうことも、知らないふりをするのが正解だ。

 面白い、俺は思った。

 この時間が少しでも長く続けば。もうやめるつもりだった他人との関わりに、またしても踏み込んでしまいそうになる。

 もう、嫌になったはずなのに。

 もう、じゅうぶんだと思い知ったはずなのに。


「モテたい」

 佐羅谷はまた凍てつくことばを吐いた。

 いやちょっとした気の迷いだから何度もネタにするのはやめていただきたいのですが、それにしても人の口から聞く「モテたい」も言う人が誰かによって、こんなにも印象が変わるものなんですね!

 佐羅谷あまねは孤立していて友達がいない(推測)だけで、この見た目で冗談も通じるから、自分から声をかけたら男子高校生にモテるのは確実だ。上目遣いでちょっとモノを尋ねたり、そのときさりげなく肩とか二の腕に触れてあげるだけで、好感度はうなぎ上り、モテモテになるのは間違いない。さらに少し話せるようになって、一度人となりが知れると、さらにモテ度が上がる。高嶺の花に見えるのはちょっとした演技に過ぎないからだ。ある程度知れ渡ると、深窓の令嬢は高嶺の花から、美人なのに面白くて冗談の通じる女の子に変わる。考えている自分がちょっと気持ち悪い。

 もちろん佐羅谷がモテたいと言っているわけではない。俺のことばを繰り返しているだけなのは、非難めいた口調でわかる。

「佐羅谷もモテたいのか?」

「あなたのことばを解いていきましょうか」

「モテるようになるのか?」

 にっこりと佐羅谷は酷薄な笑みを浮かべる。 

 理科実験室の棚からガスバーナーとビーカーを取り出すと、おもむろに湯を沸かし始める。さらに奥の棚から、褐色の粉の入った薬瓶を掴む。

 ベタだ。理科実験室といえば、ビーカーでコーヒーを作る白衣美少女。マンガやアニメの典型的表現だ。わかっていても萌えるシチュエーションだ。今初めて知った。王道は強い。できればアルコールランプのほうが雰囲気がよいが、このさいガスバーナーでも可。

 でも、根本的に佐羅谷は白衣を着てていなかったね。やり直し。

「長くなりそうだから、お茶を淹れるわ。コーヒーは飲めるかしら?」

「俺はアルルのカルディの無料コーヒーのヘビーユーザーだぜ」

「傍迷惑な上に意識低そうね。御所のコメダで屯しているほうがいいんじゃない?」

「コメダに若者はいねえよ」

「ブラックしかないけど、いい?」

「奈良県の企業みたいなコーヒーは飲めないな」

「あなたには塩化ナトリウムがお似合いね」

 苦笑しながらも、佐羅谷は白い粉の入ったビンを並べる。砂糖に見えないが、きっと砂糖だろう。さすがにそこまでひどい嫌がらせはしないはずだ。もしかしてブドウ糖かもしれないが、人体に害はない……よな?

 お湯が沸くと、自分のぶんと俺のぶん2杯コーヒーを作ってくれた。実にインスタント。白い粉の味はわからなかった。そういえば駅前や警察署に書いてある「持ち込ませない、白い粉」ってなんだっけな。

 同期したかのように、二人同時にコーヒーを啜る。ああもう、気恥ずかしい。

「モテたいと言う人は普通モテるはずだけど?」

「モテたいと言ってモテるなら、世の男子中高生はみな彼女持ちになってるはずだぜ」

「言い方が悪かったわね。モテたいと言えるような友達がいる状況にある高校生は、モテるはずよ」

 コーヒーの入ったビーカーを熱そうに両手で支え、じっと立ち上る湯気を見ている。

「九頭川くんは、友達もいるし、モテたいと言えるタイプの人間でしょう」

「前者は正しかったが、後者は正しくもない。ていうか、本当にどこまで俺のことを知ってるんだ?」

「知らないわ、興味なんてないから。ただ、友達なんているかいないかだし、モテたいなんて言うか言わないかだし、二者択一で質問していったら、だいたいわかるでしょ」

「普通に質問しろよ。性格悪いぞ」

「わたしがあなたに興味を持っていると思われるのが癪なのよ」

「小癪な」

「尺稼ぎはこのくらいにして」

「どこかにカメラでも仕込んでんのかよ」

 俺のプライベートの会話を配信するなら、ギャラをもらうぜ……。1再生1円でいい。

「モテたいということばが出るということは、周囲に恋愛対象になる人物がいるということよ。そして、モテたいと公言できるということは、自分がフリーであり、相手を求めているということを周囲は知っている。そんな男子高校生には、どこかしら何かしらの伝手で、見られているものよ」

 こいつは何を言っているんだ。

 だから、それなら世の男子高校生に限らず、すべての彼女なし男子はモテたいと言うだけでモテることになるだろう。

「なぜなら、周りに恋愛対象になる人間がいなくなった人は、「モテたい」ではなく「出会いがない」と言うようになるからよ。誰先生のことばとは言わないけれども」

 命がけで言うことではないと思うぜ、最後の一言。

 扉の向こうで聞かれていたら、微笑みの爆弾に辺り一帯焼け野原になるところだった。俺は一人無罪を主張させてもらうぜ、頷いてないからな!

「一年の時、友達はいたのね?」

「いつも一緒につるむグループはあった。わりと、うるさいほうだったと思う」

 控えめに言ったが、クラスでは一番派手で目立つグループだった。俺はその末端だが、あの時は髪の色も変え、髪形も今以上にいじっていた。二年になって、どちらもやめた。制服を中途半端に着崩すのも、やめた。

「そのグループの中で、モテたいとか、彼女が欲しいとか、そういう話はしなかったのね」

「俺は、言った覚えがないな」

「それが、九頭川君が一年も独り者だった原因ね」

 友達さえいなさそうな佐羅谷に言われたくない。

「だいたいいつの時代も、恋愛に積極的なのは三割くらいだと言われている。そのうち、強者と呼べるのは一割。自分から狙った獲物を狩りに行ったり、黙っていても目当ての異性から声を掛けられる、あるいは掛けられるように仕向けるのが、一割ということね。その下の二割が、一割に食い込もうと刃を研いでいる」

「喩えが怖いぞ」

「上位三割の恋愛は、狩猟よ? みな必死に武器を鍛える。顔も、スタイルも、会話力も、ファッションも、運動も、クラスでの立場も、勉強もね? 大人になったら、属する会社も、稼ぎも、資格も、将来性も、ね。少しでも良い獲物を狩るために、研鑽を惜しまない」

 わからないでもないが、直観的に否定したくなる。恋愛に順位という概念がふさわしいのか別にしても、これでは誰が誰を好き、という話ではなく、一位の人が一位と、二位の人が二位と、という感じで、ただ機械的に順位に応じて恋愛関係が成り立っているだけに聞こえる。

「リーグ戦じゃあるまいし、それだとまるで、相手は誰でもよくて、順位に応じて恋人を作っていくように聞こえるぞ」

「そうよ」

「いや違うだろ、たとえ上位三割か何か知らないけど、好きでもない人を、狩ろうとするか?」

「するよ」

 佐羅谷はじっと俺を見つめる。

 居心地が悪く、体を傾げたり、頭をかいたり、視線から逃れようとするが、佐羅谷は動かない。

 反論したいが、何を返しても論破されそうな気がする。こんなディベートっぽい土俵に、俺は上がったことがない。

「学年で一番の男と、学年で一番の女は、それだけで付き合う。上級生とか、大学生が出てきたら少し話は違うけど、全体的な流れでね。大切なのは、自分が誰を好きかではなく、一番の男と付き合っている自分、一番の女と付き合っている自分というステータス」

「そんなの、恋愛じゃねえよ」

「逆よ。それが、恋愛なの」

「気持ちはどうなるんだ、恋愛は、そこが重要なんじゃないのか」

「気持ちは、後からついてくる」

 まだ、一気に飲めるほど冷めていないコーヒーは、ゆらゆらと白い湯気をあげる。

「好きだから、彼氏彼女になるわけじゃないのよ。彼氏彼女だから好きになるの。その人と付き合いたいから、その人を好きになるのよ。好きだから付き合いたいわけではないわ」

「違いがわからねえよ。好きも付き合いたいも同じ感覚だろ。だいたい、彼氏彼女だから好きになるって、誰でもいいみたいじゃねえか、彼氏彼女は、入れ物なのかよ」

「そうよ、誰でもいいの」

 佐羅谷の声は平然としていた。

 否定しなければならないと思った。

 自分のことを思い出して、怖気を振るった。俺はつい先日、那知合花奏に告白してフラれた。那知合は、女子グループの中心だった。上位グループの中心。女王様気質で、派手で、声が大きい。賑やかで気分屋で、それでも周りは言いなりになる。基本的にわがままだが、ふとした瞬間に変にスキがあったり面倒見が良かったり、やけにポンコツだったりするする。

 俺は那知合のことが好きだった。誰でも良いとか思ったことはない、はずだ。

 ……よそう、今は考えたくない。

「仮にだ、俺が一年の時、自分のグループの中で『彼女欲しー』とでも繰り返し言っていたら、そうなったとでも?」

「上位のグループだったのでしょ?」

 はぐらかしても仕方がない。俺は黙ったまま肯定した。

「よくつるむ女子のグループもいた?」

「……いたな」

 それが、那知合を中心とする女子上位のグループだ。

「じゃあ、お互いのグループの中で、同じくらいの地位にあった異性と付き合えた可能性はあったわね」

「何だよそれ。地位って何だよ。社長とか部長のあれかよ」

「貧困な想像力ねえ。グループの中に厳然たる力関係があって、序列があることなんて、元メンバーなら嫌でも知っていることでしょう?」

 当たり前だ。それにしても元メンバーってアイドルグループのようだ。アイドルも末端なら、いなくなっても誰も気にしないよね! 秘蔵VTRからもきれいに編集で消されたりするんだ。

 俺は所詮、谷垣内悠人のグループの末端だった。谷垣内がいなければ、まともに集まることも騒ぐこともできない、脆弱な集団。谷垣内が社長で、他は平社員だ。下手をすると、バイト以下かもしれない。バイト同士の付き合いは、希薄だ。

「グループに属する者の恋愛は、グループ同士の付き合いになる。だから、男グループと女グループの付き合いでは、同じ立場の相手と付き合う以外ない。特に、トップはトップ以外と付き合えない。下克上も玉の輿もない」

「俺のいたグループは、トップがあまり恋愛関係の話を進めようとはしなかったな」

「なら、そのグループの面々はあまり恋愛に積極的にならなかったでしょうね。彼女ができた人は、グループを外れるしかない」

 そのとおりだ。何人かの出入りがあったが、ほとんどそういう理由だった気がする。

 こうしてよくよく考えたこともなかったが、佐羅谷のことばがすんなり理解できて、受け入れそうになる自分が怖い。そうだ、恋愛は心の問題で、気持ちの問題で、情操の問題だ。理性の先に解き明かせるものではないという頭がある。そして、理屈にしたくないとも。

「共学校での交際は、個人と個人の恋愛ではなく、グループ同士の不可避的な恋愛だから、あまり長続きしないそうよ? 同調圧力があるから、さぞや息苦しいことでしょうね」

 淡々とした口調に、久々に楽しそうな声が乗った。ああ、佐羅谷は一人だから、気のない相手と立場や世間体のために付き合う必要がないもんな。

「ちなみに、女子校だと校内の人間関係と恋愛対象の関係が分離するから、そんな圧力は無縁になるわ。如実に変わるのは、望まない妊娠の比率だとか」

「妊し……って、そこまでは言わなくていい!」

「女子には蔑ろにできない問題もあるのよ」

「それはそうだろうけどよ」

 非難されている気になった。

 佐羅谷は面を軽く伏せている。

 長い睫毛の下、わずかに憂いを含んだ緑の瞳が、一巡して俺を見上げた。俺はどんな表情をしていたのだろう。佐羅谷は何かをごまかし、振り払うように、コーヒーを呷った。すでに手の中のビーカーは、冷たいガラスになっていた。


「ところで、九頭川君は好きな人がいるの?」

「……いねえよ」

 何を突然、心臓が止まるかと思った。小心者だ、本当に。

 その質問は、普通、相手が好きだからする質問だ。普通。普通は。自分で反芻してわかる、佐羅谷の質問は純然たる質問であり、一切の含意はない。だからこそ尋ねることができるのだ。本当に好きな人に、好きな人がいるのかなんて、とても聞くことができない。

「自分は誰も好きにならないくせに、他人からは好かれたいだなんて、えらく手前勝手な願いね」

「俺は愛に餓えてんだよ」

 うん、自分で言って気持ち悪い。

 わかってるから、佐羅谷、その汚物を見る目はやめてくれ。……だがな、茶化してはいるが、そして見抜けはしなかろうが、一握りの本音も入っているんだぜ?

「おま……佐羅谷はどうなんだよ。す、好きな人はいるのかよ?」

「挙動不審になるなら、やり返さないほうが利口だと思うけど? 今はわたしのことはどうでもいいわ。あなた、本当に好きな人がいないの? アイドルとか、芸能人のつもりで聞いたのだけど」

「ああ、それならいる。ひのき坂46の萩原モトとか香酔カオリとか。あと、TDJ電脳組の面々とか」

「なんでそこまで地元びいきなの……」

 むしろ逆に聞こう、東京かどこかの聞いたこともないような都市のアイドルなんて、俺には二次元に過ぎない。現実の生きた人間として、彼ら彼女らを見ることはできない。あの人たちはテレビの中に住んでいる妖怪か電子データで、実在はしないものだ。

 それにひきかえ、ひのき坂46は実態のある存在だ。ただのご当地アイドルではない。

「ひのき坂って、あれでしょ。確か榛原高校の有志が始めたアイドルグループで、宇陀市役所の一角に事務所兼物販所があるという」

「そうだ。きっかけは榛原高校の文化祭のとき、舞台の時間に空きが多かったらしくて、なんとか賑やかにしようと有志が集まってアイドルグループの真似事をしようとしたのがきっかけで(中略)、それが今でも続いていて、所属条件は榛原高校の在学生か卒業生、年齢制限は22歳まで(中略)、グループ名は当初、学校のそばにあった墨坂神社から取って「すみ坂46」だったが、さすがに語呂が悪いから近所の団地の名前を取って「ひのき坂」に改名して(以下略)」

 なお、宇陀市の中心部は旧榛原町、そこにある高校が宇陀高校ではなく、榛原高校なのはそのためだ。宇陀は丘陵地帯で、そこはかとなく田舎だ。宇陀郡内で合併して、宇陀市ができた。

 ひとしきり語り尽くして満足して佐羅谷を見ると、うわぁ、という顔をしていた。それはもう、うわぁ、としか言えないような表情だ。なんか申し訳ない。

 なお、俺はひのき坂46の萩原モトなどがアイドルとして好きではあるが、別にそちら方面のオタクでもなんでもない。インストアライブとか学園祭で出ると聞いたら、たまに見に行く程度だ。たまにだ。行ってもせいぜいフープやキューズモールまでだ。大阪だ。奈良市内へ行くより、大阪へ行くほうが近い、奈良県地方都市あるある。

「いろいろあるツッコミどころはとりあえず置いといて、」

「ひのき坂の次のライブは」

「くたばる?」

「くたばりません」

「……例えば、萩原モト? って娘はモテると思う?」

 議論の余地はない。モテるに決まっている。少なくとも、俺にはモテる。俺にしかモテなければ、実においしい話だ。うわー、自分で言っててやはり気持ち悪い。

「じゃあ、どのくらいの人にモテると思う?」

「70億人」

「そういうのいいから」

「ア、ハイ」

 さて、佐羅谷の質問を考えてみよう。

 ご当地とはいえ、たまにネットテレビに出る程度のアイドルグループ、しかもわりとセンターを張る。グループ内では知名度は高いはずだ。それでも、全人類に知られているわけはないし、当然アンチもいる。

 見当もつかない。

「日本人の1%に知られているとして、120万人に知られている。顔と名前が一致する人がそのくらいいるとしましょう」

「まあ穏当なところだな」

「そのうち「好き」と言ってくれる人が1%とすると、12000人。ひのき坂はグループだから、一人のためにファンが集まるわけではないけれど、まあまあいい数字じゃない?」

 萩原モトは道端ですれ違うと顧みたくなる美人なので、知っている人の1%しか好きにならないというのはかなり少ない見積もりだと思うが、アイドルに対する好きと、恋愛対象的な好きはちょっと違うので、確かに良い数字かもしれない。

「で、その数字から何がわかると?」

「モテたければ、たくさんの人に知られなさい、ということよ」

 アイドルと一般人は違うだろ?

