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第一章/能力者達の交わる夜(上)

 深夜、とある街外れの廃工場――人工的な明かりはなく、ただ夜空に浮かぶ月の光が建物の中を照らしている――そんな広い空間の中、二つの人影が揺れ動く。

 僕こと紅条焔(こうじょうほむら)は、死と隣り合わせの境地と呼ぶべき状況にいた。

 現状を簡単に説明すると、とある殺人鬼を相手に互いの命を奪い合っている。

「冗談じゃない。なんだよあれ、規格外にもほどがある……!」

 呟きながらも、僕は駆ける速度を落とさない。

 少しでもこの姿が相手の視覚に収まり続けてしまえばゲームオーバーだなんて、まったくもって馬鹿馬鹿しい状況だ。

 けれど、これは能力者同士の殺し合い。

 正真正銘、互いの命を賭けた――一対一での殺し合いだ。

(状況は相手が確実に有利。僕は相手に接触しないといけないし、どうやって近付くか――)

 僕の持つ超能力・物体発火(パイロキネシス)は、直に触れなければ対象を燃やす事は出来ない。

 だが、そんな僕とは違い、敵の持つ能力は極めて厄介だ。

 僕が対象に触れなければ能力を発動できない事に対し――敵の持つ能力は、その視覚で一定時間、対象を認識する事で発動する。

 ようは、敵に見つかってしまったら、その視野から一定時間中に姿を隠す事が出来なければアウト――その瞬間、僕の敗北が確定する。

 この廃工場はとてつもなく広く、さらに廃棄されたゴミや鉄筋、壊れた車の残骸などが山のように置かれており、敵にはそう簡単に見つかる事はない――はずなのだが、

(……問題は、音だ)

 いくら広いと言えど、この空間は密閉されていた。

 建物の外を車や人が通っている訳でもないし、この周辺は静まり返っている――そんな場所で物音を立てれば、まず僕の居場所が敵に特定されてしまう。

 その為、本当は走る事でさえ避けたいが――状況は、すでに切迫していた。

「逃げ回る事しかできねーみてーだな、オイ! その程度でオレに勝てるとでも思ったのかよ!」

 僕の背後を逃さぬまま、敵である能力者が叫んだ。

 互いの距離はそこまで遠くないが、両者の間にある遮蔽物に守られ、僕はなんとか逃げ続けているような状態だった。

 確かに相手の言う通り、このままでは防戦一方だ。

 こちらから手を出す方法が分からない以上、いずれ敵に捕まってしまう――それだけはなんとしても避けなければならない。

 本音を言えば、この状況下で勝ち目を見出すのは至難の業である。

 相手が素人ならばともかく、敵はプロだ。こうした戦闘行動を得意とするエキスパートである。

 幸いと言うべきか、互いの身体能力にそこまでの差はない――こうして逃げ続けるだけならばなんとかなる。

 しかし、それまでだ。

 なんとかしてこの状況を打破する策を考えなければ、僕に勝機はやってこないだろう。

(長期戦になる……いや、それじゃ駄目だ。僕と敵の条件を比べれば、戦いが長引けば長引くほど僕が不利になっていくだけに決まってる。考えろ、何かあるはずだ――)

 僕は思考を最大限に回転させながら、障害物の間をすり抜けるように走り、(また)ぎ、飛び越えていく。

(少なくとも敵は三秒間での能力発動は不可能――けれど、三秒で相手の懐に飛び込んで、なおかつこの手で触れられるのかと言えば……無理、か。たったの三秒じゃ、取れる行動の選択肢が少なすぎる。何らかの手段で敵の動きを封じる、あるいは不意打ち――くそ、どれも不安定だ。確実に成功させられるとは思えない)

 半壊したトラックの残骸に隠れながら、僕は敵の動きを待ちつつ思考を巡らせる――だが、いくら考えても最善策が思い付けない。

 全ては一瞬、たった一度のチャンスにかかっている。

 その機を逃してしまえば、全てはそれまで――これは、そういう戦いだ。

「あーいい加減つまらねー、飽きてきた。鬼ごっこはイイんだが、どうにも一方的過ぎて困る。これじゃあ単なるレイプショーだぜ。それに、テメェもそろそろ限界なんじゃねーのか?」

 ガゴン! と、背後で大きな物音がした。

「ま、テメェがそうやって逃げ続けられるのも――」

 振り返ってみれば、背中を預けていたはずの軽トラックの残骸が――まるで、プレス機に押し潰されたかのように――へしゃげていた。

「オレが今まで手加減していたからなんだが、な?」

 敵の姿が、見えた。

 戦いを始めてようやく、僕は初めて対峙している相手の姿を直視してしまった。

 黒く短い髪はワックスか何かでボサボサに仕上げられており、耳元には鋭い針のようなものがぶらさがったシルバーのピアスがそれぞれ左右にひとつずつ。

 上半身はこの蒸暑い時期にぴったりの涼しそうな黒のタンクトップ、首元には髑髏のような形をしたネックレス。

 股近くギリギリの部分まで短くした紺色のパンツに、腰部に巻かれた太いチェーンがじゃらじゃらと音を鳴らしている。

 そいつは鋭い鷹のような眼光で僕を睨むと、唐突に後ろを向いた。

「ま、落ち着けよ。とりあえずホラ、こうして後ろを向いておいてやる。ああ、テメェが少しでも襲い掛かってくるような気配を感じたら、反撃は覚悟して貰うが……まあいい、本題だ。テメェ、どうしてオレの能力を知っている?」

「それは、答えなければ振り返る、と解釈していいの?」

「別に。答えたくねーんなら、特に答える必要はねーけどよ。普通、気になるだろ。テメェとオレは間違いなく初対面だって言うのに、テメェはオレの視覚から逃れる事を第一に動いていやがった。オレが能力を使うよりも前からだ。初対面にしては、オレの能力について知り過ぎてるとは思わねーか?」

 敵の言葉に耳を傾けるべきではなく、それに答えるべきでもない――普通ならそれが正しいはずだ。

 今すぐこの場から逃げ出せば、今この状況を元に戻す事は出来るだろう。

 だが、それでは意味がない――結局、あの不毛な鬼ごっこを繰り返す事になってしまうからだ。

 だからこそ――僕は今、このチャンスを生かすしかない。

「そうだね。君の能力は、視覚で対象を一定時間認識する事で発動するもの――僕はそう聞いてる」

「聞いてる、か。ようするに、テメェには後ろ盾がいるってわけだ。それも、オレの能力を知って生きていられる程度の――能力者……か?」

「さあ、ね。僕はただ頼まれただけだから」

「頼まれた……だと?」

「そ。もっとも、まさかこんなに強い相手だとは思ってもいなかったから、今となっては逃げ出したい気分でいっぱいなんだけどね」

「へえ、口先だけは随分と余裕じゃねーか。ま、大体事情は分かったが……正直、今あんまり乗り気じゃねーんだよ、オレ。テメェが来る前に少し他のヤツと()り合ってて疲れてるしよ。それに、テメェもそろそろ限界なはずだ。だから、さっさと」

 会話タイム終了――第二試合スタート、ってところか。

 僕はいつでも相手の視野から逃れられるよう、隠れる為の場所をいくつか横目で確認しておきながら、


「帰れよ。見逃してやる」


 まったく、想像もしていなかった言葉を耳にした。

「は……? それってどういう――」

「聴こえなかったのか? 帰れ、つってんだよ。テメェみたいにハナっから殺意のない奴を相手にするのはオレの性に合わねーんだ。オレが殺しの対象にすんのは、あくまでこのオレを殺害対象として意識している奴だけなんでな。テメェ、頼まれて仕方なくやってるだって? ()る気がない、逃げ出したいと思うならさっさとそうしやがれ。そういうの、いい加減目障りなんだよ」

 両腕を組み、後ろを向いたまま――その殺人鬼は、心底鬱陶しそうな口調でそう言った。

「……驚いた。てっきり見境なく人を殺すのが好きな人なんだと思ってたよ」

「ああ? テメェ、舐めてんのか。どこのどいつに頼まれたのかは知らねーが、どうやらそいつにありもしねー事を吹き込まれたようだぜ。確かにオレは殺し合いはやってて好きだし楽しいが、別に殺す事自体が好きなわけじゃない。純粋に、命のやり取りって奴を楽しんでるだけだ。相手がオレを本気で殺しに来る、オレが本気で相手を殺すつもりで立ち向かう――それが最高なんだよ。勝手に人の趣向を捻じ曲げてんじゃねー」

 それはそれでどうかと思うのだが、言われてみれば聞いていた情報とは齟齬(そご)がある。

 確かに、この僕が殺人鬼に個人的な殺意を持っているわけではないし――頼まれてさえいなければ、出来ることならこんな事はしたくない。

 頼まれた事を勝手に放棄して逃げ出すというのも悪い気はするが、何より互いに興が冷めてしまった。

 相手の言葉を聞く限り、ここは素直に立ち去るのが一番の選択肢だろう。

「……うん。分かったよ殺人鬼さん、ここはひとつ引き下がろう。確かに、僕個人が君に殺意を抱いているわけじゃない。それに本来こういうのは不得手だし、何より不本意なんだ。こっちからちょっかいをかけておいて悪いとは思うけど、この場はお言葉に甘えさせて貰う」

「ハイハイ、面倒くせーからさっさと失せろ。……ああ、ひとつだけ言っておくが、オレを呼ぶなら殺人鬼ってのは間違いだ。訂正しやがれ」

「ん、名前で呼べって事? 実は僕、依頼主から名前までは聞いてないんだけど」

「違ぇよ、バカ。殺人鬼っつーのは、イメージ的にレイプ魔みてーな感じだろ。そんなんじゃなくて、オレは殺り合うのが好きでな。一方的にいたぶるのは性に合わねー。だから、殺人鬼っつー呼ばれ方はあんまし好きじゃねーんだよ。呼ぶなら、そうだな……戦闘狂、ってのはどうだ?」

 戦闘狂――なるほど、一応、自分でも狂っているって自覚はあるらしい。

 しかし今更、この僕に呼び方を訂正させるだなんて、何か意味があるのだろうか。

「それじゃあ……、戦闘狂さん。僕はこのまま退散しちゃうんだけど、本当に見逃してくれるんだね?」

「ああ……そうだな、そんじゃ逃がす代わりにテメェの依頼主に伝えとけ。何のつもりでオレを狙ってんのかは知らねーが――オレを殺したいなら本気で殺しに来い、ってな」


  ◆


 あの殺人鬼――改め、戦闘狂との戦いから次の日。

 僕――紅条焔は、とある学園の裏庭に呼び出され、一人の女子生徒と会合していた。

「それで意気投合した末、背を向けて退散したと言うわけですの?」

「別に意気投合したってわけでもないんだけど……まあ、そんなところ」

 戦闘狂の殺害を僕に依頼した張本人であり、僕にとって一年上の先輩――三年生の百瀬百合花(ももせゆりか)、それが彼女の名前だ。

 長い黒髪をふたつに分けた三つ編みで整え、恐らくは美人だろう――それを台無しにするかのような、センスのない大きな丸眼鏡。

 服装は、全生徒共通である学園公式のセーラー服――だが、彼女のはスカートが他と比べて少し長い気がする。

 色々な意味で、凄くもったいない人だ――というのが、僕が初めて彼女と出会った時に得た第一印象である。

「そうですか。よろしい、結構ですわ」

「え、はいそうですかって許しちゃうんですか!」

「もう過ぎた事ではありませんか。今更ぐだぐだと責任を追及したところで、何かが変わるわけでもありませんでしょう? それとも、わたくしが焔さんを叱れば、あの殺人鬼が死んで下さるのかしら?」

「……そうですね、ごもっともで」

 僕は昨日あった出来事――あの戦闘狂と対峙した時の事を、洩らす事なく報告していた。

 依頼されていたからには、それなりに責任感というものが僕にもあったのだが――こんな返しをされるとは。

「はい。さて、一応あなたが得た情報は聞いておきましょう。会話をしたっていう事は、相手の姿もちゃんと見たのですわよね?」

「見たけど、それが?」

 実際は暗がりで繊細には見えなかったけれど、特徴やら服装をこの眼に焼き付けているのは事実だ。

「ええ、一応これだけは確認しておきたくて。その殺人鬼、性別はどちらでしたか?」

「……え?」

「ですから、その殺人鬼の性別を聞いているのですわ。わたくし、一度だけ対峙した事があるのですが、相手の姿や声は正確に確認できませんでしたから。それはもう、逃げるのに必死で。ですから気になっていたのです。わたくしが得ている情報は、あくまで名前とその能力について――だけでしたから」

 名前。

 あの戦闘狂の名前、そういえば聞いていないけど――知っているのだろうか。

「そうだね。それじゃあ、そいつの名前を教えてくれるなら、答えてもいいよ」

「……この期に及んで、別の取り引きをしようとでも?」

 今まで見た事がないくらい、鋭い眼光で僕を睨みつける百瀬百合花。

「じょ、冗談だって。取り引きとかそんなつもりはまったくないから。っていうか、別に名前くらい教えてくれたっていいんじゃ――」

「まあ、それもそうですわね。殺人鬼の名前は久峰零次(くほうれいじ)と言います。永久の久に、峰不二子の峰。数字の(ゼロ)に、次。ですわ」

「……何かひとつヘンというかマニアなの混じってなかった?」

「気のせいですわ」

「まあ、いいけど。久峰零次、か――」

「それで?」

「ああ、うん。女性だったよ」

「そうでしたか。なるほど……、そういう事ですの」

「とは言っても、実際少し見ただけなんで何とも言えないよ。まあ胸元が結構膨らんでいたのと、顔付きや声色からそう判断しただけで」

「いえ、十分ですわ。ありがとうございます」

「そうですか。で、これから僕はどうすれば? その久峰さんは何だか僕みたいなのじゃ相手にならないらしいけど。……というか、正直僕だけじゃ彼女に勝てるとは思えないな。何度か能力を食らいそうになったけど――なんなのさ、あれは?」

