その理由は憧憬
波瑠が地下牢に入れられてから何十分、あるいは何時間が経ったろう。地下牢と王宮を繋ぐ扉が開く音がした。足音は一つで、それはまっすぐ波瑠のいる牢へ向かってくる。
「あら、アイリスったら手枷を忘れたのかしら」
吸血鬼殲滅騎士副隊長、シェリルだ。肩にカレンを担いでいて、そのカレンはといえば衣服を全て剥ぎ取られ、意識を失ってぐったりしていた。
縦横無尽に走る裂傷と痣は鞭による傷だろうか。小説で読んで想像していたよりずっと痛々しく、波瑠は思わず目を逸らしそうになる。
「まぁいいわ。どうせ貴方では脱走なんて無理でしょう」
そう言いながら、シェリルは牢の鍵を開け、天井から吊り下げられた手枷にカレンを繋ぐ。よほど手酷くされたのだろう。彼女が意識を取り戻す様子はない。
「ハル、貴方にも訊かなければならないことがあるわ」
牢の外から再び鍵を掛け、優雅に銀髪をかき上げながら、波瑠を見下ろす。
「貴方、何者なのかしら」
「ただの日本人です」
「……そのニホン、という国がどこかは知らないけれど、アストリアの言葉を話すのだから何か目的があるのでしょう?」
そういえば、何故この国の言葉が解るのだろう。シェリルを始め、この国の言葉は日本語に聞こえているが、どうやら波瑠の話す日本語も向こうには現地の言葉に聞こえているらしかった。
しかし、今はその辺の理屈はどうでもいいことだ。とりあえず言葉は通じる。それだけでいい。
「僕に、思惑なんてありません。信じてはもらえないでしょうけど」
「ええ、信じないわ」
一言でさらっと流し、
「じゃあ、何故彼女を庇うのかしら」
「……報われないのは、可哀想だから」
「あら、初対面のはずなのに、まるで知っているかのような口ぶりね?」
「…………」
知っている。しかし、それを言うことはしなかった。
シェリルは肩を竦める。
「まぁいいわ。貴方には明確な容疑がないから手荒なことはしないけれど、だんまりを続けるなら貴方も元隊長と同じ日に処刑されると思うわ。吸血鬼の手先、ってことでね」
「……どうしたら潔白を証明できますか」
「元隊長がどうやって吸血鬼殲滅騎士の「目」を欺いているのか。それを私達に教える、とかかしらね」
波瑠がそのことを話すなど期待していないのか、あるいは実際波瑠も知らないということを見抜いているのか。真意を明かさないまま、シェリルは出ていった。
その場に残された波瑠は鎖に繋がれ、自由を奪われたカレンを見る。
血まみれ。傷だらけ。それが一番シンプルに彼女を表す言葉で、きっと一番正確に表す言葉だ。
「なんて声をかければいいのかな……」
目を覚ました時、彼女はどんな気持ちだろうか。波瑠はカレンではないから、それは解らない。
だが、波瑠がいかにカレンを傷つけないで助けてあげられるか悩む間に、カレンは目を覚ました。
「んっ……」
「カレンさん!?」
波瑠はカレンの名を呼んで近くに寄るが、よくよく考えたらカレンの方は波瑠を知らないのだと気づき、次の言葉を発せずに口ごもった。
意識を取り戻したばかりで虚ろだったカレンの目の焦点が徐々に合ってきて、彼女は波瑠の姿をしっかりと捉えた。
「アンタ、誰……? それにここ……っ!?」
カレンは自身が裸であることに気づいた。そして、目の前には見知らぬ男。しかも腕は鎖で繋がれていて動かせず、つまりは隠すことも出来ない。
そして波瑠はといえば、カレンが心配なあまりそんなことには一切気づいていない。
カレンの顔が、耳まで真っ赤に染まる。
「あの、どこか痛むところとかは」
「きゃあああぁぁぁぁっ!」
乙女の羞恥の絶叫が地下牢に響いた。
「すみませんでした……」
「…………」
カレンの肢体を見ぬよう背中を向けて謝罪する。普通に考えれば若い男女が同じ牢にまとめて入れられるなど異様で、しかも女性側は拘束されているとなればシチュエーション的に次のシーンは決まっているようなものだ。
