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口から出るのはキュンだけ ――呪われし王子と腹黒翻訳令嬢の一夜――

作者: 江合 花果
掲載日:2026/03/26

 卒業パーティの夜は、いつも魔法のように美しい。


 シャンデリアの光が床の大理石に散らばり、令嬢たちのドレスが花畑のように揺れる。楽団の奏でるワルツが空気を震わせ、グラスの中のシャンパンが泡を立てて踊っている。


 セレスティア・ヴァレンクロワは、その光景を窓際から眺めながら、穏やかに微笑んでいた。


 優雅に。

 完璧に。

 まるで聖母画から抜け出したかのように。


 (……ルーファス殿下が今夜、婚約破棄を宣言するつもりであることは、三週間前から把握済みよ)


 微笑みの奥で、彼女の思考は静かに、しかし確実に動いていた。


 セレスティアの固有スキル——「完全翻訳」。

 あらゆる言語、暗号、呪い語、そして人の本音を百パーセントの精度で読み解くその能力は、国家機密に等しい希少スキルである。

 だからこそ、王家は彼女を「保護」という名目で王子の婚約者に据えた。つまり、最初からロマンスなど一グラムも存在しない政略婚約だ。


 (問題は、当の殿下がそれを知らないことね)


 セレスティアはシャンパングラスを口元に運びながら、脳内の「恨み帳」をゆっくりと開いた。


 恨み帳・第一ページ。

 「雨の中を三時間待たされた件(殿下は別の令嬢とお茶をしていた)」


 恨み帳・第七ページ。

 「誕生日に贈り物どころか祝福の言葉もなかった件(殿下はその日、クロエ嬢の新しいドレスを褒め称えていた)」


 恨み帳・第二十三ページ。

 「『お前の笑顔は作り物だ』と大勢の前で言われた件(これは正しいので余計に腹が立つ)」


 ――ページ数、現在進行形で百四十七ページ。


 (さあ、始まりますわよ、殿下)


 ホールの中央で、ルーファス・レオナルト・アルカディア第一王子が、キザな仕草でワイングラスを置いた。


 絵になる男だ、とセレスティアは客観的に認める。亜麻色の髪、切れ長の青い目、仕立ての良い夜会服。生まれながらの王族らしい威圧感を持っている。


 持っている、のだが。


「皆の者、少し聞いてもらいたいことがある」


 ルーファスが声を張った。ホールがざわめき、やがて静まった。百人を超す貴族の目が彼に集まる。


 この瞬間こそが、彼が三ヶ月かけて計画した「完璧な婚約破棄の舞台」であった。

 大勢の証人の前で、婚約者セレスティアを捨て、真の愛であるクロエ・モーリスを選ぶ。

 それが、ルーファスの筋書きだった。


 (シナリオは完璧だ。誰も俺を止められない)


 彼は胸を張り、自信に満ちた笑みを浮かべながら、セレスティアに向き直った。


「セレスティア。俺はお前との婚——」


 その瞬間だった。


 ルーファスの口の中で、何かがぐにゃりと曲がった。


(セレスティア。俺はお前との婚約を破棄する)

「ねえねえっ! セレスちゃんとのご縁キューピッドリボン、お星さまの彼方にポイっしてもいいキュン!?」


 ホールが、完全に凍りついた。


 ルーファス本人が一番驚いた。

 (い、今なんと言った……? 俺は何を……?)


 頭の中は完全に正常だ。「婚約を破棄する」という言葉を選んだ。神経が口まで届いた。しかし出てきたのは、脳が溶けたとしか説明できない何かだった。


 セレスティアは、ああ、と静かに納得した。

 三日前の話を思い出す。王宮の回廊にある豊穣の女神ラーティアの大理石像——王家の守護神として三百年間鎮座する国宝級の聖像——の前で、殿下が従者にこう言い放ったという話が宮廷内に広まっていた。


「この像、顔はまあまあだが胸が小さいな。彫刻家に言って直させろ」


 従者が青ざめたのも当然だ。ラーティアは「言葉を武器とする者」への呪いで知られる、報復心の強い女神である。

 (三百年間、王家をお守りくださった女神の像に向かって……殿下、その舌の軽さをもう少し心配なさったらいかがでしたか)