 正確には二回。

 どれも僕自身が受けてはいないが、相手が能力を行使すると、僕の近くの物がひとりでに動いたり、宙に浮いたり――挙句の果てにぺしゃんこである。

 僕のものとはまったく違う種類の能力――その正体が、いまいち掴めない。

「対象に触れないであれだけの芸当が出来るんだ。お手上げだよ、敵わないってあんなの」

 触れる事なく対象に物理的な力を行使する事が出来る能力、僕はそう見ている。

 物を動かし、潰す――あんな力が人間に向けられたら一体どうなるのか、想像もしたくない。

「確か、殺人鬼は『殺したいなら本気で殺しに来い』と言ったのですわよね?」

「うん。本気で、っていうのは多分、殺すって言う明確な意思を持っていないといけないんだと思う。僕は正直、久峰零次に対して個人的な殺意があるわけじゃないから」

「そうですか。……ですが、それは本当なのかしら? わたくしが対峙した時、わたくしはまったく殺意の欠片もありませんでしたけれど。別に個人的な恨みがあるわけでもありませんし」

「はい? それじゃ、どうして僕にこんな依頼を?」

「ええ、あくまでその時は――ですから。一度受けた屈辱は、倍にして返してあげなければ気が済みませんもの」

 ようするに一度襲われたからやり返してやる、っていうだけの理由なのか。

 なんだかこの人、見かけは大人ぶってるけど――中身は結構、子供なのかも知れない。

「しかし、気が変わりました。女性だと言うのでしたら良いでしょう。それならば、殺してしまう必要もありません」

「必要がない……それは、女だからってだけで?」

「ええ。わたくしは何も一人で行動しているわけではありません。それはあなたをこうして使っている事からも明白だとは思いますが……実際、他に数人の仲間がいますわ。それも全員が能力者であり――」

「まさか、全員が女だと?」

「その通りですわ」

 ……、なるほど。

 つまり、能力者でありながら同性の仲間をかき集めているってわけか。

 どうして同性でなければいけないのかは――この際、置いておこう。

「焔さん」

「は、はい? なんでしょう」

「一度、前に申し上げているとは思いますが」

「はあ」

「わたくし、あなたの事を愛していますわ」

「それは……、どうも」

「正直、あなた以上の人間はこの世にいないと断言できますもの。それぐらい、わたくしはあなたを溺愛しているのですわ。それは、分かっていただけますかしら?」

 そう、以前――この百瀬百合花と初めて会った時、僕はいきなり衝撃的な愛の告白を受けていた。

 実際彼女と会うのはそれが初めての事で、僕はまったく名前すら知らない相手だったから――というか、それ以前の問題でもあるけれど――返事は断らせて貰ったのだが、それからというもの、凄い勢いで付きまとわれている気がする。

 それに今更こうして再確認されても、僕としては返答に困るとしか言いようがない。

「ですから、そんなわたくしが危険にさらされようとしていれば、もちろん助けて下さいますわよね?」

「理屈が理解できないけど、まあ……善処します」

「ええ、それでいいのです。それでは今晩、少し付き合っていただけますかしら?」

「今晩……と、いうと?」

「あら。別にえっちな方面のお話ではありませんわよ?」

「前振りからしてそっちに結び付けられるほど性欲に飢えてないんで大丈夫です」

「そうですか。残念ですわ」

 どこまで本気なんだ、この人。

「では、そろそろ本題に入りますわ。今晩、その女に会います」

「会う……って、まさか――」

「いいえ、戦うわけではありません。仲間に引き入れる為に会うのですわ」


  ◆


 僕――紅条焔の通っている学園は、他には見ない少し風変わりな女子高である。

 棘薔薇(いばらばら)女学園――設立者のセンスを疑いたくなるような名前を持ったその場所には、無駄に広大な敷地――その左半分に校舎、右半分に生徒専用の宿舎があり、正門からまっすぐ伸びた中央にある巨大な噴水が、綺麗に輝く水しぶきを上げている――それが、言ってみれば他の学園にはないような、この学園だけの特徴と言えた。

 一応なりとも女の身である僕としては、こういった学園生活も慣れてしまえばとりわけ平凡であるべきだと思っているのだが――どうも最近、おかしな先輩に付きまとわれるようになってから、僕の日常はすっかり普通ではなくなってしまった。

 ただ女の子では体験する事の出来ないような事を、僕は繰り返し経験してしまった。

 それも、一度ならず――昨夜の事を含め、これで二度目である。

 いい加減まともな生活に戻りたいとは思うのだが、ここまで来てしまうとそう簡単に戻れるとも思えなくなってしまう。

 知らなかった世界に足を踏み入れた代償。

 普通である事を世間から拒絶された、一人の人間が行き着く結末――とでも言うのだろうか。

「うぉーい、ほむりゃんお待たせー! 待ったかなー?」

 唐突に背後から響く、甲高い少女の声。

 聴き慣れたその声――僕にとってそれが誰のものかだなんて、振り返ってその姿を確認するまでもなく分かる。

「遅い。十分以上の遅刻だね、香奈。面倒だからすっぽかして先に寮へ帰ろうかと思っていたところだよ」

 渋谷香奈(しぶやかな)

 背中辺りまで伸びているであろう茶色の髪を、赤リボンでくくったツインテールに仕上げている。

 いつ見ても代わり映えのない、幼さの残った可愛らしい顔付き――顔だけではなく、その身体も同年代にしては小さめであり、僕と並ぶとその背の低さが分かる。

 学園指定の制服も、僕のサイズはMなのだが――彼女のものはSサイズである。

 いつもは馬鹿みたいに人懐っこい小動物的なイメージがあるのだが、その実、中身はとんでもなくえげつない――主に、学力的な意味で。

 彼女と僕の間柄を簡潔に説明するならば、僕にとってのたった一人の理解者、とでも言うべきだろうか。

「あっは、ごめんよー。お詫びにちゅーしてあげるから、許してくんにゃい?」

 香奈はいつもの場所――噴水の左隣に設置されている木製のベンチ前まで駆け寄ってくると、座って待っていた僕に対し、これまたいつも通りのふざけた冗談(だと思う)を挨拶代わりにやってきた。

 中央広場の噴水場、それが僕と香奈の放課後の待ち合わせ場所である。

 基本的に、この学園は同学年の場合だと授業終了時刻は変わらず、学年ごとに変わるのだが――僕と香奈は同じ二年であり、お互い部活に入っているわけでもないので、いつもこうして待ち合わせて一緒に宿舎へと帰っている。

「へえ、それは良いね。ならこの広場のど真ん中、噴水の上に立ってお互いに向き合いながらの熱いキスシーンがご要望ですよ、僕は」

「うっわそっ、それじゃ皆に観られるよー! どーせならホラ、裏庭でこっそりとかそういうシチュエーションがあたし的には好みかなー?」

「こらこら、勘違いしちゃ駄目だよ。観られるからこそ良いんじゃないか。香奈はきっとマゾだからさ、そっちのほうが興奮すると思うよ?」

「むむ……。オッケーいいよ、ほむりゃん。やろう、やりまくろうー」

「やらないよ! こんなのどっからどう見たってからかってるだけだろ! 香奈もそれぐらい気付こうよ!」

「だってあたしマゾだしー?」

「え、そこ肯定? 適当に言ったのに当たったの僕? っていうかまがりなりにも僕達は女同士なんだから、そういうのは出来ません!」

「別にほむりゃんならいいんじゃね?」

「……それ、本気で言ってるなら今日は僕一人で帰るよ」

「あう、すいません焔サマ! すごく……冗談です……許して下さいー」

 何をそんなに必死になる必要があるのか、泣きそうになりながら僕にしがみついてくる渋谷香奈(十六歳)。

 ――そういうのもこんな場所でやられちゃうとほら、人目とかね?

「はいはい、分かったから。遅刻してきたの怒ってるわけじゃないから。いつもみたいに一緒に帰ってあげるから」

「うわぁ、怒ってんじゃーん! 許してよー、今日は大事な用事があったのー」

「大事な用事? え、なにそれ。もしかして……男絡み?」

「……ちょっと見てくださーい皆さーん、まだあたし何も言ってないのにほむりゃんの顔面がすんごい事になってますよー」

「僕そんな顔してるかな? 別に男の一人や二人くらいどうでもいいんだけど、そんなにおかしいかな? あれ、でも香奈が学業関連で用事があるようにも見えないんだけどな?」

「うわーん、ないないないなぁーいっ! 男とかいましぇんからぁ! いつでもあたしはほむりゃんしか見えてないからぁ、好き好き大好きだからーっ!」

「あ、いやあの……香奈、別にそこまで言わなくてもいいよ……」

 これなんて○○コンビだよ。

 そろそろ悪ふざけも自重しないと、(まず)い噂がこの広大な敷地内を一日足らずで駆け回ってしまうかも知れない。

 僕と香奈の仲の良さは、自分で言うのも変だが、かなりの教師生徒に一部内容を大げさにして知れ渡っている事実だ――それだけでも怪しまれているってのに、このままじゃ一気に僕の株が大暴落である。

 いくら女子しかいない学園生活だからといって、性欲をもてあました一人の女生徒が同性愛に手を出しました――なんてのは、話題性で言えば最高に盛り上がるだろうが、冗談としては僕にとって最悪な部類の噂だ。

 絶対に、それだけは断固として阻止するべきである。

「とにかく落ち着こうよ、香奈。第一、こんな生活をしている僕らが男絡みで用事だなんて有り得ないよ。まだ部活の勧誘とか委員会の雑用とか掃除当番を押し付けられたとか教師の愚痴に長時間付き合ってたとか――そっちの方が、現実味があるってものだよ」

「だよねえ、そうだよねえー? 実は生徒会長の百瀬先輩にさー、委員会に薦められたのだよー」

「ぶッッッ!?」

「ほえ? どうかした、ほむりゃん?」

「い、いや……なんでも、ないよ……」

 生徒会長の百瀬って――あの何を考えているのか分からない、美人のくせに地味でメガネでもったいない上、同性愛者疑惑まである百瀬百合花ではないか。

(そういえば、彼女って生徒会長だったんだっけ……)

 しかし、あの百瀬百合花が香奈を委員会に薦めるだなんて、一体どういう事だろう。

 学力や人脈が優秀な香奈を早めに手の内にしておきたい、とかそんな理由だろうか――人を使うのが巧いというか好きそうだからな、あの人。

「それで? 薦められてそのままホイホイ付いてっちゃったわけ、香奈は」

「そっ、そんな事はないよー。ほむりゃんとのこうした日課が崩れちゃうのが一番の苦痛なのです、香奈ちゃんは。一緒に帰って一緒に晩ご飯食べて一緒にお風呂入ってまた明日ってしないと、あたしは死んじゃうのー」

「それはちょっと、いくらなんでもオーバーだよ……」

「そうかにゃ? ま、そーゆーわけで誘いはお断りしましたー。さすがにすっぱり切っちゃうのもかわいそうだったので、休み時間とか空いてる時間は手伝いとかするって言う話にはなったんだけどねー」

「へえ、香奈にしちゃ珍しい。僕と同じで、香奈もそういうのって好きじゃないだろ? 部活も入りたがらないしさ」

「ある意味、それがあたしにとっての譲歩でもあったわけなのです。なんてったってあの先輩、色々すごかったからさー。なんてゆーの、威圧感とか?」

「ま、分からなくもないけどね……。あの人の考えてる事なんて僕にはまるで理解出来ないし」

「あれれ、ほむりゃん。もしかして百瀬先輩と面識あったりするのかなー?」

 まずい、うっかり言わなくても良い事を口にしてしまった。

「あ、あー……うん。まあね、なんていうか……ちょっと、色々ありまして」

「ふむぅー? なんだか怪しいなー、怪しいぞー。色々って何が色々あったのかなー、香奈ちゃん気になってまいりましたよー?」

 さっきの仕返しのつもりだろうか、今度は香奈が詰め寄るようにつっかかってきた。

 まさか正直に『先輩に愛の告白されちゃいました』なんてぶっちゃけるわけにもいかないだろうし――くそ、どうしたものか。

「うっわ、顔赤くなってるよほむりゃんってば! ま、まま、まさかこれはウワサの禁断の愛が生まれました的な展開の予感……?」

「えっ? な……なっ、なんでそんな事わかるんだよ!」

「あれー、図星ー? これはショックだよあたし、大分きたよ相当きっついよー? まさかこの香奈ちゃんを置いてそんな事になってたなんて……酷い、酷いよほむりゃん!」

 いつの間にか攻守逆転である。

 おかしい、今日は調子が悪いのかも知れない。

「とりあえず落ち着こう、香奈。まずは僕の話を――」

「あら、こんな所で何をされていますのかしら。大事な用事ってもしかしてこの事ですの、渋谷さん? それに奇遇ですわね、焔さん」

 なんとか香奈に弁解をしようとしたその時、ふと左隣から声がした。

 ナイスタイミングで――いや、僕にとっては正直バッドタイミングだとしか言いようがないけれど――やってきた一人の女生徒、百瀬百合花がそこにいた。

 噂をすればなんとやら、なんてのはただの迷信ではなかったらしい。

「も、百瀬百合花……」

「なんですの、焔さん。いきなりフルネームで呼び捨てにしないで下さいな」

「せっ、先輩っ! これはその、あのー」

「別に言い訳は結構ですわよ、渋谷さん。前々からあなた方が共に登下校を行っている事ぐらいは周知の事実ですし、こういう事も想定の範囲内ですわ。今更それを目撃されたからといって、まさかわたくしが知らないとでも思っていましたの?」

 いきなり現れ、いきなり絡んできた百瀬百合花のターンが始まった。

「こちらの誘いを断られる事も予想済みです。大事な用件だとまで言うものですから、てっきり別件だろうとも考えましたが――いえ、もういいでしょう。それよりも、今はこうして偶然居合わせた幸運を祈るべきですわね」

 こうまで言われると本当に偶然なのか、狙ってこの場に居合わせたのではないかとまで疑えてくるが――そこまで僕も詮索は出来ないし、する必要もない。

 どちらかといえばこの機会を利用して、先程の話をうやむやにするチャンス――それを利用すべきだろう。

「で、お話を元に戻しますけれど。あなた達、こんな広場のど真ん中で何をしてらしたのかしら?」

「ああ、それは――」

「単刀直入に聴きます先輩。先輩は、ほむりゃん……あ、いや、この紅条焔さんの事をどう思っていますかっ?」

「ちょっ、ばか、香奈それは――」

「なるほど……それは確かに率直な質問ですわね。ううん、こんな広い場所でこのような事を堂々と公言してしまっても良いものか少し悩みますが……。ええ、別にいいでしょう。これもまた運命です。ここで高らかにひとつ宣言してみるのもまた一興、ですわね」

 僕の必死の抵抗も空しく、二人の少女――渋谷香奈と百瀬百合花は、まるで対立する龍虎のように向かい合って、

「わたくし、先日、こちらの焔さんに愛の告白をしました」

 胸に手を当てながら、百瀬百合花は誇らしげに高らかと宣言した。

(うわ、マジで言っちゃったよ……)

「……へーえ、そうなんですかー。あれ? まさか本当だったとは思わなかったかなー。ねえどう言う事なのかにゃー、ほむりゃん?」

「え、いや別に僕はその」

「あら、ご安心して下さい渋谷さん。その件でしたらわたくし、ものの見事に撃沈しましたので。それはもう、数秒とかからずに即答で」

「即答……? ほむりゃん、それもどうかと思うよー? まさか相手が本気だと思わなかったんじゃないよねー?」

「だからあの、まず前提からしておかしいわけで」

「ですが、別に諦めたわけではありません。こう見えてわたくし、根はしつこい方ですから。さっぱりすっきり断られた後の今現在でも、この世に焔さん以上の人は居ないと、わたくし断言できますわ」

「ほーう。だってさー、ほむりゃん。羨ましいなー、羨ましいよー。あたしはそんなほむりゃんが羨ましくて仕方がないねー」

 もう嫌だ、そろそろ本気で疲れてきた――この二人に関しては、真剣に口走っているとしか思えないから余計に疲れてしまう。

「ま、いいや。悪ふざけはこの辺にしとこうー。それよりも、百瀬先輩。さっき、この世にほむりゃん以上の人はいない、とか言いましたよねー?」

 ふと、急に真面目な声色になった香奈が、正面に立ちすくむ百瀬百合花に対してそう言い放った。

「ええ、確かに言いましたけれど。それが、なにか?」

「いえー、別にどうって事じゃないんですけどねー。他人の気持ちを詮索するなんてのは最低のする事だしー。でもね、これだけは聴かせておいて下さい先輩。それは紅条焔の全てを知った上で、本気で言っているんですか?」

「ふふ……なるほど。さすがは焔さんの唯一無二の親友、と言ったところですかしら。そうですわね……その質問に対しては、あえて答えない事にしましょう。あくまで、今は」

 なんだろう、この空気――さっきまでとは一転して、なんだか凄く重苦しい――って言うか、もしかしてこれ僕が原因ですか?