波瑠はそんな気を起こすことは絶対にない……こともないのだが、今はそれどころではない。
腕が繋がれているから学生服の上着をかけてあげることも出来ず、カレンに背を向けて今さら顔を赤くしている。
「もういいわよ……減るもんじゃないし」
自分に言い聞かせているような口調だが、溜飲を下げてくれるならミスをした波瑠にとっても願ってもないことだ。
「ねぇアンタ、名前は? なんで捕まってんの?」
「僕の名前は黒川波瑠です。捕まったのは……吸血鬼の仲間だと思われてるからです」
「そっか……歳はいくつ?」
「十五です」
「私と同じじゃない。だったら敬語なんてやめてよね」
波瑠はカレンが意外と積極的に話しかけてくることに少しホッとした。あれだけのことがあったにも関わらずパニックを起こしていないし、きちんと会話も成り立っている。
「……カレンは強いね」
「まさか。私には戦いの才能なんてないわよ」
そっちの意味で言ったわけではなかったんだけど。
「でも、吸血鬼殲滅騎士の隊長じゃないか」
「……元、よ」
「……そうだね、ごめん」
元、と自ら言うカレンの声音が寂しげだ。彼女は隊長であることに誇りを持っていたに違いない。
じゃあ、今は。
「いいのよ。吸血鬼を狩る騎士自身が吸血鬼だなんて、おかしいもの」
自嘲気味に笑いを漏らすカレンに思わず振り向いてしまいそうになり、波瑠は慌てて身を戻した。
「違う……カレン、それは違うよ」
「え……?」
「カレンは吸血鬼なんかじゃない」
「……何よそれ。アンタに私の何が解るのよ」
「本当は自分が吸血鬼だって思ってないんでしょ? あれは何かの間違いだって、異常な出来事だったって、カレン自身が解ってるはずじゃないか」
「……私が吸血鬼だってことは変わらないわ。私は確かに血を欲して、啜ったそれを甘く感じたんだもの」
ここにきて波瑠は、彼女が精神的に参ってると思った。波瑠に話しかけてきたのは、きっとそうしないとおかしくなってしまいそうだったからで。しかし波瑠の言う事を否定して頑なに自分が吸血鬼だと言うのは、
「……カレン、死ぬ気なの?」
沈黙が降りる。
小説を読んでいた時にも思ったことだ。この子は、大事なことは否定しない。だから波瑠は言葉が返ってくるのを待った。
彼女は何分も黙っていて、波瑠も何分も黙って待った。
そして、重い口が開かれる。それは感情を意図的に乗せないような声色で、
「そうよ」
一言だけだった。
「どうして?」
「……私はね、姫様の為に生きてるのよ。この命は姫様の為だけにあって、姫様の為に一生を捧げる。それを私の人生にするって昔決めたのよ」
耳を傾けた。相槌も挟まない。憧れた女性が死にたいという理由が、波瑠の背中に小さなトゲのように刺さる。
「姫様は吸血鬼を嫌って……いいえ、憎んでるわ。だから、私が吸血鬼である以上、もう姫様にはお仕え出来ない。姫様にお仕え出来ないなら、生きてる意味もないわ」
「……自分の為に生きよう、って思わないの?」
「思わないわ」
即答。カレンはどうしても死ぬ気らしい。波瑠は彼なりに頭をフル回転させ、どうしたら彼女に生きたいと思ってもらえるかを考える。
彼女は吸血鬼を憎んでて、彼女が忠誠を誓う姫様もまた吸血鬼を憎んでいる。
彼女は自分が吸血鬼だと信じたくないけど、でも事実吸血行為をしてしまったから信じるしかないと考えている。
だから、生きることを諦めて……。
「……違う」
「何がよ?」
「あぁ、ごめん。独り言なんだ」
違う。小説で読んだ時に見た彼女は、最後まで姫様に仕えていたくて、最後まで自分は吸血鬼ではないと叫び続けていた。それに、幼い頃から何度も危機に晒されて、それでも諦めないでいたからここまで来れたんじゃないか。
なのに、今のカレンは諦めてしまっている。諦めたくないけど、どうしたら今回の危機を乗り越えられるのか、解らないんだ。そして、このままだと拷問にかけられて、本当に諦めてしまう。