 翌日は何事もなかった。翌々日も。しかし三日目の今夜、その軽い口で「婚約破棄」という言葉の刃を振り下ろそうとした瞬間、ラーティアの逆鱗に触れた——というわけだ。

 当然の報いである。


「……ね、ねえ?」

「……は?」


 会場のあちこちから困惑の声が漏れる。


 ルーファスは咳払いをした。落ち着け。もう一度だ。


(俺はお前に言わなければならないことがある。今すぐここを出て行け)

「もぅ〜! セレスちゃんのオーラはブラックホールなんだからっ! ぷんすかハートがモノクロ一色になっちゃうにゃん!!」


 また出た。


 (な、なんなんだこれは!? 俺の口がッ!)


 ルーファスは己の口を両手で押さえ、それからゆっくりと手を離し、もう一度挑戦した。


(俺はお前を——今この場で——婚約破棄する!)

「セレスちゃんとのパステルレインボー契約をキャンセルだにゃん! 虹のかけらを全部お空に返すにゃん!!」


 終わった。という雰囲気が会場に広がった。


 誰一人として、今の発言の意味が分からない。

 一方、ただ一人——セレスティアだけが、完全に理解していた。


 (言いたいことは「婚約破棄」。それは分かった。しかし今この殿下の発言を、わたくしがそのまま翻訳する義理はありまして?)


 彼女は脳内の恨み帳を、百四十七ページ全てめくった。


 そして、穏やかに微笑んだまま、一歩前に出た。


「……皆様、ご安心くださいませ」


 鈴のように澄んだ声が、静まり返ったホールに響いた。


「わたくしは『完全翻訳』のスキルを持っております。殿下のお言葉を、正確にお伝えすることができます」


 そうですよ! 翻訳してください! という目が、百人分、一斉に集まった。

 ルーファスも「頼む」という顔で彼女を見た。


 セレスティアは一つ深呼吸をし——


「殿下は先ほど、こう仰いました」


 間を置いた。芸術的な間だった。


「『俺はこの三年間、セレスティアに相応しい男になれているか不安で毎晩泣いていた。正直に言う。俺は王子の器ではない。情けなくて恥ずかしい』と、声を震わせながら告白なさっていますわ」


 ホールが、爆発した。


「なんと……!」

「殿下がそのような……!」

「あの完璧な殿下が……!」


 令嬢たちがハンカチで目を押さえた。おじさま貴族たちが「若いな」と目を細めた。楽団が感動してワルツを止めた。


 ルーファスは口をパクパクさせた。

 (違う! 全然違う! 俺が泣くわけないだろ!? 毎晩!? 俺が!? なんでそうなるんだ!!)


(違う! 俺が言いたいのはそういうことじゃない! 誰かこいつの口を塞げ!!)

「ふわふわシルクのリボンでチャチャチャってしてほしいにゃん!! もう!! キュン!!」


 (……「誰かこいつの口を塞げ」、ね)


 セレスティアは即座に理解した。もちろん。


「殿下がまた仰っています」


 彼女はホール全体を見回し、にこやかに続けた。


「『俺のこの告白を、どうか皆様の胸の奥にしまっておいてほしい。これほど恥ずかしいことを公の場で言ってしまった自分が信じられない』と」


「なんと謙虚な殿下!!」

「殿下——!!!」


 令嬢たちが沸いた。


 ルーファスは頭を抱えた。

 (なんで俺が公衆の面前で自分を「王子の器ではない」と言ったことになってるんだ!!!)


