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話を聞けば、つまり1年と少しの間、彼は補助輪をつけたまま通学していたらしい。
中学は徒歩圏内だったから大丈夫だったようだが、高校にきて徒歩では辛い距離になり、こうして通学するしかなかったのだいう。
「何度練習してもうまくいかんのだ」
「4つ足があれば安定するって体が覚えているんだろうな、文太」
「まるでオレがもともとブタだったみたいに言うんじゃない」
まあこうしてガラガラ自転車に乗っているのをみると、恋愛どうこう以前に助けてやりたいこともない。
これではフツメンがダメメンである。
個性の出し方が間違っている。
「このことを、その……意中の相手っていうのは知ってるのか?」
「実は幼馴染でな。そういうことだ」
「つまりその子は昔牛だったってことなんだよ。部長である僕にはすぐにわかったね」
「そうか、そいつは牛なのか」
「違うわ! オレはブタじゃないし! あいつも牛じゃない!」
「なんだよ。わかりにくいやつだな」
昔からの付き合いならまあ、知っていて当然というところか。
それならいまさら乗れるようになったところで、何も変わらないような気もするが。
「頼むよ。頼めるのはお前だけなんだ」
「大丈夫。なんとかなるよ。練習あるのみ」
部長は頷きながら答えた。
たしかに練習すればなんとかなるだろう。
練習してどうにもならなかったのならもう諦めればいい。
「ま、なんとかなるか」
「頼む」
「まずはその……ガラガラ鳴らしながら走り回るのをやめろ。それが人に頼む態度か。面白すぎるだろ」
それもそうだなと、文太は自転車を降りた。
自転車に初めて乗れたのはいつのことだろうか。
幼いころのことはあまり覚えてはいないが、誰に教わったのだろう。
背中を押してくれていたのはだれだったのだろう。
分かるのは、乗れるようになった時、世界が広がった。
それだけだ。
これまで行けなかったところに行けるようになった。
「たぶん、そのうれしさで乗れなくて大変だったことも忘れてしまったんだろうな。それなりにこけて、怪我して、泣いたりして——でも覚えていない。どうして乗れていなかったのかが分からない」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
「だからその……」
思い出す。
自転車に乗る時、その誰かは、乗り方を教えてくれていたのだろうか。
そんなことなんてなかった。
ただ、背中を押していただけだ。
あとは、励ましてくれていたのか。
そのくらいだろう。
「存分にこけるといい。その度に罵倒してやるよ」
「なんでだよ! 慰めろよ!」
補助輪を外して、近くの公園までやってきた。
草だけのなにもない公園だが、自転車の練習にはもってこいである。
こけても問題ない。
「いってぇ」
ガチャンと音がする。
何回目なのか数えるのは初めからしていなかったが、もう何十回はこけているだろう。
俺は鈴木文太のその姿を羨ましそうに眺めていた——。
「そういえば、なんとやら」
「……数馬だよ」
「そうか、数馬。自己紹介されてなかったからさ」
そうだった。
ブタのくだりで脱線して、言う機会がなかったのだ。
彼は自転車を起こして、膝を軽く払う。
念のため着替えていた体操服には、すこし傷が付いていた。
「罵倒するって言ってたじゃないか。なにも言わないのはズルいぞ」
「なにがズルいんだよ」
そうだった、と思い出す。
自分にはないもの、決定的に欠けているもの。
努力、目標を追う姿。
それが羨ましかった。
なんてことは、ない——。
「ちゃんと乗れよブタ野郎! 2足歩行でもして目立たないとすぐにハムにされるぞ!」
「ぐ……そういうことだ。それでいい。落ち込んでるならって思っただけだ」
「……」
なにか気を使われたようだ。
「なんだよ……。わかりにくいやつだな。文太のくせに」
「それ、よく言われるんだよ。あいつに」
自転車に跨って、文太は言った。
「あいつって、その、依頼の相手か?」
「おう。なにしても言われるんだよ。文太のくせに朝起きるのはやいね、とか。文太のくせに私の前歩かないでくれる? とか。文太のくせに私の後ろ歩かないでくれる? とか。他にもいっぱい」
「ず、ずいぶん強気なやつなんだな」
「だから隣に立ったんだが、言われたよ。『右隣は文太にあげる』ってね」
「それって」
脈ありなんじゃないか?
文太のくせに生意気である。
依頼がうまくいくのは、いまになって腹がたつなと思い始めていた。
「でもな、あいついつも歩道の右端ぎりっぎりに歩くんだよ。白線渡りしてるみたいでかわいくてなあ」
「……」
歩道の端を歩いているなら、お前はどこを歩いているんだ。
車道か?
暗に死ねと言われているのか?
「それ以来一緒に登下校していない」
「……」
脈なしである。
間違いない。
「いてっ」
「こけたらブヒィ! って鳴けよこのブタ野郎!」
「ぶ、ブヒィ!」
いや、言わなくていいのだが。
文太はまた自転車を起こして跨った。
もうすぐ日は暮れようとしている。
やめると彼が言うまでは待っていよう。
俺はそうすることにした。
「いっ——ブヒィ!」
いや、言わなくていいのだが。