07 アルバート
「リハビリをしている最中は、何度も会いたかった。でも、君がイェレンの婚約者候補だと知った」
アルバートが呪いに蝕まれ始めたのは十を迎えてからだ。徐々に失われていく体力と筋力を見て、第二王子ながら婚約者候補は選ばれなかった。
だが、最悪の事態になる前に第二王子は回復した。それではと婚約者候補が探されたが、既に目ぼしい令嬢は他の者と婚約していたし、アルバートはロレーヌに心を奪われていたので婚約者候補を不要とした。
第三王子からロレーヌを奪う事はしたくなかった。何せ十歳から五年も婚約者候補を続けていたのだから、きっと二人の間にはそれなりに愛情が育まれているはずだと思っていた。
他ならぬ兄がそうだったから。
実際はそんな事なく放置されていたのだが、それは当時のアルバートが知る由もない事。
会ってしまえば、きっと我慢が出来ない。ロレーヌに迷惑をかけてしまう。だから会いに行けなかった。
半年ほどして体調が回復するとすぐに外交が始まった。
他者の心を読めるアルバートの力は外交に非常に有利に働くものだ。
他国へ赴き、会談をしては報告書を王都に送り。国境を移動しては再び他国へ赴き。時には他国で半年ほど過ごしたこともあった。
最初のころは補佐として。いつの頃からか自らが先頭に立ち。そんな中でもアルバートの心の中には常にロレーヌが居た。
他国だろうと、人の心の醜さは変わらなかった。相手が大国であればあるほどこちらを見下し、侮り、不平等な結論を押し付けてくる。のらりくらりと回避できたのは自国を想うよりも先にロレーヌを想ったから。ロレーヌが居る国を苦しめることは容認出来なかった。
時には花を宛がわれたこともあった。その女性の心の醜さときたら、思わず朝食を戻してしまいそうになったほど。レクリプスよりも小国相手ではあったが、容赦なく追及させてもらった。
何度かレクリプスに帰ってくることはあったが、王都まで帰ることは時間的に許されなかった。
そうしてようやく王都に帰ってきたのが先日。
パーティが開かれると聞き、そこにはロレーヌも来るのだと噂で聞いた。
一目だけ。たった一目、彼女を目に出来ればそれだけで十分だと、アルバートはパーティの開かれている広間へと向かう。
一目見た時、ロレーヌの事はすぐに分かった。
年を経て美人になった。様々な事を経験しただろうに、その心は清涼。濁った心が洗われるような心地だった。
まだ頑張れる。そう思ってその場を後にしようとしたとき、イェレミアスの声が響いたのだ。
『まさかお前が偽物だったとは! 聖女を騙り、国を騙した罪は大きいぞ!』
はて、なんのことだろうか。他国にいる間に聖女を騙る愚か者でも現れたのだろうか。聖女などロレーヌに決まっているというのに。
そう思ってもう一度広間を覗くと、指差されているのはロレーヌであった。
アルバートは一体どういうことか分からぬと混乱したものの、イェレミアスがロレーヌを見る目に愛情がない事に気が付いた。
その時アルバートの頭に過ったのは、他国の『婚約破棄騒動』である。
これはひょっとするとひょっとするかもしれない。休みが足りずにクラクラしだした頭に喝を入れて暫く様子を見ていると、ついにイェレミアスが決定的な一言を出したのだ。
『貴様が婚約者候補など吐き気がする! 早々に候補枠を破棄する!』
あの愚か者め。そう思いながらも、よくぞ言ってくれたとアルバートは歓喜した。ここで動けぬのなら何のために生きているのか。疲れなど一瞬で吹き飛んだ。
『では、その婚約者候補殿は私が貰い受けよう』
胸を張り、自信を漲らせ、声を張った。
「あとは貴方も良く知るところでしょう」
本当は恐ろしかった。ロレーヌに否定されたらどうしようかと、そのようなことばかり考えていた。
