005 新月の化身
「久し振りだな、見知らぬ他人‼」
空を切り裂いて突如として出現したその男は、宙に浮いたまま筋骨隆々の男を見下ろして、まず始めにそう言った。
「お前は今からその女の子を、殺す気がなかったのに――殺してしまう。ふふふ」
二メートル以上の長身を真っ黒なスーツで包み、通勤鞄を左手に持った、新月の化身のような男が、夜空から全てを見下して、心の底から可笑しそうに笑う。
「助けに来てやったんだ。感謝しろよ犯罪者。感謝しろ、感謝しろ、感謝しろ……」
彼はその端整な顔に似合わぬ、毒を含んだ口調で言葉を続け、
「俺が今からお前に、金の大切さを教えてやる‼‼」
と、中央に目玉を抱く五芒星が真っ赤に光り輝きだした、黒い通勤鞄を持ち上げた。
がちゃがちゃという音がして鍵が開いてゆき、その鞄が大きくだらりと口を開ける。
そして、その中から――この世の全ての硬貨と紙幣が、堰を切ったように溢れ出た。
「ああ―――――っはははははははははははははは‼‼」
お金の雨を降らせる夢の鞄を天高く放り投げ、立ち尽くす男の前に降り立つ。
「さあ! さあ! さあ拾え! 億か⁉ 兆か⁉ 無限大数か⁉ いくらでもくれてやる持って帰れよ今直ぐに‼ あァ⁉ あはっはあははあァっ‼‼」
夜空をすいすい泳ぐ鞄から滝のように流れ出る金銭は、始めに硬貨、続いて外国の紙幣と減ってゆき、最後には百枚でひとつに綴じられた福沢諭吉と、金の延べ棒だけになった。
筋骨隆々の誘拐犯は、犬嫌いの幼稚園児がふと犬に出会ってしまった際にするように、両目を大きく見開き、あーっ、と馬鹿みたいな声を出した。それは泣いちゃわないように自分を奮い立たせる、何もかもが本当に弱い無知な園児にそっくりだった。
轟音の中隆々が、震える手で鞄からハンマーを取り出し、相手の長い脚を狙う。
「ばーん‼‼」
2m新月の声だった。誘拐筋肉は眉間に触れんばかりに近づいていた長い指を寄り目で捉えて硬直し、馬鹿みたいに鼻水を垂らした。そこから何かビームが出たに違いないと、保育園児のように馬鹿みたいに考えたからに違いなかった。
「うふふぅ、あははは! ビームなんて出ませんよぉ、《お金・ビィィーム》‼‼」
「あーっ」
犯罪者の体が吹き飛んで和菓子の靴を撥ね飛ばし、フェンスをぶち破って滑って停止。火鍋は彼女を強く抱きしめながら、黒いお金マンの方へ目をやった。彼は右脚を高く上げていた。肉マンの眉間は無傷だった。ただ蹴り飛ばしただけのようだった。
金の雨が止んだ。五芒星を赤く光らせる鞄が目を歪ませて口を閉じ、主人の右手に舞い戻る。そして彼はくるりと踵を返して犯人を放置し、もと来た空へと昇っていった。
火鍋はまた先週観たロードショーの一場面を思い出した。あの主人公は、冷静に考えると有り得ないほどに美男子だった。自分が今何をしているのか、本当にもうわからない。ただ、結局抱きしめてしまった彼女は柔らかく、愛しくて、いい匂いだった。
不意に犯人が動いた。心臓が掴まれたような心地がして、反射的に、ここから落ちてくれと願ってしまった。突然、三つの手錠が空から飛来。男に襲いかかり、両手、両脚、首、胴体の順にかぶりつく。
そして、何かを叫んだ男が手錠に引っ張られて無様に転び、お金の上を引きずられ、持ち上げられ、何故かカッコイイポーズをとらされて、夜空の裂け目に吸われて消えた。
嵐のような時間が過ぎた。総額幾らになるのか判らない大量のお札が風に吹かれて汚く転がり、埃のように無様に飛ぶ。
星明りに鈍く輝く金属の方は、微動だにしなかった。
『…………』
何から何まで謎だった。
この場合、一体何をどうするのが正解なの……?