吸血鬼なんかじゃない。叫ぶことしか出来ないまま、死んでしまう。
……それは嫌だ。
「カレン。君は吸血鬼じゃない」
「……くどいわね。証拠があるって言ってるじゃないの」
「じゃあ訊くよ。君は吸血鬼殲滅騎士の目でも吸血鬼と解らない。それはどうして?」
波瑠は立ち上がり、彼女の真正面に歩み寄る。彼女の青い瞳を見て、絶対に逸らすことなく。彼が本気であることを、彼なりに示す。
カレンもまた、裸体を見られる恥じらいなどを捨て、波瑠を見据えた。
「知らないわ。でも私が吸血衝動に抗えなかったのは事実。吸血鬼だと判断されるには、それだけで十分なのよ」
「僕はそうは思わない」
「アンタがどう思おうが関係ないわ。私は吸血鬼として死ぬしかない。もうどうすることも出来ないのよ」
「そんなことない」
「じゃあどうするってのよ!」
「……ここから逃げよう」
「……はぁ?」
波瑠の言葉に、カレンは本物のバカを見る目を向けた。何を考えているのか、というより、何も考えていないなコイツは、という顔だ。
カレンはフッ、と息を吐き、呆れ返った声を出す。
「逃げてどうすんのよ? 吸血鬼殲滅騎士に死ぬまで追われるに決まってるし、逃げ切れるとは思えないわ。それに、今の状態じゃ地下牢から出ることすら出来ない。アンタが思うほど甘くないのよ」
「……僕はさ、日本って国で生まれたんだ」
唐突に自分のことを語り出す波瑠をカレンは訝しんだが、話の腰は折らずに黙って聞く姿勢を見せた。
少年はホッとした表情を見せて話を続ける。
「僕は落ちこぼれで、本当に何も出来なくて。死のうとは思わなかったけど、このままダメな大人になるのかな、って諦めてた」
「…………」
「でもある日、カレンのことを知った。僕なんかよりずっと辛い境遇にいて、でも一生懸命努力して、強くなって、みんなに認められた女の子」
「わ、私はただ生きていくのに必死だっただけよ」
カレンがぷいと目を逸らした。その頬は彼女の髪の色のように紅潮している。
「カレンは僕の憧れなんだ。だから、すごく自分勝手な理由だけど」
波瑠は一呼吸置いた。
「僕の憧れが、こんなところで終わるのは嫌だ」
「…………はぁ」
カレンが溜め息を吐いた。呆れ返った声、呆れ返った表情はそのままに、
「アンタはバカね。そんなんじゃ説得にも説明にもなってないわよ」
そう言った。
波瑠は言葉のチョイスを失敗したか、ストレートに思ってたことを言ったのがまずかったかと慌てたが、カレンはどこかふっ切れたような顔でいる。
「そんな勝手な理由で私を生かしたいなら、私をここから連れ出してみなさいよ。多少強引にでも。そしたらもう少しだけ足掻いてみてもいいわ」
アンタのバカさ加減に免じてね、と付け加える。
その言葉を受けた波瑠は思う。
自分の能力が嫌いだ。他の人達が優秀な能力を手に入れている中、僕の能力は剣を生み出すだけ。身体能力は何一つ上がらないし、剣なんて重たくて扱えないし、刃物しか作れないから生活の役にすら立たない。
本当に嫌いだった。ただバカにされるだけの能力が。何の為にこんな能力を得たんだって、意味も答えもないことを考えたりもした。
でもやっと解った。この時の為に僕の能力はあった。この時の為に僕は生きてきたんだ。
「聖剣の泉」
波瑠の手元に光の粒が集まり、粒子は波瑠のイメージした通りの形を成していく。伝説の剣が、時空を超えて彼の手に現れる。
「出でよ、聖剣カリバーン」
「な、アンタ、一体……!?」
聖剣。伝説の剣を両手で握ると、柄は波瑠にとって馴染み深い感触を返してくる。使い慣れた聖剣。それが、しかし初めて波瑠を助ける。
波瑠は格子をカリバーンの性能で欠片と斬り捨て、カレンの手枷を両断する。
聖剣を光の粒子へと散らし、波瑠は自由の身となった少女に手を差し伸べた。
「行こう。カレンが吸血鬼じゃないことを証明しに」