だが、結果的に否定はされなかった。むしろこうして貴族らしくない一面を見せてくれている分だけ、好意的なのではないだろうかとアルバートは思っている。
「ええと、つまり、本当の本当に、本国に居なかったのだと」
「はい」
「っていうか、今の話を聞くと相当激務だったんですよね。お疲れさまでした。殿下」
「ロレーヌ嬢。どうかアルバートと、そう呼んでくださいませんか」
「いや、しかしですね……」
「そこをなんとか」
話を聞いてみればアルバートは苦労人だ。ただひたすらに国のために頑張り、今のところ報われたとは決して言えない。名を呼ぶ程度で活力になるのなら……。そう考えてしまうロレーヌも相当毒されている。
毒されている相手はアルバートに、だが。
「では……」
そう呟いたロレーヌにアルバートは期待の目を寄せる。尻尾がブンブンと振られているようだ。
「アルバート殿下」
一瞬、場が沈黙に支配された。
「そうじゃない」
と父。
「流石にそれはどうかと思いますわ」
と妹。
「それは呼び捨てとは言わない……」
なんとも悲しい声を出したのは勿論アルバート。
「我が娘ながら恥ずかしいわ……」
今まで頑なに沈黙を貫いていた母までも嘆きの声を上げた。
ロレーヌとしてみれば、なぜそこまで否定されなければならないのかと抗議したいところである。
「……一介の令嬢には荷が重すぎるのですが……そこまで仰られるのでしたら」
仕方ないのでロレーヌは折れることにした。
「では………………」
再びの沈黙。ロレーヌの口が『ア』の形に開かれる。
「…………」
しかし、音は出ない。
「………………ア……」
そこにいる全員が身を乗り出した。
(なにこれ、すっごく恥ずかしいんですけど!)
羞恥に顔が真っ赤に染まる。
名を呼ぶという行為はこれほどまでに難しい事だっただろうか。
他の令息であればなんということでも無かったはずなのに。イェレミアスであっても――いや、そもそもイェレミアスは呼び捨てなど許さなかったのだが、この際どうでもいい――ここまで緊張はしないはずだ。
そう考えればロレーヌは自分がアルバートの事を意識しているようで、猶更顔に熱が集まり、口から音が出ないまま何度か口をパクパクとさせる。
恥ずかしい。名前を言うだけだというのに。
「…………ぁ……ぁ………ァルバート…………様……」
ようやく捻り出した声は蚊が鳴くような。
「ッ!!!!」
だがその声にアルバートは両手を天高く掲げ、膝を付き、全力で喜びを表現。
「我が生涯に、一片の悔いなし」
「うぅ……」
ロレーヌは更に顔を赤くさせて蹲った。
「ちょっと悔い無しのレベルが低すぎませんかこの男」
「いや、同じ男である私には分かるよ。好きな女性に名前を呼ばれるというのは特別なことなんだよ」
「お父様。そのイベントがまさかこのような第三者の居る状況で堂々と行われることに関しては」
「ムードが無いと言いたいけども、この場合は仕方ないだろう。周りの圧力がないとロレーヌはいつまでも逃げてしまうだろうし」
「そこ! うるさい!」
外野がゴチャゴチャうるさいと、ただでさえ低いムード値が更に低くなってしまうではないか。
「さて、どうやら娘も殿下の事を憎からず思っているようですし……男女の情愛に疎いこんな娘ですが、何卒よろしくお願い致します」
「承りました。エヌマリシュ伯爵」
「は、話が進んでいく……!?」
当人を置き去りにして男二人は話を先へ進めていく。ロレーヌは応とも否とも言っていないにも関わらず。
父親からすれば娘の表情を見れば一目瞭然なのだ。幾ら見目麗しい男が現れたとしても、外見だけで惑わされるような娘ではない。
治療をした時にその心に触れ、足りないところはあろうが理解した経験があるからこそ、ロレーヌはこうまで心を震わせている。ロレーヌ当人が自覚しているかは分からないが。
「お姉さまを挟むと話が進みませんもの。仕方ありませんわ」