 しかし、このままでは終わらなかった。


 ルーファスは深呼吸をした。

 落ち着け。言葉を選べ。シンプルに。短く。「婚約を破棄する」の六文字だけを言え。


(婚約を、破棄する)

「ご縁の——」


 来た。来てしまった。


「ご縁のパステルスレッドは、もうぷちんとカットなんだからっ! 二人のメモリアルスノーボールも溶けちゃえにゃん!! えいっ! えいっ! キュン!!!」


 ルーファスは天を仰いだ。

 (……六文字が、なぜ三十五文字になるんだ)


 セレスティアが手を上げた。


「殿下、追加のご発言ですね。拝聴いたしますわ」


 セレスティアは、ゆっくりと、しかし確実に口を開いた。


「『実は俺が今まで威張り散らしていたのは、すべて虚勢だった。本当の自分は気が小さく、誰かに怒鳴られると足が震える。幼少期から侍従にも頭が上がらない』と……涙交じりに告白なさっています。殿下、ご自分の弱さを認められるとは、なんと誠実なお方」


 会場がどよめいた。


「で、殿下が……!」

「あの殿下が……足が……!」


 ルーファスの顔色が、みるみる変わった。

 (……俺の威厳が……俺の三年分の威厳が……!!!)


(やめろ!! やめてくれ!!!)

「もうぽわぽわハートがひびひびなんだにゃん!! ぷんすかだにゃん!! キュン!!!!」


「そして殿下が最後に——」


 セレスティアは微塵も表情を崩さなかった。


「『侍従のグスタフには、三年間ずっと謝りたかった。俺は怒鳴ってばかりで本当に申し訳なかった。グスタフ、お前は俺より一〇〇倍立派だ』と、深々と頭を下げながら仰っておられます」


 会場の奥の方で、グスタフという名の老侍従が、「は……はあ……」と茫然と立ち尽くした。


「でんかぁぁぁぁぁっ!!!!」


 ホール全体が感動の渦に飲み込まれた。


 ルーファスは膝から崩れ落ちた。

 (…………俺の……俺の十八年間の威厳が……跡形もなく……)



 この地獄のような状況に、もう一人の当事者がいた。


 クロエ・モーリス——ルーファスが「真の愛」と信じて疑わない、薔薇色の頬と金の巻き毛を持つ令嬢である。


 彼女は今、ホールの隅で、目を白黒させていた。


 (ルーファス様が……なんか……すごいことになってる……?)


 当初の計画では、ルーファスがセレスティアを捨てた後、自分が颯爽と登場するはずだった。

 しかし今ホールの中央では、謎の発言を繰り返す王子と、それをとんでもない方向に翻訳し続ける婚約者が、会場の全員を巻き込んだ茶番劇を展開中である。


 (大丈夫かしら……? 一応、ルーファス様のためにフォローに入ったほうが……)


 クロエは意を決して、ホールの中央へと進み出た。


「ルーファス様……! わたくし、ここにいますわ!」


 その瞬間、ルーファスの顔に「救われた」という表情が浮かんだ。

 彼はクロエに向き直り、精一杯の力で、真剣な言葉を紡ごうとした。


(クロエ、お前だけが俺の味方だ。あいつの言葉を信じるな)

「クロえたんはぼくのスペシャルシャイニングスターなんだにゃん!! お空の一番てっぺんでギラギラぴかぴかしてるにゃん!!」


 クロエが固まった。


 (……???)


 セレスティアは、その様子を横目で見た。


 (「クロエ、お前だけが俺の味方だ」。なるほど。スペシャルシャイニングスター——「ギラギラぴかぴか」ね。恨み帳・第八十八ページ、「クロエ嬢と連れ立って劇場に行き、わたくしへの観劇の誘いをドタキャンした件」。利子、三倍でいきましょう)


「——皆様、殿下がクロエ嬢に向けて、重大な暴露をなさいました」


 セレスティアの声が、すぅっと場の空気を切った。


「殿下曰く、『クロエ・モーリスとは半年前から密会を重ねているが、正直なところ会うたびに後悔している。彼女は話が長く、内容が薄く、笑い声が不快で、俺の話を全く聞かない。なぜ俺はこんな女に引っかかったのか』と」


 ホールが、今度こそ完全に死んだ。


「え……?」


 クロエの顔色が白くなった。


「は……はなしが……なが……?」

「わ……笑い声が……?」


 周囲の令嬢たちが、じわじわとクロエから距離を取り始めた。


「な、なんで……なんでそういうことに……」


「殿下は正直なお方ですから」


 セレスティアは目を伏せ、悲しみを装った。


「わたくしも驚きましたが、スキルは嘘をつきませんの。むしろ殿下はまだ語り足りなそうでしたが、お気持ちを慮って、ここまでにいたしましたわ」


「うそ……うそよ……!! ルーファス様、違いますよね!?」


 クロエがルーファスにすがりつく。


 ルーファスは全力でコミュニケーションを試みた。


(違う! クロエ、信じてくれ! セレスティアが嘘をついている!!)

