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短編:一万五千文字以下の作品

ガラス玉

 それは、ビー玉のようなガラス玉だった。

「何だろう」

 少年は不思議そうに手に取ったガラス玉を覗き込んだ。そのガラス玉は楕円形で、濃い水色だった。

アキラ

 兄に呼ばれ、少年は咄嗟にガラス玉をポケットに仕舞った。立ち上がり、照れたような笑みを浮かべた。

「何してたんだよ」

「ううん、なんでもない」

『ったく』と言う兄からは、怪訝な表情が窺えた。

「ほら、見ろよ。親子バッタ」

 今、幼い兄弟は自宅の庭で遊んでいる最中だった。遊ぶとは云え、何か遊具がある訳でも無い。まして、『庭』と云ってもそれはこの兄弟の中での話。実際は雑多に立つ一軒家同士の間にある、僅かな空間だ。

 晃は兄の下に駆け寄ると、

「わ~、兄ちゃんスゲー」

 と大袈裟に言った。兄はその声に、満更でもないと言うように笑みを浮かべた。


 夕刻前、幼い兄弟は鼻を動かした。そして、同じ方向に視線を向けた。

「もう中に入ろっか」

「うん」

 兄の声に晃は声を弾ませて返事をした。二人の下には、夕飯の支度を知らせるいい香りが届いていた。


「ただいま」

「たっだいま~」

 明るく帰宅した二人に、

「お帰り」

 と、母が顔を見せた。

「手洗い、うがいを忘れずにね」

 続けざまに母は言うと、直ぐに姿を消した。

『は~い』と返事を返す晃に対し、

「わかってるって」

 と、兄は子ども扱いを嫌がるような発言をした。


 母に言われた通りに、兄弟は手洗いうがいを済ませた。

 幼い晃はたまに思う。兄は自分に過保護だと。今でさえ、晃の口元を粗雑に拭いている。

 本当は、晃は手を先に拭いてしまいたかった。だが、兄の姿を見ていると、濡れた手は行き場を失ってしまう。


「まったく、晃は俺が居てやんないとダメなんだから」


 そんな嬉しそうな兄の声が聞こえそうな気がするのだ。



「ほら、さっさと拭いちまえよ」

 しかし、現実はこの冷たい声だった。晃はぼんやりとしていた事に今更気が付く。

「う、うん」

 慌ててタオルを受け取る晃。兄は晃の声を聞いたのか、聞かないのか、という間に洗面台から姿を消した。

 兄の背中が見えなくなると、晃はポケットからあのガラス玉を取り出した。そして、丁寧に洗ってタオルで拭いた。

(きれいだなぁ……)

 晃は、このガラス玉を宝物にしようと決めた。


 洗面台から出て遠目からリビングを覗くと、兄はソファーに座ってテレビを見ているようだった。真剣に見ては、時折笑っている。

 右のポケットの中で、ガラス玉を晃は握っていた。そのままリビングの入口を通過して、兄と一緒の部屋へと入って行った。


 部屋は左右で見えない領域が決まっている。決まっていると云っても、決めてしまうのは専ら兄の方だ。晃の領域は部屋の半分も無い。

 机はひとつしかない。小学生の兄の物だ。晃に親が与えてくれたのは、今は引き出しの付いたカラーボックスのような小さな棚。両隣には入りきれない玩具が雑多に散乱している。

 晃は棚の真ん中にある細い引き出しを開けた。そして、そっと中にガラス玉を入れた。

(これで、僕の宝物だ)

 引き出しの中にある、濃い水色の物質を眺めて、晃は満足そうに笑った。兄にも秘密にする、大切な存在だ。

 晃は『秘密』の魔法を完成させるように、ゆっくりと引き出しを閉めた。顔はまだ緩んでいる。だが、それは幼いが故に気が付けない所。いや、性格故か。


 秘密を抱えた少年は、リビングへ楽しそうに向かって行った。




 ――八年後。


「げっ、マジかよ」

 晃は教室で思わず声を発していた。

「お~? 記録更新かぁ」

「天才児、晃く~ん」

 言っておくが、晃は天才児では無い。どちらかと云えば下から数えた方が早い学力だ。そう、周囲の声は嫌味だ。

『うるさい』と思いながらも、晃は決してそれを口には出さない。言葉にしてしまえば、余計に面倒だと知っているからだ。

 テストの答案用紙を受け取った晃は、無言のまま席へと着いた。


 現在、晃は中学生になっていた。元来は明るい性格だった晃だったが、制服の色に同調するように段々と無口になっていた。

 しかし、それは周囲の環境もあったのかもしれない。小学生時代とは違い、中学生になると学力というもので嫌でも周囲と比較してしまっていた。初めに感じたのは、入学して直ぐのこと。仲の良かった友人たちとの微妙な差からだった。それは広がり、やがて溝になった。そして、その溝はクラスの中で広がった。