「疑っているようだけれど、じゃああなた、どうして萩原モトのことを知っているの? 幼なじみ? ストーカー?」

「幼なじみならここにはいないし、ストーカーでも多分ここにはいないな、今ごろ臭い飯を食ってるだろうよ。ひのき坂はアイドルだからな、なぜ知っているかなんて、考えるまでもない。テレビにも漫画雑誌にもユーチューブにも、ヤフーにも、どこにでも出てくるし、見る機会がある」

「どこの誰とも知れない人に好かれるために、己の姿を晒す、それがモテるということよ。百人に見られて、好きと言ってくれるのはたった一人かもしれない。でも、見られれば見られるほど、好きになってくれる人は絶対に増える。なんで政治家の写真って、街中に貼ってあると思う? 何度も何度も繰り返し目にするものに、人間は好感を持つからよ。人間は、何度も会う人を好きになる。もちろん、生身の人間と会うのが一番効果的だけどね」

「そんなに単純じゃねえよ。それなら、学校のクラスは全員恋人同士になる」

「そこにはさっきの、クラス内の力関係とかいろいろなものが別要素として入り込むからね。それにクラス内は接触の強さが人によって全然違うでしょう。これが大人になるとね、恋愛対象になる人と会う機会がほとんどなくなるから、ちょっとのことで惚れて、惹かれて、弄ばれて、捨てられるのよ。誰先生とは言わなけれど」

「捨てられるのかよ……」

 というか、生々しくて聞かれたら命のなくなりそうな例え話はやめてくれ、切実に。

 しかし、クラス内の話はなんとなくわかった。よくよく考えると、同世代の男女ばかりが一か所に集まって、社会を形成しているのは、学校という空間だけだ。学校は、特殊だ。そのことは、俺もバイトをするまでは気づかなかった。バイト先ではみんな年齢が違うのは当たり前だし、むしろ同い年の人がいるほうが珍しい。

 家と学校以外の世界を知らないやつは、仲間はずれにされたり、爪弾きにされたりすると、さぞや苦しいだろう。自分の生きていく世界が、自分を受け入れてくれないのだから。世界は世の中にたくさんあると知ってしまうと、わりとクラスで一人浮いていても、気にはならないものなのだが。

 実際、俺が保健室登校していながら余裕があるのは、根底で気楽に構えているからだ。本当の俺は違う、とは言わないが、学校だけが居場所ではないと知っている。

「翻って、九頭川くんはどうかしら? 何人に知られているの? 家族親族を除いて、百人に知られたら、一人くらいは好きと言ってくれるかもしれないわ」

「……一年のときの人間関係は全部切れた。二年になってから、教室へは行ってない」

「話にならないね」

 まったく、佐羅谷の言うとおりだ。

 俺は、世の中のほとんど誰にも知られていなかった。この状態でモテたいとは、片腹痛い。まずは知ってもらわないといけないな。ああ、でも目立つのは嫌だ。どこかの誰か、演技派女優みたいに、尖塔で読書するなんて芸当、俺にはできそうにない。そもそも絵にならない。選挙広告を貼るのも嫌だ。生徒会になど参加したくない。

 佐羅谷は頬に手を当てて、しきりに独りごちている。毒を吐いているのではない。本当にモテるための方策を考えてくれているようだ。真面目か。

 モテたいの真意を伝えることもままならぬまま、俺はモテるための行動を起こすことになりそうだった。


「まだ残っているの、あなたたち」

 白衣を翻し、犬養先生が理科実験室に入ってきた。

「犬養先生、今は大切な相談中です。出て行ってください」

「部活動よりも学校のルールが優先だよ、佐羅谷。今、何時だと思っているの?」

 時計を見ると、すでに17時前。時刻を示す鐘の音は全く耳に入っていなかった。話をするのに必死になって、聞こえていなかったらしい。

 西から射し込む光も、弱々しくなっていた。

「あら、もうこんな時間。じゃあ、九頭川くん、続きはまた明日ね」

「ああ」

 って、続くのかよ。

 足元の鞄を掴みつつ、顔を上げた。

 逆光で見る佐羅谷の笑顔は、ちょっとことばにできなかった。悪くない。おそらくは他の誰も知らないであろう佐羅谷の柔らかい笑顔。怜悧に取り澄ましてツンと演じている深窓の令嬢も絵画のように美しいが、年相応にふと覗く素の表情はもっと素敵だ。

 俺はちょっとばかり、意地悪をしたくなった。

「俺のお、おじさんが言っていたんだが」

「王子さん? プリンス?」

「おじさんだ、お・じ・さ・ん。そうだな、仮に山田仁和丸(40)としておこうか」

「話が見えなさ過ぎて、早く帰りたいんだけど」

「まあ聞け。山田仁和丸はチビデブハゲ三拍子そろったキモオタヒキニートワープアヤフコメ民ネトウヨ、彼女いない歴=年齢で、30で魔法使いになり先日40で大賢者に転職した強者なんだが」

「ニートとワープアって、矛盾してるんだけど」

「その山田仁和丸が言っていたよ。女の子は、自分がきれいに見えるように演技するよりも、ニコニコと素直な笑顔を見せているほうが、よほどかわいいってな」

 両手にビーカーを持ったまま、きょとんと首をかしげる佐羅谷。ちょっと早口で畳みかけるように言ったから、理解が追いついていないのだろうか。内容の九割は戯言だしな。

 同じく佐羅谷の笑顔を見たであろう犬養先生は、口元に手を当て微笑んでいる。この人はこの人でかわいらしい人だ。グラマーな年上美人には、決して面と向かって言えないが。

 たぶん、佐羅谷は先ほどの自分の笑顔をわかっていない。ここ理科実験室で恋愛研究会にいるときは、完全には深窓の令嬢を演じないのだ。だから、自分がどんな表情をしているかとか、帰る間際の気の緩んだ時に出た素直な顔が、他人にどう見えるか知らないのだ。

 これは、今後もネタに使えそうだ。カメラを回しておかなかったのは失敗したな。

 俺が帰り支度、と言っても鞄一つを持って帰るだけだが、準備を終えて踵を返す頃、やっと佐羅谷は先のことばの意図を把握した。

「ほんと、何言ってんの。くたばれ!」

「おい待て、ビーカーを振りかぶるな、それはやめろ! 割れたら弁償だぞ! 一時間の時給が飛ぶぞ! 奈良県の最低賃金は安いんだ!」

「落ち着きなさい、佐羅谷。柄にもない」

「先生、止めないでください」

「九頭川、あなたはさっさと帰りなさい。また明日ね」

 失礼します、と適当に頭を下げて、俺は理科実験室を抜けだした。まだごちゃごちゃと喧騒が聞こえるが、離れると聞こえなくなった。

 自然に頬がゆるんだ。久々に、よくしゃべった気がする。犬養先生といた保健室では、ここまでしゃべれなかった。先生は会話する相手ではないし。俺とて先生しか話し相手がいないのは悲しい。いやマジで。

「続きはまた明日、か」

 明日は少し、元気になれそうだ。

 今日の日は、まだもう少し残っているけれど。


 親父は19時ごろに帰ってくるので、夕飯の支度をするにしても、まだ時間に余裕がある。ここ数日は保健室を放課後に出ていた。なるべく人の少ないとき、帰宅部がさっさと帰り、部活組が活動中の中途半端な時間を見計らって帰っていた。わざわざ遠回りして尺土のオークワで買い物をして帰ったりしていた。別に、学校の人間に会いたくなかったからではない。そもそも、高校生が毎日スーパーに買い物に行くことなんてあまりないからな。俺は違うけど。

 夕飯の準備はしなくてよいと、親父は言う。だから、これは俺の意地だ。平日の夕飯だけは、という意地だ。もっとも、朝はパンで済ますし、昼は晩御飯の残りを詰めた弁当だし、実質家の食事は俺が担っている。今さら、親父に料理番を戻すのも悔しい。それに、やることがあるのはよいことだ。気が紛れる。

 料理動画を見ながら、たまにうまくできると、一人でも楽しいものだ。

 今日の晩ご飯ぶんの材料は、もう昨日に買ってある。食事の準備は一時間もあれば事足りる。

「久しぶりに、CUEでも行くか」

 今日は、気分が良い。

 俺は自転車の向きを変えた。

 ゲーセンで時間をつぶす、無駄な時間を過ごしても楽しめそうな気がする。ああいう空間は、体力がないと意外と疲れるものだ。

 それにしても、家と学校からほど近いところにゲーセンがあるのはいい。CUEは一通りそろった普通のゲーセンで、UFOキャッチャーからプリクラ、メダルゲーム、筺体系ゲーム、音ゲー、パチンコパチスロなど、ワンフロアにしてはなかなか充実した場所だ。俺も一年の時は谷垣内たちとよく来たものだ。ただ、どちらかというと、男だけで来ることが多いゲーセンだ。別に女を連れてくるに不向きとは言わないが、本気のデートでは避けたほうが無難だろう。今のところ俺には縁のない話だが。

 それにしても、家の近所にブックオフ、CUE、吉野家、丸亀、はま寿司、快活、王将に松のやにマクドがそろっているなんて、高田市は本当に最高だぜ。生活至便。

 CUEは二階建てで、一階はすべて駐車場になっている。すでに、自転車はあふれていた。けっこうかつらぎ高校の自転車も並んでいる。近場だし、知り合いがいるのも仕方あるまい。鞄を背負い、自動ドアを抜けた。

 

 いつもの騒音、染み付いたタバコの臭い、ぎゅっと駄目なものが詰まった感じ。一人でいても、喧騒に紛れて、孤独を忘れ、安らげる。人間は、ここでは一人だ。一人がたくさん集まって、集団にならずに、機械や画面に向かってひたすら動作を加える。生産性が皆無の単調な作業。ゲーセンは、いいものだ。

 ところが、今日はちょっと毛色が違う奴らが入り込んでいるようだった。

「田ノ瀬く~ん、今度はあれやろー、ホッケー!」

「えー、先にプリクラ取ろうよ~、ねえっ」

「それよりわたし喉乾いたんだけどー」

「次はあたしの聞いてよー!」

「まあまあ、みんな順番にね?」

 なんだこのハーレム集団は。

 一人の男を中心に、猿の群れのように騒ぎながら移動する集団。もともと機械音と電子音と人の声が混じるゲーセンの中でも、目立って姦しかった。全員制服姿で、かつらぎ高校だとわかる。

 そして、俺は中心となる男を知っていた。奴もまた有名人だ。俺と同じく二年生、いわゆるイケメンである。スタイルは抜群、容姿端麗、清潔感に溢れ、実に気が利く。男でさえ凝視してしまうような吸引力はまるでブラックホール。空間が歪む重力に、誰もあらがえない。おまえもう、高田市はおろか奈良県にいて良い人材じゃねえよ、近畿の平和と安寧を守るため、さっさと東京でも行ってモデルか芸能人になれ。

 あれだけ女子に囲まれながらも、周りに配慮し、店員から小言を言われないよう馭している。生まれ持ってのイケメンは、女の扱いもプロ級だね! 小さなときからモテモテだと、女性の扱いがうまくなるのだろうね! 仁和丸おじさんが聞いたら、ツイッターで500文字くらい嫉妬をぶちまけそうだ。ツイッターは140字までしか呟けないけどな! 