「セレスちゃんのおくちはまほうのびっくりばこなんだにゃん!! クロえたんへのぼくのキラキラパッションはピュアぴかぴかなんだにゃん!! もう!! ぷんすかぷんすかだにゃぁぁあん!!」


 全員がセレスティアを見た。


 セレスティアは、微笑んだまま数秒待った。これ見よがしに、耳を傾けるような仕草をした。


「……追加で仰っていますわ」


 彼女は粛々と口を開いた。


「『クロエには黙っていたが、彼女のあの甲高い笑い声のせいで俺は三ヶ月、耳鳴りが治らなかった。侍医に診せたら原因不明と言われた。つまり原因はお前だ』と」


「ひぃぃぃぃぃぃっ!!!」


 クロエが手を離して飛びのいた。


「な、なんで!? なんでそうなるの!?」


 ルーファスは何かを叫ぼうとした。しかし叫べば叫ぶほど悪化することを、彼はすでに学習していた。


 それでも、叫ばずにいられなかった。


(待ってくれ! クロエ! それは嘘だ!!)

「クロえたんっ!! ぽわぽわバリアで宇宙のかなたへいっちゃダメなんだにゃん!!!」


「皆様、殿下が最後にもう一言」


 セレスティアが、静かに、しかし確実に、とどめを刺しに来た。


「『クロエ、これが俺の本音だ。お前といると頭が痛くなる。今この瞬間も、お前の顔を見ているだけで左のこめかみが締め付けられる。これは愛ではなく症状だ』と、医学的見地から仰っていますわ」


 クロエが崩れ落ちた。


「うわああああああああ!!!! だれかたすけてええええ!!!!」



 ホールの片隅で、国王陛下——ルーファスの父、アルカディア国王レオンハルト三世——が、鼻をほじっていた。


 国王の侍従が、信じられないものを見るような目で主君を見た。


「へ、陛下……その……場もわきまえず……」


「うむ」


 レオンハルト三世は堂々と鼻をほじりながら、会場の惨状を眺めた。


 息子が謎のゆめかわ語を叫んでいる。

 婚約者が涼しい顔で地獄のような翻訳を続けている。

 もう一人の令嬢が泣き崩れている。

 老侍従グスタフが「殿下……」と涙ぐんでいる。

 会場の全員が混乱のるつぼにいる。


「……まあ、真実の愛なら何でも乗り越えられるだろ」


 国王は鼻をほじった指を見て、また鼻に戻しながら言った。


「一緒に幽閉しておけ」


「は」


 侍従が硬直した。


「ルーファスとその令嬢を、一緒に。塔でも離宮でも好きにしろ。衣食住は保証する。ただし出てくるな」


「りょ、了解いたしました……」


「以上だ。誰かウィスキー持ってきてくれ」


 国王は何事もなかったかのように、杯を探し始めた。



「というわけで——」


 宰相のオーウェン侯爵が、額に大量の汗をかきながら、セレスティアの前で深々と頭を下げた。


「このたびの混乱は、ひとえに王家の管理不行き届きによるものでございます。セレスティア様、誠に申し訳ございませんでした」


 彼女はにこやかに頷いた。


「まあ、そんな。頭をお上げになってくださいませ」


「いいえ! 当家としては、セレスティア様のお力を軽んじていたのではないかと、深く反省しております。スキル『完全翻訳』は国家の宝。婚約というかたちで保護するという方針でしたが……」


 オーウェン侯爵は複雑な表情で続けた。


「当の婚約者殿下が、本日をもって『ゆめかわ語を操る奇人』として幽閉されてしまいましたので……状況が変わりました。今後は王家が直接、万全の体制でセレスティア様をお守りする所存です。お屋敷の提供、護衛の配備、研究補助金の拠出、その他諸々……何なりとご用命ください」