 何よりも辛かったのは、何気ない母の言葉だった。


「お兄ちゃんは中学でも後半に伸びたから、晃も大丈夫よ」


 母は励ましのつもりで言ったのだろう。

「そうだよね」

 晃は苦笑いで言葉を返した。だが、母の言葉は確実に晃を突き刺した。月日を追う毎に深く。


 ホームルームが終わった後、晃の足取りは重かった。



「ただいま」

 暗い声が響く中、

「お帰りなさい」

 と、出迎えたのは明るい母の声だった。

 今日からテストが返されると知っている母。本当は『どうだった?』と聞きたいのだろうと思いながらも、晃は母の前を無言で横切った。


 パタン


 閉めた扉は自室だ。現在、晃は一人部屋。兄は大学で寮に入った為、自由に使えるようになっていた。机はひとつだけある。勿論、晃の机だ。

 はぁ、と息が漏れた。晃は徐に机に座った。両肘を机の上に付いて、額を両手の上に乗せた。


 兄は中学生の後半で伸びたと母は言っていたが、晃の中の兄は昔から頭が良かった。晃の知っている童謡は兄から教えて貰ったものだ。同じように、九九も和歌の一部も。兄にとってみれば、単に『凄い』と晃が言うのが嬉しかっただけかもしれない。覚えたてで嬉しくて、誰かに聞いて欲しかっただけなのかもしれない。

 だが、晃にとっては、兄の、そんなお遊びのような事のお蔭で小学生時代は『知っている』事が多少なりともあった。だからこそ、授業についていけたのかもしれないとさえ思う。

 兄は、大学に行ってしまったから、寮に入ってしまったから、聞きたくても聞けなくなってしまった。中学生になって、テストは全て勘でやり過ごしてきた。それで、今回、ヤマが外れたのだった。


 晃はもうすぐ三年生。大事なテストで大失敗を犯してしまっていた。

 中学生も既に後半。何をやっても結果は付いて来なかった。晃は、焦っていた。


 ふと、目の前に置いていたガラス玉に目を留めた。兄が寮に入ってから、何気なく置いていたガラス玉。ある日、机を片付けていた時に出てきた濃い水色の玉だ。


 何気なく晃はガラス玉を手に取った。濃い水色だけを瞳に映して、ぼんやりと思った。




 あ~あ、ヤマが当たっていたら、あんな点数を取らなかったのに、と。




 ぼんやりと覗き込んでいただけだったが、晃は目を疑うような光景を見た。いつの間にか釘付けになって濃い水色の中を見つめていた。


 ガラス玉の中には、徐々に文字が浮かび上がって来ていた。それは、晃が数日前に見たテスト問題だった。

 しかし、不思議な事が起こった。

 そのテスト問題の文字は歪み、文字を変えて行った。何行も、何行も。まるで、文字が生きているかのように。

 やがて文字は綺麗に整列して静かになった。――それは、晃の望んだ問題だった。


 ドクン


 強く心臓が脈打った。晃は声の出ないまま、ガラス玉を置いた。そして、急いで今日返された答案用紙を鞄から出した。

 まず、一番に見たのは赤ペンで書かれた点数だった。

「そ、そうだよな」

 自分を笑うように、表情は引き攣った。とは言え、手は震えていた。

 晃は今見た光景を半信半疑に自分の書いた答えも確認した。――何ひとつ変わっていなかった。


 声無く、晃は笑った。手の震えは収まっていた。安堵したように、晃は答案用紙を机の上に置いた。過去を変えるなど、ある筈がないと。


 晃は再びガラス玉を手に取った。何となく、礼みたいな事を言いたかった。そして、喪失感を抱えながら答案用紙の上にガラス玉を置いた。



 数時間後、晃は夕飯も風呂も済ませ、すっかり寝る準備が整っていた。徐にベッドに横たわると、瞳を閉じて夕食時の事を思い出していた。


「答案、いくつか返ってきたの?」

 母の声に、

「ああ、うん」

 と、言葉少なく返した。他に出る言葉は無い。

 今日は父が残業で遅くなるという事で、母との二人の食事は沈黙が続いた。テレビだけが、明るい家族を演出しているようにさえ感じられていた。

「明日……朝、見せる」

 暗い晃の声に対し、母の表情は聊か明るく感じられた。

「ごちそうさま」

 結局、晃はバツが悪くリビングを出た。


 そんな罪悪感からか。晃は母にうまく応えられない焦燥感を抱えながら、眠りに落ちた。




 晃は机の前に立っていた。周囲は明るい。――朝のようだ。

 何気なく晃は視線を落とした。机の上には答案用紙があるからだ。

(ああ、母さんに「見せる」って約束……)

 答案用紙を手に取った時、晃は目を疑った。

(92?)