「酷いわシフォン」
辛辣ぅ。
だが実際その通りなのだ。今に限らず、ロレーヌは患者との無駄話が割と多い。紹介状を書いている最中など、特に。無駄話が過ぎてクリフに怒られてやっと次の患者へ移ることも稀ではない。
「お姉さまのそういうところ、私は大好きですよ。でも、時には無駄を省かねばなりません」
「無駄って言ったわね」
よく理解しすぎている妹様はロレーヌに対して言いにくい事を直球で言い放つ。
「えぇ。……私からしてみれば憎き敵ですが、恐らくお姉さまにとっては良い相手となるでしょう。それならば文句は……山ほどありますが言いませんわ」
「シフォン……」
呆れていいのか喜んでいいのか分からない評価だ。
とはいえ、シフォンもこの機を逃せば姉が幸せを逃すことを理解している。婚約破棄を申し付けたとはいえ、元婚約者候補は自尊心の塊のような男だ。アルバートは前言撤回することは無いだろうと言っているが、ロレーヌの意思を無視して都合よく振舞う可能性も捨てきれない。
かといって他のめぼしい相手は既に婚約者がおり、婚約者の決まっていない第五王子以下は歳が離れすぎているため現実的ではない。
結婚が女性の幸せの全てだとは言わないが――特にロレーヌの働きを見ていると余計に――自分を愛してくれる人との結婚は貴族令嬢の一般的な幸せだというのも否定出来ない。
つまりアルバート第二王子を逃せば他に選択肢がない。ならばシフォンは歯を食いしばりながら「おめでとう」と笑ってみせよう。その際に少しばかり毒が漏れてしまうのは王子様の寛容な心でもって許してほしい。
「私と王子は同類ですから。誰よりもお姉さまの幸せを願っている。それだけは分かるのです」
結局のところ、『第三王子よりも姉を幸せに出来る可能性は遥かに高い』というだけでシフォンの心は決まっている。
「でも私には、分からないのよ。男女の機微とか」
これはもう環境が悪かったとしか言えない。
青春など知らぬと医療の勉強に明け暮れ、シフォンを救い、アルバートを救い、多くの人を救い、しかし婚約者候補には蔑ろにされ……そんな日々で色恋の熱情など覚えるはずがない。
シフォンなど一時は「姉はクリフ先生の事が好きなのでは」と思ってしまったほどだ。それほど師の後を追っていたという話。
しかしアルバートを見るロレーヌの瞳には、小さくとも熱が見え隠れしている。
「それは追々分かるのではないでしょうか。誰かさんと違って大事にされて、愛を囁かれていれば」
「そういうものかな」
「そういうものです」
「分かるのかな」
「きっと」
「そうかな」
でもでもだってとグダグダ言うロレーヌに、お姉さま至上主義であるシフォンも少しだけイラっとした。
あの聡明で冷静で自信に溢れて美しい立ち振る舞いをする姉(シフォン視点)であっても、恋愛になるとこのようにウジウジとした格好悪い部分が出てくるのか。ハッキリ言って面倒臭い。
「いつまでも分からなければ、スッパリと振ってやれば良いのです」
「ダメでしょ!? 王子相手よ!?」
王族が離婚など出来るものか。ロレーヌは反論するも、
「アルバート王子はきっと許しますよ。そして周りを説得するだけの力もある」
シフォンに返される。そしてなんとなく納得してしまうのだから、アルバートの行動力は侮れない。短時間の付き合いでしかないはずなのに。
「同類だから分かるの?」
「そうです。もっとも、お姉さまが本気の本気、全力で嫌がってなければ難しいでしょうけど、そうなる前にこのシフォンがお姉さまをお迎えに上がりますわ」
「なにそれ」
「あら、私は本気ですよ?」
「シフォンったら」
クスクスと笑いあう。
ロレーヌもシフォンも、お互いの事が大事なのは変わらない。
きっとシフォンならロレーヌが不幸になった瞬間、本当に連れ出してくれるだろう。
ぽかぽかと暖かな気持ちがロレーヌを包んだ。