 俺はそこまで露骨に嫉妬しないが、ただ、CUEは貴様らが来るゲーセンじゃねえ! とは態度で示したい。というか、周りにいる一人で来ている男子(年齢不問)とオバサマメダルゲーマーはそんな空気を漂わせている。あなた方にも眼福だと思うのですが、ほらジャニーズJrとか韓流アイドルとか好きじゃないですかー。若い女子なら田ノ瀬を歓迎して、クラっと来るかもしれないが、若い女性が一人でCUEに来るわけがなかったのだ。

 そうだな、ああいう一団は本来アルルのゲームコーナー、SOYU程度がおすすめだ。あちらならグループデート(笑)やカップル(笑)にもおすすめだ。アベック(旧)でも可。

 なぜあんな場違いな集団が、と思ったが、今は4月だった。まだクラス内での人間関係や序列が定まっていないところに、なんとかして田ノ瀬のような、まごうことなき上位の人間とお近づきになりたいのだろう。よく見ると、田ノ瀬以外にも男子が数人、女子の後を追いかけてついていっている。田ノ瀬の取り巻きなのか、田ノ瀬女子の取り巻きなのかはわからないが、見るに耐えない気分になる。

 そうまでしてモテたいか? モテたいですね、俺が言える立場ではないな、言い訳はしない。

 とりあえず、田ノ瀬集団とはすれ違わないように、俺は店内を巡り始めた。

 ゲーセンは、眺めているだけでもそこそこ楽しい。俺の居場所は、だいたいソロプレイヤー系の格ゲーだ。2Dでも3Dでもよい。太鼓の達人やマイマイくらいはよいが、多人数でやるごちゃごちゃしたのは、苦手だ。イニDも湾岸も一人がいい。ネットでつながっているから、よそのゲーセンの誰かと対戦できるし。

 格ゲーは今はあまり流行っていないらしい、これは仁和丸おじさんのことばだが、俺は昔を知らないのでよくわからない。ただ、大きな筺体の中に入ってモビルスーツを動かしたり、カードを駆使して戦場を駆け巡る全世界対戦型ゲームがあったりする中で、相変わらず十字レバーとボタン数個でバキバキと殴り合うゲームは、インベーダーやパックマンの時代と変わらない旧態依然の存在かもしれない。

 いや、でもゲームってそういうものだよな。

 画面を眺めていると、アサシンズアサシンが稼働していた。姿は見えないが、画面の向こうで誰かがプレイしているようだ。仕様キャラは、ドクトル。医者と言えば医者だが、格ゲーの医者なので、演出重視だ。白衣を着ている中年おやじというくらいしか医者要素はない。

 中三の時はよくやっていたゲームだ。どうやらリニューアルした最新作らしい。画面もキャラの動きも必殺技も微妙に変わっている。俺の持ちキャラであるニンジャマスターはまだ現役でいるようだ。感傷に浸るガラじゃないが、格ゲーは人気に応じてキャラの増減が激しい。だいたいは増える一方で、リストラは難しいようだ。減らして不興を買うより、増やすほうが簡単だからな。もっとも、増えすぎたキャラのせいで訳が分からなくなり、お前ら何のために闘ってるの? 強い奴に会いに行くの? 元設定どこ行った? という状態になるのだが、そもそも格ゲーの設定なんてあってないようなものだから、どうでもよいのかもしれない。増えすぎたキャラがかえって新規ゲーマーを疎遠にしていると思うのは俺だけだろうか。

 見るとはなしに闘っている様子を眺め、ドクトルがCPUに勝利した時点で、プレイヤーが気になり、ふと画面の上から覗き見る。たまたま、面を上げたプレイヤーと目が合った。

「ああ、」

「おお」

「久しぶり、九頭川」

「そうだな、高森」

 高森颯太。中学の時の友達。ゲーム仲間。どっと今まで忘れていた記憶がよみがえる。中学の時は、クラスが同じときはだいたいいつも一緒にいて、放課後や休みも、だいたいゲーセンやお互いの家にいた気がする。

 高森も、かつらぎ高校の制服姿だ。同じ高校へ進学したのに、疎遠になった原因は、俺だ。今でも、スマホに連絡先は残っているはずだ。高校へ入って、俺からは連絡した記憶がない。忙しくて、それどころではなかった。高森からも連絡がきた記憶はない。多分、見た目や付き合う友達の変化を見て、自然と、あるいは気を利かせて連絡を絶ったのだ。

 多分、一年の時の俺の格好なら、高森は目が合っても声をかけなかっただろう。俺も昨年度は一人でここに来ることもなかった。偶然、か。今日は予想外のことがたくさん起こる日だ。

「今日は一人?」

「今日も一人だな」

 ゲーセンに来るのは、とつなげる。

 今日からも一人である可能性については述べない。

 高森も一人のようだった。だが、中学時代からの友達が切れていなかったり、高校の一年でつながりができているのならば、たまたま一人なのだろう。

「一年の時、たまに見てたよ」

「そうか」

「友達は、どうしたの」

 答えに窮する。

 高森の意図は見えない。純粋な質問だと思う。

「もう、ああいうのはやめたんだ」

「そう」

 友達なんて、確認するものじゃない。ただ一緒のクラスで、一緒の部活で、なんとなく気の合う者同士、ひっついて離れて。俺とおまえは友達だよな、と契約を交わして口頭でも了承を取ったわけではない。むしろ、友達であることの確認は、相手に友達にあるまじき負担をかけるときだ。「俺たち友達だよな?」の発言のあとに友情が育まれることはない。

 友達だと確認しあっていないのが、本当の友達だ。そして、友達は突然いなくなる。だから、俺が高森から離れたことを負い目に感じる必要はないし、高森が俺を裏切り者と感じるのはお門違いだ。

 いいや、俺はたぶん、裏切ったのだ。俺が裏切ったと思っているから、良心の呵責があり、高森のことばに裏を読んでしまうのだ。俺はもう高森と、昔の友達には戻れない。戻らなくていい。一年の間、高森には高森の人間関係があっただろう。俺だけが足踏みして、恥ずかしげもなく元の関係を再構築しようというのは、虫が良すぎるし、望んでもいない。

 時間は戻らない。進むしかないのだ。

「放課後は、ときどきここにいるよ」

 高森はゲームに視線を戻した。もう次のステージが始まっていた。ゲームが始まると、高森も余裕がなく、会話もなくなった。俺もこれ以上は間が持たなかった。今さら何ができるというのか。

 連絡するとも、また会おうとも言わなかった。社交辞令の別れの挨拶「じゃあまた」さえ交わすことなく、俺はアサシンズアサシン含むビデオゲーム系一角から去った。連絡すると言っても、何を連絡するのか、また会おうと言っても、また会って何をするのか。共通の話題をなくした二人の断絶は大きい。この隙間は、もう埋まらない気がする。

 「放課後ときどきここにいる」という高森の言明は、見事だ。俺が友達を切ったことを責めず、関係性を保持したまま、次にたまたま出会うことを拒否はしない。CUEは俺の最寄りのゲーセンだ。きっとまた来るだろう。そして、その時に高森と出くわしても、知り合いとして認めてくれるということだ。

 どうして俺は、一年間も音沙汰をなくしていたんだろうな。

 新しい世界の居場所を得るのに必死だったから? 馬鹿な話だ。得られたのは、そこに俺の居場所はなかったという経験だけだった。

 バカがバカを自覚しただけだ。

 はかばかしい成果はなく、バカバカしい戦果を得た。本当に。本当に。


 翌日、俺は当然のごとく自分の教室に行った。自分の教室と言っても、初めて行く教室だ。

 自分が二年何組で、どの席か、時間割はどうか、すべて保健室で犬養先生に聞いていた。あの人は、やはり有能だと実感する。何か行動を起こそうというときに、障害になりそうなものはあらかじめ取り払ってくれていた。当面頭が上がりそうにない。たまには保健室に遊びに行こう。

 席は、廊下側の一番後ろだった。

 まだ新学年は始まったばかり。五十音順で席を並べるなら、「九頭川」はだいたいこのあたりだ。いきなり席替えをする酔狂な先生はいない。それにしても、特等席。後ろの扉から隠れて出やすく、遅刻時もすっと入れる。

 知った顔がない教室に、黙って入る。

 始業まで十分前、教室の七割は埋まっていて、数人がこちらを見る。初日からしばらく、俺がいなかったことにどういう説明があったのかは知らない。しかし、このクラスに馴染むのは、しばらくかかりそうだ。自業自得だ。とりあえずこういうときはどうしたら良いのか。寝たふりか。そうだな、寝るしかないな。

 鐘が鳴り、担任の先生が来てホームルームが始まり、勝手のわからないままに、授業に突入する。なに、問題ない。最初は誰もが知らない者同士なんだ。今は俺だけが知らない子だけどね!

 四時間目の授業が終わって、昼――。

 自分で詰めた弁当を持って、廊下とは逆の窓側の席へ向かう。改めてちょっと確認したかった。自分の席で食べて、後から移動しても良かったが、なるべく早く見たかった。この教室の窓から、尖塔が見える。

「ここ、使っていいか?」

「……ああ、どうぞ」

 窓側の席で、移動しそうな奴に声をかけて、場所を借りる。

 昨日までいなかった男に声をかけられて、面食らったような素振りだったが、気にしない。まあ、俺の席なんか俺がどいた瞬間、誰かが座っているし、声をかけて許可を取るだけいいと思うんですよ、俺、律儀!

 自分の食事は程々に、窓の向こうグラウンド越しの尖塔の一角に目を凝らす。

 いた。

 深窓の令嬢。

 さすがにこの距離では顔も判然としないが、姿勢の良さと所作の丁寧なことは伝わってくる。脳内で、昨日の佐羅谷あまねを思い出し、やはり同一人物なのだなと感慨深く顧みる。まさか俺が、深窓の令嬢と一対一で会話をすることになるとは、思ってもみなかった。

「深窓の令嬢、いいよな」

 隣にいた男が声をかけてきた。

 意味のない会話だ。だが、意味のない会話で人間関係はできていく。意味のある会話は、会話とは言わない。業務連絡だ。業務連絡では、友達はできない。意味のない会話をしてこそ、友達ができる。「深窓の令嬢、いいよな」には文字通りの意味は何も含まれていない。この声掛けの意味は、「おまえは誰なんだ?」だ。

 俺は今のところ、このクラスでどうなりたいのか、どんな人間関係を築きたいのかもわからない。一年のときの人間関係をリセットする、その後のことは考えていなかった。

 ふいに佐羅谷のことばが、頭によぎる。

『モテたければ、たくさんの人に知られなさい』

 どうだろう、知られるには、いくぶん強い印象を与えたほうがよいかもしれない。当たり障りのない相槌ではなく、好悪を表に出したほうが面白く思われるはずだ。

「いいよな、興味がある」

 そういう路線で行くことにした。

 ニヤリと口で笑う俺に、男はハリウッド映画のアメリカ人のように大げさに肩をすくめて、身を乗り出してきた。

「これは噂なんだが――」

 食いついてきた。

 出だしで失敗した俺の高校二年だが、なんとか軌道に乗れそうではないか? 今のところ、佐羅谷をダシにするだけで、新しいクラスでもやるだけはやれそうだ。うまくやれるか、それは予断を許さないが、なあに、ダメならまた一人に戻るだけだ。俺には保健室がある。犬養先生に慰めてもらうさ。


 放課後。

 理科実験室の扉には、木の板がぶら下がっていた。よく飲食店にある、「準備中」「営業中」と裏表に文字が書いてあるような札だ。昨日、犬養先生に連れられてきたときには気づかなかった。

 札を手に取り眺めると、一方には「恋愛相談受付中」もう一方には「恋愛相談中、入るな!」と書いてある。なるほど、この札で相談者がかち合うのを防ぐわけか。行列のできる恋愛相談所でもあるまいし、いったい一日に何人相談に来るのかわからないが、手のこんだことである。

 俺は札を「入るな!」にして、扉を開けた。

 教室の半分を覆う黒の緞帳。一つだけ飛び出た椅子と、その前には呼び鈴。ダイソーで売っている、頭のポチを叩くとチリーンと高い金属音がする呼び鈴だ。新庄のサイゼリヤのレジに、同じものがあった気がする。まあ、どこにでもあるな。

 というか、相談二日目、堂々と入っていいよな?

 今さら緞帳越しに話をする必要もない。

「ちわ〜っす、入るぞ、佐羅谷」

「こんにちは、九頭川くん」

 読んでいた本にしおりを挟み、佐羅谷はガスバーナーに火をつける。俺も、授業が終わってから無駄足を踏まずにこの部屋へ来たというのに、なんで佐羅谷は余裕でガスバーナーを準備しているんですかね。ここに住んでんの? 今はやりの部屋キャンってやつか。知らんけど。部屋でシュラフにくるまっていると、わびしい気持ちになっちゃうよね。親父のだから、独特の臭いが染み付いているし。

 佐羅谷は昨日と同じ席に座っていたので、俺も同じ席についた。

 ゴーっとガスバーナーの燃える音が響く。やがて、水の沸騰する音が混じる。

「熱湯がいい? 白湯にする? それとも摂氏100度の水がいい?」

「おまえどうして、無駄にネタを挟むの? 将来の夢はお笑い芸人なの?」

「わたしがお笑い芸人になったら、みんな見惚れてネタどころじゃないじゃない」

「『美しすぎるお笑い芸人』というステマ記事がヤフーに出て、『美しすぎるってつけたらいいと思ってんじゃね~ぞって思って見たら、マジで美人だった件www』というスレが立って、ツイッターアカウントにアンチが溢れて、事務所が遺憾の意のコメントを出すあたりまで想像できるな」

「あなたもさり気なく人のことを美人と言うね。狙っているの?」

 佐羅谷は興味なさそうにインスタントコーヒーの瓶を取り出し、ビーカー2つ、コーヒーを淹れてくれる。

「美人なんて、言われ慣れているだろ」

 狙っている、の解答は避けた。

 率直に言って、佐羅谷と話をするのが楽しい。今のところはそれ以上でも以下でもない。恋愛相談の名目で、こんな美少女と密室に二人っきりになれるのは悪い気はしない。

 少なくとも、昨日の俺は救われた。

 保健室登校から、一瞬で教室へ復帰。もっとも、俺はそこまで深く落ち込む質でもないので、いずれは教室へ戻ったことと思う。それが早まっただけだ。だが、きっかけをくれたのは佐羅谷だ。今朝がた、珍しく喉がいがらっぽかったのは、たくさん喋ったからだろう。喉って、使わなかったらすぐに嗄れるんです。

 コーヒーが入っても、恋愛相談は始まらない。

 熱いビーカーをつまむように持ちながら、佐羅谷の横顔を見つめていた。

「なあ、佐羅谷、おまえどこ出身なんだ?」

「奈良県」

「めっちゃ知ってる。たぶん、そういう意味では、俺はこの学校の生徒の99%の出身地を知ってる」

「あなたが先に言いなさいよ」

 ツンと視線を逸らす。

 俺の出身に関しては、隠すまでもない。

「俺は高田だよ。三倉堂」

「近所じゃない。どれだけ行動範囲が狭いのかしら」

「いやいやいや、近くの高校に通って何が悪いよ? かつらぎ高校はそこそこ難しいし、俺がんばったよ? 近いから行けるレベルの高校じゃないだろ?」

 かつらぎ高校は、高田市にある。ちなみに、かつらぎというのは漢字ならば「葛城」と書く。高田市を含む広域の地名だ。この辺り一帯が、葛城。したがって、新庄町と當麻町が合併して葛城市を名乗ったのは明らかな僭称だ。葛城市許すまじ。俺たちの葛城を返せ、いやマジで。

「で、俺は言ったぞ。佐羅谷は?」

「十津川」

 諦めの溜息が漏れた。

「十津川? マジかー」

 十津川村は奈良県の、いいや近畿地方の秘境だ。下手をすると、大阪から名古屋まで行くよりも遠い。近鉄特急で上本町から名古屋まで二時間、十津川まで果たして二時間で行けるだろうか。電車バスを乗り継ぐと、もっと時間がかかる。そのくらい遠い。俺も自分では行った記憶がない。十津川に行く用事もない。だって山だし。