「ま、まあ二人とも。とりあえず僕はね、今はそういうの無しだから。うん、そんなわけでそろそろ宿舎に戻――」

「あー、なるなる。なんとなく解りましたよ先輩。あの時にこのあたしを勧誘したのは、そういう意味があったからなんですかー?」

「あら、別にそんなつもりはありませんわ。ただ本当に、あなたの手を借りたいと純粋に思っただけの事ですから。それにわたくし、そこまで姑息な手段を取るような人間ではありません」

 まったく聞いてないよ、この二人。


  ◆


 香奈、百瀬先輩の両名をなんとか(なだ)めて宿舎へと帰宅してきた僕は、宿舎内にある食堂で夕食を済ませ、そのまま二人と別れて自分の部屋へと向かっていた。

 この宿舎は部屋のひとつひとつが狭い代わりに、生徒一人につき一つの部屋を与えられる――とは言っても食堂の他にも大浴場や大広間など、生徒達は基本的にそういったスペースでくつろいでいる事が多く、言ってしまえば自分の部屋なんてものは私物を管理する倉庫であり、後は一人で勉強するかテレビ見るか寝るか、それだけの為にある場所と言っても過言ではない。

 コンクリートで出来た棘薔薇女学園の校舎とは打って変わり、この生徒用宿舎はどこか田舎にでもありそうな和風の旅館のような作りをしていて、僕はこの宿舎がいたくお気に入りだったりする。

 学園に通う生徒のほぼ全ては、基本的にこの宿舎で寝泊りするのがこの棘薔薇女学園における原則なのだが、まれに外から通学してやってくる生徒も少数ながらいるらしい。

 だが――それも本当にごく僅かで、ほとんどの生徒達はこの宿舎で暮らしている。

 そんな事もあって、この学園は他の学校とは比べ物にならないくらい、生徒間の仲が良い――稀に不良みたいな子達もいるが、そういうのは別でグループを組んでいて、普段は互いに干渉しないし、僕も一部を除いて彼女らとはあまり面識がない。

 そう言った関わりの少ない者達を除き、こうして一人で廊下を歩いているだけでも、数多くの生徒が声をかけてくる。

「あら、紅条さんじゃない」

「ん? ああ、こんばんは。船橋さん」

「聴いたわよ、今日広場で取り合いされたんですって? 羨ましいわね、モテる人は。でも、女の子にモテる女の子って何なのかしら。カリスマ、とか言うやつ?」

「……えっとさ、その噂ってもう大分広まっちゃってたりするのかな」

「そうねー、多分この階のみんなはもう知ってるんじゃない?」

「うわ……。くそ、最悪だ……」

「わわっ、生徒会長とロリートに大人気の紅条焔がいますっ!」

「こ、今度は一之瀬さんか。後ろからいきなり大声出さないでよ、驚いた」

「おお、紅条。百瀬先輩と渋谷に取り合いされたんだって?」

「佐久間さんまで、ちょっと止めてってそういうの……。ほんと、何もないんだから」

 次々と現れる三人の少女達――彼女達は通称・三姉妹と呼ばれる三人組で、僕と同じ二年生である。

 一人目――船橋由香利(ふなはしゆかり)

 金髪ロングに黒のカチューシャを着用、三姉妹のリーダー的存在であり、いつも会うたびに上から目線でものを話してくる少女。

 二人目――一之瀬灯(いちのせあかり)

 桃色がかったショートカットと左右に飾られた細長い赤リボン、三姉妹の三女的存在で、僕の事を一度たりともフルネーム以外で読んだ事がない、おかしな敬語口調で喋る少女。

 三人目――佐久間飛花里さくまひかり

 青髪のポニーテールにすらりと伸びた体躯、三姉妹の第三者的というか傍観者的存在であり、女の子とは思えないような男らしい態度や言動をする少女。

 どうして彼女達が三姉妹なのかというと、いつも三人でつるんでいるからと言うだけで、苗字の違いを見れば解るように本当の姉妹と言うわけではない。

 名前がそこはかとなく似ているけれど、まったく関係ないのでご了承。

 ちなみに生徒会長=百瀬百合花なのは解りきっているとして、ロリートっていうのはあの渋谷香奈の事だ――見た目がロリータで中身がエリートだから合わせてロリート、なんてあだ名で呼ばれている。

 もっとも、そんな呼び方をする知り合いの生徒達は少ないのだが――一之瀬さんが命名して以来、少なからず周りの人間も真似をして使い始めた印象がある。

「ふーん? そんな事はないって、もしかして紅条さん……二人とも蹴ったわけ?」

「蹴った、ってそれはまた悪い言い方を……だからさ、皆はまず前提ってものを――」

「わー、酷いです紅条焔! 女の子の気持ちをなんだと思ってんですか!」

「あのね、一応これでも僕だって女なんだけど――」

「……紅条。君の気持ちも解らなくはないが、乙女の心と言うものは実に純粋で壊れやすく脆いものだ。それを何の考えなしに蹴り崩してしまったと言うのは、少し感心しないぞ」

「ええい、佐久間さんだって何も解ってないじゃないか……! まず僕が女性だという事と、あの二人も同性だっていう事を考慮して――」

 ようするに、今日の僕は調子が悪いという事でひとつ。


  ◆


 僕は、あの三姉妹をどうにか言い聞かせて――本当に納得したのかはさておき――今度こそ自分の部屋へと戻って来ていた。

 四畳半程度のワンルームに近い広さの部屋、そのドアの鍵を開けて中へ入ると、畳の上にある布団の上にひとり座りながら、こちらを向いている少女の姿を確認した。

「ふう、ただいま。麗華ちゃん、ちゃんとご飯は食べた?」

 久峰麗華(くほうれいか)

 枝毛ひとつ見せないすらりと伸びた綺麗な黒髪、他に見ないほどの白い肌は脆く今にもひび割れてしまいそうな卵の殻のようだ。

 服装はこの学園の敷地内では滅多に見られないような黒いレースの付いたドレスを纏い、場違いなほどに優雅なイメージを連想させるような落ち着きを持った少女。

 年齢は推定だが、恐らく十二、三くらいだろう。

 今日の昼休み――百瀬百合花との会合で得た情報、あの戦闘狂の『久峰』という苗字。

 こんな偶然なんて本当にあるのか、と現実を疑ってしまうが――

「……ご飯は全部食べた。そこに洗った食器、置いてる……」

「そっか、偉いね。この部屋からは一歩も出てない?」

「……うん。言われた通りにしてる……」

 この物静かな彼女がどうしてここに居るのか、一言で現すと――拾ったのである。

 それも学園の敷地内、この宿舎のすぐ近くで、だ。

 名前は彼女の持っていた携帯を見て把握した――と言っても携帯の電池は切れていて、裏側に張られた白いシールの上に書かれた名前を見たのだけれど。

「よし、いい子だ。実は今夜も少し用事があって部屋を出なくちゃいけないんだけど、ちゃんとここで静かに寝ていられる?」

「……大丈夫。迷惑は、かけないから……」

 宿舎近くで倒れていた彼女を拾い、部屋にかくまったのは良いのだが――ここからが問題だった。

「それで……何か、思い出せた事はない?」

 彼女――久峰麗華は、記憶喪失だった。

「……ごめんなさい、なにも……」

「いいよ、気にしないで。麗華ちゃんはここでゆっくり思い出せばいいんだから、ね」

「……ありがとう……」

 普通なら、記憶喪失の女の子を拾ったなんて時点で警察やら救急車でも呼ぶべきなのだろうけれど――目を覚ました彼女は一言、僕にこう言った。

 『……お願い、助けて……』――と。

 彼女を拾ったその日からすでに三日が経っている。

 傷も塞がってきているし、疲労も恐らく回復しただろう。

 あとは彼女の記憶さえ戻れば、何事もなく彼女を元の生活に帰す事が出来る――そう思っていたけれど、どうやらその時を待つ事もなく事態は解決しそうだった。

 何にせよ、これで僕にもあの戦闘狂と会って話す理由が出来たって事だ。

 今夜――あの戦闘狂との、二度目の邂逅。

 それが恐らく全ての起点になるだろうと言う事を、僕は薄々と勘付き始めていた。



  ◆


 久峰零次は、夜の街を一人孤独に彷徨っていた。

 人気のない静かな川沿いの砂利道を、どこか辛そうな表情を浮かべながら、よろよろと右肩を左手で押さえながら歩いている。

「ちくしょう、あんの野郎……。一体どこに目を付けてやがるんだ、クソッ!」

 その右肩から肘にかけてまっすぐに伸びる赤い筋――ぽたり、と地面に落ちたそれは、正真正銘の血だった。

 久峰零次は、とある能力者との戦闘で負傷してしまったのである。

 この街に住む能力者ならば、ほとんどが知っている『殺人鬼』と呼ばれる能力者、それが久峰零次であり――その呼び名通り、零次はこの街に住む能力者達と片っ端からの殺し合いをしている。

 その圧倒的な力の前に、ほとんどの能力者は敗北し殺されるか、運良く逃げ出すかのどちらかだと言っても過言ではないのだが――今日、ついに久峰零次が敗北した。

 相手はあまり名も姿も知られていない程度の駆け出し能力者だが、その強さは、零次が今まで出会ってきたそれらどれよりも格段と言えた。

(背後から、確実に気配を隠して近付いたはずだ。だって言うのにアイツ、振り向きもせずにこっちに気付きやがった。しかも、それだけじゃねえ――何なんだ、あの能力は?)

 ぽたぽたと落ち続ける血液を、零次は力を込めて左手で止血し続ける。

 だが、ここまでやってくるまでにもうかなりの時間が過ぎていた――このままでは出血多量で倒れてしまってもおかしくはない。

(……チッ、柄にもなく妹の仇だなんて粋がるからこのザマだ。死んだ人間の敵討ちだなんて、オレはいつの間に正義の味方風情に成り下がっちまったんだ)

 久峰零次には、一人の妹がいた。

 その名を、久峰麗華と言う。

 今年で十九になる零次とは六歳も離れた十三歳の少女――まだ中学に入ったばかりで友達さえ少ない妹が、つい三日前に殺されてしまった。

 殺された――とはいっても、零次自身が殺害現場を目撃したわけでもなし、死体を確認だってしちゃいない。

 だが、零次は確かに聴いた。

 携帯電話越しに聴こえる、妹の声を。

 『助けて』という、麗華のただ一言の叫びを――聴いた。

 通話が切れてからは何度かけても繋がらず、最終的には電池切れになったのだろう――電波が届かない云々(うんぬん)の機械音声が流れるだけだった。

 久峰零次が生粋の超能力者であるように、妹の麗華もまた、しがない超能力者だった。

 零次がこの街で暴れているという噂はすでに町中に浸透していたし、その妹が見せしめに狙われるなんてのは、決して珍しくはないケースだ。

 むしろ、力では敵わない零次に対する牽制として、その妹を狙った――と、考えれば筋は通る。

 その妹が生きてさえいれば、だが。

 あれから三日経った今でも、妹から何の連絡さえない――三日間の音信不通――それは、あまりにも残酷な現実を零次に突きつける。

(……あいつ、笑っていやがった。やってないとは言っていたが……あの顔は、このオレと同じ――殺しを楽しんでいるものの顔だ。今日は上手く逃げたが、明日……今度こそ、ケリを付け――)

 久峰零次は、夜の街をその鋭い眼光で睨みつけながら――最後の力を失い、その場に倒れ込んだ。


  ◆


 棘薔薇女学園、その生徒達が一堂に会して暮らしているこの宿舎には、和風な作りの建物にピッタリの天然温泉がある。

 建物の一階、その五分の一くらいのスペースを使用した大浴場は、昼夜問わず宿舎で暮らす少女達にとって憩いの場となっていた。

「うわっ、なんなのこの巨乳パラダイスはー? あたしの居場所がまるでないよ!」

 通称ロリート――渋谷香奈が、真っ先に浴場を見回した感想がそれだった。

「いちいち毎度のごとく叫ばないでよ、香奈……。一応屋外なんだから、ヘンなとこまで聴こえちゃうかも知れないし」

 僕――紅条焔は、友人の香奈と偶然居合わせた三姉妹に連れられて、夜の大浴場まで足を運んでいた。

 さすがはロリートと言うべきか、ないところは問答無用で皆無である。

 仰向けに寝かせて横から見れば、恐らくそこには水平線が見える事だろう。

「……ま、かく言うこの僕もつるぺた同盟の一員なわけで」

「おー、つるぺた同盟! いいねー、なんだかあたしの居場所が出来たみたいで心地が良いねー。どうせならこのあたしが入浴する時間帯はつるぺた同盟のメンバーのみしか入れない事にしちゃおっかー?」