「ご丁寧に、ありがとうございます」


 セレスティアは微笑んだ。


 (恨み帳・百四十七ページ、全回収完了)


 脳内でパタンと帳を閉じる音がした。



 さて、その頃。


 王宮の東外れにある「閑月塔」と呼ばれる離宮では、早速、地獄の共同生活が始まっていた。


 塔の居間は広く、調度も整い、食事は一日三食、使用人も二名つく。

 衣食住は完璧に保証されている。


 しかし——。


 ルーファスは窓の前に立って、クロエを見つめていた。


 クロエは部屋の向こう側に引っ込んで、カーテンを体に巻きつけながら、ルーファスを見ていた。


 二人の間に、沈黙が流れた。


 ルーファスは口を開こうとした。

 何か言わなければ。誤解を解かなければ。「セレスティアが全部嘘をついていた」という、たった一言を。


(セレスティアが嘘をついていた。お前への俺の気持ちは本物だ)

「セレスちゃんのおくちはまほうでできてるにゃん!! クロえたんへのぼくのキラキラパッションはピュアぴかぴかなんだにゃん!!」


 クロエが悲鳴を上げた。


「キラキラパッション!? なにそれこわいっ!!!」


(違う! そういう意味じゃない!!)

「ぽわぽわむーんにかけてキラキラパッションはピュアぴかぴかなんだにゃん!!!」


「ぽわぽわむーん!? もっとこわいっ!!!!」


 クロエがカーテンの裏側に完全に隠れた。


 ルーファスは壁に額を当てた。


(……どうして俺がこうなった)

「……ぽわぽわスノーフレークがモノクロになっちゃったにゃん……」


 ゆめかわになっても、内容は正確に一致していた。唯一の救いだった。


 その夜。


 ルーファスが何か言うたびにクロエが絶叫した。

 クロエが絶叫するたびにルーファスが弁解しようとした。

 弁解しようとするたびにゆめかわ語が炸裂した。

 ゆめかわ語が炸裂するたびにクロエが絶叫した。


 完全な無限ループである。


 使用人の二人は翌朝、顔色が紙のようになって侍従長に辞表を提出した。


 翌日。


 ルーファスはクロエへの弁解を諦め、今度は紙に書くことを試みた。

 言葉は呪われているが、文字は違うはずだ。


 彼はペンを取り、紙に向かった。

 そして書いた。


 「俺はお前を——」


 紙の上の文字が、見る見るうちに溶けていった。

 気づけばそこには、ハートマークとお花と星型の落書きが、びっしりと敷き詰められていた。


 (…………女神め)


 ルーファスは紙をくしゃくしゃに丸めた。


 翌々日。


 クロエが使用人を通じて、「あちらの部屋に移動させてほしい」と申し出た。

 使用人が「同じ塔の中ですので部屋は一つしかございません」と告げた。

 クロエは三十分泣き続けた。


 四日目。


 ルーファスは食事を運んできた使用人を呼び止めた。

 外部との文通が許可されているかどうか、それだけを確認したかった。一言で済む。


(外部との文通は許可されているか)

「ほわほわお手紙バードを、お空のむこうのおともだちへとばしてもいいキュン!?」


 使用人が固まった。


 ルーファスは続けた。


(文通だ。手紙を外に出せるかと聞いている)

「ふわふわペンでキラキラメッセージを虹のポストにとどけるにゃん! おへんじはぷるぷるリボンでくくってほしいにゃん!!」


 使用人の顔から血の気が引いた。


 ルーファスは懸命に続けた。


(お前の答えはイエスかノーだけでいい)

「ぼくのこころのまほうキーをおそとへむけてくるくるしてもいいかにゃん!! ぷるぷるスターかぽわぽわムーンかだけでこたえてほしいにゃん!!」


 使用人がゆっくりと後退を始めた。


(待て。逃げるな。落ち着いて聞け)