「で、十津川のどこ?」

「出た、すぐに人の住所を知って押しかけようとする男」

「十津川なんて、原チャも乗れない俺じゃ、行けないって」

 大和八木から出るバスで、役場でさえ二時間か。グネグネの山道をゆっくりゆっくり、うむ、車酔いで嘔吐する予感しかないな。

「だいたい、あなた、十津川の何も知らないくせに、住所を言ってもわからないでしょう?」

「俺はこう見えて奈良県に詳しいぜ?」

「どうせ高田限定の知識じゃないの」

「高田限定なら、目をつむっていても歩けるな」

「じゃあ、賭ける?」

「お?」

 佐羅谷の発言とは思えない。

 いたずらっぽくほほえみながら、ビーカーに口をつける。薄い唇の色が、透明なガラスの縁に移ったように見えた。

 たまらず息を呑む。

「何を賭けるって?」

「わたしの故郷を聞いてわからなければ、目をつむってアルルまで歩いてみて」

「もし俺が知っていたら?」

「その可能性はないけれど、そうね、今度スタバかサンマルクかでコーヒーをおごってあげる」

 ちょっとやる気が出た。

 とはいえ、俺はまったく十津川のことを知らないが。まさに口から出まかせ。ノリでメチャメチャなことを言ってしまった。目を閉じて歩いてアルルまで行けないよどうしよう。

「で、おまえの出身地は?」

「七ツ森だよ」

「あー、七ツ森な、知ってる知ってる。役場からけっこう遠いよな」

「そうね、十津川の集落はほとんど役場から遠いわね」

「でー、あれだ。斜面の上の方にあるよな」

「そうね、十津川の集落はたいてい斜面の上の方にあるわね」

「それから、不便なところだよな」

「そうね、それで、いつまでこのやり取りを続けるのかしら」

「誠に申し訳ありません」

 膝に手をついて、形だけの土下座もどきで答える。

「どうして知らないのにつまらない意地を張るの? 知ったところで、なんの意味もないのに」

「意味はなくてもそういうのはノリで、なんとなく確認して知っておくのがルールというか親しさの表現というか、会話って情報交換じゃないだろ? ただことばをつなぐことだけにも意味があるだろ? むしろそういうのは女子の領分だろ。佐羅谷、さては友達が」

「十点」

「は?」

「あなたの解答は十点よ。全然面白くない。七ツ森はすでに人がいない集落なのだから、正しい解答は『廃村か』よ。それでお笑い芸人を目指すなんて、片腹痛いわね」

「目指してねーし、十津川芸人、難易度高すぎ。なんだよ廃村って」

「アルルまで目をつむって歩くの、忘れないでね」

「佐羅谷がずっと手を引いてくれるって信じてるよ」

「それは0点ね」

「だいたい、アルルは橿原だ。ギリギリ高田じゃねえよ、ちくしょう」

 佐羅谷から軽蔑の視線をもらったところで、二日目の自己紹介は終わった。よくよく考えると、佐羅谷の出身地はわかっても、今どこに住んでいるのかは聞きそびれた。まさか、二時間以上かけて通学しているわけはあるまい。俺なら死ねる。ということは、どこかで一人暮らしをしているのだろうか。高校生で一人暮らしはあまり聞かないが、山間部の高校は寮や寄宿舎があるらしいので、佐羅谷のような十津川出身者にとって、高校から一人暮らしをすることは抵抗がないのかもしれない。

 それにしても、わざわざ高田まで、かつらぎ高校まで来るのは珍しい。奈良県上位の進学校ならわからないでもないが、こんな中途半端な進学校に。

 まあ、それもおいおい尋ねていけばよかろう。

 時間も余裕も、まだまだたっぷりあるはずだ。


「ゴールデンウイークの前に、球技大会があるでしょう」

「予定表が貼ってあったな」

「あなた、そこで目立ちなさい」

「またえらく無茶振りをなさる……」

 球技大会など、ボール遊び系運動部の自己アピールの場じゃないか。普段はチャラかったり、おバカなキャラだったりする奴らが、ボールを追いかけていると真剣で機敏で目つきまで鋭かったりしてね、えゝ、えゝ、それはもう大層女生徒にアッピィルできることでございませう。そういえば、一年のときに俺がつるんでいた(と一方的に思い込んでいる)谷垣内は、バスケ部でしたね! 背が高くて、適度に筋肉質で、少し茶色っぽい短めの髪は動きがある感じに毎日整えていた。バスケ部とサッカー部はなんでチャラいんでしょうね。プロもチャラいし、子供は大人の真似をするよね、つまり大人が悪い。

 俺も一年のときは似たような格好をしていた。今は昔に戻って野暮ったくなった気がするが、別にいい。いつでも変われるという可能性が得られただけで十分な収穫だった。

「新しいクラスでこの時期に球技大会をするということは、学校側は『ここで自己アピールしなさいよ、ここで仲良い相手を見つけなさいよ』という猶予を与えてくれているということよ」

「イベント注力系ウェイウェイパリピを洗い出して、自分の行動半径から遠ざけておけ、ということだな」

「クラスの雰囲気を盛り上げてくれる明るく元気なムードメーカーと言いなさい」

 ものは言いようですね!

 というか、佐羅谷もそういう騒々しい奴らは好みに反するはずだ。昼は相変わらず一人だし、部活でも誰かが相談に来ない限りはずっと沈黙の世界。苦にならないということは静謐を好む性格ということで、きっとクラスの無意味な喧騒を嫌っているはず。

 それに、佐羅谷がクラスメイトと世間話をしている絵が思い浮かばない。業務連絡や情報交換しかしていないのではないか。

「二年生の始まりでつまづいているのだから、ちょっとは無理をしましょうか」

「無理に無理して無理がたたって、また保健室登校になってしまったら、目も当てられないな」

「またここに来なさい。話し相手にはなってあげる」

 意外な優しさに、胸がキュッとした。狭心症かしら。

 だがしかし、俺はあまり無理をしている実感はない。唯々諾々と従うのも面白くないので、佐羅谷を煽ってみただけだ。

「球技大会はなんだっけ、バスケとバレーとテニスとソフトボールか。男女別の、クラス対抗?」

 一年のとき一応やったはずだが、記憶が曖昧だ。

 そうだ、あのときバスケを選んで、谷垣内と近づくきっかけができたのだ。というか、本職のバスケ部員がバスケを選ぶなよな。ましてや谷垣内レベルのプレイヤーが出てきたら、素人はお手上げじゃないか。あのときは、味方だから何も思わなかったが。

 なお俺はどの運動も得意ではない。人並みの運動神経はあるが、それだけだ。

「言っとくけど、俺はスポーツは苦手だからな?」

「かまわないわ。いい、大切なのは目立つことで、活躍することではないわ」

 活躍せずに目立つ、それは難しい。だが、活躍するほうがもっと難しい。何しろ、ボール遊び系運動部は自己紹介なのだから、なるべくいいところを見せようとそこそこ本気で動いてくる。むしろもう本職の部活動者は別のスポーツを選ばせたほうが公平じゃないかと思う。

 俺がバスケをやっても、ただの動く障害物だったもんな。ある意味目立ってたじゃないですか、やだー。あのときは谷垣内ともう一人バスケ部の1on1になっていたっけ。思い出してきた。

「バスケとバレーは駄目ね。全体が動くから、優秀でないと目立つことができない。よほどヘマをすれば目立つかもしれないけれど」

「テニスもだめだ。一対一でリーグ戦になっていて、試合をしている時間が長いから、観客が少ない。一番いいのはソフトボール。全競技のあとのほうでやるから観客が多いし、バッターボックスにいるうちは、嫌でも目立つ」

「そう。ではソフトボールを選びなさい。そして、目立ちなさい」

「やることの中身は考えてくれないんですね」

「一緒に考えてあげるわよ。恋愛相談の一部なのだから」

 至って当然という様子で、佐羅谷はむしろなぜ一人で考える気なのか、という表情をしている。

 そうか、佐羅谷にとっては恋愛の相談に応じた以上、できる限りのことをするのは当然なのだ。それが恋愛研究会の部活動なのだから。そうなんだよな、これは部活動。部活動だから、これだけ話せるわけだ、佐羅谷は。

 人と話をするのに、話題や理由が要る。キモオタヒキニートの仁和丸おじさん(40)が典型だ。あれは会話ではなく、意見表明の応酬だ。自分の知識や思考を交互に発言し合うだけ。意味のない話、中身のない話、無駄な話はしたくないと言いつつ、話の本質はただ相手とことばのキャッチボールをするだけだという基本がわかっていない、あるいはわかっていてもできない。

 現実世界でキャッチボールもできないのに、ことばの世界でキャッチボールができるわけもない。キャッチボールは練習が必要だ。練習の機会を失すれば、永遠にキャッチボールはできない。

 女は得意だと思っていたんだがな。

「クラスの男子の残りがソフトボールをするとして、十人くらいか。普通のルールとは違って、ベンチ人員も全員打席に立つだろうな。一試合五回裏までやるから、打席はおそらく2回ほど回ってくるな」

「一応聞くけど、活躍ではできないのね?」

「三塁に走るとアウト、くらいは知っている」

「イマドキの若い子はお外で遊ばないから、野球のルールも知らないのね」

「公園もボール遊び禁止、遊具禁止、走り回るの禁止で、老人のゲートボール場になってるんだから、どうやって子供が野球のルールを覚えるんだよ。野球が衰退するのは老人のせいだ。ルールを知らないのは社会のせいだ、俺は悪くない」

「バッティングセンターで最低限、バットにボールを当てるくらいは練習しておいたら?」

 俺の意味不明な正当化理論は無視して、佐羅谷はスマホを手に取った。何となく、意外だった。佐羅谷のような少女は、他人が見る自己イメージを繕うために、スマホのような道具を人前で使わない気がしたのだ。別にスマホやケータイが悪いのではなくて、深窓の令嬢はスマホをポチポチしているのは客観的に違うと思うのだ。大学生ならギリオッケー。

 実際、深窓の令嬢が尖塔でいるときに、スマホを触っているという話はない。いや、そもそも建前上、学校にスマホやケータイを持ってくるのは禁止されているから、人から見えるところでスマホを出さないのは当然なのだが。先生も黙認だし、誰も守ってはいないけれど。

 それにしても、女子のスカートって、どこにポケットが隠れているんでしょうね? ときどき手品みたいにひょいっとものを出してくるから、ぼく、けっこうびっくりするんだ。たぶん男子はみんなびっくりしてるよね、うん、特に他意はないんだ。なんかちょっとその取り出す一瞬の動作は、見たいけど見てはいけない気になるよね。もちろん他意はないんだ。

 Siriかグーグルにお願いするかな? と思ったが、素直にフリックしていた。ですよねー。佐羅谷がスマホに向かって「ヘイ、シーリー」とかしゃべりかけているところをちょっと見たかったとか、思ってないから。

「ふうん、橿原の四条町? にバッティングセンターがあるようよ。あなたの好きなアルルからは少し離れるけど、自転車で行けなくはないんじゃない?」

「どこだよ」

 俺が覗き込もうとすると、拒絶するかのようにスマホを突き出してきた。思わずのけぞる。

「おっと、近い近い、見えるか」

「急に近づくあなたが悪いんでしょ」

 思わずスマホにキスするところだったぜ。俺のファーストキス、冷たすぎ!? ってなるところだった。気持ち悪い。

 画面いっぱいにグーグルマップが映り、中心には赤色の逆涙滴形のポイントが立っている。

「ああ、ここか。最寄りの彩華ラーメンのそばだな。余裕で行ける」

「とりあえず、そこそこのボールでも当てられるようにはしておきなさい。ホームランでも打てたら、多少は目立つでしょうけど」

 場所だけ確認が済むと、佐羅谷はスマホを仕舞った。

 目立つ、か。

 問題は、クラスの野球参加者がどのくらい本気でやるかだな。ああいう球技大会や体育祭や、とにかく勝負事のあるイベントとなると、途端に本気になって、手を抜いたり失敗する奴がいると、非国民かのように糾弾してくることがある。まあ、手を抜くやつを怒るのはわかるが、失敗したやつに追い打ちをかけるのは違うんじゃないかと思う。だいたい、クラスって言っても、小集団の寄せ集めだ。たまたま大人の事情で一か所に集められただけの仲間(苦笑)が、一つの目標に向かって一致団結するというのも気持ちの悪い話だ。

 結局はクラス上位の集団の志向が、雰囲気を左右する。上位の集団が勝ち負けにこだわるか、楽しむことを優先するかで、「目立つ」の方向性も変わってくる。

 ああ、ああ、いやだいやだ。こんなことをせちがらく打算的に考えて、本気で進めようとしている自分が嫌になる。これなら、一年の時と結果的に同じではないか。偽り演じて自分でない自分の外面を作り上げて、面白く、楽しく、そんなペルソナを厚化粧するだけの。

「どうしたの、一人百面相して。病気?」

「重病だ。看病を頼む」

「脳病院まで付き添ってあげるわ」

「うわー、優しいなー。深窓の令嬢、サナトリウムが似合うわー」

「どうせ、似合わないと思っているんでしょう」

 なんだ、何のことだ。

 俺か、俺のことか。

 そうだな、「モテたい」の気持ちは本当だが、そのことがために策を考え、行動し、こうやって相談しているのは似合わない。もっと即応的に、ああだこうだ言わず脊椎反射で生きているほうが、俺には合っている気がする。

 だが、今は「モテたい」の真意を佐羅谷に伝えることはできない。伝えてはいけない。もしかしたら、今まで数々の恋愛相談に応じてきた佐羅谷なら、こちらの真意に感づいている可能性もあるが、それを佐羅谷から言ってくることはないだろう。案外、佐羅谷も抜けたところがあるので、気づいておらず、文字通りにことばだけで捉えているかもしれない。

「そうだな、似合わないな」

「悪かったわね」

 少しぷくっとほほを膨らませた。

 なぜ、佐羅谷がむくれるのだ。

「悪くはないな」

「はっ?」

「確かに、元は俺のモテたい発言が原因だが、そのためにいろいろ考えて、行動の指針ができて、まあ、教室にも戻れたし」

 佐羅谷をダシに、これからはクラスの連中とも関係を築いていく予定だ。おくびにも出さない。

「ああ、そっちの、そっちのことね。別にわたしは部活動に沿って動いているだけだから、気にしなくてよいわ。提案したことが、あなたに似合っているかどうかなんて、興味もないし」

 早口で、まだ少しむくれたままだった。

「もしかして、「似合わない」違い?」

「知らない」

「深窓の令嬢? サナトリウムが似合うわー?」

「もういいから!」

 明らかに動揺する佐羅谷、どうやら俺は盛大に勘違いしていたらしい。似合っていないかどうかを気にしたのは、俺についてではなく、彼女自身のことだった。そりゃそうだ、いくらなんでも、俺がどんな性格で、自分に似合っているかどうかを、昨日から知ったばかりの佐羅谷が判断できるわけがない。佐羅谷は衆人監視に晒されている有名人だし、ある意味性格付けもはっきりしている。俺でも、佐羅谷の行動が似つかわしいか否かの判断はできる。

「まあ、人前でスマホはいじらないほうがいいな」

「……イマドキ、スマホも使えない女子高生がいるわけないじゃない」

「セルフプロデュースは大変だな。昼間、ひさびさに尖塔を見たが、じゅうぶん成功してると思うぜ? おそらく、おま……佐羅谷のことを知らないかつらぎ高校の生徒は、皆無だ。すでに一年生にも、知れ渡っているだろう」

 目立つ、知られるということは、モテるということだ。佐羅谷の表現を使えば。佐羅谷が何を意図して、尖塔で深窓の令嬢を演じているのかは知らない。単に、人付き合いが苦手で孤高を気取りたいのなら、教室でも真似事はできる。そちらならば、今ほどには目立たなかったはずだ。

 ここまで全校生徒に目立つ行為を日常的に行って、意図はいかにや?