「出来るものならどうぞ。僕としちゃ、別に胸が大きかろうが小さかろうが、どちらも同じようなもんだと思うけど。ってか、無いほうが楽そうじゃない? いちいち重いものを付けて歩くのって、凄く邪魔くさい気がするんだけど」

「なんというポジティブ思考……、ほむりゃんは間違いなく女じゃないねー」

「悪かったね、僕だってこれでも気をつけてはいるつもりなんだよ」

「ん? あ、いやいや。別に香奈ちゃんはそういう意味で言ったわけじゃないんだよー?」

 二人、真っ裸で浴場のど真ん中に立ちつつ、他人から見れば何を話しているのか意味が解らないようなトークを繰り返しているうちに、一緒に来ていた三姉妹もようやく浴場へと姿を現した。

「あら。今日も見事なお子様っぷりね、渋谷さん?」

 ゆっさゆっさとナイスバディを白いタオル越しにちらつかせながら、三姉妹リーダー・船橋由香利が香奈目掛けて先制攻撃を仕掛ける。

 いつもの事だが、何の脈絡もなくケンカを売ってるとしか思えないぐらいの発言をよく出来るものだ――と、少し呆れを通り越して感心さえしてしまった。

「むむむ、貴様は入ってくるなー。あたしと一緒に入っていいのはあくまでつるぺた同盟団員だけなのー」

「あら、胸が無いと女としてどんな得があるの? 言っては悪いけれど、大きいに越したことはないのよ、胸なんて」

 ほらほら、と胸元を反らしながら、無駄にアピールを繰り返す船橋由香利。

 その度に口惜しそうな表情で、その揺れる果実を睨みつける渋谷香奈。

「ああーっ、紅条焔! いくら女子だけの場だからといって、仁王立ちで素肌を晒すだなんて唯我独尊にも程があるのです、不潔ですっ! うあ、そこのロリートもまったく同じ格好じゃないですか! これは酷いです、見るに耐えない光景ですっ!」

 次に一之瀬灯の登場である。

 僕の姿を見つけるなり、いきなりフルネームで名指しってのはどうなんだろう。

「別に、見られて困るものは付けてないつもりだけど?」

「な、ななな……! 付けていない、とはどういう意味ですか! 貴女はそれでも女の子ですか、この性犯罪者っ!」

「……うん、ごめん。今すごく聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。えっと、何だっけ。僕が、一体何だって……?」

「ひ……! 食べられちゃいます! 灯、食べられちゃうーっ!」

「くそ、どうして僕はいっつもそっち方面のネタに持っていかれるんだ。この、待てっ!」

 バスタオル一枚の小さな――香奈ほどではないが、なかなか幼さが残っている――少女を、真っ裸で追いかける僕。

 あれ、もしかして結構ヤバいですか?

「おいおい、騒ぐのも控えめにしておきなよ。ここは共有の場なんだから」

 最後の一人、佐久間飛花里さんがやってきた。

 彼女は長い青髪を下ろしていて、いつものポニーテール姿とはうって変わった印象を受ける。

 もちろんバスタオル――は、何故か見当たらなかった。

「ああああああッ! 飛花里、飛花里がバスタオルを付けてないですーっ!」

「ん? ああ、遠目で見てたらなんだか面白そうだったんで、つい」

「……佐久間さん」

「おお、なんだ?」

「バスタオル無着用の僕が言うのもなんですが、そのスタイルでタオル無しは、ちょっと」

「拙いのか?」

 不思議そうに首を傾げるその彼女は、贔屓目に見てもまさか十代だとは思えない程のプロポーションをしていた。

 その高くスラリと伸びた身長にぴたりと合う流麗なスタイルは、いくら同性とはいえ誰でも顔を真っ赤にしてしまいかねない代物である。

 それをバスタオル無しで堂々とされてしまっては、皆が皆、目のやり場に困ってしまうに違いなかった。

「マズいっていうか、その。そういうのは、僕や香奈だからこそ出来る技というか。佐久間さんがやっちゃうと、裏技の域っていうか」

「私としてはなかなか気に入っていたんだが……、たまにはこういうのも悪くはないだろう? まあ……しかし、確かにこのままだと灯がうるさいからな。素直にいつも通りにしようか」

 佐久間さんは真面目な表情で頷き、呟きながら脱衣場まで戻っていった。

(あー、危なかった。佐久間さんみたいな核弾頭クラスの人があんな行動に出ちゃったら、いくらみんな女だからって目のやり場に困るって……)

 僕としては、そもそも恥じらい云々の前に、僕自身の自覚の問題なんだけれど。

「おっと。おや、この時間帯に来られるとは珍しい」

 ふと、脱衣場の方から佐久間さんの声が聴こえてきた。

「ええ、少し気が向いたもので。それより、中が何だか騒がしいようですが――」

(……まさか、この展開は)

「ああ、うちの身内が少し。あいつらはこの私でもそう簡単には鎮められませんので、好まれないのであれば、時間を改めたほうがいいと思いますよ。百瀬先輩」

 ぺたん、と、誰かが浴場の石床を踏む音が響き渡った。

「構いませんわ。今日は少し用事もありますから」

(うわ、やっぱり……ッ!)

 バスタオルを着用し直して浴場に戻ってきた佐久間飛花里の隣にいたのは、一年先輩で生徒会長、ついでに現在進行形でストーカー疑惑のある百瀬百合花その人だった。

 ピンクのバスタオルを胸元に巻いたそれだけの格好で、堂々と腰に手を当ててその場に立っている。

 恐らく大浴場にいる誰もが、生徒会長の登場に驚き、目を向けていた事だろう。

 だが――彼女の視線は他の誰でもなく、この僕へと向けられていた。

「……あ、どうも偶然で――」

「ああんっ、焔さん!」

「うわぁ! な、何なんだよもうっ!」

 僕が返事をすると、百瀬百合花はこちらへ向かって駆け出した。

 ここが浴場である事など、まったく気にしていないと言わんばかりの猛ダッシュで。

「これで今日は三度目ですわね。なんと言う幸運……わたくしは嬉しいですわ、焔さん」

「は、はあ」

 僕が地面に尻餅を付いた状態で彼女を見上げていると、百瀬百合花は僕を見下ろしながら気持ち悪いくらいの笑みを浮かべた。

 よく見れば、いつもつけている眼鏡がなく、髪も三つ編みではなく頭の後ろで丸めて止めている。

 普段見ない彼女の素顔を真正面から見てみると、やっぱりというか、かなりの美人だった――もったいない、という僕の得た第一印象は間違っていなかったわけである。

「それにしても、焔さん?」

「……はい、なんでしょう」

「わたくしとしましては、そのような格好ですと誘われているようにしか思えないのですが――そのまま解釈してしまってもよろしいですかしら?」

「へ?」

 そこまで言われて、ようやく僕は今の自分がどんな状態なのかを把握した。

「うわ、うわあ! 僕は別にそういうつもりじゃ――」

「……ほむりゃん。まさかこんな大衆の目の前で堂々とー?」

 船橋由香利との言い争いに負けたのか、口惜しそうな顔をして現れた香奈が僕の大胆不敵ポージングを眺めながら呟いた。

「へえ、紅条さんってやっぱりそっちの……」

「わわぁ、紅条焔! なんですかその全力開脚モードはーっ!」

 香奈に続くように、隣に立つ船橋由香利と一之瀬灯が、それぞれ神妙な面向きで僕を注視する。

「いやあの、だからこれはですね――」

「ああっ、焔さん!」

 がばぁっ! と、百瀬百合花が僕目掛けてダイヴを敢行――この体制では避けきれず、僕は仕方なくそれを両手で受け止める。

 瞬間――おおーっ、と言う観客の歓声が沸いた。

「ナイスキャッチですわ、焔さん」

 何なんだよ、もう。


  ◆


 大浴場の温泉は、宿舎建設当時に偶然この地に湧き出たと言われている、正真正銘の天然ものである。

 突然の百瀬百合花の登場によるハプニングもなんとか落ち着き、僕はその百瀬百合花と二人、夜空の下で湯に浸かっていた。

「相変わらず最高ですわね、ここの温泉は」

 まるで天国にでもいるのかと思えるくらいの心地良さそうな声色で、隣で湯船に浸かりながら夜空を見上げている百瀬百合花がそう言った。

「……どうでもいいんだけど、もうかれこれ三十分は浸かりっぱなしだよ。そろそろ出ないと、僕も百瀬先輩ものぼせちゃうと思うんだけど――」

「百合花、ですわ」

「……はあ。名前なら知ってますけど?」

「くどいですわよ、焔さん。わたくしが名前で呼んでいると言うのに、あなたはわたくしの事を名前で呼んでは下さらないのかしら?」

「いやでも一応、一つ上の先輩なわけだし――」

「あら……、焔さん。あなた、本当にそう思っていますの?」

 夜空を見上げていた百瀬百合花は、僕のほうへと目線だけ移し、まるで全てを見透かしているような瞳で僕を見つめながら――ただ、それだけを口にした。

「それは――」

「良いではないですか。わたくしがそう呼んで戴きたいというだけのお話ですし。それに、好きな方に名前で呼ばれたいだなんて、乙女らしくて素敵でしょう?」

 やはり、僕にはこの人の考えている事だけはまったく解らない。

 一体どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか――何でも解りきっているとでも言いたげな言動は、本当はどこまで理解して口にしているのか――解らない。

「……解ったよ、これからは百合花さんって呼ぶ。それでいい?」

「ええ、とても素晴らしい響きですわ。さん付けも無くなれば更に良くなるのですが、それは今以上に親しくなってから――と言う事にしておきましょう」

(やり辛いなあ……、冗談だとは思えない所が特に……)

 僕は元々バスタオルなんて着けていない状態でこの大浴場まで足を運んでいる――その為、今でも全開の真っ裸で入浴中である。

 百瀬百合花はと言うと、バスタオルを付けたまま入浴するなんていう、行儀の悪さは覚えていないらしい――僕と同じく真っ裸で、バスタオルはすぐ傍に畳まれていた。

 つまるところ、今の僕達は風呂場とは言え互いに裸で顔をつき合せているわけである。

 それだけでも十分に親しい間柄のように思えるし、これ以上彼女との関係が親しくなるなんて事は、出来れば僕としては避けたいところだ。

「さて……人も居なくなって来たところですし、そろそろ本題に入りましょう」

「それじゃもしかして、ずっと僕を引き止めてたのは――」

「ええ、今夜の事についてのお話を。まだ詳しい作戦説明もしていませんでしたので」

 三十分もこうして僕を連れて入浴していた理由はそう言う事だったのか。

 それならそうだと先に言っておいて欲しいものである。

「――って、ちょっと待って。作戦、って……最初から百合花さんは戦うつもりがないんだろ? それなら、正面からいけばいいだけじゃないか。少なくとも、僕はそうすると思ってたけど」

「それは出来ませんわ、焔さん。何故このわたくしがあなたを共に連れて行く必要があるのか、お分かりですかしら?」

「それは、僕が久峰零次と面識があるから――」

「いいえ。いざと言うときのボディガードになって戴く為、ですわ」

「……まさか、向こうから仕掛けてくる、と?」

「少なくともわたくしはそうでしたから。それに、向こうはわたくしの姿を覚えているはずです。もしもわたくし自身に対し、この間に狙われた何らかの要因があるのだとすれば――前回同様、わたくしが標的にされる可能性だって捨てられませんわ」

 それは――確かに、有り得ない話ではない。

 僕があの戦闘狂とやり合った時は、どちらかといえば僕から先に仕掛けたようなものだった――と言っても、僕に彼女の姿は見えていなかったし、あの廃工場へと入っていった僕に彼女が気付き、その姿の見えないまま、

『……テメェ、敵か? このオレに会いに来たっつー事は、ようするにそう言う意味だよな?』

 静寂な建物内に響き渡るその言葉が、戦闘開始の合図となった。

 事前に久峰零次の能力発動条件について理解していた僕は、最初から相手の姿を見ようともしなかったし、出来る事なら背後を取っての一撃必殺――それだけを狙い、後手に回っていた。

 そして、結局はあのザマだ。

「……こう言ってしまうのも何だけど、僕じゃボディガードは勤まらないと思うんだけどな。正直、昼間にも言った通り――僕じゃ、彼女に勝てるとは思えない」

「謙遜、ですわね。いえ、きっとあなたは未だに自らの持つ可能性に気付けていないだけなのでしょう。……大丈夫ですわ、今回は本当にただの保険として付いて来て戴くだけですから。もし自分の命の危険が迫っていると感じれば、その時はわたくしを見捨てて自らの命を優先して下さって結構です」

「いや、それは」

「とにかく、焔さんは万が一の事態に備えて下さればそれで良いのです。後はこちらでやりますし――」

 百瀬百合花は、怯えの一つも見えない不敵な笑みを浮かべながら、

「このわたくしだって、あなたと同じ場所に立っている一人の能力者なんですわよ?」


  ◆


 夜――九時半になると、この宿舎は消灯の時刻となる。

 大抵の生徒は消灯後になると自室で静かに過ごすのだが、ごく僅かにそのルールを守らない不良生徒達が存在していた。

「ねー、濠夜(ほりや)ぁ。ここ暗いしさ、早いトコ外いかねー?」

「うっせーんだよ、静かにしてろバカ。まだ消灯時間から一時間も経ってねーんだ、官僚のクソ共が見回りにきたらメンドくせーだろーが。出るにはまだはえーっての」

「ま、あたしは別にいつでもいいけどねー。こうやって暗がりの中でヒソヒソ話して過ごすって言うのも、それはそれでオツなものだと思うしー」

 宿舎の中では、消灯時間後でもまだ開いている場所がある。

 宿舎を数十分ごとに見回っている官僚がやってくるという危険性もあるのだが――ここ、夜の食堂だけは、他と比べると比較的安全だと言えた。

 何しろ隠れる場所が多く、その空間の広さもあってか、見回りが来たとしても大抵は適当に中を眺めてすぐ立ち去るパターンがほとんどで、厨房にいたってはチェックさえされない始末である。

