天才と凡人の差はなんだろう?
「天才と凡人の差はなんだろう?」と、よく考える。
「その違いは、どこにあるのだろうか?」と。
世の中に認められているか否かに関わらず、天才というのは存在する。
確かに、存在する。
同じように、凡人というのも存在する。
確かに、存在する(もちろん、こちらの方が圧倒的に数は多い)
それは、ただ単に数の問題だとも言える。
どんなに優秀な能力を持っていたとしても、そんなのがこの世界に100万人もいたら、それはもはや“天才”とは呼ばれないだろう。
かといって、世の中に1人しか存在しないとしても、それがなんの役にも立たなければ、やはり天才とは呼ばれないかもしれない。
たとえば、毎日、裸で路上を駆け回り、大声で叫びまくる女がいたとしよう。1日も欠かさずだ。雨の日も、大嵐の日も、雷が降りそそぐ日も、1日にも欠かさずにだ。果して、彼女は天才だろうか?
あるいは、必ず1日に1人ずつ人を殺し続けてきた男がいたとして、彼は天才だろうか?2人でも4人でもなく1人。1日に必ず1人ずつ。
もしかしたら、それすら天才なのかもしれない。異常者の天才、犯罪者の天才、狂人の天才。呼び方は様々あるだろう。
だが、普通はそう思わない。普通の人間は、そうは思わない。
「アレは、ただの狂人だ」「単なる犯罪者」「単なる異常者に過ぎない」と、そう考えるだろう。そう考えること自体が凡人だとも言えるのだが…
天才は天才を知る。普通の人間が、ただの狂人や異常者としか思えない者に対して、なんらかのシンパシーを感じ、才能を汲み取る。そういう考え方もある。
ま、ここでは、これ以上はやめておこう。ここから先は不毛な論理の繰り返しになりかねない。
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とりあえずここでは、「天才とは、ただ単に数が少ないだけではなく、なんらかの有用な能力を持ち合わせている者」と定義しておこう。
それが直接人々の生活に役に立たずとも…音楽とか絵画とか、生きていくには必須ではないが、人の心を豊かにしたり、それまでの考え方を根底から揺るがしたりする行為を含めて“有用”としてみよう。
たとえば、100メートルを誰よりも速く走れる者がいたとする。
それは、なんらかの腹の足しになったり、便利な道具や技術を与えてくれたりはしない。だが、見る者に感動を与えてくれる。この世界に存在する全ての人間ではないにしろ、ある種の人々に対して感動を与えてくれる。
もしも、その者が本当に“誰よりも速く走れる”のであれば、それは天才と呼んで差しつかえがないだろう。
あるいは、小説の世界において、「これまでに誰も生み出したことのないような作品」を生み出すことができたならば?それも、1度だけではなく、何度も何度も何度も。
もしくは、質自体は大したことはないのだが、「驚異的なスピードで、そこそこの作品を量産することができる能力」を持っていたとしたら?愚にもつかない小説なのだが、書けばそれなりの量が売れてしまう。そのような作品を量産できる能力だ。
これらも、1種の天才だと言えるのではないだろうか。
では、そういった天才は、どのようにして誕生するのか?
それは、実際に天才に会って、聞いてみなければわからない。いや、聞いてみたところで、本人もわからないかもしれない。
だが、仮説を立てることくらいはできる。たとえば、こういう仮説だ。
「天才とは、あきらめなかった者ではないだろうか?」と。
普通の人間が「もういいや」と思う場面で「まだ駄目だ」と思える。
ある程度世間に認められ、それなりの収入も確保でき、「もういいや。もうここでいい。ここまででいい。残りの人生は、これまで身につけてきた能力を使って悠長に生きていこう」などと考える場面で、「いや、まだ駄目だ!まだ先がある!もっと先がある!もっともっと先へ先へと進まねば!こんな所で止まっているわけにはいかぬのだ!」と思える。そうして、それを実行に移せる。その行為を死ぬまで繰り返せる。無限に成長していける。そういう者こそが天才の領域へと足を踏み入れることができるのではないだろうか?
それができない“その他大勢”の者たちが凡人と成り果ててしまうのではないだろうか?
と、そのように考えてしまうのだ。