「全校生徒1000人、その1%に好かれるとして、十人。実際、深窓の令嬢を好きな男はそんな少数じゃないと思うが」

「そんなんじゃない」

 重ねて否定する。

「――全然、そういうことではないの」

「別に、いいんじゃねえの」

 何でそんな悲しげな表情なんだ。正直言って、こんな佐羅谷は見たくない。

 話は、終わりだ。

 俺はかぶりを振った、両手で落ち着くように空を抑えつけた。

 仮面をかぶるなら、中途半端な気持ちでかぶってはならない。かぶった仮面は、かぶり続けなければならない。人間は、仮面だ。本体は仮面であり、人間の中身なんてものは、偽物だ。頭の中身が聖人君子でも、行動が暴虐悪辣ならば、そいつはただの史上に残る愚王だ。

 ある人の性格や気持ちは、もっぱらその行動でしか判断されえないのだから、仮面はその人そのものだ。それがアイデンティティだ。自然な性格、自然な気持ちなんて、この世にはない。皆が自分の意志で自分の人格も性格も、多かれ少なかれ作り、いじり、修正し、表に出す。

 玉ねぎを剥いていった先にあるのが自分らしさではない。玉ねぎを剥いていっても、何も残らない。自分らしさは、内側ではなく外側にある。まだ皮を剥く前の、茶色い泥のついた玉ねぎが、本当の自分だ。他の玉ねぎと並べ、比較され、その差異がアイデンティティだ。

 仮面を脱ぐときは、人生をやり直すくらいの覚悟をしなければならない。俺は、そうしたんだ。

 そしてそれは、しかるべき人に、しかるべき時に行うべきだ。

 なし崩し的に、その場の雰囲気で、軽々しく仮面を外してはいけない。

 深窓の令嬢の仮面をかぶり、たくさんの人に見られ、知られるという立場を選んだのならば、それは完遂すべきことだ。

 すべて含めて、俺がどうこう嘴を挟むことではないのは、重々承知している。


「この二日で思ったことを言うと」

 沈んで動かなくなった空気に、俺は無理やり話題を変えた。

「恋愛相談部って、けっこう真面目に部活やってるんだな」

「恋愛研究会ね」

 静かに佐羅谷は訂正した。

「高校生にとって、家と学校と人間関係は世の中のほぼすべてでしょう。家と学校のことは、同じ高校生にはどうしようもないけれど、人間関係のことはわたしたちでも相談に応じることができる」

「そうだな。家庭事情で相談されても、子供同士ではどうしようもない。特に、経済的な問題なんて、俺は無力だ」

「だから、わたしたちは恋愛の相談を本気で受けるのよ。本当は人間関係でもよいのだけど、恋愛と銘打ったほうが相談しやすいでしょう。まあ、高校生の人間関係の悩みは、恋愛に帰結すると思うけど」

 さすがにそれは恋愛脳が過ぎると思いますよー。モテたいと言ってる俺に発言権はないけど。

「恋愛相談って言うとさ、女子のコイバナトークみたいな、見たことないし聞いたこともないけどさ、こう、しゃべり方を真似するのも気恥ずかしい会話が繰り広げられるものかと思っていた」

「ご希望なら、女子コイバナトーク風恋愛相談モードに切り替えるけど?」

「できないだろ?」

「できないわ」

 佐羅谷の調子が少し戻ったようだ。

 女子のコイバナトークなんて、ドラマやアニメでしか見たことがないが、ああいうのはだいたい童貞の妄想だと、彼女いない歴=年齢の仁和丸おじさん(40)が言っていた。

「実際の女子は、そういう話をするのかね」

「それをわたしに聞くのかしら」

「女子はここにいる」

「確かに、身体的にも精神的にも遺伝子的にもわたしは女子だけど」

 おまえが男なら、俺はちょっと生まれる世界を間違えた気がする。

「コイバナトークにも、よそ行きと内輪があってね。詳細は省くけど、余所行きのトークは、見せるためのもの。周囲とか、男の子にね。聞かせること聞こえることが前提の、ポジショントークね。そういう話を、教室なりファミレスなりでできるわたしたち、という自分たちの集団の個性の表現というの? 女子高生というアイコン、コイバナをしているという演技、自己表現に近いものなのかな。どちらにしろ、階級に分断される高校生の恋愛は、すべてがままならない、あるいは事実上決まった相手とつながるまでの演出だから。そんなものに、何の意味もないのだけれどもね」

 くすくすと口に手を当てるさまは、清く正しい佐羅谷の姿だ。本格的に調子が戻ったようだ。

「内輪のほうは?」

「内輪のほうは、狩りの下準備と獲物の愚痴かな。聞きたい?」

「もしかして、究極の選択を迫られている? それは聞かないほうが賢明な気がする。しかし、知りたくないわけではない」

「覚悟ができたら、話してあげてもいいわ。別に、聞いて気持ちの良いものではないでしょう」

 よくよく考えると、男子のコイバナに近いような気もする。女子には原則として公開しないほうの話だ。お互い知らないほうが幸せな事実もある。どうしようもなくえげつない真実は、知らないまま墓まで持っていったほうが良い。お釈迦様の手のひらの上をクルクルと回る現実よりも、筋斗雲に乗って自由意志で飛び回っていると思ったほうが良い。

 露呈しない嘘は真実だ。騙し抜いた世界は本物だ。

「もしかしたら、俺は永遠に覚悟ができないかもしれないな」

「臆病なのね。いつまでも甘々で現実を見ず、夢ばかり追いかけて大きいことを語りたがる、これだから男は」

「それを男が言うとセクハラになるんですよねー」

 だから、心の中で、これだから女は、と毒づく。

「だいたい、夢も語れない男は存在価値もないだろうよ」

「その夢が小粒すぎて話にならないのよ」

「……俺の本当の夢はな」

 低く、低く。声を冷たくして、我に返る。

 佐羅谷が怪訝な顔をする。少し怯えている。適当ばかりの俺が、怒声を上げかけたからか。失敗した。いくら強そうなフリをしていても、佐羅谷はあくまで小柄で華奢な少女だ。一対一の密室で、男の怒気に当てられたら震えもしよう。

「あー、まあ、モテたいっていうのは小粒かもしれないが」

 俺の夢を語るのは、もう少し経ってからでいい。今はまだその時ではない。

「だが、一つ否定しておく。男が夢想家で、女が現実家っていうのは、嘘だ。世間一般では浸透した見方だが、あまりにも女性優遇の見方だ。だいたい、女は現実を見ているのに、男はねぇ、とすぐに男を貶める文脈で使われるのが気に食わない」

「その心は?」

「男は未来を見ている。女は今しか見ていない」

「聞いてあげるわ」

「女が見ていると思っている現実は、今だ。現実ではない。だから、女の発言、提案は今にしか役に立たない。今が永遠に続くと思って、自分の意見を組み上げる。これは俺のおじさんの山田仁和丸(40)の話なんだが」

「だから誰よ、その人」

「仁和丸おじさんはチビデブハゲ三拍子揃ったキモオタヒキニートワープア……」

「ああ、もうわかったからその説明はいらないから、その設定でいいわ」

 設定ってなんだよ。設定じゃねえよ。

「例えば、仁和丸おじさんは小さい頃から母親に、いい高校に入って、いい大学に入って、いい会社に就職しなさいと言われて育てられてきた。時はバブル崩壊後まもなく、一応そんな神話が通用していた最後の時代だ。仁和丸おじさんはそこそこがんばった。だが、彼が大学を出る頃には、そこそこでは通じない時代になった。いい大学に入っても、いい会社に就職できなかった。そもそもいい会社がなくなる時代だ。いい大学の最上位の学生でもまともに就職できなかった。某有名企業の社長は、入社式に言ったそうだ。本当に欲しかった学生は、ここにはいないってな。たかが大学生に何を求めてるんだか。

 親に金があるやつは大学院へ逃げ、その他大勢は非正規雇用や家事手伝い。なんとか正社員になってもゴミクソ企業の理不尽ノルマで、家族親族にものを売りつけ終わったら、鬱病にさせて、賠償させてから即解雇。もちろん親の言うとおりにしかしなかった仁和丸おじさんにも問題があるだろうが、もう少し親の助言が本当に現実を見ていたら、仁和丸おじさんの今は変わっていたんじゃないかと思う。今は続かないんだ。今は変化するんだ。そんな単純な事実を、現実を見ているはずの女が、気づかなかったんだ」

「なんだか、お気の毒」

「同情するなら金をくれ」

「あなたの話じゃないでしょ」

「そうでした。つい、仁和丸おじさんに感情移入を」

 役に立つとか、稼ぎに直結するとか、実利だけがすべてではないと思うが、衣食足りて礼節を知るという。最低限の生活さえままならないと、人間は人間ではいられない。獣になる。

 そんなときに思うのだ。小さいときにさせられた習い事は、ほとんど意味がなかったと。そろばんも書道もスイミングも野球も空手も、まったく無駄であると知る。そう、親が役に立つと思ってさせる習い事は、親が子供の時代にしか通用しなかったのだ。そうやって、無駄な習い事は時代ごとに再生産されていく。例えば、プログラミングなど、役に立たない習い事の筆頭だ。考えたらすぐわかるのにね! ITなんて、電話交換手やタイピストと同じレベルだ。きっと今プログラミングを習わされている少年少女は、大人になって親を恨むことだろう。

「女はね、どうしても妊娠や出産で動けなくなるから。だから、今がずっと続くと考えて、行動せざるを得ないんだよ。そこは、ちょっとだけ、わかってほしいかな。確かに、現実を見ているという言い方がおかしいのかもしれないわね」

「えらくしおらしいな」

「言い争うより、認めてあげたほうが溜飲が下がるでしょう」

「一言が余計だよちくしょう」

 どのみち、俺の話ではなく、仁和丸おじさんの話だ。

 俺は習い事もしていないし、いい大学やいい会社という強迫観念もない。強者は生まれながらに強者で、努力で世界は変わらないことも知っている。何しろここは奈良県、封建社会が息づく、修羅の国。

 全部を、潔癖に、完璧に、思い通りに整えようとするから、たった一欠片の破綻で、世界を憾んでしまうのだ。心の底から得たいもの、絶対に守りたいもの、たった一つだけを大切に抱え、他は適度に諦める。そうやって、世界を許していくしかないのだ。世界と和解できるだなんて思っちゃいない。世界と和解する気もない。

 俺には夢がある。その夢がある限り、前を向いていられる。


 それから、球技大会まで二週間。

 俺はほどほどに橿原の四条町にある古いバッティングセンターに通った。さすがに毎日通えるほど、小遣いに余裕があるわけではない。家の夕飯の財布を任されてはいるが、余分な出費を抜くのは心苦しい。

 ネットでバッティングの基礎や練習動画を眺め、イメージトレーニングと実際にバッティングセンターでの練習を重ねると、来るとわかっているボールはわりと打てるようになった。時速80kmから始まって、100kmくらいまでは前に飛ばせるようになった。

 そのあいだも、クラスの様子は窓際で観察していた。一週間も経つと、初日からいなかった俺のことを誰も気にした様子はなく、普通にクラスの人間と認識されるようになったようだ。

 特に、昼休みには必ずグラウンド側の窓側の席へ行き、尖塔を眺めながら弁当を食べる。たまたま最初に話しかけてきた男、山崎としゃべるのが日課になっていた。山崎は噂好きな男で、しかも話したがりなので、放っておいても情報が集まるのがありがたかった。

 そして、俺のことはどうやら、深窓の令嬢が好きなその他大勢と認識しているらしい。まあ、今は目立たないように地味に徹しているから、間違った分析でもないか。とりあえずは深窓の令嬢に興味がある男として、キャラを立てていくと話の取っ掛かりになるので便利だ。

「九頭川は球技大会どうするって?」

「俺はソフトボールで。バスケやらバレーやら、動き回るのは疲れるから。山崎はどう思う? このクラスのソフトボールなら、手を抜けそうか?」

「ぬるいんじゃねえの?」

 山崎は教室の面々を一瞥する。

「うるさい奴らはバスケとバレーに行っちまったし、野球部男子3人は勝負よりも遊び倒す感覚みたいだし、我ら手抜き組には助かる」

「野球部が本気出したら、俺らにはどうしようもないよな」

「野球部員は球技大会ではピッチャーもできないがな。我など、場合によっては一度もボールに触れない自信があるぜ」

「ソフトボール(哲学)みたいになってるな。あ、すまん、ちょっとお茶買ってくるわ」

 今日はいつもの水筒を忘れた。あまり無駄遣いはしたくないが、さすがにお茶なしはつらい。

 綾鷹の500mlをぶら下げて教室に戻ると、山崎が無駄にテンション高く大げさな動きで俺を手招きする。なんだよ、恥ずかしい。友達みたいじゃねえか。

「見ろ、一ヶ月に一度のイベントだ」

 なんだそれ、粗大ごみの日か? 自治会のゴミ収集所までの往復がけっこう地味に堪えるんだよな。アマゾンのダンボールが多すぎて、持っていくのが億劫になるんだぜ。簡易包装の紙袋や定形外が楽でいい。

 上気した顔で、鼻を大きくしながら、山崎は尖塔を指さす。

 昼を食べ終わって読書に勤しんでいた深窓の令嬢、佐羅谷あまねの前に、男子生徒が立っていた。

「これははもしかして……」

「ああ、我が調査によると、深窓の令嬢は一ヶ月に一回の割合で、誰かしらの告白を受けている。これが2年になって初めての告白だ」

 こいつどれだけ暇人なの。

 それにしても、佐羅谷が美人なのはわかっていたが、告白される回数も尋常ではないな。

「あんなに見るからにガードの硬い女に、よく告白しようっていう気になるな」

「実際、深窓の令嬢が誰かと付き合ったという噂はない」

「この衆人環視で告白しようっていう勇気はすげえけどな」

 俺は純粋に感心する。

 告白は、一年分の精神力を使い尽くすくらい消耗する。経験者は語る。まあ、一ヶ月のうちに同じ相手に二回告白している俺なんだけどね! だが俺の場合は、誰もいないところに呼び出してのことだ。フラれることはほぼわかっていたが、可能性はあったと思う。露ほどの。

「絶対にフラれるからこそ、告白しやすいという説もある」

 山崎は眼鏡の橋をクイッと押し上げた。その仕草、現実世界で初めて見たわ。二次元にしかない仕草だと思っていた。ついでに光の加減でレンズが反射するあたり、こいつもなかなか演技派だな。

「その意図やいかに?」

「必ずフラれるならば、フラれることは恥ずかしくないし、むしろ勇気を持って告白したことを周囲は好意的に受け入れるだろう。勇気ある男として、今後の評判を上げることにもつながる。お誂向きに、相手は目立つところにいて、しかも有名人だ。自分の行動は誰からも見てもらえる」

