70.愉悦はいつだってそこに
「ねえ、アクイラ。空ってとても自由だと思わない?」
初めはおぼつかなかった翼捌きも、一度コツを掴んでしまえば難しくはない。そもそもアクイラは完全な鳥体となって飛び回れるのだから、そこから少し間隔を人間寄りにしてしまえばいいのである。
そうしてしばらく二人きりで空を飛びまわっていたのだが、フィニクスはなかなか話始めようとはしなかった。そしてとうとう口を開いたと思ったら、放った言葉は先程の問いである。
「……確かに、まあ。まさか空を飛べる日が来るなんて思ってなかったけどね」
アクイラの返事に戸惑いの色を見つけて、フィニクスが柔らかく笑った。
「アクイラは俺との思い出があるんだもんね。俺は小さいころ、空に憧れていたりした?」
「……兄さんからはあんまりそういう話は聞かなかったかな。そもそも、あの暮らしを窮屈だとは思ってなかったと思う」
「そう。そうなのか……」
アクイラは、もうフィニクスとはこうやって兄弟として穏やかに話せる機会など無いのだと思っていた。少なくとも、彼が悪魔憑きである間は。
それがどうして、いま隣同士になって、仲良く話しているのか。
混乱しつつも、この流れを乱していいことはないだろうととりあえずフィニクスの話に乗る。
「俺はね、いま少し窮屈だよ。ヘルもレイナードもいい奴だけど、彼らは俺が本当に会いたい人じゃないから。俺は弟を守るために存在しているはずなのに、弟には気軽に会っちゃいけないんだって」
「……覚えてるの?」
「その願いだけ、存在意義だけね。他はさっぱり」
大樹の上空でホバリングをしていた二人は、やがて太い枝へと降り立って並んで座った。
ヴァルグルと別れた場所からは、ずいぶんと離れてしまっていた。
「でも兄さん、俺のこと弟だって知らないままだったら、殺してたよね?」
「それは……。うん、ごめんね。前も二回、アクイラを殺しかけてるってヘルから聞いた。でももう大丈夫。俺はアクイラを知ったから、もう間違えて殺すことはない」
アクイラはそれにそっと眉を顰めて、隣の兄を仰ぎ見た。
「それじゃあ駄目だよ。間違えるとか間違えないとかじゃなくて、相手が身内だからとか他人だからとかでもなくて、ただ命を何の感慨もなく奪うことが問題なんだよ」
「でも、人間は簡単に死ぬよね。俺が殺すつもりはなくても死ぬかもしれない。アクイラは、足元の小さなアリを全て避けて歩けるの?」
アクイラはぐっと押し黙った。不可能だからだ。気が付いたら避けるくらいの意識の向けようで、おそらくアクイラが知らず知らずのうちに摘み取ってしまった命の数など山のようにある。
でも、このままの兄では駄目なのだ。人間と意思疎通が取れて、姿かたちも限りなく人間に近いのに、ここまで命に対する価値観が異なってしまうと、到底人間社会では受け入れてもらえない。
「……兄さんは、ヴァルさんについてどう思った?」
「オオカミの彼? うーん……変身できるのは面白いなって思ったよ」
それは、ほとんど何も思っていないのと同義である。
「ああ、あと丈夫だった。アクイラを捕まえに行く時間を作るためにちょっと強めに殴って遠くに放ったけど、すぐに追いかけてきたしね」
「何やってるの兄さん……」
アクイラでは到底擁護できそうになかった。
まだ優しい方とはいえ、完全に考え方が常軌を逸しているのだ。
「兄さん、俺と一緒に居たいなら悪魔憑きを辞めなきゃ」
「このままじゃいけないの?」
「世界が許してくれないよ」
「俺たちが許すのに?」
「俺たちだけじゃ駄目なんだよ。兄さんはいま世界的に指名手配されてる状態なんだから」
逃避行しなくちゃね、と前を向きながら微かに笑った彼が、赤い瞳を少し伏せながら言う。
「俺はアクイラが傷付けられないのなら、誰のことも傷付けないよ。それじゃ駄目なの?」
「……それだけじゃ駄目なんだよ、兄さん」
フィニクスが困ったような顔をするのと、アクイラたちが座っている枝から幹を挟んで反対側のほうの枝が一人分の重みでたわむのはほぼ同時だった。
「——ヴァルちゃんの嘘つき! 全然場所ちがうじゃん!」
「……誰?」
「ルディヴィーさん!」
現われざまに文句を垂れた少女は、アクイラが名を呼ぶとにっこり笑ってひらひらと手を振ってくる。
「ハァイ、アークちゃんとそのお兄ちゃん。調子どう? 随分仲良さそうじゃ~ん」
幹に片腕を回して体を支えつつ、器用に身を乗り出してくる少女の明るい髪が、勢いよく跳ねていた。