ふと汗をかいていたことを思い出した火鍋は、咄嗟に和菓子から手を放した。すると彼女は、ぐりぐりとお腹に頭を押し付けてきて、更にぎゅっと強く抱きついてきた。
泣き叫ぶ親鶏から奪った卵をひとつ、気まぐれで食べずに孵してみて、その雛を興味本位で自分に懐かせてみた後で感じるような、板挟みの罪悪感を火鍋は覚えた。
離れるために腰を引いたのだが、案の定べたべたとくっついてきたので、火鍋は態度で解って貰いたいと思う本音を主張することを諦めた。
「あのな、お前、これは『吊り橋効果』だから。『設定が卑怯』ってやつだから」
「無理無理無理無理。今更無理。もう子どもの名前まで考えたから。えへ?」
「極端だなあ」
気持ちは解らないでもないけれど。
でもなんだか、イケメンじゃなくて申し訳ないよ。
「一姫二太郎三太郎。四、五、六、七、八太郎。九、十、十一、十二姫!」
「人間技じゃないな」
戦時中の常識か。
てかどれだけ考えたんだ。
前から考えてたのか。どうなんだ。
「いやん、おしりが大きいなんて、そんなこと、言わないでよぉっ……!」
そしてキャラ崩壊が半端なかった。
将来は小太りの元気なおばちゃんになる予感がした。
「付き合って暫くして、別段イケメンでもないし普通にヘタレだったってことに気付いて冷めた後で、男女交際禁止だったの。って校則を今更持ち出して、あくまでお友達として仲良くしていたイケメン男子に乗り換えるまででいいから傍にいてぇ~……っ!」
「お前、女の本音に正直すぎるよ!」
もう逆に、何も考えない方が正解なんじゃないかと思った。
「好き好き好き好き、大好きお兄ちゃん愛してる……!」
お腹にいた和菓子はすりすりと胸まで這い上がってきて、心臓に耳を当て、
「よっしゃこのままいけば、後少しで被害者を装って美味しく頂けるぜげへへ……」
と聞こえよがしに呟いた。
「どこのおっさんだよ」
突っ込みという名目を掲げてけつをぱーんと爽快に叩いてやろうと思ったけれど、DVと認定されるのが怖かったのでやめにした。
火鍋は普通に彼女の両肩を掴んで自分の体から剥がし、立ち上がって大きく伸びをした。妙に清々しかった。生まれ変わったような心地がした。単純だと思った。飛び降りは、イケメンに乗り換えられた後ですればいいやと思った。
「僕のは家族との問題じゃないから、うちに泊まればとりあえず今夜はどうにかなる」
火鍋は右手を差し出した。すると和菓子は不満そうに目を逸らして、
「それじゃあ……、一人称を『おれ』にしてよ」
「えっ? なにそれ?」
「ほら、言ってみて。『おれ』って」
「お、お……! お、おぇ。お、おお……! おかしい、何故か言えん!」
「ええ~っ?」
「ううっ、何故だ! でも、和菓子が一緒に練習してくれるなら言える気がする……!」
「えっ、今『和菓子』って……⁉」
彼女のその嘘くさい恥じらいによって生まれた、ひみつ道具で強制的にしずちゃんを惚れされた後で感じるような後ろめたさは拭えなかったが、彼は黙って彼女の手を取り、生きる方向へと歩きだし、お金の山を踏みしめて第三の被害者のもとへと向かった。
小さな女の子周りに、お金は落ちていなかった。
「助け方が斬新すぎるだろ。ってか未だにわけがわからん……」
火鍋は靴を履かせた後で、気を失っていた女の子を和菓子に任せ、遺書を丸めながら、親御さんに連絡を入れるために、未だここにあるかもしれない犯人の電話を探した。
問題は自分が彼女に、未だ生徒会長らしさを求めてしまっていたということだった。
誰にロリコン呼ばわりされようと、自分があの子を看ていなければならなかったのに!
恐怖の叫び声に身を強張らせてしまった和菓子から逃れた女の子は、錯乱して駆け回り、あの壊れたフェンスから勢いよく外へ飛び出した。
和菓子が駆け、火鍋が駆けて、そのために皮肉にも小さな女の子は更に駆け、この場所からあっけなく落下した。
ふたりは身を乗り出して少女の足を掴んだ。
しかしそれによって必然的に、ふたりもこの場所から落下して――!
廃マンションの屋上に、血の通わない大量のお金だけが、ひどく無意味に残された。