「だが、せっかく評判を上げても、すぐ他に告白したら、移り気なやつと思われないか?」

「だからこその、4月の告白よ」

「……なるほど、さっさとフラれておいて、立ち直って新しい恋を見つけたというシナリオで、本命に告白するわけか」

「さよう。お、男の告白が終わったようだな。時間は、2分ほどか」

「なにそれ、おまえ時間測ってるの?」

「深窓の令嬢研究家たる我の調査によると、尖塔にて告白する男は短くて2分、長くて5分を費やし、愛を語る。そして、見よ、今にかぶりを振って彼女は立ち上がる」

 山崎のことばの通り、佐羅谷は立ち上がった。さすがに表情までは窺えないが。

「そら来た。そして、彼女はこう言う。勇気を出して告白してくれてありがとう。でも、わたしは誰も好きにならないの、と。そして、優雅に頭を下げる」

 山崎が気持ち悪い声真似で、女ことばをしゃべる。俺は佐羅谷の口調や声をよく知っているからわかるが、こいつはまったく関わったことさえないはず。当然、似ていない。

 しかし、動作は完璧だった。山崎の言うように、定形の動きをして、あとは告白した男などいないかのように、また読んでいた本に向かう。男はしばらく突っ立っていたが、肩を落として尖塔から消えた。

「山崎、ちょっと尊敬するわ。気持ち悪さを。気持ち悪さを」

「2回も言わなくても良いぞ、九頭川。我の令嬢研究の成果の価値を知れば、気持ち悪さなど些末なことよ」

「その断りのセリフ、どこで調べたよ?」

「告白した男や、近しい者などからの又聞きだ。どうやら、一言一句同じように返すらしいぞ」

 山崎の調査は信じても良さそうだった。

 だが、少々解せない断りのことばだという気がした。告白を断るのも精神力を喰うものだ。佐羅谷なら、本心はどうあれ、告白され断ることも前提で、あの場所にいるとは思う。つまり、断るためのセリフも、事前に用意した緻密な計算された文面であるはずだ。その文面が、今ひとつ歯切れの悪い言い回しなのが気に入らない。

「おかしいと思わないか、なんで、わたしは誰も好きにならないの、なんだ? 普通、こういうときには、誰とも付き合う気はないの、とか、好きになる気はないの、というんじゃないか?」

「む、そう言われてみれば、そうだな。九頭川もなかなか鋭いな。深窓の令嬢研究会に入るか?」

「そういうのいいから」

 好きにならないの、とは断りというより、己の決意表明に聞こえる。事実を述べているというより、こう在りたいと希望しているような言い回しだ。逆じゃないのか。「好きにならない」は、好きになりそう、だ。

 佐羅谷のことばを借りれば、好きだから恋人になるのではなく、恋人になったから好きになるのだ。告白を受け入れ、付き合うことになると、好きになってしまう。それを嫌がっているように聞こえる。自分は恋愛相談に応じるくせに、自分が恋愛の対象になるのは嫌なのか。恋人など誰でも良いと言ったのは誰だ。どこか、卑怯な印象を受ける。

「嫌な感じだな」

「まことに。あれだけ全校生徒の気を惹いておきながら、一切男を寄せ付けないのだからな」

 山崎の返事は俺の感想とは別の出どころだったが、訂正するのも面倒だったので、そのままにした。何か胸の中のもやもやが解きほぐせなかった。この日、俺は理科実験室にも、バッティングセンターにも行かなかった。

 高田市駅前の近商で夕飯の具材を買った後は、家のガレージでバットの素振りをしていた。親父の部屋に転がっていた木のバットを、俺は子供のころ使っていた記憶はない。親父のだろうか。ユーチューブの、元プロ野球選手のバッティング入門という動画で、付け焼き刃で打てる方法、とかそんな手抜き動画を漁り、ひたすら練習する。

 バットを短く持つ、振りかぶりは最小限に、しっかりとボールを見る、基本の基本だ。

 無心でバットを振り続ける。

 結局、親父の車のライトに照らされるまで、俺は時の経つもの忘れて、バットを振り続けていた。少しだけ、打てるような気がした。


 球技大会前日。

 最後の放課後。

 俺の足は無意識に理科実験室に向いていた。恋愛相談中だからな、恋愛相談部の部屋へ行くのは仕方がない。そうだ、そうに違いない。

 誰にするでもない言い訳を内心でひとりごちると、理科実験室の方から人が出てくるのが見えた。珍しい。俺以外の人間を恋愛研究会に出入りするのを見るのは、初めてだった。

 長い黒髪が目を惹く。長い髪に負けない長身痩躯。切れ長の涼しげな目元。弓道の似合いそうな女子だった。整った顔立ちは、美人ではあるが凛々しいという形容が最もふさわしい気がした。

 もちろん、知り合いの少ない俺の脳内名簿にない人物だった。

 通り過ぎる際、軽く会釈する。

 その女子も同じくした。

「あ、もしかして」

 通り過ぎてから、声がかかった。

「君が、いま恋愛相談を受けている人?」

「それがどうか?」

 胡乱な声が出る。

 おいおい、個人情報はどうなっている。俺のチンケな情報はともかく、恋愛相談中というセンシティブな事実を晒すのはいかが。佐羅谷は、そういう点はしっかりしていると思っていたのに。

「ああ、勘違いしないで。佐羅谷が君について何かを言ったわけではないよ。彼女は、いま一つ案件を抱えている、としか言わなかったから」

 俺の不審を感じ取ったように慌てて付け加えた。

「私は沼田原依莉。三年二組。生徒会長なんだけど、知らないかな?」

「俺は選挙に行かない若者なんで」

「ダメだぞ、今は十八から投票権があるんだ。きちんと自分で考えられるように、生徒会で模擬訓練をしておかないと」

 なぜ廊下で生徒会長に絡まれるのだろう。理科実験室から出てきたということは、もしかして。

「生徒会長も、恋する乙女ですか」

「春も夜も短いからね」

「そうですね。魔法使いも大賢者もあっという間です」

「君はよくわからない対話をするね。ええと、名前は?」

「九頭川輔です。二年になりました」

「よしじゃあ、九頭川くん。もう一つ教えてあげよう。私は、恋愛研究会の元部長なんだよ」

「……へえ」

「ちょっといい目をしたね。それが、素かな」

「自分の目なんか、スマホ画面が真っ暗になった時しか見ませんよ」

 スマホ画面が暗くなった時に映る、あの気色悪い顔は一体誰なんだろうな。鏡に知らないおじさんの顔が映ると言っていた漫画家がいたが、その人を笑えないな!

 恋愛研究会の元部長。佐羅谷を一年以上見てきた人。生徒会長になるような人。三年生になったばかりで、もう引退したというのだろうか。

「そういう対応か、なるほど、なるほど」

「なんですか」

 顎に手を当てて、矯めつ眇めつ俺を足下から頭の天辺まで繰り返し往復する視線。細く鋭いアーモンド型の目が、黒に埋まる。

「先ほど見た佐羅谷は、一年間見てきた佐羅谷とずいぶん違っていたんだ」

「一年も経てば、性格も思考も変化するでしょうよ」

 沼田原先輩は、なかなか俺を解放してくれない。話を切り上げても良いが、鉤爪を背に打ち込まれたかのように、逃げられない。

「一年経って変わらなかったものが、二年になっていきなり変わっていたんだ。その間に佐羅谷に起こった出来事は? 考えられるのは、一つ」

「部長になって、責任感でも出たんですかね。あるいは、沼田原先輩がいなくなって、羽を伸ばしたんでしょうかね」

「君は河原でつぶてを売る商人かい? あくまで路傍の石を気取ると」

「路傍に石は貴重ですからね。十津川のように落石が多くないのが高田です。俺は落石にもなれない存在ですよ」

「ひねくれ禁止の校則が必要だな」

「憲法に反する校則は違憲です」

「佐羅谷は、部長でなくとも責任感はあるし、私がいても羽は伸ばすよ」

 では、どうして佐羅谷がこの短期間で変わった(ように感じる)のだろう。とんと思いつかないね。

「恋愛研究会は、私たちの聖域だ。維持には、何かしら象徴的なアイコンが必要だ。例えば、深窓の令嬢のように、ね。ただの奥手で泣き虫の文学少女は要らない」

 銃のように指を伸ばした手で、俺の胸を軽く打つ。

 同じ視線の高さ。女子にしては長身だ。

「どうか、君、佐羅谷あまねを、巻き込まないでくれ。君は、今までの相談者とは、ちょっと違うみたいだから」

「巻き込むに主体も客体もないでしょう。互いに同罪ですよ」

「それなら、己の罪を数えなさい。警告はしたよ?」

 凄絶な笑みを浮かべ、沼田原先輩は髪をなびかせ、歩き去った。

 結局、何が言いたかったのだろう。

 俺の罪? 生きていることが罪ならば、ひとり俺だけの罪とは言えまい。その罪は、西暦元年生まれのヒゲでソバージュ頭の木こりの倅が償ったはずだ。

 違う、わからないフリをしても仕方がない。罪だのなんだの、そんなもの、婉曲なことば遊びだ。

 佐羅谷と関わるな。

 ようは、それだけが言いたかったのだ。

「それはできない相談だ」

 虚空につぶやく。

 知ってしまったのだから。

 佐羅谷あまねを、深窓の令嬢たらしめる所以を。だったら俺のすべきことは、もう決まっているじゃないか。もっとも、まずは球技大会で成功を収めてからなのだが。


「いよいよ明日ね、バットとはお友達になれた?」

「佐羅谷に対するのと同じくらいには親しくなったつもりだ」

「え、ダメじゃない」

「真顔で言われるとちょっと傷つくわー、ちょうきずつくわー」

「冗談よ」

「冗談がわかりにくいんですよ」

 球技大会前の最終日、また理科実験室の恋愛相談部に顔を出した。いつ来ても相変わらず佐羅谷一人で、ビーカーコーヒーを振る舞って、雑談に応じてくれる。このビーカーコーヒー、最近は売り物になるのではないかと画策している。

 深窓の令嬢(美少女)が理科実験室で淹れたビーカーコーヒー、これは一種の付加価値だ、ただのインスタントコーヒーではない。メイドカフェでメイドさんがかけるおいしくなる魔法と同じように、青春やラブコメをこじらせた中年男性には、訴えかけるものがある気がする。あなたの体験できなかった、甘酸っぱい思い出を体験しませんか? とかをキャッチコピーに。巫女の口噛み酒程度には売れるのでは。

 さりとて、どこでどう売り出せば良いものかは思いつかないので、実行はできない。

「クラスを見る限り、勝ち負けに執着するメンバーはいないみたいだ」

「じゃあ、目立つのは簡単でしょう。野球部の人がそこそこ活躍するなか、得点打でも出せたらいいんじゃない? もちろん、ホームランでもデッドボールでもいいけど」

「痛いのは嫌だな」

「バッタースタンドで外野にバットを向けて、かっこよくデッドボール」

「二重の意味で痛いな」

 初期の出会いの頃に比べると、佐羅谷はあまり話さなくなった。短くいくらかことばを交わすと、すぐ黙ってしまう。もう俺の恋愛相談にできることはほとんどなく、助言しようがないということだろう。

 俺も別に会話を途切れさせるのが怖いとか沈黙が恐ろしいということもなく、ときどき聞こえてくるグラウンドの運動部の喧騒に、聞くとはなしに耳を澄ませる。

 俺がいる限り他の相談者は入ってこないが、佐羅谷はことさらに俺を追い出そうとしなかった。ビーカーのコーヒーが空っぽになっても、読み差しの本に手を伸ばすでもなく、会話の糸口を探るでもなく、ぬくぬくと春の陽気に当てられて暖かくなる理科実験室で、ただ、一人と一人が同じ空間に座っていた。

 沈黙が苦痛ではなかった。

 相手の顔を見ることはできなかった。視線が交錯すると、気まずくなるだろうから。ぼうっと窓の外を見たり、足元や横のカバンを見るふりをしながら、ときどき佐羅谷を盗み見る。佐羅谷はいつも、ほとんど動いている気配がなかった。こいつ、寝てるんじゃね?

 だが、俺が今日は帰るわ、と立ち上がると、いつもの深窓の令嬢の笑顔で「お疲れさま、またね」と思わせぶりなことを言うのだ。何が、またね、なのか。俺は山崎のように深窓の令嬢研究家ではないから、恋愛相談中の相手に対する佐羅谷の対応を知らない。またね、に深い意図はないのか、ただの挨拶なのか、口癖なのか、社交辞令なのか、あるいは恋愛相談中の相手にだけ発する定型句なのか。数回の「またね」を受けて、俺は結局わけもなく訪問している。何かしら理由はつけているが。

 理由、そうだ、理由だ。

 俺と佐羅谷は、理由がなければ会えない関係なのだ。クラスが同じでもなく、友達でもなく、相談者と被相談者。この壁は大きい。ここ理科実験室では黒の緞帳の内側にいて話ができるが、それだけだ。

 今ほんの数メートル先にいる佐羅谷が、とてつもなく遠い。

 その距離を、なぜその距離をもどかしく思うのだろう。なぜ俺はこんなことで心を千々にかき乱されなければならないのだろう。

「モテる、ようになるのかね」

 違う、こんなことが言いたいんじゃない。

「なるでしょう。目立てばね」

「違う、そうじゃない」

「急に歌わないで」

「違う、そうじゃない」

 急にネタを挟まないで。

「この前、二年になって初めて告白されてたな」

「わたしは、目立つからね」

「わざと目立ってるんだよな」

 目立たない方法はいくらでもある、というか、目立つほうが難しい。たとえたかが一高校内の話だとしても、全校生徒にまで知られるというのは、生半可なことではない。通常なら、生徒会長とか学内芸能人いるとしたらくらいにしか得られない地位だ。まあ俺くらいになると、生徒会長も知らなかったけどな。沼田原依莉。覚えた。黒髪ストレートの長身は、否応なく印象に残る。

 深窓の令嬢としての振る舞いは、友達がいないことのカモフラージュかとも思ったが、それにしては行き過ぎだ。むしろ有名になりすぎて、知り合いも増えていくだろう。もっとも、恋愛研究会の部長としての狙いは、図らずも達成できている。それが、佐羅谷あまねの意思ならば、だ。

「なぜ、こんなことをするんだ?」

「ここは、わたしがあなたの相談に乗る場所よ。あなたが尋ねてよい場所ではないわ」

「友達としての世間話だ」

「友達になんて、なった覚えはないけれど?」

「それは友達にしか言えない返しだぜ」

 佐羅谷は押し黙る。

 俺と佐羅谷が友達でないのは、俺がよく知っている。話をする時しか相手のことをちゃんと見られないのだ。こんな友達はいない。

「モテたいわけでもないのにモテようとするのは、卑怯だよな」

 こんな美少女が、あの尖塔で、深窓の令嬢を気取り、一定数の男子が惹かれないわけがない。これだけなら高嶺の花を追いかける哀れな男子が増えるだけだが、結果として、好意が届かない男子が一定数現れ、その男子に好意を抱いていた一定数の女子も、思いを叶えられないことになる。佐羅谷の存在が、結ばれる可能性のあったいくつかの恋愛を破壊しているのだ。