 右上には、赤ペンで『92』と、確かに書かれていた。

(え?)

 急いで晃は解答欄に視線を移動させた。そこには、確かに晃の文字があった。だが。

(変わってる。これは……あのガラス玉の見せた問題の回答だ!)

 晃が息を飲んだ瞬間、彼の瞳は開いた。――その瞬間、晃は天井を視界に映していた。

「あれ? あ……夢?」

 寝起きで夢と現実が混合する中、晃は立ち上がった。

「そうだよな」

 小さな声が漏れる。

 ふと、晃は気が付いた。今、机の前に立っていると。そして、周囲は朝を告げる日差しで明るいと。

 晃は、視線を落とした。微かに高鳴る鼓動を感じながら。そこには――。




「おはよう」

「おはよう、晃」

 母は控えめに笑った。

「はい、これ」

 晃はわざと視線を母と合わせなかった。母の反応は見なくても予想出来たからだ。

「えっ、あ……」

「今日は、朝ご飯いらないや。行ってくる」

 踵を返して晃は歩き出した。『ちょっと待って』と言う、母の声を待たずに靴を履いた。晃が玄関のドアを開けようとする時、母の声は後ろから再び聞こえた。

「凄いじゃない、92点なんて! おめでとう」

「行って来ます」

 明るい声を余所に、晃はドアを押した。




 その後、返ってきたテストは晃にとっては並みの結果だった。決していい方では無い。だが、晃には現状の身の丈に合っている数字だと納得出来ていた。

 自宅に帰ると、答案用紙を迷わず母に渡した。母の残念そうな表情を見て、晃は自室へと向かった。

 机に両肘をついた晃は、ぼんやりとガラス玉を見ていた。希望と漠然とした恐怖を抱えて。


 石には不思議な力が宿る物があると云う。


 晃は過去を変えてしまう力のある石と向き合って、その力の偉大さを感じていた。そして、何となく、自分がしてはいけない事をしてしまった気がしていた。


(俺、自分の力で変わってみせるよ。勉強も、友達関係も。だから、見守っていてくれよ)


 晃はガラス玉を常に視界に入る場所に置いた。

 そして、その日晃はテスト問題を一から解き始めた。




 ――数年後。


「本当に? おめでとう!」

 電話口からは、今にも泣きそうな母の声が聞こえていた。

「電話切ったら、写メ送る。掲示板の俺の番号、撮ったから」

『うん』という母に晃は照れた。

「何? 彼女?」

「違う、母親」

 嬉しそうに笑う晃を、

「へぇ。晃、親子仲いいんだな」

 と、友人はからかった。

「まぁ……まぁまぁ、だよ。っと! 写メ送んなきゃ」

 スマホを弄る晃。その様子を友人は覗き込む。

「良かったな、お前、兄貴と同じ大学に行く~~~って俺と会った頃から煩かったもんな」

「お前も同じだったろ」

 肩に手を置き、喜びを伝えてくる友人に、晃は笑った。


 ピロロン


 返信を告げるスマホの音に、晃は再び視線を落とした。返信は、母からだ。


『今日は、お兄ちゃんもお祝いに駆け付けるって! 久し振りに家族四人で食べようね』


 家族が揃う夕飯は何年振りだろうと、晃は笑った。


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― 新着の感想 ―
[一言] 『ガラス玉』読ませていただきました。 兄弟の絆や家族内の風景が生き生きと書かれていてよかったと思います。 短編ということでささっと読めたのも良かったです! これからの小説も期待しています。
2017/02/03 16:34 退会済み
管理
[一言] はじめまして。木下秋といいます。 「ガラス玉」。読ませていただきました。 一度は過去を変えてしまったけれど、やはりそれは良いことではなく、自分の力で未来を切り開く強さこそが大事なのだとい…
[一言] 優しい感じのお話だと思いました。 過去を変える事の出来るガラス玉を使えばもっと人生が楽だと思うのに、晃くんはあえて険しい道を選んだのですね。 便利な物に縋っていれば、何処かで必ずがたが来る……
2014/06/13 13:20 退会済み
管理
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