「おへやのてんしちゃんが羽をばたばたさせてにげちゃいそうなんだにゃん!! ふわふわホールドしてほしいにゃん!! キュン!!!」


 使用人が盆を取り落とした。


 ガシャン、という音が塔の石の床に響いた。


 使用人はそのまま、一言も発さず、転がった盆も拾わず、扉を開けて廊下へ飛び出した。

 廊下の先から「ひいいいいいい!!!」という叫び声が聞こえてきて、やがて遠ざかった。


 ルーファスは落ちた盆を見つめた。


 (…………)


(……もうやだ)

「……にゃん……」


(……セレスティア。お前だけは絶対に許さない)

「……セレスちゃんのことだけはぜったいにぷんすかぷんすかなんだからにゃん……キュン……」


 蚊の鳴くような声のゆめかわ語だった。

 しかし部屋の隅でカーテンに包まったクロエには、それが何を意味するか、もちろん分からない。


「……また変なこと言ってる……」


 クロエは小さく呟き、カーテンをさらに体に巻きつけた。


 塔の窓の外では、春の風が吹いていた。



 同じ夜。


 セレスティアは王家から提供された新しい屋敷の、広い寝室で、一人お茶を飲んでいた。


 棚の上に並んだ帳面——恨み帳の全百四十七ページ分——を眺めながら、彼女はゆっくりと息を吐いた。


 完璧な婚約者として笑い続けた三年間。

 無視され、軽んじられ、ドタキャンされ、大勢の前で皮肉を言われた三年間。


 それが今夜、全部、利子付きで回収された。


 (まあ……「医学的見地から」は、少し言い過ぎたかもしれないけれど)


 彼女はほんの少し反省した。


 (……いいえ、あれは第八十八ページ「クロエ嬢と連れ立って劇場に行き、わたくしへの観劇の誘いをドタキャンした件」の利子分として、適切な上乗せだったわ)


 反省を撤回した。


 「完全翻訳」のスキルは、相手の言葉の真意を百パーセント理解する。

 つまりセレスティアは、ルーファスが今夜何を叫んでいたかを、全部分かっている。


 「助けてくれ」も。

 「誤解だ」も。

 「口を塞げ」も。


 全部、理解した上で、翻訳しなかった。


 (……受けた分は、返す主義なのよ。利子つきで)


 彼女は帳面の最終ページに、一行だけ書き足した。


 「精算完了」


 それから、お茶を一口飲んで——本当に久しぶりに、作り物でない笑顔で——目を閉じた。



 なお付記として。


 その後、ルーファスとクロエの閑月塔での暮らしがどうなったかについては、宮廷の野次馬たちの間でいくつかの証言が残っている。


 曰く、「塔からよく絶叫と『にゃん!』が交互に聞こえる」。

 曰く、「クロエ嬢が使用人に『あの方の言葉を翻訳できる方はいないか。有償で構わない』と毎日聞いている」。

 曰く、「ルーファス殿下が毎晩ペンを取っては、紙がハートと星の落書きで埋まるのを眺め続けているらしい」。

 曰く、「使用人が二週間で八人辞めた」。


 真実の愛は何でも乗り越えられる——と国王は言った。


 ただし「言語の壁」と「文字の呪い」と「同室監禁」については、一切言及しなかった。


 (了)


――後日談――


 宰相オーウェン侯爵は、セレスティアに国家補佐官の打診をしてから三日後、彼女の翻訳内容が「解釈の余地が広い」ことに気づいた。


 しかし、もう後戻りはできなかった。


 何しろ彼女は、侯爵が昨日の会議で思ったことを、完全に読み取った上で微笑みながら「分かっていますわ」と言っていた。


 (……この方を敵に回してはならない)


 宰相は、この日を境に、セレスティア・ヴァレンクロワへの予算を、最大限に確保することを決意した。


 もちろん、彼女もそれを知っていた。

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― 新着の感想 ―
とんでもない「ざまぁ!」でした(笑) 主人公の方も女神様もスッキリしたことでしょう♪ 辞めた使用人の方達にもどうか女神様のご慈悲がある事を祈ります。完全なとばっちりですから。
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