 もちろん、他意なく無意識での深窓の令嬢の演技ならば、俺も引っかかりはしなかった。しかし、佐羅谷は間違いなく理解したうえでやっている。目立つことはモテることと知り、そして、自分が人目を惹く美人であることを知っている。さらに恋愛の仕組みを分かったうえで、人の恋愛をつぶしにかかる。

 そして、みずからは他人の好意を受け入れない。受け入れるはずがない。佐羅谷はただ、深窓の令嬢であることを強いられているのだから。だが、そんな裏事情は周囲にはわからない。

 形だけを見ると、モテたくないのに、モテようとする卑怯。

 その演技は、しかも巧みだ。

「卑怯なのは、あなたも同じでしょう」

「どういうことだ」

「男子高校生なんて、彼女がほしいだの恋人が欲しいだの女の子と付き合いたいだの、全部の行動がそのためじゃない。すきあらば、あわよくば、やらしいことをしようと考えている」

 どちらかと言うと、彼女が欲しいとか付き合いたいとかは表向きで、本心はむしろ「やらしいこと」だという気もするが、黙っておく。

「女だったら、誰でもいいんでしょ? 朝礼でも体育でも、女子がいっぱい集まっているのを見ては、誰か一人くらい付き合ってくれないかな、とゲスな妄想を繰り広げるのが男子」

「そうだな。妄想するくらいは許されるだろ? 心の中の姦淫を咎めるのは、2000年前の教祖様くらいだ」

「上位三割の恋愛は狩りだと言ったけれど、下位七割の恋愛は、ただの組み合わせ。空いたレジに吸い込まれるように、ただ機械的に組み合わさるだけ。好きになってくれた人を好きになる茶番劇」

 ああ、この斜に構えて憂鬱に呟くのは、まさしく佐羅谷だ。シックなドレスでバーのカウンターに居座っていても似合いそうだ。ただし十年後に。

「今のところ、俺が卑怯だという理由は出てないよな?」

「だって、九頭川くん、本気でモテたいと思っていないでしょ?」

「おまえは男子高校生の劣情を軽く見過ぎだ」

 ひさびさに、おまえと言って凄んでしまった。

 佐羅谷は眉をひそめた。

 理科実験室の出入口は二つあるが、どちらも遠い。施錠はしていないが、佐羅谷が出るには俺の横を通り過ぎるしかない。周囲の他の教室は、どこの部活も使っていない。しかも、わりと袋小路だ。

 だいたい、小柄で細身の本ばかり読んでいる佐羅谷が、普通体型で何かしら運動している俺から逃げられようはずはない。昨日は何時間素振りをしても、筋肉痛にならなかった程度にスポーツマンだ。

 今は妙齢になったあの女性作家も言っていた。普段はバカばっか言いあっていた男子に組み伏せられた時、自分と変わらないような細腕でこんなに強い力があるのかと驚いた、と。男はそういう時に馬鹿力が出るんだ。知らんけど。

「何も起こらないよ」

「俺も大脳辺縁系を持つ霊長類だからな」

「少なくとも、今の九頭川くんはわたしにどうこうする可能性はないよ」

 佐羅谷の真っ直ぐな視線を感じて、俺は面を上げる。

「モテたい、が嘘なんだよね、おそらく。完全な嘘ではないかもしれないけれど。だから、その本心を打ち明けることなくここへ来て、相談して、ずっと何も言ってくれないのが、あなたの卑怯」

 やはり、わかっているのか。

 同じ高校生とはいえ、一年間恋愛相談を受けていた佐羅谷の見る目は蔑ろにできない。ただでさえ人の気持ちを解析する部活だ。嘘と誠を見抜くのも、朝飯前ということか。

「そして、わたしの卑怯は、九頭川くんの見る限り、誰の思いも受け取らないこと、ということかしら?」

「恋人なんて、誰でもいいんだろう?」

「他人の恋人なんて、誰でもいいわ」

 恋愛相談部の部長にあるまじき発言に、思わず、大笑する。

「なんだよそれ。やっぱりおま……佐羅谷は面白いな」

「面白がってもらえたところで、今日はお開きよ。明日、がんばってね。わたしはがんばらないから」

「やっぱり卑怯だよ」

 卑怯だ。

 こんなに面白いやつから、離れられるわけがない。卑怯なのはわかっているが、すべてどうでもよく思われるくらいに、俺はこの空間が好きになっていた。だが、この空間が俺にとって気安いものであるのは、今日までだ。明日で当面の相談は終わり、俺と佐羅谷はただのクラスも違う同級生に戻る。

 戻るんだな。

 カバンをつかんで、理科準備室を出ようとする。俺と佐羅谷は、一緒に部屋を出ることもない。佐羅谷が今どこに住んでいるのか、どうやって通学しているのかも知らない。

 後ろで黒の緞帳を片付ける音がする。扉を開ける寸前だった。

「日本の強姦罪は罰則が緩いんだよ」

 突然の突拍子もない話に、俺は素で、はあ? と大声を上げた。

「昔から強姦は、近い関係の男女で起きることが多かったからだと言われているけどね。近い関係なのだから、仕方がないでしょ、あなたに隙があったんでしょ、みたいな」

「おまえ、自分が何を言っているかわかってるか?」

「だから大丈夫、わたしと九頭川くんのあいだでは、ね」

 そうか、そうやって牽制するのか。

 初日に見たのとは違う、同じ逆光でも作った笑顔。これが、佐羅谷の仮面か。他のすべての人間が見る佐羅谷の笑顔か。

 美しいけれど、どこか儚くもの悲しい。

 やはり、卑怯だ。

 その日、悶々としてほとんど寝られなかった。ああ、今日は球技大会本番だというのに、二時間しか寝てないわー、つらいわー。まあちょっとまぶたが重くて目つきが悪い方が、多少はね? 目立つかもしれないが。


 ぬるい空気の中、粛々と球技大会は進んでいた。

 バレーやバスケは、全校生徒レベルで盛り上がっているらしい。多分今年も谷垣内が活躍して、株を上げ、新一年生にも一定数のファンを作ることだろう。そちらの方は、わりと早くにゲームが終わっていくようだった。

 一方のソフトボールは、やる気のない野球部の練習のようだ。きっと、やる気のない奴らが集まったクラスが多いのだろう。おかげで、一応野球部員が三人いて、普通に動いている俺たち二年一組は決勝まで残ってしまった。俺はほとんど活躍していないが、役立たずでもなかった。ボールは前に飛ぶし、二打席に一度は塁に出られた。あまつさえ、やる気のない山崎に、指名打者扱いされて余計に打席に立つ始末。やめてくれよ、目立つじゃないか。ああ、目立ったほうがいいのか、とも思ったが、誰も俺には期待していませんでしたね、そうでした。

 決勝ともなると、手持ち無沙汰な生徒が増えて、まだゲームの続いているソフトボールにも観客が集まってくる。これは好機。

 それにしても、女子のワイワイガヤガヤは、全くもって白々しいやら軽々しいやら、嫌になってくるね。一年の時はそんなミーハーな女とも普通に接していた自分を褒めてあげたい。

 だいたい何だ、おまえら昨日まで野球部の男子のことを疎んじていただろうが。

「こんなにイケてると思わなかった!」

「だよねー!」

「ヤバいよね!」

「ほんと、真剣になってるの尊い!」

 ベンチの後ろの方で、ひたすら女子がうるさい。ほんと、一瞬で手のひら返すんだから、嫌になっちゃうわ。これだから女は。何が尊いのよ。尊氏かしら。

 思わずおねえ言葉になる。しかし、普段と違うクラスメイトの姿にギャップを感じ、別な側面に惹かれるというのはありうることだ。

 誰から見ても好かれる全て揃ったイケメン氏は、当然に競争が起こり、自分が近づいたり、ましてや彼女になることなど、不可能に近い。佐羅谷のことばで言うと、トップと付き合えるのはトップだけ。だから、ソフトボールを見学している女子全員がワーキャー騒いでいるかというとそんなことはなく、真ん中程度の存在の女子群だった。

 今ここで活躍している野球部員三名は、表に出なかった男子だ。少なくとも、女子の彼氏候補に入っていなかったという意味で。だから、競合が少ない。狙って、落とせる可能性が高い存在として、認知され始めたのだ。

 もとより、トップの女子はそんな中途半端な男は選ばない。もっと目に見えてわかるアイコニックな男にしか興味がない。中身を見なければわからない魅力など、所詮二流だ。

 野球部などというと、汗臭いしガサツだし、今どき坊主頭で、俺様で強引な奴が多い。声も大きくて、つるみたがるから態度も存在感も大きい。女子からはおよそ否定的な評価が大勢を占めるが、ひとたび実地での活躍を見ると、評価は180度転換する。汗臭いは真面目に練習するに、ガサツは細かいことは気にしないに、坊主頭は愛嬌があるに、俺様で強引なところはリードしてくれる、決断力があるに、声の大きさは元気がよくに、態度や存在の大きさは頼りがいがあるに変わる。本当に人の評価なんて、玉虫色だ。

 しかし、野球部員も役者だ。遊びだからこそ、ただのプレーをあえてファインプレーに見せる余裕があるのだろう。女子どもは気づいていないだろうが、どう考えても必要ない動作が多い。例えば野球部員ショートの内野ゴロ捕球後の一回転は要らないよね? 野球部員セカンドのセンター近くまで下がってのジャンピングキャッチも要らないよね? 

 騙し騙され、皆が皆、自分のいい格好を見せたがる。そして一番の道化は、多分俺だ。

 誰にも期待されないまま、俺はバッターボックスに入る。露骨に漂う、あいつ誰? という空気。自己紹介してないからね、君たちが知らなくても仕方ないね。俺も君たちのこと知らないし。すべて、始業式初日からしばらくいなかった俺のせいですね。

 試合は、今のところ一対一で膠着している。ランナーは三塁に一人。ワンアウト。ちょっと「エエカッコ」できそうな場面だ。すでに4回裏。5回までしかない球技大会では、俺の打順は最後だろう。ここで、一発決めるしかないな。ごめんね諸君、こんな見せ場が俺の打順で。

 相手ピッチャー、さすがに適当なゲームといえど優勝のほまれが見えてきたことで、ちょっと本気になってきたようだ。一球目、外角低め、ギリギリストライク。素人相手にやってくれる。

 思い出せ、連日の素振りを。

 バットを短く、振りかぶらずに叩きつけるだけのスイング。

 大きく深呼吸。

 ピッチャーが構える。

 ひゅっと飛び出すボール。

 タイミングはぴったりだ、と左足を上げたところに、

(山なりのスローボールだと?)

 対応できない。

 素直に空振りすればいいものを、ついつい粘ってしまう。ほうっておけば、ただのボールだったのに。ホームベースに落ちてくるボールを、すくい上げるように打ち上げる。そのまま、仰向けに転倒する。したたかに肩甲骨を地面にぶつけた。

 ファールなら、俺のモテモテ大作戦(仮称)が終わってしまう。

 バットを手放し、平衡感覚を失いながら、よろよろ立ち上がる。

「ボールは?」

 周りが何か叫んでいる。

 山崎の顔が見えた。上を指差している。

 そして、つられて上を見た瞬間、顔面に強烈な激痛、

「ゴブッ」

 俺はファンタジーのザコキャラっぽい声を上げ、そのまま再び仰向けに倒れた。今度は後頭部も強打した。鼻と舌に鉄の味。頭の横に、憎っくきソフトボールが転がっていた。

「は、鼻血!」

 姦しかった女子の慌てた声が聞こえる。

 憐れまないで、むしろ嗤ってくれ。

 あー、少し朦朧とする意識の中で、これは成功なのかな、と思った。少なくとも、佐羅谷に顔向けできる程度には助言内容に応じた成果を出せたんじゃないか?

 これはあれだ、昭和のアニメやマンガのオチみたいに、お約束をやれということだな。

 俺は声にならない声を絞り出した。

「もうモテモテ大作戦なんてコリゴリだよ~!」

 どっとはらい。おっとこれは昔話か。

 おあとがよろしいようで。


「どうして、佐羅谷が保健室にいるんだ」

 鼻血が落ち着いたところで、俺は自発的に保健室へやってきた。

 山崎が付き添おうとしたが、男に付き添われて保健室へ行くのは変なフラグが立ちそうなので、固辞した。BLルートは勘弁な。

 さりとて女子の一人でも付き添ってくれるでもなく、俺は一人、フラフラと保健室へ向かう。球技大会も佳境、校舎は人気がなく、静かに、わずかに届くグラウンドの喧騒が霞のように幻想的だった。

 そして、保健室には佐羅谷がいた。

「わたしが、スポーツをすると思う?」

「運動音痴だとは思うが、それが球技大会を逃れる理由にできるとは思えない」

「女は月に一回無敵になるのよ」

「聞きたくなかったよちくしょう」

 佐羅谷は制服のままブレザーの袖につけた救護班の腕章を見せる。

「冗談だけどね。さ、こちらに座りなさい」

 冗談が出るときの佐羅谷は上機嫌だ。

「随分、活躍したそうね?」

「ついさっきの出来事なのになんで知ってるんですか。千里眼ですか。学校中に監視カメラでも張り巡らせてるんですか。実は自分の存在を電子データ化していて、ネット環境につながるインターフェイスはすべて使えるとかそういうオチですか」

「ボケるときは相手にわかるようにボケなさいよ? ただ普通に、ここの窓から眺めていただけよ。良かったんじゃない? 少なくとも、あの試合を見ていた四、五十人には確実に知られたし、印象に残ったことでしょう」

「目立つのは痛いな。いろんな意味で」

「自打球を耳朶に受けて地団駄を踏んだって」

「それ語呂がいいから言いたいだけだよな? 耳朶じゃねえし、地団駄っていうよりたたらを踏む、だろ」

 佐羅谷は救急箱から綿とガーゼと鎮痛薬を取り出し、テープで留める。よほど気に入ったのか、一人でジダジダと繰り返している。ゲジゲジみたいで嫌だな。ゲジゲジは益虫だが。

「そのティッシュ、どけて」

 概ね鼻血は止まっていたが、打球の直撃した腫れと痛みが出てきた。

 赤く染まったティッシュをどけると、佐羅谷は湿布臭のするガーゼを近づけてくる。

 そのときに、椅子に座ったまま上半身だけ近づけてくるものだから。

「……って、佐羅谷、近い」

「こら、逃げないの」

 俺がのけぞると、佐羅谷はアンバランスに上半身を伸ばす。保健室の転がる椅子で、そんな不安定な格好をすると――。

「ひゃっ」

 ふっ、と佐羅谷の表情が、驚きに抜ける。浅く腰掛けていた車輪付きの椅子が、後ろに滑って倒れる。支えを失って、顔から突っ込んでくる佐羅谷。ああ、もう、お約束はやめろ! この十津川芸人!

