03 クリフの患者
ロレーヌは自分の部屋に戻ると糸が切れた操り人形のように倒れ、暫くの間眠り続けた。
緊張が切れたことと失った魔力を戻そうとしているだけで心配はいらないとクリフは診る。
その言葉の通り、二日後にはロレーヌは目を覚まし、何か言葉を発するよりも早くに鳴った腹の虫に思わず顔を赤くした。
「君を見込んで、お願いがあるんだ」
ロレーヌが食事をしている最中のこと。
クリフがロレーヌに向かって頭を下げた。
「むぐ……。先生、一体どうしたのですか?」
シフォンのものよりも食感を残した粥を飲み込み、ロレーヌはクリフに問う。
「食事中にする話ではないのは分かっている。けれど、出来れば一刻も早く、君にとある患者の様子を診てもらいたい」
「……先生が診てもダメなのですか?」
クリフは力なく笑う。
「情けない話だけどね。どうにも私の知識の外にあるものらしくて。妹君の事と言い、私は無力だよ」
そうは言うが、クリフは非常に優秀な医者である。
ロレーヌはクリフの知り合いだと言う他の医者にも何度か話を聞きに行ったことがある。しかし他の医者はクリフのように詳細に、理論に基づいては答えてくれなかった。「進歩した治癒魔術の弊害だね」とクリフは寂しそうに呟いた。
ロレーヌのどんな疑問にも、クリフだけは「専門外なんだけど」と言いつつ真摯に答えてくれた。
医者としての知識はクリフの方が遥かに上だが、そんなクリフにも答えられなかった内容は幾つかある。
呪術と、それを治療する方法。他にも確実性が定かではない民間療法の事など。
大抵の症例であれば、クリフの腕で治せない病気は無いだろう。その特例がシフォンと今話している患者。
「私が先生の力になれるなら」
ロレーヌはそう告げると、善は急げと粥をかっくらい、「行儀が悪い!」と母に怒られるのだった。
……食事の場でこのような話をするのは行儀が悪くはないのだろうか。
さて、そんなこんながあったものの、ロレーヌは件の患者の前に立っていた。
寝転がる患者は十八歳を回ろうかという男性だ。くすんだ金髪は荒れていて、土気色になった肌は不健康そのもの。余分な肉どころか必要な肉も削がれ、頬骨が浮いている。目は虚ろでロレーヌの事を捉えていないし、呼吸も酷くか細い。苦痛を感じているのか、時折顔が歪む。
そんな状態であるのに、不思議と綺麗だと思えるのは纏う服装が立派なものだからだろうか。
「……酷いですね」
「……そうだろう」
ロレーヌの呟きをクリフが肯定する。
早速体の外側から走査を走らせる。身体全体に纏わりつく黒い霧が、ロレーヌの走査を妨害する。
案の定、呪いだ。
「……外は……うーん、塩を擦り付けましょう。あと出来る限り太陽の光に当てておいた方が良さそう」
ロレーヌの言葉を聞き、クリフはカーテンを開ける。日差しが優しく診療室を照らした。
そのままクリフはベッドの足を操作すると、コロコロと日差しの当たる場所へベッドを動かした。
「慣れてますね」
「呪術には陽光が良いと聞いたことがあるからね。何度かこうやって陽に当てたことがある。陽光だけではあまり意味が無かったけれど」
クリフは再びベッドの足を操作しながら答える。
ロレーヌとクリフは二人で患者の肌に塩を擦りつけた。ぱっと見では何の変化も無いが、走査を走らせるとほんの少し黒い霧が薄れている。
「次は中を調べます」
お腹に手を当てて、そこから走査を走らせる。
身体の中も黒い霧だらけだ。
「酷い……けれど……」
――シフォン程ではない。
霧は所詮霧だ。壁ではない。あの強固などす黒い塊に比べれば、隙間だらけの霧などなんてことはない。ぐんぐん走査が進んでいく。