 夜の十時――三人の不良少女達がそこに集まり、夜の街へと出かける為の時間潰しに暮れていた。

「それよりほりちんさ、今日お風呂入ったー? 何だか匂いますよー?」

 三人の中で飛び抜けて背の小さい、ピンクのブラウスに短い紺色のスカートを履いた私服姿の少女――渋谷香奈は、隣で身を屈めている黒髪短髪の少女を見下ろしながら、細々とした小さな声で呟いた。

「入ったっつーの、このロリアマが。それと何度も言ってんだろ、ほりちんはやめろほりちんは。普通に名前で呼びやがれ、ちん付けされると恥ずいんだよバカ」

 香奈がほりちんと呼ぶ少女――倉坂濠夜(くらざかほりや)は、心底うっとうしそうな顔をしながらそう言った。

「恥ずかしいだってさ、聴いた? いいよー香奈、もっと言ってやれっ」

 からかうように声を上げたのは、三人組の中でもっとも背の高く、短い銀髪に他の二人とは違って未だに制服を身に着けている少女、二年の綾峰雫(あやみねしずく)である。

「チッ、騒ぐんじゃねえよクソバカ共が。見つかったら三年のオレがめんどくせー目に合わなきゃいけねーんだ、ちょっとは自重しやがれ」

 倉坂濠夜は、この三人組の中で唯一の上級生であった。

 この宿舎で何らかのトラブルが起きた場合、基本的にはその原因であるものが複数であれば、その責任は全て上級生が負うルールとなっている。

 その為、特に三年生は滅多な事では面倒事に首を突っ込みはしないし、自ら何かをやらかそうなんて考えも起こさない――その為、下級生からしてみれば、それは結果的に模範となり、この宿舎は全体的に平和な風潮で落ち着いているのが普通であった。

 だが――彼女ら三人のような不良グループと呼ばれる一部の生徒達に限って、それは関係のない例外だ。

 味方の少ないこの宿舎に、彼女達不良グループの居場所なんていうものは滅多に作れたものではない――少なくとも、香奈以外の二人はそうである。

「ったく。見つかるつもりはねーし、責任取る気だってさらさらねーけどよ。万が一そうなったら綾峰、テメェもう絶交だなあ」

「えっ……、それは嫌だって、濠夜ぁ!」

「そんなら静かにしてろっての。……フン、来やがったみてーだな」

 え? と、濠夜の声に気付いて身を屈める二人が、厨房の隙間から食堂の入り口に視線を向けると――

「……うわ、あれって暮凪(くれなぎ)じゃね? スパルタで有名の美人眼鏡!」

「黙ってろってんだろ、カス。……しっかしヤベーな、よりにもよってアイツか」

「ふーん。あたし知らないんだけど、あの官僚って何かあるのー?」

「ああ、アイツだけはこの食堂もしっかりチェックしていきやがる。まさか今日が当番だったとはな――」

「策はー? ほりちんの事だから、当然考えてあるんでしょー?」

「そりゃあるが……この三人じゃ、動くにしても音を立てずにってのはさすがに無理だろ。チッ、このノッポバカがいなけりゃ、少しはマシだったんだが」

「うわ、ノッポバカだってさ。酷いなー、かわいそうだなー。ねー、しずちん?」

「……」

「しずちんー?」

「いつまでバカ相手に喋ってんだ、渋谷。……来るぞ」

 懐中電灯を片手に、長い茶髪を靡かせ、教職員用の白い服を着た通称・美人眼鏡が、そのライトの光を厨房へと向ける。

「……いいか、出来る限り背を低くしろ。この厨房には出入り出来る場所が二つある。アイツは左側から来るはずだ、それに合わせてこっそり右側から出る。出来るな、渋谷。綾峰」

「オッケー、任せといてー」

「………」

「オイ、綾峰。解ったのか」

「…………」

 まるで落ち込んだ子供のように、膝を曲げて顔をうつ伏せにしたまま、雫は返事すらしない。

 もう時間がない――濠夜は、その肩を右手で思い切り揺さぶった。

「何してんだよバカ、早くしないと見つかっちまうだろーが。見つかったら絶交だっつっただろ、聴いてんのか綾峰!」

「……だって、黙ってろって言われたんだもん」

「だーっ! 解ったもう黙ってなくてイイから、とにかく今は逃げる事だけ考えやがれ!」

「……うん」

「ヤバいよー、二人ともー。もうそこまで来てるよー」

「チッ――」

 こつん、こつんと靴の足音が響き渡る。

「誰か、そこにいるのですか?」

(マズいな、こりゃ)

 倉坂濠夜は考える。

 ここに自分達がいる事はもうバレている――あとは自分達の正体がバレないよう、なんとか顔を見られずにここから逃げ出す方法を――

(……やるしかねーか。チッ、出来る事ならあんまし使いたくなかったが、仕方ねーな)

 濠夜は後ろにいる二人の少女を横目で見る。

「お前ら、オレがここはなんとかしてやる。先に行け」

「へ? でも、それじゃほりちんは――」

「いいからいけよ、渋谷。テメェは解るだろ」

「……なるなる。オッケー、あたしに任せとけー」

「ちょっ、ちょっと待って香奈。濠夜を放って――」

「大丈夫だよー、しずちん。ほりちんは最強だからねー」

 香奈はそれだけ言って濠夜に一瞥をくれてから、雫を連れて反対側の出入口へと姿勢を屈めたまま走った。

「……? 誰です、そこにいるのは!」

 さすがに物音に気が付いたのだろう――官僚の美人眼鏡がそちらへと振り返る。

(させねーよ、クソ野郎!)

 ガダン! と物音がした。

 香奈と雫は全力で背を向けて走っていた為、その物音が一体何のものなのか、その目で確かめる事は出来なかったが――

「な、なんですか、これは……っ!」

「わりーね、美人眼鏡の官僚さん。生憎ながら、こんな事でバレちまうワケにゃいかねーんだよ、オレは」

 食堂にあるテーブル、その一つが――

「そ、そこにいるのは誰ですか! 生徒ですね、名前を言いなさいっ!」

「アホかよ。バレたくねーっつってんのに、わざわざ自ら名前を言うワケがないだろ。ボケてんのか」

 ピタリと、まるでそこにあるのが当たり前かのように――

「それじゃ、オレはこれで。お勤め御苦労様。ま、せいぜい夜の食堂には気をつけるこった。何せ、ほら――」

 厨房の出入り口――食堂の奥側にある場所に立っている官僚と、もう一つある厨房の出入り口――食堂から外へと出る扉の側に立っている濠夜。

 まるで、互いを挟んで濠夜の姿を隠すように――食堂の長いテーブルが、彼女達の間に横向けになって宙に浮いていた。


「オレみてーなのが出てきちまうから、な?」


 ピシャリ、と言う扉の閉まる音と共に、宙に浮いていたはずのテーブルはその場へと落下した。

「な、何なの……。コレ……」

 スパルタで有名な美人眼鏡の官僚は――まるで幽霊でも見たかのような涙の溜まった瞳で、威厳なくその場に崩れ落ちた。


  ◆


「それじゃあ、行ってくるよ。麗華ちゃん」

 僕――紅条焔は、布団ですやすやと眠っている少女・久峰麗華にそれだけ囁いて、静かに部屋を後にした。

 扉を出て、ポケットから取り出した鍵を掛ける。

 消灯後の宿舎――それも、深夜の零時前となるとすっかり暗闇に包まれていて、前さえろくに見えない深遠が廊下の向こうまで続いていた。

「さて、と。早いとこ百合花さんと合流しよう」

 この宿舎は、夜の十一時まで官僚による見回りが定期的に行われている。

 それを過ぎれば、基本的に宿舎内は静寂と闇に包まれただけの空間になり、怖がりの子となると、夜中にトイレに行く事すら億劫になるほどだ。

 ちなみに僕は、そういうのは全然怖くないので無問題――どちらかと言えば、窓さえないこの廊下を歩く前の見えない不安感のほうが厳しい。

「ま、今日は備えがあるわけで」

 僕は鍵の入っているポケットとは逆のポケットから、一枚の紙を取り出した。

 と言ってもただのノートから千切り取っただけのもので、何か特殊な細工をしているとか、暗闇で発光するとかそういった代物ではないが――

(この紙の先端部分……よし、ここだけを――)

 物体発火。

 僕の持つ超能力であり、対象が何であろうが触れるだけで燃やす事の出来る力。

 僕は持ってきた紙の先端部分を指で摘んで、それを燃やすイメージを脳内で作り上げる。

 その直後、すぐに手を離し――その紙は、先端からゆっくりと燃え始めた。

(全部燃え尽きる数秒までの間に、ここを突っ切ろう)

 廊下をなるべく音を立てないように走っていくと、曲がり角が見える。

 そこを曲がる直前、紙は燃え尽きて灰になり――そして、灰でさえ残らず消えていった。

 廊下の曲がり角を左折すると、その先に宿舎の出入り口が見える。

 僅かな明かりが照らしているその場所へ、僕はまっすぐに向かっていって、

「あれー? ほむりゃんじゃん、どうしたのー。こんな夜遅くにー」

 最悪なタイミングで、友人である渋谷香奈と鉢合わせてしまった。

「香奈、どうしてここに……?」

「もう、先に質問したのはこっちだよー。驚いたなー、まさか不良生徒のお仲間入りでもしちゃったとかー?」

 不良生徒――そうだった、香奈はその不良グループと仲が良かったんだっけ。

「いや、僕はそんな香奈みたいに節操無しじゃないよ。ただ、ちょっと用事があって」

「用事ー? ふふーん、それは香奈ちゃんも一緒に行っても大丈夫なレベルー?」

「大丈夫じゃないレベル」

「そっかー、それじゃあしょうがないねー。そういえばさっき百瀬先輩と会ったけど、もしかして関係あったりするのかなー?」

「百瀬先輩? そうなんだ、全然知らな――」

「あら、焔さんったらこんな所にいましたの。もうとっくに約束の時間は過ぎてますわよ」

「……ああ。それは、どうも……お待たせしました」

 まさに狙ったとしか思えないタイミングで、宿舎の出入り口からやってきた百瀬百合花。

 香奈はやっぱり、と言った顔で僕を睨みつける。

「あら、渋谷さん。またお会いしましたわね」

「どうもー、百瀬先輩。しずちんがお世話になりましたねー」

「いえいえ。たとえ数が少ないとはいえ、生徒会長として不良生徒達の指導を務めるのは当然の義務ですわ。とはいえ、あなたも本当に顔が広いですわね。彼女もこの間とは違う方でしたし――このわたくしでさえ彼女達の事を管理し切れていない現状ですし、やはりここは委員会のほうにもご参加戴けませんこと?」

 渋谷香奈は、普通の生徒・不良生徒問わずとして仲が良い変わりものだった。

 彼女がロリート――皮肉にもエリートと言う意味を含めてそう呼ばれているのは、何も頭が良いからという理由だけではない。

 その人の良さは友達作りの才能と呼んでも過言ではなく、普通の生徒達ではほとんどが近付く事すら出来ないあの不良グループに何の気兼ねもなく近付ける少女――それが、渋谷香奈だ。

「んー、そっちはだから、もう解ってると思うけどほむりゃんとの日課がですねー」

「ええ。言ってみただけですわ、どうかお気になさらずに。……さて。それではわたくし、その紅条焔さんと夜のデートがありますので」

「うわ、ちょっ、バカ! なに誤解を招くような事を――」

「へえ、そうなんだー。つまりほむりゃんは百瀬先輩と二人っきりで夜のデートがしたいから、あたしに嘘まで付いて誤魔化そうとしたわけだー。なるなるー、香奈ちゃんはやっと解ったよー」

「……いや。あのさ、香奈。だから違うって」

「いいよー、おやすみほむりゃんー。どうぞごゆっくり!」

 ぱたぱたぱた、と駆け足で宿舎の中へと消えていく香奈。

 してやったり――みたいな顔をしながら、それを見送っている百瀬百合花。

「……今のはちょっとやり過ぎだと思うよ、百合花さん」

「あら、わたくしは本当の事を言ったまでですわ。それに、これ以上付きまとわれて時間が食うのは、あなただって本意ではないでしょう?」

「それは、そうだけど」

「渋谷香奈。彼女があなたの事をどこまで知っているのかは解りませんが、まさか噂の殺人鬼に会いに行く――なんてさすがに言えませんでしょう」

「……彼女は、僕の事なら何でも知ってるよ」

「あら、そうですか。それは……少し妬けてしまいますわね」

「でも……だからこそ、僕は香奈をこちら側へ引き入れたくない。そういう意味で言えば、今のは正しかったのかもしれない。だから、その事についてはもうとやかくは言わないよ、百合花さん。でも――」

 そう――今日、僕がここまで調子が悪い理由。

 どうしてこんなに胸糞が悪い気分になるのか、ようやく理解出来た。

「……こんな言い方、本当はしたくはない。でも、駄目なんだ。香奈だけはダメなんだよ、百合花さん。僕は香奈だけは手放せない。香奈より優先するものなんて何もない。もしこれが僕を主人公とした物語と例えるなら、香奈がヒロインでなければならないんだ」

 百瀬百合花は口を開かない。

 ただ、僕が何を言っているのか解らない――そんな疑問符を浮かべたような表情で、ただそこに立っている。

「だから――」

 僕は、言わなければならない言葉を――出来る事なら言いたくはなかった言葉を、紡ぐ。


「この一件が片付いたら、もう僕に付きまとうのは止めて欲しい」


 驚いた、のだろうか。

 目の前の少女――百瀬百合花は、目を見開きながら無言で僕を見つめていた。

 僕の事を――本気かどうかは解らないが――好きだと言っていた少女。

 こんな最低な突き放し方、正直したくはなかった。

 だが、それでも。

 僕にとって、香奈以上に優先すべき事なんてものは、何もない。

「……そうですか。理由をお話しては……下さらない、みたいですわね」

「ごめん」

「いえ、謝らないで下さい。元はと言えばわたくしが押し付けたようなものですわ。何もかも……この一件にしても、告白の事だって――」

 今更になって胸が痛む。

 僕には、彼女を突き放す権利などないと言うのに。

「解りましたわ。今回の件が終われば、わたくしは以前と同じ――あなたと出会わなかった時と同じように戻ります。約束の事も、上手くいけばきちんと取り計らいますわ。それで宜しいかしら?」

「うん。お願いするよ」

 それだけ言って、百瀬百合花は僕から目を逸らし――呟く。

「……あの、焔さん」

「何?」

「もし、これで最後になるのでしたら、その……わたくしの最後の願いを、聞いては戴けませんかしら」

「最後の……? 僕に出来る事なら、善処するけど」

「それでは、こちらまで来て下さい」

 百瀬百合花に言われるがまま、僕は彼女の傍へと歩み寄る。

 外へ出ると、満月が綺麗に輝く夜空が広がっていた。

「紅条焔さん。わたくしは――」

 百瀬百合花は、眼鏡を外して髪を解く。

 彼女は月の光に照らされ、まるでこの世のものとは思えないくらい綺麗な姿をしていた。

「わたくしは、あなたの事が好きです」

 ただその光景に見入っている僕は――何も出来ず、何も言えない。

「これは冗談でも、嘘でもない、わたくしの本当の気持ちですわ。わたくしは、あなたに出会い、あなたを知ったその時から――あなたの事だけを、世界の誰よりも、愛しています――」

 そうして。

 いつの間にか触れていた彼女の唇も――また、いつの間にか離れていた。

「……百合花、さん」

「すみません。ですが、これが最後ですわ。これぐらいの我侭(わがまま)は、させてくれてもいいでしょう?」

「どうして、そんなに……僕を? だって、僕は――」

 僕は――女なのに。

「本当にそう思っていますの?」

「え――」

「……今だから話しましょう。わたくし達は超能力者です――だからこそ、持ちたくなくても持たなくてはならないものがある。……わたくしはね、焔さん。男性を認識することができないのです」

(な……まさか――精神障害(トラウマ)?)