 女の子を顔から床に落とすわけには行かない。倒れてくる佐羅谷を抱きしめて、だが勢いは殺せず、そのまま椅子ごと後ろ向きに倒れる。本日二度目の背中と後頭部を強打。さすがに、俺の大脳新皮質も危ないかもしれない。

 しかしなんだこれ、普通は逆だろ! 押し倒されるのは女であるべきだ。と思いつつも、いや押し倒されるのも悪い気はしないか、と冷静に考える。冷静にならないと要らぬことを妄想しそうだ。とりあえずは、佐羅谷の顔が自分の胸にひっついているのを確認して、安堵する。怪我をさせずに済んで、良かった。

 佐羅谷の頭は小さくて、片手でつかめそうだった。腰回りも頼りなく、力を込めたら壊れてしまいそうだった。なぜそう思ったかというと、とっさに抱き寄せた右手と左手がその位置にあったからだった。

 小柄で華奢だと思っていた予想どおり、佐羅谷は軽かったが、予想外に体が触れた部分は柔らかく、暖かかった。

 湿布臭と保健室の薬剤のにおい、自分の汗と埃立つグラウンドの花粉混じりの枯れたにおい、そして、佐羅谷からほのかに香る甘い匂い。作り物だとわかっていても、惑わされる。同じ人間という生き物で、ただ女子だけが良い香りを生成できるわけがない。俺は騙されない、花の香りがする人間なんて、いない。

「痛ったー……」

 俺の胸にうずもれた佐羅谷がようよう呻く。

 本当に痛いのは俺の方だけどな!

 そして間が悪く、保健室の扉が開く。

「いやー、遅れてごめん、九頭川。ボールがぶつかったって……」

 俺は仰向けに倒れて佐羅谷を抱きしめたまま、犬養先生と視線が合う。

 扉の前で犬養先生の表情は二転三転し、魂の抜けた顔を最後に、大きく一礼、一歩後退、扉を閉める。

「お楽しみのところ、お邪魔しました!」

「楽しくないから! 邪魔して、犬養先生!」

「人の体をベタベタいつまで触っているの? いい加減、放してくれない?」

「自分から倒れてきてそれかよ」

 佐羅谷の膝が俺のレバーに当てがわれる。体重をかけられると、軽くても痛い。とても、痛い。

「ビンタで許してあげるわ」

「殴られるのは確定かよ……」

「歯を食い縛りなさい」

 緑の瞳を無表情に見開いて、佐羅谷は右手を振り上げたのだった。

 鼻を痛打した上に、保健室でほっぺたにモミジを増やし、高校二年生一年分の怪我をこさえた俺は、教室へ戻る気も起きず、そのままベッドに横になっていた。

 鼻に湿布は貼ってもらえたが、ほっぺたのモミジは放置された。ついでに、あの後すぐに佐羅谷は消えた。先生、救護班が仕事をしません! ちょっとー、ちゃんとやってよ、女子ー!


 顔に熱を感じて目を開けると、西日が顔を照らしていた。

 少し微睡んでいたらしい。

 ここはどこだ?

 そうだ、ソフトボールを鼻に受け(自爆)、佐羅谷と絡み合い(誤認)、頬を張られて(とばっちり)、保健室で寝ていたのだ。

 犬養先生はベッドの隣の卓で書き物をしていた。

「起きた? まだ痛むとは思うけど、帰れるようなら帰っていいよ」

 六時頃までなら、ここにいてもよいけど、と付け加えた。部屋の時計は午後五時。脇の椅子には、俺の鞄が置いてあった。制服も畳んである。犬養先生が持ってきてくれたのだろうか。本当に面倒見が良い先生だ。

「もう少し、ここで寝ています」

「好きになさい。明日朝、どうしようもならないようなら病院へ行きなさい。それもつらかったら、連絡してくれたら何とかするから」

「助かります」

 こうして仕事をしている姿を見ると、やはり大人だ。俺も一応バイトをしていたことはあるが、バイトの労働とはちょっと違う気がする。初めてバイトをした時、お金が振り込まれた時、自分がずいぶん大人になったように感じたが、俺はやはりまだ高校生で、今の犬養先生のような雰囲気を出してはいなかった。出せなかった。

 馬鹿なことを話している時は、年上のお姉さんという感じで、大して隔たりもないのに。

 だけど今は、先生のことはどうでもいい。俺の恋愛相談が一応の終了を見たことが問題だ。モテたいで始まる恋愛相談は、佐羅谷の目立つこと・知られることという助言で計画を立て、折りよく実施された球技大会で、概ね成果を得た。

 自打球を鼻に受けて昏倒するなんて、狙ってできることではない。見ていた観客全員に相当な印象を与えたこと請け合いである。俺の名前を知らずとも、球技大会のあいつ、として知られたはずだ。

 知られれば、見られる。見られれば、中には好意を持ってくれる者も出てこよう。少なくとも、存在を認識されていない人間は、好かれることは絶対にない。

 だが、奇しくも佐羅谷が見破ったことに、俺の言う「モテたい」は、本音であり本心であるが、一般的な意味で使ったことばではなかった。

 正直、クラスにも居場所ができた今、モテたいはどうでもよかった。高二男子としての本能的なモテたいという気持ちはともかく、相談してまでのモテたいという気持ちは、すでに落ち着いていた。

 むしろ、火急の問題は。


「誰も好きにならないの」


 佐羅谷のことばだ。

 あの叫びが、俺の心を捉えて放さない。

 あんなにわかりやすいウソ、偽りの表明は佐羅谷らしくない。これこそが、解決するべきだ。

 誰が。

 もちろん、佐羅谷本人が、だ。

 だが、佐羅谷は自分では動かない。というか、自分では動けない。問題を問題として認識できていないからだ。この問題を解決できるのは、もしかしたら、沼田原先輩。佐羅谷は一年間あの先輩の薫陶を受けたのだろう。祝福の姿をした呪いを。

「犬養先生、相談に乗ってもらえますか」

「時間、かかる?」

「そうですね、少し」

「わかった」

 書き物をやめて、犬養先生はやっと俺を見返した。俺は、上半身を起こした。

 今後やること、やりたいことを、訥々と話した。まとまらない考え、言いたくないこと、言えないこと、嘘にまみれた本心、真実に包んだ偽り、俺の決意表明。

「俺は、そうしたいです」

「いいんじゃないかな。不思議だね。今まで、九頭川のようなことを言ってきた生徒はいない」

「俺も、自分で不思議です。なんでこんな気持ちになったのか」

「あんた、しっかりしているようで……ああ、まあいいや。それにしても、よくもまあ、あのメスの匂いの充満する空間にみずから飛び込もうとするね。下心ありで来る男の子もいるけど、耐えられない人が多いのに」

「メスの匂いって、そりゃあ、佐羅谷は女子ですけど」

 なるほど、理科準備室の雰囲気は、ひとり佐羅谷の思惑一つで自在に移ろう。彼女に邪険にされて、いたたまれなくならない男はいないだろう。

「話が噛み合ってないね。もしかして、佐羅谷としか会ってない?」

「佐羅谷以外に恋愛相談部員がいるんですか。元部長には遭遇しましたが」

 そういえば、いつも一人ではない、とか言っていた気がする。友達のいない佐羅谷の強がりかと思っていたが。

「楽しみだね。何者でもないあなたたちが、何者かになる様子を見られるなんて、ね」

 何者でもない俺たちは、何者にもなれないままの可能性もありますよ? 実際に、俺のおじさんである山田仁和丸(仮名)は40歳になっても何者にもなっていない。何者にもなれるというのは、恐怖だ。無限の可能性は、恐怖だ。道が一つならば迷わない。だから、頼む、俺に選択肢を与えないでくれ。俺の前には、一本の道だけを敷いてくれ。切に思う願いは、決して叶えられないと知っている。

 なぜって、道は、俺の後ろにしかできないのだから。


 朝、教室に入るとクラスメイトの視線がいつもと変わっていた。

 ただの目立たない男から、ボール直撃男に格上げされた視線だ。どんな視線だよ。自意識過剰は承知で、生ぬるい同情というか呆れた視線を向けられるのは地味にこたえる。地味な男だけに。

 昼、いつものように山崎の前の席に移動し、いつもより早く弁当をかき込む。

「どうした、九頭川。病院でも行くのか?」

「あそこへ行こうと思ってな」

 俺は弁当箱を巾着にしまうと、窓の外、グラウンドの向こう、尖塔を指差した。尖塔のガラスの中、深窓の令嬢は優雅に弁当を食している。

 山崎の表情は一瞬の戸惑いの後、一番の理解者の顔になった。おまえに理解されるほど親しくはないと思うがな。

「九頭川、健闘を祈る。骨は拾ってやる」

「おまえが用意すべきはスマホのストップウォッチだろ」

「深窓の令嬢データベースへの貢献、感謝する」

「情報がいつもタダだと思うなよ?」

 山崎の敬礼を背に、俺は教室を出た。

 何人か、俺たちの会話を聞いていた者の視線の感情を、読み取る気は起きなかった。


 佐羅谷が弁当を食べ終わるのを密かに眺め、俺は尖塔の部屋に入った。

 尖塔の部屋は暑くもなく寒くもなく、ちょうどよい環境だった。太陽は南に、直射日光は射し込まず、ただ春の柔らかい空気が屋内を照らしている。

 深窓の令嬢は、静謐の空気を背負い、凛と佇む。

 息を呑んだ。

 あまりにも、日頃接している佐羅谷あまねとは、存在が違っていた。この佐羅谷が、他の全校生徒のほとんどが知る佐羅谷だ。

 近づくことさえ、重い。

「あら、ここはあなたが来る場所じゃないわ、九頭川くん」

「告白しに来た」

「懺悔か告解の間違いじゃなくて?」

「なんて素敵にアウグスティヌス」

「わたしに神の国でも見せてくれるの?」

「むしろ、神を人間の国に引きずり降ろしに来た」

「あなたが?」

 俺は佐羅谷の前に立った。

 先日、彼女に告白した男が立っていた位置だ。

 正面から佐羅谷を見据える。少し険のある冷徹な表情をしているはずだ。

「おまえの恋愛相談に乗ることにした」

「ふざけないで、お呼びじゃないわ」

「至って真面目だ。深窓の令嬢を、ただの佐羅谷あまねにする」

「怒るわよ。何の権限があって、言っているつもり?」

「恋愛相談部に入る」

「……恋愛研究会ね」

 そこはやはり訂正するんだな。

「残念、わたしは部長だけど、恋愛研究会に入部させる権限はありません。やめさせる権限もね」

「犬養先生に許可をもらった」

「本当に?」

 佐羅谷の表情から、強気の笑みが消えた。

「へぇ、そうなんだ、犬養先生が許可したのね。じゃあ、わたしはどうこう言う権利はないわ。だけど、恋愛相談は押し付けるものではないわ」

「わかってるよ、だから、待つさ。佐羅谷が、自分から相談してくるのをな」

「それだと、高校を卒業してしまうわね」

「高校を卒業しても一緒にいてほしいって?」

「一緒に警察に行ってあげましょうか」

「まあ、心配するな」

 まったく自信はないが、ホラを吹くのは大切だ。

「俺はモテるからな。佐羅谷が頬を染めながら相談に来るまで、一年もかからないさ」

「さっすがー、モテる男は違うねー」

「抑揚ゼロに調声した機械音を発するのはやめてもらえますかね」

「初めて会ったときよりいい顔になっているし、球技大会でも活躍したし、モテるようになるんじゃない? わたし以外に」

「やっぱり、佐羅谷は面白いな」

 ともあれ、これでよすがはできた。

 認められたのだと思う。

 顧問の許可を得たから、機械的に部活に参加できるわけではない。どう考えても、恋愛研究会は佐羅谷のものだ。佐羅谷が心底受け入れなければ、参加できない。俺の入部試験は、ぎりぎり及第というところだろう。

「ところで佐羅谷。「勇気を出して告白してくれてありがとう、でもわたしは誰も好きにならないの」のセリフと動作をしたほうがいいぜ」

「その気持ち悪い声真似は必要なのかしら」

「ツッコミどころはそこじゃない」

 じかに、佐羅谷から聞いてみたい。

 次に真似をするときに、参考にしよう。今回の俺の声真似は、山崎から又聞きしたものを、脳内補正で佐羅谷っぽくしただけだ。

「佐羅谷が拒絶行動を見せないと、俺の告白を承諾したと全校生徒に思われるぜ」

「それは涙が出るほど悔しいわね」

 少しだけ、恋愛研究会の佐羅谷の表情になった。

 スカートのしわを伸ばしながら、ゆるりと立ち上がる。

「勇気を出して告白してくれてありがとう。でもわたしは、九頭川くんを好きにならないわ」

「剛速球いただきました!」

 大げさに天を仰ぐ。

 口元に軽く握ったこぶしを当てて微笑む佐羅谷は、あの日夕方の逆光に照らされて見えたときと同じ表情をしていた。深窓の令嬢ではない、たぶん演技の奥底にあって、ふいに見せる無防備な笑顔。もっとも、今この時にわざと見せるということは、これさえ厚い仮面の表情なのかもしれないが。

「じゃあ、またあとでな」

「またね、新入部員くん」

 またね、がこんなに嬉しい。

 ああ、まったく俺は単純だ。俺は、単純だ。


 昼休みの終わる寸前に教室の扉を開けると、約80の瞳が俺を貫く。何なのこの集中砲火? 目からレーザーが出ていたら、俺の体力は一気に蒸発していたぜ? ゲームバランスの悪いクソゲーかよ。瞳は二十四までで勘弁な。

 ざわつきと盗み見に居心地悪く机の間をすり抜け、山崎の席へ行く。弁当箱を放置していた。

 にやけた山崎の顔は、殴られるための顔だった。殴らないけどな。

「おめでとう、愛を語る最高記録、10分超えだ」

「1分いくらで買う?」

「今度、かむくらでおいしいラーメンをおごってやろう」

「キムチと煮卵も入れろ」

「承知した」

 まったく他意はなく、俺はただ佐羅谷に入部の申請をしに行ったつもりだったのだが、よくよく考えると、尖塔は目立つ場所だということを失念していた。このことに気づいたのは、後日、山崎に連れられてかむくらでラーメンを食べることになった時だ。

 球技大会で一通り目立って、さらに尖塔で深窓の令嬢に告白。

 やれやれ、俺は図らずも学内有数の有名人の道を歩み始めたらしい。

 モテる男は、つらいね!

「して、告白の断りのセリフはいかに?」

「ああ、おまえの言ったとおり、一言一句、寸分たがわずだ」

 俺は笑顔で嘘をつく。

 九頭川輔の新しい仮面は、すでに始まっている。


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