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78.節目

 人肌ほどのぬくもりが、自身を包んでいる気がした。

 ざわめきが、人の話し声が、自身を包んでいる気がした。

 少しずつぼやけていた感覚が鮮明になっていって、輪郭が定まっていく。


 ——何だったっけ、何をしていたのだっけ。何を、考えて……。


 ハッとアクイラは意識を引き戻した。まるで水中で仰向けに揺蕩っていたのを、腕を掴まれて性急に引き上げられたかのような感覚で、アクイラは一つの事実を思い出す。

 アクイラは、兄の理性を揺さぶるために特攻していたのだった。


「アークちゃん!!」


 ルディヴィーの声が耳を打つより早く、アクイラはワシへと変化した。

 その瞬間聞こえたのは、アクイラを包んでいたぬくもりからの痛みに耐えるような呻き声。それがどこかアクイラの思考に引っ掛かって、きょとんと声のほうを向いて、そして絶句した。


「……兄さん?」

「なあに、アクイラ……」


 アクイラを抱き込んでいたのは、アクイラが追おうとしていた兄本人だったのだ。

 驚いた拍子にするすると変化がとけてしまって茫然と発せられた呼び声に、優しい兄の声が返ってくる。


「兄さん、目が……」

「ああ、目の色は戻らないらしくて。せっかくアクイラとお揃いだったのにごめんね」

「あ、うん」


 そうではなくて、アクイラが言いたかったのはその目に宿る感情だったのだけれども。彼の瞳はかつてのような無機質なものとは程遠く、そして先程までのわずかな揺らぎともまた違う、豊かなもので彩られていた。それは確かにアクイラと同じ金色ではなかったけれど、明らかに悪魔憑きのそれとは違うものだった。

 果たして本当に悪魔憑きではなくなったのか、と兄の全身に視線を滑らせようとして、自然とアクイラの視線は兄の額に吸い寄せられた。


「……角がなくなってる」

「折れただけだから一応まだあるよ。角笛とかつくる?」

「何言ってるの兄さん」


 十中八九冗談だが、兄は冗談を言うだけではなく実行にまで持ち込むタイプである。恐らくふと気が付いたときには、彼のコレクションに角笛が追加されているのだろう。

 アクイラの呆れた視線を受け止めて、フィニクスは心底嬉しそうに微笑みをこぼしている。

 それをじっと見つめながら、アクイラは小首を傾げた。


「兄さんは、もう悪魔憑きじゃない?」

「うん。不思議な気分だね、ものの見方の違う自分が記憶の中に混在しているのは」

「俺のこと、思い出した?」

「うん、全部覚えてる。アクイラが覚えていないくらい小さい頃のことも、全部ね」


 そうだった。兄は記憶力に優れていて、時折嘘か本当か分からないようなことまで思い出話として持ってくるのである。

 懐かしい気持ちに自然と頬が緩みそうになったところで、アクイラは再びハッとした。


「あれ、ルディヴィーさんたちは?」

「いるよアークちゃ~ん」

「俺らのこと忘れてたんだ~!」


 今の今まで気配を完璧に消していたとは思えないほどの喧しさで、彼らは一斉にアクイラの世界に入ってきた。

 頭を打って気絶した時のように、アクイラの脳はしっかりと混乱していたらしい。少しずつ記憶がよみがえってきて、それぞれが繋がって一つの形を成していく。


「兄さん、一度で理性取り戻したんだ?」

「アクイラの体が弾け飛ぶのなんて、そう何度も見たくないからね」


 その瞬間を思い出してしまったのか、兄の顔が悲痛に歪んだ。


「アクイラが生き返ってくれてよかった。アクイラが鷲でよかった。アクイラの先輩が狼でよかった、本当に……。本当にごめんね、アクイラ。きみを守るために悪魔憑きになってまで戻ってきたのに、結局俺のせいで命を投げ出させた」


 そう言葉を絞り出す兄をじっと見つめて、アクイラはゆっくりと瞬きをした。

 思い出すのは、フィニクスが悪魔憑きになった日のこと。


「きっと俺は、兄さんが悪魔憑きにならなかったら農機具の爆発に巻き込まれて死んでたよ。俺は神継ぎにすらなれなかっただろうし、当然他の神継ぎの人たちと出会うこともなかった。兄さんはいまこうして理性を取り戻せたんだし、振り返ってみれば悪いことばっかりじゃなかったでしょ」