 僕達、超能力者には必ずそれぞれ精神障害(トラウマ)というものが存在する。

 逆に言えば、超能力者とは精神障害(トラウマ)を持たなければなる事が出来ない存在であり、その精神障害(トラウマ)をそのまま外的要因へと変化させたものが超能力である。

「男性を認識出来ないから、女性を愛するしかない――などと言う考えを持っているわけではない、という事だけは先に弁解させて戴きますわね。どちらかと言えばわたくし、人を愛する事を放棄しようとしていましたから」

「人を愛する事を、放棄……」

「ええ。女は男を愛するもの、それが世の常ですわ。だからこそ、わたくしはもう人間として生きていく事は出来なくなった。……いえ、女として生きていけなくなった、が正確でしょうが――そんなものはどちらでも同じ。結局、わたくしはその時点で、普通の人間ではなくなったのですから」

 普通の人間ではなくなる。

 それは、まるで――

「超能力者というものは、少なくとも必ずそういった『人と違う部分』を持っていますわ。ですから、同じ超能力者であるあなたに共感した――と言う理由も、なくはありません。しかし、それはわたくしにとって他の超能力者に対しても言える事。別に、それがあなたを好きになった理由などではないのですわ」

「それだったら、どうして――」

「簡単ですわ。あなたは、自分を一度たりとも女性だと思ったことがありますかしら?」

「……ッ!」

 なるほど――彼女は、本当に何もかも見透かしていたってわけだ。

 今までの解ってたような言動も、嘘のように聴こえた言葉も、出まかせにしか思えなかった行動も。

 全て承知の上だった、そう言う事か。

「さあ、どうなのですか?」

「……お手上げだよ、百合花さん。確かに僕は、今まで自分を女だと思ったことはない。だからって同性が好きとかそんな話にはならないし、その程度のものでもないけどね」

「そうでしょうね。ですが、あなたがどんな心構えを持って女性であるのだとしても、わたくしにとっては事実が全て。このわたくしに唯一見える光、それがあなただったのですから」

「でも、言っておくけど、これは僕が持つ超能力とはまったく関係のない精神障害(トラウマ)だ。僕が自分で引き起こした、僕の所為(せい)で作られた、僕自身の拭い切れない精神障害(トラウマ)に過ぎないんだよ。だから事実、僕は女だし――それ以外の何者でもない」

「ええ、それくらいあなたの能力を知れば解りますわ。ですが、そんな事は関係ないのです。あなたが女であろうとなかろうと、男性を認識できないと言う異常を持つこのわたくしにしてみれば、そんな事はなんて関係ない――あなたが見える、それが重要なのです。それに超能力者とは精神(こころ)で通じ合うもの――わたくしはあなたと出会い、あなたを知ったその時から、あなたを愛すると決めたのです」

 それが、百瀬百合花が持つ精神障害(トラウマ)を乗り越える、唯一の方法――つまりはそう言う事なのだろう。

 なるほど、確かに異常者(ぼくたち)らしい。

「それに――それが決定打とは言え、何もそれだけではないのですわ。わたくし、焔さんみたいな方は元々、好みですし」

「へえ。それってどんな部分が――」

「ええ、お恥ずかしながらわたくしどうも生粋の(サド)のようですわね。焔さんとの相性は、勝手ながら最高だと自負していますわ」

 ……、そうきたか。


  ◆


 渋谷香奈は、寂しげな表情を浮かべながら宿舎の暗い廊下を歩いていた。

 この宿舎は四階建てであり、一階には教職員と官僚専用の各部屋、管理人室、食堂、大浴場が存在する。

 香奈は一階の廊下――ちょうど大浴場の入り口付近を通りかかったところで、廊下の先にある一つの部屋の扉が開けられている事に気が付いた。

 そこから薄らと光が漏れている為、この暗闇の中でも特に目立って見えたのである。

(あそこ、確かセンセーの部屋じゃ? こんな時間に誰が――)

 すでに時刻は零時を過ぎている。

 こんな時間に起きているような人間は、この宿舎では滅多にいない――それも教職員となれば尚の事で、部屋の扉が開いているだけでも不思議だというのに、その中には明らかな明るい光が照らされている。

 誰かが起きている証拠だ――香奈はそう思い、咄嗟に身を隠そうと近くの柱の影へ隠れる。

 これだけの闇の中であれば、扉から漏れ出ている光程度では、自分の姿は見つからないだろう――今ここで見つかると、あの百瀬百合花に見つかる程度では済まない。

(なんだかんだ言って、百瀬先輩は生徒の味方だしねー……。おっと、誰か出てきた)

 香奈は身を隠しながら、誰がそこにいるのかを確かめる。

 そこにいたのは――あのスパルタで有名な、通称・美人眼鏡こと、暮凪遙診(くれなぎはるみ)だった。

 もっとも、香奈にとって彼女に対する知識はあまりない――厳しい指導で有名の、三年の美術教師であると言う事だけが記憶にある。

 食堂の一件で初めて知ったが、まさか官僚まで勤めているとまでは知らなかった。

(何してるんだろー……)

 暗がりであまりよく見えないのだが、どうやら誰か他にも人がいるようで、何かを言い争っているらしい。

 その部屋は彼女の部屋なのか――それは解らないが、少なくとも彼女は扉の外に出ており、中にもう一人、姿の見えない人間がいる。

(教師同士の揉め事かなー。うーん、でもこんな夜更けにやる事ではないし。ま、あたしも人の事は言えないけどー)

 この位置からでは、何かを言い争っている――と言う事だけしか解らず、会話の内容までは聞き取れない。

 いくら静かだとは言え、その場所まではまだ結構な距離があった。

 気付かれないよう、少しだけ近付いて聴いてみよう――香奈がそう思い、身を乗り出した瞬間だった。

「……は?」

 思わず声が出てしまった。

 一瞬、何が起こったのか解らず、まるで電池の切れたロボットのように香奈はその場で硬直した。

 ぷしゃあ、と、何か赤いものが光にまぎれて飛び散っている。

 扉の前に立っていた暮凪遙診は、一瞬で全身をバラバラにされていた。

 悲鳴などあげられるはずがない。

 真っ先に飛んだのは、言うまでもなく――その首だったからである。

(え――ちょっと……、なに……? 待て待て、落ち着け、香奈――)

 硬直した身体が動かない。

 恐怖とかそう言うもの以前に、香奈は未だに何が起こったのか理解出来ずにいた。

 目の先にあるのは、完膚なきまでに身体をぐちゃぐちゃに撒き散らした暮凪遙診の肉片と、廊下に広がる赤い血だまり――そして。

 ぐちゃ――と、まるでそんなものなどハナから眼中にないとばかりに、扉の中から出てきた一人の少女が、廊下に飛び散ったそれを踏みつけた。

 腰辺りまで伸びた髪を靡かせながら、返り血まみれになった顔で――その少女は、立ち竦む香奈へと視線を向ける。

 心臓が、破裂しそうだった。

 ぺたりぺたりとこちらへ歩み寄ってくるおぞましい少女に対し、香奈は何も出来ない。

 足は()り、指は震え、瞳はその少女を凝視して離せない。

 関わるな、逃げろ――心の中でそう思っても、動けない。

「……あなた、見た?」

 ほんの数メートル――その少女は、駆ければすぐに手の届く程の場所までやって来ると、香奈を見つめ、問う。

 どうしていいのか解らず、何と言い返せばいいのか言葉さえ考えられないまま、香奈は震えた声で問い返した。

「き、キミは……誰?」

久峰麗華(くほうれいか)

 即答だった。

 普通、自分の犯した殺人現場を目撃されたなら、名前なんて答えるわけがない。

 この子がやったのではないかも知れない――そう思いたい一心で、扉の前に散らばっている死体(それ)を見つめながら、香奈は再び問い掛ける。

「アレ……キミが、やったの?」

「そうだけど?」

 またしても――即答。

 まるで、香奈に知られたところで関係ないと言わんばかりに。

「それじゃあ、本題」

 少女――久峰麗華が言う。

 血塗れ汚れた白い頬を舐め取るように、綺麗な赤い舌をペロリと出して。

「あなた、わたしが()ったの見てたみたいだし。面倒だから、ここで死んでくれる?」


  ◆


 深夜、零時半を過ぎた頃。

 僕――紅条焔は、今日一日限りのパートナーである能力者仲間、百瀬百合花と共に、街外れの廃工場へと再び足を踏み入れた。

 この街はどちらかと言えば田舎よりで、棘薔薇女学園のある区画から大体徒歩で三十分程度の場所にその廃工場は存在する。

 昨日あの戦闘狂と対峙したこの場所は、久峰零次がターゲットとの戦闘に欠かさず使っているらしく、確かに人気のない場所だけあってその選択は納得出来るものがある。

「……人の気配を感じるね。それも、遠くから何か聴こえるような――」

「本当ですの? まさか、先客がいるのでしょうか」

「解らない。でも、確かに何か聴こえる。……行ってみよう、百合花さん。何か嫌な予感がする」

「ええ、解りましたわ」

 この空間は、広いと言えど密閉空間である。

 遠くに誰かがいる――それは、この建物の中へと脚を踏み入れた瞬間から、ひしひしと肌に感じられていた。

 僕を先頭に百合花さんに背中を預け、神経を張り巡らせながらゆっくりと残骸の間をすり抜け進んでいく。

 次第に音がはっきりと聴こえてくる――間違いない、足音や何かがぶつかる金属音だ。

「……こりゃ、来るのが少し遅かったみたいだね」

「そのようですわね」

 僕は横倒れた車の残骸に隠れつつ、その場で起こっている光景に目を向けた。

(あいつは……)

 そこにいたのは――

「誰だ」

 ゴガンッ! と、車が宙に跳ねる。

 瞬間、百合花さんの身体が衝撃に巻き込まれ、その場から吹き飛んだ。

「きゃっ!」

「百合花さん!」

 地面に転がる百合花さんへと駆け寄る――暇などは、ない。

 僕はせめて百合花さんの盾になるように、その場に立ち上がる。

 こちらの存在に気付き、声を上げたのは――

「……テメェ、昨日のヤツか?」

「一日ぶりだね、戦闘狂さん」

 あの戦闘狂がそこにいた。

「チッ――何しに来たのかしらねーが、今はテメェに構ってる余裕はねーんだよ。ちっと隅で静かにしとけ!」

 それだけ言い放ち、戦闘狂はその場から駆け出した。

 状況は恐らく、僕の知らない能力者との戦闘の真っ最中、といった所だろうか。

 何にせよ、彼女に今こちらを相手しているほどの余裕はないらしい。

 僕は後ろに振り返り、倒れている百合花さんの下へ今度こそ駆け寄った。

「しっかりして、百合花さん。ここはどうやら予想以上に危険らしい。とりあえず、今のうちに離れよう」

 僕が肩を抱き身体を起こすと、百合花さんは目蓋を開き、こちらを見た。

「彼女は、戦闘中……なのですわね?」

「みたいだね。それも、敵はどうやらかなりの手馴れみたいだ。彼女があそこまで余裕のない表情をするなんて、一度やり合った身としては驚きだよ。とにかく、今はここから逃げよう。さっきみたいに巻き込まれたら元も子もない」

「なるほど……。状況は解りました」

 どこか痛むのだろうか、百合花さんは少し辛そうな表情を浮かべながら立ち上がった。

「それならば逆にチャンスですわ。ここはひとつ、彼女にいらない恩を売って差し上げましょう」


  ◆


 久峰零次は、廃工場の中を駆け回りながら必死に思考を回転させていた。

(危ねえ危ねえ。絶妙なタイミングで邪魔が入ったが、そのお陰で助かったとも言うべきか。にしてもあの野郎、一体どこから攻撃を仕掛けてくるのか解ったもんじゃねえ。オレのような視覚認識タイプなのか、またはまったく別のものか……。やっぱ考えたところで答えが解るわけねえか。今はこのオレに流れが向いている――なら、それを生かすしかねえだろうがよ……!)

 この廃工場というフィールドは、久峰零次にとって絶好とも言える狩り場である。

 物が多いとなると、こうした鬼ごっこになってしまい、はたから見れば不利のようにも思えるが――実際のところ、零次にはその方が好都合とも言えた。

 物質操作(サイコキネシス)――自分の目で視覚・認識したものを、思い通りに『動かす』事の出来る超能力。

 対象となる物が多ければ多いほど、その能力を有効活用する場面が多くなる。

 つまり、この廃工場――元々は車を生産していた場所だと聞いている――ならば、その能力は実質最強だと言えた。

 敵が物に隠れようが関係はない。

 ようは、その物質ごと吹き飛ばせばいいだけの話だった。

 だが――

(しかし、なんだあいつの能力は……? まるで鏡でも見ているような……いや、そうじゃない。まさか、このオレと同種類の能力を持っていやがるのか?)

 物陰で息を潜めながら、零次は考える。

(解らない。確かにオレの能力とは似ているようだが、何かが違う。発動条件もそうだが、それだけじゃない。もっと本質的なところで、何か決定的な違いがあるような気がするが――やっぱオレに考え事は向かないらしい。ここで麗華がいてくれりゃ、すぐにでも看破してくれたんだろうが……な。無いものねだりをするのは性に合わねえ。次だ。次で全て終わらせてやる……!)