シフォンの時よりも余裕があるため、走査を走らせつつ、同時に僅かな治癒で身体を少しだけ癒していく。
完治させるのに必要なものは多そうだ。
ネギを刻みいれた薬湯を飲ますといいだろう。これはメイドに頼めば事足りる。
薬湯とは別に、治癒を込めた火で炙った塩を白湯に溶かして飲ますのも良い。こちらはロレーヌもクリフも出来ないので、他所に依頼するしかない。確かクリフの知り合いにそれが出来そうな人物が居たはずだ。
身体を清める時には凍える程の流水が良いが、これは他の対策をしてある程度体力に余裕が出てきてから実施するべき。
……これらは完治させるのに必要な、色々な要素を取り入れたものだ。今この場ですぐに対処出来る事ではない。
「今、助けますからね」
患者の頭を優しく撫でる。
「もう少し、耐えてくださいね」
ゆっくりと深呼吸。頭を落ち着かせて。
(私には私の、出来ることを)
非常に微弱な治癒を纏わせて、撫でる。
「頑張りすぎは、身体に毒です」
ゆっくり、ゆっくり、一定のペースで。
ともすれば消えてしまいそうな程弱い治癒。
多くの医者が見れば、こんな弱い治癒になんの意味があるのだと声を荒げたことだろう。
しかしこの場にいるクリフはそのようなことはしない。
その行動に意味があると信じているからだ。
「体の力を抜いて。あぁ、日差しが暖かいですね」
頭を撫でる手も、口から出る言葉も、全ての動きがゆっくり。
苦痛に歪んでいた顔が穏やかな顔になり、虚ろだった瞳に光が入る。
治療でもなんでもない、ただ労り、優しく甘やかすだけの行為。それなのに、身体の中の黒い霧は急速にその力を失っていく。
「大丈夫。大丈夫」
この呪いは、周囲の叱責をより強く感じさせるためのもの。
(この人は、きっと責任感が強いのね)
自分を追い込んで、甘えることなど許されぬと自らを叱咤する。甘えは害だと錯覚させ、ひたすら自分を追い込み。やがて潰れてしまう。そんな呪いだ。
だから、甘やかそう。
強すぎる治癒は身体に無理をさせる。だから治癒は、「なんだか少し、身体が暖かい」程度の弱い弱い治癒。
「いっぱい、頑張ったんだね」
認める。
「凄いよ。偉いね」
褒める。
ぽかぽかと陽の当たる治療室で、のんびり長閑なひなたぼっこ。僅かな治癒で身体の芯からぽかぽかと。頭を撫でて、リラックス。まるで子守唄のような、ゆっくりとした褒め言葉。穏やかな休息の時。
「……っ」
患者の口が僅かに動く。
ゆっくりとした時間。暖かな陽射し。のんびりとした声が摩耗しきった心を癒す。
「……せいじょ、さま……?」
目を開けたまま夢でも見ているのだろうか。ぼんやりと患者が呟き、意識が落ちた。
呪いが十分治療されたからだろう。身体が眠りを求めているのだ。
「いいえ、私は聖女ではありませんよ」
ふう、と息を吐いて、クリフに治療終了を告げる。今後必要な治療についても語り、立ち上がる。
「……聖女っぽい動きならしますけどね」
クスリと笑って、もう一度患者の頭を撫でるのだった。
「大丈夫。もう治りかけていますね。今のお医者さんの見立ては正しいですよ」
それからというもの、ロレーヌはひたすら人を癒して回った。
「この病気は一回二回の治療ではなく、年単位の治療になります。あと半年もすればよくなりますよ」
様々な知識を総動員して、応用して、病を治し、傷を癒してきた。
実施でする施術はとても良い経験となり、ロレーヌは更に腕を上げていく。
それでも、魔力量だけは足りなかった。
何度も何度も治療するうちに、「別に一人で全てを治療する必要なんてないんだ」と気付く。
シフォンを治療したときもクリフに言われたことだが、何度も治療を経験したことでそれをより強く実感した。