 じっと兄の変わってしまった赤い瞳を見つめて、だからね兄さん、と続けた。


「もう謝らないでね。俺は怒ってないし、さっきの一回の謝罪だけで十分だよ」

「うん。……うん、そうだった。怒っても傷付いてもいないのに謝られるのが、アクイラは大嫌いだったね。本当に、懐かしい」


 ふふ、と柔らかく空気を震わせて笑うフィニクスを前にして、アクイラはふと違和感を覚えて首を傾げた。


「兄さん、どうしてさっきから全く動かないの?」


 常であれば、何かにつけてアクイラの頭を撫でたり、そうでなくとも笑うときには口元に手をやる仕草がつきものであるのに。


「ああ、ちょっとね、体が痺れちゃって」

「しびれ……?」


 オウム返しをしたアクイラが意味をうまく理解できていないことを察して、さらに兄が補足をする。


「ほら、俺アクイラのことずっと抱きしめてたから、アクイラが生き返ってすぐのワシの体も抱きしめることになってたっていうか」

「……ああ!」


 確かに、意識を戻してすぐワシに変化した時、呻き声が聞こえた気がした。

 合点がいったと納得の色を浮かべたアクイラは、次の瞬間にさっと顔色を失くした。あのスルトが感電で体を動かせなくなるのだから、彼よりずっと華奢な兄ではもっとひどい事態が引き起こされそうである。


「ごめん、大丈夫? 放電する? アース?」

「ああ、平気だよ。段々痺れも取れてきたし。このままもうしばらくじっとしていれば——」


 よくなる、というフィニクスの言葉は、やや離れたところから飛んでくる「お二人さーん。お客さん来てるよー」というヴァルグルの声に遮られた。

 二人そろって声のほうを向くと、そこにいたのはサングラスをかけた白髪の青年。


「ヘルさん!」

「この間ぶりだね、アクイラ」


 ゆったりと近づいてきたヘルは、乱雑にアクイラの髪をかき混ぜて柔和に笑った。


「お疲れ様、よく頑張ったね。……フィニクスも」

「……ヘル。俺が今日、アクイラと相対するように誘導したね?」

「何のこと?」


 煙に巻くようにうっすらと瞳を細めたヘルとフィニクスの視線が絡み合った。

 二人の間で交わされた会話の意味が分からなくてアクイラが困惑していると、それをちらりと見やったヘルが一つ手招きをした。


「おいで。ノーシスが情報操作してくれているから、今のうちに移動しよう」

「へえ、ノーシスちゃんと繋がってるんだ?」

「まあね、必要だったから。目的地が分かるようにしておくから、各々瞬間移動なり高速移動なりしてきてね」


 何やら遠くのほうを見つめていたヘルが、ルディヴィーと視線を合わせた。


「悪いけどフィニクスのこと、運んでもらってもいい?」

「うん、任せて~」


 ひらひらと手のひらを振って笑った少女は、すぐさまフィニクスと連れ立って姿を消した。ルディヴィーのあまりの素早さに目を点にしつつ、アクイラはヘルを見上げる。


「この光の線の先に行けばいいんですか?」

「そう。お前たちにしか見えない道標ってところかな。俺の神権は光芒だから」


 先に行ってるね、と彼が姿を消した後もしばらく立ち尽くしているアクイラに、そっとヴァルグルが耳打ちした。


「あの人さあ、当然のように俺らの神権とか能力知ってんだな」

「確かに……」


 フィニクスを除いた全員が遠い距離を即座に移動することも知っていて、他者を同伴させるにはルディヴィーのやり方が一番適していることすらも知っているようだった。迅雷の異能による高速移動は、できないことはないが連れて行かれる側の負担が大きいのである。


「ま、早く行かないとヴィーちゃんたち待ちくたびれちゃうだろうし、さっさと行くか」

「そうですね」


 姿を消したヴァルグルに続いて、アクイラも異能を行使した。

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