 右手を握り締め、零次は立ち上がる。

 足音は聞こえない。

 恐らく敵も同じように身を潜めているのだろう、仕掛けるならば今しかない――


  ◆


 僕――紅条焔が与えられた指示は、戦闘狂と対峙している敵を倒す、ただそれだけであった。

 敵の居場所は、すでに突き止めている。

 後は、気付かれずに近付くだけ――なのだが。

(敵の能力の詳細が解らない以上、迂闊に動く事は出来ない。だとするなら、やっぱり背後まで気配を隠して近付く事一点に集中するべきなのだろうけど……)

 何せこれだけ物が多い場所である。

 大きい物だけではなく、部品やら小さな物が様々に転がり落ちているこの場所で、何も物音を立てずに動くのは至難の業と言えた。

(にしても、戦闘狂の方を任せちゃって大丈夫だったのかな。これ以上邪魔するとキレそうだからなあ……あの戦闘狂……)

 百合花さんは『なんとかなりますわ』と言っていたものの、やはり心配なものは心配である。

 何の為のボディーガードでパートナーなのだろう、と少し自分の存在意義を疑問に思いながらも、不測の事態への対処としてはこれが適切とも思えた。

 ここ一番で逃げ出さなかったところが、あの百瀬百合花らしいと言えるだろう。

 第一、今日ここへ来た目的を果たしたいのならば――確かに、これが最善である。

 ならば、僕は与えられた仕事を全うするだけの話だ。

(……さっさと全て終わらせて、早く帰って香奈に謝ろう。それで、明日からはいつも通りの日常を過ごすんだ。こんな死と隣り合わせの空気は、吸っているだけでおかしな病に犯されてしまいそうだから)

 敵との距離はそう遠くはない。

 触れるだけ、それだけで決着はつく。

 視覚で認識するのに何秒必要だとか、そんなものは僕にはない――触れる事さえ出来れば、後は念じるだけで何もかも燃やし尽くす事が出来る。

(……男、か。うーん、なんだろう、凄く久しぶりに見るなあ……)

 実際、僕は女学園暮らしが続いていて、その間は外にも出た事がなかった――あの百瀬百合花と出会うまではだが――からか、男を見るのは久しぶりだった。

(あれが戦闘狂と殺り合ってる『敵』か。ふうん、大体二十歳近くって所か……どうして彼女と殺り合ってるのか、事情は知らないけど……少なくとも『殺意』を持って対峙しているって事に変わりは無いわけで。うーん、やっぱりやりにくいな)

 殺す、と言う行為には理性を無くす必要がある。

 人間には必ずしも理性があり、普段はそれが誰しもに秘められた破壊衝動を押さえ込んでいる。

 だが、理性を無くした人間は、普通の人間では手に負えない。

 僕自身、殺害という行為に対しては少なからず抵抗がある――実際、昨日も本気であの戦闘狂を殺すつもりはなかったし、むしろああやって話し合いで解決出来た事は僕にとって本望だった。

 殺せと依頼されたとは言え、どちらかと言えば『能力者として殺す』と言う意味合いが強い――ようは、生命を奪うまではせずに、能力を使えない程度までに痛めつける――そう僕は解釈していたし、実際そうやって解決させられれば一番だと思っている。

(それに相手は男だ、僕の身体じゃとても力で敵うとは思えない。決めるなら一発勝負、確実に仕留めなければやられるのは僕、か)

 理性の有無、力の差、そして能力の違い――どれを取っても僕に有利な面は見当たらないし、どうあがいた所で勝ち目が薄い事は目に見えている。

 だが、それでもやらなければならない事に変わりはない。

 どの道、僕に取れる選択肢はないのだから。

(まったく、こんな分の悪い賭けに乗るなんて。僕らしいんだか、らしくないんだか)

 時間が惜しい。

 決めるのなら一瞬――敵に余裕を与えず、一気に詰めに行くしかない。

(距離は数メートル、相手はまだ僕に気付いていない。ならば――)

 その時。

 物陰に隠れている敵が、動きを見せた。


  ◆


 百瀬百合花は、戦闘狂の下へと向かっていた。

 数多く散らばっている大小様々な残骸の間をすり抜けながら、しかし着実に。

(場所が解っていると言うのに、こうも歩き辛いのでは少しばかり面倒ですわね……。それに、先程の攻撃で左足をやられましたし。歩けはしますが、これでは先に動かれるとまたフリダシ……ですわ。早くしなければ――)

 がくがくと歩くたびに崩れそうになる左足を引きずりながら、百合花は遠くに見える戦闘狂の姿を離さない――これだけの残骸が自分の周りにあるとは言え、それは彼女にとって何の障害ですらなかった。

 透視能力(クレアボヤンス)――百瀬百合花は、全ての物質を通してその先にあるものを見る事が出来る。

 その効果の範囲はそこまで広くはなく、自分を中心に一定の距離までしか見えないものの、戦闘狂との距離は初めからあまり遠くはなかった為、すぐに捕捉する事が出来たのである。

 超能力とは、その人間が持つ精神障害(トラウマ)によって生まれるものである。

 過去、とある事件によって男性に対する嫌悪心を持ってしまった彼女は、男性を拒絶する――という、心に出来た一種の精神障害(トラウマ)によって、一つの超能力を目覚めさせた。

 それが透視能力と呼ばれる超能力であり、彼女は男性を心のどこかで無自覚に拒絶する事により、男性と言う存在、その姿を全て無意識に透視しているのである。

(……それにしても。まったく、上手く噛み合わなかっただけのお話だとでも言うわけですの? 事実は小説よりも奇なり、とは良く言ったものですわね。……ですけれど、そうなるとやはり焔さんが対峙している『敵』が――と、言うわけですかしら。予想はしていたとは言え、ある意味これは好都合ですわね。驚きはしましたが……まあ、いいでしょう。当初の目的は何も変わりはしないのですから)

 歩きつつ、戦闘狂の姿を確認しながら――思う。

(力を貸す事を彼女は望んではいないでしょうが、こういったトラブルは常に付き物ですのよ。それを、身を持って味わって戴くと致しましょう)

 百合花の能力は、決して戦いに向いた能力ではない――少なくとも、単身で戦う分にはまるで不向きな能力だった。

 だからこそ、百合花は話し合いで全てを解決させるつもりでいた。

 あの戦闘狂だけは、言葉で理解させなくてはならない。

 紅条焔のいない今――彼女にとって、頼れる武器は己の口先のみだった。

(捕まえましたわよ……!)

 じゃり、と、何かを踏み付ける音がした。

 それに気がついたのだろう――すぐ近くで身を潜めていた戦闘狂は、百合花の立っている方向へと振り返り、

「お待ち下さい、わたくしは戦いに来たわけではありませんわ」

 先手を取ったのは、百瀬百合花だった。

「テメェ、さっき吹っ飛んでやがった――」

 姿を現した百合花は、嘲るように薄らと笑みを浮かべ、戦闘狂の前に立つ。

「……オイオイ、遠目だったから気付かなかったぜ。まさかテメェだったのか」

 二人が向かい合い、互いに笑みを浮かべ合う。


「こんばんは、今宵も星空が綺麗ですわね。そうは思わないかしら、倉坂濠夜さん?」


  ◆


「チェック・メイトだ、殺人鬼」

 僕――紅条焔は、敵の背後からその右腕を掴んで言った。

「な、お前……なにを」

「おっと。こっちを振り向かれると、僕は君をこのまま焼き殺さなくちゃいけない。そういう乱暴なのは好みじゃないんだ。出来れば従ってもらえると嬉しいな」

 腕をキツく握り締めてそれだけ言うと、敵は大人しくなった。

 僕の隣には、炎上し、今にも灰さえ残さず散っていこうとする車の残骸がある。

「……お前、何者だ? その力、まさかオレと同じ超能力者か」

「うん、そうだね。もっとも、僕の場合は君みたいに視覚で認識するタイプじゃなくて、こうやって触れているものに対して作用する超能力でさ。物体発火(パイロキネシス)、って呼んでるんだけど――ま、その効力のほどは、そこで燃え上がってるヤツを観てくれれば解るよね?」

「チッ、厄介な奴に絡まれたもんだな。お前、何が目的だ。あいつの仲間か?」

「まさか。僕にはあんな物騒な女の子と仲良くなれる甲斐性はないよ。ただ、君にもう彼女を狙う事を止めて貰おうって、それだけの話さ」

「なんだと? ……残念だがそれは無理な注文だな、女。オレにはどうしてもあいつを殺さなきゃいけない理由がある」

「理由ね。それってさ、君の妹の事だろ? 殺人鬼――いや、久峰零次と呼んだほうがいいかい? 君の妹、久峰麗華の事だよ」

「な――」

 ピクリ、と、僕が掴んでいる腕が微かに震えた。

「図星……みたいだね」

「どうしてお前がその事を知っている? まさか、お前が本当の――」

「ちょい待ち。それは早計だよ、久峰さん。僕は君の妹を助けた命の恩人なんだよ?」

「なん……だと……? まさか、麗華は生きているのか?」

「生きているか、だって? やっぱり死んでいるとか勘違いしてたのか。まったく、どうも短気が過ぎるようだけど――生きているんだよ、君の妹さんはね」


  ◆


 百瀬百合花は、事のあらましを倉坂濠夜に説明していた。

 棘薔薇女学園の同級生であり、クラスは違えど互いの存在程度は知っている二人であるからこその、話し合いの成立――焔に対する根拠のないように見えた自信は、つまりこういう事だった。

「よーするに、オレは殺人鬼ヤローにありもしねー罪を負わされて、勘違いで命を狙われてたっつーのかよ?」

「そう言う事ですわね。焔さんが言うには、久峰零次の妹は生きているそうですし、あなたも心当たりはないのでしょう? ならば、まったくの勘違いで起きた争いと言う事になりますわね」

「つまり相手の殺意はオレに向いていて、真実オレに向いていなかった――っつーことか。うっわ、最悪じゃねーかそれ。なんだよクソ、殺る気失せたっつーの」

 濠夜は心底つまらなさそうな表情でそう吐き散らし、

「……って、オイちょっと待てよテメェ。まさか、昨日あの紅条とか言う女をオレんとこへ勘違いでよこしやがったのは――」

「ええ。お恥ずかしながら、完全に情報不足と擦れ違いが重なっただけの結果、と言う事になりますわね」

「だあッ! なんだそれ、胸糞悪いにも程があんぞ! 結局オレはこの二日間、無駄に勘違いヤローどもに付き合わされただけ、単なる無駄骨じゃねーか!」

「まあまあ。ですがどちらも無駄な死者なく解決しますし、良いではないですか」

「ちくしょう。せっかく有名なあの殺人鬼と二度も殺り合える、ってはりきってたのに、ただの勘違いヤローだったなんて……幻滅もイイとこだぜ……」

 すっかり落ち込んでいる様子の濠夜を横目に、百合花は無事に済んで良かったという安堵を感じつつも――もう一つの問題が解決しているかどうか解らない、と言う不安を感じ始めていた。

 紅条焔と久峰零次――少なくともその二人は話し合いに持ち込むまで、何らかの衝突は避けられないはずだ。

 その時、焔に勝ち目があるのかどうか――それが解らない。

 久峰零次は男である。

 百合花が二日前に彼の姿を確認出来ず、性別を判断出来なかったのは、何も逃げていたからと言うだけではない――単純に、その姿が見えなかったことも理由の一つに当てはまる。

 どうして百合花自身が命を狙われたのか、その時には理解出来なかったが――焔の話を聴いた上で、ようやく理解する事が出来た。

 行方不明になった妹、それを拾い助けていた紅条焔。

 いなくなった妹を探しても見つからないとなれば、命を狙われたと思考するのは間違ってはいない。

 ならば、命を狙われるとするならば誰に狙われるのか――そこまで考えれば、後は解り切っていた。

 久峰零次は、この街の能力者にとって畏怖すべき存在と言われている。

 能力者が次々と殺されているこの街の裏で起こっている事件、その主犯である久峰零次は、十分に能力者達に弱みを狙われる理由が存在しているのである。

「しかし、テメェはどうしてそれが久峰零次だって解ったんだよ? 大体は話を聞いて理解できたが、その二日前――テメェが襲われたって言ったが、その姿も確認出来ずにどうしてそれが久峰零次だと割り出せた?」

「あら、そんな事は簡単ですわよ。このわたくしを百瀬百合花だと知っておきながら、襲い掛かってくる馬鹿は久峰零次という殺人鬼以外に考えられませんもの」

「……は。ま、テメェに刃向かおうなんてヤツはいねーだろうけどよ。それにしても、それが本当だったとは言え――もし違った場合はどうするつもりだったんだ?」

「あら、それをわたくしに聴くのですか? まあ、そうですわね。そろそろこの街の能力者の数を減らされるのは癪に障っていたところですし、勘違いで死んでもらっても別に問題はありませんでしたわね」

「くはは、良く言うぜ! 言い切ってやろうか。テメェ、襲われたなんてのは口実だろ。本当は、別の目的であの野郎を追っていやがったな?」

 解りきっていると言いたげな皮肉を込めた笑みを浮かべ、口の端をつり上げながら倉坂濠夜はそう言い放った。

「……まったく、あなたの洞察力には敵いませんわね。お察しの通り、わたくしが焔さんに久峰零次の殺害を依頼したのは――ここ数日の間、この街で今までに見ない勢いで能力者達が久峰零次に狙われ続けている、と言う噂を耳にしたからですわ」

 久峰零次は、基本的にそれほど害のない能力者相手には手を出さない、どちらかと言えば通り魔ではなく計画犯的な動きを見せる殺人鬼だったのだが――恐らく彼の妹が失踪してからだろう、その対象に見境が無くなり始め、ついには百合花までが狙われるハメとなってしまった。

