臆病な唇
瞬くと、校庭を囲む桜の木の枝に何匹かのスズメが羽を休めていた。彼らだけは僕達のことが見えている。でも、あとは誰も二人がここにいることなんて知らないだろう。遠くで軟式球がバットに打たれる甲高い音が時折聞こえてくるだけだ。
「放課後の教室ってなんかいいね」
サアヤは屈託無く笑う。
「当たり前だけど、昼間と夕方で色も匂いも変わるんだね」
僕はその言葉の意味がよく分からないまま肯いた。とにかく彼女が気分良くここにいてくれているだけで満足だった。
ホームルームが終わってしばらく経って、最後のクラスメートが帰ってからもだいぶ時間が経っていた。僕は付き合って三ヶ月になるサアヤとどうしても話がしたかった。クラスメートにからかわれるのが嫌で僕達はその関係を隠すことに決めたのだが、それが足枷になり、付き合い始めてから逆に話す機会を失っていたのだった。
どこかのクラスで聞こえた声もやがては消え、校舎の最上階である三階には恐らく僕とサアヤしかいなかった。誰かが来たとしても教室に来るまでにリノリウムを打つ足音で分かるだろうし、それもきっと見回りに来る先生くらいのものだから、それまでの時間は少なくとも二人きりになれると思っていた。
「話、聞いてる?」
サアヤに目を向けると、彼女は黙って俯いた。僕達は二人の机を隣合わせて、イスをフットレスト変わりにしてそこに座っていた。いつもと違う座り方をしたら視線の高さが変わり、いつもの教室がどこか素敵な場所に思えてきた。
しばらく他愛のない話をしたのだが、内容は思い出せない。僕は彼女が触れるか触れないかまで寄せた肩の体温をどうしても無視できなかった。教室ではそっけなくしていなければならないし、話など電話越しでしかまともにしていなかった。だから生身の彼女が隣にいるだけで鼓動が早くなるのを抑えられなかった。僕は努めて平静を装いながら、無造作に投げ出されたスカートから伸びる生足に釘付けの視線を引き剥がすのに躍起になっていた。
「あ、ごめん。なんの話だったっけ」
僕が素直に詫びると彼女はちょっとムッとした様子で、話したくないの、と口を尖らせる。
「そんなわけないじゃない」
必死に取り繕うと、彼女は今度はクツクツと笑い出した。笑いが止まらない様子の彼女が理解の外であるにも関わらず、僕はその場しのぎに一緒に笑った。誰から見てもそれと分かるヘタクソな空笑いに彼女の笑いは一瞬で止まった。
「だれかきた」
サアヤの咄嗟の声に心臓が飛び出そうになりながら慌てて席に着いた。二人は席が隣通しだから、仮に誰かに見つかってしまったとしても座っていれば特段、不自然には思われない。だから、その時には急いで二人で席に着こうと話していたのだ。でも、肩で息をしながら待ち受けていた来訪者はついに現れなかった。
「あれ?」
机に座ったままのサアヤを見上げると、彼女は、ウソ、とだけ告げた。その後の意地悪な表情が僕にはどうしようもなく可愛く見えた。
平静を装って元の位置に戻ると、サアヤは前触れもなく僕との距離を極限まで詰めてこう告げた。
「キス、する?」
返事をする代わりに僕は彼女に吸い込まれていった。周りの音が妙に遠くに感じられ、自分の心臓の音だけが耳の近くで鳴り響いた。
僕は必死に彼女の唇に触れた。初めてだと知られないために、細心の注意を払って彼女に接した。僕はもっと彼女に触れたくて、肩に手を伸ばした。でもサアヤは絶妙なタイミングでそれを制し、ちょっとイタズラな眼差しを向けてくる。僕達はお互い、両手を机につきながら、囀るように細かいキスをした。何度か伸ばした手はことごとく遮られ、それが僕をとてつもなく焦がれさせた。
「ねえ」
溜まらず唇を離すと、彼女の鼻先が間近にあり、唇は形を変えて僕を待ち構えていた。
「なに」
彼女は切なげな声を上げる。
「抱きしめたい」
切実な声をあげながら手を伸ばすが、それは巧妙に防がれる。
「ダメなの?」
「ダメ」
彼女は笑って、それでも唇を求めてくる。
「どうして」
僕は切なすぎて、サアヤの腕を強く握ってしまう。彼女は一瞬、萎縮したが、笑って小さく首を振るだけだった。
感覚が鋭敏になっている。甘い髪の匂いに隠された彼女の本当の匂いにほんの少し気が付けた気がした。それは僕の興奮をより一層、掻き立てた。
このまま彼女の腕を強引に引っ張って自分の胸に引き寄せられたら。僕の頭にそんな衝動がよぎる。でもそうされたサアヤは一体どんな反応を見せるだろう。キスを繰り返しながら僕は妙に冷静にそんな疑問を抱いた。
それをしたら今の状況が壊れてしまうのではないか。もう一歩踏み込んだら、そこでもうこの関係が壊れてしまうんじゃないか。一瞬、氷つく感覚が背筋に駆け上がる。そして僕は手の力を緩めてしまう。
「もっと、する?」
彼女はふと諦めたように笑い、そしてまた臆病すぎる唇に触れた。僕はその感触に没頭し、何も考えないことに専念した。