だって、聖女ではないのだから。それでも感謝されるし、褒められる。
癒して、癒して、何度も何度も魔力量が足りないと悩んだ。
だから最終的に、診療した後その治療を専門とする医者へと誘導・依頼する方針を取った。
「今までの薬はあまり効果が見られなかったと。では紹介状を書きますので、そちらの方で治療を受けてください」
やっていることは単純だ。症状を聞き、今行っている治療と期間を聞き、走査で調べ、手紙を書く。
ロレーヌの一筆があるだけで今まで治らなかった病も治るようになるのだから、彼女が尊敬されるのにそう時間はかからなかった。
基本的に医者の見立ては殆どが正しい。だが極稀に見当違いの治療法をしていたりすることがあるので、ロレーヌはそういった時に対応している。
基本的な方針は正しいが、そこに専門外の治療を一緒に試すと効果が上がる時なども一筆認めている。
「次の方……これは……まだ軽いですが、早めに来ていただいてよかったです」
呪いは走査すればすぐに分かる。その場で解決出来そうな極々軽い症状であれば教会や呪術師へ一筆。知り合いに解決出来なそうな人が居なければその場でロレーヌが直接治療する。
重い呪いはロレーヌが直接施術したが、魔力の少ないロレーヌが治療するとその日の魔力の余裕がなくなる。診療時間の終わりが近ければロレーヌが全て治すが、そうでなければ他の人でも治療出来る程度まで治したのち、他の信頼できる者に引き継ぐ。
本格的に手遅れになりそうな症状であれば出来る限り人を集め、ロレーヌが中心になって施術する。……幸い、そこまでの重傷者は殆ど居ないので今のところ問題にはなっていない。
とにかく、出来る限り人に頼った。逆にロレーヌが頼られることもあった。
自分一人では全ての人を完治させることは出来ない。ロレーヌはどこまで言っても偽物の聖女。
平民が腕のいい治癒術師にかかることは難しいが、その手前……医者の選別であればロレーヌは十分力になれる。間違いではないが効果が薄い治療法を重ねるよりも、効果的に治療し、医者へ通う回数が少なくなればそれだけ金銭に余裕が持てる。
儲けの邪魔をするなという意見もあるだろう。だが、基本的にどこの医者もそんなことを言っていられない程忙しい。それこそ医者の方が死んでしまいそうになるほどに。
儲けが減る事よりも患者が早く完治する方が医者にとっても患者にとっても喜ばしい。
今まで忙しくて貯金だけが増えていくと嘆いていた医者から、『多少なりとも余裕が生まれ、買い物に出かけることが出来るようになった』と喜びの手紙が送られてきた時には、治療した方からの便りとは別の嬉しさがあった。
医療にかかる金銭はその分経済に回り、街は以前よりも活気付いていた。
勿論、ロレーヌが全ての人を診られるわけではない。あくまで出来る範囲で、聖女らしく献身的に働いた。
聖女ならば、きっとこうする。そうやって色々な人を治療していく。
聖女のように一手では治せないが、なるべく少ない手順で負担を軽減しつつ治していく。
「聖女様」
と声を掛けられれば
「私は聖女ではありませんよ」
と否定する。その様子が謙遜しているようで慎み深く、とても美しいのだと噂が広まり、なるほど聖女だと話が大きくなっていく。
ありがとうという感謝の言葉も、素晴らしいという称賛の声も、どんどん増えていった。
(あぁ、とても気分が良いですわ。私今、ちやほやされていますわ)
憎しみの声は聞こえない。身体の中がぽかぽかする。幸せなのだと全力で感じる。
(まがい物だけれど、聖女を目標にして良かった)
そうして聖女と呼ばれた偽聖女は十八歳を迎えた。