 百合花は、これ以上に街に住まう能力者達の被害を食い止める為、これまで見放していた殺人鬼の対処を決めたのである。

 もっとも、彼を放置していたのは、単純に力の差があったからと言う理由もあったのだが――

「そこで出会ったのがあの女……紅条焔、ってわけか。一体何モンだ、あいつ?」

「わたくしにとって唯一愛することの出来る人、ですかしら」

「そうじゃねーよ。つーかなんだそれ、テメェのいつもの冗談か?」

「あら、冗談などではありませんけれど。……そうですわね、彼女は――」

 百瀬百合花は、まるで自ら誇らしいものでも語るかのような態度で、

「この世界で唯一、最高傑作と呼べる超能力者の一例ですわ」


  ◆


 僕――紅条焔は、大体のあらすじを久峰零次に説明し終えていた。

 話を聞き終わると、久峰零次はまるで予想外だったとでも言いたげに鼻笑いをすかして、

「なるほどな、大体話は理解出来た。全てはオレの勘違いだった……ってわけか。で、今その麗華はどうしてる? 出来る事なら、今すぐにでも返して貰いたいんだが――」

「その前に、一つだけ僕の質問に答えて欲しいんだけど、いいかな?」

 話し合いの場となりある程度の和解を得た今でも、僕はその殺人鬼の腕を握りしめたまま――問う。

「なんだよ」

「妹さんを探している間、色んな人達を無意味に襲ったらしいじゃないか。君は……誰か、一人でも殺したの?」

「……なんだ、そんな事か。何を言い出すのかと思えばその程度、お前はオレの事を勘違いしてるようだから先に言っておくが――オレは殺人鬼だぜ? この街でくだらない能力者どもを殺して回る、有名な殺人鬼だ。そいつを目の前にして、誰かを殺したか……だって? そんな質問はな、意識が正常なヤツにだけ言ってくれよ。吐き気がする」

 異常――そんな言葉が僕の脳裏を駆け巡る。

 超能力者とは異常者の集まりだ。

 そんな事は百も千も承知だし、今更それについてとやかく疑問に思ったりはしない――かく言う僕もその一人なのだから。

 だが、それとこれとは話が違う。

「そう。それじゃ最後に、差し支えなければ君の精神障害(トラウマ)ってヤツを聞かせてくれない?」

「質問は確か一回までだったな? それならその問いには答えねえよ、却下だ。ほら、解ったならさっさと麗華の居場所を――」

 腕を握る力を――強くする。

 もしこれがか弱い少女の腕ならば、千切れてしまうのではないかと思うくらいに、強く。

「オ、オイ。お前――」

「……言いたい事はそれだけ?」

 顔が熱くなる。

 頭に張り巡らされた血管のひとつが、今にも破裂してしまいそうな程に――

「良く聴いておくことね、クズ。貴方みたいな理性も知らない奴がいるから、平気で何の罪もない人を殺せるような奴が存在するから――世の中はこんなにゲロ臭いのよ。失望させないで、下種。私はね、貴方みたいな奴にはこの世の空気すら吸って欲しくない」

 ――もう、限界を超えていた。

「……なるほど。結局、お前はオレとやり合いたいってわけか。ハッ、その物言いといい――お前、オレと同類の匂いがプンプンしてくるぜ?」

「黙ってなさい、負け犬。それに、私は貴方とやり合おうだなんて一片たりとも思ってない。これはね、一方的な敗北のプレゼントなのよ――」

 無意識の内に、手のひらに力を込める。

 次第に遠のく意識の中――目の前には、顔面を焼き尽くされ、もがきあげく男の姿があった。


  ◆


 倉坂濠夜と百瀬百合花は、廃工場の中を探し回り、ようやく一人の少女の姿を見つけ出す事が出来た――とは言うものの、百合花の透視能力によって存外簡単に見つけ出す事が出来たのだが。

「殺人鬼のヤローがいねーな。……まさか負けたのか、こいつ?」

 紅条焔。

 赤と言うよりはオレンジに近いセミロングの髪を茶色のリボンで纏め、前髪の左半分をリボンと同じ茶色のヘアピンで留めている。

 服装は外出用の私服――可愛らしい白のブラウスを薄い黄色のキャミソールの上に胸元を開くように着ていて、デニムのマイクロミニスカートに茶色の皮ベルトを巻いている。

 その細い脚を黒のオーバーニーソックスに通していて、靴は動きやすそうな白のスニーカーを履いていた。

 分解され、もはや使いものにならないであろう中型車の一部分にもたれかかるように、焔は目を閉じて倒れていた。

「負けたのでしたら殺されているはずですし、恐らくは相打ちか……あるいは」

 百合花が焔の胸元へ耳を寄せ、その心臓の音を確かめながら呟く。

 すう、と言う呼吸音が目の前から聞こえ、思わず百合花はどきりとした。

「ま、生きてるみてーだしイイんじゃねーか。とりあえずこいつ、宿舎まで運ばねーと。この様子じゃ、当分起きそうにねーし」

 そんな様子を見ていたのかいないのか、濠夜はすっかり落ち着いた口調でそう言った。

 百合花はそれが意外だったのか――少し赤く染まった顔を焔の胸元から上げ、濠夜へと珍しいものを見るかのような表情で振り返る。

「あら。倉坂さん、案外お優しいのですわね」

「あ? ま、こいつとは知らねー仲じゃねーし。あの渋谷の親友なんだろ? あいつは顔は広いが、そこまで他人と深い親しみを持つようなヤツじゃねーからな。そんな渋谷の親友だってんなら、オレだって興味も出てくるぜ?」

「そうですか。でしたら、焔さんはよろしくお願い致しますわね。ちょうど、わたくし少し負傷してますので……この脚では担いで帰るのは不可能ですから。ありがたいですわ」

 言いながら、どこか含みを込めたような目線で濠夜を観る百合花。

 それにようやく気付いたのか、濠夜はマズいと言わんばかりの焦った表情で、

「あ……もしかして、あの時ふっ飛ばした時のか、それ?」

「ええ、そうですわ。突然でしたから受身も取れず、ご覧の通り左足がやられてしまいまして。ああ……傷なんて負ったのは、どれくらいぶりですかしら……」

 百合花は口調こそ自然だが、濠夜はその言葉の内に秘められた感情に感付いていた。

「ああ、いや……その。悪かった、もうしねーから。あれだ、許してくれ」

「もちろん、事故ですし。焔さんを連れて帰って下さるとも言いますし、それでチャラにして差し上げますわ」

「……それは、どーも」

 濠夜は内心で安堵しつつ、同時に百瀬百合花という少女の恐ろしさを再確認していた。

 元々、濠夜と百合花はそこまで親しい間柄ではない――だが、濠夜にとって百瀬百合花という存在は、学園の中だけで言えば一番の脅威と呼べる程の相手なのである。

 生徒会長を務め、実質この学園の創始者とも呼べる人物――同じ能力者でありながら、この街のほぼ全ての能力者を管理する『組織』のリーダー、それが濠夜から見た百瀬百合花の実態でしかない。

 学園では不良生徒として生活している倉坂濠夜にとって、これだけの条件を重ね合わせた人物と言うのは、相手をしていて非常に厄介だった。

「んじゃ、帰るか。……ああ、そうだ。生徒会長さんよ、一つだけ聴いといてもイイか」

「はい。何ですかしら?」

「あの殺人鬼、今度見つけたら殺っといてもイイか? オレから殺りに行くのって基本的にゃ性に合わねーんだが、今はそうしてー気分なんだよな」

「別に構いはしませんが……出来れば半殺しで、こちらで預かると言うのが理想ですわね」

「あい、んじゃそーするわ」

 そう言ってから、濠夜は地面に倒れている焔の身体を抱き起こし、それを背中に担ぐ。

 その光景を眺めていた百合花が、一つ浮かび上がった疑問を口にする。

「ところで、何故そんな事を?」

 あ? と、どうでも良さそうな表情で振り返った濠夜は、

「いや。昨日今日と殺り合ってて気付いたんだが、あいつオレとキャラ被ってんだよ」


  ◆


 棘薔薇学園――その敷地の入り口に、一人の少女が立っている。

 徒歩で帰路に着いていた百瀬百合花と倉坂濠夜は、その場所で待ち受けている少女の姿を遠目から視認すると、互いに顔を見合わせた。

 こんな夜遅くに生徒が外に出ている事は、基本的には有り得ない――百合花と焔はあくまで仕事と言う名目だし、濠夜はあくまで不良生徒なのである――が、そこにいる人物は、二人も良く知る人物であった。

 濠夜は、焔を背中に担いだままの格好で言う。

「オイオイ、ありゃ綾峰じゃねーのか?」

「そのようですわね。きちんと指導したはずですが……あんな所で何を?」

 二人はそれぞれに疑問を抱く。

 濠夜は――

(あのノッポバカ、オレがいねー時ならまだしも、オレがいる時に見つかるような真似はするなっつってんだろ――それにあんな場所で、まさかオレを待ってたってのか?)

 百合花は――

(渋谷さん同様、宿舎の方へとお帰り戴いたはずですが。わたくしが出かける事は知っているでしょうし、あんな所にいてはいずれわたくしに見つかる――それくらいは彼女も重々承知では……いえ、まさか――わたくしを待っていたとでも?)

 濠夜と百合花は、互いに意識の違いがあるとは言え――何か尋常ではない事態が起きている、そんな予感を抱き始めていた。

 やがて、二人が近付いてきている事に気がついたのだろう――学園の敷地、その入り口付近で誰かを待つように立っていた少女――綾峰雫は、まるで錯乱しているかのような落ち着きのない様子で、二人の下へと走り寄って来る。

「濠夜ぁ! た、大変だよぉ!」

「綾峰、テメェ何のつもりで――」

 濠夜がそこまで言いかけ――百合花が、人差し指を彼女の口元に当てて制した。

「……綾峰さん。何か――あったのですね?」

「あ、ああ。あたいの携帯……これ、見てよ」

 雫がポケットから携帯を取り出し、その画面を二人に向ける。

 それはメールの受信ボックス――その中にある、一通のメールの内容だった。

『助けて、殺される』

 送信者の名前は――

「渋谷……だってのか?」

「そ、そうなんだよ。もう寝ようと思ってたら、いきなり携帯が鳴ったんだ。濠夜のとこには来なかったの?」

「ああ、オレは基本的に夜は携帯切ってあっからな……しかし、何なんだそのメールは。まさかあの渋谷が、こんなくだらねー冗談を言うとも思えねーし――」

 ふと、そこで濠夜が何かに気付いたような素振りを見せた。

「……オイ。こうしてテメェが外でオレ達を待っていた、って事は」

「うん……ごめん、濠夜。手遅れだった」

「な――」

 手遅れ――それが、一体どんな意味を持つのか。

「綾峰さん、委員会はすでに?」

「ああ。いなくなった香奈の捜索と、一階の部屋の前にあったバラバラ死体を処理してるみたいだった」

「バラバラ死体――だと? オイ、何だよそれ」

「詳しくは知らないけど、死んでたのは香奈じゃなくて……あの、暮凪らしいんだよ」

「暮凪先生が……? こんな一大事、どうしてわたくしの携帯に連絡の一つさえ――」

 百合花はイラつきながら、スカートのポケットから携帯を取り出して、

「……これ、壊れてますわ」

「チッ――ったく噛み合わねーな。で、渋谷がいなくなったってのはどういう事だ、綾峰」

「あたいにも解らないよ……! メールを見て、すぐに部屋まで行ったらいなくてさ。すぐ皆にも頼んで宿舎の中探し回ったけど、見つかったのはあの死体だけで――」

「殺されると書かれたメール、そして失踪した渋谷香奈――まさか、帰ってきて早々こんな事件が起きているとは……予想外にも程がありますわね」

 ガンッ! と、濠夜はコンクリートで出来た壁を左手で殴りつける。

「クソ! 一体何がどうなってやがる……!」

「八つ当たりをしても仕方がありませんわよ、倉坂さん。今はとにかく、宿舎の方へと戻りましょう。綾峰さん、あなたは部屋に戻って下さい」

「そんな……! あたいも一緒に――」

「これは生徒会長としての指示ですわ。渋谷さんは、わたくし達が何としてでも探し出します。ですから、今日はもうお休みになって下さい。いいですわね」

「……解ったよ。行こう、濠夜」

 口惜しそうな、しかしどうしようもないと言った表情で――雫は俯き、濠夜に促す。

 だが、濠夜はその場から動こうともしない。

「濠夜?」

「テメェは先に帰ってろ、綾峰。オレにはまだ、やれる事がある」

「ちょっと、何言って――」

「オイ、百瀬。テメェの話、引き受けてやろうとは正直思ってなかったが――気が変わった。イイぜ、テメェの仲間とやらになってやる」

 廃工場からの帰り道――百合花は、今回の目的を濠夜に話していた。

 女性能力者を集め、仲間として引き入れている百瀬百合花の話は、濠夜も当然耳にした事はあるし――むしろ、何度か誘われた事もあった。

 だが、そのたびに濠夜は必ず断っていた。

 今の彼女にあるもの――この学園や、夜の街での楽しみ――それを失わない為に。

「ええ、そう言って下さると信じていましたわ」

「ちょっと、濠夜……あんたまさか――」

「わりーな、綾峰。しばらくはテメェに付き合ってやれねえ。その代わり、渋谷は絶対にオレが助け出す。だから安心しとけ」

「濠夜……」

 この時――綾峰雫は、自らに何の力もない事を心底悔やんだ。

 百瀬百合花やその仲間――そして、倉坂濠夜のような『特別な力』を何一つ持たない自分は、所詮ただの一般人――仲の良い友人でさえ助け出す事も出来ない、非力なただの人間なのだと。

 メールを受け取ったのは、他の誰でもない自分だと言うのに。

 結局、助けてと伸ばされた手を掴めないまま――

「お気持ちは察しますわ、綾峰さん。ですが、これは普通の人間では手に負えない事態なのです。あなたに出来る事は、渋谷さんの無事を祈る、ただそれだけです」

「それぐらい、あたいだって解ってる。そんなありきたりな慰めは、いらないよ」

「そうですか。では、各自部屋へ戻ってください。倉坂さんは、焔さんを部屋に連れていった後、宿舎前までお越し下さいな」

「ああ。解った」

 そうして、三人は解散した。

 雫は何も言わないまま、濠夜に背を向けて宿舎へと戻っていく。

 そんな後姿を、しかし濠夜は安堵したような表情で見つめていた。

「……さて、と。何だか厄介な事になりやがったが、とにかくこいつを部屋まで連れてかねーと」

 紅条焔――渋谷香奈の親友だと言うこの少女が、この事を知ったらどうなるか。

 濠夜は、そんな不安を頭の中で巡らせながら、

「出来る事なら、こいつが起きる前にすべて片付けていられりゃイイんだが、な」

 彼女達の夜はまだ終わらない。

 次の日が昇るまで、決して終わる事なく続いていく。

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